匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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……はいっ!
( 自分の声に気をとられた相棒の背後へ、巨大な骸が喰らい付く。その光景に思わずそちらへと駆け寄ろうとして、勢いよく此方へ滑らされた石像と、真剣な叫び声に自分の役割を思い出させられれば。自らも覚悟を決めた表情で、黒い魔素の降る廊下を再び駆け抜け、件の化物に怯えながらも、勇ましく火を噴くサラマンダーと協力し、とうとう最後の騎士を台座に据えて。そうして響いた開錠の音に──ギデオンさん! と明るい表情で振り返るも、その黒い魔素が今にも、ビビの大事な相棒に迫っていることに気付いてしまえば、今度こそその衝動を抑えることなど出来なかった。その時ビビの視界に映ったのは、ギデオンの逃げ道を塞ぐ目障りな骸と、その遥か頭上に輝く巨大なシャンデリア。その巨大な質量を支えるワイヤーの太いこと──それでも。気味の悪い魔素が、シャンデリアを吊るす天井まで届いて、その根元をジワジワと侵食している今ならば。崩れ行く空間にビビが得意とする火旋風の詠唱が響いて、ミスリル製のワイヤーが物凄い音を立て引きちぎれた瞬間。轟音と共に落下したシャンデリアが、巨大なしゃれこうべを押し潰し、ビビの風魔法による突風が、飛び散る破片からギデオンを守った所までは良かった。しかし、骸による度重なる衝撃と、魔素による浸食も相まって、とどめを刺された半地下の床が崩壊し、空間ごとバラバラと崩壊し始めると。落下地点から離れていたことで、未だ少し残っていた足場を強く蹴ると、ギデオンの方へ手を伸ばして。 )
──ギデオンさん!!
(とうとう追い詰められたギデオンが、飛び散る本で切った額から赤い血を流しながら、覚悟を決めて魔剣を構えたその瞬間。邪悪なものを打ち破るように、高らかな詠唱が響き渡り。思わず見開いた目を上げたそこ、上階の天井から。物凄い量の水晶が──巨大なシャンデリアが──真っ逆さまに降り注ぐ。かくして、ギデオンを喰い殺そうとした死の怪物は、目の前でいとも呆気なく圧壊する最期を遂げた。そこから矢のように飛び散る破片も、突然起こった清かな一陣の風に攫われて、煌めきながら消えていく。魔剣を下ろしたギデオンが、無言で上階の相棒を見上げ、安堵の表情を滲ませながら、ようやく礼を言おうとした……時だった。突然激しく揺れる足元、そして奈落に吸い込まれるようにボロボロと崩れていく床。ガラスの山も、押しつぶされた骸も、周囲に散らばる無数の本も、薙ぎ倒された本棚も、そしてギデオンも。皆、突如始まった大崩落に、為すすべもなく落下し始めた。)
──ッ……──掴まれっ!!
(バランスを取りきれず、振り仰ぎながら落ちていくギデオンは、しかしそれを見た──見てしまった。せっかく出口の鍵を開けた若い相棒が、しかし己の安全など省みず、こちらにまっすぐ飛び出してくる姿を。ギデオンの顔が思わず苦悩で顰められたのは、それでもごく一瞬のことだ。馬鹿、何故こっちに、などと責める言葉は、懸命に手を伸ばすヴィヴィアンの表情を見てしまえば、口を突いて出る筈もなく。故に、力強く呼びかけながら相手の手をがっちりと掴むと、彼女を抱き寄せる勢いでぐるりと反転し、見えぬ地底を睨みつけた。
──腕の中の女性だけは、ヴィヴィアンだけは、己の命に代えてでも、絶対に守らなければ……! その一心が、ギデオンの心の臓を早鐘のように打たせていた。魔法の才能は間違いなく彼女が上だが、このような死線を潜り抜けてきた場数なら、ギデオンのほうが遥かに優る。故に相手を胸元に抱き込み、薄闇を注視し続けて、いよいよ底が見えてきた刹那、青い目をかっと見開くと。掲げた魔剣から次々に雷魔法を撃ち放ち、その反動を利用して、周囲の瓦礫を次々に飛び交う。空中をジグザグに動き、その最中にほんの少しでも停止時間を作ることができるなら、それで勢いを殺していけるはずだ。そうして最後に一発、特大の雷魔法を地底に向かって叩きつけ、落下死一直線だった勢いをどうにか相殺してみせる──そこまでは上手くいったらしい。しかし、大して魔力量のないギデオンでは、それが最後の悪あがきだったようで。真っすぐ叩きつけられずに済んだ身体は、雷魔法の爆発の勢いに乗って横ざまに吹っ飛んでいく。これで落ちても死にはしないが──と、自傷要因になりかねない魔剣をすぐさま放り投げ、ヴィヴィアンの頭や背中をよりいっそう、ぐっと抱え込んだのは、もはやほとんど無意識の動作。はたして天が味方したか、それとも腕のなかのヴィヴィアンが咄嗟の魔法を放ったか。幸いにも危険な落下物の転がっていない地面に、どっと背中を打ち付けると、地底の端までごろごろと転がっていき。他の瓦礫が次々地面に落ちて砕ける音を遠く聞きながら、ギデオンの意識は、暫しの間暗転した。
次に意識が浮上したのは、果たして数十秒後か、それとも数十分後のことか、いずれにせよ、辺りが静まり返った後のことで。未だ頭の奥がずっしりと重いまま、赤く濡れた瞼を震わせつつ、ようやく目を覚まし。)
……
──…………
ギデオンさん、ギデオンさん……!
( ──どれ程の高さから落ちてきたのか、その天井も見えない程の暗闇の底に、相棒の名を呼ぶ女の悲痛な声が響く。その必死に語り掛ける腕の中、ぐったりと気を失ったギデオンを見下ろすヴィヴィアンの表情は、酷い恐怖と深い悔恨に濡れて、大きな緑色の目から零れ落ちる雫が、血の気を失った頬から首筋を流れ落ちて、赤いシャツに染みを広げていく。幸い、着地の寸前に、ビビが放った突風がさらった地面は、危険な破片や金属片こそ二人の周辺には落ちていないが──……こんなもの。あの時、落下しゆく相棒めがけて飛び出したのは完全に無意識で。それが招く結果など一切考慮出来ていなかったどころか、ビビがまごついていた間にギデオンが放った魔法のお陰で何とか生きてはいるものの、自分の考えなしの行動がこの人を危険に貶め、今この瞬間その命の灯さえも脅かしている。どうしようもない自分に対する怒りのまま、その拳を力いっぱい握りしめようとして、思わず顔を顰めたのは、左手に走った激痛のためで。「……ッツ! ……………、」どうやらアドレナリンの放出で気づくのが遅れたが、落下の瞬間。せめて相手の頭だけは守ろうと、ギデオン同様無意識に差し出した左手だけはその仕事を全うして、何より大切なこの人が岩肌むき出しの地面に頭を強かに強打することだけは防いでくれたらしい。青黒く変色して腫れあがり、心臓の鼓動に合わせて、ズキリ、ズキリと主張してくる痛みに、自分の仕事を思い出し幾らか正気を取り戻すと、無事な方の右手でぐしぐしと顔を拭い、白い顔をしたギデオンに向き直る。そうして、繊細な脳細胞に神経を張り巡らせ、祈るような気持ちで、これまでの深い付き合いでギデオンには効くと分かっている自分の魔素を流し込むこと十数分。今度その少しかさついた頬に落ちた雫は、神経を張り詰めたことによる疲れか──……これは、骨までやったかも。時間がたっても治まるどころか、増しゆくばかりの痛みによるものか、兎に角その表情に浮かんでいたのは既に無力な涙ではなかった。それから更に数分後、きつく閉じられていた瞼が震えて、大好きなアイスブルーが覗こうとしたその瞬間──「……! ……ぃ、……ォンか?」その目を凝らしてもよく見えない暗闇の向こう。横たわるギデオンと対角線上であるビビの背後から上がった男の声に、相棒をかばう様にして振り返れば、強い警戒の浮かぶ双眸を暗闇の向こうへと差し向けて。 )
──誰。……この人に近寄らないで、
(──男がそこに現れたのは、本当に偶然のことだった。この呪われた十三年間、彼は一度とて、己を愛する“彼女”から自由になれた試しがない。せめて正気を保つべく親友の名を呟けば、それだけで“彼女”の激しい逆上を買い、ますますきつく縛り上げられた。その“彼女”は今、館に迷い込んだ新たな人間の血を啜るため、どこかを隠れて動き回っている。その間に逃げ出したりしないよう、男は地下深くの“とっておきのばしょ”に幽閉され、魔法の鎖で雁字搦めにされていた──筈だった。それが、不意に弛んだのだ。先ほど、館の多くのフロアが激しく損壊したことで、母体である“彼女”自身も傷を負って弱ったらしい。もっとも、十三年も支配されて弱りきった男には、そんな理屈など想像する由もなかったが。とにかく、封じられていたはずの手足が、ぴくりと動くのに気がついた。己の思うように動ける、そうわかっただけで、起き上がり、歩き出すには充分だった。とはいえ、彼女から本当に逃れられるという望みなど、とうの昔に潰えている。いずれは“彼女”に見つかって連れ戻されるだろう。それまででもいい、この束の間の自由を味わいたい。次はまた何年後になるのかもわからないのだから。──そう思って、目的もなく、真っ暗な地下道をただふらふらとさ迷っていたのだ。
その歩みが静かに止まった。男の濁った琥珀の瞳に、突然、失われたはずの生気が波のように立ち戻った。今や人間とも言えない身に堕ちてしまっている彼は、常人に比べ夜目が利く。だからその視線の先、崩落現場に倒れているひとりの男の横顔を見て、思わず根が生えたように立ち尽くしたのだ。彼の手前では、傷だらけの、特に左手が痛々しく腫れた女が、彼を庇うようにしてこちらを強く睨んでいた。だが男はもう一度、もはや忘我の境地で、彼女の奥にいる見覚えのある男の名を呼ぶ。「──そこに、いるのは……ギデオン……なのか?」。信じられない思いだった。都合の良い夢かと思った。記憶に残る姿より、随分ぼろぼろで、少し老いているようだったが──この十三年間、自分の心を繋ぎ止めてくれていた、自分の親友に違いなかった。)
……敵じゃない。頼む、攻撃しないでくれ。
──そいつと君を、僕にも……手当させてくれ……
(震える声で呼びかけながら、少しずつ近づいて。女の傍らに膝をつき、ぼうっと虚空を眺めている剣士の男を覗き込むと、額に貼り付いた前髪をそっと避けて、その顔を今一度確かめる。間違いない、ギデオンだった。喉が激しく震えて、声にならない嗚咽が漏れる。だが、呑まれる場合ではなかった。ギデオンも、彼の仲間らしいこの娘も、酷く傷ついているようだ。あの物凄い落盤の音を思い出せば、ふたりとも生きているのは奇跡に等しいだろう。「……じっとしていてくれ、」娘の目を見てそう頼み込みながら、骨ばった青白い片手を翳す。途端に手の甲に浮かび上がるのは、禍々しい紫に光る、悪魔の魔法術式だ。だが問題ない──自分の魂を削り取れば、このふたりに代償を支払わせるようなことにはならない。伊達に十三年間も、悪魔の眷属をやっているわけではないのだ。
そうしてギデオンに、次いで彼女に、悪魔ならではの治癒を施す。ギデオンはまだぼうっとしているが、じきに五覚を取り戻すだろう。娘の方も、おそらく温室前にある“例の部屋”で浸食されていたようだが、手の腫れを引かせるついでに、少しは邪気を取り除いてやれただろうか。悪魔の左手を漸く下ろすと、そばに転がっている木片を黒い鉤爪で引っ掻いて火種をつける。やがてパチパチと燃え上がり始めた焚火は、自分の姿を鮮やかに照らし出すだろう。癖のある黒髪、痩せた顔つきとそばかすの散った頬、琥珀色の瞳──そして、真っ赤な血の色に染まった白目と、鋭く尖った狼のような牙、頭から突き出るヤギの角、蹄の足に矢のような尾。どこからどう見てもなり損ないの悪魔だが、自分の心は未だ人間であることを、この娘はわかってくれるだろうか。)
…………君たちは、どうしてここに。
…………、
( 最初は自分たちと同じ、この奇妙な館に囚われた被害者だと思った。しかし、他でもない相棒の名前をはっきりと口にした男に、その正体を図りかね、胸の前で魔杖をしっかりと握ったまま。青年がジリジリと距離を詰めてくるのを許したのは、それでも、その慎重な脚運びに、よくよく見なれた……自分とて叩き込まれた、同業者のそれらしいものを認めたからで。男が何かしようとすれば、すぐにでも杖を振り下ろすつもりで、その膝をつく背中に、疲れきった視線を視線を向けていると、とうとう咽び泣き始めた彼に──……まさか、と。その唐突な天啓に説明をつけようとしたところで、冒険者の勘以上の何物でもない、そんななんの根拠も無い直感だった。──しかし、そんな……有り得ない、考えすぎよ。そう今しがた湧き上がった考えを忘れようと、薄ら微笑みさえ浮かべて、己の眉間に手を伸ばした瞬間。男の手に浮かび上がった術式に、しかし大きく反応しなかったのは、それが本物の悪魔の"それ"だったからだ。ドニーを初めとして、祓魔師達が躍起となって追い縋るこの悪鬼たちは契約を媒介として人間を窮地に陥れる。しかし、それは契約さえしなければ、大きな干渉ができないということでもあって。"この男の命を助けてやる"だろうか、それとも、"この館から助け出してやる"だろうか。どんな魅力的で甘いことを囁かれようと、悪魔との契約の全ては、最悪な結果を免れないことさえ知っていれば、退治こそ困難を極めても、この場を凌ぐくらいは──等と、矢張り味方ではなかった男に落胆し、あれこれと思考を働かせていた時だった。突如、男纏っていた魔素が膨れ上がる感触に──なんで!? 私、なんの契約も……と目を見開き、せめてギデオンだけは守ろうと、相手との間に滑りこもうとして、寧ろはっきりと。その代償を司る式が、ビビやギデオンではなく男の身に降りかかるのを目撃してしまえば──嗚呼、この男は、ギデオンさんの"親友"、十三年前夢魔に囚われたその男じゃないのか? という勘を愈々否定出来なくなってしまうのだった。
これだけ悪魔のことが知れ渡って、その悪性が周知の事実となっても尚、祓魔師の仕事が無くならないのは、悪魔の契約がその代償によって現実を超越し、絶対の不可能を可能にさえするからだ。先程まで重い痛みを放っていた左手が軽い。相性の良いビビの魔素ですら効果の薄かった、ギデオン脈拍も安定して、その安らかな呼吸が、一先ずの窮地が過ぎ去ったことをありありと伝えてくる。それでも念には念を入れて、いつの間にかビビの懐に潜りこんでいた聖幼竜を、ギデオンの番につかせれば、焚火に浮かび上がった男の姿へ言及する前に、まずは深々と頭を下げて。 )
…………助けていただいてありがとうございます。
それは……治療をしながらでも良いですか、貴方の。
( そうして相手の質問に答えようと視線をあげ、その身体のあちこちに鎖の擦れたような長年の痣や、悪い魔素の溜まった箇所を見つけてしまえば、其れを無視して話を進めることなど出来ずなかった。悪魔へと変質しつつある身体に、聖魔法がどう作用するか分からないため、簡易的な応急処置にはなるが。許可を得られれば丁寧に手当をしながら、ここに来た経緯を仲間内でやる状況報告の形式で手短に共有すれば、その最後に気まずそうな表情で首を傾げて。 )
…………貴方は、その。アーロン、さん、なんですか?
(こちらの傷を癒していく娘の、静かながらも明瞭な語り口を聞いて。その無属性の魔素が優しく染み入るのを感じながら、琥珀色の目を一瞬虚空に投げかける。──遠い記憶が、甦る。この聞き馴染みのある報告、そうだ……かつては自分も、陽向を駆け回る冒険者だった。仲間と共に魔獣を倒し、気怠げにすかした悪友と幾度も背中を預け合って。ああ、でも。あの頃の自分たちと少ししか変わらぬ年頃に見えるこの娘に比べて。身体の回復機能を急激に上げたからだろう、再びまどろんでいる彼女の隣の男は……随分歳をとってやつれたように見える。それほどの年月が過ぎたのか。もう随分と、生を失ってきてしまったのか。──薄い点の散った目元を、思わず複雑に翳らせたが。話をすぐにまとめた相手が、おずおずと問いかけてくれば。その気まずそうな顔に、ふっとその空気を和らげるような微笑みを浮かべる。──ともすればそこには、異形に変わりつつあって尚、往年の爽やかさがちらりと仄見えたかもしれない。)
……僕のことはギデオンから? いや、その様子だと……“図書館”のほうで知ったのか。
それなら……そうか。こいつは……僕の名を守ってくれたんだろうな。
(そうしてやんわり認めてから、ぽつぽつと語り始めたのは。自分とギデオンの繋がり、今の自分が何故“こう”なっているかという話で。──自分とギデオンは、同期の剣士同士かつ、駆け出しを支え合う相棒関係だったこと。しかし十三年前、ある事件を引き起こした悪魔との戦いで、全てが狂ってしまったこと。あの時自分は、ギデオンを逃がす代償として、女悪魔に傅く選択を取ったこと。以来、彼女の眷属としてこの“館”に幽閉され、年々悪魔に近づいていること。そう、先ほどふたりを癒した異能も、元は“彼女”から与えられる折檻の傷を癒そうとして身につけたものだ。つまり、ここで過ごして長い自分は、“彼女”の思惑から逸れる術を少しは知っている。眷属の繋がりを持ってしまった自分には無理だが、ギデオンと相手なら出られるかもしれない扉も、幾つか心当たりがある。その話に及んだ時だった──遠い闇のどこかから、地を這うような女の呻き声が、突然長々しく響き渡る。同時に、くぐもるような地響きと揺れが起こり、頭上の鍾乳石がぱらぱらと屑を落とし始めて。「……もう気づかれたか、」と諦めたように笑いながら立ち上がると。再び翳した左手は、横たわるギデオンと傍らのヴィヴィアンの下に、紫色の魔法陣を召喚し。)
──上に飛ばす。青い絨毯の敷かれたフロアのどこかに、誰かが最期に作り上げた、ナナカマドの樹の扉があるはずだ。
その辺りは聖属性が漂っているから、僕以上に、“彼女”も近づくことができない。そこからならきっと無事に出られる……だから、頼む。
そいつを──ギデオンを。ここから、連れ出してやってくれ。
( 十三年前、この館で起きた悍ましい事件の真相。それは信じ難いほど悲惨で救いようが無く、しかし、それを語る目の前の男の風貌を……当時ギデオンと同年代だったはずの男の成れ果てを。この目ではっきり捉えてしまえば信じざるを得ないだろう。──……背中を預けた相棒を失い、罪のない子供を巻き込み、誰より優しいギデオンは、どれだけ深く傷つき、一人助かってしまった自分を何度否定したのだろう。その苦しみの一部でも代わってやれない悔しさに眉尻を下げ、爪の鋭い手を手当する其れを一度止めると。まるで宝物でも触るかのような仕草で、相棒の透き通った金髪の下に浮かんだ汗をそっと拭ってやる。
昨晩から続く事態は決して良いとは言えないが、もしかしたらこれは、事件から十三年たった今も、己の幸せを進んで手放そうとするギデオンを救い出せる好機でもあるのかもしれない。その抑えきれない期待を胸に、エメラルドの瞳を真っ直ぐにアンバーへと差し向ければ、彼の言う"扉"のことを詳しく聞こうとして、突如地鳴りのような唸り声が鳴り響き。咄嗟に杖に手をかけギデオンを庇おうとして、突如現れた魔法陣に反応が遅れた。半ば投げるようにして渡された、相棒の魔剣を何とか受けとめる頃には、二人を守るための障壁も発動し愈々手を出せなくなり、今この場でアーロンも連れて逃げることは叶わない。せめてと言い残そうと張り上げた声でさえ、その後一秒と待たず、勢いよく射出されたせいで、一人地底に残されるアーロンまで届いたかは分からなかった。 )
──……ッハイ、絶対に!!
でも、貴方のことも助けに来ますから……一緒に帰りましょう……!!
( 吹き飛ばされるようにしてたどり着いた上階では、しっかりと相棒に覆いかぶさって、今度こそその衝撃から身を守ることに成功する。それからフロアを駆けずり回り数分か、それとも十数分たっただろうか。アーロンの言う通り、青い絨毯のフロアにナナカマドの樹でできた扉も発見した頃には、意識を取り戻した相棒に、先程その"相棒"にもしたように手早く状況を共有できた。ここが十三年前の館であること、アーロンが生きていたこと、彼が逃がしてくれたこと、その全てが、ギデオンにとって好ましいことだと信じて疑わず、無邪気な笑顔を咲かせ包み隠さずに伝えると、相棒を振り返りながら、ずっと探し求めていた外へと繋がる扉に手をかけて。 )
──……だから、早くギルドに戻って応援を呼んできましょう!
(薄く目を開けても、まだ何も見えなかった。視界はぼんやりと暗く、音もまるで、水中から地上の声を聞こうとするときのように遠い。頭の奥が脈動に合わせてドクドクと痛む一方、きぃん……と静かな耳鳴りもしている。さりとて然程苦痛ではないのは、傍にいる誰かが、先ほどから温かな魔素を流し込んでくれているおかげだろう。混濁した意識では、それがはっきりとヴィヴィアンだとはわからなかったが、この人間には全幅の信頼を寄せて良いと身体が知っているものだから、ただその治療に身を委ねて。しかし、その流れが不意に止んだかと思うと、今度は別の誰かが、同じようでどこか違う治癒の魔素を注ぎはじめる。……待て。この魔素、どこかで。記憶にあるそれとは何かが決定的に変わっているが、これは──この、魔素の、持ち主は。)
……ッ、アーロンッ!
(──瞬間。その名を思い出したギデオンが、叫びながら跳ね起きたのと、出口を見つけたヴィヴィアンが戻ってきたのは、ほとんど同時のことだった。慌てて駆け寄ってきた相棒に支えられるも、まるでうわ言のように“元相棒”の名を呼びながら辺りを見回すのをやめられない。──あいつは、アーロンはどこにいる。ここにいたはずだろう、おまえの次に俺を助けてくれたのはあいつだったろう、あいつは今どこに、無事で……! そんな風に混乱をきたしているものだから、ここが落下した先の地下洞でなく、同じ館の内部とはいえ完全に別の場所であることを、すぐには理解できずにいたようで。ヴィヴィアンにまともに落ちつかせられてから、未だ表情をこわばらせつつも、この状況の説明にようやく耳を傾ける。自分たちが迷い込んでいるこの場所の正体が分かった。ギデオンが十三年前に迷い込んだあの“黒い館”と同一、つまりはとある女悪魔の根城だ。ギデオンの昔の相棒、アーロンもたしかにここに囚われていて、先ほどの崩落でたまたま巡り合うことができた。彼は悪魔の力を得ていたので、ギデオンとヴィヴィアンを逃がすため、魔法陣でここまで飛ばしてくれたという。彼の言っていた出口も既に見つけてある。だから、すぐにここから出られる──。聞けば聞くほど、ギデオンの表情がまったく動じなかったのは、逆に冷え冷えとした恐怖に蝕まれていったからだ。──あの狂った悪魔、ヘレナの巣に、自分たちは飛び込んでいたのか。そんな場所で、ヴィヴィアンを危険に晒したのか。そしてアーロンは、今もそこに囚われていて……悪魔にすら成り果てながら、ヘレナに虐げられていて……それでもなお、自らを犠牲に、再びギデオンを逃がしたのか。あの時と同じことが、また起きようとしているのか。──だが、ヘレナが自分のことを知らない筈がない。おそらくどこかの時点で、こちらの命を狙っていたはずだ。それを、ほかならぬアーロンの介入によって取り逃がした。元々狂っているヘレナが、それでどれほど狂暴になることか。今あいつを置き去りにすればどうなる。悪魔に成り果ててでも、それでもどうにか生きていたとわかったばかりの親友を──今度こそ、どうするつもりだ。
ヴィヴィアンに全身を確認されてから、ふらりと立ち上がったギデオンは。「ああ、そうだな」と、まるでいつも通りの返事をしながら、共に扉に歩み寄ると、そのドアノブをやんわりと奪った。それはさながらいつも通り、マーゴ食堂や職人街でやるような、レディファーストの仕草にでも見えたはずだ──だが、しかし。ヴィヴィアンを先に出してから、自分も軽く外を確かめ。扉の先に広がる世界が、確かに館の敷地ではなく、普段歩いている普通の森であるのを……安全な外の世界になっているのを確かめると。──素早く身を引き、聖木の扉を固く閉ざして、内側から魔法錠をかける。暫しの休みで回復した魔力で築いたそれは、カレトヴルッフの資料室にかかるそれと同じ、如何なる物理魔法も通さない堅牢な性質のものだ。そうして、ヴィヴィアンが駆け戻って扉越しに言い募ってくれば、同じく扉越しに。暗い顔をそっと寄せ、頼み込むように語り掛けるだろう。)
……ヴィヴィアン。悪いが、応援はお前ひとりで呼んでくれ。
俺は、あいつの援護に行く。
( あった、これだ……そこはビビ達二人が入ってきた玄関ロビーより随分小さな、使用人達が使う休憩室とのような空間。その扉はそこへ繋がる勝手口のような簡素な佇まいで。これを作った者も不意に取り込まれた被害者だったろうに、確かな手技で作られた聖木の扉は、こんな状況でも聖なる気を発して、夢魔はもちろん、半分とはいえ悪魔に身を堕としたアーロンも近づくのは叶わないだろう。──しかし、それは正攻法で出る時の話で、この館の主である元凶を倒してしまえば、子供達の呪いも解けて、幾らでも別の出口からアーロンを連れ帰れば良い話だ。そうと決まれば、早く応援を呼んで来なくては。そう意気揚々と、までは流石にいかなくとも、力強い足取りでギデオンを寝かせていた部屋に戻れば、先程サラマンダーと協力して張った強力な結界を順番に解いていく。そうして、その音を警戒し、細い尾をピンと立てていた幼竜が、此方の姿を見てキュイッ! と誇らしげに鳴いて擦り寄ってくるのを、「ありがとう、君がいて良かったわ」と最早定位置となりつつある肩に乗せてやりながら一撫ですれば、その瞬間。部屋の奥から聞こえたギデオンの咆哮に──ギデオンさん! と、お互い顔を見合わせ、すぐ様慌てて駆け寄ることとなって )
──無事です! 大丈夫、アーロンさんは生きてます!!
( 果たして、悪魔に身を堕とした人間が、厳密に無事と言えるかは分からないが──ビビにとって最優先事項は、相棒であるギデオンの身の安全である。一先ず今は相手を落ち着かせるべく、未だ怪我の影響残る身体を大きく捩る相手を、自分の心臓の音を聞かせるようにして、その細い腕の中に囲い込む。そのまま、いつも相手がしてくれるように、透き通った金色の頭をサラサラと撫でながら、相手の早い呼吸に自分のそれを溶け込ませると、その呼吸が深くなるまで、大丈夫、生きてますから、一緒に助けに行きましょう、と言い聞かせ続けて。そうして、相手の呼吸が落ち着いた後も、状況説明をしながら、腕や背中をさりげなく擦り続けた実感として。普段、とても強く冷静な相棒が、想像したよりもずっと酷く消耗していることに気づいて。これは応援を呼びにギルドに戻っても、ギデオンさんは休ませた方が良いかもしれない、なんて。己の不調を棚に上げ、絶対に固辞するだろう相棒を説得する算段を立て始めるも。その直後、まさか相手の方から先に締め出されることになろうとは思いもしなかった。 )
ギデオンさん……!? 駄目! 無茶です!!
開けて! 開けてください!!
( 一瞬、何が起こったか分からなかった。自分の背後で閉じられた扉を呆然と眺めて、理解が追いついた途端、ざあっと青ざめた顔で扉に飛びつく。図書室での記述に間違いがなければ、先程聞こえた声の女、この屋敷の主人は、愛しい男が名を零していたギデオンを酷く恨んで、今度こその命を奪わんとしている。地鳴りと共に吹き出した瘴気の濃度を思い出せば、人間が一人立ち向かうべき相手でないことは確かで。それでも断固反対ではあるが、せめて普段のギデオンであればいざ知らず──ビビの回復魔法で意識を取り戻さない大怪我をしたばかりで、精神的にも最悪に消耗している相手一人でなんて、ヒーラーとしても相棒としても絶対に許可できる訳が無い。そうして聞こえてきた、相棒の良くない覚悟を決めてしまった声に、力なく扉によりかかると、木製の扉が小さく軋む音が虚しく響いた気がした )
せめて、私も連れてってください…………お願い、
( 返答があったか、なかったかはともかくとして、ビビの願いが受け入れられることはとうとうなく。しかし、未だ夜明けの光届かぬ森の奥深く、絶望に濡れ呆然と立ち尽くす女の耳の横で──キュイィ? と。その耐え難く重苦しい空気を霧散させる声を上げたのは幼い火竜だ。先程から薄い舌をチロチロと揺らして、外の空気を堪能していた彼は、共に居た人間の様子がおかしいことに今更気がついたらしい。オロオロともたげた小さな頭を、頭上の木の葉から、夕刻降った雨が残っていたらしい露が穿いて。その濡れた大きな目をパチクリやる幼竜を拭いてやろうとして、何気なくてにとったのは、上等なシルクで織られた瀟洒なハンカチーフ。とても寒かった聖なるあの夜、ギデオンがくれたそれを見て──覇気なく丸まっていた背中がピンとのびて、その緑の瞳に冒険者らしい光が取り戻される。グズグズしている暇はない。あの誰より優しく、どうしようもなく頑固な相棒を自分が助け出すのだ。そうして、まずは冷静にギルドの応援を呼ぶ方法を考えるが、行って戻ってくる時間はとてもないだろう。後片付けは兎も角、やはりギデオンはビビが助け出さなければならない。そうなれば最早応援を頼める相手は一匹しかおらず。不安そうにキョロキョロと首を振る爬虫類に頼んだのは、ここよりも街にほど近い魔木が集まってる地区を燃やしてもらうこと。あの火属性の魔木は建国祭の季節、自らの身体を燃やして次の世代の糧となる性質を持つ。この時期であれば既に次の種は蒔いた後故、今代の木々には悪いが、種の絶滅は避けられるだろうし、季節には早い山火事には、ギルドの誰かが気づいて助けに来てくれるに違いない。そうして今度こそ一人で館に向き直れば、ギデオンが余計な魔法をかけてしまった扉を避けて、その壁にファイヤーボールでお見舞する。どうせならこのまま、上手く炎上してくれないかしらとも期待してみたものの、館自体が生命体なのだからそうもいかない。最早、落胆の表情を隠しもせずに、小さく空いた穴に潜り込めば、どうやら探索するうちに一周してしまっていたらしい。顔を上げたビビの視界に映ったのは、最初にこの館に入ってきた時に目にした広いロビー。コツコツとヒールが床を打つ音を響かせ、その中心に進み出れば、キッと天井を向いて声を張ったその顔に、以前のような恐怖は微塵もなく。 )
──ねえ! ヘレナ……だったかしら、どうせどこかから聞いてるんでしょう?
魔力が足りないんだったら、私のを全部あげるわ──だから、私と取引をしましょう。
(ヴィヴィアンの酷く震える声。それを聞いて尚、ギデオンの決意は頑なに変わらなかった。「お前を信じてる。……頼んだぞ」と、卑怯な言い回しで遠回しに拒絶すれば、あとは相手の声に構わず、くるりと踵を返して走り出す。冷静に考えればわかったろうに──自分のことを誰よりも慕ってくれるヴィヴィアンが、そう大人しく立ち去るわけがないと、自惚れでなく気づけたろうに。しかし、そこまで冷静さを失っていたのは、脳裏で小刻みにフラッシュバックするあの惨劇が、ギデオンの胸を激しく締め付けているせいだった。間に合わなかったあの一瞬。狂暴な夢魔の呪いが閃き、血と悲鳴が砕け散った。ぐったり動かない体、どんなに呼びかけても開かぬ瞼。死人のように青褪めた顔、今にも消えそうなか弱い脈拍。そして、未だに目覚めぬまま、時間ばかりが残酷に過ぎ去っていって──自分ばかりがのうのうと生きている。そんな恐ろしい結末に、相棒を近づかせたい筈がなかった。あの時と同じ絶望に、再び耐えられる心などなかった。13年前、否……20年以上前から続く因縁には、今度こそ自分独りで蹴りをつけなければ。あの時残してきた友をもう一度救いたい、ならば今度は、決して他の誰も巻き込まずに。
そう決意して、ギデオンは再び、無謀な闘いに身を投じていったのだった。襲い来る“館”の怪物に、魔剣一本を翳し、流れる血を振り飛ばしながら。時折不思議な助けを得られたのは、この“館”に縛り付けられた犠牲者の魂が、悪魔を討たんとする者を後押ししていたからだろう。無論、ギデオン本人は知る由もなかったが、アーロンに近づけるならもう何でも良く、貪るようにその力を取り込んだ。けれど──それは着実に、死に赴く階段を下っていくようなもの。この晩、ギデオンは確かに、ヴィヴィアンの恐れる事態へ転落していったのだ。)
(──一方、その頃。一度逃がしかけた獲物が、なんと自ら再び舞い戻ったのを知って。今度こそ逃がすまいと、“彼女”は地獄の呪詛を唱え、その悍ましい手数を増していった。“黒い館”はますます不気味に造り変わり、生き物を蝕む瘴気がどろどろと立ち込めていく。しかしいったいどういうわけか、“あの男”はなかなか倒れそうにない。あの目障りな“娘”の支援を失ったはずなのに、今度は別のなにかから力を借りているらしい。自分の体内でそんな身勝手を許すのは、己の魔力が弱りつつあるせいだと、“彼女”も否応なく気がついていた。──いいや、違う、違う! アーロンさえいてくれるなら、それだけで全てが薔薇色に満たされるはずなのだ! こんなことはあり得ない。他の男と交わらないせいで、彼との愛の巣が暴かれることなど、あっていいはずがない。けれど、大侯爵アスタロトや断罪者アラストルといった第一級の悪魔たちに比べ、所詮己はそこらの夢魔に生まれついた身。どれほど呪詛を重ねようと、本来の夢魔の能力を遥かに逸脱した魔法陣を構築しようと、その地力には限界があった。それが忌まわしくて仕方がなく、“館”の機構を幾重にも増して標的の殺害を急ぐものの、“あの男”とそれを後押しする怨霊たちは、それすら巧みに掻い潜る始末。幾度か危ういことがあり、そのたびに自衛の術を講じる必要に迫られた。そうすると、己の魔力を湯水のように使うせいで、残りの力がどんどん少なくなっていく。 “彼女”は激しい焦燥に駆られた。逆立つ黒い髪を両手で引っ掴み、猫のような目を零れんばかりに剥き、闇の中で怒りの叫び声を上げた。──その時だ。館のどこかに、異物が入り込む感触がしたのは。
聖属性の匂いを感じ、“彼女”の胸に恐怖がせりあがった。──“あの娘”だ! 数時間前、自分の魔力がまだ潤っている時なら着実に殺せたはずの“あの男”を、予想外にも生き延びさせる原因となったヒーラーだ。己の力が尽きつつある今、もし“あの娘”と“あの男”が再び合流してしまったら──また、己の最愛のアーロンに近づかれてしまったら。そう考えるや否や、“彼女”は動いた。“館”の闇を自在に滑り動き、辿り着いた先は、地上のホールの暖炉のなか。最初は姿を現さず、靴音を鳴らして進み出てくる“娘”を観察した。あちこち嗅ぎ回ったからだろう、薄黒く煤に汚れていたが、その目には強い光があり。突然こちらの名を呼んで語り掛けてきたその声にも、“彼女”にはない清廉な響きがあった。──ああ、忌まわしい、大っ嫌いだ! 思わず緑の炎となって燃え上がり、激しい突風を吹かせると、先ほどの“館”の改築で砕け散っていた幾十ものガラスの欠片で“娘”を斬りつけようとする。だが、“娘”が自衛を講じてか、もしくはそんな虚仮威しなどに少しも動じなかったか。とにかく、思ったような効果は得られず、仕方なく手を引くと、炎の姿を取ったまま、不気味な声をホールじゅうに轟かせ。──元は、最愛の人間の男に裏切られた身なのだ。どうしてこんな……自分と違って、人間として生まれつき、最愛の男に愛されてもいる、気に入らない娘の口車に乗るはずがあるだろう。)
取引──あは、取引ですって? 本物の悪魔の私によくもまあ、そんなことが言えたものね! そんな手には乗ってやらない。あんたなんかには絶対にやられない。だからさあ、出て行って、出て行って、出て行って! そうしないなら──殺してやるから!!
( 轟音が鳴り響き、突如緑色の炎が燃え上がったかと思うと、エントランス中にガラス片混じりの暴風が吹き荒ぶ。しかしこれしき、相棒を絶対に助けるというビビの信念を怯ませるには、随分と力不足だったようで。咄嗟の反射で目元だけは庇ったものの、舞い散る破片が、その白い肌を浅く赤く彩るだけで、暖炉の方へ向き直り、毅然と立つヴィヴィアンの姿勢は揺るがない。──嗚呼、可哀想に。そう、ヒステリックに喚き散らす声を耳にして、浮かんだ気持ちは決して皮肉ではなく、同じ色の炎を見つめる瞳は穏やかな色さえ浮かんでいる。──そもそも、図書室で彼女の嘆きを読んだ時から、深く同情してはいたのだ。ひたむきな想いが通じぬ痛みは自分とてよく知っていて、その上、夢魔である彼女は一途に待ち続けることすら叶わず、最後には相手からも不誠実に裏切られる苦しみはいかばかりか──勿論彼女の起こしたことは到底赦されることでは無いが、ギデオンの無事を願う強い強い心の奥で、酷く傷ついた彼女の心もどうにか救ってやれないか、と感じてしまうのは、己のエゴだということもわかっていて。務めて無表情を装いながら、声の聞こえる暖炉に近づくと、無防備に膝を抱えてしゃがみ込んで。 )
貴女を騙すつもりも、貶めるつもりもない。
……約束する、願いを叶えてくれたら、本当に殺してもいいわ。
魔力だって、人間の身体だって……私のモノ全部あげる。だから……お願い、私と契約して。
( そうして、燃え上がる緑の炎を真っ直ぐに見つめ、言い含めるように一言一言ゆっくりと宣言すれば。手が焼けて痛むのも厭わずに、揺れる輪郭を捉えるかのように空中を一撫でし。──彼女の方も、"彼"を籠絡するにあたって、親友のギデオンを殺すのは得策とは言えないだろう。再びギデオンの名を呼べば、ギデオンに不幸が降りかかる……という経験を植え付ける程度が丁度良いはずで。そのギデオンにとっての不幸の材料に、自分は中々"丁度良い"んじゃないか……なんて、内心嘯ける程度には、自分は相棒から十分に心を割いてもらった、冥土の土産はそれだけで良い。そして……出来れば、己の身を進んだ危険に晒すような真似をすれば、代わりに犠牲になろうとする人間が自分の周りにいることを、頑固でどうしようもない相棒に気づいてもらえれば上出来だ。
そうどこか寂しげに揺れていた瞳を閉じれば、次に開いた時には再び力強い光が戻って。深く傷ついている彼女をこれ以上傷つけないよう、数歩離れて両手をあげれば。杖に始まり、腰のナイフ、薬、魔法のローブ……彼女を傷つける、己の身を守る手段を、次々と手放しゆっくりと床に置いていく。そうして最後、コルセットにまで手をかけて、"契約"で人を堕落させる悪魔の本能を擽るだろう一言を投げかけたのは、完全に無意識だった )
(実のところ“彼女”は、この見知らぬヒーラー娘を、酷く恐れていたのだ。何せ、悪魔が最も相手にしたくない人種の特徴を、いくつも兼ね備えているのだから。底なしの強い聖属性を宿し、幾つもの精霊に加護を与えられている。それだけでなく、己の愛する男に愛され、けれどもそれのみを拠りどころとせず、自分自身に強い芯が通っている。──端的に言って、“彼女”とはまるで次元が違う。
ほら、現に。“彼女”が幾ら切りつけようと、あの娘は身じろぎひとつしやしない。それどころか、敵意や嘲りなど窺えない、深甚な色の双眸で、こちらをまっすぐ捉えてくる。エメラルドの視線に縫い留められた“彼女”は、炎の身をびくりと竦ませ、娘が一歩一歩近づいてくるのを、灰の上から呆然と眺めた。何故そんな風にしたのか、“彼女”自身にもわからない。逃げだせば良いものを、或いは迎え撃てば良いものを。しかしヒーラー娘のほうは、ただそこで揺らぐだけの“彼女”に、杖先を向けることもしなかった。それどころか、まるで傷ついた犬猫の前でそうするようにしゃがみ、静かに語りかけてきて。しまいにはその手が、熱に炙られるのにも構わずに、こちらを労わるように伸び。その瞳に、寂しそうな弱みの色すら織り交じる有り様だ。
並の悪魔ならば、そこできっと、“彼女”とは違う反応を示しただろう。相対する人間の娘の、慈愛に満ちた行動や、付け入る隙をみすみす見せるようなまなざしを……挑発や侮辱として受け取り、馬鹿にするなと怒り狂ったか。或いは、悪魔なんぞに馴れ合いを求める大馬鹿者だと、心から笑い飛ばしたか。だが“彼女”は──“ヘレナ”は。人間なんぞに憧れる、悪魔のなり損ないだった。およそ二十年前、地獄の道義に外れるとわかっていながら、それでも“彼”に恋をして以来、ずっと。“彼”と同じになろうと足掻いて、しかしどうしてもできなくて。“彼”と同じでなければ“彼”に愛してもらえない、ならば“彼”の方をいっそ、自分の眷属に変えてしまおうと踏み切って。──ああ、けれど。この黒い館で、どれだけ地獄の異能を振るい、どれだけの人間の魂を喰らおうと。それは結局、ヘレナ自身のいちばんの望みでもなかった。とうに狂っていても、心の底では知っているのだ。このやり方では、アーロンの心など永遠に手に入らないと。そんな痛みを抱える自分に、娘はまるで、人間扱いするかのような労わりを差し向けてみせた。そして言うのだ。──願いを叶えるなら、私の身体をくれてやる。だから契約してくれ、と。)
……どちらが、悪魔かしらね。
(力なく、自嘲気味に呟くが早いか、緑の炎をふっと掻き消し、暖炉をぽつんと闇に沈め。次いで、まだ夜更けの暗さに沈んでいるホールの窓が、一瞬の稲妻でぴかりと光り……ゴロゴロと雷鳴が轟くなか、無防備な娘の視界に、己の影が長く伸びる。娘がこちらを振り返ればそこには、歳の頃がそう変わらない、若い女が立っていることだろう。──艶やかな黒い髪、金色の猫のような瞳、幼げな顔立ち、真っ黒なゴシック調のワンピース。まだ表情は硬く強張っているものの、夢魔としての姿をついに現したのは、この娘をある程度信用することに決めたから……そして虚勢を張るためだ。こつり、こつりと、厚底のヒールを鳴らして、先ほどの彼女のように一歩ずつ歩み寄るのも、対等な関係を自分に言い聞かせるための儀式。そうして、三歩ほどの距離にまで近づいて向き合おうと。長く尖った五指の黒爪、血の契約を交わす時に使うそれを、わかりやすく翳してみせ。)
あたしは、今すぐ力が欲しいの。
だから前払いに、あなたの魔力を。……それで“彼”を今度こそ手に入れた後、あなたの身体もくれるっていうんなら……いいわ。本気で契約してあげる。
──そっちの望みは。
──……ん、
( どちらが悪魔か、ヘレナの呟きに自嘲が漏れる。一体一での戦闘力は雲泥の差とはいえ、今自分の前にいるのが、たった一人の青年に恋をして藻掻く少女だと、悪魔として人を貶めることなど望んでいない、ただ幸せになりたいだけの少女だと知っていて、ビビは卑怯にも自分自身の願いのために、彼女の手ずから自分の命を奪わせようとしているのだ。その謗りは甘んじて受け入れるべきだろう。コルセットの革が、硬い床を打つ音がやけに高く響いた。相手の示した条件にはなんの問題もない。──寧ろ、ギデオンさんを殺さないで欲しい。なんて、相棒の命を狙った相手からすれば詐欺も良いところだろうに。こちらの条件も聞かず"契約してあげる"なんて、迂闊な人。目の前に現れ、ゆっくり歩み寄って来る影から視線を逸らさぬまま、露悪的なまでに態とらしく翳された手をとり、零れかけた謝罪の言葉をなんとか飲み込めば。その手をそっと首筋に招いて、自ら自分の首筋に傷をつける表情は、聖なるヒーラーと聞いて想像するそれとはかけ離れた、女らしい情と強い自己嫌悪に濡れていることだろう )
あの人を……ギデオンさんを、殺さずにここから追い出して、二度と彼の前に現れないで。
──……ね、それから。気が向いたら恋バナでもしてくれたら……きっと、長い付き合いになるでしょうから──
そう……いいわ。これで契約成立ね。
──あなたの名前は?
(ヘレナが恐れた先程までの力強さは、一体どこに消え失せたのか。自ら進んで血を流すその有り様は紛れもなく、情の深すぎる女の顔だ。清く眩しく、まるで正反対だと思ったこの娘も、男のために身をやつすところは、自分とそう変わらぬらしい。それがヘレナに、初対面の時とはまるで違う心境へ至らせた。青白い手を微かに動かし、娘の頬を包むように添わせ。相手の瞳を覗き込みながら、最後にひとつ、大切な情報を引き出す。
──そうして、娘が答えるや否や。悪魔の瞳孔が不気味に光り、一閃した爪がヴィヴィアンの首を浅く切り裂くだろう。そしてその傷口に、すぐさま蛇が如く食らいつき、温かく塩気のある生き血を激しく吸い上げる。力が満ちる──強張った手の黒い爪が、ヴィヴィアンの新鮮な血の色に染まっていく。ようやく柔肌から唇を離せば、今度は彼女の左胸の上に爪で契約印を刻み。それが紫に光ったのを確認すれば、よろめくなり崩れるなりするヴィヴィアンに構うことなく、背後の大窓を振り返って。不気味に閃く稲光の中、血で汚れた唇を獰猛に釣り上げ、堂々と天を仰ぎ、いよいよ詠唱を始めるだろう。『我、月なき昏い夜のもの、夢の通い路にてまろうどをおびくもの。リリスの子孫、リリムの一族、夢魔ヘレナ・バット・アブラヘルの名に於いて。贄たる娘、ヴィヴィアン・パチオと、血盟を以て契約せり』……
──かくしてここに、悪魔ヘレナと乙女ヴィヴィアンの契約が成立してしまった。紫の紋様が全身に這いまわったヴィヴィアンの身体は、ひとりでに宙に浮かんだかと思えば、どす黒い邪悪な靄に引きずり込まれてしまうだろう。ギデオンを無力化し、アーロンを連れ出すまで、ふたりの契約は完了しない。それまでの間、ヘレナはヴィヴィアンをこの揺り籠に固く閉じ込め、常に魔力を啜るのだ。
現に、今も。ヴィヴィアンの肢体にねっとりと絡みついた黒い触手が、靄の塊から幾筋も伸び出てヘレナ自身に繋がり、ヴィヴィアンから吸い上げた魔素をドクドクと流し込んでいる。金色だったヘレナの目は、今やヴィヴィアンと同じ美しい翡翠色に塗り変わり。けれどもその白目は黒く、青白かった肌は毒々しいほど赤く染まる。頭部には二本の角がめきめきと長く芽生え、切っ先の尖った悪魔の尾もしゅるりと妖艶に伸びた姿は、まさに最高潮の能力を振るう狂暴な悪魔の姿だ。──ああ、だって、こんなにも力が漲る。これほど莫大な魔力があれば、きっと全てが思い通りだ。邪魔な男を追い払い、娘の魂を取り込んで、その器を乗っ取れば、望みはきっと果たされる。今度こそ彼と、アーロンと──ふたりで、永遠に幸せになれる。荒れ果てた館のホールで、ヘレナは我知らず、高い嬌笑を響かせた。)
*
……ヴィヴィアン?
(そこからはるか遠い、暗く沈んだ地下洞にて。斬れども斬れども襲い来るグールを、それでも眩い雷魔法で無理やり焼き払っていたギデオンは。ふと何か……虫の知らせのような感覚がして、元来た頭上を振り仰いだ。そこには何もない──否。ギデオンに力添えをするこの館の怨霊たちが、聞くだに恐ろしい呻き声を上げながら天井に渦巻いているだけで、それ以外は何も見当たらない。だというのに、何だろう。氷の刃を突き付けられたような、底知れぬ恐ろしさに心の臓が竦むような、そんな感覚に駆られたのだ。──ギルドに戻る道すがら、ヴィヴィアンの身に何かあったのだろうか。これ以上こんな場所に居させられなかったとはいえ、やはりあのままひとりで帰したのは危険過ぎたのかもしれないと、心配に顔が歪む。急がなければ……早くアーロンを見つけてここを脱出し、無事を確かめに行かなければ。眉間をしかめて思考を振り切り、再び先へ走り出す。──あとに残していった、その空間の岸壁が。不気味な赤い光をドクンと脈打たせたことに、ギデオンはついぞ気づかなかった。)
*
(──最下層。とうとう辿り着いたそこで、鎖に繋がれたアーロンの下に駆け付け。変わり果てた友人を幾歳月ぶりに抱きしめて、ずっと伝えたかった言葉を……「助けに来た」という台詞を告げる。弱りきった悪友は、馬鹿野郎、と力なく罵ってきたが、お互い血まみれの顔を見合せ、くしゃりと笑みかわせば、もうそれだけで、それぞれの想いを伝えるには充分だった。「さっきの子は?」「応援を頼んで先に逃がした。俺たちもここを出るぞ」「こういう頑固なところ、おっさんになっても変わってないのな」「おまえの向こう見ずさも相当だ」「出るにしたって、ここはあいつの体内だ。どうやって」「ここまでだってその筈だ。でも俺が、現におまえを見つけられた。勝算はそれで充分だろ」「…………」。そんな会話を交わしながら鎖を断ち切り、よろめく友に肩を貸して歩き出す。怨霊たちが先導する地上への階段を上る道すがら、これまでの身の上をぽつぽつと語り合い。今も眠っている子どもたちの話に差し掛かった……そのときだ。
不気味な地響きが轟いたと思うと、すぐ先の天井が突然激しく崩れ落ちた。そうして、もうもうと立ち込める白い土煙の中から、彼女が……ヘレナが、満を持して姿を現す。どういうわけか、女悪魔は異様に妖しい赤膚の姿に変わっており。横にいるアーロンが愕然としたその隙を狙って、長い爪をビッと差し向け──魔法の杭に磔にした。途端に、しかしギデオンを絶望させたのは、彼女の形態の変化や、アーロンを一瞬で拘束されたことだけではない。ヘレナの後ろに、黒い靄が。靄に抱かれた人間の娘が、ぐったりした様子で浮かび上がっていたのだ。──見違えようもなく、ヴィヴィアンだった。
その時ギデオンが突き落とされた恐怖は、どんな言葉を使っても言い表すことができないだろう。確かに無事逃がしたはずのヴィヴィアンが、悍ましい女悪魔の手中にがっちりと囚われて……しかも今も、刻一刻と、生命力のような何かを吸いだされて苦しんでいる。ヘレナが何事かを、おまえの命だけはどうだとか言っていたのを、ギデオンはほとんど聞かなかった。表情など消し飛んだ顔で瞬時にヘレナに肉薄し、その首を刎ね飛ばすべく、渾身の魔剣を大振りで薙ぐ。殺す──絶対に、今ここで倒す。──だが、覚醒形態のヘレナは、強いどころの話ではなかった。艶やかな笑い声を上げながら、次元の違う威力を真正面から叩きつけ、蹂躙し、ギデオンの体をすぐさま赤く染めていく。しかしどういうわけか、瞬時に殺せそうなものを、致命傷までは与えてこない。
やがて彼女が組み始めた紫色の魔法陣を見て、ギデオンははっとした。──あれは、アーロンが自分たちを転移させたものと同じだ。ギデオンを殺すつもりはないなどと言っていたが、その言葉のとおり、ここから強引に追い出すつもりらしい。──ふざけるのも大概にしろ。アーロンとヴィヴィアンをおめおめ置いていくわけがあるものか! だが、ギデオンの必死の回避と反撃にも、余裕のヘレナは艶然と微笑むだけだ。──この子の望みよ。この子が私にお願いしてきたの。あなたを無事に逃がしてって。そうしたら──私に身体をくれるって。
恐怖と怒りが極まると、何も見えなくなることを、ギデオンはこの時初めて知った。──だがそれでいて、身体は冷静に、的確に動く。自分のせいで、大事な人が、何の罪もない健やかな人が……犠牲になる。13年前のあの悲劇を、よりによってヴィヴィアンで繰り返す。そんなことを、死んでも許すはずがない。最早最後の理性を捨て、館の怨霊を己に直接取り憑かせる。ギデオン自身にも凄まじい苦痛が伴うが、この女悪魔を倒せるならなんだっていい。手段は択ばない、躊躇う暇はない。
ヘレナの表情もさすがに変わった。「あたしに魔力を使わせれば使わせるほど、この子が弱るのよ──わかってるの!?」と、余裕を失して叫び、悍ましいモンスターを幾十幾百と召喚するが、ギデオンはもはや会話に乗りもしなかった。洞窟中を照らし出す雷魔法を撃ち出し、それでも飛び掛かってくる怪物どもに埋め尽くされても、血みどろになって全てを肉塊へ変えていく。──ヴィヴィアンの身体が、魂が、笑顔が、未来が、こんな風に奪われていいはずがない、その一心で剣を振るう。ヴィヴィアンが死ぬ前に、ヘレナを倒す……それだけが、唯一の最適解だ。
無敵状態だったヘレナをたじろがせたのは、さらに。磔にされていたはずのアーロンによる反撃だった。ギデオンを撃ちかけたヘレナを、横から火魔法で殴り飛ばした友は、既にボロボロだった身体で、それでも再び立ち上がり。かつて地上でドラゴンを狩り明かしていたあのときのように、ギデオンの横に並んで、その爪を構えたのだ。
「どうして──どうして!」と、突然幼さを取り戻して泣き叫ぶヘレナに、アーロンは穏やかに言った。あの時と同じだよ。君がニーナの背骨を折った、二十年前のあの時と。僕は、君を止めなくちゃいけない。……君の望みは、邪悪だ。
ヘレナの狂気が再び爆発した。13年前と同じように、アーロンをきっかけに──嵐のように荒れ狂った。ヴィヴィアンを閉じ込めている靄はいよいよ激しくのたうって、中にいるヴィヴィアンの魔力を吸いだしていく。どうやらこの悪魔は、いずれヴィヴィアンの肉体を奪うはずであるというのに、人体から魔素を流し出す時に通り抜ける、目に見は見えない部分を壊してまで、徹底的に魔素を搾り取る暴挙に及ぼうとしているらしい。──そこが傷つくと、血小板の少ない人間が流血を止められないように、魔素の流出が止まらなくなる。いよいよヴィヴィアンが、本当に死に瀕してしまう。
その最悪を想定して──靄の中のヴィヴィアンの顔が今、激しく苦しんでいるのを見て。ギデオンの魔剣は、いよいよ凄味を増しはじめた。それにアーロンも、13年前は持っていなかった、悪魔の異能で加勢する。ここでヘレナの力にも、限界が見え始める。……元より、ヴィヴィアンの魔素の大部分を占める聖属性のマナだけは、悪魔の中に取り込めない。ヴィヴィアンの魔力量は膨大だが、ヘレナが搾り取れる量には、最初から限界があったのだ。さらに、自業自得なことに。ヴィヴィアンの身体の魔法機能を壊したことで、聖属性のマナがとめどなく溢れだして辺りに充満し、ヘレナ自身がそれに激しく苦悶していた。──やがて。最愛の、13年もそばにつかせたはずのアーロンに、幾度も幾度も反逆されて、彼女なりの一途な愛を邪悪だと否定されて。ヘレナはきっと、錯乱したのだろう。「そんなに──そんなにあたしが嫌いなら──もういっそ、一緒に──!」と、アーロンにとどめを刺しかけたそのとき。同じ惨劇を二度と許さぬギデオンが、猛然と割って入り──振り返ったヘレナが、反射的にその胸を魔法の刃で貫いた──その瞬間。ヘレナ自身の、断末魔じみた絶叫とともに……凄まじい魔素の爆発が起こった。)
*
(──ガラン、と魔剣の落ちる音がして、ようやく。ギデオンは、自分が頽れているのを知った。横向きのまま、視線をぼんやりと投げ出せば、そこにはヘレナが倒れていて……その奥の靄から、アーロンがヴィヴィアンを引きずり出したのが見える。視界が霞んで良く見えないが、数時間前にギデオンにしたように、ヴィヴィアンを介抱してくれているらしい。ヴィヴィアンが身動きし、意識を取り戻したらしいのを見て、思わず安堵した途端。胸からせり上がった血が、がふっと口から零れ出た。──心臓は無事だが、肺をやられたらしい。呼吸がうまくできない──胸がだんだん苦しくなっていく──視界が暗い、耳も何だか遠い。だが、今度こそ……今度こそ。巻き込まれた無辜の人の危機に、ぎりぎりで間に合っただろうか。肩を並べて戦った友を、見捨てずに済んだだろうか。この身を全力で賭けたことで……13年前のような悲劇を、食い止めることができただろうか。)
……ありがとう、
( その時、少し驚いた表情で目を見開いたのは、もっと渋られると思っていた条件を、あまりにもあっさりと相手が呑んだからだ。それだけ彼女にとって人間の体は喉から手が出る程欲する物なのか、一度殺そうとまで血迷った憎しみを、こうも簡単に切り替えられるものかと、改めて相手が人ならざる存在であることを強く確認しても、最早後悔の念などなく。温かい血潮が胸を濡らす感触にゆっくりと目を閉じれば──これで、ギデオンさんを助けられる。その深い安堵とともに、昏睡じみた微睡みへと身を委ねたのだった。 )
( 頭が割れるように痛い。目の奥も鼻の奥も詰まって何も見えず、まるで溺れた時のように呼吸がままならない。それだと言うのに胃袋はひっくり返ったようにのたうち回って、震える程寒いのに身体に熱が籠って冷や汗が滝のように流れ落ちる。──痛い、苦しい、怖い……そう藻掻くように振った腕を捉えられたかと思うと、気道を塞ぐ黒い霧から引きずり出されて。先程も感じた男の魔素が、再び身体の内部機関を修復していく感覚に瞼を薄く開いて。──……これは、一体どういうことだろう。自分は先程、悪魔ヘレナに相棒の無事と引き換えに、己の身を差し出したはずだ。契約の瞬間こそ、死への恐怖を紛らわすべく強がって見せたものの、もう二度と目覚めぬものと覚悟したにも関わらず、今こうして虚ろではあるが、ビビはしっかりと目覚めている。こんな事は、悪魔が契約を放棄したとしか──と、その可能性に気がついた途端、 )
……ギデオンさん!!
( 青白いさえ通り越して、生気の欠片も感じられないどす黒い顔色をしたヴィヴィアンが勢いよく起き上がったのは、今この瞬間治療に当たっていたアーロンにとって、信じられない光景だったらしい。「おい!」「まだ動いていい身体じゃ……」と目を見張る男の声は、瀕死の相棒を見つけ、悲痛な声で絶叫する女には届かない。それどころか、どこにそんな力があったのやら、動きを押さえ込もうとする相手を、物凄い剣幕で突き飛ばし、ぐったりと横たわる相棒に這いずり寄れば。錯乱したヒーラーの意図に気づいた男が、慌て止めようと手を伸ばすより、少し冷たくなってしまった相棒の身体を、ビビがかき抱くのがほんの一瞬早かった。──「君が死ぬんだぞ!」という怒鳴り声は、聞こえて聞こえぬ振りをした。その瞬間、目を焼くほどの光が空間を消し飛ばしたかと思うと、ギデオンの身体を優しく包みこんで、その傷を癒していく。そうして、魔力弁の壊れた状態で魔法を振るったヒーラーはついぞ暴走し、力尽きるまで自身の魔力を放出し続ける運命に従い、心底安堵した笑みでうっとりと相棒を見下ろせば、その直後最愛の相棒の上へ折り重なるようにして再び倒れ伏した。 )
*
( なんで、なんでアタシばっかり……どうして上手くいかないの!? あの小娘、魔力をくれるなんて言って、全然使えないじゃない! ああ違うあの男! そもそもアイツが強かったから!! 『魔力を捧げる代わりに、ギデオン・ノースを殺さない』ビビとの契約を、たっぷりとその魔力に手をつけてから破った悪魔の身体は、その膨大な対価にあちこち欠けて歪になり、その端は今にも耐えられずサラサラと灰になって崩れかけている。痛い、熱い、アタシはこんなに辛くて怖いのに、なんでアーロンさんはアタシじゃなくてあの娘を助けるの……? わああん、と薄暗い空間に響く子供のような鳴き声に、最早耳を貸すものは誰もいない。そうして孤独な夢魔が1人、ひっそりとこの世から消え去ろうとした時。それをいち早く感知できたのは、人ならざる夢魔だったからだろう。空気中の聖魔素濃度が急激に上がる予兆に、全身鳥肌が立ち、今すぐここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。──しかし、全てを消し飛ばす光が、この空間を覆う瞬間。この出来損ない夢魔といったら、愛しの男をヒーラーから引き剥がして、あろうことか、己自身の影で、何度も何度も自分を裏切って、ここまで堕としたアーロンを庇っていた。 )
──アーロンさん、大、丈夫……?
……ありがとう、
( その時、少し驚いた表情で目を見開いたのは、もっと渋られると思っていた条件を、あまりにもあっさりと相手が呑んだからだ。それだけ彼女にとって人間の体は喉から手が出る程欲する物なのか、一度殺そうとまで血迷った憎しみを、こうも簡単に切り替えられるものかと、改めて相手が人ならざる存在であることを強く確認しても、最早後悔の念などなく。温かい血潮が胸を濡らす感触にゆっくりと目を閉じれば──これで、ギデオンさんを助けられる。その深い安堵とともに、昏睡じみた微睡みへと身を委ねたのだった。 )
( 頭が割れるように痛い。目の奥も鼻の奥も詰まって何も見えず、まるで溺れた時のように呼吸がままならない。それだと言うのに胃袋はひっくり返ったようにのたうち回って、震える程寒いのに身体に熱が籠って冷や汗が滝のように流れ落ちる。──痛い、苦しい、怖い……そう藻掻くように振った腕を捉えられたかと思うと、気道を塞ぐ黒い霧から引きずり出されて。先程も感じた男の魔素が、再び身体の内部機関を修復していく感覚に瞼を薄く開いて。──……これは、一体どういうことだろう。自分は先程、悪魔ヘレナに相棒の無事と引き換えに、己の身を差し出したはずだ。契約の瞬間こそ、死への恐怖を紛らわすべく強がって見せたものの、もう二度と目覚めぬものと覚悟したにも関わらず、今こうして虚ろではあるが、ビビはしっかりと目覚めている。こんな事は、悪魔が契約を放棄したとしか──と、その可能性に気がついた途端、 )
……ギデオンさん!!
( 青白いさえ通り越して、生気の欠片も感じられないどす黒い顔色をしたヴィヴィアンが勢いよく起き上がったのは、今この瞬間治療に当たっていたアーロンにとって、信じられない光景だったらしい。「おい!」「まだ動いていい身体じゃ……」と目を見張る男の声は、瀕死の相棒を見つけ、悲痛な声で絶叫する女には届かない。それどころか、どこにそんな力があったのやら、動きを押さえ込もうとする相手を、物凄い剣幕で突き飛ばし、ぐったりと横たわる相棒に這いずり寄れば。錯乱したヒーラーの意図に気づいた男が、慌て止めようと手を伸ばすより、少し冷たくなってしまった相棒の身体を、ビビがかき抱くのがほんの一瞬早かった。──「君が死ぬんだぞ!」という怒鳴り声は、聞こえて聞こえぬ振りをした。その瞬間、目を焼くほどの光が空間を消し飛ばしたかと思うと、ギデオンの身体を優しく包みこんで、その傷を癒していく。そうして、魔力弁の壊れた状態で魔法を振るったヒーラーはついぞ暴走し、力尽きるまで自身の魔力を放出し続ける運命に従い、心底安堵した笑みでうっとりと相棒を見下ろせば、その直後最愛の相棒の上へ折り重なるようにして再び倒れ伏した。 )
*
( なんで、なんでアタシばっかり……どうして上手くいかないの!? あの小娘、魔力をくれるなんて言って、全然使えないじゃない! ああ違うあの男! そもそもアイツが強かったから!! 『魔力を捧げる代わりに、ギデオン・ノースを殺さない』ビビとの契約を、たっぷりとその魔力に手をつけてから破った悪魔の身体は、その膨大な対価にあちこち欠けて歪になり、その端は今にも耐えられずサラサラと灰になって崩れかけている。痛い、熱い、アタシはこんなに辛くて怖いのに、なんでアーロンさんはアタシじゃなくてあの娘を助けるの……? わああん、と薄暗い空間に響く子供のような鳴き声に、最早耳を貸すものは誰もいない。そうして孤独な夢魔が1人、ひっそりとこの世から消え去ろうとした時。それをいち早く感知できたのは、人ならざる夢魔だったからだろう。空気中の聖魔素濃度が急激に上がる予兆に、全身鳥肌が立ち、今すぐここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。──しかし、全てを消し飛ばす光が、この空間を覆う瞬間。この出来損ない夢魔といったら、愛しの男をヒーラーから引き剥がして、あろうことか、己自身の影で、何度も何度も自分を裏切って、ここまで堕としたアーロンを庇っていた。 )
──アーロンさん、好き……
──……ヘレナ……
(目の前の、後頭部から膝裏までがほとんど焼け落ちた女悪魔を振り返り。アーロンはただ呆然と、思わず相手の名を呼んだ。思えばそれは、彼女の支配下にあった間は、決して自分からはしなかった行為で。さらさらと朽ちゆくヘレナの、金に戻った大きな瞳が、一瞬大きく見開かれた後、少女の容易に柔らかく潤む。彼女はただ一度、無事に残っていた片手を、アーロンに向けて弱々しく差し伸べた。彼がその手を静かにとれば、パチッ、と紫電が光るとともに、堅かった何かが解かれる。──眷属の繋がりだ。主たるヘレナが**ば、配下のアーロンもつられて消滅することになる。それを防ぐため、アーロンを介抱することにしたらしい。……今更、何を。荒れ狂っていた先ほどまでは、心中しようとしていた癖に。
最早ヘレナは目を閉じて、ほとんど意識を失っている状態だ。膝が砕け散るそのままに、荒れた地底へ崩れ落ち。もうほとんど、仮面のようになった顔面しか残っていない。しかしそれでも、今も尚譫言のように、好き、大好き……と唇を震わせている。──眷属化が解けた今、アーロンはこれを、何とも思わず踏みつぶすこともできた。それはそうだ、元々愛せもしない娘に、何年も何年も拷問されつづけてきたのだから。今だって、虐げられていた13年間の苦痛を思わないわけではない。……それでも。アーロンはヘレナのそばに屈みこみ、黒い爪で彼女の頬を撫でながら、何かの呪いを呟きはじめた。今や己はほとんど悪魔、人の身にはもう戻れない。その責任をとらせなければ。悪魔の呪いを幾度も受けたから、知っている──13年前の罪を贖うには、彼女の生存が必要だ。)
*
(──いわゆる“逆呪い”を、アーロンがヘレナにかける、その少し前。何者かに抱きしめられたギデオンは、思いがけない優しい温もりに、何かを思い出そうとしていた。この感覚、いつか……どこかで。朦朧とする意識の奥から、ふと潮騒の音が聞こえてきて、その答えが自然と定まる。……そうだ、あれは。いつぞやの孤島の浜辺でも、駆けつけてくれた誰かに、こうして命を救われたのだった。“彼女”だ……きっと、彼女だ。それなら、そうだ、今回も。──約1年前のその時同様に、ありったけの祝福を、貪るように取り込む。何度も何度も迎え入れた経験のある聖らかな魔素が、途端に全てを癒していく。指先まで血が通い、顔に生気が取り戻される。引いていく眩さのなか、ギデオンはようやくその瞼を震わせた。しかし、薄青い目が間近に見たのは、ヒーラー娘、ヴィヴィアンの……うっとりと安堵した、けれども死相の滲む顔で。暗く翳っていくエメラルドの瞳を、一瞬唖然と見つめると。彼女ががくり、と倒れ伏すのと反対に、思わずその身を置きあがらせ、凍りついた顔で見下ろす。有り得ないほどどす黒い肌だ……そして魔法に疎い自分でもわかる、何か致命的な状態に陥っている。──反対に、己の有り様は何だ。胸の出血が止まっている、呼吸も問題ない。何故こんなに早く癒えた、決まっている……ヴィヴィアンの治癒魔法だ! こんな重体で、それでもその力のありったけを、己に注いでくれたのだ。それが意味するところに、ぞっと凍りつきながら。彼女の薄い肩を小さく揺さぶり、必死な声で呼びかけて。)
……ッ──ヴィヴィアン、ヴィヴィアン……!
──……ヘレナ……
(目の前の、後頭部から膝裏までがほとんど焼け落ちた女悪魔を振り返り。アーロンはただ呆然と、思わず相手の名を呼んだ。思えばそれは、彼女の支配下にあった間は、決して自分の意志ではしなかった行為で。さらさらと朽ちゆくヘレナの、金に戻った大きな瞳が、一瞬大きく見開かれた後、少女のように柔らかく潤む。彼女はただ一度、無事に残っていた片手を、アーロンに向けて弱々しく差し伸べた。彼がその手を静かにとれば、パチッ、と紫電が光るとともに、堅かった何かが解かれる。──眷属の繋がりだ。主たるヘレナが現世から欠け落ちれば、配下のアーロンもつられて消滅することになる。それを防ぐため、アーロンを解放することにしたらしい。……今更、何を。荒れ狂っていた先ほどまでは、心中しようとしていた癖に。
最早ヘレナは目を閉じて、ほとんど意識を失っている状態だ。膝が砕け散るそのままに、荒れた地底へ崩れ落ち。今となっては、仮面のようになった顔面しか残っていない。しかしそれでも、今も尚。譫言のように、初めて聞くような優しい声で、好き、大好き……と唇を震わせている。
──眷属化が解けた今、アーロンはこれを、何とも思わず踏みつぶすこともできた。それはそうだ、元々愛せもしない娘に、何年も何年も拷問されつづけてきたのだから。今だって、虐げられていた13年間の苦痛を思い返さないわけではない。……それでも。アーロンはヘレナのそばに屈みこみ、黒い爪で彼女の頬を撫でながら、何かの呪いを呟きはじめた。今や己はほとんど悪魔、人の身にはもう戻れない。その責任をとらせなければ。悪魔の呪いを幾度も受け、それに詳しい身となったからこそ知っている。──13年前の罪を贖うには、彼女の生存が必要だ。)
*
(──いわゆる“逆呪い”を、アーロンがヘレナにかける、その少し前。何者かに抱きしめられたギデオンは、思いがけない優しい温もりに、何かを思い出そうとしていた。この感覚、いつか……どこかで。朦朧とする意識の奥から、ふと潮騒の音が聞こえてきて、その答えが自然と定まる。……そうだ、あれは。いつぞやの孤島の浜辺でも、駆けつけてくれた誰かに、こうして命を救われた。“彼女”だ……きっと、彼女だ。それなら、そうだ、今回も。──約1年前のその時同様に、ありったけの祝福を、貪るように取り込む。何度も何度も迎え入れた経験のある聖らかな魔素が、途端に全てを癒していく。指先まで血が通い、顔に生気が取り戻される。──再び、ヴィヴィアンの手で蘇る。
引いていく眩さのなか、ギデオンはようやくその瞼を震わせた。しかし、薄青い目が間近に見たのは、ヒーラー娘、ヴィヴィアンの……うっとりと安堵した、けれども死相の滲む顔で。暗く翳っていくエメラルドの瞳を、一瞬唖然と見つめると。彼女ががくり、と倒れ伏すのと反対に、思わずその身を置きあがらせ、凍りついた顔で見下ろす。有り得ないほどどす黒い肌だ……そして魔法に疎い自分でもわかる、何か致命的な状態に陥っている。──反対に、己の有り様は何だ。胸の出血が止まっている、呼吸も問題ない。何故こんなに早く癒えた、決まっている……ヴィヴィアンの治癒魔法だ! こんな重体で、それでもその力のありったけを、己に注いでくれたのだ。それが意味するところに、ぞっと凍りつきながら。彼女の薄い肩を小さく揺さぶり、思わず喉を詰まらせながら、必死な声で呼びかけて。)
……ッ──ヴィヴィアン、ヴィヴィアン……!
( 地中深い館の最下層を照らした光が収まり、徐々に視界が取り戻されると、陰湿な空間に二人の男のシルエットだけが浮かび上がる。その片方──ギデオン・ノースの必死な呼び掛けに、揺さぶられるまま。どす黒い顔色でぐったりと目を閉じたビビから、いつもの元気な返事が返ってくることはとうとうなかった。そうして、ギデオンとビビの二人が訪れるまで、ずっと静かだった地下に再び絶望の沈黙が取り戻さようとした瞬間。この場に似合わない、それはそれは明るく嬉しそうな笑い声が高らかに響き渡った、 )
──アーロンさんがアタシの名前を呼んでくれた!
あの娘じゃなくてアタシを助けてくれた!
嬉しい、嬉しい! やっぱりアタシの愛が通じたのね!
( キャハハハハッ! と暗闇を切り裂いたその甲高い笑い声は、依然、剥き出しの地面に張り付くように落ちた仮面ヘレナから上がった。アーロンの逆呪いが完遂したのだ。まもなく、聖の魔素に燃え尽き、顔だけだった肢体は次第に再生し始め、美しい黒髪が地面に広がる。再生した手は真っ先に、二十年ぶりに自分の頬を優しく撫でてくれた手を取り、百合色の顏に無垢な微笑みを浮かべると、己への愛しさで染まっているに違いない相手の顔を覗き込もうとして──勿論、そんなことは無かった表情に、きょとんと首を傾げる。その様はまるで幼い少女のように純粋で、しかし、それは矢張り彼女が人間になどなり得なかったことを如実に証明し、その救えなさを際立てている始末。そうして、未だ上半身だけの肢体を器用に持ち上げ、得心いったように微笑んだ悪魔は、この場で取れる限り最悪の手段を取ろうとして……しかし、その振り上げた腕を一旦降ろした。──あれ、なんでだろうね? ギデオンとビビを殺す想像をした瞬間、何故か少し心が痛むような気がした。これも二十年ぶりに……いや、偽りの物を除けば初めて触れた"優しさ"をくれた娘を殺したくない。その感情の名前をヘレナは知らないが、よくも白々しい言葉と共に、その金色の瞳を気分良さそうに細めたかと思うと、ギデオンとビビの下には例の転移魔法陣が再び浮かび上がる瞬間も、その目が愛しの男から外れることはなく )
アーロンさん?
ねえ、どうしたの? あ、わかったわ、人前だから照れてるんでしょ?
安心して、邪魔者は今すぐ殺して──ううん、ヒトゴロシは良くない、よね?
あのね、二人きりになったら、えへ、アタシのこともビビがしてもらってるみたいにギュッしてね?
……貴、様……
(ヴィヴィアンが、目を……開けてくれない。ほんの少しも、身じろぎをしない。細い手首に触れてみれば、微かな脈を読み取れはするが……これでは時間の問題だ。そのあまりにも重すぎる現実に、ギデオンは一瞬、息もできずに打ちのめされていた。しかし背後から迸った、場違いなほど明るい声に、肩を僅かにこわばらせ、そちらをゆっくりと振り返る。──倒したと思ったはずの、女悪魔が……笑っている。その表情にも、高らかに謳う愛にも、先ほど消滅しかけたときの弱々しさなど微塵も伺えない。邪悪が再び甦ったのだ──ヴィヴィアンは目も覚まさないというのに。そう考えた途端、ギデオンの固く強張った顔に、蒼白な激情が煮えた。数歩先で楽しそうにいかれているあの悪魔を、原形をとどめなくなるまで細切れにしたい衝動に駆られた。そうして復讐心の促すまま、足元の魔剣をがちゃりと手に取った……そのときだ。)
/
──ギデオン、間違うな。
(自分でもやや驚くほど、冷静な声が出た。どす黒い殺気を放っていた親友が、ぴた、と動作を止めたので、今度はその目にしっかりと視線を合わせ、もう一度落ちついた声音で呼びかける。──その子はまだ、ちゃんと生きてるんだろう。例の子どもたちだって、おまえがすぐに病院に連れて行ったから、今も心臓が動いてるんじゃないか。こんな女のために、その子をみすみす死なせるのか。冗談だろ?
こんな女、とは他の誰でもなくヘレナのことだ。己の手で復活させた彼女が、嬉しそうに──何ら変わらぬ狂気を湛えて──ころころ笑いながら、指を絡めて話しかけてきても、アーロンは頑として、完全に無視を決め込んでいた。己が唯一心を寄せる旧友と再会できたことで、精神的な呪縛から目が覚め、生来の冷徹さが急速に戻りつつあったのだ。一方的にしなだれかかってくる女をまるで相手にしないなんて、そう、かつても散々やっていたことだ。
ぱちん、と唐突に指を鳴らす。瞬間、ヘレナの補足青白い首に、黒い小花のあしらわれたチョーカーがぴったち巻き付く。ヘレナが不思議そうにすれば、アーロンはもう一度指を鳴らし、そこから電流じみた魔素をびりびりと流し込むことだろう。──さっきと今とで、13年間続いた主従関係はまるきり逆転している。今はこちらが主人だ──躾のなっていない雌犬には、待てを覚えさせねばならない。
そうして、ヘレナを一旦放置する形で、魔法陣の上にいるギデオンとヴィヴィアンのそばにやってきて屈みこむと。ギデオンの肩に手を置いて、その目を覗き込みながら、諭すように言い聞かせる。──僕がさっき、その子を診た。魔力弁を壊されて弱ってるだけだ、医者に診せれば絶対に間に合う。地上のどこかで、祓魔師の連中がこっちに近づいてる気配がするから、お前はそこで応援を待つべきだ。わかるよな? その子は今、おまえだけが頼りだ。おまえが自分に負けなければ、13年前の二の舞を防げる。その子を無事に目覚めさせてやれる。
昏く淀んでいたギデオンの瞳に、澄んだ青さが戻り始めた。その目を伏せて、ギデオンがぽつりと。「俺の弁も、ひとつ壊してくれないか」と呟く。意味するところが分かったので、ギデオンの右手に左手を翳し、ぱちりと音を立てて目に見えぬそれを破った。途端に、ギデオンが娘を抱きかかえ、自分の右手でしっかりと、彼女の片手を握り込む。互いに開ききった魔力弁を、そこで重ね合わせているのだ。
最後に一度、ギデオンがこちらを見上げた。言葉にせずとも、親友の考えは手に取るように読み取れた。──あの時と同じだ。俺は重傷者を連れ出して、お前をあいつと置き去りにする。あの時を繰り返している……。その恐れと後悔を、しかしアーロンは、笑いながらかぶりを振って否定した。──大丈夫だ、あの時とは違う。お前がその子と来てくれたことで、状況が変わったんだ。本当に、近いうちにまた会えるさ。だから今は、僕を信じて、行ってくれ。嘘じゃない。……あの日おまえと一緒に飲んだ、ブレニヴィンに懸けて誓うよ。
ギデオンが最終的に頷いたのを見届けると、ヘレナが敷いた魔法陣に指を触れ、一時停止させていたそれを再発動させる。友は今一度、ヒーラー娘をしっかりと抱きかかえ──白い光に呑まれて、今度こそふわりと消えた。地上に感覚を向けてみれば、無事に外へ出た気配が確かに感じ取れる。今しばらくは、彼女に己の魔素を分け与えながら、そこで救援を待つことになるだろう。数十分後か、数時間後か……いずれにせよ、病院に駆け込むまでは間に合うはずだ。
はあ、とため息が零れ出た。らしくない──全くらしくない。ギデオンが絡むと、自分はどうも、気持ち悪いほど人間的になるようだ。それを心地よく感じてしまうのも、自分の唯一ままならないところだった。それでもそれを、13年ぶりに思い出せた──こんなに幸運なことはない。ギデオンはまだわかっていないが、自分は今夜確実に、あの男に救われたのだ。ならば、自分もやることをやらねば。黒髪を掻き上げ、ふうと息を吐いてから、元来た方へ踵を返す。そうしてそこにしゃがみ込み、軽く数分も放置していた、上体だけの女悪魔を見るそのまなざしは。──先ほどギデオンに向けたそれとは似ても似つかない、冷淡な……ある意味、何ら飾り立てやしない、アーロンの素の表情を宿していることだろう。)
……人前で照れてるだの、邪魔は今すぐ殺すだの。
僕がおまえを疎んでる理由くらい、いい加減わかるようになれよ。クソ女……
……貴、様……
(ヴィヴィアンが、目を……開けてくれない。ほんの少しも、身じろぎをしない。細い手首に触れてみれば、微かな脈を読み取れはするが……これでは時間の問題だ。そのあまりにも重すぎる現実に、ギデオンは一瞬、息もできずに打ちのめされていた。しかし背後から迸った、場違いなほど明るい声に、肩を僅かにこわばらせ、そちらをゆっくりと振り返る。──倒したと思ったはずの、女悪魔が……笑っている。その表情にも、高らかに謳う愛にも、先ほど消滅しかけたときの弱々しさなど微塵も伺えない。邪悪が再び甦ったのだ──ヴィヴィアンは目も覚まさないというのに。そう考えた途端、ギデオンの固く強張った顔に、蒼白な激情が煮えた。数歩先で楽しそうにいかれているあの悪魔を、原形をとどめなくなるまで細切れにしたい衝動に駆られた。そうして復讐心の促すまま、足元の魔剣をがちゃりと手に取った……そのときだ。)
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──ギデオン、間違うな。
(自分でもやや驚くほど、冷静な声が出た。どす黒い殺気を放っていた親友が、ぴた、と動作を止めたので、今度はその目にしっかりと視線を合わせ、もう一度落ちついた声音で呼びかける。──その子はまだ、ちゃんと生きてるんだろう。例の子どもたちだって、おまえがすぐに病院に連れて行ったから、今も心臓が動いてるんじゃないか。こんな女のために、その子をみすみす死なせるのか。冗談だろ?
こんな女、とは他の誰でもなくヘレナのことだ。己の手で復活させた彼女が、嬉しそうに──何ら変わらぬ狂気を湛えて──ころころ笑いながら、指を絡めて話しかけてきても、アーロンは頑として、完全に無視を決め込んでいた。己が唯一心を寄せる旧友と再会できたことで、精神的な呪縛から目が覚め、生来の冷徹さが急速に戻りつつあったのだ。一方的にしなだれかかってくる女をまるで相手にしないなんて、そう、かつても散々やっていたことだ。
ぱちん、と唐突に指を鳴らす。瞬間、ヘレナの細く青白い首に、黒い小花のあしらわれたチョーカーがぴったりと巻き付く。彼女が不思議そうにすれば、アーロンはもう一度指を鳴らし、そこから電流じみた魔素をびりびりと流し込むことだろう。──さっきと今とで、13年間続いた主従関係はまるきり逆転している。今はこちらが主人だ──躾のなっていない雌犬には、待てを覚えさせねばならない。何より今のは、ギデオンたちに懲りずに手を上げようとしたことへの罰だ。
そうして、ヘレナを一旦放置する形で、魔法陣の上にいるギデオンとヴィヴィアンのそばにやってきて屈みこむと。ギデオンの肩に手を置いて、その目を覗き込みながら、諭すように言い聞かせる。──僕はさっき、その子を診た。魔力弁を壊されて弱ってるだけだ、医者に診せれば絶対に間に合う。地上のどこかで、祓魔師の連中がこっちに近づいてる気配がするから、お前はそこで応援を待つべきだ。わかるよな? その子は今、おまえだけが頼りなんだ。おまえが自分に負けなければ、13年前の二の舞を防げる。その子を無事に、目覚めさせてやれる。
昏く淀んでいたギデオンの瞳に、澄んだ青さが戻り始めた。その目を伏せて、ギデオンがぽつりと。「俺の弁も、ひとつ壊してくれないか」と呟く。意味するところが分かったので、ギデオンの右手に左手を翳し、ぱちりと音を立てて目に見えぬそれを破った。途端に、ギデオンが娘を抱きかかえ、自分の右手でしっかりと、彼女の片手を握り込む。互いに開ききった魔力弁を、そこで重ね合わせているのだ。
最後に一度、ギデオンがこちらを見上げた。言葉にせずとも、親友の考えは手に取るように読み取れた。──あの時と同じだ。俺は重傷者を連れ出して、お前をあいつと置き去りにする。あの時を繰り返している……。その恐れと後悔を、しかしアーロンは、笑いながらかぶりを振って否定した。──大丈夫だ、あの時とは違う。お前がその子と来てくれたことで、状況が変わったんだ。本当に、近いうちにまた会えるさ。だから今は、僕を信じて、行ってくれ。嘘じゃない。……あの日おまえと一緒に飲んだ、ブレニヴィンに懸けて誓うよ。
ギデオンが最終的に頷いたのを見届けると、ヘレナが敷いた魔法陣に指を触れ、一時停止させていたそれを再発動させる。友は今一度、ヒーラー娘をしっかりと抱きかかえ──白い光に呑まれて、今度こそふわりと消えた。地上に感覚を向けてみれば、無事に外へ出た気配が確かに感じ取れる。今しばらくは、彼女に己の魔素を分け与えながら、そこで救援を待つことになるだろう。数十分後か、数時間後か……いずれにせよ、病院に駆け込むまでは間に合うはずだ。
はあ、とため息が零れ出た。らしくない──全くらしくない。ギデオンが絡むと、自分はどうも、気持ち悪いほど人間的になるようだ。それを心地よく感じてしまうのも、自分の唯一ままならないところだった。それでもそれを、13年ぶりに思い出せた──こんなに幸運なことはない。ギデオンはまだわかっていないが、自分は今夜確実に、あの男に救われたのだ。ならば、自分もやることをやらねば。黒髪を掻き上げ、ふうと息を吐いてから、元来た方へ踵を返す。そうしてそこにしゃがみ込み、軽く数分も放置していた、上体だけの女悪魔を見るそのまなざしは。──先ほどギデオンに向けたそれとは似ても似つかない、冷淡な……ある意味、何ら飾り立てやしない、アーロンの素の表情を宿していることだろう。)
……人前で照れてるだの、邪魔は今すぐ殺すだの。
僕がおまえを疎んでる理由くらい、いい加減わかるようになれよ。クソ女……
──ギャッ!
( 淡い期待に白い頬を薔薇色に染めていた悪魔は、一見可愛らしいチョーカーから流れた電流に、短い悲鳴を漏らして固い床に倒れ込む。……どうして、アーロンさん。そう口にしたかった疑問は、唇が痺れて音にならず。もし仮に発音できたとして、それを聞くものなど誰もいなかっただろう。冷たい床の上、唯一動かせる金の瞳をギラギラと光らせ、アーロンを睨めつけ続けるのが精一杯。それからたっぷりヘレナを待たせてから、やっと億劫そうに帰ってきた男を睨みつけると、その瞳からはまるで被害者のように美しい真珠の涙がせり上がり、地面の茶色を色濃く染めて。 )
……ひどい、酷い!
折角助けてあげたのに! 痛かったのに! 熱かったのに!!
アーロンさんがアタシのこと好きって言ってくれたから、アタシお腹がすいても、辛くても我慢したのに!!
( わああ、と上がった泣き声はやはり何処までも自分勝手で救いようがない。自分の身を犠牲にして相手を守る、自分だってあの娘と同じことをしたのに、好きになってくれないのなら──やっぱり殺しておかなくちゃ。そう判断するが早いか、その瞳からピタリと涙が止まり。反対の腕で華奢な半身をはね上げると、その鋭い爪で、なんの躊躇いもなく相手の筋張った首筋を狙って。 )
(およそ人間にはあり得ない速さで涙を引っ込めた女悪魔が、最早暗器じみた速さでその黒い爪を繰り出す。反射的に避けたものの躱しきれず、ブシャッと派手な血しぶきが迸り──しかしアーロンは平然と、冷ややかな目でヘレナを見下した。──ギデオンが来た、自分を忘れずにいてくれた。それだけで己には、据わる覚悟というのがあるのだ。
びゅっ、びゅっ、と血を噴く傷口に、怠そうに……しかし妙に画になる角度で片手を当てながら。もう片方の手で再びぱちん、と指を鳴らし、“躾”の魔素を流し込む。──傍目には、泣き濡れる愛らしい少女を眉一つ動かさず虐待する、残酷極まりない光景だろう。無論アーロン自身には、ヘレナをまたも裏切っている、などという感覚は微塵もない。故に、瓦礫のひとつに腰掛けて、うんざりしたように天井を仰ぎながら。赤く濡れた首元の傷を、みるみるブクブクと──人に非ざる肉の蠢きを見せながら癒していって。)
おまえが好きなのは、結局は自分自身だろ? ……僕自身もそうだけどさ。
──ッ、違う! ……馬鹿にし、て馬鹿にして馬鹿にしてッ!!
アンタみたいな嘘つきと一緒にしないでよ!
( 愛しの男を掠った手から流れる温かい血潮が身体を濡らす。──ああ気分が良い、心地よい。その膨れ上がった生肉を穿って、痛みに震える"中身"を堪能したい。そう振り切った腕を素早く差し戻し、二撃目、三撃目を繰り出そうとする恍惚とした表情が、再び流された魔素によって再度苦痛に歪む。無様に目を剥き、生唾を垂らしてなんとかチョーカーを外そうと、己の首にガリガリと鋭い爪を滑らせのたうち回れば──思わず耳を疑った相手の一言に、首輪がもたらす痛みに顔を歪めたまま、詰め寄るように上半身を擡げる様は最早執念としか言いようがなく。──この人は、都合の良いことを言ってヒトの心を弄んだ挙句、その気持ちさえ都合よく否定しようと言うのか。この気持ちのせいでどれだけ苦しかったか、辛かったか、捨てられるものなら捨ててしまいたかった気持ちが、言うに事欠いてニセモノだと、欺いて良い物だと言って嗤うのか。そんなあまりの言い草に目を剥いたヘレナがヒステリックな金切り声をあげた途端、空間の魔素濃度が爆撃に上昇し、館の壁という壁、天井という天井が物凄い音をたて震えた思うと。実際、ヘレナ達から遠いエントランスの方から、主が弱って維持が難しくなった館が轟音をたて崩れ始める。空気中のあちこちで飽和した魔力が弾けて、カーテンや絨毯、壁紙に燃え移ってメラメラと燃え始める。次の振動で先程ギデオンが通ってきた出口も崩れ落ち、密室となった空間に煙が充満。その中でそれはそれは美しくにっこりと笑った女悪魔は、その力の大半を失ってもなお諦め悪く、その長い髪を愛しい男へ伸ばしたかと思うと、万力のような力で締め上げようとして。 )
──アーロンさん、好き、大好きよ
だから、一緒に死んでちょうだい
(激変していく周囲の光景、びりびり高まる魔素の圧。それらに一瞬気を取られたアーロンが、はっと振り向いたときには遅く。火の粉と土煙をぎゅんと切って、一筋の黒髪がアーロンの喉元に迫る。咄嗟に仰け反るも──間に合わない。触手のようにびったり巻き付かれ、ぎりぎりと捩じ上げられれば、藻掻くアーロンの爪先は、宙に虚しく浮くばかり。ヘレナの首輪を発動させようにも、とっくに見越されていたようで、横から伸びた第二第三の髪束に、両手をがっちりと絡めとられた。──小指一本も動かせない。
雁字搦めにされてしまったアーロンは、ヘレナが陶然と愛を囁く目の前で、がっ、アッ……と、血泡を吹いて痙攣する。同じ悪魔同士だからこそ、物理干渉がまともに働くのだ。いっそ首を捩じ切ってくれれば、すぐに身動きが取れずとも、まだ勝機があろうものを。反撃の手を封じ、全身の魔素の流れを絶つ──最も効果的な追い込み方を、この女もわかっている。今ここで、威しではなく本気で、アーロンを殺すつもりだ。
……しかし、ここまで直接追い込まれて尚。意識が遠のくアーロンの、昏くなる目に浮かぶのは、目の前で妖艶に笑う、いかれた女悪魔ではなく。いつも気怠げにすかして、そのくせ自分といる時はくしゃくしゃに笑ってくれる、あの友人の横顔だった。13年ぶりに拝んだつらは、随分枯れて、草臥れてはいたけれど……あの目元の笑い方が、全く変わらないままで。それだけでアーロンは救われた──本当に救われていたのだ、けれど。締め上げられた首をだらりと垂れて、動かなくなったアーロンの脳裏に。ふと、ひとつの情景が浮かぶ。すべてが終わって、森の焼け跡に戻ってくるギデオン。周囲を探すその顔に、次第に不安、そして恐れが浮かんでは、やがてどんよりと暗い諦めに呑まれていく。──ところ変わって、病院で。肝心のあの娘、憎からず思い合っているのだろうあのヒーラーが、ようやく目を覚まし。見舞いに来たギデオンを、迎え入れてくれたというのに。……ギデオンの顔は、最初だけ喜んだかと思えば、あとはずっと暗いまま。ベッド横の椅子に力なく座り、うなだれた状態でぽつぽつと、あの娘に報告をしているようだ。目を瞠ったあの娘が、やがてギデオンの頭を抱き寄せて慰めるのに。奴の目はいつまでも、後悔と罪悪感に沈んだまま、そこから浮かび上がれない。再び場面が変わり、ギデオンとあの娘が、眠る子どもたちの病室を訪れる光景が見える。やがてそう時を経ずに、ギデオンがあの娘と話して……泣いて拒む彼女を、そこにひとりで置いていく。ひとりで……どこかへ消えていく。
それが再起の瞬間だった。ほとんど死んでいた筈のアーロンの身体が、突然ビクンと激しくのたうち。俯いていたその顔が、がっと奇怪に持ち上がって──先ほどまでとは違う、複眼や複口すら生じた異形のそれを、ヘレナの眼前に曝け出す。突然、左肩を突き破るようにして第三の腕を生えたかと思えば、その指がばちん、とトリガーを鳴らし、ヘレナの首輪の懲罰魔法を強く発動させるだろう。そうして、黒髪の拘束を緩めさせることに成功できたなら。激しく逆巻く炎を背に、ゆらりとヘレナに向き直り。拒絶の言葉を吐きながら、首を刈るべく一足で距離を詰め。)
安心しろよ。そこまでしなくたって、手の内で大事に飼い殺しにしてやる。
おまえはそこから、僕やギデオンやあの子の未来を──何もできずに見ていればいい!
( アーロンの目から光が消え失せ、漲っていた魔力が徐々に抜けていく。ヘレナに愛を囁いた口から血を吐いて、優しく触れた手もがくりと落ちて動かない。もうこの人が軽薄に微笑む表情も、冷たくヘレナを追い払う表情でさえも、もう見られないと思うと強く胸が痛んで──これでもうアーロンさんは、あの男に笑いかけない。そうゾクゾクと湧き上がる歓喜にうっとりと表情を綻ばせる。そうして、伸ばしていた髪をしゅるしゅると縮ませながら、動かなくなった男に手を伸ばすと、ヘレナを拒絶しない、ヘレナ以外の誰にも微笑みかけない"理想の男"を抱き止めようとした瞬間。ぐったりと項垂れ、あとは消えゆくだけだと思っていたアーロンの生命力がぶわりと溢れて。そのおぞましく変貌した面を視界に捉えれば、さらに恍惚と目を見開いて。 )
アーロンさん……その、お顔も、とっても素敵……ぐうッ!!
( そうして愛しい男の新たな一面にうっとりと見蕩れていた隙をつかれて、拘束具に魔力を流されれば、首元を抑えてその場に崩れ落ちる。──嫌、嫌よ。何も出来ずに、一人ぽっちで見ているだけなんて。アタシの中で動けなくなるのは、アーロンさんじゃなきゃ……。そう首をはね飛ばされても、執念でその腕にかぶりつき、新たな身体を生やして切り裂きにかかったところで、チョーカーに魔力を流され思うように身動きが取れない。せめてもっと上を切ってくれれば、チョーカーごと切り離せたものを。ならばと再び髪を伸ばしても、相手もそれを警戒していて、自慢の髪が……アーロンが綺麗だと褒めてくれた髪が、そのアーロンの手に寄って切り刻まれて舞い散るだけ。──早く、早くしなくちゃ。そうヘレナが焦るのは、朝が近いからだ。夜が悪魔や魑魅魍魎の時間なら、昼間は人間の時間だ。往年の自分ならいざ知らず、今朝日に照らされればヘレナとて無事ではいられない。しかし、良くも悪くもお互いを知り尽くしている同士、お互い致命傷は避けられても、同様致命傷を与えられぬまま刻々と時間が過ぎる。そうして燃え尽き、ぽっかりと空いた天井の穴から、朝日が差し込む寸前、再度強く足場を蹴って、アーロンの首に強く爪を突き立てようとしたのは、一か八かの賭けだった。 )
──アーロンさんはアタシと此処で、ずっとずっと素敵な夢を見るのよ
(アーロンの黒い爪が、一瞬の躊躇もなくヘレナの首を刎ね飛ばす。当然その後は、赤黒い弧を描きながら飛んでいく──と見せかけて。虎の眼をした女の生首は、物理法則を完全に無視した動きで、再びアーロンの下に舞い戻るのだ。もはやただの夢魔とは言えぬ、執念の怪物だった。だがそれは、ただの人間を逸脱したこちらも同じこと。ヘレナががぶりと食らいつけば、アーロンはその腕に力を込め。牙を動かせないように固めて、再び苦痛の魔法を繰りだす。女の苦悶の絶叫を聞いて、ざまあみろ、と冷酷にせせら笑う。だがその酷薄な表情も、死に物狂いのヘレナによって、虚を突かれることになる。
──そうして何度も、何度も何度も。愛憎に狂った女と、厭いあぐむ男の殺し合いが、いつまでも繰り広げられた。だがしかし、どれほど血みどろになろうとも、双方ともに決定打には至らない。──体力魔力ともに余力はあるが、所詮は眷属上がりの似非悪魔に過ぎないアーロン。生粋の悪魔として幾度もリミッターを解除するが、ギデオンとの戦いで一度完全に消耗しており、復活後も枷を嵌められてハンデを負った状態のヘレナ。そしてふたりは、ともに悪魔の身であるからこそ、相手を確実に死に至らしめる聖なる魔法が使えない。そんな戦いに終止符を打つのは、結局はどちらの味方でもない第三者。……つまり、過ぎ行く時間だけだ。
白み始めた空の下、いよいよ迫る朝日の気配に双方胃の腑をひりつかせながら。互いにグロテスクな異形を見せつけるアーロンとヘレナが、殺意の煮える眼を今一度交わした瞬間。──ヘレナが斬りかかったのと、アーロンがすかさず“それ”を取り出してヘレナの腹に突き刺したのは、ほとんど同時のことだった。)
……いいや。
もう目を覚ます時間だよ、ヘレナ。
(その頸椎に、愛憎の爪を深々と突き立てられながら。それでもアーロンは、血を零す口元に勝利の笑みを浮かべて、別れの言葉を穏やかに告げた。
ヘレナが自分の脇腹を見下せば、そこにはきっと、清く煌めくヴァヴェルの鱗が食い込んでいることだろう。──アーロンがずっと隠し持っていたこれは、他でもないあの親友が、別れ際にそっと託してくれたものだ。あのとき、“絶対にまた会いに行く”と約束したアーロンに、ギデオンはふと表情を変え、掌に乗るほどの小さな袋を渡してきた。あちこちがほつれ、煤や土で薄汚れている割に、可愛らしい小花なんぞがあしらわれてあるそれは……ギデオンの腕の中にいる娘がくれた、カイロというお守りだという。奴曰く、本来ならば、冬の寒さを和らげてくれるくらいの、優しい魔道具でしかないのだが。ギデオンが地下に潜り、何度も視線を潜り抜けてこちらを助けに来る間、聖なる光を幾度も発し、ヘレナの使いを焼き殺したそうだ。おそらく、娘本人も知らぬうちに、ギデオンへの加護の魔法を織り込んであったのだろう。あまりに強大な闇が迫れば、聖なる力が発動するようにと。そしてこの、今アーロンとヘレナがいる戦場は、作り手本人の聖魔法が激しく爆ぜた後だった。つまり、このお守りは。──純度の高い聖なる魔素を、再びたっぷりと吸っているのだ。
これを取り出したアーロンも、もちろん無事では済んでいない。聖なる鱗に直接触れた手は焼け爛れ、回復もままならずにぼたぼたと解け落ちている。──それでも、このくらいなら喜んでくれてやれる。似非悪魔の自分より……生粋の悪魔たるヘレナの方にこそ、“これ”がよっぽど効くはずだ。
ヘレナが最期、どんな表情を浮かべていたのか。アーロンは見ていなかったし、何を言ったかも聞こえちゃいない──否、聞こうともしなかった。とにかく、このときの彼はただ。突き刺さっているヘレナの手ごと、自分を守る魔素の障壁を展開し。彼女に刺さったヴァヴェルの鱗に……ありったけの悪魔の火を、渾身の勢いでぶちこんでやったのだ。
その途端起きた爆発の、凄まじいことといったら。この時遠くにいたカレトヴルッフの冒険者曰く、森じゅうの大地が激しく揺れて轟いたという。そして、その数時間後。戻ってきた小鳥たちの酷く呑気なさえずりが響く、魔狼の森のど真ん中……一体がまっさらに焼き払われた、やけに聖らかな爆心地にて。──頸に黒爪の刺さった悪魔が、妙に晴れ晴れとした面持ちで、横たわっていたそうだ。……)
*
……ヴィヴィアン、頑張れ。
がんばれ、がんばれ……
(──その爆発の、少し前。昨日の土砂降りの名残であろう、ぬるく優しい霧雨が、まだしとしと降っていた頃。
ぼろぼろの風体で森の外れに出たギデオンは、その両腕に、ぐったりと動かないヴィヴィアンを抱きかかえていた。雨に濡れて冷えぬよう、己の上着をかけているが、それでも相棒の身体は、こちらの心の臓のほうが凍りそうなほど冷たくて。──いいや、まだ大丈夫だ、かすかだが息をしているはずだ。何度もそう言い聞かせながら、応援が来るであろう方角に歩いていくと、やがてその農道の脇の木の根元によろよろと身体を預け。ずるずるとしゃがみ込むと、もう一度ヴィヴィアンを抱きかかえ直して……力のないその掌を、己の大きな掌でしっかりと握り込み、彼女の頭に顔を擦り寄せる。そうして、愛しい栗色の頭に、時折たまりかねたように弱々しく口づけしながら。何度も何度も手を握り直し、壊れた魔力弁同士をしっかりとすり合わせ。魔素がみるみる抜け落ちていく彼女の身体に、己の魔素を懸命に吹き込んでは、何度も何度も……何度も、何度も。腕の中の娘に、優しい声で呼びかけるのだ。)
ヴィヴィアン、もうすぐだ。
もうすぐ助けが来る……俺たちは、絶対に助かる。
だから、頼む。頼む……頼む。あと少しだけ、頑張ってくれ。
一緒に……飯を食いに行くんだろ。
約束した我儘だって、まだ叶えてやれてないだろ……
だから、絶対……ふたりで一緒に、無事にギルドへ帰るんだ。
そうだろ、ヴィヴィアン。
……なあ、ヴィヴィアン。
ああ、頼む、お願いだ……
(夜明けの風がざわざわと起こり、大木の梢から大粒の露が滴る。そうして、すぐ下にいるギデオンの頬を、熱いものが伝い落ちていく。──視界がどんなにぼやけようと、重く沈みそうになる視線を、縋るような思いで上げ。薄ぼんやりと明るくなりはじめた空の下、道の向こうに未だ人影が見えないことを確かめれば、悲痛な表情を押し殺し、きつく目を閉じて再びヴィヴィアンに顔を寄せる。そうして、痛いほど詰まる喉で、掠れた声を震わせて……何度も何度も、呼びかける。
ギデオンは生まれてこのかた、神を信じたことがない。この世というのは、ただ淡々と事実が連続していくだけで。それを受け入れ、適応していってこそ人生なのだと、齢七つの幼い頃からそう信じて生きてきた。だが、ああ、どうか今だけは。神がいるなら祈らせてほしい、この願いを聞き届けてほしい。──彼女を助けてくれ。ヴィヴィアンの目を覚まさせてくれ。彼女の笑顔を、無事に健やかに過ごす姿を、もう一度見せてくれ。それが叶うならなんだっていい、死ぬまで鞭打たれようが、生きたまま焼かれようがいい。だからどうか、俺たちを見つけてくれ。ヴィヴィアンを助けてくれ。──ヴィヴィアンを失う道など、絶対に受け入れられない……他の何より、耐えられない。
その心からの祈りも、心の底からの恐怖も。やがてほとんど、朦朧とする泥濘のような意識の中に呑み込まれていってしまった。魔力が尽きていくヴィヴィアンの身体が、ギデオンからの供給を弱々しくも貪ったからだ。“己のありったけの魔力を他人に分け与える”……ヒーラーであるヴィヴィアンが当たり前のようにしてきた行為が、こんなにも激しい自己犠牲であったなどと、戦士のギデオンは知らなかった。頭ではわかっていても、自分が経験してみれば、それが如何ほど無償の愛かを思い知る。何かがどろりと垂れたと思えば、それは自然と流れた鼻血で。ヴィヴィアンを汚さぬよう顔の向きを変えただけで、視界が激しく明滅し、頭の奥が割れそうに痛み、吐き気や嘔吐きが込み上げる。それを必死に飲み下せば、今度は身体の芯から起こる、霧雨のせいだけではなかろう凄まじい悪寒。二度ほど目の当たりにしたことがあるこの症状、間違いない──魔力切れだ。ちくしょう、と心の中で悪態づく。沸き起こる無力感に、ヴィヴィアンの身体をますます強くかき抱く。……己の魔力の乏しさのせいで、弱り切っているヴィヴィアンへの輸素さえままならないというのか。本当に、俺はどこまで。13年も経った今すら、何ひとつ──いいや、いいや! 汗と雨滴の流れ落ちる横顔を持ち上げ、その目をかっと見開いて。折れそうになる心を必死に掻き集めると、ヴィヴィアンの額にもう一度キスを落とし、もはや己のそれすら冷たくなった指先を、今一度絡め直す。魔力切れが近いなら、もはや空になればいい。数秒の時間稼ぎでもいい、自分の全てをヴィヴィアンに捧げるのだ。そうして意識を必死に保ち、力なくずれる魔力弁を何回も探し直しては、反応してくれと願いながら押し当てて。ヴィヴィアンのそれが微かに、無意識に応えてくれることだけを頼りに、決死の想いで魔素を送り込みながら。胸の内で、また何度も何度も、誓いのように繰り返す。──助かる。俺たちは助かる。おまえは、絶対に助けてみせる。
その悲願を、天はようやく聞き届けてくれたのかもしれない。ギデオンがふと、疲弊しきった顔を上げたときには。いつの間にか来ていた二台の馬車から飛び降りた男たちが、一目散にこちらに駆け寄り、「大丈夫か!」「しっかりしろ!」と、聞き覚えのある声を投げかけてくるところだった。ギデオンの目はほとんど見えず、近くに来たはずの男たちの顔の判別さえ、ろくにつかない有り様だったが。「……ヴィヴィアンを、」「……魔力、弁が、」と、呂律の回らない舌でどうにか伝えようとすれば、男たちに交じっていた熟練のヒーラーが、全てを汲み取ってくれたらしい。「任せな!」という声が聞こえるほうへ立ち上がり、よろめきながらヴィヴィアンを託すと。すぐさま彼女が運び込まれた馬車に、自分も乗り込もうとして──そこで、ぶつんと意識が途絶えた。)
────ッ!!!!
( 夜明けの森にまるで女のものとは思えない、悍ましい断末魔が響き渡る。鱗の刺さった脇腹が燃えるように熱く痛んで、およそ人らしい言葉をあげることが叶わない。──これは、あの娘の……!! 脇腹に刺さったそれを、アーロンに突き刺した爪とは反対の手で取ろうとして、その突如ヘレナの腕が消し飛んだ。否、厳密には聖なる魔素の、邪悪な物を焼き払う性質が発動しただけなのだが、あまりに濃度の高いそれが、ヘレナの腕を焼くより早く、一気に溶かし昇華させたのだ。……痛い、熱い、苦しい、一刻も早くこの鱗を取り除かなければ。そうどこか冷静な理性はガンガンと警鐘を鳴らして来ると言うのに、何故かアーロンに突き立てた……再び触れることの叶った、その手を離す気になれずに。とうとう腰が溶け落ち、立っていることもままならなくなったのを良いことに、爪に力を込めてアーロンに撓垂れ掛かる。そうしてアーロンの体内で火の魔素が高鳴るのを感じとり、腕の力だけで這い上がって迎えた最後の瞬間。じっとりと赤い唇が、アーロンのそれに届いたかどうかは、最早二人だけしか知りえない。 )
──それでも、また夜は来るもの、
*
( ビビが目を覚ましたのは、よく見知ったギルドの医務室だった。どれくらい寝ていたのだろう。窓の外を見る限り、まだ時間は夜らしいが、起こした身体が少しだるくて──そっか、私、また魔力切れを起こして……。軽く痛むこめかみを抑え、気絶する前のことを思い出した瞬間。いてもたっても居られずに、勢いよくベッドから飛び降りる。──ギデオンさんは……!? そう大怪我をしていたはずの相棒を探して、脇にかかったカーテンを引き開けるも、隣のベッドは空っぽで、そこに使われた形跡は見受けられない。その隣も、それまた隣も同様に確認するが、相棒どころか──ギルドから貰える予算より多く、無愛想な魔法医が、こっそり自腹を切って設備を増やしていることを知っているこの医務室には、どうやら今その魔法医も含め、ビビ以外の誰もいないようだ。とはいえ、幾らビビが治療したとはいえあの怪我だ、ギデオンも何かしらの手当を受けないわけにはいかないだろう。なのに姿が見当たらないということは、病院でないと対応出来ないほど、状態が良くなかったのではなかろうか。そう思い当たった不安に、ざっと顔色を変えると、「ギデオンさん!」と、裸足のまま廊下に飛び出して。 )
……はっ、……はぁ、
( ドクドクと心臓を掻き鳴らす嫌な予感に、息が上がる。静かな廊下にペタペタと、自分の足音だけがやけに耳について煩わしい。──おかしい。普段、夜中でもギルドの廊下は冒険者たちで賑わっているにも関わらず、誰の姿も見つけられない。──こんなに誰もいないのは、誰かのお葬式の時とかしか……。ふいに顎につたって滴る汗を拭おうと、顔を上げた瞬間。物凄い轟音をたて、近くに落ちたらしい雷の光に見知った影を見つけ、そのギルドの魔法医である男に駆け寄ると。──おじさま! ねえ、どうして誰もいないの……ううん。それより、ギデオンさんは……? そういつも綺麗な白衣に縋りつき、不安そうな表情で見上げてくる娘に、魔法医は気の毒そうに顔を歪める。そうして、幼い頃からよく知る娘を支えるように、その手を娘の肩に回したかと思うと「……ビビ。いいか、自棄になるなよ」と、前置きしてから、「ギデオンは……間に合わなかったんだ。ありったけの、魔力をお前に残して……」と、苦しそうに項垂れてしまった。
──……嘘、嘘よ。そうビビが訴えても、魔法医は無言で首を振るだけで顔を上げてはくれない。深い絶望に力が抜けてへたりこんだ絨毯は、懐かしい実家のものだ。小さなビビの目の前で、魔法医同様項垂れた父が「シェリー……」と、苦しそうに酒を煽る。その光景を見た途端、とうとうビビの中で何かが壊れて、その目から涙がこぼれ落ちる。──ああ、嫌、イヤ、人殺し……自分が生き伸びるためだけに、浅ましく人の命を吸い取って。汚らしい、穢らわしい……こんな私は、生きていちゃ……駄目だ。そう悟った手の中には、手頃なナイフが握られている──そっか、最初から、こうすれば良かったんだ。その確信に幸せそうに微笑むと、天を仰ぎ己の首筋にナイフを突き立てようとした寸前──ピシャァン!! と、今度こそ己の上に直撃した雷に目を見張る。間違いなく雷がこの身を貫いた筈だと云うのに、怪我どころか甘く痺れる魔素が心地良くて、胸の中を取り巻いていたどす黒い靄が晴れていく。その瞬間、ビビの中に思い浮かんだのは、眩しいほど煌めいて、誰より真っ直ぐな雷そのもののようなその人。──行かなくちゃ、ギデオンさんが、待ってる。眩しい光の中で、そっと両方の瞼を伏せる。今度その閉じられた目の縁から零れたのは、温かい安堵の雫だった。
そうして、次に開いたビビの瞳に写ったのは、ギルドの医務室ではなく、見知らぬ白い天井。勿論、起きてすぐ走り回るなんてことは出来るはずもなく、酷く重い身体にはあちこち魔素を運ぶ管に繋がれていて、自ら上半身を起こすことすらままならない。それでも、確かに生存し、はっきりと目を覚ましたビビが、掠れた声で、まず真っ先に探し出すものは、何一つ変わることはなく、 )
──……ギデ、オン、さ……
(※今回の大部分を占める、「目覚めた後のギデオンの状況把握」の部分について。あまりにも長いため別途補足のSSに仕立て上げようかと思ったのですが、時間の都合上それが厳しく……読みづらくて申し訳ありませんが、当初書きだしたそのままでお送りさせていただきます。実質的なロル部分は「*」以降です。/蹴り可)
(ふと目覚めたギデオンが、病院の白い天井にぼんやりと視線を投げてから、僅かに頭を傾けて横を向いたとき。そこで付き添ってくれていたのは、見慣れた栗毛の可憐な娘……ではなく。見慣れた禿げ頭の、書類を睨んで気難しい顔をしている、中年の小男だった。
まだ意識が混濁しているギデオンが、何とも言えずに見ているうちに。ドニーの方も、その気配でようやくこちらに気がついたらしい。書類を仕舞いながら、おどけたようなしかめっ面を寄越して。「悪いな、嬢ちゃんじゃなくってよぉ」──それを聞いた途端、ギデオンの顔色がおもむろに変わった。
「……ヴィヴィアン、は?」「心配すんな、別の病室で眠ってるよ。おまえだって何回も見に行こうとしてだろうが。……はあ? 覚えちゃいないって?」
どうやら、ドニー曰く。ギデオンはこれまでに何度か目を覚まし、そのたびに体じゅうの管を乱暴に引きちぎりながら、ヴィヴィアンの元へ向かおうとしていたらしい。意識がはっきりしているのかいないのか、制止する看護師たちの言うことをあまりに頑として聞かないので、最後は業を煮やした看護婦長に眠りの魔法をぶっ放され、今の今まで無理やり寝かされていたそうだ。「……覚えて、ない」と掠れ声で言い訳するギデオンに、ドニーもやれやれとかぶりを振る。「ほんと、おまえらお似合いだよな。看護婦さんの話じゃ、嬢ちゃんのほうも、うわごとでお前の名前を呼んでるって話だぜ」
……ドニーのこの様子からして、おそらくはヴィヴィアンも無事に助かり、容態が安定しているのだろう。思わずほっと溜息をつくと、一気に体が重くなり、再び微睡みかけたのだが。それを待たずに、ドニーの呼んだ魔法医たちがぞろぞろやってきて、やれ具合はどうだだの、どんな攻撃を受けたのかだの、あれこれ質問を押し寄せ始めた。しかし検診がひととおり終われば、今度はしっかり目を覚ましたギデオンの方が、ドニーに説明を求める番で。
──あの後、自分たちはどうなったのか。
──森を出てから、何が起きたのか。
あの時駆けつけてくれた救助隊は、ギデオンとヴィヴィアンを保護してすぐ、馬車の上で手当てをしながら、できる限り最寄りにある病院へと爆走してくれたらしい。ただし行き先はキングストンではなく、街道をまっすぐ東に突っ切った先の……聖バジリオ記念病院。なんでも昨夕、王都のほうの中央病院は、ヴァナルガンド教の連中によって病院ジャックされるという大事件が起きたそうだ。とてもじゃないが担ぎ込むわけにいかなかったため、移動時間ではさほど差のない聖バジリオに向かった、という経緯らしい。確かにギデオンが今いるここは、魔法障害の治療を専門とする療養院だ──何せこの13年、“黒い館”でヘレナに呪われた子どもたちが、長期入院しているのもここ、聖バジリオである。「……因果だな」とギデオンが呟くと、ドニーは肩をすくめた。「どうせ来る予定だったんだろ。手間が省けて良かったじゃねぇか?」
あの森から聖バジリオまでは、普通の馬車なら3時間はかかる道のりだ。救助隊はそれを1時間半にまで縮め、ギデオンとヴィヴィアンを担ぎこんでくれたらしい。ヴィヴィアンは重篤な魔力切れと深刻な魔法弁損傷。ギデオンもやはり、魔力切れに負傷多数。そんな状態のふたりを、聖バジリオの医師たちは迅速に手当てしてくれた。だが体力の消耗が激しく、ギデオンはあれから丸一日以上眠り続けていたという。「じゃあ、今日は……27日か」と、少しの罪悪感を含めて呟くギデオンに。それがな、とドニーは声色を変えた。「おまえが見舞いそびれたと思ってる子どもたちのことで、ちょっとしたニュースがあるんだ。──まず、あの森で……あいつを。おまえの相棒を見つけてな?」
思わず身を起こしたギデオンが、詳しく尋ねてみるに。カレトヴルッフから事後確認のため派遣された後続部隊が、森でアーロンと合流したらしい。ドニーが状況を知ったのもこの時で、死んだと思っていたアーロンが悪魔の姿で出てきたのだから、腰が抜けるほど驚いたそうだ。だが当のアーロンはといえば、祓魔師に取り囲まれながらも飄々と、「久しぶりだなドニー! ……少し禿げたか?」なんて抜かす始末。奴は一切抵抗せずに拘束を受け入れたものの、妙なことを口走ったという。──なあドニー、僕を協会に引っ立てる前に、大事な頼みがあるんだ。聖バジリオに連れて行ってくれないか? あそこで眠ってる子どもたちを、今の僕なら目覚めさせられるんだ。あんたは知ってるだろ。僕とギデオンが捜しに行って女悪魔に呪われた、あの子たちのことだよ。
祓魔師たちは揉めに揉めたそうだ。何せキングストンの方で、カルト集団による病院ジャック、なんて物騒な事件が起きたばかりなのである。病人や怪我人のいる神聖な病院に、悪魔を連れ込んで良いわけがない。聖バジリオだってみすみす受け入れたくはないだろう。──それでも最終的には、ドニーが強引に押し通した。もしアーロンが約束をたがえれば、自分とギデオンが責任をもって絞首台にのぼる、と言って。
「巻き込んで悪かったな。でもま、それで説得できて、結果的には大正解だったみたいだ」と。ドニーは穏やかな顔で微笑んだ。聖バジリオの医師たち、祓魔師たち、近隣の教会から駆り出した聖職者たち。その三者が厳重に監視し、いつでも処刑できるという状況下で、アーロンは。五つの黒い爪のような、禍々しい触媒を用いて、子どもたちに焼き付いている複雑怪奇な魔法陣を、ほんの数時間かけただけで完全に解き明かしたらしい。子どもたちはまだ眠ってはいるが、それは呪いが残っているからではなく、13年ぶりの起床に備えて身体が準備してのことだそうだ。
──あの子たちは、目覚めるんだよ、ギデオン。
──おまえのしてきたことは、今日に繋がってたんだ。
その言葉を聞いたときの情動は、とでもじゃないが声にならなかった。顔を背けて激しく肩を震わせるギデオンに、ドニーも窓の外を眺めながら、「良い日だよな」なんてほざいて、放っておいてくれる有り様で。暫くして落ち着き、顔を拭ったギデオンが、「……ヴィヴィアンは?」ともう一度尋ねれば。ドニーは顔をこちらに戻し、少し気づかわしげに告げてきた。「一応、ほんとに、ちゃんと安定してるそうだ。呪いが残ってるなんてこともないそらしい。ただ──ずっと、目覚めなくてなあ……」
──数時間後。医師の許可を得て病床を降りたギデオンは、廊下の手すりに凭れながら、ヴィヴィアンのいる高度治療室へ向かった。辺りを忙しなく行き交っていた看護婦からは、「ご親族の方ですか」と問われ、違うと答えれば立ち入りを拒まれてしまったが。遠目からなら、と中に入っていった彼女が、病床のぐるりを覆っていたカーテンをそっと開ければ。そこには、無数の管に繋がれ、酸素マスクを宛がわれた、痛々しい姿のヴィヴィアンが、ぐったりと横たわっていて。──ふらり、とよろめいたギデオンは、そこで再び、心の底から沸き起こる恐ろしさを思い出したのだ。
それからというものの。医師に見咎められて連れ戻される以外の時間、ギデオンはずっと、ヴィヴィアンの病室の外の椅子に座り通して過ごした。別に何をできるわけでないし、親族でもない自分では、面会謝絶の彼女のそばに近寄っていい許可も出ない。それでも、何だっていいから、ヴィヴィアンのそばに……何かあれば駆けつけられる距離にいたかったのだ。
一度、冒険者特有のシステムである保証人契約書……通称“相棒届”の契約内容について、医師に尋ねられたことがあった。ギデオンが彼女と相棒関係にある年って、本人の代理で特定の手術に同意する権限があるか、確かめたかったのだろう。が、去年契約したばかりで、代理の許可を出す条件はまだ満たせていない立場だというと、それ以上構われることはなかった。──医師は単純に、そこからまた別の手立てを考え始めるだけだったが。ギデオンにとっては、ますます歯痒く、気分が落ち込む出来事だった。自分にその権限があれば、ヴィヴィアンのためになることは、何だってしてやりたいのに。事実上の関係はともかくとして、今の自分は──仕事上の相棒でしかないのだ。
あれ以来、アーロンの拘束のため近所の教会に詰めているドニー曰く。ヴィヴィアンが運び込まれてすぐ、カレトヴルッフもそれを把握し、彼女の唯一の肉親であるギルバートに伝書鳩を飛ばしたらしい。だが、フィールドワークに勤しむ魔法学者の彼は、今は海外に滞在中で、すぐには連絡が取れそうにないという。第二の緊急連絡先であるヴィヴィアンの乳母アルヤも、ちょうど国内旅行をしていたところで、手紙のやりとりは問題ないが、やはり今すぐには駆けつけられない状況らしい。先日の病院ジャックの事件で、国内のあちこちの主要街道が封鎖されているせいだ。
──ヴィヴィアンのために、何かしらの重要な決断を下せる立場にある人が、すぐにはここに来られない。そして自分は、今ここに、ヴィヴィアンのすぐそばにいるのに、何ひとつできる立場にない。これほど苦しいことも、これほど無力感に苛まれることもなかった。椅子の上で項垂れるギデオンを見かねたドニーが、言葉もなく肩に手を置いてきたが、何の反応も返せないままだ。
やがてとうとう、ヴィヴィアンの主治医が、諦めたような顔でギデオンの前にやって来た。「お尋ねします。患者様とのご関係は?」……おそらく、医者としての体面上、尋ねねばならないのだろう。ギデオンは隈のついた顔を上げ、静かな掠れ声で答えた。──自分は、彼女の恋人だと。
それでようやく、面会の許可が出た。ギデオンがヴィヴィアンのそばに留まり続けて、三日目のことだった。)
*
(病室の窓の外が暗い。いつの間にか、夜もとうに更けていたようだ。
ギデオンが顔を上げると、ヴィヴィアンと管で繋がれた水晶が、一定の間隔で淡い光を明滅させていた。これはどうやら、患者の脈拍の状況を映し出す魔導具らしい。素人のギデオンが見る限り……未だに、ゆっくりと弱々しいままのように見えている。医師たちやドニーの様子からして、これでも危篤は免れているようなのだが──いったい全体、どうして安心できるだろうかz。
あちこちから魔素を流し込まれているヴィヴィアンを見ていられず、管を動かさないように気を付けながらそっと握った手のそばに、再び項垂れた頭を寄せる。もうずっと、こうして祈り続けていた。今までろくに唱えたこともない加護の願いの祈りを、今更聖ロウェバが聞き入れてくれるはずもないが……それでも、何かはしたかったのだ。数時間ほど前、入院以来初めてヴィヴィアンの手を取った時。ヴィヴィアンの目元から涙が一筋流れたのを、ギデオンはたしかに見た。こうして手を重ねていれば、自分が傍にいるのだと、彼女も感じられるのではないか。そう祈るような気持ちで、もうずっとこうしている。
そこからさらに、二、三時間か……四時間ほど、過ぎただろうか。窓際のカーテンが微かな夜明けの風に揺れ、ごく仄かな光が病室を浸し始めた頃。二十分ほど椅子の上で眠っていたギデオンは、微かな呼び声に目を開けて、顔をゆらりとそちらに向けた。そして、そこにいるヴィヴィアンが、目を開けているのを見た瞬間──それまでの疲れなど一気に吹き飛んで。ヴィヴィアンの顔のそばに身を屈め、自分はここにいると伝えながら、こちらも彼女の名を呼んで。)
──! ヴィヴィ、アン……ヴィヴィアン、ヴィヴィアン!
………はい、ギデオンさん、
( 愛しい声が己の名を呼ぶ。そのあまりに真剣な声に、自分から呼びかけたことも忘れて、小さく掠れた声で返事をすれば、手に感じる優しい温もりを柔らかく握り返して。透き通った青い瞳、微かに皺の寄る優しい目元、此方の名前を呼んでくれる薄い唇──……少し疲れて見えるが、見間違う筈もない。今目の前で、大好きな相棒が生きている。その紛れもない事実に鼻の奥がツンと痛んで、ギデオンが握っていない方の手で目元を拭おうとするも、その腕にさえ太い管が繋がって動かせず。血の気の感じられない顔を心底嬉しそうに歪め、安堵の雫が溢れるままに頬とシーツを濡らしていく。──この不器用な相棒が一人、悪魔の館に立ち向かった時、どれだけ肝が冷えたか。血塗れた胸を見て、どれだけの衝撃が襲ったか。再びその時の恐怖を思い出し、小さく震え、その手を握ったまま、相手の頬に伸ばそうとして。やはり上がらなかった腕に力なく微笑む。そうして、「ギデオンさん、お怪我は……?」と、普段元気よく揺れる頭を重そうにずらして、もう一度その優しい青と目を合わせた瞬間。やはり変わらずそこにいる相手に、とうとう耐えきれなくなって、気丈に浮かべていた笑みをクシャクシャに歪めると、おそらく病院であろう空間に気を使い、押し殺した嗚咽に肩を震わせて )
良かった……、本当に、ギデオンさんが死んじゃわなくて……本当に……
…………っ、
(目覚めたヴィヴィアンが、ぐったりとしてはいながらも変わりない様子であるのを目の当たりにして。ギデオンはその表情を安堵に歪め、息を激しく震わせながら、“こちらは大丈夫だ”と、ようやくの思いで首を振った。医者を呼ばなければ……理性ではそうわかっていても、今はまだ、無事に目覚めたままヴィヴィアンを前に、自分を無理やり落ち着かせるのが精いっぱいという有り様で。しかし、感情を堪えきれなかったのは彼女も同じらしく、懸命に声を抑えながらしゃくりあげる要素を見れば、困ったような笑みを浮かべ。)
こっちの台詞だ……無事に目が覚めて、本当に……本当に、良かった……
(そうして、視線を落としながらふと片手を伸ばせば。少しかさついた指先で、涙にぬれた相手の目元をそっと、労わるように拭う。その手を引っ込める際、裏返した甲の辺りで相手の頬を優しく撫でたのは、起きたばかりなのに呼吸の落ちつかない彼女に、自分が先に取り戻した落ち着きを、少しでも分け与えたかったからだろう。しかし、相手の息が和らぐと、今度は表情を曇らせて。目にかかった前髪を優しく避けながら、低い掠れ声で尋ね。)
……どうしてあの時、戻ってきた……ヘレナと、何があった?
( 優しい手に触れられると、余計気持ちが高ぶるようで。うぅー、と子供のような泣き声を漏らせば、ポロポロと温かな雫で相手を指を濡らして。離れていこうとする手にイヤイヤと首を振り、やっと触れられた大好きな手に、色の無い唇をそっと寄せる。そうして、その端正な顔立ちにべったりと疲れの色を張り付けた相棒に、それだけ心配をかけたことを──ごめんなさい、と。小さく唇の形だけで謝罪すれば、満足したように大きな手を離し、ゆっくりと首の角度を元に戻して。 )
……どうして、って。
そうだ……私 怒ってたんですよ──
( ──また一人で無茶をして、あんなところで一人逃がされたって嬉しくなんかない。そんなに自分は頼りにならないのか。ギデオンの質問に大きく目を見開いて、あの時、再開したら言ってやらねばと心に決めていた言葉達は、しかし、相手の辛そうな表情を見れば言葉にならなかった。相手がどれだけ頼りになって、心から信頼していたとしても、相手が喜ばないと分かっていて、その身を投げ打ってでも助けたいと願う心は、ビビもまた痛いほど良く分かっている。それ故、無機質な天井にぼんやりと視線を投げかけて、観念したように瞼を閉じれば。あの晩ヘレナと自ら対峙し、何を契約したのか──その全容を、何一つ包み隠さず語り切る。そうして、数日ぶりの覚醒に疲れきり、再び深い昏睡に引き戻されそうな顔を、もう一度愛しい相棒の方へさし向けて、その眠そうな表情の割にはっきりと漏らした一言は──次またギデオンが同じことをすれば、自分もまた同じことをする──という、自分を大切に思ってくれる相手への脅しに相違ないもので。 )
ねえ、ギデオンさん……私、反省も後悔もしないですよ
……、
(ようやく知った全ては、ギデオンの目を愕然と開かせるものだった。自分がヴィヴィアンの愛情深さを見誤ったために、彼女はあろうことか、自分自身の命さえ犠牲にしようとしていたというのだ。だが同時に、あの戦いの成り行きに得心がいくところもあった。あのとき、自分を殺しかけたヘレナが自爆したのは、ヴィヴィアンとの契約内容に違反した悪魔の宿命によるものだった……つまり。巡り巡って、やはりヴィヴィアンこそ、ヘレナとの因縁の戦いに勝利をもたらす鍵だった。ヴィヴィアンがいなければ、そして戻ってきていなければ、ギデオンは今ここにいない。一度きりでなく、幾度もの場面で、彼女に命を救われていたのだ。
そんな相手に、何を馬鹿なことをだの、無謀にも程があるだの、見当違いの説教なんぞをかませるはずがあるだろうか。故に、咄嗟に沸いていた言葉や感情を呑み込むように項垂れて──それでも、緩く重ねたままの手は、指の腹で彼女のそれを愛しむように撫で続け。そこに不意に向けられた言葉、“事の次第では二度目も有り得る”と開き直る声に、思わず青い視線を上げると。今にも眠り込みそうながらも、穏やかに譲らぬ表情を読み取り……この決意は絶対に覆せない、と悟ったその途端。負けた、とでもいうように、ギデオンの顔が鈍く歪んで。身体を屈め、相手に耳打ちするように自分の顔を近づけると。ふたりにしか聞き取れないほど小さな掠れ声で、辛さの滲む微かな吐息を交えながら囁き。)
…………。おまえは、俺が好きなんだろう。
俺に二度と会えなくなるような真似は、もう絶対にしないでくれ。俺もしないから……
……うん、大好き。約束ですよ。
( 静かな治療室に、ギデオンの衣擦れの音がやけに大きく響いた。苦しそうに顔を歪めた相棒の、最後の一言を聞いた時、思わぬ距離感にどぎまぎと固まっていたビビの表情が、それはそれは満足気に綻び、やがて穏やかな吐息となって沈黙に溶ける。グランポートの海上から約11ヶ月──身を削るような生き方をするギデオンと、それに難色を示すヴィヴィアンの攻防が、ヴィヴィアンの勝利で終わった、勝鬨の笑みだった。 )
( そうして、ギデオンに見守られ、再度深い眠りに落ちていったビビが、次に目覚めたのは翌日の夕方。元から人一倍魔力の生産が盛んな身体は、一度目覚めて以降、目覚しい程の回復を見せて。時折、回復量に耐えきれなかった魔力弁から、発作のような魔力漏れを起こすことも度々あれど。一足早く相棒が退院する頃には、その回数もめっきり減って、予定よりも早く、高度治療室から普通の病室へ移れることになったのだった。
更に、良い事というのは続くもので。その報せを持ってきた小児科の医師曰く、──ヘレナの呪いに侵されたビビの魔髄には、13年前、同じ悪魔に呪われた少年達に適応し、その回復を早める力が見込めるのだと。最終的には、事件前と遜色のない生活を望めると言う夢の様な話に──これが本当ならば、少年達やその家族はもとより、あの責任感が強い相棒がどれだけ喜ぶだろうかと。不純にも、世界で一番大切な相手の笑顔を想像した瞬間。具体的な流れや日程を聞くより前に、一も二もなく女医の手を取らずにはいられなかった。
それから初めての、ギデオンが見舞いに来る予定の日。何度も何度も鏡を確認しては、その幸運を早く相棒に伝えたくて、ベッドの上でソワソワと落ち着かずにいた。──ああ、早くギデオンさんにも伝えてあげたい。あ、でももしかしたら、病院に着いた時点で、先に彼らの病室に寄って、自分で情報を得てくるかもしれない。どちらにしたって、責任感の強い相棒にとって、これ以上なく幸福な報せとなるはずだ。初夏の陽気が差し込む病室ベッドの上、大好きなギデオンが喜ぶ表情を想像しては、緩む頬を抑えて。そうでなくとも、リズやバルガスが見舞いに来てくれた時の話だとか、何故か看護婦がギデオンのことを彼氏だと勘違いしている話だとか、話したいことはこれでもかとあるのだ。今すぐベッドを飛び降りて、ギデオンを迎えに行きたくなる程までに、今か今かと逸る気持ちを抑えるべく、読み始めた本に視線を埋めれば。肝心な相棒が来る頃には、つい集中し始めた真剣な横顔で出迎えることとなって。 )
──……、
(安堵の笑顔を綻ばせてからすやりと寝入った相棒に、ギデオンもふっと小さく笑みを零し。「おやすみ」と囁きながら、そっと額にキスを落とす。少しでも休まるように、回復するように……そんな祈りを抱いて自然にとった仕草だったが。もしかすればそれは、他でもない相手から移されたのかもしれなかった。
──さて、それから三、四日の後。魔力の自己生産量ではヴィヴィアンに大きく劣るものの、彼女ほど深刻な損傷にさらされていなかったギデオンは、彼女より先に無事退院し、今回の事件の処理に奔走することになった。この1週間ほども行っていたカレトヴルッフへの再三の報告に、祓魔師協会との面会、例の森での事後検証、掻き上げなければならない書類エトセトラエトセトラ。本来なら祓魔師たちに祓われるはずのアーロンが、この時まで拘束されていたのは、その過程で厳重な確認を行うためだ。ギデオンとヴィヴィアンにどこまでの被害があったか、そもそも何故襲われたのか。主犯たるヘレナが、再び今回のような事件を引き起こす恐れはないか。
昔可愛がっていた後輩が、夢魔を誑かした代償として、悪魔に成り果てていたと知り……ドニーは酷く複雑な顔をしていた。アーロンは元人間ということもあり、全面的に協力してくれるが、それでも祓魔師である彼は、やがてアーロンを処刑せねばならない。
──ギデオンとヴィヴィアンを脅かした悪魔ヘレナの、復活の可能性について。キングストンにある祓魔師協会の聖堂にて、魔法の鎖に巻かれても尚けろりとしているアーロン曰く。少なくとも、今すぐということは絶対にないらしい。ヴィヴィアンの聖の魔素に消し飛ばされたヘレナは、それでも魂の大部分が地獄に引き戻されただけで、力を取り戻せば復活し得るが。聖なる力に灼かれた傷を回復するのには、やはり長い時間を要するそうだ。だが、ひとたび地上に戻れるようになったなら──この触媒を座標にするだろう、とアーロンは“それ”を皆に見せた。ヘレナがアーロンに突き刺して遺した、五つの黒い、禍々しい爪だ。
この爪は不気味なことに、焼いても潰しても、埋めても砕いても、またいつのまにかひとりでに、無事な状態で復元される性質を持っていた。プロの祓魔師たちがよってたかって聖魔法をぶち込んでも蘇ってしまうのだから、間違いなく特級呪物だろう。いっそ本部の地下聖堂で厳重に封印すればいい、という意見に、しかしアーロンはかぶりを振った。あの女の執着はそう簡単に制御できない。ならば目には目を、歯には歯を。悪魔の自分に託して貰えれば、人間ではたどり着けない魔境にでも赴いて、こいつを完全消滅させる方法をきっと探しだしてみせるよ……と。
呪いの爪を持ち出して自由になるというのか──そうは問屋が卸さない、と、ドニーを除く祓魔師たちが剣呑な空気を発し。アーロンもまた、かかっていたはずの魔法の拘束をあっさりと破り捨てて、周囲の緊張感を一気に高める。そこで彼はふと、事態を静観するギデオンを振り返った。──なあ、ギデオン。おまえも知ってると思うけど、僕は結構人の心がないし、今は実際、ほんとに人間じゃなくなってるんだよな。だから、僕を消す気のこいつらを、ここで今、正当防衛の名のもとに呪い殺すこともできるんだけど。──それはやっぱり、駄目だもんな。
ああ、と落ち着き払って答えた。おまえは悪魔になったって、俺との約束で、二度と人の道を外れたりしないんだ。……こういう危ういやりとりは、実は若い頃にさえ、何度か交わしたことがある。そしてそのたびにアーロンは、何故かギデオンの言うことにだけは、真剣に耳を傾けるのだ。
そうだよな、じゃあまたいつか会いに来るよ。あの子のこと、そのときにゆっくり紹介してくれよな! そう言い残すなり、派手な目晦ましの魔法を一発ぶちかまして……アーロンは、忽然と消えた。ヘレナの依り代たる、あの呪いの爪とともに。
……あと、どうやってか知らないが、余計な声だけは随分と残していった。アーロンはこの数日のうちに、実は何度も祓魔師どもの目を盗んで外に繰り出し、彼らの妻たちと“夜遊び”に興じたらしい。奥さんたち、あんたらが仕事ばっかで構ってくれないって、熟れた身体を疼かせてたぜ。可哀想な話だよな! あ、あと、そこのあんたの奥さんはそっちの祓魔師と懇ろだし、そこのあんたの相棒も、あんたの妹とダブル不倫中だ。僕を追いかけてる場合じゃないんじゃないか? ま、とりあえずご馳走様!
あらゆる意味で虚仮にされた祓魔師たちは、それはもうカンカンであった。「何しやがったんだテメェ!?」と互いに胸ぐらを掴む者、一方的に蹴られながらも縮こまってやり返さぬ者、真っ赤な顔でアーロンを探し回り、本当にどこかへ逃げ去ったらしいと見れば、今度は大騒ぎしながらギデオンに詰め寄ってくる者。しかしギデオンとて、親友がいきなり飛んだ先を知っているわけもない。「手助けなんかしちゃいないし、これからもするつもりはない。追いかけて好きにぶん殴れ」と、首を横に振るだけだ。──あいつは昔からそうだ、人を引っ掻き回して、ぐちゃぐちゃにして残していく。だが今回は、ヘレナを完全に滅ぼすという正しい目的のために動いてくれるのだろう。祓魔師たちへの悪行は完全に嫌がらせだが……まあ、そうそう人の道に外れたこともするまい。自分とそう約束したのだ。
ふとドニーと目が合う。禿げた小男は、激高する祓魔師仲間たちを横目に、(あいつ、人間やめたってのにクソガキのままでいやがって……)と、困ったように天を仰いでいた。だがその、悪魔を取り逃がした祓魔師にあるまじき、心底ほっとしたような表情が──ギデオンも、嬉しかった。)
(そうして、事件の後始末をあらかた見届けたアーロンが、さらっと高飛びした翌日のこと。ギデオンは数日ぶりに、馬車で6時間の道を乗り継いで、聖バジリオを訪れた。左手には、『オ・フィール・デ・セゾン』の焼き菓子が入った幾つかの紙袋。そして右手には、薄桃色の八重咲のペチュニアでつくられたプリザーブドフラワーがふんわり詰め込まれたバスケット。病院のすぐ外の花屋で見かけ、まだ暫くは検査入院が必要なヴィヴィアンに……と買ってきたものだ。
面会カードを取るとき、受付にいたのはふたりの女性だった。やけに不機嫌そうな様子で伝票処理をしている他方とは反対に、ギデオンを出迎えた受付担当者は、これまたやけににこやかで。「きっと素敵なニュースがありますよ。あの子たちは今ご家族が面会中ですし、先に彼女さんの方に会いに行かれては?」と、堪えきれない様子で匂わせられれば、「??」と首を傾げつつ、入院棟の階段を上がったのだが。
ヴィヴィアンの病室に着くころには、そんな些細な疑問などすっかり忘れていて。顔を見られることに既に表情を緩めながら、扉を小さくノックする。が、返事がない。おかしい、今日この時間帯に来ることは伝えてあるはずだが……と首を傾げながら、「入るぞ」と開けてみれば。明るい陽射しが差し込む真っ白な病室の中──ベッドの上の相棒は、すっかり良くなったと見える体を起こし、妙に真剣な表情で……一心に読書に没頭している様子だ。一瞬ぽかんとした後、耐えかねたように小さく吹き出しながら歩み寄り。声をかけつつ、土産の花籠や甘く香る紙袋を小棚に置くと。見舞客用の丸椅子をベッド脇に引き寄せてから、相手の隣に腰を落ち着け。)
相変わらず熱心だな。何を読んでるんだ?
──ギデオンさん、こんにちは!
この本は……ふふふ、
( 白い肌に薄く散りばめられた星屑と、つんと尖った桃色の唇。普段は燦然と煌めく大きな瞳が、手元の本に向けられた静謐な表情は、しかしギデオンの声に気づいた途端吹き飛んで。少し気恥しそうな、しかし、相手に会えたことが嬉しくて堪らないといった眩しい笑顔が満面に綻ぶ。「わあ、可愛いお花。ありがとうございます!」なんて軽く手を叩きながら、これからする真剣な話題に、居住まいを正し表情筋を引き締めようとするも。これ以上なく幸福な報告に、自然と頬が緩んで、ギデオンの顔を見るだけで、堪えきれない笑みが口の端から漏れ出す始末で。そうして、当初想定していた真面目な雰囲気での報告を早々に諦め。ギデオンの肩そっとへ、その形の良い頭を自然に預ければ、ギデオンも言及した手元の鈍器……及び、『人体における魔素の機能と魔学註解』から取り出したのは、ビビの署名が成された魔髄提供の同意書で。)
この前、ギデオンさんが言ってた子達がいるでしょう?
その子たちの回復に、私の魔髄が役に立つって教えて貰ったんです。
( 同意書に記された手術の日程は、今日の二日前。そのやたら仰々しい文体のそれをぺらりとギデオンに握らせ。相棒がそれに目を通している間に、二人分のお茶を入れようと、ベッドの脇の戸棚にぷるぷると手を伸ばしたその瞬間だった。窓の外から聞こえてきたのは、それはそれは楽しそうな甲高い少年の笑い声。タイミングの良いそれに、にんまりと笑って、相棒を振り返ると。そのほっそりとした白い足を、徐ろにベッドからサンダルにつっかけ、愛しい相棒にその奇跡的な光景を見せてやるべく、窓に向かってふらふらと立ち上がろうとして。 )
……ね、今の声、聞こえました?
(優しくもたれかかってきたぬくい頭の感触に、一瞬視線が中空でたじろぐ。……自分のほうは意識のない彼女にこれまで散々してきたくせに、相手からの似たような触れ合いは、全く予想だにしていなかったらしい。否、これまでもボディタッチなら幾らでもされてきたはずだが──あれらとは、どこか違うような。と、その端整な見てくれに似合わず、丸椅子の上で若干挙動不審になっていたギデオンだが。目の前に取り出された文書に、ふと顔色が、真面目なそれに切り替わり。「──…………、」と無言のまま受け取ったそれを、ただ黙って読むうちに……その薄青い瞳が、少しずつ大きく見開かれていく。
針金で綴じられたそれは、複数枚から成る書類だった。いちばん上は同意書そのもので、ヴィヴィアンの氏名・署名、住所といったもののほかに、手術名や目的、麻酔の方法が記されている。しかし詳細を求めて頁を捲ると、そこから先は、今回の手術がどのように役立つかの具体的な説明書きが為されていた。──悪魔の呪いにかかって尚回復力の高い人間が、特別な魔素を自身で生成できるうちに、その貴重な魔髄の一部を提供する。魔法医はその魔髄を培養し、的確な技術と魔法術式をもって、他の被害者に植え付ける。そうすると、本来完全寛解に届かないはずの人々さえも、呪いの後遺症から完全に解き放たれる、という話のようだ。技術が発展途上であることから、今はまだ、同一の悪魔に汚染された者同士でしか移植ができないようだが……ヴィヴィアンと同じ悪魔に呪われた被害者といえば、13年前のあの子どもたちしかない。それはつまり……つまり。
思わず顔を上げたのと、窓の外から明るい笑い声が聞こえてきたのは。ほとんど同時だった。満面の笑みを浮かべて振り返る相棒に、まだ何も返せぬまま、ギデオンも静かに立ち上がると。まだ足元の覚束ない相手の隣まで歩み寄り、その肩を緩く抱いて支え、彼女と一緒に白い紗のカーテンを捲って、窓枠の向こうを眺める。──そこは、中央の東屋によって一帯に聖属性の守りを張った、入院患者のためののどかな中庭らしかった。一面にそよぐその青い芝生の上を、3人の少年たちが……かつてギデオンが何度も何度も見舞った子たちが、面白そうに笑い転げながら、元気いっぱいに駆け回っている。まだ足取りは多少たどたどしいものの、走るのがとにかく気持ちよくてたまらないといった様子で……生命の歓びを、全身に躍り上がらせている。傍に控えている看護婦や家族たちも、いざというとき駆けつけられるように構えてこそいれど、心配して止めるような様子は見られない。ただにっこりと、子どもたちの元気なさまを思い思いに見守るのみだ。──だが、だがあの子たちは。ついに目覚め、駆けつけた家族だけでなく病院皆に祝われてからの数日でさえ、まだ病室の外へも出て行けなかった筈。あんなふうに、この13年の昏睡がなかったかのように駆け回るなど……まだ遠い夢の話だったはずなのだ。
息を震わせたギデオンが、眩しい戸外からすぐ隣を振り返り。その青い目を細めて、「ヴィヴィアン……」と名を呼んだのは何も、見かけの表情通り、苦しいからというのではなかった。──こんな、こんな。こんな本物の奇跡のような話が、本当にあって良いのだろうか。ヴィヴィアンがそこにいた、たったそれだけで……彼女のあらゆる献身のおかげで。自分やアーロン、あの子たちやその家族でさえ。皆が……皆が、本当に救われた。こんな、こんな幸せな結末が、本当に与えられて良いのか。本当に、何もかも──ヴィヴィアンに与えられて。俯いた顔を思わず、額を合わせるようにして擦り寄せると。視線を真下に落としたまま、小さな小さな声を絞り出して。)
俺は……俺は、お前に……感謝しても、しきれない……
…………、
( 肩を寄せあって歩く、冒険者らしい佇まいの男と、薄花色の入院着を纏った女。果たして、ベッドから窓までのその短い距離の間、相手を支えて歩いていたのはどちらの方だったのか。振り返った相棒のその表情の意味を分かってはいても、その色鮮やかな幸福の光が、これまでのギデオンの苦難の影をより濃く映し出すようでもあって。その俯いた頬にそっと手を伸ばし、窓の外と同じ色をした新緑の瞳を穏やかに細めると、その強ばった表情を溶かすかのように包み込む。──これで、この人の荷を少しでも下ろすことが出来ただろうか。陽の光が差し込む暖かな病室に二人、ゆるゆると降りてきて、首筋に埋まるかと思った顔が、鼻先が触れ合いそうな距離でぴたりと止まり、至近距離から向けられる真っ直ぐな瞳に、ぶわりと体温が上がる。しかし、そんな僅かな緊張も、相手の零した小さな声を聞いた途端、呆れたような笑みとなって溶け出して。──本当に、仕方ないなぁ、と。この期に及んで、まだそんなことを言う相棒の頬を優しく擦れば。一瞬前の恥じらいは何処へやら、大好きな青を真っ直ぐに見つめ返しながら、はっきりと口にしたのは、13年越しに依頼を達成した相手への労いで。 )
……あの子達が今生きてるのはギデオンさんのおかげで、呪いを解いたのはアーロンさんでしょう?
私は後から、ほんの少しだけお手伝いしただけで──あの子たちを救ったのは、ギデオンさんとアーロンさんのおふたりです。
本当に、お疲れ様でした。
…………
(“ほんの少しのお手伝い”ではきかないほど沢山助けられただとか、自分とアーロンだけでは絶対に生還できなかったろうだとか。言いたい返事は山ほどあるはずなのだが。ヴィヴィアンの手つきと言葉に、己の全てが優しく蕩かされていくようで。宥められたそのままに、何も言わず目を閉ざし、ヴィヴィアンの前で息を深く吸って吐き。己の頬に寄り添う彼女の手に、己の武骨な手を外側から緩く重ね。そうして、顔を僅かに横に向け、相手の掌の内側に、己の唇をそっと押し当てながら……与えられる優しい労わりを、ただ静かに享受する。
──そうだ、終わった。終わったのだ。子どもたちの予後は、これからも長く見守るにせよ……13年間の贖罪の夜は、ようやく明けた。ここに居るヴィヴィアンが、たった今、そう教えてくれた。……自分は役目を果たせた。きちんと、やり遂げられたのだ。
次にギデオンが目を開けて、彼女に顔を戻したとき。その薄青い瞳の奥には、何か新しい、明るい光が、静かに、しかしきらきらと、ちらつきはじめているだろう。彼女の片手に添えていた手をふと伸ばし、その形の良い頭に置くと。“あの時のように”二、三撫ながら、穏やかに微笑みかけて。)
……なあ、ヴィヴィアン。覚えてるか。
初めてふたりでクエストに出て、ワーウルフ狩りをしたあの夜……あれから、ちょうど1年だな。
……ッ、
( 覚えていない訳がない、忘れられる筈がない。それは他でもない、ヴィヴィアンがギデオンを好きで、大好きでたまらなくなった最初の夜だ。今でもその気持ちは薄れるどころか、日増しに強くなるばかりで、しろと言われれば今すぐにでも、この場で誰にも負けない熱烈な愛を語れる程だというのに。目の前で開かれたギデオンの目が、始めて見るほど美しくて、穏やかな微笑みが酷く心臓に悪かったものだから、どうしようもなく一瞬押し黙ってしまう。
それに──嗚呼違う、落ち着かなければ。この人が言っているのは、共にワーウルフを倒したかの夜のことで……この優しい大好きな手が、ビビの頭を"二、三撫で"てくれた、初めてギデオンに迫ったあの夜の事じゃない。今回の件もシルクタウンの件も、どちらも気の毒な被害者がいる深刻な被害で、そうでなくとも13年の呪縛から解かれたばかりの相手に、身勝手に湧き上がるこの期待をぶつけてはいけない。……その覚悟を目の前で決めているのだ、それこそ一年間隣にいてくれた相棒にはバレバレかもしれないが、それでも高鳴る心臓を押さえつけ、一度ぎゅっと目を閉じたかと思うと、緩みそうになる表情をなんとか引き締めて、"良い相棒"の顔を用意すれば。いつもの純粋な好意だけが、爽やかに滲む声でなんとか返事を絞り出して。 )
え……ええ、あの夜のギデオンさん、すっごく格好良かったですから!
(目の前でパニックを起こす娘の、なんとわかりやすいこと。一瞬どうしようもなく情熱が込み上げて、かと思えばこちらにぽうっと見惚れて。そこから理性を取り戻そうと、必死に思考を巡らせながら、自制心を取り繕って。──ああ、これはたぶん、まだわかってないな、と淡く微笑む。或いは、こちらの急な変化が理解できずに、必死に辻褄合わせをしようとしてくれているのかもしれない。けれど、相手のそんな殊勝な心掛けは、これからは必要ない。相手の熱は……こちらも望んでいるものだ。
故に。「そうか」と言って、思わずくつくつと喉を鳴らしながら。手を僅かに下ろしたそのままに、彼女の柔らかな桃色の耳朶を、愛情を込めて軽くくすぐった。相手がどう反応するにせよ、これで目と目が合ったなら、そこに浮かぶ“相棒”らしからぬ色合いで、少しは伝わるだろうか。今度はその手を、すべらかな頬に……小さな顔を包むように添え。親指の腹で目元を撫でつつ、少し面を上げさせると、大きな瞳を覗き込んで。)
あの日の俺がそうだったなら、お前は、そうだな……一生懸命だったな。
町の人たちをあれもこれも治しまくって、あちこちにたくさん花を咲かせて。
夜更けの宴じゃ、ワイン一杯で真っ赤になって。それで、それから──……
(そうしてあの日の思い出を、ひとつひとつ。低い掠れ声で、けれども少々の笑みを滲ませて、意地悪く辿っっていった末に。ヴィヴィアンが初めて、唐突に迫ってきたあの瞬間を仄めかすころには、愉快気な気配などとうに消え失せていた。
そうだ、あの日の翌日──キングストンへ、同じ馬車に乗り込んで帰る頃。相手は前の晩の記憶を、アルコールで消し飛ばしたりはしていなかった。それどころか、諦め悪くギデオンに言い募って……そこからすべてが始まったのだ。
そう思い出した途端、ギデオンの薄青い瞳は、ただ静かな熱を帯び、相手の視線を縫い留めて。そっと顔を寄せたかと思えば、吐息交じりに一度……別の台詞を重ねながら尋ね。)
──……
責任を、取っていいか。
っひぅ、……!
( もしこのまま、甘やかな触れ合いを続けられていたならば、胸の奥で膨れ上がった期待を宥めるのはさぞ難しかったことだろう。そう離れていく手を名残惜しく、少し残念に思いながらも、密かにほっと安心していたのも束の間。戯れに耳を擽った指に、思わず小さく声が漏れ、顔を真っ赤にして両手で口元を抑え込めば。相棒の瞳に滲む色に、ますます体温は上がるばかりで。そうして、どうしようもない期待にドキドキと高鳴る心臓を押さえつけ、「……ギデオンさ、」と小さく言い募ろうとしたその瞬間。顔を包んだ手が大きく温かい一方で、継がれた物言いの意地悪さといったら。 )
──ちょっと、!
( ──狡い。真っ赤なビビを見下ろし、愉快そうに目を細める相棒に怒りの鉄槌を下そうと。力強く見上げた相棒の瞳は既に、これ以上なく真剣な色に染まっているのだから。言いたかった言葉は全て、行き場の失った拳と共に、ゆるゆると虚空を彷徨うしかなく。ギデオンの熱い視線に絡め取られて、潤んだ瞳をそらすこともままならない。この時には、ギデオンが紡ごうとしている言葉の意味にも、ようやっと気がついて、自分の心臓の音で鼓膜が破れそうだった。それでも、病院着の背中をしゃんと伸ばして、ギデオンの言葉を受け取れば──「イヤ、です」と、真っ直ぐな瞳をした娘は、赤い頬を小さく膨らませて見せる。勿論、"責任とってください!"そう自分から迫ったことを忘れたわけじゃない。しかし、ヴィヴィアンはこの気持ちの責任を、既に自分で取れるようになってしまった。建国祭で宣言して、聖夜の小屋で約束したように、この先一生ギデオンが応えてくれなくても、この先自分はずっと待ち続けられるだろう。何より、ギデオンへのこの大切な想いは、ギデオン本人にだって譲れない、ビビの宝物だ。それに、この一年間。此方は何度も何度もその想いを伝えてきたと言うのに、その言葉だけで察しろなんて、それは少し卑怯じゃなかろうか。するりと相手の首に手を回したビビの表情に、先程までの困惑は既になく。寄せられたギデオンの影の下、強欲な光を称えた瞳がらんらんと綺麗な弧を描いていた。 )
──……責任は、取らせてあげない。
だからちゃんと……ちゃんと、貴方の気持ちを聞かせてください。ギデオンさん。
……我儘、聞いてくれるんでしょう?
(吐息のかかる距離で真剣に乞えば、きっと“それ”を許される。ギデオンのそんな甘い考えは、しかしヴィヴィアンのこれ以上なく簡素な一言で、いとも呆気なく爆散した。コンマ数秒遅れて理解すれば、年嵩の美丈夫の、常に冷静を気取りがちな顔には、(……!?)と、あからさまに虚を突かれた間抜け面がありありと。──いや、今の流れじゃ、しかし何故、何が……と、軽く目を瞬きながら。近かった距離を少し戻して、相手をよくよく見下ろせば。こちらをまっすぐ見上げる小顔は、相変わらず愛らしいままだが……見違えようもなくご立腹である。
相手のその反応それ自体はすんなり受け止めたものの、その背景が読み解けずに、「???」と、ますます首を傾げるギデオンだったが。するりと伸びた細腕に絡みつかれ、より間近に迫られることで、その答えをいよいよはっきりと突き付けられた。──どこまでも獰猛な新緑の瞳、輝くばかりに勝気な笑み。そして何より……甘くしたたかな声音での、その台詞。ギデオンの抜かりの一切を薙ぎ払うそれらを、しっとりと差し向けられれば。さしもの朴念仁も、ようやっと合点がいって。脱力したように吹き出し、「……そうだったな、」と、今度こそこつんと額を合わせて、白旗を上げるように項垂れながら微笑んだ。
──そうだ、この1年ずっと見てきたなら、とうにわかっているはずではないか。目の前の娘は、ヴィヴィアンは。こちらをまっすぐ、どこまでも情熱的に慕いながらも……まるで予想がつかないほどに、烈しくしたたかで、貪欲な女性なのだ。シルクタウンでも、グランポートでも、聖ルクレツィアのあの小屋でだってそうだった。ギデオンが抱え持つ、狡さや臆病さといったものを。ヴィヴィアンはその、太陽のような底抜けの明るさと温もりで、たちどころに吹き飛ばしてしまう。決して一筋縄でいってはくれない──けれども最後にあるのは必ず、ギデオンに対するひた向きな愛情だ。そうだ、それを何度も味わうことで、半年前のあの舞踏会の晩にも、既に痛感したのではなかったか。自分は一生、ヴィヴィアンには敵わない。けれど、彼女に敗れ続けることは、今や自分自身にとっても……どうしようもなく、心地良くて仕方がない。)
……。
……ヴィヴィアン、好きだ。
(短い沈黙を挟んでから、再び顔を上げ、ふっと目を細めて呟いたのは。こちらもごくごくシンプルな、慕情を告げる言葉だった。──これまで共有してきた日々のなかで、相手もとっくにわかってはいるだろう。だが、ギデオンが自分からはっきりと口にするのは、何だかんだでこれが初めてには違いなかった。だから彼女も真っ先に欲したのだ。そう理解しているからこそ、もう一度、「好きだ」と。ごく軽やかに口にした一度目よりも、熱を込めて。そして、今度は。)
……………──愛している。
(……やや、躊躇いの間を挟んだのちに。それまでの口ぶりでは到底足りていなかった、もっとどろどろに甘く重たい本心を、低く震える声で、目の前の娘に落とす。実のところ、こんな大層な台詞は、自分にはまるで不似合いではなかろうかと……気恥ずかしく思う気持ちも、やはりあるにはあるのだが。ふたりで初めて真剣に話した、あの花火の夜以来。ヴィヴィアンの方は、何度も何度も、繰り返し伝えてくれていたはずだ。ならば自分が今ここで、彼女に望まれて尚言わずにいるのは、あまりに愚か者が過ぎよう。故に──熱に耐えかねたように、一度相手の肩口に顔を埋めてから。もう一度顔を上げ、今更な照れくささを飲み干す様子を見せながら、それでも真剣に。「……ずっとそばにいてくれ、」と、相手の瞳を見つめながら打ち明けて。)
( まだ好きって言われてないからキス出来ない──なんて、流石に子供が過ぎただろうか。目の前で可笑しそうに破顔したギデオンにほっと胸を撫で下ろすと、額を寄せる温かな仕草が純粋に嬉しくて、えへへ、と子供のような声が漏れる。今更ギデオンが如何にビビを大切にしてくれているかなんて、よくよく分かっている。それでも、その想いを形ある言葉として受け取れたなら。私も大好きだと返して、先程の続きを強請ろうと、その顔に強かな笑みを湛えていたと云うのに、 )
…………、
( ──大好きな声が名前を呼んだ。その甘さに息を飲む暇すら与えられずに、さらりと与えられたその三音を耳にした途端。今まで聞いたこともないくらい大きな音でドッと心臓が高鳴って、呼吸の仕方さえ忘れてしまう程の衝撃だった。そのうち繰り返されたより糖度の高いそれに、はふはふと浅い呼吸を繰り返して、チカチカと輝く視界が眩しくて。口角がじわじわと上がるのは耐えられないのに、ずっと欲しかった言葉に視界は歪む。そうして、とうとう与えられた熱烈な愛の囁きが、自分が仕込んだものとも知らずに──大輪の笑みを浮かべると、大粒の雫が目の縁を乗り越える感触がした。 )
はいっ……!
ずっと……ずっと、いっしょに居ます……!
( ああ私、今絶対変な顔してる。これ以上なく幸福に満ち溢れた笑顔を浮かべているのに、次々と溢れ出す涙が真っ赤な頬をぐちゃぐちゃに濡らして止まらない。喉が詰まって伝えられない想いの代わりに、回した腕にこれでもかと力を込めるも。折角ギデオンから合わせてくれた視線を逸らしたくなくて、無理に首を曲げるものだから、自分が今どんな体制になっているかもよく分からない。ギデオンに似合う大人で素敵な女性には程遠い──それでも、相手が自分を選んでくれたことが心底嬉しくて。いつの間にか、病み上がりの体を全部相棒に預けて、掠れ声で「私も好き」「大好き」「愛してます」と繰り返しながら、触れている額や肩をぐりぐりと擦り寄せれば、視界にたったそれだけうつった深い蒼に、今度こそその瞼をそっと伏せるのだった。 )
(己の言葉は酷く愚直で、なんとも不器用だったに違いない。だがそれでも、目の前にいる娘は、嬉しくて嬉しくてたまらないというように、真っ赤な頬にえくぼを浮かべて、ほとんど泣きじゃくっている。その様子を見れば、無事に相手に応えられたのだと、こちらも安堵するには充分で。低く喉を鳴らしながら、エメラルドの双眸がぽろぽろ零す温かな雫を、そっと優しく拭ってやる。
するともたれかかってきた娘の、熱烈な愛情表現と、「すっと一緒にいる」という答えに。こちらも思いがけず──ああ、きちんと言葉にしたことには、やはり意味があったのだ──これまでにないほど深く満たされて。薄い青色の瞳が、水面のように柔らかく揺れる。──応えあう幸せというのは、こんなにも温かいものだったのか。もう到底、これのない人生に戻れる気がしない……戻るつもりもない。ようやく互いを手に入れた喜びと安らぎが、全身に温かく沁み渡っていくのを感じながら。腕の中にある栗毛の頭を、大きな掌でゆっくり撫でてやること二、三度。ふと合わさった明るい緑に、こちらも視線を吸い寄せられれば。その頬にもう一度手を添え、顔を寄せながら、こちらも自然と目を閉ざして。)
──…………
(──そうして、白く明るい、暖かな窓辺で。最初はそっと、触れ合わせるだけだったそれは、相手を確かめ合うように何度か優しく重なった。やがて、親愛を込めてやんわり食めば、相手が少し恥じらいながらも、それでも嬉しそうに返してくるのが感じられて。──胸の内にある箍が、一段階、二段階と、大きな音を立てて外れる。どうやら自分は、自覚している分よりもずっと深く、相手を愛していたようだ。温かく溢れだして止まらない感情は、そのまま唇の動きに乗って、より深く相手を貪った。
そうしてしばらくしてから、ふと同時に、何とはなしに目を開けて。互いの瞳を見つめ合えば、はにかむように小さく笑み交わし。額を寄せて、鼻先を擦り合わせてから、再び相手の顔に自分のそれを落としていく。──ヴィヴィアンといると、心が安らぐ。そんなことは、もはや言葉にせずとも、自分の全身から相手に伝わっているだろう。)
( 静かな病室に二人分の衣擦れと、微かなリップ音だけが密かに響く。ずっと慕ってたまらなかった相棒が、ヴィヴィアンの腕の中、此方だけを見つめて、自分だけを求めてくれている。そんな夢の様な幸せに思わず薄く目を開き、そっと相手の様子を窺えば。此方の視線に気が付いた水面がふっと柔らかく細められ、熱に浮かされた脳みそは益々益々のぼせ上がるばかり。ギデオンから与えられる溢れんばかりの愛情に、太い首に回していた腕に力を込めて、精一杯の拙い動きで必死に追い縋る。長い長い口づけに、唇の端から洩れる到底己のものとは思えない、しっとりと濡れた吐息が堪らなく恥ずかしくて、力の抜けた脚では立っているのも辛いというのに──愛しい人に触れて、触れられている、たったそれだけの事がこんなにも幸せで。決して小さくはないビビの体躯さえ覆い隠す、広い背中から少しだけ覗いたほっそりと白い指先が、赤いシャツに皺を作るその背後で。窓辺から流れる爽やかな風に、可愛らしい桃色の花弁が何処か満足げに揺れていた。 )
( 主治医から退院の許可が下りたのは、それから数日たった後のことだった。慣れ親しんだ下宿の扉をくぐって、南の大通りに面した広い窓を開け放つ。整頓された机の上で、吹き込んできた風に揺れる薄紫の花弁は、一カ月以上も家主が留守にしていたというのに、その帰還祝いとばかりに美しく咲き誇り。お日様の香りがする白いシーツに、暖かな窓辺。部屋のサイズに見合わない巨大な本棚は、天井近くまでびっしりと埋まっているのに塵一つ見受けられない。──あとで大家さんにお礼を言っておかなきゃ……、と振り返った視界に映ったのは、この空間で唯一見慣れない……否、この一年間、誰より何より網膜に焼き付いて離れない程には見慣れてはいるのだが、如何せんこの空間との場違い感が否めない恋人、ギデオン・ノースだ。いつかの秋の夜に──野火より早く広められるぞ、なんて。人の誘いをにべもなく固辞した男は何処へやら、当たり前といった顔で荷を下ろす相棒がここに居る事情は、まあ……色々あったのだが、それはまた今度の機会にしよう。
さて、元々面倒見の良い人だとは思っていたが、ビビの下宿で過ごした一週間の間。「退院後の一週間は絶対安静、その後も暫くは激しい運動は控えるように」という主治医の言いつけを受けたギデオンは、とうとうヴィヴィアンにその物理的な引っ越し作業の一片も手伝わせてはくれずに。その過保護さは新居に移った後も、多少和らぎはすれど、とても成人女性である恋人に向けられるものとは思えない有様で。勿論、愛しい人と二人きり、これ以上なく幸せには違いないのだが、ビビとて自由を愛する一介の冒険者ということを忘れられてはたまらない。色とりどりの花が咲き乱れる居心地の良い新居に届けられたその一報は、この一カ月、まるで深窓の令嬢かの如き生活を余儀なくされたヴィヴィアンを喜ばせるには十分だった。 )
────、──……、
( 二人の新居の一階、よく磨かれたキッチンとつながる明るいリビングに、調子っぱずれの鼻歌が楽し気に響いている。二人で探しに行ったソファの上で旅行……ではなく、訓練合宿の準備に浮かれているのは、一人満面の笑みを浮かべているヴィヴィアンだ。毎年6月の半ば、カレトヴルッフでは来る夏に向け、水難救助訓練が行われる。キングストン郊外に流れる川で行われるそれは、寒い、汚い、きつい、と毎年大顰蹙を買う不人気な訓練で、今年も例年に違わず参加予定者はごく少数だった。しかし、状況が一転したのはビビが静養中の6月頭のこと。命を救う重要な訓練にも関わらず、一向に受講者が増えないことに頭を悩ませていたギルドの上層部が、今年の救助訓練を南国グランポートのプライベートビーチを貸し切って行うと発表したのだ。この一報は、日に日に上がる気温に参っていた冒険者たちに衝撃を走らせ、次々に応募者が溢れた講座は無事定員上限を僅か半日でクリア。御触れ以前に申し込んでいた希望者以外は、倍率数倍の抽選にまでなったという効果絶大ぶりで、来年以降も“不定期”に場所を変更する、という御触れに、いつか南国のビーチを夢見る冒険者たちが、毎年キングストンの汚い川に浮かぶこととなるのだろう。そんな冒険者たちの純真を弄ぶ幹部たちの思いきりは、そもそもグランポートの方から申し入れがあったということで。昨年、未曽有の政治的危機に陥っていた市を救ってくれたカレトヴルッフに、未だ立て直し途中のため少数で申し訳ないが、と40名程度の団体旅行が送られてきたということらしい。その建前上、訓練に参加するならば、という条件はあったものの、功労者であるギデオンたちにも声がかかったという次第である。その頃になるとヴィヴィアンの体調も、少しまだ足元が覚束ない瞬間はありつつも、随分と回復し、主治医から段階的な運動の許可も下りたばかりだった。そうして、約1年ぶりのグランポート遠征が目前に迫り、ぱたぱたと目まぐるしく駆けずりまわっていたところに恋人が姿を現すと、真夏の太陽より余程明るい表情を浮かべてとびついて。 )
あ、そうだ、ギデオンさん!
私の荷物に浮き輪ってなかったでしたっけ──?
(──あの麗らかな昼下がりから、一週間ほど経ったその日。ギデオンは再び馬車を乗り継ぎ、緑豊かな聖バジリオを訪れた。経過観察中である例の子どもたちを見舞う、というのはもちろんのこと……ついに無事退院の叶ったヴィヴィアンを、キングストンに連れ帰るためだ。
この頃にはヴィヴィアンも、わんぱくざかりの少年たちと──そう、彼らは眠っている間成長が止まっていたが、目覚めてからはまた健やかに進みはじめている最中だった──すっかり顔馴染みになっていたらしく。「姉ちゃん、もう行っちゃうの?」「もっとずっとここにいていいんだよ!」「またオレたちと遊んでよう!」と、大変な懐かれようである。ちゃんとまた来るからね、と彼女に優しく撫でられれば、少年たちはそれはそれは嬉しそうにはにかみまくっていたのだが。病院のエントランスの柱にもたれ、後方何とか面で待っているギデオンに気がつけば、めいめい不満げなジト目を寄越してきて。「姉ちゃん、ほんとにあのおっさんが彼氏なの?」「オレたちに乗り換えたっていいんだよ!」「すぐ迎えに行くから待っててくれよう!」と、まあ生意気な抜かしよう。ギデオンも面白がる目を向けながら、ヴィヴィアンの腰をさらりと抱き寄せ。「できるものならな」なんて、戯れに煽り返しては、誰かさんの恥じらいとわんぱくトリオのブーイングを、一斉に買うのだった。
だが、こんなやりとりでさえ、ギデオンに取っては噛み締めたくなるようなものだ。……13年前、血だらけでぐったりと動かない少年たちを、この腕に抱いたあの夜。そしてそれ以来、暗い灰色に淀んだ病室で、一向に目覚めぬ彼らを、重い面持ちで見舞い続けた日々。あのときは、まさかこんな風に、無事に目覚めた子どもたちと明るくやり合えるようになるなど、夢にも思っていなかった。
さらに、彼らの家族でさえも、ギデオンに対する態度は、この数週間ですっかり打ち解けてくれている。子どもたちが眠っていた間は、我が子をみすみす魔法障害を負わせた冒険者であるギデオンを、決して許しはしなかったのだが。子どもたちが無事に目覚め、ヴィヴィアンの魔髄提供のおかげでみるみるうちに回復した今……院内を大騒ぎで駆け回って看護婦にこってり絞られ、それでも懲りずにげらげら大笑いしてはしゃぐようにすらなった今は、親たちの厳しかった顔も随分と和らいで。ついには、ギデオンの改めての謝罪を、13年越しにとうとう受け入れてくれるまでになった。中には、延命治療の費用を払い続けたことを温かく労って、食事を共にしてくれた家族さえある。
どれもこれも、ヴィヴィアンのおかげだった。彼女のまっすぐな献身のおかげで、子どもたちも、その家族も、ギデオンも。皆が笑って、明るく過ごせるようになったのだ。
しかしヴィヴィアンの活躍は、それだけでは終わらない。彼女は3週間の入院中に、新たなひとつの大事件を、見事に暴いてみせたのだった。聖バジリオの一事務員による、医療費の巨額の横領──ギデオン自身も知らぬうちに被害者だった、いわゆる汚職事件である。前からその様子が引っかかっていたある事務員が、不審な会話をしている場面に、ヴィヴィアンは偶然居合わせたらしい。立ち聞きしている内容にギデオンのことが浮上するなり、彼女は一気に推理を働かせ、なんと例の子どもたちにも協力してもらいながら、その無道な犯罪の証拠を、あっという間に掻き集めたそうだ。
時に貴族もお忍びで利用するほど信用の厚い聖バジリオ、その内外に走った衝撃の大きさたるや。ヴィヴィアンが人柄を見込んで話を打ち明けた院長は、ケルツェンハイム警察にすぐさま通報してくれた。そこから瞬く間に、例の事務員の尋問と、院内で起きた不正の本格的な捜査が始まり。ギデオンがこうして、ヴィヴィアンを巡って子どもたちと鞘当てを興じる今さえ、どこか奥の方の部屋では、厳密な事情聴取が行われている筈である。まだ詳細は検証中だというが、この事件に最初に気づいたヴィヴィアンの計算によれば、ギデオンの被害額は、これまで払い続けてきた賠償金のおよそ一割にものぼるそうだ。……元がとんでもなく高額であるだけに、聖バジリオが計画中だという返金の額は、かなりまとまったものになるだろう。
子どもたちのために、高額な薬代を納め続ける日々が終わり……その巨額の賠償金の一部が、今度は自分の財産として戻ってくる。つまりようやく、自分の人生に余裕が生まれる。それはギデオンに、このところ既に固めつつあった様々な決意を、より深めさせる結果となった。──夏の到来とともに、ヴィヴィアンを攫うようにして、ふたりでの新しい日々へ移り住んだのだ。)
* * *
(──キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。そこがギデオンとヴィヴィアンの、この夏からの住み家である。
長い付き合いの友人である不動産業者が、「おまえが!? 女と!? 同棲!?!?」とぶったまげながらも、「よし来た任せろ!」と、鼻息荒く確保してくれただけあって。共通の職場であるギルドや、日々のものを買うための店や、いざというときの病院との近さ……そして周辺の日夜の治安。そういった実利面を重視して選んだ物件だったはずだが、実際の家や、周囲の街並みそのものも、既に非常に住み心地が好い。
赤みがかったクルミの床に、柔らかな白い漆喰の壁。大きな窓は陽の光を燦々ととりこみ、ベランダには色とりどりの夏の花々が咲いている。柵越しに清かな音を立てるのは、家の裏を流れているゴンドラ用の水路だ。その両端には地区の名物であるヤナギの枝葉がさらさらと揺れていて、目に優しい緑色を柔らかに投げかけてくる。時折野生のカラドリウス──小さな聖鳥もやってきては、ヴィヴィアンが皿に乗せた葡萄や苺を啄んで飛んでいく。おそらくこの辺りは、地区そのものが余程聖らかなのだろう。
以前までのギデオンは、元々長期クエスト漬けであまり家にいないものの、一応の住所が必要になる立場であるから、家賃を極限まで削るべく、知り合いのやっている宿付き酒場の屋根裏を間借りしていた。──が、住む家と、ともに住む人間。そのふたつが変わるだけで、こうも家に帰りたくなるものなのかと、それ自体が面白いほど感慨深い日々である。結婚してからのホセやニックがああも付き合いを減らした理由が、今は恋人関係でしかないギデオンにもわかってしまう。これは道理で、酒の付き合いを断ってでも、家路を急ぎたくなるわけだ。)
──ん?
(故に。既にこの新居が好きで仕方ないギデオンは、叶うことならもう二ヶ月ほど、のんびり居ついて過ごしたかったのだが。ほかならぬギデオン自身の過保護ぶりのせいで、肝心の同居人であるヴィヴィアンの方は、寧ろそろそろいい加減、どこかに出掛けたくてたまらなくなった頃合いらしい。
そんな矢先に飛び込んできた、グランポートからの檀頼旅行の招待状……もとい、カレトヴルッフ恒例の夏季合宿への参加指令。──要は、水難救助の復習を皆でしましょうという体で、ギルドの一部でちょっとしたバカンスに洒落込もうという話なのだが。ギデオンとしては正直なところ、聖バジリオを退院してまだひと月も経っていないヴィヴィアンに、遠出などさせたくはなかった。船上で万一のことがあれば、魔法医にかかるまでに何時間かかるか知れないからだ。けれどもヴィヴィアン本人から、「これ以上閉じ込められてたらそっちの方が魔素不全になります!!!」との猛反発を喰らい。まあ息抜き程度ならいいかと、先方への義理立ても兼ねて、ふたりで参加することに決めたのだ。
その出発はいよいよ明日、ギルド近くの東広場に朝8時の集合の手筈で。ギデオンは既に、全く旅行っ気のない簡素な荷造りをあらかた終え、このところ(ヴィヴィアンの世話に夢中で)ため込んでいた仕事の書類を、別室で捌きまくっていたのだが。ひと段落したからと、相手の様子を覗いてみれば……これが何とも、絵に描いたようなあどけない浮かれぶり。箪笥のあちこちをひっぱりだして、かと思えば部屋のあっちにすっ飛んでいって、まだ大袋に詰めたままの衣類の山をひっくり返して。ギデオンをぱっと振り返って飛びついてきたその表情も、明日が楽しみで楽しみで仕方がないと言わんばかり。思わず困ったように苦笑して、落ち着けというように相手の頭を軽く撫で。)
浮き輪か……俺は見てないな。ヒーラー用の雑貨類ならともかく、衣類は流石に勝手に触っちゃいないから、その辺りに紛れ込んでるならわからんぞ。
(──と、その手がふと静かに止まり。一瞬中空で思案した視線は、そのまま真下の恋人へ。そのいつもは端正で落ち着いた顔には、このひと月ほどで相手が散々見飽きたであろう、無駄に思慮深い懸念の色が浮かんでいて。)
……なあ、考えたこともなかったから、完全に聞きそびれていたが。
お前、まさか……泳ぎの覚えは……?
うーん、そっか……ん?
専門的にやったことはないですけど……今回は海水ですし、浮いて進むくらいならなんとか、
……、大丈夫ですよ、だってそのための訓練でしょう?
( 嗚呼、確かに──服は自分で詰めたんだっけ、と。頭に触れる優しい温もりに目を伏せながら、だったら捨てちゃったのかもなあ、水着もなかったし等々……分厚い胸板から相手の鼓動が伝わってくるこの距離感も、この1ヶ月で随分と慣れてしまった。まだもっと撫でて欲しかったというのに、ぴたりと止まった掌に、最早感情を隠さなくなった不満げな表情で恋人を見上げれば。相手もまた最近、過剰な程表すようになった過保護な表情に、仕方なさそうに吹き出して。未だ──自分はそんなに頼りないだろうか、という不満がもたげない訳では無いものの。結局、自分はこの人に向けられるならどんな表情だって嫌いじゃないのだ。ギデオンの真剣な表情に応えるように、自らのあまりに褒められたものでも無い実力を包み隠さず伝えれば。そこで、つい、心配そうに皺を寄せる眉間があまりに可愛らしかったものだから。眉間、目尻、口角のあたりへ、自身の唇で軽い音をたて触れれば。浮いていた踵をゆっくり下ろして、白い拳を顔の横で頼もしく握って見せる。そうして、──自身でもそのポーズに思い当たるところがあったのだろう。そうだ、サンオイル部屋から取ってこなくちゃ。と、名残惜しそうに上半身を離しながら、その白い頬にさっと朱を走らせたかと思えば、悪戯っぽい笑い声と共に、語尾にハートでもつきそうな甘い声を残して、逃げるように廊下へと駆け出して、 )
…………、お好みかは分かりませんけど。
可愛い水着買ったので、楽しみにしててくださいね
(掌の下から弾け上がる、可笑しそうな笑い声に。(そうは言っても……)と言いたげな視線を投げかけようとしたのだが。このひと月で相手にすっかり慣れ親しんだのは、可愛い恋人も同じこと。ほんの少し背伸びして親密なキスを与えられれば、真剣に強張っていたギデオンの心配顔も、いとも容易く弛んでしまって。
──まあ、大丈夫か。今回は目的が目的だから、熟練ヒーラーも同行するし、その堅固な状況でこそ泳ぐ練習をした方がいいのも、まさに相手の言うとおり。自分が目を離さなければいいだけの話だだろう。しかし、そんな心づもりも。荷造りに戻る相手の凶悪な置き土産を喰らえば、たちどころに吹き込んで。)
────、、、
(ギデオンが思わず二度見する頃には、ヴィヴィアンはとっくに逃げ去った後。その虚空をしばし見つめてから、復活してしまった峻厳な眉間の皴を、無言で揉んで立ち尽くす。
──ヴィヴィアンと同棲を始めて一カ月。ギデオンは、彼女に未だ手を出していない。理由は単純、聖バジリオの元担当医から、「暫くは激しい運動は控えるように」とのお達しがあったからだ。……あの後個人的に、夜の生活について相談すれば。相手は少々面喰いながらも、それでも真摯に、魔法障害の予後にどんな影響を及ぼし得るかの見解を述べてくれた。その時の話から、もう一、二ヶ月か……三か月か……半年か。とにかく、未だ潔癖な乙女であろうヴィヴィアンの身体には、余計な変化をもたらさない方がいいという結論を出している。以来ギデオンは密かに、己の慾を押し殺す工夫を積み重ねてきたのだが──当の彼女は、のほほんと知らずにいるようだ(こちらが話していないのだが)。何にせよ、明日からの旅行でも、密かな覚悟を決めなければならないだろうかと、思わず小さなため息をつく。まあ、十五のガキじゃあるまいし。初めて見る恋人の水着姿くらいで、今更動じたりはしない──筈だ。)
(翌日。東広場に集合した冒険者たちは、やいやいと賑わいながら貸し切りの船に乗り込んだ。王都からグランポートまでは、この下りの船で一泊二日……そこから更に、馬車で数時間の距離である。若い連中は中型船に乗るのも初めてというのがいて、既に大変な盛り上がりよう。デレクとカトリーヌに至っては、船上のロマンスを描いた某超大作の名シーンを男女逆で真似して遊んで、案の定川面に落っこち、刺青を彫った船乗りたちににしこたま怒られるなどしていた。そんな騒ぎをよそに、ギデオンとヴィヴィアンは、去年の夏と同じように、甲板のベンチに仲良く並んで座り。グランポートから個人的に届けられた手紙を広げ、そこに綴られている事件後の市の再生の様子に、楽しく思い出を馳せながら過ごして。
翌朝。王都の冒険者一行は、船着き場の辺りで数時間留まってから、数台の馬車に分かれて乗り、夕刻頃にグランポートに到着した。その晩は市から温かくもてなされ、当時救出した少年たちやあの記者たちと再会を楽しみ。その後は海辺のコテージに引き上げ、まずは一晩ゆっくりと休んで(デレクとカトリーヌはここでも枕投げをおっぱじめ、ジャスパーに首根っこを掴まれるなどしていたようだが、これはまた別の話だ)。
──さて、王都を発ってから二日目。いよいよこの日が、水難救助訓練当日である。幸いにも天気は快晴。晴れ渡る青い空の下、白いシャツに黒いサーフパンツという出で立ちのギデオンも、現地集合の打ち合わせ通り、眩しい日差しに手を翳しながら、貸し切りのビーチに現れた。片手に講習用の資料を持っているのは、特殊ランカーという立場上、一応は引率側に配置されているためだ。この後、今回は珍しく参加しているギルマスの前で、責任者に抜擢されたジャスパーの補佐をすることになっているのだが……早くも波打ち際で遊んでいる若い連中のなかに、ヴィヴィアンの姿はまだない。まだ支度をしている頃か、と見当をつけると、浜辺のテントを張りだした日陰、ビーチチェアに座っているスヴェトラーナの元に行き(陽光に当たれぬ彼女は、今回は終始サポート役だ)。そこにちょうどやってきて、手伝いを申し出てくれた若手の星バルガスとともに、これからの訓練で必要な情報共有をしながら過ごすこと数分──ざわ、と周りが大きくどよめいた気配に、ふとそちらを振り返り。)
( 船で川を下ること半日と宿で一晩、そこから馬車で数時間。固まった身体を伸ばしながら、日除けの幌から顔を出せば、そこには色鮮やかな夏が広がっていた。日の傾きかけた空は群青と橙がせめぎ合い、真っ赤な夕陽が煌めく水平線へと沈んでいく絶好のタイミング。湿気を多分に含んだ空気はどこか息苦しいにも関わらず、潮の香りがするそれをたっぷり肺に取り込むだけで、どうしてこうも気分が盛り上がるのだろう。周囲を見渡せば、夕暮れに灯り始めた、色とりどり、それぞれ全く違った異国情緒たっぷりのランプが、キングストンとは質の違う石畳をカラフルに彩り。昨年よりずっと賑やかな雑踏に、興味深い品々を見つける度、はぐれないようにするのが精一杯だ。引率のベテランが先導を行く列の後方で、アリアやエリザベス、バルガス等同年代の仲間達と会話に花を咲かせていれば、どこから調達したのやら。美しい南国の花をふんだんに使った豪華なレイを、突然女性陣の首だけにさしかけたのは、マゼンダのアロハシャツがやたら似合っているデレク。そして、全く同じタイミングで、小さなパラソルの刺さったこれまた色鮮やかなドリンクを差し出してきた、既に水着のカトリーヌが睨み合い。その幼稚なやり取りを冷めた瞳で見つめていたリズでさえ、二人の隠し持っていた水鉄砲の流れ弾が、見事にジャスパーの頭を撃ち抜いた瞬間は肩を震わせ俯いていた。そうして今回の遠征は、(因みにビビの貰った蛍光グリーンのドリンクは、目を離した隙に飲まれていた。アラン絶対許すまじ。) 目を見張る程の大復興を遂げた港街グランポートで、それはそれは賑やかに始まったのだった。)
うぅぅ、やっぱりちょっと可愛すぎたかも……
( そうして本番、今回の遠征のメインイベント。トランフォード屈指の観光地、グランポートが誇るプライベートビーチ目の前にして。皆が我先にと砂浜へ駆け出して行く中、そうも単純になりきれないのはうら若き乙女達だ。なんとか水着には着替えたものの、それぞれ姿見の前で、往生際悪く足掻く姿はご愛嬌。人前で肌を晒すことへ呪詛を吐き続けるエリザベスに、自分なんか、皆さんの目が腐る、とここに来て持ち前のネガティブに陥るアリア。因みにカトリーヌは若手男冒険者よりも早く駆け出して行った……という余談はさて置き。ビビもまたご多分に漏れず、戻しきれなかった体重と贅肉を呪いながら項垂れること暫く。結果的に一足遅れて姿を現すことで、余計に周囲の視線を掻き集めながら砂浜に降り立ったのは──それでもまだ辛うじて、その単純な性格故に、エメラルドグリーンの海を目にして、テンションが上がってきたヴィヴィアン。今日のために下ろした真っ白なビキニは、大判なフリルが可愛らしくも、腰の横の蝶々結びや、ふっくらとしたデコルテでクロスする紐が、柔らかく食い込む質感が非常に健康的な印象で。大好きな相棒を見つけて飛び跳ねる姿に、自分の胸部を抑えたスヴェータが「溢れる、溢れる……!」と顔を真っ青に慌てている。そんなビビの後ろで、頑なに日傘を離さない仏頂面のエリザベスの出で立ちは。紺色のセーラー服を模したワンピースタイプの水着が少しレトロながらも、そのお人形のように完璧に均整の取れたスタイルにはよく似合って。何より、普段下ろしているロングヘアが結い上げられて、その下で真っ白に輝く項の美しいことといったら──バキッ、と嫌な音をたて砂浜に響いたのは、爽やかな笑みを浮かべたバルガスが、力余って巨大なテントを支える太い骨を握り折った音だ。そんな派手な先輩方に承継の瞳を向けるアリアもまた、ギンガムチェックのワンピースから大きく覗く綺麗な背筋に、周囲の視線をこれでもかと釘付けにしていて。 )
──あ、ギデオンさーんっ! 私にも手伝わせてくださいっ!
(何の気なしにそちらを振り向いたギデオンは、いつぞやの夏の宿よろしく、わかりやすいほどの硬直を見せた。──その視線の先にいるのは、こちらに駆け寄る若い恋人だ。たしかにギデオンの方とて、やはり楽しみにしてはいたのだろう、そろそろ来るはずの相手の姿を無意識に探し求めてはいたのだが……。燦々と降り注ぐ陽光のなか、彼女の肉感的な美貌は、今にもたわわにはちきれんばかりで。視覚の処理が追い付かない──いや、決して、まかり間違っても、蠱惑的に揺れ動くそれに、目を奪われたりするはずがなく。
しかし幸い、その熟練戦士らしからぬ挙動不審さを見咎められるほど冷静な者は、周囲にひとりもいなかったようだ。「やっべぇ……」だとか「すっげぇ……」だとか、そこらで遊んでいただろう青年連中の漏らす惚けた声に、ようやくのことで我に返ると。「…………、」と黙ったまま、相手に配布を頼みたい書類の類いを取りまとめ、傍に来た彼女に渡そうとする。が、しかし。間近からにこにこと見上げてくる恋人の、まっさらなほど清廉で──それ故かえって淫靡が過ぎる水着姿を見下せば。……その表情は、見れくれこそいつも通りで、どんなことにも揺るがぬ冷静なそれに、粛々と引き戻りゆくも。このひと月同棲し、らしくもない甘い顔を幾度も見せてきた恋人には、己の狼狽が──必死に守りに入っていく姿勢が、かえってあからさまに映るだろうか。ましてや今は人前、おまけに周囲を統率する責任者側。ふたりきりの時のように己をさらけ出すのは非常に躊躇われる……となると、ギデオンが堅牢な防衛へと迷走するのはもはや必然。露骨に視線を逸らしながら、硬い声で指示を出し。)
……助かる。こいつを同期たちに一部ずつ配ってくれ。……
はい……
( 冷静を保とうとするギデオンのその指示に、まず真っ先に湧いたのは他でもないビビの同期達だった。見事訓練参加を引き当てて、お目当ての水着にありつけただけで留まらず、それを間近で見ていいんですか、ありがとうございます! 余裕ある大人ってすげえ! といった次第である。わっと湧いた同期連中の周囲に、他の連中までわらわらと集まる潔い光景のその一方で、肝心のビビの方はと云えば。これがあの病院の昼下がりの以前であれば、けろっとせいぜい頬を膨らませていた程度だっただろうが。この1ヶ月で、相手の愛情を求めるがまま、甘やかされ切った乙女心は、ギデオンの分かり辛い反応にみるみるしぼんで、丸い頭がしょんぼりと垂れる。──やはり、この無駄な贅肉のせいだろうか。ここ暫くビビなりに食事制限を頑張ったりもしたのだが……いつも大切にしてくれるけど、リズと比べて見苦しく思ったのかな。そうして思い出されたのは、丁度1年前。この街に来る直前にビビがした質問に、思いっ切り顔を顰めた相棒の姿で。──水着は好かん──……そうだ、何故忘れていたんだろう。あの時よりもずっと大好きになった相手から、可愛くないと思われているかもしれない事実が耐えられず、形の良い眉を頼りなく下げれば。書類を受け取りながら、微かに潤んだ瞳でギデオンを見上げて。 )
…………あの。やっぱり……可愛く、……ない?
……私、はしたない、ですか?
!?!?!?
なっ……いや……違…………
(蚊の鳴くような震え声に、思わずぎくりと二度見すれば。いつもは元気に跳ねているはずが、みるみる萎れゆくポニーテールに……こちらを頼りなげな上目遣いで見上げてくる、憂いを含んだエメラルド。──己の反応が彼女を傷つけた、そう理解するには明らか過ぎて。思わず引き攣った顔でぎこちない否定に走るも、その頃周囲には既に、美貌の娘の鑑賞権……もとい、資料を求めてやって来た野次馬の壁がわんさかと。まさかそのど真ん中で、可愛くないどころかクリティカルヒットだった、などと馬鹿正直に吐くわけにいくまい。故に、苦虫を民潰したような顔で「…………」と続きを言い淀んでいれば、「あーあー」とやけに通る声が。そちらを振り向いてみれば、やけに面白そうな顔で進み出てきたのは、仲間の野郎どもに引きずられてやって来た弓使いの青年、アランだ。普段の彼は非常に大人しい性質で、無邪気に戯れる相手と言えば、歳上同期であるヴィヴィアンくらいのものなのだが。「ビビをこーんなに悲しませて。ギデオンさん、良心ってものがないんですか??」だの、「可愛い彼女がこんなに悲しそうにしてるのに、言うべき言葉はないのかなあ!」だの。ビビの肩を軽く抱いて、ぽんぽんと慰めながらも、普段は控えめに落ち着いている面が、ギデオンに向けられた今はあからさまに愉快気である。──この若い青年とギデオンは、ちょっとした縁がある……というか。13年前の事件時に唯一無事に保護できた少年がこのアランで、孤児だった彼をその後カレトヴルッフで引き取り、見習い時代もしばしば面倒を見ていたのだが。まさか、その弟分に手を噛まれるとは思いもよらない。「何なんだお前……」と、眉間の皴を揉みほぐしながら呻けば、「そっちこそその醜態は何なんですか」と、にべもなくご尤もな言い様。更にその頃には、ヴィヴィアンに見惚れるのを一旦やめてこちらに注目した若い野次馬どもから、「そうだそうだ!」「男気見せろよギデオン先生!」「ビビ囲っといてそりゃあナシだろ!」「そんなんなら俺らが付き合いてえよ!」「このヘタレ!」「間抜け!」「臆病者!」と、まあ喧しいこと喧しいこと──いやおい、最後の方の野郎は、どこかマリアの影響を感じなくもなかったのだが、気のせいか。「うるせえ、散れガキ共!」と、ビビに渡したはずの書類をひったくって雑にばらまき、ついでに虚仮威しの雷魔法を放てば。うぎゃーと悲鳴を上げた青年たちは、口々に「パワハラ!」「パワハラ!」と叫びながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていく次第。
──そうして落ち着いたテント内で。日傘を差したまま無言で佇むリズの手前、ゴーレムよろしくぎこちない動きで支柱を直そうと試みるも、「ねえ」と話しかけられて再びへし折ったバルガスと。(どいつもこいつも……ワシの目の前でリア充を爆発させおって……)とでも言いたげに、こめかみに青筋を立てているスヴェトラーナの横。ようやく相手に向き直り、一度きちんと見下して。それでもやがて耐えかねたように、口元に手を当てながらふいと顔を逸らせば。ようやく本音を絞り出したのは、その端整な横顔の耳朶を、らしくもなく染めながらとなって。)
……はしたなくない。似合ってるさ。……似合い過ぎて………………困ってるんだ。
( 素肌の肩にアランの腕が触れた瞬間、元々曇っていたビビの表情が微かに強ばったことに気がついた人間は、果たしてこの中にいただろうか。決してアランを嫌っている訳でもなければ、同期の中でも特別仲の良い、信頼している相手だというのに、トラウマのある身体は敏感に反応する。それでも、自分のために言い募ってくれることには感謝して、潤んだ瞳を彼らに向けるも。此方を向いていたはずの視線が、一斉に空中を彷徨い出すのだから、相変わらず同期達との疎外感が拭えない。そうしているうちにギデオンの雷が落ちて、再び静かになったテントの中。その赤い耳朶が目に映った瞬間、ビビの胸をいっぱいにしたのは、愛されているという実感と、年の離れた相棒へのどうしようもない愛しさで。 )
ほんと? えへ、嬉しい……ギデオンさんにそう思って欲しくて選んだの、
( 今回、人目も憚らずに相棒に抱きついたのは、ここ最近、ずっと人目のないところで甘やかされていた弊害。ついでに、その柔らかい双丘をこれでもかと押し付けたのは完全に無意識だった。素肌に直接触れるのでさえも、相手が違えばこんなにも安心しきって。分厚い肩に頬擦りをして甘えれば、相手の耳朶に砂糖よりも甘い愛情の原液を垂れ流す。ここ半日触れ合えてなかった恋人を心ゆくまで堪能したか、それとも相手から引き剥がされたか。身体を離して、デコルテまでふんわりと薔薇色に染めた水着姿をもう一度相手に見せれば、なんの悪気なくいつも通りの笑顔で好意を爆発させる有様で。 )
ギデオンさんもお似合いで、とってもとってもカッコイイです! ……大好き!!
~~~~~~ッ!
(しゅんと萎れていた恋人の顔が、ぱあっと薔薇色に咲いたのを見て。まずい、と思った時には遅い。純真無垢に抱きついてきたかと思えば、これでもかとばかりに懐っこく甘え倒され。がちりと固まったギデオンの表情が、みるみる険しさを増していく。何も不快なわけではない──無論不快なわけがない。シャツを前開きにしているせいでじかに触れあってしまった場所に、決して意識を向けるまいと、それはもう必死なだけだ。故に、ふっと天を仰いだかと思うと、顔を片手で覆い隠し。不安から解き放たれたヴィヴィアンが、これ幸いと甘えまくるのを止めもせず……かといって、余裕たっぷりに応えてやるわけでもなく。(テンションダイアゴナルは動水圧に対し45°で……)だの、(ウェッジ法はワンマン法と縦列法の応用により人口エディーを作り出し……)だの、自分も編纂に関わった救助マニュアルの内容を、心の中で連綿と諳んじ。──そうして、付近の手頃な連れ込み宿の脳内検索を振り切ること数回目。ようやく恋人が身を離せば、少し弱々しく微笑みながら、「……俺もだよ」とその頭を撫でてやることにして。しかし、案にそれは、(仕事があるから、またあとでな)という意味合いをこめたもの。それを難なく察した相手が、素直に陽向の中へ戻っていくのを見届ければ。ぐしゃりと横髪を掻き上げた後、力尽きたように砂浜にしゃがみ込み、盛大なため息を吐くだろう。ああ、スヴェトラーナの視線が痛い。ようやく現着したリーダーことジャスパーにも、「何してんだお前?」と訝し気に尋ねられる有り様だ。ギデオンはそれに答えず、疲れた顔で立ち上がり、必要な仕事の話に入ろうとしたのだが。「こやつ、ついさっきまでビビに抱きつかれていたんじゃよ」と、ジト目のスヴェトラーナにあっさりネタばらしされてしまえば。その後しばらく、やたら刺々しく殺気立ったジャスパーに、仕事にかこつけた嫌味のあれこれをネチネチかまされるのだった。)
(さて、その空騒ぎから四半刻後。いよいよカレトヴルッフによる、今年度の水難救助訓練が始まった。10時から15時まで、昼食を挟んでのがっつりした二部構成──それが連続複数日。いずれも15時以降は、慰労を兼ねての自由時間ということになっている。
若い青年連中たちや、そうでなくても某双子のような遊びに全力投球の奴らは、その自由時間こそ最大のお目当なのだが。それは思い切り楽しんでいいから、そこまではちゃんと集中しような──ということで。前座の訓練自体は、非常に真剣な雰囲気で進行していくことになった。今回はグランポートの厚意により、市の消防隊から必要機材も借り出している。故に、泳法や潜水法のほか、救助ボートの設営要領や、操船技術の訓練なども組み込まれて……いるのは、まあ結構な事なのだが。この大真面目な訓練初日に、実はとんでもない大問題が発覚した。──天下のカレトヴルッフに所属する身でありながら、若い連中の過半数が、ろくに泳げなかったのだ。
王都の河川はそのほとんどが汚く、泳ぐには適さない。故に、幼い頃に身につける機会を得られなかったのは、仕方ないと言えば仕方ない話だ。が、これでは市民の救助どころか、手前が溺れかねない案件。それはまずいということで、初日浅瀬に留まり、泳法訓練をみっちり詰め込むことになった。
ジャスパーが青年たちに荒っぽく指導する横、女性陣の中では抜群に泳げるカトリーヌが、手取り足取り……時々腰とり、泳ぎを教えているのだが。序盤の救助デモンストレーションでとんでもない撃沈を披露していたエリザベスが、どうも一向に浮力を得られない。とうとう見かねたらしい幼馴染のバルガスが、個人指導につきはじめ。これをきっかけに、各々のレベルに合わせての小グループ指導が、あちこちで自然と始まった。
サポート役のギデオンは、溺れているものがいないか、近くの岩礁の上から随時確認していたのだが。「それは私がやりますから、あなたも指導に」と声をかけてきたのは、先ほど遅れて参上した、我らがギルドマスターだ。銀髪を後頭部で束ねているエルフ族出身の頭領は、アロハシャツにサーフパンツ、いつもは銀縁眼鏡なところを色付きサングラス……という、存外浮かれた格好であらせられたが、そのひんやりとした落ち着きぶりは平時と何ら変わりない。ありがたく拝命して、ギルマスが引きずりだしてきたレオンツィオを(※夏のビーチが嫌で堂々バックレようとしていたのを、ギルマス得意の索敵魔法でとうとう炙りだされたらしい)同じく海中に引きずり込みながら、ギデオンもコーチ側に回ることにして。
──それから数時間後、間もなく本日の訓練終了の時刻だろうか。その頃には、元々泳げなかった者も、随分長く浮いていられるようになったらしい。調子に乗って沖に出る者も現れ始めたが、引率側としては、これがいちばん危うく感じる事態でだった。救助訓練に参加しておいて、自分が正真正銘の要救助者側に回ったら元も子もない。いいから一旦浜に上がれ、と声をかけて回るうちに、デレクが受け持っていたグループ──ヴィヴィアンのいる辺りにも、波を掻き分けて近づいていき。)
( 今回水難救助訓練に参加した若手達の中で、元々泳ぐことができたのは、優等生バルガスに、漁師町出身のビビの同期が2人のみ。それでも、腐っても冒険者であるビビ達は、少し正しいフォームを教われば、なんとか泳ぎ始められたのだが──大変だったのは、リズを筆頭とした少数の事務員達だ。足がつかない高さになった途端、笑顔で沈んでいく備品担当に、波に流されて砂浜を転がる経理受付──極めつけに、休憩から戻ってきたエリザベスが、皆が固まって練習している辺りより、ずっと砂浜側で足を縺れさせたかと思うと。見事に顔から着水し、そのまま自分の腰より低い水位で溺れ出したのを目撃したバルガスの表情といったら。その長身で虚無顔の彼女を釣り上げて、「ごめん、もうリズちゃんは泳げなくてもいいと思う」と、項垂れた人気者の目は、今まで見たことない程虚ろだったという。
それでも、ギデオンやジャスパーら、用意周到なベテラン勢の手厚いサポートの甲斐あって。とうとう最後の一人が浮いた時の事務方の歓喜たるや。疲れきって力む力も無くなったらしい看板娘が、ゆっくりと波に揺られたのは、訓練終了時間間際、苦節4時間目のことだった。突如わっと上がった歓声に周囲を見渡したビビの顔が、親友の勇姿(?)の奥に、此方へと向かってくるギデオンを見つけた途端、あまりにも分かりやすくぱあぁっと輝く。ビビ本人はぐんぐんと進んでいるつもりで、相棒と離れていた距離の4分の1程度の距離で落ち合うと。もう心の底から楽しくって仕方がないという興奮を隠す様すらなく、水飛沫よりキラキラと輝く笑顔をギデオンに向け。その指示に必死に砂浜側へと水を蹴りながら、はふはふと顔を真っ赤にしながら言い募って。 )
──ギデオンさん、ギデオンさん! あ、お疲れ様です!
あの……あのねっ、あっちの岩場の方に、すっごく綺麗な洞穴があるって、デレクさんが言ってたんです!
後で一緒に見に行きましょ、ね、青く光ってるんですって……っ!
(この辺りの監督役たるデレク、そして補佐役のバルガスに、周囲の皆の無事を(特に、疲れた様子のエリザベスが無言で波間に消えないかを)逐一確認しつつ、陸へ戻るよう指示した矢先。ばしゃばしゃばしゃ! と立ち昇った、元気の良い水音に振り向けば。濡れ髪のヴィヴィアンが、嬉しそうに、けれども飛沫の派手さの割にじわじわと、こちらへ泳いでくるところ。周囲の若手からすれば、それはいかにも、愛らしい人魚が寄りついていく光景に見えたというのだが──ギデオンの視点から見れば、飼い主を見つけた喜びに尻尾を振りたくりながら駆けてくる、大型犬そのもので。たまらず吹き出しつつ、こちらも軽く、けれども難なく距離を稼いで泳ぎ寄ると、「楽しんでるみたいだな」と声をかけ。そしてそのキラキラ輝く笑顔を、横で共に、浜へゆっくりと戻りながら見下して──ああ、連れてきてよかったな、と青い目を穏やかに細める。ヴィヴィアンはこの前ようやく、通常の運動が少しずつ解禁されたばかりだ。それなのにすぐ、全身運動たる水泳に臨ませるのはどうだろうかと、内心心配していたのだが……相手の顔を見れば、全ては一目瞭然だ。少しも辛そうなところがなく、むしろこれ以上ないくらい歓びに満ち溢れ、いつものように一生懸命に全てを楽しみきっていて。こんなにはしゃいでくれるなら、仕事以外でもこういうのに連れ出してみようかと。興奮しきりな相手の言葉に相槌を打ち、「ああ、夕食の後にでも行こうか」なんて返事をした、ちょうどその時だ。
「波が来るぞー!」と、背後から聞こえてきたデレクの声に振り向けば。上にまあまあ高く、横はどこまでも広い一波が、沖の方からざざざざと、爽やかな音を立ててこちらに迫りくるところ。「ぎゃー!?」「無理無理無理無理!」「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」「大丈夫だから手を繋げ!」と、泳ぎに不慣れで大騒ぎする事務員たちや、それを頼もしく守りに入るデレクやバルガスを尻目に。ギデオンもヴィヴィアンの手を水中でするりと絡めとり、落ちついた声で指示を出し。)
──波に巻かれると危険だ。直前で潜ってやり過ごすぞ。
はいっ! 去年来た時もすっごく綺麗でしたけど……
こんな素敵なビーチで泳げるなんて!
連れてきてくださってありがとうございます……!
( それまで水中をゆっくりかき分けていたギデオンが、ヴィヴィアンを見つけた途端、勢いよく其方へと泳ぎ寄り。満面の笑みを浮かべたヴィヴィアンは、当たり前のように、2人だけの思い出を口にする。岸に向かって肩を並べ、仲睦まじく泳ぎ出した2人の関係の変化に、ほぞを噛む者、温かい視線をおくる者、はたまた呆れた視線を寄越す者。海から陸から集まる視線達から、2人を覆い隠すかの如く、その大波は立ち上がった。──次々襲い来る波には決して立ち向かわず、乗り越えられそうならば身を任せ、それが難しそうなら潜ってやり過ごす。頭では分かっていても、そのあまりの大きさに冷えた肝が、頼もしい声と暖かい指に霧散する。相棒の指示にこくりと頷き、絡められた指を握り返しながら固く瞼を閉じると、崩れた波が水面を叩いて、細かい泡に砕け散った音が頭上を通り過ぎて行く。水でくぐもった聴覚でそれを捉えて──「ぷはぁっ、」と。顔にかかった髪を掻き上げようとして気が付く。どうやら強い波に髪紐が流されてしまったらしい。波が大きく打ち寄せれば、その分引く波も大きいもの。支えるものを無くして広がった髪に気を取られた瞬間に、砂浜側にいるギデオンとの距離が開いたことに気がつけば、ビビの顔からサッと血の気が引いて。冷静になればまた次の波が押し寄せた際に、それと共に戻って来れると分かっただろうに。あの延々と続く水平線へと押し流されてしまうのではないか、という恐怖から繋いでいた手を力強く引けば。頼りな気なか細い声で恋人を呼んで、砂浜での触れ合いなど戯れに過ぎなかったと思い知らせるかの様に、その長い腕、脚、全身を使い、その広い背中に縋りつこうとして。 )
──っ、ひゃ……やぁッ、ギデオンさん! 離さないでっ……
(水上にざばりと顔を出してすぐ、まずは相手の、次に周囲の連中の無事を確認する。──どうやらデレクの班も、問題なく凌げたようだ。先ほど大騒ぎしていた奴らは、結局皆があの大波に運ばれ、浅瀬にすんなり一番乗り。無論、その水深ですら溺れる危険性は充分にあるわけだが、先に浜に上がっていた仲間が迎えに来てくれているから、後は託して大丈夫だろう。まだインサイドにいる残りの数人も、元々すぐに泳ぎを覚えた連中ばかりだし、それでもデレクがしっかり目を配ってくれている様子。いちばん心配だったエリザベスも、バルガスがぴったり寄り添い、陸の方へ誘導している。これで顔の見えない者はいない、ギデオンたちより後ろを泳ぐ者もない。安全よし──と、軽く頷きかけたところで。)
ッ!? なっ、おい、ヴィヴィアッ……
(──よりによって、こういう時のパニック症状に後から陥ってしまったのは、いちばん近くにいたヴィヴィアンだ。ギデオンは無論、彼女とがっちり手を繋いで離さずにいたのだが……それでも海に不慣れな娘は、ほんの少しでも潮に流されたことで、ギデオンがどこか遠くに行ってしまうと錯覚してしまったらしい。ぐん、と思いのほか強い力でギデオンの手を引いた恋人は、不安げに鳴きながらこちらに必死に縋りつき、その全身で絡みついてくる始末。──踏ん張りの利く陸とは違い、ここは足場のない海の上。柔らかな果実やしっとりした素肌をいくら甘美に押し付けられようが、一緒に沈み、肺に空気のないヴィヴィアンだけが溺れる可能性への警鐘のほうが、ギデオンの頭の中でガンガンと鳴り響き。故に、いくら声をかけても一向に無駄だと判断したその瞬間──唐突に、ざぶんと海中に潜り込んで。
一方、その頃。浜や浅瀬にいた仲間たちからも、パニックに駆られるヴィヴィアンと、それを宥めようと四苦八苦するギデオンの様子は、よくよく見えていたようだ。あれ大丈夫なんでしょうか……と、経理受付が心配そうに呟いたところで、「お、ちょうどよい教材だ」と明るい声を上げたのがカトリーヌ。教材?? と周囲の若い面々が一斉に首を傾げれば、「まあ見てろ。今からギデオンが、溺れた要救助者が縋りついてきたときの対応を見せてくれるはずだ」と、ニカッと歯を見せて笑うだろう。「──入水救助は難しいんだ。溺れかけてる要救助者は、ああやって頭が真っ白になって、助けに来た奴にしがみついちまう。中には、救助者の頭を水中に沈めてでも自分が浮かび上がろうとする要救助者もいるんだよ。ビビはそうなっちゃいないけど……でも寸前みたいなもんだな。それで助けようとしてるギデオンまで溺れちゃあ報われないだろ? だから、ああいうときは──ほら」。
カトリーヌがちゃっかり解説している、まさにその通りのことを、彼らの視線の先にいるギデオンは実現していた。水への不安が高まっている者は、救助者が故意に沈めば、それにもついていこうとはしない──その性質を利用して、ヴィヴィアンの手脚の拘束を少しでも弛ませれば。彼女の背面に回ってざばあっと顔を出し、煌めく雫を飛び散らせ。そのまま後ろから、彼女の胸の下に両腕を回し、己に背をもたれさせながら、しっかりと抱きかかえて。ギデオンが視界から消えて不安だろう恋人の耳元に口を寄せ、「大丈夫だ」と、穏やかな低い声を繰り返し聞かせるのだ。大丈夫──大丈夫だ、俺はここにいる。離れていかない、一緒にいる、おまえは流されやしない、俺が一緒だから大丈夫だ。だからほら、ゆっくり息を吸って──吐いて。そうだ、できてるぞ。肺に空気を入れれば、そう慌てるようなことにならない。だからもう一度、ゆっくり、そうだ。……な? 落ち着いてきただろう。
それは確かに、水難救助のまさに理想的なモデルではあった。しかし問題は、歳の差こそあるものの、ギデオンとヴィヴィアンは双方ともに美男美女……おまけに、現に恋人同士だと知れ渡っていることで。要するに、晴れ渡る空の下で煌めくエメラルドグリーンの海で、ギデオンがヴィヴィアンを後ろ抱きしている光景は、やたら絵になる様だったのだ。純粋なアリアなどは、真っ赤な顔を両手で覆い隠しながらも、そろそろと開いた指の間から、やたら官能的な救助風景をばっちり眺めてしまっているし。浜辺でたむろ座りをしていたマルセルとフェルディナンドに至っては、棒飴を咥えながら、(──あれ)(──もしかして)((──女の子がそこで溺れてりゃ、俺ら合法でああいうハグができるんでね?))などと、ろくでもない閃き顔を並べ立てては、背後に立つギルマスから、「おまえたち、お見通しですからね」と、氷のように冷ややかな釘を刺されているだろう。)
……ッ、……!!
( ──苦しい、怖い、身体が沈む。ごぼごぼと口に入る海水に、噎せかえって呼吸もままならず。自分の手がバシャバシャと水を掻く音が、かえって気持ちを焦らせる。いつの間にかギデオンの姿も見えなくなって、沖にひとりぽっち。取り残されてしまったんだ──という錯覚に、「ぅ~~~うぇっ、……げほ、ッ」と。とうとう貴重な酸素を嗚咽して沈みかけたその寸前、ギデオンの胸がヴィヴィアンの身体を抱き留めた。──ギデオンと出会って、これ以上安心する場所はないと、執拗く教えこまれた腕の中。耳元に吹き込まれる頼もしい声に……ひっ、ひっ、と高速に震え上がっていた呼吸が、じわじわと落ち着き。未だ声にならない返事の代わりに、こくこくと必死に首を振る。そうして徐々に平静を取り戻し、滲んだ涙を拭ってみれば、そこはただの凪いだ穏やかな浜辺で。カトリーヌの為になる講座のお陰で、浜辺中の視線がこちらに集中していることに気がついてしまい。一人溺れて騒いだ羞恥に、かあっと顔に血が登る。それどころじゃないというのに、身体は救出されても尚、頭は未だ動揺しているようで。まるで赤子のようにギデオンに抱き締められているのが、恥ずかしくって堪らず。未だぐったりと震える身体をよじると、逞しい腕から抜け出そうとして。 )
……ギデオンさ、も、だいじょぶ……ありがとう、ございました、もう1人で泳げます……
ん、
(相手のはっとした様子に、こちらもようやく浜辺の観衆に気がつき、抜け出していく相手を無理に引き留めることはなく。彼女が先に泳ぎだす間、ふと再び沖を振り返る。海は読めないものとはいえ、大した風もないというのに、先ほどの緩やかな大波は奇妙だった。海底に妙な魔獣でも潜んでいるのだろうか……後で有識者に尋ねるべきか。そう考えながらギデオンも海から上がり、ヴィヴィアンの少し後から温かい砂を踏んで。タオルを持ったアリアやリズが彼女を優しく出迎える横、ギデオンの元へやって来たのは、仏頂面のジャスパーだ。個人的にそりが合わない間柄ではあるものの、奴の顔色を見れば、同じ懸念に至っているのが見て取れた。「しばらく出てくる。こいつらを充分休ませておけよ」──言い方こそ粗暴だが、当然異論などあるはずもなく。「了解」と頷き、暫くの監督責任を引き受けることにして。
昼下がりも過ぎつつある今、それでも頭上の南国の空は、まだまだ明るさを保っている。待ちに待った遊びの時間が、たっぷりとあるわけだが……訓練初日からがっつり泳法をやり込んだだけあり、体力馬鹿と名高いさしもの冒険者たちも、あまり泳ぐ気にはならないようだ。パラソルの下で涼む者、持ち込んだ敷布の上で日焼けがてら微睡む者、寝ているうちに砂風呂に埋め込まれる者、それぞれ過ごし方は様々で。少し元気のある者はのんびり潮干狩りをしているし、疲れなど知らぬデレクとカトリーヌは、岩礁の辺りで海ウサギを追い込んで遊んでいる。全員の無事良し──今回の看護役である中年女性のヒーラーによれば、怪我人や体調不良者も特に出ていない。その確認を取ったころにはジャスパーが戻ってきて、ギルマスほか少数のベテランに、地元住民への聞き込みの成果を共有した。この辺りのビーチには、時々悪戯好きの馬の魔獣……エッヘ・ウーシュカが出るそうだ。「なんだ、それなら平気だな」という反応が大半だったものの、それは熟練ゆえの構え。若い連中は初めて見るだろうし、夕飯のときに念のため共有するか、という方向性に落ちつけば、そこから先の役割分担にも自然と話が及んで。──そうして監督責任からようやく解き放たれれば、まずは近場の海の家へ冷たいものを買いに出かけ。すぐにビーチに戻ってくれば、赤紫に落ちつき始めた空の下、今度は恋人の姿を探す。立場上、自分の職務を果たさざるを得なかったわけだが……晴れて自由になった今は、彼女のことが気がかりだ。やがて落ち着いた場所にその背中を見つければ、後ろから声をかけつつ、ごく自然に隣に座り。シロップのかかった夏氷を差し出し、自分のそれにも木の匙を差し入れながら、穏やかに話しかけるだろう。)
……今日はずいぶん泳いだな。洞窟探検は明日にするか? ……
( 海で溺れかけた友人を、暖かなタオルで優しく包み込む。狩りをせずとも生きていけるようになったこの現代で、何故運動神経の悪さは未だ嘲笑の対象足り得るのか。人前で運痴を晒す痛みを知っているリズはこの時、どうやってビビを慰めようか、結構真剣に考えていたのだが。真っ赤な顔をして項垂れていた友人は、ゆっくりと顔を上げたかと思うと第一声、「~~~ッ、ギデオンさん超カッコよかったぁ……やっぱり好き……」と。……まあ全くもって心配のし甲斐がないことである。
そうして訪れた、待ちに待った自由時間。いつもより冷たい目をしたエリザベスを宥め透かし、アリアも誘って再度波打ち際に繰り出した乙女3人の──……その遥か後方。穏やかな笑顔で腕組みをしたバルガスが、10m程の間隔を守って、ずっと着いて来るのは気のせいだろうか。最初はまったり綺麗な貝殻を集めたり、仲間の潮干狩りを冷やかしたりと、穏やかに砂浜を楽しんでいたものの。これだけ美しい海を目の前にして、最初は冷たい水で足を洗う程度だったのが、次第にお互い水を掛け合っては逃げ惑い、結局本格的な水遊びとなってしまう。終始後方で腕を組んでいたバルガスは、きゃっきゃと上がる楽しげな声に、フラフラと誘われてきた青年達を追い払いはするものの、とうとう最後までこちらに声をかけて来ることはなく、真夏の太陽はあっという間に、西の空へと傾いていくのだった。 )
……ギデオンさん!
( まず最初に体力の限界が訪れたのはエリザベスだった。撥条が切れたかのように動かなくなった彼女を、すかさずバルガスが回収に来て。それからアリアも、彼女の同期との約束があるとかで、すっかりひとりぽっち、一気に手持ち無沙汰になってしまい。赤紫に染まる水平線をぼんやりと眺めていたその時。背後からかけられた声に振り返れば、ちゃっかり美味しそうな物を手にしているギデオンに小さく吹き出して。遊び相手が居なくなってしまった寂しさと、訓練の疲れからだろうか。大好きな恋人の姿に安心すると共に、どうにも甘えたい気分になってしまう。そこへ相手の口から、ずっと一日楽しみにしていた予定の延期を提案されれば、どうにも我慢ならなくなってしまって。隣に座ろうとしたギデオンの腕の間に、少し強引にでも納まると、「あーん、」と相手手ずからの給餌を強請ってみせる。──……シャクシャクと甘い氷を噛み締めながら、ギデオンの肩に頭を預け、前方に腕を伸ばしてぐっと伸びを。そうしてたっぷり相手に甘え倒してからやっと、己の体力の限界に素直に頷きつつも、温かな肩、もしくは腕にぐりぐりと頭を押し付ければ。明らかに眠そうな表情でしっとりと低い掠れ声を漏らして、肩越しにその青い瞳を覗き込み。 )
……んー、うん、そうする、
でも、ギデオンさんとは一緒にいたい……いいでしょ?
(ぐりぐりと潜り込んできた栗色の頭に、一瞬動きを止めて驚いた様子を見せつつも。これでよし、と言わんばかりのご満悦な様子や、甘えん坊を全開にした堂々たるおねだりが、なんだか無性に可笑しくて。「負けたよ」と仕方なさそうに喉を震わせ、背後の単子葉植物の根元に心地よく背をもたれると、大きな雛鳥の口に氷菓を運んでやることにする。しゃくしゃくしゃく──腕の中から、嬉しそうに氷を噛み砕く音。それがじかに伝わってくるだけでこんなにも満たされるのだから、つくづく不思議なものだ。2度、3度と夏氷を食べさせ、同じ匙でごく自然に自分の分も堪能しながら、遥か視線の先、黒々とした水平線に沈みつつある真っ赤な夕日を、心地よい思いで眺め。ふと、己に擦りつきながら眠たげに見上げてきた瞳を見つめ返せば。穏やかな笑みを返しながら、その形の良い頭を宥めるように撫でてやり。)
いい、と言ってやりたいところだがな。プライベートじゃなくて、ギルドでの旅行だから……“不純異性交遊”は禁止だ。
それに実のところ、今日はこの後、明日からのカリキュラムを組みなおす会議が入りそうでな。どの道、探検もデートも、明日以降にさせてくれると助かる。
(──歳の差のある交際関係の、世知辛いところである。不純異性交友が禁止と言ったって、熾烈な抽選を勝ち抜いたカップルや、そうでなくともこの特別なシチュエーションを出会いの場に……と目論む輩は、こっそり隠れて盛り上がるに決まっている。しかしそれはあくまでも、若気の至りが許される世代の話。ヴィヴィアンはそちら側であれど、生憎ギデオンはそうではない。立場や責任を放り出して恋人にかまければ、下の世代に示しがつかないし、責任者仲間にも申し訳がないのだ、と。相変わらず生真面目で理性的な一線を引きつつも──どこかでデートはするつもりだ、とさりげなく明かしたのは、甘えたい気分の相手に、甘い飴をやりたいからで。少し解け始めた氷菓を掻き集めてまた頬張り、甘味に目を細めながら、相手にももうひと口運び。)
だから、今日甘えるなら今のうちだ。夕餉の場所に引き上げるまで、まだ少し時間がある。
……!
何があったんですか?
( 一体自分はいつの間に、こんなに甘やかされ慣れてしまっていたのだろう。先程のおねだりを当然受け入れられるもの疑っていなかった自分に気が付いて、おっとり目を伏せはにかむと。(与えられた一口はしっかりちゃっかり頬張ってから、)ギデオンの長い長い脚の間、預けていた姿勢を立て直し、するりと膝立ちになって向き直る。──短くは無い合宿の間、そりゃ小さな相談、すり合わせ等は無数にあるだろうが。合宿2日目、それも訓練初日から重めの会議など、何かあったに違いない。すわ魔物か不審者かと、すっかり眠気の抜け落ちた真剣な表情でギデオンを見下ろして、最近益々艶っぽい頬をそっと撫でると、愛しさ余って不意打ちのようにシロップの唇を柔く食む。そうして、すぐにゆっくりと離した顔には、冒険者らしい真剣な危機感が滲む一方で、放っておくとすぐ働きすぎる恋人を心配する眼差しも多分に含んで。「お仕事頑張り過ぎて、無理しちゃダメですよ」なんて。今や素直にお節介を焼ける立場が心地よくて、少し硬い金髪に絡んだ砂を梳いてやりながら。満面に浮かべられた女神イドゥンを思わせるその無邪気な笑顔と、続けて漏らされた聞きようによっては意味深にも捉えられなくもないこの発言が、誘惑どころか、学生時代に耳にタコを作った単語への懐古と、相手に対するこれ以上ない信頼と安心によってもたらされていることを、ギデオンは、この1ヶ月で嫌という程思い知らされているはずだ、 )
──それにしても。不純異性交遊なんて久しぶりに聞きました……"不純"なことなんて何もしないのにね、
大したことじゃない。今日は泳ぎ一筋になったから、その分の帳尻合わせと……ほら、一緒に海から上がるとき、変な大波があっただろ。それがどうも……この辺りに出る魔獣の仕業じゃないか、って話になってな。
(物事に敏いヴィヴィアンは、ギデオンのなんてことない一言から、何か訳ありと読み抜いたようだ。感心したように小さく喉を震わせると、手に持っていた氷菓の器を脇に置き。空いた右手を相手の下ろし髪に伸ばし、なんとはなしにもてあそびながら、とりたてて秘匿でもない、けれど若手連中には未だ為されていないだろう、明日以降に係る事情説明を。「──大コスタ近くのと違って、こっちのウーシュカは人を喰わない。それでも念には念を、ってことで、調査やら何やらの打ち合わせをする予定だ。トリアイナの連中も、わざわざ情報提供に来てくれるつもりらしい」と。……しかし、そんな仕事の話なぞよりも。己が相手の髪に戯れるように、ヴィヴィアンが己の頬を撫でてくれる、その心地良さの方が、今のギデオンには余程大きくて。思わず青い目をとろりと細めれば、そのせいだろうか、次の瞬間甘やかな不意打ちが。一瞬の驚きも、すぐにこちらからの無我の応えにとって代わり。やがて離れていく顔を、ぼんやりとした目で見つめ返せば……そこにはヴィヴィアンの、いかにも真剣な心配顔。けれども、どこか満足げでもあることまで、その口元から読み取れて。──ああ、俺にあれこれ言えるようになったのが嬉しいのか。そう気がついて目を笑ませると、「わかった」と素直に頷き。己の髪を梳く優しい手つきに、微睡むように目を閉閉じた。
──せっかくこのビーチの名物、宝石のように真っ赤な夕陽が、今にも海のかなたに沈みかけているというのに。ヴィヴィアンは背を向け、ギデオンは目を閉じて、互いだけに夢中なこの有り様だ。せっかく買ってきた氷菓の残りだって、ふたりの横で、とっくに生温い液体へと成り果てている。けれども、ヴィヴィアンはともかく、食に目がないと密かに有名なあのギデオンさえも、それに構う様子がなく。……先ほどから、ビーチの用具類を片付けつつもふたりの逢瀬をチラチラ盗み見ていた、青年冒険者たちの何人かときたら。「……あ、アレ……ほんとに付き合ってんだ……」だとか、「つーか、前まで言ってた『別に付き合ってない』っての、アレもアレであの時はほんとだったんだ……」だとか。揃って遠い目を虚空に投げて呟いては、砂浜に崩れ落ちるのだった。
──しかし、ギデオンもギデオンで。ふとヴィヴィアンが漏らした言葉の走りに、顔を起こしたかと思えば。その結びを聞いた途端、酷く酷く切なげな、遠い眼差しを浮かべる羽目になるだろう。『“不純”なんてこと、何もしないのに』──そうか、そうだろう、相手はそうに違いない。だがこちらは大いに違う。それこそ良心が痛むくらいに、“不純”な自制に身に覚えがある。いっそここでそう告解できれば、どれほど気が楽になることか。とはいえ、相手の発言は誘惑でも無知でもなく、無垢の信頼(……またの名を、ギデオンの自業自得)からくるものだとわかってもいるものだから。複雑な表情を一瞬ぐるぐると浮かべたのち、今はまだぐっと沈黙を選び。ほとんど素肌の背中や、珍しく髪を結い上げていない後頭部を、大きな掌で抱き寄せたかと思えば。言い知れぬ歯痒さを晴らすように、相手の唇をたっぷりと──先ほどよりも少々深く奪い返し。やがて相手を間近に見上げ、悪戯っぽく口角を緩めるだろう。)
…………、こういうののことを言うんだろう。
ウーシュカって……溶解薬のストックとか、んっ……──
( 長い指が栗色の毛束を弄ぶ、その何気ない手付きさえ、ギデオンの仕草はビビが大切で仕方がないといった風情が溢れて。ビビが自分で巻くよりよっぽど美しいカールがぷわりと揺れるのだから、自分は1本の毛の先まですっかりギデオンに惚れ込んでいるらしい。此方の忠告に素直に頷いた相棒へ、まるで子供を褒めるかのように再度、その頬へと触れるだけの口付けを落とせば。静かに瞼を閉じる恋人とは対象に、紅い夕日を受けて煌めく美しい顔を鑑賞するのに忙しかったものだから。この美しい人をより引き立てるための照明や、周囲の反応になど目を向ける余裕なんて微塵もなく。
そうして、その意味までもは読み取れなくも、ギデオンの表情が複雑に揺れたことに気がついて。先程の魔獣疑惑と結びつければ、ゆっくりと真面目さを取り戻さんとした唇を、今度は相手から奪われて。立てていた膝から力が抜ける。深い口付けに、気がつけば砂の上にぺたりと腰を下ろして、ギデオンの胸に抱きつき──好き、好き、大好き、と此方からも与えられるがままに貪った。そうしてゆっくり離れていくギデオンに、とろりと溶けた瞳で微笑み返そうとした時だった。恥ずかしいとも、なんとも思わず喜んでいただける行為を揶揄されると、恥ずかしそうに眉を八の字に曲げ、かあっと顔を赤らめて。 )
──……キスって、"不純"なんですか……?
──やり方次第だ。……
(何かと純真無垢な相手を揶揄うこと……それ自体は、ギデオンの目論見通り、成功するにはしたのだろう。しかし問題は、ヴィヴィアン相手の勝負となると、最後には必ず敗けるのを、すっかり忘れていたことで。たった今の、いかにも純真な乙女らしいおずおずとした問いかけが……しかし、どれほど凄まじい破壊力を叩きだしたか。当のヴィヴィアン本人は、少しもわかっていないに違いない。
思わず言葉を失っているギデオンの顔は、若い娘を弄ぶ、悪い大人の愉快気なそれから一転。一見すうと落ちついたようでいて、この夏初めて見せる獣性が、その色を立ちのぼらせていた。──そうか、今のキスさえも、彼女にとっては淫らなうちには入らないのか。ならそのまま、あれもこれもいいことなのだと思わせながら、何とは言わずともどんどん教え込んでいこうか。それとも、いけない、“不純”なことだとわからせてしまった上で。それでも強請らずにはいられないよう、身も心もどろどろに堕としきってしまおうか………。普段は理知的な薄花色を宿しているはずの双眸は、今やざわざわと瞳孔が開いたために、その色合いを濃く深め。曖昧に応える声も、妙に低く掠れて、どこか渇きじみた気配が熱気のように絡みつく。頭の奥の理性は、まだその時ではない、今踏み出しても余計に辛抱がきつくなるだけだと、はっきり告げてはいるものの、夢の中のようにぼんやりとくぐもって聞こえない。ただ欲しい──ヴィヴィアンが、欲しい。恋仲になって尚、己の中にはまだまだ満たしきれていない深い欲が眠っていたのだと。そうはっきり書いた顔で、相手を無言で見つめ上げ。一度だけ、相手の背中と腰に手を添え直して、ごく軽く揺すり上げるような動作をしてから。少し前の平和な一幕とは反対に、今度はこちらが雛鳥になったかのように、口を開けて甘露を求め。)
あ……
( ──だって、この真面目で優しい相棒がする事が、褒められたことじゃない、不純なものだとは思いもしなかったのだ。強く長い手脚の檻の中、その身を縮こまらせたヴィヴィアンを串刺しにする薄花の瞳。この美しくも恐ろしい輝きに、シルクタウンの夜に見た、獲物を前にしたワーウルフを思い出す。普段はただ嬉しいだけの触れ合いが、背中に触れるギデオンの掌が火傷しそうに熱くて、恐ろしい瞳に射抜かれた身体は硬直して、冷たい汗が止まらない。──ハグやキスは良くて、それ以上は怖いって……その間に一体なんの根拠があるんです? いつかそう呆れた顔をしていた親友の話を、聞き流したバチが当たったのだ──この一ヶ月、与えられるまま許されるまま、ただのキスだからと、その幸福をいいように貪り、何度も何度も強請った記憶が甦り。発光しそうなほどに赤面し、涙目で首を振るヴィヴィアンはしかし、親友の真意を強かに誤解している。──ハグやキスと、それ以上の行為。そのどちらも、恋人同士に関係であるお互いが許すならば、何を躊躇うことがあるのか、という初心な親友の背中を押してやらんとする発言に──流石のリズもこの24歳児の初心さを甘く見ていたのだろう──寸前のギデオンの囁きも相まって、ビビの中でハグやキスでさえも、はしたない、浅ましい行為に成り果てていく。可哀想にガチガチに固まった身体を揺すりあげられ、「ひゃッ、」と小さく震え上がると。甘く開いた唇を、それが淫らな事だと知ってしまった今、素直に許容できる訳があるだろうか。しかし、必死に相手の唇を両手で覆い隠したところで、教えこまれた幸せを忘れられる訳もまた無く。自分で拒絶しておきながら、モジモジと数度言い淀んだヴィヴィアンが、やっとの決心で潤んだエメラルドをギデオンに向けたのと、「おーい、そろそろ引き上げるってぇ」と、どこからとも無く、間の抜けた集合がかかるのがほぼ同時だった。 )
──……だっ駄目! …………その、今はギルドの旅行中だから!
……、だから…………帰ったら、して、ください……
(ぱふ、と口を塞がれた途端。暗い欲の火が点いていたギデオンの青い瞳は、靄がみるみる晴れていくように、澄んだ明るさを取り戻す。そうして、戸惑ったようにぱしぱしと瞬きながら、もう一度相手を見つめ直せば──可哀そうに、ヴィヴィアンの真っ赤な顔は、明らかに酷いショックを受けていて。触れている体もゴルゴンに睨まれたように強張り、あのゆったりとした安心感、ギデオンへの全幅の信頼感が、どこかに引っ込んでしまっている。挙句、集合の呼び声とほとんど同時に絞り出されたその声は、決して甘やかなお預けなどには聞こえず。寧ろ、怖くて蹲るような……問題を先送りするような……それでもこちらを想って無理に背伸びするような──か細く震える、痛々しいもので。
──ギデオンの理性が、急速にその本来の冷たさを取り戻し。かえって己の肝を、突き落とすように冷やしていく。……いったい何故、忘れていたのか。マリアが言っていたではないか、彼女は男とのそういった行為にトラウマがあるようだと。『その……、私、あんまり "こういうこと"……に、いい思い出がなくて……』。去年の冬、彼女自身も、目を潤ませながらそう打ち明けてくれていた。だというのに、自分は何を……ヴィヴィアンに何を。──そう、結局のところ、このひと月の親密な戯れで、すっかり油断や誤解をしていたのは、ギデオンもまた同じ。相棒関係になって一年、恋人同士として同棲を始めて一カ月。ほんのそこらの浅さの関係で、互いの人生経験の違いがそう簡単に擦り合わせられるなど……傲慢甚だしい思い上がりだったのだ。)
……、悪い。怖がらせるつもりじゃなかった……本当にすまない。
(ギデオンの身体から、男の仄暗い獣性も、恋人を傷つけた恐怖による強張りも、一度すうっと抜け落ちて。自然に俯いてから再び面を緩く上げれば、そこにはいつものギデオンが……このひと月彼女と親密に接してきた、温かな、絶対に安心できる恋人として求められていた時の顔が、取り戻されているだろう。彼女の竦んだエメラルドを優しく覗き込み、集合の声を少し無視してでも、相手の熱い頬に柔らかく手を添えて、潤んだ目元を拭う素振りをしてみせたのは。ここを決して間違ってはいけない、軽く見てはいけないと、強く直感していたからだ。)
……俺は、おまえが大事だ。無理はしなくていい……別に、変に諦めるわけじゃない。
このことはちゃんと……後で、ゆっくり話をしよう。
(──本来なら、後日と言わず今ここで、きちんと話し合いたいのだが、状況のせいでそうもいかない。だから兎に角、相手の拒絶にがっかりしたりなどしていないこと、寧ろきちんとヴィヴィアンの気持ちを待って臨みたいこと、それよりも前に、もっと大切な部分を確かめあいたいことなどを、最低限伝えれば。「おふたりさーん、」と聞こえてきた声に、一度そちらをもどかしげに振り返ってから、やむを得ず、相手に手を貸しながら立ち上がり。合流する道すがら、相手の手を軽く握り込み、自分の心は相手とともにあることを、無言でもう一度念押しする慎重ぶりで。──はたして、人だかりのすぐそばまで行けば。ベンチで休んでいたエリザベスが(隣には当然かつ番犬のようにバルガスが控えていた)、何を感じたかこちらを振り向き。ヴィヴィアンの様子を見て訝し気に眉を顰めたかと思うと、彼女とずっと過ごしていたギデオンのほうに、疑念顕わな目を向けてきた。それを臆さずまっすぐに受け止め、寧ろ意図を込めた視線を送り返せば。──その頼み込むようなまなざしを、聡明な彼女はきちんと読み取ったのだろう。ただでさえ冷めている瞳が、明らかに数段階冷え込んだかと思えば。すい、とギデオンから逸らした顔は、もうヴィヴィアンにのみその意識を向けており。「──女子の馬車は先に発つようです、行きましょう」と、ごく自然に彼女を引き取り、もとい……ギデオンから離したのだった。)
(──2日目の晩餐も、グランポート市の厚意による温かなご馳走が供された。初日の夜のご当地名物フルコースとは違い、今日は温かな郷土料理が中心。昔ながらの鍋や煮物を皆でつついて楽しんで、控えめながら酒盛りもして。それが終われば、各々のコテージに引き上げ、明日に向けての就寝準備だ(とはいえ、ギルマスやジャスパー、ギデオンなどの引率組が宿泊する中央の大コテージは、夜半まで明かりが点いているのだろう)。
総勢40人の合宿参加者の中で、女子の割合は三分の一。よって、ベッドが8つあるコテージが2棟割り当てられているものの、片方のコテージは、実質的にはその半数しか使われない。──それを良いことに、自分の彼氏なり、良い雰囲気になった相手なりを連れ込む、お盛んな娘たちがいるらしく。カレトヴルッフの前代三人娘こと、フリーダ、リッリ、エスメラルダの独身三十路冒険者たちが、妹分たるヴィヴィアンらの棟に転がり込んできたのは、表向きはまあ、そういった事情によるもので。
「開けろ、キングストン市警だー!」と豪快に笑う女槍使いエスメラルダは、既に片手に酒瓶を掲げ、ご機嫌の酔いどれっぷり。乱暴にドアを叩かれたことで出迎えたエリザベスは、「ここに被疑者はおりません」と、きっぱり冷ややかに締め出そうとしたのだが。「まあまあ、昨夜は一応早寝しよっかってなってできなかったしさ。せっかくだから女子会しようよ??」と、ちゃっかりフット・イン・ザ・ドアをかましてくるのが、女魔法使いフリーダ。「ごめんねぇ、このふたり言いだしたら聞かなくて……」と、ふたりの後ろで申し訳なさそうに、その実したたかに上目遣いで頼み込んでくるのが、女精霊使いリッリ──いずれも、業績の上でも同世代の男たちに引けを取らず、実際プライベートでも男に「あ?」と返して見せる、手練れの先輩方である。ため息をついたエリザベスが仕方なく中に引き入れれば、先輩方はずかずかと中に入り込み、さっそく実家のような寛ぎっぷりを発揮し始め。「なんだ、カティもう寝てんじゃん! 起きろよ! あんなんじゃ飲み足りないだろうがよー!」と、エスメラルダがベッドでぼんぼん飛び跳ねて起こしにかかるものの、腹を出したままいびきをかいているカトリーヌは、それこそゴーレムが降ってこない限り起きないような爆睡っぷりだ。他にこのコテージに居るのは、ヴィヴィアンとアリアのふたり。他にも4人ほど同室の娘がいるはずなのだが、彼女らは宵闇に紛れて逢引に走っている頃だ──まったくトランフォード人らしくて結構なことである。とにかく、カトリーヌが健やかに寝ている今、先輩方の言う“女子会”とやらは、前代・現役のカレトヴルッフ三人娘が、ごろごろできるラグの上で仲良く向き合う形となり。ジャスパーを操……誉めそやすことで上手いことつまみをせしめてきたフリーダが、レモラのちちこ(心臓を甘辛いタレで煮込んだもので、なかなかの高級品なのだという)を嗜みながらヴィヴィアンに水を向けたのは、ごくごく自然な流れでのことで。)
──それで、ビビちゃん。アイツとはどうなの? どのくらいいってるの??
( どうやら正気を取り戻したようなギデオンの謝罪に、ヴィヴィアンの表情にほっとあどけない安堵が滲む。しかし遅れて、恋人として"当然"の触れ合いに応えられなかったことを痛感した途端。……嗚呼、ギデオンさんに捨てられたらどうしよう、と。優しい恋人を信じたいにも関わらず、7年前のトラウマが蘇り、どうしようもなく涙が滲む。それをギデオンの大きな手が拭ってくれて、その後も……欲しい言葉、欲しい温もり、ヴィヴィアンが望むもの全てを与えてくれる大人な恋人に、己の未熟さを痛感するばかり。ごめんなさい、ごめんなさい、ギデオンさんが嫌な訳じゃないの、本当に貴方のことが世界一好きなんです……そう伝えたいことは沢山あるのに、ショックで震え上がった声帯は未だ仕事をしてくれず。並んで歩く集合場所までの短い間、ただ優しい言葉にこくこくと頷くだけで、徐ろに立ち上がったリズに引き取られるまで、とうとう大好きなはずの恋人の顔を見ることも、温かい手を握り返すことも叶わなかった。 )
──どのくらい、って……。
~~っ、その! ギデオンさんも、私と……"そういうこと"、したいと思いますか!?
( ──待って待ってどういうこと!? 寧ろまだしてないの!? そんな叫びから始まった女子会は、最初からフルスロットルで始まった。「はぁ~、もうギデオンの激ヤバ性癖が聞けると思って来たのになぁ」と、ワイングラスを傾けたフリーダを、「本人は真面目なので面白がらないであげてください」と諭したリズの膝の上。よく通る先輩の叫び声に吃驚して縮こまったヴィヴィアンが、スンスンと親友の膝に涙の染みを作っている。その小刻みに震える頭を優しく撫でて、「ごめんなさいねぇ。ほら、いつも手がかからない後輩が悩んでるって聞いたら、力になってあげたくなるじゃない?」と、最早此処に来た真意を隠さないリッリの物言いが逆に心地よくて顔を上げると、その横でずっとハラハラと此方を伺っていたらしいアリアが、腫れ上がって明日に響きそうな瞼を冷やしてくれて。それにうぅ~っと甘えた声を上げれば、それまでずっとカトリーヌに構っていたエスメラルダがベッドから降りて来て「それで、ビビは何をそんなに悩んでるんだ?」と、その真面目な顔にまたポロリと涙が零れてしまった。
何を、と問われれば──結局、己の未熟さ故にギデオンに見捨てられるのが怖いのだ。優しい恋人は絶対にそんな事しない……と、7年前だってそう思っていたその結果がどうだったか。──友達だと思っていた同級生の視線が、成長期と共に此方の身体にばかり注がれるようになり。親切だと思っていた同僚が、一度仕事中の事故で触れ合ってしまってから、ニヤニヤと何度も擦り寄ってくる。そして、誰より優しいと信じていた、大好きだった少年は、嫌がるビビを暴こうとして止まってくれなかった。そんな……そんな、本来は穏やかでまともだった筈の彼らを狂わせる、"何か"が、あの虚ろでギラギラと光る瞳が怖くて怖くて堪らない。──それを子供なのだと、人生の楽しみを知らないと笑われようと、我を忘れるような快楽など要らない。大好きな人と手を繋ぎ、ただ抱き着いて、たまに口付けられるだけで良かったし、同棲して一ヶ月。手を出してこない恋人に、もしや相手もそうなのではなかろうかと、身勝手に都合の良い妄想へと逃げた挙句。結局、他でもないギデオンがやはりそれ以上を望むというなら、自分はどうすれば良いのだろう。ギデオンのためなら、痛みも恐怖もきっと我慢してみせるという想いはあるが、それで彼が今まで関わってきた素晴らしい女性達に勝てるだろうか。ビビの知らない"何か"がギデオンを狂わせて、やっぱり他の娘がいいと言われたらどうしよう。
──そんなヴィヴィアンの支離滅裂な泣き言を、「それギデオンに言ったことあんの?」と遮ったのは、いつの間にか目を覚ましていたカトリーヌだ。フリーダのちちこをつつこうとして、ピシャリとやられた手を擦りながら欠伸を漏らした女剣士の一言に、それまで静かに相槌を打ってくれていた周囲も一気に爆発する。決して女が安心して過ごせるとは言いきれない世間への呪詛から、ビビへの同情。話がギデオンの不甲斐なさを責める方向性へ行った時は、慌てて話題を逸らそうとして、何故か自分がやたら可愛がられたり。最後には──これだけ歳の離れた娘と付き合ってるんだもの。経験値の差なんて織り込み済みでしょうから、私も本人に相談するのが一番いいと思う、と始めたフリーダが、「それに、案外シてみたらハマっちゃったりしてね」なんてやたら美しいウィンクを飛ばす頃には、全員良い感じに酔いも回って時刻も日を跨いていて。話題は自然と、"実践"で使えそうな技の講習に移っていく始末だった。
そんな女子会及び宴会の後、誰のものとも分からないベッドに入り込んで、今日のことを振り返る。──相手に相談しろ、なんて。全員いとも簡単に言ってくれるが、それが恥ずかしいといったらないのに。…………明日。少なくとも、今日も態度は謝らなくちゃ。タイミングがあったらいいのだけど、と胸中の不安にころりと寝返りを打った先。何かが指先に触れたのを確認すると、全く誰が持ち込んだのやら、先程の"夜の講義"で教科書として使われた小説に、顔を真っ赤にしてシーツに潜り込んだ。 )
(──ヴィヴィアンの様子が非常に気にかかったものの、あの後のギデオンは、頭を切り替えねばならなかった。夕食後の会議に同席したトリアイナのメンバーから、明日の天候を懸念する声が上がったのだ。数時間前の美しい夕焼けを思い返す限り、とてもそんな風には思えなかったが……そもそもキングストンとグランポートでは、緯度も地形も大きく異なる。ここで長く暮らしている冒険者が言うのだから、きっとその通りになるのだろう。
従って、予定していた打ち合わせのほか、予め用意していた雨天時の代替案を確認する作業が入り……その話し合いが膨らんで、あっという間に夜が更けていき。俺たちもそろそろ寝よう、とお開きになったところで、小さくため息をつきながら、ようやく窓の外に目を向ける。宵闇の向こう、まだ小さな明かりがついているのは、ヴィヴィアンやエリザベスが泊まっている女子用のコテージだ。……あの後、彼女は大丈夫だったろうか。やはり今からでも、様子を見に行くべきだろうか。こういう問題は、時間を置けば置くほど修復が難しくなることが多い。しかし、今の段階で下手に顔を合わせたところで、まだ怖がらせてしまう段階ではないだろうか──。
深刻な顔で悩んでいたギデオンの横を、何やら震えながら通り過ぎていく者がいた。外から帰ってきたレオンツィオだ。「おお怖……」などと呟いているので、どうした? と気軽に尋ねれば。「──スヴェータがさ、コテージに戻れないっていうんだよ。あいつのとこ、今はフリーダたちが上がり込んで好き勝手してるらしい。エリザベスたちからすりゃ、山賊に襲撃されたようなもんだよな」、と。……お前、スヴェトラーナといったいどうなってるのか、そろそろいい加減……と、吐かせたい気持ちも山々だったものの。それより何より、ギデオンの顔は、微妙な表情できゅっと硬くなってしまう。──カレトヴルッフのほとんどの男たちにとって、前代カレトヴルッフ三人娘は、今や非常に恐ろしい、下手な魔獣よりよっぽど相手にしたくない存在である。彼女らが巣食っているかと思うと、ヴィヴィアンを連れ出すべきかと悩んでいた考えも、みるみる小さく萎んでいくほどで。……まあ、フリーダやリッリやエスメラルダは、あれでもなんだかんだ、気立ての良い女たちだ。今のヴィヴィアンには、寧ろ同性の先輩たる彼女らの方が、よっぽど上手に寄り添ってくれるかもしれない。ヴィヴィアンが悩みを打ち明けているだろう場面に、当の自分が顔を出しては野暮だ……そう、決して、あそこに顔を出せば袋叩きにされるだろう可能性に、恐れをなしているわけではなく。そんなギデオンなりの配慮は、結果的には一応正解していたものの。女性陣のいるコテージにて、「不甲斐ない」「腑抜けだ」「ヘタレだ」と散々に罵られていたのは、当然ではあっただろう。)
(さて、あくる朝。トリアイナの予言通り、早朝の共同パトロールを終えた頃には、天気が崩れ始めていた。雨天時の水難救助訓練も、需要があるにはあるのだが……泳ぎ慣れない若手が多く居るから、やめるに越したことはない。結局、ジャスパーの口から早々に訓練中止を言い渡し。皆で近くの公民館に引き上げる段になると、本格的な土砂降りが始まった。いよいよ今日一日は、昨晩準備した講義の段取りをなぞっていくことになる。
──ヴィヴィアンと顔を合わせる機会は、朝から何度かありはした。しかしそういう場面に限って、どちらかが声をかけられるものだ。一度しっかり目を合わせ、(後でな)と口パクで伝えたが、昨夜の件を気にかけていることは、あれで無事に伝わっただろうか。生憎その後のギデオンは、他の講師役のサポートや、自分自身が教壇に立っての講釈。その他、明日以降の消防局との連携に、時間を割かねばならなくなり。ヴィヴィアンもヴィヴィアンで、若手として手伝いに駆り出されるなどして、忙しく過ごすこととなった。
ようやくそのタイミングを得たをのは、自由時間もとっくに始まり、皆がそれぞれのコテージに引き上げた夕食後。明日への会議を早めに終わらせ、引率の立場を堂々と返上してから、黒い音物の傘を差して、まだしとしとと降り続く雨の中へ歩き出す。目指す先は女性陣のコテージ、ヴィヴィアンの泊まっている棟だ。雨音を考慮して少々強めにノックすれば、顔を出したのは新人ヒーラーのアリア。「ヴィヴィアンを借りたいんだが、今出られそうか」と尋ねれば、若い娘はまん丸い目でギデオンを見上げてからこくりと頷き、先輩を呼びに中へ戻っていくだろう。そうして出てきた相手と、しっかりと目を合わせ。……しかし、ソファーの陰からにょっきり顔を出し、何やら野次馬面でこちらを見ているカトリーヌやスヴェトラーナを、一度ちらりと憚ると。軽く顔を傾けながら、表向きの用事を伝え。)
明日の訓練中、俺たちだけで抜け出す用事が入りそうなんだ……ギルマスじきじきの指令でな。
そのことで、ちょっと向こうで打ち合わせがしたい。
( ──ビビちゃん、ビビちゃん……ギデオン・ノースさんが。生憎の天気に見舞われた、グランポート三日目の夜。雨に振り込められたコテージに力強いノックが響いたその瞬間、ビビはリズと共に昨日の片付けに取り掛かっていた。こんな酷い天気の中、思わぬ訪問者に固まっていると、冷たい目をした親友に酒瓶を奪われ、そのまま玄関へと突き出されてしまう。──せめて着替えさせて欲しかったな、なんて。まだ日中の装束をかっちりと着込んでいる相手に対して、此方はと言えば、昨年の夏披露したアレ程ではないものの、胸元も脚も投げ出した、気の抜けた部屋着が居心地悪くて。そうでなくとも丸一日以上、碌に顔を合わせていなかった恋人に気まずい思いでへらりと笑いかけると。それが表向きの理由だとは分かっていても、確信に触れない事情にほっと顔を緩めながら、広い玄関に相棒を招き入れた。 )
んっ、分かりました……ちょっと着替えて来るので待ってていただけますか。
( それから四半時は経っていないだろうか。いつもの仕事着に着替えたヴィヴィアンとギデオンは、コテージ裏手の急な階段を下って、夜の砂浜を歩いていた。雨はまだしとしとと降り続いていたものの、玄関先を出る際、ビビが傘を手に取らなかったのは、自分が今からしなければならない話を、傘二つ分の距離を隔ててとても出来る気がしなかったからだ。そうして自然と一つ傘の下、誰もいない浜辺を、数cm越しに相手の体温を確かめながらゆっくり歩く。目指しているのは、砂浜の西側に浮かぶ小屋の影。小屋と呼ぶにも些か簡素なそれは、数本の柱にトタンの屋根が乗っかっただけで壁もなく、落ち着いて話をするにはやや開放的だが、夜の帳と静かな雨が目隠しとなってくれる今晩にはピッタリだろう。
ザザ、ザザン……サクサクサク……と、低い波の音を縫って、二人分の足音が耳をくすぐる。小屋につけば、優先すべきは仕事の話で──……もうこれ以上なく私的な話をするなら、今しかない。そう意を決して開いた唇は、辛うじて謝罪の気持ちは音にしてくれたものの。それ以上を口にするのがどうしても出来なくて、どうしようもない羞恥と、ギデオンに呆れられたらという恐怖に震えて白い顔で唇を噛む。それでも、ギデオンに話すための勇気を、ギデオンに貰っているようで訳ないが……今日はまだ一度も触れていなかった手をそっと握り。何度も何度も躊躇って、話の確信から逃れようとした結果、なんとか震える声を絞り出してから、逆にとんでもないことを口にしてしまったことに気がついて、堪らず潤んだ瞳を海側に逃がすと。初日以降ゆったりとおろしている豊かな髪の隙間から、真っ赤な首筋を覗かせて。 )
……ギデオンさん。お仕事って……ううん。
昨日は、変な態度を取ってごめんなさい。……突然だったから少し、驚いちゃって。
…………っ! それ、それでね……、あの、…………っと、ギデオンさんは私と──その、キス……以上のこともしたいの……?
(ここまでの道中、何とはなしにお互い黙っていたものだから。浜辺の小屋に着き、傘を振るって折りたたみつつ、なんと切り出すべきか考えていた。先ほどのヴィヴィアンの、昨夕ほどは強張っていない様子……けれど、今日一日ほとんど話していなかったこと。それらを踏まえ、どこから触れれば、目指すものに近づけるだろうか。しかし、先におずおずと伸びてきた手に、少し驚いた顔を上げ。目の前の若い娘の、ふるふると躊躇いながら勇気を振り絞ろうとする様を、ふと表情を変え、決して邪魔せず静かに見つめる。──そうして転がり出てきた言葉に、一瞬きょとん、と目を瞬くと。小さく吐息を漏らすように笑い、真っ赤な顔を逸らしている恋人の方に一歩近づいて。)
──……、したいよ。俺は、それなりに……欲深い人間だから。
(決して昨夕のような仄暗い声ではなく、寧ろ穏やかに落ち着いた声で、あっさりと肯定すれば。夜風にたなびく栗毛の束を軽くすくい、彼女がこちらを向いたタイミングで、緩やかに微笑みかけるだろう。ふと促すように視線を逸らせば、その先にあるのは、砂に半分埋まった大樽(おそらくこの簡素な小屋は、これに合わせる形で建てられたものなのだろう)。手を繋いだままそちらに歩み寄り、上に被っているボロ布をどければ、幸いその下は雨に濡れていないようで。先に腰を下ろす形で相手の手を緩く引き、隣に座るよう促すと、足元に転がっていたランタンに火魔法をぽうと灯し。小さな明かりに照らされながら、脚の間で両手を軽く組み。至極落ち着いた、けれど自分の本心を隠し立てもしない様子で、隣の相手の顔を見て。)
いきなり変な態度をとったのは俺の方だから、おまえは何も悪くない。怖がらせて悪かった。
……お前に対して、そういう気もある、と思うと……やっぱり、怖く感じるか。
…………、
( ぬるく湿った潮風に、しゃぼんのような林檎のような、無垢で清潔な香りの巻き毛が揺れる。此方の血迷った質問に、ギデオンがあまりにあっさり頷くものだから、思わず脱力して優しいエスコートに引かれるがまま、斜めった大樽に腰を掛けると──こうして大好きな手を握り、ただ温かいだけの優しさに浸っていられたらどれだけ幸せだろうと、ぽやりと目を細めて現実逃避に耽っていた時だった。確かにそう思っていたのは事実だが、本人には言ってなかったはずなのに。ギデオンの口から漏れれ聞き捨てならない言葉に、思わず身体を乗り出して、 )
ギデオンさんは怖くなんか……ッ!
…………。ごめんなさい、ギデオンさんだから、怖いわけじゃないんです……
( ──優しいギデオンを傷つけるような態度をとってしまった。その事がとても辛くて、勢いのままに反応をとってみたものの、それが嘘だということは誰より自分がよく知っていて。硬い太ももに着いた手をそっと離し、暗い顔で項垂れる。──これまでビビを傷つけたのも、裏切ったのも決してギデオンではないのに、大好きなこの人を信じたい気持ちはあるのに、これまでの経験がそれを許さない。そんな己の事情でギデオンに迷惑をかけたくない、見捨てられたくない。たったそれだけの事を伝えるのがこんなにも怖くて、優しいアイスブルーを見上げると「ハグ……は。ハグも、不純ですか……?」と、何よりビビに勇気を与えてくれる触れ合いをおずおずと強請って。何度か深呼吸をしてから、震える声を振り絞る。途切れ途切れの本音は醜くて、時々甘えたような水音が鼻にかかるのが酷くて聞くに絶えない。自分でも支離滅裂な本音を吐露しきれば、我ながらどうしようもなく稚拙で、相手に相応しくない弱音に心がしずんでいくようで。 )
……昔。その時の彼氏に、無理矢理……その、されそう、に、なったことがあって……
ギデオンさんはそうじゃないって、有り得ないって思っても駄目、なんです。
……本当はちゃんと応えたい、んです。でもきっと、いっぱいご迷惑おかけしちゃう。ギデオンさんが今までしてきた人達に敵わない……って、見捨てられたらって、それが、怖くて……
(躊躇いがちかつ遠回しなおねだりに、思いがけず深い安心感が沸き起こる。ヴィヴィアンはまだ、こちらの全てが恐ろしくなってしまったわけではないのだ──きっとまた、親しく打ち解けあう関係に充分戻れる。とはいえ、返事をする前に、今にも泣きだしそうな相手が必死に呼吸を整えるのを、ゆっくり待つことにして。相手の方を向きながら、弱々しく震える背中を優しく擦ることしばし。途切れ途切れに打ち明けられる心情を最後までしっかり聞き届ければ、まずはその頭を、よしよしと撫でてやり。)
……怖い思いを、ひとつどころじゃなく、たくさん抱え込んでたわけだな。言葉にするのは難しいだろうに、よく俺に話してくれた。
ちゃんと確かめ合おう……おいで。
(そう柔らかな声をかけながら、樽の上で深く座り直し、その両腕を緩く広げて、相手を迎え入れる姿勢を。おずおずとか、飛び込むようにか──いずれにせよ、相手が懐に潜り込んでくれば、嬉しそうに喉を鳴らして、ごく優しく抱きしめるだろう。そうして、小雨と波打ち際の優しい水音に包まれる中。相手の側頭部を己の胸板にもたれさせ、こちらの深い呼吸とゆっくりした鼓動を、ヴィヴィアンにも分け与えながら。絹糸のように柔らかな髪を、ゆっくりと撫で下ろし続けて。)
俺がおまえに欲深くなるのは、自然なことだとは思ってる。だけど、昔怖い思いをしたおまえが、同じ“男”である俺にも怖さを感じてしまうのだって、当たり前のことだろうよ。
だから、気にしなくていい……焦らなくていい。いつか怖くなくなるなら、そのときまでゆっくり待つし。そういう日が来なくても、おまえとこうしていられるのだって、俺は充分幸せなんだ。
それなのに、見捨てるなんて馬鹿な真似をするはずがないだろう? ありもしないことは、怖がる必要なんてない。
( ──ギデオンの懸念とは裏腹に。背中を、頭を、その大好きな手に擦られるだけで、深い安堵が胸に広がり、浅かった呼吸が徐々に治まっていく。まるで此方の心を覗いたかのような、ひたすら自分に都合の良い言葉が面映ゆくて──ドスッ、と。色気容赦ない動きで広げられた胸に飛び込み、頭上から上がる満足気な喉の音に耳を傾ければ、何故か自分が褒められているような、温かく、誇らしい気持ちになってくるのだから不思議でならない。頭を通過していく優しい手つきに目を伏せ、胸板越しに響く低い声を聞くだけで……今迄認められなかった、認めたくなかった恋人の欲、己の弱さまで、そういうものかと素直に胸に染み渡り。誠実に、しかしビビにとって、世界一安心出来る恋人であり続けようとしてくれるギデオンに、少しでも報いたい気持ちの双葉が芽生える。そうして、最愛の恋人の胸の中、「……ありがとう、ございます」と、それはそれは嬉しそうにはにかんで──たっぷり息を吸い込んだかと思えば、肺の中までたっぷりとギデオンの香りに満たされて、まるで酒精に当てられたかのような幸福感と、少しの勇気を分けて貰って。おずおずと上げたエメラルドには、未だあどけない怯えを滲ませつつも、ギデオンの顎にそっと触れたかと思うと、強気に引き結んだ唇を相手のそれへと押し付ける。以前の方が余程上手だった、ティーンだってもっと上手くするような触れるだけの不器用なキス。"不純"だと教えられてしまったソレを自らする羞恥に、真っ赤な顔をぷるぷると震わせ、ぎゅっとキツく目を閉じているものだから、狙いだって定まらなかったかもしれない。──しかし、ただ何も考えず幸福を享受していただけのこれ迄とは違う。"不純"だと言われる行為でさえも、貴方のために捧げたい、という気持ちを篭めた唇を離して。ギデオンの腕の中、素直な気持ちで無邪気に笑って見せたのも束の間。一足遅く己の発言の意味に気がつけば、生真面目に輝いていた表情が、じわじわと羞恥に濡れていき、言葉尻もしどろもどろになっていく有様で、 )
──……それでも、頑張りますね。できるだけお待たせしないで済むように!
私。ギデオンさんになら教えて、貰いたい、なっ……なんて、……、
(弛緩して程良く重く寄りかかる身体、至極安らかな深い呼吸。それらをじかに感じれば、今宵この場の自分は、きちんと正解を選べたのだと──いつぞやの秋のような馬鹿をせず、ヴィヴィアンの欲しい言葉を与えられたのだと安堵するには充分で。すっかり油断していたものだから、ずず、と頭をずらして見上げてきた恋人がまさか、拙くも一途なキスを打ち上げてくるとは思わない。一瞬平和に硬直したその数秒、腕の中の犯人はと言えば、呑気に無邪気にはにかんでおり。かと思えば、己のぶちかました爆弾を遅れて自覚し、真っ赤な顔でわたわたと狼狽えはじめる有り様で。「………ッふ、」と、堪えきれず吹き出せば、ツボに入ったのだろう、そこからはもうダムが決壊するように、くっくっくっと全身を激しく震わせはじめて。怒られようが嘆かれようが、こればかりは仕方ないだろう──どうしてこのヒーラー娘は、己の前ではこんなに愛らしい阿呆になってしまうのだ。ようやく笑いを引かせながら天井を仰げば、「おまっ、おまえなあ……こっちが約束したからって、すぐさま煽りに来るんじゃない……」と、困ったような、呆れたような、脱力したような嘆きの声を落とし。それからふと、真面目な表情で相手を見下すと、その柔らかな頬を片手で軽く、愛情を込めてむにっとする。──相手の無自覚な煽り癖は、こちらに対する全幅の信頼ゆえの油断であって、他の男にはそうそう向けない、それはわかっているのだが。自覚のない癖だからこそ、ふとしたときの相手の言動を、見てくれ程度でしか寄り付いていない連中が、どう勘違いすることかと心配なのだ。)
……なあ、真面目に、他では気を付けろよ。今日来た消防団の奴らだって、やたらお前を振り返ってたんだ。明日の訓練はまたあいつらが来るから……頼むから、エリザベスやカトリーヌのそばを離れないでくれ。俺が傍にいられないときは、そうだな。絶対傍にいるはずだから、困ったらすぐバルガスを呼んで……
(──そうやって、安定の過保護モードへと急ハンドルを切りながら、あれこれ言いつけていると。ざく、ざく、と砂を踏む音が近づいてきたかと思えば、不意に指向性の魔法灯に照らされる。細めた目に片手を翳してそちらを見遣れば、揃って「「あ」」声を上げたのは、夜間パトロールをしていたらしいデレク、そして今まさに話題にしていたバルガスだ。「──へえ、あんた、野外プレイが好きだったんだ?」と、酷く愉快気な後輩の色男が、にやにやと笑いながらうるさいことを投げかけてくる一方。「……ん゙ん゙っ、その、もう深夜ですし。一応、コテージに戻っていただけると……」と諫言を述べるバルガスは、どこからどう見てもいちゃついている現場をがっつり目撃したからだろう、日焼けを差し引いても真っ赤な顔を、ごく紳士的に背けており。──仕方ないか、というように両手を上げて興産のポーズをとると、「帰るか」とヴィヴィアンを誘い、傘を持ちつつ立ち上がった。
デレクたちと別れた後、相手のコテージに送り届けるまでの道のりで、再び傘を差す必要はなかった。小雨がすぐに止み、頭上の雲の切れ間からは星空すら見えはじめたからだ。──華やかな王都とは違い、ここは地方の観光地。生温い夏の夜風が吹く中、黒雲を掻き分けて次第に面積を広げていく天の銀砂は、そのどれもがはっきりと、手に取れそうなほどの近さで瞬いているようで。ふたりで自然に手を繋ぎ、見えそうで見えない星座の話をしながらのんびり歩くこと数分。コテージももうすぐそこ、という急勾配の階段を上った辺りでふと足を止め。相手に向き直り、先ほどのお返しを柔らかな唇に静かに落とせば。やはりずっと無意識に抑えていた反動だろう、二度、三度と、触れるだけだが熱いそれを幾度も重ねて。しかしその合間に、「そうだ、」と不意に口にしたのは、やはり根が仕事人間であるが故の、真面目で大事な話題。──それでも、額に唇を触れたり、顔の輪郭を撫でたりと、相手を愛でながらの共有となって。)
思い出した……明日の話なんだが。ギルマスから指示が出次第、グランポート編警察署に行くことになりそうだ。“もう一度事情聴取を受けてほしい”って要請があったそうでな。
ヘルハルト・レイケルについて、何やら大掛かりな追跡調査が始まってるらしい。俺たちの知ってることは……ん……1年前にも、数日掛けて洗いざらい話してはいるが。せっかくこっちに来たならと、もう一度……確認したいんだと。
ち、ちがっ! ~ッ、笑わないでくださいよ!!
( よくもまあ、本気で人が恥じらっているのに、こうも楽しげに笑えるものだ──と。いつかの舞踏会以降感じていた相手の印象は、実は必ずしもビビ以外の人達にとって、既知では無いことを最近知った。堪らない羞恥と憤慨し、意地悪な恋人の肩をぺしぺしとやりつつも、この表情が自分だけに向けられていると思うと、ついつい強く怒れない。そうして、その後の子供にするような触れ合いや、過保護な言い含めに対しての方へ、よっぽど不満の表情を返しつつも。そんな余裕さえ、デレク、バルガス両名に決定的な瞬間を見つかってしまえば、一瞬のうちに吹き飛んで──結局ニコニコと2人。仲睦まじく手を繋いで帰路を歩いている。
そうして、崖の上の別れ際。落とされる唇や触れ合いに嬉し恥ずかしといった笑い声を漏らし、首をすくめながら仕事の話に耳を傾ければ。翌日の予定を確認し、オレンジ色の光を灯す玄関ポーチへ振り向こうとした、その間際。思い出したようにギデオンの袖を引いたのは、先程随分と笑ってくれた意趣返しのつもりで。その威力を察知していたかは兎も角、今回は確信犯だった爆弾と共に、愛しいギデオンの耳殼にリップ音を落とせば。後から恥じらいが追いつくその前に、元気よく頭を振り下ろして──ニコッと完璧な笑みで追撃し、捕まらない限りパタパタとコテージへ駆け出すだろう、 )
──……はい、かしこまりました!
ん、ふふ……そしたらとりあえず、皆さんと同じ場所に集合すればいいんですね。明日もよろしくお願いします、おやすみなさ……あ。
……あの、さっきのこと。ギデオンさんなら良いって言ったのは本当ですから…………それじゃ、おやすみなさい!
( 翌日。結局朝から始められた事情聴取に、ギデオンとビビの2人が警察署から解放されたのは、午後4時くらいのことだった。例の事件に、レイケルが捜査線上に上がるまでの経緯、ジェフリー達との指示関係、その劇的な最期について等々……真剣な顔の捜査官達から確認される数々の事項に、ビビはといえば──多分だの、確かだの、我ながら全く宛にならない返事しか出来ない一方で。あの状況でそこまで冷静に、それも1年間以上前の出来事を、と惚れ惚れする程スラスラとよどみなく答えるギデオンに惚れ直し、その格好良い横顔を、隣で存分に堪能するだけの時間となった。……それでもまあ、古代魔法の存在や、それが周囲に及ぼす影響等に話が移れば、一応面目躍如の働きは出来たのではないだろうか、多分。そう信じたい。
そんなビビにとってのボーナスタイムの結果、捜査官達の感謝の言葉──と、なんとも言えない生暖かい視線──を背に、警察署を出ると。ううん、と固まっていた身体を一伸ばし。まだ初夏の日は長くとも、今から海岸に戻ってもすぐに訓練が終わってしまうだろう微妙な時間に、仕事場では上司に当たるギデオンを振り返れば、夏空が良く似合う爽やかな笑顔で相手の指示を仰いで。 )
──お疲れ様でした!
ギデオンさんすっっっごく格好良かったです!
聞かれたこと全部スラスラ答えちゃうんですもん! 私も見習わなくちゃ!
……とりあえず、この後はどうしましょう、戻るにも微妙な時間ですよね?
(いたいけながらに悪戯好きな小悪魔が、最後にちゃっかりやり返してから、するりと逃げていった後。樫の扉が閉まると同時に、ギデオンは声にならない呻き声をあげ、軒先にしゃがみ込んだ。眉間に皴を寄せ、横髪をぐしゃぐしゃと掻いてため息を吐き出す。しかしその程度では、込み上げる苛立ち交じりの敗北感を噛み殺すことなどできない。彼女に口づけされた耳朶は、らしくもなく染まったままだ。
──彼女の前では、ああして穏やかに演じてみせたものの。ギデオンは決して、聖人でと呼べる男ではない。元々、彼女の体調を気遣って待つつもりではあったにせよ……せいぜいがキス止まりという初心過ぎるこの状況を、歯痒く思わないわけがない。齢四十にもなればそれなりに落ち着きはしたが、所詮性根はけだもののまま。欲は抱くし、溜まりもするのだ。相手が若く美しく、誰より愛しい娘となればなおのこと。なのに肝心のヴィヴィアンが、未だおぼこい怖がりの癖してあの様だ。こちらがどれほど苦しみ悶えていることか。あまり度が過ぎたら、流石に抑えきれるかわからない。
しかし、こんなにも腹立たしくはあれど。怖いもの知らずなヴィヴィアンのことを、愛しく、仕方のない奴だと感じてしまうのも事実だった。──結局のところ、惚れた弱みで弱り果てるのは、ギデオンもまた同じなのだ。……まあ、その時が来たら存分に思い知らせてやればいいか、と、不穏な考えで落ち着きを取り戻す。行為を怖がらなくなった頃にでも、煽ったのはお前だろうと言って、心行くまで貪らせてもらえるのなら。それできっと、そこまでの数ヶ月の鬱憤を思いきり晴らせるはずだ。
そう割り切ってようやく重い腰を上げ、コテージの上を見遣る。二階の丸いガラス窓には、先ほどはなかった暖かな明かりがついている。白いカーテン越しに揺らいで見える影は、おそらくヴィヴィアンのものだろう。「……おやすみ、」と最後に小さく呼びかけて、ゆっくりと踵を返すことにした。──この数年後、ふたりで星空を見上るたびに、『あの時は随分もどかしいことをしていたね』と笑い合う日が来るのだが……今はまだ先の話。)
(──さて、あくる日。予想以上に本格的で長丁場だった事情聴取をようやく終えて、ギデオンも彼女同様、開放的な気分で軽く首をほぐしていた。ギデオンとしてはてっきり1年前を再現する程度だろうと思っていたが、どうやらレイケルの件は今や、壮大な捜査網を敷くまでになっているようで。どんなことも聞き漏らすまいと、入れ代わり立ち代わり、無数の捜査官や専門家、似顔絵職人や他の関係者などがやってきて、それなりに大変だったのだ。「まあ、なんとなくこの展開を予測して、頭の中で準備していたからな」と、ヴィヴィアンの称賛の声に、あっさり種明かしをして笑いつつ。今後の予定を確認されれば、いつぞやの悪い上司の顔で、ぐいと片眉を上げてみせ。)
そうだな。一応ギルマスからは、夕食までに戻ってきて報告してくれという話だ。今回の仕事は警察の都合で動いてるし、長引くことも想定して、時間をたっぷり貰ってある。
……そこで提案なんだが。今後も、グランポートに遠征で来ることがたびたびないとは言い切れないだろう。でもって、各地に赴いたときに、そこの様相を隅々まで把握しておくのは、できる冒険者の鉄則だ。土地勘があるとなしとじゃ、いざというときに動ける早さが変わってくる。
そういうわけで……意味はわかるな?
(言いながら軽く頭を傾けて示したのは、いつぞやふたりでのんびり歩いた、浜辺まで続く砂利道の商店街。どう考えても、危険な魔獣や悪霊が出て討伐沙汰になる可能性はないのだが、物は言いようというやつだ。甍を連ねる軒先には、グランポート名物である魚の骨飾りがカラカラと回っていて、それを見比べるだけでも楽しいに違いない。向こうまで通り抜けても、そこの浜辺はギルドの連中がいるビーチよりだいぶ北寄りだから、うっかり見つかるようなことはないだろう。「ちょうど、買うものもあるだろうしな」と、ふと手を伸ばして掬ったのは、初日以降下ろされているヴィヴィアンの柔らかな栗毛。これはこれで新鮮かつ好みなのでいつまでも見ていたいが、強い潮風に吹かれれば邪魔になるのを、ギデオンも気づいていたのだ。まずは髪留めを探さないかと、相手の白い手を恋人繋ぎで絡めとりながら、近くの小物屋を指し示して。)
そっか……事前に予測……
( ギデオンはまるで簡単な種明かしの様に笑って見せるが、教えてもらえばこんな簡単なことも思いついていなかった己に、相手との埋めがたい経験の差を見せつけられる。しかし、必要以上に悲観的になるでもなく、真剣な表情でぶつぶつと。本日の反省点を次回に活かすべく、新たな視点の吸収に勤しんでいれば。隣のギデオンの表情が悪く歪んでいく様に、思わず瞳を丸くして。そうして、ギデオンの提案に上げた視界に映った通り──『海産物をふんだんに使った磯料理屋、釣り道具屋、水着屋、流木や海の生き物の骨を使った民芸品店、珊瑚や真珠のアクセサリーショップ』──忘れもしない、約一年前。レイケルらの収入源を調べに資料館へと辿った通り、今隣にいる恋人とデートしてみたいと願った通りを目の前に、思わず建前も忘れ、これでもかと興奮が溶け込み輝く瞳をギデオンに向けて。 )
──……わあっ! 本当にいいんですか?
去年ここでギデオンさんとデートしたいなって思ったの!
それに合宿中はゆっくりできないと思ってたから嬉しい……ギデオンさん大好きです!
( ただでさえ興味深いものでいっぱいの賑やかな市を、世界一大好きなギデオンと並んで歩く。しかも今回は、相手直々に隅々まで堪能して良いとのお達しで。そんな素晴らしい機会を逃せるはずもなく。これがもし仮に訓練場にほど近い場所で、バレる危険性があったとしても、例の古代魔法を引っ張り出して来てでも遂行してやったに違いない。
──さて何から見よう。まずはお酒のアテになりそうな乾物などどうだろうか……と、周囲を見渡した瞬間。耳の脇の毛束を柔らかくとられる感触に、ふっとギデオンを見上げて。その優しい瞳の色に、直接相談したわけでもない些細な不便に気が付いてくれていた喜びがどっと押し寄せ、先程までの興奮から一転。空いている方の手で自身の毛先を弄び始めたかと思うと、もじもじとはにかんで「はい、」と頷く声の小さいこと。
貝殻のピアスに、色ガラスの首飾り。舶来の染料を使った鮮やかな髪紐、オーガンジーの白いリボン。ギデオンに引かれて覗いた店の品ぞろえは、簡素な路面店とは思えない程垢ぬけていて、こんな時でもなければ喜んで夢中になっただろうに。その可愛らしい品々の輝きも、隣の美しい恋人の前にはかすんでしまって選べない。最初こそビビを見て相好を崩した中年の主人が、色々な品を手に取らせてくれようとしたのだが、彼の奥さんらしい店員が奥から出てきて、さりげなく主人を奥に引きずっていったかと思うと──どうぞごゆっくり、と微笑まし気な表情を向けられてしまって。それまで碌に商品を見てなかったことを誤魔化すべく、少し恥ずかしそうな笑みでギデオンを振り返れば、桃色の首をこてん、と傾げて )
どれも素敵で悩んじゃいます……ギデオンさんはどちらがお好きですか?
(この春付き合いはじめたばかりの可愛い恋人に、「去年のうちからここでのデートを思い描いていた」と打ち明けられて、男心を擽られない野郎などいるだろうか。仕方なさそうに苦笑しつつ、絡めた手をがっちりと繋ぎ直すその仕草から、ギデオンも同じだけの愛情を相手に伝え返したつもりで。そうして、これまた愛らしくはにかむ旋毛頭に穏やかなキスを落としつつ、ふたりでぶらぶらと小物屋へ。こじんまりとしたアクセサリーショップは、どうやら店の奥がそのまま店主の自宅に繋がっているらしい。軒先に置かれている樽や流木のほか、歩いて数歩もない店内の両壁や二、三の棚には、いたるところに色鮮やかな雑貨の類いが並んでいる。全てを大方見比べれそうなのが、デートにお誂え向きでありがたいところだ……はたしてどれが相手のお気に召すことか。こちらがそう考えたのと同じタイミングで、横のヴィヴィアンのほうからも、可憐な仕草で問いかけられれば。それだけで既に今日一日分も深々満たされるのを感じつつ、表面上はあくまで余裕たっぷりに。ごくゆったり変え品ながら、ヘアアクセサリーの陳列された一角へ歩を進めて。)
ん? そうだな……この辺りなら、デザインも材質も良さそうじゃないか。
(──冒険者という職業柄、まずは機能性や保ちの良さに重きを置く性分だ。加えて、今回の買い物のそもそものきっかけは、ヴィヴィアンの髪紐が波に攫われてしまったこと。だから第一の条件として、「ほどけにくい」ものを選びたいところである。海ウサギの毛皮のパイルゴムなどは、髪に痕がつかない上に可愛らしいこともあり、一般女性は好んでつけるのをギデオンも知っているが……何分“激しい運動”をすれば簡単に滑り落ちるのを見てきた、冒険者の女性には使いにくいものだろうと、選択肢から除外する。とはいえ、隣にある無染色の海猪の革ひもや、樹液を固めて作ったスプリングタイプの輪では、丈夫さや耐水性では群を抜くと知っているものの、少々味気なかろうか。機能性は第一だが、それに次いでデザインの良さも欠かせないという価値観は、ギデオンがそれなりに洒落ている所以である。それに相手の言ったとおり、せっかくのグランポートでのデートなのだ。土産物感が出過ぎない程度に、思い出のゆかりになりそうなものはといえば……。
そうしてギデオンが指し示したのは、右隅にある2種類の髪留めだ。手前にあるのは、丈夫そうな太い髪ゴムに、おそらくガリニアから直輸入した布の切れ端からつくったのであろう、手触りの良いシンプルなスカーフが結びつけられた品物。赤、白、緑、青に黄色と、バリエーションも豊かだし、ワンポイントとしてあしらわれているストーン付きの金具は、ここらの浜辺の貝殻から型抜きしたものらしく、ひとつひとつ形が違う。更に奥へと目を移せば、そこに並べ立てられているのは螺鈿細工のヘアカフス。どれもゴム付きの使いやすそうな造りだが、カフス部分の金や銀の土台は、リング状であったり、菱形や花形であったり、珊瑚を象っていたりと、まずそこからして種々様々。加えて、おそらくル・カルコルの殻から作ったのだろう螺鈿細工は、青やピンクや真珠色を基調とした虹色の殻が細やかに嵌めこまれている。陽に当たればきっと、魔素の宿る物質特有のあの輝きを、きらきらと放つことだろう。螺鈿細工は伝統工芸品ゆえ、ともすれば古臭くなりがちだが……この店の仕入れ先の職人は余程センスが良いらしい、どれも小洒落たものばかりだ。
ちら、と店の奥のほうを振り返ってみたものの。そちらからは店主の旦那と奥方の、「いやぁ、だからよォ、あの都会から来た別嬪さんにゃよォ、俺の確かな目でうちのおすすめってのを……」「バカ! ああいうのは一緒に悩むのが楽しいもんなの! 邪魔すんじゃないのこのスカタン!」なる小競り合いが、相も変わらず聞こえてくる始末。あのご夫婦なら、試着をしても喜んで許してくれそうだ、と安心すれば、壁に掛けられた小さな鏡を指し示し。「実際につけた感じを、確かめてみるといい」と、傍にあった小さな櫛を差し出しながら促して。)
( それこそ昨年からは思いもつかない。甘くて優しい触れ合いに、えへへ、と気の抜けた幸せいっぱいの笑みを漏らす。絡んだ指先に自らも力を込めて、その形を、恋人から与えられる愛情を確認するかのように、むぎゅむぎゅと好きに弄べば。相手の気持ちが伝わったことは十分に伝えられただろうか。 )
あっすごい。そうなんです、こういう太いゴムじゃないとすぐ切れちゃって……
( ──そういえば去年のクリスマス。ギデオンから貰ったハンカチは、ヴィヴィアンの好みを正確に捉えていてとっても使いやすかった。最近の流行や使い勝手のみならず、きっと普段から人のことをよく見ているのだろう観察眼に感心すると。相手オススメの品を手に取って、思いのほかしっかりした作りのそれに目を見開く。──折角のデートの思い出だ。たとえ、ビビの癖毛多毛の前にゴムの部分が儚くなってしまおうと。何度だって紐を入れ替え使う気ではいたのだが、これだけ消耗部がしっかりしているなら、装飾部の素材もきっとこだわって作られているに違いない。相手の提案に櫛を受け取りながら頷いて、「すみませーん、試着させていただきますね」と、奥に一言申し付ければ。それぞれ好きにうねって光を乱反射していた縮れ毛が、櫛を通されたところから濡れたように美しい栗色を映し出す。流れるような巻き毛を後頭部で纏めて、白いうなじに散る後れ毛を手早くかき集めると──まず手に取ったのは、貝のモチーフが可愛らしいガリニアスカーフ。中でも迷わず鮮烈な赤を選びとったのは、ビビの中で今年の冬も、あの赤いマフラーを巻くことが決定しているからで。 )
……えへ、どうです?
似合う? 可愛いですか?
( 余程しっかりゴムと飾りが縫い付けられているのだろう。形の良い頭の小さな動きを、如実に反映させるスカーフの揺れの表情豊かなこと。──少し恥ずかしそうにギデオンを振り返って、そのくせ強欲に褒め言葉を強請って期待するビビの頭上で、深紅のうさ耳が控えめに震えたかと思えば、次の瞬間にはピコピコと元気に跳ね回る。それに気づいているのかいないのか、自分でも鏡を覗き込めば、可愛らしくもカジュアルで、使いやすいデザインのそれは自分でも大いに気に入るのだった。
それから次に試したのは、螺鈿細工のヘアカフス。直線的でシンプルなリングに、贅沢にもぐるりと敷き詰められた玉虫色の細工は、さりげなくも上品に、キラリと光って大人っぽい。それからそれから、楕円の細工や、立体的な小花のカフス──途中からは、もう当初の目的から随分逸れ出し。オーガンジーのリボンを試しに、柔らかな髪をハーフアップに捻りあげたり、可愛らしい桃色のリボンでお下げにしたり……さながら2人きりのプチヘアスタイルショーの時間を楽しんで。
そうして結局、こういう時は最初の印象が一番あってたりするもので。悩むビビが握るのは、最初に選んだ赤いスカーフと、シンプルな螺鈿細工のヘアカフス。ギデオンが以前プレゼントしてくれたマフラーと合うのは絶対前者のスカーフなのだが、正直25歳を目の前に控えて、このデザインの寿命はいかばかりか。……であれば、後者の方が長く大事に使えるのだが──ううん、と。普段つるりとした眉間に皺を寄せて、真剣な表情で悩むこと暫く。何気なく覗き込んだ鏡の中で目が合うと、恥ずかしそうに小さく笑って首をかしげて )
ああぁあ……どっちも可愛くて悩みます……
ギデオンさんにが可愛いと思う方にしたいんですけど、どっちがいいですか?
ああ、よく似合ってる。おまえらしいよ。
(無防備に曝け出された白いうなじに耐え切れず、一瞬視線を外したものの。相手が器用に髪を纏め、くるりとこちらを振り返った時には、いつもの顔を取り戻し、目尻にくしゃりと皴を寄せる。実際、心からの褒め言葉だ──元気溌溂・純真無垢を絵に描いたようなヴィヴィアンには、情熱的な赤、そして少女らしいアクセサリーが、驚くほどよく似合う。おまけに例のスカーフは、頭の上で綺麗に立てれば、さながらウサギの耳のように生き生きと揺れるらしい。今もギデオンの表情ひとつにぴこん! とわかりやすく跳ねるものだから、可笑しそうに喉を鳴らし。鏡の中の相手に向かって、ふと意味ありげな表情を浮かべたかと思うと、「ウサギはウサギでも、手強い海ウサギかもしれないな」なんて揶揄いを。ウサギと言えば、寂しさで死ぬこともあるという俗説が有名だが、相手はそんな弱々しい女性ではない。しかし海ウサギとなれば、時に手練れの戦士でも手こずる獰猛さ、そして何より、決して獲物を諦めない不撓不屈の粘り強さ……そういった点で、ある意味重なる部分があるだろう、実際自分がこうして捕まったのだからと。相手が笑うなり怒るなり、巧みに揶揄い返すなりすれば、また小さく笑いながら、相手のうさ耳、次いで本物の可愛い耳をくすぐり。そうして過ごす最初の寄り道は、瞬く間に過ぎて行くだろう。)
──そうだな……やっぱりいちばん最初のが好きだ。スカーフなら、おまえの気分次第で自由に結び直せるだろうしな。
親父さんに声をかけてくるから、よかったらそのまま着けてくれないか。
(据え置きの鏡の前で(むむん)と悩むその姿は、もはやそれだけで愛しいのだが、何よりその思考がある程度読み取れるものだから、さらにいじらしさを増していた。──ギデオンからすればまだまだ若い娘だが、それでもヴィヴィアン自身からしたら、あのうさ耳(もどきの)のヘアスカーフは、着けづらく思う気持ちもあるのだろう。それでもやはり、今がいちばん若いことには変わりない、身につけたいものを心置きなく着ければいい、実際とても似合っていた。そんな考えからそちらを選び、「いざとなったら、職人街のあいつらに仕立て直して貰えばいい」と、更に背中を押してやる。そう、ヴィヴィアンのためを思ったのであって……数ある色の中から真っ先にあの深紅を選んだ姿に、独占欲やら何やらをがっつり擽られただとか、そんな愚直な理由であるはずがなく。とにかく、相手にもう一度鏡の方へ向き直らせると、自分はカウンターの方へ寄り、奥の店主に声をかけ。「そこのスカーフのを、そのまま連れに着けさせていっても?」と尋ねれば、奥さんと言い合いつつのそのそ出てきた中年親父は、案の定色好い返事を返してくれた。「お熱いねえ」「そちらほどでは」、そんな雑談を交わしながら、その場ですぐに勘定を払おうとして──ふと、卓上の端に目を落とす。鍵のかかった小さな木箱、ガラスの嵌めこまれたそれの中には、この手の土産物屋にしては少しばかり高級な品が収まっている。そのうちのひとつに目を奪われたギデオンは果たして、儀狄の産地より遥か遠い東の島国の習わしを、聞き知ったことがあるのかどうか。随分長く試着を楽しませてもらったしな、とさほど考えずに決断すれば、「こちらもひとつ」と、布袋を一つ包ませ、それを手にヴィヴィアンの元へ戻る。髪を結い上げたいつも通りのその姿、けれども深い赤がぴょこぴょこしているのが新鮮で、自然と口元を弛ませれば。彼女とともに、店の夫婦にもう一度礼を伝えてから、陽射しの和らいだ表の通りへ。次のどこかへの道すがら、手に持ったサテンの小袋をさりげなく渡してみせる。口紐を解いて中を覗けば、ちょうどヴィヴィアンの瞳の色と同じ、明るい翡翠をあしらったシックなデザインの簪が、きらりと美しく光るだろう。)
途中、一回シニョンにもしてたろ。あれも良く似合ってたから……今度良かったら、それを使ってやってみてくれ。
ありがとうございま──……海ウサギ。
( ギデオンからの褒め言葉に、嬉しそうに目を細めた表情が、次がれた単語にスンッと落ち着く。揶揄の中にも、その話しぶりからして、どうやら肯定的なニュアンスらしい。ということは何となく分かるのだが──海ウサギ、ああ、このスカーフが耳で……じゃあ私自身は生臭い魚か? と、どうも納得いかないのが複雑な乙女心である。しかしそんな不満も、頬を膨らませたヴィヴィアンに笑ったギデオンが、甘やかに触れてくればあっという間に霧散して。 )
んっ、……わか、りました……
( 目の前の髪飾りに集中し、すっかり油断仕切って無防備なところへ──好きだ、なんて。髪飾りに対しての評価だとは分かっていても、真っ直ぐに此方を射抜いていたアイスブルーに、どうしようもなく胸が高鳴る。大好きな恋人の優しさに、これまでの安心しきった様子はどこへやら。肩に触れた温かい手にもじもじと頬を染めたかと思うと──好きだ、すきだって……とぽーっと夢を見るような表情で鏡の中を見つめながら、相手の要望のままにお馴染みの尻尾を結い上げていく。そうして、ぼんやりとしていた娘が意識を取り戻したのは、戻ってきたギデオンがお会計を済ませていたことに気づいた瞬間で。最初こそ「私そんなつもりじゃ……払わせてください!」と、早速その赤い耳をパタパタと慌てさせていたものの。定期的に贈り物を受け取ってやらないと、品に不満があるのだと思い込み、もっと高価な物を送り付けてくる某大魔法使いを思い出せば、適度なタイミングで引き下がる代わりに、「ありがとうございます、大事にしますね!」と、頭上のそれに両手で触れながら、大袈裟に喜ぶことで落ち着かせたつもりだったというのに、どうやらギデオンの方が一枚上手だったらしい。
オレンジ色の陽が2人の影を長く伸ばす賑やかな通りで、差し出された袋を受け取ったヴィヴィアンは、東洋の慣習を知っていた訳では無い。しかし、生い立ち上肥えざるを得なかった審美眼で、その簪の価値を一目で見抜けば。──こんな高価なものを、そうひとこと言ってやろうとして、夕陽をバッグに満足気な目をした恋人に、ついつい毒気を抜かれてしまう。そうして仕方なそうに溜息を漏らし、ジトリとギデオンを見つめて今度こそ分かりやすく釘を刺す体で、男から女へ。ある意味、簪を贈るその意味への返答を無意識に返しながら、ギデオンの逞しい腕に抱きつき。おもむろに先程結んだばかりの尻尾をしゅるりと解いてしまうと、うっとりとした眼差しで簪を陽に透かしてから、器用にシニョンを作って見せて。 )
~~~ッ、…………。
……簪は激しい動きには向かないんですよ、
これを付けていられるような……お仕事だけじゃなくて、デートも、お休みも。ずっと一緒にいてくれなきゃ駄目ですからね。
…………ふふ。ありがとうございます、とっても綺麗……ね、
──……、約束するとも。
(しっとりと希う声も、贈った簪をうっとりと気に入った様子も、それをすぐさま身につけてくれたことも。そのすべてが、文脈は曖昧なままでも、ギデオンの胸の内を深く深く満たしてくれるものだから。つくづくヴィヴィアンには、何を講じても敵わぬらしい、そう小さく笑おうとしたのだが。実際に返した声音は──真剣な面持ちをした男の、低く掠れたそれとなり。
いつもより大人びた髪形の恋人を熱っぽく見つめ、その前髪を優しく掻き分けてやったが最後。不意に細腕を抱き寄せたかと思うと、店々の隙間の路地裏へ、流れるように連れ込んでしまう。人通りのあるのどかな往来から、ほんの少し横に入っただけのその暗がりは、人目を忍ぶには充分だろう。よって、せっかくのシニョンを崩さぬよう、己の大きな両掌を、彼女の背と柳腰に力強く回しながら。胸の内の熱を伝えるように、普段よりもことさら深く激しく、互いの唇をたっぷりと、夢中で溶け合わせるのだった。)
(──さて、そうやってなんだかんだがっつりといちゃついていれば、あれほど見込んでいたデートの時間は、矢のように過ぎていくものだ。ようやく我に返り、「そろそろ歩き出さないと」と笑い合えば、また仲良く手を繋ぎ、懐かしの商店街をのんびり見て回ることにした。去年は結局、事件後の処理への協力で忙殺され、観光を楽しむ暇などろくにないままグランポートを発っている。故に、何の懸念も責任もなく、元気な体でぶらぶらするだけのことが、もう晴れやかに楽しくて。
釣り道具屋を通り過ぎれば、今まで釣りを楽しんだことはあるかどうかを話し合い。磯料理屋の看板の前でいちいちギデオンが立ち止まり、メニューに真剣に目を通せば、ヴィヴィアンがそれはそれは愉快そうに、ころころと笑い声をあげる。やがて老舗の酒店に辿り着けば、「キングストンに帰ったらどれで晩酌しようか」なんて話しながら、鮭とばやレモラのからすみ、蓑亀の肝の天日干しを買い込んで。「日に干した聖獣の肝は、体にとっても良いんですよ」──ヒーラーらしいコメントをくれたヴィヴィアンが、次の瞬間、魔法薬の材料を並べた店にぱあっと目を輝かせるものだから、くっくっと笑いつつ、お次はその店に立ち寄ろうか。オウムガイの粉末、ユウレイクラゲの毒液、メガロドンに茂った海藻を煮出して作った汁のボトル、数千年以上前の貝や骨が埋まっている海琥珀……どれもこれも素晴らしい品揃えだが、珍しい素材であればあるほど、当然値段は高くなる。財布を握ってうんうん唸るヴィヴィアンに、「この予算の中で好きなものを買うといい」と、敢えて金額を設定することで、逆に遠慮なく買い物ができる取り計らってみれば。彼女は最初こそ、「この簪までいただいてるのに!」と頑なに固辞していたものの。「良い素材が揃えば、俺のために作る魔法薬もそれだけ良いものになるんだろう?」と、ギデオンが甘えてみせれば。もの言いたげなジト目を寄越しつつ、結局そのアイデアには抗えないといった様子で、最後には嬉しそうに籠の中身を厳選していた。
そうして土産袋を手に提げ、海岸沿いのなだらかな帰路を、夕陽を眺めつつのんびり帰って。コテージについてすぐ、もう一度だけキスを惜しむと、「また明日」と別れを告げる。
──その後、ヴィヴィアンのほうはどうだったかわからないが。男部屋に帰還したギデオンのほうはといえば、ジャスパーから開口一番、「訓練合宿中に女連れで一日中ほっつき歩くたぁ、随分良いご身分だなあ??」と嫌味をかまされる羽目になり。……どうやら、本格的な救助訓練をしたり、借り物の船を動かしたりする日だったというのに、例のろくでなしコンビ(言うまでもなくマルセルとフェルディナンドだ)が、また随分やらかしたらしい。席を外してて悪かった、と土産……もとい賄賂の地ビールの瓶を投げ渡せば。「おまえのそういうところがムカつくんだよ!」と唾を飛ばして怒鳴りつつ、ちゃっかり氷結魔法で冷やしてごくごく飲み干すのだから、扱いやすくて助かる男である。そこにデレクやらレオンツィオやらもやってきて、あれやこれやと言い合っているうちに、いつの間にか音もなく現れて全員をビビらせたのは、無論我らがギルマスだ。
「……ノース。今日大目に見た理由は、賢い貴方ならわかっていますね?」。その有無を言わさぬ問いかけに、降参したように無言で頷く。春に遭った例の事件で、ヴィヴィアンが生死の淵をさ迷ってから約2ヵ月。彼女の予後が定かではないからと、未消化の有休を追加で詰め込んだり、自宅でできる書類仕事を優先的に回して貰ったりと、既に随分融通を利かせてくれていた。今回はその最後の羽休みで……この合宿が明けてしまえば、またしばらくの間、この御仁の意のままに動くことになるのだろう。つくづく感謝している上、この先のキャリアの希望も──ヴィヴィアンにはまだ話していないあの件だ──聞いてもらっているだけに、圧を拒めるはずもなく。「……土産です、」と、ジャスパーに渡したそれより随分高級な酒の瓶を、恭しく差し出すことにして。
そうしてまた、ベテラン戦士としての顔で仲間たちの元に戻り。夕食の段取りや明日以降の連絡事項を請け負った後、湯浴みを終えた後ですら、諸々の会議で忙しかったものだから。──弟分の青年、若い弓使いのアランが、連れもなくたったひとり。夜のプライベートビーチではなく、鬱蒼と茂る真っ黒な木立の方へ向かっていることに、ギデオンはついぞ気づかなかった。否、一度だけ、窓の向こうにその影を見かけはしたのだが、その時は何とも思わず見過ごしていた。
思えば、レイケルが着々と根を張っていたこのグランポートにて、かの国の息のかかった者が暗躍しない筈がない。だというのに、その時のギデオンも、ジャスパーも、ギルマスですら。身内の動きを怪しんで疑う者など、この場には誰ひとりとて存在せず。よって、大人しいそばかすの青年の姿は、誰にも見咎められることなく、一晩のあいだ闇の中へと消えていた。それが大きな過ちだったと知るのは……もう少し、後の話だ。)
(さて、翌日。今日は訓練最終日、そして最後の自由時間の日でもある。朝早くから海に入って救助訓練の仕上げを済ませた面々は、昼食がてらグランポートの商店街に出掛け、土産の買い込みや夕食の材料の買い出しを楽しんだ(今夜の晩餐は、ビーチでのバーベキューの予定だ)。ギデオンもヴィヴィアンも、ここの通りは昨夕のうちにふたりで楽しんでいたものだから、仲間のための案内や荷物番、といったサポート役を率先してこなし。そうしてほくほくで帰ってきた面々は、コテージで一休みした後、再び初日の水着に着替え、エメラルドグリーンの海へ大はしゃぎで繰り出した。
が、それは一部の例外を除いての話。珍しくにっこりと笑ったギルマスが、不意に何名かの名を挙げて。何かと思えば、訓練の補修を受けろと無情にも言い渡したのだ。
「おまえたち、今朝のあれを仕上げなどとは言わせません。仲間や友だちと一緒に買い物を楽しんだでしょう? 飴を先にやったのですから、もう一度だけ励みなさい。大丈夫、真剣に取り組んで合格点を取れば、皆のところへ戻る許可をすぐにでも出しますよ」──と。
訓練追加を命じられたのは、例のろくでなし組と、どうしても運動が不得意な事務方数名。また例外的な参加者として、ヴィヴィアンも「できれば流れを掴む程度に」と、参加を促されたらしい。彼女の場合は出来不出来ではなく、そもそも昨日丸一日訓練を休んでいて何も知りようがないのが理由である。……つまるところ、腐っても冒険者なはずのろくでなし組は、不得手だろうと多少は仕方ない一般人、もしくは訓練未受講の後輩と並べられてしまうほど、なんにも身につけちゃいなかったわけだ。
最初こそ魂が抜けたようにがっくり来ていたマルセルとフェルディナンドだが、ヴィヴィアンやエリザベスも同じ補修を受けるとなれば、その蘇りの鮮やかなこと。「ビビちゃん、俺が手取り足取り腰取り教えてやるよ」と無駄に色気たっぷりに抜かしたフェルディナンドは、直後に青い空から訳もなく雷が落ちて、無様に撃沈していたし。やけに凛々しい顔で天を突かんばかりに挙手したマルセルが、「俺! 人工呼吸下手だったんで! 一生懸命補修します!」と高らかに主張した後、「あっでも、昨日の人形はぁ、消防局に返しちゃったしぃ……」とエリザベスをチラチラ見始めるや否や。どこからともなく颯爽と現れたバルガスが、「良かったら俺が付き合いますよ」と、白い歯を見せて笑えば。マルセルはその笑顔を引き攣らせ、「いやっ、い、いいわ……」と、すごすご手を下ろしてしまった。後輩がせっかく申し出てくれたのに何が不満なのだろう、まったく不遜なことである。
そうして、指導側も含め十人程度。岩礁のそばにある穏やかなエリアで、溺れたふりをしたマルセルをフェルディナンドが救助するという、当人ら含め誰もが砂狐顔になる訓練中に──事件は起こった。不意にざざざざ、と不審な音がしたかと思えば。参加者たちの浮いている海面一帯が、突然どっぷんどっぷんと激しく踊りはじめたのだ。
「おわあ!?」「なんだなんだ!?」とあちこちから上がる悲鳴、岩礁から指導の声を飛ばしていたギデオンとジャスパーも思わず同時に立ち上がる。真っ先に飛び込んでいたバルガスは、幼馴染を助けようと力強く泳ぎ出すものの、波の力が強すぎてそちらに近づくこともできない。そうこうするうちに、補修組は皆海上でばらばらになり──ヴィヴィアンとエリザベスに至っては、随分沖まで流されてしまったようだ。「無理に泳ぐな、今助けに行く!」とヴィヴィアンに叫んでから、ギデオンもまた海に飛び込み、荒波を掻き分けてそちらに必死に向かおうとする。だが、他の面々を助けに行ったジャスパー含め、もう少しだけ岩の上から辺りを注意していれば、きっと見落とさなかっただろう。──ヴィヴィアンとエリザベスが流されてしまった方へ、不気味な黒い影が海中を突き進んでいることに。)
プ、ポ、ェッ……!?
( 夢のような時間も過ぎ去って、それはまだ唇の触れ合った感触も残る、一人コテージの部屋へ戻ろうとした夜だった。とうとう合宿のあいだ毎晩ここで宴を開いてくれた山賊……もとい、頼りになって美しい先輩方に見つからないよう、そっと寝室へと上がる階段へ向かったつもりが、酔っ払っても冒険者である彼女達の気配に聡いことといったら。サッと背筋を伸ばし表情を取り繕うも一足遅く、フワフワと周囲に花を飛ばした、周囲が照れくさくなるほどの女の顔を見咎められれば、女社会とて追求の手の手厳しいことには変わらない。すわ、いったい訓練をサボった何シてたのかしらぁ。やだわ決まってるじゃない。数日前のアレはなんだったんだ──等々。ベテラン捜査官達の前に、居た堪れない針のむしろに耐えかねて、あっさり今日の全てを自供すれば。次の瞬間「──ははプロポーズじゃん」そんなこれまでのやり取りを、隣で聞くともなしに聞いていたカトリーヌの一言がトドメとなって。口の端から奇声を漏らして首まで真っ赤になったヴィヴィアンは、折角の合宿最後の夜を処理落ち、及び気絶という形で締めくくったのだった。 )
──よろしくお願いします!
( そうして迎えた最終日。──昨晩寝る前の記憶が少々思い出せないのが気になるが──今日も絶好の訓練日和である。昨日のデートはとっても楽しかったものの、1人だけ必要な知識が抜けているという状態は好ましくなく。後からギデオンに聞くつもりでいたところを、こうして実践で補習していただけるなんて有難い!──と、ギルマスの指示に満面の笑みで返したのはまさかの自分だけ。周囲の目が明らかに死んでいることに気がつけば、一瞬遅れてじんわりとした羞恥に小さく縮こまっていたものだから。哀れフェルディナンドは、ビビに相手してもらえるどころか、その存在すら気付かれぬまま、ギデオンの雷撃に熱い砂に沈み込むことになったのだった。
そうして始まった合宿最期の訓練中。突如起こった強い流れに押し流されながらも、初日と違って冷静に周囲を伺えたのは、ここ数日の訓練の賜物に違いない。急な波に身体を強ばらせ、真っ青な顔をしていたエリザベスを何とか宥めると、陸から聞こえたギデオンの叫びに小さく手を振って無事の合図を。──大丈夫、私達は慌てずにゆっくりギデオンさんを待てば良い。冒険者としては少々頼りない判断だが、冷静な状況分析もまた何より大切だ。しかし、「浮いて待て、だね」なんて、習ったばかりのことを和やかに確認し合いながら、波に揺られていた2人と、他の参加者達がいる陸側との間に大きな飛沫が上がったかと思うと。大きな水の壁が2人を覆い隠すかのように立ち上がり、その中からそれはそれは美しい馬が現れて。
──ケルピー……いや、エッへ・ウーシュカ……? ギデオンも初日に言っていた、立派な黒い毛並み、張り付いた海藻、こちらを見て嬉しそうに伸び縮みする体躯は、その特徴で間違いないはずだがしかし、水を操る能力はケルピーじゃ……と、どちらにせよ危険な魔物に、非戦闘員のリズを背後に庇うも。此方の警戒を気にも留めない魔物といったら、呑気に鼻の穴を膨らませながらその顔を此方に寄せてくる始末で。──まだ自分の正体がバレてないと思って媚びているのだろうか。そっと刺激せぬよう上半身を反らせば、やたら満足気な獣臭い鼻息を吹きかけられて、思わずギュッと目を瞑ってしまった瞬間。勢いよく巻き起こったこれまでとは違った種類の水流に翻弄掻き回されて、沈みそうになる頭を必死にあげた瞬間。その立派な鬣があったはずの位置。白い……ここ数日でよく見なれた形状のそれが張り付いてるのを確認した瞬間。ハッと己の胸元を見下ろした隙を突かれ、いつの間にか可憐なセーラーも貼り付けた黒馬は、実に腹の立つ嘶きを上げたかと思うと、あまりのことに呆然と顔を見合わせる娘を残して、意気揚々と水上を走り出して )
な、なんだったの……?
(ヴィヴィアンとエリザベスを包み隠すかのような、縦にも横にも広い大波。それはすぐにも、真っ白な飛沫を立てて打ち砕けはしたのだが。高く低く荒れたままの海面により、はぐれてしまったふたりの姿は、依然としてこちらには見えず、救助に向かう男たちの胸を焦燥感でひりひりと焦がす。故に、必死の思いでようやく彼女らのそばに泳ぎ着いたとき、すぐには気づかなかったのだ。)
ヴィヴィアン、無事か!
(開口一番に相手の無事を訊ねれば、一旦周囲を振り返り、こちらに脅威が差し迫っていないかの確認を。──周辺の海上をご機嫌で走り回るのは、やはり例の海洋魔獣、エッヘ・ウーシュカの亜種らしい。トリアイナの言うとおり、人間にちょっかいを出すきらいはあるが、怪我を負わせるほどの害を与えてやろうという悪意までもはないようだ。そうはいっても気は抜けないので、まったく傍迷惑なやつだと、忌々し気に睨みつつ。ひとまず安堵の息を吐きながら振り返り、「とにかく浜に……」戻ろう、と言いかけた、そのときだ。)
…………!?
────わ、るい、っ……
(ただでさえ面積の少なかったそれを、邪悪にも剥ぎ取られた今。目の前の恋人の、縛めから解き放たれた肉感たっぷりの乳色の果実は、あまりに見事に美しい円形を描きながら、青海原にぷかぷかと、蠱惑的に浮かび揺れていた。動物的な反射として自然にそれを見つめてしまったギデオンは、次の瞬間わかりやすいほどぎこちなく動揺し。ばっと口元に手をやりながら、思い切り顔を逸らして。──いや、まさか、違う、大丈夫だ、己は何も見ていない。波が乱れているせいで一瞬淡い飾りまで見てしまっただとか、寧ろ見え隠れするチラリズムめいた様子のせいで余計に煽情的に感じただとか、散々紳士を装ってきた分、あまりに鮮烈に映ったそれを本能的に目に焼き付けてしまっただとか、まさかそんな、神に誓って。……だがしかし、かつて散々女を喰い飽きてきたはずのギデオンの横顔には。エメラルドグリーンの海に映え映えするほど、いつもの涼やかな表情には不似合いな紅が差していて。)
(昨年のグランポートの海上でも、ギデオンの軽々しい謝罪をこうして怒られたことがあった。そう、ヴィヴィアンはいつだって誇り高く、思慮深い女性のはずなのだ。だというのに、いったい何をすれば、またそんな軽率極まりない一言が口から飛び出してしまうのか。反射的に鋭い目でそちらを睨みかけたギデオンは、しかし。海水に瑞々しく濡れ、細腕に柔く歪んだ巨桃をはたと見つめてしまうなり。再びぎゅんと、先ほどとは反対の方向へ、露骨に目を逸らす有様で。
──冷静な判断が遅れたのは、たぶん、おそらく、そのせいだ。不意にざあっと押し寄せる波、ヴィヴィアンの小さな悲鳴が上がったかと思えば、その体が傾ぐ気配を感じて。咄嗟に振り返ったギデオンが、同じ岩の上に乗りあげて相手を支えようとしたのも、そう、致し方のない話。──気づけば、いつぞやの冬と違って布一枚すら隔てていないすべらかな柔肉が、同じく素肌を晒しているギデオンの固い胴に、たゆんと無防備に押し当てられ。羞恥のせいでかえって起こってしまったらしい何かしらが、逆に思わせぶりなほど軽く擦りつけられた感触に──堪えきれずに漏れ出たらしい、持ち主の艶やかな、聞き逃せるはずもない吐息。相手を支えるべくその薄い肩を掴んでいたギデオンの掌は、一瞬不自然に固く強張り。そうして、思わず中空に目をやったまま、完全に思考停止状態で見事なフリーズを晒していれば。恥ずかしさに顔を覆い隠していた恋人が、きゅっと揃った白魚の指の下から、真っ赤な顔と潤んだ瞳で、おずおずと上目遣いに見上げてくるのだ。──耐えきれるわけが、ないだろう。)
──……いいや。
なんにも………聞いちゃいない…………
(苦し気に絞り出したのは、言葉の上こそ否定ではあるものの、どこをどう聞いてもその裏返しを意味しているのを隠しきれていない声音。眉間に皴を寄せて目を閉じる、苛立ちを耐え忍ぶようなその表情に至っては、もしや相手にも見覚えがあるのではなかろうか。──そこに突然、再び押し寄せた強い波が、戦士の体幹をぐらつかせてヴィヴィアンと密着させてくるとなれば、これはもう、何かしらの超法規的作為が働いていると恨むほかあるまい。「────ッ」と、声にならない呻き声をあげるなり、飛沫を立てて距離を取るものの、無論とうに手遅れで。ろくに相手の顔を見られず、ざばっと音を立てて大きな背中を向けてしまうと。骨ばった片手で顔を覆い隠しながら──こんな醜態時でも見目だけは優れているので、やたら様にはなっているのが滑稽だ──、絶望感に打ちひしがれた声で、聞き苦しい言い訳を。)
…………、言っただろう。
欲は……あるんだ……それなりに…………
ギデオンさん、危ない……!
( 再度訪れた強い波に、今度はギデオンの身体が此方に傾く。物理的に手が塞がっている状態で、避けるも避けるも上手くいかずに。ぷちゅ、と太い鎖骨に濡れた唇が触れ、分厚い胸板に押し付けられて再度歪む柔肌に、しかし最早、それに注目する余裕さえなかったのは、華奢な腰骨に押し付けられた感触のせいだ。実際に触れ合っていたのは、ビビがその正体に気付くより余程短い約1秒にも満たないほんの一瞬。しかし、ギデオンの苦しそうな、見覚えのある表情に遅れて真実に気がつけば、今度はビビが硬直する番で。「~~~ッ」と、此方も声にならない悲鳴をあげながら、火照る顔に勢いよく海水を叩きつけ。うねった前髪からポタポタと水滴を零しながら、絶望に満ちたギデオンの声に、流石に申し訳なさが胃の底をつく。そもそも自分がこの人に応えられれば解決するものを──せめて今自分が出来ることを、と。許可を得るまでは触れないものの──項垂れた男の背後、お互いの体温が感じられる程の距離へそっと近寄り。相手を安心させるような掠れた低い声で。相手のありのままの現状を急かさず受け入れる発言──つまり、自分が恋人にされて嬉しかった対応で、とうとう愛しい恋人へ知らぬうちにトドメを刺しかけたのと。閑話休題。この状況の元凶たるエッへ・ウーシュカ。彼が、自分でその原因を作り出した癖をして、目当ての美女たちが他の男といちゃつき出したことへ不満抱いて、その雰囲気をぶち壊す下品な声で嘶いたのは、どちらが早かっただろうか。 )
──……ええ。辛い思いをさせてごめんなさい。
でも、私のためにって思ったら……嬉しくて。もっともっと大好きになっちゃいました。
えっと。その、まだ……最後まではちょっと怖いですけど、私に出来ることがあったら。教えてください、ギデオンさんのために頑張りたいんです……!
(ギデオンにそっと話しかけるヴィヴィアンの声に滲むのは、嫌悪でも羞恥でもなく。こちらの身を案じるような、静かで優しい思いやり──とすら、とても呼べない代物だった。ギデオンは彼女に背中を向けたまま、途中までなら、じっと黙って聞いていたのだが。可愛らしい恋人の発言が、愚昧なほど頓珍漢な方向へすっ転び始めれば。正直そうなる展開を予感してはいたものの、それでも二、三度、びしりびしりと、その彫刻のように逞しい後姿を、あからさまに強張らせて。
自分のためにそうなったと思うと嬉しい? 俺のために頑張りたいから、自分にできることを教えてほしい? けれど最後は……肝心要の部分については、トラウマがあってまだ怖い? おまえは──おまえは、本当に、何ひとつ、わかっちゃいない……! 正直にぶちまければ、今すぐ彼女をどこかに連れ込んで、この煮えるような苛立ちを、胎の奥どころか骨の髄まで叩きつけてやりたいほどだ。そんな乱暴なわからせ方を選ばずとも、いい加減に学んでくれ、と本気で怒鳴りたくはあるのだが、しかしもちろん、本当にそうするつもりなどなかった。見ての通り、恋人のヴィヴィアンには、しっかりがっつり浅ましい欲を抱いてはいる。しかしそれ以上に、彼女の心からの信頼や安心こそ、ギデオン自身が最も欲してやまないものだ。一時の欲や怒りなんぞに呑まれたせいで、それをみすみす損なってなるものか。しかし、それを踏まえるならなおのこと、おまえの相手は聖人君子ではないのだと、そろそろ真面目に教えねばならないだろうか。しかし、それはまた後で……きちんとゆっくり話ができる状況になってから、落ち着いてするべきだろう。そう冷静に答えを出すと、盛大な溜息をひとつ。険しい眉間を強い指圧で揉みほぐしながら、こめかみにびきびきと浮かんでいた青筋を鎮め。「……、その話なんだが。とりあえず、まずは浜に戻って──」と、疲れた顔で相手を振り返った、その時だ。
語弊しかないタイミングで続きの言葉を切ったのは、この珍妙極まりない状況の原因こと……悪戯もののエッヘ・ウーシュカが、こちらに猛然と駆けてきたせいである。ブルヒン、ブルヒン、ブルヒヒヒンと、いやにうるさい嘶きを撒き散らしながらやってきた黒い馬は、まずはギデオンをじろりと一瞥。「ケッ」とでも言うような、いつぞやの齧歯類よろしくイラっと来る顔を向けてきやがったかと思うと、今度はあからさまに一変。ヴィヴィアンの方に向き直るなり、きゅるんと愛らしい、まるで従順な家畜の如き、白々しい表情を浮かべ。不意に長い首をふるったかと思うと、その口にはいつの間にやら、見覚えのある白い布切れを食んでいる有り様だ。ヴィヴィアンが気づきの声を上げるのと、全てを察したギデオンがその表情を完全に消し去ったのとは、ほとんど同時。相手がその細腕を伸ばして取ろうとしたとて、無駄に知能のある魔獣はその首を後ろにそらし、「そう簡単には返さないよぉ~~~ん!」とでも言うようなにんまり顔で、彼女を見下ろすことだろう──だがしかし。「あっ」とでもいうように、その目が丸く見開かれ、歯茎を向いた汚い笑顔ががちんと凍りついたのは。お目当ての可憐な娘の背後、沸々とどす黒いオーラを立ち昇らせる、凄まじい修羅に射竦められたからだ。「……ヴィヴィアン、」と、恐ろしく低い声で話しかけたその男は、自分の羽織っていたボタンのない白いシャツを、後ろから相手にそっとかけ。そのままざぶざぶと岩棚の上を歩きながら、今までにない戦士の背中を相手に見せることだろう。)
俺から離れて、浜に上がれ。
すぐに──こいつを──片付ける。
……ッハイ!
( ──私も一緒に戦わせてください! そう口にしかけた懇願はしかし、相手の覚悟の決まった背中を前に短い快諾にしかなってくれなかった。後になってこの時のことを、その頼もしい背中に見蕩れていたとでも正直に言おうものなら、こっぴどく叱られたかもしれない。ともかく、愛しい恋人を映した瞳を、ハート型にとろん、と溶かしていたその時。それでもいい募ろうとしたビビにダメ押しをしたのは、ちょうどザブザブと波を掻き分けながら、こちらへと近づいてきて、「ごめん、ビビはリズを浜まで連れて行ってくれないか」と、ビビ同様サイズの合わないシャツを羽織らされたリズを差し出して来た、その赤い頬にくっきりと掌の跡をつけたバルガスだ。大きさと位置から見るに、リズのそれではなく自分で叩いたかのようなそれと、真っ赤に血走った白目は太陽のせいで誤魔化すには随分なそれだったが。ともかく、魔獣という脅威を目の前にして、一般人を安全に避難させるのも冒険者の立派な仕事だ。浜辺に戻りながら親友に話を聞けば、さもありなん……というしかない苦難がバルガスのことをも襲っていたらしい。「リズ、リズちゃん!」と声を張り上げる自分に気がついて──バル君! と甘えるエリザベスを、最初こそいつもの爽やかな笑顔で受け止めたバルガスだったが、可愛い幼馴染の上衣がないことに気がついた途端。それはそれは素晴らしい速さで自らの上着を被せて、何処までもスマートに浜へと戻ろうとした動じなさに、とうとうエリザベスがキレたらしい。──私怖い、だかなんだか。白々しいことを言いながら抱きついてやれば──あとは男女のちちくりあいなぞ、右から触るか左から触るか程度の違いで、ビビ達と取り立て語る程の違いは無い。「あれで反応しなかったらどうしようかと思いました」と、やたら満足気な親友に──自分も無意識にもっと酷いことをやってのけたことには気づかずに──うわぁ、と。お陰で見たことの無い目の色をしていた槍使いに同情を深めるばかり。慌てて砂浜へと向かわず、ゆったりと浜に平行に泳ぐ──沖に流された時の対処法を冷静に守りながら、段々と落ち着いてきたらしい親友に怪我がないか、痛むところはないかと念入りに確認をして、やっと陸に戻れた頃にはさて、男共の決着はどうなっていることだろうか。 )
(エッヘ・ウーシュカという魔獣は、海の上ならば本来無敵だ。波間に沈まぬ不思議な蹄に、触れたが最後、決して離れられなくなってしまう恐怖の毛皮。魔法こそ使えずとも、一方的に近づいて絡めとった敵を海の底に引きずり込めば、あとは獲物が溺れ死ぬのを悠々と待ち詫びるだけ。暫くの後、赤黒く染まった海面に、ウーシュカの好まない犠牲者の肝臓だけがぷかりと浮かび上がってくる──本来そんな、悍ましい所業をしでかす怪物であるはずだ。
グランポートのウーシュカは、更にその上位種として生まれついた個体だった。ケルピーとの間の子たる彼は、普通のウーシュカには宿り得ない、水嵩を自由自在に操る力まで持っている。ただひとつ欠けているのは、有害魔獣には皆備わっているはずの、悪意に満ちた攻撃性だけ……いやまあ、あるにはあるのだけれども、人を取って喰おうという真に有害なそれではなく。せいぜいが、「色っぺえ姉ちゃんのいやんあはんを拝むぜぐへへ」程度の、実に低俗でくだらないそれなのだ。彼はとにかく美女に目がない。より言うならば、水着姿が大好物だ。故に、大胆な姿の彼女らが戯れに来てくれない寂しいビーチにはするまいと、他の魔獣を手あたり次第、勝手に蹴散らすほどである。ここらの魔獣を討伐しているトリアイナの連中も、彼がハイ・ウーシュカであると知りながら見逃してやっているのは、そういった事情によるもので。妙に人懐こい個体のようだし、まあ不埒な真似はいただけないけれども、放っておけばなんか勝手に働いてくれるからいいだろう、と。そんなわけでこのウーシュカは、わりと自由奔放に、のびのびと好き放題して生きてこられたのだ──今日までは。
今この瞬間、ウーシュカの眼前の波間に並んでいるのは、別に海上を走れやしない人間の雄がたった2匹。しかしその形相はさながら、片や修羅、片や羅刹。どちらも凄まじい怒りを立ち昇らせ、このウーシュカを、海帝リヴァイアサンが如き眼で睨み据えている有り様だ。「……バルガス、おまえ、魔法の腕は?」「ええ、たった今、覚醒したところです」──。無論、高知能とて人語を介さぬウーシュカに、男たちの会話の意味が正確にわかるはずもない。ただ、彼らは本気でこの自分を殺しにくる、ということだけが、はっきりと見て取れて。
一瞬の見つめ合いの後、派手な飛沫を上げてウーシュカが身を翻した。美しい黒毛の獣が、青海原を駆ける、駆ける。それはもう、伝説の駿馬グルファクシもかくやというほど、一陣の海風となって。だがその行く手に、掌にドラゴンの卵大の稲妻を掻き集めた壮年の雄のほうが、バチバチとそれを叩き込んだ。感電してひっくり返るウーシュカの太い胴体、そこめがけ。いったいどうやってか、海上から高く高く躍り上がった若いほうの雄が、魔法で錬成した氷の槍を大きく大きく振りかぶる。ウーシュカとて本当に死ぬとなれば必死だ、慌てて周囲の波を操り、圧倒的質量の水の盾で切り抜ける。忌まわしそうに叫ぶ若い雄、追い込めと叫びながら猛然と泳ぎ寄ってくる年嵩の雄。雷鳴が轟き、氷雪が荒れ狂い、大波がのたうち回った、その果てに──。「……おまえたち、いったい何をしているんです?」。雁字搦めに絡まり合った、馬一頭と男ふたりの目前に。小舟でようやく駆けつけたギルドマスターが、指鳴らしひとつで全ての現象を止ませながら、呆れた声を投げかけるのだった。)
(──かくして。ようやく浜辺に上がったギデオンとバルガスは、駆け寄ってきたそれぞれの女性に、奪い返した水着の上衣をしっかりと手渡した。代わりに優しくかけられたタオルで、濡れ髪を掻き込むその真横。しわしわの電気鼠のような顔をして浜に上がってきたのは、例のエッヘ・ウーシュカだ。頭をがっくり項垂れたまま、ギルマスからの静かな──誰もが居た堪れない気持ちになると評判の──説諭を喰らっている奴を見て。最初こそ、「ギデオンとバルガスが自分たちの女を巡って魔獣と決闘してるらしい」と面白がっていた連中も、そのけだものがマドンナたちの水着を盗んだと聞き知るなり、皆群がってやいのやいのと罵りはじめる。──その中からすっと進み出て皆を黙らせたのは、誰あろう、ダークオークも裸で逃げ出す恐怖の女山賊こと、カレトヴルッフ前代三人娘たち。「うちのビビとリズに──」「──不埒な真似を──」「──したんですってね?」。妖艶な大人美女たちに近寄られたことで、最初こそ性懲りもなく元気を取り戻したウーシュカだったが。彼女らと目を合わせるなり、ギデオンたちよりよほど恐ろしい敵に捕まったのだと悟ったらしい。その全身をがくがくと震わせながら、にこにこ顔のリッリが「ん?」を差し出す片手の上に。己を唯一支配できるもの、魔法で編まれた頭絡を差し出して……人間に対する完全服従を、自ら誓わされたのだった。)
(それから二時間ほど過ぎたころ。デレクとカトリーヌ主導によるスイカ割りを楽しんだ一同は(因みに、手からすっぽ抜けたこん棒がジャスパーの後頭部を見事強打する一幕があったものの、もはやお約束過ぎて誰も注目すらしてなかったとか)、いよいよ竈や網を持ち出し。普段より少し早い時間の夕食、豪勢なバーベキューで大いに盛り上がることとなった。大量の薪や食料を乗せた荷台は、もちろん例のウーシュカが嫌々曳いてきたものだ。「皆さん、どのお肉が欲しいですか?」と大皿片手に気を配って回るアリアに、先ほどからばくばくと焼肉を掻き込んでいるバルガスとギデオンだけが、「馬肉」「馬刺しをくれ」と、真横に控えるウーシュカ尻目に、息ぴったりに主張して。向かいにいるヴィヴィアンやエリザベスを破顔させたその後ろから、カレトヴルッフの招待したトリアイナの人々……その頭領たる海の男がやってきては、大笑いしながら馬の尻をバンバン叩き。「なアおめェ、食肉に潰されたくなきゃ、いい加減うちの馬になれよ。なあに、仕事を頑張ってくれんなら、ここ以外のビーチにも見回りに行かせてやっからよぉ!」──そう聞いた瞬間、みるみる生気を取り戻したウーシュカの、つぶらな瞳の輝きようよ。ブルヒヒィン! と汚らしい、喜びに満ちた嘶きよ。これからもこの愚馬は、港町の守り神として活躍することになるのだろう。今後金輪際、二度とグランポートには来るまいと、固く決意したギデオンである。)
(──そうして。五日間も続いたはずの訓練合宿は、あっという間に終わりを迎えた。片づけを済ませ、トリアイナの連中と別れを交わしたカレトヴルッフ一同は、昼のうちに荷造りを終えていた甲斐あって、すぐさまコテージを出発し。幌馬車に揺られること数時間……遥かキングストンに続く運河、その波止場へ辿り着くと、わいわいと押し合いへし合いしながら中型船に乗り込んで。真っ赤な夕陽に沈みゆくグランポートの海岸線に、いよいよ別れを告げたのだった。
川を遡上する関係で、帰りの船旅は二泊三日。この間もベテランたちは、今回の合宿のフィードバックやら、報告書の見合わせやらを行うのだが、合宿中に比べれば充分にゆとりがある。故に、ギルマスの新たな指示も聞きながら諸々の仕事を手早く片付けたギデオンは、すれ違ったアランと挨拶を交わし、デレクとカトリーヌを窘め(変顔を返された)。持ち込んでいる酒でも飲むかと入りかけた部屋で、何やら神妙に向き合っているレオンツィオとスヴェトラーナを目撃してすぐ踵を返し、結局何とはなしに甲板へと上がることにして。航路をだいぶ進んだこともあり、辺りには新緑の匂いが濃い。ここ数日はずっと潮風に吹かれていたが、やはり自分は森の人間なのだろう。樹の香りの方が、ずっと心が落ち着くようだ──そんなことを考えながら、デッキの柵に正面からもたれ、心地よい風に当たって。)
( トランフォードの誇る華の王都、キングストンから南部を繋ぐ中型客船。その月明かり差し込む三等船室には、大河を遡上するペダルが水を漕ぐ低い音と、そのペダルを回す魔力が奏でる微かな煌めきが心地よく響いている。そこで書物を終えたヴィヴィアンは、ゆったりと窓辺に腰掛けて、ギデオンから貰った簪とスカーフを何度も何度も撫でては月明かりに照らし、ほう……と、うっとりした吐息を漏らしていたのだが。今晩は月が明るい、既に寝入っていたリズが眩しそうに寝返りを打ったのを見て、そっと静かにカーテンを締めると、一人静かに甲板へと上がることにしたのだった。
そうして、月明かりを反射して光る水面を何気なく眺めながら、良い場所を探して広い甲板をゆっくり一周しようとした時のこと。船尾から右舷の方へ曲がり視界が開けた途端、少し離れた柵にもたれ掛かる姿すら様になる相手を見つければ、思わずいつも通り飛びつこうとして、そよぐ髪の毛に一旦立ち止まったのは──ギデオンが似合う、と言ってくれた姿で会いたかった乙女心。新緑の風に広がっていた髪を捕まえ、赤いスカーフの髪留めの角度にこだわること30秒ほど。変な所がないか近くの窓でチェックしてから、再び跳ねるようにして駆け寄ると。今回ばかりは欄干の近く故、危なくないようしっかりと速度を殺して抱きつくと、柔らかく、しかし溢れんばかりと愛しさは伝わるように、背後からぎゅうぅ、と長く強く抱き締めて。 )
──……こんばんは、ギデオンさん。
こんな時間にどうされたんですか?
(何やらご機嫌な軽い足取りが近づいてくる気配。おや、というようにそちらを軽く振り向きかけたところで、己に心底嬉しそうに飛びついてきたのは、無論恋人のヴィヴィアンだ。背後からぎゅうぎゅうと抱きしめてくる懐っこさに思わず苦笑し、彼女の腕の中で向き直ると、「おまえもまだ起きてたのか」とその前髪を掻き分けてやり。そのまなざしがふと、完璧に調整されたスカーフへと自然に移れば、相手の目論見通り、その目尻に愛しげな皴を無自覚に浮かべるのだから、相手にとってはさぞや遣り甲斐のあることだろう。背後の柵に背を預け、その疑似耳を指先で軽く弄びながら、穏やかな声音で返答を。)
ギルマスに言われたいろいろ書類をやっつけたんだが、もう皆寝入りだす時間だろう。たまにはのんびり夜風に当たってみようかと出てきたんだ。──まさか、おまえに会えると思ってなかった。
( 前髪を梳く優しい指先と共に発されたのは、少し意外そうな口ぶりのそれ。皆と過ごしたグランポートが楽しすぎて、日常に帰るの最後の夜を眠って過ごすのが勿体なかった……なんて言ったら、子供のようだと呆れられてしまうだろうか。そう無言でただ小さく微笑み、私だって夜更かしできるんですよ、というふうに。けれども、どうしようもなく安心してしまう相手を目の前にして、少し眠そうな目を閉じ胸を張って見せれば。スカーフへと手が伸ばされる感覚に、何処か得意げな表情が益々誇らしげに綻んで、ギデオンに触れられていない方の耳がぴこりと元気よく揺れるだろう。 )
私も、会えると思ってなかったから嬉しいです。
髪飾り、本当にありがとうございました……そうだ、今お時間ありますか?
( そうして、ギデオンの穏やかな声音に、にっこりと人懐こい笑みを返し。触れられているのは擬似耳にも関わらず、相手の指に擽ったそうに小さく首を竦めれば。頭上のそれにはっと瞳を丸くして、「本当は家に帰ってから渡すつもりだったんですけど」と、腰に括りつけた袋から、小さな包みを相手に差し出すだろう。グランポートの海を思わせる、深い蒼色の包みの中身は、一見ただの白く美しい巻貝。一番最近増えたヴィヴィアンの宝物、今頭上で揺れる紅いスカーフと翡翠の簪のお礼を考えた際、今までの経験上、ギデオンが喜ぶものと言えば、美味しい物か、美味しい物か、美味しい物か──……。その大きな口を開いて嬉しそうに頬張る恋人は愛しい限りだが、簪の価値を思うと、お礼が食べ物では流石に……と思い悩んでいたその時。もう一つ目の前の相手に分かりやすく"喜んでもらえるモノ"の存在を思い出せば、勢いのままに用意してしまったのだが、果たして。一晩かけて探したグランポートの浜できっと一番美しい真っ白な貝殻、ビビの魔素を込められて、任意のタイミングでその魔素を解放できる作りになっているそれは。最終的には任意の魔法を誰でも使えるようにするのが目的の試作品だが、魔素の相性の良いギデオンならば、多少の回復とビビの気配を感じるには充分な代物だろう。そんな、自らで自らの価値を高く見積もるような贈り物に、説明しながらやはり恥ずかしくなって口を噤むと。その視線をギデオンから逸らして、暗い水面に投げかけてしまって、 )
職人街の……ほら、前に紹介してくださった──カイロのことを話したら、もっと魔法を色んな物に保管して持ち運べたらって話になったんですけど。ん……と、説明が難しいな……それはまだ試作品なので魔素が魔法になってくれないんです。
でもほら、ギデオンさんなら私の魔素だけでも……また明後日から忙しくなるんでしょう? 遠征中とか、少しでもギデオンさんが休めたらいいなって思ったの、
? 存分にあるが……、
(はにかんだり、安心しきったり、眠たげになったり、誇らしげに微笑んだり。こちらを見上げる恋人の表情の、月明かりの中でさえくるくると色鮮やかなこと。いつまでも見飽きないそれに、ギデオンは酷く満ち足りたまなざしを投げかけていたのだが。目の前の彼女が何やらごそごそしはじめると、不思議そうに首を傾げ──その薄青い双眸が、すぐにもあどけなく見開かれて。
もたれていた背中を起こし、「…………」と黙ったまま。掌の上に取り出した真っ白な貝殻を、そっと撫でて確かめる。──ヴィヴィアンと過ごして1年。才も知識もずば抜けた彼女を見つめているうちに、いつしかギデオン自身まで、複雑な魔素の働きを読み解けるようになっていた。故にわかる、故に目を瞠る。この自然由来の魔導具は、一見すれば、単に魔素を込めただけのシンプルな造りのようでいて……その実、使い手がどんなに疲労していても望む効果を引き出せるよう、簡単に壊れぬよう、非常に高度な魔法陣が編み込まれているらしい。巻貝自体はグランポートで採集したものだろうから、このところのほんの数日で作り上げてみせたようだ。──最初こそ、そういった技術面のほうに感嘆していたものの。試しに今ここで、指先を動かす程度の魔素を込めてみればどうだ。ぽわりと優しく光った貝殻から、温かい感触が──何度も何度も馴染んできた、ヴィヴィアンの魔素が溢れてきて。身体が回復する分以上に、胸の内が思いがけぬほど深く深く満たされ。愛しげに目を細めたギデオンが、はにかむヴィヴィアンの頬に手を添えて振り向かせ。その大きな額に、瞼に、唇に、感謝の口づけを落としていったのは、もはや必然としか言いようがない。)
──これ以上ないよすがだ。
ありがとうな……大事に持っていくとも。
(ようやく礼を伝えたものの、余程嬉しかったのだろうか。相手に顔を寄せたまま、癒しの波動を放つ魔導具を、掌の内で何度も何度も転がしては。余裕たっぷりな表情、涼し気なすかし面、意地悪く揶揄う笑み──いつも浮かべているそれらは、全くの別人のものだったかと思うほど、ただただ純粋に目元や口元を綻ばせている有り様で。ふと瞼を閉じると、額をすりと擦り付け、空いたままの左手を、彼女の右手へ密に絡める。ちょうどこのとき、たまたま甲板に出てきたギルドの連中が、「シュガールが兎に甘えてやがる……」だとかなんとかぼやきながら即退散していったのだが、ヴィヴィアンに夢中なギデオンは、ろくに気づかないほどで。そうしてもう一度、高い鼻面を彼女のそれに擦りつけ、喜びようを再三伝えたかと思うと──次に開いた目は、何故か酷く残念そうに、繋いだ手の方に注がれる。……体内の魔素がきちんと循環しているということは、あの大怪我から回復したこれ以上ない証左であるから、別に否やはないのだが。自分だけが与えられてばかり、マーキングもし足りないとでも言いたげに、不服そうな面持ちだ。)
俺も、おまえに残していけるほどの魔力があれば良かったんだが。あのとき分けた分は、もうとっくに抜けたろうな……
んっ、いえ…………。
( こんなに喜んでもらえるとは思っていなかった、と言えばそれは嘘になる。きっとこの人は自分のプレゼントを心から喜んでくれるから──帰ってきたらちゃんと使ったか確かめますから。ちゃんと休まないとダメですよ、なんて言い募って……と考えていた展開はしかし、そうはならなかった。これまで見たこともない愛らしい表情に、愛しそうに撫でる優しい指。ギデオンが喜んでくれて嬉しい筈なのに、この胸のもやつきは一体──私、自分で贈った物に嫉妬してる……? そう気がついた途端、たったそれしきの回復量で。私の方が癒してあげられるのに。褒められるのも、撫でられるのも、全部全部私の権利なのに。と、次々擡げるドロドロとした嫉妬心に──提案したその行為が、一部界隈でマニアックな其れとして知られている行為だなんて知りもしなかった。ギデオンがやっと貝殻から視線を外して、此方へと顔を擦り付けてくる仕草に、やっと少し溜飲を下げ。複雑に繋がれた掌を意識すると──あった、これだ、と。慣れない動きでそっと重ねたのはお互いの魔力弁。普段無意識で使っている其れは、少しでも意識を逸らすと直ぐにどこにいったか分からなくなりそうで。これを緊急時に、的確に狙って繋げられる相棒はやはり凄い。そうして、しっとりと紡いだお強請りに重ねるように、その魔力弁を吸いつかせてみるものの。上手く出来ているかよく分からずに、分厚い胸板に身体を預けると、弁の代わりにちうちうと、二、三度相手の唇へと吸い付いて )
……じゃあ。今度は交換、しましょ?
私もギデオンさんの、欲しい……ね、
っ、……!?
(掌の内側を、甘く吸われるような感触。動揺に揺れるギデオンの瞳が、自然とヴィヴィアンの方を向く。しかしそこで目を伏せているのは、もはやいたいけな生娘を脱ぎ捨てた彼女だった。ほんの数日前、こちらのちょっとした素振りにも慄いていたくせに……ギデオンの魔力弁を拙くむしゃぶるその情態の、なんと淫りがましいこと。舞踏会の前、小屋での一夜、カレトヴルッフの医務室、聖バジリオの窓辺──今まで何度か、女らしい顔をした彼女を拝んできてはいるはずだが。ここまで芳醇な、魔性の色香を醸し出すヴィヴィアンなど、己は知らない……そう、ついに恋仲になった今。彼女の中の嫉妬の箍を無意識に外したことなど、朴念仁なギデオンは、まるで自覚してはいなかった。そんな戸惑ってばかりの顔が、ありありと隙だらけだったからだろう。柔くしなだれかかってきたヴィヴィアンに、やっぱり上手くできないから物足りないとでも言わんばかりに、いっそ厭らしいあどけなさで、甘ったるいキスを乞われれば。また無責任な煽り文句を──なんていつものお説教は、もはや脳裏によぎりもしない。──相手のお望み通り、いとも容易く、同じ深みへと心が堕ちて。)
……あの時は必死だったから。上手くできるかな……
(いつもの己らしくない、酷く砕けた、甘えたような口ぶりは。甘い快楽へ身を委ねゆく、無防備さの表れだろう。少しだけ顔を傾けて微笑みながら、大切な贈り物を脚衣の隠しにしまい込むと。下にやった手をそのまま、彼女の楚腰を這うように添え──あまつさえ、欲もあらわにさすりつつ。繋いだ左手の五指の先にも、脈打つように力を籠め、より掌同士を密着させては、己も吸い返そうとする。──けれども、互いの弁が壊れて孔が露出していたあの時とは、難易度が違うせいだろう。やはりギデオンも、上手く弁を合わせられずに、四苦八苦してしまう様子だ。目に見えぬ魔法器官のなかでも、魔力弁は魔髄とは違い、流動的な性質を持つ。特に訓練を積んでいるわけでもなければ、そもそも意識的に動かすことすら難しいはずのものだから、十数秒ほどはささやかに試行錯誤してうたけれども、結局は意識が散るのにもどかしくなり。上に下に組んでいた手を、もう一度熱く絡め直せば。甘えん坊な花唇に、たっぷりと応えを食ませて──結局ふたりして耽溺するのは、いつもそおりのそれだった。
故に、それは偶然だったのだ。青い月明かりの下、それでも宵闇の暗がりに囲まれているせいだろう、船が僅かに進行ミスを犯したらしい。がくん、と軽い揺れが起き、後ろによろめきかけたヴィヴィアンの身体を、唇を押し当てたまま力強く支えようとした……その時。もののはずみでぴったりと重なった魔力弁、そこから己の魔力がどろりと流れ込む感触。反対に、ヴィヴィアンの魔力もまた、こちらにとろりと溶け入ってきて。その既知のようでいて、ほとんど別物と言ってもいい、鮮烈な感覚に。一瞬「!?」と体を固め、糸を引きながら唇を離すと、蕩けていた顔を呆然と見合わせる。──今のは、一体。)
……? ……ギデオンさん、可愛い
( あの時そうしてくれたから、現にこうして自分は生きているというのに、この行為に上手いも下手もあるのだろうか。ゆっくりと此方に向き直り、無防備に微笑む恋人を前にして、ただ分かるのは相手が愛おしくて堪らないということだけ。腰を摩る手に頬を赤くしてはにかめば正直、あの忌々しい貝殻から、この人の腕の中を取り戻せただけで随分と満足してしまったのだ。その証拠に、頼もしい胸板に空いた掌を添え──求められるがまま、許されるがまま、その下唇を吸い、夢中になって厚く熱い舌を食んでいれば、それが結局いつもと何ら変わらない触れ合いだと言うことなど微塵も気にならず。じわじわと上がる体温に瞳を閉じて、その体重を完全に相手に預けてしまおうとしたその時だった。古い機械が軋む音をたてながら、がくん、と揺れた足元に、一瞬何が起こったのか分からなかった。突如、胃の底がぶわりと熱くなったかと思うと、繋いだ手も、大きな手が滑る腰骨も、反対に此方から添えていた左手も、そして密に触れ合っていた唇も、相手と触れ合う全ての箇所が蕩ける程に気持ち良くて。パチパチとスパークする視界に、それまで精々湿った吐息を時折漏らすだけだったにも関わらず、まるで仔犬のような鼻にかかった声を漏らすと。切れて落ちた銀糸が胸元を濡らすのも気にせずに、ギデオンと顔を見合わせ。未だ先程の衝撃に呆然としたまま、こてん、と首を傾げる。そうして、酒に酔ったような表情で大好きなアイスブルーを見上げながら、ふにゃりと小さく微笑むと、強請るようにもう一度右手を握り直して。 )
……あ、は。気持ち良かった、ね……?
(──ずっと後になってわかったことだが、この一種のアブノーマルプレイは、魔法適性が高い者ほど習得が早いらしい。ヴィヴィアンが小さな悦をすぐにも極められたのも、ギデオンの方はまだそこまでの快感に襲われなかったのも、つまるところそういうことだ。しかしながら、戸惑うギデオンが理性を取り戻していられたのは、結局はごく一瞬。不思議な快楽にふわふわ酩酊した恋人の、その表情、その仕草、その声音を向けられて、脳の奥が激しく焼け落ちない男などいるだろうか。元々、熱烈な睦み合いに溺れていた矢先なのだ……ギデオンの視線はわかりやすいほどに揺れ、その瞳孔が暗く広がり。我知らず喉が鳴り、言い様もなく体温が高まり、呼吸は浅く、早くなる。……今はまだ追いつけぬ身だというのに、それでも、ヴィヴィアン自身の媚態のせいで、彼女と同じくらいに興奮しているこのざまだ。それを己で宥めるべく、一度目を閉じ、静かに息を整えたのは。数日前の反省、同じ過ちを犯したりして彼女を怖がらせないため。──否、違う。本当のところは……この摩訶不思議で甘美な遊戯を、絶対にやめたくなかったからで。)
…………、
(もう一度、小さく唾を呑んでから。どこか眠たげにも見えるほど蕩けたまなざしを向け、ようやくのことで微笑み返すと。すぐにまた目を閉じながら、少し頭を屈めるようにして額を寄せ。ささやかな呼吸すら感じ取れるほどの距離で、静かに手と手を握り合う。今のギデオンは要するに、そうと知らずに──知ったところで同じだろうが──相手のお望み通りのまま、ただ目の前のヴィヴィアンに集中しきっている状態。掌に感覚を集め、己の魔力弁らしきものをどうにか制御下に置いてみせると、今度はそれを使い、彼女のものをもう一度探り当てようと試みる。……だが、やはり至難の業のようだ。怪我で動かなくなっていたあの時と違って、もうお互いの魔力弁がとっくに回復し、その流動性を取り戻しているせいだろう。何度かそれらしい感触が掠めたものの、上手く捕まえておけないようで。「こら、そんなに元気に逃げ回らないでくれ」なんて、相手もその気はないだろうに、笑んだ声で冗談を。そうして戯れ合いながら、それでもその手元だけは、あの時の陶然としたヴィヴィアンをもう一度呼び起こすべく、真剣に探し続けるのだ。その執念を厭らしく思われたとて、仕方がないことだろう。──結局それ自体が楽しくなって、飽きもせず長い間探り合っていた時のこと。不意にようやく巡り合った魔力弁が、もう一度上手く食み合う感触に。無言のまま見開いた目を、そっと相手と合わせると。その視線を艶っぽく伏せ、少し息を震わせながら、魔力を流し込みにかかる。──今度はギデオンも、ごく小さく声が出た。押し殺していたのに思わず漏れ出たような、無性音に近い声だったが。どろりと──溢れるように──己の魔力が直接恋人の中へ吐き出される感触に、今はまだ鈍い快感が、それでも鳩尾からじわじわと立ち上る。肉欲のそれと限りなく似ているが、あれとはまた違う──もっと深く、もっと熱く、もっと穏やかなそれのようだ。触れ合っている掌同士だけでなく、心臓が直接蕩けるような感触を覚えるのは、相手も同じことだろうか。「……ヴィヴィアン、」とわけもなく名を呼んだのは。己の味わう混乱交じりの快感を、自分にとって確かな存在を頼りに、まっすぐ受け止めたかったからで。)
( この時、ビビが絆されていたのは、未知の快楽にだけではなく。あのギデオンが素直に自分に甘えてくれたこと。そして、それを自分も拒絶せずに応えられたことが、心底から嬉しくて堪らなかったのだ。それもお互いの魔素を交換する、いつも仕事でやっているそれと変わらない健全な行為が。ただそのやり方を変えただけのことが、こんなにも温かで満ち足りた気持ちになれるものだったのだと……今度、アリアにも教えてあげようかなぁ、なんて、頓珍漢なことを考えていたものだから。ギデオンの瞳がただ甘いものから、此方を捕食せんとするそれに変わりゆくことなど気づきもせずに──早く、早く、と。瞳を閉じた相手の事情など思い知らぬまま、無防備になった唇、頬、耳へと軽いキスを繰り返すと、繋いでいた右手をゆらゆらと無邪気に揺らして続きを強請り、 )
──逃げてないですけど、擽った、くて……ふふ、ギデオンさんこそ、ちゃんと捕まえてくださいよ、
( そうはいっても、慣れぬ行為に中々上手くはいかぬまま。ギデオンの意識の全てを、此方に捉えて離さぬ快感にうっとりと微笑み。時折、瞳を閉じている相手の顔のあちこちを悪戯に?ばんでは、相手の集中力を掻き乱して遊ぶこと暫く。不意に合った魔力弁に、「あっ」と期待の色がこれでもかと混じった吐息が漏れて、此方を射抜くアイスブルーが、色っぽく伏せられる光景に身体が震えた。──とろり、とろりと流れ込んでくる量を超えないように、繋いだ手に意識を集中させると、余計に感覚が鋭くなるようで。じわじわと溜まる快感に、表情に気を使ってる余裕もなくて。合わせた掌がズレないよう、そっと静かに抱きつくも。これで人心地つくどころか、触れ合う面積が増えたことで益々快感は増すばかり。頭は茹だってクラクラするし、布越しに触れ合う全ての部分と、それよりもずっと酷い熱が臓腑に溜まって、今にも全身溶け出しそうだ。じくじくともどかしく溜まる快感に、時折溜まりかねた腹や肩がぴくぴくと跳ねて、その度に漏れる吐息を堪えているつもりで、布越しの肩へ熱く吹き込んでいるのだからまるで意味が無い。とはいえ、初めての刺激にも段々と慣れて、ぎゅっと閉じていた瞳を、ゆっくりと持ち上げようとしたその時だった。──がくん、と。急に視界が揺れたかと思うと、繋いでいた手が大きくズレてしまい。ギデオンの胸の中、最初こそ何が起こったか自分で分からず、ただぼんやりといつもより早い呼吸を繰り返す。しかし、徐々に思考がクリアになれば、嫌でも理解はあとから着いてくるもので。まさか、腰を抜かしたのだと──いくら大好きな人の大好きな声でも、ただ相手に名前を呼ばれた、それだけで……。その瞬間、それまで何処かぼんやりしていた桃色の頬に、月明かりでも分かるほどカッと鮮烈な朱がさして、必死にギデオンにしがみつきながら、何が違うのか、混乱のあまり寧ろ全てを白状すると。その囁かれた方の耳を抑えながらへなへなと、力なくつかんでいた腕を離して。呆れられてやしないかと、おずおずとギデオンを見上げた視線は、どこか子供のようなあどけない不安が満ちていて、 )
──……あ、うそ……わたし腰抜かして……うそ、うそ! ちがうんです、
ギデオンさんが、急に耳元で呼ぶからっ……、
(肩口に熱く吹き込まれる吐息が、少し和らいだかと思われたそのとき。ギデオンが思わずその名を口走るなり、かくん──と。折れるように、或いは跳ねるように、ヴィヴィアンの身体がわかりやすく反応し、それまで絡み合っていた魔力弁が呆気なくほどけてしまった。自然、目を閉じて快楽を追い求めていたギデオンも、まだ息の浅いまま、腕の中の恋人を無意識に抱きとめたまま、再びぼんやりと彼女を見つめ。──余裕がなくて気づかなかったが、今の数十秒ほどの間、相手はギデオン以上にたっぷり蕩けきっていたらしい。その余韻が未だ色濃い花のかんばせが、それでも今や羞恥の色に取って代わられ、明らかにおろおろと恥じ入っている様子である。妙な反応を示したことではなく、些細な何がしかに強く反応してしまったこと、そちらに混乱しているようだ。……その、純真無垢ゆえ大きくズレた、可笑しな慌てようを見て。ギデオン自身、相手に溶け入っていた気持ちよさに未だまだぼんやりした面差しのくせに。「……っふ、」と、いつもの自分を取り戻したの如く、顔をくしゃくしゃにして笑い始め。)
っく……“腰を抜かした”か……そうか、そうだろうな。くくっ……
(無論、呆れちゃいない。呆れちゃいないが──まったく、随分と可愛らしい表現をするものだ。「悪い、悪い」と白々しく謝りながら、不安げな様子が可愛かっただけだ、別に何もおかしくないさと、安心させるように言い聞かせて。……今のが何に等しいのか、今この場で教えてしまうのは、内心躊躇われた。あの怖がりなヴィヴィアンが、“これ”となれば、こんなにすんなりギデオンを受け入れてくれたのだ……少しの不安も抱かせたくない、この先も安心して身を委ね続けてほしい。故に、ほどほどで笑いの発作を収めると、まだ足腰に上手く力が入らないだろう相手を、しっかりと支え直し。余韻の残る左手で、相手の愛らしい額を二、三撫でてやりながら、酷く満ち足りたような声で、強請るような物言いを。)
なあ、今の……良かったな。
やり過ぎると体に毒かもわからないから、弁える必要はあるだろうが。
帰ってからも、また時間の取れる時にでも……もっとゆっくり、おまえと試したい。……いいか?
じゃあ、笑わないでくださいよ……!
( ビビとて経験こそないが、今年で24になるいい年をした成人女性である。そういう行為の果てに起こるらしい現象のことは、知識としては持ち合わせていたものの。幸か不幸かビビの中で、このあたたかな"健全な行為"と、淫らな象徴であるソレは繋がらなかったらしい。その上、無意識ではあったが、その初めての経験の余韻も、あまりに突然のこと過ぎて。未だ快楽を拾うよりも混乱が勝って、楽しげに肩を揺らし出す恋人への怒りに霧散してしまい。ギデオンの『おかしくなんてない』という言葉にホッと表情を緩めながらも、じゅわりと潤んでいた瞳をキッと釣り上げたかと思えば、意地悪な彼の分厚い肩に柔らかな一撃を入れずにはいられないのだった。
そうして、暫くは唇を尖らせたまま、ぷくぷくとご立腹の様子で相手に甘え倒していたものの。ギデオンにされるがまま、大人しく抱え直され、大好きな掌に額を二、三撫でてもらえば。けろりと機嫌を治してしまって、自らもその腕を相手の腰に回すと──それは、例の如く、なんの悪気もない、優しい恋人に甘えただけの一言だった。ギデオンの甘い声に、最初はただ静かにこくりと頷いてみせてから。不意にもじもじと俯いたかと思うと、周囲に誰がいる訳でもないのに、相手の耳元に唇を寄せ。うふふ、と小さくはにかんでから、語尾にハートでもつきそうな、減量中のつまみ食いの様な呑気なテンションで告白をして、 )
私もしたい、です、けど…………ねえ、ギデオンさん。
人から魔素を貰うのって……こんなに気持ちいい、ものなの……?
私、弁えられなくなっちゃいそうだから、そしたらギデオンさんが止めてくださいね、
──………
(本当に……本当に、相手はどこまで、無自覚に煽ってのけているのだろう。耳元にそれはそれは甘い囁きを吹き込まれたギデオンは、彼女の目に見えぬところで、一瞬途方もなく遠いまなざしを投げかけた。──だが、もうそろそろ、慣れっこだ。ヴィヴィアンは何度も何度も、こうしてギデオンを無自覚に煽る。それに己は、ぐちゃぐちゃに振り回されながらも、惚れた弱みで理性を利かせる。その一連の流れについては、もうお約束のようなものとして、親しみすら湧いているほどだ。これからも、彼女がそれに臨めるようになるその日まで、ふたりでずっとこれを繰り返すのだろう。しかし思えば、彼女のためにそう在るともと約束したのは、他ならぬギデオン自身。ならばこのもどかしさは、結局のところ、自業自得としか言いようがなく。
そう諦めをつけ、もとい、腹を括ってしまえば。目を閉じながらごく小さくため息を零し、顔を横に向けて。彼女の柔らかい頬に唇を軽く押し当て、ごく優しく、愛撫するように何度も滑らせる。そうして無言の承諾を済ませてから、静かに目を開け、相手と視線を絡ませると。頭を撫でていた掌を、相手の反対の頬に添え。その内心の欲望に不似合いなほど、穏やかに微笑んでみせて。)
……その代わり。
他の件では、いつかは止まってやらないぞ。
(そのあっさりと開き直った宣言は、ギデオンなりの反撃の狼煙、溜飲の下げ方のひとつだ。「他の件………?」、そう繰り返しながらこてんと小首を傾げたヴィヴィアンに、何でもないさ、と肩をすくめれば。不意にひょいと抱き上げ、数歩運んでいった先は、甲板に誂えられたベンチ、去年もふたりで腰掛けた場所。「ちょ、ちょっと! 誤魔化さないでくださいよ、いったい何の……」話、と食い下がろうとした唇は、さっさと塞いで黙らせてしまう。敏い彼女のことだ、何のことかは無意識に勘づいているのだろう。それ故理解を拒みながらも、確認せずにいられないのだ。
しかし、ベンチに腰掛け、ヴィヴィアンを膝に乗せたギデオンは。無垢で無自覚な娘のおいたを少し叱るような気持ちで、その唇の奥の奥まで、たっぷりと、飢餓感を込めて掻きまわした。緩急のリズムをつけながらも、息継ぎの暇は碌に与えてない。無論、単なる意趣返しであるだけでなく、悪だくみありきのことである。こちらのこなれた──ようやく少しだけ本気を出した──舌遣いの技も相俟って。案の定ヴィヴィアンは、ぽやん、と再び蕩けきった様子。あとあとになってこの直前のやりとりを思い出すかもしれないが、今この場で誤魔化せたなら、それでいい。そう満足げに小さく笑い、こちらの胸板にもたれかからせながら、よしよしと頭を撫でてやる。
そうして、月明かりのなかふと見つめ合い──「好きだよ、」と。大事な宝物にかけるような優しい声音で、もう一度、「おまえが好きだよ」と。繊細な話をキスで誤魔化す卑怯さには重々自覚があるけれども、ヴィヴィアンを心底大事に思っていること、それだけは再三念入りに伝えよう。その気持ちにたがえるような真似は決してしない、さっきの台詞とて、あくまでおまえがちゃんと平気になったらの話だ……そう言葉の裏で誓うように。──いつかのその日、ギデオンは心行くまで、ヴィヴィアンに甘え倒すつもりだ。だからそれまでの間だけは、せいぜい大人な紳士のふりを、彼女のために演じてみせよう。そのうち、ヴィヴィアンにもわかるときがくるだろう……晴れて恋人同士になった今、ギデオンの胸の内には、きっと彼女の想像以上に、大きく重たい感情が渦巻いていることを。ひた向きな思いも、邪で浅ましい欲も、今となっては、その全部が、世界中でヴィヴィアンだけに捧げるものだ。しかし今はまだ、知らなくていい。これから何年も……もしすれば、残りの人生すべてをかけて、相手に伝えていくのだから。)
……楽しかったな、訓練合宿。
そのうち、二、三日の休みを一緒にとれたら、今度はふたりで──どこへ行こうか。
(川のせせらぎ、森のざわめき、優しい月明かりに満ちた世界。その片隅でふたり仲良く、体温を溶かし合いながら。──1週間の賑やかな小旅行は、あっという間に幕引きを迎えた。
以前のギデオンにこの光景を教えたところで、そんな未来が来るなんて、きっと絶対に信じなかっただろう。そもそも自分の変貌ぶりに、そいつは誰か別人の話じゃないか、なんて、真顔で抜かしたに違いない。それくらい、当時のギデオンは、己がヴィヴィアンに寄せる想いにほとほと無自覚だったのだ。──そう、例えば、5カ月前も。)
──参ったな……
(偉大なるカダヴェル山脈より南。質朴剛健ながらも美しく、今は年明けの雪化粧が施された街キングストン。その中心部からほど近い場所に臥城を構えた、カレトヴルッフのギルドにて。早朝の明るい日差しが差し込むロビー、そこにはいつもより大荷物を抱えたむさくるしい連中ががやがやと賑わっている。しかしその奥、自身もしっかりと旅装を纏いながらも……なぜか物憂げに眉間の皴を深め。手に持った一本の鍵を難しい顔で睨んでいるのは、ベテラン戦士のギデオン・ノースだ。
──畜生、ミスった。こういう些事はきっちり済ませるはずの己が、すっかり失念しきっていたとは……。今日から始まる野営続きの探索クエスト、その主戦力として、ギデオンもまた、今朝いきなり駆り出されてしまったのだが。ギデオンの住んでいる単身者用集合住宅、その大家が体調を崩して入院しているのを、すっかり忘れきっていた。あの爺さんが今動けないということは、留守中のギデオンの家の様子を見てくれる者が、誰もいないということになる。それは困る……非常に困ったことになる。
遠征自体は1週間かそこらだから、別にシーツ干しだの掃除だのができないことを憂いているわけではない。──真冬の、特にこの年明け数ヶ月の時期は、暖を求めた悪性妖精が、ひとけのない家を狡猾に見定めて、勝手に上がり込み悪さをするのだ。おまけに確か……食糧棚に、肉や野菜を入れっぱなしだった。今日は午後には帰ると思って、昨夕路上で安売りされていたそれらを、買い込んでおいたせいだ。腐って蛆が湧くのも嫌だが、腐肉の放つ魔素につられて、厄介極まりない魔虫の類いを引き寄せるのは、もっと嫌な展開である。処理するのも面倒だし、家を傷めるようなことがあれば、爺さんに申し訳が立たない……修繕費だってかかる。とにかく、至急対処が必要だ──なのに、そのあてがないときた。
東広場発の馬車に乗るのが、今からたった十五分後。とてもじゃないが、自宅に戻って隣人に頼む暇はない。かといって、ギルドの誰かに留守中を頼むとなると……と見渡しながら、望みのなさにため息をつく。周りの連中はご覧の通り、ギデオンと一緒にクシャロ湖へ旅立つ奴らばかりだし。今日に限ってマリアは非番。そもそも彼女は苦労多きシングルマザーで、妖精除けのチェックをしてくれなどという大迷惑は頼めない。独身の友人連中はまだギルドに来ていないようだし、かといって、そこらの新人に私用を頼むのは駄目だ。己の肩書がなまじ少々特殊なばかりに、職権濫用だと問題になる。ほかに目につく人間といったら、昨夜よっぽど飲んだのか、掃除用バケツをほっかむって床に寝っ転がっているマルセルとフェルディナンドだけ。こいつらに鍵を預けるくらいなら、ヘカトンケイレスの方がマシだ。
「何かあれば、お隣か知り合いに留守を頼んでおくように」。大家の爺さんにも、そう事前に言われていたのに。それを忘れて咄嗟に遠征を引き受けた、その迂闊さのせいでこの窮状だ。いったいどうしたものか……と、声を出さずに呻きながら。カウンターに肘をつき。片手で頭を抱え込むその姿は、ほとほと困り果てているとった有り様で。)
( 若い女の声にならない叫びが、夜の甲板にしっとりと響く。聞き捨てならない宣言への不満は、大きな口に食べられてしまって。熱い舌にグチャグチャに掻き回されると呼吸が出来ない……訳でもないのだが、声を出さない呼吸の仕方が分からない。必死に息を我慢して、我慢して──それでも、長いキスに耐えきれなくなって、何度も何度も、耳を塞ぎたくなるような声をあげさせられて。その内なんだか、頭の奥が痺れたかのようにぼんやりとしてしまって、いつの間にか収まっていた胸板と優しい掌に、すり……と顔を頭を擦りつけながら。耳も腰も、全身砕けて溶けだすような言葉に、ニコニコと相槌を打っていたものだから。ふと相手が零した質問に──どこへ行こうか……。海はもう行ったから、今度は緑が綺麗なところがいいかなぁ。秋になったら沢山美味しいものが取れるだろうし、きっとギデオンさんが喜ぶだろうな。それとも、もっと都会の街中で、今度は朝から一日中ショッピングデートが出来たら。今度は私がギデオンさんに似合う物を見つけてあげたい。でも、本当は私、今の家が1番好き……朝ゆっくり起きて、ギデオンさんの朝ご飯を食べて、人目を気にせず ずっとぎゅってして、好きなだけキスもしたいし、夕飯はギデオンさんのリクエストを聞くの。ううん、でも私ギデオンさんといられるなら結局何処でもいいなあ──なんて、脳内で考えたこと全て口から垂れ流しになっていたなんて気づきもせずに。もうこの人がいなかったら生きていけないかも、なんて。たった数ヶ月で弱くなってしまった己に苦笑して、それから数分後か数十分後か。先程誤魔化してくれた腹いせに、そろそろ船室に戻ろうと促す相手にしがみつき、抱っこで連れてってくれなきゃ戻らない、と駄々を捏ねたその結果。涼しい顔をしたギデオンに本当にやられかけたのを、慌てて飛び退くその瞬間まで、その心地よい温もりをひしと掴んで絶対に離さなかった。 )
──おはようございまーす! あっおはよう……ええ、新年おめでとうございます、
( そんなビビもまだもう少し強かったはずの年始、カレトヴルッフ。忙しい冒険者たちの中には、まだ新年あけまして初めて顔を合わせる連中もチラホラ混じる厳寒の季節。今の時期のメイン収穫物になる、熱で溶ける魔物の素材を駄目にしないよう、室内にしてはやや低めに温度設定されたギルドのロビーに、鮮烈な赤を靡かせて颯爽と入ってきた娘は、まずいつもの掲示板に向かおうとして、カウンターに愛しの相棒を見つけると。その華麗なターンに舞うマフラーの優雅な様に、その贈り主を知っていて尚、目を惹かれずにはいられない男達の多いこと。しかし、そんな男たちの淡い恋心など露知らず、冬でも元気一杯の娘は、今日も今日とて片思いを公言して幅からない相棒へと一目散に飛びついていく有様で、 )
おはようございます、ギデオンさん!
今日はもうご予定決まってますか? まだでしたら一緒に行きたいなあって……
(それはまさに、清かに吹き渡る桃色の春風。若手ヒーラーの明るい声が飛び込んでくるなり、肌寒かったロビーの空気は、明らかにがらりと様変わりした。あれっ、今四月だっけ。いやいや、ついこないだ年が明けたばかりだろうよ。けどよぉ、なんだか急にぽかぽかとあったかく……なんだか辺りに花まで咲いて……。物々しい装備をした大柄な男たちは、その見てくれに似合わぬ寝言を、めいめいふわふわ口走る始末。瑞々しい挨拶を振りまくマドンナが、右に左に歩くたびに、がん首揃えて惚けるざまだ。しかし次の瞬間、男たちはその全員が全員、醜いオークのような顔でぎりぎり歯ぎしりをする羽目になった。──うら若いヒーラー娘が、ぱあっと嬉しそうな顔をして駆けだしていった先。その赤い首輪をつけた張本人のくせして、彼女を振り返りすらしていない、気障な野郎がいたからだ。)
……ん、ああ、おはよう。
(カウンターにもたれていたギデオンは、飛びつかれて初めて気がついたような様子で、相手の方を振り向いた。その気怠げな表情には、さしたる感動も窺えない──あのヴィヴィアンが親密に戯れかかっているというのに、なんと傲慢な態度だろう。しかし去年までと違い、たじろいだり疎んだりする様子もほとんど窺えないないことを、観察眼のある何人かは見抜いてしまったかもしれない。
そんな周囲の注目はまるで目に入らぬ様子のまま、「悪いが、俺はこれから数日がかりの遠征だ。急に頼まれた仕事でな……」と、両手を軽く広げながら、ギルドのロッカーから引っ張り出した遠征仕様の格好──いつもの皮鎧より、幾らか本格的な武装──を、相棒に披露してみせる。それから不安げに問い質したのは、今朝の自分の迂闊ぶりを反省していたがゆえのもの。以前聞いた相棒の仕事の状況を、今一度確かめるような口ぶりは、しかし。何か別の考えに至った様子で、最後まで続くことはなく。)
おまえの仕事に差し障りはなかった、よな?
たしか毎年この時期は、当日中の単発クエストを引き受けることが多い、って……話……
──……その装備も格好良いですね、大好きです!!
( 「…………。」今日も今日とて一方的に意中の相手に抱きつく娘と、それを引き剥がすでもなく、涼しい顔で会話を続ける中年男。軽く腕を広げたギデオンと、今日もノルマ達成とばかりに腕を離して、やれやれと体勢を戻しつつあったビビとの間に、なんとも言えない間が流れた。その元凶である会話の流れをぶった切った告白から一転──だって、つい、格好良かったんだもん、と。咳払いしながら、相手の隣のカウンターに肘をついたビビは、一抱え程のサイズもある魔鳥の卵を抱えるジェスチャーをしてから、不安げな相手を力付けるように肩を竦めて、真っ直ぐなエメラルドグリーンで相手を射抜いて。この時、普段滅多に狼狽えない相棒の悩みの内容にまで、見当が着いていたわけでは全くない。しかし、春からふたつも季節が回って、相手が弱っている時の表情は、なんとなく分かるようになっていたから。何でも一人で抱え込もうとする癖のある相棒に、にっこりと有無を言わさぬ笑みを向ければ。何か困っていることはないか、ではなく、何をして欲しいか、という聞き方をしたのは、人間もまた、可能な限り弱みを隠そうとする動物であることを前提とした、喫緊の傷病者対応に追われる職業柄で。 )
じゃ、なくって……はい、差し障りないですよ、コカトリスの卵採集です!
昨日ドニーさんに聞いた時は、まだ空いてたみたいだったので、一緒に行けるかなって思ってたんですけど……それで、私は何をすれば良いですか?
……話が早くて助かる。
(未だ躊躇う様子のあったギデオンの表情は、ヴィヴィアンの聡明な瞳と頼もしい台詞を前に、あっさりと霧散した。“いざというときは素直に相棒を頼る”、以前はなかったその思考回路が、ようやく身についたものらしい。グランポートからおよそ半年、彼女が根気強く飼い慣らしてきた成果である──などとは、当の本人は知る由もないが。「俺が遠征で離れる間、悪いが家の様子を見てほしいんだ」と、単刀直入な一言から切り出したのは、ごく簡易な説明で。)
いつもなら大家の爺さんが面倒を見てくれるんだが、今は内臓を悪くして入院中でな。古い建物だから、冬の時期は妖精除けが必要で……1週間も留守にしていれば、奴らに棲みつかれる恐れがある。ついでに言えば、生ものを置いてきたままにしたから、そいつらも処分してくれるとありがたい。傷んでなけりゃ好きに持っていってくれ。
だから今日と、それからの二、三日に一遍ほど、簡単な換気とチェックを……要は、自然にしていれば勝手に残る人の魔素を、代わりに残していってほしい。
(──去年契約書に書いたのとは違う住所に移ってるが、方向はお前の下宿と同じだ。おそらく歩きで二十分くらいか。クエストで遅くなりそうな日は無理をしなくていい、あくまで余裕のある時に──と。告げながらさらさらと、受付にあるペンとメモ用紙を借りて書き出したのは、なるほどここからそう遠くない現住所。大通りを挟んで南側、ちらほらと畑や掘っ立て小屋も混じる、地価の安いエリアの一角だ。ペンのキャップをかちりと戻し、メモ用紙を相手の方に滑らせると、卓上に置いていた古い合金製の鍵、これも相手の手元へと。それから指を二本立てたのは、少額ではあるものの、手伝い分の給料としては充分だろう金額で。)
報酬はきちんと後払いする──こっちのけじめだ。低級クエスト相当分の現金か、それが受け取りにくければ、おまえがよく仕入れるポーションの基礎材料の現物辺りで。
何事もなければ一週間後には帰るから、鍵はその時手渡しでもよし、受付のマリアやエリザベスに預けておくも良し。……こんなところでどうだ?
なんだ、そんなこと……
( きょうび八面六臂の大活躍を見せる、ベテラン剣士ギデオン・ノースが、一体全体こんなに真剣な顔をして何事か……と身構えていたのが、その口から気まずそうに語られる内容の、なんと平和で所帯染みていること。思わず拍子抜けして、小さく吹き出しながら鍵を受け取れば。──そっか、秋頃に引越ししたって言ってたっけ、と。確かに通いやすくなった住所に目を通し。ふぅん、と色々浮かび上がる野望は取り敢えず置いておくにしても、今回、やけに素直に此方を頼ってくれた相棒に、少しは成長したかと思って満足気に微笑みかければ。報酬交渉を持ちかけて来た相手に前言撤回──そんなに私を頼りたくないか、と呆れたような、寂しげな視線をじとりと向けかけようとして。……此方の思いになど、微塵も気が付いていないのだろう。どこまでも生真面目な表情で指を立てている相棒に、ついつい怒れず苦笑してしまうのだから。結局──おぉい、とギルドの入口の方から聞こえてきたギデオンを呼ぶその声に、先に音を上げたのはビビの方で。その頑固な背中を押してやる振りをして、その無防備な耳の裏に、ちゃっかり悪戯な唇を落としてから、その背を軽く叩いて送り出したのが、約一週間前のことだった。 )
──ほぼ通り道なんだから気にしなくていいのに……ハイハイ、2本でも1本でも、薬草でも、ギデオンさんのお気持ちが楽になるなら幾らでも!
ほらほら、呼ばれてますよ……1週間後はお部屋で待ってますから、ギデオンさんに会いたいので!
遠征頑張ってくださいね!
( ──うーん、流石にやり過ぎかなあ。時刻は夕方、冬の弱気な太陽も沈みかけの午後5時を回った時刻。約1週間程前。この単身世帯用の簡素な部屋の主、ギデオン・ノースに此処の管理を任されて、最初は本当に妖精を追い払うだけのつもりだったのだ。ビビを信用して任せてくれたギデオンの信頼に応えるべく、本当に必要最低限以上の干渉は辞めようと。……それが、2回目にこの部屋を訪れた3日程前、2日前も部屋を訪れたばかりだというのに、虎視眈々と隙を付け狙う冬妖精の強い気配に──彼らは鉄と火の魔素を忌嫌う。それ故に、鉄の薬缶にたっぷりと水を入れ、寂しい暖炉に火を灯して沸かして追い出してやろうとした途端。この寒い時期にいつから使ってなかったのやら、もうもうと舞い上がった黒い煤に、汚れた古いマントルピースを拭ったのが最初だった。散らかるほど物のない寂しい部屋は、しかし建物自体が恐ろしく古いのだろう。天井を渡る梁には埃が溜まって、明り取りの窓ガラスは鈍く曇ってしまっている。薬缶の火を見守っている間、目に付いたそれ等をはたいて磨いたなら、次々と気になり出す汚れに、気がついたら翌日、折角の休日を返上して、何故か自主的に大掃除をしている始末だった。まあ、──鍵を渡されて、部屋を掃除するなんて、なんだか彼女みたいじゃない……? なんて、自己陶酔がなかったとはとても言えない訳だが。前の住人が喫煙者だったのだろう、黄色を通り越してオレンジ色にくすんでしまっている古ぼけた壁紙。立地上どうしても吹き込んでしまう休耕地の土は、それそのものが粘着質で、日照時間が短い関係で湿度が貯まりやすい部屋の床をベタつかせ、よく分からない古い汚れを巻き込んで真っ黒になっている。更に、それ等を磨きあげるために窓を明け放てば、サッシの汚れも気になってしまって……と。気がつけば、見違える程の真っ白な色を取り戻した壁紙の前、よく磨かれて周囲を反射する茶色い床の上、『目に付いたところだけ』とはとても言えない程綺麗になってしまった部屋の中で。それでも、机やら寝具やらプライベートなあたりは避けたつもりだが、今日帰ってくる予定の相棒への言い訳を考えること半日。そんな呆然としたビビの手元、こちらもすっかりピカピカになってしまった暖炉で、先程からコトコトと良い香りをさせているのは、手慰みに作った野菜のポトフだ。遠征前に精をつけるためと、手の込んだ豪華な料理が振る舞われがち。その上、いざ遠征が始まってしまえば、保存の効かない生野菜はほとんど食卓に上がらず、毎日毎日冷たく硬いパンと、保存食の塩辛い肉が何日も続くなんてこともザラ。ビビは遠征が終わると、まず真っ先に優しい味の野菜スープが飲みたくなるのだが、ギデオンはどうだろう。甘い越冬キャベツを大きく切って、近所の朝市で手に入れたローリエとタイムでじっくりコトコト、肉に味付け程度のチョリソーを使ったそれは、最悪呆れられてしまった時のご機嫌取りだ。そんな愛情やら、下心やら、大人の事情やら、とにかく色んな物を一緒くたに煮込んだ鍋の前で、(これも立て付けが悪く、開け閉めする度大きな音を立てていたところを、蝋を塗って滑りを良くした) 重い玄関扉が開く気配に、ゆっくりと振り返れば。無事帰ってきてくれた愛しい相棒の姿に、今この瞬間ばかりは、後ろめたかった筈の気持ちも吹きとんで。赤い花の刺繍が入ったエプロンで手を拭いて、そのよーく暖炉に炙られ温まった手で相手の手をとると、グツグツの鍋の煮立っている温かな暖炉の方へと引っ張っていこうとして。 )
……おかえりなさい、ギデオンさん。
お疲れ様でした、寒かったでしょう……こっち来て温まってくださいな。
部屋でって、お前……
(ひとたびこちらの扱い方を心得た彼女は強い。ギデオンの提案をそのまますんなり受け入れながらも、隙を逃さぬ可憐な親愛表現やら、さりげなく織り交ぜるちゃっかりした意思表示やら。そのただでは聞かないしたたかぶりに、ギデオンが遅れて異論を唱えようとする頃には、ぽんぽんとあやすように──或いは有耶無耶にするようにして、温かく送り出される始末で。未だ何か言いたげな顔をして彼女を振り返るものの、さりとて、今朝はもう時間がないのも事実。結局ため息交じりに頷けば、軽く手を振って別れを告げながら歩きだすことにする。そうしてギルドのエントランスを潜り抜ければ、途端に北からの空っ風に吹かれるも──先ほど贈られた何かしらのおかげで、この季節の寒さをあまり感じずに済んでいることに。己に疎いギデオンは、ついぞ気づかないままだった。)
(さて、それから1週間後。受付のデスクの書類からふと視線を上げたマリアは、帰還したギデオンが我知らず浮かべていた疲労の濃い顔を見て、いつもなら向ける当たりの強さを引っ込めてくれたらしいのが、その表情から読み取れた。「……ヴィヴィアンの居場所を知らないか?」と尋ねれば、こちらの提出した書類に判を押してまだギデオンに戻しながら。「あなたがクエストに忙しくて忘れてるかもしれないって、伝言を預かってるわ。……『先に帰ってる』、だそうよ」と。どういうことかと問い質したそうにしつつも、あくまで事務的な返答にとどめる様子。そういえばそんな話だったな、と思い出しながら、軽く手を掲げるのみでマリアに別れを告げて立ち去る。時刻は16時を回った頃──もしや、随分待たせているのではないだろうか。しかしそれでも、諸々やることはやらねばならない。まずはしっかりと、高難易度クエストからの帰還後に義務付けられている魔法医の検診を済ませ。異常なしと太鼓判を押されれば、ギルドの二階のシャワー室で熱い湯を浴び(自宅にそんな贅沢な設備はないので、大概はここか街中の公衆浴場に行く習慣だ)。これでやっとさっぱり生き返れば、諸々の報告書を追加で書き上げ、或いは他人のそれに目を通し。ギルドマスターにも簡単な報告を上げて、これでようやくクエスト完了。持ち帰って読む書類や、1週間前にギルドに残した古い服を鞄に詰めると、(腹が減った……)なんて、呑気な考えに浸りながら。夕暮れのなか、途中幾つか買い物に寄りつつ、ようやく家路についたのだった。)
(──そうして、懐かしのというわけでもない自宅の、冷たいドアノブに手をかけたとき。(おや?)、とは思ったのだ。いつもならぐっと力を込めて押さなければならない扉が、何の手応えもなくするりと動いた。もしや部屋を間違えたか、なんて訝しんだ思考はしかし、室内からふわりと押し寄せてきた暖気、そして何やら非常に旨そうな匂いで、たちどころに吹き飛んでしまう。「……」と、思わず様子を窺うように、慎重に一歩立ち入ったギデオンの目前。はたしてぱたぱたと近づいてくるのは、愛らしいエプロン姿をした若い女性──1週間ぶりに顔を見る、相棒のヴィヴィアンだ。
この時点でさえ、ギデオンは軽く目を見開いて、全く見事なフリーズを晒してしまったわけなのだが。その温かく柔らかい手に捕まり、優しく促されるまま、家庭的な声に思考が麻痺しきるまま、室内を二、三歩歩けば。今度はそこで、再び呆然と、根が生えたように立ち尽くしてしまう。──家の中が、がらりと様変わりしていた。普段のギデオンがほとんどねぐら代わりにしか使っていない此処は、粗末なベッドと古い椅子、やや傾いたテーブルに、傷の入った低い棚がひとつふたつあるくらいで、あまり居つかないために埃も影も溜まりきっている、物寂しい場所だったはずだ。それがどうして──家具や私物といった類には、気遣いから手を付けられていないのだろうが。煤けきっていたマントルピースも、埃っぽかった天井の梁も、外を見通せぬほど曇っていた窓ガラスも、黒ずんでいた床も、皆ぴかぴかに磨き上げられている。薄汚れていた壁紙は真っ白だ、まさか張り替えたのだろうか。以前は馴染み過ぎて気づいちゃいなかった、かびくさく湿気た臭いもない──今更気づいたが、あれは暖炉が汚れていたせいだったらしい。それが今や、非常に清潔で爽やかな……居心地の良い、あたたかい住み家になっている。
自分が留守にしている間、どうしてここまで家が変わったのか。その答えに自然と行き着くなり、他にいるはずもない犯人をさっと振り返り、少しおっかない顔で、何事かを言おうと口を開きかけた……ものの。「……、」「…………、」と、肝心のお小言が、ろくに喉元から出てこないようだ。感謝すべきか、怒るべきか、呆れるべきか、激しく混乱しているらしい。おまけに先ほどから、真横の暖炉から漂ってくる胃をくすぐるような匂いで、ろくに集中しきれておらず、何ならちらちらとそちらを見てしまうほどで。結局、ギデオンにしては雄弁な百面相を無言でぐるぐると繰り広げるうちに、間の抜けたタイミングで腹の虫が鳴くものだから、がっくりときまり悪そうに片手で顔を覆い隠し。絞り出すように言いながら──周囲のあからさまな変化について、今はいったん保留するつもりらしい──まだ温かい紙袋を片手で突き出す。そうして、かしいだテーブルをベッド脇に引き寄せ、薄いシーツの上に腰を下ろしたのは。この家に椅子は一脚しかない、しかし独身女性の後輩を己のベッドに座らせるわけにいかない、そういった思考による頑とした構えのようで。)
…………夕食を……買ってきてある……
これと、そこので……飯にしよう……
──……わあ、あったかい、
私これ切って来るので、ギデオンさんは手を洗って来てください。
( ギデオンから強奪……もとい、受け取ったコートをハンガーにかけてきたヴィヴィアンが、再度洗った手を拭きながら戻って来れば。ちょうど相手は、部屋の変化に気が付いたところらしい。みるみると険しくなっていく表情に──やっぱり良い気持ちはしないよね、と。気まずそうに肩を竦めて家主を見上げれば、怒ったような、困ったような……そして、いい匂いのする鍋が気になって仕方ないような。相手にしては随分と分かりやすい顔をしては、ついに──ぐう。と、可愛らしいお腹の音を上げた相棒に、うふふ……と思わず小さな笑みが零れた。一気に和らぐ部屋の空気に、しっとりと湯気をたてる紙袋を抱きしめて、ぱたぱと暖炉の下へ駆け寄れば。まだ温かいとはいえ、冬の外気に晒されてしまった中身を、今朝買ってきたパンと一緒に手早く炙り。そのうちに丁度温まったポトフを、ひとつは深いスープ皿と、もう一人分は足りない皿の代わりに、家主の許可を得てマグカップを代わりにすれば。胃の底を掻き立てる香りと共に、白い湯気をふわふわとたてるそれらを乗せるだけで、小さなテーブルはいっぱいになってしまい。仕方なく清潔な水をたっぷりと溜めた水差しは、引き寄せた棚に置くことにして、慣れた手つきでエプロンを外すと。それ以上、仕事上がりの相手を待たせぬよう慌てて席について、 )
お仕事お疲れ様でした、頂いちゃったお肉のお礼です。
お口に合えばいいんですけど……おかわり沢山ありますからいっぱい食べてくださいね。
(相手に言われるまま、玄関傍の水場に向かい。水甕に貯められた水を柄杓ですくって、しっかりと手を洗う。しかしその間にも、ギデオンの顔は困惑気味に皴を描く有り様だ。──これまでの間、己のうら若い相棒とは、基本的に仕事の場でしか会ってこなかった。それが今やどうだ、こちらのごく個人的な生活に、するりと容易く入り込んでいるではないか。そりゃ、急に頼み込んだここ数日の助けを労おうと、彼女の分も温かい肉料理を持ち帰ったのはギデオンのほうではあるが、それにしたって……と。依然続く顰め面で振り返った先には、てきぱきと手際よく夕食の支度なんぞしている、やけに家庭的な面差しのヴィヴィアンの姿がある。多少るんるんと浮かれたそぶりはあるものの、それでもどちらかと言えば、地に足ついた振る舞いのように見える。ギデオンのために何かをするのは、如何にも当たり前と言わんばかりだ。あれは……良くない、非常に良くない。そうだ、何か、彼女にとっても、自分にとっても、今のこの状況を当たり前にやり過ごすのはひどく危険な予感がする。そう感じはしているくせに、実際のギデオンが何も言えないままでいるのは──きっとそう、辺りに漂うスープの香りのせい、それで間違いないだろう。ただでさえ胃が切々と空腹を訴えるものだから、先ほどから思考力という思考力を根こそぎ奪われているような気がする。何か隠し味として、そういう効能のある魔草でも入れたんじゃなかろうか。
そんな馬鹿なことを、クエスト帰りの疲れた頭で、半ば本気になって考えていたギデオンだが。結局、口を堅く引き結んだまま、何も言わずにベッドの端へ腰かける。すると、湯気の立つ食事を並べ、飲み物も手に取りやすい位置に調えてくれた相手が、慌ただしくギデオンの向かいの席に落ち着いて。彼女の口からさらりと告げられた健気な言葉に、まずは炙りたてのサンドイッチを手に取りながら一言。多少相手を小突きつつも、素直になれない謝意が滲んでいるような声音で。)
──お礼も何も、このポトフ。俺が帰る前から作ってたろう?
俺はそこまで頼んじゃいないぞ……いや、ありがたくいただくが。
(口先ではそう言いつつも、初めて供された正真正銘の手料理に、どこか気後れするところがあるらしい。ほかほかと湯気が立ち昇るのを眺めながら、俺が留守の間どうだった、何か異状はなかったか、どんな対処をしたんだなどと、他愛ない話題を捏ね、世界一無駄な痩せ我慢をひたすら決め込んでしまう始末。……が、そうしたらそうしたで、なんだかそんな会話の端々にすら、妙なきまり悪さを感じるようだ。がつがつと貪ったバゲットを呑み込むついでに、ん゙ん゙っ、と咳ばらいをしてそれを振り払えば。先ほどから不自然に放置していた熱々の汁物に、ようやくその目を向けながら、躊躇いがちに匙を取り。)
……、香草を使ってるな。
お前の手持ちから……違う? じゃあ、この近くで買ったのか。あの赤ら顔の親父さんのところか?
ん? だって遠征後にお料理するの大変でしょう?
( ──ギデオンが何を言いたいのか分からない、とばかりに、小突かれた額を抑えたビビが小首を傾げる。嘘、本当は分かっていて、この図々しい彼女面が許される距離感が心地好くて、何処までなら許されるのか計っている卑怯な自分がいる。どうやら人の好意に慣れていない相手は、あからさまに好意を剥き出しにした行為を断る術は持ち合わせていないようで。しかし、感謝を感じさせる声とは裏腹に、いつまでたっても肝心のスープに手をつけようとしない意図はよく分からず、まずは自分から一口。──変なものは入っていませんよ、とでもいうふうに、たっぷり野菜が溶け込んで、もったりとした食感のそれをじっくりと堪能する。うん、我ながら中々良い出来だ。ハーブの爽やかな香りに、口当たりの良いじゃがいもの存在感、柔らかく、しかしシャキシャキとした食感の残るキャベツと玉ねぎは煮込み時間への拘りを感じさせ。胃袋に優しい淡い味付けは、ともすればぼんやりとした味になってしまいがちだが、一口大より少し小さくカットされたチョリソーが、野菜の邪魔をしない程度にスープ全体の味をピリッと締めている。赤ら顔の店主のすすめで買い求めた、素朴ながら複雑に、味の下支えをする香草達の存在は、ビビの好みと自己満足であって、美味しく食べてもらえれば気づかれなくとも良いのだが、口をつける前から気づいてくれた相手に目を輝かせて、それからすぐにパッと心配そうに口を抑えて、 )
そう、そうなんです!
ローリエとタイム、ギデオンさんすごい……あ、もしかして苦手でした?
あの店主さんに聞いたら、ギデオンさんも買っていったことがあるって仰ってたから、てっきり嫌いではないかと……
いいや、寧ろ好きなほうだ……風味も香りも、大事だからな。
(あざとくとぼけ、ほくほく味わい、嬉しそうに目を輝かせ、不安げに上目遣いする。まったく、こちらに向ける相棒の顔ときたら……若者は皆やたら元気なものだが、こんなにも色鮮やかに表情を変えることなどあるだろうか。毒気を抜かれた、なんてわけではないが、ギデオンもまた、脱力させられたかのように顔のこわばりをほどいてしまい。安心させるように、ごくゆったりした声で返すと、いよいよその一口目を運ぶ。
具と汁を乗せていた匙を口に挟み、引き抜きながら下ろして──……沈黙。一瞬固まった後、口元や喉仏だけは微かに動くものの、ギデオン全体としては何故か微動だにしない。外はとうに真っ暗で、壁にかかった燭台の灯りがその横顔をちらちらと照らすのだが、薄青い双眸ときたら、何もない中空で、はたと長いこととどまっている。──かと思えば、不意にかすかに揺れ動き、眉根に困惑の皴が寄る。はては左手を口元に添え、何か難問でも考え込むような素振りで、卓上の深皿をまじまじと見つめはじめてしまって。
──去年の秋ごろ、ヴィヴィアンとはよく仕事の話で食事に行ったが、こんな珍妙な反応を示したことはもちろんない。……別に、味が悪くて眉を顰めたというのではないのだ。寧ろ相棒お手製のポトフは、そこらの飯屋には真似できないくらい、優しくもたしかな、滋味たっぷりの美味しさだった。ほんの少し歯で圧をかけただけで、まったりと割れるじゃがいもも。その歯応えや甘味が愉しい、金色の玉ねぎや越冬キャベツも。塩辛さと脂っ気がぎゅっと詰まったチョリソーや、それらを引き立てる繊細な香草、具材全部から滲みだしたエキス、コクを生み出す植物油……確かに旨い、すべての調和がたまらなく旨い。しかし、初めて食べるはずのこれに……妙な、強烈なデジャヴを覚えるのは、はたしてどういうわけだろう。言うまでもなく、ギデオンが彼女の手料理を食べるのは、去年の暮れにパンに塗ったあのチーズを除いて、今宵のこれが初めてのはず。それなのにこの……胸に来るような、鮮烈な懐かしさ。いったいこの感覚は何だ、己はいつ、どこでこの味を食べたのだ……?
その答えを探し求めるように、もうひと口、ふた口、三口と。無言のまま何度も何度も、時間をかけて味わい、噛み締め、じんわりと温かいそれを胃の中へ流し込む。そうしてすぐさま皿を空ければ──そう、味そのものにもしっかりがっつり嵌まっているのは、ここらで明らかに映るだろうか──依然押し黙ったまま席を立ち。炉の傍へ行って、広い背中を相手に向けながら黙々と追加をよそい、また席に戻り、ヴィヴィアンの前で再びじっくりと味わい尽くす。挙句、匙を置いてまで味の考察に延々没頭しはじめるわけだが、美人を前にそんな真似をする男など、おそらくそうそういやしない。結局、長いこと黙っていた口をようやく開いたかと思えば、飛び出てきたのはそのままな台詞。半ば独り言じみた口調で、作り手たる相手自身に。答えを求めようとして。)
……この味の秘訣は何だ。塩か? 塩が違うのか……
それともこのチョリソー、どこかの地方の名産品か……どこの肉屋が扱ってるやつだ。
火はそこの暖炉のだよな……それとも最初に火を通す時だけ、何か特別な魔法火を……?
──……やだもう、ギデオンさんったら!
( ──もしかして、口に合わなかっただろうか。そう思わず此方が心配になる程、やけに神妙な顔でスープを味わっていたかと思えば、一体全体この相棒は何を言い出したのか。普段あれだけ冷静沈着なギデオンの表情に、くすくすと震え出した吐息が、次第に我慢できなくなって、とうとう明るい笑い声となってあははははっと高い天井にこだまする。別に特別な材料や工程など何一つ存在しない。チョリソーは下の肉屋で安くなっていたセール品だし、勿論最初から最後までこの部屋の暖炉で準備したもの。塩に至っては、先月ギルドで備蓄品の入れ替えで配っていたソレだ。それでも──そっか、そんなに美味しかったんだ、と。笑いすぎで滲む涙を拭きながら、はーっと深く息を漏らして。真剣な表情で問いかけてきた相棒に、その材料らの入手経路をあくまで誠実にネタバラシをすれば、ここまで反応されて嬉しくない作り手がいるものか。潤んでキラキラと輝く瞳をギデオンに向け、「笑っちゃってごめんなさい、ギデオンさんがあまりに可愛くて……褒めて貰えて嬉しいです、あの鍋全部ギデオンさんの分ですから、いっぱい食べてくださいね」と、目が覚めるほど格好よくて、その上 可愛らしい相棒をうっとりと眺めれば、 )
……あのね、世界で一番大好きな人に食べてもらえるから、たっっっぷり込めた愛情のおかげかも。
( なんて、ありがちな台詞を吐いた癖をして。すぐさまその案外現実的な思考で、キャベツのこの切り方が拘りなんだとか、隠し味を入れるタイミングはだとか、真剣な表情でレシピを語ったり、一緒に食べた食器を洗ったりしていれば。楽しい時間は夢のように過ぎ去って、そろそろお暇するべき時間がやってくるだろう。 )
嘘、もうこんな時間……!?
ごめんなさいこんな遅くまで……それじゃあ、ギデオンさんはしっかり休んでくださいね、
そんなに笑うことか……
(笑い転げるヴィヴィアンを前に、如何にも憮然としてみせるものの。まったく本気の口ぶりではないのは、その目が依然として、ヴィヴィアンの手料理のほうに注がれているからだろう。ギデオンとしては、このポトフの謎が本気で気になって仕方ないのだ。にもかかわらず、なんてことない普通のそれだと説明されるものだから、ますます真剣に眉を顰め。「本当か……?」「ギルドの塩? 俺もよく貰うが、こんなに上手く素材の味を引き出せる代物じゃなかったはずだ」「おまえの指から何か魔素のスパイスでも出てたんだろう。やり方を教えてくれ」なんて。相手の腕前に感嘆しているからこそ、まったく信じられない様子で、真顔のまま冗談すら飛ばす始末。
そんな訝し気なギデオンに、お腹を抱えていたヴィヴィアンが、ふと幸せそうな目を向け──また、初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい台詞を寄越すのだ。その途端、ほんの一瞬ではあるが、ギデオンの全てが静止した。薄花色の瞳だけが、小さく、あどけなく揺れて。突然三十五年前に──外が吹雪いている家の中で、冬野菜を刻む母に纏わりついていたあの幼い頃に、心だけが引き戻される。……そのほんの少しの間を挟んだのち、暗い窓の方へ静かにそらした横顔を、ふっと、酷く穏やかに緩めて。「……そんなものか、」と、ようやく納得したように呟く。そうか、己への愛情の味か。──道理で、ずっとずっと、自分じゃ再現できなかったわけだ。
そのやりとりのせいだろう。そこからの時間、ヴィヴィアンとの他愛ない時間を、ギデオンはごく素直に味わった。水場で隣り合って洗い物をしながら、「なんだか新婚さんみたい」なんてはにかまれたときにも、「馬鹿言え」と嘆息するものの、いつものようにきっちり否定するほどの真似はしない。ただでさえ旨いのに、あんな秘密まで隠し持っていた料理を出されて、丸くならない人間などいないだろう。少なくとも今夜ばかりは、そういちいち目くじらを立てないと決めたのだ。
──そう、今宵の晩餐に、ひどくしみじみとした恩を感じていたからこそ。そのままひとりで帰ろうとするヴィヴィアンに、むっとしたような顔を向け。「馬鹿言え、こんな時間にひとりで帰すわけがあるか」と、さも当たり前のように、自分も外套に袖を通した。のんびり話して過ごしていたから、今はとうに19時過ぎ……店々が明かりを消し、辺りの人通りが少なくなって、危険が増していく時間帯だ。だからこそ、ギデオン自身もしっかりコートの襟を整え、先ほど返してもらった鍵を人差し指に引っ掛けると。玄関扉を先に開け、相棒のほうを振り返りながら、煽るように首を傾げて。)
ほら、行くぞ。
それとも──道すがら、明日からのクエストに誘う話をされちゃ困るっていうんなら、ここで見送るしかないが。
下宿ここから近いですし大丈夫ですよ?
ギデオンさんお疲れでしょ……
( 朝起きられないビビが選んだ下宿先は、キングストンでも中心地に程近い、カレトヴルッフから徒歩3分の超好立地。したがって、そこから20分程度のこの場所もまた、少し寂れてはいるものの、少し行けば明るい大通りに出られる立地で。真っ白なバロメッツの外套を羽織りながら、過保護なギデオンを振り返ったビビはと言えば。寧ろこの一週間、好きに彼女面を楽しんで、簡単な食事をここまで喜んで貰って、暖かな時間に感謝こそすれ、ギデオンの深い感謝など知る由もない。まだ19時という社会一般的には遅くない時間も相まって、最初は相手の申し出を断る気でいたものの、お気に入りの赤いマフラーを鼻先まで覆うように巻き終わる頃になって。ギデオンから続けられた魅力的な提案に、精神的にも物理的にも飛びつかないでいられるわけがなく。相手も冒険者でなければ受け止められない程勢いよくその腕に飛びついたかと思えば、キラキラと輝く瞳をギデオンに向け、太い腕を抱きしめたまま両脚を交互にぴこぴこと跳ねさせて、 )
──困らないです!
やったあ! ギデオンさんとお仕事すっごく嬉しいです!
ねえねえ、どこ行くんですか? 何するんですか?
落ちっ……落ち着け、話してやるから。
(一直前に飛び込んできた獰猛な栗毛の兎に、呆れたような、参ったような、宥めるような声をあげ。相棒の薄い肩を軽く掴み、やんわりと引き剥がすと、揃って戸外に出るよう促す。そうしてしっかり鍵を回して施錠すれば、ふたりで靴音を鳴らしながら螺旋階段を降り、ひび割れたアーチを潜ってアパートの外へと。北の大通りへ続く街路には、点灯夫のつけていった魔法灯がぽつぽつと揺れていて、真っ暗な道路に積もった薄い雪を灰色に照らし出している。着込んでいればさほど寒くないが、吐く息は見事に真っ白だ。)
去年の暮れに、ライヒェレンチの大規模討伐に行っただろう。あれで魔法巨人どもを一掃したはいいが、山奥に引っ込んでた魔獣どもが、また人里に出るようになったらしい……要は、あのときの後片付けだな。
パンチャ山の麓の農村地帯へ、四隊駆り出してのトロイト狩り、メンバーは総勢二十人。上からの指令で、今回のヒーラー役には元々アリアが抜擢されてる……だが、あいつはほら。内気なところがあるだろう?
(そうして道すがら話すのは、今回のクエストの詳細。キングストン北部郊外にある“おなか山”は、いずれ王都に出荷される新鮮な野菜を育ててくれる、豊かな土壌を蓄えた場所である。それゆえ、魔獣にとっても住みよい土地で、ただでさえ普段から小物魔獣の駆除が絶えない。今回はそこに、非常に狂暴な上にずるがしこい、魔猪の一家まで棲みついて、冬野菜の畑を荒らし回っているそうだ。当然農村の手に負えず、現地のクエスト斡旋官より、王都のギルドへ要請が出された。そんな大事に依頼に、何故急にヴィヴィアンを誘うことができたかと言えば──ギデオンが総隊長であり、人材育成を重視しているからだ。
上は最近、ヴィヴィアンに続く若手ヒーラーの育成にも、しっかり力を入れたいらしい。それでアリアに白羽の矢が立ったのだが、ギデオンの見立てによれば、まだ彼女には少しばかり荷が重い。元々きちんと優秀なのだが、それに見合った自信がまだ伴っておらず、場や人間関係に気圧されがちなところがある。野営の経験も、見習い時代の訓練を除けば、今回が初めてだろう。そんな新人を突然本格的な狩りに放り込んでも、下手をすれば、自信喪失を招きかねない……そういう若手を何度か見てきた。だから、彼女の負担を半減しつつ、隙を見て立ち振る舞い方を教えてやれる先輩を、投入しておきたいのである。数ブロックほど歩きながら、隣の相棒をふと見遣ったその目には、信頼の色がありありと浮かんでいて。)
おまえにとっても、後輩を育てる経験を積んでおくのは、そう悪くない話かと思うんだが。どうだ、引き受けてくれるか?
…………、
( 冬の夜中の冷たい路面に、二人分の雪を踏む足音が静かに響く。ひとつは一歩一歩、ゆっくりと地面を踏み締める堅実なそれ。もうひとつはそれに比べて、どこか少し浮かれたような、どうしても疼く衝動を抑えきれないといったように弾む、不規則なそれ。──サク、サクサクッ、シャッと、時折もうひとつの足音を振り返りながら進むその音は、しかしギデオンの口から放たれた若いヒーラーへの評価にピタリと止まった。
忘れるはずもない、昨年の暮れ、ライヒェレンチの討伐作戦、その余波で里に降りてくるようになった魔獣の後片付けと。実に冒険者らしく、ビビの得意な"分かりやすい"依頼。その上、冒険者としても尊敬して止まない大先輩であるギデオンと一緒になんて、これ以上なく魅力的な仕事ではあるのだが──ビビが聞き逃せなかったのは、その尊敬する相棒の口から零れた、可愛い後輩のその名前で。──確かにアリアは内気だけれど、与えられた仕事はしっかりこなす娘だ。誰より真面目で繊細で、対峙する全ての者になんの圧も与えないあのたおやかさは、ビビが怪我人として弱っている時に、救護してくれるヒーラーを選べるなら、絶対に彼女が良いと胸を張って言える自慢の後輩だ。確かにビビにはヒーラーとして、その莫大な魔力という得難い才能への自負はあるものの。一人一人の病状を真剣に見つめ、そっと患部に手を添える、あの独特の寄り添われているという心強い実感。可能な限り素早くも、これ以上なく丁寧に治療されていると感じられる独特の空気は、ビビには無い彼女の強い武器だ。ヒーラーとして一番大事なことを忘れない彼女は、どこでだって、絶対に、活躍するだろう。それをあの一見した、弱気そうな雰囲気だけで侮られては堪らない、と。その生来の負けん気だけでギデオンに反論しようとして。しかし、その気の強そうなエメラルドグリーンが、相手の真意を探るようにじっと輝いたのは──ギデオンさんがそんな短絡的な判断を下すわけが無い、と。相手のこともまた心から信じているからで。
本人が短い期間でのし上がった、なまじ優秀でメンタルの強いヒーラー故に気づけない。これ迄は自分が育てられる立場で、偶に後輩の面倒を見ても、ごくごく限定的で具体的な作業についてだけ。ビビに欠けているのは、その場の仕事ぶりだけでは無い、その後のメンタルと成長性という俯瞰的な視点で。それを──ああ、こういう時に相手の意図が読み取れないのは、まだまだ自分が未熟な証だと、サクサクと規則正しい足音を再開しながらも。困ったように、悔しそうに、白い息を吐く口元をもにょもにょとさせると、新たに自分なら出来ると信頼され、求められている何かがあると勘づいて。本当は可愛い後輩の良いところを、これでもかと語ってやりたい熱を、キラキラと閉じ込めた瞳をじいっとギデオンに向け、 )
勿論、ですけど……。
アリアは、私が居なくてもきっと……絶対! 良い仕事をしますよ……?
うぅ……むん、その、私は何をすれば良いんでしょうか……
(ギデオンの期待に反して、先往く歩みをぴたりと止めたヴィヴィアンは、すぐには答えを返さなかった。こちらも自ずと立ち止まり、夜燈に浮かびあがる相手の顔を、白い息を零しながらごく静かに見つめてみる。聖夜に贈った赤いマフラーの上──先ほどまで無垢に笑んでいた相棒の表情は、不服の色に曇っている。けれどそこに、迷いながらも考えを深める気配までもが立ち昇り。やがて絞り出された声、こちらをまっすぐに見上げてきたエメラルドの強い輝きに、なるほど、と心情を察した。──やはり、この人選に間違いはない。後輩の能力をまっすぐ信じてやれる一方、上の真意を汲み取ろうと分析できる聡明さ。己の相棒ヴィヴィアンは、本人自身の能力も勿論見事だが。後続の若手にとって、この上なく善い指導者となるだろう。)
……ああ、アリアは優秀だ。優秀だからこそ、本来の力を遺憾なく発揮できるよう、背中を押してやってほしい。
おまえは大抵、どこの現場でも気後れなく動けるだろう? それは本来、誰でもできることじゃない。……逆に言えば、そう難しくない、簡単にできることだって、やり方を見せてやればいい。
場所なり人数なり、クエストの重要度なりが変わろうと、ヒーラーの果たす仕事は、ある意味どこでも同じだろう。その心構えを……要は、一見どんなイレギュラーな状況だろうと、いつもと変わらない仕事をすればいいだけだってことを、あいつに示してやってくれ。
(──無論これは、少し乱暴な言い方をしている。仲間や市民の命が懸るからこそ、ヒーラーは全職務の中で、最も繊細な立ち回りを求められる立場といっても過言ではない。だが、己の言わんとすることは、きっと相棒にも伝わるだろうか。アリアの細やかさは、経験の浅いうちこそ仇にもなるが、ひとたび自信さえつけば、いつどこでも、あの丁寧な仕事ぶりを発揮できるという強みにもなる。そのきっかけを、彼女が尊敬している先輩の頼もしい背中をもって、示してほしいだけなのだと。
話しながら歩くうちに、大通りに着いたようだ。今までの道より更に明るい街灯に煌々と照らされるなか、右に左に、大型の馬車たちが忙しなく行き交っている光景が飛び込んできた。それが途切れるタイミングで、重々安全を確認しながら──夜の街道は、人が撥ねられる事故も珍しくはない──相手と共に渡りきると。もうすぐそこは、相棒の下宿。たしか、お隣には役者の女性が住んでいるんだったかと、少しばかり雑談も交えて。)
っ……はい! ありがとうございます、お任せ下さい!
( ──ほらやっぱり! ギデオンさんは全部わかっていてああ言ったんだ。そう先程まで曇りきっていたヴィヴィアンの表情に、満面の笑みが広がる。アリア直属の先輩である自分はともかく、もし自分がギデオンの立場だったとして、一ヒーラーであるアリアの実力・性格そのどちらをも把握し配慮するなんてことが可能だろうか。恋愛感情を抜きにしても、こんなに尊敬する相手に、自分ならと見込まれて嬉しくないわけが無い。赤いマフラーの揺れる胸元を強く叩いて、白い吐息と共に誇らしげな顔を上げれば、目の前には明るい大通りが迫っていた。──そうなんですよ、すっっっごい美人なの。今度東広場前の劇場で役が貰えたらしくって、お休みだったらギデオンさんも見に行きませんか……等々と、振られた雑談に相槌を打ちながら、残り短い冬の家路を堪能すれば。秋の夕方にもそこで別れた門の前で、今度は素直に相手を解放したのは、まだ新しいかの聖夜の記憶が、ビビに余裕を齎してくれているからだろうか。その別れ際、するりとさりげなく大好きな温かい手に指を絡めて、明日の予定を確認すれば。──それじゃあ、おやすみなさい。そう上目遣いに揺れる瞳には、当たり前のようにギデオンだけが映っているのだった。 )
( そうして訪れた翌日早朝。ビビとギデオンを含む討伐班一行は、予定時刻にギルドを出立。このまま予定通り行けば、約一時間半程は馬車に揺られる予定である。
そんな大男犇めくお世辞にも居心地良いとはいえない荷台で、昨晩ギデオンから与えられた使命に燃え。相棒の言う通り、既に紙のような顔色をしているアリアの手を握ったビビと肩を触れ合わせているのは、左側にはその後輩アリアと──その反対側で長い足を組む美貌の魔剣士、カーティス・パーカー。アリアと同期でもあるこの青年は、年の程はビビの1つ上。共に遅れて冒険者を目指した者同士、この浅黒い肌に2つならんだ涙ボクロが色っぽい青年とは、何かと通じ合う機会が多く。シルクタウンでギデオンに惚れる前のビビと、噂になること複数回。しかし、実際はその治療費のために、冒険者を志すきっかけとなった、花も恥じらう可憐な病床の婚約者がいるという案外照れ屋でロマンチストな格好付け男と。その気軽な男に便乗してであれば、憧れのマドンナに声をかけられることに燥ぐ青年たち。──今日はアンタ眠そうじゃないのな、だとか。へえ、ビビさん朝苦手なんですか、僕水筒に珈琲持ってきてるので良かったら、だとか。未だ作戦共有の始まらぬ車内は、今日も今日とて賑やかな冒険者たちの声で溢れていて。 )
(ほぼ全員が成人という構成、おまけにこの遠征はあくまで仕事。にもかかわらず、陽気大国トランフォードの冒険者たちの様子ときたら、楽しい遠足に浮かれ騒ぐ五歳の子どもとそう変わりない。馬車の上座──仕切り板による背もたれもどきと、煎餅のようなクッションが一応誂えられた席──に、同格の戦士と共におさまっているギデオンは、最初こそごくゆったりと、談笑などしていたのだが。背後の席がやいやいと賑わいだせば、仕切り板に片腕をもたれる形で振り返り。──こらおまえ、ここで飲み物を出すんじゃない、どうせ零すのがおちだろうが……云々。おいそこ、なんで臭いの強い軽食なんか持ってきた? 周りのことを考えろ、だいたい戦士は身体が資本なんだから、朝飯はちゃんと食ってこい……かんぬん。こんな調子で、呆れた声音でのお小言を投げかけつづける有り様で。
しかしそもそもの発端は、その当のギデオンが、ギルド随一のマドンナを急遽引っ張り込んだことだ。注意された青年たちも、一応ちゃんと返事するものの、その締まりのない顔をヴィヴィアンに戻しては、また嬉しそうにあれこれ構い始める始末。隣にいるカーティスが、時折彼女に助け舟を出してくれるから良いものの、あれでは逆に、意中の相手を困らせるだけだろうに……。ヴィヴィアンにちらっと、(道中は我慢してくれ)、というような視線を送っておくと、やれやれ顔でまた前方に向き直る。そうして、「あいつら元気だな……」と、気怠げな声でぼやけば。隣の上級戦士、魔槌使いのヨルゴスもまた、「若いからねえ……」と、苦笑いせずにいられないようだった。)
(ベテランたちのそんな雰囲気も、いよいよ馬車が麓に着けば、がらりと反転することになる。すなわち、先ほどまでは柔和な顔でにこにこ見守っていたヨルゴスのほうが、急にその顔を厳めしく変え。「へらへらするなジャリども! ここはもう現場だ!!」「しゃんとケツの穴締めあげろ!!!」などと、至極乱暴に発破をかけ。それにびっくりした若者たちを、道中はあんなに小うるさかったギデオンが、穏やかな声でフォローしながらとりまとめる、という具合である。──現場入りしている間だけ性格が豹変する、というのは、熟練冒険者によくいるタイプで、ヨルゴスもまさにそうだ。しかし今回は、思慮深い彼とよくよく示し合わせたうえで、それぞれが飴と鞭を担うことになっていた。ヨルゴスの場合、危機感のない若手を教育するためにやるからいいが、中には自覚も自制もないまま、必要以上に若手をしごいて虐め抜くベテランもいる。そんな人間に出くわしても潰されないために、今ここで慣らしておこう、というわけだ。
しかし、本質的には茶番といえど、演じるヨルゴスが凄まじく本気なだけあって、若手たちはそのほとんどがすっかり震え上がったらしい。青年連中のそれぞれに必要な雑務を与えれば、カーティスのような場慣れした戦士以外、皆ヨルゴスから逃げるようにして散り散りになった。ヒーラーには村の竈を借りて燻し玉を作ってもらうのだが、アリアに至っては、元々緊張していただけに、ヨルゴスにひと睨みされただけで倒れそうなほどである。相棒がそれについて、少しでも問いかけるような視線を寄越してくれば、ギデオンもまたまなざしで返すだろう。──この一見パワハラじみた状況は、敢えて意図しているもので。昨夜相棒に依頼した話は、本格的な討伐が始まってからになるだろう、と。)
(──はてさて、今回のクエストは、目下計画通りに進行している。午前中に村に着いたら、皆で昼食を取りながら、村長や斡旋官への聞き込みを。今度はその手がかりを元に、実際に自分たちでも山野を駆け巡りながら、更に情報を掻き集める。この情報というのは、辺りの魔獣の足跡であったり、下生えが踏み荒らされた形跡だったり、低木の枝が折れた跡だったり、生物由来の魔素が吹き溜まりになっている場所だったりする。パーティーリーダーによって行動指針は大きく違うが、少なくともギデオンのパーティーは、入念な下準備を施してからの、着実な詰将棋を理想としていて、まずはこういった現場情報を掻き集めるのが大前提だ。慣れないうちはなかなか見落としがちでもあるので、今回のような実際の現場を通じて、適宜指導も挟んでいく。
そうこうするうちに、問題の魔猪・トロイトは、おそらく今この辺りに潜伏しているだろうというのが、おおよその精度で絞られてくる。すると今度は、熟練の罠師たちが、専門の魔導具を使ってあちこちに潜り罠をしかけ、殺意の高い結界を作る。罠にかかってくれるなら上々……警戒して避けるだけの知能があるにしろ、今度はそれを逆手にとって、こちらの思わしい場所に誘導してしまえばいい。日の高いうちに見繕った幾つかの谷や窪地を、追い込み場所の候補とした。こういった場所にもまた、適宜罠を植え込んでもらう。精度の高い仕事というのはしっかり時間がかかるもので、これを監督するうちに、あっという間に日が暮れる。
魔獣トロイトも馬鹿ではない。この日、大勢の嗅ぎ慣れぬ人間が山に立ち入り、あれこれ不穏に動き回っていたのを、きちんと察知しているだろう。だからといって、じっと息を潜めてやり過ごす長期戦に持ち込まれぬよう、今回は余分な馬車を駆り出し、ギルドのカヴァス犬も連れてきていた。この魔犬は、テイマーにのみ見える魔法の足跡を残す能力があり、先んじて獲物を追い立ててくれる優秀な狩人だ。明日の朝、この猟犬たちを各ポイントで解き放ち、トロイトども焚きつけさせる。そうして、罠の囲いの中で逃げ惑わせ、疲弊させながら、指定の場所におびきだし、そこで一斉に屠りにかかる。計画通りにいくならば、そういう手筈になっている。明日一日、多少伸びても明後日までに、しっかり片が付くだろう。)
(──さて。入念な準備、しっかりした休息をとったのち、翌朝。朝日が山の稜線を燃え上がらせはじめた頃には、カレトヴルッフの冒険者たちも、皆しっかりと武装した姿で、広場にがやがや集まり始めていた。その中にあって、ギデオンも。軽い皮鎧ではない、重量のある魔獣と対峙するときのためのいかつい金属鎧を身に纏い、あちこちの手配の最終確認を終えたところ。あとは全員が揃ってから、隊の割り振りをして出発だな……と、考えていたその時。ふと、テイマーたちの仕方なさそうに笑う声を耳にして、そちらを振り返ってみれば。わふわふと、やたら懐っこい吠え声を上げながら、カヴァス犬たちが尻尾を振りたくっている先。ヒーラー衣装を纏った相手が来ていることに気がつくなり、ごく当たり前のように、そちらへと歩んでいって。)
──おはよう。
昨日はあいつらが、夕飯時にもおまえに絡んでいたみたいだが……どうだ、ちゃんと休めたか?
ん? ヨルゴスさんのこと?
( ──ねえ、ビビちゃんは怖くないの……? 優秀だが内気なヒーラーであるアリアが、そうおずおずとビビに尋ねてきたのは、初日の昼間。仲間との昼食を終えて、子供たちが大男に怯えると悪いから──と、孤児院も兼ねた教会への聞き込みに、ビビとアリアの2人だけが派遣された時の事だった。ビビも昔から子供から好かれることにおいては、そこそこ自信があったのだが、この後輩と比べて見ればどうだ。その生来の面倒見の良さから、常時複数人の子供たちに取り合われ、全身もみくちゃにされていた彼女は、此方のあっけらかんとした言い草にサッと顔色を変え焦り出す。「そ、そうじゃなくて……作戦の方っ……!」と珍しく声を張り上げる後輩をチラリと見やって、「私達は後衛も後衛だし、滅多に危険なことなんかないよ」というヴィヴィアンに、「自分のこと、じゃなくって……」と、此方が言うまでもなく自分の責任の重さをわかっているアリアだから、ついつい可愛くって意地悪もしてしまうのだ。そうして、表情を曇らせる後輩に──ごめんごめん、と嘆息をして。「怖がっても出来ることは変わらないからね」と、これは意地悪ではない本気の答えだったのだが、その不安そうな表情を見るに、どうやら肝心の後輩には刺さらなかったらしい。さてどうしたものか──ギデオンさんはこういう時どうするだろう、と無意識にその薄青い空を仰げば、丁度駆けつけてくれた神父に、一旦会話を中断せざるを得なかった。 )
──やっ、ちょっと、アンタたち……お仕事前なんだからそっちに体力取っときなって、ねっ、
( 彼らが現れた途端、ムッと湧き上がる独特の匂いに、タカタッ……タカタッ……とリズミカルに響く明らかに振り切れないとわかる逞しい健脚。へっへっへっへっ、と繰り返される生暖かい吐息だけならまだしも。何故かこの連中はビビを見つけた途端、一目散に此方へとかけてきて、その赤くて長い舌をべろべろとだらしなく指し向けてくるのだから、正直、ビビにとっては慣れた仕事よりも余程こちらの方が恐ろしい。とはいえ、これでも共に仕事を頑張ってくれる仲間達だ。個人的な苦手で彼らのやる気を削ぐことは避けたいし、テイマー曰く、向こうはビビのことを純粋に慕ってくれているらしい。いつか動物好きの同僚が──これが美しいんだ、と。──ビビにとっては信じ難いことに──もっさりと顔を押し付けて吸いこんでいた、ぬめぬめとした毛並みを光らせて、ビビの周囲をびょんこびょんこと飛び回る獣達に杖を抱きしめ、何とか宥めようと声をかけてみること暫く。完全に逆効果とばかりにテンションを上げ続け、前から後ろから、しゃがめ、撫でろ、舐めさせろとばかりに、ローブを引っ張ってくる連中をかき分け、此方へと向かってきてくれた相棒に、思わずうるっと涙腺が緩んだ。
そうして、元気なカヴァス犬から、サッとギデオンの陰へと飛び込めば。自ら盾にしておいて、その分厚い肩から顔を出し、ふしゃーっと威嚇する姿の迫力のないこと。当然、カヴァス犬の方も反省するどころか、遊んでもらえるものと勘違いして、元々高かったテンションを益々あげるばかり。ギデオンの影にいるビビを狙って、今にも飛びつかんとジリジリ距離を計っている光景は、傍から見れば微笑ましい限りだが、その広い背中をぎゅっと掴まれたギデオンには、その小さな震えが伝わっているだろうか。 )
はっ……はい、お陰様で、ひっ、コラ! アンタ達、ギデオンさんまで舐めるんじゃないの……!
おお……どうした……?
(救世主が来てくれたと言わんばかりの縋るようなまなざしに、ギデオンを盾にしての、やけに滑稽で愛くるしい威嚇。そちらを肩越しに振り返り、穏やかに落とした声には、困惑と笑みの気配が滲む。しかし、普段は気の強い相棒がぷるぷる震えていることを鎧の隙間から感じ取れば、必死な事情を察せようか。これまた意外そうに吹き出しつつも、寄ってたかっているカヴァス犬たちの注目を集めるようにして、己のがっしりした体躯をしゃがませ。ぎでおん! ぎでおんだ! と一斉に鼻面を寄せる獣たち、そのやや皮余りした首周りを、よしよしと揉みほぐしてやる。──このカヴァス犬たちとて、“ベテラン冒険者”の一んだ。いざ仕事に入ればきりりと引き締まるのをギデオンは知っているのだが、オフのときはどうにもこれである。主人であるテイマー以外の人間にも撫でてもらえないとなると、如何にも哀れっぽくくんくん鼻を鳴らすのだ──犬好きの人間はそれに弱い。「ん? どうだ、ここがいいのか」「おまえら、職業犬なんだから……こんなに懐っこいようじゃ駄目だぞ」なんて。柔らかな声をかけながら、そうしてひととおりあやして満足させれば、リードを握っていたテイマーたちに目配せして、ようやく彼らを引き上げさせる。そうしてゆっくり立ち上がりながら、笑んだ目で相棒を振り返る。これから大掛かりな討伐作戦だというのに、朝から随分可笑しな光景を見たものだ。)
意外だな、おまえが犬も苦手だったとは。
ああいう家畜動物の扱いも得意かと……
( ギデオンの登場に、助かった……と、深い安堵に包まれたのは最初だけ。カヴァス犬から隠れるように、硬い鎧に額を押し付け、ギデオンがしゃがみこむままに従ったその背後。己の相棒が犬にかけてやるその爽やかで優しい声色と、振動となって伝わってくる暖かな触れ合いに、顔を埋めたビビの機嫌は急降下していく。生憎、顔を上げられないので推測になるが、ビビの大好きな優しい視線と、温かい掌、それが先程の犬風情に盗られているのが堪らなくって。ムカムカと湧き上がる苛立ちと、耳元で震える生暖かい吐息への恐怖を、ぐりぐりとその頼もしい背中に押し付ける。そうしてギデオンがようやく立ち上がる頃には、ぐしゃぐしゃになってしまった前髪もそのまま、楽しげな相棒とは裏腹に、この娘にしては珍しく、無愛想に不満や憤りを顕にした表情を浮かべて、おもむろにギデオンの両手をとり。そうして大いに可愛くない態度でぶすくれたまま、ポケットからハンカチを取り出したかと思うと。先程までカヴァス犬と戯れていたギデオンの掌をゴシゴシと拭って、そのまま自らの頭上に導き。ビビの奇行にギデオンが困惑の表情を浮かべるならば、自らぐりぐりとその手に頭を擦り付けるだろう。 )
犬"も"ってなんですか……別に、仕事中はちゃんと連携するんだからいいでしょ。
…………、あの子たちだけ狡い、私だってギデオンさんに撫でられたいけど、いつも我慢してるのに。
狡いって……おまえ、犬に妬くこたないだろう……
(じとっと見上げる不機嫌な目に、わかりやすい膨れっ面。呑気に笑んでいたギデオンは、それらにぶちあたるなりはたと止まり、薄青い目を瞬かせた。その酷く間抜けで鈍ちんな隙を逃がすようなヴィヴィアンではない。こちらの両手を攫ったかと思えば、先ほどの戯れの痕を徹底的に拭い去り──挙句その手を、彼女自身の頭の上に導いては、撫でろ撫でろと押し付けてくる有り様で。ようやくその心中を察したギデオンも、しかしすぐには応えずに、呆れたような、参ったような、力ない呟きを落とすのみだ。
──このうら若いヒーラーが、去年の晩春以来ずっと、やたらと己を慕ってくれているのは知っている。しかしそれにしたって……いくら歳の差があるとはいえど、お互い立派な成人同士だ。普通に人目もあるのだし、子ども扱いするような真似は如何なものか。第一、相棒関係というのは、こんな形で互いを構うようなものでもないのではないか。傍目にはかなり珍妙に映ると思われるのだが……。
しかし、そんな躊躇いの間も、不満げなヴィヴィアンに再度催促されようものなら、打ち切らないわけにはいかない。賑わう周囲をちらと憚ってから、小さな嘆息をひとつ。ようやく根負けしたらしく、ごく緩やかな手つきで、彼女の乱れた旋毛や前髪を、整えるように撫でつけはじめる。仮にそれに、違う、ちゃんと撫でて! とアピールされたならば。或いは、まだまだ不服そうな面持ちを寄越されたならば。また一瞬躊躇してから、前方から後方へ、ようやくゆったりと掌を滑らせてやるだろう。それからごく自然な流れで、籠手の内側の柔らかい革を使い、相手のすべらかな頬まで撫でて……そのかんばせを上向かせ、静かにじっと見下すこと数秒。──はた、と我に返るなり。「……これでいいか、」と、相手の薄い肩を軽く叩きながら、妙に固い表情を逸らして。)
……ギデオンさんが、妬いてもいいって言ったんじゃないですか。
( ビビの頭上で、大きな手がそろりと動く気配に、撫でやすいよう小さく俯き瞳を閉じて、温かな触れ合いをおっとりと待つ。しかし与えられた触れ合いのその浅さに、……?、? と寂しそうな、期待するような視線をギデオンにチラチラと向ければ。頑なな相手の言い草に──確かに相手もまさか、犬が仇になるなど思ってもいなかっただろうが──かの聖夜のやり取りを思い出して、そのエメラルドの瞳が傷ついたように微かに揺れる。そうして、柔らかい革の感触に頬擦りをしながら、健気にギデオンを見上げること暫く。一体ギデオンが何を躊躇っているのか、それこそ先程カヴァス犬にしたような、なんの色気もない健全な触れ合いを求めていたビビには、相手の意図が読めずに、「……ありがとうございます、」と小さく頭を下げながらも、その瞳にありありと──人前だから? と、視線だけで問うてくる姿は、彼女に分かりやすい大きな耳と尻尾があったのならば、しょんぼりと垂れていることが容易に想像出来る有様で。それでも、この半年以上袖にされ続けてきた、恋する乙女のタフさはベヒモスの皮革の如し。そろそろ作戦が始まる気配に、すぐさま垂れていた頭をぴこりと上げて、「ね、じゃあ今度……2人きりの時にご褒美くださいね」なんて、肩に置かれた手を挟むようにして、可愛らしく小首を傾げれば。それじゃあ、気をつけてくださいねえ──と、大きく手を振りながら持ち場に駆け出していって。 )
( さて、作戦決行間際。鼻の良いトロイト達に居場所を嗅ぎつかれぬよう、昨日ビビとアリアが作った特製匂い消しを振りまいて、それぞれの持ち場に潜むこと四半時──ねえ、どうしよう、仕事前に甘えすぎてギデオンさんに呆れられちゃったかも……。と、悶えている先輩を目の前にして、ぽかんと空いた口が塞がらないといった表情をしているアリアに、「帰ったら慰めてぇ、前行きたいって言ってたお店奢るから~」と、畳み掛けるビビがいる。確かに今回の作戦は大規模だが、まるで世紀の大仕事をするかのような深刻な顔をしている後輩に、あくまでこれは、なんでもない日常的な仕事と変わらないのだと。意識的にヘラヘラと緊張感のない様を演じている訳だが、これが意外と効果覿面。昨晩より少し顔色の良くなった後輩に、安堵する気持ちが一番大きいことには大きいのだが……。我ながら少しやりすぎかと思った演技を、すんなりと受け入れる後輩に──もしかして、ギデオンさん関係の時って、私いつもこんな感じに見えてる……? と一抹の不安を覚えたのはまた別の話だ。
さて、流石にピリピリしてきた戦士達の緊張感が必要以上にアリアに伝わらぬよう、ビビにしては厳かな態度でアリアに薬品の数と場所、使用用途を確認させる。──怖がっても出来ることは変わらない。けれど、驚異に対して正しい恐れを持つこともまた、冒険者には大切な事だ。そして、その恐怖を克服できるのは、念入りな事前準備だけだとビビは思っている。「やっぱりちょっと作りすぎたよね」なんて、作戦中に不足する心配はないのだと、できることは全てやったと、何度も何度も繰り返しアリアに刷り込みながら。世界一格好いい声で発されるだろう号令を、今か今かと待ち構えて。 )
(あの夜のことを持ち出されれば、ぐっと言葉に詰まるほかない。ついでに言えば、それが相手のものであるなら、傷ついたようなまなざしにも、しょんぼりと項垂れた様子にも、己はすこぶる弱いのだ。──故に少々甘くすれば、自ら何やらやらかしかけて、それに内心狼狽したのを気取られるまいと自制して。そんなこんなの有り様だったから、しゃきっと気持ちを切り替えた相手が、甘ったるい約束をちゃっかり取り付けてしまおうと、言い返す言葉など何ひとつ上手く出てこないまま。結局、ぱたぱたと駆けていく白布の背中をただ見送るのみとなり──ひとり眉間を揉みながら、盛大なため息をひとつ。ずっとあの小悪魔にやられっぱなしだ、そろそろどうにかできないものか。
そんなギデオンに、「贅沢な悩みだねえ、総隊長殿?」と、こちらの胸の内を見透かしたような、笑み交じりの渋い声がかかる。ぎくりと振り返った先、にやにや笑いを浮かべていたのは、魔槌を担いだヨルゴスだ──いったいいつから見ていたのだろう。「若い娘にああも言い寄られるたあ、あんたも隅におけねえなあ。しかも春からずっとだろう? 何なら今夜はふたりっきりで、雌豚鍋でも囲んじゃどうだい」。食への関心が常人より高いギデオンは、無論その古い郷土料理を知っている。雌豚鍋……発情しやすさで知られる雌トロイトの肉を、精力増強の作用がある山菜等と煮込んだものだ。部屋に充満する煙は、男女をただならぬ昂ぶりに陥らせるとか、別にそうでもないだとか。「冗談じゃない」と即座に吐き捨て、気怠げに小言をかましながら、共に広場の中央へ。若い衆の面前に揃い踏みしたその時には既に、威厳あるベテランの顔を、ふたりともしれっと取り繕ってみせるのだから、やはり息が合うのだろう。
そうしてまずは部隊の編制。整列した仲間たちを見渡し、ヴィヴィアンに目を留めると、相手にだけわかる程度に小さく頷きかけてから、作戦前最後の声掛けを。朝陽がいよいよ降り注ぐなか、冒険者たちが士気を高め合う様子は、それを見ていた村人たちをも感化させたようだ。朝っぱらから盛大な声援を受けながら、いよいよ山野へ総勢繰り出し──それから、早くも一時間が経過した。)
(ヒーラーのふたりも潜伏している、谷の上の第四拠点。そこで“その時”を待ち構えていたギデオンは、いよいよその耳に、森の樹々が薙ぎ倒される物騒な物音と、第一・第二部隊のカヴァス犬たちが吠え立てる声を聞きつけた。距離にして数百メートル、こちらの谷間へ正しく雪崩れ込んでいる様子だ。さらにたった今、頭上の空の北側──ヨルゴスたちのいる方角から、魔法の狼煙が打ち上がった。その色は赤……“万事順調”。つまりここ、第四部隊も、作戦通りの動きを展開して問題ないとのお達しである。
「目標四十五度、俯角三十度に備え!」。その号令を発した途端、隊の全員に臨戦態勢の緊張がびりびり走り、それぞれの武器が物々しく構えられる。ギデオン自身もまた、愛用の魔剣の柄を握り直し、眼下を睨みつけること数十秒。いよいよ谷の切れ端に、牛ほどの大きさもある瓜坊数頭が飛び込んできた。そしてその後、太い大木を二、三本叩き折りながら続いたのは、とてつもなく巨大な赤毛の猪。村人たちの目撃情報通り、銀毛、つまり上位種のトロイトではない。ならばこの戦いは余裕だ。そう冷静に確信すると、いよいよ腹に力を込めて──)
──射撃部隊、射ち方はじめ!
(──そう、太い声で指示を飛ばすが早いか。ざっと身を起こした弓使い数名、その逞しい腕に引き絞られた石弓から、麻痺毒を塗り込んだ矢が一斉に放たれる。鋭く尖った矢じりの先は、凄まじい勢いで空を切り裂き、地上の子猪たちの胴をどすどすと突き破った。小柄な一頭に至っては、射られた衝撃でどっとひっくり返り、四肢をばたばたと暴れさせて哀れっぽく悶えはじめた。
途端、自身も一目散に駆けていたはずの親トロイトが立ち止まり。赤く血走った物凄い目で、こちらをぎろりと見上げてきた──やはり気づかれた! 「散開! カーティス、セオドアはヒーラーを援護!」言うが早いか、他の若手戦士たちと共に飛び出し、怒れる魔獣を引きつける囮役にかかる。猛然と突進してきた親トロイトは、その巨躯に飽かせた圧倒的重量で、己にとっては棒切れにも満たぬ人間どもを吹っ飛ばすつもりだろう。或いは、例え掠めただけでも、その背面の毛皮にたっぷり含んである毒で、こちらを弱らせにかかるつもりだ。
──が、それはこちらもお見通し。ふたりの青年冒険者が、ヒーラーをさっと庇って退避した、その一瞬。予め罠師が仕込んでおいた爆発罠、しかもヒーラーによる臭い消しまで施されたそれを、親トロイトは見事ど真ん中で踏み抜いた。途端にドンッと跳ね上がり、今登ってきた谷の斜面をごろごろ転がり落ちる巨体。それでも谷底にぶつかれば、そこですぐさま態勢を立て直す頑丈ぶりが恐ろしいだが、今の数秒で時間稼ぎは充分果たせた。体を起こす際の一瞬の硬直状態、そのありありとした隙を逃さずに。谷の斜面の反対側、完全に息を潜めていた第三部隊が、一斉に矢の雨を降らせ、親トロイトの左半身を針の山にしてみせる。
その攻撃がやんだ瞬間、ギデオンら囮役もまた、谷の下、トロイトたちが進行していた方向に躍り出て。各々の武器をこれ見よがしに構えてみせるが、激しく息を震わせる親トロイトは、流石に無謀に飛び込んでこない。やはり知恵の回る魔獣だ──同じ手を二度喰らうものかと、罠を警戒しているのだろう。いずれにせよ、トロイトたちの視線は一挙に手繰り寄せることができた。谷の上の安全は、再び確保できただろう──ヒーラーたちは安心して、後援に回れるはずだ。
手負いの魔獣どもを睨んだまま、片手をさっと振り。追いついてきたカヴァス犬たちを、皆谷の上に避難させる。彼らの仕事はここまでだ、ここから先の仕上げでは猟犬たちをも巻き込みかねない。そうして、じりじりと距離を測ること数秒。後ろから第一、第二部隊の冒険者たちが合流したのが、トロイトたちに決死の覚悟を決めさせたらしい。どっと、斜面を使って迂回する形で親トロイトが駆けだしたのと、「──迎え撃て!」とギデオンが叫んだのが同時。全部隊の冒険者たちが、皆一斉に打ち合わせ通りの展開を見せ。その中でギデオンもまた、重い鎧を纏った身で稲妻のように駆けだすと、親トロイトの腹の下に滑り込み、その四肢の腱に刃を走らせた。当然どれも石のように固いが、がくん、と脚の一本を折らせるのに成功する。親トロイトが怒りの呻き声を絞り出し、それを聞いた途端、矢に痺れていた数頭の子トロイトが、ゆらゆらと立ち上がった。群れる魔獣によくある本能だ──親や子といった仲間の危機を感じると、死の淵からでも甦る。さっきひっくり返った一頭、すっかり痺れている二頭を除けば、三頭の子トロイトが戦闘態勢に入ったわけで(姿の見えない一頭は、この谷に来るまでにどこかで仕留められたのだろう)。全部で四頭の怒れる魔猪を、相手どらなくてはいけない。
無論、正面からぶつかるのでは、重量のない人間に勝ち目はない。かといって、矢の雨で安全圏から弱らせようにも、相手の数が多いので、ああして射手に突進され、こちらに被害が出てしまう。故に、ギデオンの講じた作戦は、まず最初に遠距離攻撃で相手の勢力を削いでから、余力のあるトロイトの腱を接近戦で攻撃。ヒーラーの後援を得つつ、その脚力を奪ってしまえば、動けぬ彼らをもう一度蜂の巣にし、着実に仕留めよう……という寸法だ。先ほどのような爆発罠でも脚を負傷させられるが、トロイトは賢いから、やはり接近して戦う者が上手く誘導しなくてはならない。──つまり、戦士の仕事はここが正念場。そしてそれは、ヒーラーの援護によって十二分に果たされるから、彼女たちふたりにとっても、今が気合の入れ時だ。十人の男たちが皆死力を尽くして魔獣を打ちのめす、その騒乱の真っ只中で。状況を素早く確かめたギデオンが一言、作戦通りに要請を飛ばして。)
──ヒーラー、散布始め!
……ッ、……、
( 地面を震わすような、激しい猪達の足音に混じって、己の惨めったらしい不規則な呼吸が耳につく。カーティスらの援護を受け、必死に獣道を駆け上がりながらも。時折、香りの強い物や有毒の薬草を見つけては燃やし、万一トロイト達に気づかれても追い縋られないよう、自分たちの匂いを誤魔化しておく。そうして、鬱蒼と茂る木々の間から、要救助者はいないか、トロイト達の頭数、アリアの顔色からその余力も見極めれば。幸いここまでは全て計画通り、大きな齟齬もなく進行している作戦に、ほっと胸を撫で下ろしかけたその時だった──「伏せて!!」と爽やかな渓谷を切り裂いたセオドアの怒号。瞬間、ビビ達の行く手を遮り、バキバキと太い枝葉をなぎ倒しながら、猛然と此方へ駆け来る7匹目の子トロイトに、セオドアが咄嗟に張った魔法障壁ごと吹き飛ばされ。それを見た同期組が、ビビの隣で鯉口を切る気配に、「倒そうとしない! 崖下に落とすよ!」と指示を飛ばせば。杖を抜いたビビが谷底のギデオンに向け、白い花火を数発打ち上げる間に。厳かな詠唱を終えたアリアの杖が光り、向こうもまた魔法障壁の反動に吹き飛ばされていた幼獣の着地地点へ、鋭い大岩がドスドスッと突き上がれば。その巨体が微かに傾ぐ隙を見逃すカーティスでは無い。その恵まれた体躯を低くし、一直線に山道を駈けたかと思うと、その崖側の軸足を掬う代わりに、自身も険しい斜面を滑り落ちながら「ビビ!」と託された希望を繋がなくて何が冒険者か。──虚仮威しのフラッシュでは意味が無い。ファイヤーボールでは威力が足りない。大型魔獣とは決して相性の良くない手数をひっくり返して、腰の薬草に手をかければ──嗚呼、勿体ない……!! と思わず漏らしたのはヒーラー娘のどちらだったか。カーティスの一撃にぐらりとバランスを崩した魔獣目掛けて、大きく振りかぶったビビが投げつけたのは、粉末状のモーリュが詰まった小瓶と小さな火種。g単価並の冒険者の日給を超える高級薬草が引き起こす"ただの粉塵爆発"に、滲みそうになる涙をグッと堪えて、谷底を確認すれば。華麗な連携に吹き飛ばされた巨体は哀れ、親の嘶きに奮い立った兄弟のその一匹を押し潰して動かなくなったところだった。
そうして、周囲一帯を見渡せる高所に立つヒーラーと、地面で魔獣と相対する戦士。奇しくもギデオンととビビが初めて共闘した際と同じ構えで、相棒の要請を捉えれば。深手の戦士2人をアリアに任せて、半日かけて作った燻し玉に片っ端から火をつけ、風向きを谷下に集める。そうして、煙の逃げ場がない谷底で、もうもうと烟る煙幕は魔獣の鼻をも犯しその行動を大きく制限するだろうが、人類の視界を塞ぐ程のものでは無い。シルクタウンの時と似ているようでいて、あまりに広いフィールドのその谷底に、燻し玉の煙を制御するだけでダラダラと汗が流れるが、──ギデオンさんならやってくれるに違いない。その信頼を込めて、2人で操るはずだった煙幕を見事1人で制御してみせれば、果たしてトロイトと冒険者、どちらに軍配が上がるだろうか。 )
……ッ、……、
( 地面を震わすような、激しい猪達の足音に混じって、己の惨めったらしい不規則な呼吸が耳につく。カーティスらの援護を受け、必死に獣道を駆け上がりながらも。時折、香りの強い物や有毒の薬草を見つけては燃やし、万一トロイト達に気づかれても追い縋られないよう、自分たちの匂いを誤魔化しておく。そうして、鬱蒼と茂る木々の間から、要救助者はいないか、トロイト達の頭数、アリアの顔色からその余力も見極めれば。幸いここまでは全て計画通り、大きな齟齬もなく進行している作戦に、ほっと胸を撫で下ろしかけたその時だった──「伏せて!!」と爽やかな渓谷を切り裂いたセオドアの怒号。瞬間、ビビ達の行く手を遮り、バキバキと太い枝葉をなぎ倒しながら、猛然と此方へ駆け来る7匹目の子トロイトに、セオドアが咄嗟に張った魔法障壁ごと吹き飛ばされ。それを見た同期組が、ビビの隣で鯉口を切る気配に、「倒そうとしない! 崖下に落とすよ!」と指示を飛ばせば。杖を抜いたビビが谷底のギデオンに向け、白い花火を数発打ち上げる間に。厳かな詠唱を終えたアリアの杖が光り、向こうもまた魔法障壁の反動に吹き飛ばされていた幼獣の着地地点へ、鋭い大岩がドスドスッと突き上がれば。その巨体が微かに傾ぐ隙を見逃すカーティスでは無い。その恵まれた体躯を低くし、一直線に山道を駈けたかと思うと、その崖側の軸足を掬う代わりに、自身も険しい斜面を滑り落ちながら「ビビ!」と託された希望を繋がなくて何が冒険者か。──虚仮威しのフラッシュでは意味が無い。ファイヤーボールでは威力が足りない。大型魔獣とは決して相性の良くない手数をひっくり返して、腰の薬草に手をかければ──嗚呼、勿体ない……!! と思わず漏らしたのはヒーラー娘のどちらだったか。カーティスの一撃にぐらりとバランスを崩した魔獣目掛けて、大きく振りかぶったビビが投げつけたのは、粉末状のモーリュが詰まった小瓶と小さな火種。g単価並の冒険者の日給を超える高級薬草が引き起こす"ただの粉塵爆発"に、滲みそうになる涙をグッと堪えて、谷底を確認すれば。華麗な連携に吹き飛ばされた巨体は哀れ、親の嘶きに奮い立った兄弟のその一匹を押し潰して動かなくなったところだった。
そうして、周囲一帯を見渡せる高所に立つヒーラーと、地面で魔獣と相対する戦士。奇しくもギデオンととビビが初めて共闘した際と同じ構えで、相棒の要請を捉えれば。深手の戦士2人をアリアに任せて、半日かけて作った燻し玉に片っ端から火をつけ、風向きを谷下に集める。そうして、煙の逃げ場がない谷底で、もうもうと烟る煙幕は魔獣の鼻をも犯しその行動を大きく制限するだろうが、人類の視界を塞ぐ程のものでは無い。シルクタウンの時と似ているようでいて、あまりに広いフィールドのその谷底に、燻し玉の煙を制御するだけでダラダラと汗が流れるが、──ギデオンさんならやってくれるに違いない。その信頼を込めて、2人で操るはずだった煙幕を見事1人で制御してみせれば、果たしてトロイトと冒険者、どちらに軍配が上がるだろうか。 )
(一発目に弾けたのは、伝達開始を知らせる高らかな破裂音。それが己には何故か、『──ギデオンさん!』と呼ぶ声に聞こえ、反射的に振り仰いだ。地上の血生臭さなどつゆ知らぬ、爽やかな冬の青空。そこによく映える、真っ白な信号花火が、パン、パパパン、と明瞭に鳴る──“ら・っ・か・ちゅ・う・い”!
急ぎながらも正しいリズムで打ち上げてくれたおかげで、向こうで異状が起きたことを把握しつつ、そちらで対応が取れていることまで察せたから、こちらのためだけの最速判断を下すのに躊躇はなかった。「総員!」──若手のひとりに襲い掛かった親トロイト、その足元を魔剣のひと薙ぎで打ち払って牽制してから、谷全体を振り返り──「各自、南北へ退避!」。無論、中堅以上の戦士ならば、ギデオンがこうしてわざわざ再共有するまでもない。しかし、今戦っている多くの若者は、強い魔獣と対峙しながら想定外の信号にまで気を配る余裕など、まだまだ身につけていないに等しい。故に、相棒のくれた情報を確実に行き渡らせるのは、信じて託された己の使命だ。
はたして、谷の随所で激戦を繰り広げていた冒険者たちも。辺りを駆けるギデオンが、差し迫った表情で「退避!」「南北へ散れ!」と呼びかけ続けたものだから。はっと冷静に動きを止め、敵を依然注視しながらも、谷の両端に散開した。
そのタイミングを、完璧に読んだのだろうか。ひとりの若手戦士、ヒーラーの護衛に回っていた筈のカーティスが、必死に体勢を立て直しながら滑り落ちてきた、その頭上。崖の外れでものすごい爆発が轟いたかと思うと、派手な土煙と共にひとつの巨体が吹っ飛んでくる。それを決して逃さずに、「最高だ!!」と叫んだのは、傍で構え続けていた熟練魔槌使いヨルゴス。韋駄天のように駆けたかと思うと、別の戦士に突っ込もうと蹄を打ち鳴らしていた敵の一頭──最も頑丈で手を焼く子トロイト──のこめかみに、強力な打撃を撃ち込んで。谷の後方へ勢いよく吹っ飛ばされる巨体、その着地地点はもちろん、崖から飛んできた兄弟が落ちていくまさにその場所。どしゃっと潰れる嫌な音が響き、辺りの地面にむごたらしい赤がぶちまけられる。
しかしギデオンの目は、それを一瞬確認しただけで、すぐに上空へと吸い寄せられた。煙が次第に薄れると、その高い崖の一点に、ひとりのヒーラー娘の姿がはっきり見えてきたからだ。純白のローブと栗毛の髪をはためかせ、ぐっと険しくも凛々しい目で、こちらを見下ろすヴィヴィアン・パチオ。その雄姿はギデオンだけでなく、谷底にいる戦士皆の目に、強烈に焼き付いた。
──しかし、まだ戦いは終わっていない。コンマ数秒の静寂から真っ先に我を取り戻すと、彼女やヨルゴスを労う間も惜しみ、周囲に、そして崖上のヴィヴィアンに、毅然とした声で指示を飛ばし。相棒もまた、最速の動きをもって、最後の追い込みを調えてくれる──作戦どおり、谷に煙幕が充満する。いよいよ、この作戦の総仕上げだ。)
第二! 左翼展開、威嚇用意!
第三! 目標10時、右左方用意!
(ヴィヴィアンとアリアが作ってくれた燻し玉の煙幕は、嗅覚を奪うのみで、呼吸や視界には支障をきたさぬ優れもの。しかし、視力の悪いトロイトにとっては、最悪極まりない妨害工作だ。血塗れの子トロイト二頭を従え、自身も平らな鼻面から夥しい量の血を噴きだしている親トロイトは、ぶっぶっと息を吐きながら、忌々し気に頭を揺らめかせ、こちらに攻めあぐねている様子。左眼の瞼の上を深く斬っておいたので、そちら側の視界はもう、完全に塞がっていることだろう。加えて、討伐作戦の序盤で第三部隊が撃ち込んだ矢が、左半身を痛め続けているとなれば。奴は今、死角になっている左からの攻撃を、神経質に警戒しているはず。ギデオンはそこに勝機を見ていた──着実に、最小限の被害で奴を仕留めきるために、全ての手駒を活かすのみだ。)
第四、第二を助攻! 目標のサイドを排除しろ!
第一、主攻構え! ──攻撃、始め!!
(作戦通りの陣形を展開した冒険者たちは、三頭の魔猪たちに一斉に迫りかかった。ギデオンらが迂回混じりに距離を詰める隙を稼ぐべく、第二部隊が陽動を展開。その音に敏感に反応した親トロイトをいち早く庇おうと、子ども二頭がそちらに突っ込み──ギデオンの指示どおり、強力な魔法を己の弓にためていた少数精鋭の第四部隊が、先ほどとは比べ物にならないほど強力な矢を発射する。案の定、子トロイトはその頸椎を射抜かれ、あまりの勢いに首がくるくると飛んでいく。
頭部のない残りの身体が、崖に激しく叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちる──その無残な光景を、残る右目で見届けたのか。ごおおお、ともはや地響きじみた唸りを上げたのは、大ボスである親トロイトだ。もはや臭いでの索敵を投げ捨てたのか、冒険者たちを手当たり次第に蹴散らそうと、むやみやたらに暴れ狂いはじめた。ここにきて、その脅威度が更に数段階上がったのだ。
魔獣の死力は凄まじく、奴に接近していた何人かの若手が、いとも呆気なく撥ね飛ばされた。しかし、第二部隊の魔法使いたち、もしくは崖上のヒーラーや魔法戦士が、すかさずカバーの魔法を投げかけてやったおかげで、崖に身体を打ち付けての致命傷には至らない。起き上がるなり自力で退避できたのは、ヴィヴィアンの巧みな煙幕操作のおかげで、トロイトがろくに追い討ちをかけられないためだろう。それでも元気のある者は、ほんの少し息を整えただけですぐに飛び出し、再び戦況に加勢していく。
一方、すべての攻撃を躱し続けるギデオンとヨルゴスは。魔獣に巧みに接近し、己の魔剣、己の魔槌を、その巨躯に幾度も叩き込んでいた。後援として潜んでいた罠師たちもまた、揺らめく煙幕に紛れるようにして、ほんの小さな足止め程度の罠を何発も新たに植え込み、トロイトの動線をさりげなく操作する。冒険者たちの連携は盤石だ──それでもトロイトは、道連れを増やすことを諦めない。
たった今、トロイトの巨大な牙の切っ先が鎧を掠め、ばりばりと金属が引き裂かれていく嫌な音が響き渡った。被害を受けたのは、最前線にいたギデオン及びヨルゴス。しかし咄嗟の回避力に年季が入っていることもあり、その傷はさほど深くない。一切怯みを見せることなく、トロイトの肩、及び後ろ脚をずたずたにして、同時に後方へ飛び退る。ここまでくれば、自分たち特攻隊の仕事はもう充分と言っていい。「総員、撤退!」と一声命じれば、他の冒険者たちが一斉に戦場を離れていく。
──それに応えるようにして、「第三、構えました!!」と爽やかな声で叫んだのは、安全地帯に引き上げられていた筈のカーティスだろうか。信頼のおける相手ゆえ、そちらを見もしなかったギデオンは、己の魔剣を正面に構え、バチバチと魔素をため込みはじめた。お得意の雷魔法──今日ずっと使わなかったのは、この最後の一撃のためだ。普段よりもその閃光が激しかったのは、激しい闘気によるものか、それとも崖上に控えている相棒に支援魔法をかけられてか。
いずれにせよ、煙幕を薙ぎ払うようにして射出された雷撃は、こちらを圧し潰そうと突進してきたトロイトの勢いを、中間地点で相殺しきり、その場で激しくもんどりうたせた。──そして、「総隊長の雷魔法」という合図を今か今かと待ちながら、その石弓に自分の魔力を込めきっていた、第三部隊の大勢が。第四部隊のそれよりさらに強力な、必殺の弓矢の雨を、ここぞとばかりに解き放つ。
痺れて動けぬトロイトは、死んだその子らと同様に、どすどすと貫かれはじめた。立ち上がろうにも、矢、矢、矢。ここまでくると、剣や槌といった近接武器を使う特攻部隊の面々は、その壮絶な死にざまをじっと見届けてやるしかない。何度も何度も立ち上がろうと藻掻き続ける大猪は、最後に一度、血の塊を吐き出しながらギデオンを睨みつけて。──その血走った右目が、ぐるんと上を向き。どうっと倒れて、谷を激しく震わせた。)
(──数秒の沈黙の後、荒い息を整えながら、「ヨルゴス」と隣に呼びかける。ベテラン仲間はそれだけで、隊の前では見せられないギデオンの魔法疲労を感じ取ったらしく、代わりに進み出てくれた。「──おまえら、まだ気ぃ抜くな! まだ敵は死んでないぞ!」。煙幕が薄れゆく中、よく響き渡る怒鳴り声は、迂闊な勝利に浮かれぬよう、仲間たちの気をしっかり引き締めるためのもので。
ヨルゴスが適当な者を呼び集めると、そのなかのひとり、若い槍使いが、強張った面もちで親トロイトの死体に近づいた。敵はほぼ確実に事切れただろうだが、念には念を入れろ、というのが冒険者の鉄則。この頃にはギデオンも静かに息を整えたので、後輩の傍まで歩いて行き、周囲の仲間と共に万一に備えながら、しっかりと立ち合いを担う。
ヨルゴスの指導の下、若い槍使いはトロイトの後頭部に槍の穂先を突き立てると、ずぶずぶと沈めていって──「あっ、これですか」「そうだ、そいつだ」。初めてでは穴を見つけるのは難しいだろうに、しっかりと手応えを得たらしい、額に脂汗を浮かせながら、その槍を激しく動かす。魔獣の頭蓋骨の中身を、念入りにかき混ぜているのだ。王都の市民がこれを見ると、酷くグロテスクな所業だと恐れをなすのだが、なまじ強い魔獣ともなると、ここまでしなければ死なないことも多い。これをぬかって返り討ちにされた事例も、冒険者史上数多く存在する。故に、トロイトのような特定魔獣を狩るときは、最後に必ずこの処理をする決まりなのだ。
そうしてようやく、「もういいぞ」とベテラン戦士双方に言われ、獲物をしっかり引き抜いた青年は。その赤い穂先を高く掲げ、興奮で頬を紅潮させながら、「──ブランドン・ベイツ、対象の死亡を確認しました!」と声高らかに宣言した。その瞬間、谷中がわっと湧き、むさ苦しい凱歌があちこちで立ち昇って、血だらけ土だらけの冒険者たちが、ごろごろと無邪気に抱き合う。何度経験していようと、大掛かりな討伐を果たした時の達成感というものは、冒険者皆が熱狂する、最高の瞬間だ。ギデオンもそれは決して例外でなく、崖の上の相棒をふと振り返ると、満足気な笑みをふっと浮かべるのだった。)
*
(──さて、現場にいる間だけは、泣く子も黙る鬼になるのがヨルゴスだ。
「静まれジャリども! ここからがこのクエストの本番だぞ!」と相変わらず怒鳴る彼に、縮み上がる若手たち。その様を面白おかしく眺めるのも一興だが、総隊長のギデオンには懸念事項が山ほどある。現場処理の指揮を一旦ヨルゴスに任せることにして、まずは作戦中異状があった後衛の確認へ。激戦明けのはずの身体で崖を軽快に駆け上り、がさがさと茂みを掻き分けること数歩。真っ先に顔を合わせた相棒に。開口一番、先ほどの偉業を褒めてやるよりも前に、まずは責任者としての真摯な確認を投げかけて。)
──……、負傷者は何人、どの程度だ。アリアは無事か?
( 谷上まで届く程の振動と共に、今回の首領・親トロイトが、どうと音をたて倒れ臥す。確実な生死を確認するまで、戦士たちの緊張は変わらない(べきだ)が。もう既にこの瞬間から、ヒーラー達の新たな戦場は始まっている。煙幕の操作にかかりきりだったビビの背後で、初めての大型クエストにも関わらず、深手を負ったセオドアを診ながら、同時進行で壮絶な前線に滑り落ちたカーティスを拾い上げる大立ち回りを、冷静にこなしてくれたアリア。そんな二人の状態が安定したことを確認して、崖の先に立つ此方へと指示を仰ぎに来た後輩と、努めて明るい雰囲気で負傷者を数えながら、今後の方針を話し合う。とはいえ、作戦中の事だけではなく、その後に負傷者を治療するためのスペースや、必要な物資の調達先等、必要な確認は事前に済ませており。流石のギデオン指示下、この負傷者数ならば、事前の計画通りにこなしてなんら問題なさそうだ。そう手早く医療部の方針をまとめれば、あとは早々に総隊長から権限を移行して、速やかに負傷者の治療を始めたいところ。後衛の撤収はアリアに任せて、自身は先程登ってきた獣道を滑り降りようとしたところで、ちょうどギデオンと出会して。 )
現状確認できている範囲で、重篤な負傷者はナシ。速やかな手当がいる対象は9,10名程。
ヒーラーに被害は出なかったので、予定通り休耕地にテントで負傷者の救護にあたります。
他に小さくても怪我をした人がいたら、力尽くでもなんでも寄越してもらって……それから、誰でも良いので、動ける人を2人ほど貸してください。
( 総隊長の問を受け、先程アリアと確認した所見をスラスラと述べるヴィヴィアンは、急場でこなした一人での煙幕操作に、前髪は汗で潰れて、白い頬は微かに上気している。そうでなくとも、鬱蒼と茂った獣道を駆け上がった関係で、白い装束はあちこち汚れて、全身鉤裂きや小さな擦り傷だらけ。しかし、それらをものともせずに、この場の医療部責任者として、真っ直ぐにギデオンを射抜くエメラルドには、作戦前のような甘えは見られずに。谷を引き上げる準備のため、一旦相手と別れるその間際、さりげなく相手の腕に触れたかと思うと──トロイトの抓を受けていた相棒に。「お疲れ様です」と短い一言で施した回復魔法が、ビビにとってはあるまじき精一杯の公私混同だった。
さて、纏まったスペースの取れない渓谷の代わりに、昨日ビビが確保した休耕地は、ここから山道を徒歩で20分程のところにある。とはいえ、医療従事者にとっての"重傷者"とは、早急に最新医療に繋げなければ、数時間先が分からない者たちを指す言葉であり。従って重傷者はゼロ……と言っても、今この瞬間も脂汗を浮かべて、痛みに喘ぐ負傷者達が歩ける距離ではとてもない。それ故に──パンパン! と手を叩いて、歓喜に湧く冒険者たちの視線を取り集め、負傷者を背負って山を下れる体力の残っていそうな者を数名割り振れば、ビビを目の前にした男どものそれはそれは素直なこと。元気だけが取り柄の連中を、ベテラン顔負けの速度で取りまとめ。何処から話が漏れたのやら。この後の救護活動で二人、誰がヒーラー助っ人をするかで勝手に紛糾したり、それが収まると、今度は助っ人枠から漏れた連中が、自分の身体に優しく手当をしてもらえるような負傷がないか、お互い探しあったりと。よく言えばこんな時まで健康的に、忖度を抜きにすれば品もなく、ニヤつきながら山を下る珍妙な一行を先導しながら山を下った。
そうして辿り着いた休耕地には、既に大きなテントが既に3棟。主導するのはヒーラーと言えど、大型クエスト後の救護活動は、基本的には総力戦になる。ヒーラーが負傷者の治療に当たるテントの一方で、無限に必要になる熱湯をグラグラと沸かし続け、備品の消毒等を繰り返す体力班に、その間に使う薬や物資、労働力の調整をする、頭脳労働班用のテントがそれぞれ。まずはその負傷者用のテントを開けて、その傷に響かないよう慎重に負傷者達を寝かせると、治療に当たる前に手を洗いに顔を出せば。下山中、勝手に助っ人の座を勝ち取った青年達が、テントから顔を出したビビが、助っ人を呼ぶのをソワソワと待ち構えているところで。 )
それじゃあ、誰か救護テントの方を手伝っていただける方──……
(各種の数字、今後の計画、そちらの現場に必要なもの。相手が寄越した情報は、いずれも過不足なく明瞭で、全く申し分がない。おまけにさらりと、ほんの一瞬の触れ合いだけでギデオンの傷を癒すのだから、つくづく優秀なヒーラーである(ギデオンもギデオンで、彼女の魔素をいともあっさりと取り込むほどに、この半年間の相棒関係で馴染んでいたこともあるが)。とはいえ、今は状況対応が最優先。真剣な顔で「すぐに向かわせる」と返すと、踵を返し、今来た崖道をすぐさま戻る。後衛の面々について、もはや己が直接確かめるべくもないと踏んでいた──ヴィヴィアンもアリアも、職務を立派に果たしている。ならば己も、今の一分一秒を惜しんで、総隊長としての仕事を着実に果たすだけだ。)
……だからおまえら、そんなに飢えるくらいなら、普段から女遊びをしておけって言ってんだ。
ほら、ぼさっとしてないでさっさと手伝え。
(さて、あれから半刻ほど過ぎた頃。最優先の確認作業をすべて終えたギデオンは、ヨルゴスと適宜相談しながら、浮かれている若手たちにあれこれ指示を飛ばし。時折、うんざりしたように投げやりな発破をかけている有り様だった。
魔獣討伐という仕事は、敵を倒せば終わり! と言えるほど単純明快なものではない。子ども向けのおとぎ話であれば、何か希少なアイテムでも落として綺麗になくなるところだが、生憎ここは現実世界。死体の解体、有用物の採取・加工、不要物の処分、荒れた現場の清掃、二次被害の防止措置、などなど。討伐を終えた後にこそ、多くの仕事が待ち受けている。特に死体の解体作業は、病魔の発生や他の魔獣の誘引を避けるため、最速で着手すべきものだ。だからできれば、戦い終えた全員を投入したいところなのだが……もちろん、決してそうもいかない。元々今回は、昨今ギルド上層部が悩んでいる人件費対策により、本来よりもかなり少人数でのパーティー編成である(戦士二十人近くに対し、元の計画ではヒーラーがたったひとりしか配置されなかったのが良い例だ)。つまり、討伐での負傷者が出れば出るほど、その後の現場処理に回す人手がどんどん足りなくなってしまう。ここのところは、ギデオンの綿密な作戦が功を奏して、これでも本来の半分ほどのダメージに抑えることができたのだが、それでもやはり、苦しいものは苦しい、足りないものは足りない。かといって、医療部による衛生処理を軽んじれば、そちらの方がよほど長期的な悪影響をもたらし得る。とにかく、もうこの状況は仕方がない。今動ける人間が最大限の仕事を果たせるよう、常に現場を睨みながら、適宜割り振りを尽くすしかない──そう腹を括って、あちこち駆けずり回っているというのに、だ。
ギデオンやヴィヴィアンの悩む、人手不足などつゆ知らず。戦闘後の高揚感──冒険者用語でいうバトル・ハイ──に浮かれている連中は、皆が皆、ヒーラーのテントの周りにぞろぞろとたむろする有り様だ。このバトル・ハイは、気分が異常に高まる代わりに、思考力がとんでもなく落ちる、要は馬鹿になる。特に魅力的な異性を見ると、花の蜜に誘われる虫のようにふらふらついて回ったり、或いは全力で口説きにかかったりするのだ。「ビビは能力面でいやあ間違いなく必要だったが、それはそうと、こういう時にゃなあ……最大の人選ミスだわなあ」とは、水を飲んでひと息ついたヨルゴスの言。彼は谷での現場処理の監督をする傍ら、たびたびこちらに人手を借りに来るのだが。普段はよく効く鬼教官の怒鳴り声も、今の青年たちにかかれば、マドンナヒーラー・マジックによってぷよんぷよんと跳ね返せてしまうらしい──鬼教官の肩書が泣くわけだ。「二十年前の誰かさんみたいだな」とギデオンが皮肉を叩けば、魔槌使いは気まずそうに、「仲間の女にゃ手を出さなかったぞ……」と言い訳を。奴には連れ添って二十年になる妻がいるが、つまるところその馴れ初めは──という話はさておき。とにかくこういったわけで、ギデオンはヨルゴスとのぼやき合いもそこそこに、若手たちの統制に手を焼いている最中だった。ここまで来たら仕方ないかと、とっておきの切り札、昔行きつけだった娼館の名前を出す。あのがめついやり手婆に、「昔大恩を売ってやったろう」「新しい金蔓を寄越しな!」と、散々せっつかれていた事情もあるのであり、決して今も通っているわけではない。──が、花街で遊んだことのあるらしい何人かが、ギデオンの口にした嬢の名前を聞くなり、(え、マジ!?)というようにぱっと振り返ったのと、後ろのテントから思いがけずヴィヴィアンが顔を出し、他の連中がその面をだらししなく蕩けさせたのとが、ほとんど同時。ふと振り返ったギデオンも、この半年親しくしている若い娘と鉢合わせるなり、ぴた──と、それはもうものの見事に凍りついて。)
いちばん捌ききった奴には、一回くらい『サテュリオン』の女に口利きしてやってもいいぞ。ほら、アドリアーナに会いたい──奴、は──……
──…………?
( ビビがテントから顔を出した途端、それまでガヤガヤと煩かった周囲が一気にしんと静まり返る。え、なに……? と怪訝に眉をひそめてぐるりと周りを見渡してみれば。あからさまに泳ぐ瞳を隠せない者、その一方で、だらし無く期待に緩む表情で固まる者、または何かがおかしくって堪らないといった様子で口元を押さえる者。反応様々に、皆一様に此方を見つめてくる奇妙な光景も、しかし、ビビにとっては見慣れたものだ。自身の容姿が彼等にとって好ましいもので、好ましい異性には見せたくない姿がある、という男の自尊心に触れない賢さは、幼少期のみぎりからとっくに身についている。何を話していたかは聞こえなかったものの、これまでの経験上、どうせ大した話はしていないのだ。文字通り蚊帳の外な状況に、はあ……と漏らしたため息は、次に発する声への前準備でしか無かったのだが、後ろめたいことのある連中にはどう映ったろうか。ピシリと硬化する大男達を再度見回し、再び口を開きかけたその時。背後からふわりと耳を塞がれ、「そういう話は場所を選んだ方が良いんじゃないか、レディの耳が腐ったらことだ」と、辛うじて聞こえる気障ったらしい台詞は、中で寝ていたはずのカーティスだ。一体何をしに出てきたのか、痛みに上がる呼吸と、熱を持った掌が痛々しくて。脚を引きずる相手をしっかりと支えてやれば──この居た堪れない空気も、ギデオンさんならピシッと纏めあげてくれるに違いない。そう誰がこの空気の元凶かも知らずに、真っ直ぐな瞳で大好きな相棒を見上げると、仕方の無い色男の汗を拭ってやってから、信頼に満ちた声をギデオンにかけ。 )
カーティス、無理したら駄目よ。
──ギデオンさん、私カーティスを寝かせてくるので、人選お願いしても良いですか?
──……了解。
(いつもと変わらぬ表情を向けてくれた明るい相棒に、こちらもごくごくいつも通り、落ち着き払った声を返す。……しかし、彼女がカーティスを優しく支えながらテントの中に消えていく姿を見送る、その無言の視線はどうだ。まずい部分は聞かれていなかったらしいと理解しての、浅ましい安堵やら。同期の男にやけに近しく接していた様子への、何やらひりついた思案やら。その場に佇んだまま沈黙している横顔は、傍目にはいっそ雄弁に見えたかもしれない。
現に周囲の、ギルドきってのマドンナにだらしない野郎どもときたら。巧みな目配せを交わしたかと思えば、すっと数人が進み出て、「ギデオンさん、あいつ、あのカーティスの野郎、俺許せねえですよ」「ビビちゃんに悪いことしないか、俺らがちゃんと見張っておきますんで!」なんて、真面目腐った顔で申し出る連携ぶりだ。しかしギデオンの方も当然、自分の個人的な心の揺らぎに、この莫迦な若造たちを付け入らせるはずもない。ゆっくり振り向いた青い双眸は、普段は湖のように穏やかなはずが、ルーン海の底より厳しく冷え込んで。「……お前ら。五体満足なら、全員バラシに回れるな?」と、有無を言わさぬ低い声で命令を。途端に、若者たちが顔に貼り付けた凛々しい笑みは、皆一様に激しく引き攣って崩れ去るのだった。)
(──さて、何やら虫の居所が悪い指揮官に圧をかけられたとあれば、さしもの色惚け連中も、皆ひいひい言いながら谷間の方へ走っていった。倒したトロイトは全部で8頭、総重量は優に20トンにものぼる。数時間は帰ってこられないだろうが、働き盛りの若者にとってはさぞや嬉しいことだろう。
人手を欲する医療部には、それまで魔獣討伐後の喫緊の処理にあたってくれていた罠師数名を回すことにした。死亡直後の魔獣の臭いは、長く吸うと身体に悪い。だから現場の交代がてら少し休ませてやろう、という気遣いなのだが、しかし実のところ、罠師という特殊な人種の性格傾向を見込んでの人選でもある。──専門家気質な彼らは、良くも悪くも人間に興味がない。否、人を驚かせて楽しむタイプもいるにはいるが、それは本質的に、己の悪戯……要は“罠”が、狙い通りの効果をもたらしたことを喜んでいる。道行く美女には振り返らない癖して、奇想天外な術式で書かれた罠型魔法陣には、どことは言わずおったてる変人までいるくらいだ。故にある種の状況において、ほぼ確実に間違いを起こさない。そういう意味で、彼らを信頼することにしたのだ。
──そう、これは別に、多忙な医療従事者たちにいちいち見惚れず、きちんと真面目に手伝ってくそうな人選をしただけのこと。面倒なガキどもを皆一緒くたに相棒から遠ざけたかった、だとか。他の者をテントに出入りさせることで、少しでも相棒とカーティスがふたりきりになる確率を下げようとしただとか。そんな愚かな他意など、決してありやしないのだ。)
────……、
(それから更に一晩が過ぎた。休耕地に追加の野営を構えて泊まり込んだ冒険者たちは、翌日も解体やら清掃やらの仕事にひたすら追われ続け。ようやく原状復帰したのは、冬の弱い太陽が天高く昇るころ。村に借りた幾つもの荷台を馬に曳かせ、一同が皆揃って凱旋すると、村人たちはそれはもう大喜び。事前の約定どおり、トロイトから獲れた肉──痺れ毒を用いたため、結局可食部全体の一割にも満たなかったが──の半分を贈呈すれば、これまた大変な、気でもちがったかと思うほど大騒ぎとなって。ギデオンの制止もむなしく、「今宵は宴じゃ!」「祭りじゃ!」「ぱーちーじゃ!」と、村をあげての宴会準備がとうとう始まってしまった。それからも再三固辞してみたものの、最終的には、「これは厚意に甘えようか」とヨルゴスと話し合い。結局、もう一晩の延泊を決め、若者たちに自由時間を与えてやる。各地の依頼者との交流は、この先数十年の冒険者人生に大きく影響することを、ギデオンたちはその経験で知っていた。この二日間頑張った褒美がてら、当人たちはそうと思っていない勉強を、たっぷりさせてやることにしようか。
──そうして、若者たちが待ちに待った祝宴会は、案の定大盛り上がり。昨晩まで怪我で呻いていた連中も、今や村人と肩を組み、酔いどれながら歌っている有り様で。冒険者といい村人といい、トランフォード人というのは、つくづく元気で陽気なものだ。そんな賑やかな輪の外、ギデオンはと言えば、広場の中央のそれより小さな、こじんまりした焚火の傍で、日中に仲間たちが書き上げた報告書に相変わらず目を通している。自分はああして騒ぐたちではない、仲間たちの楽しそうな様子を見聞きしている方が好きだ。何より、カレトヴルッフに帰ってから別途ギルマスに上げる報告を、考えておかねばならない──のだが。いったい全体、こんなこじんまりした村のどこに、そんな代物が眠っていたのか。お偉いさんにゃ特別に、と村長直々に異国の杯を注いでくれたのだが、その強い酒精がじわじわ回ってきたらしい。後輩たちの手前、最低限は気を引き締められるものの、この思考の鈍りようじゃ、今夜はあの方の耳に入れられるような話をろくに纏められなさそうだ……と、書類から顔を上げて断念すると。背を預けていた古井戸に更にもたれ、冬の澄んだ夜空を見上げる。広場中央の大火から舞い上がる火の粉が、ちらちらと赤く揺れながら、天の川に溶け込んでいく……その様子を眺めるうちに、また一段階頭が鈍って。少し眠気を取ろうかと、少しの間瞼を閉ざし。)
…………
( ギデオンの苦悩と、外の喧騒など露知らず。急拵えの簡易ベッドにカーティスを寝かせてやれば、「──……待て、待ってくれ。渓谷の、俺が……滑り落ちた途中の、木の幹に。デカい爪痕があったんだ……。ありゃトレントじゃねえ、ノースさんに……」と成程。この青年は自らが見た責任を果たすべく、満身創痍の身体を引きずり出てきたというわけか。しかし、この作戦で彼の言う爪痕の主が現れなかった以上、それはビビ達がギルドに帰った後、然るべき装備の調査隊が入るべき案件だ。今はただ「……わかった。ギデオンさんには私から伝えておくから安心して」と、宥めるようにその額の汗を拭ってやれば──その責任感だけで意識を保っていたのだろう。少しだけ安心した表情で、気丈な後輩が瞳を閉ざし、その呼吸が深くなるのを確認すれば、そっとその場を離れるのだった。
そうして、計画通りアリアと各々1人ずつ、ギデオンが割り振ってくれた罠師を連れて。人手不足故の慌ただしさはありつつも、少ない資源を効率的に、かつ速やかに痛みに喘ぐ怪我人達の治療を済ませていけば。痛々しい呻きで揺れていたテントに、次第に穏やかな寝息が響き始める。しかし、もしその過程を俯瞰的に眺めることが出来たならば、アリアが担当した5人側と、ビビが担当した4人側で、そのヒーラー達を取り巻く空気が、全く違う色を放っていたことに気がつけただろう。そもそも冒険者という輩は、この仕事に着くまで軽い病気にもかかった事がないような連中が殆ど、そのうえ見栄っ張りで強がりという救えない性格を持ってすれば。まずその治療必須の大怪我を、可能な限り隠し通そうとして、それが出来ないとなると、今度はこんな怪我たいしたことないと、なんとしても治療から逃げ回ろうと足掻く始末。そんな傍迷惑な野郎共をどうするかと云うのは、ヒーラーによって大きく変わるところで。魔獣討伐も終わったというのに、魔獣より元気な怪我人共とプロレスを繰り返し、最終的には魔力に任せて、連中を昏睡紛いの眠りに突き落とすビビに対して、アリアサイドの穏やかなこと。人一倍大きな成りをして、注射や見た事のない医療道具に震え上がる冒険者達を宥めつつ、一生懸命丁寧に手当をしては、「ね、痛くなかったでしょ?」と、普段おどおどと気弱に見える娘が、自分のために微笑んでくれる姿に、一度アリアの手当を受けた連中は、次回からも素直に治療に応じるようになるとの評判さえある程だ。しかもアリアが凄いのは、それを──雑務処理や、他に軽傷の連中の手当も引き受けていたとはいえ──4人しか診ていないビビと、大して変わらない速度でこなしていく出際の良さで。そうして、優秀な後輩のお陰で、負傷者の治療は速やかに進み。一方の解体作業の方はと言えば、なにやら此方もとてもスムーズに片付いたらしいというのに。約数名、最後のキヨメに呼ばれたビビを見て、サッと顔色を変え、キョロキョロと不審に周囲を見渡していたのは何事だったのだろうか。 )
( ──あら、珍しい。暖かく揺れる焚き火を頬に写して、睫毛の長い瞼を閉ざした相棒を見つけたのは、予定外の宴も大いに盛り上がって来た、まだそう遅くない時刻のこと。お茶目な村長の隣について、今後の対策やら、村の来歴やら、ご主人との馴れ初めやら、どんどん逸れていく話に花を咲かせることしばらく。赤ワインの瓶が開けられた気配に、そっとさり気なく席を外して、自分でも無意識に探していたのは愛しい相棒の姿。懸命に探すまでもなく、相手の好みそうな場所を探せば、すぐ様見つかったギデオンはしかし、その大好きな青い瞳をビビに向けてはくれずに。──この数日、ヨルゴスと2人、大所帯を抱えて、ついに凶暴な魔獣を討伐したのだ。疲れきって、今は気が緩むのも当然の相手の姿に。いくら焚き火の隣といえど、この寒空に無防備な様が気にかかって。一度冒険者達の荷物が纏めて置いてある方へと歩みを変えると、旅慣れした荷物の中から薄い毛布を取り出し、ゆらゆらと揺れる焚き火で温める。そうして、宴の喧騒も遠く、信頼する相棒と2人、パチパチと爆ぜる火の音に、自身もまったりと降りてくる瞼を感じ取りながら、ふわりと大きな欠伸をひとつして。──いつかの夜のように。座る相手のピッタリ隣に腰掛けながら、相手の逞しい膝に暖かい毛布をかけてやれば、"お疲れ様です"と、口の中で囁くように労って、その頬が冷えていないか、酒精と眠気でやけに温まった、人差し指から小指までの指の甲でそっと触れて。 )
…………
(一緒に呑み交わしていた村長たちには、仕事の都合で途中から少し席を外す、そちらは気兼ねなく楽しんでいてくれ、と事前に伝えてあった。そのおかげで誰に見咎められることもなく、ほんの少し目を休める程度のつもりが、結局とろとろと無防備に微睡んでいたらしい。
しかし、ふと頬に触れた、こちらを労わる優しい感触に。炎に照らされた睫毛が震え、薄青い目がゆっくりと開く。そうして微かに身じろぎし、すぐ隣をのっそりと見たその表情は、未だぼんやりと、眠たそうに曖昧なまま。数秒後、ようやく相手が誰だかっわかってきたのだろう。その唇の端に、安堵の窺える仄かな笑みが、ふわりと緩慢に浮かび上がって。)
……おまえか。
(掠れた小声で呟いたのは、たったそれだけ。今置かれているこの状況は、仮にもパーティーの長であるベテラン戦士が、人目を忍び、若手のマドンナヒーラーと毛布を共にして寛いでいる──という、平時ならば眉を顰めてはねのける状況であるはずだ。しかし酔いの回った今宵は、どうやらそこまで考えが及ばぬらしい。それ以上は特に何を言うでもなく、相手が何事かを言えば一言二言返しながら、またぼんやりと前を向いて。すぐ隣の娘の体温にぬくまりながら、パチパチと爆ぜる焚火を、穏やかな横顔で眺める。
視線をほんの少しずらし、向こうの広場の方を見てみれば。赤々と燃え盛る炎の周りでは、冒険者と村人たちが輪になって踊りはじめていた。囃子と共に軽快な音楽が鳴り響いているのは、きっと器用な誰かが、トロイトの骨の余りで、笛やらクラベスやらを作ってみせたのだろう。村人たちも家々から太鼓やマンドリンを持ち出し、即興の狂想曲を楽しそうに奏でている。顔の良い奴は村娘たちにくすくすと戯れられ、そうでない者は、同じくあぶれてしまった村の男たちと共に、悪鬼のように凄惨極まりない面で、ド迫力の打楽器を叩きはじめ。がらりと転調した雰囲気、その真ん中に意気揚々と躍り出たのは、昨夜ヴィヴィアンに昏睡させられていた、体はでかいのに注射器は怖い、可笑しな槍使いたちだ。去年の夏、建国祭でも披露していた戦士舞踊を舞い始めれば、広場はまた大盛り上がり。すっかり元気になった連中、そのぶどう酒を呷りあう楽しそうな様子を眺めて、ギデオンもまた、満足気にふっと微笑むと。その細めた目を隣に向け、少し意地悪く揶揄って。)
あっちに混ざらなくていいのか。
それか──あれから逃げだしてきたってわけなら、このまま隠れ蓑になってやるが。
……起こしちゃってごめんなさい。
( 実を言うとここ最近の、ギデオンの少しよそよそしい態度に不安を覚えなかったと言うと嘘になる。あの聖なる夜に与えられた温もりと約束は、夢だったのではないかと思うほど。隙間風が吹き込む距離感に、強請っても少し早く離れていく手──やっぱり醜い嫉妬心なぞ見せなければ良かった、とは決して思いたくないが……。ギデオンが浮かべた笑顔に、深い安堵を覚えたのは此方もまた同じ。眠そうな掠れ声に、此方も囁くような声で謝罪して、少しかさついた頬を少し撫でてからそっと手を離すと。代わりに──ぽす、と筋肉のついた肩に頭を預けて、ギデオンが視線を向ける宴を、ビビもまた夢を見るような眼差しでうっとりと眺める。
そうして、相手から発されたお馴染みの意地悪に、普段だったら憤慨したか。若しくは、それを逆手にとって──隠れ蓑じゃなくて、私がギデオンさんといたいからいたのだと、真正面から迫ったかもしれない。しかし、不安に弱った心にはそんな狡い提案さえも魅力的で。「うん、隠してください」と、肩が触れ合っている方の手をとり、戯れにその筋を弄んだり、両手でぎゅっと包み込むも。すぐ様そんな己が恥ずかしくなって、態とらしく声を上げると、もしそのまま促されれば、昼間カーティスから聞いた顛末を詳細に語るだろう。 )
──……あ、そうだ!
ギデオンさん、カーティスから聞いたんですけど……
──なあ、あいつとは、
(ギデオンはその瞬間まで、ふわふわと心地よかったのだ。ヴィヴィアンのらしくない、どこかしおらしく感じられる様子を、最初は「……?」と、訳も知らずのうのうと、不思議に思いはしていたものの。こちらにしっとりともたれかかっている彼女が、徐にギデオンの手を弄び始めたのを見て──ああ、いつもの相棒だ。これがいい、俺はこれがいい、と、何ら抗わず身を委ねていた。強い魔獣を仲間たちと屠り、喜びに沸く市民と熱い食事を一緒に囲み、酒を飲んで、皆が愉しそうに騒いで。それをのんびり眺めながら、相棒とふたり、なんてことのないささやかな時間を楽しむ……今の己に、これ以上恵まれた人生などあるだろうか。そんな満ち足りた心境だったから、“こちらは応えないが、相手を拒むこともしない”という、いつぞやの花火の夜の約束よろしく。理性の利いている普段なら身を引くだろう触れ合いを、与えられるまま堪能していた──その矢先に、急に心が冷えたのだ。
カーティス・パーカー。あの爽やかな、男から見ても魅力的な後輩戦士の名を、よりによってヴィヴィアンの口から親し気に聞かされた途端。とろりと凪いでいたギデオンの双眸は、すうっと不穏に焦点を取り戻し。目の前の焚火を見遣りながら、思わず反射的に口走ったのは、相手を促すどころか、あからさまに遮っての問いかけ。これも普段ならば決してしない真似だろうに、酔いと動揺で頭の鈍っている今は、その浅慮を全く自覚していないらしい。大して考えていなかったのだろう、続きの言葉を捻りだすのに、一瞬「……」と沈黙を挟んでから。触れられた手を振りほどくことはできぬまま、それでも顔だけは、ふいと僅かに他方にそらし。少し低く落とした、どこか親しみの失せた声で、言い訳じみた言葉まで重ね。)
あいつとは、仲がいいのか。
……テントでの様子を見て気になっただけだ。個人間の繋がりは、隊の編制をする側としては、掴んでおきたいところだろう。……
──……ギデオンさん。お顔、見たいです。
( まさか遮られるとは思っていなかった発言に、当初、ビビのエメラルドグリーンの瞳は、真剣に驚いた様子でまん丸に見開かれる。慌てて口を噤みながら、次に考えたのは、カーティスが何らかの不正や間諜を犯している信用に足らない人物である可能性。そんな風にギデオンのたった一言で、親交深い相手でさえ、迷いなく疑いの目を向けられる程、ギデオンのことは深く、第一に信頼し尊重しているうえに、──そもそもビビがカーティスと気軽に付き合えるのは、彼には大切に愛してやまない婚約者がいるからだ。ということは、ギデオンだって知っているだろうに。──未だ記憶も新しい。"誰にも盗られてくれるな"と、そう言ってくれた愛しい人が連ねる言い訳に、相手の態度の原因が、もっと私的なそれに聞こえるのはビビの自惚れだろうか。
そっと相手から手を離して、自身の獲物へ手を伸ばし、ビビがふわりと腕を振るうと。宴と二人の間に枝をもたげていた枯れ木に葉が茂って、宴からの視線を上手く遮ってくれる。そうして、真摯なお強請りに相手が此方を見ようと、見なかろうと。硬い太腿に添えた手に体重を寄せ、その唇で相手の頬を奪うと。「あの、勘違いだったらごめんなさい」と、膝立ちになって相手の頭へ腕を回せば。「確かに、カーティスとは友達ですけど、私が好きなのはギデオンさんだけです」と、あくまで誠実に答えながら、その透き通った金髪をサリサリと梳き。それから暫く、"応えられなくとも、拒まれない"ならば、金色の頭を撫でながら、「好き」「大好き」「愛してます」と、足りていなかったらしい愛情を、これでもかと時折キスにして注ぎ込み。ゆっくりと腰を下ろしながら、その薄青い瞳をうっとりと覗きこめば、おもむろに髪紐を解いたことで、ホワイトムスクのような清潔で甘い香りがふわりと周囲に広がって、 )
…………ね、昼に言ったご褒美、今、くれませんか。
最近、あんまり撫でて下さらないから、寂しいです……
(向こうの方の楽し気な賑わいとは反対に、辺りに降りるしばしの沈黙。ついで、相手の手が静かに引かれていくものだから、どこへとなく落としていたギデオンの視線は、ぴたりと強張るように固まった。──しかし次いで、何やら魔法の煌めく気配に、植物らしきものがざわざわと茂る音。……ヴィヴィアンはいったい何を、そう内心戸惑い、気になるものの、どこか意固地さを孕んだままの視線は、まだ一点に落とされたまま。相手が質問に答えずに、そっと強請ってきた声にも、やはり素直に応えられない。己の有り様を見透かされているのが、薄々わかってしまうからだ──どんな面をして見ればいい。
そんな聞き分けの悪い子どもを、ゆったりとあやすように。ヴィヴィアンはその温かい体を寄せてきて、こちらの頬にそっと口づけを落とした。そこまでされてようやく、大いに狼狽する双眸を、相棒のそれに合わせてみれば。今やギデオンの膝の間で向き合っている彼女は、こちらを覗き込みながら、ただまっすぐな誠意の言葉を。果ては、こちらの頭を柔く擽りながら、何度も頬や額にキスを落として、愛の告白を繰り返す。──不自然に閉ざされていたギデオンの胸中が、余計な力の抜け落ちるように、急速にほどけていく。どこか暗く、刺々しく翳っていた顔つきにも、穏やかな弛みがゆっくりと取り戻されて。その目にも、どこか心地よい敗北感が、温かく蕩け込んでくる。)
…………。
(極めつけは、お馴染みのポニーテールを解いた瞬間、密かに馴染みある香りがふわりと押し寄せてきたことだった。密かに好んでいた“彼女の匂い”が、鼻腔から肺の中まで潜り込んできた途端。そのあまりに単純明快な、真正面からの物理的な征服に、元々疲労と酒で弱っていたギデオンの牙城は、いとも呆気なく陥落し。……無言を保ったまま、ずり落ちていた毛布を片手で拾うと。もう片方の手で彼女の背を軽く押し、自分の胸の内に抱き込んで。そうして、彼女と自分の両方をすっぽりと覆うように、薄い毛布を掛け直す。腕の中のヴィヴィアンには、今の己の顔は見せない──これ以上見せてやらない。思考は未だ薄ぼんやりとしているものの、道理の通らぬ嫉妬に気づかれてしまったことを、酷く恥ずかしく思う気持ちはあるのだ。故に、締め付けのない艶やかな栗毛を、大きな掌でゆったりと撫でてやりながら、上辺ばかりの言い訳を諦め悪く繰り返す。──先ほど、彼女が酒の席から逃げてきたことを、ギデオン自ら言及していたし。そもそも彼女が、酒精で記憶を飛ばすことはないたちであることも知っている。彼女の好意を承知している身で、この“ご褒美”をなかったことにしてくれだなんて、酷く身勝手で薄情極まりない言い草だということも、痛いほど自覚している。だが、こうして建前を並べ立てるのでもなければ……己の方が、素直に彼女に甘えられない。)
……明日には、忘れろ。
俺もお前も、今こんな風にしてるのは……酔いが……回っているせいだ。
いつもみたいに撫でるのは、またしてやるから。
だから、今夜のこれは……特別だ。
……はい。明日には……全部、忘れてます。
( 髪を解いたのは、ただ撫でてもらいやすいようにした私利私欲。暖かな胸に顔を埋めて、うふ、と小さく微笑んだ娘は、自分の行為が男を陥落させたなど露知らず。気持ち良さそうに瞼を閉じて、相手の要望にしっとりと頷きながら、自らも背中に回した腕に力を込める。そうして、──酔いが回っている、か。なんて、村長と相手との間でされたやり取りなど知らぬビビには、ただそれだけギデオンが疲れ果てているように感じられて。こんな言い訳をしてまで、自分に甘える選択肢を選んでくれた相棒を、とことん甘やかしてやりたい本能にも近い気持ちが湧き上がる。
最初は回していた手でとんとんと、「お疲れ様です、今日もとっても格好良かったです」と広く逞しい背中を撫で擦り。次第にギデオンの腕の中、ゆっくりと体勢を立て直すと、顔を見られたくなさそうな相手を暴くことはせずに、その形の良い頭をゆっくりと抱えこんでしまう。そうして、胸元かギデオンが逸らせば肩口かに乗せられた頭をふわふわと撫でながらも、己を撫でる大きい手が止まれば、不満げに身を捩って強請るのは、あくまでビビが甘えているという体を崩さないため──……否、ギデオンをこうしていることで、こうもドクドクと湧き上がる本能的な庇護欲、母性を満たされている時点で、やはり甘えさせて貰ってるのはビビの方なのだろう。透明なそれが入り交じる金髪を梳いては、たまに襟足を擽ったり、サラサラとした中に暖かい軟骨を見つければ、その愛しい耳を柔らかくなぞる。──嗚呼、私今絶対だらしない顔をしてる。そう最早、顔を見せられないのはどちらの方か。かき上げた生え際にもう一度唇を落として、最近の寂しさを埋めるようにぎゅうっと身体を押し付けると。えへ、と小さく笑ってから、幸せそうに喉を鳴らして、 )
ギデオンさんの体温……暖かくて子供みたいですね、可愛い。
……うるさい、
(相手に抱かれ、撫でられながら、こちらもまた彼女の頭を撫で返す──という、双方の愛情表現の、なかなかの渋滞ぶりに。ギデオンのただでさえ回らぬ頭は、ものの見事に混乱しきり、結局相手にねだられるまま、片掌を不器用に動かし続けていたのだが。愛しくて仕方がない、そんな響きを孕む相手の言葉に、優しく耳朶を打たれるや否や。途端にこの状況がこそばゆくなったのか、思わず相手の頭に爪を立て、ざり、と痛くない程度に抗議を。そのまま、相手のふわふわの栗毛を、腹立たしげにぐしゃぐしゃと掻き乱しつつ。相手の肩口に顔を埋めた状態で、言葉の上でも──しかし弱々しくくぐもった声音で──ふてくされる有り様で。
今の己は、四十路に入った大の男だ。それがこうして、“まだ”恋人ではないはずの、十六も下の若い娘に、こんなにあからさまに甘やかされ。体温が上がっているのもバレてしまっている上に、可愛いとまで形容される──こんな恥ずかしい体たらくをして、どうして平気でいられよう。そんな風に思う癖して、しかし彼女を離せもしない、いったいどういう了見か。甘い現状に気まずくてならず、腹いせに相手の髪を、撫で下ろすように弄ぶ。そうして、ふと得た気づきに面を上げ。真横の髪に鼻梁を向けて……相手からは見えないだろうが、熱に淀んだ目を、ぼんやりとさ迷わせる。そうだ、この香りのせいだ。すぐそばからずっとふわふわと漂っている、清潔で甘やかなこの匂い。──ヴィヴィアンの匂い。
たしか、ちょうど二ヶ月ほど前。合同捜査で一緒に働くことになった昔の女が、不愉快な工作をけしかけてきたことがあった。職業柄、情報収集能力に優れているその女は、相棒の使っている洗髪料をぴたりと嗅ぎ当ててしまったらしく。次にギデオンが会った時、“この香りが好きなんでしょ?”と言わんばかりに、あからさまに振りまいてきたのである。今までの半生、女に色仕掛けをされた経験はそれなりにあるが、たかがハニートラップであれほど気分を害されたこともない。何せ当時のギデオンは、ちょうど相棒との関係が拗れまくっていた頃で。鼻先に届く馴染みある香りに、一瞬、実際に反応してしまい。──けれど、その後に届くラストノート、女自身の肌の匂いと入り混じってできる香りが、明らかに別の、あざとく品のない代物だったから、余計に胸をかき乱された。これは違う、あれとは比べ物にならない、と。相棒の甘く優しいそれを思い起こしては──彼女は今、エドワードやニールといった、同じ年頃の青年たちと一緒に過ごしているところなのだと。このところずっと忘れようとしていた事実まで思い出し、ますます機嫌を悪くしていた。……そうだ、あのとき。例の小屋で、相手を一晩中抱きしめるなんて蛮行に及んだのは、相手の香りが恋しかったからだ。今の自分が、相手から離れられないのだって、似たような道理だ。この7週間、ろくに休んでいない。遠征に次ぐ遠征で、合間も単発に駆り出される日々。年が明けて以来、ゆったりと寛いで夕餉を楽しめたのは、せいぜいが二、三日。歳もあって堪えつつある身体に、とにかく癒しが欲しかった。自分を安らがせてくれるものが──相棒が、たまらなく。)
……、
(しばらくの間、相手の顔の真横で、静かな呼吸を繰り返していたものの。最後のそれが深まったかと思えば、不意に相手の背中を両腕でかき抱き、逃がすまいというようにがっちりと捕えつつ。その華奢な首筋に顔を吸い寄せ、深く深く埋めて。──普段から胸元を寛げているためだろう、彼女の来ている白いシャツのスタンドカラーは、ほとんど防波堤を為さない。鼻先か、ともすれば唇まで相手の素肌に触れさせるという、普段からは考えられない蛮行に出ながらも。香りと温もりを得られればそれでいいのか、必要以上にまさぐるでもなく、そのままじっと、胸元を安らかに上下させ。相手がどうにか逃げ出すか、邪魔が入るかしなければ、その呼吸は少しずつ、眠たげな、よりゆっくりしたものへと凪いでいくことだろう。)
……うるさい、
(相手に抱かれ、撫でられながら、こちらもまた彼女の頭を撫で返す──という、双方の愛情表現の、なかなかの渋滞ぶりに。ギデオンのただでさえ回らぬ頭は、ものの見事に混乱しきり、結局相手にねだられるまま、片掌を不器用に動かし続けていたのだが。愛しくて仕方がない、そんな響きを孕む相手の言葉に、優しく耳朶を打たれるや否や。途端にこの状況がこそばゆくなったのか、思わず相手の頭に爪を立て、ざり、と痛くない程度に抗議を。そのまま、相手のふわふわの栗毛を、腹立たしげにぐしゃぐしゃと掻き乱しつつ。相手の肩口に顔を埋めた状態で、言葉の上でも──しかし弱々しくくぐもった声音で──ふてくされる有り様で。
己はもう、四十路手前の大の男だ。それがこうして、“まだ”恋人ではないはずの、十六も下の若い娘に、こんなにあからさまに甘やかされ。体温が上がっているのもバレてしまっている上に、可愛いとまで形容される──こんな恥ずかしい体たらくをして、どうして平気でいられよう。そんな風に思う癖して、しかし彼女を離せもしない、いったいどういう了見か。甘い現状に気まずくてならず、腹いせに相手の髪を、撫で下ろすように弄ぶ。そうして、ふと得た気づきに面を上げ。真横の髪に鼻梁を向けて……相手からは見えないだろうが、熱に淀んだ目を、ぼんやりとさ迷わせる。そうだ、この香りのせいだ。すぐそばからずっとふわふわと漂っている、清潔で甘やかなこの匂い。──ヴィヴィアンの匂い。
たしか、ちょうど二ヶ月ほど前。合同捜査で一緒に働くことになった昔の女が、不愉快な工作をけしかけてきたことがあった。職業柄、情報収集能力に優れているその女は、相棒の使っている洗髪料をぴたりと嗅ぎ当ててしまったらしく。次にギデオンが会った時、“この香りが好きなんでしょ?”と言わんばかりに、あからさまに振りまいてきたのである。今までの半生、女に色仕掛けをされた経験はそれなりにあるが、たかがハニートラップであれほど気分を害されたこともない。何せ当時のギデオンは、ちょうど相棒との関係が拗れまくっていた頃で。鼻先に届く馴染みある香りに、一瞬、実際に反応してしまい。──けれど、その後に届くラストノート、女自身の肌の匂いと入り混じってできる香りが、明らかに別の、あざとく品のない代物だったから、余計に胸をかき乱された。これは違う、あれとは比べ物にならない、と。相棒の甘く優しいそれを思い起こしては──彼女は今、エドワードやニールといった、同じ年頃の青年たちと一緒に過ごしているところなのだと。このところずっと忘れようとしていた事実まで思い出し、ますます機嫌を悪くしていた。……そうだ、あのとき。例の小屋で、相手を一晩中抱きしめるなんて蛮行に及んだのは、相手の香りが恋しかったからだ。今の自分が、相手から離れられないのだって、似たような道理だ。この5週間、ろくに休んでいない。遠征に次ぐ遠征で、合間も単発に駆り出される日々。年が明けて以来、ゆったりと寛いで夕餉を楽しめたのは、せいぜいが二、三日。歳もあって堪えつつある身体に、とにかく癒しが欲しかった。自分を安らがせてくれるものが──相棒が、たまらなく。)
……、
(しばらくの間、相手の顔の真横で、静かな呼吸を繰り返していたものの。最後のそれが深まったかと思えば、不意に相手の背中を両腕でかき抱き、逃がすまいというようにがっちりと捕えつつ。その華奢な首筋に顔を吸い寄せ、深く深く埋めて。──普段から胸元を寛げているためだろう、彼女の来ている白いシャツのスタンドカラーは、ほとんど防波堤を為さない。鼻先か、ともすれば唇まで相手の素肌に触れさせるという、普段からは考えられない蛮行に出ながらも。香りと温もりを得られればそれでいいのか、必要以上にまさぐるでもなく、そのままじっと、胸元を安らかに上下させ。相手がどうにか逃げ出すか、邪魔が入るかしなければ、その呼吸は少しずつ、眠たげな、よりゆっくりしたものへと凪いでいくことだろう。)
ぁ……ひゃっ、ギデオンさん……!?
( 人体の急所でありながら、擽られると特別弱い、首筋の柔らかい部分に、ギデオンの高い鼻が当たり、少しかさついた唇が触れる感覚に、それまで爪を立てられようが、髪をぐしゃぐしゃに掻き回されようが、無邪気にきゃあきゃあと喜んでいた娘の身体が、ぴくりと跳ねる。季節は真冬、そしてあれから一度、村民の好意でシャワーを浴びたとはいえ、それも既に数時間前のこと。生暖かい吐息がぬるりと当たる感覚に、「やぁ……かがなッ」とそこまで漏らして、"嗅がないで"という単語の持つ艶めかしさに怖気付くと、先程までの余裕は跡形もなく吹きとび。先程のギデオンより余程のぼせ上がり、真っ赤になって瞼を伏せ、いじらしく恥じ入る娘が残るのみ。遅れて、がっちり固められた腕から逃げ出そうとしても、首筋をなぞるギデオンの吐息に力が抜けてままならず。この場から逃げ出したくなる本能とは別に、こうして甘えてくれたギデオンを受け止めたい理性がまた、余計に混乱を助長するようで。時折、たまらぬこそばゆさに反応しかけて、その都度ぐっと堪えながら、ぼんやりと熱に浮かされた瞳で、その金色の頭をふわふわと撫でること暫く。
──ギデオンの呼吸が深いものとなって、どれくらいの時間がたっただろうか。それはギデオンが自然と理性を取り戻した数分後のことだったか、それとも、とうとう宴も終わってしまった頃合だったか。思わぬ距離感に混乱しきって思考を手放し、腕の中の相棒をひたすらに柔らかく撫で続けていた娘は、その太い腕が緩んだ隙を逃さず、まるで尾を踏まれや猫のように跳び上がると。普段はその尻尾を悠々とたなびかせている深紅のマフラーを、己の肩から耳元にかけ、ぐるぐると勢いよく巻き付け、体育座りの要領で勢い良く顔をうずめる。そうして、「……ッ、」と声にならない悲鳴を、自身の膝に吸い込ませてから、そのマフラーに負けず劣らず赤い顔をおずおずと上げると、潤んだ瞳をギデオンに向け。その分厚い胸板に向けて、力のない拳をぽこんぽこんと振り下ろしたかと思うと。ゆるゆると下ろした拳を開いて頬を覆い、真面目な顔で全く説得力のない釘を刺し )
──……くび、弱いからだめ、です!
そ、れに…………かっ、嗅……ぐのも駄目!
こんなの……もう、ほんとにお疲れの時だけですからね……、
(長く続く穏やかな微睡みに、ギデオンの頑なな檻がごく自然と緩んだ、そのとき。腕の中にいた温もりがびゃっと身を引いていく気配に、ようやくぴくりと目を覚まし、ぼんやりとそちらを見遣る。──目の前には、真っ赤な顔を埋めている、馴染みのうら若いヒーラー娘。そのすらりと長い脚を縮こめ、もうこれ以上は駄目ですと言わんばかりに、ギデオンの贈ったあの赤いマフラーでがっちりと防御を固めて。次いで向けられた涙目やら、全く痛くない反撃やら……酷く恥ずかしがりながらも、こちらへの甘さを決して捨てきれていない台詞やら。いじらしいにも程がある有り様に、まだ少し夢うつつの状態にあったギデオンの顔は、やがてふっと緩く笑み。)
……それなら、また近いうちに許してくれそうだな。
(なんて、これは流石に冗談だ──ほとんどは。身振り口振りでもそうちゃんと説明すると、暫く固まっていた体をほぐすべく身じろぎし、片膝を立てる形で、古井戸に背中を預けながらゆっくりと座り直す。まだ酩酊が残ったままだが、先ほどよりは多少の理性を取り戻したのか、もう相手を拘束する意図はないようだ。頭上の冷たく澄んだ星空を見上げ、白い息を幾らか吐いて。次に広場の方を見ようとすれば、季節に似合わず青々と茂った枝に、「?」とわかりやすく疑問符を(本当に何も覚えちゃいないらしい)。身体を傾け、隙間から奥を窺えば、どうやら村の広場の方も、お開きとなりつつある様子だ。焚火の始末をしたり、酔い潰れた冒険者や村人を介抱したりする光景が見え、その中であの酒の強い村長だけが、相変わらずヨルゴスと何やら盛り上がっていた。アイツ含め、うちの連中に関しては、昨夜泊まった村の公民館に放り込むことになるだろう。無論、そんな雑対応はあくまで男に限った話。パーティーの紅二点であるヴィヴィアンとアリアは、村人の家の一軒に泊まることになっている。そうか、それを想うと、そろそろ相手を帰してやらないとな……とまで考えて、ふと思い出し。正面の相手に向き直ると、マフラーに巻き込まれて撓んだ栗毛に手を伸ばし。何とはなしにひと房出して弄びながら、穏やかなまなざしを投げて。)
……そういや、今回のアリア。お前のサポートがあったにしろ、随分活躍してたみたいだな。俺も正直、あそこまで立派に動いてくれると思ってなかった。
上には改めて、評価を上方修正するように伝えるつもりだ……これからますますしごかれるだろうが、あいつならやっていけるだろう。
…………、
( ギデオンの人を食ったような冗談にビビの心を過ぎったのは、揶揄われたことへの憤りではなく、こんな"ほんとにお疲れの時"が、またすぐに訪れるような生活をしている相手への深い心配。──冗談、とこちらに表してくる相棒の一方で、我ながらどうしようも無い甘さを自覚してしまえば。そっと甘い感触の残る首元を抑えながら、案外相手の言う通り、またすぐにでもチョロく受け入れるだろう己の未来を察知しては、気まずい思いで首を縮め。──だって。ギデオンさんに無理して欲しくないし、私で元気になってくれるなら嬉しいし……と、既に絆されきって手遅れの思考に頭を抱えて、ぷるぷると葛藤していた塊は、しかし。相手の瞳に理性が取り戻され、更に自分が可愛がっている後輩が褒められるのを耳にした途端。ぴこりと頭が持ち上がり、えへえへと嬉しそうにほぐれ解凍されていくのだから、いじめ甲斐のないことこの上ない。 )
……そうでしょう、そうでしょう! アリアってとってもすごいの!
私も真似したことあるんですけど、全ッ然効果ないかすっごく時間がかかるんですよ。でも、アリアが言うとみーんなすぐ言うこと聞くんです!
……ちょっと悔しいけど、皆の役に立ちたいって子だから、あの子の活躍する場面が増えるなら私も嬉しいです!
( そうして、ギデオンの隣。後輩のことで何故か自分が誇らしげなヴィヴィアンは、相棒に寄り添うように井戸に寄りかかり、ぐっと伸びをしてから元気よく跳ね上がるように立ち上がると。今日も今日とて変わらぬ満面の笑みでギデオンを振り返り、「そろそろ行きましょうか」と手を差し出す。そうして、結局カーティスの報告を上げたのは、約束の民家への家路の途中。誰からの報告かは濁したものの、ちゃんと伝わっているに違いない。あの巨大なトロイトより、更に大型の存在を前にして、さて相手は魔獣かただの野生動物か。あれこれと可能性を挙げ連ねていれば、ビビ達を泊めてくれる約束の民家の門はすぐにでも見えてくるだろう。 )
──っと、送ってくださってありがとうございました。
……久しぶりにお仕事ご一緒できて嬉しかったです。
今年もよろしくお願いいたします……なんて、まだ明日無事にギルドに帰るまでが依頼、ですよね?
(後輩ヒーラーを褒められるなり、ぱあっと輝くヴィヴィアンの顔、そのにこにことご機嫌なこと。ギデオンも思わず苦笑し、立ち上がって促されるままゆったりと歩き出す。その横顔は、気づけば随分と──少し前の一幕が嘘のように──寛いでいるのだった。
そうして道すがら、相手の真面目な報告に耳を傾けているうちに。冬の肌寒さが酒精を和らげてくれたのか、「そうか」「それで?」と相槌を打つ様子は、いつもの冷静沈着なギデオンにすっかり戻り切ったと言える。……しかし同時に、少しばかり、(……?)と首を捻っていた。素面に戻ったことで、何か違和感のようなものがぼんやりと沸いている──さっきまで、何か……とんでもないことをしていたような。歩きながら視線をさ迷わせ、眉をうっすら顰めては、記憶の糸を手繰り寄せようと試みるものの。適当な言い訳をつけて、酔い醒ましに宴を抜け出した、そこまでは覚えているのに……その後、おそらくこの小一時間ほどについては、靄がかかったようにほとんど思い出せずにいる。まあ、いつからか一緒にいた相棒の様子を見るに、別段いつも通りに振る舞えていたのだろう。そう安易に結論付けると、暫し黙っていたことを、「悪い、何でもない」と手を振って軽く詫び。辿り着いた民家の前、相手に向き直った時には再び、いつものベテラン戦士然とした面持ちになっていて。)
ああ、こちらこそ宜しく頼む。
ただ……実のところ、俺はもう少しここに居残ろうかと思っててな。さっきの爪痕の話、おそらく冬ごもりに失敗した大型魔獣の類いだろう。そういう個体は気が立ってるから、初動が遅れると厄介だ。
……いや、おまえや他の奴らはいい、ヨルゴスと一緒にまっすぐギルドに帰ってくれ。必要以上に動かすと、それはそれで上に怒られることになるんだ。
俺と斡旋官での調査がある程度纏まったら、そこで初めてクエスト化して、もうひと狩り片付けることになるだろうな。……そうだな、ああ、二、三日は見込む。だから、悪いんだが──
(そうして懐から取り出したのは、錫のリングに連なった鍵束。そのうちひとつは、相手も見覚えがあるだろう、己の自宅の鍵なのだが。どうやら今回は、ギルドの私書箱、ラドニア銀行の貸金庫など、他の諸々の鍵も一緒に預けてしまうつもりらしい──相手のことを信用しているから、大雑把でいいと踏んでいるのだ。ちゃり、と軽く鳴らしたそれを相手の掌の上に渡すと、澄んだ青い瞳で見つめ、ごく緩く首を傾げる。……どうやら、記憶は綺麗に飛んでいようと、素直に頼る考えもきちんと残っているらしい。)
手の空いたときに、また家の様子を見てくれると助かる。掃除や食事はいい……いや、掃除に関しては、妖精どもを寄せ付けない程度にしてくれたら正直助かるが。とにかく、この前ほど頑張らなくていい、感謝はしてるがもう充分だ。
二週連続頼むわけだから、報酬は弾む。そうだな、お前のよく使う薬草粉を、向こうひと月分……とかで足りるか?
(後輩ヒーラーを褒められるなり、ぱあっと輝くヴィヴィアンの顔、そのにこにことご機嫌なこと。ギデオンも思わず苦笑し、立ち上がって促されるままゆったりと歩き出す。その横顔は、気づけば随分と──少し前の一幕が嘘のように──寛いでいるのだった。
そうして道すがら、相手の真面目な報告に耳を傾けているうちに。冬の肌寒さが酒精を和らげてくれたのか、「そうか」「それで?」と相槌を打つ様子は、いつもの冷静沈着なギデオンにすっかり戻り切ったと言える。……しかし同時に、少しばかり、(……?)と首を捻っていた。素面に戻ったことで、何か違和感のようなものがぼんやりと沸いている──さっきまで、何か……とんでもないことをしていたような。歩きながら視線をさ迷わせ、眉をうっすら顰めては、記憶の糸を手繰り寄せようと試みるものの。適当な言い訳をつけて、酔い醒ましに宴を抜け出した、そこまでは覚えているのに……その後、おそらくこの小一時間ほどについては、靄がかかったようにほとんど思い出せずにいる。まあ、いつからか一緒にいた相棒の様子を見るに、別段いつも通りに振る舞えていたのだろう。そう安易に結論付けると、暫し黙っていたことを、「悪い、何でもない」と手を振って軽く詫び。辿り着いた民家の前、相手に向き直った時には再び、いつものベテラン戦士然とした面持ちになっていて。)
ああ、こちらこそ宜しく頼む。
ただ……実のところ、俺はもう少しここに居残ろうかと思っててな。さっきの爪痕の話、おそらく冬ごもりに失敗した大型魔獣の類いだろう。そういう個体は気が立ってるから、初動が遅れると厄介だ。
……いや、おまえや他の奴らはいい、ヨルゴスと一緒にまっすぐギルドに帰ってくれ。必要以上に動かすと、それはそれで上に怒られることになるんだ。
俺と斡旋官での調査がある程度纏まったら、そこで初めてクエスト化して、もうひと狩り片付けることになるだろうな。……そうだな、ああ、二、三日は見込む。だから、悪いんだが──
(そうして懐から取り出したのは、錫のリングに連なった鍵束。そのうちひとつは、相手も見覚えがあるだろう、己の自宅の鍵なのだが。どうやら今回は、ギルドの私書箱、ラドニア銀行の貸金庫など、他の諸々の鍵も一緒に預けてしまうつもりらしい──相手のことを信用しているから、大雑把でいいと踏んでいるのだ。ちゃり、と軽く鳴らしたそれを相手の掌の上に渡すと、澄んだ青い瞳で見つめ、ごく緩く首を傾げる。……どうやら、記憶は綺麗に飛んでいようと、素直に頼る考えもきちんと残っているらしい。)
手の空いたときに、また家の様子を見てくれると助かる。掃除や食事はいい……いや、掃除に関しては、妖精どもを寄せ付けない程度にしてくれたら正直助かるが。とにかく、この前ほど頑張らなくていい、感謝はしてるがもう充分だ。
二週連続頼むわけだから、報酬は弾む。そうだな、お前のよく使う薬草粉を、向こうひと月分……とかで足りるか?
ですから…………いえ、そしたらヤドリギの蔓を1mほど、あったらで大丈夫ですから。お仕事、頑張ってくださいね。
( ですから、そんなこと気にしなくっていいんです。それよりご無理はなさらないでくださいね──と、心の中を洗いざらい吐き出せたらどれだけ良いだろう。物分りの良い振りをした口振りとは裏腹に、愚直なまでの心配を隠しきれない表情で、ずしりと重みのある鍵束を受け取れば。当の本人が、報酬を支払わない方が気がかりだと云うのだから仕方ない。渋々と口にした薬草は、先の仕事中、渓谷の木々にこれでもかと巻きついていた、この後も調査に戻るならば、難なく手に入るだろうそれを。──よく使うもの、と言われただけで、入手難易度は指定されていないのだから、これくらいの忖度は許されるだろう。
そうして、託された信頼を大切そうにしまい込んだ別れ際、相手が記憶を失っているなど露知らず。すっかり見慣れた頼もしい色を取り戻してしまった頬に手を伸ばすと。ちょうど迎えに出てきてくれた村民に促され、重厚な木の扉をくぐるその寸前。未だ相棒が此方を見送っているだろうことを疑わない様でくるりと後ろを振り返れば、先程ギデオンに伸ばした掌にそっと口付けを落として。その溢れんばかりの愛情を、満面の笑みで最愛の人へと放り投げる。
──はたして数日後か、数週間後か。その半年以上懲りない深い愛情は、件の爪痕の件を処理して、やっと帰りついた男の疲弊を。明るく暖かな部屋の光景と、一応は自宅から持ち込んだ鍋に入った、地味豊かなクラムチャウダーの香り、そして少し悪戯っぽい小さな笑い声となって取り巻くだろう。 )
──おかえりなさい、お疲れ様でした!
…………お夕飯、自分のを作りすぎちゃった分は仕方ないですよね?
コマッタナー、腐る前に食べてくださる方がいたら嬉しいんですけど。
(その日最後に見たヴィヴィアンの姿は、まさに祝福の乙女そのもの。三段階で重ね掛けしたたっぷりの愛らしさに、手練れと名高いはずの戦士は、いとも呆気なく挙動不審に陥った。──しかし、ヴィヴィアンの凶悪な小悪魔っぷりに気を取られてばかりだったが。本当は、ふたりのやりとりをその場で見ていた村人の中年女性が、(あらあらあら!)とほっぺに手を添え、大いににこにこしていたことこそ、警戒するべきだったのだ。
何せ翌日以降、ギデオンは村中から、やけにわくわくきらきらした目を向けられることになってしまった。“魔剣使いの隊長と、マドンナヒーラーの恋物語”……そんな噂映えする話が、火の手より早く広まっていたせいである。出処は言うまでもない、そして後のことはむべなるかな。独身三十路の斡旋官には、グールのようにじっとりした目で一日中僻まれるわ。高ランクの魔獣とあって大隊を連れてきたホセに、腹の底から大笑いされ、何なら追加のあれやこれやを村人たちにぶちまけられるわ。挙句、目を爛々と輝かせる村長に、「呑もうじゃないか!」と追い回されて、せっかくの珍酒を──また記憶を失くしたらと思うととてもその気になれやせずに──辞退する羽目になるわ。甘い祝福の代償として、大型魔獣と戦うより余程大変な目に遭ったのだが、それはまた別の話。)
(さて、それから数日後。ギデオンが1週間ぶりに帰ると、王都はそのあちこちが、色とりどりの美しい蝋燭で飾られるようになっていた。──光のミサ、聖燭祭の日の装いである。
この日はどこもかしこも、冬の終わりと春の訪れを、それぞれの形で祈ることに忙しい。各家庭では、去年のクリスマスに使ったものを焚き上げるのが一般的だ。農村では豊穣の祈祷を舞い、魔法を込めて田畑を耕す。街中には炊き出しの屋台が並んで、きび粥と焼きソーセージが貧民にまで振る舞われる。太陽のクレープや色鮮やかな占い蝋燭は、若い世代に大人気の品だ。しかし、どこより多忙を極めるのは、ロウェバ正教の教会だろう。信徒のための祝別式やら、赤ん坊の洗礼式やら、厳かなミサやらが、たった一日に詰まっている。故に、道々で通り過ぎる教会は、普段の数倍ほどごった返し、シスターたちがくるくると独楽鼠のように働いていた。
しかし、ギデオンにとってのこの日は、実用的な意味でとてもありがたいタイミングだった。無論、美味いものを安く食べられるから、というのもあるが……それより何より、ギルドから特別手当が支給されるからである。ボーナス制度は、少なくともトランフォード王国においては6月・12月の夏冬二回が基本だが、冒険者業界には少々特例が存在していた。誰もが休みたいために人手不足となる季節、例えばクリスマスから年末年始。そこで規定以上に、要はみっちりクエストをこなせば、「よく働いてくれたね」ということで、余分な給金と少しの休暇を追加で恵んでもらえるわけである。そのタイミングは往々にして古い慣習に由来しており、聖燭祭の日というのも、古代ガリニアの奉公人の給料日だったからとか。とにかくこの制度のおかげで、毎月ある場所へ大金を支払っているギデオンでも、少しは懐を温めることができた。元々財布の紐は固いし、銀行での積み立てもきっちり行っているのだが、それでも払えども払えども終わりのない生活に、日々ストレスを感じないわけがない。──だからたまには、贅沢を楽しむことにしようか、と。そんな気分になったのは、しかし実のところ。喜ぶ顔を見たいだれかのことを、無意識に思い浮かべていたせいだろう。)
(──ところが、だ。その本人、ヴィヴィアンに、ようやく再会できたというのに。彼女を見下すギデオンの顔は、物言いたげに固くなっていた。他でもない原因は、二人の間でほかほかと湯気を立てる、如何にも美味そうな白い鍋。この優しくも独特な香り、今度は新しくシーフードで攻めてきたらしい。ちゃんとああ言ったのに、おまえはまたそうやって、見え透いた嘘までついて──と。呆れ果てるのは目つきまでにとどめれば、はあ、と小さなため息をひとつ。正直、「鍵? 預かってないわよ」とマリアに言われた時点で、なんとなく予想はついていたのもある。──故に、先手を打ってあるのだ。)
作り過ぎたってったって、最初からそのつもりだったろう……
……まあ、料理に罪はない。皿を出してくれ、夕飯にしよう。
(そうして案外すんなり受け入れながら、フェンリルのファーコートを脱ぎ、壁の突起にかけに行く。戦士装束は業者に預けてきたのだろう、あらわになったのは珍しい黒セーターの装いで。窓の外で降り始めた粉雪をちらと見遣ると、持って帰ってきた買い物袋を、どさりと机上に置いておく。中身はソーセージやクレープなど、今日の祝祭で出ていたものだ──相手も食べたかもしれないが、少し良いのを見繕ってきたので、それで手打ちにして貰おう。次いで、己の鞄から何か取り出し、棚の上に並べだす。ひとつは麻で縛ったヤドリギ、ひとつは何やら小さな小瓶。ヒーラー職である相手には、その中身がすぐにでもわかるだろうか。敢えて自分からは触れないまま、土産は以上とばかりに水場へ向かうと、氷のように冷たい水で両手をしっかり洗いつつ、背中越しに語りかけ。)
……風邪の噂で、例のトロイトを倒す時に随分奮発したと聞いてな。
ヒーラー手製の栄養食を賄ってもらうんだ、お代にはまだ足りないだろうが……受け取っておいてくれ。
※推敲洩れにつき、細部を微修正いたします/
(その日最後に見たヴィヴィアンの姿は、まさに祝福の乙女そのもの。三段階で重ね掛けしたたっぷりの愛らしさに、手練れと名高いはずの戦士は、いとも呆気なく挙動不審に陥った。──しかし、ヴィヴィアンの凶悪な小悪魔っぷりに気を取られてばかりだったが。本当は、ふたりのやりとりをその場で見ていた村人の中年女性が、(あらあらあら!)とほっぺに手を添え、大いににこにこしていたことこそ、警戒するべきだったのだ。
何せ翌日以降、ギデオンは村中から、やけにわくわくきらきらした目を向けられることになってしまった。“魔剣使いの隊長と、マドンナヒーラーの恋物語”……そんな噂映えする話が、火の手より早く広まっていたせいである。出処は言うまでもない、そして後のことはむべなるかな。独身三十路の斡旋官には、グールのようにじっとりした目で一日中僻まれるわ。高ランクの魔獣とあって大隊を連れてきたホセに、腹の底から大笑いされ、何なら追加のあれやこれやを村人たちにぶちまけられるわ。挙句、目を爛々と輝かせる村長に、「呑もうじゃないか!」と追い回されて、せっかくの珍酒を──また記憶を失くしたらと思うととてもその気になれやせずに──辞退する羽目になるわ。甘い祝福の代償として、大型魔獣と戦うより余程大変な目に遭ったのだが、それはまた別の話。)
(さて、それから数日後。ギデオンが1週間ぶりに帰ると、王都はそのあちこちが、色とりどりの美しい蝋燭で飾られるようになっていた。──光のミサ、聖燭祭の日の装いである。
この日はどこもかしこも、冬の終わりと春の訪れを、それぞれの形で祈ることに忙しい。各家庭では、去年のクリスマスに使ったものを焚き上げるのが一般的だ。農村では豊穣の祈祷を舞い、魔法を込めて田畑を耕す。街中には炊き出しの屋台が並んで、きび粥と焼きソーセージが貧民にまで振る舞われる。太陽のクレープや色鮮やかな占い蝋燭は、若い世代に大人気の品だ。しかし、どこより多忙を極めるのは、ロウェバ正教の教会だろう。信徒のための祝別式やら、赤ん坊の洗礼式やら、厳かなミサやらが、たった一日に詰まっている。故に、道々で通り過ぎる教会は、普段の数倍ほどごった返し、シスターたちがくるくると独楽鼠のように働いていた。
しかし、ギデオンにとってのこの日は、実用的な意味でとてもありがたい祝日だった。無論、美味いものを安く食べられるから、というのもあるが……それより何より、ギルドから特別手当が支給されるからである。ボーナス制度は、少なくともトランフォード王国においては6月・12月の夏冬二回が基本だが、冒険者業界には少々特例が存在していた。誰もが休みたいために人手不足となる季節、例えばクリスマスから年末年始。そこで規定以上に、要はみっちりクエストをこなせば、「よく働いてくれたね」ということで、余分な給金と少しの休暇を追加で恵んでもらえるわけだ。そのタイミングは往々にして古い慣習に由来しており、聖燭祭が選ばれているのも、古代ガリニアの奉公人の給料日だったからとか。とにかくこの制度のおかげで、毎月ある場所へ大金を支払っているギデオンでも、少しは懐を温めることができた。元々財布の紐は固いし、銀行での積み立てもきっちり行っているのだが、それでも払えども払えども終わりのない生活に、日々ストレスを感じないわけがない。──だからたまには、贅沢を楽しむことにしようか、と。そんな気分になったのは、しかし実のところ。喜ぶ顔を見たいだれかのことを、無意識に思い浮かべていたせいだろう。)
(──ところが、だ。その本人、ヴィヴィアンに、ようやく再会できたというのに。彼女を見下すギデオンの顔は、物言いたげに固くなっていた。他でもない原因は、二人の間でほかほかと湯気を立てる、如何にも美味そうな白い鍋。この優しくも独特な香り、今度は新しくシーフードで攻めてきたらしい。ちゃんとああ言ったのに、おまえはまたそうやって、見え透いた嘘までついて──と。呆れ果てるのは目つきまでにとどめれば、はあ、と小さなため息をひとつ。正直、「鍵? 預かってないわよ」とマリアに言われた時点で、なんとなく予想はついていた。──故に、先手を打ってあるのだ。)
作り過ぎたってったって、最初からそのつもりだったろう……
……まあ、料理に罪はない。皿を出してくれ、夕飯にしよう。
(そうして案外すんなり受け入れながら、フェンリルのファーコートを脱ぎ、壁の突起にかけに行く。戦士装束は業者に預けてきたのだろう、あらわになったのは珍しい黒セーターの装いで。窓の外で降り始めた粉雪をちらと見遣ると、持って帰ってきた買い物袋を、どさりと机上に置いておく。中身はソーセージやクレープなど、今日の祝祭で出ていたものだ──相手も食べたかもしれないが、少し良いのを見繕ってきたので、それで手打ちにして貰おう。次いで、己の鞄から何か取り出し、棚の上に並べだす。ひとつは麻で縛ったヤドリギ、ひとつは何やら小さな小瓶。ヒーラー職である相手には、その中身がすぐにでもわかるだろうか。土産は以上とばかりに水場へ向かうと、氷のように冷たい水で両手をしっかり洗いつつ、背中越しに語りかけ。)
……風邪の噂で、例のトロイトを倒す時に随分奮発したと聞いてな。
ヒーラー手製の栄養食を賄ってもらうんだ、お代にはまだ足りないだろうが……受け取っておいてくれ。
えー?なんのことか分からないデスー…………、っ!?
( やけに素直に引き下がったギデオンに、ビビもまたエプロンを外しながら、好奇心溢れる笑顔でお土産を確かめようとしたその瞬間。──ドスッ、と。情け容赦一切なく、手を洗う相棒の背中へ飛びついた娘の鋭さといったら、先日対峙した親……とまではいかずとも、子トロイトくらいの勢いはあったかもしれない。なんで、どうしてこれがここに……と。じわじわ追いついてくる理解に、こんな高価なものを……、という多大な遠慮だけではなく、どうしようもない歓喜が湧き上がってくるのもまた事実で。 )
──……足りないだなんて。これじゃ、毎晩作りに来ても間に合わないですよ……
( ──……そうだ、「いっしょに、くらします……?」と。当時はこんな、私利私欲に溢れた提案はしていなかったはずだ。そんな正しく"寝言"が、むにゃむにゃと朝の空気に溶け込んだ、あれからおおよそ半年後──キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。
ギデオンとビビが共に暮らし始めた、心地よい我が家のその二人の寝室に、──カラン、カラン……と響くのは、キングストン市民に朝を告げる鐘の音だ。天気は夏の始まりを告げるような鮮やかな快晴。眩しい朝日をたっぷり取り込む大きな窓辺からは、清々しい朝の空気が吹きこんで。普段からビビと仲の良いカラドリウスが、可愛らしく朝の訪れを歌っている。
そんな気持ちの良い朝の一幕に、それはもう全くもって不似合いな、険しい表情をしているヴィヴィアンはといえば。ベッドの上で、それまで自由に伸ばしきっていた四肢を億劫そうに丸めて、先日夏用に変えたばかりのブランケットを緩慢な動きで頭から被ったかと思うと、そのままぴくりとも動かなくなる。そうして、周囲が呼吸が辛くはないのだろうかと不安になる出で立ちのまま、再度すやすやと健やかな寝息を立て始めるだろう。 )
がふッ、
(背後から突進してきた獰猛な娘の勢いに、思わず噎せこんで壁に手を突く。そのまま盛大に面食らっていたものの、どうやら後頭部をぐりぐり押し付けてくる様子からして、相棒は感極まっているらしい。細腕の中で振り返り、仕方なく頭を撫でると、こちらを見上げてきたかんばせには、戸惑い、遠慮、喜び、愛しさ──様々な無垢の感情が、これでもかというほど詰まっていて。思いがけず満たされるのを感じ、ギデオンも喉を鳴らしながら、乱れた栗毛を整えてやる。そうだ、この顔が見たかった。自分のために何か買うより、こうして相棒を喜ばせるほうが、たまのボーナスの使い道もよっぽど有意義だ。)
……そんなことはしなくていいから、また時々、家の世話を頼まれてくれ。
大家の爺さん、どうも入院が長引きそうでな。クエストに出られないのは困るから、おまえがこうして引き受けてくれて、正直とても助かってる。ありがとうな。……
(そう穏やかに呟いて、二言三言会話してから。「せっかくの料理が冷める前にいただこう」と、彼女と共に食卓につく。そうして、暖炉の火や窓の雪を眺めながら、またふたり、穏やかな夕食のひとときを楽しんで。)
(それから月日が流れ、春になり、あの事件を生き延びて──更に夏。キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。
ベテラン戦士の朝は早い。夜明け前に目を覚まし、薄暗がりの中、まずは少しだけ隣の恋人を眺めて過ごす。すよすよと寝息を立てる横顔は、何より心安らぐものだ。柔らかな栗毛にそっと唇を落とすと、ひとり静かにベッドを抜け出す。階下に降りて、フルーツやシリアルなどの軽い朝食、それから身支度──ここまでで15分。扉をしっかり施錠し、徒歩数分の公園に辿り着いたら、準備運動に15分、次のメニューに1時間かける。ワークアウトの内容は、日によって、或いは体調次第で変える習慣だ。そこらに備え付けられた共用器具を使っての、懸垂や重量挙げといった筋トレか……持ってきた重いウェアを纏い、背中に土嚢を、腰に魔剣を吊り下げ、サリーチェ一帯を走り込むか。いずれにせよ、最後には必ず魔剣の素振り、これをみっちり1時間やり込む。その基礎には、四半世紀以上経った今でも、恩師シェリーの教えを忘れずに取り込んでいる。そうしてクールダウンがてら、朝市の方へ遠回りして我が家に帰り。シャワーを浴びて汗を流したら、ここでようやく、恋人を起こしに行く時間だ。
とはいえ、ヴィヴィアンは寝起きが悪い。応答を得られたとて、険しい顔でいやいやとぐずることが多々。この日もそうだったので、仕方なく笑いながら撫で、先にカーテンと窓を開けておく。明るい日差しと爽やかな空気がたっぷりと寝室を満たせば、じきに自然と目覚めるだろう。
もう少し寝かせておく間に、再び1階に降り、ふたり分の朝食の調理へと取り掛かろうか。市場で買ってきた朝獲れ野菜を軽く切ってボウルに入れ、オリーブオイルと塩を揉み込み、ヴィヴィアン作り置きの茹で鳥やゆで卵も和え、食べ応えのあるサラダに。油を敷いたフライパンには、卵を二つ、ベーコンを5枚乗せて、魔導コンロの弱火にかけ、ジュウジュウと焼きつける。その間、パン切りナイフでパンを切り出し、フルーツジャムをたっぷり塗って、真っ白な皿に並べよう。棚からカップをふたつ取り出したら、買い置きの穀物とヨーグルトをよそい、仕上げに蜂蜜を回しかける。揃いのグラスには冷たい牛乳、片方にはギルド支給の大豆粉を溶かすのを忘れない。ここでようやく、目玉焼きと焼きベーコンを作っていたコンロの火を止め、蓋をして中身を蒸らす。栄養満点な朝食の完成だ──しかし。いつもならこの頃には、ギデオンの立てる様々な物音を聞きつけたヴィヴィアンが、上からぽやぽや降りてくるはず。ところが今朝は、まだ随分お眠なのか、ギデオンが階段を見上げても、一向にその気配がない。昨晩は遅くまで、例のあれを──手を繋ぐだけのいかがわしい戯れを──楽しんでいたからだろう。しかし、今朝はふたりとも出勤日だ……キングストンじゅうに響き渡る、爽やかな朝の鐘も鳴った。そろそろ起こしてやらなければ。)
(再び二階の寝室に上がり、寝室を確かめてみると。広々としたベッドの上には、こんもりしたブランケットの山が生じていた。あれは疑いようもなく、愛しい恋人の寝姿だ。ドアの木枠に軽くもたれ、一度笑み交じりに「ヴィヴィアン、」と優しく呼んでみたものの。案の定、奇妙な布の山はぴくりとも動かない。ゆったりと傍に歩いていき、ぎしり、とベッドの端に腰掛ける。するとチュリリリ、と賑やかな声が。そちらを見遣ってみれば、先ほど大きく開けた窓の枠に、“いつもの”雄のカラドリウスがとまっていた。忙しなく頭を動かしながら、ギデオンとヴィヴィアンを交互に見つめ、ぴょんぴょんと窓辺を跳ね、こてんと不思議そうに首を傾げて──その様子はいかにも、“あの子、まだ起きないの?”“もう起きる時間じゃないの?”と言わんばかり。彼女手ずから餌を貰い、すっかり懐いたこの聖鳥も、ヴィヴィアンの目覚めを今か今かと待ち詫びているらしい。緑豊かなサリーチェでは食べるものに困らぬだろうに、毎朝欠かさず、彼女に甘えにやってくるのだ。
小鳥に向けて、「寝坊助だよな」と困ったように笑ってみせると。今度こそ恋人に向き直り、その肩のあたりに手を置く。そうして軽く揺り動かしながら、「ヴィヴィアン、」ともう一度、柔らかな声を落として。)
……ヴィヴィアン、朝だ。
今朝は一緒に出勤するんだろ? 支度もあるんだし、そろそろ食事を摂らないと。
んー…………、
( 深く落ちた意識の頭上、分厚い幕の向こうから、愛しい人の声が聞こえる。初夏の青い風が頬を撫で、薄いブランケットを透過した朝日が眩しくて。心地よい眠りから引きずり上げられる感覚に、枕へと顔を埋めて抵抗するも。"一緒に出勤"という甘い誘いをかけられてしまえば、渋々とはいえ、たちまちに意識を浮上させてしまうのだから、御し易いことこの上ない。そうして、「……ん、いっしょ、いく」と、未だ殆ど開かぬ目元を擦りながらも、緩慢な動きで上半身を持ち上げ起こせば。肌触りの良いネグリジェが、その優美な曲線をなぞるように、さらりと滑って内腿に溜まる。そうして、真っ白なシーツにぺたりと尻をつき、未だ夢の中のような深い呼吸を繰り返すこと数秒間。
──よほど深い眠りに落ちていたのだろう。段々と覚醒しゆく感覚に、昨晩、意識を失う直前まで唇を吸われていたのが、ごくごく鮮明に思い出されて。未だ甘く痺れているような気がする唇に手を伸ばし、何も塗っていない桃色の花弁を、ふに、と柔らかく押し潰せば。ギデオンの中に己の魔素が流れていることを確認しては、くすくすと小さくはにかみながら、ぽやんと蕩けた瞳をギデオンに向け、 )
おはよう、ございます。
……昨日、いっぱいキスしてもらった、から……まだ感触が残ってるみたいなの……嬉しい、
────……、朝っぱらから……随分な攻撃だな。
(寝起きほやほやの相手の発言に、唸るような呻き声を漏らしたかと思えば。ため息交じりに言いながら、太い腕を回しかけ、問答無用で抱き込んで、そのまま一緒にどさりと背面へ倒れ込む。──あどけない物言いに、しどけない寝間着姿に、今の色っぽい仕草と表情。おまけにあんな台詞まで吐かれて、頭にがつんと喰らわない男などいるだろうか。今のギデオンはまだ、薬を──冒険者が本来クエスト時に用いる抑制剤を──服用しているからいいが、うっかり薬を切らした時にこんな一撃を喰らってはたまらない、と。朝の爽やかな明るさに不似合いな、いっそ毒々しいほどの純真無垢を、横向きにぎゅうぎゅうと抱きしめることで叱りつけ。旋毛に何度も唇を押し当て、背中をまさぐるようにさすり、こちらなりの反撃を。気が済むまでそうしてから、緩めた腕の中の相手を覗き込めば、優しい声音でようやく「おはよう」と。結局、唇の端にどうしても微笑が乗ってしまうあたり、自分はどこまでも恋人に甘いようだ。)
……なあ。今日は基本、報告書をまとめたり、幾つか決裁を回したりするくらいで……何事もなければ内勤なんだ。
久々におまえの夕飯を食べたいんだが……何なら強請れる?
(こちらに優しく触れながら、ごく穏やかなゆったりした声音で、あれがいいかな、これがいいかな……と、今夜のご馳走の候補を幾つも挙げていく。毎度時間にして数秒ほどではあるけれども、愛しい恋人のその姿が、ギデオンはたまらなく好きで。こちらも自然と目元を和らげ、形の良い頭を撫で返しながら、耳を傾けていたところ、しかし。はっと、ついに完全に目覚めた彼女が跳ね起き、ベッドから飛び出していけば、目を瞬いて半身を起こす。そうしてぱたぱた、ぱたぱたと、元気に駆け回る恋人を、じっと青い目で眺めていると。また思い出したように己の方へ飛び込んできた温もりを受け止め、その犬のような溌溂ぶりに、思わず笑い声をあげて。まだきりっと結い上げられていない、無邪気さをたっぷり含んだふわふわの栗毛の頭を、くしゃくしゃに撫でてやるだろう。)
──っくく、ああ、知ってるとも。俺もだよ。
さあ、下に降りて食べよう。今日は天気もいい……のんびり歩くにはもってこいだ。
(そうしてふたり、今日一日の仕事の話をあれこれ楽しく共有しながら、新鮮な朝餉を済ませれば。諸々の片付けに身支度、そしてしっかり戸締りをして、手を繋いだまま歩き出す。先ほど話題にしたとおり、今朝は気持ち良いほどの快晴。街路樹の並ぶラメット通りは、豊かな緑が目に優しく、吸い込む大気もごく爽やかだ。この2ケ月ですっかり並んだ通勤路を、あの家の窓が好きだ、あそこのドアノッカー素敵ですよね、なんて話しながら進んでいけば。花壇に水をやっていた老婦人が、「相変わらず仲良しだこと」とじょうろ片手にくすくす笑い。学校へと我先に駆けだしていた子どもたちが、曲がり角でききっと立ち止まって、元気いっぱいの挨拶を。“きんじょのきれいなヒーラーおねえさん”に、きらきらと目を輝かせる様は、見ていて非常に微笑ましいものだ。古魔導具屋の旦那が重い荷物を持ち上げようとしていたので、ギデオンがすっと手伝えば、旦那は「ありがとよ!」と朗らかに笑い、次いでやはり、ヴィヴィアンを見るなりにへらと相好を崩すだろうか。「治安の良い街とは知っているが……うっかり盗られないようにしないと」などとm冗談交じりに抜かしては。繋いだ手で恋人を軽く引き寄せ、再び旋毛にキスを落とす。これでも実はそれなりに人目を気にするギデオンだが、ラメット通りは例外らしい──近隣住民とは良い関係を築いている。互いの生活をそれとなく知っているので、もはや隠し立てする必要はないと開き直っているようだ。
そうして石畳の道を、時折大きな街道を渡りながら、王都の中心部まで歩いていき。いよいよギルド本舎が見え出した辺りで、しかし何やら異変を聞きつけ、ヴィヴィアンとふたり、はたと顔を見合わせた。誰だか知らないが、男が喚いているようだ……音の方向からして、まさに自分たちの勤める建物の中でだろうか。料金を踏み倒しに来た、たちの悪い依頼者か何かか? カレトヴルッフは国内最高峰ギルドと謳われるだけあって、例年高い顧客満足度を誇るが、悪質なクレーマーが全くつかないわけではない。今日のもまたそういった手合いだろうか、随分長く騒いでいるようだ。今ごろ出勤している筈のマリアなりカーティスなりがまだ収められていない辺り、かなり厄介な奴らしいな……などと言い交わしながら、いざエントランスを潜り抜けてみると。そこで目にした目を疑う光景に、ヴィヴィアンと手を繋いだまま、思わず呆気に取られて立ち尽くしてしまうだろう。)
────……!?
(こちらに優しく触れながら、ごく穏やかなゆったりした声音で、あれがいいかな、これがいいかな……と、今夜のご馳走の候補を幾つも挙げていく。毎度時間にして数秒ほどではあるけれども、愛しい恋人のその姿が、ギデオンはたまらなく好きで。こちらも自然と目元を和らげ、形の良い頭を撫で返しながら、耳を傾けていたところ、しかし。はっと、ついに完全に目覚めた彼女が跳ね起き、ベッドから飛び出していけば、目を瞬いて半身を起こす。そうしてぱたぱた、ぱたぱたと、元気に駆け回る恋人を、じっと青い目で眺めていると。また思い出したように己の方へ飛び込んできた温もりを受け止め、その犬のような溌溂ぶりに、思わず笑い声をあげて。まだきりっと結い上げられていない、無邪気さをたっぷり含んだふわふわの栗毛の頭を、くしゃくしゃに撫でてやるだろう。)
──っくく、ああ、知ってるとも。俺もだよ。
さあ、下に降りて食べよう。今日は天気もいい……のんびり歩くにはもってこいだ。
(そうしてふたり、今日一日の仕事の話をあれこれ楽しく共有しながら、新鮮な朝餉を済ませれば。諸々の片付けに身支度、そしてしっかり戸締りをして、手を繋いだまま歩き出す。先ほど話題にしたとおり、今朝は気持ち良いほどの快晴。街路樹の並ぶラメット通りは、豊かな緑が目に優しく、吸い込む大気もごく爽やかだ。この2ケ月ですっかり馴染んだ通勤路を、あの家の窓が好きだ、あそこのドアノッカー素敵ですよね、なんて話しながら進んでいけば。花壇に水をやっていた老婦人が、「相変わらず仲良しだこと」とじょうろ片手にくすくす笑い。学校へと我先に駆けだしていた子どもたちが、曲がり角でききっと立ち止まって、元気いっぱいの挨拶を。“きんじょのきれいなヒーラーおねえさん”に、きらきらと目を輝かせる様は、見ていて非常に微笑ましいものだ。古魔導具屋の旦那が重い荷物を持ち上げようとしていたので、ギデオンがすっと手伝えば、旦那は「ありがとよ!」と朗らかに笑い、次いでやはり、ヴィヴィアンを見るなりにへらと相好を崩すだろうか。「治安の良い街とは知っているが……うっかり盗られないようにしないと」などと冗談交じりに抜かしては。繋いだ手で恋人を軽く引き寄せ、再び旋毛にキスを落とす。これでも実はそれなりに人目を気にするギデオンだが、ラメット通りは例外らしい──近隣住民とは良い関係を築いている。互いの生活をそれとなく知っているので、もはや隠し立てする必要はないと開き直っているようだ。
そうして石畳の道を、時折大きな街道を渡りながら、王都の中心部まで歩いていき。いよいよギルド本舎が見え出した辺りで、しかし何やら異変を聞きつけ、ヴィヴィアンとふたり、はたと顔を見合わせる。誰だか知らないが、男が喚いているようだ……音の方向からして、まさに自分たちの勤める建物の中でだろうか。料金を踏み倒しに来た、たちの悪い依頼者か何かか? カレトヴルッフは国内最高峰ギルドと謳われるだけあって、例年高い顧客満足度を誇るが、悪質なクレーマーが全くつかないわけではない。今日のもまたそういった手合いだろうか、随分長く騒いでいるようだ。今ごろ出勤している筈のマリアなりカーティスなりがまだ収められていないところを見るに、かなり厄介な奴らしいな……などと言い交わしながら、いざエントランスを潜り抜けてみると。そこで目にしたまさかの光景に、ヴィヴィアンと手を繋いだまま、思わず呆気に取られて立ち尽くしてしまうだろう。)
────……!?
──ん、なあに?
( 愛しい恋人の言った通り、今日のラメット地区は非常に気持ちの良い朝で。サラサラと音を立て流れる水路沿いを、涼し気な木漏れ日を潜り抜け。──おはようございます、いい朝ですねと、ご近所さん達への挨拶をにこやかに返しながら歩くことしばらく。隣の恋人からふいに引かれた腕に、背後から人でも来てただろうかと、無防備に振り返れば。真正面から至近距離で食らってしまった台詞の甘さといったら。普段ビビの迂闊を叱りつけてくるギデオンだが、その本人だって2ヶ月前のあの病室での時間から、その蕩けてしまいそうな甘い言葉で、何度ビビを苦しめたことか。思わず何も返せずに、ぽぽぽっと頬を染めた若い娘にも、周囲の視線はあたたかく。そのご近所さんのご好意に甘えて、小さく手を引き返すと、相手の耳に顔を寄せる振りをして、その愛しい耳朶に唇を落としてやる。そんな、バカップルもいいところな小競り合いを繰り返していた報いだろうか。 )
( ──その瞬間、ビビが感じたのは確かに強い"殺気"だった。
未だ路上にいた時分、尋常でない怒号に、頼もしい相棒と顔を見合せ、ロビーに続く扉を足早に潜れば。奥の来客用ソファの周辺には、入口から見えるだけで3名もの若手冒険者が倒れ伏し。その周辺で揉めているのは……あれは、ギルドのベテラン勢と──……「パパ!?」と、半ば叫ぶようなビビの声に振り返ったのは、顎くらいの長さで金髪を切りそろえた、20代半ばから後半ほどに見える青年。──パパ!? と、別の意味で驚いたような視線を向けてくる若手勢はともかくとして。"パパ"と呼ばれた青年──改め、五十路もとうに迎えた大魔法使いギルバート・パチオは、ビビの声にぱっと此方を振り返ったかと思うと。その突飛な行動を制限しようとしたかつての同僚を振り払い、真っ直ぐに娘の方へと駆けてくる。そうして、「ビビちゃん、怪我は!? 危篤って……!?」と、一応隣に見えているはずのギデオンになど目もくれず、娘の華奢な両肩に手をかけて、その無事を確認しようとしたその時だった。
ビビの前では形無しだが、一応これでも世紀の大魔法使いと名を馳せたギルバートである。娘の身体中にベッタリと染み付いて、誤魔化しが効かない程の色を放っている魔素を見落とすわけがあるだろうか。長く豊かな睫毛に縁取られた灰青の瞳を、漠然と見開いた父親に対し、少し恥ずかしそうにはにかむ娘の温度差ときたら。今更、娘の片手が何かに繋がっていることに気がついた父親が、その繋げられた"その先"の男。ギデオン・ノースにもまた、愛しい娘の魔素がたっぷりと移っていることに気がついたのが一巻の終わり。──その瞬間。部屋の温度が一気に下がったかと思うと、ロビーの手前で大人しく寛いでいた猟犬たちが、歯茎を剥いて唸りだし、一定以上の実力を持つ冒険者たちの顔色ががらりと変わる。その中心で、深い疲労と激しい怒りに我を忘れた大魔法使いの、俯いて影になった顔の中。やたら目だけがギラギラと輝いて、なにやらブツブツ呪詛を吐き始める形相は、それが殆ど娘と同じパーツで構成されているなど俄には信じられぬ有様だ。周囲の視線も気にせずに、大の男が嗚咽する醜態は、その容姿も相まって謎の見応えを感じさせ──パパやめて! 子供は黙っていなさい! と、そこだけ聞き取ればありがちな親子喧嘩も。その瞬間、周囲の木材に石材、ランプの火……そしてその場の空気に至るまで、金属以外の全てがギルバートの味方をするかのように、メキメキと変形しゆく騒動に、先程のベテラン達や、未だ奥の部屋にいた幹部達も飛び出てくる大騒動となって。
結局、後になって話を聞いてみれば。ギルバートは当初、明らかに焦燥しきってはいたものの、必要書類を持って大人しくカウンターを訪れていたらしい。事情が事情なのだから、最初から顔見知りの幹部に話を通せば良いものを。己がマスター代理時代に作った規則に則って、冒険者の親族としてその情報開示を大人しく待つあたりが真面目というか、不器用というか。しかし、そこへ顔の良い兄ちゃんと見て絡みにかかったのが、最初に倒れていた問題児達らしく。よせば良いものを、相手に恥をかかせるつもりで、おっとうっかりぃ──なんて、硬い装備を身につけた肩をぶつけにかかり、みるも惨めに弾き返され派手にすっ転べば、そこに降りかかるのが、ベテラン勢にはおなじみの、ギルバートが他人に向けるゴミを見るような視線である。どうやらビビ達が最初に聞いた怒号は問題児たちの方であったらしく、飛びかかって来ようとする男共を、魔法で床に叩きつけ。すわ何事かと飛び出たベテラン達の胃痛の程たるや。元より性格が終わっていると評されて久しい、その上最悪に気が立っている瞬間である。事情を説明するその間にも、"わざと"問題児たちの意識を留めたまま、起き上がれぬよう床に押し付け辱めていた、というのが、ビビ達が最初に見た光景の真相であるらしい。
とはいえ、愛しい娘と手を繋ぎ、明らかに深い関わりを持っている四十路の男を目の前にして。周りに迷惑だからせめて外で、というビビの懇願も袖にして。そのビビには半分ほども理解出来得ぬ罵詈雑言を、ギデオンに浴びせかけた挙句。周囲を巻き込んでの暴挙の果てに、「ビビちゃんは騙されてるんだ。今すぐこの色情魔を──」と、娘の腕まで振り払った瞬間。とうとうビビの頭の中で何かが壊れる音がした。「……うるさい、もう黙ってよ」と、冷たく響いた声にギルバートの動きがビクリと止まり。「何も知らない癖に」「色情魔はどっちよ」と、普段温和な娘のものとは思えぬ声音に、ギルバートどころか、娘がいる父親達の表情が青ざめていく。「……ビ、ビビちゃ」と伸ばされたギルバートの腕は無惨にも叩き落とされ、「触らないで。あちこちにベタベタ跡つけて気持ち悪いのよ」と、その一撃だけで、世紀の大魔法使いにとって二度と立ち上がれぬダメージだというのに、ビビの追撃は止まらない。ぶるぶると震える父親を鼻で笑い、見せつけるように、恋人の腕をとった娘の吐き捨てるような言葉がトドメとなって。ここ数日、ろくに眠れていなかった大魔法使いは、冷たい床に撃沈したのだった。 )
都合の良い時だけ、いまさら父親面しないでよ。
さようなら! 私はギデオンさんがいればいいもの。
……どうも、先代。お久しぶりです──
(朝からたっぷりいちゃつきながら出勤したふたりを、唖然と立ち尽くさせたのは。──長らく行方の知れなかったヴィヴィアンの父、ギルバート・パチオその人だった。ギデオンが最後に見かけたのは20年近く前だというのに、どういうわけかその姿は、当時そのままの若々しさだ。無様に這いつくばるギルドの若造どもを、冷ややかに見くだす顔つきも、まるで現役時代からそのまま持ってきたかのようである。周囲はただ慄くばかりで、ギルバートの狼藉を誰も止められずにいるらしい。
とはいえ、ギデオンの立ち直りは比較的早かった。信じられないものを見る目を寄越してきたギルバートに対し、さっと社交用の、涼やかな仮面を取り繕って。いきなり、しかも全く予期せぬタイミングになったとはいえ、一応“相手方”の親に挨拶する機会となったわけだ、きちんとこなしておくべきだろう──と、しれっとした態度で告げる。しかしその片手ときたら、未だヴィヴィアンと繋いだまま。別段何もおかしなところはありませんよとばかりに、堂々と開き直っている始末だ。
──当然、ギルバートの逆鱗に触れぬわけがない。天文学的に膨大な魔力が、限界を超えて高まりに高まり、あわや大惨事か、というところで。奥の部屋からすっ飛んできた現ギルマスが、どうにか彼を宥めすかし、諫めてくれたからいいものの。こちらを激しく睨めつけたままの大魔法使いは、ならば今度は口先で、とばかりに、ギデオンに激しく息巻く。「失礼。“私”の記憶が正しければ、ギデオン、貴様はとうに四十も超えているのではなかったか?」「何故そのような老いぼれが。“私”の娘の手をとっている?」「この不埒者が。恥も常識も母親の胎に忘れてきたかね。ならば今すぐその手を離し、見習い時代からやり直すといい。“私”がじきじきに、骨の髄から叩き直してやる」「──ああ、だから! いいからさっさと、僕の娘から手を離せと言っているんだ!」
しかし当のギデオンはと言えば、ああ、懐かしいなあ、くらいの呑気な感慨に浸っていた。威嚇のためだろう“代理”時代の口調から、だんだんと素の口調になっていくのも、微笑ましさを感じさせる。他人が言うならば地雷だろう発言も、ギルバートだけは例外だ。何せかの20年前、ギデオンは彼の素の姿をばっちり目撃していた。幼い愛娘ヴィヴィアンを前に、だらしなく目尻を垂らし、目に入れても痛くないと言わんばかりにでれでれに可愛がっていた、愛情深いあの横顔。あれを見ていれば、こうして鋭く噛みつかれたところで、まあそうなるよなあ、くらいのものだ。まだうら若い二十代の娘が、四十の男と懇ろにしていると知れば、心配するのは親として当然。ギルバートのこの反応は、何ら間違ってはいない。
──だが、仮に。生きているか死んでいるかもまるで知らない人間なので、あり得ない話ではあるが。仮にギデオンの父親が、交際相手のヴィヴィアンをこのように貶しつけたら、ギデオンはきっと黙っちゃいない。それはヴィヴィアンも同じこと──つまり、たった今、目の前で。真横のギデオンも目を瞠るほどに、娘は父親を突き放したのだ。冷たく、刺々しく、普段の温厚さや人当たりの良さが、まるで全くの別人かのように。哀れギルバートは、強いショックと極度の疲労で気を失い。ギルマスが命じるまでもなく、慌てて周囲のベテランが介抱しに駆けつけた。その間もヴィヴィアンは、ギデオンの腕に取りついたまま、それを冷ややかに見くだすのみだ──奇しくも、最初に見たギルバートそっくりの顔つきである。己の愛しい恋人は、建国祭しかり、本気で怒ると非常に恐ろしくなることを、ギデオンは知っている。だがこの豹変は、あの時の比ではない……庇われたはずのギデオンが狼狽えるほどに苛烈だ。いったいこれはどういうわけか、とギデオンが目を瞬いていると。騒ぎを聞きつけたのだろう、医務室からようやくドクターが駆けつけた。彼はまず倒れているギルバートを見、次にギデオンとヴィヴィアンを見、両者を二度見三度見し。そうして、しわくちゃの手で頭を抱え、深々とため息をついて。「お前ら全員、なーにやっとるんだ……」と、まだ何も手をつけぬうちから、疲れ切った声を絞り出すのだった。)
(──それから小一時間後。カレトヴルッフのギルドロビーは平常運転を取り戻したが、ギデオンとヴィヴィアンはその中にいなかった。ギルバート・パチオの突然の帰還を受け、その応対を優先するよう命じられたのだ。ヴィヴィアンは嫌がったが、「必要な情報共有を済ませておかないと、あの男、ゴネますよ」とギルマスに言われれば、渋々といった様子で従うことにしたらしい。どうやら本当に、父親との関わりを最小限に済ませたいようである。ギデオンの見立てでは、何もさっきの一幕だけでこうはならない気がするのだが。パチオ父娘の間には、いったい何があったのだろうか。
とにかく、そういった事情によって。ギルドの応接室には今、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。ギデオンとヴィヴィアンが並んで座る向かいの席には、相変わらずこちらを睨みつけてくるギルバートと、それを横から諫めに諫める現ギルマス。また倒れられてはかなわない、と後ろに控えるドクターに、記録係として呼び出され、白い目を向けてくるマリア。壁際にもたれているのは、ヨルゴスをはじめとした数人の戦士や魔法使い、いずれも手練れのベテランだ。全員がギルバートの知己であり、いざというときに彼を取り押さえる役目なのだが、あのにやけ面はどちらかというと、面白そうな状況を確かめに来た野次馬だろう。その他、ギルドの重鎮も複数名、周囲のソファーにずらりと腰掛け、威厳ある態度でじっと座している。これから重大な作戦会議でも始めるかのようだが、もちろんそういうわけではない。面子と空気が異常なだけだ。
さてまずは、ヴィヴィアンが危篤に至った経緯の説明、及び今の体調の共有がなされた。ギデオンと臨んだフェンリル狩りの最中に悪魔に襲われ、その身体を苗床にされた──と聞いて。真向いのギルバートは、早速頭に血をのぼらせ、素早く立ち上がったのだが。ヴィヴィアンが一言「パパ」と言えば、それだけでびくりと震え、またすごすごと着席したのだから、先ほどのやりとりが余程堪えたものらしい。──そうして、全身の魔力弁の破壊、という重傷を負った後、聖バジリオに3週間ほど入院したことを説明する。危篤だったのは最初の数日間のみで、その後はひたすら回復とリハビリに努め、その甲斐あって無事退院。キングストンに戻った後は、こちらのドクターがカルテを引き継ぎ、慎重に経過観察中。本格的なクエストには未だドクターストップがかかっているものの、訓練合宿に参加できる程度には回復したし、比較的に負担の少ない仕事にも、段階的に復帰している。後遺症も今のところ見当たらないので、予後は至って順調。遅くとも秋までには、医師として完治を言い渡せるだろう、という言葉が、ドクターより言い添えられた。要は、ヴィヴィアンの危篤の話は、今や解決済みなのである。
反対にギルマスが知りたがったのは、ギルバートの帰還の経緯だ。ギルバートはひとり娘ヴィヴィアンを溺愛している。それが何故、2ヵ月近くもかかってから帰ってくることになったのか。──次のギルバートの言葉は、一同を驚かせた。彼が手紙を受け取ったのは、なんとわずか1週間前のことだそうだ。当時のギルバートは、遥か北西にあるガリニア帝国の魔導学院に誘致されていた。ギルドもそれを知っていて、そこに手紙を出したはずである。しかしギルバートはその時、ガリニアの学院の命令で、遥か極北のルーンにまで、フィールドワークに出てしまっていた。数週間ほどでまたガリニアに戻るはずが、現地の精霊に気に入られ、戻るのに散々苦労したという(ヴィヴィアンの言った「あちこちにベタベタ痕つけて」とは、その精霊が施した“妖精のキスマーク”なるものらしい。道理でギデオンには見えないわけだ)。そうしてどうにか帰還すると、今度は学院の様子がおかしい。ギルバートの私書箱のものを勝手にどこかへやったと宣い、探せと言ってもはぐらかす。痺れをきらしたギルバートが、魔法を駆使してとうとう探し出すと、そのなかにはカレトヴルッフからの手紙、しかも開封の痕があるものが。赤字で「緊急」と書かれた封筒をしているのだから、学院はすぐにギルバートを呼び戻すべきだろうに、彼らはそれを怠り、あまつさえ勝手に中身を盗み見たわけだ。「あの連中、僕に研究を中止してほしくなかったんだ。自国の利益のためだけに、僕の娘の危機を知らせず、手紙の隠蔽まで図っていたんだよ。許しがたいことだ」と、ギルバートは忌々し気に吐き捨てた。「馬鹿なことを。国際法に触れるのを恐れて、燃やす勇気もなかった癖に。見ろ、連中が長らくのらりくらりしたせいで、こんなに帰りが遅くなった。誰があそこに勤めるものか。僕は二度と戻る気はない」──。
口で言えば簡単だが、実際はそうもいかない。ギルバートは小国であれば国賓として迎えられるほどの、世界的な大魔法使いだ。心情は察して余りあるものの、向こうでの研究を投げ捨ててきたままとなると、最悪国際問題である。至急優先すべきは、まずギルバートの身辺整理だろうという話になった。とにかく、こっちの魔導学院に戻ってもらい、そこを介して正式に辞職する手続きが必要だ。しかしその前にと、ドクターが口を挟んだ。まずはしっかり休養しろ、下手すりゃお前さん死ぬぞ、と。大陸の最果て・ルーンから、遥か南のトランフォードまで、その距離は実に千里以上。それをたった1週間で戻ってくるというのは、到底人間のなせる業ではない。精霊の加護によって見た目が老いないというギルバートだが、その身体には相当無理が来ているはずだ。故にまずは、ギルドが宿を手配して、しばらくそこに滞在してもらう。そうして体調が戻り次第、そこから魔導学院に出向き、諸々必要な手続きを処理する──そういう話にまとまった。
それで終われば平和だが、そうはいかないからこの面子である。最後に再び、ギデオンとヴィヴィアンの関係について触れる段になったとき、周囲が固く見守る中、ギデオンは居住まいを正し、真剣な顔で切り出した。二ヶ月ほど前から、娘さんとお付き合いしております。彼女の予後を見守るために、今はサリーチェの家で同棲もしています、と。──そこからはもう、大変だった。再び怒髪天を突いたギルバートと、業を煮やしたヴィヴィアンの、火花を散らしての親子喧嘩だ。先ほどはヴィヴィアンの冷ややかさに怯みきっていたでいたギルバートも、可愛い娘が不埒な男と同棲までしていると聞けば、断固として譲らないことに決めたらしい。しかも彼は、ギデオンの若い頃を知っている。不特定多数の若い女と、散々遊んでいた時代──言い逃れようのない遊び人だった時代をだ。「ビビちゃんはこいつに弄ばれてるんだ!!」「ずっと傍にいなかったくせに、知ったような口きかないでよ!!」。結局最後には、ギルバートかヴィヴィアンのどちらかが部屋を飛び出してしまったことで、この会合は打ち切りとなった。いつもは決して動じないギルマスが、後ろのドクターと全く同じ様子で、頭を抱え込んでいる。無論、娘のいる重鎮たちが、当のギルバートより余程酷く胃を痛めて呻いていたのは、言うまでもない話だ。)
(──その日の夕方。例の会合の後、一旦自分の仕事に戻ったギデオンは、ギルドの医務室に足を運んでいた。ヴィヴィアンはこのところ、ドクターの手伝いという形でヒーラーの仕事に復帰し、調薬作業を任されている。何事もなければそこで作業しているはずで、しかしそろそろ引き上げ時だ。もう夕方の17時、シフトのひとつの区切りである。ギデオン自身も、本来ならもっと捌かねばならぬ筈の書類を、「俺らがやるから」と幹部たちに取り上げられ、部屋を追い出された後だった。仕事はいいから、それよりまずは、ビビちゃんの様子を見てやってくれ。あれは相当来てるだろ、おまえが話を聞いてやれよ──と。普段は散々、ようやく彼女と付き合い始めたギデオンのことをからかってくる連中だが、今日のところは純粋な気遣いらしい。ならば素直に甘えよう、ということで、退勤の誘いをかけに来たのである。医務室の扉をノックし、軽く声をかけてから、慣れた様子で中に入ると。ドクターに軽く頭を下げてから、「お疲れ」と、相手の方に向き直って。)
こっちの仕事が片付いたから、少し早いが迎えに来た。
まだ少しかかりそうなら、適当に暇をつぶすが……
※ギルバートの帰国の経緯のみ、若干修正しております。
……どうも、先代。お久しぶりです──
(朝からたっぷりいちゃつきながら出勤したふたりを、唖然と立ち尽くさせたのは。──長らく行方の知れなかったヴィヴィアンの父、ギルバート・パチオその人だった。ギデオンが最後に見かけたのは20年近く前だというのに、どういうわけかその姿は、当時そのままの若々しさだ。無様に這いつくばるギルドの若造どもを、冷ややかに見くだす顔つきも、まるで現役時代からそのまま持ってきたかのようである。周囲はただ慄くばかりで、ギルバートの狼藉を誰も止められずにいるらしい。
とはいえ、ギデオンの立ち直りは比較的早かった。信じられないものを見る目を寄越してきたギルバートに対し、さっと社交用の、涼やかな仮面を取り繕って。いきなり、しかも全く予期せぬタイミングになったとはいえ、一応“相手方”の親に挨拶する機会となったわけだ、きちんとこなしておくべきだろう──と、しれっとした態度で告げる。しかしその片手ときたら、未だヴィヴィアンと繋いだまま。別段何もおかしなところはありませんよとばかりに、堂々と開き直っている始末だ。
──当然、ギルバートの逆鱗に触れぬわけがない。天文学的に膨大な魔力が、限界を超えて高まりに高まり、あわや大惨事か、というところで。奥の部屋からすっ飛んできた現ギルマスが、どうにか彼を宥めすかし、諫めてくれたからいいものの。こちらを激しく睨めつけたままの大魔法使いは、ならば今度は口先で、とばかりに、ギデオンに激しく息巻く。「失礼。“私”の記憶が正しければ、ギデオン、貴様はとうに四十も超えているのではなかったか?」「何故そのような老いぼれが。“私”の娘の手をとっている?」「この不埒者が。恥も常識も母親の胎に忘れてきたかね。ならば今すぐその手を離し、見習い時代からやり直すといい。“私”がじきじきに、骨の髄から叩き直してやる」「──ああ、だから! いいからさっさと、僕の娘から手を離せと言っているんだ!」
しかし当のギデオンはと言えば、ああ、懐かしいなあ、くらいの呑気な感慨に浸っていた。威嚇のためだろう“代理”時代の口調から、だんだんと素の口調になっていくのも、微笑ましさを感じさせる。他人が言うならば地雷だろう発言も、ギルバートだけは例外だ。何せかの20年前、ギデオンは彼の素の姿をばっちり目撃していた。幼い愛娘ヴィヴィアンを前に、だらしなく目尻を垂らし、目に入れても痛くないと言わんばかりにでれでれに可愛がっていた、愛情深いあの横顔。あれを見ていれば、こうして鋭く噛みつかれたところで、まあそうなるよなあ、くらいのものだ。まだうら若い二十代の娘が、四十の男と懇ろにしていると知れば、心配するのは親として当然。ギルバートのこの反応は、何ら間違ってはいない。
──だが、仮に。生きているか死んでいるかもまるで知らない人間なので、あり得ない話ではあるが。仮にギデオンの父親が、交際相手のヴィヴィアンをこのように貶しつけたら、ギデオンはきっと黙っちゃいない。それはヴィヴィアンも同じこと──つまり、たった今、目の前で。真横のギデオンも目を瞠るほどに、娘は父親を突き放したのだ。冷たく、刺々しく、普段の温厚さや人当たりの良さが、まるで全くの別人かのように。哀れギルバートは、強いショックと極度の疲労で気を失い。ギルマスが命じるまでもなく、慌てて周囲のベテランが介抱しに駆けつけた。その間もヴィヴィアンは、ギデオンの腕に取りついたまま、それを冷ややかに見くだすのみだ──奇しくも、最初に見たギルバートそっくりの顔つきである。己の愛しい恋人は、建国祭しかり、本気で怒ると非常に恐ろしくなることを、ギデオンは知っている。だがこの豹変は、あの時の比ではない……庇われたはずのギデオンが狼狽えるほどに苛烈だ。いったいこれはどういうわけか、とギデオンが目を瞬いていると。騒ぎを聞きつけたのだろう、医務室からようやくドクターが駆けつけた。彼はまず倒れているギルバートを見、次にギデオンとヴィヴィアンを見、両者を二度見三度見し。そうして、しわくちゃの手で頭を抱え、深々とため息をついて。「お前ら全員、なーにやっとるんだ……」と、まだ何も手をつけぬうちから、疲れ切った声を絞り出すのだった。)
(──それから小一時間後。カレトヴルッフのギルドロビーは平常運転を取り戻したが、ギデオンとヴィヴィアンはその中にいなかった。ギルバート・パチオの突然の帰還を受け、その応対を優先するよう命じられたのだ。ヴィヴィアンは嫌がったが、「必要な情報共有を済ませておかないと、あの男、ゴネますよ」とギルマスに言われれば、渋々といった様子で従うことにしたらしい。どうやら本当に、父親との関わりを最小限に済ませたいようである。ギデオンの見立てでは、何もさっきの一幕だけでこうはならない気がするのだが。パチオ父娘の間には、いったい何があったのだろうか。
とにかく、そういった事情によって。ギルドの応接室には今、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。ギデオンとヴィヴィアンが並んで座る向かいの席には、相変わらずこちらを睨みつけてくるギルバートと、それを横から諫めに諫める現ギルマス。また倒れられてはかなわない、と後ろに控えるドクターに、記録係として呼び出され、白い目を向けてくるマリア。壁際にもたれているのは、ヨルゴスをはじめとした数人の戦士や魔法使い、いずれも手練れのベテランだ。全員がギルバートの知己であり、いざというときに彼を取り押さえる役目なのだが、あのにやけ面はどちらかというと、面白そうな状況を確かめに来た野次馬だろう。その他、ギルドの重鎮も複数名、周囲のソファーにずらりと腰掛け、威厳ある態度でじっと座している。これから重大な作戦会議でも始めるかのようだが、もちろんそういうわけではない。面子と空気が異常なだけだ。
さてまずは、ヴィヴィアンが危篤に至った経緯の説明、及び今の体調の共有がなされた。ギデオンと臨んだフェンリル狩りの最中に悪魔に襲われ、その身体を苗床にされた──と聞いて。真向いのギルバートは、早速頭に血をのぼらせ、素早く立ち上がったのだが。ヴィヴィアンが一言「パパ」と言えば、それだけでびくりと震え、またすごすごと着席したのだから、先ほどのやりとりが余程堪えたものらしい。──そうして、全身の魔力弁の破壊、という重傷を負った後、聖バジリオに3週間ほど入院したことを説明する。危篤だったのは最初の数日間のみで、その後はひたすら回復とリハビリに努め、その甲斐あって無事退院。キングストンに戻った後は、こちらのドクターがカルテを引き継ぎ、慎重に経過観察中。本格的なクエストには未だドクターストップがかかっているものの、訓練合宿に参加できる程度には回復したし、比較的に負担の少ない仕事にも、段階的に復帰している。後遺症も今のところ見当たらないので、予後は至って順調。遅くとも秋までには、医師として完治を言い渡せるだろう、という言葉が、ドクターより言い添えられた。要は、ヴィヴィアンの危篤の話は、今や解決済みなのである。
反対にギルマスが知りたがったのは、ギルバートの帰還の経緯だ。ギルバートはひとり娘ヴィヴィアンを溺愛している。それが何故、2ヵ月近くもかかってから帰ってくることになったのか。──次のギルバートの言葉は、一同を驚かせた。彼が手紙を受け取ったのは、なんとわずか1週間前のことだそうだ。ギルバートはトランフォードの魔導学院に雇われている教授だが、ここ数年前は、遥か北西にあるガリニア帝国の魔導学院にも誘致され、トランフォードの学院からそちらに出向する形をとっていた。ギルドもそれを知っていて、学院の私書箱宛に手紙を出したはずである。しかし当時のギルバートは、ガリニアの学院の命令で、遥か極北のルーンにまでフィールドワークに出掛けていた。数週間ほどすればまたガリニアに戻るはずが、現地の精霊に気に入られ、なかなか戻れなかったらしい(ヴィヴィアンの言った「あちこちにベタベタ痕つけて」とは、その精霊が施した“妖精のキスマーク”なるものだという。道理でギデオンには見えないわけだ)。そうこうするうちに、学院の雇っている犬橇隊が補給物資を届けに来たが、そのひとりがどういうわけか、こんなところに来るはずもない知人。義理堅い性格の彼が渡してきたのは、なんとカレトヴルッフからの手紙、しかも赤字で「緊急」と書かれた封筒に入ったものだ。本来ガリニアの学院は、これを大至急ギルバートに届けるべきであったのに、それを怠っていたらしい。それに気づいた知人が、どうにか手紙を持ち出して、ギルバートを必死に捕まえに来たのである。「学院の連中は、僕に研究を中止してほしくなかったんだ。自国の利益のためだけに、僕の娘の危機を知らせず、隠し通そうとしらを切っていた。許しがたいことだ」と、ギルバートは忌々し気に吐き捨てた。「馬鹿なことを。国際法に触れるのを恐れて、燃やす勇気もなかった癖に。見ろ、連中が長らくのらりくらりしたせいで、こんなに帰りが遅くなった。誰があそこに勤めるものか。僕は二度と戻る気はない」──。
口で言えば簡単だが、実際はそうもいかない。ギルバートは小国であれば国賓として迎えられるほどの、世界的な大魔法使いだ。心情は察して余りあるものの、向こうでの研究を投げ捨ててきたままとなると、最悪国際問題である。至急優先すべきは、まずギルバートの身辺整理だろうという話になった。とにかく、こっちの魔導学院に戻ってもらい、そこを介して正式に辞職する手続きが必要だ。しかしその前にと、ドクターが口を挟んだ。まずはしっかり休養しろ、下手すりゃお前さん死ぬぞ、と。大陸の最果て・ルーンから、遥か南のトランフォードまで、その距離は実に千里以上。それをたった1週間で戻ってくるというのは、到底人間のなせる業ではない。精霊の加護によって見た目が老いないというギルバートだが、その身体には相当無理が来ているはずだ。故にまずは、ギルドが宿を手配して、しばらくそこに滞在してもらう。そうして体調が戻り次第、そこから魔導学院に出向き、諸々必要な手続きを処理する──そういう話にまとまった。
それで終われば平和だが、そうはいかないからこの面子である。最後に再び、ギデオンとヴィヴィアンの関係について触れる段になったとき、周囲が固く見守る中、ギデオンは居住まいを正し、真剣な顔で切り出した。二ヶ月ほど前から、娘さんとお付き合いしております。彼女の予後を見守るために、今はサリーチェの家で同棲もしています、と。──そこからはもう、大変だった。再び怒髪天を突いたギルバートと、業を煮やしたヴィヴィアンの、火花を散らしての親子喧嘩だ。先ほどはヴィヴィアンの冷ややかさに怯みきっていたでいたギルバートも、可愛い娘が不埒な男と同棲までしていると聞けば、断固として譲らないことに決めたらしい。しかも彼は、ギデオンの若い頃を知っている。不特定多数の若い女と、散々遊んでいた時代──言い逃れようのない遊び人だった時代をだ。「ビビちゃんはこいつに弄ばれてるんだ!!」「ずっと傍にいなかったくせに、知ったような口きかないでよ!!」。結局最後には、ギルバートかヴィヴィアンのどちらかが部屋を飛び出してしまったことで、この会合は打ち切りとなった。いつもは決して動じないギルマスが、後ろのドクターと全く同じ様子で、頭を抱え込んでいる。無論、娘のいる重鎮たちが、当のギルバートより余程酷く胃を痛めて呻いていたのは、言うまでもない話だ。)
(──その日の夕方。例の会合の後、一旦自分の仕事に戻ったギデオンは、ギルドの医務室に足を運んでいた。ヴィヴィアンはこのところ、ドクターの手伝いという形でヒーラーの仕事に復帰し、調薬作業を任されている。何事もなければそこで作業しているはずで、しかしそろそろ引き上げ時だ。もう夕方の17時、シフトのひとつの区切りである。ギデオン自身も、本来ならもっと捌かねばならぬ筈の書類を、「俺らがやるから」と幹部たちに取り上げられ、部屋を追い出された後だった。仕事はいいから、それよりまずは、ビビちゃんの様子を見てやってくれ。あれは相当来てるだろ、おまえが話を聞いてやれよ──と。普段は散々、ようやく彼女と付き合い始めたギデオンのことをからかってくる連中だが、今日のところは純粋な気遣いらしい。ならば素直に甘えよう、ということで、退勤の誘いをかけに来たのである。医務室の扉をノックし、軽く声をかけてから、慣れた様子で中に入ると。ドクターに軽く頭を下げてから、「お疲れ」と、相手の方に向き直って。)
こっちの仕事が片付いたから、少し早いが迎えに来た。
まだ少しかかりそうなら、適当に暇をつぶすが……
( 医務室で丸まっていた娘の頭上に降ってきたのは、「おい、今日は棚卸しなんだ。キリキリ働いて貰わにゃ困るぞ」と、平静を保ったこの部屋の主である魔法医の声。棚卸しなんて昨夕は一切言っていなかったにも関わらず、今朝の一件を受け、急遽用意してくれたのだろう。薬品一覧のインクを乾かしながら入ってきたドクターは、応接室を飛び出したシーツお化けを優しく慰めてはくれない代わりに、その小さく覗いた赤い目にも言及しない。そんな暖かくも心地よい距離感に「おじさまがパパだったら良かったのに……」と嘯いたのは、完全にただの甘えだったが。「止さんか、わしゃまだ命が惜しいんだ」と本気で嫌そうに首を振る姿がおかしくて。1g単位で発生する数字の処理に忙殺されていると、余計なことを考えずに済むのがありがたかった。 )
あ……お疲れ様です、えっと……
( そうして無心で薬品の残量を数え続けること数時間。小さな怪我は無数にあれど、酷い怪我人は誰も出ず、あれ以降いやに平和な一日が過ぎようとしている。厳かなノックとともに現れたギデオンに、まだしばらくはかかりそうだと断りを入れようとして──「……その棚が終わったら帰っていいぞ」と。わざと此方を振り返らない背中に、しばらく言葉を失って言い返すことができないほど、己は疲れきっていたらしい。不器用ながら優しいドクターのおかげで、半日ごく心穏やかに過ごしたつもりでいたのだが──やはり無意識に気を張っていたのだろう。普段であれば、さては残業代を独り占めするつもりですね、とかなんとか。最後まで残ってその仕事を終わらせるのだが、今日はその気遣いに素直に甘えさせてもらえば。「お疲れ様です、お先に失礼します!」と、頭を下げる勢いでさえ、この特にビビの変化へ聡い2人の前ではただただ虚しいだけだった。
恋人と並ぶ帰り際、ごく自然に腕を絡めた内心。いつもならギデオンへの愛しさと、今日の夕飯のメニューで埋まっている思考も。『どう考えたって釣り合わんだろう』そう昼間に何度も繰り返された声が、何度も何度も思い起こされれば。相手の腕に額をつけるようにして小さく項垂れ、まずは自分の身内の暴挙に対する謝罪を。)
──ギデオンさん、朝は……うちの父がすみませんでした。
私といるの……嫌になったり、してないですか?
──……してないよ。
するわけがないだろう?
(決してこちらを振り返らずにいてくれるドクターの背に、ギデオンももう一度頭を下げ、ふたりで帰路についてしばらく。きゅっと身を寄せてきた恋人が、小さな声でぽつりと漏らした声を聞けば、思わず歩みを止めて、きょとんとした顔つきを。嫌になる? 俺が? ヴィヴィアンといることが……? まったく予想だにしていなかった、というように、その薄青い目を瞬いていたものの。相手の表情からその心情を察するに至れば、目元をふっと和らげて。一言簡潔に告げながら、ごく軽く肩を抱き、己の薄い唇をまろい額に押し当てる。それから距離を戻すと、もう一度言い聞かせつつ、小さな頭を優しく撫でて。相手のことを穏やかに見つめ、自分の言葉が届いたのをしっかりと確かめてから。またゆっくりと、歩調を合わせて歩き出すだろう。)
……親父さんについても、俺は何とも思っちゃいない。
口ぶりこそ過激な人だが、あの人はただ……おまえのことを本気で心配しているだけだ。ましてや、長い旅路で疲れ果てていただろうし、冷静じゃいられなかったろうさ。
落ち着いたらまた、ゆっくり挨拶しに行きたいと思ってる。……大事なことだろう?
(──この和やかな口ぶりから、ヴィヴィアンにも伝わるだろうか。どれほど罵られようと、ギデオンがギルバートを嫌うことなど有り得ないと。
確かに少年時代は、初恋の恩師シェリーを横から掻っ攫っていく(ように感じた)あの男に、煮えるような激情を抱くことはあった。……けれどそれも、幸せそうに笑うシェリーを見れば、悔しいことに、自ずと薄れていったのだ。あんなに自然な顔をするシェリーを、ギデオンは見たことがなかった。彼女はいつも豪快に笑うが……そこには時たま、翳りが差す。それこそ自分が惹かれはじめたきっかけではあったけれど、彼女に幸せであってほしいという想いだって本物で、自分がそうしてやりたいと思ったことが、己の初恋の始まりで。──けれど、彼女の抱える何かしらを吹き飛ばしたのは、ギデオンではなく、あの捻くれ者の男だった。普段の皮肉っぽさに似合わぬ、熱烈でまっすぐな口説き文句を幾度も贈るギルバートを見て。……この男なら仕方あるまいと、ギデオンは静かに身を引いた。当時の自分には、男として勝負に出るには、何もかも足りていなかったし。何よりシェリーの翳りが、少しずつ少しずつほどけていくのを目の当たりにすれば、それを掻き乱したくないとも思った。事実シェリーは、あの男の妻になってから、輝かんばかりに幸せになって──それも、ほんの一瞬で、唐突に終わってしまったけれど。20年前のあの日、愛娘ヴィヴィアンをめいっぱい愛でるギルバートを見て、己の過去の決断は、やはり間違っていなかったとギデオンは確信した。シェリーはすぐに世を去ってしまったが、それでもギルバートは、自分が認めるに足る男だったのだと。シェリーを、シェリーの大事な忘れ形見を、心から愛し抜いていると。
──だからこそ、わからないのだ。今朝の、当のヴィヴィアンが、あそこまで苛烈にギルバートを拒絶した理由が。可愛い恋人は、去年の春からずっと己を熱烈に好いてくれているが……それにしたって、ギデオンに対する侮辱、それだけであれほど強い反応を示すものではないだろう。ギデオンとて、パチオ家の事情を添う詳しく知っているわけではないから……この父娘の間には、きっと何か、問題があるのだ。ギデオンはそれを知りたかった。恋人であるヴィヴィアンの力になるためにも。──あの男にシェリーを預けた、少年の頃の自分のためにも。
ふと周囲を軽く見渡す。夏は日没が遅いので、まだ街灯もついちゃいないが、辺りは既に仕事終わりの人々がごった返している。この辺りが特に賑やかなのは、カフェやらパン屋やら、それらを合わせたより遥かに多い、スタンド型の屋台やら……とにかく、手軽に食事を楽しめる店々が豊富だからだ。それこそ、サリーチェのような落ち着いた住宅街に居を持つ人々が、手軽に夕餉を済ませていくエリア、それがこの商店街なのである。そのことを思いだすと、ラメット通りに続くいつもの道に入る前に、賑やかな横道の方にくいと頭を傾げ。気分転換に軽いデートをしようと、恋人を誘ってみて。)
……なあ。朝はああ言ったが……俺もお前も、今日は正直、いつも通りって気分じゃないだろう。
せっかく便利な場所に住んでるんだ。何か美味そうなのを買って帰って、一緒にゆっくり過ごすほうに時間を割かないか。
んっ……ありがとうございます、そうしましょうか。
( 普段、自分の手料理を心から喜んでくれるギデオンに夕食を振る舞う時間は、ビビにとっても幸福で、実に満たされる時間ではあるのだが、精神的に疲れきったところへ、今日ばかりは相手の提案はありがたく。しかもそれを、ビビだけに判断を仰ぐのではなく、"俺も"と一緒に責任をもってくれる、そういうさり気ない気遣いをしてくれるところが好きなのだ。そもそも、"一緒にいるのが嫌になった"なんてギデオンが言うわけが無いというのに、我ながら弱りきって面倒臭い質問をちゃんと返してくれるところも。ビビは一言も父を庇っていないというのに、此方の内心をしっかりと見抜いて。理不尽なことで侮辱されたギデオンには、その権利があるというのに──ビビの大好きな人を絶対に悪く言わない。その上で己との未来にしっかりと言及してくれるところも。その全てがビビにとって都合が良くて、甘くて、ともすれば頼りきってしまいたくなりそうで。暖かい触れ合いに潤みそうになる涙腺を──嗚呼、いけない、と。大好きなこの人に、ちゃんと"釣り合う大人"ならなければと。これまで周囲に、ギデオン本人に、何度も何度も諌められて尚、"この気持ちに年の差なんて"と意に介さなかった忠告を、ギルバートに言われた途端、強く意識してしまっているのは無自覚だった。)
( 大振りなブロッコリーにプリプリのエビ、卵をたっぷり使ったポテトサラダに、シャリアピンソースが馨しい、薄切りローストビーフをたっぷりはさんだホットサンド。それから、薄くスライスした玉ねぎが溢れんばかりのコブサラダ……周囲の客層を鑑みてか、少し割高なそれらを買い込めば。気の利く恋人は、狭いイートインエリアの空席を探してくれようとするかもしれないが、ビビが「おうちで食べたい……」と首を振れば。再び二人、閑静な住宅街を並んで歩き、居心地の良い我が家見えてくる頃には、気分転換の甲斐あって、俯きがちだった顔にも、うふふ、と僅かながら笑顔が帰って来たようで。当たり前のように、ギデオンとの将来を描いてみせるも。それを良しとしない父のことを思い出すと、また直ぐに力なく瞼を伏せてしまい、 )
──なんか、こういうの……いいですね。
おじいちゃんとおばあちゃんになっても、お外でデートとか出来たら素敵ですよね……、
……なら、今のうちに良い散歩ルートを探しておこう。
足腰をしっかりさせておくためには、毎日出掛ける必要があるだろうからな……5、6個は見繕いたいところだ。
(おどけたように片眉を上げ、意欲を示してみせながらも、その声音には(おや)という響きが少なからず入り混じる。──己の恋人、ヴィヴィアンは、普段は明るく元気溌溂な女性だ。それでも時には、建国祭で、マーゴ食堂で、冬の宿で、春の医務室で……力なく落ち込むところも、見たことがないわけではない。けれども、今のこの萎れようは、そのどれらとも違って見えた。随分感傷的になっているようだ……今朝のギルバートとのやりとりが、余程堪えているのだろうか。ならば、それに寄り添ってこそ恋人だろうと、胸の内で密かに決意を固めておく。綺麗ごとを抜かしているが、所詮正体は下心。──これを機に、より自分を頼るようになってくれれば、それに勝ることはない。
鍵を回し、玄関扉を開け、リビングに荷物を置く。今日は少し晩酌もしようか、と話し、ならば先に軽くシャワーを済ませておこうかと、順に浴室に行くことに決め。先にヴィヴィアンに浴びさせる間、買ってきた夕食を新しく家の皿によそい、ソファーの前のローテーブルに並べておく。ちゃんと夕食をとるときはダイニングテーブルにつく習慣だが、今夜のような場合は、隣にならんでくっつきながら飯をつつくのが良いだろう。
自分個人の私物をおさめている棚から幾つか酒瓶を持ち出し、それとは別に、氷室に入れてある果実水の小瓶なども適当に取り出す。ヴィヴィアンは酒に強いほうではないから、自分と同じ杯を渡しては駄目だろう。度数が低めで、尚且つ飲みやすいものとなると……と。顎に手を当てて暫し思案したかと思えば、ヴィヴィアンが以前、赤いトッピングの乗った洋梨のムースを作ってくれたのを思い出し、キッチンの棚をも探る。──そうして、軽く手に取った銀色のシェイカーに、ピンクのリキュール、オレンジ色や黄色のジュース、真っ赤なシロップ、最後に砕いた氷を入れ。軽くシェイクし、ショートグラスに注ぎ入れたのは、所謂ピーチ・ブロッサム。いつだったか、酒場のバーテンダーが作っていたときの見よう見真似のカクテルだ。他にもいろいろ思い出したから、強請られれば作れるようにと、思い思いの酒や果実水、カットフルーツの類いを、取り出しやすい場所にストックしておいたところで。ちょうど彼女も、湯浴みを終えてきたらしい。ほかほかしているその姿に、思わず表情を緩めながら。濡れた旋毛にキスを落とすと、その片手に冷たいグラスを渡す。そうして耳元に囁いてから、自分もすぐに浴室へ向かって。)
食前酒だ。先にゆっくりしててくれ……5分で浴びてくる。
※毎度お手数をお掛けします、細部に拘って一部分のみ変更しております。
……なら、今のうちに良い散歩ルートを探しておこう。
足腰をしっかりさせておくためには、毎日出掛ける必要があるだろうからな……5、6個は見繕いたいところだ。
(おどけたように片眉を上げ、意欲を示してみせながらも、その声音には(おや)という響きが少なからず入り混じる。──己の恋人、ヴィヴィアンは、普段は明るく元気溌溂な女性だ。それでも時には、建国祭で、マーゴ食堂で、冬の宿で、春の医務室で……力なく落ち込むところも、見たことがないわけではない。けれども、今のこの萎れようは、そのどれらとも違って見えた。随分感傷的になっているようだ……今朝のギルバートとのやりとりが、余程堪えているのだろうか。ならば、それに寄り添ってこそ恋人だろうと、胸の内で密かに決意を固めておく。綺麗ごとを抜かしているが、所詮正体は下心。──これを機に、より自分を頼るようになってくれれば、それに勝ることはない。
鍵を回し、玄関扉を開け、リビングに荷物を置く。今日は少し晩酌もしようか、と話し、ならば先に軽くシャワーを済ませておこうかと、順に浴室に行くことに決め。先にヴィヴィアンに浴びさせる間、買ってきた夕食を新しく家の皿によそい、ソファーの前のローテーブルに並べておく。ちゃんと夕食をとるときはダイニングテーブルにつく習慣だが、今夜のような場合は、隣にならんでくっつきながら飯をつつくのが良いだろう。
自分個人の私物をおさめている棚から幾つか酒瓶を持ち出し、それとは別に、氷室に入れてある果実水の小瓶なども適当に取り出す。ヴィヴィアンは酒に強いほうではないから、自分と同じ杯を渡しては駄目だろう。度数が低めで、尚且つ飲みやすいものとなると……と。顎に手を当てて暫し思案したかと思えば、グラスを手に取り、掌の上で軽く冷やす。魔力に乏しいギデオンだが、複数の属性の魔素を微調整することだけは得意で、こういった小技はいろいろと身につけていた。そうしてしっかり冷たくなったグラスに、ダークレッドのカシスリキュールと砕いた氷を入れ。次いで、氷に当たらぬよう気を遣いながら、金色のシャンパンを注ぎ。ゆったりとステアすることですぐにも完成させたのは、すっきりした透明な赤が美しい、所謂キール・ロワイヤル。いつだったか、酒場のバーテンダーが作っていたときの見よう見真似のカクテルだ。他にもいろいろ思い出したから、強請られれば作れるようにと、思い思いの酒や果実水、カットフルーツの類いを、取り出しやすい場所にストックしておいたところで。ちょうど彼女も、湯浴みを終えてきたらしい。ほかほかしているその姿に、思わず表情を緩めながら。濡れた旋毛にキスを落とすと、その片手に冷たいグラスを渡す。そうして耳元に囁いてから、自分もすぐに浴室へ向かって。)
食前酒だ。先にゆっくりしててくれ……5分で浴びてくる。
っ……ちゃ、んと、温まってきてください、
( おもむろに落とされた唇と、耳元へ吹き込まれた低い声に、ぴくりと背筋が微かに震え、相手を諌める声が切なく詰まる。浴室へと向かうギデオンの背後で、薄手のネグリジェの胸元の合わせをかき寄せ、ゆるゆるとソファへと沈み込めば。火照った体に冷たいカクテルが心地よく、入浴後の乾ききった空きっ腹に、いつもよりずっと酒精がよくまわる。シャワーを浴びてる時からずっと──馬鹿なことを考えている自覚はある。行為だけ真似たところで大人になれるわけでも、問題が解決するわけでもない。それでも……名実共に貴方のものにして、手遅れにして欲しいのだと頼んだら、優しい恋人は応えてくれるだろうか。──なんて、今までずっと怯えて先延ばしにしてきたのは自分だろうに、いざ疑われれば証が欲しいだなんて、あまりに自分勝手がすぎるだろう。投げやりな思考はしまい込み、ギデオンが出てくるまでにいつも通りに戻らなければ。そう立ち上がった瞬間、ネグリジェの下で肌に滑る頼りない違和感は、ビビが下宿を出る際に、隣の女優志望から貰ったそれが原因だ。成程、装飾性に全振りしたそれは、補正機能という意味での実用性には劣るに違いない。肝心な部分の締め付けは足らずに、その代わり華奢な装飾があちこち触れて擽ったいそれを、馬鹿なことを考えた報いに違いだと力なく笑って。そうだ、なにかつまめるものでも──と、あっさり思考を切り替えてしまったものだから、その問題の下着の存在感は、うっかり本当に思考の彼方へと葬り去られてしまったのだった。
八百屋の主人からもらった真っ赤でつるりとしたトマト。何やら珍しい品種なのだと、自慢げな彼にオマケで貰って持て余していたそれに、取っておきのブッラータを添えて、透き通ったオリーブオイルに、胡椒を少々。それから、トマトの代わりに桃を割って、塩気のある生ハムを加えたもうひと皿を準備し始めたところで、背後から浴室の扉が開く音がして。中から出てきたらしい恋人を振り返らずに、僅かに上がった温度で確認すると、早く準備を終えてしまおうと、床下収納を探るべく前屈みとなって。 )
あっおかえりなさい、もうすぐなのでちょっと待っててくださいね………
ん、わかっ──……………………、…………、………………………………、
(さてはて。無駄に女慣れした態度と、妙なところで鈍い性格を併せ持つギデオンは、先ほどのやりとりのろくでもない艶めかしさに、それはもう無自覚であった。──だが、そんなさしもの大間抜けでも。髪にタオルを掻き込みながらほかほか戻ってきた矢先、この光景をでんと突きつけられてしまえば。流石にがつんと目を覚まし、思わず声も失って立ち尽くすというものだ。
見事に固まるギデオンの眼前、そのうら若い恋人ははたして如何様か。──ごく普通に身を屈め、ごく軽く……まろい尻を突き出している格好である。真顔に陥るギデオンの頭の片隅、かろうじて冷静な部分は、……いや、あれは床下の乾物か何かを取り出しているんだろう、と自動で分析するのだが。しかしいかんせん、丈の短い薄手のネグリジェと、本人の長くしなやかなスタイルが合わさって、悪魔的なコンビネーションを奏でているものだから。──まさに据え膳、そうとしか捉えようがない。どうにか平常心になろうとするも、それでもどうしても視線を逸らせず、吸い込まれるのは……先ほどからちらちらと見え隠れしている、清廉な彼女らしからぬ煽情的なランジェリーのせいだ。ところどころに小さな真珠のあしらわれた、ほとんど紐と言ってもよいそれは、明らかに実用性以外の目的で編まれた品に違いない。そう──男の欲を、掻き立てるためだけに。
なら。これは……誘って……いるのか? と。抑制剤がまだ効いているはずなのに……否、効いているからこそ、我を忘れて貪りつかずに済んでいるのだろうが……酷く都合の良い方へ、己の愚考を傾けかけては。いや、いやいやと。険しい顔を片手で覆い、力強く目を瞑って、(馬鹿なことを)と振り払う。そんなわけがない、思い出せ、今までだってこういうことは散々あったはずだ。多分これは何かの偶然の連鎖のせいであって、ヴィヴィアン自身はきっとそのつもりなどない。彼女は純真だ──グランポートのあの浜辺でも、ほんの少し戯れに揺すり上げただけで、心底震え上がっていたではないか。あんな初心な生娘が、突然その気になって、こんな露骨な色仕掛けをけしかけてくるわけがあるまい。第一、己の可愛い恋人は、父親とのあの一件で、今日はすこぶる弱っている。その矢先に、まかり間違ってもこの俺が……支えになるべき存在が、新たな問題で彼女を圧迫して良いわけがないだろう。ギデオン・ノース、おまえのほうが良い歳した大人なんだ。冷静になれ、余裕を持て──と。まさか相手も同様の痩せ我慢をしているとはつゆ知らず、どうにか己を宥めつけると。「……待ってる、」とようやく告げながら、相手にくるりと背を向けて、先にソファーに腰を下ろす。そうして小さくため息をつき、ぐったりと背をもたれながら栓を抜いたのは、先ほどのカクテルを作るときに封を切ったシャンパンのボトル。ギデオン自身はこれじゃ酔えないが、冷たいスパークリングを喉に流し込めば、もう少し頭を冷やせるはずだ。とくとく、とワイングラスにそれを注ぎ切ったところで、ようやく戻ってきた相手を振り返り、「美味そうだな」と微笑みかける。──多分、おそらく、いつもどおりの落ち着いた自分を振る舞えているはずだ。)
簡単なものですけど、桃の方はおかわりありますからね。
( 相手の苦悩など露知らず。盛り付け終わった皿と共にソファの方を振り返れば、向こうもほこほこと衛生的になった姿に、雪色の眦をほっと緩ませ、微笑む相手の隣へ腰掛ける。そうして見上げた恋人の顔が、いつにも増して頼もしくうつって、その分厚い肩に甘えるように頭を預ければ。ビビの空いたグラスに気がついて、新たにステアしてくれる手元の色っぽいこと。もじ……と、やけに座り辛い位置に装飾の来るランジェリーに、さりげなく姿勢を直してグラスを受け取れば、食前の乾杯を楽しんで。
流石、一応高級住宅地であるサリーチェでやっていけていけているだけあると言うべきか。内心の懸念を逸らすつもりでかぶりついたスナックは、その手軽さとは裏腹に、ピリッとしたソースが香る素晴らしい出来だった。思わず隣の恋人と顔を合わせ、目を輝かせれば。ローストビーフの焼き加減や、ソースの隠し味について真面目に議論すること暫く。──毎晩ビビの手料理を楽しみにしてくれているギデオンが、態々こうして時間を作ってくれたのだ。そうでなくとも、本来ギデオンは関わらなくていいはずのパチオ家の問題に、此方が手動で動かなければ不誠実というものだろう。
しかし、信頼する相棒に対してこうも口にするのを躊躇うのは、ビビ自身がこの事態の解決方法を思いついてないからだ。……分かっている、分かっているのだ。なんにせよ、とち狂って駆け落ちでもしない限りは、あの頑固な父親と再び向き合わなければならないことを。しかし、優しいギデオンはああいってくれたが、再び二人を引き合わせて、ギデオンが悪く言われるのはビビが辛抱たまらない。それに、烈火のごとく怒り狂っている父を相手に──否。自分のためにあんなになってまで、とんで帰って来てくれた人を相手に、あんなに酷いことを言ってのけて、今更どんな顔をして会えばいいと言うのだ。なにか……特別に連絡が無いことから察するに、ギルバートの容態に悪化の兆しはないのだろうが、あの父親が大人しく休めているのだろうか。あまり好きじゃないキングストンでひとり、きっと寂しい夜を過ごしているだろうに。こうして最愛の恋人の隣、大好きな我が家で過ごしている己はなんて非道なことか。──そう、何度も何度も口を開きかけては口を噤むか、違う話題を引っ張り出すか。いい加減、不自然なことは己も分かっていて、未だ覚悟が決まらずに。このまま心中を口に出せば、まとまっていない思考でギデオンに迷惑をかけることを分かっていて、一歩踏み出せないままでいる。そうして、買ってきた軽食も一段落ついて、ギデオンの作ってくれた香りの良い酒を舐めては、空いた手で相手の大きな手を弄べば臆病にも、持て余した口から滑り出るのは、余程言い慣れたらしい愛の言葉で、 )
…………あのね、……。その…………、
ギデオンさん……好き。じゃなくって……いえ、好きですけど、世界一愛してますけど、その、んー……
(ちょっとした美酒に、初めて食べるテイクアウト料理、色とりどりの自家製のつまみ。そして何より、触れ合うほどの距離感で、可愛い恋人と隣り合いながら。あれも美味い、これも美味い、こいつはこの隠し味が最高だ、この食材はいったいどこで──などなど。仲良く楽しく盛り上がっては、のんびりと舌鼓を打つこと。夏の宵の過ごし方として、はたしてこれ以上最高の贅沢があるだろうか。
そうして、ある程度腹もくちくなったところで。ギデオンが己の酒杯を揺らしていると、ヴィヴィアンが何やら雰囲気を変え始めた。カクテルで口を湿らせるも、もじもじと口ごもり、視線をさ迷わせ……はては手慰みに、こちらの手と戯れて。そっと静かに見守っていれば、恋人はようやく言葉を切り出し──けれどそれは、もにょもにょと落ちつかなげに、困ったように萎んでしまう。「自分が今言うべき言葉はこれではないのに」という自覚が、ありありと滲んで聞こえる。その真剣な表情からしても、今宵の本題にいよいよ踏み込もうとしているのに、どうすればいいかわからないのだろう。
しかし、それでとりあえず口にしたのが、いつもの愛の言葉とくるのだ。そのあまりにもないじらしさに、思わず目尻に皴を寄せて控えめに苦笑すると。不意に前方に上体を傾け、ローテーブルの皿に乗っている桃のひとつを、ピックで刺して拾い上げる。それをそのまま、相手の方に運んでいったかと思えば。無言で(あ)と口を開け、相手に真似をするよう促し。可愛らしい唇に、そっと甘い果実を食ませ──ナチュラルな「あーん」を成功させれば、満足気に目元を緩める。あの浜辺で強請られてそうして以来、ヴィヴィアンに餌付けするのが、密かな性癖になっているようだ。ピックを卓上に戻すと、繋いでいた手を緩く解いては、ソファーの背もたれ越しに相手の肩へ回し。そうしてより密着し、相手の方に頭を傾け、心地よさそうに呼吸を深めつつ。相手がもきゅもきゅと甘い果肉を食んでいる間に、穏やかな声で語りかける。何せ今宵は、充分に時間があるのだ……ゆっくり解きほぐしていこう。言葉通りの、“いちばん”の懸念事項はすぐには切り出しにくいだろうが、それでも一度滑り出せれば、やがて言いやすくなるはずだ、と。もう片方の手を持ってきて、相手と再び手を絡めては、その手の甲を指の腹で撫でさすり。)
おまえのなかで、俺への迷惑だとか、何とか……とにかく、俺にまつわる心配をしているなら、そいつは後回しでいい。俺はほら、見ての通り、今充分幸せでな。取り越し苦労には及ばない。
それよりもおまえ自身だ……きっと親父さんのことで、いろいろと不安があるだろう? 力になりたいんだ。今、何がいちばん気がかりか教えてほしい。何が怖い……?
……、……っ、
( 本人に直接言ったことは無いのだが、ビビはギデオンが食事を頬張る瞬間の大きな口がたまらなく好きだ。目を見張るほどの肉の塊や、瑞々しく色鮮やかな丸ごと果実、ビビであれば複数回に分けないといけないようなそれらが、一口で吸い込まれていく心地良さ。造り手として嬉しい程の勢いに、ついつい素材を大きく切ってしまいがちな最近。今回の桃もそのまま差し出されては、相手からのあーんを逃せるはずも無く。小さな顎を動かして、必死に咀嚼しているその隙に、実に親密な雰囲気で金の頭を寄せられてしまえば。その可愛い旋毛に唇を寄せ、陶然とした表情で短い髪をサラリと梳くと。
──何が一番怖いかなんて、そんなのあまりに簡単な事だ。 )
──ギデオンさんと、一緒にいられなくなるのが怖い。
……から、パパと、父と話さなくちゃいけないのに、私いっぱい酷いこと……でも、ギデオンさんに酷いこと言うから……パパが先に怒ったからぁ……ッ、
( そんな考えるまでもない質問の答えは、先程目の前の恋人が力強く否定してくれたばかり。しかし、ギデオンがなんと言おうと、どうしようもなく頼りベタな娘が、ちゃんと次の答えを絞り出すための潤滑油とはなってくれたようで。絡められた指をぎゅっと握り直して、年上の恋人の手のひらの上。最初はぽつり、ぽつりと漏らしていた弱音が、液体となって下瞼の縁を勢いよく乗り越えると。濡れた顔を見せたくなくて、ソファの上に小さな足の親指を合わせて縮こまり、その膝の上に目元を伏せる。そうして、己から上がった幼い子供のような泣き声に、はっと慌てて口を噤むも。流れ出ようとした感情を堰き止めて、脳裏に蘇ったのは、昼間の父ギルバートの険しい表情で。初めて見た父の怒りの表情に、再度悲しみとも不安ともつかない混乱が胸をしめ、ううぅ~ッと再び拙い嗚咽が漏れる。そうして、最後にぽつり。未だ諦めの悪い理性が気道を締めて、引きつったような、無理に冷静ぶった声を出させるも。その結果が一番頼りなく、子供じみた弱音なのだから、ギデオンが知りたがった"いちばん"が何か、わかりやすいことこの上なく、 )
…………パパ、私のこと、嫌いになっちゃったのかな……だから、怒ったりするの……?
……今まで、何かしらで親父さんに怒られたことは?
(ひっく、ひっくと、顔を突っ伏したまま震えている華奢な肩に、大きな掌をそっと添える。そうして軽く撫でさすりつつ、真横から穏やかに尋ね。相手が否と答えれば、「そうか……」と仕方なさそうに微笑む。そうして、静かに正面を向き、敢えて視線を外したまま。震える身体をこちらに傾がせ、もたれかからせて、またよしよしと慰めはじめることだろう。
なるほど、自分は思い違いをしていたようだ。パチオ家の親子関係は、てっきり過去の何かしらが原因で冷えているのかと想像していた。だが実態はどうだ。今ここにいるヴィヴィアンの様子はどうだ。──こんなに幼気に泣き咽ぶくらい、父親のことが好きで好きで仕方ないのだ。だからあのような、高圧的な振る舞いに、混乱してしまったのだろう。だから反射的に、跳ね返そうとしてしまったのだろう。それでも本音ではギルバートを慕っているから、こうして不安や罪悪感に押し潰されそうになっているのだ。そのような洞察を得れば、相手のあまりのいじらしさに、愛しさの滲んだ笑みを浮かべ。何なら、ギルバートに少し妬けてもしまうのだが。それよりまずは、彼女の不安を取り払ってやらなければ、と。肩に回していた掌を下に滑らせ、彼女の太ももをぽんぽんと軽く叩きながら、自分の声を落とし込んで。)
怒るのは、嫌いだからじゃない。寧ろおまえのことが、今でも大事で大事で仕方ないからだよ。
考えてもみろ……可愛い可愛い娘が、ある日突然、どこぞの馬の骨にこうして囲い込まれてるんだ。親父さんにしてみたら、きっと青天の霹靂だったんだろう。だから躍起になって取り返そうとして……ちょっとやり過ぎた、それだけのことなんだよ。
なあ、賭けてもいい。今ごろは親父さんもきっと、おまえに強く言い過ぎたって、おまえそっくりに落ち込んでるはずだ。……そう思うと、な? 仲良しの親子だろ。
(おどけたような声音、からかうような声音。それらを駆使して軽い調子を作りながらも、あくまで本質は真剣に、ふたりの有り様をそう説明し。可哀想に丸まった背中をゆったりと撫で擦り、時には顔を寄せて伏せた頭にキスを落としては、相手が落ち着くのを待って。)
そうかな……そうかも、
( これまで何度他人から、"お父様と仲がよろしいのね"と微笑まれようと、拭いきれない罪悪感に肯定できず、ただただ小さく笑って誤魔化してきたヴィヴィアンだったが、同じ言葉でもギデオンから言われるだけで、こんなにも簡単に救われてしまうのだから不思議でならない。頼れる恋人の明るい声に、涙で濡れていた頬を染め、えへへ、と眉を下げて頷けば。「……でも、ギデオンさんは馬の骨じゃないもん」と、おもむろにソファから立ち上がり、当たり前のような態度で長い間におさまり直す姿は、己が愛されていると信じて疑わない……要はいつも通りの姿を取り戻したかのように見えたのだが。「私の相棒で、恋人で、すっごく大切で大好きな人だって、パパにもわかって欲しいの……」なんて、今更何を嫉妬することがあるだろうか。恋人の逞しい腕の中、無防備に微笑む娘が、その人の隣で生きていきたいと願う人間の座は、とっくにギデオンのもので。 )
……私、頑張るから。次のお休みの日、ギデオンさんもついてきてくれる?
( そう珍しく弱気な姿を見せるのも、相手が他ならぬギデオンだから──……には違いないのだが。いよいよしっかりと回り始めた酒精に、一度しっかりと泣いてしまった開放感。そして耳元で囁かれたビビにとって都合の良すぎる甘い甘い赦しの囁き、それら全てがビビの理性を曇らせて、その頑なな思考をとろりと溶かしすぎてしまったらしい。
先程の弱音にも、頭上から肯定の声が振ってくれば。じんわりと広がる安堵に幸せそうに微笑んで。首を伸ばして上を向き、餌を要求する雛鳥のように相手の唇をねだったまでは良いが──滑らかで白い喉元を通り過ぎ、合わせの甘いネグリジェから、妖艶に飾り立てられた豊かな胸元を覗かせたのは完全にただの迂闊。
その上、この時のビビはギデオンの力強い後押しを受け、再度あの父親と対峙する覚悟を決めいた。つまり、あの険しい表情を思い出せば、どうしようもない不安感に苛まれるのは避けられない。──年の差を考えろ。釣り合わない。なにか血の迷いだ。そうこの一年のあいだ何度も周囲に、なんなら当の本人からさえ指摘され続け、しかし全く気に留めなかったそれらの言葉が、父ギルバートの声で繰り返されると、どうにも心に深く突き刺さって抜けず。混乱しきった脳内に、先程諦めたはずの身勝手で恥知らずな"欲求が"復活し思考を占拠し始める。
しかし、恋人の手ずから形無しに蕩けさせられてしまった思考とは裏腹に、過去のトラウマが残る身体は、カタカタと小さく震え出し。そんな理性と本能が相反し、ぐちゃぐちゃに混乱しきって目も当てられない、普段のビビであれば絶対に表さないだろう感情の発露と共に、震える指で相手の指を絡め取れば。はくはくと浅い呼吸を繰り返しながら、とろりと濁った視線を上げて、蚊の鳴くような声でささやきながら、しゅるりと背中の紐へと手をかけて、 )
──……それで、その、お願いが……あって。
本当に………………私が何を言っても、迷惑に思ったり、軽蔑したり……しない?
もちろんだとも。ふたりで一緒に見舞いに行こう……
(“定位置”にすっぽり収まり、しっとり甘えてくる恋人に、喉を鳴らして微笑んで。少しでも元気を取り戻してくれたことへの安心感を伝えるように、強請られるまま唇を食む──そこまでは、まだ良かったのだ。
けれども、自然と顔を離し、閉ざしていた双眸をゆっくりと開けた瞬間。それまで大人の余裕をたっぷりと湛えていたギデオンの表情は、がちん、と間抜けに固まった。今になって気がついたようだ。己の胸元で、色っぽく目を伏せるヴィヴィアン。彼女を真上から見下せば、そこには酷く……本当に酷く淫靡な光景が……広がっていることに。
思わずそれとなく、非常にそれとなく顔を逸らし。片手の拳を口許にやり、視線を虚空にさ迷わせながら、余計な下心を鎮めようと試みる。男をそそる蠱惑的な女体など、昔散々見飽きたはずだ。ヴィヴィアンのそれが全くの別枠なのは、それはそうだが……だとしても今更何を、何もこんなタイミングで、女を知らなかった十代の頃の感性に戻るような大馬鹿者はないだろう。そんなギデオンの自制もむなしく、肝心要のヴィヴィアン本人が、更なる追い討ちへと及びだす。何やら小さく震えながら、それでもギデオンと指を絡め。何か一生懸命に、言葉を切り出そうとして──か細くも、どこか甘やかな期待の響きを孕んだ声が、ギデオンに問いかける。その異状に思わず顔をそちらへ戻し、動揺甚だしい表情のまま、「ヴィヴィアン……?」と呟けば。──しゅるり、と。やけにはっきりと聞こえた衣擦れの音とともに、ヴェールのようなネグリジェが、中途半端にずり落ちて。ヴィヴィアンの両肩のすべらかな肌が、目に毒なほどあらわになる。
ここまでされれば、流石のギデオンも気づかないわけがない。上気した頬。潤んだ瞳。自ら脱ぐ夜着。彼女が何を求めているのか、“お願い”されるより先に、全身が感じ取ってしまった。……呼吸を忘れる。喉が渇く。普段は冷静な青い瞳は、もうヴィヴィアンから逸らせない。蛹を脱ぎ捨てて蝶になりたがっている娘に、どうして釘付けにならずにいられよう。未だ何も答えられぬまま、ただただ無言で彼女を見つめる、ギデオンの胸の内。未だ稼働する理性が、冷静な声で鋭く囁く。──やめておけ、彼女はまだ怯えているだろう。ふたりとも望んでいながら、そう上手く事が運ばずに、辛い思いをするだけだ。しかし本能もまた、別の思慮深さを込めて囁く。この臆病者。目の前の彼女は今、トラウマを拭い去れないままであっても、自分を求めてくれているじゃないか。自分が応えれば、彼女の望みを叶えてやれる、患う不安を癒してやれる。何を躊躇う必要がある? ……)
………………
(そうした、刹那の逡巡の末。ギデオンは一度目を伏せ、そしてもう一度、ヴィヴィアンと視線を合わせた。この時にはもう、いつもの落ち着いた表情を取り戻し、仄かな微笑みさえ浮かべていて。「……しないよ、」と。ゆったりした声で返しながら、絡めていない方の手を彼女の頬に添え、そっと撫でる。彼女の選択が、滅多にない出来事に直面している不安感や、判断力を鈍らせるアルコールのせいだとしても。一歩先へ踏み出したい、というのも、きっとかねてからの望みだ。ならば、彼女の欲しいだけ……今できるところまで、付き合おうと。腹を決めたが故の、静かな、けれど熱を帯びた声で、そっと“お願い”を促して。)
……それで。俺に、何をしてほしい?
………………ッ、
( ギデオンの穏やかな肯定に覚えたのは、安堵などとは似ても似つかぬ。もはや後戻り出来ぬ(と信じきった)不安と、寧ろ絶望にも近い悍ましい何か。頬を滑る普段は大好きでたまらない温もりも、どこか少し冷たいような、ゴブリンの皮で作った手袋でも被せたような。得体の知れない感触に思えてしまって、頬擦りどころかびくりと小さく固まれば。
しかし、その違和感がこの身体を暴いたならば、それこそビビが望んだ通り。きっと私はこの夜のことを──己が相手のものであることを。きっと忘れずに済むだろう。
そんな自傷に近い確信と、ほぼ同時に促された"お願い"に、いよいよ青ざめた顔へと、精一杯の笑みを浮かべて。相手の逞しい腕の中、たっぷりと焦らすようにして恋人の方へと向き直ると、その片方の膝を跨ぐようにして体重を預ける。そうして、覚えた座り心地の異常な悪さに、やっとその扇情的なランジェリーの装飾の意図に気がつけば。かあっと上がった体温も、この時ばかりは良い方向へと作用したらしい。初めは、悪趣味な飾りへの嘲笑だった吐息が、吐いた分を吸ってと繰り返しているうちに、この場にとても相応しい、しっとりとしたそれへと染まっていく。──……まずはその気にさせろ、と。……と、何気なく思い出したそのフレーズは、いつかグランポートの夜に聞きかじった、ろくでもない女山賊共の講義の一部だ。
そのありがたいご高説に従うではないが、これまで幾度触れてきたか分からぬ唇に吸い付くと。普段は翻弄されるままの動きを、純粋に己が好きだった、気持ちよかった方法を、必死に真似て再現し。そうしているうち、もとより不安定な膝の上、慣れぬ動きに滑り落ちそうになれば、相手の首に腕を回したその瞬間。二人の間でぱさりと薄い布が落ちる音が、激しい水音の間にやけにはっきりと耳についた。
それからたっぷり数十秒後。──やっと汚れた口元を離して、無言で見つめ合うこと数秒間。繋がっていた銀糸がぽたりと胸を直に濡らす感覚に身をよじると。相手の方に倒していた上半身をゆっくりと起こしながら。此方は熱というよりは、純粋な羞恥を感じさせる口振りで、促された願いについて答えて、 )
──……私が誰の、ものなのか。消えない証拠が欲しいんです。
何があっても、……絶対に、忘れられないように。
………………ギデオンさんの手で。パパがぜったい、しないこと。教えて、ください……
──………………、
(その文脈を咥内でじかに味わい、胸の内も頭の奥も熱く爛れていた矢先。耳に届いたのはあまりもの殺し文句で、思わずくらくらと目眩さえ覚えた。──今のが本当に、純真無垢な娘の口から捧げられた台詞だろうか? しかし理性はもちろん、ヴィヴィアンが決して魔性の女などではないことを知っている。いつのまにか彼女の華奢な背を這いまわしていた、己の両掌の下。うら若い恋人の躰は、固く小さく強張って震え、まるでエレンスゲの前に差し出された生け贄の乙女のようだ。……未だ、怖いのだろう。以前語った、昔の恋人との一件が、今なお深く刻み込まれているのだろう。しかしその一方で、“パパが絶対にしないこと”……ギルバートが認めないような深い交わりを、ギデオンとしたいのだ。そのばらばらになりそうな、いじらしい心ごと。手つきを穏やかなそれに変え、そっと彼女を抱きしめる。そうしてまずは、怖がりな娘の頭や背中を、あやすようによしよしと撫で。いつもの“安心できる恋人”の声で──情欲は一度押し込めて──、柔らかな耳朶にそっと囁き。)
……任せろ、忘れられなくしてやる。
でも、そうだな……こういう行為は、信頼や安心感があってこそ楽しいものだ。
だからまずは、おまえの緊張が少し抜けるまで、こうして触れ合うのに慣れよう。……なあ、上だけ脱いでもいいか?
(──おそらく、この情景を傍から見る者があったなら。歳の差があるとはいえ、共に成熟した男女同士。その事の始めが本当にこれなのかと、酷く呆れたことだろう。だがここは、自分たちふたりの我が家。他に人目はなく、大切なのは互いだけ、何を気にする必要もない。恋人の許可を得れば、ごくさりげなく身じろぎしながら、いつものワインレッドのシャツを寛げ。やがては肌着ごと脱ぎ捨ててしまうと、まずはただ、相手と静かに抱き合うのを堪能しはじめる。完全な素肌同士ではないとはいえ、いつもより肌の面積が広いのは確かだ。ヴィヴィアンの体温がじかに伝わるのがギデオンには心地良いが、きっと彼女には、これもまだ刺激的な部類だろう。故に焦らず、急がず。膝の上の彼女をあやすように抱きしめ、とくとくと鳴る心臓同士を近づける。互いの呼吸を同じリズムに近づければ、少しはこの多幸感を分け与えられるだろうか。ヴィヴィアンの様子を見ながら、時折耳や頬にごく軽い口づけを施し、「ここにいるのは俺だよ」「大丈夫だ」「おまえの怖いことはしない。ちゃんとゆっくり、確かめながらやるから……」等々、囁くこと十数分。ようやく強張りが弛んだのを感じて、思わず嬉しそうに微笑めば。今度はまた少しずつ、相手の知識の確認に入る。いつぞやの連れ込み宿で、アイリーンのあのマシンガントークに相槌を打てていたくらいだ……歳相応に物事を知ってはいるだろう。それでも、無駄に経験豊富な自分と、実践面はほぼまっさらだろう彼女で、おそらく常識の範囲が異なる。故にこれは揶揄いではなく、あくまで大事な話なのだと。そんな言葉が白々しく聞こえるほど、楽しそうな声であれこれと会話を繰り広げ。「……そういえば。自分で無柳を慰めたことは?」。酔っ払いにするには聊か迂遠なこの質問も、魔導学院出身で教養のある彼女ならば、と投げかけた者。──別に、本当に大事な確認であって。彼女を虐めるつもりなど、ちっとも、これっぽっちもないのだ。)
──………………、
(その文脈を咥内でじかに味わい、胸の内も頭の奥も熱く爛れていた矢先。耳に届いたのはあまりもの殺し文句で、思わずくらくらと目眩さえ覚えた。──今のが本当に、純真無垢な娘の口から捧げられた台詞だろうか? しかし理性はもちろん、ヴィヴィアンが決して魔性の女などではないことを知っている。いつのまにか彼女の華奢な背を這いまわしていた、己の両掌の下。うら若い恋人の躰は、固く小さく強張って震え、まるでエレンスゲの前に差し出された生け贄の乙女のようだ。……未だ、怖いのだろう。以前も何度か言っていた、昔の恋人との一件が、今なお深く刻み込まれているのだろう。しかしその一方で、“パパが絶対にしないこと”……ギルバートが認めないような深い交わりを、ギデオンとしたいというのも事実なのだ。そのばらばらになりそうな、いじらしい心ごと。手つきを穏やかなそれに変え、そっと彼女を抱きしめる。そうしてまずは、怖がりな娘の頭や背中を、あやすようによしよしと撫で。いつもの“安心できる恋人”の声で──情欲は一度押し込めて──、柔らかな耳朶にそっと囁き。)
……任せろ、忘れられなくしてやる。
でも、そうだな……こういう行為は、信頼や安心感があってこそ楽しいものだ。
だからまずは、おまえの緊張が少し抜けるまで、こうして触れ合うのに慣れよう。……なあ、上だけ脱いでもいいか?
(──おそらく、この情景を傍から見る者があったなら。歳の差があるとはいえ、共に成熟した男女同士。その事の始めが本当にこれなのかと、酷く呆れたことだろう。だがここは、自分たちふたりの我が家。他に人目はなく、大切なのは互いだけ、何を気にする必要もない。恋人の許可を得れば、ごくさりげなく身じろぎしながら、いつものワインレッドのシャツを寛げ。やがては肌着ごと脱ぎ捨ててしまうと、まずはただ、相手と静かに抱き合うのを堪能しはじめる。完全な素肌同士ではないとはいえ、いつもより肌の面積が広いのは確かだ。ヴィヴィアンの体温がじかに伝わるのがギデオンには心地良いが、きっと彼女には、これもまだ刺激的な部類だろう。故に焦らず、急がず。膝の上の彼女をあやすように抱きしめ、とくとくと鳴る心臓同士を近づける。互いの呼吸を同じリズムに近づければ、少しはこの多幸感を分け与えられるだろうか。ヴィヴィアンの様子を見ながら、時折耳や頬にごく軽い口づけを施し、「ここにいるのは俺だよ」「大丈夫だ」「おまえの怖いことはしない。ちゃんとゆっくり、確かめながらやるから……」等々、穏やかな声で囁くこと十数分。ようやく強張りが弛んだのを感じて、思わず嬉しそうに微笑めば。今度はまた少しずつ、相手の知識の確認に入る。いつぞやの連れ込み宿で、アイリーンのあのマシンガントークに相槌を打てていたくらいだ……歳相応に物事を知ってはいるだろう。それでも、無駄に経験豊富な自分と、実践面はほぼまっさらだろう彼女で、おそらく常識の範囲が異なる。故にこれは揶揄いではなく、あくまで大事な話なのだと。そんな言葉が白々しく聞こえるほど、楽しそうな声であれこれと会話を繰り広げ。「……そういえば。自分で無聊を慰めたことは?」。酔っ払いにするには聊か迂遠なこの質問も、魔導学院出身で教養のある彼女ならば、と投げかけたもの。──別に、本当に大事な確認であって。彼女を虐めるつもりなど、ちっとも、これっぽっちもないのだ。)
( "いつも"の優しい声音でかけられた、心強く頼もしい約束に、それまで強ばっていた娘の眼差しが、ゆるりとほのかに和らいだ。とはいえ、こうして少しでも身体から力が抜けたのはほんの一瞬で。ギデオンの請求に押し黙って小さく頷けば、無骨な手が釦を外していく慣れた手つきに、肌着から首を抜く生々しい動き。それら全てから目を離せずに、とうとう素肌のギデオンと目が合うと。この時初めて己が見蕩れていたことに気がついて、その認めがたいはしたなさに、バッと勢い良く顔を逸らしたかと思うと、再び恥ずかしそうに縮み上がってしまう。果たしてギデオンの腕の中、素肌に伝わってくる素肌の感触は、良くも悪くもあまりに刺激的で。相手の耳元ではふはふと、緊張で上がってしまった呼吸を震わせることしばらく。──確かに、最初からギデオンはそう宣言してくれていたのだが。ビビにとっては、これ以上ない食べ頃を差し出したつもりにも関わらず。その姿を前に顔色を帰るどころか、いつも以上に穏やかに、大好きな優しい声でビビが安心するようにと努めてくれる恋人に──ギデオンさんは本当に、私の嫌がることはしないでくれる。ちゃんと私を見てくれるんだ。そうやっと実感が追いついて、強ばっていた身体から徐々に力が抜けていく。その頃には荒ぶっていた心臓もいつの間にか、トクトクと心地よいリズムを穏やかに刻んで。愛しい恋人がくれた口付けを控えめに、けれど少しずつ返せるようになってくる。そうして、相手の肩に頬を寄せ、いつもより少し濃い相手の香りに耽溺していたその時だった。ふと頭上から上がった、穏やかな吐息に顔をあげれば、そのあまりにも純粋で嬉しそうな微笑みに、改めて自分がいかに大切にされているかを思い知り。嬉しいようなむず痒いような、温もりに満ちた多幸感に此方も小さく微笑み返すと、「ありがとう、ギデオンさん……」と、相手からすれば牛歩もいいところだろう此方に合わせてくれた感謝に、今夜二度目となる唇への、今度は甘く触れるだけの口付けを。
──さて、そんな感謝は今すぐに撤回すべきだろうか。流石に未だ安心しきってとはいかないものの、ある程度の落ち着きを持ってギデオンとの愛情表現を楽しんでいれば。徐ろに投げかけられた質問に、最初は一瞬きょとりと首を傾げかけ、「ぶりょ……?、!」と、一拍遅れてその意味に気がつき目を見張る。その無駄に迂遠な言い回しで、あくまで自分は真剣なのだと主張している男の、その明らかに楽しげな視線が憎らしく。──自分で? 自分でって……! と、相手の腕という檻の中、顔を真っ赤にして何も言えず。あー、とかうぅ~、だとか、もじもじ俯いている時点で察して欲しいのだが。楽しげな恋人は此方を見下ろすばかりで、一向に助け舟を寄越す気配がない。とはいえ、ここで強く反発すれば、寧ろ無防備な状態で是認するのと同義で。仕方なくギデオンの膝に手をついて、身体ごと少し前に近づいて、ギデオンの耳元に顔を寄せると、周囲に誰がいる訳でもないのに囁くような声で告げたのは、なんとなく大きな声で答えるのがはばかられたからで。 )
──……いっかい、だけ。
この前、がんばるって、約束したから……でも、よく分からなくって、その……
っくく、そうか……よく分からなかったか。クク……ッ、
(己の恋人は、いったいどこまでいじらしいのだろう。そんな馬鹿丸出しの思考を本気で抱いてしまうほど、今のギデオンはある意味打ちのめされていた。思わず鳴らした笑い声にも、揶揄うような鸚鵡返しにも、しみじみとした幸せの響きが滲み。「ああ、悪い。怒らないでくれ……」なんて、ご機嫌とりの軽いキスにさえ、つい甘ったるさが乗ってしまう。
不慣れなのだろうことは、もちろんある程度予測していた。だが、まさか。初めて及んだのがついこの間で、その動機すら、いつかギデオンに捧げたいから……ふたりの将来のためにそう約束したから……そんな健気で可愛らしいものだとは,さすがに思いもよらない。当然だろう、己の腕の中の娘は、ただでさえ、“その先”を意識して抱き合うだけでも怯えるほど初心なのだ。だというのに、こちらの露知らぬうちに、そんな努力をしてくれていた、などと。それもふたりきりの家だというのに、恥ずかしくてたまらないというように、こしょこしょと耳打ちされて。これだけの爆弾を喰らい、どうして愛おしく思わずにいられよう。
とはいえ、これ以上相手を笑うのは可哀想だ。何より、不慣れなら不慣れで、現実的にどう進めるかをあれこれ考えなくてはならない。故に笑みを落ち着けると、一度膝上の相手をごく緩やかに抱き直し。幼気なまろみのある額にかかった前髪を、そっと目許からよけてやり。「それならまずは、そこで悦くなるのを覚えるところからだな」なんて、涼しい顔であけっぴろげな発言を。
そこから始まったひとときは、まだまだ相手を健全に抱き上げたままの、相も変わらぬ雑談だ。流石にギデオンも鬼ではない……具体的な事を匂わせた途端また身を固くしてしまった娘相手に、それでも即座に手をつけるほど、無様にがっついたりはしない。今夜の観察で、相手が何かと身を固くするのは、トラウマのせいだけでもないことを察していた。純潔な乙女だからこその、未知に対する本能的な恐怖──それも多分にあるのだろう。それを性急に取り払おうとするのではなく。真っ赤な顔で悶える恋人を至近距離で堪能しながら、艶っぽい話題に興じる……これだってなかなかに、趣があって愉しいものだ。
とはいえ、単なる趣味にとどまりもしない。ヴィヴィアンの怖がりな身体を素直にするには、一見遠回りなようだが、精神的なあれこれから取り払うのが最善手だ。その考えから、まずはあれこれと、相手が苦手に思うことを探り出して。そのどれもに、「実はそれはこういうことだ」「そいつについては、こう考えてみないか?」などと、ギデオンなりの新しい視点を丁寧に植え付けていく。
──吊るした円柱を思い浮かべればわかり易いだろう。上から光を当てたとき、それは円形の影を落とす。だが、横から光を当ててみれば、壁に移る影は長方形を描くはずだ。それと全く同じである。一つの物事を見る時、それは必ず、同時に複数の形をしている。どれかひとつの形が、唯一絶対の正解というわけではない。円柱の影は真円だと思う人もいるし、長方形だと見る人もいる。どこから……どの視点から……どの境地からそれを眺めるか。それだけの違いなのだ。
ギデオン・ノースという人材は、この考え方を、普段は仕事で活用している。討伐作戦、中間管理職、内務調査、密偵活動。どんな職務においても、多角的に物事を見て、今回の目的のためにはどの解釈が適切か、それぞれの解釈にどんな利点と欠点があるか、熟慮する才を持っている。故に上層部からは、頭の切れる冒険者、というありがたい評価をいただいているのだが。──まさかお偉方一同も、ギデオンがその能力を、若い恋人との睦みごとにがっつり応用するなどとは……流石に夢にも思うまい。)
……つまり、そんな風になるのは、相手のことを受け入れるためだ。相手の男のことが好きだと、身体が勝手にそうなるんだよ。人体の不思議だな。
だから、焦らなくていい。お前の身体が目覚めるまで……こうして楽しくじゃれ合ってるのも悪くない。……
(──そうして。未だ潔癖な乙女であるヴィヴィアンが、はしたない、浅ましい、不純だと感じてしまう諸々。そのどれもに、魔法学やら人体科学やら、そういった(無駄に)学術的な視点や、恋仲ならではの甘い感情を交えての、ギデオン独自の解釈を述べ、織り込み、塗り替えていく。一見その会話は、酷く下らない猥談でしかないだろうが。それでヴィヴィアンの視野を多少広げられるなら、充分に価値があるはずだ。頻繁に交える冗談や、わざと相手を煽るような白々しい台詞だって、きっと彼女の緊張を解くのに一役買っているだろう。また、会話の折にふとさり気なくあちこち触れて、艶やかな戯れにも少しずつ慣れさせる。状況をよく調べ、分析し、工夫を仕込んでいき、手堅くも大胆に事を運ぶ──クエストに挑むときと同じ、ギデオンの得意な戦法だ。
こうしてじっくり話し込んでいたものだから。ふと気づくと、既にかなり夜遅くなっていた。鈴虫の鳴く窓の外を、恋人共に何とはなしに眺めた後。まだ同時に無言で見つめ合い、どちらからともなくキスをすると、ふと右手をテーブルに翳す。器用に施したその細工は、本来なら野営時に使う、食事の痕跡を一時保存する無属性魔法。要は暗に、洗い物や片付けはいったん後回しにしよう、という意思表示だ。りいりい、と涼やかな音が夜のしじまを満たすなか。相手を穏やかな、けれども少し熱を取り戻した双眸で見つめ。その頬に手を添えて、相手の余裕の確認を。)
…………。
……そろそろ、寝室に移ってみるか。
ギ……ギデオンさんが聞くから、答えたのにぃ……!
( 恋人の意地悪な物言いに、握った拳を振り上げて、ひんひんと真っ赤な顔で抗議していたヴィヴィアンだったが。その当の本人から宥めるように唇を落とされて、気持ちよさそうに目を細めると、紳士的な捕食者の腕の中、ぽやりと幸せそうに微笑んで。
──……ビビの所属していた魔導学院は、その研究部こそ学術的な権威だが。高等部以下の、特に中等部までの学び舎は、幼少期から学院へ通えるような、良家の子女のための社会教育に近い傾向がある。故に──ビビの恩師は、「知識も身を守る術だというのに」と嘆いていたが──少なくともビビの在学時代の女子生徒には、所謂"堕落に繋がる情報"とは切り離された、"良き妻、良き母"になるための教育が施されていた経緯がある。とはいえ、この奔放なトランフォードで、知的好奇心あふれる若く優秀な生徒たちは、それぞれ自由に大人への切符を勝ち取っていくわけだが。根が素直で真面目なビビの心に、貞淑であれという呪いは強く刻み込まれて、それが17の夏、最悪な形で決定打を押しことになる。
そうして、ギデオンの直截な言い回しに、再度カチンと固まったヴィヴィアンだったが。頭脳派であるギデオンの、内容に似合わぬ理論的な言い回しは、皮肉にも学生だった彼女には素直に受け入れやすいもので。これまではしたない、だらしないと恥じてきた行為や現象が、医療人として真面目な知識に繋がると。ビビの中で忌避されて、意識的に興味を向けないようにしていた質問が次々湧いて溢れ出る。時折、"好きな人"だとか、"赤ん坊"だとか、普段ギデオンの声では聞きなれぬ優しい単語に、どぎまぎとしながらも。真面目なものから、馬鹿らしい流言飛語の類まで、ひとつひとつ丁寧に説明してくれるギデオンに心を許しきり、その健全なんだかどうか分からぬ講義を終えれば。──そうか、あれもこれも、全ては動物として、子をうみ育てるため身体の自然な反応で。それなら、私の身体もいつか、絶対にギデオンさんを受け入れる準備を終わらせてくれるんだ。そう思えた途端、温かく神聖な気持ちで満たされる。そうして、食卓に魔法をかけるギデオンの脇で、何気なく己の腹を見下ろしたまま、続けられた質問にこくりと小さく頷けば。跨っていた腰を上げながら、その柔らかい下腹部を愛しげに撫でて、 )
………はい、お願いします。
あの、もし──ギデオンさんは、赤ちゃんが出来たら、嬉しいですか……?
────……、
(その穏やかな問いかけの意味を、すぐには理解しきれぬまま。思わず声を失ったギデオンは、彼女の頬に添えていた手をゆるりと下ろし、ただまじまじと相手を見つめた。目の前のヴィヴィアンは、聖母のような慈愛をたたえて、今何と言ったのか。子どもができたら嬉しいか……だと? 頭の中でそう反芻し、ようやく噛み砕いた途端。ギデオンの青い双眸は、激しく波打つ水面にも似た、深い輝きを帯びはじめ。薄く口を開くものの、そうにも喉が詰まるらしく、視線ばかりが揺れ動く。困ったような表情になるのは、何もヴィヴィアンのせいではない。胸に沸き起こる感激の嵐を、持て余しているだけなのだ。
それでも、結局のところ。「……嬉しいよ、」と。気づけば、口が勝手にそう答えていた。少し震える手を、再び彼女の頬に這わせ。指の腹でそっと目許を撫でながら、ギデオン自身もどこか堪えかねたように目を細めて、もう一度。「嬉しいよ。きっと、この世でいちばん……何よりも嬉しいことだ」と。目を閉じ、項垂れながら頭を寄せて、その思いの深さを彼女に伝えようとする。だが、すぐに物足りなく感じたらしい。太い腕を蜂腰に回し、やや痛いほどに抱きすくめ、その無言の仕草で叫ぶ。好きだ。ヴィヴィアンが、死ぬほど好きだ。
──……齢九つになるかならないかで孤児院に入ったギデオンは、上流階級の生活を知らない。故に、良家の子女が受ける徹底した淑女教育……魔導学院も施すそれを、知識として知ってはいても、目の前の恋人と結びつけるには至らない。だからこそ、より深く突き刺さったのだ。妻になること、母になることを、ヴィヴィアンが強く強く望んでくれているように見えて(あながち間違いでもなかろうが)。閨事を未だ怖がるような娘が、それを経なくては手に入らない筈のものを、ギデオンのためであれば叶えてくれるかもしれないと知って。
青年時代のギデオンは、家庭を持つことにそう積極的ではなかったはずだ。寧ろ自分は父親に向かないだろうと考え、そういった幸福を望むような女性たちとは、自ら距離を置いていた。よって自然に、自分と同類の……暇を快楽で塗り潰したい女たちと、散々遊んでいたわけだが。──今はもう、あの頃とは違う。己の腕の中には、残りの人生を共に過ごしたいと願う、たったひとりの女性がいて。彼女も自分に、子どもができたら嬉しいか、などと、彼女自身の人生にとっても大きなことを問うてくれる。それにどれほど心を動かされることだろう。つくづく自分の人生は、ヴィヴィアンに変えられたのだ。得られないはずの……得ようと思ってもみなかった幸福への道を、こうして与えられている。)
…………。
……現実的な話をすると、“絶対に欲しい”とまではいかないんだ。子どもを身籠れば、俺もしっかり支えるにしたって……どうしてもおまえの負担が大きくなるだろ。
お互い、冒険者としての自分のキャリアもある。だから別に、急いじゃいない。
だが、そう言ってくれたこと自体が……俺は、たまらなく嬉しいよ。
(彼女を抱きしめ、顔を伏せたまま。ようやく気分が落ち着いたらしく、ごくゆったりと補足を行い。それから顔を上げ、少しきまり悪そうに微笑んだのは……この歳になってこの種の感動を知り、圧倒されていたことに対して、どうやら気恥ずかしさを覚えているのだろう。軽く頭を振り、目にかかっていた前髪を払うと。今しがたの素の反応を忘れさせようとするかのように、今度は悪い大人の顔を繕い。不意にヴィヴィアンを掬い、正面からすっくと抱き上げたかと思えば。如何にも頼み込む振りに興じながら、長い脚を捌いてソファー裏に回り、そのまま寝室への階段を登り始め。)
──それに。俺は歳が歳だから、いざ望んでも、そう簡単にできない可能性がある。
となると、何度でも実践することになるし……そのための練習も重ねないとな。悪いが、少し付き合ってくれ。
……良かった、私もうれしいです、
( きつく抱きしめられた腕の中、えへへっ……と甘く喉を震わせると、硬い筋肉の外皮に頬擦りをして、その愛しい気持ちを存分に表す。──そっか、キャリアとかも考えなくちゃ駄目だよね、と。産む当人であるはずのビビより、よっぽど具体的な未来を描いてくれた恋人に、うっとりと目を細めれば。ビビも良い歳をした大人だ。こんなにも好きで好きで堪らないというのに、それだけではままならぬ現実を受け入れはするが、第一声。大人らしい冷静さを取り戻す前のギデオンが、"嬉しい"と、そうはっきり強く抱き締めてくれたことを生涯忘れることは無いだろう。──ギデオンさんも望んでくれる。ただそれだけの確信で、今回のことも、これからどんな困難が振りかかろうと、それだけで自分はどこまでだって真っ直ぐに走っていけるに違いない。
そうして、図らずも父親と対峙するための拠り所を先んじて手にしてしまい、半日以上もビビを取り巻いていた重い不安が取り除かれてしまえば。再度顔を合わせた恋人の顔に浮かぶ表情は、確かに照れ隠しも大いにあったのだろうが。わざと意地の悪い表情を浮かべる恋人の、その可愛らしさにくすくすと声をたて笑う娘の運命はいかばかりか。頼もしい腕に運ばれる間、その太い首へと腕を回し、相手の手があかない事をいいことに、額、目元、鼻先、そして唇へと甘い唇を落として戯れ。魔法のランプの温かな光が照らし出す、居心地のよい寝室の中心に置かれた大きなベッド。その沈み込むように柔らかいシーツの上にそっと下ろされて、やっと。この状況を思い出したかのように、再度少し身体を強ばらせると、口元に手を寄せるのは不安の表れで。ぺたりとその丸い臀部をベッドにつけたまま、頭上に伸びる大きな影目に入らぬように顔を逸らすと、ぷるぷると掻き消えてしまいそうな声で懇願し、 )
……あの、ぅぇ……上から見下ろされると、怖い……かも。ごめんなさ……
(悪戯な恋人を、シーツの海にそっと下ろし。こちらもお返しに、いよいよたっぷりと啄もうとした──そのときだ。ぎしり、と寝台を軋ませながら。ギデオン自身はごく軽く、何てことのない感じで寄ろうとしただけったのだが。ギデオンの視界の下、再び身を固くしたヴィヴィアンの、顔を退けて声を震わせるその様子を見れば、はたと制止して。……静かな驚愕に染まった目を、やがてはふっと優しく和らげ。)
わかった。おまえが謝る必要はないよ、教えてくれてありがとうな。
……これなら、怖くないか?
(浮いていた腰を、ベッドの端に落ち着け。「大丈夫だよ」とあやすように頭を撫でてから、自分もゆっくりと──彼女の様子を見ながら、決して怯ませないように──寝台に乗り上げ。柔らかなデュベを手繰り寄せれば、盛り上げた空洞の中に恋人を誘い込む。きっとこれならいつも通り……ふたりで寝入るときと、そう変わらない距離感のはずだ。そうして恋人が、おずおずとか、安心したようにか、いずれにせよギデオンの隣に潜り込んでくれば。喉を鳴らしながら横向きにそっと抱きしめて、まずは温もりを分け与える時間を。いつものそれと同じようでいて、夜着を隔てないじかな触れ合いは、またトラウマを思い出してしまった彼女に、どのように働くだろう。その甘い石鹸の香りがする旋毛や、いつまでも触っていたくなるような柔らかな耳朶に、今はまだ色気を含まぬ、優しい唇を何度か触れて、“ここにいるのは俺だよ”“お前の嫌なことはしない”と、再三の意思表示を。相手の全身をゆったりと、宥めるように撫でてやり……そうして、昔の恐怖に絡めとられてしまった彼女を取り戻そうとすることしばし。ルームランプの陰になった、穏やかな暗がりの中。ふと恋人と目を合わせると、気づかわしげな声で尋ねて。)
辛い思いはさせたくないから、きつかったらいいんだが。
……ほかに、どんなことが怖い? おまえに思い出させないために……知れる範囲で、知りたくてな。
怖い、こと……
( 心地よい重みのある腕の中、直に触れ合う肌が温かくて、トクトクと響く心臓の音に目を閉じると、眉間に皺を寄せ寄せながら、信用出来る温もりにゆっくりと体重を預けていく。──大丈夫、ギデオンさんは、私の嫌がることは絶対にしない。そう相手の言葉を反芻していれば、気遣わしげに此方を覗き込んできた碧と目が合って、ただそれだけでほっと力が抜けいく。
そうして続けられた質問に、あの暑かった夏の夕刻。大好きだったはずの鳶色は、とうとう一度も此方を見無かったことを思い出す。それは、高等部2年生なる直前の夏休みで。それまでの複数回の失敗を経て、二人の間には良くない焦燥感が漂っていた。半ば義務のようなキスをして、少年の手がビビの肩にかけられる。硬いスプリングの感触を背中に感じ、見上げた少年の影が──やたら大きく、恐ろしいものに見えてしまって。現実と過去、どちらのビビの呼吸もはっはっはっ……と荒く不規則に上がり出す。そんな娘を目の前にして、これまでの少年だったなら、『今日はやめておこうか』と手を引きビビを座らせて、ごくごく自然に話題を切り替えてくれていたはずなのに。その日はなにか苦しげに逡巡したかと思うと、ビビのブラウスに手をかけて──……それがわざとだったかは分からない。ビビが驚いて身体を捩った拍子に、『いい色だね、よく似合ってる』と、いつか彼が褒めてくれたブラウスが、嫌な音をたてて無惨にも千切れ飛ぶ。ビビが呆然としても、最早その手が止まってくれることはなく、一瞬遅れて起き上がろうとするも、それを抑え込むように体重をかけられて身動きが取れない。そこまで記憶をなぞった途端、ぶわりと当時の恐怖が蘇り、ガタガタと身体が震えだし。優しい恋人に"きつかったらいい"と、気遣って貰ったにも関わらず、芋づる式に素の感情が引きずり出されてしまう。思わずギデオンに縋りつこうとして、掴む布がない状況に、えぐえぐと酷い嗚咽を漏らしながら、辛うじて引っかかった鎖骨に震える指をかけると、わあっと子供のように泣きじゃくり、 )
──……おと、布が裂ける音が、怖いです。
ぐっ、て、……重いの、おなかに乗られるのも、こわい。
ここ……っ、手首をすごい力で、私……痛くて、怖くて……!! 何度もやだって、やめてって言ったのに、でも止まってくれな、くて……
( 一体全体、本当にどうしてしまったというのだろう。いくら父親の件があったとはいえ、ギデオンの一言でいとも簡単に引きずり出されてしまう感情に、我ながら困惑が隠せない。年上の恋人に宥められたかどうかして、その大号泣が治まったその後も。まるで感情の堰が壊れてしまったかのような心細い感覚に、冷たくなったしまった鼻を相手の首筋に押し付ける。この先、この人の前で負の感情を抑えられなくなってしまったらどうしよう。早速、そんな心配が的中するかのように、自分がぶち壊してしまった空気に、今日はもう触れて貰えないんじゃないか、という不安が顔を出し、未だ濡れている顔をおずおずと上げると。その薄い唇へと唇を寄せ、「ギデオンさん」と甘えたように鼻を鳴らす。そうして、形の良い眉を八の字に歪め、語弊……でこそもうないが、直接的な表現を避けた故に、己の言葉が余計にみだらな響きを持ったことには無意識で、 )
…………ごめんなさい、私、今日おかしくて……もう触ってもらえないですか……?
…………
(泣きじゃくる相手を胸に抱き、優しく撫でてやりながら。(……やり方を間違えたな)と、静かな後悔に目を伏せる。思い出させたくないと言いつつ、それを予防したい己の都合で、悲惨な当時をなぞらせた。その結果がこの痛ましい涙だ。ヴィヴィアンの持つ記憶は、彼女自身にしか辿れない……過去のものにしたはずの恐怖に、またも独りで立ち向かうに等しい。そんな真似をさせるべきではなかった──己の浅慮による失態だ。今更過ぎる苛立ちに、苦い顔を噛み殺す。
……しかし、実のところ。今ここで吐き出してくれてよかった、などと酷なことを考えて、ほっとした表情を浮かべてしまうのもまた事実。見ての通り、ヴィヴィアンの心の傷は深い。きっとこの先何度でも、昔のことを思い出して震える彼女を、こうして慰めるだろう。それを踏まえれば、こうして一度感情の蓋を取り払えたのは、小さな第一歩かもしれない。本当に憂慮なのだが、ヴィヴィアンはどうも、“ギデオンに嫌われるのではないか”などと考えて、自分の何かしら暗い部分を隠したがる傾向がある。どうかその思い込みに陥ることなく、嫌だったこと、怖かったこと……当時の相手に理解してほしかったこと、それらをこうして吐き出せるなら。それを見守り、聞き届ける立場に、己は喜んでなってみせよう。元より一度ならず、数えきれないほどヴィヴィアンに救われた身だ。寧ろこれくらいさせてくれねば、碌に恩返しが叶わない。撫でて、キスして、抱きしめて。そうすることで彼女が落ち着き、少しでも心が軽くなるのなら。己の胸を、幾らでも貸そう。支える掌があることを、縋る相手がいることを、こうして優しく撫でることで、何度でも思い出させよう。)
(……そうして。十数分か、それ以上か。ようやくヴィヴィアンの嗚咽が止み、ギデオンの肩口ですんすん鼻を鳴らすだけになった頃。相手の身じろぎする気配に、ギデオンも撫でていた手をふと止めて、そっとそちらを見下してみる。こちらを見上げるヴィヴィアンの顔──薄いそばかすの散った目元はびしょびしょに濡れており、鼻の頭は真っ赤っか。おまけに不安げな表情をしていて、見るだに痛ましい、のだが。こんな顔をしていても、いじらしくって可愛いな……などと、ろくでもないことを考える辺り。良心の在り処というものを、己はそろそろ真面目に探すべきかもしれない。そんなことを思いながら、寄せられた唇にこちらもちゅ、と軽く返し。少し掠れた声に名を呼ばれれば、なんだ、というように軽く首を傾げる。──だが次の瞬間、その青い目が虚を突かれたようにぱちくりしたかと思うと。思わず、といった様子で、喉を震わせるように吹き出し。)
……、もう、って。いいのか?
──触って、ほしいのか。
(──けれども二度目は、少し低くした艶やかな声で、相手の欲を確かめるような囁きを。このくらいなら、ヴィヴィアンを怖がらせはしないだろうか。泣き腫らしたことで未だ熱いほっぺたに手を添え、額と額をこつんと合わせる。吐息が触れ合うような距離。とはいえ、心は己の欲望ではなく、ヴィヴィアンの方にあることを、指の腹で目元を撫でるいつもの仕草で伝えようと。)
…………。なあ、ヴィヴィアン。セックスは義務じゃない。だから、おまえのなかに焦りがあるなら……それは忘れてしまっていい。
そういうことをしなくたって、俺はおまえとずっといたいし。そういうことをしなくたって、親父さんにもいつか認められるだろう。
──でも、俺はほら、“それなりに”欲があるから。おまえも望んでくれていて、無理をさせるわけじゃないってんなら。…………
(続きの言葉を濁したところで、いっそ雄弁なだけだろう。相手を見つめるその顔には今、どこか年頃の少年じみた、明るい面差しすら混じっていて。ここに来るときも彼女にくすくす笑われたように、素のギデオンは結構こうだ──歳を重ねて落ち着いたようでいて、若気が大いに残ったままだ。その相手が最愛の女性となれば、そういう欲は尚更起こる。とはいえ、それでも“待て”はできると、大人の方の目つきで語り。相手の髪をひと房掬い、長い指で弄びながら、緑の瞳を覗き込んで。)
忘れられなくしてくれるって……やくそく、したもん……
( ……そんなに、何度も確認される程、己は信じ難い願いをしたろうか。思わずといった調子で目を見開いた恋人に、かっと顔を火照らせて、その固い胸板へと視線を埋めると。もし否定された時用に、言い募ろうと準備していたフレーズも、ごにょごにょと自信なさげに窄んでいく。
確かに、焦る気持ちがないわけじゃない。しかし、ビビが恐れているのは、もはや過去となった悍ましい幻影で。目の前のギデオンは、──ビビが嫌がることは絶対にしないと誓ってくれた。その上、今もこうして、ビビを最優先にしてくれる恋人の深い愛情に。頭上から降りかかる声にも、無邪気な期待が混ざるのを感じ取ってしまえば、これ以上応えずになどいられるだろうか──……と。口を一文字に引き結び、再び頑なな瞳をあげたその時だった。
こちらの毛先を弄ぶ、子供のような無邪気な触れ合い。しかし、その此方を覗き込む表情が、想像するよりずっと大人で、こちらを気遣う暖かいものだと気づいた瞬間。ふっと全身にこもっていた力が緩む。そうして、「……ごめんなさい、ちょっと……無理してたかもしれないです、」と。ついさっきまで張り詰めていた表情を、ふにゃんと崩し。安心しきった様子でギデオンの胸に頭を擦りつければ。──普段、寝る時にそうするように──自分よりずっと大きな掌を握りしめると。切ない掠れ声で囁きながら、握った手をそっと白い腹に導いて、 )
──……だから今晩は、今晩からは、
いつか、のときのために、"練習"させてください……
──……。
……ゆっくり、進めていこうな。
(温かく握り込まれた掌が、そっとそこへ──彼女が愛おしげに撫でた、神聖な場所へ──寄り添うように宛がわれ。一瞬呼吸を忘れたギデオンのまなざしに、ヴィヴィアンの熱がふっと移る。“無理をしていたかも”と大人しく認めた彼女に安堵して、“やっぱり今夜はこのまま眠ろう”、そう促すつもりでいたというのに。こんなにもいじらしく、こんなにも控えめに、それでもギデオンを渇望する……そんな小声を聞いてしまえば。さすがにおうこれ以上は、ギデオンのほうこそ無理をしていられない。
瞼を閉じ、その甘い栗毛に顔を埋め。穏やかな声で返しながら、絡めた相手の掌越しに、すべらかな腹をふわりと撫でる。薄青い目を静かに開け、もう一度相手の視線を絡めとれば。互いの目つきは、ぼんやりと甘い。呼吸も自然と溶け込んで……おそらく鼓動すら、同じ速さでトクトクと打っているのだろう。最早言葉で語らずとも、互いの意志は充分に伝わった。どちらからともなく顔を近づけ、互いの唇を溶け合わせる。絡めたままの掌が、ひそやかに、しめらかに動く。ベッドを覆う白布が、幾筋もの皴を描きだす。
──……最愛の不慣れな娘にゆっくりと手ほどきするのは、ギデオンの想像以上に満ち足りた時間だった。最初のうちこそヴィヴィアンも、まだ恥じらいを捨てきれずに、身を捩って逃げがちだったが。「……ずっと気になっていたんだが、このランジェリーはどうしたんだ?」なんて、白々しいほど明るい声で尋ねたり。猛抗議を喰らってしまえば、くっくっと笑いながらも、ご機嫌とりに抱きしめたり。そうして楽しく戯れながら、合間に妖しい愛情表現を差し挟んでいるうちに。……いつしか互いの顔も吐息も、夜の褥によく似合う、艶やかな色を帯びはじめる。
膨らんだ半月が窓の外へ出て行くまでに、彼女に数回ほど夢を見せた。初心な恋人は少し前まで、自分の身に起きた変化を俄かには信じられず、パニックにすら陥っていたはずだ。それを思えばかなりの進歩で、本当ならこのまま、もう少し踏み込みたいところだが。──今日は、朝からいろいろあった。夜の話では二回も泣いて、体力も削れているだろう。これ以上深く追い求めたところで、キャパオーバーを押し付けてしまうだけとなる可能性が高い。そう引き際を弁えて、息の荒い彼女に顔を寄せる。汗の浮いたまろい額に、労わりのキスを贈りたかった。
このとき初めて、己の息も僅かながら浅いのを自覚し、自嘲気味に苦笑する。……これでもそれなりに、理性を保てていたはずだ。抑制剤を服用しているおかげで、我を忘れてしまうことなく、ただただ奉仕に徹していられた。……だが、もし薬を飲まなければ。もしもこの、薄い膜を張ったような感覚なしに、恋人の姿を直視すれば。そう思うと、やはり末恐ろしいものがある……つくづく自分を野放しにできない。無論、いつかはただありのまま、彼女と睦み合いたいのが本音だ。だが今はまだ、その時ではない。ヴィヴィアンには慣れが必要で、慣れにはどうしても時間がかかる。先を急ぎがちな彼女本人にも、そこのところはわかってもらわなければなるまい。ギデオンはヴィヴィアンが大事だ──決して、事を急いての過ちは犯したくない。
──けれど。今夜自分は、「忘れられなくしてやる」と……消えない証拠をくれてやると、愛しい恋人に約束したのだ。捧げられるままに純潔を摘み取ることは叶わずとも、せめて何か、代わりの何かはないだろうか。そう考えてふと、ヴィヴィアンの白い肌に目を走らせる。今夜のギデオンはそこに何度か唇を寄せていて……それでふと、思いついたのだ。「ヴィヴィアン、」と、まだ存外湿り気の残っていた声で、そっと恋人の名前を呼ぶ。「……キスマークは、知ってるよな」と。その単語を口にして初めて、今からしようとしていることの、あまりもの年甲斐のなさに、多少の恥を覚えたらしい。とはいえ、拭いきれぬ欲を孕んだ声音で。相手の耳に唇を寄せると、薄い腹に手を乗せながら、そっと相手に伺いを立てて。)
……今夜はまだ、ここまでしかできないが。約束通りに……おまえに、痕を残したい。二、三日か、長くても1週間ほどで消えるものだが……俺たちの関係の、証になるようなものだ。
少し、痛むが……耐えてくれるか。
※毎度お手数をお掛けします、随所を微修正しております。
──……。
……ゆっくり、進めていこうな。
(温かく握り込まれた掌が、そっとそこへ──彼女が愛おしげに撫でた、神聖な場所へ──寄り添うように宛がわれ。一瞬呼吸を忘れたギデオンのまなざしに、ヴィヴィアンの熱がふっと移る。“無理をしていたかも”と大人しく認めた彼女に安堵して、“やっぱり今夜はこのまま眠ろう”、そう促すつもりでいたというのに。こんなにもいじらしく、こんなにも控えめに、それでもギデオンを渇望する……そんな小声を聞いてしまえば。さすがにもうこれ以上は、ギデオンのほうこそ無理をしていられない。
瞼を閉じ、その甘い栗毛に顔を埋め。穏やかな声で返しながら、絡めた相手の掌越しに、すべらかな腹をふわりと撫でる。薄青い目を静かに開け、もう一度相手の視線を絡めとれば。互いの目つきは、ぼんやりと甘い。呼吸も自然と溶け込んで……おそらく鼓動すら、同じ速さでトクトクと打っているのだろう。最早言葉で語らずとも、互いの意志は充分に伝わった。どちらからともなく顔を近づけ、互いの唇を溶け合わせる。絡めたままの掌が、ひそやかに、しめやかに動く。ベッドを覆う白布が、幾筋もの皴を描きだす。
──……最愛の不慣れな娘にゆっくりと手ほどきするのは、ギデオンの想像以上に満ち足りた時間だった。最初のうちこそヴィヴィアンも、まだ恥じらいを捨てきれずに、身を捩って逃げがちだったが。「……ずっと気になっていたんだが、このランジェリーはどうしたんだ?」なんて、白々しいほど明るい声で尋ねたり。猛抗議を喰らってしまえば、くっくっと笑いながらも、ご機嫌とりに抱きしめたり。そうして楽しく戯れながら、合間に妖しい愛情表現を差し挟んでいるうちに。……いつしか互いの顔も吐息も、夜の褥によく似合う、艶やかな色を帯びはじめる。
膨らんだ半月が窓の外へ出て行くまでに、彼女に数回ほど夢を見せた。初心な恋人は少し前まで、自分の身に起きた変化を俄かには信じられず、パニックに陥ってすらいたはずだ。それを思えばかなりの進歩で、本当ならこのまま、もう少し踏み込みたいところだが。──今日は、朝からいろいろあった。夜の話では二回も泣いて、体力も削れているだろう。これ以上深く追い求めたところで、キャパオーバーを押し付けてしまうだけとなる可能性が高い。そう引き際を弁えて、息の荒い彼女に顔を寄せる。汗の浮いたまろい額に、労わりのキスを贈りたかった。
このとき初めて、己の息も僅かながら浅いのを自覚し、自嘲気味に苦笑する。……これでもそれなりに、理性を保てていたはずだ。抑制剤を服用しているおかげで、我を忘れてしまうことなく、ただただ奉仕に徹していられた。……だが、もし薬を飲まなければ。もしもこの、薄い膜を張ったような感覚なしに、恋人の姿を直視すれば。そう思うと、やはり末恐ろしいものがある……つくづく自分を野放しにできない。無論、いつかはただありのまま、彼女と睦み合いたいのが本音だ。だが今はまだ、その時ではない。ヴィヴィアンには慣れが必要で、慣れにはどうしても時間がかかる。先を急ぎがちな彼女本人にも、そこのところはわかってもらわなければなるまい。ギデオンはヴィヴィアンが大事だ──決して、事を急いての過ちは犯したくない。
……けれど。今夜自分は、「忘れられなくしてやる」と……消えない証拠をくれてやると、愛しい恋人に約束したのだ。捧げられるままに純潔を摘み取ることは叶わずとも、せめて何か、代わりの何かはないだろうか。そう考えてふと、ヴィヴィアンの白い肌に目を走らせる。今夜のギデオンはそこに何度か唇を寄せていて……それでふと、思いついたのだ。「ヴィヴィアン、」と、まだ存外湿り気の残っていた声で、そっと恋人の名前を呼ぶ。「……キスマークは、知ってるよな」と。その単語を口にして初めて、今からしようとしていることの、あまりもの年甲斐のなさに、多少の恥を覚えたらしい。とはいえ、拭いきれぬ欲を孕んだ声音で。相手の耳に唇を寄せると、薄い腹に手を乗せながら、そっと相手に伺いを立てて。)
……今夜はまだ、ここまでしかしてやれないが。約束通り……おまえに痕を残したい。
二、三日か、長くても1週間ほどで消えるだろう。それでもきっと……俺たちの関係の、証になるようなものだ。
少し、痛むが……耐えてくれるか。
~~ッ、もう絶対着ませんから……!
( 最初に告げられた言葉の通り、優しい年上の恋人は、まるで繊細なラッピングを破かず解いていくかのように、乙女の身体をゆっくりゆっくりと拓いていった。時折、戯れに与えられる意地悪さえも、その言葉に恥入って、普段通りにじゃれあっていたそのうちに。いつの間にか、先程まで抵抗のあった位置へ手が伸びるのを、自然と許してしまう魔法のようだ。
声の出し方、手の置く場所、それら全ての作法を相手によって教えられ。初めて上らされた頂きも、その頂点で此方を優しく抱き締めてくれたギデオンに、甘く甘く褒められながら、余韻の最中ゆっくりと地上に下ろされて、蕩けきった身体は一度でそれを覚え込む。その上更に、それを待ち構えていたかのように、覚えの良さをも愛でる触れ合い音声に──……元来、この相棒に褒められることが、好きで好きで堪らない脳髄さえも、あれ程恐怖に繋がっていたシナプスを、次々と都合よく書き換えていく。そうして、──好き、大好き。と、一方的な奉仕に報いることも叶わずに、うわ言のように呟きながら、何度目も分からぬ恍惚からやっと下りてきた時だった。
ギデオンの熱い薄青が細められ、柔らかな唇が額に触れる。その美しいかんばせに、自嘲的な色が浮かぶのが何故か途方もなく悲しくて。「……ギデオンさん?」と、此方を見つめる顔を両手でそっと包み込めば、端的な質問をしてきた恋人の様子がいよいよおかしく感じられ。その様子をよく見ようと、起き上がりかけた時だった。湿ったシーツに手をついて、ちょうど力を込めた腹筋に、大きな掌がずしりと乗って、熱っぽいギデオンの声が甘ったるく鼓膜を揺らす。その瞬間、──きゅん、きゅんっ、と。明らかにあらぬところから湧いた"ときめき"が、口を通すよりその前に、直接触れている手へと答えてしまえば。身体中を桃色に染め、空いた手で顔を隠してしまって、 )
──ッ!? ………………くだ、さい、ッほしいの、
っく、くくっ……わかった、たっぷりしてやる。
(ああ、駄目だ。この手の遊戯に熟れた身して、本来はもっと色っぽく、悠然と構えてやるつもりでいたのに。それがヴィヴィアン相手となると、結局いつもこうだ……幸せな笑い声を、事あるごとにあげてしまう。しかし今回も今回で、どうしようもない不可抗力だろう。まだ一度も直接触れていないにも拘わらず、そこが切なげに収縮し。それに自分でも気がついて全身をぼっと染め上げるも、すっかり素直さを覚えた口は、ギデオンをまっすぐに求める。そんないじらしい娘のことを、どうして愛しく思わずにいられようか。
思わず力の抜けるような、不思議で優しい充足感に、目尻をくしゃくしゃにして微笑むと。寝台にねそべったまま身悶える恋人に、低い声でしっとりと囁き返し……求められるまま証を刻む。今のこの位置関係であれば、彼女の視界に映りながら覆い被さるわけではないから、怖がらせずに済むのだと学んでいる。ここからいずれは少しずつ、普通のそれにも慣れさせたいところだ……などと、ろくでもない野望まで抱く。何せヴィヴィアンは、こんなにも素直で、呑み込みの早い娘なのだ。きっといつかは、互いの心の望むままに求め合える日が来るだろう。その時まで──今は、まだ。綻びはじめた小さな蕾を、大事に愛でてやるだけだ。)
……なあ、ヴィヴィアン。
(──そうして。薄赤い痕をつけたことで満足したギデオンは今、相手の小さな頭の下に、己の太い腕を回しかけていた。所謂腕枕の状態である。なまじ鍛えている以上、単にそのまま差し込むだけでは、ヴィヴィアンの首の角度が大変なことになるのだが。彼女の下に薄い枕を挟み込み、細かく微調整したことで、あっさり解決したようだ。実のところ、この辺りの手際の良さは、ギデオン自身の過去の経験によるものなのだが……まあ、馬鹿正直に話す必要もあるまい。そんなわけで、彼女の横髪だったり、後れ毛だったり、至る所の柔らかな栗毛を、もう片方の手でなんとはなしに弄びながら。酷く満足気な声で、相手にそっと語りかけ。)
なんだかんだ……すごく、よかったな。
次にするのは、この印が消えた頃にしようか。
……ん、よかった、けど、
( 白い肌に小さく飛んだ赤い星。そこから広がる甘い痺れに、やっとこの人のものになれた気がして。硬いギデオンの腕の中、頭上から降りかかった優しい声へ。うっとり星を撫ぜていた手を、相手の腰にとそっと回すと。その指先に触れた布の感触と、続けられたギデオンの言葉に、未だ少し赤い頬をきょとりと傾げる。
──よかったかどうかと聞かれれば、それは間違いなくよかったに違いない。初めて覚えた感覚は、思い出すだに甘美で快く、ギデオンがしてくれた約束通り、嫌な思いなど少したりともしなかった。しかし、それは大好きな男の手ずから、触れられていたヴィヴィアンにとってはそうだが。未だこうして下履さえも残している男が、"よかった"と思える意味がわからず。今更、自分ばかりが愛でられていた事を自覚して、ぽやぽやとのぼせきっていた顔をしょんぼりと凹ませると。──それでもギデオンの励ましは、しっかりと作用したのだろう。慣れぬ刺激に身体の方は、流石にぐったりと限界を迎えているものの。ベッドに入る前と比べ、随分と余裕の出た表情を恥ずかしそうに赤らめて、むん、と強気に唇を引き結んで見せたかと思えば。顔の横で作った拳に、豊かな胸元が柔らかく形を変えるのも気づかずに、夜のベッドの上には余程似合わぬ爽やかさで、至近距離から意志の強そうなエメラルドグリーンを煌めかせて、 )
私ばっかり気持ちよくなっちゃってごめんなさい……
……"次"は私にも頑張らせてくださいね、フリーダさん達に色々教えてもらったんです!
──おま、お前……何を……あいつらに教わった……??
(“謝る必要なんかない”と、余裕たっぷりに囁きかけたその瞬間。魅惑のポーズをとる恋人の、その恐ろしいたった一言で……ギデオンは見事、恐怖のどん底に陥った。フ、フリ、フリーダ……よりによって、あの山賊どもから……? と。思わずふらりと、既に横になっているのに倒れそうな顔をする。
無理からぬ話ではある。ギデオンたち男性冒険者というのは、野郎だけで寄り集まるなり、くだらない猥談で花を咲かせる生き物なのだが。かの女山賊どもが繰り広げるダーティートーク、あれの強烈なえげつなさに比べれば、本当に赤子同然もいいところだ。「女というのは、あんなに恐ろしい生きものですか……」と、悠久の時を生きてきたはずのギルマスですら、ドン引きしていたほどである。……そんな怪物どもに、俺の恋人が、ヴィヴィアンが、と。最初に脳内を占拠したのは、これからの教育を憂う、遺憾極まりない懸念。しかし次第にふつふつと、“手つかずの無垢を先に穢された”などという、幼い嫉妬が沸き起こる。もっとも、相手が歳相応の知識を有していることは既にわかっていたはずだが、それとこれとは別問題だ。何せギデオンは、彼女らの“色々”がどれほどえぐいか知っている。しかし本来、ヴィヴィアンにその話をして恥じらう様を楽しむのは、この自分であったはずだ。
様々な感情の綯い交ぜになった声で、問いを投げかけたかと思えば。はたしてその答えが、ギデオンの想定内であったにせよ、なかったにせよ。“恋人のそういった知識にあいつらが影響している”という部分が、やはりどうしても許せないと思ったらしく。不意に体を軽く起こし、ヴィヴィアンの片手をぎゅうっと大きく握り込むと。その首に吸い付きながら、掌の内に意識を集め──お前が欲しい、今すぐほしい、と無言で強請るのは魔力弁。一度情事を引き上げたはずが、どうやら延長戦をおっぱじめる気満々のご様子で。相手に何かしら言われれば、「“次”は頑張ってくれるんだろう……?」と、どこか少しだけむくれたような、しかし開き直っても聞こえる、低く妖しい囁きを。)
へっ……!? なに、何って……
( 実のところはというと、頼もしい先輩方に仕込まれたのは、聞けば拍子抜けするような、女が男に捧げられる奉仕の基礎の基礎。しかし、年季の入った大人にとっては児戯の如き戯れも、生粋の純粋培養乙女にとっては非常に難易度の高い質問で。何か怖いものを見たような、気の遠い表情をする恋人を安心させてあげたい気持ちと、酷い羞恥の板挟みになり、かっかと頬を染めながら、小さく小さく縮こまると。──ええい、と。相手の耳元に顔を寄せ、例え掻き消えそうな声だとしても、必死の勇気を振り絞ったというのに。それを耳にした恋人の反応はどうだ。怒るでも安心するでも何かしらの反応もなく、おもむろに姿勢を持ち上げたかと思うと、ぷるぷると握りこまれた小さな拳をわり開かれて。「……ギデオンさん?」と、振り仰ごうとする首元へ、金色の頭が潜り込む。 )
ひっ……あっ、ギデオンさ、これ……!!
( 弱いところに吸いつかれ、擽ったさに身体を捩れば。わり開かれた掌に走る感覚に、はっと潤んだ瞳を見開く。先程同じ男に愛でられた、痺れるほどに甘い感覚。初めて覚えたはずのそれを、しかしビビの身体はどこか覚えがあるかの如く、不慣れながらに飲みこんでいた。その既視感にやっとのことで気が付いて、──まさかと、答えを知っているであろう恋人の側頭をぺたぺた叩くも。首元を震わすむくれた声音が既に答えだ。魔素を直接やり取りすれば、それもうはっきりべったりと、"見える"者には丸わかりの跡がつく。──じゃあ……、パパにも、おじ様にも……!! と、気の遠くなるような羞恥に、今度はこちらが目眩を覚える番で。
しかし、不遜な恋人を叱ろうと、一度身体を離しかけた瞬間だった。ちゅう、と吸いつかれた感覚に、ぶわりと全身が総毛立ち、魔法弁がひとりでに開く感覚が襲う。否、魔法弁は勝手に開いたりなどしない。その快感を知って己が堪らず開いたのだと突きつけられて。身体どころか、自分の意思もままならぬ混乱に、白い足の指先で既に荒れたシーツを更に乱すと。己の浅ましさを認められずに、栗色の頭をいやいやと振るその間にも、求めることに慣れきった弁は、早く早くと続きをねだる有様で。じゃあ止めるかと問われれば、真っ赤な顔をゆっくりと横に振るだろう。 )
ちが、ちがう……!
……私、おこってるんですから! こんな、知らなかったのに……!!
ん……、…………、
(ギデオンの横髪辺りをぺしぺしと咎めてみせる、いとも力ない手つき。しかしそれすら、情欲にますます火を注ぐ燃料なのだということを、相手はわかっているのだろうか。鼻腔を満たす石鹸の香り、不規則に跳ねる柔らかな肢体。這いまわる唇の下、ぶわりと上がる体温や、今はまだ貞淑に……でもどこか堪えるように……ぴくぴくしながら閉ざされている、魔力弁の感触さえ。己をどろどろに蕩かしてしまう、甘い甘い媚薬に他ならない。体中がぼんやりと痺れるような感覚に、酷く満足気に息を吸いこみ、震わせながらまた吐き出す。それだけでさらに慄く相手には悪いようだが、こちらはまさに夢心地だ。
──ギデオンは、未だ知らない。魔力弁を介した直接の魔素交換が、見る者が見てしまえば、どんなに鮮烈な痕を残すか。物体の魔素は幾らか読めるようになったところで、それよりもっと複雑な構造をした人体については、プロの魔法学者や医療従事者と同じ見方ができないのだ。故にその視覚的な影響については、一応無罪と言えなくもないのだが。この行為に伴う、摩訶不思議で……強烈な快感。それがいったい何に似ているかについては、寧ろ知り尽くしていただろう。
ヴィヴィアンとの戯れに暫く溺れていたものの、腕の中から抜け出そうとする動きを察知した瞬間。“嫌だ”“取り上げないでくれ”と。恋人繋ぎをした五指の先に力を籠め、己の掌をぎゅむぎゅむと押し付けた──そのリズム、抑揚。それがどこか、先ほどの遊戯のそれと似通っていたせいだろうか。ギデオンのそれが上手く吸いつき、抗えずにほろりとほどけた、彼女の器官の素直さに。一瞬はたと静止して、身じろぎしながら身を起こし、相手を見下ろす。困ったようにこちらを見上げるのは、一対のエメラルド。しかしその瞳は、混乱に潤みきっていて──思わず、その豊かな胸元に顔を突っ伏す。何を始めたかと思えば、逞しい両肩をぷるぷると震わせているのだ。途端に上がる悲鳴じみた言い訳、これがなんとまあ、彼女はこちらを退かせるつもりだったのかもしれないが、完全なる逆効果で。とうとう耐えきれずに声を上げて笑いだし、腕枕にしていた方の手を引き抜くと。またもぺしぺし叩いてくる手首をごく優しく奪い、下ろさせ。自分の手はまた枕元に戻してきて、相手の頭を撫でてやるのに使いながら。笑みの引ききらぬ悪い顔で、半月越しの今更な自白を。)
知らなかった、か……っくく、そうだよな。
覚えてるか? あの時、お前は“腰を抜かした”なんて言ってたんだ。
もうどれだけおかしくて……可愛くてたまらなかったか。黙ってるのには、ああ、本当に苦労した……
(憤激している可愛い恋人を、そうして意地悪く、笑いの発作の揺り戻しに耐えながら揶揄っては。相手の反抗なり何なりの勢いを、今も絶えず掌中を責め立てる欲張りな感触で、瞬く間に削ぎ落してしまう。──魔力弁が目に見えないのは、肉体上には存在しない特殊器官であるからだ。そんなにも繊細で摩訶不思議な、普通触れ合わない場所を、こうして自分の意志で動かし……相手のそれに食みつかせ、あまつさえ魔素を流し込む。これがどれほど楽しく、満たされる行為であることだろう。最初は余裕たっぷりに優位を楽しんでいたギデオンも、また息が上がり始めると、「なあ、ちゃんと……引き返せるうちに、確認したい。もし本当に嫌なら……」と、思い出したように尋ねるものの。林檎のように真っ赤な顔をした恋人は、弱々しく否と答えるのだから、もうたまらない。無言で唇を奪い、心置きなく彼女の中へ溺れ込んでいく。
──唇が痺れてしまえば、魔力弁に。魔力弁が力尽きれば、再び唇に。そうして飽きずに高め合ううちに、身体じゅうがどんどんと火のように熱くなる。あの月夜の船上や、昨夜過ごしたひとときとは違い、今日はふたりを隔てる物が少ない。そのせいで、彼女より魔法の素養が低いギデオンですら、半月前の彼女と同じ境地に近づけているようだ。パチパチと頭の奥で鳴り続けてやまない火花、それすらも心地好く。もう数時間も、先ほどのそれと似て非なる快楽を、今度はギデオンも一緒に追い求めていた時だった。
彼女をもっと昇り詰めさせたい、という欲望が沸き起こり、ふとあの夜の出来事をもう一度思い出す。あの時の彼女は、まだ睦事を知らぬ身だった……なのにどうして、“腰を抜かした”か。その解に辿り着いた理性は、「あとで散々怒られることになるぞ」と囁きもしたのだが。思いついたら止まれない──試さずにいられない。既に息の荒い彼女を、ますますぴったりと抱き寄せると。密に絡めあった掌中、すっかりほぐれた魔力弁に、己の熱い魔素をたっぷり流し込みながら。──いつぞやの冬、まだ一応は恋仲ではなかったころ。訳ありで呼んだことのあるその愛称を、本人の赤い耳元に。低く掠れた声色で……吐息交じりに囁いて。)
──ビビ……、
──……っ、ひどい、ひどい!
可愛くないもん! いじわる! 全然優しくない!!
( ──何も知らなかったのに。何も知らない、真っ白で綺麗なままだったのに。経験豊富な恋人の手で、否が応もなく染められていく感覚に、羞恥だけでなく、心地よい充足感がビビを満たして。未だ嗤っているギデオンへ、頬を真っ赤にした精一杯の悪口も。相手が此方を強く貪る光景を目の前に、自然と勢いを失ってしまえば。二人きりの闇の中、合わさった唇の隙間から、酷く満足気な笑みが小さく漏れた。
そうして、どれほどたっただろう。唇と掌、両方を使って、丹念に解された熱い身体は、少し加減を変えるだけで、面白いほど反応し、痺れきった唇からは甘く切ない悲鳴が漏れる。それでも、唇ごと食べられるようなキスはまだ良い方で。口内を満たす分厚い舌に、ビビはただ夢心地で貪られていれば良い。しかし、掌を介すそちらの方は、相手のキャパを超えないように、与えられた分だけの快楽を送り返す調整の、気の遠くなるようなもどかしさに、頭がおかしくなりそうだ。我ながらやけに耳につく、甘ったるい嬌声も聞くに絶えずに。こっちにしてとばかりに、薄い唇を何度も何度も啄めば、僅かに身動ぎしたギデオンに、ぼんやりと濡れた瞳を向けたその時だった。
小さな吐息に反応するほど、鋭敏にされた聴覚に、刺激の強すぎる低い囁き。今この瞬間、ビビの身体を貪り尽くす権利を持った男に呼ばれて、蓄積していた快楽が大きなうねりとなって全身を襲う感覚がした。太く逞しい腕の中、柔らかな肢体が激しく跳ねて、見開かれた目の縁からは、生理的な涙がこぼれ落ちる。先程教えこまれたそれよりも、ずっと激しく突き落とされるような感覚に、助けを求められる相手は、その突き落とした張本人しかおらず。咄嗟に回した広い背中に、女の爪痕が微かに残る。そうして、やっと降りてこられた感覚に、ドクドクと暴れる心臓の音を聞きながら、くたりと相手の胸へと持たれると。何が起こったのかよくわかっていない表情で、喉の痛みを感じさせる声で呼ぶのは、他でもない相手の名前で、 )
──……ッ、……ッ?…………?、??、
けほっ、……あ、なに、ギデオ"ンさ、ん"……?
──……ッ、~~ッ、、
(愛情、情欲、好奇心。それらを込めて魔力弁を舐り、耳元に低く囁いてみれば、ヴィヴィアンの反応のどこまでも期待以上なこと。しかし彼女を抱くギデオンは、その甘美な悲鳴を愉しむばかりでもいられなかった。触れ合う素肌全体からぶわりと押し寄せる、温かな快感の波……ただそれだけなら、まだ恍惚とするだけだったが。がっちり絡めた大小の掌、その内側の魔力弁で、理性を飛ばしたヴィヴィアンが、その豊潤なマナをどくどくと、断続的に……数瞬ではあれど……力強く流し込んできたのだ。瞬間、意識がぶっ飛んだ。息すらもできなかった。それまでは、大の男である自分が、自分より若く小柄な娘を、好き勝手に翻弄していた筈なのに。混乱に駆られる意識すらも保てず、ただただ忘我の境地へ追いやられ。全身を甘く激しく駆け巡る感覚に、いとも容易く己を塗り潰されてしまう。
……やがて、数秒後か、数十秒後か。あまりにも活きが良く、それでいてお利口な魔素が、ヴィヴィアン本人の躰の中へ、来た時と同じように素早く戻っていったころ。ギデオンはようやく、堪えていた息を「ッは、」と吐きだし、そこから必死に、荒い呼吸を整えた。今は夏だというのに、肺腑に取り込む空気がひんやりとして感じられる。頭に酸素が行きわたれば、ようやく多少の思考力も戻ってくる。……が、今さっきはあまりに意識を飛ばし過ぎて、正直何も覚えていないに等しい。せいぜいが、何か凄いことが起きていた気がする、くらいのものだ。遅れてやって来た、事後のそれに近い倦怠感に、ただぼんやりとしていると。己の声を呼ぶ声が耳に届き、気怠げに頭を動かしてそちらを見下ろす。小さな栗毛の頭が、ぴとりと己にくっついていた。どうやら彼女も彼女で、感覚の最果てから現世に戻ってきたところらしい。自分と違い、まだ新鮮な混乱をきたしたままでいる様子が、どうにもいじらしく。ふ、と脱力した笑みを漏らすと、何時間もきつく絡めていた手を緩くほどく。先刻まで淫靡な戯れに浸していた筈のそれだが、流石にこちらも疲れたのだろう、魔力弁が静かに口を閉ざしたのが何となく感じられた。そうして、夜気の爽やかさを掌中に感じながら手をもっていき、相手の頭をゆったりと撫でて。)
…………、気持ち……よかったな。
(さてはて、これはどうしたことか。ヴィヴィアンを愛でたり虐めたりするときは、あんなに饒舌になっていた男が、その一言しか絞り出せない有り様だ。別にそういうわけでなくとも、今宵何度も“経験”を積んだ彼女に、喉を痛めてないかとか、具合は平気かとか、真面目にかけてやりたい言葉が、あれこれ思い浮かびはするのだが。しかしいかんせん、この倦怠感が不思議と心地よくて……最低限以上の声が出せそうになかった。それでも、初めてのことだらけで不安だろう彼女を、少しでも安心させようと。相手をごく軽く、衣擦れの音も立ちやしないほど弱く抱きしめ、その旋毛に唇を寄せて。「俺もよかったよ」「頑張ったな」と、ゆっくりと相手に囁く。──しかし、今晩のギデオンは殆ど身体を動かしちゃいないのに、どうにも疲労が強いのか、強い眠気を隠せておらず。実際、相手にその辺りを訊ねられれば、情けないが素直にそうと認めただろう。それでも最後の理性で、いつの間にかベッドの端に押しやっていたデュベを引っ張り上げると、自分とヴィヴィアン、特に相手の方にしっかりと、風邪をひかぬようにかけ。相手の頭にすり、と高い鼻梁を寄せると、心地よさそうに瞼を下ろし。)
明日は……朝の鍛錬は……オフ日だから……
朝まで……ふたりで……ゆっくり……寝よう……
──……! おはようございます!
( 翌朝、ギデオンがベッドの上で目を覚ませば、薄青い瞳が開いたことに気がついて、その顔を心配そうに覗き込んでくる恋人が目に映るだろう。昨晩は初めての経験の連続に、ぐったりと疲れ果てた身体をシーツに沈め。やけに眠たげな男に自分がしたことどころか、そもそもギデオンの調子がおかしいことさえ気づけずに。一見優しい労いの言葉に、やっと愛しい恋人に少しでも応えられた実感が嬉しくて。心地好い眠りへの誘いに、へにゃりと小さくはにかみながら、重い瞼を閉ざしたヴィヴィアンだったが。早朝の薄寒さに──一糸まとわぬ姿というのに、折角かけてもらったブランケットを剥いでしまっているのだから当然である──ともあれ珍しくギデオンより早く目を覚ませば、目の前に晒される無防備な筋肉の凹凸と、ベッタリといつもの数倍濃く擦り付けられた己の痕跡に、朝一番、何とか悲鳴を飲みこんで頭を抱え込んだのは言うまでもない。しかし、一気に覚めた微睡みに、昨晩起きたことをじわじわと実感してくれば、心地好い満足感や、乙女らしい恥じらい、そんなものよりずっと大きく襲うのは、未だ目覚めぬ恋人への心配で。──自慢じゃないが。同棲開始当初、毎朝早くから鍛錬に行くという恋人に、己も連れて行って欲しいと強請った翌朝から、どんなに辛抱強く揺り起こされようと、結局起きられなかった実績を持つヴィヴィアンである。未だ仕事まではまだ随分余裕があるとはいえ、そんな自分が目覚めてギデオンが起きないという異常事態に。思い当たるのは、今この瞬間も相手の全身から放たれる、それはそれは色濃い己の魔素で。魔力酔い、ヒーラーの魔力への拒絶反応、魔法弁緊縮……この一瞬でもザアッと脳裏を過ぎった恐ろしい症例の幾つかに、真っ青になったビビが急遽動いたからか、それとも元々起きていたのか。やっと覗いたギデオンの瞳に、ほっとヒーラーとしての表情が緩む。そうして、己の一糸まとわぬ姿を自覚しているのかいないのか、四つん這いでシーツの間から抜け出すと。白い朝日のその下で、ギデオンの頭の横に手を着く要領で覆いかぶさり、もう片方の手をその肉付きの薄い頬へ伸ばすと、瞼の裏、首筋の脈、その他発汗の有無などを慣れた手付きでぺたぺた確認し始め、)
私、ごめんなさい、こんな、我慢できなくて……体調どこか気持ち悪かったりしないですか……?
(今年の春からヴィヴィアンの愛読書となっている鈍器……こと、『人体における魔素の機能と魔学註解』、その第2編1章曰く。
人体には“恒常性”、ホメオスタシスという性質が宿っている。“肉体はいつも一定の状態にあるべき”という、一種の思想にも似たもので、おそらくは安定した生命活動を至上としているかららしい。体の内外に何かしらの変化が生じると、このホメオスタシスが顔を出し、体を“いつもどおり”に戻そうと、様々な反応を引き起こす。このメカニズムのことを、“恒常性の維持機能”……動的適応能……アロスタシスと呼称する。
アロスタシスには様々なものがある。身近な例でいえば、“暑くて汗をかく”、“寒くて震える”などがそうだ。これらの場合は体温調節が目的だから、“生体恒常性”由来のアロスタシスとなる。……そう、素人にはどうにもややこしいのだが、一口にアロスタシスといっても、医学的便宜上、2種類の別があるらしい。では、“生体恒常性”由来でないほうは何なのかといえば、“魔径恒常性”由来なのだそうだ。魔径というのは医学用語で、魔素が体内を循環する回路のことを指す。つまり、人間が宿す魔素──すなわち魔力にも、恒常性の法則が当てはまることになる。
──昨晩のギデオンは、ヴィヴィアンとの交歓により、体内の魔素が急激に上昇した。ヴィヴィアンが最後に流し込んだ魔素は、そのほとんどが本人の方に戻っていったとはいえ、残滓の量ですら莫大になったからだ。ギデオンは魔力の保有量が生来そう高くはないから、これは体にとって異常事態といえるだろう。ならば必然、強烈なアロスタシスの発動、反動じみた押し戻しを招くことになる……はず、だったのだが。)
………………
(──恒常性、ホメオスタシスには、実は面白い例外……というより、応用の現象がある。肉体の状態を一定に保つ、それを至上とする性質であるはずが、その個体の置かれている環境や活動量次第で、“恒常”の定義が、普通のそれからズレていくことがあるのだ。
生体恒常性の例で言えば、大昔にいた飛脚たちの特異な体がそれだろう。日々長距離を駆けることを生業とする彼らは、普通の人間に比べて心の臓が強くなる。すると、一度に送り出す血液の量が多くなるので、安静にしているときの心拍数がぐんと下がり、常人の半分ほどに落ちるそうだ。血液の総循環量では何も変わっていないだろうが、心拍数という点に着目すれば、これは明らかな“恒常性の変化”であるには違いない。
生活次第で体は変わる。特殊な要因に長く馴染んでいればいるほど、体の方が順応し、“いつもどおり”を書き換える。それと同じ現象が、実はギデオンにも、たった今起こり始めていた。
この1年、何度も何度も馴染んできた、ヴィヴィアンの魔素。数えきれないほど窮地を救ってくれたのを、もはや肉体の方が強く覚え込んだ魔素。その名残が、体中のあちこちにたっぷりと残留し、ギデオン自身の宿す魔素に抱きついて離れない。まるで宿主のヴィヴィアン自身が、普段ギデオンにそうするのとそっくりに。
──ギデオンの体に備わっている魔径恒常性は、それを異常事態であると判定しなかった。寧ろ好ましく感じてすらいるようで、“何だ何だ?”“あ、コレいつものあの娘のじゃん”“じゃあ取り込め取り込め”といった具合に、体内の魔素が覚醒時よりも活発になる始末である。となると当然、その奇妙で不慣れな現象に、肉体が疲弊するのだが。それを認識した脳の方が、とんでもない指令を各所に送り込みはじめた。すなわち、“この魔素何回も貰ってきたけど、なんか今回すげえ爆弾供給来たし、これもうこの先も安定して得られるんじゃね”“じゃあこっちのほうが先方に合わせて変わればトータル得よな、各々よろしく”“いいじゃんいいじゃんやったれやったれ”と。ヴィヴィアンの魔素が次にまた大量補給されれば、もっと上手く取り込めるようにと。──ギデオン自身の体のほうを、作り変えることにしたようだ。)
*
…………ん……
(──まるで泥のように昏々と眠り込んでいた、その果てに。体の方が、“今日のところはまあここまでにしておくか”と、ギデオン本人も与り知らぬ突貫工事を、一度引き上げたからだろう。すぐそばで起きた身じろぎの気配を感じ取れるようになり、ギデオンはそこでようやく、ごく自然に目を覚ました。
……何故かすぐ目の前に、ヴィヴィアンの顔がある。なんだか随分真剣な顔でこちらを見ているな、と知覚することはできたのだが、こちらを心配しているのだと理解するには、ギデオンの頭はまだ酷く寝惚けていて。……なんだ、珍しいな。おまえのほうが、先に起きているなんて……そんなようなことを、呟くまでも至らずにぼんやり考えていたところ。
恋人はさらに身を寄せてきて、ギデオンの顔周りをあちこちぺたぺた触り始めた。最初はただされるがままだったギデオンも、やや困惑しながら「……いや……」「特には……」と返すうちに、視界を占める肌色の多さがやけに多くておかしいことを、少しずつ認識しはじめる。その表情がだんだんと、いつもの──お約束の真顔の──それに戻りだし、やがてはぴたりと、それは見事な硬直と共に完全な理解へ至る。すっかり覚醒したギデオンの視界、愛しい恋人はその瑞々しい肢体を惜しげもなくさらけだしてギデオンに跨り。あろうことか、ギデオンの目の前に魅惑の果実を並べているのだ。何ならそれは、いやに真剣に診断している本人が無自覚なせいで、ギデオンの胸板の上でごく柔く撓んでいるし、彼女が身じろぎするたびにむにむにと弾力を伝えてくる始末だ。そこから無理やり意識を逸らそうと、他の何かに感覚を向けた瞬間……びきり、と眉間の皴が深まった。ギデオンにその自覚はないものの、一晩で何やらいろいろあったらしい体は、主人がぐっすり眠りこけていた間に、例の大事な薬の効果をすっかりどこかへ追いやってしまったらしい。まあ、別にこんな状況でなくとも、生理現象として朝はある程度このようになるのだが……なんかもう、これはもう、いろいろと駄目だろう。思わず苦し気な呻き声を喉から絞り出し、その表情もそれにたがわない色となれば、相手をぎょっとさせてしまうには違いないだろうが。目を閉じながら、安心させるために抱きしめるべく、相手の背中に腕を回しかけ──がちりと空中で制止させれば。その大変珍妙な、中途半端な状態を数秒晒したかと思うと、両腕を力なく下ろしてしまいながら、目覚めたてだというのに疲れた声で自己申告を。)
気持ち悪くはないが……誰かさんのせいで……おかげで……“具合が悪く”は、なってるな。
※神経をモチーフとしていることや漢字そのものの語義などから、「魔径」は誤りであり、「魔経」が正しい語となります。めちゃくちゃ細かいところなのですが、お詫びして訂正申し上げます……
※補足2/リアル生物学の恒常性・その維持機能・動的適応能の解釈を思いっっっきり間違えていたことに今更気がつき頭を抱えているのですが、それっぽいエッセンスとしてふわっと読み流すか、Petuniaにおいてはこのように解釈するということにしていただければと思います…………深くお詫び申し上げます……………………
……ッ!! ごめ、ごめんなさい!!
( 朝の空気で満たされた清々しい寝室に──ひゃあ、とも、きゃあ、とも取れぬ、高い悲鳴が間抜けに響く。それを見たのはグランポートのビーチから史上3回目にもなるが。昨晩さんざん艶冶に戯れておきながら、一向に慣れぬ様子で飛び退くと、拾い上げたデュベに包まりながら、両手で隠した顔をぽぽぽっと勢いよく染め上げる。──そうして、きっとこれまでならば、顔を隠して困ったように震えながら、優しい恋人がビビに何かをに謝って、そっと離れてくれるか、収めてくれるのをただじっと待っていたろう。しかし、男が凡そ朝に"こう"なることなど預かり知らぬ、開花を直前に控えた娘は、相手の体調に問題が無さそうだという安心感と、昨晩を無事乗り越えられたことで、少し気が大きくなっていたらしい。──私のせい、なら……。そうデュベを纏った手を下ろし、自分のせいでそうなったという場所を、揺れる瞳でじっと見つめると。滑りの良い薄手の掛布団がするりと優美な曲線にそって流れ落ち、白いデュベ、白い肌、その間に結局淡い色のそれを覗かせる。そんないっそ何も纏わぬ方が余程破壊力の少なかったであろう有様で、困ったように桃色の唇を数度噛み、濡れた瞳に覚悟の色を浮かべると。二、三度相手の唇に吸い付いて、相手の下半身へと身を屈めながら見せた上目遣いは、これまでギデオン相手に大抵のおねだりを通してきた、自覚と自負のある渾身の表情で、 )
…………、……ギデオンさん。
触って、いい……? "これ"、私のせいなんでしょう?
(てっきり、悲鳴を上げながら飛びのいた後は、「人が心配してたのに!」とぽこすか怒るに違いない、そう踏んでいたものだから。首の後ろを掻きながら気怠げに上半身を起こしたギデオンは、相手のいやに艶めかしい姿から、ごく自然に、さりげなく、ここに紳士極まれりといった具合に、その端整な顔を逸らしてみせた。──だからまさか、向こうから甘い唇を寄せてくるとは思いもよらず。目を大きく瞠り、離れていった相手を唖然とした顔で見下ろして。そうしてひとしきり間抜けな硬直を晒していると、己の恋人はあろうことか、ギデオンの愚直なそれに関心を寄せ──酷く淫らに、強請ってくるのだ。一瞬、飛んだ。思考が。宇宙に。)
────…………
(真っすぐにかち合う、呆然としたターコイズと、意志の強いエメラルド。爽やかな朝陽が窓辺から降り注ぐ、全てが明るい寝室で。どこからかカラドリウスの鳴き声がチュリリリリと聞こえてくる中、話題のそれを真ん中に挟み、男と女が無言でじっと見つめ合う有り様は、実に妙ちきりんである。……これが夜の寝しなであれば、ギデオンは然程迷わず、促してみせたのだろう。閨事への一歩として、また自身の素直な欲望に従って、相手の興味の赴くがままにさせてやったことだろう。しかし今は朝、健全なる晴天の時間、これから一日が始まろうという至極大事な出だしであり、ついでに言えば……というか、そういえば仕事前だ。それを恋人可愛さで台無しにすることを、ギデオンの強靭な理性、もとい鉄骨の逃げ回り精神が、良しとするはずもなく。)
──、“ビビ”、その勉強は後だ。
朝食を作るから、下でシャワーを浴びてこい。……お前のほうこそ、俺のせいでどろどろになってただろう。
(はたして昨夜の名残だろうか。普段は呼ばない相手の愛称を、今度は明らかに子ども扱いする文脈で呼びながら、戒めるような声音で、ぶっきらぼうな命令口調を。しかし、最低で余計な一言をわざわざ付け加えたのは、はたして相手への揶揄いか……或いは、単なる天然によるだろうか。いずれにせよ、“それ”はなしだとはっきり態度で示すように、広い背中を向けながら寝台を降りようとして。)
※ストーリー上は全く重要ではないものの、魔法医学上の考察がある程度固まり、主人公ふたりに対する新解釈も得られたことから、先述のロルに記載した内容の修正も兼ねて共有させていただきます。
・人体の2大要素
ひとつの生命は,肉・骨・神経などからなる物理体こと「生体」と,魔素から成るエネルギー体こと「魔導回路」の2種類の要素から成り立つ.
→魔導回路は生体の上に重なっているが,通常の肉眼には見えない.ただし,魔法的素養があれば,通常のそれとは異なる形で“視認”することができる.
→魔導回路は生体に依存する.魔導回路が急激に弱ることで生体に支障をきたすケースもあるが,魔導回路の自然な弱体化は,生体に悪影響を及ぼさない場合が多い.一方,生体に何らかの弱体化が起こった場合,それが自然であろうと急激であろうと,必ず魔導回路にも影響を及ぼす.人間の生命はまず生体を礎として成り立ち,その更に上に乗っている魔導回路によって応用的な生命活動を行う,ということになる.
→人間の精神は,神経がある生体のほうに比重を置いて依拠している,とするのが一般的な見解である.無論,魔導回路が精神に影響を及ぼすことについての研究も数多く存在するが,今回は割愛する.
・魔導組織
→「魔導細胞」:魔導回路を構成するエネルギー体.生体でいう生体細胞.
→「魔髄」:魔素をつくりだす組織.生体でいう骨髄.
→「魔導脈」:体内に魔素を循環させる組織.生体でいう血管.
→「魔力弁」:体の各所を流動的に流れていて,魔素を吸収・排出する器官.生体でいう口腔.
→「魔経」:魔導細胞のうち,各組織に指令を送るものから成り立つ組織.生体で言う神経であり,実際に脳神経と密接に結びついている.
・恒常性,ホメオスタシス
体の内外で何か変化が生じても,体内環境を一定に保とうとする,人体に備わった性質及び働き.全てのストレス反応の基礎となる.
→「生体恒常性」:生体に関わる恒常性.「体温を維持するため,暑いと汗をかく/寒いと震える」などがある.
→「魔導恒常性」:魔力に関わる恒常性.「魔力量を維持するため,魔力の増減に合わせて魔力弁を開閉する」などがある.
・動的適応能,アロスタシス
体外環境の変化や急なストレスなどにより,恒常性の収束点(目標,定義)を現条件に即したものに変え,それに合わせて生体・魔導回路を変化させる,人体に備わった働き.短期,長期の別がある.また,ホメオスタシスとは違い,原因となる特殊条件がなくなれば消失し得る.
→「生体適応能」:生体に関わる動的適応能.「魔獣と遭遇し,心拍数が急上昇する(短期)」「砂漠に身を置かれた生体が,発汗の代わりに血管の拡大で放熱を行おうとする(短~長期)」「長距離走者の心臓が強化されて安静時の心拍数が半減する(長期)」などがある.
→「魔導適応能」:魔力に関わる動的適応能.「多くの魔力の出入のため,魔導回路が太くなる(短~長期)」「魔力弁が強くなる(長期)」などがある.
・動的適応能過負荷,アロスタティックロード
過剰なアロスタシスに曝され,それが閾値を超えた場合に,肉体・魔導回路がそのストレスに耐えられず,何らかの支障をきたすこと.
→「生体適応能過負荷」:生体に関わる過負荷.「過労により倒れる」「心的ストレスに追い詰められてうつ病をきたす」などがある.
→「魔導適応能過負荷」:魔力に関わる過負荷.「魔力の過剰放出により魔導回路が弱り,そのベースとなる生体にまでストレス症状が及ぶ(=魔力切れ)」などがある.
・可塑性
人体医学・魔法医学における「可塑性」とは,経験や学習により,ホメオスタシス・アロスタシスなどを出力する指令回路が変形し,その形状が保持されることを指す.この性質上,何らかの必要が生じた場合,可塑性→アロスタシス→ホメオスタシス,の順で影響を及ぼすことになる.
→「神経可塑性」:生体の神経(≒シナプス)を書き換えること.一般的な事例で言えば,「生活王の工夫や運動療法などにより,脳卒中患者の後遺症が緩和される」「指を動かす神経細胞が死んでも,リハビリを行うことにより,手首を動かす神経細胞がその機能をも果たすようになることで,指を動かせるようになる」などがある.また.房事にトラウマを持つビビがギデオン相手にそれを寛解させたのも,この神経可塑性によるもの.
→「魔導可塑性」:魔導回路の神経(=魔経)を書き換えること.身近な事例で言えば,「何度も練習することで魔法を行使できるようになる」などがある.また,魔力に乏しいギデオンがビビ相手に自身の魔導脈を適応させはじめたのも,この魔導可塑性によるもの.
・ギデオンの身に起きたこと
ビビの魔素の大量注入は、本来であれば、ギデオンの魔導恒常性の侵害となる。ただしギデオンの魔経は、これまでの学習から自身の魔導回路を書き換えることを選び、魔導適応能の発動を開始した。この際生じた負荷により、一時的に深い睡眠を余儀なくされた。今後、繰り返し魔導適応能を発動することにより、ギデオンの魔導回路の恒常性が変化していく(=負荷が軽減していく)可能性がある。つまりビビのみに限らず、ギデオンの体もまた、相手の影響で大きな変化を遂げている。
……っ、……はぁい。
そうですよ、全部ギデオンさんのせいなんですから、忘れないでくださいね。
( ぶっきらぼうな命令口調に、それまで此方を見つめていた瞳が、くるりと身体ごと逸らされる。乱れきった寝台の上、随分と心許ない格好をした娘は一人残されて。渾身の"かわいい顔"は不発で終わってしまったものの、この顔で駄目な時は本当にどうにもならないと知っている故、不満げに唇を尖らせながらも、素直にアッサリと引き下がる。目の前の恋人の、紳士ぶった冷静な仮面の隙間から、一瞬覗いた葛藤の色。昨晩までその一片も、故意に揺らがすことの出来なかった──と、少なくともビビはそう思いこんでいる──鉄壁の理性を思えば、その隠しきれなかった顔色だけでも充分だ。しかし、それに伴い唱えられた愛称に、昨晩の甘美な悪戯を思い出せば、再びふっと息を詰めさせられた仕返しに。それ迄まとっていたデュベを放り投げると、無防備に向けられた背中へ勢いよく飛びつき、その首筋、耳元へ軽いリップ音を響かせる。そうして、この限りなく幸せな状況を作り上げたのは、ギデオンの責任、もとい選択なのだと言い聞かせれば。相手が動じたかどうだったか、振り落とされでもしない限りは、「階段の下まで連れてって欲しいな~」等と可愛らしく甘えられたのは、やはりまだ寝惚けていた節も大きかったのだろう。
それから、四半時ほどたっただろうか。手段はいずれにしても、たどり着いたバスルームにて。朝起きた時から分かっていたつもりだったが、そこに備え付けられた姿見で、最早ギデオンの痕跡がない所を探す方が難しい己の惨状を目の当たりにしたヴィヴィアン嘆きといったら。いつも通りの装束にかっちりと身を包みながら、ダイニングテーブルに顔を埋めた娘は、彼女が何を怒っているのか要領を得ない恋人に、ここで初めてマジカルキスの視認性を説明することになる。そうして時折、羞恥に染まった頬を、冷たいグラスで冷やしながらも。この一年、嫌々ながらビビの相談に乗ってくれた魔法医はともかく、ギルバートがどう思っただろうか想像するに、しょんぼりと垂れた頭上で揺れる紅い耳までも、心做しか萎びて見える有様で。 )
──……本当に! 本ッ当にギデオンさんのせいですから!!
こんなんじゃパパに会えないじゃない……
──ッ、……お前なあ……
(いつぞやの子トロイト並みの勢い、ではなかったにせよ。わんぱくな恋人が飛びついてきた際の衝撃を、大きく和らげたものがあった。──もはや布一枚も挟んじゃいない、御本人のたわわなそれだ。その感覚がもたらす悩ましい誘惑のほどを、わかっているのかいないのか。当のヴィヴィアンは、それをこちらにぎゅむぎゅむと押し付けながら目いっぱい甘え倒し、寝惚けたことまで囁いてくる有り様だ。全くもって、自由奔放な娘である。
肩越しに相手を振り返ったギデオンは、呆れを隠さぬため息を吐き。ベッドのデュベを引っ張り上げるや否や、彼女の優雅で素晴らしい肢体を、蚕繭宜しくぐるぐる巻きにしてしまった。そうして、くすくす笑いか、不満の抗議か、いずれかの声を聞き流しながら。お望み通り脱衣所に──ちょっと八つ当たり気味に──荒っぽく放り込むなり、ばたん、と強く扉を閉ざす。そこでくるりと背を向けて、再びため息を零しながら、ふと視線を落としたのは……己の臍の下辺り。主人が頑なに被っている気怠げな仮面と裏腹に、やんごとなき何かしらは、引き続き元気いっぱいなままであった。まったく、調子を狂わせてくれるな……と。髪をぐしゃぐしゃ掻きながらキッチンに向かう横顔は、本人の自覚する限りでは、ぐったりと疲れているだけのつもりでいたが。──10年ほど前のギデオンを知っている者が見たなら、きっと。なんだ、随分幸せそうに暮らしているじゃないか……なんて。面白おかしく、しみじみとした声音をもって揶揄ったことだろう。)
(──さてはて。ふたりの暮らす明るい家では、引き続きそんな感想が投げかけられそうな光景が、朝から繰り広げられている。何かといえば、テーブルに顔を突っ伏しながら腹を立てているヴィヴィアンと、新鮮なサラダを深皿に取り分けながらたじたじしているギデオンの図だ。
ヒーラーという職業上、魔法医学を専門分野とする彼女曰く。ギデオンとヴィヴィアンがこのところ嵌まっている、魔力弁を介した交歓は、互いの体にべったりと、キスマークのようなものを塗りつけてしまうらしい。この行為がそのまま、とある界隈では“マジカルキス”と呼ばれているアブノーマルプレイであり……実は欲望に素直な者同士、そうと知らぬまま自然に辿り着いてしまった……なんてことまでは、未だ露知らぬ二人であるが。とにかくこの、互いの魔素が体じゅうに塗りたくられて、見る人が見ればまるわかりになってしまうことが問題なのだ。私たちは魔力弁を使って気持ちいいことをしていますよ、と、自ら周囲に知らしめてしまうわけである。
若い時分は放蕩であったが故に、少々感覚のズレたところがあるギデオンも。それは確かに問題だな……と、気まずそうに口を噤む。ヴィヴィアンと耽るあの行為は、非常に楽しくて仕方がない。しかしだからといって、彼女に恥をかかせても平気というわけがない。それに彼女の父、ギルバートにしてみれば。ギデオンは最早、単なる情事より深く、ヴィヴィアンを染め上げてしまっているのだ。歴然たる歳の差……冒険者歴の違いによる不均衡な力関係……相棒関係を利用した(ように見えても仕方のない)囲い込み……ギデオン自身の若い頃の素行……ヴィヴィアンが初恋の恩師シェリーの娘であるという事実。それらに加えて、今回の意図せぬ公開処刑、とくれば。なるほどなんとまあ、大事なひとり娘が付き合っているという相手の男は、随分な屑野郎である。昨日のように激怒するのも、致し方のないどころか、寧ろ当然の然るべき話だ。
そう、わかりはするものの。全部がこちらのせいだと罵られ、黙っていることができようか。自分の手の内で、昨夜の彼女はあんなに淫らに悦んでいたではないか。第一、昨夜に限らずその前の晩だって、遅くまでずっと楽しく戯れていたではないか。周囲の目の問題は考えなければならないにせよ、それはそれとして、と。相手の皿に焼き立ての目玉焼きとベーコンを滑り込ませながら、自覚のあるきまり悪さに分かりやすく顔を逸らしつつ、ぼそりと小声で言い返し。)
──……、お前だって嵌まってたし……気持ちよさそうにしてただろう。
そっ、そんなこと……そんなこと、……ぅもん……、
( そんなこと、言われるまでもなく自分が思い知っていることで、大体そういうことを言っている訳じゃないのだ。普段は愛しい、これだけの年の差を持ってして、案外余計な一言を黙っていられない恋人の可愛らしさも、今は全くの逆効果だ。真っ赤な頬を膨らませ、「ありがとうございます!」と、ギデオンが目玉焼きを放り込む皿を両手でそっと抑えると。──昨晩に一昨日の番、さらにその前の晩も、前の前の晩も。覚え込んだ快楽を目の前に、無理やりどころか自らもっとと願った記憶があるだけに、相手へと向ける視線や口調が強くなるのは、自分でも八つ当たりだと分かっていて、糾弾する語尾がじわりと弱る。
ところで、ビビはパンのバターはたっぷりと耳の縁まで塗ってから、こんがりときつね色になるまで焼き色をつけたい派なのだが。未だ忙しなくダイニングに立って、香り高い珈琲を入れてくれている恋人の一方で。当たり前のように腰掛けて、"私、怒ってます"と、ゆで卵のような眉間に皺を寄せ、きゅっと吊り上がった目元を恋人に向けながらも、「お願いします!」と、たっぷりバターを塗りたくった白いパンを差し出す娘の、いつものように焼いてもらえると信じて疑わない様は、ここ数ヶ月のギデオンによる甘やかしの賜物で。それ以降も、諦め悪くぷりぷりと口では文句を言い募りながら。ギデオン相手となると、どうしてこうも警戒心が仕事を放棄するのか。しばらくして、はっと"良い言い訳を思いついた!"とばかりに、大きな瞳を輝かせれば。その怒っている当人に向け、どこか褒めてほしそうな節まで感じる、無邪気で自慢げな表情を浮かべて見せて。 )
違うもん。私はっ、……知ってたらしなかったし──……!
ギデオンさんがしてくれること、全部好きになっちゃうんだから、ギデオンさんのせいだもん……ね、そうでしょ?
っく、っくく──ああ、いや、いや。
お前がそう思うなら、それでいいんじゃないか。……なあ?
(ずっとギデオンに怒っていたはずの恋人が、いきなりぱあっと、やけに顔色を明るくしたもんだと思ったら。「ふふん、どうです! 言い返せないでしょう!」なんて言わんばかりのご尊顔で、とんでもない事を堂々と抜かしてくるのだ。ギデオンは一瞬、はたと虚を突かれた顔で静止し……かと思えば次の瞬間、思わず目尻をくしゃりと歪め、口元に拳を当て、明後日の方を向いてしまった。片方の手こそ朝食のために動かし続けているものの、その様子はどこから見ても、笑いを堪える有り様である。
──いやはや全く、本気でどうしてくれるつもりだ。己は曲がりなりに、肉体的にも精神的にも、きちんと成熟した女性を好んでいたはずなのだ。それがどうして、ヴィヴィアンは……いや、無論彼女とて、どちらも充分大人びた、一人前の女性であるが。それにしたって、時々自分の前でだけ、どうしてこうも殺人的にあどけなくなる。己の中の嗜癖の形が、めきめき歪んでいくではないか。責任をとってもらいたいのは、むしろよっぽどこちらの方だ。だというのにこの娘は、こんな得意満面の顔で、途方もない告白を無自覚にかましてみせて──。
そんな愉快さに耐えかねての沈黙も、長く続ければ新たな火種になり得るだろう。喉仏を未だ低く震わせつつ、きちんとそちらに向き直り、“気にするな”というように、ひらひらと手を振って。やけに含みのある言い回しで、相手の言葉を面白そうに肯定すれば、胡乱気なエメラルドの目を向けられるやもしれないが。グリルからきつね色のパンを二枚取り出せば、相手の顔がまたぱああっと無邪気に輝きだすのだから、また必死に発作を堪えて。
……そうして、いよいよ己も食卓につき。簡単な祈りを捧げてから、ふたり一緒に今日もまた、同じ朝餉を取り囲む。他愛ない会話をして、仕事のあれこれを共有して。そんないつも通りの朝を過ごしながら──次はいつ、ヴィヴィアンを抱けるだろうかと。そんな不埒なことを腹の内で考えていたのは、ここだけの秘密である。)
(──さて。それからの数日間は、ごく平和に過ぎていった。先日あれだけの大騒ぎを引き起こしたヴィヴィアンの父、ギルバートだが。やはり帰国時の無理が祟ったらしく、一日のほとんどを眠り通しているらしい。一応はヒーラーなり魔法医なりが、交代制で24時間傍についているとのことで、「心配は全く御無用」とギルマスのお墨付きである。……人件費が随分飛んでいるはずだが、何せ相手がVIP中のVIPだ、カレトヴルッフとしては政治的な意図もあるのだろう。ギルバートが休息している間、代わりに魔導学院と連絡も取ったようで、この騒動の諸々の懸念は、一旦綺麗に保留されたことになる。
それを崩すきっかけをもたらしたのは、隣のマーゴ食堂だ。その日の朝、カレトヴルッフのギルドロビーには、夜明けの酒を残した酔いどれ連中がぐうたらとたむろしており。とうとうマリアに見咎められ、説教役にギデオンも呼ばれて、ふたりしてこんこんと、 “国内最高ギルドに勤める冒険者としての心得”を説き聞かせていた、その真っ最中。「──ちょっとあんたたち、人手足りてる!?」と血相変えて飛び込んできたのは、マーゴ食堂のベテラン従業員こと、ヨルゴスの妻アンドレアだった。「ねえ、大変なの! うちのテッポ爺さんが──リブステーキを5切れも残して帰ったの!」
一体それのどこが大変なのだ、と不思議そうに首を傾げたのは、まだ年若い、二十半ばかそこらの奴らだけだったに違いない。年季の入ったベテランたちは、皆一斉に顔色を変え。酔っぱらっていた親父どもすら、ぎょっと正気を取り戻した。装備は!? 馬は!? ホセのバカは今どこにいる──アリスのパーティーを連れ戻してこい! こんな具合で、“国内最高ギルド”のベテランたち全員が、一気に臨戦態勢である。
騒ぎを聞きつけて医務室から飛んできたヴィヴィアンと、その周りに集った若者たちに、ギデオンのほうからわけを話すことにした。──“マーゴ食堂のテッポ爺さん”というのは、実はカレトヴルッフにとって、恐ろしい占い師なのだ。といっても、本人にその自覚はない。少なくともギデオンが子どもだった30年以上前から、そこらをふらふら浮浪している、ただのぼけた爺さんである。けれども、マーゴ食堂のマーゴ婆さんとは何か縁があるようで。毎日一食、どんなメニューでもただで振る舞って貰えるという温情にあずかっており、ほとんど毎晩マーゴ食堂に通いつめ、隅っこの方の席で、いつも慎ましく日々の食事を楽しんでいた。マーゴ婆さんの懐の広さの素晴らしいことといったらないが、テッポ爺さんもテッポ爺さんで、ぼけていて尚礼儀正しく穏やかな、非常に気のいい人物であるから、食堂の常連であるカレトヴルッフの冒険者たちも、皆彼を気に入っている。ベテランたちで日々代わる代わる、独り者の爺さんの相席をしに行っては、爺さんの痴呆によって上手く噛みあわない頓珍漢な会話を、それでものんびり楽しんで過ごす……そんな伝統があるほどといったら、どれほどの関係か想像がつくだろう。──しかし、問題がただひとつ。歳のわりに健啖家、おまけに店主マーゴさんに対する恩もあって、普段は決してパンくずひとつ食べ残さない爺さんが。それでも「気分が悪くてのう……」などと、何かを残してしまうとき。それはすなわち、“非常に厄介な魔獣が王都付近に出没する”という、揺ぎ無いジンクスがあるのだ。チキンのグリルを残すなら、ステュムパリデスの群れの飛来。フライドポテトを残すなら、大型ヒュドラの毒霧拡散。──そして、リブステーキを4切れでなく、5切れも残したというのなら……それはすなわち、この人口豊かな王都のそばに、ドラゴンが出るということだ。戯けた迷信と思うかもしれないが、ぼけた爺さんの食べ残しがたしかに災いを予言することを、ギデオンたちベテランは皆、その数十年の経験をもって、真実であると知っていた。しかもたちの悪いことに、爺さんの予言というのは、間隔が開けば開くほど、次の被害が大きくなると示す性質を帯びている。ここ4年ほどは毎日欠かさず食べきっていたはずだから……それが久々に破られた、しかもこれまでの法則からして今回はドラゴン、となると。そりゃあもう、ベテランたちが慌てふためくのも無理はない、というわけだ。
この話を聞いて尚、いまいちピンと来ていない若者たちに、本当なのだと告げるが如く。カレトヴルッフのエントランスに、いきなりよそ者が──王軍の伝令兵が飛び込んできた。北の国境警備隊から、国外のドラゴンが侵入したとの報が入り。軍の各所が引き継いでその個体を監視したところ、キングストン近郊の森に降り立った、との話である。詳しく聞くに、ドレイク種──つまり、空陸水全てを駆ける万能型ドラゴンで、黒い胴体、赤い翼、多頭という特徴から、ヴァヴェル竜と目される。途端に、ベテランたちは皆一斉に、「やっぱりか!」と呻き声をあげた。ヴァヴェル竜は土属性のマナと反発する体質ゆえ、地上で少し暴れただけで、大破壊を引き起こす。つまり、並みいるドラゴンたちの中でも、地に足つけて生きている人間が戦うには、非常に分が悪い相手なのだ。一応は外来竜なんだから王軍が処理しろよ……と、誰かが文句をつけようとするも。そこは事態をまとめにきたギルマスが、視線ひとつで黙らせた。カレトヴルッフは王室からの信頼も厚いギルドだが、だからこそ、王軍と揉めてしまうのは宜しくない。体良く現場処理を擦り付けられた感は正直否めないものの、ここはひとつ。職務を果たして恩を売り、今後の切り札にしてしまおう、という目論見である。
そんなこんなで、通常の雑務諸々を返上しての、大掛かりなドラゴン狩りが決定した。と言っても、ギルドを空にしては他の有事に備えられないので、今の人出の半分は、王都に残ることになる。その中で、ベテラン戦士のギデオンはともかく、まだ大怪我から復帰したばかりのヴィヴィアンは、留守番組に回されるものだろう、とてっきり思っていたのだが。「──そうだ、そこのバカップル! お前らも現場に来てくれ!」と、今回の隊長であるヨルゴスに声をかけられ。並んで立っていたふたり仲良く、「「?」」と同時に、自分たちの背後を振り返ったものだから。途端、周囲から一斉に、「──だからそういうところだよ!!」「おめえら以外に誰がいんだよバッキャロウ!!」と、この忙しいのに総突っ込みを喰らうこととなった。何故なのだろう、酷く解せぬ。
──ヨルゴス曰く。今いる、もしくは呼び戻すことのできる魔法使いの面々だけでは、前衛の支援役が到底足りていない。故に、魔力の豊富なヴィヴィアンにも、その体調の許す限りで、どうしても活躍してほしいそうだ。地上の戦力は有り余っているから、いざとなれば肉盾になる戦士どもをしっかり護衛でつけさせる、と真っすぐな目で約束されれば。そこまで言うなら仕方ないか、とギデオンも飲み込んだ。
かくして、己の相棒、ヴィヴィアンにとっては、ほとんど3カ月ぶりの現場仕事である。周囲がやれドラゴン用装備だ、現場に物怖じしない馬だ、非常用の魔法薬だ、解体用の大道具だ、と慌ただしく準備する中。自身もドラゴン用の強靭な皮鎧に身を包んだギデオンは、やはりどうしても心配性が発動してしまうようで。東広場発の出動用馬車が間もなく出発する……という頃になってから、ロビーの人混みの合間を縫って、相棒のそばに行き。……おまえを軽んじるわけじゃないんだが、と、思い悩んだ目を向けて。)
……なあ。医者からはまだ完治を言い渡されてないんだし、復帰戦にしては、今回のはいきなり重過ぎるだろう。
もし少しでも、体調や魔力に思わしくないところがあるなら……ヨルゴスには俺からちゃんと説明して、代案も用意してみせる。だから、今からでも……
──……ギデオンさん。
ご心配ありがとうございます。私は大丈夫ですから、他に言い出し辛い方がいないか確認してあげてください。
( 白くはためく博愛のローブに、しっくりと馴染む古木の杖。久方ぶりの一張羅に背筋を伸ばせば、リスト片手に物資確認をしていたところへ、心配性な相棒の声がかかる。これがかつてのビビならば、そう簡単に"代わり"だなんて侮ってくれるなと、相手の気持ちも気にせず跳ね返ったに違いないが。この一年で、他でもない当の相棒から、冒険者として、人として、認められ求められる経験を与えられた女の顔には、穏やかな余裕がほころんでいる。
確かに未だ医者からは、定期的な診察を求められているものの、それも最近は殆どただの経過観察にほど近い。過保護な相手の心配する気持ちはありがたいが、自らの故郷の有事に引き下がる冒険者がいるものか。それに──それ、私にだけじゃなくて、他の仲間達に全員も聞けますか、と。完治していないのはギデオンの肩も同じ。常に死と危険との隣り合わせ、中小の怪我が日常茶飯事な生業で、完全な健康体で一切の不安を抱えていない者など、この場の何割もいるだろうか。そんな状況下で、ビビ一人の代役なら兎も角、全員分の代案があるのかと──別にビビ自身はそこまで深く考えていた訳では無いが、無意識に相棒の過保護をやんわりと諭せば。「それに、こんなに見張りがいてどうやって無茶するんですか」と苦笑気味に見回したのは、ヨルゴスにつけられた戦士たち。いくら魔法使いよりは人手があるとはいえ、誰の差し金か手厚くつけられた護衛の一人が、「見張りじゃないですよ! ちゃんとお守り致します!」と噴射するのに眉を下げると、自分の身くらい自分で守れるのに……と肩を竦めて見せて。
かくして、最早怒号に近い音頭をあげ、ドラゴン侵入の報せがあった国境付近へと、討伐隊が出立したのと。とある報せがギルドに舞い込んだのは、完全な入れ違いとなった。その情報を持って来たヒーラーは、青い顔して駆け込んでくるなり、手薄になったギルドを見て膝を落とすと、「パチオ氏が……パチオ氏が、病室から失踪されました……!!」と、閑散としたロビーに響いた悲鳴だけが、この後の混沌を虚しく物語っているようだった。 )
( 可哀想に、大魔法使い直々に眠らされ、要人を見逃した張本人となってしまったヒーラーからの一報が、討伐隊に届けられるよりも少し早く。ドラゴンが国境へと侵入した時刻から逆算された地点にて、討伐隊はドラゴンの姿を確認出来ずに、そこから更に10km程も北上した地点でその姿を確認することとなる。ぬらぬらと強烈な色を反射する硬い鱗、ひとたび掲げれば太陽を隠すほどの広い翼。見るもおぞましい多頭はそれぞれ鋭い牙とギョロリと大きな眼球をたたえて、討伐隊を確認した途端、鼓膜が破れそうな大音声で地面を震わせる。
しかし、そんな醜い姿かたちを目の当たりにし、誰からともなく「化物……!!」と、それを漏らした声の主が、もし魔素を感じ取れる魔法使いだったならば。それは異形の魔獣へではなく、その正面にもうひとり。もうもうと上がる土煙の中から現れた男へ向けられたものだったに違いない。振り下ろされた太い尾を魔法でいなして、一頭と一人、化物同士の衝突に開けてしまった森の中。差し込んだ光に、現世のものとは思えない美しい金髪を反射する大魔法使い──ギルバート・パチオその人だ。防戦一方とはいえ、圧倒的な力を誇る魔物相手に立ち回って見せた大魔法使いは、相手の雄叫びに一足遅れて討伐隊に気がつくと。「これはこれは……流石、"国内最高ギルド"の精鋭様方、お早いお着きだ」と。こんな時まで憎たらしい悪態をつきながら。ドラゴンの大音声で、馬車の行き先の地面が崩れ落ちそうになるのを、杖を振るって受け止めようとして、その隙をついたヴァヴェルに横凪に吹き飛ばされる。その瞬間、それまでギルバートによって制御されていた魔素がぶわりと爆発したかと思うと。ぐらりと大地が揺れ、低い地響きが耳をつき、ビキビキと激しく地面が割れる。そうして、勝鬨の如く咆哮を上げたドラゴンは、小癪な魔法使いを片付けたことを悪辣に喜ぶかのように、太い尾を激しく地面に叩きつけると、車輪が外れ横転した馬車から飛び出した冒険者たちを威嚇してみせ。 )
(ギデオンとヴィヴィアンは、今や私生活において恋人同士の関係である。しかしそもそも、こうして仲を深めたきっかけとして、ふたりとも、同じギルドに所属している単独の冒険者なのだ。そして冒険者という職業は、市民のために魔獣を屠る、それこそが最上の使命。故にヴィヴィアンの返した言葉は、この上なく真理を穿つに違いなく。「……そうだな。無茶だけはするなよ、」と。相手の肩に軽く手を置き、一度だけしっかり見つめ合う。そうして、精悍な横顔でヴィヴィアンと別れたそのときには、ギデオンも既に思考を切り替えていた。これより先の自分は、作戦の最前線で攻撃を担う魔剣使い。そして相手もまた、後方支援と救急を担うヒーラーの立場となる。個人的な労わりは、仕事が終わってからでいい。この一山を終えた頃には……きっとふたりで、ヴィヴィアンの父親を見舞いに行ってやれる筈だ。)
(──しかし結論から言えば、ギデオンのその読みは、完全に間違っていた。何といっても、そのギルバート・パチオ本人が、何故か戦場に参上し……あろうことか、先にドラゴンと対峙していたのだ。冒険者たちが状況を把握する間もなく、彼の隙を突いたドラゴンによって、それまで防衛を崩さずにいたギルバートが吹き飛ばされ。こちらもまた、ヴァヴェル竜のもたらす地割れに煽られ、即座に態勢を整え直さねばならなくなった。
「総員──作戦通りに回れ!!」と、ドラゴンの咆哮に押しも押されもせぬ大声を、総隊長ヨルゴスが張り上げる。途端、戦士の援護を受けながら魔法使いが散開。周囲の地形とドラゴンの様子を分析し、後衛拠点を各所に見定め、大きな魔法陣を描いて強固な障壁を構築する。足場の確保も兼ねたこの初動の布陣を、的確に果たせるかどうか。これが今回の作戦の要と言っても過言ではない。
──敵の種類や周辺地形、時間帯や気候条件などにより、多少の変更は存在するが。ドラゴン狩りの作戦には、古来から伝わる王道の筋がある。即ち、陽動攻撃でドラゴンの気を正面に引きながら、後方に回った部隊が、翼、後ろ脚、尻尾の付け根を真っ先に狙い落とすというものだ。空に飛ばれればこちらは手の出しようがないし、仮に飛翔力を奪っても、圧倒的な重量で突進されれば成す術もない。ドラゴンの尻尾に殴り飛ばされる、叩き潰されるというのだって、戦士の死因の最多数という恐るべき脅威となる。しかし、逆にその三点さえ潰せば。胴体のみでも這いずり回り、熱焔を吐き散らす脅威が片付いていないにせよ……基本的な機動力を大幅に下げることができる。故に作戦の初期段階で、翼と後ろ脚と尻尾、まずはその三ヵ所を攻める。首を落としにかかるのは、全てを入念に整えてからだ──そして敵も、それを最も警戒している。
けれどもその作戦は、早くも困難に感じられた。理由は目の前にいるドラゴンの、規格外過ぎる大きさのせいだ。「体高が報告と違う!」と、若い誰かが悲鳴じみた声を上げたが、それを臆病と詰れる者が、はたしてこの場にいるだろうか。何せ敵は──その頭部の大きさだけで、優に大型馬車ほどもあるのだ! しかし仕方がない、とギデオンは苦い顔で分析した。そもそも国境警備隊の防衛ラインを超えられた時点で、このドラゴンはかなりの高度を飛んでいたに違いない。ならばきっと、王軍の担った監視も、遠距離からの途切れ途切れにならざるを得なかった。そうして、これはまずい、と、先に各所の冒険者ギルドに伝令を果たそうとして……きっとそれでも間に合わず、追い抜かれたほどなのだ。王軍の失態は致命的だが、対峙の始まってしまった今、即座に対応をとるしかない。「尾から狙え!」と、開けた森の際を駆けながら、襲撃部隊の隊長として指示を飛ばす。「あの図体なら、離陸前に多少の助走が要る筈だ──その補助におそらく尾を使う! だからまずはそこから狙え!」
──一方。各々の役割を持った戦士と魔法使いが、所定の配置につくなかで。ヨルゴスの指示により、数名のヒーラーがギルバートを捜し出し、森の中から連れ出そうとしていた。一体どれほど化け物じみているのだろう、あの絶望的な横薙ぎを喰らっても咄嗟に障壁を張れたらしく、致命傷を負わずにぴんぴんしているようだが……それでも、肩を貸さねばならぬ程度に身体を痛めている様子だ。「あたしたちを庇おうとしたわね!?」と、彼を知っているらしい中年女性のヒーラーが、治癒魔法を注ぎながらも大激怒していた。「お言葉ですけど、ギルバート! あたしたち皆、あんたひとりに子守されるほどか弱くはなくってよ!」
それにギルバートが、「だったらまず、まともな地固めのできる魔法使いのひとりでも連れてこい」とか、なんとか。相も変わらぬ憎まれ口を叩こうとした、まさにその瞬間。戦場からひときわ強烈な咆哮が轟いたかと思うと、頭上の梢の隙間から見えるほど天高く、太い火柱が噴き上がった。どうやら襲撃部隊が、最初の斬り込みに成功したらしい。ここにいると少々まずいな、とギルバートが指鳴らしをひとつ。途端、詠唱もなく発動した転移魔法により、一行は少し離れた小高い丘に立っていた。
そこからなら、もはや荒れ地と化した森の中の戦闘が良く見える。障壁内にいる魔法使いが、一斉にバフ魔法を放ち。跳躍力も攻撃力も大幅に上がった戦士たちが、一体の巨大な怪物を縦横無尽に翻弄している。周囲には薙ぎ払われた樹々が多数あり、それを魔法使いが的確に浮遊させるので、足場に事欠かないようだ。あの様子なら、ヴァヴェル竜が倒されるのは恐らく時間の問題であろう。そのように、決して楽観ではない分析を下しかけたところで──ギルバートの青灰色の双眸が、強烈な驚きに染まった。
暴れるドラゴンがところ構わず吐き出した火炎放射、それによる周辺の火事を防ごうと。右方の障壁内にいる誰かが、美しい魔素を膨大に練り上げて、巧みにそれを相殺したのだ。まさか、とギルバートが呟く。──それと同時に、嘘だろう、とギデオンも呟く。太い尾と後ろ脚の筋を断たれたことで、周囲を羽虫のように飛び交う戦士たちに怒り心頭だったドラゴンが。膨大な魔素を感じた途端、ヴィヴィアンのいる障壁の方をぎょろりと向いて──急に、制止したかと思えば。……その翼を大きく広げ、不気味な眼状紋をぶわりと浮かび上がらせたのだ。
幾つもの頭全てが、どろどろと薄気味悪い、だがはっきりと喜悦の感じられる唸り声を上げた。ギデオンの皮鎧の内側で、汗と共に吹き出した嫌な予感、それにたがわず。それまで相手取っていた他の冒険者の一切を、一瞬たりともかえりみず──ヴィヴィアンのいる場所に、怪物が前足だけで突進し始めた。いったい何故──ドラゴンの関心は、奴を攻撃する戦士や魔法使いにこそ向けど、延焼を防ぐヒーラーなどには寄せられない筈なのに!
疾風のように駆けながら、紫電の走る魔剣を構え・「ヴィヴィアン!」と必死に叫ぶ、そのひと声に全てを込める。シルクタウン以来、幾度となく共にクエストをこなし、連携してきた経験は──今のギデオンが何を求めるか、きっと彼女にも悟らせるはずだ。)
──……ッ!
( ──撤退! 撤退ッ!! ギョロリとこちらを一斉に振り返ったドラゴンに、ビビのいる右舷が急激に騒がしくなる。怒号の如く上がる指示に、退路を開こうとバタバタ走り出す戦士たち。しかしその瞬間、ビビの中に浮かんだ感情は微かな、しかし確かな苛立ちだった。やけに興奮した表情の頭と、ギラギラと浮き沈みする眼状紋が向けられると同時に、何股にも割れた首の根元に輝いた紅い魔核。やっと見えた弱点を目の前に、自身の実力を過信せず退却出来る観察眼もまた大事な資質ではあるのだが──今此処に居るのが経験も若いこの青年ではなく、ビビの相棒たるギデオンだったなら……! と、真っ直ぐにドラゴンへ向け跳んでいくだろう紫電を、思わずにいられなかった瞬間だった。
遥か遠くから響く、頼もしく大好きな張り慣れた声。その声に込められた信頼に、「ギデオンさん!」と、場違いな程嬉しそうに応えれば、自然と身体が走り出していた。ビビが脳内で描いた"理想の道筋"をなぞるように動く相棒に、相手の意図が手に取るように目に浮かぶ。魔法使いが浮かせた足場を戦士が選ぶのでは無い、ギデオンが跳んだ先、ヴァヴェルの炎を避けた足元に、まるで吸い付くかのように後から足場が組み上がり。己の身の丈の数倍以上はある空中を、まるで地上の如く駆け上がったギデオンが勇ましく魔剣を振り上げたその瞬間。突如、その頭上に黒い雨雲がかかったかと思うと、エメラルドの稲妻が魔剣を穿き、周囲の目を眩ます程の光となって、壮年の戦士がドラゴンの首を一刀両断する光景を焼き付けて。
そうして残ったのは、ヴァヴェルの倒れる轟音と、黒い雨雲がポツポツと地を穿ち、次第に激しい雨となって冒険者たちに降りかかった血の飛沫を洗い流す雨音のみ。未だ信じられないものを見たかのように、胸を上下させる冒険者たちの耳にまず届いたのは、ドラゴンと共に地上へ降り立った相棒の下へ駆け寄るヒーラーの足音で。あまりに自然な動きだったものだから、つい失念していたが、ギデオンが放り出された上空は、羽のない人間が無事でいられる高さではなく。その着地の際、咄嗟に風魔法で衝撃を緩和はしたものの、果たして怪我などはしていないだろうかと、真っ青な顔で駆け寄って、 )
ギデオンさん!!
ご無事ですか!? 強く打ったところは……?
(この数秒。何故か知らないが、ドラゴンがヴィヴィアンに目を奪われ、興奮のあまり他への意識を疎かにした、ほんの数秒。それこそが速戦即決の鍵だと、ふたり同時に信じているのが、彼女のいらえで伝わった。
故にギデオンは、もはや他の何ものも振り返らない。羽虫を払うべくドラゴンが吐き出す炎、ただそれだけに意識を定め、的確に回避しながら、上へ上へと駆け上がる。自分が身を翻した先も、そこから躍り上がる先も、一切確かめる必要はない──必ず、相棒が受け止めてくれる。その信頼が稼ぎ出したのは、時間にしてコンマ数秒。だが、敵の反応に後れを取らせる決定的な数瞬だ。
──とはいえ。こんなにも巨大なドラゴンの首、その根元を一刀のもとに断ち斬るなど、本来ならば不可能のはずだ。ギデオンの剣は片手半剣、それより大きな大剣でさえ刃渡りが足りない敵に、どうやって立ち向かうのか。見ているだれもがそう思ったことだろう、ドラゴンですらせせら笑ったかもしれない。しかしそれでもギデオンは、迷いなく魔剣を振り上げた。強く信じていたからだ──自分の背後で、相棒のヴィヴィアン・パチオが、同じく杖を掲げているのを。いつぞやの夢魔討伐でも披露した合わせ技、それを更に高めたものを、今ここでこそ繰り出せるのを。
相棒が即座に──ギルバートですら目を瞠るほどの速さで──練り上げた、黒い雨雲。その内部で増幅した、ただでさえ豊かな魔素が、翡翠色のいかずちとなってギデオンの魔剣に宿る。そうして、魔素を高める性質を持つ魔法石の恩恵により、更に何倍にも膨れ上がり……激しい輝きを放ちながら、何倍にも凝縮されたその瞬間。ギデオンは渾身の膂力を込めて、己の剣を横薙ぎに振るった。途端、その切っ先から眩い雷光の刃が伸び。本来ならあり得ざる、神々しい大剣に化け、敵の固い鱗に喰い込む。……冒険者たちが一様に唖然とする中、ドラゴンの七つの首が、その一太刀に刎ね飛ばされ。魔獣特有のしぶとい生命力をもたらし得る深紅の魔核も、派手に粉々に砕け散り、その無残な最期を飾り立てる。
──すべてを、しかと見届けるや否や。全身の力を魔剣に乗せていたギデオンは、真っ逆さまに落ちはじめたが。ここでも何ら焦らずに、魔剣を振って重心を操り、受け身をとることに集中した。はたして、それを待ち受けていたかのような横風が、案の定ギデオンを攫い。ドッ、と地面に身を打ったものの、直線落下のそれに比べれば随分と優しいもので。その後も幾らか上手く転がり、しっかりと勢いを殺せば、すぐにしゃんと身を起こし……ドラゴンの死を見届けてから、暗くなった空を見上げる。夏だというのに、どこか春雷を思わせる優しい轟きがくぐもって聞こえた。けれどもそれはすぐに、魔獣の穢らわしい血を流す、禊の雨を連れてきて。……この雨、やけに馴染みのある聖属性の魔素を孕んでいるな、と、相棒の相変わらずの天外っぷりに呆れていれば。そのヴィヴィアン本人が、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくるのだ。温い雫を滴らせながら、笑って相手を迎え入れ。)
ああ、まったく大丈夫だ。手厚い援護があったからな。
……それよりも、お前の方だ。目眩や吐き気は? 魔力弁の具合は?
(ギデオン自身も経験したことがあるからだろう。相手を気遣うその声音には、これまでよりも随分と実感がこもっている。しかし今は、彼女に甘い恋人としてよりも、あくまで熟練の冒険者として、自分の動きを助けてくれた仲間を案じているような顔だ。……ちなみにこの間、先ほどまで呆気に取られていた仲間たちが、ヨルゴスの号令により慌てて動き始めていた。首を断ってもすぐに死なない魔獣は多い──特にこれほど大きなドラゴンとなると、念入りな確殺処理が必要になるだろう。しかしギデオンとヴィヴィアンは、すぐに混じる必要はない。魔獣討伐はチーム戦であり、仕留め役を果たした冒険者は、自分たちに異状がないか確かめるのが最優先だ。故に、無事を自覚しきっている自分のことはすっ飛ばし。相棒の小さな顔に手を添えて、瞳を覗き込み、呼吸や唇の色を確かめ、果てはその指先を掬って絡め、体温を確かめにかかる。……傍目にはどう見ても甘ったるい戯れだろうが、あくまでもギデオン自身は、これでも真剣そのものなのだ。)
手厚ッ……わざとじゃないんです、ごめんなさいっ……!!
( うわぁん! と、間の抜けた悲鳴が響いて、それまで冷静に杖を振るっていたヴィヴィアンが、申し訳なさそうにギデオンへと飛びつく。そんな愛しい娘の姿に、思わず目を奪われたのは他でもないギルバートだ。──男の脳裏に蘇ったのは、もう25年以上も昔のこと。やはり危険なドラゴンを前にして──手柄をくれてやるわ、と。娘たちとは違って、自分達は微塵も通じあっていなかった。ずっと巫山戯た奴だと思っていた同期の女、未来の妻に思いっきり吹き飛ばされて。今回のギデオンと同じか、もっと容赦ない高さから叩き落とされるその瞬間に見た、勝利を確信した笑みを浮かべる、シェリーの美しさといったら──「……アレ。ビビちゃんからの一目惚れで、坊やはずっと断ってたのよ」最後には捕まっちゃったけど、と。古い記憶に囚われていたギルバートを引き戻したのは、その肩を支えている旧知のヒーラーだ。──確かこの女も、シェリーと同時期に娘を産んだ人の親だったはずだ。同年代の娘がいる"母親"は……、カノジョは今のヴィヴィアンを見てなんと言うだろう。全くもって、憎らしいことだ。「当然だ。僕の娘が狙った獲物を逃がすわけないだろう」 そもそも、あの男の分際で、ビビちゃんを一度でも振っただなんて身の程知らずな奴め。そう脳内で吐き捨てたつもりだった悪態は、どうやら全て口から漏れていたらしい。不器用な父親に対し呆れた女のため息は、ドラゴン討伐完了の歓声に掻き消されたのだった。 )
お陰様で良好です、
……ギデオンさんも。今は大丈夫でも夜に痛くなったりするんですから、……ほら、ちゃんと見せてください。
( 過保護なギデオンの触診に、うっすらと瞳を細めて好きにされていた娘は、しかしその指をゆるく取られた途端──逃がすものか、といわんばかりの勢いで、反対にその手を握り込む。「座ってやりましょう」と、握り込んだ手を引いて、ドラゴンが倒したちょうど良い木の上に相手を腰掛けさせると。膝や腰等、負担のかかりやすい所をぺたぺたと確認しながら。そういえば、といった調子で首を傾げて見せて、 )
──……それにしても、あのヴァヴェルの動きはなんだったんでしょうか……異常行動で報告しといた方が良さそうですかね……
……わからん。ドラゴン狩りは、俺も何度かしたことがあるんだが……
(相棒の練り上げた黒雲は、やはりとことん優秀らしい。聖属性の土砂降りによって魔獣の血を洗い流し、現場の冒険者全員に加護を付与したかと思えば。あとはあっさり霧散して、視界の良好さを取り戻させる具合である。若い奴らに至っては、「なあ、アレ」「……奇跡だ」「女神だあ……」と。爽やかな青空にかかる大輪の虹を見上げて、馬鹿みたいに惚ける始末だ。
しかし、一方のギデオンは。最初こそ驚いていたものの、(……まあ、ヴィヴィアンだからな)と、あっさり受け入れ。相手に促されるまま倒木に座り、優秀なヒーラーによる診察に身を委ねていた。そうして、相手がふと寄越してきた疑問に、こちらも不思議そうに首を傾げる。──確かに、あのドラゴンの動きは妙だった。ヴィヴィアンに気づいた途端、まるで長年探し求めた獲物を見つけたかのように、あからさまに興奮していた。ギデオンの思い出す限り、あれは彼女の大振りの魔法の発動がきっかけだったように思える。とすると、自分たちが駆けつける直前まで、何故か知らないがギルバートと戦っていたようだから……彼の血を引く娘による、似通った魔素を嗅ぎ当て、先ほどの敵だと誤認したのだろうか。だがそれなら、敵意や憎悪でなく、喜びを見せていたのがわからない。その辺りの考察を、相手にもそのまま漏らしつつ。「……既に人肉を喰っている個体で、それでああなったんだとしたら……外来竜であるだけに、かなり大事になるだろう。そうなると、そうだな。やはりきちんと報告を……」と言いかけた、そのときだ。
「あっ」と、妙な声がした。そちらを振り返ってみれば、声の主はヨルゴスである。ほかのベテラン戦士ふたりとともに、ギデオンの斬り落とし生首のひとつを調査しているところらしい。──討伐リストの一定ランク以上に位置付けられている魔獣は、仕留めた後の調査や記録が固く義務付けられている。個々の冒険者の収集した情報を専門家が分析すれば、今後の被害などを予測し、より備えられるからである。このため、単純な部分は若手に任せ、調査に年季の要る頭部などはベテランが受け持つ、というのは、実によくある分担なのだが。槍でこじ開けたドラゴンの口腔内、それを覗き込む男たちの様子が、なんだかおかしかった。やっているのはおそらく、歯列の確認による種の同定作業だろうに。「なあ、これ……」「いやしかし……」「だとしたらあのときのあれは……」などと言い合いながら、何故か気まずそうに、こちらをちらちら見てくるのだ。一体何事だろう?
ギデオンが腰を浮かせかけたところで、「何だ? 昨今の冒険者は、種の同定もままならないのか」と、高慢に見くだす声が割り入った。少し前にドラゴンの死の一撃を喰らったはずが、いつのまにかけろりとした顔で戻ってきていたギルバートである。「ああ、いや、先代、それなんだけどな……」と、ヨルゴスが慌てて制止するも遅い。杖のひとふりで、ドラゴンの大きな口をさらにがぱりと開けさせた大魔法使いは、しかし。内部に視線を走らせる否や、何故かぴしりと、ぎこちなく固まった。そうして、さらに目を凝らして確認し……まさか、という顔をして、やはりギデオンたちの方を振り向く。やけに混乱した様子である。いよいよギデオンも、ヴィヴィアンと顔を見合わせた。何だ何だ、揃いも揃って本当に何なのだ。
「悪い、ここで待っててくれ」と。相手に一言断りを入れ、ギデオンもいよいよそちらに向かった。さてはて、何がこいつらをそんなに狼狽えさせるのか。熟練たちに入り混じり、自分でもドラゴンの口の中を確かめたギデオンだったが。──先ほどのギルバートよろしく、びしりと綺麗に固まった。ひと目で理解してしまったからだ。何故ギルバートが狼狽したのか。何故ヨルゴスたちが気まずそうにしていたのか。何故ヴィヴィアンが狙われたのか。……何故あのとき、ドラゴンが豹変したのか。
「あんまり、聞きたかないんだけどよ……」と、ヨルゴスがそっと囁いてきた、とんでもない質問に。如何にも居た堪れなさそうに、片手で顔を覆いながら、小さく頷いてやるほかない。ヨルゴスはただ、正しい記録のための判断材料を必要としているのだと、根が真面目なギデオンは理解できてしまうからだ。しかしギデオンの答えを見るや、両脇にいるベテランたちが、堪えきれない大爆笑で妙な発作を起こしだすか、或いは露骨にドン引きするかしはじめ。ヨルゴスもまた、口の端をピクピクと、笑いだしそうに引き攣らせる始末だ。「……まあ一応、若い奴らにはヴァヴェルって体で書かせて、俺が最後にこっそり修正しておくからよ。それでいいよな?」と、一応は真剣さも交えて提案してくれるものだから、もう色々と思考を放棄したくなった。傍にいるギルバートの顔は、とてもじゃないが見られない──どんな顔をして見ればいいのだ。よろよろとヴィヴィアンの元に戻ると、相棒のフォローのおかげでまったく無傷だったはずが、今や満身創痍と言わんばかりの面持ちで。やけにぐったりと、疲労しきった呻きを漏らし。)
……今の件は、あとで話す。ああ、ちょっと、ここでするような話じゃないんだ……
ギデオンさん……?
え……ええ。でも、お顔の色が。こっちおいで……座れます? 横になった方が楽ですか……?
( 討伐した魔獣を確かめてみて、もしあと討伐が一歩遅れていたら、とんでもない被害が出ていただとか。運良く無事だっただけで、予期せぬ脅威を残していただとか。後からゾッとするような真実が判明することはよくあることだ。しかし、戻ってきた相手のあまりの顔色の悪さに、薄い頬をそっと両手で包むと。心做しか力なく丸まった背中を撫でながら、もう片方の手で先程の倒木へと導こうとして、促された相手が素直に腰掛けるか固辞するか、兎に角ギデオンの体調が悪くないことを見届ければ。そろそろビビ達も回収作業に加わらなければなら頃合だった。未だ胃の痛そうな表情をしている相棒を、気遣わしげな表情で見送り、自身もヒーラーとして、今回はベテランの先輩方の下、テキパキと要救護者の手当に当たること半日。あわや首都襲撃という未曾有の危機の収束に、心地よく揺れる馬車の中。疲れきった娘が丸い頭をギデオンの肩に預けて、うつらうつらと船を漕ぎながらキングストンへと辿り着き。ギルドでの簡単な手続きを終えて、暖かなランプがポーチを照らす我が家へと帰りつけたのは、そろそろ日付も変わる深夜の事だった。いつもならば共に帰って来ても、すぐにただいまのキスを強請るところを、かろうじて未だ冒険者の顔を残して相手へと真っ直ぐに向直れば。人目のあるところでは話せ無いだなんて、相当の危険が差し迫っていたのだろうと気を引き締めにかかって、日中のベテラン勢の気まずそうな表情の意味など全く知らずに、むしろ清々しい程真剣な表情で尋ねて見せて。 )
──改めてお疲れ様でした!
さっき、後で話すって仰ってた件って、もう……ここなら大丈夫ですか?
ああ、そんなに……いや、しかし、そうだな。
……とりあえず先に、寛げる格好にならないか。
(あのとき下手に誤魔化したあの一件を、どこまでも清く尋ね直されてしまえば。「そんなに深刻な話じゃないんだ」……一度は弱々しく返しかけたその台詞を、しかし相手にとっては本当にそうだろうかと、有耶無耶に呑み込んで。代わりに疲れの滲む声で、甘えるように首を傾げる。相手の優しさに漬け込む形での先延ばしだから、少々卑怯と言えるだろう。しかし今日の仕事は、肝心の竜退治よりも、寧ろその後が本当に大変だった。まだ日の高いうちに、ベテランのヒーラーがギルバートを強制的に連れて帰っていったそうだが、それに全く気付かなかったほどである。正直、今すぐベッドに倒れ込んで、恋人を抱きしめながら眠りたい…一日の汚れを落とすのも、除染作用のあるギルドのシャワー室でふたりとも済ませているのだ。だが、あの時ギデオンが濁した話を、相手はちゃんと知りたいだろう。だからせめて、今夜はあとはもう寝るだけの状態にしないか、というわけで。
そうして、相手が優しく気遣ってくれたか、訝しみながらも聞き入れてくれたか。何にせよ、洗面所で夜のお手入れをしている恋人を待ちながら、先にゆるい寝間着に着替え、リラックス効果のあるハーブティーを沸かし(尤もこれは、普段のヴィヴィアンがギデオンを気遣って淹れてくれるそれの物真似だ)。一足先に寝室に上がり、本を読みながら相手を待つことしばらく。真夜中を幾らか過ぎ、相手がいよいよ傍にやってくれば、まずは顔を上げ、「今日はお疲れ」と、労わりの軽いキスを交わすだろう。相手が隣に身体を落ち着けたところに、白い湯気の立つカップをそっと渡し、「上手く淹れられたかな」なんて微笑む。……これが幾らか、彼女の気分をマシにしてくれるといいのだが。そうして、相手がすっかり寛いだのを見計らえば。自分も本をテーブルに置き、ベッドランプの明るさを一段階下げ、背後の大きな枕の山に上体を預けきって。眠気の交じった穏やかな声、如何にも何てことのない調子を繕いながら……だがしかし、何とも歯切れの悪い説明を。)
……それでな。さっきの話だが……
今日倒したドラゴンは、実は……ヴァヴェル竜じゃなかったんだ。
見た目が似てるし、王軍の奴らは素人だから、間違えても仕方ないんだが。歯列を見たら……どうも、その、エレンスゲ亜属だったらしい。
( 普段は冷静なギデオンがこんなに狼狽えるなど、本当に一体何があったのだろう。差し出されたハーブティーは、本当は自分が相手に淹れてあげるつもりだったのだが、ギデオンがこのお茶を『精神安定に良い』と感じてくれているのなら、それもまた実に素晴らしいことで。「お疲れ様でした」と相手のキスに軽く答えて、カップに小さく口をつけると「……うん、美味しい。ありがとうございます」と、可愛らしく、あどけなく微笑む恋人へ、再度慈しむように唇を小さく落として。頭の下で緩くまとめていた三つ編みを解きながら、長い長い脚をゆったりと放り出した相手の様子に、なにやら微かな緊張を感じ取ると。空になったグラスをサイドボードに置いてから、ベッドが軋む音をたてながら、ゆっくりとギデオンに向き直る。そうして、相手の目元や頬、髪をすりすりと撫で始めた、寝る前の乾いた温かい掌は、それまでの穏やかな余裕と共に、ギデオンの言葉にぴたりと動きを止めたのだった。 )
エレン、スゲ……、!
( 最初はそれが、どうして問題になるのか分からないといった様子で、きょとりと目を丸くしていた表情が、一瞬なにか気づいたかのように煌めくと、白い頬、耳、首、ゆったりとしたネグリジェから覗く胸元までが、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。言わずと知れたエレンスゲの謎な"嗜好"、冒険者であるビビも勿論知っていて、今日起きたこと全ての合点が一気についてしまう。歳若い女性にとって、己の性事情を知られるなど気持ちの良いものでは全くない上。もとより──処女、ということに、そこはかとない罪悪感を持つヴィヴィアンにとって、数少ないベテラン達とはいえ、その事実を知られてしまった状況は辛い。しかし、彼らがこれ以上なく紳士的な対応をしてくれたことも、続けられた説明から確認して。行き場のない羞恥を、クラクラと目眩のする頭額を相手の分厚い肩に預けると、困ったように眉を八の字にゆがめて、二人きりだからこそ聞こえる小さな声で。前髪がぐしゃぐしゃになるのも厭わず、相手の肩に押し付けて。 )
…………、ギデオン、さん、だけにしか、知られたくなかったのに。
でも、出来るだけ大事にならない様にしてくださったんですよね、ありがとうございます……、はやく、
……早く、ギデオンさんのものにしてね……?
ああ、今からでも……と。
言いたい……ところだな……
(相手の弱々しい恥じらいぶりを、よしよしと頭を撫でて慰めていた矢先。最後に付け加えられた殺人的な一言に、思わずたまらなさそうに呻く──いつものお決まりのパターンだ。よって、その後もやはり同じ。己の太い腕を回しかけ、相手を横からぎゅうぎゅうと、目いっぱい抱きすくめる。羞恥に火照っているヴィヴィアンの体温、このぽやぽやした温かさがたまらない……なんて、相手をぬくぬく堪能しながら。吐息混じりにのっそりと返したのは、なかなかに不甲斐ない台詞だ。──今夜はただでさえ疲れがたまっていたところだし、相手の反応も、想定よりずっと落ち着いていて安堵した……そのせいか。既にとろりと瞼を閉ざしているように、忍び寄ってきた眠気を追い払えそうにない。
しかし別に、それだけが理由というわけでもないのだ……本当だ、と。「一緒に悦くなるには、もう少し慣らしておかないと……」「そもそも、退院してからまだ二ヵ月も経っちゃいない……」等々。相手の旋毛に唇を寄せながら、あれこれ言い訳を挙げ連ね。しかし結局最後には、「……それでも、じきに……貰うとも……」と、愚直すぎる野心まで、馬鹿正直に打ち明ける始末だ。──あなたならいい、あなたのためなら。これまで何度だって、可愛い恋人からそう云われてきた。その責任はいずれしっかりとってもらうし……ギデオンの方もまた、相応の責任をきっちり負う腹積もりでいる。……ああ、そういえば。ヴィヴィアンと暮らすこの家ではなく、敢えてギルドの私書箱宛に出してもらうことにした手紙に、「来週末には」と書かれていたっけな……と。そこでふと、アイスブルーの目を薄く開き。その華奢な背中を撫でさすりながら、腕の中の恋人を見下ろす。もしも相手が、その気配を感じとってか、こちらを無邪気に振り仰いだなら。そのあどけない顔を数秒眺めて、ふ、と幸せそうに微笑み。まろい額にキスを落として、また優しく抱きしめるだろう。)
……なあ、ヴィヴィアン。今夜は……
(……今夜はこうして、喋りながら寝ることにしないか。珍しくギデオンの方から、そう素直に甘えてみせたのは……全てはそう、眠気のせいだ。ギルドでも、クエスト先でも、ラメット通りでも、ギルバートの前でも……来たるべき。その日のときも。相手が惚れてくれた大人の男の顔を、きちんとしてみせるから。だから今夜だけはまだ、「おやすみ」を言い交わして、帳を下ろしてしまいたくない。己よりずっとうら若い恋人にそう強請り、それからしばらくの間、互いにしか聞こえぬほどの小さな声でひそひそと囁きあえば。……程なくして、相手を優しく撫でる手を止め、先に寝息を立てはじめたのは、果たしてどちらだったろう。気づけばふたりとも、ひとつのデュベに仲睦まじくくるまって。月明かりの差し込む下、温かい手を握り合いながら、すやすや眠り込んでいた。)
(かくして、怒涛のドラゴンから一夜明け。カラドリウスの歌声と共に、また新たな朝がやって来る。しゃきっと元気を取り戻してギルドに出勤した二人は、しかしまたすぐ、ギルドの奥の応接室に呼び出されることとなった。……昨日の件でギルドに呼び出されていた、ヴィヴィアンの父ギルバートの元に。なんと王国議会の官僚が、わざわざ訪ねにきたというのだ。
如何にも切れ者という顔つきをした、四十代半ばほどのその男曰く。──今朝早くにガリニア大使館から、「ギルバート・パチオを我が国に戻らせろ」と、相当におかんむりな怒鳴り込みがあったそうだ。なんでも今、帝国側の魔導学院が、ギルバートの置き土産のせいで大変なことになっているらしい。詳しく聞くに、どうやらかの機関は、彼の弾丸帰国を聞きつけた途端、ならば尊重無用とばかりに、構内にある彼の研究室を暴きにかかった。……そして当然、研究守秘の目的でガチガチにかけられていた魔法陣が発動し、惨事を引き起こしたとのことだ。とはいえこれは、帝国の研究者は皆やっている工夫であり(向こうは学界での政治闘争まで激しく、自衛が当たり前の文化である)、何もギルバートが奇人というわけではない。それにどちらかと言えば、ギルバートの組んだ陣を一向に解き明かせない向こうの学者が、皆間抜けという話になる。とはいえ、帝国はメンツ主義。“わざわざ招聘してやったのに、勝手に帰国し、挙句こちらの顔に泥を塗ってきた”として。ギルバート・パチオに対し猛烈に怒り、奴を寄越せと要求しているのだ。
行けば当然危険である。それに、ギルバートにも言い分がある。向こうの魔導学院は、トランフォードからの手紙を長らく握り潰していた。問い質したとてしらを切るだろうにせよ、それは明確な政治的工作。そして他にも……単にこの件が最後の決め手だっただけで、以前からも本当に、いろいろと酷い仕打ちが度重なっていたそうだ。
それはこちらも把握しております、と官僚は苦々しく言った。──しかしこれは、少しでもたがえてしまえば、国事に至る事態なのです。支援は手厚くいたしますので、どうかご理解いただきたい。……それにあなたも、向こうのご本家にまで累が及ぶのは、決して得策ではないでしょう。
それを聞くなり、ギルバートの顔色が悪くなった。どうやらパチオ家は、この国の母体であるガリニア帝国の上流層に、元の血筋があるらしい。あの独立独歩を地で行くようなギルバートでも、人質に取られると弱ってしまうようなものが、愛娘のヴィヴィアン以外にあったのだな……という驚きはさておき。同席しているギルマスからも、責任は取りなさい、と言い添えられる。──本気であちらの学院を抜け出したいなら、相応の後始末はするべきでしょう。なに、こちらも散々迷惑をこうむったんです、やりたくないとは言わせませんよ。
ギルマスの言う“迷惑”とは、昨日出没したドラゴンのことである。あのエレンスゲはどうやら、ギルバートが連れてきてしまったものらしい。帰国時のどこかであの怪物の領空を犯し、それに怒り狂ったドラゴンは、空中に残るギルバートの魔素を執念深く追ってきた。そうして、ギルバートが一時野営した森に降り立ち、彼を探し回っていたのだ。──そしてギルバートの方も、理屈は全くわからないが、自分を負ったドラゴンが付近に来たことを察知した。それでギルドの監視を抜け出し、自分で落とし前をつけようと、冒険者たちより早く駆けつけていたわけである。ドラゴンの位置が推測より北上していたのも、ギルバートが人里から引き離してくれたおかげだった、というわけだ。
──そうだ、昨日のドラゴンの件然り。プライドの高いギルバートは、本来であれば、自分の招いた事態の始末を自分でつけたがる人間だ。そこにギルマスも官僚も、おそらく示し合わせたのだろう、鋭く漬け込むものだから。いろいろ弁を弄していたギルバートも、いよいよ首を縦に振るほかなくなったらしい。……せめて、と彼は弱々しく言った。出発する前に、せめて一度だけ、娘と食事をさせてくれ。……まだろくに、話ができていないんだ。
官僚は頷いた。今夕にでも宮殿の関係者室に顔を出し、そのまま翌朝出発してくれるなら、この後すぐに手配しましょう──まるでこの展開を読んでいたかのような、恐るべき仕事の速さである。一方、突然の事態、それも愛する父親がいかれる帝国に呼び出されていると知って、ヴィヴィアンは動揺している様子が見られた。故にギデオンは、ギルバートにも確認を取って(本人は非常に露骨に嫌そうな顔をしたが)、その食事会に自身も同席したいと言いだす。この話し合いに自分まで呼び出されたのは、おそらくこの動きのためだろう──こちらはギルマスの取り計らいだ。ヴィヴィアンを支えつつ、この機にギルバートと少しでも話しておくこと。これは何も、プライベートな意味だけではない。パチオ父娘の情報をいちばん近くで把握するのは、今後のカレトヴルッフの展望を左右する布石になり得る。……つくづく己の使える御人は、抜け目のないお方である。
そうして、その3時間後。官僚の乗ってきた黒塗りの高級馬車により、一同は政治家御用達の高級料理店に出向いた。随分な大盤振舞だが、「娘と美味い飯を食わせてやるから、やることしっかりやってこい」……という、国からの無言の圧力だろう。このテーブルの背後には、三つ揃えの背広を着た若い男が3人もついていた。彼らはギルバートのガリニア出向のサポートチームだそうで、どれも選りすぐりの人材らしい。彼らの護衛を受けながらガリニアに戻り、現地のトランフォード大使の後援を受けて、帝国の学院を正式に辞職する──これがギルバートの、これから為すべきことである。
とはいえ彼は、ギルバート・パチオという人間。ムール貝の身を取り出しながら、「ビビちゃん、後ろの妙な連中はいないものと思いなさい」なんて、何ら悪びれず宣う始末だ。それに対するヴィヴィアンは、顔色がまだ優れない。先日言っていたように、「パパときちんと話したい」のに、こんなにも急な展開……おまけに敷居の高い店で、複数の政府関係者に見られながらだ、無理もないことだろう。ちゃっかりとゲリュオン牛のフォアグラを堪能していたギデオンは、基本的には親子水入らずにさせようと様子を見ていたのだが。……ほどなくして、異端の天才として世界中で名を馳せているギルバートが、娘を前にした父親としては、壊滅的に口下手とみれば。「そうだ、ヴィヴィアン。カレトヴルッフに入ってからの、お前のいろんな活躍について。俺から親父さんに話しても?」と、あくまでごくさり気なく、会話の糸口に助け舟を出すことにして。
そうして、思えばあっという間に、別れを告げる時間となった。ギデオンとヴィヴィアンは乗合馬車でギルドに戻り、ギルバートとチームメンバーは、このまま公用車で宮殿に赴くのだ。最後はギデオンと男たちも、流石に少し身を引いて、遠くから父娘を見守った。ギルバートとヴィヴィアンは、そこでようやくほんの少し、本当の“親子水入らず”をすることができたようだ。話が終われば、男たちがギルバートの方に行き、ヴィヴィアンがギデオンの方に帰ってきた。彼女を優しく迎え入れ(本当はキスのひとつでも落としたいのを我慢して)、馬車に乗り込むギルバートを眺める。彼はすぐさま車窓を開けて、ヴィヴィアンを名残惜し気に振り返っていた。「……な? 言ったろう。親父さんは、今でもお前のことが大好きだよ」。恋人にそう囁いて。ふたりでそっと手を繋ぎ、遠ざかっていく黒い馬車を、いつまでも見送った。
──パチオ父娘を、ふたりきりにしてやる直前。ギデオンは、荒い息を吐くギルバートから、「僕のビビちゃんを絶対に泣かせるなよ……」と、酷く恨めし気に言いつけられた。……だがあれは、先日よりも少しだけ、自分のことを認めてくれていたような気がするが、はたして思い上がりだろうか。「すぐに帰って来るからな。絶対帰って来るからな!」と何度も息巻く魔法使いは、結局その言い草によって、ギデオンの決意をまたひとつ固めさせたのだ。次に帰国するときには、彼はもっとたまげる羽目になるだろう。呪われるかもしれないが──少しだけ、それが楽しみだ。思わず緩んでいた表情を、どうしたのと隣の恋人に問われれば。なんでもないさ、と今度こそ旋毛にキスを落とし。手を繋いだまま、ふたりでごくのんびりと、爽やかな夏空の下を歩き始めることにした。)
*
(──さて。あのときとは異なる時間、異なる場所で。ベテラン戦士のギデオン・ノースはその日、何とも深刻な問題に頭を悩まされていた。
事の発端は、数時間前まで駆り出されていたオーク狩りのクエストだ。森の中に棲みついている凶暴なグリーンオーク、そいつらを無事狩り尽くしたまでは良かった。問題はその後、帰りの道中に、悪戯好きなピクシーの大群が襲い掛かってきたことで。……基本的に冒険者は、ピクシーには反撃しない。それは彼らの正体が、洗礼を受けずに死んだ子どもの魂と信じられているからだ。だからギデオンたちは、きゃっきゃけらけらと楽しそうな小妖精どもを必死に掻い潜りながら、どうにか帰還したのだが。いくらなんでも、これは流石にやり過ぎだろう……と、鼻を抑えて嘆息する。ギルドロビーに入ってくる連中が、皆目をくわっと剥いてこちらを凝視してくるが、いちいち説明するのも飽きた。……ひと目見て、わかるとおりだ。
──金髪の頭に生えた、黒っぽい三角の耳。脚衣のすぐ上から垂れる、ふさふさした立派な尻尾。手の爪は太く鋭く伸び、指先と掌には黒い肉球がついている。極めつけに、顔の変化はないとはいえど、このあまりにも鋭敏な嗅覚。あのピクシーどもときたら、ギデオンとパーティーメンバーに──犬化魔法、なんてものをかけたのだ。
おかげで既に、臭い酔いが酷い。ジャスパーもレオンツィオも、早々に嘔吐して医務室に引き下がり。そこまではいかないアラン、セオドア、アリアでさえ、ロビーの端のテーブルにぐったりと突っ伏して、その目立つ尻尾も耳も、力なくしょげさせている。彼らの分の報告書を代わりに引き受けているギデオンも、胸のむかつきを抑えられない──辺りが臭くてたまらない。人間でいる時はさほど気にならなかったのだが、冒険者の野郎どもの汗や体臭、装備の臭いが、まさかこんなにも強烈なものだったとは。ギルドのカヴァス犬どもはよく平気だな、慣れの問題なのか……と顔を顰めながら、とにかく急いで書類仕事をやっつけにかかる。近場の別室でやればまだマシかもしれないが、己よりずっと若いセオドアとアリアが、緊急出動に備える義務できちんとロビーに留まっているのだ、自分だけ逃げるわけにはいかないだろう。とはいえ、これは……と。横髪をがしがし掻こうとして、己の変貌した爪を眺め、はあ、と深いため息を。とりあえず書き上げたひとつ目の書類を、カウンターにいるマリアのところへ持って行き。……非常~~~に白けた目つきをもって、無言で受領して貰えば、またすぐに“いつもの”柱のところに戻り、若手たちの書いた報告書を読み込みにかかるだろう。)
※複数個所を修正しております、大意に変化はございません。
ああ、今からでも……と。
言いたい……ところだな……
(相手の弱々しい恥じらいぶりを、よしよしと頭を撫でて慰めていた矢先。最後に付け加えられた殺人的な一言に、思わずたまらなさそうに呻く──いつものお決まりのパターンだ。よって、その後もやはり同じ。己の太い腕を回しかけ、相手を横からぎゅうぎゅうと、目いっぱい抱きすくめる。羞恥に火照っているヴィヴィアンの体温、このぽやぽやした温かさがたまらない……なんて、相手をぬくぬく堪能しながら。吐息混じりにのっそりと返したのは、なかなかに不甲斐ない台詞だ。──今夜はただでさえ疲れがたまっていたところだし、相手の反応も、想定よりずっと落ち着いていて安堵した……そのせいか。既にとろりと瞼を閉ざしているように、忍び寄ってきた眠気を追い払えそうにない。
しかし別に、それだけが理由というわけでもないのだ……本当だ、と。「一緒に悦くなるには、もう少し慣らしておかないと……」「そもそも、退院してからまだ二ヵ月も経っちゃいない……」等々。相手の旋毛に唇を寄せながら、あれこれ言い訳を挙げ連ね。しかし結局最後には、「……それでも、じきに……貰うとも……」と、愚直すぎる野心まで、馬鹿正直に打ち明ける始末だ。──あなたならいい、あなたのためなら。これまで何度だって、可愛い恋人からそう云われてきた。その責任はいずれしっかりとってもらうし……ギデオンの方もまた、相応の責任をきっちり負う腹積もりでいる。……ああ、そういえば。ヴィヴィアンと暮らすこの家ではなく、敢えてギルドの私書箱宛に出してもらうことにした手紙に、「来週末には」と書かれていたっけな……と。そこでふと、アイスブルーの目を薄く開き。その華奢な背中を撫でさすりながら、腕の中の恋人を見下ろす。もしも相手が、その気配を感じとってか、こちらを無邪気に振り仰いだなら。そのあどけない顔を数秒眺めて、ふ、と幸せそうに微笑み。まろい額にキスを落として、また優しく抱きしめるだろう。)
……なあ、ヴィヴィアン。今夜は……
(……今夜はこうして、喋りながら寝ることにしないか。珍しくギデオンの方から、そう素直に甘えてみせたのは……全てはそう、眠気のせいだ。ギルドでも、クエスト先でも、ラメット通りでも、ギルバートの前でも……来たるべき、その日のときも。相手が惚れてくれた大人の男の顔を、きちんとしてみせるから。だから今夜だけはまだ、「おやすみ」を言い交わして、帳を下ろしてしまいたくない。己よりずっとうら若い恋人にそう強請り、それからしばらくの間、互いにしか聞こえぬほどの小さな声でひそひそと囁きあえば。……程なくして、相手を優しく撫でる手を止め、先に寝息を立てはじめたのは、果たしてどちらだったろう。気づけばふたりとも、ひとつのデュベに仲睦まじくくるまって。月明かりの差し込む下、温かい手を握り合いながら、すやすや眠り込んでいた。)
(かくして、怒涛のドラゴン狩りから一夜明け。カラドリウスの歌声と共に、また新たな朝がやって来る。しゃきっと元気を取り戻してギルドに出勤した二人は、しかし再び、ギルドの奥の応接室に呼び出されることとなった。……昨日の件でギルドに呼び出されていた、ヴィヴィアンの父ギルバートの元に。なんと王国議会の官僚が、わざわざ訪ねにきたというのだ。
如何にも切れ者という顔つきをした、四十代半ばほどのその男曰く。──今朝早くにガリニア大使館から、「ギルバート・パチオを我が国に戻らせろ」と、相当におかんむりな怒鳴り込みがあったそうだ。なんでも今、帝国側の魔導学院が、ギルバートの置き土産のせいで大変なことになっているらしい。詳しく聞くに、どうやらかの機関は、彼の弾丸帰国を聞きつけた途端、ならば尊重無用とばかりに、構内にある彼の研究室を暴きにかかった。……そして当然、研究守秘の目的でガチガチにかけられていた魔法陣が発動し、惨事を引き起こしたとのことだ。とはいえこれは、帝国の研究者は皆やっている工夫であり(向こうは学界まで政治闘争が激しく、自衛を講じて当たり前の文化である)、何もギルバートが奇人というわけではない。それにどちらかと言えば、ギルバートの組んだ陣を一向に解き明かせない向こうの学者が、皆間抜けという話になる。とはいえ、帝国はメンツ主義。“わざわざ招聘してやったのに、勝手に帰国し、挙句こちらの顔に泥を塗ってきた”として。ギルバート・パチオに対し猛烈に怒り、奴を寄越せと要求しているのだ。
行けば当然危険である。それに、ギルバートにも言い分がある。向こうの魔導学院は、トランフォードからの手紙を長らく握り潰していた。問い質したとてしらを切るだろうにせよ、それは明確な政治的工作。そして他にも……単にこの件が最後の決め手だっただけで、以前からも本当に、いろいろと酷い仕打ちが度重なっていたそうだ。
それはこちらも把握しております、と官僚は苦々しく言った。──しかしこれは、少しでもたがえてしまえば、国事に至る事態なのです。支援は手厚くいたしますので、どうかご理解いただきたい。……それにあなたも、向こうのご本家にまで累が及ぶのは、期するところではないでしょう。
それを聞くなり、ギルバートの顔色が悪くなった。どうやらパチオ家は、この国の父祖であるガリニア帝国の上流層に、大元の血筋があるらしい。あの独立不羈を地で行くようなギルバートでも、人質に取られれば己を曲げるほどの弱みが、愛娘のヴィヴィアン以外にあったのだな……という驚きはさておき。同席しているギルマスさえも、責任は取りなさい、と言い添えにかかる。──本気であちらの学院を抜け出したいなら、相応の後始末はするべきでしょう。なに、こちらも散々迷惑をこうむったんです、やりたくないとは言わせませんよ。
ギルマスの言う“迷惑”とは、昨日出没したドラゴンのことである。あのエレンスゲはどうやら、ギルバートが連れてきてしまったものらしい。帰国時のどこかであの怪物の領空を犯し、それに怒り狂ったドラゴンは、空中に残るギルバートの魔素を執念深く追ってきた。そうして、ギルバートが一時野営した森に降り立ち、彼を探し回っていたのだ。──そしてギルバートの方も、理屈は全くわからないが、自分を追ったドラゴンが付近に来たことを察知した。それでギルドの監視を抜け出し、自分で落とし前をつけようと、冒険者たちより早く駆けつけていたわけである。ドラゴンの位置が推測より北上していたのも、ギルバートが人里から引き離してくれたおかげだったのだ。
──そうだ、昨日のドラゴンの件然り。プライドの高いギルバートは、本来であれば、自分の招いた事態の始末を自分でつけたがる人間だ。そこにギルマスも官僚も、おそらく示し合わせたのだろう、鋭く漬け込むものだから。いろいろ弁を弄していたギルバートも、いよいよ首を縦に振るほかなくなったらしい。……せめて、と彼は弱々しく言った。出発する前に、せめて一度だけ、娘と食事をさせてくれ。……まだろくに、話ができていないんだ。
官僚は頷いた。今夕にでも宮殿の関係者室に顔を出し、そのまま翌朝出発してくれるなら、この後すぐに手配しましょう──まるでこの展開を読んでいたかのような、恐るべき仕事の速さである。一方、突然の事態、それも愛する父親が怒れる帝国に呼び出されていると知って、ヴィヴィアンは動揺している様子が見られた。故にギデオンは、ギルバートにも確認を取って(本人は非常に露骨に嫌そうな顔をしたが)、その食事会に自身も同席したいと言いだす。この話し合いに自分まで呼び出されたのは、おそらくこの動きのためだろう──こちらはギルマスの取り計らいだ。ヴィヴィアンを支えつつ、この機にギルバートと少しでも話しておくこと。これは何も、プライベートな意味だけではない。パチオ父娘の情報をいちばん近くで把握するのは、今後のカレトヴルッフの展望を左右する布石になり得る。……つくづく己の仕える御人は、抜け目のない方である。
そうして、その3時間後。官僚の乗ってきた黒塗りの高級馬車により、一同は政治家御用達の高級料理店に出向いた。随分な大盤振舞だが、「娘と美味い飯を食わせてやるから、やることしっかりやってこい」……という、国からの無言の圧力だろう。このテーブルの背後には、三つ揃えの背広を着た若い男が3人もついていた。彼らはギルバートのガリニア出向のサポートチームだそうで、どれも選りすぐりの人材らしい。彼らの護衛を受けながらガリニアに戻り、現地のトランフォード大使の後援を受けて、帝国の学院を正式に辞職する──これがギルバートの、これから為すべきことである。
とはいえ彼は、ギルバート・パチオという人間。ムール貝の身を取り出しながら、「ビビちゃん、後ろの妙な連中はいないものと思いなさい」なんて、何ら悪びれず宣う始末だ。それに対するヴィヴィアンは、顔色がまだ優れない。先日言っていたように、「パパときちんと話したい」のに、こんなにも急な展開……おまけに敷居の高い店で、複数の政府関係者に見られながらだ、無理もないことだろう。ちゃっかりとゲリュオン牛のコンフィを堪能していたギデオンは、基本的には親子水入らずにさせようと様子を見ていたのだが。……ほどなくして、異端の天才として世界中で名を馳せているギルバートが、娘を前にした父親としては、壊滅的に口下手とみれば。「そうだ、ヴィヴィアン。カレトヴルッフに入ってからの、お前のいろんな活躍について。俺から親父さんに話しても?」と、あくまでごくさり気なく、会話の糸口に助け舟を出すことにして。
そうして、気づけばあっという間に、別れを告げる時間となった。ギデオンとヴィヴィアンは乗合馬車でギルドに戻り、ギルバートとチームメンバーは、このまま公用車で宮殿に赴くことになる。最後はギデオンと男たちも、流石に脇に身を引いて、父娘を見守ることにした。ギルバートとヴィヴィアンは、そこでようやく、本当の“親子水入らず”をほんの少しできるわけだ。話が終われば、男たちがギルバートの方に向かう代わりに、ヴィヴィアンがギデオンの方に帰ってきた。彼女を優しく迎え入れ(本当はキスのひとつでも落としたいのを我慢して)、馬車に乗り込むギルバートを眺める。彼はすぐさま車窓を開けて、ヴィヴィアンを名残惜し気に振り返っていた。「……な? 言ったろう。親父さんは、今でもお前のことが大好きだよ」。どこかおどけたように、恋人にそう囁いて。こっそり手を絡め合わせ、遠ざかっていく黒い馬車を、いつまでも見送った。
──パチオ父娘を、ふたりきりにしてやる直前。ギデオンは、荒い息を吐くギルバートから、「僕のビビちゃんを絶対に泣かせるなよ……」と、酷く恨めし気に言いつけられた。だがあれは……気のせいだろか。先日よりも少しだけ、自分のことを認めてくれていたように思う。「すぐに帰って来るからな。絶対帰って来るからな!」と何度も息巻く魔法使いは、結局その言い草によって、ギデオンの決意をまたひとつ固めさせたのだ。次に帰国するときには、彼はもっとたまげる羽目になるだろう。呪われるかもしれないが──少しだけ、それが楽しみだ。思わず緩んでいた表情を、どうしたのと隣の恋人に問われれば。なんでもないさ、と今度こそ旋毛にキスを落とすと。手を繋ぎながら、ふたりでごくのんびりと、爽やかな夏空の下を歩き始めることにした。)
*
(──さて。あのときとは異なる時間、異なる場所で。ベテラン戦士のギデオン・ノースはその日、何とも深刻な問題に頭を悩まされていた。
事の発端は、数時間前まで駆り出されていたオーク狩りのクエストだ。森の中に棲みついている凶暴なグリーンオーク、そいつらを無事狩り尽くしたまでは良かった。問題はその後、帰りの道中に、悪戯好きなピクシーの大群が襲い掛かってきたことで。……基本的に冒険者は、ピクシーには反撃しない。それは彼らの正体が、洗礼を受けずに死んだ幼子の魂だと信じられているからだ。だからギデオンたちは、きゃっきゃけらけらと楽しそうな小妖精どもを必死に掻い潜りながら、どうにか帰還したのだが。いくらなんでも、これは流石にやり過ぎだろう……と、鼻を抑えて嘆息する。ギルドロビーに入ってくる連中が、皆目をくわっと剥いてこちらを凝視してくるが、いちいち説明するのも飽きた。……ひと目見て、わかるとおりなのだ。
──金髪の頭に生えた、黒っぽい三角の耳。脚衣のすぐ上から垂れる、ふさふさした立派な尻尾。手の爪は太く鋭く伸び、指先と掌には黒い肉球がついている。極めつけに、顔の変化はないとはいえど、このあまりにも鋭敏な嗅覚。あのピクシーどもときたら、ギデオンとパーティーメンバーに──犬化魔法、なんてものをかけたのだ。
おかげで既に、臭い酔いが酷い。ジャスパーもレオンツィオも、早々に嘔吐して医務室に引き下がり。そこまではいかないアラン、セオドア、アリアでさえ、ロビーの端のテーブルにぐったりと突っ伏して、その目立つ尻尾も耳も、力なくしょげさせている。彼らの分の報告書を代わりに引き受けているギデオンも、胸のむかつきを抑えられない──辺りが臭くてたまらない。人間でいる時はさほど気にならなかったのだが、冒険者の野郎どもの汗や体臭、装備の臭いが、まさかこんなにも強烈なものだったとは。ギルドのカヴァス犬どもはよく平気だな、慣れの問題なのか……と顔を顰めながら、とにかく急いで書類仕事をやっつけにかかる。近場の別室でやればまだマシかもしれないが、己よりずっと若いセオドアとアリアが、緊急出動に備える義務できちんとロビーに留まっているのだ、自分だけ逃げるわけにはいかないだろう。とはいえ、これは……と。横髪をがしがし掻こうとして、己の変貌した爪を眺め、はあ、と深いため息を。とりあえず書き上げたひとつ目の書類を、カウンターにいるマリアのところへ持って行き。……非常~~~に白けた目を向けられながら、無言で受領して貰えば。またすぐ“いつもの”柱のところに戻り、若手たちの書いた報告書を読み込みにかかるだろう。)
ギデオンさん!! ご無事でs──……?
( 依頼に戻ったヴィヴィアンに、その一方が届いたのは、依頼から戻った彼女が、ギルドのシャワー室から上がってすぐのことだった。午前中丸ごとラタトスクの捕縛に、キングストンを駆け回り。やっと東広場まで追い詰めたかと思えば、往生際の悪い悪戯者が、噴水のオブジェのその上によじ登ろうとするものだから、最後はずぶ濡れでの捕物劇から戻って四半時。──あ、ビビはもう聞いた? ギデオンのこと、仕事中に大変な目にあったって、今ロビーにいるわよ。そんな巧妙に笑いを噛み殺した、魔法使いの真剣な表情に騙されて、医務室ではなくロビーにいる時点で大事でないことは分かるだろうに。愛しいギデオンの一大事に、いちもにもなく飛び出せば、背後から響いた吹き出すような音には気づかなかった。
そうして、息を切らしながらギルドロビーに駆け込めば、黒く大きな三角の耳と、ふさふさの尻尾を不機嫌に揺らす恋人の姿に、ビビの大きな目が益々大きく丸く見開かれる。よく見ると爪も少し鋭くなったような……って──えっ、依頼中に大怪我したっ……とは、言って、なかったか、そっか。と、次第に己の早とちりにじわじわと気が付きながら、そのあまりに予想外な光景に瞬きをして。それでもその瞳に、面白がるそれよりも心配の光が優るのは、その真面目な性格ゆえだろう。心配すればいいやら、無事を喜べばいいやら、人間、一瞬で感情が180度近く振れるとフリーズするもので。色々な感情で渋滞を起こしたビビの後頭部で、未だしっとりと乾ききらぬ巻き毛がくりんっ、と間抜けに揺れる。とりあえずは急を要さなそうな雰囲気にほっと息をつきながら、体調に影響は無いのかだとか、いつ戻るのかだとか、諸々気になる質問をしようと。それと同時に適当にまとめた髪を結び直すべく、しゅるりと解きながらおずおずと近づいて。 )
……お疲れ様です、それは、一体何が……?
(ぴくん、と真っ先に反応し、くるりとそちらを向いたのは、毛並み豊かな三角耳だ。次いでその下のギデオン自身も、手元の書類から顔を上げた。非常に険しく狭まっていたはずの目許は、そこにいるのが恋人だとわかるなり、わかりやすくしゅるんとほどけ。己の後ろの大きな尻尾が、無意識に大きくゆらゆら揺れ出すのにも気づかないまま。投げられた問いに答えるべく、「ああ、ヴィヴィアン。それがな……」と、ごく理性的に応じかけた、その時だ。
それまでのギデオンは、ロビーに充満する饐えた悪臭に、あまりにも耐え兼ねて。片手の拳で己の鼻を、きつく押さえ込んでいた。それを下ろしてしまえばどうだ──開放されたギデオンの鼻腔に、暴力的なほど優しい香りが、たちまちふわあと押し寄せて。甘く清らかなホワイトムスク、洗いたての髪の香り。毎晩のように堪能している、己の恋人、ヴィヴィアンの匂い。たとえ平時でさえ、ギデオンの思考力を容易く奪ってしまえるそれを。束ねていたのを解いたことで、より一層濃厚なそれを。今のギデオンが──普段の数千倍もの嗅覚を持ってしまったギデオンが、少しも耐えきれるはずもなく。)
………………
(──気がつけば。大きく一歩踏み出し、相手の細い手首を引いて。ギデオンは真正面から、相手の首元にその鼻先を埋めていた。普段から散々“バカップル”と揶揄われているものの、普段の常識的な彼であれば、流石に人前でここまでの行為には及ばないはずである。それが今や、有無を言わさずといった様子で──或いは、人間から動物に退化したかのような、原始的な様子で。堂々と相手に溺れ、すりりと鼻を擦りつける始末だ。いつもの妬み嫉みの目で事態を眺めていた野郎どもも、流石にごふっと激しく噎せこみ、ぎょっとした目でまじまじ見つめ。カウンターにいた事務員たちも、それはもう鮮やかな二度見三度見をしてしまう──常識人代表ことマリア・パルラの反応は、もちろん言わずもがな。しかし当のギデオンといえば、相手に心底癒されるというように、震える息を吐きだしながら。何かしら反応されれば、わかっているのかいないのか、両の犬耳をぺしょんと伏せて、弱々しく懇願し。)
……ピクシーに……やられたせいで……辺りの臭いが……酷くてな……
悪いがしばらく……こうさせてくれないか……
…………、
( この場で改めて言うまでもなく、ビビはあまり犬という動物が得意では無い。その上、相手が好き好んでなった訳でもない姿を、笑ったり喜んだりしたら悪いと思う気持ちは確かにありはするのだが。此方を見つけた瞬間、嬉しそうに尻尾を振り出す恋人に絆されない人間が、果たして存在するものだろうか。思えば、緩みそうになる表情をなんとか律して、心做しかいつもよりあどけない様子で、此方へと語りかけてくるギデオンに──うん、どうしたの? と、身を乗り出しかけたこの時点で。この先の展開、ヴィヴィアンが、犬化したギデオンに何をされても強く怒れない命運など決まりきっていたようなものだ。 )
ひゃっ……!?
ギデオンさ、だめっ……こんな人前でっ、
( その証拠に、突如強く腕を引かれて、乗り出した身体のバランスを崩し硬い胸板へと飛び込めば。ギデオンによるとんでもない暴挙にさえも、拒絶する声のあまりに説得力のないこと。その聞く方が恥ずかしくなるような甘ったるさに、それまで未だ、二人の体勢に気がついていなかった者たちの視線まで、余計に周囲の関心をかき集めてしまえば。ぺしょんと垂れた素直な耳の形が、完全にトドメとなって、ビビの中で"絶対ギデオンさんを守るモード"のスイッチがONに切り替わる。相手は子供でもなければ、先程まで一人仕事さえしていたという情報など、最早全く意味をなさない。そうか……見た目だけじゃない、こんなところにまで影響があるのか。可哀想に、人間の数千倍とも言われる犬の嗅覚だ、どれだけ辛いだろう。この可愛い恋人を前にして、ぎょっとした目で此方を伺ってくる周囲の視線など、微塵も優先する気にならず。しかし、ヴィヴィアンは構わなくとも、( ビビ関連に至っては既に手遅れ気味ではあるが )ギデオンの名誉には良くなかろうと、「このまま歩ける?」とそっと優しく柱の陰のベンチへと誘導しては。見回してみれば、ギデオンの他にもちらほら同じ状況に陥っている仲間達の姿も垣間見えるが、皆立派な大人なのだ。──それぞれ各自勝手に乗り切るだろうと、ギデオンを前にすると案外ドライな思考を切り替え。未だビビを離したがらない相手にゆっくり向き直ると。もしかすると聴力も敏感になっているのではあるまいかと、金色の頭を優しく撫でながら大きな耳に唇を寄せると、二人にだけ聞こえるような囁き声でそっと伺ってみて、 )
……ギデオンさん、ベンチ、座れます?
匂い、ですよね……、んー、辛いねぇ……。
──午後、どうします? お仕事に影響にある魔法災厄なら、有給でおうち帰れますよ。ここよりは少しマシだと思うんですけど……いっしょに帰る?
(相手に促されるがまま、死角のベンチに座ったまでは良かったものの。今度はこれ幸いとばかりに、己の膝に相手を乗せ、伸びた爪で傷つけぬよう、その柳腰に手を回し。よりぴったりと密着し、可愛い恋人の甘い香りを存分に吸い込み始める有様だ。──にもかかわらず、ごく優しく注がれる、恋人の問いかけに。三角耳をぴくり、と動かし、僅かに顔を上げ、視線を中空に定めれば。挙げられた提案を、しばしぼんやりと思案する様子を見せた末──目を閉じ、ぴたりと耳を伏せて。相手の肩口に埋めた顔を、如何にも“嫌だ”と言わんばかりに、左右に振って擦り付ける。次いでその喉からも、普段とはやや響きの異なる、どこか獣じみた唸り声を。)
……帰らん。そんなことで半休は使わん。
いざというときのお前の看病とか……一緒に魔導家具を見に行くとか……休日を合わせて小旅行に行くとか……ほかにもっと、有意義な使い道があるだろう。
(「それに、若い奴らも頑張って残ってる。なのに年輩の俺が帰るなんてのは……」云々。まったく、理性が残っているんだかいないんだか。体面のことにちゃんと考えが及ぶのであれば、もっと他に気にすべき部分があるだろうに。そこのところは一向に改善する気配のないまま、相手に深く顔を寄せ。ベンチの座椅子と背もたれの間の隙間に垂らした尾を、ゆらゆら、ゆらゆら、大きく振り続けていた、その時だ。
「まったく、寝惚けた真似をしおって……」と、呆れた声を投げかける者がいた。奥の医務室から出てきたらしい、ギルド専属のドクターである。手には何やら食べ物の匂いがする盆らしきものを持っていて、ギデオンは一瞬ぴくりとそちらを見たが、“ヴィヴィアンに比べれば取るに足りん”とでも言わんばかりに、また相手の首元に己の顔を埋めてしまった。それに再び溜息をつきながら、老爺は相手に向き直り、「これを食わせろ」と、気になる盆の中身の披露を。──どうやら、柔らかく煮潰した干し肉を、苦い薬草を混ぜ込んで団子にしたものらしい。「こいつはな、鋭くなり過ぎた嗅覚を鈍くする作用がある。反対に、体表変貌の促進……まあ、偽の毛皮が生えやすくなるって副作用があり得るんだが、臭い酔いに比べりゃあマシだろう。どのみちどっちも、即日か数日以内に消え失せる症状だ。だからビビ、こいつをそのアホタレに食わせて、いい加減目を覚まさせてやれ。わしは他の奴らを見てくる」……そう言って、薬包紙に乗せた肉団子を、相手の掌の上に委ね。今回ばかりはいつもの野次馬でなく、純粋な心配からふたりの様子を覗き見ていた冒険者たちを、「ほれほれ、散れ暇人ども」と、追い払いに行くだろう。)
──そっかぁ、そしたら一緒に頑張りましょう!
私も協力しますから……で、も! ギデオンさんの不調だって、"そんなこと"じゃありませんから、本当に辛かったらちゃんと言うこと!
( ぺたりと倒れたヒコーキ耳に、くしゅくしゅと押し付けられる凹凸の深い顔面。グルグルと身体に響く唸り声すら愛おしくて、寄せられた頭に此方も頬を擦り付けると。ぎゅっと強く抱き締め返して、頭、項、そして周りとは少し質感の違う毛が生えた耳の付け根をクシクシと柔らかく撫でてやる。こんな時まで責任感溢れるところも、非常に魅力的ではあるのだが、無理は絶対にして欲しくない。そう心配そうな表情で、よしよしと相手に言い聞かせ──いいですね? と、青い目と目を合わせ、頷かせようとしたその矢先。協力すると言ったからには、まずはこの鋭い嗅覚だけでもどうにかしてやらねばと対策を考えていたところへ、背後からかかった呆れ声に振り返れば。今日も今日とてだるそうに、尖った顎を突き出す年嵩の魔法医が目に写って。その言葉が、目先の辛さを軽減してやりたいばかりに、患者の拘束から抜け出せない位置に収まった自分に言われているような気がして、気まずそうに首を縮めながら、ホカホカと湿った薬包紙を両手で受け取ると。魔法にかかって犬化した彼らが、まず鋭敏になった嗅覚に苦しむなど、自分は今ギデオンに訴えられて初めて気づいたというのに、この魔法医の経験豊富で、ぶっきらぼうながら患者思いなところが、魔法医として尊敬し、「格好良い、大好き……」なのだと、お礼とともに呟けば。「……上司、上司としてだってハッキリ言わんかい」と、相変わらず人の好意に嫌そうな顔をしてくれる御仁だ。不機嫌そうにそそくさと離れていく細い背中に、──そんなパパじゃないんだから。ギデオンさんだってこんなことじゃ怒らないのに、とクスクス笑って振り返れば。愛しい相手の辛さを減らせる嬉しさに、満面の笑みを浮かべて、まだ暖かい薬包紙ごと、その10cmほど下に零さないよう手を添えると、ギデオンの前に肉団子を差し出して。 )
わぁ! 美味しそうですよ、ギデオンさん!
これで楽になるって、良かったですね……お口、空けられますか? ……はい、あーん、
(相手の朗らかな声かけに、しかしながら。対面するギデオンは、黒い犬耳を真後ろにぴたっと寝かせ、眉間と鼻筋に皴を寄せて──不機嫌な顔を、露骨に真横へ逸らしていた。相手が口元に肉団子を運ぼうにも、唇を堅く結び、目を合わせようにも合わせない。だからといって、何事か尋ねたところで、「…………」とだんまりさえ気込め込んでしまう。──だからこそ、音が目立つ。ぴしゃっ、ぴしゃっ、と。毛筆を強く打ち鳴らすような妙な音に、視線を足元に下げてみれば。それは、先ほどまでご機嫌に揺れていたはずのギデオンの尻尾が、八つ当たりめいたリズムで、床を強く打っている音なのだ。
やがてわふん、と。いったいどこから鳴らしたのか、口を閉じたまま不満げな息を漏らしては。相手が片手に持った団子を無視して、金色の頭を彼女の肩にぐりぐりと擦りつけ。そうして密にかき抱いたまま、ギデオンは動かなくなってしまった。ヴィヴィアンに何か言われても、ぐるるる……と、雷雲にも似た低い唸りを返すのみ。エントランスの方が急に騒がしくなって、クエスト帰りの連中が汗だくで帰還すれば、刺激臭が鼻を刺したのだろう、高い鼻先をヴィヴィアンの髪束の中に、さっと潜り込ませる有り様だ。──そんなに臭いが強いなら、さっさとドクターのくれた薬団子を食べてしまえばよいものを。彼女に再び促され、ようやく少し顔を上げるも。差し出された肉団子を至近距離からじっと眺め、躊躇いがちに口を開ければ……鼻だけでなく、咥内のほうでも、団子に隠された苦い風味を感知してしまったらしい。ぱくん、とあからさまに口を閉ざし、相手の華奢な肩に頭を埋めて、嫌そうな唸り声を響かせる。犬になったベテラン戦士は、どうにもご機嫌斜めのようだ。だがそれは、どちらかといえば──自分自身を気に入らないがゆえなのだ。
ギデオンとて、本当はわかっている。己のこのつまらなぬ嫉妬が、いつぞやの冬の焚火の傍よろしく、すぐに見抜かれてしまうことを。自分の人間として至らぬところが、世界のだれより良く見せたいはずの相手の前で、丸裸になってしまうことを。……とはいえ相手は、当時以上に、ギデオンと親密にしてくれているはずだ。これ以上「愛情表現が足りない」と不満がるのは、それは度が過ぎるというものだろう。それに、それに……四十にもなった男のくせして、若い恋人が他人に向けたちょっとした言葉ひとつで、こんなにも臍を曲げる。それがどれほど幼稚で見苦しい事か、自覚がないわけじゃない。第一、職場でこんな戯れを強いている時点で、全く理性的、常識的と言えないし。なまじ周知の関係である以上、下手すれば、相手も処分に巻き込みかねない。そうだ、全部全部、頭の奥底ではきちんとわかっているのであって──しかし今の、動物的な後退をきたしてしまった精神が。自分の番の言う「格好良い、大好き」が、己の腕の中にありながら他の雄に向けられたこと……それを押し流してくれない。本能的に、相手の首に軽く噛みついて戒めたくなってしまうのを、どうにか人間の理性で抑え込むことに必死で。そうして表に現れるのが、如何にも不機嫌なこの面と、相手を離さぬ大きな体躯。そして、ふわりと逆立ちながら床を打ちまくる尻尾……というわけらしい。)
ギデオンさん……?
これもそんなに嫌な匂いしますか……?
( それは名実ともに、愛しいこの人の物へとなる前のこと。はっきりとカーティスへの敵愾心を見せつけられた前回とは違い、身も心も疑いようも無いほどお互いの色に染まり合って。尚収まりきらぬ、溢れんばかりの感情を、相手に受け止めて貰っているつもりの今だからこそ、まさか相手がまだそれを過剰どころか、不足に感じているなど、不機嫌の原因に思い至るまで、少々時間がかかってしまう。仕方なく、ぷいとそらされてしまった表情の原因を手元のそれへと結びつけ、小さく尖った鼻先をふんふんと震わせれば。鈍い嗅覚に、羊ベースのブイヨンが程よく香ったところで、やっと。鎖骨に響いた不満げな唸り声に、ギデオンの不機嫌、その原因に気がついて。
そうして、拗ねたように打たれる尻尾にも気づいてしまえば、不遜な態度をとりながらも、ビビをがっちり捉えて離さない高めの体温が、もう心底愛おしくって堪らない。──んっ、ふふ…ふ、と耐えかねたように肩を揺らして、「ごめんなさい、ごめんなさいったら、もう、あんまり可愛いんですもの」と、一層低く響いた唸り声に、此方からも強く相手を抱き締め返すと──さて困った。こんなにも深く愛しているのに、まだ足りないだなんて、どうやって伝えたなら良いだろう。よしよしと丸い背中を撫でながら、「ギデオンさんだけなのに、」と、せめてもの利子に旋毛、生え際、耳の付け根……と唇を寄せて。実際、だんまりの恋人と、手元の肉団子を交互に見遣れば。ほっそりと白い手首に、黄金の肉汁が垂れた瞬間が契機だった。肘まで汚しそうな雫をぺろりと舐めて、「ん、やっぱり美味しいですよ」と青い瞳へ視線を合わせれば、そのままギデオンの唇に吸い付いて、香り高い口腔をたっぷりと堪能させることしばらく。お互いの味しかしなくなった口内にゆっくりと離れて、「──……すごい。牙まで生えてるんだ」と、濡れた唇を楽しげに歪めれば。
この時、迂闊な言質を与えてしまったビビの瞳に映っていたのは、本能のままに此方へ縋る幼気で、守り慈しむべき対象だった。 )
ほら、美味しかったでしょう?
だから残りもちゃんと……そうだ、ご褒美があったら頑張れますか?
なんでもひとつ……私に出来ることですけど、お願い聞いてあげるから、ね、あーんって……
………………
(獣に成り下がる魔法というのは、かかってしまった本人を随分素直にするらしい。それまでのわかりやすすぎる不機嫌はもちろんのこと──そこから一転。愛しい恋人から存分に、慈愛たっぷりに構って貰えば、それからのギデオンは、いともすんなり大人しくなってしまった。床に当たり散らしていた大きな尻尾は、ふわ……と静かに動かなくなったし。真後ろに倒した耳も、ぴくぴくしながら立ったかと思うと、やがては心地よさそうに、今度は真横に寝転ぶ始末。険で尖っていたはずのアイスブルーの双眸も、長い長い口づけからようやく顔を離した後には、とろりと穏やかに凪いでいて。そしてその眉間にも、鼻梁にも、皴はすっかり見当たらない。寧ろ完全に、あどけなくなったとすら思うような顔つきである。
故に、相手に促されれば。再三差し出された肉団子に、ぴくん、と反応し、しばしぼんやり見つめた末。その(無駄に良い)顔を寄せ、軽くその匂いを嗅いで──そこじゃなかろうに、まずは相手の細い手首をぺろぺろと舐めてから。そのまま相手の掌に顔を付す形で、ギデオンはごく従順に、団子をはぐはぐ喰らいはじめた。その様子は傍から見れば、逞しいベテラン戦士が、膝上に抱えた乙女に餌付けされている光景なのだが……幸いここは柱の陰。故に安心しきった様子で、いつもは見えない犬歯をちらと覗かせながら、ひと欠片も残さず平らげる。そうして口の周りをぺろりと舐めると、ほんのちょっと顔をしかめ、「……確かに美味いが。やはり苦いな、」なんて、子どもっぽい感想を。それから、胃が動き出すまでのもうしばらくは構わんだろうと言わんばかりに、膝上の相手を抱き直し。再び肩口に顔を埋めたその下、ベンチの隙間から見える尻尾は、すっかりゆらゆらと心地よさげ。──いつものギデオンなら即もたげるだろう、不埒な類いの欲望も、しかし。動物化がまだ抜けず、おまけに彼女手ずからものを食べさせてくれた今となっては……何と完全に、純然たる食欲と甘えたさに負けたようで。)
……褒美……褒美は……お前の美味しい料理がいい。
今年のクリスマスは……お前の焼いたチキンが食べたい。ふたりで、家で……ゆっくりしながら。……いいだろう……?
──……キレイに食べていいこね。苦いのはよく効く証拠ですよ。
( 掌に寄せられていた顔が離れて、それまできゃあきゃあと擽ったさに捩っていた身体を正面に戻すと。ピンク色の舌を覗かせたギデオンが、あまりにあどけなく見えたものだから、ついつい向ける眼差しが、言の葉が、それに相応しいものへと変化する。そうして、ビビのお願いに素直に頑張ってくれた恋人の鼻が楽になることを願って、その高い鼻へと労いの唇を軽く落とすと。再び鼻をくっつけてくる甘えたに、彼が正気に戻ったその時に、今日の振る舞いを思い出して不安になることが無いように。願わくば──もっと普段から甘えてもいいのだと、聡明な相手が気づけるように。ビビからも強く暖かく抱きしめ直すと、汚れてしまった手を洗いに行くのはあとにしよう。先程までギデオンが喜んでいた触れ合いを、再びその美しい毛並みや、薄い肌に落としながら、小指側の手の脇で相手の背中を広くさすれば。ゆらゆらと小さく揺れながら、ギデオンのお願いにくすくすとしっとり喉を鳴らして、 )
……チキンがいいの? ふふ、もちろん、いいですよ。
お肉屋さんに行く日は早く起こしてね 一番若くて立派な一羽を丸ごと買わなきゃいけないから。
味付けは……そうだ、お庭のローズマリー、そろそろお家に入れてあげたいんです、霜が降りたら可哀想だから……
( そうして二人、途中で色の変わった不格好な柱のその影で、来る冬の支度に何気ない会話を交わすことしばらく。時折、気遣わしげに此方を覗いてきたり、うっかり通りがかってしまった仲間たちに、静かな目配せをしながらも、そろそろ薬も効いてくるだろう頃合に、相手の様子を伺おうと腕の力を緩めれば。家に帰らず頑張ると言ったのは、他でもないギデオンだ。思わずこちらまで癒されることとなった体勢から、名残惜しい体温からそっと身体を起こそうとして。 )
──……ん、そろそろ、お鼻のご調子はいかがですか? お仕事頑張れそうですか?
ん……ああ、おかげでだいぶ良くなった。
世話を……かけた、な……
(──あれからどれほど長い間、彼女に甘えていたのだろう。語らいとも微睡みともつかぬ、穏やかなひとときを過ごしたのちに。ギデオンはようやく、のっそりと顔を上げた。その面差しは、未だぼんやりと夢うつつではあるものの。目の前にいる恋人が、相も変わらず慈愛に満ちたまなざしをくれていることに気がつけば、幸せそうに口元を緩め。切り替えるように頭を軽く振り、確かめるように辺りを見回す。そうして、いよいよ復帰するべく腰を上げる、その前に。相手の献身的な介抱に対して、当然の礼を伝えようとした──その時だ。
「……!?!?!?、」と。心優しいヒーラー娘を乗せたままの戦士の体が、やけにぎこちなく、あからさまにがたついた。思わず周囲を二度見三度見し、言葉を失したその顔は、間抜けなほど呆然としている。相手の読み通り、ギデオンの嗅覚は、すっかり狂いがなくなったのだが……それでようやく、我を取り戻したらしく。この状況がおかしすぎることに、今更ながら気がついたようだ。
「……ヴィヴィアン。まさか……ここは……ギルド、なのか……?」と。あまりにもな確認に、相手がそうだと答えても、未だ信じられない様子で固まっていたギデオンだが。廊下の向こうからひょいひょいやってきたベテラン仲間の数人が、こちらをちらっと見たものの、さして気にせず──もう見慣れた光景と言わんばかりに──通り過ぎていくのを見れば、嫌でも理解するほかなかった。肉球のついた片手で思わず顔をがっつり覆い、深々と項垂れて。「わ、るい……悪い。本当にすまない……。なあ、あの、俺は……どのくらい……こうして……?」と、心情がありありと滲む呻き声を絞り出す。
──自業自得の社会的恥辱に打ちのめされた衝撃は、それはもう凄まじい。しかしそれ以上に、理性が戻ってきたからこそ、きちんと気がつくものもある。今のこの位置取り、相手の受け答えの様子、朧気ながら残っている記憶の数々。そして何より、さっきのあいつらの様子からして。己の恋人──否、この場合は“相棒”が、きっとこれ以上ない配慮を施してくれたのだ。故に、今一度心の底から、「ありがとう……」と、先ほどより一層しみじみした謝意を述べ。ようやく少し態勢を直し、どうにかいつも通りの自分に戻ろうと言を繰るものの。やはりまともに目を合わせられず、きまり悪そうなその横顔は、らしくもないほど真っ赤な色で。)
……、残りの……仕事に……行ってくる……
帰りは、そうだな……今日の具合だと、おそらく真夜中くらいだろうから。先に食べて……休んでてくれ……
……?
魔法で状態異常だったんですから、寧ろ頼ってもらわないと困ります。
( 相手にかけられた魔法には、記憶を薄れさせるような効果まであったのだろうか。愕然と周囲を見渡すギデオンを、あくまで心配そうな表情で覗き込めば。顔を隠して項垂れてしまった相棒に、ふっと柔らかく笑いかける。このままもっと甘え上手になってくれれば──……なんて、そんなに上手くはいかないか。「(時間も)そんなに長くないですから、落ち込まないでください」と、ぺしょりと垂れてしまった耳に、微笑ましい笑みが漏れそうになるのを必死で堪えて。その硬い膝からぴょこりと降りれば、確かにそろそろ午後の仕事に取り掛かるには丁度良い時間だ。
ビビとてラタトスクの一件について、盛大に街中を騒がせて回った始末sy……もとい報告書を提出せねば、いい加減カウンター越しの視線が痛いし。色んな意味で気乗りしない書類仕事に、午後を頑張る栄養を補給するべく、恋人の完全無比の美貌を拝めば、恥ずかしそうに赤められた頬の破壊力の高いこと。あまりの可愛さに耐えかね元気いっぱい飛びつけば、此方へと差し出されていた頬へとちゅっとリップ音を響かせて。 )
──……こんなに可愛い人置いて寝てろなんて!
美味しいご飯用意して待ってますから、できるだけ早く帰ってきてね?
( ぎゅうと相手に抱きついたまま、固い胸板に頬擦りをして、上目遣いにおねだりすれば。待っていると宣言したからには、自分の仕事が長引いてしまっては仕方ない。 今度こそぱっと身体を翻し、何度も何度も相棒の方を振り返っては、手をひらひらと振りながら、自分の仕事へと戻っていって。
そんな数刻の宣言通り、仕事を終えて帰ってきたギデオンを出迎えたのは、まるで帰ってくる時間が分かっていたかのように揺れる白い煙と、赤いエプロンを翻し飛びついてくるヒーラー娘で。 )
ギデオンさん!
おかえりなさい、お疲れ様です。
──……、
(見事なほど呆気にとられたギデオンが、数瞬の硬直の後、ようやく何かしら言おうとするも。直前の擦りつきから一転、相手はぱっと、跳ねるように体を離し。その妖精の如く軽やかな動きで、頭上の赤い布耳をぴょこぴょこと揺らしては、何度も何度も名残惜し気に振り返りながら、気づけばとっくに立ち去っていた。後に残っているのときたら、犬耳の四十男の、春風に化かされたような間抜け面だけである。
「………」と、再び顔を覆ってから、柔らかいため息をひとつ。脇に置いていた書類を拾って、ようやくベンチから立ち上がった。今はもう、鼻が歪むような思いはしない。ごく普通に、楽に呼吸をしていられる。しかしこれは、何もドクターの薬団子だけでなく。己の可愛い恋人、彼女の温くて柔らかい躰を、存分に抱きしめて過ごせたからなのだろう。無論、それをギルドでやらかしたのが大問題ではあるのだが……過ぎたことは仕方がないから、仕事ぶりで取り返すべく。頭を振り、それまでの雑念をきっぱりと打ち捨てて。ギデオンもまた、午後のロビーの陽だまりのなかへ歩きだすことにした。)
(──さて、それからの数時間。見た目と手元の変化以外は、取り立てて困ることなどなかった。書類仕事の途中に何度か、昼間のヴィヴィアンとの様子を眺めていた野郎どもから、面白おかしく揶揄われる一幕こそあったけれど。あれはどちらかというと、ギデオンの体面を慮っての振る舞いだ。故にギデオンの方もまた、今後1週間ほどは、朝のロビーで飲んだくれている野郎どもをとやかく言わないことにした。……背後の受付カウンターにいるマリアの視線が、既に背中に突き刺さってやまないにしろ。男には男の付き合いというやつがあるのだ、仕方ないだろう……と。そうやって一時の裏切りの道を選んだ──その報い、なのだろうか。
更に時が経ち、夜半過ぎ。ギルドを引き上げたギデオンは、ようやくラメット通りの自宅に帰り着いた……は、いいのだが。ぱたぱたぱた、と可愛らしく駆け寄ってくる足音の主を、しかしいつもの幸せそうな顔で受け止めることはなく。「……ただいま、」と応えてから、帰宅のキスを相手に落とすも、引き上げたその顔は非常に微妙な面持ちである。……またもや、ひと目見てわかるとおりなのだ。
今のギデオンは、愛用しているワインレッドのシャツと、その下に着る薄い肌着を、何故か片腕に引っ掛けているのだが。何かあったのか、とその胸元を確かめてみればどうだ。申し訳程度に羽織っている革の上着、そのすぐ下は……もふもふと柔らかそうな真っ白い犬の毛に、すっかり覆われているではないか。目線を下に下にさげても、臍の下までふさふさしたまま、おそらくはズボンの下、爪先までこうだというのが見てとれることだろう。どうやら、今夜のたった数時間のうちに。ギデオン本来の人肌が、また随分と様変わりしたらしい。
「……美味そうな匂いだな、」と。相手の反応より早く、疲れた声でいつもどおりを装いながら。まずは己の上着を脱いで、玄関先のフックに掛け、相手を伴って家の中へ歩き出す。リビングの灯りにさらけだされたその上半身は、幅広い肩や大きな背中に至るまで、やはり見事にもっふもふである。……それに、よくよく観察すれば。なんとその掌まで、より犬の足先のそれっぽくなったらしい。ギデオン自身もしかめ面で、にぎにぎと片手の動作確認を見下ろしながら、ソファーの辺りで立ち止まれば。シャツと肌着を肘置きにかけ、どっかりと腰を下ろす。そうして背もたれに体を預け、目を閉ざして天井を仰ぎながら、困ったようなぼやき声を。)
……ドクターの説明を、俺はすっかり忘れてたんだが。こんな風になったのは、ピクシーの魔法と、昼間に貰った薬団子の副作用……その両方の影響らしい。
健康上問題はないそうだが……こう、なあ。自分の身体が大きく変わるってのは、結構変な気分なもんだ……
……あ、ごめんなさい。
あの時もう一度伝えておけば良かったですね、驚いたでしょう。
( あの時、肉団子を食べた前後のギデオンは、確かに記憶を混乱させていた。それまで恋人の帰宅に綻ばせていた表情を、相手の身体に毛が生えた瞬間の動揺を思ってしょんぼりと力なく凹ませれば。ソファの背面に回って、ぐったりとうなだれた頭を抱き締める。そうして、「ドクターが、明日か明後日には治るって」「治らなくても私が治しますから」「だから、怖くないですからね」と、美しい旋毛や耳元に唇を寄せれば。「ちょっと待っててくださいね」と、キッチンに戻って一杯の器を持って引き返したのは、暖かく美味しい食事が、何より相手を力付けると信じ込んでいるからで。普段であれば、仕事帰りに早く食べたいとせっつく相手を、無理やり浴室に追いやるところも、今はまず疲れた相棒を癒してやりたい。そんな、ごくごく当然といった表情で、そのズボンの下までモフモフの膝に腰掛け、もっと座りやすくしろと無言の尻圧で空けたスペースに、ふふん、と満足気におさまれば。相手と同じ高さになった目元を和やかに細めて、器の中身を披露する。丁寧に裏漉しされたキャベツやじゃがいも、そんな優しい色のスープに見え隠れするのはゴロゴロ大きな肉団子。その一口かじれば、じゅわりと溢れ出す肉汁と軟骨の食感がこりこり楽しい団子をすくえば、ふうふうと少し冷ましてから、ギデオンの口へと差し出して。 )
今日は特別、お風呂の前にちょっと味見してくださる?
味覚も敏感になってるだろうから、普段より薄味にしてみたんですけど……どうですか?
もうちょっと濃くても良いかなあって思ってるんですけど……
ああ、いや、すまない。別におまえのせいじゃ……
(献身的な恋人のしょげたような声を聞き、反射的に口を開く。相手の非など何ひとつない──寧ろこれだけで済んだのは、彼女とドクターのおかげだろう。しかしその訂正も、結局最後まで続かなかった。背後からそっと抱きしめられ、その柔らかい唇をあちこちに寄せられた途端。いつもの真面目顔がふわりとほどけ、まだ残っている犬耳までとろんと垂れて……素直に、“待て”に入ったのである。
キッチンに向かった相手の背中を、そのまま肩越しにじっと眺め。ソファーの上に乗せた尾の先をゆらゆら小ぶりに揺らすうちに、やがて彼女が戻ってきた。手元の椀からは白い湯気、おそらくスープの類いだろうか。てっきり隣に腰掛けるものと思っていたギデオンは、相手が堂々と膝に乗り上げ、寧ろ“もっと奥に動いて”と言わんばかりにぐりぐりしてくるものだから、可笑しそうに喉を震わせ。栗毛に唇を触れて、お気に召すよう体勢を変え、腕の中にすっぽりと収めると。ギルドの連中が見れば憤死しそうな距離感で、まずは夜食に歓声を上げる。──如何にも舌触りの良さそうなポタージュは、食材を丁寧に丁寧に裏漉しすることで辿りつける、目にも優しい若葉色。そのなかに浮かぶ大きな大きな肉団子を、相手の匙で差し出されれば。目元を綻ばせながら、鋭い犬歯の生えた口を、大きくぐぁりと開けてみせ。)
──ん……んん……ふ、これは……たまらないな。
軟骨の……触感が……ん、それに、これは……団子が痩せないように、粉をつけて焼いてあるのか。刻み玉ねぎは……ああ……今の俺がこんなだから、避けてくれたんだな。念のために。
このくらいの薄味も、素材の味が生きていて好きだが……多分まだまだ、濃くして平気だ。どうせなら一緒に美味しく食べられるくらいがいい……お前の腕に任せるよ。
(ポタージュの染みた挽肉を頬張り、柔らかく噛み砕くうちに。最初に思わず零れたそれは、幸せによる笑い声だった。
──ヴィヴィアンが己のために料理を作ってくれるのは、遡ればいつかの冬、まだ交際を始めてもいなかった(……と、当人たちだけが本気で思い込んでいた)ころに遡る。最初のそれは温かなポトフで、その目を瞠るような美味しさに、ギデオンはいたく衝撃を受けた。……自分で言うのも憚られるが、我ながら舌は鋭いほうだ。それは幼少期の母が、毎日のように良いものを食べさせてくれたことに始まり。独立後、例のあの事件で一時転落するまでの間、王都で生まれる様々な美食に親しんでいたからである。素人にしてはやけに肥え太った舌を、それこそプロの料理人である、知人のニックも頼るほどで。逆にその分、そこらの屋台飯に満足できないことも、表に出さないが珍しくもなかった。そんな己を、ヴィヴィアンは、ありあわせという食材だけで唸らせてみせたのだ。決め手に違いない隠し味を、思わず真剣に訊ねれば。『……あのね、世界で一番大好きな人に食べてもらえるから、たっっっぷり込めた愛情のおかげかも』。その答えを、数十年前の母とほとんど同じ台詞を聞いて以来、ギデオンはもう、ヴィヴィアンの料理が忘れられない体になった。この味を知らぬ頃には、もう二度と戻れなかった。──そして、今。その世界で唯一の味を、こうしてギデオンのためだけに調整し、味見と言って彼女手ずから食べさせてくれる。何なら肉団子にしてくれたのは、昼間に薬入りのそれを食べ、内心不服に思っていたのを──料理のようで料理でないのが正直むず痒かったのを──察していたからに違いない。口直しをさせてくれたわけだ。裏漉しという調理方法にしろ、今起こっている歯の変化を考慮してのことだろうし。そもそもこの時間は、普段ならば相手はとっくに寝入っている頃合いで、帰りの遅いギデオンのために待っていてくれたのだった。──そういった背後の諸々までわかっていれば、このポタージュを幸せに感じないわけがあるだろうか。ギデオンにとっては誇張抜きに、この世で最高の味だった。一刻も早く、たっぷりと味わわなくては。
──故に。「風呂上がりにこいつが待ってるのか、五分で済ませてこないとな」と。名残惜し気に頭を擦りつけてから、彼女を下ろして立ち上がると。シャワー室に向かったギデオンは、毛だらけの不慣れな体をしっかり洗い、バスタオルを掻き込んだ。それでも湿り気の取れない部分は、ヴィヴィアンの許可のもと、髪を乾かす魔導具の温風で、ふわふわに乾かして。──そうして今一度食卓につき、今度こそ夜食に浸る。餐の供はヴィヴィアンの話だ。本日のラタトスク狩りの面白おかしい大騒動、その顛末を、ふんだんな身振り手振りで聞き知り。ところどころ、相手を揶揄ったり、むくれられたり、褒めたり、手と手を絡め合ったり。そうするうちに職業柄、真面目な討伐案についても話を広げていっていると、あっという間に深夜帯だ。明日は二人とも少し遅い出勤だが、これ以上夜更かしするのは得策ではないだろう。くぁり、と牙を見せつけるような大あくびをひとつ。皿や調理器具の片づけを任せる間に(何せ今は手もおかしいので、いつもどおりとはいかないのだ)、身嗜みや明日の準備を済ませ、寝室のクローゼットから余分な上掛けを持ってくると。至極当たり前のような顔をして、相手の旋毛にキスを落とし。)
それじゃ……抜け毛が酷いかもわからないし、俺は今夜はここで寝るよ。おやすみ。
( ぐわり、と縦に開く大きな歯列。ビビが小さく割って食べる団子を軽く一呑みにする豪快な顎と、逞しい喉元。今日はそれに加え、鋭い牙も微かに覗く口元に、ビビは何度観ても心底惚れ惚れと見蕩れてしまう。その当人であるギデオンの、素人とは思えぬ的確なアドバイスに、先程よりも少し塩気とハーブを加えた黄緑のスープがみるみると減り、あっという間に鍋の底を尽く光景が心底幸せで。少しの眠気も相まって、その晩のビビはふにゃんと蕩けた笑みをずっと浮かべていた。しかし、牙が引っかかるのか、ギデオンの口に少しついたスープを拭ってやったり、申し訳なさそうに片付けを頼んでくる、ぺたんと垂れた耳を撫で回したり。相手にとっては不本意極まりないことだろうが、普段強情な相手が此方へと甘えてくれることが何より嬉しくて、この人のためなら何でもしてあげたいという気持ちに上気せあがっていた頭へと、いきなり冷水をぶっかけたのもまた愛しい愛しい恋人だった。──こんな寒い冬の日に、一人リビングで寝るなんて。相変わらず、自分を粗末に扱う相手に、それまでずっと眉尻を下げ、ぽやぽやと緩んでいた桃色の表情が、すっと悲しげな色に変わる。分厚い毛皮があるとはいえど、それだって早朝に治るかもしれないし、そもそもそういう問題じゃないのだ。ビビにはとことん甘い恋人に、自分がここでヤダヤダと駄々を捏ねれば、寝室に誘導することは決して難しくないだろうが。しかし、それではこの不器用な恋人は、自分を大切にする術を学べぬまま、ビビが居なくなればまた自分を粗末にするに違いない。そう旋毛に落とされた柔らかい感触に、まずはゆっくり頷いてから、特に無理強いするでもなく一歩下がれば。その選択は相手にして欲しくて、あえて強引な二択を迫る。それでも相手が誇示する様なら、寸前までハンドクリームをこねていた手元をゆったり広げ、ふわもことした寝巻きが飾る優美な曲線を相手の目の前に差し出すだろう、 )
……そっか、おやすみなさい。
でもギデオンさん、明日は久しぶりにとってもよく晴れるんですって……今晩はこんなに寒いのに。
ねえ、寒い中ひとりで寝るのと……それとも。明日の午前中いっしょに毛布を干して、明日もポカポカなベッドでいっしょに寝るの、どっちが良いと思います?
……ね、おいで。
……、
(ヴィヴィアンが示してきたふたつの選択肢を前に、ギデオンの瞳が揺れる。その物言いこそ恣意的であれど、最終的にはギデオン自身に委ねてくれているものだから。思考停止したように、ぎこちなく固まりながら。困惑したように目を細めたり、躊躇いがちに薄く口を開いたり。相手に一歩近づこうとしたか、或いは背を向けようとしたか……どちらともつかず身じろぎしては、再び根が生えたように立ち尽くす。その様子はまるで、迷子になった子どものようだ。
──別に、大した話ではない。ここにあるソファーで眠るか、上階のベッドで眠るか。ただそれだけの、ごく些細な、暮らしのなかにありふれた二択を迫られているだけのこと。仮に独り寝を選ぶとして、相手の言うほど寂しい話でもないと、ギデオンは今も本気で思う。今夜は冷えると言ったって、今はこうして上半身裸でいるように、毛皮のおかげで軽く凌げそうであるし。それにもし、抜け毛がデュベに絡みつけば、洗濯の手間が生じてしまうはずだ。単に面倒なだけではない、それだけふたりの時間が減ってしまう……のんびり寛ぐような時間が。なら、余計な家事を減らすに越したことはない。であるからして、単に合理的に考えただけ。状況に合う方法を選ぼうと思っただけだ。それを実際、躊躇いがちに口にする。自分に言い聞かせるように。
けれどそれでも、それを押し通すまではいかない──ヴィヴィアンの問いかけのせいで、何かがぐらついてしまっている。飼い主の元にすぐ駆け寄れない犬のように、ギデオンはまだしばらく、「……」と静かに硬直していた。耳も尾も、ぴくりとも動かない。酷く頼りなげに揺れ動くのは、アイスブルーの双眸だけ。……ソファーか、ベッドか。その二択の間に横たわる、目に見えない、小さいけれど深い溝。それを飛び越えるのが──欲を出すのが、怖かった。それに慣れていないから。否、この半年で素直に貪欲にやってきたつもりが、まだまだだと教えられて、大いに狼狽えてしまっているから。
……目の前の、ヴィヴィアンを見る。優しいエメラルド色の瞳。ギデオンの答えを待ち望んでいる瞳。──ふたりで過ごすほうが、より幸せになれるとしたら。貴方はどうするの。どちらのほうが、良い答えだと思うの。その問いをもう一度、胸の内で聞いたならば。)
…………。
(……やがて。ごくおずおずと、未だ躊躇するように、尾の先を脚の間に仕舞いながら。それでも一歩踏み出して、相手に身を寄せ、唇を近づけ。「聞き方が狡いんだ……」と、参ったような囁きを落とす。耳はすっかり垂れているし、けれどもそのふさふさのしっぽだけは、相手が優しく触れてきたなら、またゆらゆらと、本人の素直な感情をバラしてしまうことだろう。──ああ、くそ、と。至極決まり悪そうに、悔しそうに、ふたりにとって意味ある言葉で言い返しながらその白い手をそっと絡め取り、すべらかな肌を親指の腹で撫で。まろいおでこに、すり、と鼻梁を擦りつける。──誤魔化しようが、なさ過ぎた。)
俺がこんな風になってくのは、完全に……お前のせいだ。
……責任は、取ってもらうぞ。
( 躊躇いながらも、こちらの腕の中を選んでくれたくれた相棒に、うふふ、と酷く満足気喉を震わせると。いい子いい子とその広い背中を撫でさする仕草は、まるで勝利を確信していたかのように、余裕に満ち溢れて見えたかもしれないが。しかし、本当は心の底からほっと安堵に占められていて。相手の頬へと向けようとしていた掌を絡め取られたかと思うと、近づけられた美しい顔に、娘の首があどけなく縮こめられる。なんたって、ギデオンが漏らした言葉の意味は、誰よりビビが一番深く知っていて。その深い深い愛情に、嬉し恥ずかしといった様子で、ぽふりと豊かな白い毛の海に顔を埋めてしまえば。その柔らかな毛並みをくぐもった笑みで湿らせたかと思うと、すぐさま真っ直ぐに見つめ返して、「……もちろん、」光栄です──と続けようとした取り澄ました言葉も、「ギデオンさん、好き……大好きよ」「ずっっっと、いっしょにいてね」と、追いすがって来た強い感情に、かき消されてしまう。こうして、少しずつでもギデオンが、自分を大切にする術を覚えてくれるのが嬉しくて、星の散った大きなエメラルドを幸せいっぱい細めれば。再度、暖かな胸板に身体を寄せ、甘えきった様子で上目遣いにおねだりするも、相手がそれを叶えるべく合わさった掌を離そうとすれば、分かりやすく寂しそうに、その手を相手の頬へと伸ばすだろう。 )
……ね、ベッドまでギデオンさんが連れてって?
──……お姫様の、仰せのままに。
(一度そうすると決めたなら、後はわりと思いきりよく開き直るギデオンだ。毛並みの良い三角耳で、彼女の愛らしい要望を、ぴくんと確かに聞き取れば。片眉をぐいと上げ、如何にも意味ありげな目で相手を見下ろし、気障ったらしい返答を。もはやすっかりいつもの、おどけるときの澄まし顔──今しがた、別に俺は何ともありませんでしたよ、そう言いたげな面である。
それを相手にくすくすと笑われただろうか、或いは余裕たっぷりに慈しまれただろうか。とにかく、手に持ったブランケットで相手をくるみ、その長い脚をさらりと掬って、軽々と抱き上げれば。リビングを出る間際、燭台の灯りの傍に相手を寄せ、代わりにふうと吹き消して貰う。──これは、ふたりがこの形で寝室に向かうときの、お約束の流れだった。仕事柄、共に過ごせぬ夜もあるからこそ、ふたりならではのこういう些細な儀式すら、大事にしたくなるものである。途端に暗くなる室内、薄闇に紛れて相手の額にキスを落とせば。「階段を踏み外すと危ないから、そっちからは駄目だぞ」「こら」なんて、意地悪を言いながら、ゆっくり寝室に上がっていき。
──彼女が洗い物をする間、ヴィヴィアンはこっちで寝るからと、寝室の暖炉の火を先に小さく熾していた。その甲斐あって、室内は既に暖かく、僅かなオレンジ色の光にちらちらと照らされていて、実に心地よさそうだ。その中央に構えたベッドに、相手をそっと横たえると、自分も横に滑り込み。相手を抱き込もうとしたところで、微かな冷気にふと、大窓の方を振り返る。ガラス戸はちゃんと閉まっていたが、防寒仕様のカーテンが少しだけ間をあけていた。そこから、ちらほら、しんしんと──今年初めての雪が見える。ふ、と緩んだ呼吸を吐き、相手にも見えるように毛並み豊かな体をどけ、ふたりでのんびり眺めては。穏やかな声を落とし、相手のほうを振り向いて、その頭をまた大事そうに撫でることしばらく。不意にその手を止めたかと思うと、そんなわけでは有り得ないのは重々わかっているだろうに、揶揄うように唸ってみせて。)
……そういや、斧使いたちが言ってたな。山越えできずにとどまってた雲が、夜の間に雪を降らして行くかもしれないとかなんとか。おまえがこの寒い日に、噴水に飛び込んだなんて聞いたときには心配したが……明日じゃなくてまだ良かったよ。
……ああ、そうか、もしかすると。俺を湯たんぽ代わりにするために、こうしてここに引きずり込んだな?
( 舞い散る雪に輝いて、温かな肉球にうっとりと細められていたエメラルドが、ギデオンの冗談に一瞬大きく見開かれると。白い手に隠された桃色の唇が、くすりと楽しげに歪められる。
──湯たんぽ扱いではなく、自分自身が求められている、と。そう確信して疑わなくなった恋人が愛おしくて。うつ伏せでシーツに肘をつき、上半身を少し起こした体勢のまま、慈愛に満ちた視線をギデオンの方へと投げかければ。何となしに合った視線に、どちらからともなくリップ音が微かに響いた。そうして、深夜に2人、シーツの上で、まるでこちらが仔犬のように、ころりと腹を見せて転がれば。揺れる尻尾へと手を伸ばし、フサフサと触れる感触を楽しみながら、思わせぶりに視線を伏せると。気恥しそうに染まった頬を、雪明りに淡く浮かび上がらせて。 )
……湯たんぽ。とは、思ってなかったですけど、別の下心はちょっとだけ……あった、よ?
( 音を吸収する雪が、今年も静かな季節を連れてくる。暖かな部屋に、パチパチと火が爆ぜる小さな音と、布が擦れる音だけがやけに大きく耳につき。柔らかな腰を相手に重ね、どさくさに紛れて冷えきった足を相手のそれへと絡めれば、ちょうど顔のあたりにふわっふわの白毛が触れて。思わず同じ石鹸の香りが、その下の、確かに違う香りを引き立てるそれへと、うっとり顔を埋めてしまう。そうして、そこで深い呼吸を繰り返すこと暫く、相手の(己よりも幾許か細い気がしてならない)臀部へ、するりと指を這わせれば。尾の付け根で、ぴたりと両手を止めたかと思うと。豊かな胸毛の間から覗く大きな瞳は、とろりとすっかり蕩け切っている。──分かっているのに止められない。そんな、ピクシー達による悪戯による純粋な被害者であるギデオンに、こんなことをお願いすることへの罪悪感。寧ろそれ以上の邪な念は感じさせない、おずおずとしたおねだりのその通り。もし相手から許可が下りれば、普段とは変わってしまったその部分だけを、丹念にもふもふと堪能するのだろうことは、想像に難くないだろう。 )
その……大きな耳も、尻尾も。ギデオンさんに生えてると可愛いな、って思うの。
ごめんなさい、ずっと我慢してたんですけど……触って、みたくて…………おねがい……だめ、……?
(“別の下心はちょっとだけあった”。そう聞かされた瞬間にぴたりと固まってしまったが、果たしてこれは、男の愚かさだけが悪い話と言えるだうか。先ほどまで余裕ありげに緩んでいたギデオンの表情は、相手のあどけない口調と、それにそぐわぬ薫り高い色気にやられ、見事に宇宙色の混乱を描きだす始末である。……ヴィヴィアンの純真無垢と、無垢ゆえの貪欲さ、どちらも知っているからこそ、判断がつきかねた。そんなこちらに気づいているのか、いないのか。或いはこの薄闇のなかだから、こちらが上手く隠し通してしまえるのか。恋人はこちらにすり寄り、逃さぬように足を絡め、胸元の毛皮に深々と顔を埋めて、何やら堪能しはじめていた。酷く満足気に躰を弛緩させる様子が、人肌の温もりを通じて、こちらまでじかに伝わる。ああ、なるほど、これは……そうか。こう、なんだ、たぶん、どうやら、俺を愛玩したかっただけの話らしい。そう結論付けようとしたギデオンのなけなしの理性を、しかし彼女の天然が、無事でおかせる筈もなく。
白魚の指が、するり、と毛皮越しにそこを這う。その微かな、だが余計に敏感にならざるを得ない感触に、再びギデオンの息が止まる。……流石に思わず、背筋の辺りをそわつかせながら、相手を見下ろしてみればどうだ。相手はとろんと蕩けきった目つきで、甘いお菓子を乞う子どものようにねだってくる有り様だ。──どこまでも幼気な、穢れなき欲求。それを湛えたエメラルド色の瞳を前に、「……、」と押し黙らざるを得なくなったギデオンは、それ以上自分の馬鹿な狼狽えようを見られたくなくて、ただ相手の後頭部に手をやり、胸元に軽く抱き寄せる。何も言わないが、決して否定することもしない、つまりはそういうことだ。果たして、胸元の毛を吐息で湿らせた相手が、嬉しそうに尻尾の毛を愛ではじめれば、最初こそギデオンも、ただ好きなようにさせてやっていたものの。……そのじっとした横顔に、まずい、変な気分になってきたぞ、と、一抹の焦りが滲みだす。自分の愚かな勘違いが発端ではあるだろうが……本来あるはずのない神経をつうと撫でられると、こう、どうにも、無視のし難い感覚が立ち昇ってしまうのだ。ぐるる、と耐えかねたように唸りそうになるのを、胸を大きく上下させる深呼吸でどうにか打ち消しにかかるものの。体はいかんせん正直で、相手が妙なまさぐり方をするたびに、ふさふさした大きな尻尾が、びく、びくびく、と勝手に持ち上がってしまう。鳩尾辺りから湧く感触は、ギデオンの知らぬ回路を伝って、ふさふさしたしっぽの根元から先の方へ、波のような揺らぎを勝手に引き起こしてしまう。いや……いや、なんだ、何なのだこれは?
(一周回って腹が立ってきたぞ)と、相手から見えないように逸らしたギデオンの横顔が、不穏な境地に至りはじめた。今日は元々、何事もなければ、ヴィヴィアンをまた夜の楽しみに誘う予定だった。それがピクシーどものせいで大変な一日になり、流石にこの爪、この体では、いつも通りに及ぶのは危ういからと……密かに諦めていたのである。なのに現状はどうだ。いつもとは違う体を、こうして相手に存分に与え、わけのわからん責め苦に苛まれている。……なら自分だって、本格的にまではいかずとも、彼女の体を与えられてもいいではないか。耳を愛でられ始めたところで、きっぱりそう開き直ると、不意にその肉厚な上体を、衣擦れの音とともに起こし。相手がこちらを窺う間、しかしうんともすんとも言わずに、薄闇のどこかにじっと視線を定めたていたかと思えば。次の瞬間、斜め横から相手の上に首を屈め、その桃色の耳を甘噛みする。傷つけぬ程度の力加減、しかしいつもと違う歯は、相手の肌にどう働いたろうか。何度も何度も、唇と牙で小さな可愛い耳を食み、それだけでは物足りなくなれば、いつもよりざらついた舌を犬のように使いだす。仮に相手が藻掻いても、もふもふした腕や胴体で、ごく柔く──本気になれば逃げられる程度に──閉じ込めてしまう始末。ほんの少しだけ溜飲を下げたところで、欲の滲んだ掠れ声を、その耳元に吹き込んで。)
──ずっと、我慢してたんだ。……頼む、いいだろう……?
我慢って……!
( 何を今更我慢など、普段からしたいようにしている癖にと。精一杯の渋面で、キッと恋人を睨んでやれば。ふうふうと上がった呼吸に、赤く染まった顔つきからも、先程までの無邪気な笑顔は消え失せ。体裁だけの顰め面の下、隠しきれない期待の色香が、艶やかに蕩けた翡翠を濡らしている。──ビビの耳など簡単に千切れるだろう鋭い牙に、日ごろ見蕩れて止まぬ頑丈な顎。しかしそれだけならば未だ良い。時折触れる柔らかな唇が、鋭い感触に構えた身体には酷く甘くて。思わず漏れそうになる吐息を必死で詰めれば、耳元で上がる水音に、本気で頭がおかしくなると思った。しかし、この恋人と来たら、こうしてビビの大好きな声で、低く切なく強請ってみせれば、全て許して、叶えてもらえると思っているのが──全くもってその通りなのだから、余計癪に触るというものだ。先程まで、溜まる痺れを逃がしてすら貰えなかった腰を重く上げ、こちらを見下ろす目元に吸い付けば、「……とくべつ、ですからね」と。明日もお仕事なんですから、いつもは駄目ですよ──と、いつも通り流されてやる振りをして、上半身を離すその間際。触れずとも明らかに敏感そう故に、逃がしてやっていた耳の中、その薄いピンク色の膜をぺろりと一舐めしてやれば、溜飲も少しは下がる気がした。
──本当に、本当に静かな夜だ。未だ綻びかけに在る蕾をゆっくり解す、その準備の音だけがやけに響いて。耳を塞いでしまいたいのに出来ないのは、その蕾を愛でるのが己の両手であるからだ。繊細な作業に向かない肉球の代わりに、これまで教えこまれた知識を追って、自分の良いように細い指を動かせば。成程、人が何かと消閑に耽る理由がわかってしまう。時折、こちらをじっと見下ろす相手の腕も使って、しかし、相手からは勝手に触れさせないのは、最初、いつも通りの触れ合いを持つ消極的なビビに、態とらしくその肉球を見せつけてきた意地悪への意趣返しだ。「駄目、見てて」「待て、」と繰り返しながら、次第に近づく感覚にぎゅっと強く瞼を閉じて。そこで初めてヒュオォ……と、遠くの風の音に気がつけば、不意に初雪の肌をくねらせ、高く掲げた腰がゆっくりと揺らめきシーツに落ちた。そうして、浮かんだ玉の雫を拭いながら、今度はギデオンの準備に取り掛かろうと。今度は、その意図をもって、触り心地の良い毛皮をつつ、と鎖骨からゆっくりとなぞっていけば。あるところでぴたりと引っかかった指先に、楽しげな吐息をくすりと漏らすと。長い腕をいっぱい広げて、抱きしめるようにして耳元で囁き返して、 )
──……! ……ちゃんと、いい子で待てたのね、
よくできました……どうぞ、
……いっっっぱい、めしあがれ、
……ッ、
(相手が嫌とは言わなかったこの時点で、ギデオンは既に、今宵の自重の腹積もりなど、すっかり彼方に追いやっていた。胸の内にあるのはただ、その気になってくれた恋人を、くたくたになるまで愛でて……その後ふたりでたっぷり眠り、翌朝目を覚ました彼女に、真っ赤な顔でぽこすかと怒られる、そんな慢心に満ちた妄想だけ。しかしその程度の浅はかもの、たちどころに吹き飛ばされて当然だろう。……この半年間、彼女をじっくり開花させてきたのは、他でもないギデオン自身であるからだ。
初めはそうと気づかずに、いつものように優位を巡って戯れていたはずだ。己の犬耳に仕返しをされ、思わずぞくりと身を震わせれば……まだ手ぬるいな、と虚勢を張るべく、今度はこちらが、“この手じゃあな”なんて、意地悪を返してみせて。けれどこの時には既に、張本人にその自覚があったかどうかは知らないが、彼女の術中に落ちていた。──なら、自分で、ちゃんとやるから。貴方はぜったい、手出ししないで……?
背面にあるナイトランプが、ギデオンの顔を照らしていたなら。その白々しいほど涼し気だった顔に、さっと後悔の色が差し……彼女を傍観しはじめてすぐ、こめかみに汗を浮かせたかと思えば、酷く苦しげに歪みだしたのが、いとも鮮やかに見てとれたことだろう。己の恋人が、うら若く美しい天上の女が、すぐにも覆い被される距離で……綺麗な眉尻を悩まし気に下げ、しっとりとした吐息を零し、己のためにくつろげている。だというのに、ギデオン自身は一切手出しがならないというのだ。この据え膳の御預けは、実に笑えるほど効果覿面だった。最初こそプライドの欠片で、固く口を引き結び、じっと黙り込むだけだったものの。ほどなくして堪えかねたように、「……なあ、ヴィヴィアン、」「ビビ……、」と、落ち着きなく、弱々しく、掠れた声で懇願しだす。前言を無様に翻すことになると重々承知していたが、相手がまだ初心者で、どうしても時間がかかるだけに、もうとんでもなく生殺しで、とても見ていられなくなったのだ。──しかし彼女は、許しさなかった。自分だって恥ずかしい癖に……そんな真っ赤な顔をして、自分の立てる物音にたまらなそうに身を捩るくせに。第一、今してみせていることは、ようやく羽化したばかりの女にとって、まだ随分とハードルが高い代物の筈だ。にもかかわらず、ギデオンが少しでも身を乗り出せば、潤んだエメラルドでさっと射すくめて、「待て、」と。はっはと息を乱しながら、それでも強い意志を込めて、「でも見てて、」なんて言うのだ。
いつもならこんな制約、無駄に良く回る頭と口で、どうにか反故にしてみせただろう(……たぶん、きっと、おそらくは)。しかし今のギデオンには、それは絶対できなかった。このくそったれの犬化魔法のせいなのか……“待て”というコマンドが、まるで呪文のように強力に働き、体が勝手に従ってしまうのだ。かといって、散々に煽り立てられる情欲はまったくそのままでおかれるのだから、相反する本能同士に、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。「っは……、」と荒い息を零す、物欲しげに薄く開いた口の奥、まるで砂漠でさ迷っているかのように、喉がからからに乾いて辛く。引き攣った呼吸を繰り返せば、それを見かねられたのか、あるいはたまたまのタイミングか、ようやく少しだけ近づくことを許されて、お望みのまま腕を貸すも。それでも肝心の触れ方はさせて貰えず、また下がるよう命じられ。──一度期してしまった分、それをあっさり打ち捨てられたものだから、強烈な切なさと、煮え滾るような苛立たしさが、血潮となって痛いほどに充ち充ちる。だがまだだ……まだ、主人の許しが下りていない。苛々と頭を振り、もう一度頼み込もうと顔を上げるも、それは無駄と知っているが故に、唸りながら取りやめるその横顔は、いっそ滑稽で。手元のシーツを手繰り寄せようとした手は、もっと手応えのある者を求め、ヘッドボードを八つ当たり気味に鷲掴みにする。相手が腰を浮かせるたび、ぎり、ぎりり、と、鈍い音。ギデオンもヴィヴィアンも、どちらも汗だくなくらい夢中であるため気づかないが、たまりかねた鋭い爪が、深い傷痕を刻みつけているのだ。それでも御命令通り、燃えるような眼をその媚態から逸らさない忠実ぶりを示していれば。……終わった彼女が身を起こし、もはや一切取り繕えないギデオンを確かめて、満足気な微笑みを浮かべる。そこでようやく、本当にようやくのことでお許しを出された瞬間、地獄の底から救われたような顔をして。もはや言葉も出ないのか、大きく動いて相手に身を寄せ、頭を摺り寄せるその様は、“……俺が悪かった、”と、代わりに雄弁に物語るだろう。そのまま相手を引き倒し、頸筋に顔を埋めながらも、片手は器用に、抜かりなく、いつもヘッドボードの引き出しに仕舞っているものを取り出す──これだけは、若い時分から自分に叩き込んでいる理性だ。そうして、何度も何度も鼻梁を摺り寄せ、悪かった、お前が欲しい、と再三相手に伝え直してから。ようやく相手に沈み込んで、本懐を遂げるだろう。)
(──しかし結論から言って、やはり今夜のギデオンは間違っていた。健康面の危険を冒した、という意味ではない……今回のこれは、中毒性が強すぎるというか。一度これを知ってしまったら、もう知らなかったころに戻れないような体験だったのだ。
たしか昔、エマだかヘルカだか、その辺りの女に猥談として仕掛けたような気もするが──生物にはそれぞれ、特徴というものがある。とあるシーサーペントは丸一日近く続ける一方で、ヤギのそれは一瞬で終わる。スフィンクスの雄は雌の首を噛んでおくが、これはそうやって大人しくさせておかねば、痛みのあまり襲われるからだ。そして、犬やワーウルフ、フェンリルといった食肉目にもまた、面白い特徴があった。とはいえそれは、傍目から見る分にはというだけのこと。……まさか人の身で当事者になるとは、夢にも思わない。
頭のどこかでは、理性が肝を冷やしていた。明らかにいつもと違う──何か引っかかって全く引き抜けないのも怖いが、こんなに長く続くのもおかしい。まさかそういった部分まで、あの悪戯なピクシーどもに作り変えられたんじゃあるまいな。……けれどもただでさえ、まっただなかにいる男というのは、世界でいちばん知能が下だ。本当に本当に、地の底を抜けるほど下だ。故に今のギデオンは、うっすらと懸念を感じはしながらも。相手を散々旺盛に求めた末、最後の心地良さにぼうっと身を委ねる誘惑に、全く、ちっとも、これっぽっちも、全然、さっぱり、抗えなかった。とはいえ、うつぶせになた相手をこのまま潰し続けてはいけない、という気遣いは働くらしく。背面から相手を抱きかかえ、体を横に寝かせて、蹴散らしていた毛布の山をかけ直すと。以前相手に流し込みつづけるまま、己の毛皮ですっぽり包み、濡れた首筋に唇を寄せ。酷くぼんやりした声音をもって、相手に尋ねることだろう。)
…………ぐあいは……、
……っ、
( めしあがれ、と。そう嘯いた時点で、今晩のビビはギデオンの全てを受け止めるつもりでいた。耳を垂れて、こちらに頭を擦り付けてくる幼気な恋人。自分も本当は相手と深く睦み合う夜が好きだと言うのに、日毎に可愛くない、相手に見られたくない姿を繕えなくなっていく様相に動揺し、呆れられたらと思うと恐ろしくて、最近はこの恋人の腕の中で朝を迎える度、素直じゃない、理不尽な八つ当たりをぶつけてばかりだ。それを先程のお預けで──求めているのは貴方だけじゃない、と。私も貴方と迎える夜が好きなのだ、と見せつけたかったのだが──果たして、勿論その報いを全て受け止める気でいた覚悟は、その後襲った嵐によって粉々に砕かれることとなったのだった。
──どれほど時間が経っただろう。あれからずっと酷使し続けた喉はとうに擦り切れ、分厚い胸板に押し潰された背中は、最早ぴくりとだって動かせない。それでも、いつもギデオンがそうしてくれるように。『ありがとうございます、気持ち良かったです』と、疲れた身体を抱きしめ返したい。その目標だけが、泣き出しそうになるビビの心を健気に支えて。ろくに呼吸も出来ていたのかどうか、相手と繋がりあったまま、シーツに埋められていた視界が、ぐるりと反転したその恐ろしい程の刺激からさえも、声にならない叫びをあげるだけで、辛うじて細い意識は繋ぎ止める。そうして、ぐったりとギデオンにされるがまま、いまだ襲い来る快感に、ひゅうひゅうと荒い吐息を漏らせば。可哀想なほど真っ赤になって、口や目元はとうにぐちゃぐちゃ、あれほど見せたくなかった顔を晒して、最早ギデオンの言葉も聞き取れぬ有様というのに。その相手もぼんやりとした面差しの奥、そこに潜んだギデオンの理性が、なにかに怯えていることに気がつけば。重い、重い腕を持ち上げ、抱擁というにはあまりにか弱い。腕にかかる重力に任せるまま、ほんの微かな力で可愛い恋人を抱き寄せていた。──大丈夫、大丈夫。無責任と言われればその通りだが、そう掠れきった無声音で、少し硬い金髪の頭をぽんぽんと、うわ言のように撫でさすると。閉じかけていた瞳をギデオンに向け、ぽやりと、しかし心配そうに愛しい相手の顔色を確かめて。 )
…………?
…………、
(ごく微かな抱擁の感触、そしてうわ言のような掠れきった囁き声。噛みあっていないと言えば噛みあっていないいらえのはずだが、しかし今はギデオン自身もぐったりしているものだから、いつもの過保護な心配性が頭をもたげることはなく。寧ろ、ただ撫でられるまま目を細め、薄闇のなかの相手を見つめて、心地よい痺れに身も心も委ねる始末だ。そのうち、相手がふと瞼を開けて、とろんとした、それでもこちらを案じるようなまなざしを覗かせてきた。──ふ、と小さな笑み交じりの吐息。可笑しさだとか、愛おしさだとか、おそらくその類いの何かが、思わず零れ出たのだろう。
目を閉じ、体を屈めるようにして。相手の額に鼻梁を寄せ、長い長い息を吐きだす。もはや何を言うのも気怠くて……きっとこうすれば、自分が安堵と満足に浸っているのがわかるはずだと、そう考えて懐き続ける。だがやはり、それでももう少し、安心を伝え直しておこうかと。繋がり合ったままのくせして、まるで幼子を寝かしつけるように、相手の背中に回した手を、ぽん、ぽん、と軽く動かす。先ほどの荒々しい盛りから一転、こうして穏やかな静けさにふたりして沈む時間が、ギデオンは好きだった。いつまでもこうしていたいところだが……しかし今は、夜半の2時か、3時か。とにかく、よく眠るたちである恋人にすれば、これ以上の夜更かしは身体に障ってしまうだろう。明日も仕事があるのだから、ギデオン自身も休まなければ。
そう感じたところで、不意に小さなさざ波が湧き起こり。ぶるり、と身を震わせたかと思うと、本能的に押し付けて、まだ続いていたらしい、最後のひと息を大きく吐き出す。引いていた筈がぶり返してくる、微熱にも似た恍惚の余韻。たまらず呻き声を漏らし、呼吸をごく微かに乱す。いつもの比にならないほどぬかるんでいることも、今のでようやく瘤が消えたことも、確かめずとも感じ取れた。故に、随分と慎重に、間違いのないよう引き抜くと、サイドテーブルに手を伸ばし、ほとんど無意識に後始末に入り。そうして、あらかた──のつもりが、きちんと綺麗に──片付ければ。ごみ箱にくず紙を放って、今度こそ相手を抱きしめ、思考を放棄しようとして。
「……ビビ、」と。何とはなしに、一度だけ名を呼んだ。それに相手が応えたにせよ、応えられなかったにせよ。その汗に濡れたこめかみに、唇を柔く押し当てる。これでデュベを引き上げていなければ、まだ残っている大きなしっぽが、ゆらゆら揺れていたことだろう。相手のあどけない顔を、優しい眼差しで見下ろすと。少し身じろぎし、落ち着ける場所を見つけては、ギデオンもすっかり横たわり、相手の栗毛に顔を埋める。──肉団子の効果が切れたのか、或いは散々求め合ったからか。恋人の香りがいつもより鮮明に感じられ、己の肺腑がたちまちのうちに満たされた。そうして何度も深呼吸を繰り返すうちに、いつしかギデオンも、睡魔の闇に落ちていき。眩しい朝陽が部屋をすっかり照らしきるまで、ほとんどぴくりともしなかった。
──このときのふたりは、まったく知る由もなかったが。実はこの睦みあいこそ、ギデオンにかけられた悪戯魔法を解く鍵だった。人体は元々、普段から微量の魔素を発しているが、ギデオンは濃厚なそれを……天文学的な確率で相性の神懸かっているそれを……ほとんどゼロ距離で、体中の至る場所から、数時間も取り込み続けていたわけだ。故に朝方、ふたりがすっきり目覚めた頃には、犬のような耳もしっぽも、綺麗さっぱり消えていた。歯も爪も元通り、抜け毛ひとつさえ残さずに、ひと晩で無事解決である。……しかし結局、ふたりの寝床は、随分と酷い有り様に成り果てていたものだから。ふたり笑って、シャワーを浴びて、そこでもちょっと戯れたのち。ようやくさっぱり切り替えると、爽やかな朝に向けて、元気に動きだしたのだった。)
(──さて、澄んだ寒さが肌を刺すとある日。ギデオンとヴィヴィアンは、いつもどおりに出勤するなり、エリザベスに声をかけられた。最上階の執務室がお呼び出しとのことである。
はて、いったい何事だろう。ふたりが以前の関係であれば、十中八九、クローズドクエストの拝命に違いないのだが。交際関係にあることを──今はそれにとどまることを──きちんと公表済みであるから。経費周りで問題視されないよう、ふたりきりでの重要任務は迂闊に回されないはずなのだ。「戒告か何かじゃないといいんだが……」なんて言い交わしながら、扉をノックし、押し開けると。そこに待ち受けていた御方は、しかしギルドマスターではなかった。そう言えばかの方は今、王国議会からの招集を受け、中央に登城中である。彼か彼女か、詳しいところは幹部の数人しか知らないのだが、とにかくあの御人が数日ギルドを離れる間、諸々の指揮と判断は、臨時代理に託されている。つまりふたりを呼び出したのは、高級な椅子ににこにこしながら座っている、如何にものんびり屋な──この髭もじゃの、傷だらけの大男である。
向かいのソファーに腰を下ろし、要件を窺ってみるに。どうも代理は、ギデオンとヴィヴィアンに、合同クエストのメンバーとして出張してほしいらしい。来週から約2週間、場所は国内中部のヴァランガ地方。旅費や食費、消耗品費などの類は、きちんと持ってもらえるという。「……いいんですか、」と、ギデオンが困惑気味に訊ねてみれば、「いいのいいの」と、代理は至極のほほんと、(いかつい体躯に全く似合わぬ)温厚な声で答えた。
「君たちが仲睦まじいのは知ってるよ。だけど僕ら幹部にとっては、君たちふたりの冗談みたいな相乗効果のほうが、よっぽど重要なんだよね。トリアイナの不祥事解決、夢魔騒動の捜査、ライヒェレンチの増援、トロイト退治、ドラゴン狩り……他にもいろいろあったろう? とにかく、今までのああいったのと同じような活躍を、またふたりにしてほしいんだ。ビビちゃんだって、もうお医者さんから太鼓判は捺されてるんだって? それなら久々に、少し骨のあるお仕事を担当してみてくれないか」。
どうやら諸々の懸念については、既にギルマスと話し合い、対処方針を固めているらしい。それなら、と頷いて、子細の記されている手元の資料に目を通した。──今回の合同クエストの主催者は、“西の王剣、東の聖剣”……などと双璧扱いされることでお馴染みの、国内東部の大型ギルド・デュランダル。そこが受注したクローズドクエストが、どうやら特殊な内容らしく。せっかくなら周辺の公認ギルドも一緒にやってみませんか、と、カレトヴルッフも誘われたらしい。他にもアラドヴァル、アルマツィア、クラウ・ソラス……この辺りの中型ギルドも、参加が決まっているという。要は、中部地方にある公認ギルドから少しずつ冒険者を募り、皆でひとつのパーティーを築き、デュランダルの受注した遠征に赴くのだ。
その少し面倒な経緯を聞いて、不思議そうな顔をする顔のヴィヴィアンに、ギデオンの方から解説することにした。──今回のような合同クエストは、ライヒェレンチでの掃討作戦とはまた別で、人員の増強よりも、冒険者同士の交流会を意図している。国内の冒険者ギルドは、無論定期的に会合を行っているけれども、同じ現場で汗を流すのはまた違う。知識や技術、人脈が行き交い、よその冒険者同士の横の結束を強められるからだ。主催はだいたい大型ギルドが請け負うもので、うちも頻繁にやっている……カーティスやバルガスが暫く帰ってきていないが、実はあれも、まさに別の合同クエストに駆り出されているところである。こういうのは、通常のクエストとは趣が異なるし、自分たちは呼ばれる側だから、遠征より出張と呼ぶ。東のあちらさんが音頭を取ってくれるのだから、気楽に行って大丈夫ではあるだろう。必要な指示はデュランダルが出してくれる。だから俺たちは、交流に気を割きつつも、ただいつもどおり仕事をこなしに行けばいい。
「そう、そのいつもどおりの活躍というのが、大事なところでね」──臨時代理がここで初めて、目をきらりと光らせた。「ギデオン、お前は言わなくてもわかるだろ。今までどおり、上手に見聞きして、嗅ぎまわって、尋ねて聞いて……そうやって、必要な顔と顔をしっかり繋いできてほしい。根回しの下拵え、お前の得意分野だろ? それで、ビビちゃん。君を選んだのは、君の出身が魔導学院研究部だからだ。今回の仕事には、そのキャリアが役に立つ。行けばわかるから、そこで最大限のことをしてきてくれ。それに、今回の成果次第では──昇格の推薦を取り付けられるかもしれない」。
“昇格”とは言わずもがな、冒険者ランクのことだ。これが上がると、ギルドから安定して支払われる固定給が変わってくるというものである。生活をしていく上で、この安定感の向上というのは、かなり重大なポイントだった。それに、実際はこれ以外にも幾つか必要になるだろうにせよ、幹部からの推薦をしっかり貰えるのであれば。通常の昇格に比べ、必要な諸般の手続きがかなりスムーズになるはずだ。
思わずヴィヴィアンと顔を見合わせ、ふたり同時に頷いた。既に今も、世帯収入は充分にある。しかし所得にかかる税金を加味しても、余裕を持って困るということはない。それに今は、ヴィヴィアンより引退が早いかもしれないギデオンが、これからの働き方を試しつつあるところでもあるのだ。ふたりとも現役でいるうちに、できることはしておくべきだった。
「引き受けます」と、ふたりで答えた。──ヴァランガ出張の決まりである。)
( 荒い呼吸を繰り返すビビの額に、暖かな吐息が吹きかけられる。──嗚呼、よかった、ギデオンさんがわらってる。うれしい、すき、だいすき、と。小さくふにゃりと微笑んで、働かない頭を小さく擦り付ければ。未だ終わらぬ長い責め苦に、身体を捩って逃げ出す体力も、不満の声を漏らす声帯も、余計な全てはついえてしまって。優しく触れる大好きな手に、ひどく満足げな長い呼吸だけが、この状況をまたビビも心より愛しているのだと伝えられているだろうか。ぴったりと深く重なり合って、二人静かに鼓動を合わせる。その幸せに慣れてしまったからだろうか。全てが終わって、部屋の空気が濡れた体をひんやりと撫でれば、たまらない喪失感に白い指先をゆらめかせ、先程まで一つになっていた片割れ、愛しい男を探し求めてしまう。大人の鎧を羞恥と共に剥ぎ取られ、今夜すっかり無防備になってしまった娘の心が、たまらぬ寂しさにぐずぐずと泣き出すその寸前。やっと“ビビの体温”が返され、強張っていた身体を緩ませたところへ呼びかけられれば。既に懇ろとなっていた上瞼と下瞼を大儀そうに引き裂くと、ぐったりと重い首を持ち上げて──場所が違う、とばかりに相手の唇へ、本当に、本当に触れるだけの口づけを。そうして、柔らかい質感を伝えることすらなかったその催促が、果たして叶えられたかどうか。今度こそ瞼と瞼を強く引き閉じれば、深い眠りへと堕ちていったのだった。 )
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また、ギデオンさんとお仕事できるなんて嬉しいです!
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( 大好きな恋人と迎えるけだるい朝も、爽やかな流水の中たわむる時も。ヴィヴィアンにとって、ギデオンと過ごす日々はこれ以上なく幸せで、恋人として満たされていないといえば嘘になる。しかし、何故だろう。もうずっとビビにとって、なにかが満たされていない気持ちがするのは。そんな違和感の正体に気が付いたのは、それから遠くない日のことだった。
付き合い始めた冒険者同士は、同じ仕事を受けさせない。無論、些細な呼吸の合わせ方の差が生死の差になるこの仕事で、此度の様な例外はあるものの。開拓時代とは違うこの現代で、仕方のない不文律はビビとて承知していたはずだ。しかし、仕事の場面においてでも、ギデオンの隣が己ではないこと。それに耐えられる程、己は無欲でも理性的でもなかったらしく。故に件の依頼を打診された際の喜びようといったら、いつか初めてシルクタウンの魔物討伐に繰り出した時もかくやといった勢いで。それからの一週間というもの、暇さえあればヴァランガ一帯の動植物、魔物の分布等、部屋中の書物をひっくり返し、いつにも増して上機嫌な笑顔で、魔物を屠るヒーラーは、少なくともヴァランガへと向かう出発以前から。早速、日々 魔物に脅かされる市民を力づけるという余剰効果を生んだとか、そうでもないとか。
ともかく迎えた出発当日、事前に別の野暮用を済ませて、先に行っててもらったギデオンと東広場で落ち合うと、しれっと腕を絡ませて、今回の主催ギルドであるデュランダルの馬車が通るという街外れの街道へと歩き出す。シルクタウンの時とは違い、今回の依頼は、『ヴァランガにおける空気中に含有する魔素の異常発生及び、それにおける魔物や、有毒・有用植物、及び人類に及ぼす影響の調査。及び博士を含む非戦闘職員の護衛』──とまあ、要は明確な被害者がいない調査の仕事である。それによって、るんるんと鼻歌でも歌いだしそうな──否、実際に人の少ない道では、その何とも言えない歌唱力を披露していた──ヴィヴィアンの上機嫌は留まるところを見せず。その癖、背負った準備の数々は一切手を抜くどころか、一週間でこれ以上なく厳選され切ったそれなのだから始末が悪い。
それからしばらくして約束の時間、約束の場所で待つこと十数分。一本のロングソードを中心とする意匠が入った大型の馬車に、大きく手を振り近寄ると。日焼けた肌が勇ましい三十代前半と思しき大男が、止まった馬車の後ろから、ぬうっとビビの顔より大きな掌を差し出して。「やあお待たせしてしまってすみません。行きしで泥濘にはまってしまって」とガリニア本国のそれを感じさせる、東部らしいはんなりとしたイントネーションで謝罪した男は、その糸目を更に細めて明るい笑顔を浮かべたかと思うと、「はじめまして、私セントグイドで研究者してます、レクターと申します」いやぁ都会の方ってなんというか……皆そうなんです? お二人ともシュッとしていらっしゃるというか、はあもう僕見惚れてしまいます──と、矢継ぎ早にペラペラやり始めたところを、馬車の中から助手らしき青年に咎められ、やっと馬車の荷台へと腰を落ち着けられる。そうしてぐるりと周囲を見渡せば、どうやら泥濘にはまったのは本当らしく、調査地につく前から泥に汚れているデュランダルの冒険者達といえば、なにやら既にぐったりと疲労を顔に滲ませていて。はて、泥濘からの脱出程度でこうもなるとは──……と、首をひねるまでもなく。馬車が動き出してかれこれ十数分、冒険者より余程壮健なレクター博士が一秒たりとも黙らないのである。
さて、改めて。聞くまでもなく自分の身の上から、今回の依頼をするに至った経緯まで全て勢いよく話してくださった氏曰く。もともとヴァランガは今回の様な仰々しい調査を入れるまでもない、ごく普通の、少し魔獣の発生報告の多いトランフォードらしい土地柄だったという。平地が少ない故、大都市の発展には恵まれなかったが、トランフォードの冒険心溢れる先祖のおかげで、小規模ながら狩猟を生業にする小さな集落も存在し、数世代前まではキングストンにも革製品を卸していた記録のあるという。しかし、それがある厳しい冬の年を境に、他の周辺都市から消息を絶って久しく。最近、また商魂たくましい連中が足を踏み入れたところ、近辺でも稀に見ない魔法植物や薬草、鉱石等を見つけたは良いが、狂暴な魔獣のせいで満足に野営もできないといった有様らしい。先月ごろには冬越えに失敗したかと思われていた地域住民の目撃情報も挙げられていて──……僕ァ金銭に興味があるわけじゃないんです! 神話の時代の話と違うんですよ! 有史以降に現れた秘境の民族だなんてこんな浪漫がありますか!? と、人の思考を遮って、元々高い声を更に張り上げたレクター博士は、長年デュランダルのあるトランフォード第二の都市・セントグイドの魔導学院で長年民俗学の研究をしているらしい。耳の真横で高い声を張り上げられて、にこやかだった表情を引き攣らせたヴィヴィアンは、しかし後に、この躁狂な教授と思わず意気投合することになる。自分以外誰も一言も発さない馬車内で、一切気にした様子もなく語り続けて、なまじ魔導学院出身と知られてしまっているヴィヴィアンや、その他ぐったりと寝たふりさえ始めた周辺ギルドの冒険者、果てには今まさに馬車を運転している運転手にさえ、度々たっぷりと自論を語っては、君はどう思います!?等と自由奔放に絡みまくっていた博士だったが。何故か頑なにギデオンにだけは話を振らないどころか、そのチワワの様なむき出しの視線をも合わせようとしないのである。当初は相棒に矢が当たらないことに安堵していたヴィヴィアンでさえ、流石に感じの悪さを感じ始めたその途端。悪路だというのに興奮のあまり立ち上がり、案の定がくんと馬車が揺れたとはずみにふらついて、ビビの相棒の隣に腕をついたかと思うと。シュバッとアルマツィアの弓使いが片眉をあげるほどの素早さで飛びのいて、「あ、あ、ああ……申し訳ない、本当に」と、言葉を失ったかのように座りなおし、それ以降貝のように口を閉じてしまったレクター氏が、冒険者ギデオン・ノースの熱狂的な大ファンであると知ることになるのは、まだしばらく後のお話。
ともかく今は、そうして突如生まれた静かな時間に、やっとギデオンと同年代らしき、デュランダル側の責任者である女剣士が、態とらしく咳ばらいをしたかと思うと、「じゃ、じゃあ……現地でのスケジュールと注意事項を……」と話し始めるという、なんとも締まらない形でヴァランガ合同クエストは始まったのだった。 )
(──トランフォード中部の雄大な山々に囲まれた、白銀の峡谷・ヴァランガ。その入口は、キングストンから馬車で数日、そこから更に山道を徒歩で数日……つまり、王都から実に1週間ほどかけて行軍した先にある。距離にしてみれば案外近いかもしれないが、しかし周辺の山岳の、まるで人類を拒むような険しすぎる地形のせいで、これまで冒険者が立ち入った例は、最古の開拓時代以外にほとんどないと言ってよかった。カレトヴルッフの資料室でも、過去の記録を一応調べてみたものの。それらしい記述ときたら、隣の地方にまつわる文献に一、二行ほど走り書きされていただけだ。
通常、よほどの大隊でも組まない限り、そんな辺鄙な山奥にわざわざ踏み込むことはしない。冒険者は有限の資源だ──どんなに情熱的であろうと、国内全土を松明で照らすことはできない。王都の近辺にさえ日々魔獣が湧く以上、人口密集地の防衛を優先するのは当然のなりゆきで。故にヴァランガのような奥地は、開拓時代に一度踏破したが最後、これまで後回しにされてきたのが実情だった。……しかし今回、それがようやく、破られることになるわけだ。
「200年前の集落の再発見、か……」と。幾日目かの野営の夜、焚火の傍でヴィヴィアンと共に、デュランダルから配られた資料を今一度熟読する。──そこでだれかが暮らしているなら、たしかに実地調査のついでに、確認しなければならないだろう。人口や生活実態、人道的支援の要不要など……本来は憲兵団など、国家に直属している組織が動くべき事案だろうが。如何せんヴァランガ一帯は、長年人が立ち入らなかったせいで、魔獣の凶暴度が大コスタ並みだという報告も上がっている。であればまさに、その道のプロである冒険者たちの出番だろう。周辺の魔獣や魔法植物の生態をつぶさに調べ、危険や対策を検討し。最終的に、いずれ必要な国勢調査も立ち入れるように道を敷く……そのための、いわばプレ調査。それこそが、今回のギデオンたちに課せられた使命であるに違いない。……そのついでに、みょうちきりんな学者どもの護衛も背負わなければならないようだが。小さくため息をついたまさにその瞬間、また遠くから賑やかな声が聞こえてきて、ギデオンは振り返った。向こうのほうの焚火の周りで、今回のクエストのきっかけとなった依頼者──セントグイド魔導学院のレクターが、相も変わらず周りを巻き込んで騒いでいる。何故かギデオンのことだけは直視したがらないあの男は、声も存在感もいやに過剰な人物で、別段嫌うほどではないが、胸の内では警戒していた。魔獣よりも恐ろしいのは、守られる立場にあることをわかっていない民間人。万が一が起こらぬよう、しっかりと目を光らせておかないと、大変なことになるかもしれない。ヴィヴィアンともその辺りをこっそり話し合ってから、腰を上げてテントに戻り。寝ずの番の交代に備えるべく……二分と経たずに眠り込んだ。)
(──それからの道程も、同じような日々が続いた。馬車と別れて山に分け入り、幾つもの峠を越えて、日が落ちる前には必ず野営を構えて休む。幸い天候に恵まれて、旅程は至極順調だ。魔獣の襲撃は一日に数回ほどあったが、この合同パーティーは各ギルドの粒揃いということもあり、スムーズな連携戦を最初から難なくできた。……久々にギデオンと肩を並べて杖を振るったヴィヴィアンが、太陽のように明るい笑顔を生き生き振りまくものだから、それに見惚れる男どもが出ていたことだけ悩ましかったが。ああ、それと。魔剣を振るうギデオンを見たレクターの様子が、やけにおかしくなっていたが……あれはいったい何だったのだろう。よくわからない男である。
──……キングストンを出発してから、九日目。ギデオンたちはついに、その鋭い峡谷の切れ端へと辿り着いた。一行の頭上に広がるは、真っ白な雲との対比が見事な、風の吹きすさぶ青天井。その下、遥か眼下には、雪と岩肌でまだらになったV字型の斜面の底に……なるほど、蟻のようにぽつぽつと、集落らしきものが見える。ここから最低でも2週間、現地調査をするにあたり、まずは村人たちに挨拶と、拠点を構える許可取りをしに行かねばなるまい。パーティーメンバーで事前に話し合った通り、まずはギデオンと、デュランダルの女剣士、ほか数名が行くことになった。このパーティーのリーダーは彼女、エデルミラに違いないのだが、200年間外界と交流しなかった土地となると、女と口を利くことさえ嫌がるかもしれない。そこで立場上、王都のギルドの男性冒険者であるギデオンが、場合によっては代わりを務めるわけである。それにあたり、まずは見てくれをきちんと整え、持参した酒や煙草などの土産品を手荷物として携えれば、いよいよ先方への挨拶に……向かった、つもりだったのだが。
──いなかった。いるはずなのに、いなかった。
この集落を築いたはずの村人たちは、影も形も、人っ子ひとりも……まるで見つからなかったのだ。
全ての家、全ての建物、全ての小屋に声をかけた。だが、返事はこなかった。谷の上からギデオンたちが見つけたのは、どうやら廃墟だったらしい。家々の竈は吹き込んだ枯れ葉に埋もれ、ボロボロのベッドには蜘蛛の巣が張っている。この滅びよう……どうやらこの村の人々がここで生活をしていたのは、どんなに新しくても数十年前のように思える。すっかり崩れた家屋がいくつかあるのも、その証左だろう。だが、暮らしの跡や生活用品、革製品を作る道具はあちこちに大量に残っていて、ある日突然この集落を捨てたようにも思えなかった。……それに、そこそこしっかりと根を張った集落のように見えるのに、墓場がひとつも見当たらないのはどういうことか。風葬や鳥葬をするような村だったのか……? 全員で合流し、村の亡骸を一緒に見て回ったが、詳しいことは一向に分からぬままだ。否、レクター博士は助手とともにあちこち調べて回っているが、生粋の学者であるが故に、結論を急ぐような真似はしたくないご様子である。
……とりあえず、ヒーラーであるヴィヴィアンの確認をもって、この村に病原菌や悪性魔素の類いは蔓延っていないとわかった。であれば次は、比較的綺麗な状態で残っている建物の清掃作業だ。村に残っていた箒で枯れ葉や土埃を掃きだし、入り込んだ草の根を抜くと、冷たい風を凌ぐのに充分な場所となった。しばらくはこの屋内にテントを張り、寝泊まりすることになるだろう。綺麗な沢や可食魔獣は幾つも確認できているから、生活資源も問題ない……この谷を拠点として、周辺の魔素・生態調査に乗り出していくわけだ。
問題はふたつ。この村の人々は、はたしてどこに消えたのか。そしてデュランダルに寄せられた、「地域住民の目撃情報」とは、いったい何だったのか……? 来た道があの険しさだ、周辺には他の集落など存在しない。だが報告書によれば、幻のヴァルンガの民としか思えないような人々を、信頼できる筋の人々が、近くで見かけたはずなのだ。冒険者のように野営慣れした様子でもなく、どこかに帰っていくような様子だったという、それなのに……。何もわからないまま、ヴァルンガ初日の夕陽が落ちた。今夜は各自しっかり休み、明日から調査開始である。この村の薄気味悪さを少しでも払おうとしてか、何人かの冒険者たちが、向こうの大きな焚火の傍で、元気に酒盛りをしていたが。一方のギデオンは、日が暮れてからも建物内の安全確認に奔走していたヴィヴィアンを労うべく、まずは谷の斜面で見つけた甘い木の実をフライパンで煮潰した。そうしてペースト状になったそれを、余っていた山鳥のローストにたっぷり塗り、探し出した相手の前にさりげなく差し出すと。“皆には秘密だぞ”というように片眉を上げながら、その隣にゆったりと腰を下ろして。)
なんというか……つくづく、拍子抜けの開幕になったな。
どうだ、疲れはたまってないか?
わあ、あったかい……ありがとうございます!
( それは最後の廃屋を確認し終わり、壁の補強、防水……これは雪対策のそれだろうか、長い間放置され、溶けかけている魔法をかけ直しながら、朽ちてしまった玄関を潜り抜けた時だった。聞きなれた声に嬉しそうに振り返った娘は、差し出された包みに頬ずりすると、微かに頬を上気させながらその場で小さく飛び跳ね。強く吹いた冷たい風に、絡ませた腕を屋内の方へ引き込むと、少し高くなった床の基礎に並んで腰掛け、秘密の時間を楽しむだろう。相手の問いかけに、「ううん、エデルミラさんってすごい人ね。誰の顔色も見逃さないもの」と、ふいに甘い山鳥に被りつき、大きな瞳をキラキラとこぼれ落ちんばかりに見開くと。相手にも一口食べてみろと差し出しながら、「皆さんすごい人達ばかりで、とっても楽しいです!」と無邪気に足をパタパタとやり。相手の唇へ残った微かなソースをペロリとやると、「それにね──」と口を抑えてクスクスと楽しげに思い出すのは、あの声も存在感も過剰な教授のことだ。
24時間365日──は言い過ぎか。少なくともこの9日間、24時間休まることなく騒がしかった彼曰く、この村の様相は非常に珍妙であるらしい。いや確かに素人目でも首を傾げる部分は多いのだが、村のあちこちで倒壊しかかっている建物や、残る魔法の年代が、新旧様々ちぐはぐであるというのが彼の言で。しかし、ボリューム調節機能が破壊されているとしか思えない癖して、悔しいことに。彼が拾ってきた瓦礫を片手に始めた、考古学における編年概念の授業などは非常に興味深く。斧使いが予報した今夜の吹雪のその前に、割り振られた使えそうな建物の物理的・魔法的な安全の確認に従事する間、重要ながら非常に単調な作業の繰り返しも、見慣れぬ道具の数々に彼の授業を思い出して、お陰で退屈することが一切無かった。ギラギラと剥き出しの瞳を輝かせ、あちこちでガラクタを拾って来ては、学者にとって財産であるはずの知識を、勿体ぶらずに振りまいて、最後には必ず──ありがとう、ありがとう。こんな素晴らしいものに出会えるのも全て皆さんのお陰です! と、度々感動してみせる大男に。その生い立ち上、変人学者には慣れきっている贔屓目を除いても──悪い人じゃない、と絆されつつあるヴィヴィアンだ。ほら、慣れてしまえば、あの村の端から響く歓声も気にならなく──と。そういえば、しばらくレクターの声が聞こえない。あの変人がたまに黙り込む原因の相棒も、今は隣に腰掛けていて。この嫌な予感を伴う違和感に気が付いたようで、無言でふたり視線を合わせて立ち上がると──その手の予感は当たるものだ。すぐさま、「おーい! カレトヴルッフの……なあ! あの学者サン見てないか!?」と、今日のレクター同行班だったはずの槍使いの慌てて駆けてくる様子に、ピリリとその場の空気が凍りつく。意外と広い渓谷だ、闇雲に探しても駄目だろうと、無言で相棒と頷きあうと、まずはテントのある本陣へ駆け出そうとして。 )
っくく、そうか……馬が合うのは良いことだ。
(この九日間、ギデオンたちはいつも以上に真面目に仕事に勤しんだ。このペアでの出動を上が後押ししてくれたのは、それだけ厚い信頼を寄せられているということ……それをふたりとも、よくよく承知していたからだ。
故に、これまでの旅路において。ギデオンもヴィヴィアンも、相手より自分より、周囲の仲間を優先していた。親しいはずの相棒とはきりっと一線を引くどころか、なりゆき上ひと言も会話せずに夜を迎えたことさえある。仕事中なのだから、これがあるべき姿だろうと、大人の顔できちんと弁えていたけれど。さりとて心のどこかでは、旅の疲れも、何だかんだで常に気を抜けないストレスも、同じ場にいる恋人を意識しない努力のために返って生じる恋しさも、我知らず積もりゆくもの。だからこうして、ようやくまともな拠点を構え、ゆっくりと腰を落ち着けたタイミングで。いよいよ始まる本命の調査仕事を前に、まずは少しだけここまでのお互いを労おうとしていたのも。そう罰当たりな話でもない……はず、だったのだ。そのときまでは。
相手の蠱惑的な悪戯に笑い、尚もくすくすと楽しそうなその横顔を、酷く満足そうなアイスブルーの双眸で眺め。顔をぱあっと輝かせながらあれこれ楽し気に語る相手に、後方に手をついてゆったりと寛ぎながら、穏やかに相槌を討つ。そうして過ごしていたギデオンの表情が、しかし相手と全く同じタイミングで、石のように強張った。──立ち上がり、話を聞いて、思わず槍使いを睨みつける。彼を含めたメンバーには、自分やヴィヴィアンやエデルミラがようやく休みを取る前に、充分な休憩を先んじて与えたはずだ。それなのに、用でも足していたのか、或いは何かに気を取られたのか──護衛対象から目を離し、あっさり見失っただと? 未だ調査も始まらぬこの初日から?
心得の足りない仲間に言いつけたいことはいろいろあったが、今そうしても時間の浪費にしかならない。立ち竦む槍使いは一旦無視して──ギデオンの怒りようをわかっているなら、ちゃんとついてくるだろう──ヴィヴィアンとふたり、エデルミラの元に向かおうとした、その瞬間。夜気を切り裂く嫌な唸りが、その場にいる全員の耳をおどろおどろしく震わせた。……言わずもがな、悪霊ウェンディゴの呼び声だ。あの邪悪なものは、ひとりで冬山をさ迷う人間に危害を及ぼす習性を持つ。恐ろしいのはそれだけじゃない……ウェンディゴが鳴いたということは、斧使いたちの言うとおり、今夜は確実にひと吹雪くるということである。姿を消した同行者、これから始まる長い夜、迫る大雪。じわじわと立ち昇り始めた最悪の事態に、ギデオンの頭が目まぐるしく回り始めた。──同行する一般人に被害を出すような事態など、冒険者には許されない。はぐれた学者を見つけ出すには、初動が何よりも肝心だ。ヴィヴィアンをくるりと振り返り、明瞭に指示を出すその声には、最速で行動を起こすべく、相手への信頼が滲んでいた。相手がそれを了解したなら、一目散にリーダーの元へ向かい、捜索隊を編成し。そうして、ヒーラーである相棒もやむを得ず同行させて、博士を捜しに繰り出すだろう。)
──ヴィヴィアン。俺はエデルミラの元にこいつを連れていって、捜索範囲を検討してくる。
おまえは捜索の元気がありそうなやつらを見繕って、すぐに装備を身につけるよう言ってくれ。おまえの判断で今夜は休ませる奴らにも、俺たちの戻りに支障が生じる場合に備えて、ここで相応の準備をさせたい。指示する内容は……この前一緒に確認したあのマニュアルの、あの項目だ。だいたいわかるな?
──はいっ、任せてください!
( 尊敬してやまぬ相棒に、久方ぶりに仕事を任せてもらえて、娘の横顔が酷く誇らしげに光り出す。それでも、この一刻を争う事態の中で、力なく項垂れる槍使いを目の前にして、「大丈夫、皆で探せば絶対見つかりますよ!」と、走りながらも穏やかな笑みを向けずにいられないのは性分だろう。折角、不慮の失敗の原因を追求するという嫌われ役を、ギデオンさんが引き受けててくれたのだ。それぞれ二方向へと向かう別れ際、両拳を顔の横でぎゅっと元気に引き結び、にこりと相手に微笑みかければ、丸まっていた男の背中が微かに伸びたような気がした。──大丈夫、彼とて今回のクエストに選ばれた優秀な冒険者のはずだ。少なくとも、その人の良さは道中でとっくに知っている。きっと、誰より熱心に誠心誠意、己のミスを挽回するだろう。そんな別れ際の数秒で、仲間を鼓舞するヒーラーとして、最大限の力を発揮すれば。その数秒後には、ひらりと赤いマフラーを翻し、石垣を飛び降り遥か下へと消えて行き。それから数分後、エデルミラを連れたギデオンが戻る頃には、前衛後衛バランスよく、今後の交代シフトまでをも考えた完璧な布陣で、捜索開始の指示を迎えただろう。
しかし、そうして始まった捜索は、とても順調とは言い難かった。槍使いの誠実な証言を元にして、エデルミラとギデオンが割り出してくれた捜索範囲は、目を見張るほどの精度だったが。そもそもの面積が大きい上に、これはレクターが動けなくなっていた場合の想定だ。彼自身が興味深いものを前にして、突飛な動きをするのは周知の事実で、そうでなくとも魔獣に追われていれば分からない。もうずっと大きな手がかりを得られないまま、刻々と捜索範囲は広がって行き、ふと睫毛に落ちた白い氷に、うっそりと疲れた視線を夜空に向ければ。最早、魔獣避けや目印に、出立前に焚き付けてきた聖火は随分遠く、目の前に広がる巨大な岸壁と一緒になって、冒険者の心を苛むようで。兎にも角にも、物理的な行き止まりに──ごく一部の冒険者にとっては、踏破可能かもしれないがレクターには無理だろう──焦燥の滲んだ顔でギデオンを見遣れば、高山にして豊かな下生えを踏み、来た道の方へと引き返そうとしたのも詮無いことで。 )
ここを、登る……のは、難しいですよね
……あの図体を上まで引きずり上げるには、相応の装備が要る。
そんなものは持っていなかったはずだ。
(相棒が最速で導き出した、あくまで理性的な諦めに対し。ベテランであるギデオンもまた、決して否とは返さなかった。その薄青いまなざしは、地上から今一度、舐めるように登っていき──優に数百メートルも上で、非常に険しく縫い留められる。……一応、ちょっとした足場になりそうな岩が、ところどころ確認できないわけじゃない。それでも、ここからその地点までは、完全なる断崖絶壁だ。まるで巨人が、自慢の剣のひとつでも大きく振り下ろしたかのように。
そんな地形を、フィールドワークに慣れているとはいえ、民俗学者の一般人がよじ登れるものだろうか。魔法の心得がある人間でさえ、ハーケンが欠かせないはずだ。しかし楔のようなものなど、崖の表面にひとつとて見当たらなかった。仮にレクターが、己独りで登攀に挑んだとしても、打ち込んだそれらを自主回収するのは不可能だろう。──つまり教授は、この上には行けない。いるとしたら、ここから後ろ。ギデオンたちは、どこかで彼を見落としてきたか、まったくの徒労に時間を費やしてしまってきたことになる。
落胆と苛立ちが湧く。横顔を苦々しく歪めずにいられないその脳裏を、いくつもの悲惨なデータがよぎっていく。──公認ギルド教会が、国内の各公認ギルドに定期的に送る季刊誌。そこには様々な統計資料が載っており、時に人命救助も担う冒険者には欠かせない。キングストンを発つ前にも、ヴィヴィアンと寝室でふたり、真剣に読み込んできたそれら曰く。遭難というのは基本、72時間以内に助けられるかどうかが肝要だ。その刻限を過ぎてしまうと、生きていられる確率ががくんと落ち込むからである。──そしてたとえば、冬の野山で雪庇を踏み抜くなどして、雪の中に埋まった場合。命のタイムリミットは、その72時間どころか、僅か20分弱にまで縮まる、というデータが出ている。そこから更に15分経てば、生存率はもはや4割以下。……今回の場合、レクターを見失ったという報告を受けてから、既に2時間が経過していた。もしも彼が、自分たちの見立てた捜索範囲からほど遠い地点での滑落なり生き埋めなりで、この厳しい寒さのなか、身動きが取れなくなっていたら。──捜索隊の呼びかけに応えないのは、既に……“応えられない状態“に、陥っているせいだとしたら。
……間違ってもそんなことにならないよう、護衛対象である教授自身にも、事前に口酸っぱく言い聞かせていたはずだ。絶対に俺たちから離れるな、と。それがいったい何故──と。そこでふと、あの大柄で陽気な男の、とめどなく溢れて止まらない知的好奇心を思い出した。目を大きく見開くなり、背後のヴィヴィアンを咄嗟に振り返る。「──教授は、何と言っていた?」緊迫した声で尋ねる意味が、相棒にもわかるだろうか。「村に残ってる建物や魔法について、編年学的におかしい、だからこそ面白い、って……大興奮だったって話だよな?」
──愚かにも、見落としていた。直前までレクターと共にいたのが、例の若い槍使いであること、それにとらわれ過ぎていた。彼はあくまで、本格的な学問に携わったことのない冒険者。ならば、レクターはきっと──自分と同じく魔導学院出身であるヴィヴィアンにこそ、より剥きだしの本心をぶちまけていたはずだ。己の飽くなき探究心、あれやこれやと枚挙にいとまがない仮説。そのなかに、レクターの行動を予測できるヒントが隠れている可能性がある。──彼はそこらの凡人とは違う、だからこそ、行動を読める希望がある。いよいよ降雪が増してきた中、やむを得ず切り上げてしまう前にと、相手に力強く問いかけ。)
──祠、禁足地、何でもいい。教授は何か言ってなかったか。『この村がこういうことなら、ここにはあれがあるかもしれない、逆にないかもしれない』なんて……推測を立てていなかったか。
そんな……そんな、大したものじゃないんですけど……採石場がみたい、って……
( ──集団移住、ですか? なにか確信を得たかのようなギデオンに、ビビの脳内を過ぎったのは、いつか大興奮でビビの問いかけに頷いていた、例の大声教授の満面の笑み。元は細い目元をこれでもかと見開き、ぶんぶんと嬉しそうに拳を振り上げたレクター曰く──この村がせいぜいひと冬で滅んだ筈無いと。それにしては、村に残る品々の年代がちぐはぐすぎる、ここの村民はもっと長い、長い時間をかけて。徐々に人口減少したか──もしくは計画的に、どこか違う場所に移住したんじゃないか。「もしそれにお目にかかれるならば、僕は今後の糧が全てそら豆になろうと構わ……やっぱり嫌ァ!」と、勝手にうるさい名物教授は、続けてこうも言っていた。それに、集団移住説だって分の悪い話じゃないはずだと。この村の道具たちは新旧さまざまではあるものの、皮革産業だけでなく、「高い石切りの技術を持つ人達だと思いますよ。それこそ必要に駆られて、居住区を変えるのは訳ないでしょうね」と──採石場跡でも見つけられれば、村に残る石の数と照らし合わせて、彼らが外に出たのか、大きな手がかりになるでしょうな。と、非常にワクワクしているところを申し訳なかったが、その日は既に日が沈みかけていたので、丁重にキャンプにお戻りいただいた次第である。それから、レクターの見張り……もとい、護衛班が交代となり、例の槍使いの所属する班が引き継いだ訳だが、成程。本日辿ったルートは確かに、高い高い崖に沿い、採石場を探すような動きに違いない。
──その会話をしたのは、他でもない自分だったはずなのに。ギデオンの鋭い指摘に目を見張り、キラキラとした尊敬をその瞳に滲ませれば。元々赤い頬をさらに元気に紅潮させたのも束の間。採石場を探して幾許も進まぬうちに、天上から降る白い氷の塊が、みるみるうちに大振りに、横殴りに吹き付け初め。最早これ以上はこちらが遭難する悪天候に、これまでか、と。誰もが思って口にしたくないそれを、一番責任感の強い者が口にしようとしたその寸前だった。雪でけぶった悪い視界に、ずっと右手に捉えてきた険しい岩肌、手前の大きな岩に遮られ、見づらくなった亀裂の奥に、何かゆらりと光ったかと思うと。「レクター様とご同行の方ですね?」「ようこそいらっしゃいました」と、この9日間で聞きなれぬ、どこか幼気な声が吹雪の向こうにりんと響いた。双子だろうか、揃いの皮革のコートを身にまとい、とてもよく似た面立ちの10代半ばと思われる男女は、「今晩はこの猛吹雪です、私たちの村にお越しください」と声を揃えると、人形のように穏やかな笑みを冒険者たちに差し向けるだろう。 )
(突然姿を見せたかと思えば、この吹雪のなか、ゆらりと穏やかに微笑む双子。その声も、見てくれも、まだ年若い子どものはずだが……異人を見つけての振る舞いは、完全に村の年寄りのそれだ。どこか歪なその雰囲気、常人に比べ浮世離れした口ぶりに。ギデオンは一瞬、何かぴりりとざわついて──いつかの豪雨の日を思い出して──無言でかれらを見つめずにいられなかったが。代わりに、隣にいるエデルミラが、「彼、無事なのね」と口を開いた。名前を知っているということはそうだろう、そちらの口ぶりからして酷い状態にはないらしい、と。横殴りの雪をものともせず、ギデオンと一瞬交わしたその視線からは、(今はレクターの保護を優先しましょう)という熟慮が見て取れる。それでギデオンも、この場は一旦、数歩下がっておくことにした。直接顔は見ないものの、ざくざくと雪を踏みしめながら、無意識にヴィヴィアンの傍へ。……相棒には、ギデオンがなんとなく慎重になってしまうのが、吹雪越しでもわかるだろうか。
エデルミラと双子の間で、いくらかやり取りが為された後、すぐに彼女が戻ってきた。やはり先方は、いなくなったと思われていた、この谷の住人らしい。崖の内部にトンネルがあり、そこを抜けた先の場所に、今の村を構えていて……レクターもそこにいるという。そこでエデルミラは、この捜索隊をふたつに分けると言いだした。リーダーである彼女と、ヒーラーのヴィヴィアンは必須。経験の長いギデオンのほかに、数人の中堅や、体力のある若手も欠かせない。そこにあの槍使いが、自分の引率下で起きてしまったことなので、と志願したため、彼も加わることになった。──以上、9名。それ以外の大勢は、アラドヴァルの大ベテランの指揮のもと、谷底の調査本部に帰還である。そこで待っているほかの仲間に、この状況を共有しに行ってもらう必要があるからだ。
帰還組が元来た道を戻るのを、一行は黙って見送った。といっても、彼らはすぐに、白い幕の向こうへと見えなくなってしまったが。ふと振り返れば、例の双子も、物言わずじっと眺めていた。しかしギデオンの視線に気づけば、またにこりと、今度はやけに歳相応に愛らしく見える笑顔を浮かべ。「それでは、ご案内いたします」と、いよいよ踵を返して、崖のほうへと歩きはじめた。)
(──トンネル内部は、きりりと冷え込んでいた。それに静かで、靴音がやけに響く。ランタンを掲げている先頭の双子は、迷いなく、だがゆっくりと進んでいくので、魔法使いの灯す杖明かりを元に、周囲に目を配る余裕があった。頭上に高く高く広がっているだけで、隧道自体は、狭く細い一本道だ。剥き出しの岩肌を見るに、掘削ではなく天然らしい。しかしなるほど、これはレクターの興味を引きそうだなと、傍を歩くヴィヴィアンとふたり、ちらりと視線を見交わす。あの好奇心旺盛な教授のことだ、何か可能性を見出したら、確かめずにいられなかったのだろう。ほんの少し覗くつもりが、奥の奥まで行ってしまったのだ。
やがて不意に出口が見えた。それと同時に、はっきりと違和感を覚えた。──気温が、違う。前方から流れこむ空気が、妙に寒さを欠いている。双子に続いて崖の外に出た一行は、そのわけをすぐに突きつけられ、思わず呆然と立ち尽くした。……トンネルは、それほど長くはなかった筈だ。だというのにこちら側では、あれほどの吹雪が止んでいた。それどころか、真っ黒な夜空が、酷く美しく晴れ渡っている。……満天の星と、やや細い半月。そしてはるか遠くの、真っ白な頂をたたえた雄大な三角の山が、くっきりと見て取れるほどだ。
双子の案内に連れられて、さらに進んだ一行は、また立ち止まることになった。崖沿いの斜面の上から、こちら側の谷底を見下ろすことができるのだが……そこには、冒険者たちの無意識の予想を覆す光景が広がっていたのだ。──暖かな明かりの灯る家々、そしてこの季節だというのに、緑豊かな畑の数々。それが谷底いっぱいに、当たり前のように広がっていた。せいぜい百やそこらとおもっていた村の人口は、どうやら以上あるらしい。……これが本当に、二百年も外界と隔たれてやって来た村なのだろうか。感嘆を隠せぬ冒険者たちに、先頭の双子が再び振り返り、にこりと穏やかに微笑んだ。「ようこそ、私たちの里へ」──それぞれ片手を広げ、迎え入れるような仕草を披露する──「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」。)
( エデルミラの呟きに、「レクター様はご無事です」「"非常に"精力的に過ごされておりますよ」と。その厳かな頷きの中に、不穏なそれだけでは無い、どこか遠い目をした含みを感じ取れば、この場の誰もが覚えのあるだろう疲労感に親近感さえ覚えて。その可愛らしい見た目も相まり、うっかり気を許しかけていたヴィヴィアンだったが。──200年前の大寒波、時を同じくして凶暴な魔獣が村を襲って以降、このトンネルの向こうに住まいを移したのだと。小さなランプひとつで進む道中、「最近はやっと村も落ち着きまして、また交易も再会出来ればなんて考えていたところだったんですよ」などと、気さくな様子で微笑む少年の一方で。先程までずっと先方を行っていたはずの相棒が、それとなくこちらへと近づいてくる動きに気がつけば。──……? 魔獣、落盤……それともこの子達に何か……? と、そのギデオン自身も明文化しきれていない真意こそ読み切れぬまでも、さりげなく"非力なヒーラー"がぐったり疲れた振りをして、その大きな影にもたれると、歩きやすさ優先で収納していた杖を腰に下げ直しておくだろう。
そうして開けた視界の先で、その鮮やかな緑と白い建物のコントラストに目を瞬かせていれば。「驚きましたかな、この街は火山の地熱を利用しているのですよ」と、草の地面を踏みしめながら近づいてきたのは、これまた立派な皮革を纏った男……とも、女とも取れない年寄りで。「「おじいさま!!」」と、それまでの大人らしい態度を一変させ、人懐こく飛びついていく双子を──こらこら、と優しく撫でながら、ゆっくりとこちらを見回した彼は──決して悪気は無いのだろうが、同年代でも男である相手の方を責任者と判断したか、ゆっくりとギデオンの方へと向き直り。「"むらおさ"のクルトと申します。ちょうど祭りの日に貴方達を迎えられて──」と、にこやかに挨拶を仕掛けた時だった。「なんて素晴らしいんだ!!!」と遠く離れた民家から、冬の夜の空気を揺らす最早聞きなれた大音声。その主であるいつの間にかこの村らしい装いを身につけた某学者が、まさにスキップせんという勢いで飛び出てきたかと思うと。ギデオンの後ろにヴィヴィアンを見つけたその途端、それはそれは嬉しそうな表情でこちらへと駆けて来ようとして──しかし。その「ビビ君! ビビ君! 聞いてくれ──……」と、その出処不明の勢いが段々と削がれて行ったのは、少なくともエデルミラ、若しくはギデオンも近い表情はしていたのだろうか。百戦錬磨の冒険者から放たれる鋭い怒気kあれられたらしい。一行の前に歩みでる頃には、どこぞの電気ネズミの如くシワシワに成り果てたレクターは、聞いたこともないような小さな声で、「ごめんなさい」と子供のように囁くと。それはそれは不安そうな表情で「……あの、僕が悪いんだ、彼は罰せられるのかな、」と申し訳なさそうに俯いて、胸の前で所在なさげに指をいじり始める様子は、誰が見てもごくごく健康と言って差し支えないだろう。 )
※些事なのですが、前回のロルに書いた「やや細い半月」は、「やや膨らんだ半月」と読み替えていただければ幸いです(時系列修正や世界観関連の意図によります)。
(ギデオンたち捜索隊が、必死に探し回っていたというのに。人騒がせな学者殿は、どうやら全くの無事だったらしい──現にご覧の恰好である。がくりと項垂れたギデオンが、それはそれはわかりやすく、疲れきった溜息を洩らせば。その意図をしっかり汲んでくれたのだろう、ずん、ずん、ずずん、と三人の強面戦士が進み出て。「おんどれなにしとったんじゃゴラァ!」「カタ悪いことしてんとちゃうぞゴラア!」「落とし前つけんかいィ!」等々、しおしお縮こまる大男を、雛を虐める海鳥宜しく取り囲みながら、大げさに怒鳴る有り様だ。傍目にはまあまあ手荒だが──例の槍使いなど、慌てて止めに入ろうとしていた──一応これはこれで、本人の無事を盛大に祝う冒険者なりの所作である。……ガス抜き? 何のことだろう。
とにかく、レクター本人にはそうして反省してもらう間。ギデオンとエデルミラは、改めて村長クルトに向き直り、再三の礼と挨拶を述べた。──我々は、国内中部の各ギルドから寄り集まった、有志の冒険者パーティーです。長らく調査の行われなかったこの地方の魔獣、植物、鉱石について調べるため……及び、風の噂で無事に暮らしていると聞いた谷の人々の近況を尋ねるため、遥かな山々を踏み越えてまいりました。あの男は、あなたがたのご無事を誰より祈っていた学者です。ご迷惑をおかけしたようで大変に申し訳ない、助けてくださってありがとうございました。手土産を持参しているのですが、そちらは現在、キャンプに残してきた仲間たちの手元にあります。ですので、此度のお礼と正式なご挨拶は、また後ほど改めて。その手前、非常に心苦しいのですが、今夜のところはこちらにひと晩泊めさせていただいても宜しいでしょうか。あちら側は酷い吹雪で、皆帰れそうにないのです。
「どうぞどうぞ、遠慮なくゆっくりしていってくだされ」と。クルトはやはり朗らかに、しかし依然としてギデオンのほうだけを見ながら、家々のほうを指し示してみせた。「村はこれから、6日間続く祭りを催すところなのですよ。第一夜はもう終わってしまいましたが……よそからお客様がお見えになったと知れ渡れば、明日から皆、貴方たちを歓迎しきりになることでしょう。お食事はお済みですかな? ああ、そうですか。よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……」
かくしてギデオンたち一行は、このヴァランガ峡谷の隠れ里──フィオラに泊まることになった。村の手前に空き家が二軒ほどあるらしく、そこに毛布や薪を運び込んでくれるようだ。先ほどの双子のほか、中年の村人たち数人と顔を合わせた。皆にこやかだったものの、明日からも控えている祝祭の準備で忙しいとのことで、挨拶もそこそこにすぐ引き上げていったのが、なんだか拍子抜けである。しかし元より冒険者たちも、数日続いた緊張状態の野営の末に、吹雪のなかでのレクター捜しと来て、流石に疲れ果てていた。今宵はゆっくり休むべきだろう……ちなみに、余談ながら。既に村人と親しくなったレクターに限っては、先ほどの民家から既に招かれていたらしく、申し訳なさそうに冒険者たちと別れていた。しかしそれを威勢良い声で送り出してやったのは、先ほどのいかついトリオである。無事さえわかれば別に良いのだ。
──ヴィヴィアンとエデルミラの女性陣だけで泊まれるような建物は、特に手配されなかった。しかし流石に、いきなり押しかけてしまった身で贅沢を言うわけにはいくまい。彼女らの許可を得て、アマルツィアの弓使いとギデオンのふたりが、用心も兼ねて相部屋を受け持った。……このとき、エデルミラとは少しだけ、今後の懸念を話し合おうと思っていたところなのだが。顔色があまり良くないのでそっと尋ねてみたところ、どうやら月の障りが突然きてしまったらしい。「レクターを見つけたら、なんか……ほっとしちゃったみたいで……」……今回のクエストは長いから、ちゃんと薬も飲んでたのに、と。責任感からか、こんな時にという苛立ちからか、あるいは純粋に余程体調がすぐれないのか。酷く顔を歪める彼女を、休ませないわけがない。ヴィヴィアンに事情を打ち明け、男にはどうしようもない手助けを彼女に託し。ギデオンたちもまた、ふたりには悪いようだが、梁に布をかけただけの仕切りの向こうで、すぐ寝入ることにした。もっとも、ほんの少しでも物音がすれば、すぐにすうっと目を覚まし。傍に置いている魔剣の柄に手を寄せながら、じっと耳を澄ましてみたが……今夜のところは杞憂のようで。──フィオラでの最初の夜は、何事もなく更けていった。)
(さて、翌朝。冒険者たちが朝食のご相伴にあずかろうとしていたところで、昨夜キャンプ地に帰還した、或いは残してきた仲間たちが、トンネルを通ってこちら側に合流した。これで総勢数十名ものよそ者たちが、谷あいの小さな村にいきなり溢れたわけである。
しかしそれでも、フィオラ村の人々は温かく歓待してくれた。私たちの里にようこそ──心からお待ちしておりました! その純真できらきらとしたまなざし、谷の外から来た人間に興味津々な様子ときたら、元々浮かれやすい冒険者たちを擽るのもわけないことだ。特に若い連中ほど、あっという間に村人たちと打ち解けたようで、「ぼうけんしゃ?」「ほんもののぼうけんしゃ!?」と、子どもたちに群がられていた。レクターなどは言わずもがな、あの陽気なお喋りが朝っぱらから止まりそうにない。その勢いにはフィオラ村の人々さえ若干引き気味であったものの……自分たちの何てことのない話から、谷の周辺の植生などを正確に言い当てるのを見て、酷く興味をそそられたようだ。子どもよりも大人のほうが、レクターによく聞き入っていた。
仲間たちとフィオラの人々が活発に親しみ合うのを見て、エデルミラやアラドヴァルのベテランと共に、暫くこの村に滞在したいと打診した。村人たちの許可を得て、きちんと労働を手伝いながら、ここらのことを聞きだせれば。その方が余程効率よく、ヴァランガ一帯の調査を進めていけるに違いない。村長クルトも、ふたつ返事でそれを了承してくれた。村のおなごたちも喜ぶでしょう──こんなに面構えの良い男たちがやってきて、浮つかぬわけがありますまい。
そんなわけで、まずは手始めに、村人との交流である。仲間たちがすっかり元気に動きだした後、逆に深めの二度寝に及んでいたギデオンは、遅れて参加しようとして……しかしいきなり面食らった。若い冒険者の連中ときたら、見てくれは皆いかつい大男であるくせに、花冠なんぞ乗っけていたのだ。どうしたんだと尋ねてみたら、どうもこの村には年中咲く花畑があるようで、そこの花を摘んだ子どもたちや村娘が、プレゼントにとくれたらしい。「カレトヴルッフのお堅いの! あんたもひとつ被っちゃどうです?」──朗らかなそのお誘いを、しかし丁重にお断りして、まずは相棒の姿を探す。相手は今ごろどうしているだろう。人好きされやすい彼女のことだ……あいつらと同じように、フィオラ村の子どもらに懐かれているところだろうか。)
( ──はなをなふみそ、はなをなふみそ、あかきもちづきたくよさり──
フィオラ村の中心地から少し離れた丘の上。下の村からは見えないが、少し高くなったこちらからはよく村を見渡せる花畑に、村の子供たちの歌声が無邪気に響いている。高い高い冬の空に、不似合いなほどの鮮やかな緑、色とりどりの花々の間でくるくるとはしゃぎまわる子供たちの着物が真っ白に太陽を反射して。時刻はちょうど昼下がり、真上に上った太陽に影らしい影が鳴りを潜める光景にその名を呼べば、自身もまた真っ白なローブを纏った娘がギデオンを振り返るだろう。──それは、ギデオンとエデルミラを休ませて、自分も村民との交流を図るべく、夜の祝祭に向けた準備の輪に加わろうとした時のこと。「思わぬルールがあることもある」と、現代人の不用意なふるまいに対するレクターの忠言を思い出して、己が触れていい物を確認しようとするビビに、しかし村民の男たちの様子は好ましいとは言い難かった。決して悪意を自覚しているわけではない、しかしお手伝いをしたがる子供に向けるような、仕方なさそうな生ぬるい視線。年若いとはいえ、立派な成人であるヴィヴィアンに対して、有益な何かができるとは一切信じていない。その癖、彼女の持つ容姿に好感を隠さぬ不可解な──否。これが少なくともエデルミラら上の世代の女達なら、ごくごく見慣れたそれだということを、個人主義である現代の魔法使い社会で育ったビビが慣れていないだけなのだが──兎も角、うっすらと不快な対応に困惑し立ち尽くすビビの腕を引いたのは、彼らもまた忙しい“大人”とは切り離された存在である、皆よく似通って愛らしい村の“子供”たちだった。その無邪気に振舞うことを義務付けられた存在たちは、大人たちの気の引き方をよくよく心得ているようで。ビビの手を引き美しい花畑の存在を教えてくれると、器用に編み出した花冠を腕にかけて、先程ビビ達を冷たく振り払った大人たちの頭にかけていく。そうすると、先程まであれほど冷たかった大人は皆一様に仕方なさそうに微笑んで、皆一様に微笑ましがる。そうして子供たちはまた次々と冠を増産し始め、いつの間にかビビのように年若い女性たちも花輪作りに加わり始めていた。せっせと冠を作ろうさぼろうと咎められない、なんの責任感もない空間は大人になってまだ浅いビビにはよく覚えのあるそれで。この村における若い女の立ち位置に気が付き始めたヴィヴィアンの不安に、そのよく聞きなれた低い呼び声はとても落ち着くものだった。
ギデオンを一目見て柔らかい笑みを浮かべるビビの頭上で、大ぶりな花輪がふわりと揺れる。ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、それまでビビの膝を占拠していた少女に飛びつかれ、「危ないよ」と苦笑しながら膝をつけば。閉鎖的なコミュニティ故だろうか、ビビに限らぬ互いもよくよくくっつき合ってじゃれ廻っている距離感の近しい子供たちにもみくちゃにされ、仕方なく自ら腕を伸ばして相棒を近寄らせれば。今後の相談をしようとするビビの肩越しに、噂の“冒険者”に興味津々といった子供たちの青い目がキラキラとギデオンを貫くだろう。 )
おはようございます、ギデオンさん。
もう少し休まれてなくて大丈夫ですか?
ああ、もうすっかり大丈夫だ。
(相棒の手に引かれるがまま、彼女の横にしゃがみ込み。話をするよりまず先に、村の子どもたちにごく軽く笑みを向ける。挨拶代わりのつもりだったが──しかしかれらときたら、はわあと大きく息をのんだかと思えば、ヴィヴィアンの肩や背中にますますしがみつくばかり。未だ肩越しにぴょこぴょこと覗いてくるものもいるが、ギデオンと目が合えばはっとしたように固まって、はにかみながら隠れてしまう。ヴィヴィアンにはこのもちもちした団子っぷりだというのに、どうやらギデオン相手には、気軽に懐いてくれないようだ。
苦笑しながらすっかり腰を下ろしたところで、そのきらきらしたまなざしが、どれもギデオンの腰元に注がれるのに気がつけば。鞘に収めた魔剣を見下ろし、次いで再びかれらを見上げ。実にそれっぽく片眉を上げながら──「悪いな。大事な仕事の道具だから、気軽に触らせてはやれないんだ」なんて、如何にも気障ったらしい台詞を。すぐ隣の、ギデオンの上辺も素も知り尽くした相棒には、果たしてどう映っただろう。ともあれ子どもたち相手には、無事に“かっこいい冒険者”を演じることができたらしく。「ほんものだ……!」と興奮したひそひそ声で囁きあい、何かうんうん頷き合ったかと思えば。ぱっとヴィヴィアンから身を離し、今度は野兎よろしく、花畑のなかへ元気いっぱいに駆けだしていった。「あったあ!」と、遠くですぐに掲げたそれは、如何にも手頃な長さの木の枝。おそらく皆で“冒険者ごっこ”でもおっ始めるつもりだろう。王都でも地方でも、おそらくこの国ならどこでも見られるわんぱくな景色──健やかで良いことだ。
さて。大人には分の悪い純真無垢なギャラリーは、こうしてあらかた追い払えただろう。遠くできゃっきゃと上がる笑い声を浴びながら、隣の相手をようやく振り向いたギデオンの表情は、故に酷く満足気なもので。「……流石にあいつらの前で、こんな風にするわけにはいかないからな」なんて、口元を緩めながら、片手を緩く相手に伸ばし。栗毛のいただく花冠を、戯れに優しくいじっては──ほんの一瞬、子どもたちの目を盗んで、薄い唇を重ね合わせる。本当はもっと……先ほどギデオンを振り返る彼女を目にしたあの瞬間、とても言葉では言い表せない感情が湧いたあの瞬間から、もっと深くしてやりたくてたまらない気分だったが。うっかり夢中になったらまずい状況には変わりないし……第一今は、残念なことに、一応仕事中である。それゆえ、名残惜しそうに顔も身体も引き離し。それでも共犯ならではの、悪戯っぽい微笑みを浮かべ。)
──……本当に、よく似合ってる。
ここの花は不思議だな……まるで、ここだけ春みたいだ。
まあ! んっ、ふふ……ええ、ずっと見ていられるくらい……
( きゃははははっ! と楽しそうに駆け出していく子供たちに手を振り、自らもまたギデオンの方へと振り返れば。果たしてそのうっとりとした眼差しは花畑に向けられたものだか、愛しい恋人に向けられているのだかどうだか。つい先程子供たちに向けられた清廉な笑顔と、今自分に向けられている悪戯なそれとのギャップに、満点のファンサービスをもらった子供たちへ、内心ほんのりと嫉妬していたことさえ忘れてしまって。「これね、私が作ったんです」とおもむろに頭上へと手を伸ばすと、その陰に隠れてもう一度。そっと柔らかな唇を触れてそのまま、キラキラと太陽を反射する美しい金色に戴せてやる。そうして吹いた暖かな風に栗色の毛を靡かせ、ゆっくりと草の上に腰を下ろせば。向こうの子供たちは全員分の獲物を手に入れて、いよいよ遊戯にも熱が入ってきた頃合らしい。きゃっきゃと響く聞きなれた宣誓のまじないに、フィオラにも伝わっていたのかと微かに目元を見開けば、視界の端にその小さな青い星型の花が映った途端、何気なく身体が動いていた。ぷつりと茎を摘み取って、自分の指に巻いて輪っかを作ると、むいむいと相手の分厚い左手を我が物顔で引き寄せる。それからその青いリングを薬指にかけようとして、しかし、娘の指に合わせたリングが太い関節に引っかかってしまえば。寸前までにこにこと満足気な笑みを浮かべていた娘のふくれっ面と言ったら。わぁん、とギデオンを前にして気の抜けた声を上げ、もう一度同じ花を探して腰を上げれば。ギデオン越しに見つけたそれに、相手の隣に手をついてぐっと大きく手を伸ばして。 )
だめ、だめ、まって、作り直しますから!
(──ああ、そういえば。子どもの頃の……十かそこらの頃の俺も、他の見習い仲間と一緒に、あんな風に長い長い宣誓式をしたっけな。しかしフィオラの子どもたちは、谷の外を知らぬだろうに、よくあんなのを知ってたもんだ……と。ふわふわした花冠を何ら抵抗なく被ったまま、意識を遠くに飛ばしていたギデオンは、しかしふと、自分の片手が構われているのに気がついた。
なんだ? とそちらを見てみれば、隣に座っているヴィヴィアンが、どうやら花の指輪を嵌めさせようとしているようではないか。しかし見守っているうちに、実ににこにこと楽し気だった娘の顔は、目算を誤ったと気づいたのだろう、三つ四つの幼女のように、わかりやすくふてくされて。それだけでも内心可笑しかったというのに──あどけない嘆きの声まで、素直にあげられてしまうのだ。もうこらえきれるわけがなかろう。
くっくっ……と、喉仏と肩を小刻みに震わせながら、相手の意識が新しい花に向かったのを良いことに、第二関節で引っかかった指輪をいじろうと試みる。上手く緩めれば、きっとこのまま使えるに違いないのだ。しかしそこに、だめ、まって! と。最初こそ声だけで制止していた恋人が、慌てたように振り返って飛びついてくるものだから。「こら、なんでだ──」「別にいいだろ──」と、ギデオンもギデオンで、奪われそうになる左手を遠くに逃がし。ぱっぱっ、ぱっと、戯れの攻防に興じる。この花冠も指輪も、四十の男にがとても似合わぬ可愛らしさだ──本来の自分なら絶対好んでつけやしない。それでもどちらも、ヴィヴィアンがくれたものだから途端に気に入るのではないか。相手の細い手首を奪い、そこから届かぬ遠い先に左手を掲げてみせれば。これ見よがしに指輪を見せて、「これはもう俺のものだろ、」と。上手く嵌まらなかろうが、既にこれを気に入っていて、取り替えたくはないのだと主張を。その念押しを欠かさぬよう、「……いいだろう?」ともう一度、相手に顔を寄せ……今度は鼻先を触れ合わせて甘える。真冬にしては暖かい太陽の下、自分の下にいるヴィヴィアンの顔は青みがかった陰になって、まるで自分がそのなかに囚えたような錯覚さえおぼえる。途端に攻防のことなど忘れ、小花を絡めた左手までゆるやかに戻してくると。骨ばった両掌で、相手の栗毛を包み込むように撫でながら……そのまろい額、つんと高い鼻頭、綺麗な丘を描く瞼に、宥めを込めた唇を触れ。)
──……まだ数日は、ここで真面目に仕事をする必要があるんだ。
慰めに……秘密で持たせてくれ。
……だったら余計に、もっと完璧なのを持ってて欲しかったの!
( いい大人がふたり取っ組み合いの攻防戦の末、硬い膝の上に肘をつき、そうまん丸に膨れて見せたところで、楽しげな男は聞こえているのかいないのか。いよいよ此方を本気で宥めにかかってきた相手に、心底嬉しそうな可愛らしい様に免じて、渋々誤魔化されてやることにすれば。先程から可愛らしい声が紡いでいた宣誓は、第二節と第三節がこんがらがって、いつまでも抜け出せないループに陥ったらしい。「ねえもうきいたー」「うるさい、わすれちゃうじゃんか!」とあちらもじゃれつき始めた気配に、くすりと小さく口元を抑えて、乱れた髪をしゅるりと解けば。どちらが先に戯れ始めたかなど、都合の悪いことはさっさと忘れたらしい。──ギデオンさんがそう来るなら、私も甘えていいよね、とばかりに。上半身をぐうと伸ばして、相手の膝の上をぽかぽかと占拠すると。居心地良いように脚を広げさせ、逞しい腕の檻の中から、キラキラと輝く大きな瞳でギデオンを見上げる。そうして、「ねえ、私もギデオンさんに選んで欲しい」と唇を尖らせると。胸元に手を当てながら、欲深く笑って見せて。 )
……一輪じゃいやよ、指輪はもう持ってるから、冠にして?
俺が編むのか? 俺が?
……しょうがないな……
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
(当然ながら、花冠だなんて可愛らしい代物なんぞ、少年時代に一度とて作ったことのないギデオンだ。そんな人間のお手製で本当に構わないのか、知らないぞ? なんて問う声は、しかしさほど本気でもなかった。たった今伝えたように、自分自身、ヴィヴィアンの作ったものなら何でも喜んでしまえるからだ。──ついでに言えば、髪を解いたときのあのふわりとした香りに、ギデオンはてきめんに弱い。わかってやっているのだとしたら、相手はとんでもない策士である。
故にやれやれと、呆れるふりをして受け入れてみせれば。膝の間で堂々甘えきるヴィヴィアンの髪を、大きな左手で撫で下ろしてやりながら、右手は自分の花冠を取り外し、目の前であちらこちらに傾け。まずはあらゆる角度から、その構造を注意深く観察する。こういうところに、生来の生真面目さと職人肌が思わず出てしまうのだろう。やがてああ、なるほどな、と片眉を上げれば。(少し持っていてくれ)というように、一旦冠を相手に預け。周囲の草花に目を走らせ、手頃なのを見つけるなり、少しだけ腕を伸ばして、ひとつひとつ摘み取っていく。──作業に集中してはいるが。どうやら、腕のなかにいる相手のことは、片時も離すつもりがないらしい。
そうして材料をある程度揃えれば、少し腰を浮かせて、ゆったりと座り直し。相手を軽く手で押して、自分の胸板にすっかりもたれかかるようにする。無論これは、自分の手元の作業がよく見えるよう協力してもらうだけのこと──別に決して、それにかこつけて相手を堪能する意図はないのだ。だからあくまでも、作業だけは真剣に。まずは土台にする若いトクサを柔らかくほぐし、相手の小さな頭に合わせた円形を形づくる。そうしてお次に、葉っぱの大きさが大きく異なる二種類の下草を、グランドカバー代わりに編み込み。その上から、大小も色も様々な愛らしい花を、しっかり結びこんでいく。その指先に迷いはない──ただ、繊細な作業なので、どうしても時間がかかる。故に、ある程度作業が軌道に乗ったところで。「そういや、」と、これまでののどかな沈黙を、こちらの方から緩やかに破り。)
ここに来る前に、他の連中を見てきたが……皆上手くやってるようだ。クラウ・ソラスの連中は村の男と狩りに行ったらしい。レクターは次々に何か発見しているようでな……報告書が楽しみだ。
おまえのほうでも、子どもたちから何か聞けたか。この辺りの気候だとか……魔獣関連の話だとか。
( しゅるり、しゅるり、と髪に触れる手が心地よくて、そっと花の香りに目を伏せる。花冠なんぞしたことないぞ、と言いながら。甘くビビのおねだりに応えてくれるギデオンに、こうして甘え切ってしまったのは、我ながら自分の常識が伝わらない村に疲れていたのだろう。きゃっきゃと上がる歓声に、時折子供たちのことを見守りながらも、束の間の休息を戯れていたその時。──そうだ、何を弱気になっているのか、と。背後からかかった穏やかな声に、他の冒険者達とは違い、ただ子供たちと遊んでいただけにも見えるヴィヴィアンもまた、情報収集していたに違いないと信じてくれているギデオンに、少し弱気になっていた頭を小さく上げれば。長い脚の間で座りなおして、できうる限りの報告を。 )
魔獣のことは……確かに出るには出るらしいんですが、あの子達には危険だから外に出るなとしか。“英雄”が守ってくれる……みたいなことも言ってましたが、こっちは大人に聞いた方がいいでしょうね。
──でも、気候についてはバッチリですよ! ……なんて、むらおささんの仰っていた通りで、火山の地熱を利用しているんですが、古代魔法をそのまま守り続けているみたいです。
一度解除してしまうと、かけ直しができないので──……ねえ、君たち、本当はあんまり魔核の場所とか知らない人に話しちゃ駄目よ。悪い人もいるんだから。
( そう最後に語り掛けたのは、大の男が自分たちと同じ遊びをしているのが物珍しかったのか、いつの間に二人の周りに戻ってきていた子供たちだ。年中枯れない花畑を調べていたビビの気を引きたかったのか、先程、その仕組みをようようと語ってくれたお調子者と。その隣で「ナイショなのよ」と、村の魔術師が定期的に通う場所まで教えてくれた妹の方は、ビビの膝の上を奪い合い。彼女も彼女で純粋に、年少組の暴露に慌てふためき、「ああっ、ダメダメ! ……忘れてね、ビビ?」とダメ押ししてくれた姉の方は、熟練の職人の顔をして、今やギデオンの手つきにアドバイスをくれている。(どうやらすっかり仲間認定されたらしい)ギデオンとビビがこの村のことを調べに来たということを知れば、未だ冒険者見習いにもなれないような小さな子達だ、あまり要領を得ない点は多々あれど、必死に村での生活のことを教えてくれ。少しずつ日が傾き始めた時分、村を見下ろせるこの丘からだからこそ見えたのだろう。この遅い時間から、村から対角線上にのびる獣道に上っていく村民を見かけて、何があるのかと問いかけたヴィヴィアンに、「あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……」と、教えてくれようとした瞬間だった。下の村から、そろそろ帰って来なさいと声をかけてきたのは姉妹の母親らしい。ビビと同年代か、ひょっとするともっと年若く見える妊婦は、ギデオンに遊んでくれていたことへのお礼を告げると。「本日は広場で御馳走が出ますので、冒険者様たちも宜しければどうぞ」と小さく微笑むだろう。 )
──わあ、それは皆さん喜ばれますね。エデルミラさんも呼んでこなくちゃ。
(少し元気のなかったように思える相棒が、そのいずまいを緩やかに正し、情報共有を始めれば。手を止めたギデオンもまた、真剣に耳を傾け、ひとつひとつをしっかりと頭に刻み込んでいく。たったそれだけの、思えばなんてことないやりとり。けれどもこれは、ふたりが相棒になって以来、幾度となくやってきでいることでもある。故に、ただこうしてなぞるだけでも、互いへの信頼を実感し合う儀式になるのだ──そして毎度のクエスト中、それがどれほどよすがになるか。
彼女は案の定、様々な情報を手に入れてくれていた。村を魔獣から守る“英雄”に……この里ならではの、周辺の吹雪さえ寄せつけない特殊な気候を生み出している、地熱を利用した古代魔法。その魔核の眠っている場所と、管理しに行く魔術師の存在。この丘を登ってくる前、村人たちと交流している他の冒険者の報告も受けたが、そのどれにも、こんな話は含まれていなかった。理由は単純──大人たちは、利害という社会的な都合から、微笑みをもって口を噤む。しかし純真な子どもたちは、全くその限りではないという……ただそれだけのことだ。大人たちが侮って、ヴィヴィアンとともに追いやってしまった存在は、しかしその幼さでは到底信じられぬほど、案外物事をよく見ている。ヴィヴィアンもそれをわかった上で、かれらとの関係を築き上げてくれたのだろう。
ギデオンがヴィヴィアンと戯れ、花遊びにまで興じたのは、これに乗じるためでもあった。フィオラ村のあの独特な雰囲気は、丘の下でも既に見ている。子守と炊事洗濯以外は一切許されぬ女たちに、おそらく中年女性であるからという理由で、まるでいないものかのように扱われているエデルミラ。そんなことが許される環境で育ってきた子どもたちからすれば、若い女性と当たり前話し、親しみ、あまつさえ花遊びに加わりさえするギデオンは、非常に特異な“大人の男”に映ったに違いない。その狙いは案の定大成功で、最初こそ遠巻きになっていた少女たちも、今は楽しそうにギデオンに喋り倒している。
それをよくよく聞き込んでいれば、あっという間に夕暮れ時だ。皆を呼びに来た若い妊婦は、ギデオンたちと挨拶すると、自分の娘たちと手を繋ぎ、ゆっくりと丘を下りはじめた。その背中をじっと見てから、どちらからともなく、ヴィヴィアンと視線を交わす。──これは、調査仕事の範疇じゃないが。このフィオラ村は、やたら妊婦が多いというのは、地味に気になるところだった。おそらくこのフィオラ村で、あのくらいの若い女性は、皆が皆、妊婦であるか、出産したばかりである。田舎はどこも、都市部より遥かに出生率が高いものといったって……あれは流石に異常な数だ。しかしその割に、村全体の人口はそれほどでもないと思えた。村に来る前の予想に比べれば遥かに多かったものの、それでも二百には届かない。──そういえば、あまり老人を見ない。“むらおさ”をはじめとしたごく少数を見かけるのみで、人口の比率に合わない。かれらはどこにいるのだろう? ……)
……ご馳走に御呼ばれする前に、一度あいつとゆっくり話そう。
どんなことでも、できるだけ……共有しておいた方がいい。
(──そうして。相棒に耳打ちしたその通りに、小屋で休みつつ記録をとっているエデルミラの元へ行き。今日の収穫を共有すると、こちらも面白い話を聞けた。──彼女に先に報告しに来て、今はまた外に出ているという、我らのレクター博士曰く。フィオラ村の人々の独特な訛りには、西の大国・ガリニアの影響が直接的にあるそうだ。レクターが話すような、トランフォード国内の地方訛りのそれではない……発音だけでなく、語彙の端々に、大陸西側ならではのものがはっきり残っているという。もしかしたら、あの国に祖を持つ民族なのかもしれない──無論、トランフォード人は遡れば皆そうだが、それにしたってフィオラはどうも、独自のルーツがあるようだ、と。あの教授ったら、また身振り手振り大興奮で、ほんとに大変だったのよ……と苦笑するエデルミラは、どうやら祝祭を欠席するつもりらしかった。ごめんね、体調がまだ良くなくて……どのみちリーダー役は、アラドヴァルのあの人が代役をしてくれているし。ううん、夕飯のことは手配してるから気にしないで。あなたたちも今日はお疲れさま、ゆっくり楽しんできて頂戴。)
(──そんなわけで、あとはすっかり頭を切り替え、フィオラ村の祝祭の第二夜にご招待である。その主催地は、村の中央にある芝生の広場。どこまでも広い緑一色のフィールドを、大小の松明が明々と照らしだし。真っ白な布をかけられたテーブルは、どれも六角形に組まれて……その上には所狭しと、色とりどりのあらゆる馳走が並んでいた。真冬のこの時季だというのに、数十人の冒険者を参加させてくれるのは、随分な太っ腹だと恐縮に思ったが。「この村は、古代魔法のおかげで年中食べ物がありますのよ。だからどうか、ご遠慮なさらないで」と珍しく話しかけてきたのは、黒いフードを被っている、妙齢の美しい女だ。真っ赤な唇を蛭のように蠢かせ、ヴィヴィアンの目を盗むようにして、女はギデオンの手を取った。「出し物もいたしますの。この村に二百年伝わる英雄譚と、それに……」と。そこでギデオンが、さりげなく手を振り払い、ヴィヴィアンに呼びかけて場を辞したにもかかわらず。女はその、長い睫毛に縁どられた目で、ギデオンの項辺りに、そのじりじりとした熱い視線をいつまでも投げかけていた。
──そんな一幕はあったものの。祝祭全体は至って平和に、ごく明るく始まった。冒険者も併せて二百近い人々が、皆一堂に会し、祝杯を挙げたわけである。村の女たちの半数は給仕に忙しくしていたが、流石に客であるヴィヴィアンは、卓に座っていて良いらしい。王都組、ということで隣り合うことのできたふたりは、純粋に食事を楽しみ、周囲の冒険者仲間たちとあれこれ楽しく盛り上がった。──この肉、おそらくヘイズルーンだ。──ヘイズルーン? ──山から山へ渡り歩く、とてつもなく巨きい図体をしたヤギ型の魔獣だよ。あらゆる毒草を食べることができるらしい。──でも、あいつらたしか、並の魔獣じゃ狩れないくらいに強いはずだ。村の人らは、どうやってあれを倒したんだろう? ──そいじゃあ、ちょっと訊いてみようか……
満天の星空の下、宴もたけなわになってくると、酒が入った人々は、村人も冒険者も関係なく寛ぎはじめた。これからは広場の各地で催し物があるらしく、めいめい好きなところに遊びに行く流れらしい。ギデオンも最初こそ、この祭りの雰囲気に乗じて、他所の冒険者たちや村人たちと交流するのに気を割いていたが。──会が自由になったらなったで、また例の、よそから来た若い女性であるヴィヴィアンを避けるような雰囲気が、ちらほらと窺え始めた。そこで、アラドヴァルの代理リーダーにひとこと断りを入れ(もっとも、寧ろ勧められたが)。相棒であるギデオンが、彼女の傍に堂々とつくことにした。職権乱用? 公私混同? なんのことだかさっぱりである。
悲しいかな、男が傍につきさえすれば、フィオラ村の人々も、ヴィヴィアンへの接し方を多少改めるようだ。そのことに顔を顰めつつ、郷に入ったら郷に従え、なんて言葉もあるし、俺たちはいきなりやって来たよそ者の立場だからな……と。「家に帰ったら、ふたりで存分にゆっくりしよう」と、そっと優しく囁いておく。さて、こうして心置きなく、更けていく夜を一緒に過ごすことになったが。この後まもなく、広場の中央にある六角形のステージで、この村ならではの歴史劇が始まるという話らしい(……そういえば、この村はどうも、村のあちこちに六角形があしらわているようだ。家々の形ですらそうだった)。どんな劇なのかと尋ねても、村人たちは皆微笑んで、観てからのお楽しみだよ、と──そう言われては仕方がない。周囲に出されたベンチを見渡し、後方の左隅、程良く中木に隠された空席を見つけると、相棒をそこに連れていき。ふたり並んで腰かけて、ゆったりと椅子の背にもたれれば、なんだか覚えのある状況に、可笑しそうに片眉を上げて。)
……なんだか、いつかを思い出すな。ケバブでもあれば完璧なんだが。
ギデオンさんったら、さっきまで食べてたのに……ケバブは家に帰ったら作ってあげますから、今はハムで我慢してください。
──それとも、なにか賭けますか?
今回も私が勝ちますけど、ッ…………。
( 相変わらず隙のない様子で人をエスコートし、ゆったりと屋外の舞台を観察したかと思えば、次の瞬間。無駄に様になる表情で囁く内容がそれなのだから、思わず吹き出さずにはいられなかった。当時であれば、その整った容姿に誤魔化されていたろう雑談も、ギデオンが素でぼやいていることを知っていれば、今や食べ盛りの相棒がひたすら愛しいだけで。この半年ちょっとで、ねだれば何かしらの食べ物が出てくるようになったポケットから、お手製の燻製ハムを取り出し差し出しかければ。その可愛らしい意地悪の間合いは、明らかに目の前の相手からうつされたそれだ。ニマリと笑ってハムを引っ込め、態とらしくすました表情を浮かべかけたビビの顔にしかし、ぴく、と小さな苦痛が走る。二の腕の柔らかいところを拗られたような小さな、けれど確かな鈍い痛み。──2人の関係も知らずして、生意気な小娘に灸を据えてでもやったつもりだろうか。誰かの蛮行を隣の者も見えただろうに、低い背もたれから振り返ったところで、しらーっと視線を逸らす村民達に──余所者は自分たちの方だ、と。大したことじゃない、自分が我慢すればことが済むと、もし相棒に問いかけられたところで「なんでもない、大丈夫です」と首を振ったのが全て悪夢の始まりだった。
とはいえ、それ以外の雰囲気は和やかなままその劇は始まった。自然の帳を利用して、時折主人公らにあたる魔法の光は、ビビ達が知る一般魔法体系と同じ単純な構造のそれだ。内容も特にこのトランフォードでは珍しくない、昔この村で起こったという英雄による魔獣の討伐譚。討伐される獣が元々村の嫌われ者だったという点については少しグロテスクなものも感じたが、英雄が"良い獣"になって戦ったという話については、神話時代まで遡ればよくある話。成程、英雄が"良い獣"になるための薬が花ならば、この村が花を大切に育てる由来も分かると言うもので。舞台の幕が降りると、最前列で目を輝かせていたレクターが、早速隣の村長の1人を質問攻めにし始めている。他の村民達はのんびりとその場で談笑する者、祝祭の食事に戻る者、そのめいめい穏やかに過ごす雰囲気からは、この催しがそこまで格式高くない、素朴な物なのだと感じ取れるだろう。さて、そんな村民達とは違って、あくまで仕事中であるビビ達はこれからどうしようか。折角ならその美しい花もぜひ見てみたいところだが──と、劇前の囁かな事件などすっかり忘れて周囲を見渡し、ギデオンの腕を引いた娘がぴたりと固まったのは、その視界の先に先程宴に誘ってくれた女性を見つけたからだ。隣にいるのは夫だろうか、先程の娘たちとよく似た金髪の──中年、否。既に初老に近い男が女の腰を抱くと、当然のようにその顔を長く、激しく引き寄せたのを目の当たりにすれば。ギデオンの方へとぱっと逸らした顔は、恥ずかしそうに赤らみ、形の良い眉を困ったように八の字に歪めていて。 )
──っ、あ、うう~っ……この村の人達って、距離感が……ごめんなさい、慣れなくって……
(相手に促されるままそちらを見たギデオンも、一瞬言葉を失った。しかしその原因は、人目を憚らぬ派手な接吻でも、老人と若い娘という怪訝な組み合わせでもない(……あれほど離れてはいないにせよ、己とて、ヴィヴィアンとの歳の差を思えばとやかく言えない立場だろう)。それよりも──自分の記憶違いでなければ。今朝がた、あそこにいる初老の男は……一緒にいる妊婦のことを、三番目の“孫娘”だと紹介していたはずなのだ。
『もうすぐ曾孫が生まれる予定なんだ。それが楽しみで仕方なくてね』と。確かにあのふたりは、目元がとてもよく似ている、と感じたのを覚えている。そのはずの……間違いなく血が繋がっているはずの、祖父と孫が。あんな、まるで……盛りのついたけだもののように。今さら人の営みにそう驚かないギデオンでも、あれは流石に、なんだか異様だと思わずにはいられなかった。常識や風習というものは、ところによってさまざまで、よそから来た人間がそう簡単に否定していいものではない。それでもなんだか。見てはいけないものを見てしまったような、落ちつかない気分に陥ってしまう。
周囲はどうなんだ、と見渡してみても。篝火に照らされた村人たちのなかに、かれらの様子を見咎める者は見当たらない。やはり……どうやら……この村では、当たり前の光景のらしい。それどころか、まるで欲情を移されでもしたかのように、ひと組、またひと組と。妙な戯れに勤しみはじめる男女の姿が、そこここに見えはじめた。そのすべては知らないが、やはり何組かは、実の兄妹や母子のはずだ。客席にいたほとんどがこれでは……開演前の相棒に何かを働いた犯人を、それとなく探ることなどできようか。
仕方なく、ため息をひとつ。相手の肩を軽く抱き、この場からの離脱を促す。レクター博士には今度こそあのしっかりした助手がついているから、今夜のところは大丈夫だろう……そう願いたいところだ。)
……あれは、誰でも驚くさ。
とはいえ、どうにも気まずいな。……あっちへ戻ることにしよう。
(──しかし、その道すがらもまた。よくよく見れば、この村はどこか、ほかの片田舎にあるそれとはわけが違っているらしい、と突きつけられることになった。観光客など取り入れることのない、閉ざされた里だろうに……寧ろ、それだからこそなのか。宴の後に出はじめたあちこちの簡素な露店に、当然の如く並んでいるのだ。──露骨に男のそれを模した彫り物や、男女の営みを表紙に描いたそれ用の指南書、そういった品々が。
こういった不埒な小物は、別にキングストンでも見かけないわけではない。謝肉祭の時期になると、西部の花街のいかがわしいエリアなら、当たり前のように売っている。だがそれですら、一応はちゃんと、風営法に則ったゾーニングを施しているはずだ。青年のギデオンが女を連れて冷やかしに行くことはできても、子どもはそもそも、検問所を通れないようになっている、それは倫理上当たり前のことである。──それが、このフィオラではどうか。今は祝祭の期間だから、と遅起きしている子どもたちにも、そのいかがわしい出店はあっさりと曝け出されていた。それどころか、時折大人が呼び寄せて、指南書を開いて見せてすらいるようだ。都会で暮らす冒険者には、これはなかなか衝撃で。「……なあ」とヴィヴィアンに囁いたのは、おそらく彼女も同じような気分だろうと、そう思ってのことだった。)
……今夜はもう遅い。宴の片づけは、アルマツィアの連中が引き受けることになってるし……俺たちも、これ以上ここに用はないだろう。エデルミラのところに行って、調査書を手伝わないか。ここにいるのは、なんというか……わかるだろ。
……、……ッ!!
( いよいよ乱れ始めた会場を後にして、ほっと息を付けたのも束の間。通りに転び出た二人の視界に飛び込んできたのは、これまた不道徳で信じがたい光景の連続で。労働力としての子宝が、貧しい農村で都市部よりずっと有難がられることは知っている。その結果、直視しがたい“それら”に素朴な信仰が集まることがあるのも──知識としては、持ち得ている。しかし、目の当たりにした衝撃に、思わずギデオンの腕に縋りつけば。こんな通りで密着する男女に向けられる視線は生ぬるく。首都育ちのヴィヴィアンにとって、耳を疑うような声掛けの数々に、じゅわりと緩む涙腺と、優しい恋人の辛抱の甲斐あって、最近は随分なりを潜めていた潔癖がゾワゾワと立ち上がる感覚に。ちょうど相手も気まずそうな相棒の囁きへ、一も二もなくコクコクと勢いよく頷けば。ようやく昨晩の空き家に戻ったところで、エデルミラの姿が見えなかろうと、“少し出てくる”という書置きまで見つければ、再度あの村民達の中を探しに戻る気力など枯れ果てていた。 )
( ──ギシリ、と。乾いた床を踏む音が、暗い天井に微かに響く。慣れない光景の連続に、ぐったりと深い眠りについていたビビがその気配に気が付いたのは、既にその気配へ部屋の侵入を許してしまった後の事だった。あれからギデオンと別れて寝台に潜り、どれ程の時間がたっただろうか。身体の具合からして、日付はとうに変わっているように思えるが、視線を窓の外へと移したところで、未だ黒い宵闇が周囲を満たすだけで窺い知れず。一瞬、エデルミラが帰ってきたのだろうかと甘い希望が思考をよぎるも、それにしては気配の潜め方があまりにお粗末過ぎる。ならば──物取り、だろうか。それにしたって素人同然の身のこなしに、少しの油断もあっただろうか。……ギシリ……ギシリ、と静かに、しかしゆっくりと此方へ近づいてくる気配に、此方は無音で魔杖へと手を伸ばし、此方の荷物へと手を伸ばした途端に、現行犯でひっ捕らえてやるつもりでいたというのに。──……あ、いけない、駄目だ。あろうことか、その人影は、貴重な魔法薬を広げたテーブルを無視したかと思うと、一直線に此方へと向かって来るのだった。
──それからのことは一瞬だった。否、男は尚もゆっくりとビビの横たわるベッドへ忍び寄って来ようとしたのだが、ビビの思考がその目的に気が付いた途端、全てを放棄してフリーズしたのだ。そのうち大きく濡れた眼球に肥え太った月が反射して、男はビビが起きて、自分に視線を向けていることに気付いたらしい。それでも静かに身じろぎもせず、声も上げない娘をどう解釈したのやら。最早足音さえ潜めずに寝台に乗り上げると、「こんばんは、良い夜ですね」と、穏やかな挨拶が余計にビビを混乱させる。月明りに照らされた姿も、美しい金髪に甘くまとまった顔立ちと、言葉を選ばなければ──こんなことをせずとも、異性には困らなそうな容姿をしてはいるのだが、そんなことは問題外で。──こわい、いやだ……逃げなければ、声を出さねばと思うのに。ゆっくりと腹に体重をかけられ、此方を見下ろしてくる大きな影に身体が震えて、はっはっと呼吸さえもがままならず。そんなビビに眉を上げ、「おや、少し寒いでしょうか」と、頬へ触れてくる掌にさえ怖気が走り、はくはくと喉が強張り声も出せない。「大丈夫、すぐに暖まりますから」と胸元へ入れられた手にやっと微かに身を捩って、ひどく震えて掠れ切ったその声も、すぐ近くに肉薄した男にも届かなかったそのように、ぼろりと零れた涙と共に寝具に吸い込まれて掻き消えるはずで。 )
──……ひっ、たすけて……ギデオンさ、
(──ヴィヴィアンの、か細く助けを求める声から……遡ること、数時間前。
「おやすみ」と、彼女の額に軽く唇を触れ、しばらく傍に寄り添ってから、ギデオンはそこを離れた。なかなか戻らぬエデルミラを、探しに行こうと思ったのだ。否、彼女は一度だけ、確かにこの家に帰ってきた。しかしながら、ギデオンとヴィヴィアンにろくに声をかけぬまま、荷物から何かをごそごそ取り出して、すぐにまた出かけて行ってしまったのである。妙にこわばった、あまり余裕のなさそうなあの横顔……。一体何事だろう、と調査書を作りながら相棒と話し合ったが、夜がどんなに更けていっても、彼女は一向に戻ってこないままだった。広場のどこかで仲間と合流しているだけならいい。だが念のため、確かめに行くに越したことはないかもしれない。そう思っていたギデオンの顔を的確に読んでか、「私も様子を見に行きますよ」と、相手が申し出てくれたものの。普段は生き生きと元気なはずの彼女の顔には、しかし拭い去れない疲労が、ぐったりと滲んでいた。──無理もない話だ。相棒はこの十日間、パーティー内の唯一のヒーラーという立場で、仲間の健康管理にただでさえ気を張り続けていた。その矢先に、この村の正面切っては行われない排斥や、あの異様な様子に思い切り中てられる経験……。ヴィヴィアンは酸いも甘いもある程度噛み分けられる大人の女性に違いないが、それでも本質的には、稀有なほど清純である。そんな彼女に──はっきり言ってどこか濁っているこの村の水は、当然合わないはずだろう。故にギデオンは、相手をそっと押しとどめた。「探すだけなら、俺でもできる。ついでにほかにもいろいろ、若い連中や、レクターの様子も確かめておきたいんだ。ここは俺に任せて、おまえは先に休んでおくといい。特にここ数日は、あまり眠り足りていないだろう……?」
──そうして、ほっとした彼女が寝入るのを、しばらくかけて見届けた今。ギデオンはひとり、夜のフィオラ村を淡々と歩いている。中央のほうの家々のあちこちからは、生々しいほどの喘ぎ声がもはやはっきりと聞こえていた。ヴィヴィアンを残してきたのは、やはり正解だったということだ。あちこちに目を走らせるうちに、アラドヴァルのベテラン戦士や、アルマツィアの斧使いを見つけた。互いに歩み寄り、情報共有を開始する。若い連中の所在は、すべて確認済みらしい。何人か……否、十何人もが……ふらふらと村娘の誘いに乗りかけたものの。斧使いがすかさずわざと仕事を振り、本分を思い出させてくれたそうだ。「いやさァ、普通の村なら多少目を瞑るんだが」──古傷のある顔を、ギデオンに向けて顰める──「なんだかよ、ここじゃァよ、そいじゃァ危ねえ気がしてよ」。
それを鼻で嗤ったのは、アラドヴァルのベテラン剣士だった。出向先の女をひとりふたり抱くくらい、別に取り立てて咎められることでもなかろうに。今の時代は、随分とお行儀良くなったもんだなあ? と、異論ありげである。……この十日間、所属ギルドの異なるベテラン組は、それでもそれなりに上手くやってきたつもりだが。なるほど、個々人の感覚の違いから、やはりどうしても一枚岩になれぬ部分もあるようだ。斧使いと顔を見合わせ、「孕ませたら事だからな。若いと暴発しがちだろ」と、あくまでも軽く受け流す。──それより、エデルミラを見てないか? ──エデルミラ? あの女、晩餐にも顔を出さなかったくせに、どこかほっつき歩いてんのか。──……用事がある様子だったんだ。とにかく、おまえたちは見てないんだな。──ああ、いや、あそこじゃねえか。ほら、あの教会みてえなとこ……。
斧使いの視線を辿ると、なるほど、村じゅうにある六角形の建物のなかでも、少し大きな……ステンドグラスが嵌められている建物に、彼女が入っていくところだった。……何故何も、ギデオンたちに共有していないまま、行動を起こしているのだろう。ベテラン仲間たちに軽く手を掲げて別れを示し、「あとはレクターのことだけ頼む」と言い残してから、ギデオンもそこへ向かった。月明かりの下、間近に見上げるその三階建ての建物は、どこかよそ者を受け付けない雰囲気を窺わせる。どうしてここに、村人とあまり交流できていない筈の彼女が、すんなり入っていけたのだろう。少し状況を訝しみながら……ギデオンも扉を押し開け、中へ静かに踏み込んだ。)
(──建物のなかは、異様だった。数歩先はすぐ壁で、左手の方にずっと、細い通路が続いているのだ。どうやら、中央に向かって螺旋状に渦巻いていく造りらしい。そしてその壁には、大小さまざまなタペストリーが、美術品のように飾られていて……これがどうにも、不気味なのだ。冒険者ゆえ暗順応が早いギデオンは、慎重に歩みを進めながら、その刺繍絵をひとつひとつ確かめた。──花を植えている人々の姿、これらはまだ平和でいい。目がぐるぐるとしているところが個人的には薄気味悪いが。しかし、その先に……蛮族か何かがが押し寄せてきて、一斉に虐殺が起こり、人々が逃げ惑った……とでもいうような、凄惨な光景が突如として現れる。そしてその先、嘆き悲しむ顔をした人々が、一輪の花を抱えながら、巨大な骸骨の背中を踏み越えていく様子。途中で落伍者も出た様子からして……これはもしや、数百年前の国全体の史実である、カダヴェル山脈踏破だろうか。やがてその先、ごく普通の……それでも、依然として目がぐるぐるした不気味な人々が、少しずつ暮らしを営んでいく様子の先に。──唐突に。若い女を山中の井戸に閉じ込め、やがてやせ衰えた彼女を引き上げて皮を?ぐ、不気味な男の刺繍が出てきた。どうやらその女の皮で服を縫い、それを纏って喜ぶような、異常な人間であるようだ。惨劇を知った村人たちが嘆き怒る様子、男が追放される様子。だが人々のところにはすぐ、空飛ぶ黒い骸骨のような、不気味な姿の怪物が、吹雪を連れて戻ってきた。再び凄惨な血まみれの光景、噛み砕かれていく老若男女。──だが、そこに。唐突に、花と、蜂と、そして魔獣が、ロウェバ教の聖三位一体宜しく、如何にも神聖そうに登場した。清い光の筋に追いやられる骸骨の怪物。人々が魔獣を崇め、タペストリーは再び、花でいっぱいの平和で美しいものに戻る。しかしやはり人々の目は、ぐるぐると不穏なままだ。それに……至極当たり前のように、男女が性交する様子も、執拗に縫い込まれていた。……なんだか……まるで……今のこの村、そのものじゃなかろうか。このタペストリー群は、もしかせずとも、フィオラ村の歴史を記している品物のだろうか。──そういえば。数時間前、ヴィヴィアンと観たあの舞台劇は。魔獣に成り果てた村いちばんの嫌われ者が、同じく魔獣となった英雄に、討伐される話だった……。
「──面白いでしょう?」しっとりとしたその声は、ギデオンが思わず硬直するほど傍から聴こえた。振り返らずともぞわぞわとわかる、あの蛭のような唇をしたフィオラ村の女が、ギデオンのすぐそばに立っていた。「先祖代々伝わる、大切な刺繍ですの。私たちフィオラの者は、自分たちの物語を編むのが好き。歴史を紡いでいくのが好き……。あなたがた冒険者の武勇伝も、是非知りたいわ。私たちがちゃんと編んで、取り込んで、素晴らしく伝えていくから……」。女の指が、ギデオンの脇腹を撫で、つうと下に降りていく。しなだれかかる疎ましい体温、耳元に湿った吐息。「──……もう。冒険者の皆さまったら、お堅いのね。若い娘たちがとっても期待してたのに、皆引っ込んでしまって……とっても可哀想だったわ。今夜は祝祭の第二夜……“愛の夜”なのよ。こうして出会えた喜びを、溶かし合うはずの夜でしょう? だれもが皆、明日のために、ややこを作るべきでしょう? ──女は、そのための鉢植えなのよ」。
──瞬間。考えるより先に、ギデオンは女を突き飛ばした。転ぶ彼女を微塵も構わず、元来た迷路の道を、数々のぐるぐる目に不気味にみられる通路を、一目散に駆ける、駆ける。建物の外に飛び出てすぐ、ぎょっと振り返るさっきのベテラン仲間たちにも目を繰れずに、まっすぐに駆け戻ったのは……泊まっていた。あの村の端の家。頼む、無事でいてくれ。まさか──何にも巻き込まれてくれるな。)
(ギデオンのその恐れは、しかし扉を開け放てば、現実になろうとしていた。村の男に跨られて動けないヴィヴィアン、そのか細いか細い悲鳴。──ゴッ、と鈍い音がして、彼女から引き剥がされた男が、部屋の端に吹っ飛ばされる。それに構わず、固まっているヴィヴィアンを寝台から抱き起し、「俺だ!」「俺だヴィヴィアン、大丈夫か、無事か!」と、守るように抱きしめる。答えを得たかったわけじゃない──未遂ではあったようだが、それでも無事なわけがない。だが今はもう、これ以上脅かされることはないのだと、己の腕で伝えるつもりが……ギデオン自身もまた、怒りでぶるぶると震えていた。ゆっくり振り返った先、殴り飛ばした村の男は、鼻の頭が折れたのだろう、血を噴きながら「うう」「ううう」と呻いている。……顔全体を陥没させなかっただけ、これでも理性を利かせたほうだ、聞き苦しい文句の声を垂れ流さないでもらいたい。荒い息を吐きながらそうして睨みつけていると、アラドヴァルのベテランと、アルマツィアの斧使い、そしてあのフィオラの女が、息を切らして駆けつけた。冒険者側のふたりは、酷くショックを受けた顔だ。「何があった?」と問う声に、ギデオンは低い声で返した。──俺の相棒に、危害を働いた。それ以上に、わけを説明する必要があるか。……)
(──遠くで、口論の声が聞こえる。アルマツィアの斧使いとアラドヴァルのベテラン剣士、それに駆け付けたほか数名が、この村を離れるかどうかで延々と揉めているのだ。そこに村人たちもやってきて、村人に暴行を働いたギデオンを咎めているような様子だが、そもそもヴィヴィアンに何をしようとしていたのか、と冒険者側の怒りを買い、ますます話がややこしくなった。今ではむらおさのクルトも出てきて、どうにか事態を収束させようとしているらしい。……だが今更、もはや知ったことではない。仲間たちにははっきりと、俺はもうヴィヴィアンの傍を離れない、異論はないな、と、有無を言わさず伝えてある。彼女との個人的な関係はエデルミラ以外の連中にも薄々知られていたものの、これはもう、私情がどうとか、仕事の場だからと弁えるとか、そういう次元ではなくなっているのだ。……そもそも、同じ目に遭ったのが例えばアリアだとしても、決して許してはいけないことである。それが相棒かつ恋人のヴィヴィアンなら、ますますもって許せない、それだけの話なのだ。
──?燭の明かりをつけた、仄暗い部屋の隅。寝台の上に乗り上げ、ヴィヴィアンを抱きしめながら、宥めるように髪を撫でる。外の喧騒が少しでも聞こえてくれば、周囲の毛布を包み込むようにかけ直し……労わりを込めてまた撫でる。これで少しは、あの忌まわしい連中から気分を遠ざけてやれるだろうか。周囲を思い遣る彼女のことだ、自分のせいでクエストがこんなことになってしまった、と自責してしまうかもしれない。その必要はないのだと、きちんと伝えてやるために……旋毛に唇を寄せながら、そっと小声で呟いて。)
……遅くなって、すまなかった。
俺はもう、ここにいる。おまえの傍に、ちゃんといる……明日からも、ずっとそうだ。
……ごめ、ごめんなさい……め、なさい……
( ギデオンが懸念したその通り。やっとひどい緊張状態から抜け出したヴィヴィアンが最初に発したのは、酷く痛々しい自責の念だった。優しい腕と暖かな毛布に、何重に覆い隠して貰って尚、未だ外界から響いてくる男たちの言い争う声に、ぎゅうっと固く身体を縮こませると──もっとうまくできたはず。こんなに大ごとにする必要はなかった、私が我慢できていれば、と。レクターがこれ以上なく楽しみにしていたであろう、そうでなくとも、複数のギルドが関わる大事なクエストを、己が台無しにしてしまった申し訳なさに、心が押しつぶされていき。瞳を閉じれば、今も脳裏によぎる男の影に身体が震えているにも関わらず。深く傷つけられてしまった自尊心が、ギデオンさんを煩わせてはいけないと。分厚い胸板にうずめられた頭を、くしゅ……と小さく横に振らせて。 )
ありがとう、ございます……でも、ギデオンさんは調査に戻ってください。
( いつかシャバネで見せたそれと変わらぬ、己の不調を覆い隠さんとする強情な笑顔。真っ青な顔色、真っ白な唇、もうそれらをギデオンが見逃してくれないことは分かっていても、その中心でギラギラと輝くエメラルドは、自ら己の存在価値を失わせまいとする強迫じみたヒーラーの矜持で。押し倒されるほど肉薄したからこそ感じ取れた、微かな発汗に瞳孔の開き。性的興奮故と片付けるには、些か慢性的に感じ取られたそれに、その手の薬物の存在を懸念できねば──今この場で、己の存在価値はない。そう本気で信じ込む真剣な目の色、情けない震えを押し殺した低い声。このまま抱きしめられていれば負けてしまう。甘い言葉に縋りつきたくなってしまう。強くて、公正で、もっと多くの人を救える“人”を、私一人が独占して良いわけがない。それは意志なんて上等なものじゃない、ぶるぶると震える腕で身体を支えようとする風体が、強いトラウマに晒されたストレスから目を逸らさんとしていることは誰が見ても明白で。 )
……ああそうだ、もし、この村に蛇涎香が蔓延しているとしたら、トランフォードの法律で取り締まることになるんでしょうか?
……これからについては、そうだ。
ただ……あれの取締条約ができたのは、せいぜい100年前やそこらだろ。ここはたしか、200年も外との出入りがなかった、なんて話だから……調査の後に、まずは布告や啓蒙から始めることなるだろうな。
(壊れそうな声で明後日の問いを投げかけてくる、明らかに様子のおかしい相棒を前に。しかしギデオンは、すぐにはその異常を照らしだそうとはしなかった。その代わりに選んだのは、いつもどおりの、低く穏やかな、落ちついた声を落とすこと。──カレトヴルッフのギルドロビー、受注クエストの滞在先、或いはサリーチェの我が家の寝室……そういった場所で、彼女と議論するときの己になってみせることだ。
相棒が今、酷いショック状態に晒されていることは、本人以上に理解しているつもりだった。だからこそ、この痛々しい現実逃避を、一度はすんなり受け入れる。彼女がこの抱擁を少し解きたいと、今はあくまで職業人として振る舞いたいというのであれば、そうさせよう。両腕を大人しく緩め、相手が体を起こせるだけの僅かな距離を空けて、気丈なプライドがそのまま立ち上がれるようにしよう。法や保安の話に目を向けたいというのであれば、喜んでそれに付き合おう。──けれども決して、今寄り添うこと、それ自体まで諦めて譲るつもりはなかった。その証拠に、ギデオンの片手は今も、未だ震えている彼女の後頭部、そのほどかれている柔らかな栗毛を、そっと優しく撫でている。それは宥めるというよりも、習慣めいた手つき。自分が撫でたいから撫でるのだと言わんばかりの、ある意味我儘なそれである。そうやって、こちらがのんびり甘えているような雰囲気さえ醸し出しながら……“あなたは調査に戻って”などという痛々しい願いだけは、さりげなく押し流しておく。──そして、それに、気づかれてしまわぬよう。いつもの彼女がふと持ち出した話題を、いつもの流れに持ち込むそぶりで、やや遠くにまで広げていく。幸か不幸か、こういった方面の知識は、無駄によく蓄えてあるのだ。)
……だが、なあ、そういえば。法を直接知らなくても、介入時点で有罪になった例があったよな。
前にふたりで、ヴァイスミュラーの本を読んだろう? ほら……濁り酒を造ってた村が、調査しに来た税務官と揉めごとになって……あれは、何が適用されたんだったか。告訴不可分の原則か、それとも……
(……別段、こんな風に曖昧に言わずとも。ヴィヴィアンとこれまで楽しく交わしてきた数多の議論、その詳細を、ギデオンはどれも鮮明に記憶している。まさか、忘れるわけがない。──それでも今は、敢えてそれを押し隠す。もう喉まで出かかっているのに、なのに上手く思い出せない……そんな、如何にも自信のない顔で。まるで答えを強請るかのように、ヴィヴィアンの蒼白な顔に、ごく無邪気に問いかけるような面差しを向ける真似を。)
あれは確か、最初は税務官への公務執行妨害で抑留したんですよ。
ただ後の調査でメタノールが検出されて過失致傷に……、…………。
( ビビの頓珍漢もいいところな、なんの脈絡もない発言を、しかしギデオンは真摯に受け止め、咎めることなく返してくれる。あまりの出来事に動揺しているのだと、守り慈しむべきだけの悲鳴として、封殺することも出来ただろうに。──己の声は届いている、聞こえなくなんかない。 この村で過ごした短期間で分からなくなっていた。そんな至極当然のことを、思い出させてくれるギデオンの、ともすれば、あまりにも色気に欠ける返答に心底安心して、今にも泣き出しそうに表情を崩せば。優しい掌に小さく頭を擦りつけ、ゆっくりと顔を上げかけたその瞬間。疲れきって尚、気丈に振舞っていた娘が、ぴたと静かに固まったのは、ギデオンが口にさせてくれたその返答の意味に、少し遅れて気が付き始めたそのためで。──昔からの習慣である濁酒製造が罪に問われると知らずとも、結果的に人を害せば罪になる。それなら今、この状況はどうだろう。彼らにとってこの晩が、誰彼構わず混じり合うのが当然のことだったとして、巻き込まれた己が今、こんなに苦しい思いをしているのは。しっかり拒絶出来なかった自分が悪い、余所者である私が我慢しなければ、そう凝り固まっていた思考が溶けだして初めて。今夜の事件だけでなく、今まであった尊厳が揺らぐような経験の数々に、ようやく自分が深く傷ついていたことに気が付いて、突然にその痛み、恐怖に真っ向から対面することになってしまえば。急に仕事の話をしてみたり、そうかと思えば酷く脅えて泣き出したりと、支離滅裂としか思えない有様をもはや気にする余裕など全くなく。それでも許してくれるに違いない、信頼して止まぬ相棒に、ひいひいと情けない嗚咽を漏らし、顔を真っ赤にしてボロボロと泣き崩れ始めれば、早く──早く抱きしめて、とばかりに、自ら離した腕を広げて強請り。)
私、怒って、いいんですか……? 私は悪く、ない……?
……、ああ、もちろん。
(しゃくりあげながらの問いを聞き取り、気遣わしげに相手を見遣る。普段の明るく溌溂とした彼女からはほど遠い、見るだに痛ましい泣き顔、砕け散りそうな涙声。しかし、それでもヴィヴィアンが、その細腕をおずおずと広げるならば。……震えながらも、咽びながらも、気丈な構えを自らほどき、こちらを求めてくれるのならば。
僅かに見開いた双眸を、ふ、と和らげ。──大きく抱き寄せ、包み込む。ぎゅうぎゅうと強く、優しく絞めつけるのは、ギデオンなりの表現だ……まだぐらついていい、すぐに落ちつけなくていい。俺がこうして、外側から支えてやるから、と。)
……ヴィヴィアン、おまえは悪くない。何ひとつ悪くない。
だから、怒るのも、悲しむのも、ごく当たり前のことなんだ。
絶対さ……俺が保証するとも。
(──惨いことだ、と切に思う。暴行された、という事実だけで充分辛い仕打ちだろうに……自分の尊厳を傷つけられた、それに対する怒りというのは、決してただでは抱けない。深い悲しみ、身を切るような屈辱、こんな目に遭わなければならなかった理不尽へのやるせなさ。そういったものの上に、震えながら立って初めて……自分を傷つけた経験や相手に、ようやっと立ち向かえるのだ。その心細さと言ったら。
ヴィヴィアンがこうして竦んでしまうのも、無理からぬ話だろう。聡明な彼女は、真理に辿りつくまでが早く……それに気持ちが追いつかないのも、その隔たりに狼狽えるのも、当然の現象である。──だが、そういったときのために、こうして近しくなったのだ。「役に立たせてくれ」と、冗談めかして囁きながら、愛しい栗毛をひと房すくい、そっと唇を押し当てる。それで少しは宥めてやれただろうか、或いはいつかの晩のように、場所が違うと云われただろうか。いずれにせよ、穏やかなまなざしを相手に向けていたかと思えば。その濡れた頬に軽く手を添えた流れで、小さな顎を促すように上向かせ。──冬の夜気に冷えた唇を、ごく軽く触れ合わせる。二度、三度……四度、或いはそれ以上。ようやく口先で戯れるのをやめた頃には、もう外の喧騒など、ほとんど耳に入らない。ギデオンの全てを向けるのは、ただただ目の前のヴィヴィアンひとり。こつんと額を合わせれば、そっと相手に尋ねてみせて。)
…………。
気分は、どうだ……少し、落ちついたか。
( ──あたたかい、いたくない、こわくない。肺の空気が抜けるほど長く、力強い抱擁に瞳を伏せると。まるで、身体の震えを力づくで止めるかの如く抱きすくめられ、このうっすらとした酸欠が、自分を襲った男のこと、仲間のこと、依頼のこと、村のこと、レクターのこと……考えても今更どうしようも出来ない、しかし考えずにはいられない散らかった思考を諌めて、暖かな腕の中、強ばっていた身体を素直に厚い胸へと甘えさせてくれる。他でもないギデオンが一言、泣いても良いのだ、傷ついても良いのだと認めてくれたそれだけで、これまでずっと直視するのを避け続けてきた心の傷がすっと軽くなり。泣いて、泣いて、その溢れる涙も枯れ果てた頃。明日をも気にせず泣きじゃくったヴィヴィアンの顔は、あちこち真っ赤に腫れ上がり、まったく見られたものじゃないだろうに。弱っている娘を負担に思うどころか、濡れた頤をなぞるギデオンの瞳が、心底愛おしいものを見るように、優しく細められるものだから。 )
……こんなにされたら、落ち着けない
( そう耳元や首筋など、涙で擦っていない場所まで赤く染め上げると、恥ずかしそうに未だ甘い感触の残る唇へと触れると。ぎゅっと再度腕をまわして、「落ち着いたって言っても、今晩は……明日も、ずっと一緒にいてくれるんですよね」 と。──先程の声は聞こえていたと、ちゃんと届きましたと伝えるように。心底安心しきった様子で、小さくはにかむ表情からは、今晩植え付けられた恐怖は薄れ、疲れきったエメラルドには眠気が滲んでいた。しかし、そうしてしばしの微睡みに落ちていったかと思えば、息も荒く飛び起きて。その度に、声もなく啜り泣きながらギデオンに縋り付き、再度浅い眠りにつくこと複数回。質の悪い睡眠に顔色を悪くしたヴィヴィアンの眠りを──ギシリ、と再び妨げたのは、扉の方から響いた人の気配だ。いつの間にか夜が明けていたらしく。とはいえ、ビビが消さないでと強請った燭台の他、堅牢な雨戸から差し込む光の角度から見るに、時刻は未だ早朝と言い表して構わない時分。そんな非常識な時間の訪問者に、浮腫んだ顔をギデオンと見合わせれば。しかし、必要よりそれ以上に警戒心を表さなかったのは、その気配からは、昨晩の男のように己のそれを消そうという意図が見られずに。どちらかと言えば、此方へと声をかけようかどうか迷っているような、扉の前でうろうろと、優柔不断な往復を繰り返しているだけに感じられるそのためで。結局、こちらから動かねば変わりそうもない状況に──……流石に、ビビは未だ扉を開ける勇気はなかったが。結果的に、内側からその扉が開け放たれれば、その向こうにいたのは浅黒い肌をした黒髪の少年。後ろ手に花束を抱えているらしい彼は、自分の倍も背丈のありそうなギデオンを見るなり、逃げようかどうしようかと言った様子で赤い花弁を見え隠れさせると。意を決したように息を飲み、「あの、俺、お見舞いに……姉ちゃんが"病気"だって聞いて……!!」と、どうやらフィオラ村は昨晩の事件をそう片付けたらしい。「姉ちゃん昨日妹たちと遊んでくれてたろ……」ともじもじ俯く少年は、素直にその話を信じたのだろう。「本当はいけないんだけど、"花"を見たら元気になるだろ……?」と気丈に言い募ると、その中心の"がく"まで赤い花をぷるぷると差し出して来て。 )
(──フィオラ村での第二夜は、浅く断続的だった。ヴィヴィアンが悪夢に囚われて飛び起るたび、隣にいるギデオンもまた、つられて自然と目を覚ます。しかし、苦に思うことなどなかった。まっすぐこちらを頼る彼女に、己の体温を貸し与える……それは、ギデオン自身が何より望んだことだからだ。
少しのあいだ宥めれば、ヴィヴィアンはまた、ほんの少しだけ安心したような様子を見せる。そうして、目元を濡らしたまま、再びしばらくの眠りに落ちる。そんな姿が、酷く痛ましくも愛おしく。彼女が寝息を立てはじめてからも、そのまろい額に唇を触れたまま、しばらく背中をとん、とん……と、幼子にするようにあやしてやった。そして時には、薄闇のなかで青い瞳を光らせたまま、ギデオン自身は寝つかないことも多かった。少し考えたかったのだ……この、異様な村に来てからのことを。
フィオラ村は、およそ200年ものあいだ、陸の孤島だった場所だ。当然、王都暮らしをしているギデオンたちにしてみれば、大きな隔たりはあるだろう。大昔の田舎の村の感覚のまま、若い娘に夜這いをするような風習が、残らないでもないのだろう。──だが、それにしては妙だ。生活実態が釣り合っていない。全てが自給自足であるなら、あんなに多くのタペストリーや、夜市での春画本、それにあれだけの料理など、こさえる余力があるだろうか。記録にあるフィオラ村は、狩猟をなりわいにしていたはずだが……農耕、石工、紡績、養蜂と、多岐に亘る産業が随分豊かであることを確認している。だが、大して人口のない村で、いったいどうやって技術を肥やしてきたというのだ? これではまるで、他の田舎の村とそう変わらぬどころか、それより豊かではないか。
そしてその割に、あの時代遅れな感覚だ。生活は富んでいるくせに、倫理観だけは孤島のそれそのままで、外部の影響が流れ込んだ様子がない。ギデオンが殴り飛ばしたあの男は、むらおさクルトに治療されながら、何度も声高に言い募っていた。──「“愛の夜”のはずだろう!」と。祝祭の第二夜は、成人した男女が皆豊かに交わる夜。なのにそれを阻むとは、あの男は正気なのかと、ギデオンに対し、怒りだけでなく……本気の当惑を顕わにしていた。……ギデオンはエデルミラを捜す間、ヴィヴィアンの眠っている家に、防衛魔法をかけていたが。それを強引にこじ開けたのに(彼はこの村の魔核を管理する魔術師のひとりだったらしい)、罪の意識などないらしい。それどころか、あれすらもまた、「なんであんなことをした!?」と、寧ろこちらを咎める始末だ。
クルトとあの蛭女だけは、男の言い分に反応を見せなかったものの。寄り集まっていた他の村人たちは、彼に全くの同感だったようだ。幾つか囁き声が聞こえた──ほら、やっぱり。“御加護”がないよそ者は、“愛”を忘れてしまうんだわ。皆で分かち合うことをしない、なんて冷たい業突く張り。きっと“病気”が進んでいるのよ……。
どうやらフィオラにおいては、食べ物も、男女の肉体も、“分かち合う”のが至上らしい。よそ者の冒険者たちに気持ちよく晩餐を振る舞ってやったように、冒険者たちが“持っている”若い女の体もまた、村に還元されるべきと考えているようである。そしてその考えにないもの、あろうことか反発する者は、真っ向から異常者扱いされる。──しかしなあ、悪いが、俺たちの故郷じゃそれが常識になってるんだ、と。あの斧使いがどうにかとりなしてくれたおかげで、あの場はどうにか治まった。ヴィヴィアンを襲った男と、彼に暴力を振るったギデオン、どちらの罪も手打ちにする、そういう方向にするらしい。
そう取り決められたところで、エデルミラがやっと帰ってきた。見るからにおかしな様子だ、やけに目を見開いて、息も激しく荒げている。すわ何事か、まさかおまえまで──と、周囲の冒険者が尋ねるも。彼女はただ周囲を見るばかりで、何ごとも答えない。かと思えば、不意にクルトをまっすぐ見つめて、「聞きたいことがあるの、」と言いだした。何か別件の、気がかりなことがあるのだが、それはクルトに個人的に確かめたいのだそうだ。──ここでもまた、強烈な違和感が働いた。大型ギルド・デュランダルの女剣士エデルミラは、仮にも総隊長である。複数のギルドの冒険者たちを束ねる、責任ある立場に抜擢された才媛であり……いくらこの村ではそう看做されないからと言って、職務放棄をするような人物ではないはずなのだ。しかし、明らかに言い争いがあったとわかるこの異様な現場に飛び込んで尚、彼女にはそれが見えていないようだった。今は背後の家で休ませているため、この場に本人がいないのもあるが、ヴィヴィアンのことを思いだすそぶりすらない。エデルミラもまた、この村に来てから、だんだんおかしくなっている……その場にいる冒険者たちは、誰もがそう感じていた。
しかしギデオン自身は、今はその件に取り合わないことにした。隊のなかでは自分もベテランの部類であり、責任を受け持つ立場にある。しかし今夜ばかりは、それよりも優先すべきものがあるのだ。──王都から出向したヒーラーがクエスト先で被害に遭って、今後の活動に支障をきたす恐れがある。ならばそれをフォローするのは、彼女の相棒であり、仕事上は上官ともなる、ギデオンの役目だった。私情だけの判断というわけでもない……それを、あの斧使いも汲んでくれたのだろう。目配せをすると、さりげなくも力強く頷いてくれた。今は俺たちがこっちをやる。おまえはそっちを、嬢ちゃんを頼むぜ。俺たちを治してくれるヒーラーが弱っちまったら──パーティーは、全滅もんだ。)
(──そうして、それから数刻後。ヴィヴィアンを宥めながら浅く眠っていたギデオンは、しかしふと覚醒した。今回は、すぐそばの彼女が悪夢に魘されたせいではない。この気配は、部屋の外からするものだ。
軽く身じろぎして隣を見ると、夜明けの薄明りのなか、大きく目を開けているヴィヴィアンと目が合った。この気配の主は、そう悪意のある輩ではなさそうだ……と、彼女もまた、冷静に察知している様子である。しかし流石に、すぐ身動きをとることはできないらしかった。大丈夫だ、と安心させるように肩をさすってから、大きく身を起こし、扉のほうへゆっくりと歩む。魔剣は持たなかった──持たなくていいと考えた。音の軽さからして、この不意の訪問者に見当がついていたからだ。
はたして、ギデオンが出迎えたのは……やはり、フィオラの子どもだった。年の頃は十一、二くらいだろうか。そう射竦めたつもりはなかったが、ギデオン相手に、一瞬怯えたような顔をしたものの。しかしそれでも、部屋の奥をちらと見れば、その顔つきがまっすぐな、覚悟の決まったものに変わった。そうして──お見舞いをしに来たんだ、と。それでこわごわ差し出すのが一輪の花と来たものだから、そのあまりに無垢な思いやりに、思わず毒気を抜かれたような顔を晒す。実際、抜かれはしたのだろう──真夜中に目の当たりにした村の大人どもと、まるきり違うではないか。
直接見舞わせてやりたいところだが、ヴィヴィアンはまだ本調子ではないだろう。「おまえの言葉と一緒に、ちゃんと渡しておく。ありがとうな」と、花の茎を受け取りながら、その黒髪をくしゃりと撫でる。途端、少年はほっとしたように歯の抜けた笑みを浮かべ。「あの! 匂い、花の匂いを吸うと、“病気”が良くなるんだ。姉ちゃんにそう教えてやって!」……などなど、懸命に言い残してから帰っていった。外に出てからは足音を立てないようにしていた辺り、きっと本当に、内緒の善意でここにやって来てくれたのだろう。
扉を閉め、部屋の奥に戻り、ヴィヴィアンのベッドの傍らに腰を落ち着ける。そうして彼女に、「あの子からのお見舞いだとさ」と、その目が醒めるほど真っ赤な花を手渡した。華奢な肩をゆったり撫でさすってやるのは、“俺以外にもおまえの味方がいたな”“この村にも、おまえを想いやってくれる奴はいるんだ”、そう伝えたくてのことだ。
しかし、やがて少しずつ増していく光量のなか。昨日の昼下がり、あんなにも花畑にいたのに、この花に見覚えがないこと……そしてそれどころか、何か妙な気配がすることに気がつくと、ふと軽く眉を顰めて。)
あの子の話じゃ、病気を癒す花らしい。祝祭の最終日の儀式にも使うとか……
…………。………………?
まあ……、……?
とっても綺麗…………
( 振り返ったギデオンから、花を受け取ったヴィヴィアンもまた一瞬。その妙な違和感に首を傾げてはいたのだが、ふと表情が変わったのは、曰く香りに効能を持つらしい花をまじまじと観察し、その切った根元から滲む水分や、花粉に触れ、その成分に致命的な刺激がないことを(彼を疑うわけではないが、素人にとっては見分けが難しいものだ)確認した後のことだった。睡眠不足による判断力低下だけでなく、無垢な好意への油断もあっただろう。未だ薄暗い部屋の中、まるで発光しているようかのような赤い花弁に鼻を惹かれて、その甘やかな香りをたっぷりと吸い込んだその瞬間。それまで燻っていた違和感がぼんやり消え失せ──とはいえ、あくまで初めて見た花に対する、自然な範疇を逸脱しない感動に、うっとりと目元を細めれば。優しく撫でてくれるギデオンに、手の力だけで擦り寄ると、その程よく筋肉の付いた分厚い肩に丸い頭をそっと委ねて。
今この瞬間、ビビを力付けたのは無垢な少年には違いないが、その優しさを受け取れるほどまで回復させてくれたのは、他でもないギデオンの献身によるものだ。昨晩の事件から初めて、やっとその表情をほころばせ。人懐こく、触れた頭をくしゃくしゃと擦りつければ。エデルミラ不調の中、代理でクエストを先導すべきギデオンが何故、こうも付きっきりでビビの面倒を見ていられたのか。──聞けば当然、ギデオン本人はヴィヴィアンのためだと答えるに違いないのだが。それに甘えて、ヒーラーとして、冒険者として、求められているものへと気づかなければ嘘だ。昨晩はこの村自体へ恐怖を覚えていたヴィヴィアンだったが、どこの国でも、時代でも、子供というのは無垢で、何物にも染まっていないまっさらな存在だ。ビビ達現代人から見た"常識"を、この村に一方的に押し付けるのは間違いに違いないのだが。これから、否応なく外部との交流に巻き込まれていくだろう彼らが、酷く衝突し摩耗することくらいは防げるかもしれない。そうして、それまで色濃い疲労を滲ませていたエメラルドを、強い意志に輝かせると、「とってもいい香りですよ、」なんて、未だ少し震える指をギデオンに絡ませ、近づいてきた顔に花の影でキスを強請ったのは、もう一度踏み出すための最後の勇気を分けて欲しかったためで。 )
ギデオンさん、昨晩はごめんなさ……ありがとう、ございました。
この子にもお礼がしたいんですけど……その、ついてきていただけませんか?
(ヴィヴィアンのうっとり安らぐ様子を前に、そっと無言で……いつもどおりの寛いだ顔を被り直す。何も偽るつもりはない。春の雨の日のあの教訓、違和感を見過ごしたせいで大惨事になった記憶を、そう易々と忘れちゃいない。さりとて、あの少年がくれた花を何だか妙に感じたところで、ギデオンのそれは所詮勘である。半面、プロのヒーラーであるヴィヴィアンは、自分自身の専門知識とよくよく照らし合わせることで、きちんと安全を確かめているのだ。その上で、村の子どもの思いやりに救われているのなら……昨夜のあの事件の後なのだ、水を差したいわけもなく。どうせ後で、念のため程度に調査をするつもりでいるのだ。それまでの間、自分が密かに気をつけておけばいいだろう。
故に、相手のおねだりに、甘く穏やかなまなざしを注ぎ。「もちろんいいさ」と返しながら、長い指を絡め直し、その震えごとぎゅうっと包む。朝日の差す中、白い漆喰の塗られたフィオラの家屋の寝室で、今この時間はふたりきり。けれど、一度ここを出たなら、またしばらくは職務を第一にせざるを得なくなるだろう……ヴィヴィアンもそれをわかっている。だからこれは、お互いのためのお守りなのだ、と。)
だが、依頼の報酬は……全部前払いで頼む。
それ以外は……ん……受け付けないぞ……
(──そうして。甘い甘い先貸しを、心行くまでたっぷりと堪能してから……四半刻。さっぱり装いを整えたふたりは、村の広場に顔を出してから、西側にある農場に足を運ぶことになった。
今は祝祭の期間ということで、炊事周りの労働は手出し無用とされている。だから代わりに、井戸水を汲んだり、薪を割ったり、或いは祝祭に関係なく、家屋の修繕に必要な医師や丸太を運んだり……そういった労働をこなして村に奉仕をするというのが、滞在中の務めであった。とはいえ、後の事件があった今は、ギデオンはできるだけヴィヴィアンとともに動きたい。それを踏まえて、今朝はふたりとも、村に幾つかある家畜小屋のひとつを掃除することになったのたった。新米冒険者がよく駆り出される手軽な依頼と同じと思えば、なんだか懐かしいものである。
「アンバルにシジェノを運び入れておくれ……」。ふたりに仕事を命じたのは、この辺りの古い小屋を管理しているらしい、しわくちゃの老人だった。太陽に焼かれた肌は濃い褐色でしみだらけ、数百年物の樹皮のように皴が多く、とうに足腰が曲がっている。数歩歩いてもひと息つくほど衰えている様子だが、それでも仕事をやめようとはしない。ギデオンもヴィヴィアンも、その姿に敬意をもって、積極的に手伝いをしつつ、彼の領分を侵さぬように心がけた。老爺が頻繁に使う聞き馴染みのない語彙は、どうやら村の古語らしい。最初こそ少し困ったが、やがて身振り手振りや雰囲気から、だいたいの意味は汲み取れるようになった。──だからこそ、わかりたくなかったものもある。「あれはおまえのココシュカだろう」。雌鶏たちに餌をやるヴィヴィアンを眺めながら、椅子に座った老人がそう話しかけてきた。ギデオンは、熊手片手に一瞬だけ考えた後、言葉が通じないふりをして聞き流すことにしてみたが。それでも、尚も老人は続けた──「良いヤヤを産みそうだ。産めるだけ産ませておきなさい……」
──さて、その長寿の老人曰く。祝祭三日目を迎える今日は、ラポトと呼ばれる特別な儀式を行うことになるという。詳しいことは掴めなかったが、今朝の村人たちがモロコシ粥を煮ていたのは、それに使うためだったらしい──そういえば、無邪気につまみ食いを挑んだ子どもが、とんでもない剣幕で叱り飛ばされているのを見た。「お前たちも来なさい」と、そう呟く老爺の顔が、どこかおかしな無表情に見えたのは気のせいだろうか。「おまえたちこそ来るべき儀式だ。ヤヤがなくては……意味がない……」。
老人の謎めいた言葉に首を傾げつつ、ふたりで農場を引き払い。朝食にあずかった後は、儀式が始まるその時間まで、冒険者としての本分……この辺りの様々な調査へ、各々乗り出すこととなった。ギデオンとヴィヴィアンは主に、自生している薬草の確認だ。今後の調査でどんな物資を現地調達できるかという、地味だが欠かせぬ任務である。レクターを通じて事前に禁足地帯を確かめ、問題のない箇所を、ヴィヴィアン手動で見て回る──その前に。相棒の望んだとおり、例の少年を探そうか。皮革の鎧に魔剣という、いつもの戦士装束に着替えてから、村の周囲を見渡して。)
あの子ども……具合が悪そうな様子じゃあなかったんだが、昨日の昼も、今朝の朝食でもいなかったはずだ。
……同い年のやつらに聞いてみるか。
ありがとうございます……そう、ですよね!
この時間帯だったら……
(「おにいちゃん?」「お兄ちゃんはすごいのよ」「すごいの!」「“えいゆう”になるんだから!」「なるの!」──美しい金髪を太陽の光に反射させ、その青い目をキラキラと輝かせる彼女たちの存在は、その時のビビにとって、まごうことなき天使に見えた。自ら少年にお礼をしたいと言ったのだ、いつまでも人の多いところは気乗りしないなどと言っているわけにもいかないだろう。そう頭では分かっていても、戦士装束を纏ったギデオンの提案に、気後れしそうな心を奮い立たせようとしたその瞬間。小さく袖を引かれた感覚に振り返れば、そこにいたのは昨日の小さな少女たちだった。自慢の兄の居場所を聞かれると、「今日は“お花畑”に行ってるの!」と屈託がないのは妹の方だ。今日も本当は、ビビを誘いに来てくれたらしい頭に乗る冠には、やはり今朝の花は見当たらない。未だ“ひみつ”の概念が難しい妹の一方で、少しは分別がつくとはいえ姉の方もまだまだ幼い。妹の暴露にわたわたと口を押えながらも──ビビだから、特別よ? と、此方を自然とかがませて。その耳元に顔を寄せると、(潜められていない声はギデオンまで筒抜けだったが。)神妙な調子で教えてくれたのは、ここの村民たちにとって特別な“花”の存在だった。──目覚めるような鮮赤が美しいその花は、この村の名前にもなるほどフィオラの民にとっては大切な、村の始まりから共に歩んできた象徴らしい。今朝の彼はその特別な花だけが咲き乱れる花畑で、数日後に迫った儀式の準備があるのだという。それから二、三やり取りした後ビビが、ごめんね、今日は遊べないのと断ると、少ししょんぼりと頭を下げながらも、「ばいばーい!」と小さな手を振って離れていく姉妹を見送り。無言で隣を見下れば、最早言葉を交わすまでもなく。無言でふたり、速足で向かうのは花畑……ではなく、一昨日から寝泊まりしている例の家屋だった。 )
( ビビ達が勇み足で村を通り過ぎるその間。何人かの村民とすれ違ったが、誰もかれも昨晩の騒動を知らぬわけがないというのに、その挨拶の穏やかなこと。本来、上役が沙汰を下したところで、個人間の感情面では摩擦が残るものだが、急いでいる今、特別煩わされないのは寧ろ有難い。──これが勘違いならばいい。文化や価値観の違いによる衝突はあれど、フィオラの民は基本的に余所者である冒険者たちに友好な態度を見せていた。その上、自らの所有物という概念が薄く、良くも悪くも全てを分かち合わんとする彼らが、それでも決して共有したがらない特別な“花”。病をも直すとされている貴重な“花”、もしその本物を持っていると知られたら。そんな脳裏を占める厄介ごとの予感に、急いで戻ってきた二人を出迎えたのは──……例の家屋の出入口、その土台の隣でひっくりかえって悶える変人教授その人だった。 )
レクターさん!!
どこか……ひゃっ!? ど、どうされたんですか……?
( 思わず駆けつけたヴィヴィアンの腕の中、それまで呼吸も荒く倒れ伏していたレクターはしかし、その視界にギデオンを捉えた途端。勢いよく立ち上がったかと思うと、「いや、」「ちがう」「これは……」と、しどろもどろに後退り始める。その勢いといったら──ガツンッ!! と。自ら背後の大木に勢いよく後頭部を打ち付けた衝撃で、力なく地面に倒れ伏すほど──などと。あまりの奇行に一瞬あっけに取られてしまったが、冷静に状況分析をしている場合ではない。今度こそ完全にのびているレクターに慌てて駆けつけ、その胸元を緩めようとしたビビが、「……? ……5015年版、エ“ッ、本物!?」と、素っ頓狂な声を漏らして。しまった、といった調子で口元を押さえると、ゆっくりとギデオンを振り返り、恐る恐るといった様子で指さしたのは一枚のブロマイドだ。スターである冒険者たちの技がみられる! と当時の子供……もとい、大きなお友達をも魅了したマジカルブロマイド。当然その危険性から一瞬で発禁となった幻のそれを後生大事に抱えていた教授が、目を覚まし。「の、覗きじゃないんだ!」と「信じてくれ! ほら!! 僕はあの足跡をアッ!?」と、自ら推しの足跡にすら興奮する(興奮してたんじゃない、足のサイズが知りたかったんだ!と弁明していた、それはそれでどうかと思う。) 熱狂的ファンだということを本人の前で白状し、顔を真っ赤にして泣き出すのは数分後の話。)
(──ブロマイド文化。ギデオン自身はほとんど興味を持たないそれは、しかしこのトランフォード王国において、大人気を誇る一大ジャンルだ。その興りやら、冒険者ギルドにもたらしてくれた特殊な経済効果やら、かつて爆発した“マジブロブーム”やら、その急激なアングラ化やら……。その辺りについて触れると、レクター以外の社会学者も数人はすっ飛んでくるほど奥深い話になるので、今は一旦省くとするが。とにかく、発禁処分を受けたはずのそれを護符が如く所持する以上、レクターは正真正銘、“マジブロコレクター”のひとりである。そしてそれだけでなく、いや尚恐ろしいことに。……“魔剣使いギデオン・ノース”の、強烈なファンらしいのだ。若い娘ならいざ知らず、三十路を越えた、この大男が。
むろん、憧れや信奉、愛好といった感情に、老若男女の垣根などない。これが稀代の天才アイドル、大人気冒険者のカーティス・パーカーであったなら、ギデオンとは全く違う反応を示してみせたことだろう。齢三つの幼女から、百七歳の老爺まで。輝く笑顔で万人を魅了するプロにかかれば、レクターを拒まぬどころか、“ファンサ”でしっかり応えてみせて、自分を“担当”してくれるファンを、ますます惹き込んだに違いない。──だが、しかし。)
……まさか、おまえ。そっちの気でもあるのか……
(「──違うんです!! そういうのとは違うんです!!!」。日焼けした肌の学者らしからぬ大男が、真っ赤な顔で悲鳴のように言い募っているというのに。対するギデオンの面ときたら、若干後ろに仰け反りながら、露骨なドン引き面であった。
──ギデオン・ノースという人間は、実務畑の生真面目男だ。“推し活”だの“布教”だの、そういった概念とは、四十年間ほとんど無縁で生きてきたようなタイプである。それこそ若い全盛時代は、寄ってくる女に応えて、例のマジカルブロマイドにサインをくれてやったりもしたが……主に魔獣駆除業者である自分たちが持て囃されるのが、正直なところよくわからずに。ほどなくして、有名人と寝たいだけの貪欲な女たちが近寄るようになってくると、“ファンサ”行為は敬遠し、アイリーンやアンといった信頼できる女たちのところへ引っ込むようになっていった。これがジャスパー辺りになると、嬉々として威張り散らし、ギデオンが身を引いた分の人気も逞しくぶんどっていたが。まあこれに関しては、適材適所というやつだろう。
とにかく、ギデオンからすれば、レクターの奇行も動機も、理解の範疇を越えているのだ。女ならまだわかりはするが、これが大男となると、いったいどういった動機でもって、野郎のブロマイドなんぞ大事に抱えているというのだ。俺の尻でも狙っているのかと考えるほうが、おぞましさには変わりないが、よっぽど理解しやすいのである。「違う、違うんだあ、そういうのじゃないんだあ……」と。地に伏し泣き啜る哀れな学者の泣き言を、相棒が優しく寄り添いながら聞きだすに。……どうやらレクターは本当に、ギデオンのことをただ崇め立てているだけらしい。足のサイズを知りたいというのも、本人が万物に向ける好奇心の延長のようだ。
……なんとなく、自分の幼少期に一世を風靡していた音楽隊を思い出す。4,980年代後半から90年代にかけて、国中の若者を虜にし、その後多くの音楽シーンに絶大な影響を与えた、茶髪の青年四人組。その人気は大きな社会現象になり、彼らが踏んでいった後の芝生を毟り取っては感涙する女性までいたとか、そんな話まで伝わっている。「そうです、まさにあれですよ──自分にとっての神が踏みしめた土、転がした石、呼吸した大気、手を触れて開けたドア! それがどんなに尊いものか!!」大きな腕を振り回して熱弁するレクターを前に、若干の理解を進めかけていたギデオンは、しかし強烈な頭の痛さにくらくらと目眩を覚えた。無理だ、俺には理解不能だ。
ついさっきまで、少年がヴィヴィアンのために花泥棒を侵した問題で、酷く深刻になっていたというのに──……なんだ、いったい何なのだこれは。とりあえず、本人は酷く恥じ入っているようだし、もういっそ捨ておいておけばいいだろうか。そう諦めをつけようとして、ふと何気なくそちらに視線を投げかけた瞬間、しかしぎょっと目を瞠る。今まであまり直視せずにやり過ごしてきた例の“マジブロ”に、信じられないものが映っていた。──当時寝ていた女、例の魔法使いのエマと、その女友だちだ。魔法がかかっているのだろう、姿絵の主題である若い頃のギデオンに、時折後ろから細腕を絡みつけるようにして抱きつき、ふたり揃って絵の外に出て行って、また入って来て……を繰り返している。これは当時、彼女らも彼女らで各自ブロマイド化しており、あくまでもコラボ展開として意図されたものであるのだが。当のギデオンは勿論知らない──知らないが、この女たちと寝たことだけは記憶に一応残ってはいる。その相手をまさか、今の恋人であるヴィヴィアンの目に、触れさせたいわけがあろうか。
不意にヴィヴィアンを脇にどけさせ、レクターに顔を突き合わせたかと思えば。「レクター、言い値で買ってやるから、そいつを今すぐ俺に寄越せ」と、息巻くようにとんでもない事を言いだす。“推し”の顔面が接近して一瞬気を失いかけたレクターは、それでもそれを聞くなり必死に気を奮い起こし、「駄目です──これは僕のお守りなんです、幾ら積まれても渡せません!」と、気丈にも言い返すも。今度はギデオンがその胸倉を掴んで脅しつけるものだから、レクターが再び「アアアッ!?!?!?」と顔を赤らめる、酷く珍妙な恐喝となって。)
…………。
( 一人は真っ赤になって泣きながら、もう一人は怒髪天……というより、これは焦燥だろうか? とにかく余裕のない表情を浮かべては、平均よりも体格の良い男が二人、至近距離で額を付き合わせている光景を見せられて。さらりと除け者にされたビビといえば──絶対にうちのブロマイドは見つからないようにしよう、と。レクターのそれに比べれば囁か極まりない、けれど大切にしまい込んだコレクションに想いを馳せて、薄情にも堅い決心をひとり、強く心に決めていた。
とはいえ──本人は認めたがらないだろうが。そもそもギデオンのファンは(ジャスパー程ではないものの)男性も多い。今でもコアなファンはいるし、それこそもう十数年前は若い女性が多かったに違いないが。過去の浮名とは裏腹に、堅実で質実剛健とも言える仕事ぶりは、同年代や少し年下の同性にウケが良く。冒険者ファンとまではいかずとも、好きな冒険者を問われれば、うっすらとギデオン・ノースの名を上げる壮年男性は多いものだ。──レクターは……まあ、その中では少し熱心な方ではあるようだが。半分気を失いかけながらも、健気に宝物を守ろうとするその姿が、同じ人を愛するよしみか、どうにも可哀想になってしまって。仕方なく、「おふたりとも一旦落ち着いて……」とやんわり分け入ったタイミングが最悪だった。
いくら体格が良いとはいえ一般人のレクターが、プロであるギデオンにいつまでも抵抗できる訳がなく。必死に抵抗していた拳から、ひらりと件のそれが落ちたかと思うと。ひらりひらりと男共を弄ぶかの如く風に乗り、ちょうど間のビビの手元に収まる。──そもそも数あるうちに、この手のブロマイドがあることは知識として知っている。「…………そういうこと、」と響いた呟きは、あくまでギデオンの奇行への納得でしか無かったのだが、後ろめたさのある人間にはどう響いただろうか。 )
──誤解だ。
(滅却すべき証拠品が、よりによってヴィヴィアン自身に渡ってしまったその瞬間。ぴたりと止まったギデオンは、即座にス────ンと真顔に陥り、かと思えば口を開いて、淀みなくそう言い切った。その様ときたら、元が精悍な顔立ち故に、如何にも誠実そうである。しかしその分なんというか、アレというか。……窮地に追い込まれた時の詐欺師なりスケコマシなり、そんな連中を思わせること請け合いに違いなく。
背後の大柄なギャラリーも、どうやら同感だったようだ。「エッ!? アレって確か当時のパフォーマンスじゃ、まさか本当にかんk──」と。よく通る甲高い大声を無理やりにでも遮るように、完全ノールックの雷魔法を後ろ手に、バリバリと派手に叩き込む。どうと倒れるレクターの巨躯、しかしそれには全く構わず、相手にもまた構わせず。一度軽く居住まいを正したかと思うと、続きの何事かを言いかけて──ふと口を噤み、俯く。片手を顔付近に持っていったのは、深く深く尚深い眉間の皴を、指先で強く揉みほぐすためだ。そのまま「……」と、いつもの無駄に様になるポーズでしばらく考え込んだかと思えば。ふっとまた、いやに澄みきった顔を上げ、口を開こうとして、しかしまたすぐ言葉に詰まる。「…………、、」と、微妙に下りる長い沈黙。気まずいことこの上ないのに、打開する策が浮かばない。……そのまま顔を逸らしてだんまりを決め込みはじめた辺り、どうやら露骨な動揺ぶりを隠しきれなくなったようだ。
──そもそも。いつぞやの巨人狩りの作戦で、相手がエマと鉢合わせ、ギデオンとの過去のあれやこれやを匂わされたと聞いている。記憶力の良いヴィヴィアンのことだ、彼女の映ったブロマイドを見て、(あ、あの時の。)と気づかぬわけがなかろうに。ぐるぐると苦悶の渦に陥ったギデオンは、どうやら思考回路の幾つかの螺子が、突然弾け飛んだらしい。すんと顔を上げたかと思うと、再び澄んだ目、落ちついた声音で、三度目の正直……のつもりが、盛大なる自爆をかまし。)
・・
10年以上前の話だ。今はこの手の趣味はない……公訴時効にならないか。
レッ、レクターさ……
( ──もうギデオンさんったら、そんな必死になって隠さなくても、演出だって分かってますから。そう言い募ろうとした笑声は、激しい雷の音にかき消される。ギデオンの容赦ない雷撃をくらい、どうと倒れたレクターに駆け寄ろうとして、その進路を強硬に阻まれてしまえば。その常軌を逸した行動自体が、もう完全に後ろめたいことがありましたと自ら白状している状態に他ならず。そのあまりにもな焦燥ぶりに、思わず引きつった表情で相手を見つめ、それからさりげなく教授の様子を伺えば──プスプスと前髪の先を焦がしながらも、どこか嬉しそうにピクピクと悶えている頑丈な御仁に──うん、あれはほっといても良いやつだ、と一息ついて。
そうして、いつまで経っても話出さない恋人に、再度冷めた視線を戻せば。普段の涼しい顔はどこへやら、露骨な動揺に瞳を泳がせていたベテラン剣士は、やっと覚悟を決めたらしい。改めて手元のそれをよく見れば、ビビも見知ったその女性に、ギデオンがこうも狼狽える事情はよく分かる。確かに気持ちの良いものでは無いが、この人の往年の素行などとっくのとうに知ったものだ。何を言われても──ビビと付き合ってもいない過去のこと。特に咎めず、気にしなくていいんですよ、と流してやるつもりでいたというのに。 )
……この手の趣味って、なに……?
( 素直に謝罪すれば(謝罪することでもないのだが)良いものを、情状酌量を狙って自爆しに行ったのはギデオンの方だ。ビビはと言えば、そういえばエマさんが何か言っていたっけと。彼女達と体の関係があったことよりも、ブロマイドに描かれるほどの公然の仲だったことの方へ寂しさが募り、形の良い眉を下げると、小さくない胸を痛めていたというのに。相手の方はもっと別に後暗いことがあるというのだ。他でもないギデオンによって今、ヴィヴィアンは不安に瀕しているのに──不安な時は頼れる恋人兼相棒に聞けば解決する、といった反射に近い信頼も、この時ばかりは最悪な展開を招くばかりで。まさか対複数といった俗な可能性になど思いいたらず、真っ赤な顔でギデオンを見上げて、元気にはねた赤い耳をふるふると頼りなげに振るわせれば。かつて遊び人だった男の黒歴史を、意図せずその口から説明させようとしている、その隣の窓辺。カオスな光景が繰り広げられる一幕の横で。今朝は窓の外からでも伺いしれたはずの例の"花"が、今は幸せそうに倒れているレクターの機転によって、外から雨戸で隠されていることに気がつくのはもう少し後の話。 )
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々、フィールド家も含めた彼らは皆、ガリニア本国での迫害を恐れてヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と二百年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだとう。しかし使われてはいいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
……、…………、
この手のは……この手のだ。
(躊躇いがちな真っ赤な顔に、ふるふる不安げなスカーフ耳。それらを向けられたギデオンときたら、(あ)と顔色を変えたが最後、また気まずそうに顔を逸らし。それでようやく絞り出すのが、この煮え切らない返事とくるのだ──つくづく愚かなものである。こんなことになったのは、普段は気をつけているはずが、時折失念するせいだ。歳相応の知識があるとはいえ、そして今は少しずつ教え込まれているところとはいえ。相手は本質的に、非常に育ちの良い女性であって……遊び呆けていた己と違い、その手の“教養”はまだまっさらなのだと。そんな彼女に、まさかそんな。──意欲旺盛な真相なんぞ、ぶちまけられるわけもなく。
以降のギデオンは、これまで何でも話し合ってきた相棒兼恋人に、どんなに食い下がられたとしても、頑なな態度を崩さず。真冬の山奥にいるというのにだらだら冷や汗をかきながら、「そろそろ仕事にとりかかろう」「今日は薬草調査だったな」なんて、あからさまにも程がある話題逸らしを繰り広げて。そうして、たまたま通りがかった冒険者の誰かしらが、倒れているレクターにぎょっとした反応をすれば。「そうだ、こいつを介抱しないと」なんて、心にもない台詞を調子よくほざいては、教授を屋内に運び込み、目を覚まさせてやるだろう。)
(──さてはて。経緯はともあれ、相棒の治癒魔法の甲斐あって、無事回復したレクターは。微妙な空気が漂っているこちら側に気づくことなく、「アアッ!? あの伝説の雷落としを、生で!? 生で喰らってしまった……!?!?」だのなんだの、理解不能な奇声を上げてひとしきり悶え転がりはじめた。なんというか……一般人にも荒っぽくした罪悪感を抱いていたのだが、元気そうで何よりである。もう少し沈めておいても罰は当たらなかったろうか。
ともかく、そんなレクターに白けた目を向けつつも。「なあ、そもそもどうして俺たちを訪ねに来たんだ?」と。薄々気づいていた事実にギデオンが切り込めば、レクターもはたと奇態を止めた。「そうだ、大事な話があったんです」。ベッドの上に座り直し、真剣な顔でこちらと向き合う。「おふたり、今朝は実地調査に行かれるでしょう? それにあたって、お耳に入れておきたい話があったんですよ。このフィオラ村の禁忌──“骨の結界”についてです」。
民族学者としてはずば抜けて有能な、このレクターの聞き込み曰く。このフィオラ村の周辺には、これまで亡くなった村人の骨をすり潰して粉にしたものが、ぐるりと引いてあるのだという。魔法も込めてあるために、風雨や動植物には荒らされることのない白線なのだが。人に対しては無力そのもので、簡単に踏み荒らせてしまうから、野山を歩くときにはよく気を付けてほしいという話らしい。いや、それは構わないが、何故に人骨を使った魔法陣なんぞ……とおぞましく思いながら訊ねるに。この風習の発端は……200年前のこの村を襲った、とある惨劇なのだそうだ。)
*
(──ビビ君。今からする話は、女性には少しきつい部分があるかもしれない。でも、詳細を知っておくほうが、もしかしたら今後、自分で身を守れるかもしれない。昨日の事件もあったから、僕はどうか、この村の暗い部分を、君にも知っておいてほしいと思う。いいですか? ……ありがとう。それじゃあ、ちょっと話しますね。
……村の語り部が、僕にこっそり聞かせてくれた話によるとね。まず、200年前のフィオラ村は、フィールド家、という一族が支配していたそうなんです。
このフィールド家ってのが、ちょっと横暴な性格でね。王都に卸す皮革製品を作るために、村人を朝から晩まで休むことなく働かせたり、村娘を手籠めにして無理やり子を産ませたり……まあ要するに、やりたい放題だったそうなんですよ。「鞭を惜しむのは、村民を甘やかすことと同義である」とか何とか言って。村人たちは、それでも決して逆らえなかった。元々フィオラ村の人々は、ガリニア本国での迫害を恐れ、フィールド家の手引きによってヴァランガ峡谷に逃げ延びてきた、少数民族のルーツらしい。だからこの村を出たところで、他に行くあてなんてない。トランフォードで生きていくなら、フィールド家の元にいなくちゃいけない。そう身の上を諦めて、権力者の横暴を苦々しく思いながらも、受け入れていたそうなんですね。
けれどやがて、それを覆してしまうような、とんでもない事件が起こった。きっかけになったのは、村長家の跡取り息子。──エディ・フィールドという、根暗な性格の、独りぼっちの男でした。
この男が、フィールド家そのものなんて目じゃないくらい、酷かった。端的に言って、異常者なんです。当時のフィオラ村は確かに狩猟を生業にしていたけれども、エディ・フィールドは子どもの頃から、野鳥や狐を残虐にいたぶって遊んでいると噂されていたそうです。そうして大人になると、今度は村の墓を掘り起こすようにさえなった。──死体を、弄ぶんですよ。でも相手は村長家の息子だから、村人たちは何も言えない。
これで調子に乗ったエディ・フィールドは、もっと酷いことに手を染めていった。生きている村娘を攫うようになったんです。それも、フィールド家が元々やっていたようなやり方なんかじゃない。女性を殺して……その生皮を、剥ぎ取るんです。獣から皮をとるみたいに。何に使うかって? チョッキとか、ズボンとか、ランプシェードとか。そういったものに加工するんですよ。村が元々作っていたような、皮革製品そっくりに。そして頻繁に、人皮製品だけを身に纏った異様な姿で──墓場で踊っていたそうです。
こんな異常者をのさばらせるのは、フィオラ村の人たちも、流石に限界だったんでしょうね。男の姿をした畜生を裁くべく、大勢が立ち上がりました。松明を明々と燃やし、弓矢をつがえ、大振りの鉈を掲げて。鬼気迫る顔をした村人たちが、本気で彼を追い詰め、瀕死の傷を負わせました。エディ・フィールドは山奥に逃げ込み、それきり二度と戻らなかったそうです。元々狩猟の村ですからね、野山にはあちこちに罠が仕掛けておいてあります。そのどれかにきっと引っかかったのでしょう。そうでなくとも、ひとりで山をうろつけば、どの道魔獣の餌食です。
村人たちはもちろん死体を捜しましたが、見つかったのは、深い落とし穴のひとつに落ちたような痕跡だけ。必死に這い登ったのか、肝心のエディ・フィールドの姿はなく、辺り一面が血まみれなだけでした。そうこうするうちに大雨が降ってきて、跡を追えなくなったので、村人たちは彼を死んだものと看做し、村に引き上げることにしたそうです。
もちろん、それで終わりじゃありません。彼を生み出した憎き村長家、その一家全体も、勢いでお取り潰しにしました。権力に取り憑かれた一族が、二度と自分たちをいたぶらないように。彼らの遺体は、エディ・フィールドが落ちた穴まで運んで、そこに放り込み、焼いてしまったそうです。これでようやく、残りの村人たち全員に、平穏が訪れた。……誰もが、そう思っていました。
でも、そうじゃない。被害がより大きかったのは、これから先の話です。
おぞましい“皮剥ぎエディ”は、おそらく肉体上は、呆気なく死んだはずでした。けれどもその怨念、フィオラ村の人々への逆恨みは、強く残っていたんです。
──エディ・フィールドを追放した、その年の冬。村長家亡き後の平和を享受していた村に、いきなり怪物がやってきました。
黒い亡霊のような、空飛ぶ巨大な骸骨のような。とにかくそういった、圧倒的に超常の、人など到底敵わぬものが。吹雪の低い唸りとともに、空から襲ってきたんです。
冷たい雪の吹きすさぶなか、突然狙われた村人たちに、成す術などありませんでした。アッと思った次の瞬間には、頭そのものが消し飛ばされたり。怪物が過ぎ去った後の旋毛風で叩きつけられ、それだけで死んでしまったり。それはあまりにも一方的な、惨たらしい仕打ちです。家の中で震えて隠れている母子さえ、怪物は必ず見つけ出し、爪でばらばらに引き裂いていくのです。守ろうと立ちはだかった男は、次の瞬間、ぱっくりとふたつに割られ。逃げ遅れた老人も、谷の岩壁まで撥ね飛ばされました。
当時の村は、数百人ほどの人口を誇っていたと聞いています。しかしそれが、あっという間に、まるで蜘蛛の子を潰すように。宙を飛び回る怪物によって、呆気なく、簡単に、惨殺されていったんです。
どうしてこんな目に遭うのか、わけもわからぬまま死んでいった村人も、数多くいたことでしょう。しかしそうではない村人もいて、彼らの恐怖ときたら、より凄まじいものでした。──だって、ね。声が、同じなんですよ。怪物の唸り声は、エディ・フィールドを大勢で追い立てたとき、奴が血を流しながら喉から迸らせていた、あのおぞましい呻き声……あれにそっくりだったそうです。
奴が復讐しに来たんだと、人々にはわかりました。奴はフィオラ村の人々を皆殺しにするために、怪物に成り果ててまで、地獄の淵から舞い戻って来たのだと。そして自分たちは、それに抗う術などないと。……自分たちが全員死ぬまで、エディ・フィールドの怨念は、決して止まらないのだと。村人たちは、再び運命を諦めるところでした。
しかし結論から言って、救いの手はありました。
村人が半分どころか、四分の三も殺されたころになって。この村に伝わるとある秘薬が、この怪物を退けてくれる突破口だと、誰かが突き止めたそうなんです。
どうしてそんなことがわかったのか、どうしてそんなものが作られていたのか、そこのところは伝わっていません。とにかく、村人たちは秘薬を飲み、たちまち授かった魔力でもって、怪物に対抗しました。亡霊じみた怪物を完全に滅ぼすには至りませんでしたが、それでも深く傷つけ、弱らせることはできました。怪物は憎々し気な声をあげ、村を引き上げていったそうです。異能を授かった村人たちとの闘いは、埒があかないと思ったのでしょう。それでもいずれまた、村の生き残りを狩り尽くすために、襲撃してくるはずでした。
生き残った村人たちに、亡くなった大勢の人々を悼んでいる暇はありません。病が広がらないよう遺体を焼却していたとき、ふと誰かが気がつきました。──この骨を粉にして、秘薬を混ぜたものを、村の結界として張ったらどうか、と。もちろんそれは、禁忌です。遺体を燃やすのも酷いことなのに、その上材料として使うだなんて。あの憎きエディ・フィールドがやったことと何が違うんだ、という反発もありましたが、とにかくやってみることにしました。そうしたら、どうです。戻ってきた怪物は、結界を張ったフィオラ村に入ってこられないじゃありませんか。
ここから、今のフィオラ村の風習が始まりました。亡くなった人を墓地に埋葬するのではなく、火葬して灰にして、怪物から身を守るための結界線になってもらうんです。そして毎年この時期、怪物が去年の傷を回復させて必ず襲ってくるその季節には、村の“英雄”が秘薬を飲み、怪物と戦うんです。怪物を万全なままでい刺せたら、いずれ結界を破られるかもしれない。だから向こうから近づいてきたときに、“英雄”が奴を痛めつけ、またしばらく近寄れないようにする。そういう慣わしが生まれたそうです。
──おふたりとも、察していますね。
そうです。そうなんですよ。そのための英気を養うお祭りが、今催されている。この“祝祭”なんだそうです。
そして、村に伝わる秘薬というのは、そこにある赤い花から作られているもののようです。フィオラ村の人々が、ガリニアにいた頃から大事に大事に栽培してきたという、特別な“花”……。調査隊のなかでいちばん村と親しくなれただろう僕でさえ、その花畑のある場所には案内してもらえませんでした。
そのくらい、この村にとって、この“花”は特別な、神聖なものらしい。元々愛でていただけでなく──冬にやってくる怪物を、この村と200年もの間因縁がある怪物を、退けてくれるもの。それをおいそれと、村のよそ者のために摘んでいい筈がありません。
もちろん、おふたりのことは疑っちゃいませんよ。ビビ君のことを聞いて、きっと無邪気な村の子どもが、善意で贈ってくれたんでしょう。この“花”の力を借りたら、たちまち元気になれるとか、きっとそんなようなことを言って。
それ自体は、悪かないんです。その子の善意も、おふたりがそれを受け取ったことも。問題は──村の大人たちの目に、それがどう映るか、ということなんですよ。)
*
…………
(………レクターの、彼らしからぬ静かな語りを聞いたのち。彼が別の冒険者に呼ばれ、外に出ていったその後も。ギデオンは長いこと、ヴィヴィアンの隣で押し黙ったまま考えていた。
今聞いた話は、俄かには信じ難い物語だ。エディ・フィールド自体は恐らく実在したのだろうが、逆恨みしたその男が怨霊となって村に戻り、村の人々を一方的に惨殺して回った、などと。はては、村にたまたま不思議な秘薬が伝わっていて、それを飲めば魔力が漲り、怪物を退けることができるようになった、などと。あまりに突飛が過ぎる……というのが、ギデオンの感想だった。全てが事実というわけでなく、事実を元に脚色した伝承。ギデオンが昨夜観たタペストリーや、その前に見た舞台演劇で、似通った話の細部がそれぞれ違っていたことも、その証左になり得るだろう。
──おそらく怨念の怪物というのは、雪山によく沸く魔物、ウェンディゴのことであるはずだ。ギデオンたちもこの村に来る前に、その唸り声を聞いている。フィオラ村の人々は、難民という出自から、トランフォードの魔物の生態に然程明るくなかったのだろう。そうして、エディ・フィールドの死後にたまたま出没したウェンディゴを、彼が化けて出たものだと勘違いしてしまったのだ。
ウェンディゴを退けた秘薬の力というのも、おそらくたまたま伝わっていたわけではない。例の“花”とやらに、人体に宿る聖属性のマナの力を一時的に高めるような効能があったために、村に役立つものとして、その製法が受け継がれていたのだろう。しかし使われてはいなかったのは、おそらく副作用か何かがあり、その危険性を鑑みてのことだ。──こういう話は、ごまんとある。現代の冒険者ギルドで、ヒーラーがよく煎じてくれるバフ効果のあるポーション……あれと同じものが、国内各地の村々でも古くから作られていて。けれども、その効能や副作用の科学的な把握はなされておらず、それらしい伝承や教訓といった形で、受け継がれたり失われたりする。フィオラに伝わる秘薬というのも、きっとその類いの代物だ。
──その辺りは、別にいい。それよりも、問題なのは。)
……あの子たちは。
自分たちの兄貴が、“英雄になる”って……言ってたよな。
(──副作用か何かがあるために、製法は伝えられながら、使用はされていなかった“秘薬”。そんな危険な代物を、まだ幼いあの少年が、儀式で服用する運命にある。
そう知ってしまった今、何も考えずにいられるわけがあるだろうか。村にとって多重の意義を持つ“花”をこの手に持ってしまったことより、今目の前で進行している状況の方が、ギデオンには余程問題だ。複雑な表情を浮かべた顔で、隣にいる相棒を見つめる。重々しく開いた口は、相手のことを信じ切ってのものだった。)
──この件は、見過ごせない。
薬草調査と並行しながら、俺たちで調べないか……“秘薬”とやらのことを。
──……この村を襲う"エディ・フィールド"の正体も、ですね!
( 相手の信頼に力強く頷いたビビの一方で、他でもない相棒はしかし、その正体には大体の目星が着いている、というのだ。「僕はもう少し調査を続けます、何か分かればお伝えしますね」と、帰って行ったレクターを見送り。まずは例の花を詳しく分析する準備をしながら、良い先輩の表情をとったギデオンの出すヒントに耳を傾け──ウェンディゴ! と例の唸り声を思い出せば。未だ一昨日のことだというのに、もう随分と長い間この村に滞在していたような気さえしてくる。そうして、すっかりこの村の違和感に飲み込まれていたビビとは違い、いつでも冷静な思考を手放さないベテラン剣士への尊敬の念に、キラキラと大きな瞳を輝かせ、ほぅ……と憧憬の吐息を漏らすと。──相手が"怨霊"などという非現実的なそれでないのなら、それはもう景気よく殴って倒せばいい話だ。レクターの話を聞く間、その青白さを隠せていなかった顔色をパッと赤くほころばせ、ぱちん! と元気よく両手を合わせれば──それじゃあ、今度は私の番ですね、と。鞄の中から得意げに薬草の調査用に持ち込んだ、その性質を調べる試験紙やその他の道具たちを取り出して。 )
( "古代、ガリニアの地を開拓した森の民にとって、蜂蜜は貴重な栄養源であり、(中略)、またそれは時として薬としても扱われた。"(サルトーリ,4962,p.124)
子供達に手を引かれ、そこへ辿り着いたビビの脳内に過ぎったのは、そんないつか読んだ薬学史の本の一文だった。あれから数時間、本来の仕事である薬草の調査と共に、花の成分を分析すれば。その薬効成分となるアルカロイドが、花の蜜部分に多く含まれていると分かったまでは良かったのだが。手持ちの道具だけでこれ以上判断するのは難しく。そもそも花一輪から採取できる量があまりに少なすぎるのだ。これでは身体の大きな人間一人に効果を与える為にどれだけの量が必要か──ああ、だから、子供を使うのか。そんな嫌な結論を頭を振って振り払えば。机上で解けないものは、脚で稼げばいい。そう先にフィールドの探索に当たってくれていたギデオンと合流したのが、半刻程前のことだった。
そうして、それは既に相棒が見当をつけてくれていたか、それともビビと合流してすぐのことだったか。兎に角、こうして村民たちが何か必死に隠しているそれを事も無げに暴くのは、彼らが取るに足らないと放置してきた子供達なのだから皮肉なものだ。着実な交友を築いていてきたビビと──特に本来であれば、自分達になど見向きもしないだろう大人の男性であるギデオンが、自らしゃがんで視線を合わせ、有効な情報の提供者として対等に扱ってくれるそれだけで、聡い子供たちは喜んで村のことを教えてくれるのだ。そうして、今回も案内された別れ際、「はちさんがお仕事しててあぶないから入っちゃダメなんだよ」と、彼らが普段村の大人から言いつけられているだろう忠告を得意げに残して、手を振って離れていく彼らには、その純粋さを利用して騙したようで申し訳ないが──なるほど。そこは、例の花畑ともほど近い、村の外れにある養蜂場。高度な技術のない村で、一輪の花から少ししか取れない蜜を集めるのに、これ以上効率的な方法も無いだろう。)
──……一輪で薄いなら、濃縮すれば良い、か。
どうしましょう、恐らく無人、ってことは無いですよね……
それがな。今日に限っては、例の“ラポト”とやらの準備に、大人は全員駆り出されてるのが確実だ。……絶好の捜査日和だろう?
(相棒の鋭い懸念に、しかしギデオンは片眉を上げ、悠然と軽く微笑む。元々、ギルドの諜報も担うことがあるだけに、この手の裏をとってくるのは自分の得意分野なのだ。……とはいえ、自分たちの姿が長いこと見えなければ、誰かが勘繰りはじめる可能性はあるだろう。あの子どもにしたって、この養蜂場の存在をけろりと教えてくれた以上、こちらのほうの口止めもいつまで守れるかわからない。故に念のため、「30分程度で撤収するのが目安だ」と、計画を擦り合わせつつ。鬱蒼と茂る落葉樹の森の奥、不意に広々と切り拓かれたその場所へ、生い茂る下草を、がさりがさりと踏み分けていく。
斜面を下ったふたりの前に、いよいよそれは、克明にその姿を現した。手前側に広がっているのは、低い木の柵を巡らせた囲いだ。他の村でも似たようなのを幾度となく見たことがある、おそらくは土器の類いを燻すためのスペースだろう。その奥にじっと無言で佇むのは、ずんぐりした大きな蔵と、かなり広々とした立派な平屋。一見何てことのないそれらは、子どもたちの案内がなければ、決してそうとはわからなかったに違いない。──フィオラ村が隠している、“北の”養蜂場だった。)
(──ヴィヴィアンとふたり、本業である薬草調査をあらかた手早く片付けた後。その採取物を記録するついでに紛れて、例の“花”を分析したヴィヴィアンは、蜜の部分に鍵がある、と突き止めてくれた。それを聞いたギデオンは、途端に思い出したのだ。フィオラに来た初日、そして二日目の夕方、老爺と少女から聞いた言葉を。
『よかったら、自慢の蜜菓子をお夜食におつまみくだされ。ええ、ええ、この谷の特産品は、この皮衣だけではないのです。我々の飼うミツバチは、非常に働き者でして……』
『あっちにもお花畑があるのよ、こっちよりもずっとキレイなの……』
──花蜜、蜂蜜、花畑。ギデオンの胸中に、ふと大胆な仮説が浮かぶ。サルトーリの本を読んでこそいなかったものの、かつて蜂蜜が百薬の長とされていた古い文化は、己もまた知っていた。フィオラ村には、養蜂産業と“花”への信仰が存在する。もしも、“秘薬”の材料として……“花”から作る蜂蜜を、使っているのだとしたら?
相棒に引き続き解析を任せ、彼女の傍らには、口の堅さで信用を置ける例の若い槍使いに仕事を与えておくことにして。ギデオンは先に外に繰り出し、まずは再びレクターを探した。養蜂について、既にわかっている情報を聞きだしておこうとしたのだ。──が、しかし。なんと教授は、この村の養蜂場を既に案内されたのだという。「ええ、確かに見ましたよ。村の皆さんが振る舞ってくれたあの蜜菓子、あれに使っている蜂蜜については、僕も気になっていたんです」。──ほら、村の南端の、ちょうどあの辺り。あそこにある建物まで、美人なお姉さんが連れて行ってくれましてね。ええ、黒いフードの、黒髪の……ああ、わかります? あの妖艶なお方です。とにかくあの女性が、他の親父さんたちと一緒に、詳しく解説してくれたんですよ。ええ、ええ! やっぱり高地型養蜂でした! ヒバの蜜桶を横置きにして、こう、ね! ね!? ガリニア高山系のやり方を、きちんと汲んでるんですねえ……!
……大興奮のレクターには悪いようだが。ギデオンはすぐに、その案内はダミーだろうと察しをつけた。“花”については秘密主義なフィオラ村が、そしてあの妙な蛭女が。観察眼の優れたレクター相手に、わざわざ開けっぴろげに、懇切丁寧に見せびらかすということは……それは、おそらく目晦ましだ。学者の純粋な探究心を利用して、自分たちの探られたくないものを日陰にやったに違いない。疑念を抱く者がその情報を知らずにいたならば、きっとそのまま、やりおおせていたのだろう。
ならば次に考えるべきは、“秘薬”に使われていると仮定する蜂蜜を、実際はどこで作っているのかだ。ギデオンとヴィヴィアンが求めているのは物証だ。秘密裏に動く以上、それを捜す時間は少ない。捜索範囲を正確に絞らなければ、何も手掛かりを得られない。
──北だろう、と考える。南にあるという養蜂場で、そのまま秘密裏に生産している可能性は、きっと限りなく薄い。根拠はフィオラのミツバチだ。ギデオンはこれまでに、フィオラの蜜菓子を数個ほど口にしていた。しかしあれらは、菜の花やマリーゴールド、その辺りの単花蜜を使った風味をしていたはずだ。その手の蜂蜜を作りだすミツバチは、巣からせいぜい3キロほどしか飛び回らない。最も手近な場所にある花畑の、特定の花の蜜だけを吸う習性をしているからだ。……ということは、レクターの案内された養蜂場の近くには、普通の花しか咲いていないことになる。そもそもフィオラ村の連中としては、特別な“花”が咲いている一帯に、よそ者を近づけないだろう。把握済みの、南の養蜂場じゃない、それならば。昨日の夕方、少女がふと指し示した“綺麗な花畑”の方角を思い出す。村の大人たちが獣道を登っていった、あの先は。──たしか、村の北端だった。
そこまで考えたギデオンは、しばらく村の北側で動き、村人たちの様子を確かめた。──大人たちは、いることにはいる。だが皆、この後控えているという儀式のほうに集中しきりで、こちらへの警戒は手薄になっているようだ。何人かの子どもたちが暇を持て余しているのが見えた。彼らの家はこの北端側にあるらしい、それならきっと、この辺りの様子について多少は知っているだろう。
そこで初めて、ギデオンはヴィヴィアンを呼びに戻ることにして……道すがら、これから実地調査に行くという五、六人の冒険者たちとすれ違った。案内役の村人も連れて、峡谷のもっと奥の方を確かめて回るらしい。帰りは明日の昼か夕、エデルミラにも報告を上げているというので、ギデオンは何ら構わず、ただ淡々と送り出してしまったが。──まさか、こうして少しずつ。真っ昼間から堂々と、合同クエストの冒険者たちがばらばらに引き裂かれ始めていた、などと。このときはまだ、夢にも思っていなかった。)
…………
……これは……
(──さて、それから半刻後。相棒とふたり、村の北端の養蜂場を訪れたギデオンは、まずは大きな蔵のほうへ踏み込んでみることにした。
重い木の扉を押し開けた先は、一見ごく普通のそれだ。太い梁を渡された空間に、木箱や壺が所狭しと並んでいる。もちろんそれ以外にも、長さを切りそろえた杭や、木の幹の中身をくり抜いた丸太筒。銅製の大鍋に平鍋、壁際には斧やナイフ。柱の釘に掛けられているのは、ミツバチの巣箱を世話するときに頭から被る面布だろう。部屋の片隅には、灰茶色のものが堆く積んである。牛糞と藁を練り混ぜて乾燥させた燃料だ。ゆっくり歩み寄って屈み、手袋越しに感触を確かめた。よく乾いている……だが、そう古いわけでもない。
立ち上がって歩こうとしたとき、からん、と何かが爪先に当たった。拾い上げて確かめてみれば、空気ポンプが背面に取り付けられた、四角い薬缶のようなものだ。──燻煙器だ、とすぐにわかった。小型魔獣を巣穴などから追い出すときにも、同じような道具を使う。そこにあるような保ちのいい燃料を入れ、火の魔素で発火させることで、薬缶の口から煙を噴かすのだ。たしか養蜂においては、蜂を大人しくさせるために使うのではなかったか……。蓋を開けて中身を見ると、しかし入っているのは、茶色い欠片などではなく、何か草木の類いだった。既に酷く萎びている、いったい何の草だろう?
「なあ、これは……」と。別でゆっくり見て回っている相棒に尋ねようと、何気なく振り返った瞬間。しかしギデオンは口を噤んだ。入口からは気がつかなかったそれを、ふと目撃してしまったからだ。相棒に目配せし、歩み寄りながらもう一度見上げた。蔵の奥……梁の上に、檻のような空間がある。単なる二階部分にしては陰鬱に見えるのは……はたして気のせいなのだろうか。)
…………。
……座敷牢、みたいだな。
──……エディが使ってたもの! ……では、ないですよね
なんでこんなところに……
( ギデオンの目配せに天井を見上げると、ビビもまたその異質な格子に目を見開く。咄嗟によぎったのは、先程聞いたばかりの一番新しい"座敷牢"の心当たり。しかし、その作り、手入れのされ方、木の格子の調子などから、すぐさまそれがもっと新しい時代のものだと気がつけば。寧ろその方が余計、エディ以降にもこんなものを利用する人間がいる証左として、良くない兆候だと気がつき顔を顰めると。相棒と二人、無言で顔を見合わせ、階段のような、梯子のような心もとないステップをゆっくりと上って。 )
…………、
( そうして視線と同じ高さになった空間に、人の気配がないことを確認すると、ほっとあからさまに安心を表情に反映させてしまったのは許されたいところ。とはいえ、空いた扉に積もった埃の調子を見るに、決して忘れ去られた遺物、という訳でも無さそうだが──そうして。ここでこの瞬間、その悍ましい光景を目の当たりにする瞬間までは。まだビビはこの村のことを救える、と。愚かにも信じ込んでいたのだった。
現代社会にそぐわない風習や価値観は、長く常世と隔絶されてしまったが故。数日後に差し迫った恐ろしい予感すらも、ウェンディゴに太刀打ちできない村民が、多数のために少ない犠牲を払おうとするのを、外部から来た自分がどうして非難することが出来るだろう。──現代社会と関わりを持ち、これからのフィオラはきっと変われる。その輝かしい未来の始まりに、彼らの目の前で彼らを悩ませた"悪霊"を、ただの魔物へと斬って堕としてやれば、彼らだって喜んでその悲しい風習を取りやめるはずだ、と。
光採りの窓より高い空間は、夕方ともなると人間の視力では太刀打ちできない。仕方なく、腰に吊るした魔導ランプに黒幕を下ろし、手元がほんのりと見える程度に灯すと、古い燭台に溶け残った白い跡が目に映る。他の魔物から作る蝋燭と比べ、明るく無臭で長く使え、蜜蝋より安価な──鯨蝋。魔導ランプと並んでトランフォードの夜を照らす白塊は、二人にとってはこれ以上なく見慣れたそれだが、よその地域との取引が潰えて久しいフィオラにあるわけが無いもの。それ以外にも、5024年のキングストン新聞に、平地にしか分布しないカトブレパスの皮革の財布──そして、それらにも誤魔化しようもない、木製の床に広がったどす黒く夥しい"何か"の染み。一体ここで何があったというのか──本当は、悪い人たちじゃないのだと。何故根拠もなくそんな風に信じ込めたのか。己の甘さを思い知り、ショックの隠しきれない表情でギデオンを振り返ると、ふらふらと青い顔で数歩後ずさって。 )
あっ、あっ……ギデオンさん、これ……
────……、
(今にも倒れそうな相棒を抱き留め、震える肩を撫でさする。大丈夫だ、俺がついている、そう言い聞かせてやりたかった。しかし無言になる辺り、己もやはり、それなりの衝撃を受けてしまっているようだ。だれが想像できるだろう──まさかこのフィオラ村で、二百年も閉ざされていたはずの僻地で、よそ者に対する監禁が行われていたなどと。より残酷なのは、この証拠の数々が、この秘密の養蜂場の蔵のなかにあったことだ。村はわかって隠しているはずだ……エディ・フィールドのような、ひとりの狂った人間による犯行では有り得ない。
しかしその恐ろしさに、ギデオンまでも凍りついてはいられない。相棒に(ここにいろ)と仕草で伝えながら、その手元のランプを引き取り、軋む床板を踏みながらひとり奥へ歩みだす。相棒はそれに震えながらついてきただろうか、それとも己を頼って背後で任せてくれただろうか。いずれにせよ、強張った面持ちで辺りを照らし、先ほど目に入ったひとつひとつを慎重に調べ上げていく。
──蝋燭。古いが、白く艶やかだ。寒村に出回るような、臭くてくすんだそれではない。フィオラ村は間違いなく、どこかで質の良い交易をしていて、それを巧妙に隠してもいる。──新聞。何故こんなものが残っているのか、だれがどんな意図で持ち込んだのか。ぐしゃぐしゃのそれを拾い上げ、元に戻せる程度に皴を伸ばして確かめてみるに。その見開きの片隅に、ふと気になる記事があった……ジョルジュ・ジェローム、48歳、王都在住の有名な魔導技師が、クラウ・ソラス行きの馬車をワーウルフ群に襲われ死亡。なんてことのない内容だろうが、何か引っかかるものを感じながら、今度は別のものに目を向ける。──革財布。もしや、と嫌な想像をながら、折り畳み式のそれを開く。間近に照らし出した瞬間、ギデオンの顔はやはり歪んだ。……きっとこれは、オーダーメイドの品なのだろう。財布の内側に、たしかに“ジョルジュ・ジェローム”と刻印されている。新聞の用途がわかってしまった。拉致監禁した本人に見せつけて、絶望させるためだったのだ。お前は死んだことになっている、だれもおまえを探しに来ない、と。
最後に、床に目を落とす。一面に広がるどす黒い茶褐色の染み、これがジョルジュ・ジェロームのものなら、間違いなく致死量だろう。死体はどこへやったのか……何年前に撒かれた血なのか。血しぶきの向きや擦れている方向を辿って、ぎしり、ぎしり、と奥へ向かう。哀れな魔導技師が襲われたのは、おそらくこの辺り……座敷牢の突き当たり、空の木箱が積み重なった場所だろう。ジェロームが、おそらくは技術を引き出すために誘拐されてしまったほどの、名うての技師なのだとしたら。埃の積もった木箱の淵をなぞってから、僅かに汗の浮いた顔で相棒を振り返る。恐ろしい現場だが、それでも──と。信頼と心配が、織り交ざったまなざしだった。)
……ヴィヴィアン。ここにいた人間が襲われたのは5年以内だ。この辺りの魔素を読めるか。
もしかしたら……手がかりか何かを、どこかに遺している可能性がある。
……………。
( 温かい掌がビビの肩から離れていく感覚に、堪らずその後を追いたくなる弱気をぐっと堪えて。ビビを信用してくれたギデオンに応えるため、ひとり座敷牢の入り口にこくりと留まり、誰かが近づいて来やしないか、倉の入り口の方へと冷静に神経を尖らせる。そうして、一通りの調査を終えた相棒の問いかけに目を見開くと、その大きな瞳を頼りなげに微かに揺らして。読めない人には理解されがたいが──本来、魔素・魔力・魔法というのは、そう万能なものではない。あくまで自然と精霊の気まぐれを読み解き、利用しているに過ぎず、無から有を生み出したり、何の価値もない土塊を金に変えたりすることだってままならない。しかし、他でもない相棒が求めているのはそういうことじゃないだろう。そもそも何故この人は、ビビなら出来るかもしれないと思ったのか。相手の懐に入り込み、手元の証拠品を見せてもらうと──なるほど、と。得体のしれない連中に、何処かもわからぬ場所に閉じ込められて。外から助けも来ないと知った時、自分なら、魔法士なら、魔導技師ジョルジュ・ジェロームなら、限られた体力と魔力でどうするか。──ジェロームは自らも幼少期の事故で片脚を失い、障害のある人々がこれまで通りの生活をおくれるように、自分の意志に合わせて動く魔導義肢の開発に尽力した人物だ。おもむろに座敷の角にしゃがみ込み、窺ったのは明り取りの小窓。この薄暗い空間で、哀れな魔導技師は今が昼か夜かを窺う術だけは持ち合わせていた。ならば、人より機動に不安のある彼は、身を隠しやすい夜中の脱出を試みるはずだ。それには、彼の視界を照らす適度な明かりが必要になる。これは簡単に聞こえるようで、高度な魔素操作を必要とする難しい作業で、今ギデオンが持っているビビの魔導ランプだってチューニングを誤れば、たちまち夜のサリーチェを昼のように照らしあげることになる。(未だに語り草にされているとはいえ、快く笑って許してくれたご近所さんには頭が上がらないことだ。) 閑話休題。
そんな難易度の高い代物を、この粗末な倉で手に入れるにはどうするべきか──……それがこの鯨蝋の蝋燭だったに違いない。原始、魔法使いとは特別に精霊に好かれた者だった。精霊を愛し、精霊に愛され、精霊の理から逸脱しない生活をおくる彼らの生活様式を真似たのが、現代の魔法士に繋がる第一歩になる。彼はそれを模倣しようとしたのだろう。火の精霊は燃やしやすく、すぐには燃え尽きない物質をよく好む。フィオラは養蜂が盛んな村だ。捕まえた魔導技師が、仕事に上質な明かりが必要だと訴えたとして、それは蜂蜜から作られるそれで良かったはずだ。しかし、この燭台に残るのはグランポート産の最上級品の白いそれ。頑固な技師はこれがないと仕事にならないと要求したのだろうか、その言い回しはともあれフィオラの住人は男の要求を呑んだらしい。もうずっと蜂蜜から灯された素朴な火に慣れ切ったフィオラの精霊は、大いにこれを喜んだだろう。その結果、ジェロームの脱出は成功したか? それは、このどす黒い染みを見るに救われないが──「ギデオンさん、ランプを消していただけますか?」そう確信を込めたエメラルドを奥の相棒に差し向けて、元々薄暗かった天井が、更に深い闇に覆われるのを確認すると。『ビビちゃんが精霊さんとおはなしできることは、パパとの秘密にしておこう』そう言ったかつての父の言葉を思い出して──あれは、『精霊さんが悪い人に悪用されたら悲しいでしょう?』と、だから、ギデオンさんなら大丈夫なはずだ、と判断して。周囲を燃やさぬ程度に加減しながら、火の魔法を込めた杖を緩く振るえば。そうして灯された小さな炎に寄ってきた高山の痩せた火の精霊に、「そこの美味しい蝋燭をくれた人のことを教えてくれる?」と、更に豊富な魔力で火を揺らめかせる。はたして、輝く翅を震わせて、床の染みの上で申し訳なさそうに小さく回った精霊が、粗末な格子をすり抜けて──格子の中から必死に手を伸ばして届くかどうかのガラクタの小山にねじ込まれた黒く四角いそれを照らしあげた光景は、ギデオンの様な“見えない”人にはどう映るのだろう。 )
ッ、これは、っと……手帳……?
……ジェロームのもの、みたいですね。
──精霊か、
(“見える”ヴィヴィアンとは違い、ギデオンが捉えられるのは、せいぜい微かな瞬き程度。今、向こうの闇の中で、何かちらちら光ったような……そのくらいぼんやりと、怪訝に認識することしかできない。しかし隣の相棒にかかれば、逆に確信を持った横顔で、その細腕を伸ばす有り様だ。何をしているのか、と問おうとして、しかし自ずと思い当たり、小さく感嘆の声を漏らした。精霊を呼びだすのも、話しかけるのも、協力を仰ぐのも、その明かりが示す何ものかを探るのも。どれも、ギデオンには決して行いようがない──思い浮かびすらしない。今この場にヴィヴィアンがいた、そのおかげで取れた手段だ。
周囲を浮遊する塵のような煌めきに、敬意と感謝を込めてごくささやかに目礼してから。彼女が手に入れたその手がかりを、一緒に覗いて確かめる。ヴィヴィアンの言ったとおり、手帳……のようであるのだが、しかし既製品ではない。切り取った黒染めの革と、不揃いな紙片の束、それらを糸で綴じただけの、ごく粗末な作りをしていた。きっとジェロームは、監禁者であるフィオラ村に内緒でこれを作り出し、密かに所持していたのだろう。おそらくは……絶望の日々の拠り所にするために。
表紙をめくる。字は掠れている、しかし読めないほどではない。最初の数ページに亘っては、例の記事にもあった日付にフィオラ村へと攫われた経緯、及びその耐え難い慟哭が、ぎっしり書き込まれているようだ。何故、どうしてこんなことに、ここはどんな場所なのだ、何故私を捕まえるのだ。工房に、我が家に帰りたい……妻に、幼い我が子に会いたい。余りに痛ましいその独白に、目元を思わず歪ませつつも、更にページをめくっていく。思わず無言で読み入るせいか、紙擦れの音がやけに大きく聞こえる。……)
*
(──段々とわかってきた。どうやらこの村の人々は、私に補助具を作らせたいらしい。それも、蜂蜜を採るための腕をだ。この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ。天井から吊り下げられた蜂の巣から、蜜の詰まった巣を削り取るには、どうしても高い梯子を使う。それには大きな危険を要する。今まではほとんど僅かな蜜しか採ることができなかった。しかし、地上にいるままでも採れるようになったなら、もっとたくさんの蜂蜜を採れる。そのための腕がほしい。──そんなことのために、馬車に魔獣をけしかけてまで、私を誘拐したのだそうだ。
図面を書いた。村人に材料や工具を用意させた。しかし組み立ては素人であるから、私が監督することになった。外に出る時には、必ず義足を奪われた……。それでも、少しずついろいろも我儘を言い、行動圏や動ける時間帯を増やした。何としてでも帰りたい。もう数週間は過ぎている、妻が心配しているはずだ。そうだ、ナタリーは絶対に、あんな新聞を信じるはずがない。私の葬儀を開いたりしない。私を諦めたりはしない。
私が囚われているのは、森の中にある蔵だ。しかしこの頃は、その隣の平屋に立ち入ることを許されるようになった。そこはいわば工場であった。地下で採ってきた蜂の巣を、遠心分離器にかけ、蜂蜜にし、それをさらに蒸留器や漏斗にかけて、妙な薬に換えている。異様に真っ赤な蜜なので、何の薬かと尋ねたが、それは決して答えてくれない。
今日は平屋に客が来た。間違いなく村の外の人間だ、おそらく貴族か何かの遣いだ、身なりでひと目でそれとわかった。村がつくる妙な蜜薬は、かれらが仕入れているようだ。盗み見ていたら、近くの村人にまた殴られた。右腕まで折られたら、追加の図面さえ書けなくなるというのに……。だが、ひとつ収穫を得た。取引の帳簿は、平屋の北窓の横の、壁板の裏に隠している。いつかここを出る前に、どこの輩がこんなものを買っているのか、絶対に突き止めてみせる。
とうとう鯨蝋が届いた。村人に取り寄せるよう言いつけてから、ずっとずっと待ち詫びていたものだ。火をつけて話しかけると、やはり高山精霊が現れてくれた。魔法で輝く火の精霊だ。彼の明かりなら、素養のある者以外には目に見えない。闇夜に紛れて逃げ出しても、それを気取られないで済む! 決行の日までそばにいてくれるよう、夜は絶えず鯨蝋を灯すことにしよう。精霊は優しいいきものだ。こちらが挫けずに希望を語れば、手を貸してくれるに違いない。
せっかく算段を得たというのに、この頃具合がすぐれない。食事に何か盛られているのか。しかしおかしい、やつらは補助腕のメンテナンスのために私を生かしておきたいはずだ。そのためにわざと複雑な造りにしたし、定期的に起きる魔法陣の収斂不良も私にしか直せぬはずだ。それとも代わりでも見繕ったか。妻は。ナタリーはどうしている。我が子は泣いていないだろうか。精霊が不安がっている。大丈夫だ、と火を灯す。
朦朧としていたら、いななきのような声が聞こえて目が覚めた。馬のそれではない。山羊に似ている。随分辺りを震わせると思ったら、実際に地響きまでした。体に堪えるのでやめてほしい。そんなことを考えていたら、やがて村人がやってきた。定時より随分遅い。皆魔獣狩りか何かをしていたらしかった。ずっとそちらに行ってくれれば良いものを。精霊は隠れてしまった。この村の人間は、彼にきらわれているようだ。
村人と顔を合わせるだけで発疹が止まらない。おそらく何かのアレルギーだ。特に奴らが、「花畑」から帰ってきたときが酷い。そこの花にやられているのか。村人も困っている。生かさず殺さず飼い繋いできたくせに、予想外であるらしい。しかし医者を呼んではくれない。この村の医者はむらおさだけだ。むらおさは私が死んでも構わないと考えているようだ。冗談じゃない。痒い。痒い。皮膚のあちこちが掻き崩れて血まみれだ。痛い。帰りたい。妻に会いたい。私はまだ死んでいない。
熱。咳。喀血。凄まじく衰える。何故。
精霊が出てこなくなった。
むらおさが来た。葬送の句を詠まれた。おまえは特異体質らしい、花の愛を受け付けぬらしい、可哀想なことをした、と。ならばここから出せ。妻と我が子に、最期にひと目だけでも。そう言ったが無駄だった。神はいない。
祈るより憎むが増えた。
どうしてこんな目に遭うのだ。
私が何をした。
痛い 取り除いてほしい
痛い
ナタリー 会いたい
エミール 息子よ
おまえがこれを読んだなら
この忌まわしい谷の魔核を どうか
そうすれば 私は 向こうで )
*
…………。
(手帳には、まだ空白のページが随分とあった。綴じ跡からして、途中で付け足したものだろう。すぐにはこの村を逃げ出せないと悟り、それならいっそと記録を残すことにして……それすらも道半ばのまま。ジョルジュ・ジェロームの迎えた最期が、酷く苦しく孤独だったのは、火を見るよりも明らかだった。
腰元の皮袋の口紐を解き、布を取りだして、ジェロームの日記をくるむ。これが消えたところで、フィオラの人間に気づかれることはないだろう。そのまま、重い面持ちで隣の相棒を見やる。日記帳に刻印入りの財布、このふたつの物証で、この村に憲兵団を踏み込ませるための最低限は揃ったはず。逆に言えば──これ以上、このフィオラ村にいるのは危険だ。だがそれでも、念には念を入れるならば。)
……平屋の方も、確かめてみるか。
……はい、行きましょう。
( ──なんて、惨いことを。ギデオンの肩越しにジェロームの手記を覗き込み、今にも泣き出しそうな表情を堪えて力強く頷けば。目的の見えない醜悪に、強大なドラゴンを相手取るような意気込みで潜った平屋の中は、しかしビビにとっては拍子抜けするほど馴染み深い空間だった。厚い扉をくぐった途端、暑すぎず寒すぎず、適湿で無機質な空気が周囲を取り巻く心地よい感覚。ここの構成員が皆、祭の準備に取り掛かっているからだろう。部屋は暗いのに、微かに響く風の音は空調魔法のそれだ。ポツン、ポツン……と、一定のリズムを打って落ちる薬品が、落ちた先の溶媒とその都度反応して淡く輝き。隣の棚に並ぶのは、乳棒とセットになった白い乳鉢に、清潔に保たれたビーカー、大小の薬匙はピカピカに磨かれて錆ひとつない──"秘薬"の話を聞いた時からあるだろうとは思っていたが、まさかこんなに現代的とは思わない……ここが、紛れもないフィオラの"製薬工場"だった。 )
お祭りは、年に一度、ですよね。
…………。私は薬の方を探ってみるので、ギデオンさんは帳簿を。
( 思わず苦しげに漏らした呟きには、未だまだ心のどこかでフィオラの村民達に悪気はなかったのだと。外界との関わり方を忘れてしまった、ただそれだけで、未だ正しい道に戻れる可能性を信じたかった青い苦悩に満ち溢れて。一年に一度、ただひとりの英雄を生み出すのには過度な規模の工場に、顔を顰めるのを堪えられず。どうやら研究結果を記しているらしいホルダーの棚の方へと、幼い表情をギデオンに見咎められぬよう顔を逸らしたのが数分前の事だった。
そうして手に取った書類の中身は、例の秘薬の投薬実験の結果のようだ。被験者の年齢と性別、それからおおよその身長と体重に──しかし、無機質な文字の羅列の様子がおかしくなるのはそれ以降だった。
40代男/170cm65kg/250cm300kg
50代女/150cm40kg/300cm500kg
10代男/190cm85kg/210cm350kg
・
・
・
前半の数字は被験者の身長体重だとして、2番目の数字はなんだろう。特別扱い被験者の体格と比例するわけでも無さそうだが──その答えは、何気なく捲った次のページが語ってくれた。フィオラの秘薬を投薬された人間が満月を浴びると起こる現象の全て。鋭く伸びる爪と牙に、次第に分厚い毛皮が背中を破る。本来、将来の形から大きく変わるはずのない人間の骨格、それがバキバキと嫌な音を響かせ、ゆっくりと変貌していく間の断末魔の詳細。その末路の姿は被験者ごとに異なるも──これは紛れもない、『人が魔獣へと変貌する』瞬間の世にも悍ましく信じ難い光景の記録だった。 )
──…なによ、これ
──……何だ、これは。
(同時刻。製薬施設の北窓近くで、ジェロームの手記のとおりに帳簿を見つけたギデオンは、全く同じ呟きを落とした。己の相棒、ヴィヴィアンが、おぞましい悪事の記録を目の当たりにしてしまったように。ギデオンもまた、別の恐ろしい真相に行き着いていたからだ。
──フィオラ村の極秘の帳簿。それは、単に上辺だけ読むならば、ごくごく普通の内容だった。協力費、180,000、ネズベダ市市自連会費。売掛金、3,200,000、ビェクナー商店へ商品32個計上。什器備品費、250,000、フンツェルマン工具店……エトセトラエトセトラ。どれも生真面目な記述ばかりで、よその帳簿とそう変わりないように見える。無論、200年もの間孤立していた筈の村が、こんなに大きな数字での取引を複数交わしていたというのは、まあまあおかしな話であるが。しかし単にそれだけ見れば、他の町なり村なりもやらかしているような悪事だ。引っ張れる罪状は、たかだか脱税や贈賄程度。ギデオンが目を瞠ったのは、もちろんその程度のためではない。……帳簿の摘要欄にある、取引先や納品先を、偶然知っていたせいだ。
──ネズベダ市。そんなもの、トランフォードには存在しない。これはセントグイド以北の湾岸部にいる、悪名高いルーンマフィア、その後援組織を言い換えた隠語なのだ。あの辺りはキーフェンマフィアの勢力が強く、細々住みついているルーン系の犯罪者たちを、一部の貴族が支援して……その見返りに、様々な“事業”をさせていると聞いていた。──フンツェルマン工具店。これは裏社会で悪名高い、“なんでも”つくる工具店の別名義だ。魔導性の鉄の処女、苦悩の梨、ファラリスの牡牛。そういった派手な拷問器具から、或いは一般に購入履歴を残したくない、何てことのない器具工具まで。とにかく、わけありの購入者のためにあらゆる道具を納品する、どす黒い業者である。──そして何より、ビェクナー商店。これは商店とは名ばかりの、極悪貴族の裏稼業の名だ。“ビェクナー商店に糖蜜を発注する”と言えば、それは毒殺の指示を意味する。繋がりのある貴族家同士で、ちょっとした茶会の折に、そういった言葉をそれとなく交わし合い、互いの政局を交換するのだ。とはいえ、ビェクナーの名は無数にある名のひとつに過ぎず。他にも存在する多くの名義が、結局最後にはひとつに行き着くようにできている。悪逆非道の貴族家に──未だ捕まらぬ性悪女狐、ルシル・エルノーの飼い犬のもとに。
ギデオンがこれらの情報を得ていたのは、奇しくも仕事のためだった。かつて王都を騒がせた、インキュバスによるまじない事件。あれの捜査で、ヴィヴィアンと共に憲兵団に協力したとき……かれらが本来部外秘とする極秘資料に目を通していた。この具合の良い頭は、当時入手した情報をしっかり脳裏に焼き付けている。それがまさか、あれから随分と月日が経っているというのに。華やかなダンスホールからは程遠い、山奥の村にいるというのに、再び見るとは思わない。しかし、フィオラ村の帳簿の上には、もはや疑いようもなく、あの資料にも載っていた悪党どもが名を連ねている。
これが意味するのは、ただひとつ。フィオラ村もまた、想像を絶するほどの極悪であるということだ。もはや決して、因習の残る寒村などでは有り得ない。あのエルノーが使うくらいだ、相当のことをしでかしているはずだ。ならば彼らは貴族相手に、いったい何を売っているのか。何を生産しているというのか。──その答えは、青い顔をしたヴィヴィアンが、手元の記録簿で教えてくれた。)
……………………
(しばし、重々しい沈黙を選んだ。相棒に背を向け、頭を抱え、辺りをゆっくり歩きまわって。ふたつの記録を突き合わせることで否応なしに浮かび上がった、考え得る限り最悪の情報。それを事実として飲み込むのに、どうしても時間がかかった。状況を受け入れることは、本来己の得意分野であるはずなのだが。しかし、よもやこれほどまでに、受け入れがたい苦痛になるとは。
無理からぬ話だろう。この世に蔓延る、血も涙もない悪人どもが。──人を、魔獣に、変えているのだ。
ここをすぐに出なければ。呻くような表情で、何度も何度もそう考える。今の自分たちは間違いなく、既に相当まずい状況に陥ってしまっている。だがしかし、状況を冷静に振り返ってみればどうだ。冒険者の仲間たちは、本来の目的であるフィールド一帯の調査のため、散り散りになったところだ。皆武装してはいるだろうが、地の利があるのは圧倒的にフィオラ村のほうにちがいない。それに、ああ、一般人であるレクターとその助手も連れてきてしまっている。彼らのことは絶対に、無事に帰してやらねばならない。──否、ギデオンひとりの本心としては。だれよりも、自分自身よりまず先に、ヴィヴィアンのことを逃がしたかった。ヴィヴィアンと、それにエデルミラ。せめて彼女らふたりと、それにレクターたちだけでよ、他の仲間たちより先に、何なら応援を託せれば……。しかし、この異常な温暖さのせいで忘れそうになっているが。本来、今は真冬の時季だ。山の地熱に守られた峡谷のこちら以外は、吹雪が荒れ狂い、ウェンディゴすら飛び交う世界だ。そうでなくとも、よその人里に出るまでに、魔獣の巣食う山岳地帯を数日かけて抜けねばならない。女性ふたりではとても無理だ、一般人どころか自分たちの身も守りきれない、みすみす死なせに行くようなものだ。だが、他の冒険者たちをすぐに呼び集めるとなると。その時間は、この情報を即座に理解してもらうための算段は。
そう考えていた矢先のことだ。がたり、と外で物音がした。ぱっと顔を上げたギデオンは、そちらを振り向いて一瞬だけ凍りつく。いくらか聞える話し声、何か外壁に荷を下ろしたらしい村人たちが、平屋の中に入るつもりだ。考えるまでもなくヴィヴィアンの手首を引っつかみ、足音を立てぬ大股で、平屋の奥へずんずんと突き進んだ。目指す先は、先程自分が確かめた、空の大きな用具入れ。その戸を素早く引き開き、ヴィヴィアンを先に押し込む。そしてその一瞬だけ、ぎりぎり背後を振り返る。平屋の大きな扉が開き、何か運び込む村人らが見えはじめた。そこで間髪入れず、ギデオンも中に滑り込み、閉ざした狭い空間にヴィヴィアンを掻き抱いく。慎重に息を押し殺す、どうしようもなく心臓が暴れる。扉に空いた細い横穴から、そっと外の様子を窺う──ヴィヴィアンの目線の位置からも見えるだろう。ここからでも、彼らの会話は聞こえるだろうか……奴らは、こちらに来るだろうか。)
……ギデオンさん、まずはウェンディゴを、……!?
( 二つの資料を照らし合わせて。声も無く項垂れてしまった相棒に寄り添うと、その目を真っ直ぐに覗き込む。"ネズベタ市"に"フンツェルマン"工具店、それらの単語には、ギデオンから少々の注釈をいただいたものの、ビビとて今のこの状況が最悪なものであるということは正しく理解している。しかし……いや、だからこそだろうか。ギデオンの苦悩とは裏腹に、改めて──やはり数日後の儀式は絶対に止めなければ、とビビの心は決まっていた。みすみすあの優しい少年を魔獣になどしない。将来、可愛い姉妹達に酷い罪を背負わせない。彼、彼女らには自由な世界を生きる権利があって、未だに信じ難いフィオラの罪は、今の大人世代で精算されねばならない。そう大きなエメラルドを真っ直ぐに煌めかせて──まずはウェンディゴを、『倒しに行きましょう!』と、ぎゅっと拳を握りかけた瞬間だった。外から聞こえてきた物音に、相棒によって考えるより早く用具入れに押し込まれると。外から聞こえてきた会話の内容に目を見開くこととなるのだった。
「首尾はどうだ、冒険者たちの誘導は上手くいったか」まずそう口を開いた男は、この数日間レクターの調査に振り回され……もとい、付き添っていた村の青年だ。「大方な。今頃、地下洞窟で"冒険"中じゃないか──……ただ、あの若い女ともう一人……ギデオン・ノース、といったか。ああ、昨晩イシュマを殴ったやつだ。あの二人の姿が見当たらない」そう答えた男の方も何度か姿を見た覚えがあるが、どうやら男達は用具入れの侵入者に気づいたわけではないらしい。さっさと必要な物を手に入れて、不用心に離れて行こうとする背中に──しかし、ビビら二人の表情は晴れない。今、誘導って……地下洞窟……? そう小さく頭を動かして、ギデオンと目を合わせると、相棒の顔色を見るにビビの聞き間違いでは無さそうだ。続いて「レクターもいい加減うるさいが……アイツは何時でも構わない。まずは冒険者の方を仕留めるんだ」そう耳にしたその瞬間。「極力女の方には見られるなよ、泣かれると萎える」「そういえばあの年増の方は随分うまく──」と。扉の閉まる音と共に続いたそれは、全くもって耳に入らずに。未だ用具入れの中、真っ青な顔色で掻き消えてしまいそうな呟きをポツリと。 )
…………私、地下洞窟の入口を探してきます。
ギデオンさんは、どこか、安全なところに……
──馬鹿を言うな。
おまえを一人にするわけがないだろう。
(相棒の無謀な提案を、鋭い小声でぴしゃりと遮り。腕のなかで震える娘、その大きなエメラルドを、今ばかりはきつく睨みつける。そんな薄情なことは言ってくれるな、悪手中の悪手でしかないだろう。そう言い含めようとしたところで、しかしふと……何か思い至ったように、その険しい表情をほどいて。
暗く狭い、箱の中。一瞬、考え込むような沈黙を差し挟んだギデオンは、しかしその口から不意に、温かい息を零した。次いで何をするのかと思えば、元々腕のなかにいるヴィヴィアンを、そっと間近に抱き寄せる始末だ。そうしてまずは、“大丈夫だ”、と体温で伝え。相手の恐れを宥めるように、後頭部を撫で下ろしてから。小さな旋毛にキスを落としたその唇を、相手の耳元に寄せていき……「約束しただろう、」と、低く弱々しい声で囁く。──それは半ば、自分自身にも言い聞かせるための台詞。あの夜明けの病室で味わった、恐怖、祈り、安堵、敗北。もう決して、同じ過ちを繰り返すわけにいかない。故に、こいねがうようにして、今度は優しく相手の瞳を覗き込み。)
お互い、二度と会えなくなりかねない真似はしない。……あのとき、そう決めたよな。
だから、絶対に──ふたりとも、必ず無事で、この村を脱出しよう。
……そのための作戦を立てないと。
っでも……!!
う、…………そう、ですよね。ごめんなさい。
( ギデオンの鋭い睨んだ視線に、勢い余って言い募るも、そっと優しく抱き寄せられて、穏やかな口調で語りかけられれば。はっと目を見開いたのは、自分がいつかのギデオンと同じことをしようとしていたことに気づいたためで。もはやもうフィオラははっきりと、こちらに害を加え始めた。幸いと言うべきかどうか、ビビは彼らに脅威としても認識されていない故に、ならば自分が──と思う気持ちは、決して動揺から来るそれだけではなかったのだが。何より大切なギデオンを守りたい、その気持ちがためだけに、仲間の救出の可能性を下げる発言をしてしまった。そしてそれはギデオンの冒険者としての矜恃を傷つけるものだったと、分厚く硬い胸板にしょんぼりと小さく額を預ければ。覚悟を決めるかのように、ぎゅううっと一度強く抱き締めてから、すっかりいつもの様子で勢いよく顔を上げ。 )
はいっ! 絶対全員で……ふたりで、おうちに帰りましょうね。
( そう言い募る途中でぴょこりと小さく背伸びして、その唇へ短く甘く吸いつくと。えへへ、と小さくはにかんで、最後にもう一度軽いハグを。そうして、外の安全を確認しながら、ゆっくりと一歩踏み出すと──目的はこれ以上の被害者を出さずに、フィオラの蛮行を止めること。ならば最前の行動は──そう真剣に悩む振りをして、さり気なく口元を隠すのは、治療室の約束をギデオンが覚えていてくれたことが嬉しくて、場違いに緩んでしまう表情を隠しているつもりで。 )
──まずはやっぱり地下洞窟を見つけたいところですけど、私達が勘づいたって知られるのは良くない、ですよね?
夕方の……ラポトには参加した方が良いでしょうか。
(吹雪のベールが覆い隠す陸の孤島に閉じ込められ、仲間たちは皆敵の術中。そんな状況に、先ほどまでは重苦しい絶望感さえ漂っていたはずだ。しかし今はどうだろう。ヴィヴィアンと今一度抱き合い、元気になったその表情を眺めるだけで、己の胸の内にみるみる希望が湧き上がってくるのを感じる。それは不思議なようでいて、しかし思えば納得するものでもあった。戦闘職である自分に対し、相棒の役職はヒーラーだ。彼女の無邪気な明るさは、いつだって味方を癒し、悪しきものを力強く薙ぎ払ってくれる。
現に今、「そうだな……」と。箱の中から外に出て、周囲の製薬設備を眺め渡したギデオンは、その横顔を随分と前向きなそれに変えていた。相棒の問いに立ち止まり、顎に手を添えながら、真剣に思案する。窓から差し込む日の光は、先ほどよりいくらか弱い──夕刻が近づいている。儀式までそう時間がない、夜を迎えれば洞窟組の救援も困難になる、しかし慎重さは必要だ。)
全面的に欠席するのは、間違いなく悪手だろう。だが、ラポトはおそらく、この村独自のやりかたの儀式だ。そうなると、宗教的な理由にかこつけて何を強いられるかもしれない。諸々の用意だって、いつも村がしている以上、何かを盛られても気づけない可能性がある。
だから……タイミングを読んで遮ってくれる“協力者”が、必要になるだろうな。
(──ギデオンとヴィヴィアンが、最終的に目指すもの。それはこのフィオラ村、ひいてはヴァランガ峡谷を、無事に脱出することだ。
これが自分たちふたりだけなら、きっとそう難しくはなかった。しかし今回は状況が違う。共にクエストに臨む仲間たちと、守るべき一般人の同行者が味方にいる。そうして頭数が多ければ多いほど、意思の統一が難しくなり、動きも目立ち易くなる……何においても危険度が跳ね上がる。それでも見捨てるわけにはいかない、必ず一緒に助かってみせる、それが冒険者として当然の考えというものだ。
それに、かれら身内だけではない。村の子どもらもまた、救いたい対象だった。大人たちがどんな悪事に手を出しているにせよ、まだ無邪気なあの子たちに、親世代の罪を背負わせる道理などあるだろうか。それにヴィヴィアンの推察どおり、数日後に控える別の“儀式”で、“ウェンディゴ・エディ”を退ける目的で、あの少年が魔獣化の薬を飲まされてしまうのだとしたら。何も知らぬ子どもたちが、ある日突然、忌まわしい因習の犠牲になっているのだとしたら……。それはやはり、知ってしまった責任のある立場として、絶対に食い止めてやるべきことだ。
村を出た後の危険のことを考えても、ウェンディゴを先に倒しておく選択肢は有効だ。少なくとも、子どもたちを儀式から遠ざけられる確率が上がるだろう。彼らをすぐに連れ出すのは正直なところ厳しいが、だが敵はあの魔物だけでない……いつ刺されるかわからない恐ろしさだけで言えば、今いるフィオラ村の人々のほうが、ギデオンには遥かに恐ろしい。故に手を入れるなら、まずは村のほうからだ。
──そこでギデオンが提案したのは、真っ先にこのフィオラ村の弱点を突くような作戦だった。フィオラ村はおそらく、顧客である貴族に命じられるからというだけではなく、自分たち自身の意志で、この峡谷にとどまっている。それはおそらく、例の“花”が、そしてその蜜を採る蜂が、この土地に根付いているからだ。だとすれば、“花”と“蜂”に何かトラブルが起きたとき、村はよそ者どころじゃなくなる。それに、あの“骨の結界”。あれが崩れればウェンディゴが入り込みやすくなるという話であるから、もしそれが乱されたと聞き知ったなら、その修繕に奔走することになるだろう。故に、上手く虚実を織り交ぜれば、自分たちの動きやすいように村を操ることができる。
しかしこの多面的な情報戦は、ギデオンとヴィヴィアンだけでは到底手が足りない、という問題がある。離れ離れになればなんとかなるかもしれないが、それでは互いを守れない。村に残っている冒険者としてはエデルミラがいるだろうが、ギデオンは今の時点で、彼女を戦力から除外していた。一応、身内ではある……が、正直なところ、信頼はできない。この村に来てからというもの、彼女は様子がおかしかった。それに昨夜のクルトとの会話や、先ほどの村人たちが口走っていた件もある。もしかしたら、冒険者たちがあっという間にバラバラに分かれてしまったことさえ、報告を受ける彼女の側に作為があった可能性は否めない。
だから自分たちには、どうしても別の協力者が必要だ。特に、村からの信頼を既に勝ち取っているような。──例えばその賑やかさで、村人たちすら呆然とさせ、全く警戒されないような。)
……まずは、レクターを探しに行こう。あいつも薄々、この村の発展の仕方がおかしいことは察しているはずだ。
(吹雪のベールが覆い隠す陸の孤島に閉じ込められ、仲間たちは皆敵の術中。そんな状況に、先ほどまでは重苦しい絶望感さえ漂っていたはずだ。しかし今はどうだろう。ヴィヴィアンと今一度抱き合い、元気になったその表情を眺めるだけで、己の胸の内にみるみる希望が湧き上がってくるのを感じる。それは不思議なようでいて、しかし思えば納得するものでもあった。戦闘職である自分に対し、相棒の役職はヒーラーだ。彼女の無邪気な明るさは、いつだって味方を癒し、悪しきものを力強く薙ぎ払ってくれる。
現に今、「そうだな……」と。箱の中から外に出て、周囲の製薬設備を眺め渡したギデオンは、その横顔を随分と前向きなそれに変えていた。相棒の問いに立ち止まり、顎に手を添えながら、真剣に思案する。窓から差し込む日の光は、先ほどよりいくらか弱い──夕刻が近づいている。儀式までそう時間がない、夜を迎えれば洞窟組の救援も困難になる、しかし慎重さは必要だ。)
全面的に欠席するのは、間違いなく悪手だろう。だが、ラポトはおそらく、この村独自のやりかたの儀式だ。そうなると、宗教的な理由にかこつけて何を強いられるかもしれない。諸々の用意だって、いつも村がしている以上、何かを盛られても気づけない可能性がある。
だから……タイミングを読んで遮ってくれる“協力者”が、必要になるだろうな。
(──ギデオンとヴィヴィアンが、最終的に目指すもの。それはこのフィオラ村、ひいてはヴァランガ峡谷を、無事に脱出することだ。
これが自分たちふたりだけなら、きっとそう難しくはなかった。しかし今回は状況が違う。共にクエストに臨む仲間たちと、守るべき一般人の同行者が味方にいる。そうして頭数が多ければ多いほど、意思の統一が難しくなり、動きも目立ち易くなる……何においても危険度が跳ね上がる。それでも見捨てるわけにはいかない、必ず一緒に助かってみせる、それが冒険者として当然の考えというものだ。
それに、かれら身内だけではない。村の子どもらもまた、救いたい対象だった。大人たちがどんな悪事に手を出しているにせよ、まだ無邪気なあの子たちに、親世代の罪を背負わせる道理などあるだろうか。それにヴィヴィアンの推察どおり、数日後に控える別の“儀式”で、“ウェンディゴ・エディ”を退ける目的で、あの少年が魔獣化の薬を飲まされてしまうのだとしたら。何も知らぬ子どもたちが、ある日突然、忌まわしい因習の犠牲になっているのだとしたら……。それはやはり、知ってしまった責任のある立場として、絶対に食い止めてやるべきことだ。
村を出た後の危険のことを考えても、ウェンディゴを先に倒しておく選択肢は有効だ。少なくとも、子どもたちを儀式から遠ざけられる確率が上がるだろう。彼らをすぐに連れ出すのは正直なところ厳しいが、村にとっての脅威を先に排除しておけば、次に村に踏み込むまでの間、子どもたちの運命はおそらく保留されるだろう。しかし、ギデオンたちにとっての敵は、何もあの魔物だけでない……いつ刺されるかわからない恐ろしさだけで言えば、今そばにいるフィオラ村の人々のほうが、己には遥かに恐ろしい。故に手を入れるなら、まずは村のほうからだ。
──そこでギデオンが提案したのは、真っ先にこのフィオラ村の弱点を突くような作戦だった。フィオラ村はおそらく、顧客である貴族に命じられるからというだけではなく、自分たち自身の意志で、この峡谷にとどまっている。それはおそらく、例の“花”が、そしてその蜜を採る蜂が、この土地に根付いているからだ。だとすれば、“花”と“蜂”に何かトラブルが起きたとき、村はよそ者どころじゃなくなる。それに、あの“骨の結界”。あれが崩れればウェンディゴが入り込みやすくなるという話であるから、もしそれが乱されたと聞き知ったなら、その修繕に奔走することになるだろう。故に、上手く虚実を織り交ぜれば、自分たちの動きやすいように村を操ることができる。
しかしこの多面的な情報戦は、ギデオンとヴィヴィアンだけでは到底手が足りない、という問題がある。離れ離れになればなんとかなるかもしれないが、それでは互いを守れない。村に残っている冒険者としてはエデルミラがいるだろうが、ギデオンは今の時点で、彼女を戦力から除外していた。一応、身内ではある……が、正直なところ、信頼はできない。この村に来てからというもの、彼女は様子がおかしかった。それに昨夜のクルトとの会話や、先ほどの村人たちが口走っていた件もある。もしかしたら、冒険者たちがあっという間にバラバラに分かれてしまったことさえ、報告を受ける彼女の側に作為があった可能性は否めない。
だから自分たちには、どうしても別の協力者が必要だ。特に、村からの信頼を既に勝ち取っているような。──例えばその賑やかさで、村人たちすら呆然とさせ、全く警戒されないような。)
……まずは、レクターを探しに行こう。あいつも内心、この村がおかしいことに気がついているはずだ。
──はいっ!
( それはただでさえ行動の読めない村民を、さらに撹乱するという危険な作戦。しかしそんな大胆な作戦も、この人が言うならできるのだろう。そんな信頼溢れる瞳を輝かせ、ぴんとたった赤い耳を元気に震わせ頷き、村の方へと探し歩けば。儀式の直前とはいえ、先程も村の男達が訪れたばかりだ。悪いことに村からこちら側には、この隠された養蜂場以外にめぼしいものは何も無く、ここで見つかれば言い訳ができない。故に二人が村から養蜂場への最短ルートを避けるように、村への帰路を少し遠回りしても尚。その聞きなれた大音声のお陰で、話題の相手はすぐに見つかり。
そうして戻った小屋へと軽い防音魔法を施し、養蜂場で見聞きしたそれを伝えると、さしもの名物教授も流石に驚いた様子を隠せない様子で。しかし、ふと何か逡巡した様子で唇を噛むと「……なら、こちらはお役にたちそうでしょうか」と、広げてくれたのは"採掘場"の名を冠した──「地下洞窟の地図じゃないですか!?」そんなビビの声には誇らしそうに胸を張るくせして、ギデオンがそれを覗き込もうとすれば居心地悪そうにそわつくのだから難儀な御仁だ。「ひっ、いやまあお二人のお話を聞く限り、巧妙に嘘をつかれてる可能性ははぁっ、でも一応こうなる前に聞いたものですよ……」と時折。具体的にはギデオンが身動きする度、声を裏返していたものだから。ギデオンがその作戦を発した途端、とうとうフリーズしたかの如く動かなくなってしまった教授に、まさか仕事中のギデオンの生声に感極まってしまったかと心配したビビは悪くないはずだ。とはいえ、これでも一応この分野では無視できない影響力を誇るレクター教授は。(決して推しのご尊顔の良さにうち震えていただけではなく、)いくら複数の村民達が犯罪に手を染めてるとはいえ。おそらく無関係な村民達も代々大切にして来た、結界への信頼を揺るがすような大それた行為に息を飲んでいたらしい。「……でも、それしか、ないんですね」と苦しそうに頷いてくれたレクターに、ギデオンと視線を合わせて頷き合うと。夕方の儀式に向け小屋の外から声がかかったのは、大方の作戦を共有し終わったその時だった。 )
(村の地下洞窟の地図。それは願ってもみなかった、他の冒険者仲間たちを捜し出すための道しるべだ。しかもレクター教授は何と、こんな状況に陥る前から、村の最長老の老婆に聞き込みをして作ったという。先方の記憶力の信憑性やら、当時の状況と変わっている可能性やら、そういった問題はあるにせよ。少なくとも、今のフィオラ村を動かしている世代の恣意に汚染されていない情報……そう捉えられることだけは、この上ない僥倖で。
小屋の外に出る直前、ぽん、とレクターの肩に手をやる。そうして、びくっと縮こまった大男の目をまっすぐに覗き込み、「よくやってくれた」と、熱を込めて囁いておく。それはギデオンなりの──“推し”やら何やらといった文化に、てんで疎い朴念仁の──真心からの労いだったが。はたしてレクター教授ときたら、先ほどまでは深刻に張りつめていたその顔を、途端にぼわっと薔薇色に染める始末だ。……出てきた三人を見た村人が、非常に露骨な困惑顔を晒していたのは、主にそのせいだろう。まあそれはそれで、彼と一緒にギデオンたちも、今までの話し合いを深く突っ込まれずに済むことに繋がってくれたのだが。このレクターという男、つくづく珍妙な幸運をもたらしてくれるものである。)
(……しかしながら。その後の三人、そして後から合流したレクターの助手たちを待ち受けていたものは、そんな愉快な時間ではなかった。寧ろ、このフィオラ村でこれまで眺めてきたなかで、最も忌まわしく悍ましい──最悪の因習だ。
フィオラ村の祝祭第三夜の儀式、“ラポト”。それはまず、村の家々を、松明を掲げた参列者が練り歩くことに始まった。何をするのかと思ったら、その家々のいずれかに住む年老いた三人の男女を、輿に乗せて運び出すのだ。苔むした岩のような老婆、枯れ木のように痩せた老爺、そして古木のような農夫。最後のひとりは、今朝方ギデオンとヴィヴィアンが世話になった、あの農夫の老人である。彼らは皆、何か薬でも飲んだかのように、痺れて動けない様子をしている。……この時点でレクターは、「まさか」と小さく口走ったが。確信が持てないために、何も言いだせなかった様子だ。
輿を担いだ村人たちは、更に山道を練り歩き、フィオラ村を見渡せる崖の麓の辺りまで来た。ここでほとんどの村人は待機し、輿を担ぐ者たちだけが、崖の上まで登っていく。傾いていく熱した鉄球のような夕陽、その嫌に真っ赤な日差しが、不気味に山肌を照りつけて。崖上の人々の様子、そしてその真下で待ち構える、斧やこん棒を構えた男たちの様子を、ぎらぎらと浮かび上がらせる。
ここに来て、ようやくギデオンも、今から何が行われるのかを本能的に察してしまった。今更この場を離れられない──「ヴィヴィアン、」と、無性音で隣の相棒に呼びかける。そうして、答えを待たず、その顔を見ずに、相手を横から引き寄せて、“それ”を直接見てしまわぬよう、己の胸元に抱こうとしたのと。三人の老人が、崖上から次々に軽々と放り投げられ、あっという間に重力に吸い込まれていき──見るも無残に地面へとぶつかったのが、ほとんど同時のことだった。
それからの光景を、ギデオンは血走った目で見つめ続けた。──散らばって尚不気味に蠢く、まだ死にきれない老人たち。その周囲に、各々道具を掲げた男たちが群がり、それを一斉に振り下ろしていく。生々しい音の数々。周囲の村人たちの間で、まだ年若い者が息をのむ気配。「目を逸らすな」「いつかはおまえたちも、俺だってああなるんだぞ」と、幾つか鋭い囁きが起こる。……やがて、頭に黒布を巻いた中年の女性が近づいた。もはや残骸でしかない老人たちの頭部に、手に持った鍋の中身を塗り付けていく。何かと思えば、今朝がた煮ていた、モロコシ粥の残りのようだ。あれはたしか、日中出かけていた村人たちが、儀式の一環だと言って、魔獣用の罠の餌に供えていたのではなかったか。
──棄老文化。それは、各々詳細こそ違えど、世界各地に存在している、人類共通の恐ろしい儀式である。しかしいずれの類型でも、本来ならば、食うに困った貧しい村が、仕方なく口減らしを図るために行うだけのもののはずだ。今や富んだトランフォード、そうでなくとも年中農作物の獲れるフィオラ村で、わざわざ老人を殺す意味など、いったいどこにあるというのか。……そして、それだけではない。後から聞いた話によれば、ここまでの単なる老人殺しであれば、民俗学者のレクターも、知識としては聞き覚えがあるようなものだったらしい。しかし、フィオラ村が異常なのは、更にここから先だった。
静まり返った参列者たち、やがてそのなかから、幾人かの女性たちが進み出る。何かと思えば、その服を脱ぎ、恥らいもなく上裸を晒していく。それも、皆で美しく、声をより合わせて歌いながら。<はなをなふみそ、はなをなふみそ、あかきもちづきたくよさり>……。子どもたちが歌っていたそれよりもどこか暗い、不気味な調べのなかで。女たちはひとりずつ列になり、頭に黒布を巻いている、あの中年女の前に立つ。そうして、何が始まるのかと思えば。その中年女が、老爺ふたりの遺体に近づき、躊躇いなくその手を突っ込み。掌を血に染めたかと思えば、順番に待つ女の腹に、どんどん塗り付けはじめたのだ。──適当に、ではない。それはまるで、そっとするほど真っ赤な、見覚えのある“花”の形にそっくりだった。それを見下ろした女たちは、だれもが心底嬉しそうに微笑み、また参列者たちのなかへ戻っていく。よくよく見れば、彼女たちのほとんどが、少し、あるいは明らかに、腹が大きくなっているのが、松明の灯りでわかった。多くは妊娠しているのか。──殺された老人の血で、胎の赤子を祝福するのか。
隣にいるヴィヴィアンを、ギデオンは絶対に絶対に離そうとしなかった。周囲の村人たちから、まるで促すような嫌な視線を感じ取りはしていたものの。それでも決して譲らぬと、その全身が放つ気配で、無言の気迫で拒み続けた。──『ヤヤがなくては、意味がない』。そこで殺された老人が、今朝がたギデオンに言っていた、あの妙な台詞を思いだす。『あれはおまえの雌鶏だろう。良い卵を産みそうだ、産めるだけ産ませておきなさい』。……こういうことだったのか、と遅まきながら理解して、悍ましさに腸が煮えそうになる。
察するに。ラポトというのは、元は棄老に始まったはずが、今では老人の輪廻転生をもたらすための儀式になっていったのだろう。それも、この男尊女卑が当たり前のフィオラ村では、男だけに限る話。血を塗りたくる係の女は、ともに殺されたはずの老婆を、まるで省みる気配がない。ともかく、殺された老爺たちの血は、今生きている女たちの腹に、フィオラ村にとって神聖な“花”の形で纏わりつく。そうして、その胎内の“卵”に宿る、と信じられているようだった。老いた体を壊して捨て去り、赤子の体に乗り移ることで、再びフィオラの男になる。実際に、そんなことを祈るような歌が、あちこちから上がっている。──冗談じゃない。そんな悍ましい儀式のなかに、己のヴィヴィアンを連ねさせるものか。その輪廻転生はどうせただの信仰だろう、それでもそんな不気味なものに、彼女を巻き込ませるものか。
傍にだれかが来た。視線を向ければ、むらおさのクルトである。傍らには蛭女、そして初日にギデオンたちを迎えた、あの十代半ばの双子たち。彼らの肩越しに、鼻が歪んだままの男、イシュマの面も目に入った。砂利を踏む足音がする。方向と距離からして、斧やこん棒を持っていた、儀式の下手人たちだろう。気がつけば日が落ちていた。薄闇が忍び寄り、松明の火がやけに鋭く爆ぜるなか、いつのまにか四方の村人たちにじっと見つめられている。その娘にも参加させろ、その腹に血を塗らせろ。そんな無言の視線の圧が、ギデオンたちにのしかかる。それでもギデオンは、明確な言葉は出さずに、クルトを激しく睨み続けた。十秒か、二十秒か。斧を持ち直すかずかな音がして、思わず魔剣の柄に手をかける。……そのときだ。
「あのお、」と。唐突に、場違いなほど雰囲気の違う、よく通る声が上がった。レクターではない、その助手だ。「あのー、皆さん。今の、聞こえませんでした? 何か、魔物の唸り声……みたいなものが、したような」。
クルトの顔色がさっと変わった。「魔物? どんなだ。どんな声だ?」。辺りに張りつめていた、じっとりと重い緊張感も、突然その湿度を失い、嘘のように引いていく。助手に詰め寄る村人たちに、ほら、と彼が促せば。確かに遠くから、夜気を切り裂くおどろおどろしい唸り声が、ほんのかすかに聞こえてきた。参列者たちが動揺し始める。どうして──まだ準備が──英雄が──まさか、あいつら。
「静かに!」と、クルトが大きな、落ちついた声で呼びかける。今夜はもう日が沈んだが、“骨の守り人”たちは、今から巡回に出掛けること。儀式を急ぐことはない、急いては事を仕損じる。しかし、皆今宵は家から出ぬように。厳重に守りを固め、女子どもは男たちに従いなさい……。
そんなこんなで有耶無耶になり、ラポトはあっさりお開きとなった。慌てた様子で村に戻る人々、その隙を縫うようにして、ちらと助手のほうを見る。一瞬だけこちらを見た助手は、軽く頷きかけてきた。あの会合の場にはいなかったはずだが、やはり狙ってギデオンたちを助けてくれた様子だ。儀式を前に未だ顔色の悪いレクターは、彼が支えてくれるようだった。
ならば、こちらはこちらで、と。ヴィヴィアンの様子を確かめようとしたギデオンに、ふとあの蛭女が近づいてくる。「あら、そう構えないで」……なんだか、嫌に優しい声音だ。「昨晩の事件があって、私たちも学んでいるのよ。よそから来た人に、うちのやり方の無理強いはしない。安心して、私が代わりに皆に言い聞かせてやるわ」。
当然、信じられるわけもないものの。村の中では権力者らしいこの女が、ギデオンとヴィヴィアンを未だじろじろ見る連中を追い払ってくれることは、正直なところにありがたい。故に、今回だけはギデオンも、彼女に合わせて歩いていくことにした。無論その手は、ヴィヴィアンの片手をしっかりと握っている。周囲に目をやる蛭女の目が、時折すうっとそちらを見るが、すぐに他所へと逸らされる。
忌まわしいラポトの跡地を後にして、谷底に戻る道すがら。柔らかなヴィヴィアンの手を、今一度強く握り込む。……震えが起こりそうなのを、奮い立つことで抑えたかったのかもしれない。斧やこん棒を振り上げる村人たち、その凄惨な顔つきが、未だ脳裏にこびりついている。フィオラ村は……この村の人間は、あんなことをしてしまえる連中であることが、ギデオンには恐ろしかった。自分がどうなるか、ではない。──あの残虐さが、ヴィヴィアンに及ぶこと。それを、何より恐れていたのだ。)
(──まだその時でない筈なのに、この谷にウェンディゴが出た、という緊急事態。しかし実のところ、その正体は、ギデオンとヴィヴィアンが仕掛けておいた罠である。
養蜂場から遠回りをして帰るとき、ギデオンが生木を削り、ヴィヴィアンが魔法をかけて、高木に掲げた“嘘笛”。それは野営時の冒険者が、他の魔獣を近寄らせぬよう夜通し吊るしておく、風を受けて鳴く道具だ。ひとつの場所に二日も滞在していれば、夕方の山にどんな風が吹き渡るか、冒険者であるギデオンたちが把握、計算するのは容易い。まさかフィオラ村も、特定の風を受け、時間差でウェンディゴそっくりに鳴く笛があるなどと、夢にも思わないだろう。
そこに後は、ほんの少し後押しをすればいいだけ。事前に打ち合わせているギデオンとレクター、そして後から事情を共有した助手と、重ねるように一芝居打ち、村の周囲の“骨の結界”が乱れているというような噂を、それとなく流しておく。その方向はあまりにも様々で、ひと晩で回りきるのは土台無理な話だ。そう判断したクルトは、翌朝の巡回も計画し始めた様子だった。
これで、今宵から明日の朝にかけて、幾らかこちらに余裕ができた。その間に、ギデオンたちは巡回の薄い方角に出て、地下洞窟の中にいる仲間たちを捜す……その予定、だったのだが。
ここに来て、こちら側の計画も変更すると言いだしたのは、他でもないギデオンだ。自分がもう一度、念には念を重ねて、村人たちの動向を確かめてくる。その間、レクターと助手は、ヴィヴィアンのそばについていてほしい。情報を掴みに行くのは自分だけで充分だ、寧ろ複数人で動いたら怪しまれてしまうだろう、と。
それは結局のところ、己の大事な相棒を、これ以上村人の目に触れさせたくないという、ギデオン自身の深い恐れのせいだった。恐怖は目を曇らせる、判断力を奪ってしまう。少し考えれば、決して彼女から離れない、という昼間の誓いを思いだせたろうに。事態を安全に動かすためには、自分が多少の危険を呑めばいい、と。──そんな無謀を推し進めた結果、ギデオンは自らの身で、その過ちを思い知ることになったのだ。)
(──鈍痛がする。吐きそうな気分で、それでもぐらぐらと不安定に、己の意識が浮上する。ギデオンは薄目を開けた。石のように起き上がれないまま、霞む目で辺りを見れば。松明に照らされたそこは、ぐるりを杭で閉ざされた、薄暗い牢のような場所だった。
……何故、自分はここにいる。自分はたしか、ヴィヴィアンたちを小屋に待機させてから、村の様子を見に行って……。ああ、そうだ。“具合が悪いというものだから、ラポトのあいだも村に残した、あのエデルミラという女がいない”。そんな話を小耳に挟み、事情を知っているはずのクルトの元に、向かおうとしていたはずだ。そこから、何が……。
ずきり、と鋭い痛みが走る。顔を顰めながら起き上がろうとして、やはり力が動かない。頭をずらせば、後ろの部分が湿っているのが、感触でかろうじてわかっら。……そうだ、あのとき。がつん、といきなり後頭部に衝撃を喰らったのだ。思わずよろめいたその隙に、さらに何かを嗅がされて、そこで意識を落とされてしまった。図られたのか、村人に。だとしたら──だとしたら、ヴィヴィアンは!
胸の奥を恐怖が刺す、今にも飛び出そうと、まずは起き上がろうとする。だがしかし、自由にならない。あのとき嗅がされた薬のせいか、吐き気と頭痛、並のように押し寄せる朦朧とする意識のために、石床に這い蹲ったまま動けない。泡を吹き零しながら、それでももがこうと試みる。時間の感覚がまるでない、ここには窓が見当たらない、あれからどれだけ経った、ヴィヴィアンは、レクターたちは! その焦燥に胃の腑を焼かれる、なのに体が言うことを聞かない。
そうして、手負いの獣じみたギデオン以外は何も動かぬ、この静まり返った空間に。──やがて、こつり、と足音が響いた。)
( 「──あら、もう起きていらっしゃるの? さすが冒険者様ですわね」そこは昼間に確認した座敷牢とはまた違う、冷たく暗い石牢の中。ぐったりと項垂れたギデオンの前にしゃがみ込んだ女は、その蛭のような唇を歪めて笑った。こんなところに閉じ込めておきながら、手にしているのはお湯を張った小さな手桶に、清潔に見える真っ白なタオル、反対の手には救急箱すらぶら下げて。ずっと欲しかったものが手に入った、そんな満足気な笑みを浮かべると、もしギデオンがその手錠ごと身動きをして、けたたましい金属音を響かせようと全く動じることはなく。相手を見下ろすその視線には、うっとりと慈しみさえ感じさせるだろう。
「その傷、痛むでしょう……丁重にお連れしてって言ったのに」そう色っぽく吐息を漏らして、はじめた手当をギデオンが大人しく受けようと、はたまた荒く拒否しようと。女の顔に浮かぶ表情は、まるで待望のペットに噛まれた子供のように明るく、嬉々とした色に濡れ。「あの可愛らしい方を案じていらっしゃるのでしょう」と嗤うと、続けて──お気づきですわね?と、骨の結界をもって尚、毎年ウェンディゴの襲撃があること。その襲撃を逸らすために"儀式"で"英雄"が作られること。その薬の材料に必要な大量の血液のために、冒険者たちは受け入れられたことなどを、くすくすと上機嫌に語ってみせ。「特に魔力をたっぷり含んだ血液は貴重だわ」と、暗にビビの安全を人質に艶めかしくギデオンにしなだれかかると。「ああ、ごめんなさい! でもきっとそんな恐ろしいことにはなりませんわね。だって、あんなに愛らしい方だもの。血液にしてしまうには惜しいって、誰だってそう思うでしょう?」なんて。目敏く獲物の弱みを見抜き、執念深くとうとう爪をかけた女の敗因は、そんな"愛らしく""可愛らしい"カレトヴルッフのヒーラーを侮ったていたことだった。 )
──ギデオンさん! ご無事ですか!?
( 魔法使いにあるまじき。その魔法の杖を女の頚椎へと物理的に振り下ろしたヒーラーが、気を失って倒れる蛭女の肢体を床に横たえる手つきといったら、普段の彼女を知る人間から見れば、些か乱暴……と言うよりは、倒れる相棒を目の前に気遣う余裕もなかったのかもしれない。夕刻の悍ましい儀式の悪意から、相手に庇ってもらった結果。本来ビビが背負うはずだった分まで、相手に多大な精神的負担を負わせていたと気がついたのは、事が起きてしまった後だった。
帰ってこない相棒を探し歩くうち、"所有者"が失せた隙を狙ったイシュマに見つかってしまったのは、今となっては僥倖だった。「あの男なら儀式を見て逃げ出したよ」 だなどと、絶対にありえない嘘でビビを追い詰めた気になって、態々自ら顛末を知っていると白状してくれるなんて有難いことだ。昨晩、眠れずにいたところ、ギデオンが少し分けてくれた魔力の煌めきは、彼がまだ生きていることを力強く示して。それだけで、イシュマを目の前にして再び硬直してしまった身体も、熱く解けていくようだった。──己の身さえ守れない、無能な娘に悦びの表情を隠さない男の腕にすがりつき。「……っせめて、人のいないところで、」と精一杯惨めで可哀想な様子で囁いてやれば。あとは拍子抜けするほど簡単だった。共同生活を主とするフィオラには、人目につかずことにおよべるような場所など殆どない。男が嬉々としてビビを連れ込もうとしたのは、昼間に訪れたばかりの製薬工場の地下フロアで。当然、彼処は彼処で勝手に動いているらしい蛭女とすれ違えば。──彼女がギデオンさんの失踪に関わっているんじゃないか、と思い及んだのはただの女の勘だったが。案の定、囚われの恋人の姿を発見し、それもぐったりと地面に這いつくばらせている蛮行を目にすれば。別部屋のイシュマが睡眠魔法で文字通り"おねんね"しているのに対して、尾行した女への対処が雑なそれになったのは許されたいところだ。
そうして、蛭女を床に打ち捨て、掻き抱いたギデオンごと聖魔法の温かな光で部屋の中を照らし出すと。恐怖、不安、安心それら全てで滲む涙目を堪えて、ふるふると震えながらギデオンの顔を覗き込むと、その手足を拘束する枷に気が付き顔をゆがめて、 )
……逃げましょう、立てま……、…………。
鍵、どこにあるか分かりますか?
──ヴィ、ヴィアン……
(ギデオンの薄青い目に、ようやく確かな焦点が取り戻されて。見慣れた相手のかんばせを、一瞬ただただ見つめ返すと、問いかけには答えぬまま、掠れた声で呆然とその名を呼ぶ。数秒の静けさ、牢内を照らす火影だけが小さくパチパチと爆ぜる音。やがて追いついてきた情動に、ぐしゃりとその顔を歪めたかと思うと、愛しい恋人の肩口に、己の額を強く強く押し当てる。──ああ、無事だったのか。無事でいてくれたのか。
目を閉じ、引き攣る息を吐いて。普段は広く大きな背中を、今ばかりは情けなく震わせる。そうして、決して都合の良い幻ではなく、現実だと確かめるために、こちらも相手を抱き締めようと両腕を広げかけて。しかしがちゃん、と無粋な金属音に、それは呆気なく阻まれた。動きを止めたギデオンが、今さら気づいて見下ろしたのは、両の手首の太い手錠だ。視線を滑らせていった先、足首のそれぞれにまで、似たようなものを嵌められていた。さらにこちらの鎖は、石床に半分埋まった太い輪っかのようなものに繋がれているらしい……悪意を感じるほど、がっちりと、この村に縫い留めるかのように。
いつもならこんなもの、相棒のヴィヴィアンの誰より強火な攻撃魔法が、簡単に断ち切ってしまえるはず。しかし本人がその気配を見せず、鍵の在り処を尋ねるということは、と。拘束具の表面を確かめたギデオンも、遅れてその材質に気づき、忌まわしそうに悪態をついた。──絶魔鉄! 特殊な鉱石から精錬される、魔法を通さない金属だ。フィオラ村ではこんなものまで生産していたというのか……これを断つ道具は、人外の魔族が作った特殊な道具でなければならないはずだ。無論そんなものは辺りを見回しても見当たらないし、かといって、鍵の在り処をギデオンは知らなう。さっと視線を向けた先、そこにはあの蛭女が気絶したままでいるものの。仮に自由のきくヴィヴィアンがその全身を検めたところで、この牢を開けた鍵ひとつしか見つからないことだろう。万一ギデオンに奪われて、逃がすことのないようにするためだ。
ちゃりり、と鎖を鳴らしながら、己の態勢を立て直し。短く鋭い深呼吸をひとつ、精神と思考を落ち着けて、状況を打破する手を冷静に考える。そうして、不意に腰元の手袋を、繋がれたままの手で器用に解いたかと思えば。中から掻くように取り出したのは……いつぞやの船上でヴィヴィアンがくれた、深い藍色の包みの中身だ。魔法陣を編み込まれた純白の貝殻は、ギデオンが倒れたときに少しひび割れてしまっていたが。それでもそのおかげで、そこからヴィヴィアンの聖の魔素が流れ出し……そうして目覚めさせてくれた分、今は空になっていた。今度はそこに、己の得意の雷魔法を器用に注ぎ込んでいく。効果自体は僅かなもの、しかし相性の良いヴィヴィアンの魔素に少しでも促されれば、途端に派手に増幅されて再生されることだろう。もう一度それを包みに入れ、相手のほうに転がすと。相棒の目を真剣に見つめたギデオンの瞳には、先ほどまでとは全く違う、力強い光があった。)
……ヴィヴィアン、悪い。この錠の鍵と、俺の魔剣を探し出してくれ。いざとなったらこれを使っうんだ。袋越しでも、おまえの魔素には間違いなく反応するだろう。
──……助けに来るのが遅くなってしまってごめんなさい。
もう大丈夫ですからね!
( あんな儀式を見せつけられたその直後、こんなに乱暴な方法で拉致されて、どれだけ恐ろしい想いをしただろう。そう伝わってくる切ない震えをごくごく自然な意味でとらえると。相手の代わりにもう一度、広げた腕で広い背中全体を撫でさすり、最後にもう一度胸の空気が抜けるほど強くぎゅうぅっと力強く抱きしめる。それからゆっくりと身体を起こしながら、そっと相手の様子を覗き込む表情は、頼もしい相棒、愛しい恋人の無事な姿を目の前にして。これ以上なく分かりやすいほど輝いて、未だ予断を許さぬ状況に、安易な笑みこそ浮かべぬものの、キラキラと素直な使命感に燃えていた。
そうして、なにやらギデオンが腰の袋をごそごそやるのを、容赦なく隣の蛭女の衣服をひっくり返しながら振り返れば。自分の方が身動きとれぬ様をして、身を守るのに有効な術をこちらに寄こしてこようとするギデオンに一度は強く抵抗して。それでも、遠征の荷物の隙間にでもねじ込んでもらえればと贈った玩具が、他でもない相手の懐から出てきた時点で、心底嬉しく思ってしまったビビにはそもそもが分の悪い勝負だ。最終的に──お前が使うんだから意味があるんだろう、俺が使ったって威力が出ないといった趣旨の完全な正論に押し切られて、複雑な表情で藍色の包みを受け取れば。「すぐに戻ります」と、未だ気を失っている女を担ぎ上げ、しぶしぶその場を離れたかと思うと、それこそ玩具を投げてもらった大型犬の如き速度で舞い戻ってきたのは、製薬工場となっている上階に人の気配を感じたためで。ぐったりと項垂れている女の身柄は、早々にイシュマと同じ部屋に押し込んで、外から軽くバリケードで塞いでおく。そうして、ふたつの探し物のうち魔剣なんて目立つもの、この短時間で処分できているわけがなく、慣れ親しんだ魔素を辿ればたちまちガラクタの奥に押し込まれていたのを発見できたのはよかったが、しかし、問題はごくごく小さな鍵の方で。ひとつの部屋に、ふたつのドレッサー、みっつのテーブルに、キャビネットはよっつほどひっくり返したところで。焦って周囲を見渡したビビの視界に映ったそれは、鮮やかなオレンジ色が可愛らしい、しかし、その存在感は全く可愛らしくない手斧だった。──昔どこかで聞いたことがある気がする。学院で受けた授業中の与太話の類だっただろうか。絶魔鉄は非常に取り扱いの難しい、加工するには特殊な道具を必要とする鉱物で、それ故に。鍵のような複雑な構造を作るのは難しいのだと。だから絶魔鉄の手錠で拘束されたら、(別の物質で構成されているはずの)鍵穴を狙えよ──なんて、そんな機会があるものか笑ったのはいつのことだったか。 )
……ギデオンさん、これは“鍵”です。いいですね?
…………………、
(……ずりり、ずり……、ずりりり。何か重たい金属を引きずる音、それを何の気なしに振り返ったギデオンは、しかしその精悍な面差しを、一気に真顔へ陥らせた。相手がどこまでも凛と言い放つ台詞にも、「……」と無言しか返さずに。その薄青い双眸は、物騒な“それ”をガン見である。
──斧、斧か。そう来たか。いやたしかに、非常用として建物や船に備え付けるそれを、“マスターキー”と呼ぶことには呼ぶだろうが……と。そんな生産性のない独り言が、脳裏をぐるぐる駆け巡るのを、いったい誰が咎められよう。
己の状態を今一度見下ろす。両脚の枷はまだいい、鎖が随分長いから、最悪の場合はそれを引きずって歩くことになるだけだろう。──問題は、両手首の手錠。鎖が極端に短い上、その鎖が、石床の輪と繋がった長い鉄棒に接続されてしまっている。おそらくは、牢内での行動を制限するためのものだ。鉄棒の角度は好きなように変えられても、その長さより遠くへは行くことができない仕様。つまり、ここから脱出するには……ただでさえ短い手錠の鎖、その鉄の棒とも繋がった部分を、正確に、寸分違わず、破壊する必要がある。仮に万が一、斧を振り下ろす先がほんの少しでもずれてしまえば。そこにあるのは当然……ギデオン自身の、素肌の手首だ。
──それでも、迷っている暇はない。思考停止、もとい思考を切り替えて、「まず足から頼む」と相棒に促す。鎖を最大限伸ばし、そこに刃先が振り下ろされれば、派手な金属音とともに、すぐさま片脚が自由になることだろう。次はもう片方を──と、その寸前で。しかし不意に掌を掲げ、相棒に“待った”をかける。相手を見たギデオンのこめかみには、わかりやすぎるほどにだらだら冷や汗が伝っていた。
……指示した場所と、斧のは先が振り下ろされた場所、それが大きくずれている気がするのを、はたして看過していいものだろうか。今はまだ予行演習、ならば“本番”前にできるだけ精度を上げさせたいとばかりに。冷静さを取り繕った硬い声音で、相棒に再度指示を出して。)
……ヴィヴィアン。こっちの鎖も、今のと同じ長さのところで打ってみてくれないか。
ああ、そうだ、その位置……“同じところ”を、正確に、そうだ。
同じ長さ……ですね、わかりました……
( キィン──!! と再び派手な金属音が響いて。今度の一撃は、なんと見事に右脚の鍵を貫いて、パカリと無傷でギデオンの脚を解放してみせる。しかし、二人の浮かべる表情が真っ青に浮かない色をしているのは、目安にしたはずの左の鎖は凡そ10cmはたっぷり残っているからだ。こちらはこちらで、走って鎖が揺れようと幅の広い足枷がすね当てになり、揺れる鎖の衝撃から守ってくれる中々どうして絶妙なバランスではあるのだが──「け、結果オーライということで……」と、冷や汗を拭うヴィヴィアンの、その斧の握り方はまだ悪くない。寧ろ意外なことに剣術の経験を感じさせる綺麗なフォームがあるからこそ、その誤差ですんでいるというべきか。しかし、絶望するべきは一朝一夕でどうにもならない、打撃武器を使うには純粋な腕力、筋力の不足で。斧を振りあげれば、その重さで後ろによろめき、そのまま振り下ろせば後は重力に従うだけで、軌道の微調整などままならない。──やはり本物の鍵を探してくるべきか。もしくは、イシュマに見つかる直前に、コンタクトが取れた仲間たちの中に手先の器用なハーフフットがいたような……。そう顔を上げかけたその瞬間。階上で何か重いものが激しく叩きつけられる轟音が響いたかと思うと、高く響いた悲鳴にギデオンと顔を見合わせて。 )
……!?
わ、わたし様子を見てきま……
──いや、駄目だ! こっちを先にやってくれ。
(不穏な天井を見上げていた青い目をさっと戻し、相手の言葉を鋭く遮る。松明に照らされたその横顔が必死なのは、もはや覚悟を決めたからだ。今ここには、ギデオンが知る限り最も腕利きのヒーラーがいる。ならば仮に事故が起きても、どうということはないだろう。
故に、畳みかけるように。「ひとりで勝手に動いた俺が、結局はこのざまだ。尚更、お前を独りでは……」行かせられない、と囁きかけた、その刹那。──しかし、今度は足元から。惨く突き上げるような衝撃が、いきなりふたりに襲い掛かって。
ごごごごご、と唸りを上げる、まるで大地が制御を失ったかのような大地震。その真っ只中のギデオンは、繋がれた手を咄嗟に伸ばすと、ヴィヴィアンを両腕の輪の中に庇い込んんで。鉄の縛めの忌々しさに呻き声をあげながら、それでも相手を守るように、彼女ごと地面に伏せる。……その合間にも、上階の人々の悲鳴と、“何か”が暴れ狂う気配は、ますます酷さを増すようだ。
翻弄されるだけの時間は、たっぷり数十秒ほども続いていただろうか。それがようやく収まってからも、未だ辺りへの警戒で、しばらく防御魔法の準備を漲らせていたものの。ひとまずは問題ない、と見て取ると、ようやくそれを解きながら、両の腕の肘を立て、真下の相棒を見下ろして。……は、は、と荒いままの息。その真剣な横顔には、窮地を潜り抜けたばかりの強張った色が差している。だというのに、こちらを見上げる大きなエメラルドを見た途端、勝手に箍が外れたらしく。前触れもなく首を屈めて、相手の唇を獣のようにさっと食んでは、またすぐに引き離し、その目を再び覗き込み。)
──……、怪我は、ないか。
っ!? ……な、ないでしゅっ、ありがとうございます、もう離して!!!
( グラグラと激しく揺れる大地に、あっとギデオンを庇おうとして、反対に自分が強く引き倒されてしまえば。自由に動けないギデオンの上に何かが崩れてきたらと思うと気が気でなくて、せめて両腕を廻してギデオンの後頭部を強く抱き締める。そうして強い揺れが収まると、まずはギデオンの無事の確認と──なんで、ここで自分が庇っちゃうんですか!? と。相手が大事だからこそ、自分のことを大事にしてください、そう強く強くお願いするつもりでいた言葉は──突如、近づいてきた唇に全て飲み込まれてしまって。出口を薄い唇に覆われて、すっかり行き場を失ってしまった感情は、ギデオンさんが無事でよかった。好き。だめ、怒らなくちゃ……でも、とっても格好良かった、大好き、すき、と。甘くだらしなく蕩け出していき。その上、奪うなら奪うでゆっくり味わってくれればまだ良いものを、当然この緊急事態にすぐさま身体を離されて、うっとりと潤んだエメラルドに、その首まで上気せあがった顔色をバッチリはっきり見られてしまえば。その後、見事に手錠のど真ん中を射抜いた一撃の鋭さには、明らかな私情も乗っていたに違いない。
そうしてどこかぽこぽこと、場に削ぐわない甘い棘が残った口調で(緊急事態だと言うのに、だからやめて欲しいのだ)「私はあの二人を見てきます、ギデオンさんは脱出経路の確認を」と、自分で築いたバリケードを木端微塵に吹き飛ばせば。その間も頭上のフロアから断続的に轟音が響いてグラグラと地面が揺れる度、どこかの配管が外れたのだろうか。逃げ場のない地下に大量の水が流れ込み、二人の足元に段々と水の膜が張り始めると。大人二人を引きずりながら、相棒の方を確かめて。 )
ギデオンさん……階段は!?
──駄目だ、崩れた煉瓦で塞がってる!
(相棒の呼ぶ声に、ギデオンのほうもまた、ばしゃばしゃと水を蹴りながら暗い通路を駆け戻る。背後から引き戻して間近に突き合わせたその顔は、深刻に張りつめていて。「周囲の構造まで脆くなっているから、下手に魔法で破れないんだ。それならいっそ、他の天井部分のどこかをぶち抜いてみるほうが……」、と。そう言いながら見上げたはいいが、しかしはたして、この狭い通路のどこを選べばいいというのだろう。相棒が言っていたとおり、ここがあの製薬施設の地下なのであれば、地上にある大掛かりな実験器具が降ってこないとも限らない。もし壁の厚い部分を撃ち崩してしまったら、地上階そのものが崩落してくる恐れもある。とはいえ、このままここに留まっていれば、この足元の水嵩がどんどん増していくばかりだ。耳に届く飛沫の音も、先ほどより明らかに勢いを増している。──時間がない!
策を練ろうと燃えるような目を再び戻したギデオンは、ふとその視線を、相棒が引きずっている村人たちの、気を失った面にとどめて。今や踝の辺りまで来た水をざぶざぶ鳴らして歩み寄ると、相棒からふたりを引き取り、まずは男、ついで女の頬を(こちらばかりは申し訳程度に加減を選んで)、乱暴に二、三はたく。はたして目を覚ましたふたりは、拘束されていたはずのギデオン、そして無抵抗に連れ込まれたはずのヴィヴィアンに見下ろされることで、あからさまに狼狽したが。──先ほど大地震が起きて、この地下フロアの出口が塞がってしまったこと。どこからか配管の水が流れ込み、危険な状態になっていること。それらを相次いで説明すれば、ギデオンたちの反抗に取り合っている場合ではない、と飲み込んでくれたようだ。
「非常用の隠し通路があるの、」と、蛭女が震えながら言った。おそらく水が苦手なのか、じわじわと上がる水面に向ける目に、はっきり恐れが浮かんでいる。「万一の時のために、村の魔導師しか解けない鍵がかかっていて……でも、ここよりも低まったところに。だから、急がないと──通れなくなるわ!」
──かくして四人は、今やあちこちから水が激しく噴き出す地下を、死に物狂いで駆け抜けた。蛭女の先導した先、確かに鉄格子のあるそこは、ほんの少し階段で下る構造になっているせいで、既にかなりの水嵩のようだ。「開けてくれ、早く!」と命じ、先に水に飛び込んだ魔導師イシュマが、必死にぶつぶつやる間。ヴィヴィアンと蛭女を先に扉に近づけ、自分は背後を振り返って、時間稼ぎの魔法を起こす。せいぜい二秒やそこらしか保たぬ、無属性の魔法障壁。それでいい、この数秒の間だけ、こちらに来る水を押し返せるなら。しかし、いよいよ飛沫が派手になったことで、通路の松明の幾つかが次々にかき消され、地下通路の視界が不安定になりはじめた。明かりがなくなれば命とりだ──頼む、早く、一秒でも早く!
そうして、ついにがしゃんと扉が開き。イシュマ、蛭女が我先に滑り込み、次にヴィヴィアンを行かせようとしたところで──再びがしゃん、と。無情な音を立てて閉まり、魔法の錠が自動的にかかった扉を、一瞬呆然と見つめてしまう。次にその奥に目を向ければ……そこにはその鼻柱同様に顔全体を歪めて嗤う、イシュマの醜い面があった。「……何を、してる……開けてくれ、」と。体の奥が凍てつくような怒りに震えながら言い募れば。「いやなに、気を利かせてやろうと思ったまでだ」と、イシュマが厭らしいとぼけ面で返す。「おまえたち、相手とだけ番いたいって言うんだろう? そこの女、そう、おまえだよ。おまえも他の男なんざ、お構いなしだっていうんだろう? なら、この際お望みどおりにしてやるさ。──せいぜいここで、最後の“愛の夜”を楽しんでいけばいい!」
──激しい怒りで叫びながら、思わず雷魔法を叩きつけようとして。しかし水に浸かったこの状況では、ギデオンのその必殺技は、自分はおろか、ヴィヴィアンまでをも巻き込みかねないことに気づくと、ぎりぎりで制御してしまう。高笑いするイシュマの声。剥き出しの悪辣な笑みを、最後にこちらに差し向けてから、蛭女の肘の辺りを掴み、我先に通路の奥へと逃げだしはじめた。蛭女は何度か、動揺した様子でこちらと扉を振り返ったものの……高い水嵩に蒼白な顔で慄き、何も考えられないような様子だ。
──かくしていなくなった、フィオラ村のふたり。残されたギデオンたちの前に立ちはだかるのは、あの連中にしか解き明かせない魔法陣を込められ、無情なまでに閉ざされた、黒々とした鉄格子だ。がしゃん、がしゃしゃん、と。無駄とわかりながら何度もそれを揺さぶって、数秒も経たずにがくりと項垂れたかと思えば。やがて他方を向き、煮える怒りを振り絞るような、激しい罵り声をあげて。)
──畜生、くそったれ!
~~~ッ!!
( この時ビビが口汚く罵らなかったその理由は、ただ隣のギデオンのように自然と出てくる罵倒の語彙が足りなかったそれだけで。その証拠に、鉄格子を強く揺らすギデオンの手を、怒りのあまりに痛めてしまわぬようそっと優しく絡めとると。一歩鉄格子へと近づいて、「"くそったれ"ーっ!」と、公私共に尊敬慕う相棒の語彙を拝借し、最早とっくに姿の見えなくなった通路に虚しく響かせてみせる。そうして、かけられた魔法錠を解析することごく数秒、「……できなくは無いかもしれないですけど、ここが水没する方が早いです!」と早々に見切りをつけて、ザバザバと水深の浅い方へとステップを昇れば。腰の杖を引き抜いて、短い詠唱とともに耐冷魔法をギデオンから順に施すと。焦りに下唇を噛みながらも相変わらず、天井がダメなら下を抜けば良い! という思考の単純明快なこと。どうもシリアスになりきれない、明るい声で提案したかと思うと。極めつけには、ドドドド……と今もどこかで水の流れる空間に、ぷしゅんっとどこか間の抜けたタイミングで小さくくしゃみの音を響かせて。 )
やっぱり天井を抜きますか?
それとも…………。ッ、レクター教授の地図!
地下の採石場って、この下にも繋がってませんでしたっけ……?
……!
このフロア、東はどっちだ。地上からはどのくらい下ってきた……!?
(隣の相棒がくるくると繰り出した、あまりに様々な諸々に。それまで深刻な面持ちをしていたはずのギデオンは、しかし虚を突かれた間抜け面を、ポカンと晒す有り様である。
──とはいえ、状況が状況だ。すぐに我に返るなり、冷たさの失せた地下水を掻き分けて、彼女に近づこうとしたところで。しかしフッと、辺りの明度が一段階暗くなり、思わず瞠った目で辺りを見回す。廊下に掲げられた松明が、ひとつ、またひとつと消えていくところだった。地下水の派手な飛沫が、いよいよその高さにまでかかるようになったせいだ。
「時間がない、」と鋭く呟き、相手の背中を押すように動かして、重い水の中をざぶりざぶりと突き進む。その道中、相棒のくれた情報から考察するに。この地下フロアはそのほとんどが、例の地下洞窟の真上にある。そして問題は、その地下の空間がどのくらいの高さなのか、それが全くわからないこと。下手に床に大穴を開ければ、吸い出される水と一緒に、ギデオンたちも真っ逆さまに落下してしまいかねない。真っ暗闇の中で重力に逆らった経験は、一応以前にもないわけではないが……ほんの少しでも間違えば、硬い鍾乳石に叩きつけられる、或いは石柱に貫かれる、そんな最期を遂げてしまうのが関の山。──故に、できるだけ正確な位置で、安全を確保しながら排水を試す必要がある。
そうしていよいよ辿り着いたそこは、先ほどまでギデオンが囚われていた牢だった。既に水嵩は随分と高く、天井すれすれに浮いて泳がねばならないほどになっていたが。しかしここにはちょうど、囚人を拘束するための鎖を繋ぎ留めておく金具が、天井にもついている。かえって今こそ手が届くその取っ手を掴んでいれば、地下水がどっと流れ出る時の勢いを、幾らか耐えきれるはずだ。
「ヴィヴィアン、」と相手を呼び、一瞬その顔を真剣に見つめれば。相手の腰を水中で抱き寄せ、天井の取っ手をがっしりと掴む。と同時に、ついに松明の火が全て地下水に飲み込まれ、辺りが真っ暗に塗り潰された。それでも相手を強く抱きしめ、荒い息を整えながら。またどこかで、どっと壁を破って噴き出した地下水がふたりに迫るその直前に、濡れた耳元に囁いて。)
──……、ヴィヴィアン、やってくれ!
~ッ、はい!!
( "猫の子と冒険者にとって、自由落下など問題では無い"
そんな冒険者を主人公とした物語の一文に、無邪気に目を輝かせたのは何年前のことだったか。ギデオンの眼差しにこくりと強く頷き、喉を反らして大きく息を吸い込むと。──最悪なのは、中途半端な穴に腕や片脚だけが引っかかり、部屋を満たす水圧に、上にも下にも身動き取れなくなってそこで窒息することだ。故に冷たい水の中、腰に回された腕を支えに杖を構えたヴィヴィアンは、その一撃を全く遠慮しなかったのだが──……ッ、水中じゃ、火属性の魔法は……! そう、真っ直ぐに狙った部屋の隅、放った火炎はその脆くなった床を撃ち抜くどころか、みるみるうちに小さくなって、最後はぷすん、と消えてなくなってしまって。その一撃に肺の酸素を全て使い果たしたビビの表情が、酷く苦しげに歪み出す。
ううん、……一度でダメならもう一度やるまでよ──としかし、顔を上げた先には最早、吸える空気などろくに残っておらず。酸欠の脳みそはいとも簡単に絶望し、軽いパニックを引き起こす。苦しい、怖い、死にたくない……! その一心で、必死にギデオンに縋りつけば、その腕からぽろりと杖を取り落としたのは、この時ばかりは"幸い"といえただろうか。目の前で相棒の得意魔法が掻き消えて、縋りつかれるギデオンにもそのパニックはありありと伝わるだろう。一瞬後の死に直面し、思考停止に陥ったヴィヴィアンを……絶対に、この人は絶対にビビを救ってくれるのだ。刻々とリミットの迫る水瓶の中、どんなやり取りがあったのかは二人にしか分からない。しかし、ギデオンのお陰で少し冷静を取り戻した娘の指先に触れたのは、冷たく硬い──いつか聖夜にも手に触れた相棒の魔剣で。その瞬間、暗い水に満たされた部屋にまるで灯りがともったかのように、鋭い光が一線。二人の視界を照らしたかと思うと、コンマ数秒遅れてドォン!! と激しい雷音が部屋を揺らして──続いたのは激しく水が流れ出す轟音だった。そうして地下洞窟へと繋がる空間へと放り出されたヴィヴィアンは、未だギデオンに抱きしめ抱えられている。そのことをしっかりと確認したあと、酷い酸欠にフッと意識を暗転させた。 )
……ッ、か、はッ…………!!
(あれから数分後。ギデオンが地下の池からざばりと身を引き上げたとき、先に岸辺に横たえたヴィヴィアンは、既にぐったりと動かなかった。──咄嗟に人工呼吸を施すが、水を吐いたヴィヴィアンは、それでも少し朦朧としてから、すぐに瞼を閉ざしてしまい。ぞっとしながら脈や呼吸を確かめて、しかしすぐに、それらは安定し始めたようだと……ただ体力を奪われて気を失っているだけだとわかって、ようやく小さくひと息をつく。相手の濡れた前髪をそっと目元から除けてやると、辺りを見回す余裕も出てきた。本来なら真っ暗なはずのこの場所は、しかし今も、柔く光る己の魔剣が明々と照らし出している。……ヴィヴィアンの込めた魔力が、今も内部で循環しつづけている証拠だ。
──あの時。杖を失い、激しいパニックに駆られてしまったヴィヴィアンを前に、ギデオンの判断は早かった。一か八か賭けるしかない、ここで溺れ死ぬのをただ待つよりはマシのはずだ、と。ヴィヴィアンを説得し、天井から手を離して、ふたりで真っ暗な水に沈み込んだその瞬間。自分たちふたりの体に、絶縁魔法……雷魔法の対となる無属性の加護を張り巡らせれば、その直後にヴィヴィアンが、ギデオンの抜いた魔剣にありったけのエネルギーを注いだ。元より相性の良いヴィヴィアンの魔素、それが増幅したとなれば、どんなに分厚い石の層も粉々に砕かれるのみ。とはいえ、ドドドド、と迸る大量の水の勢いに引き込まれ、彼女もろとも穴の底へ落ちてゆくのは免れない。──しかしここでも頼りになるのが、ヴィヴィアンの膨大な魔力で強化されたギデオンの剣。思うままにそれを振るえば、激しい魔法が反動をつけ、落下先を意のままに選ばせてくれた。──そうやって狙い定めた、地下の深い池に落ち。石の淵へと這い上がって、今に至るわけである。
ギデオン自身も、荒らげていた息をゆっくりと落ち着けて。今も輝く魔剣を手に取り、辺りを照らすように掲げる。洞窟のあちら側では、上のフロアに溜まっていた地下水が滝のように降り注いでいた。とはいえ、ここは充分に広い。高低差もあるから、ギデオンたちがいるこの場所が、再び水底に沈む……なんてことはないだろう。──ならば次に確かめるべきは、ここに瘴気が溜まっていないかどうか。己の指先を拭ってから、ごく小さな魔法火を灯す。野営時に使うそれは、きちんとした道具や、ヒーラーが用いる魔法ほど正確ではないにせよ、辺りの空気を調べるための簡易的な指標になる。炎の色は濃い橙、特に問題はなさそうだ。ほっとして魔法火を消し、再び隣の相棒を見下ろす。今はまだ耐冷魔法が効いているからいいものの、時間が経てば濡れた衣服で体を冷やしてしまうだろう。火を熾してやりたいが、燃料は持ち合わせていない……辺りに何かないだろうか。
そうして再び魔剣を巡らせ、別の方角を確かめて、はっと鋭く息をのむ。──ふたりの後方、この洞窟の一番高いところに、何か巨大な……壺のような異質なものが、不気味にぶら下がっていた。耳を澄ませばかすかに聞こえる、わんわんとした嫌な音……もしやこれは、無数の羽音か。身構えるギデオンの脳裏に、ふとジョルジュ・ジェロームの手記の一文が蘇る──『この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ』。そうか、あれがその蜂の巣か。フィオラ村が崇め立てる「花」の蜜、人を魔獣に変える秘薬の材料。それがこんな、真っ暗な闇の中で作られていたというのか。
……ということは、と。一度ヴィヴィアンを振り返ったギデオンは、念の為の防護魔法を彼女に慎重に施してから、剣の温かな灯りを頼りに、ひとり洞窟へ歩み出した。蜂の巣のすぐ真下まで来てみれば、果たして足元の石床はどうだ。真上の蜜が何十年と滴りつづけたせいだろう、血のように真っ赤な、半透明のまだらな層が広がっている。不気味なそれを避けながら、さらに周辺を確かめれば……あった。蜂たちを燻す時に使う燃料、その足しにする藁が、壁際の木箱の中に隠されていた。手で触れてみた限り、幸いほとんど湿気ていない。
それを箱ごと拝借し、ヴィヴィアンのそばへ戻る過程で、ふと魔剣が反応を示した。かたかたと引きつける方を見てみれば、一体なんたる偶然か──あるいは、互いの宿した魔素による必然か。水の流れの溜まったところに、ヴィヴィアンの杖が浮いていた。それも大事に拾い上げると、すぐに戻った池の淵で、まずは彼女を抱き上げる。ここは駄目だ、あの蜂の巣の辺りからあまりにも目につきやすい。万が一のためにと、周囲から隠れた横穴に落ち着いた。
そうして彼女をそっと下ろすと、穴の手前に木箱を置き、魔剣の切っ先でバラバラに砕く。あとは燃やしやすいように整え、己の魔法火を慎重に移すだけ。──ほどなくして、小さな焚き火がパチパチと小気味良く爆ぜ。ふたりの隠れている空間を、ささやかに暖めはじめた。)
(──脱いだ衣服の水気を絞り、そばの手頃な石筍に引っ掛けて。次にヴィヴィアンを抱き起こすと、そのシャツやコルセット、ブーツや脚衣までをも剥ぎ取って、いずれもしっかり絞りきる。恋人同士とは言えど、相手には悪い気もするが、この非常時に風邪をひかせるほうが悪手だ。そうして今度は、下着姿になった相手を、己の胸によりかからせて。床で寝ているよりずっと広範囲の面が、炎の暖気に当たるようにと調整しながら、己の体温も分け与える。
そのひとときの間にも、近くのつらら石から滴っている雫の音のリズムによって、おおよその経過時間を測る。──地下室の異常に気づいた村人が、自分たちの大事な蜂を確かめに来るまで、どのくらいかかるだろう。大回りをして地上のどこかから洞窟に入るはずだから、どんなに厳しく見積っても、二時間ほどにはなるはずだが……。そもそも、ギデオンがあの蛭女の手下どもに倒されてから、どれほどの時が過ぎたのか。レクターは、仲間たちは無事だろうか。儀式はいったい何日後だった、あの少年が秘薬を飲むまであとどのくらいだ。──だが、それでも。たった今死にかけた自分たちとて、今ここで少しでも休み、態勢を立て直さねば、生きてこの谷を出られなくなる。
……はたしてどのくらいの間、そうして過ごしていただろう。ぴちょん、ぴちょんと響く水音を聞き漏らさぬ以外、意識を薄めて休んでいたギデオンは、ふと身動ぎを感じとって、うっそりと下を見た。とうに乾いて温もりを取り戻したヴィヴィアンの身体、そこに少しずつ意識を通いだしたのを感じる。すっかり元気を取り戻した時に気恥ずかしい思いをさせぬように、と、傍に干していた相手のローブを引き寄せ、その身体にそっとかければ。栗毛に軽く唇を触れ、「……目が覚めたか、」と穏やかに呼びかけて。)
──……ギデオンさん、はい、ここは……、っ!?
( ひゃあぁっ!? と。パチパチと暖かな火だけが爆ぜる空間に、どこか間の抜けた平和な悲鳴が響き渡る。なんで、なんで下着なの!? と、かけられたローブを掻き抱いくことで、かえって白くまろい腹、その豊かな胸部を覆う清廉な白まで際どく覗かせていることを、混乱中の娘は気づかない。そのままの様子で周囲を見渡し、未だ乾かぬ石筍の衣服に、やっと状況を把握すると。「……あ、そっ、か。ご、ごめんなさいっ……びっくり、しちゃって……」と一応、納得はするものの、項垂れる肌が首の根元まで紅いのは、ただ炎に照らされているそのためだけではないだろう。
あれからどれくらい時間が経ったのか。服の乾き次第を見るに、それほど長時間気を失っていたわけでは無さそうだが──火属性の魔法が水に弱いだなんて、魔道学院の一年生だって知っている基礎の基礎だというのに。産まれ持った魔力量にあかして甘く見ていた。あまつさえ簡単にパニックに陥り、大切なギデオンのことまで酷い危険に晒すなんて。そんな情けない自分のことを、背後の相棒はこんなにも優しく気遣ってくれているのに──そんなことを言う権利もなければ、言っている事態でもない。そんなことは分かりきったその上で、心の準備もせずにこうして肌を晒していることが心の底から恥ずかしくて堪らず。そしてまた、それを恥ずかしいと思ってしまう自分も、意識過剰で、幼稚で、本当に恥ずかしくてたまらないのだ。とっくに乾いていた筈の背中を、しっとり羞恥に湿らせて、こんな時に何を思い出しているのかと謗られれば、フィオラの前にビビの自尊心が崩壊してしまうに違いない。故に、酷く赤面しているだろうそれを相手に見られないように、ローブで身体の前面を隠しながら小さく小さく丸まれば。むしろ無防備なうなじや背中を晒すだけになるのも気付かず、小さな膝に赤い顔を埋めて。様々な羞恥に小さく震えながら、今にも消え失せてしまいそうなか細い声を絞り出して、 )
その……さっきのことも、ごめん、なさい…………。
どこか……痛んだりとか、ご気分は…………
平気だ──と、言いたいところだが。
盛られた毒が、少し厄介な手合いだったみたいでな……悪いが、もう一度診てもらえるか。
(ぱっと慌てふためいて、そろそろ辺りを見回して、しおしおへなへなと真っ赤な羞恥に項垂れて。いつも以上にいじらしい相手の様子をぼんやりと眺めるうちに、思わずふっと、気の抜けたような穏やかな笑みを浮かべてしまう。そうして背後の石壁にもたれ、目を閉じて答える声は、微かに疲れつつ寛いだもの。──実際、さほど深刻ではない。冒険者の常として、念のため程度の報告に努めているだけなのだ。
ヒーラーという職業は、どんな傷でも病でも、たちまち癒せると思われがちだ。しかし実際には、治せるものと治せないもの、治しやすいものと治しにくいものとの別がある。そのなかでも、毒を受けての症状は、比較的に治しにくい……というより、治しづらいもの。これは毒という原因成分が、その種類次第では、一般的な治癒魔法が効きにくいということもあるし。或いは一歩間違えれば、そのケースには不適切な体内作用を安易に活性化させることで、寧ろ重症化を招くリスクも孕んでしまうからである。
故に最初の段階は、浅く広くしか治せぬ代わりに、毒の作用を劇化させることがまずない、万能解毒魔法を施す(たしか、かのシスター・レインが確立させたものであったか)。大抵の毒はそれで治る。しかし強い毒、珍しい毒であった場合は、もちろんそれでは収まらない。しかし一旦は症状の進行を和らげられているはずなので、その間に毒の成分や作用を特定。より適切な治癒魔法なり薬草なりを処方して、寛解に繋げていく……それが昨今の定石なのだ、と。以前ヴィヴィアンに、サリーチェの寝室で微睡みながらそう教わった。
彼女が地下に駆け付けたときにギデオンを包み込んだのも、まずはあのレイン式解毒魔法と、それから通常の治癒魔法だったのだろう。ふたつを同時に施すのは並のヒーラーの業ではないが、少なくともギデオンが後頭部に負っていた傷は、完全に塞がっている。あれでだいぶ和らいだ上、当時はギデオンもアドレナリンが出まくっていたから、もうすっかり良くなったものと思い込んでしまっていた。──しかし今、この地下洞窟でゆっくり落ちついてみればどうだ。村人に盛られた毒は、どうやらまだまだしぶとく残っていたらしい。うっすらと続く吐き気に、ごくごく軽度の意識混濁、びりびり残る手足の痺れ(ヴィヴィアンの杖を拾うとき、少しばかり苦労していた)。試しに己の掌をぼんやりと眺めてみれば、実際指先が白っぽく変色しているのだから、何やら妙な毒である。後は倦怠感があるが、これは一瞬程度であれど、重い水に振り回されたからかもしれない。とはいえどれも、耐えられない、動けないほどではない……ないのだが。「そういうのも、きちんと隠さず報告すること!」「“我慢できる”は、“問題ない”とイコールではないんですよ」と、これも相棒に教わったことだ。
故に瞼を下ろしたまま、それでもきちんと、自分の自覚する症状を説明しては。相手が近づけば大人しく身を委ね、しかしほとんど無意識に、その手や頭に軽く触れ。もはや体に沁み込んだ、いつもの習慣めいた……それよりはしょうしょうぎこちのない手つきで、ごくかすかに撫でる仕草をするだろう。)
……おまえが謝ることなんてない。
寧ろおまえがいてくれたおかげで、あそこから脱出できたんだ……ありがとうな。
…………、
( ──あ、ごめんなさい、もちろんです、と。自分の症状を教えてくれたギデオンに、それまでの恥じらいぶりはどこへやら。くるりと振り返って、相手の脚の間に膝をつき、首筋の脈や顔色、瞳孔の開きなどをじっと丁寧に確認すれば。とろんと気だるげな視線をこちらに向けて、ぎこちなく触れてくれる相棒の甘言に、涙を耐えがたそうに下唇を噛み。 )
──……こちら、こそ。
私も、ギデオンさんがいなかったら、絶対脱出なんてできませんでした、ありがとうございます。
( そうして、欲しい言葉を的確に与えてくれる相棒に、これが自分だったらどう返されるのが嬉しいだろうと。ついまたうっかり謝ってしまいそうになるのを飲みこんで、その冷たい掌を上からそっと包み込み、小さく控えめに頬擦りすれば。大好きな掌に、堪らずちゅう、と丸い唇を押し付けた後、迷いのない手つきで治療を始める娘の表情からは、必要以上の緊迫感や後暗さなどはすっかり消え失せてしまっていた。
解析の結果も、不幸中の幸いと言うべきか。盛られた薬は物理的な身体の動きと、理性の働きを少し鈍らせるためだけの麻酔にも使われる弱いそれらしく。ヴァランガで取れるのだろう珍しい植物の組成こそ慣れないが、これならビビの魔法で一時間もせずに浄化できるだろう。それでも、少しでも効率よく排出させるため、たっぷりと煮立たせたお湯を冷まして飲ませ、指先や耳などの身体の末端に、魔力のめぐりを良くする軟膏を真剣な表情で塗りこめば。最後に再度、最適な治療魔法に杖をふり、胸元や首筋、長く太い指先などをぺたぺたと、ビビの魔素が正常に巡るのを確認すれば。ほっと安心した反動だろう。ぺたりと相手の太腿にお尻をつけると、かすかに小さく震える腕を相手に回して、ぎゅっと強く抱きついて。 )
ごめん、なさい……安心したら、思い出してしまって。
少しだけ、こうさせて……?
…………。
……“少し”でいいのか?
(相手の声にうっそりと目を覚まし、そちらを見ようと身じろぎをしたものの。未だぼんやりしているギデオンの視界には、鼻先が軽く触れるほど近くに、栗色の小さな頭が深くうずまっているばかり。今のヴィヴィアンがどんな表情を浮かべているのか、それを直接この目で確かめる術はないようだ。……それでも、じかに伝わるその震え、酷くか細いその声を聞けば。今のヴィヴィアンがどんな気分か、ギデオンに何を求めているのか、感じ取るのには充分で。
焚火にちらちら照らされ横顔に、優しい気配を忍ばせながら。一度返事を保留したまま、背後の岩により深く身を預け、相手を軽く抱き直す。そうして、こちらにすっかりもたれかかれるようにしてやりながら、そのさらさらした華奢な背中を、ぽん、ぽん、とあやすこと数度。笑うような吐息と共に、ごく穏やかに喉を鳴らして。──ほとんど素肌同士で密着している今、いつも閨で使う台詞をそのまんま持ち出すのは、いささか不謹慎ではあるだろう。しかし今はあくまでも、ただ労わりを込めたつもりだ。心行くまですがっていい、おまえのおかげでこうして回復しているんだから、そのための俺だろう、とと。そう伝えるつもりで、ポニーテールの毛先に指先を戯れさせたり、背中を大きくさすったりして、相手をゆっくり宥め続けることしばらく。何とはなしに上を見上げ……地上や地下の人間たちの殺し合いなど露知らぬ地下洞窟、その鍾乳石の稀有なきらめきを眺めながら。やはり語るのはどこまでも、何てことのない愛の言葉で。)
──……旅立ってから、もう随分長く発ったような気がするな。
家に帰ったら何を食べたい? ニックの店でテイクアウトしていくのもいいし……普段お前がよく作ってくれてるんだ、俺に作れるものでいいなら、そっちの手もある。
( 背中を滑る大きな掌、低く震える太い喉。頭上から語りかけられる口調でさえも、その甘く穏やかな文脈は、明らかにビビを励まさんとする文脈にも関わらず──こんなときまで、食べ物の話ばっかりなんだから、と。きっと無意識なのだろう、本気で頼りになる恋人の表情を浮かべた相手の、どうしようもない可愛げに、思わず小さく吹き出せば。いつの間にか震えも止まり、それまで襲われていた恐怖も、すっかりどこかへ消え失せてしまうのだから不思議でならない。そうして、前髪が擦れる音をたて、伏せていた顔をくしゃりとあげれば、未だ少し色の薄い唇にちゅっと小さく吸い付いて。 )
──……ギデオンさんがいい。
( そうして、少し冷たい唇に、己の体温を移すよう何度も、何度も丹念に口付けていたその間。たべたいもの、たべたいもの……と素直に思考を巡らせれば、脳内に浮かぶのは、カトブレパスのステーキにチョリソーのポトフ、それからキャベツのミートボールスープ……それら全てを、美味しそうに平らげる恋人の姿ばかりなのだから仕方がない。蜜月の唇が少し離れたその隙に、ぽつりと掠れた吐息を震わせて、「ギデオンさんの、食べたいものがいい」そう回していた腕を地面について、ゆっくりと身体を起こしていきながら、足りなかった言葉を付け足し繰り返すと。相手の頬を両手でそっと包み込み、愛おしそうに微笑んで。 )
ギデオンさんが美味しそうに食べてるところが見たい。ね、いいでしょう? 何が食べたい……?
…………、
(最初に吸い付かれたその時は、相手の可愛らしい甘えにたっぷり応える気でいたというのに。柔い熱を何度も押し当てられるうちに、相手の背を擦っていたギデオンの手つきは、次第に眠気を帯びるかの如く、緩慢なそれへ成り果てていく。……そして実際、今やどうだ。相手に微笑まれたその時にはもう、目元がぼんやりと寛いで、反応も随分鈍い。最初の愛しい語弊を揶揄う気すら起こせずにいる。ただただ、心地が良いせいだ──相手の温もりに巻かれることが。
故に、相手の指の腹が目元を優しく撫で下ろす仕草に、無言で身を委ねながら。たべたいもの……たべたいもの……と、奇しくも同じ思考回路をとろとろと巡らせて。やがて今度は相手の手をやんわりと取り、その小さな掌の内側に、薄い唇を含ませる。そうして、特に何とはなしに親指の根元のふわふわした丘を食みながら。やがて甘えた小声を吹き込む──「ウルスストロガノフがいい、」と。)
前に……ほら。
ふたりで、グランポートのあの通りを……ぶらついたろ……
(「あの時に看板で見かけて、ずっと気になっていたんだ……ウルス料理が……」と。そうは言ってくれるものの、しかしなかなかの要求である。ウルスという魔牛の一種は、カトブレパスほど強い臭みはないものの。海水で締めると美味くなる、というかなり風変わりな品種で、それ故扱いが難しいのだ。締める際の技術はもちろん、それ以上に、牛と海の二つの風味をバランスよく纏め上げるのが、大層至難の業という。おまけに、当時ふたりで眺めたのは、夏向けのさっぱりしたメニューだったはず。それを、今は冬場だから、体が温まるシチューがいい、なんて、言外に強請ってのけている。──しかしそれでも、ヴィヴィアンならできるだろう、と。或いは自分のためにしてくれるだろう、と。そんな贅沢な信頼と甘えを、ひと息に寄せたものらしい。その後もしばらく、「本場だと、アーケロンの甲羅を器にして食うらしい……」だの、「ショールムの卵で綴じる地方もあるとか……ないとか……」だの。こちらは流石にオプションではなく、以前何気に調べ尽くしていた飽くなき探究心の成果、それをただただ吐き出しているだけなのだが。何にせよ、そういった話を相手がこうして聞いてくれる、それに心底満たされるらしく……ぐるぐると喉を鳴らし続ける有り様で。)
んっ、ギデオンさ、擽ったい……!
( 普段は悠久の石灰水だけが静かに滴下する地下洞窟に、くすくすと軽やかな笑い声がこだまする。魔法で活性化された免疫が、少しずつ仕事を始めたのだろう。横たわる体躯を大儀そうに弛緩させ、口寂しさに人の掌を食むギデオンの姿は、これ以上なく可愛らしいというのに、そのおねだりの内容は全くもって可愛くないのが彼らしい。それでも、否、それだからこそと言うべきか。ビビの我儘に気を使う事なく、本気で食べたいものを答えてくれた距離感が嬉しくて、自然と満面の笑みを浮かべると。未だ素直にポソポソと、その飽くなき探究心の結果を披露しているギデオンに、思わず愛おしさが爆発し、「……じゃあ、早く帰って練習しなくちゃ」と、そのなだらかな眉間、こめかみ、そして再度唇にそれぞれ深く、小さく唇を落とす。そうして、いつまでもそうしている訳にもいかず、名残惜しそうに身体を起こすと乾いた岩場に膝をつき、引き寄せたローブを今度は相手にかけてやりながら。もう一方の形良い金の頭に添えた手を、そっと自分の膝に導いて。 )
──……そのためにも。
少ししたら起こしますから、今度はギデオンさんが休んでください。
…………
(本来のギデオンならば……責任感も無謀さも、等しく強いギデオンならば。今この最悪の状況で、これ以上自分のために休む時間をとるなどと、到底考えなかっただろう。地上の魔窟、フィオラ村には、まだ一般の同行者を置いてきたままにしている。頼りのはずの仲間たちも、ほとんどが行方不明で、無事かどうかわかっていない。それに先ほど、ギデオンたちがいた地下牢の真上では妙な異変が起きていた。あれについても未詳のままだ。それに何より──そうだ、あのとき、一度大きな地震があった。今いるここは鍾乳洞、先ほどよりも余程危険な環境と言える。頭上にいくつも連なっている、あの幾つものつらら石……あれがいつ、次の大揺れで崩れ落ちてくることか。
それでも、そんな差し迫った状況下で。それでも己のヴィヴィアンが──ここで休め、と告げたのだ。それだけでギデオンには、一切が充分だった。まるで全身の細胞が彼女に従うかのように、とろりと意識が溶けていき。巡り始めた免疫が、隠れていた疲労感をひとつひとつ抱きとめていく。結局、そういうことだった。ギデオンの体の状態は、ヒーラーである相棒こそが、最も正確に把握している。そして、どんな状況にあろうと……ヴィヴィアンの傍で休息するなら、彼女が大丈夫と言うのなら。その瞬間は世界でいちばん安全なのだと、己も信じきっている。
故に、小声でただ一言、「……助かる、」とだけ呟いたギデオンは、その頭を相棒の膝に委ね、静かな眠りに落ちていった。時間にしておよそ十数分……何も起こらぬ十数分。巨悪を前にした戦士にとって、それがどれほどありがたいひとときであったことだろう。ただ身を休める、それだけのことが──この先に待ち受ける死闘で、どれほど多くの生死を分けたことだろう。)
(それから、数時間ほど後のこと。地上に出たギデオンとヴィヴィアンは、真夜中を迎えたフィオラ村の端に舞い戻り、闇に隠れた建物の上で、じっと“その時”を待っていた。とはいえ今は、自分たちふたりきりで戦っているわけではない。遠く近く、様々な場所で。これまで一緒にやって来た冒険者仲間たちもまた、秘密裏の作戦にあたっている最中である。
──あの後。ふと優しく揺り動かされて目を覚ましたギデオンは、ふたりの元に小さな精霊が訪ねて来たことを知った。しばらく前にヴィヴィアンが火のマナを分け与えた、あの痩せた火の精である。彼女はどうも、飢えを癒してくれたヴィヴィアンに、余程深く感謝したらしい。地下洞窟をさ迷っている仲間たちの元へ次々に導く、という恩返しをしてくれたのだ。
全員ではないにせよ、冒険者たちは再び集い、その結束を改めて固めた。互いにこれまでのいきさつを話し、持っている情報を交換し、諸々を判断すれば、皆の目的はただひとつ──この恐ろしいフィオラ村を、一刻も早く脱出すること。しかし、それには問題があった。まず、まだ合流できていない仲間たちが複数いるという状況。次に、同行者のレクターたちを、未だ村に残していること。それに、自分たちの運命をつゆ知らぬだろう村の子どもらを、決して見捨ててはいけない。最後に何より……この峡谷そのものが、非常に険しい土地であること。ヴァランガは陸の孤島だ。件のウェンディゴ以外にも、凶暴凶悪な大型魔獣が数え切れぬほど跋扈している。下手に措置に飛び出したところで、生きて帰れるとは限らない──そこに迷い込んだのが、冒険者でさえなかったら。
覚悟を決めた顔ぶれによって、部隊が再編制された。仲間を見つける捜索隊、レクターや子どもたちを外へ連れ出す救出隊。物資を確保する回収隊に、各隊を守る護衛隊、それからこれらすべてを助けるための陽動隊だ。このうちギデオンとヴィヴィアンが引き受けたのは、レクターたちと子どもたちを外に連れ出す、最小単位の救出隊。もうしばらくすれば、陽動隊が騒ぎを起こし、フィオラ村の注意を引く手筈となっている。その隙に彼らの元へ駆けつけ、護衛隊と共に脱出する作戦だ。
時は真夜中。空には不気味な黒雲が蔓延り、低く速く流れていた。月明かりは一切ない──しかし代わりに、村のあちこちには、おどろおどろしく燃え盛る大きな松明が据えられている。儀式を前に、フィオラ村は様変わりしていた。清廉な白い家々の並ぶ牧歌的な風景は、今や魔獣の彫り物や、男女の肉体を模した彫像、ヘイズルーンの肋骨などで飾り立てられ、見るだにおぞましい様相である。屋根の上に隠れているギデオンたちの眼下を行くのは、不気味な魔獣面をつけたフィオラ村の大人たちだ。……儀式が間もなく始まろうとしている。子どもたちとレクターたちは、今はあの、厳重に警備された建物の中に──あの不気味なタペストリーとともに、閉じ込められているのだろう。そしていざその時になったなら、あちらのあの舞台に。エディ・フィールドの伝説が演じられていた、あのステージに引きずり出されるはずだ。そばにある“鉄の処女”は、おそらくフンツェルマン工具店から仕入れたミートミンサーに違いない。
レクターと助手たちが、無理やりあれに入れられて、“英雄”の贄とされる前に。惨い宿命を負わせるべきでない子どもたちが、舞台の台座で秘薬を呷らされる前に。──ギデオンが、ヴィヴィアンが、戻ってきた冒険者たちが、かれらを救わなくてはならない。)
……ヴィヴィアン、
(──しかし、そのような状況下でも。相棒を再び危険に晒すことを、恐れていないと言えば嘘だ。
馬鹿げているのは百も承知。ギデオンもヴィヴィアンも、冒険者という職業をしている以上、多少の危険はとうの昔に覚悟している立場である。市民を守るためとなれば、それはなおのこと当然となるし……自分だけ安全圏に下げられるような仕打ちは、寧ろこの上なく忌み嫌うだろう。そうわかっているはずなのに、恐ろしさは打ち消せなかった。今のギデオンは独りではない──故に強く、故に弱い。もしも己の大切な片割れに、取り返しのつかないことが起こったら。その時自分は、後悔せずにいられるだろうか。危険性を知っていながら愚かな思考放棄をしたと、己を呪わずにいられるだろうか。13年前のあのときも、以前の春先のあの時も、ギデオンは実際に判断を間違えたのだ。今回は違う、などという確証がどこにある。
そんな暗い考えを、今一度振り払おうとするかのように。相棒の名を小さく呼び、そっとその手を絡み取る。それ以上何を言うでもなく、相手の顔を見るでもない。依然その目は、地上の成り行きを監視するまま。それでもその手元だけは、相手の温かく柔らかなそれを、今一度……言葉にできぬ祈りを伝えようとするかのように、ただ力強く握って。)
ギデオンさん──
( 作戦開始を待つ宵闇の中。優しく、というよりは縋るようにと表現する方が近い様子で握られた掌に、自嘲のような笑みが頑なに漏れる。この村に来てからというもの、それなりに強く、頼れるヒーラーのつもりでいた、そんな不遜な自己評価は、あまりにも呆気なく打ち砕かれた。杖を振り上げる訳にいかない相手を前に、じわりじわりと追い詰められていった己の一方で、今はこうしてビビに縋ってくる相手や、ほかの経験豊富な仲間達のなんと頼もしかったことか。──私はまだまだ残念なくらいに未熟だ。それでも、こうして杖をしっかりと握り、すべきことを見据えた時くらいはどうか、 )
──信じてください。
( こちらもまた祈るように漏らした掠れ声をかき消すように、作戦開始の鏑矢が響いたその瞬間。ヒーラーとして、相棒として、自らが役に立つことを証明しなければ。そんなどうでも良いことを一心に、この時、誰より大事なギデオンの表情を顧みなかったことを、酷く後悔することになるとは夢にも思っていなかった。
捜索隊が残りの仲間を見つけた合図を皮切りに、陽動隊の爆破が村を──厳密には、儀式がとり行われる舞台から見て、村の方向にある森を揺らす。幾ら悪習の隠れ里といえど、何も知らない子供達にとっては大切な故郷だ。村自体の存続を脅かす権利は冒険者達にはない。あくまで一瞬、儀式に関わる連中の視線を逸らせれば良い。続いて養蜂場の方角、花畑の方角と作戦通りに衝撃音が響いて、焦った村民たちが慌てて儀式を進めんと、"英雄"になる少年を建物から引っ張りだしかけたところを、ひらりと屋根から舞い降りて警備ごと眠らせ、少年、レクターの助手、そしてレクター本人を発見出来たところまでは良かったのだが。まずビビが少年、ギデオンがレクターの縄を解いてやらんと近づくと、最初に硬い縄から開放されたレクターが叫んだのだ。「──ウェンディゴが来ます!!」陽動が陽動でおさまらず、本当に結界が破られてしまった──そうレクターが二の句を次ぐ前に、五人の上に長い角をもった影がさす。ゆうに3mを越す毛むくじゃらの躯体が、助手の縄に手をかけていたギデオンを狙うのを咄嗟に杖で庇おうとして、その杖ごと木製の壁に激しく叩きつけられる。咄嗟に魔法で受身をとった故に大きな損傷は免れたビビの視界に、大きく丸い満月が毒々しいほど輝いて、ウェンディゴ──もとい、フィオラのエディを照らしていた。 )
ギデオンさん危ないッ…………!!
──……ッ!
(囚われの民俗学者が、何事かを訴えんと必死に唸っていた理由。それは猿轡を外した途端、いつにも増して懸命な大音声で知らしめられて。しかしギデオンが振り向かぬうちに、今度はヴィヴィアンの悲鳴が上がる。レクターのそれよりもさらに緊迫したその声色、瞬時に全てが理解できた。差し迫る敵の威力も、彼女の次の行動も──自分が、何をすべきかも。
身を翻して伸ばした片腕。それは大切な相棒……ではなく、手前にいた村の少年を引っ掴み、ふたりでどっと地面に伏せた。瞬間、鞭のようにしなる巨腕が頭上をぶんと掠めていって、その先にいたヴィヴィアンを襲う。彼女がその杖崎に聖の魔素を集めたことで、目論見通り、闇属性の塊であるウェンディゴの気を引いたのだ。情け容赦ない一撃が、己の相棒を吹き飛ばした。耳に届く破壊音、常人ならば即死だろう。だが、己の相棒ならきっと……こちらが子どもを引き受けたことで、己の魔法を自衛だけに注ぎきれたならきっと。今はそれ以上考えず、湧きあがるものを押し殺して、次の行動へと駆ける。魔物がひとつ挙動を起こした、その隙を逃がす暇はない。ウェンディゴの一撃を逃れたレクターたちの元へ行き、「先に逃げろ!」と怒鳴りながら、子どもを彼らに押し付けた。小屋まで行けば仲間がいる、そこから無事に脱出できる、頼むから先に行ってくれ、俺たちのことを思うなら! そう肩越しに言い捨てて、振り返らずに走り出す。腰の魔剣をすらりと引き抜く、強張った顔で詠唱する、宙へと高く躍り上がる。
異形の怪物が振り向いた。腐った獣のような巨体、ぐぱりと開いた不気味な下顎。真っ暗闇の眼窩ふたつが、ギデオンをぎょろりと見据える。──ヴァランガのウェンディゴ、“エディ・フィールド”の成れの果て。その悍ましく醜い面に、ギデオンは渾身の力で、魔剣の一撃を叩き込んだ。作戦前にヴィヴィアンが掛けてくれた聖魔法と、己自身の雷魔法……ふたつを幾重にも掛け合わせ、ドラゴンすら倒す代物だ。バリバリというすさまじい音とともに、絶叫が谷にこだました。すぐに着地したギデオンは、険しい顔で振り返り、敵の様子を見届ける。……覚悟してはいたものの、流石は200年もフィオラを呪う死に損ないといったところか。今の攻撃程度では、奴を焼き切れはしなかったらしく、地に堕ちた屍もどきが苦悶の声を上げている。
それに構わず、先ほどの破壊で生まれた瓦礫の山を駆け登ると。「ヴィヴィアン、ヴィヴィアン!」と必死に呼びかけ、木材をどけていきながら。やはり無事ではあったらしい相棒の、逆さまで半分埋まっていた上半身を掘り起こす。そのどこかあどけない顔を見た瞬間、安堵でがくりと来そうになったが、緊迫感でどうにか持ちこたえ。大きく息を震わせながら、「逃げるぞ、」と、囁きかけた……しかし、その瞬間だった。
──どこからか、ウェンディゴとは別の呻き声が上がった。だが何故だろう、異形の魔物のそれよりも、はっきりと何かがおかしい。はっと振り返ったギデオンが、ヴィヴィアンを支え起こしながら瓦礫の下を見下ろせば。儀式のためにここに集い、先ほどまではウェンディゴに恐れをなして逃げ惑っていた筈の、フィオラ村の人々が、何故かまたここに戻ってきている。……どうして皆、あんなにぼうっと突っ立って、夜空をまっすぐ見上げているのだ。一様に虚ろな顔が、満月の光を受けて不気味に白く輝くほどだ。なのにその両目も口も、まるで憑かれでもしたかのように、異常に虚ろな様子をしている……。ギデオンも空を見上げた。ヴァランガの満月は、標高が高いせいなのだろうか、圧を感じるほどに大きい。その端にかかっていた薄雲がすっかり消えて、月球の輝きがいよいよ最高に達した途端。──ぐちゃっ、ばきっ、めりめり、と。思わず総毛立つような、受付難い不気味な音が、不意にふたりの耳に届いた。苦しみ悶えるウェンディゴではない、あれの起こす物音ではない。それにまるで注意を向けないフィオラの大人たち、かれらが首を傾げたり、突然激しく痙攣したり、そういった異常な挙動を見せるたびに起こる音だ。──いや、まさかアレは、何だ。人間であるはずの、あいつらの体が、形が……。
もうこれ以上見ていられないと判断し、相棒の方を振り向く。今のギデオンがその顔に浮かべているのは、“ヴィヴィアンを危険に晒した”という先ほどのそれとは違う……全く別次元の、心底覚える恐怖だった。)
……ヴィヴィアン。
ここを、ふたりで。──死に物狂いで、脱出するぞ。
──あ、あ……いや、そんな……!!!
( 未知の症例を目の前にして、その行為は医療人としての本能だった。どんな情報が治療に繋がるか分からない。その一片の変化も見逃さぬように大きく目を見開いたが故に、あまりに信じ難く悍ましい光景に固まっていたビビを、相棒の声が冷静……とまではいかないが、放心状態から引き戻してくれる。──いま、今、目の前で何が起こった? 確かに得体の知れないところはありつつも、昨日まではごく普通に会話を交わし、共に晩餐についた人間の形が、ビビの目の前でバキバキメキメキボキボキと音をたて──「……ぅ、ぇッ」ギデオンの強い力に腕を引かれながら、先程の光景を思い出してしまって、逆流した胃の腑の中身をビチャビチャと地面に叩きつける。 )
──ダメ!!!
教授たちをッ……さっきの子も! 小屋に行かなくちゃ……!!
( 幾らこちらを敵視して悪意に満ちた鉾を向けようと、ただの一般人が警戒モードの冒険者にとって脅威の欠片にもなりはしない。あくまで人間を相手取るつもりだった小屋の配置人数では、レクターらを守って脱出するには心許ない。しかし、本気で焦っているようで、そんな甘いことを言えたのも、ギデオンの背後に守られて、その先にゆらりと蠢く影を目にしていなかったからに違いない。 )
あれ、は……むらおさ……!!
彼なら、何か知って……、…………?
(人体のメタモルフォーゼ。それ自体は、実は特段珍しい話ではない。たちの悪い妖精、或いはマナに満ち満ちた精霊。そういった人外の手によって、ヒトは案外簡単に変貌を遂げる。ギデオン自身も、以前ピクシーに襲われて犬化したことがあるくらいだし、ヴィヴィアンの父ギルバートがいつまでも若々しいのは、偉大なる精霊の寵愛によるものだ。だが、それと魔獣化は違う。金貨を溶かして鍵に作り変えることはできても、肉を生み出すことはできない。それと同じで、ヒトが魔獣になることも、魔獣がヒトになることも、そのルーツの違いからして、本来完全に有り得ないのだ。
一説によると、魔獣の父祖は、かつて古代世界を滅ぼした四巨人のひとり、“死の巨人”だとされている。その者が一度地上を滅ぼしてから大地に斃れたその骸……その背骨が、やがて今日のカダヴェル山脈として聳え立つようになった。しかしその骨髄は今も尚生きていて、新たな血を造りだし、その一滴一滴が魔獣の命を生んでいる。だから魔獣は皆一様に、深紅の魔核を持っている──。もっともらしいこの論は、無論あくまでも伝承の域を出ない。しかしそれでも、多くの魔獣がカダヴェル山脈を生息地とし、そこから大陸じゅうに広がっていったのは、歴史的な真実だ。それから、普通の動物にはない肉体強度や魔力、不死性、そういったものを生まれ持つのも本当だ。──だからやはり、魔獣というのは、我々とは父祖が異なる生きものであるのだろう。我々と魔獣は、違う血が流れている。我々と魔獣の間には、絶対の垣根が存在する。その一線は、決して揺らぐことがない。
この世界の多くが信じるその常識を、ギデオンも信じていた。だがしかし、それならば。──今目の前をやって来るあの老人、その額に輝く赤は……何なのだ。)
……クルト……
貴、様……
(思わず声が低く震える。ヴィヴィアンを己の背後に庇いながら、それでも目の前の光景を、思わず愕然と見つめてしまう。ふたりは今、村人たちの異変を前に、儀式の祭壇から逃げ出してきたところだった。しかし小屋までまだ遠いうちに、ギデオンが不意に“それ”を見つけ、ふたりで立ち止まったのだ。──小屋へと続く道の向こう、月光に照らされて……痙攣しながら歩んでくる人物。それはこのフィオラ村の長、老人のクルトであった。どういうわけか儀式の場にはいなかった彼は、しかし今、首を直角にぼっきりと傾け、肩や肘を発作的に跳ね上げ、時に上半身を左右にゆらゆら振りながら、ふらふらこちらに歩いてきている。そこに首長など風格などなく、白い礼服は血や泥でぼろぼろだ。
より近づいてきたクルト、その額には、やはり魔核としか言いようがないものが、間違いなく出現していた。そしてその顔面は、何故かしわくちゃに、脂汗をいっぱいに浮かべながら笑っている有り様で。苦し気な目尻から血の涙が流れた瞬間、「ころしてくれ、」と、絞り出すようにクルトが言った。「ころしてくれ、ころしてくれ……ころしてくれ、」。べしゃり、と老爺が地面に落ちる。倒れるというよりは、己の体を地面に激しく打ち付けるような勢いで、ギデオンは咄嗟にヴィヴィアンの腕を掴み、助けるなと無言で叫んだ。「……だれかが、我々の祝杯に……蜜を……! ああ、絶対に……あの腐れ娘が……」あの穏やかさが嘘のように罵るクルト、その額を見開いた目で見据える。割れて血の噴いたそこは、深紅の石がめきめきと体積を増しはじめていた。「──嫌だ、嫌だ! 英雄になるのは、わしではない……わしの孫たちでもない! そうなるくらいなら、頼む……頼む……、」
──それが、人間クルトの言い残した最期の台詞だった。あまりの有り様に立ち尽くすふたりの前で、老爺の肉体はあっという間にぼこぼこと膨れ上がり、醜いけだものへ変貌していく。──それも、そこらの狼ではない。額に真っ赤な魔核を宿す、見上げるほどに巨大な魔狼だ。)
──ッ、ヴィヴィアン、走れ!
(ほんの一瞬。ゆらりと頭をもたげた獣が、最早人間としての自我を感じぬ、無表情な灰色の目で、こちらを見つめた次の瞬間。──むらおさだった巨大な魔狼は、いきなりこちらに、剣山のような牙の生え並ぶ口をぐばりと晒して噛みついてきた。その喉奥へ反射的に雷魔法を叩き込み、躊躇いなく魔剣を薙いで、生々しい両まなこを一太刀に切りつける。悲鳴を上げたけだものが一歩飛び退り、頭を振り回すその間、相棒の背中を強く押し、いつになく真剣に叫んだ。考える暇も、言い争う暇もない──人から魔獣に堕ちたクルトが、どんな動きをしてくるものか、ギデオンにはまるで読み切れない。故に逃亡が先決だ、そう相棒に伝えようとして。──しかし、物凄い速さで迫ってきた爪音を聞きつけ、はっと振り向いたときだった。突然巨大な満月を背に躍り上がった二頭の獣、互いに瓜二つの……まるで双子のようにそっくりな、若くしなやかな姿の魔狼が。クルトの警戒に全神経をとがらせていたギデオン、その喉元めがけてまっすぐに飛び掛かり。)
──ッ!!
( 真っ直ぐにこちらへと向かってきた双狼の牙は、既にギデオンの喉笛へと肉薄し、爆破魔法ではギデオンの頭ごと爆破の衝撃に巻き込みかねない。咄嗟に杖に魔素を込めて振り抜けば、クルトが変貌したそれより質量がないことは幸いだった。ギャンッと吹き飛ばされていく一頭に──これならいける、と杖を握り直すも。しかし、すぐさま飛びかかってくるだろうと構えていたもう一頭が、吹き飛ばされた姉狼を庇うように立ち塞がるの目にした途端、絶対に二人で帰るんだ、と息巻いていたビビの心は、その光景に否応がなく揺さぶられて。──なぜ飛びついて来た方が姉の方で、庇った方が弟だと分かったのか。それは、今ならフィオラの"花"の意匠だとわかる、特徴的なブローチをそれぞれ胸元と髪飾りにつけていた、その全く同じ位置に輝く紅い魔核のためでもあるのだが。たった数日、思い出になるほどの交流があった訳でもない。しかし、意図してお互いを寄せて似ているように見せかけて、案外二人を見ていれば、その性格はそうでも無さそうなことはすぐ分かった。村の子供たちからも人気のある、明るく勇ましい姉の方。男尊女卑のこの村で、女性陣の中に交じって仕事をする姿も度々見かけた、おっとりとした弟の方。その面影を目の当たりにしてしまったその瞬間、さきほど姉狼を殴り飛ばした掌がじんと痛んで、身体が動かなくなってしまったビビを助けるのは、やはりギデオンの一声で。
──ヴィヴィアン、と。唯一の肉親である父も含めて、その名でビビを呼ぶのは、かけがえのない相棒で、愛しい恋人でもある相手だけだ。今は焦燥を滲ませつつも、低く凛としたその声に、はっと杖を握り直せば。ぐったりと地に伏せていた姉狼が立ち上がり、三頭の目が此方に向くのを見逃さず、得意の閃光魔法を叩きつけ。 )
ギデオンさん、目を──
(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様、こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)
今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。
(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜くついでに、そのまま魔核を削ぎ落した。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。手順通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらは心臓を崩した後に、完全な別作業として側頭部の魔核を剥ぐ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく血の臭いに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)
──どこの隊が、何と?
(魔素の高まりが爆ぜるとともに、辺りを満たす一瞬の静寂。そして一拍遅れての、きぃん……と押し寄せる強い耳鳴り。籠手を嵌めた手の甲を、やがて目元からゆっくりと外す。あのやるかやられるかの状況で、ギデオンがそんなにも悠長に自衛していられたのは、偏に相棒への信頼ゆえだ。
──はたして。ギデオンとヴィヴィアンから十歩ほど離れた先、無関心な満月が冷たく見下ろす夜道の上には、三頭のけだものたちが泡を吹いて転がっていた。低木ほどもあろう四肢がぴくぴくしてはいるものの、あの目玉の奥の奥まで、相当派手に喰らったのだろう。これでは当分動けまい……そう、当分、今しばらくは。──今後絶対に、ではない。いつまた動きはじめるのか、数時間後か、数十分後か、それは誰にもわからない。ヴァランガ地方でギデオンたちが見た、あの凶暴な魔獣たち同様に。こちらに強い攻撃性を示したこの狼擬きたちが……今後ギデオンを、ヴィヴィアンを、仲間たちを、行きずりの誰かを、再び襲わぬとは限らない。
右手の魔剣を握り直す。小さく、無音で息を吸う。一度目を閉じ、指先まで速やかに無心の感覚を巡らせた。それでいて、「ヴィヴィアン、」と、今度はどこか優しい声で、相棒に呼びかけて。)
今の閃光弾を見て、後ろの森の……余裕のあるどこかの班が、応答信号を打ち上げるはずだ。
……そいつを探していてくれ。
(それだけ静かに言いきれば、後はごくごくいつも通りに、戦士の広い背中を向けて。ざわ、と下草を踏み分けながら、その一帯に歩み寄る。今ギデオンの足元には、無力化された魔獣が三頭。どれもお誂え向きに仰向けなのが、見習い時代に先輩戦士が回してくれた、実習用の低級魔獣にそっくりだ。あれに比べれば随分とでかいが──獣の弱点は、皆同じ。視界にちらつく痙攣を、生の気配を、脅威の兆候と読み替えて。獣の周囲を歩き回り、手頃な場所で立ち止まると、──ずぶり、と。正確な角度、正確な深さで、己の魔剣を沈め込む。
ごく微かな動きだけで、獣の骨格を、内臓を探る。知識どおりだと確信すれば、慣れた動きで前腕を回す。魔狼の動きが明らかに強張るものの、毛皮越しに体重をかけてその身動きを封じ。魔剣の切っ先を掻きまわし、幾つかの太い血管を正確に破る感覚を勝ち取る。後は大きく引き抜いてから、脚でごろりと身体を転がし、晒された額の魔核を滑らせるように削ぐ。獣の口から、ガッ、ハッ、と引き攣れるような呼吸音。知識通りだ──二体目に向かう。こちらは一体目に比べて幾らか小さく、……随分と若く。それだけ内臓や筋肉の跳ね返す力が強い、ということではあるが、そんなもの、ギデオンが身につけてきた二十余年の経験が、一向に意に介さない。すぐに終わらせて三体目。こちらも心臓を崩した後に、やはり真横に身体を倒し、側頭部の魔核を削いだ。このとき、心臓を突いた時点で元に戻っていたのだろう目が、こちらをじっと見上げていたような気もしたが、構わずにただ処理を進める。職業上、目を開けたまま盲いる技術は身につけている。光の反射ではなく、手元の感触や物音、臭いで、目前の事象を見るのだ。その感覚に身を委ねながら、片手半剣ではなくレイピアがあれば、などと冷静に考えた。幅広な刀身では、頭の中身は崩せない……念には念を入れたいのだが。
全ての処理は、ほんの二分もかからずに終わったろうか。幸い辺りには下草が豊富なので、魔剣や装備についた汚れを、ゆっくりと念入りに拭った。感覚的な問題ではなく、経験値による染みついた仕草だ。これを怠ると、意外に渇きの遅かった血でいざというときに滑ってしまい、思い通りに動けないなどという事故が起きやすい。だから時間をかけたのだが……いやに、静かな、ひとときだ。遠く聞こえる悲鳴や喧騒、あれは先ほどの儀式の会場で一斉に“湧いた”魔獣たちのものだろう。遠く轟く唸り声はウェンディゴか。あちらがあちらで潰し合ってくれるならいい、こちらはこちらで仲間を揃えて、レクターや子どもたちとすぐにここを出て行かなければ。そんなことを考えながら、皮手袋の内側で、頬にかかった血を拭う。不意に鼻につく噎せ返るような生臭さに、一瞬思考が停止する。
──そこで初めて、ぱぁぁん、と。それまでも数発は打ちあがっていた魔法火が、ひときわ明るく空に打ち上がったのが、初めてギデオンの耳に届いた。今の音、今の色は! と、途端に思考が切り替わり、はっとヴィヴィアンを振り返る。そこには既に、いつも通りのギデオンの顔があった。魔剣を鞘に収めながら、さっと軽快に駆けつける。そうして同じ方角を見上げてから、隣の相手を見下ろして。)
──どこの隊が、何と?
( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )
現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。
( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )
……っ、
(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」
──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。
──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。
一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。
一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。
思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。
心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?
かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。
彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。
もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。
山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。
その大罪でフィオラを追われた母親が、東へ東へ落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。
その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)
……──ッ! 伏せろッ!
(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)
…………っ、くそ……っ!
( 知己の躯を目の前に、同業のギデオンがそうしたように、ビビもまたこの夜に響く鋭い刃物が肉を経つ音の意味をあえて聾唖のようにやり過ごした。ここは危険な敵の陣地で、いつ脅威を取り戻すか分からない今は無力化された大型の魔物が三体。遠方と意思疎通できる魔法を持つビビが連絡、力のあるギデオンが魔物の処理に取り掛かるのは非常に合理的な判断で。 )
現在…………"魔獣"、と交戦中。
負傷者あり。方角は……西の陽動隊です。
( 双方夜空を彩り、増援要請を受信すれば。振られた問いかけに所感を挟むと、何か余計なことを言ってしまいそうで、あくまで事務的に努めた返答は何処か少し頑なになる。部隊最大の目標は、護衛対象であるレクターら3名、部隊の全メンバー、それから無事な村民たち──これはもしいるのであれば、だが──全員での脱出だ。調査を主な目的として組んだ少ない人員で、余計なことを考えている暇は無い。一刻も早く、仲間たちの合流すべきだと即座に意見を一致させれば。陽動隊のいる森へと、件の花畑の近くを突っ切ろうとした時だった。
花畑へと通じる斜面の間から、小さく啜り泣く声が聞こえてギデオンと顔を見合わせる。……っ、っく、と微かに震える吐息の出処を探して、警戒しながら低木の間をかきわければ──「あなたたち……! 無事だったのね!」そう声を上げたヴィヴィアンに、わっと泣き声を上げながら飛びついてきたのは、この村に来てから何度もビビを助けてくれた可愛い姉妹の妹の方で。可哀想に、村のあちこちから上がる破壊音に怯え切り、小さな身体を全身ぶるぶると震わせながらすがりついてくる幼い少女は、すっかり憔悴仕切って、小さな手がぎゅう……とビビのローブに皺を作るのが痛ましい。「大丈夫、大丈夫よ……お姉ちゃんたちとっても強いんだから……」一刻も早く安心させてやらねば、と彼女を抱えて立ち上がり、それまで沈黙を保っていた姉の様子も確認しようとしたその瞬間。「あなた達が、村をこわしたの」それまで聞いたことも、見せられたこともない。姉と言えどまだ6つか7つかそこらの幼い少女の瞳と、その声に籠った酷い憎悪にビビの身体がびくりと強ばる。その瞬間、それまで気持ち悪いほど無風だった空間に、ざあっと嫌な風が吹いて、美しく切りそろえられた金の前髪──その間からぎらりと紅い魔核が覗いていた。 )
……っ、
801: ギデオン・ノース [×]
2024-08-05 00:19:22
(──だいきらい。あなたたちみんな、だいきらい。おおうそつきの卑きょう者。
幼い少女がどろどろと吐く、あまりに苛烈な怨嗟の台詞。それを真っ向から向けられたギデオンとヴィヴィアンは、ともに遥かな大人の筈が、根が生えたように動けない。そんな有り様のふたりを前に、幼い少女はなおも続ける。「どうして“エドラ”を連れてきたの。どうして……どうして……“エディのむすめ”を、村に入らせてしまったの」。
突然の思いがけない言葉に、ギデオンの瞳が揺れた。何のことだ、誰のことだ、この子は何を言っている。しかしその狼狽顕わな反応が、ますます気に障ってしまったのだろう。「知らないはずはないでしょ!」と、少女が顔を歪めて叫んだ。
「“エドラ”はわざわいのいみごなの。“エディ”の血を引いてるの。だから生きているだけで、村の守りをこわしてしまうの! それであたしのパパとママは、ちっちゃいころに住んでたおうちを捨ててこなくちゃいけなくなった。だからそのときの“むらおさ”が、赤ん坊だった“エドラ”をころしてくれたはずだった。
なのに“エドラ”が生きてたの。知らんぷりしておとなになって、あなたたちといっしょになって、まるで親切なぼうけんしゃみたいに。でも、“エドラ”は“エドラ”なの。ぜんぶ、ぜんぶ、こわしてしまうの。絶対にあいつのせいよ、あいつを連れてきたあなたたちのせいよ。村に怪物が入ってきたのも、パパやママや、あたしまで、みんなみんなこわれていくのも……!」
──クルトは言っていた。誰かが儀式の祝杯に、魔獣化の秘薬を盛ったと。
──村人は言っていた。ラポトを開催している間に、“あの女”がいなくなったと。
──昨日の村人が言っていた。“あの年増の方は、随分うまくやってくれた”と。
──昨日の仲間たちが言っていた。彼女は随分簡単に、調査に出る許可を出したと。
一昨日のあの真夜中、彼女は随分取り乱していた。
“聞きたいことがあるの”と、クルトに激しく詰め寄りながら。
一昨日のあの夜更け、ギデオンは目撃していた。
その数時間前に、彼女がたったひとり、村の歴史の記された場所にこっそり忍び込んだのを。
己の荷物から取り出した、何ものかを握りしめながら。
思い出せ。あれはなんだった。
月明かりに照らされていたあれは、奇妙な刺繍の縫い込まれたハンカチではなかったか。
あの刺繍、あの紋様は……フィオラの建物に飾られていた、あのタペストリーそっくりだった。
そして、古く、くたびれていて……形見か何かのようだった。
心臓が早鐘を打つ。ギデオンの頑なな理性が叫ぶ。有り得ない。荒唐無稽だ。年代がまるで合わないはずだ。エディ・フィールドが生きていたのは、二百年も昔の話。とっくに死人になっている。
だが、しかし。彼の怨念の権化だというウェンディゴは、その当時から今の今まで、実際に何度も村を襲い続けてきた。月の魔力を得た“英雄”が、何度噛みつき引き裂いても、必ず蘇るその不死性──そうだ、まるで、どこかほかのところにでも心臓があるかのような。
……それが本当だとしたら?
かつてフィオラ村を支配していた、悪逆非道のフィールド家。
その跡取り息子、いかれたエディ・フィールドは、死体の皮を弄んで踊るような男だった。
彼がもし、本人ですら気づかぬうちに……生死の境を曖昧にする禁断の黒魔術を、その身に宿していたとしたら。
ウェンディゴ・エディの本体、心臓、エディ・フィールドの屍が。
未だ白骨化することもなく、どこかに残っているとしたら。
もしもその不滅の死体が、いずれ誰かに見つかったとしたら。
歪んだ性を謳歌する文化に育ったフィオラの娘が、たまたま見つけたとしたら。
山のどこかに横たわる、生きても死んでもいない体と、欲望のまま交わり、孕み。
二百年前のその男の血を、魔力を継いだ、禁忌の娘を産み落としたなら。
──ギデオンたちが、このヴァランガ峡谷にようやくたどり着いたとき。そこで初めて目にしたのは、打ち捨てられた村の跡だった。
“この村の人々がここで生活をしていたのは、どんなに新しくても数十年前のように思える”。
あの時ギデオンは、そんな感慨を抱いたはずだ。
もしそれが、ほんの四十年ほど前の出来事だったのだとしたら。
“エドラ”が誕生したその時、エディ・フィールドの新しい血が村の内側に生じたことで、村を守る結界が解けてしまったのだとしたら。
生まれながらにウェンディゴを招き入れてしまう、災いの赤子。
その血の源、父親の正体に、村が気がついたのだとしたら。
許されざる大罪……二百年前の狂人の子を産み落とした、という咎でフィオラを追われた母親が、村を飛び出し、東へ東へと落ち延びて。
娘を育て、やがては死んで。
名門ギルドがどこも構える併設の孤児院に、彼女が引き取られたとしたら。
かつてのギデオンと同じように、そこで育ち、見習いとなり……やがて冒険者になったなら。
その娘、忌み子エドラの今日の名が、──“エデルミラ”なのだとしたら。)
……──ッ! 伏せろッ!
(──ぎり、ぎり、と引き絞る、殺意に満ちた弦の音。にわかには信じがたい真相気をとられていたギデオンは、しかしその音を聞きつけるなり、我に返って叫びながらヴィヴィアンを内に庇った。途端にびぃん、と矢を放つ音。森の宵闇を切り裂いたそれは、一瞬前までそこにあったヴィヴィアンの顔を貫き損ね。代わりに、ギデオンの纏う鎧を強かに打ち饐えて、その体を容易く倒す。
呪いに強いミスリル鋼は、物理攻撃にも勿論強い。だがそれは、命を奪う一撃を通さないというだけで、衝撃を打ち消すわけではない。ましてや、今ギデオンが食らった弓矢は、実は対ヘイズルーン用の異様な破壊力を持つもの。生身の人体なら文字通りバラバラに砕け散ってしまうほどのそれを、鎧ひとつでどうにか跳ね返したギデオンは、しかし全くダメージを負わないというわけにはいかず。びりびりと、全身が激しく痺れてままならない感触に、それでも相棒とフィオラの幼女を潰さぬよう腕を立てながら、苦し気な呻きを漏らす。
そこに足音も荒く駆けつけたのは、フードを被ったフィオラの男女だ。息を荒げていたそのふたりは、姉妹の名前を口々に叫んだ辺り、ふたりの両親だったのだろう。姉を母親が抱き寄せると同時、弓を背負った父親の方が、動けぬギデオンを蹴り飛ばし。その下にいたヴィヴィアンすらも乱暴に突き飛ばして、彼女の腕に守られていた幼い娘をひったくる。
「よくもうちの子たちを、このよそ者ども、今ここで──!」「そんな場合じゃないでしょう! ああ、この子もやっぱり、早くクルト様にお診せしないと──!」……その言葉を聞いたギデオンは、駄目だ、と必死に伝えようとした。駄目だ。行くな。クルトはもう死んだ、俺が殺した。魔獣に堕ちてしまったからだ──そのトリガーは月光だ。月明かりの下に出たが最後、その子らもきっと同じ運命をたどってしまう。だから頼む、行くな、この森を出るな。闇のなかに隠れていてくれ。ああなってしまわないでくれ……。
ギデオンの必死の思いは、しかし彼らに届かない。再び怯えて泣きはじめた妹の声を最後に、フィオラ村の四人家族が森の向こうへ遠ざかっていく。やがてどこかで、悲鳴、絶叫。辺りの木を薙ぎ倒すような激しい物音がしたかと思うと、魔獣の歪な産声が上がった。それを耳にしてしまった途端、思わず辺りの下草をぐしゃりと掴み、わなわなと顔を俯く。胸に込み上げる苦しさは、血を吐くような罵声となって。)
…………っ、くそ……っ!
ッ、ギデオンさ──うっ、ぐ、
( 一体何が起こったというのか。否、本当はビビも分かっている。尊敬出来ると思っていた女性の不審な行動を、その悲しい出自を、それを肯定的に語る少女の歪さを、その少女の口から語られる真相の全てを、脳が理解するのを拒むかのように呆然としていた瞬間だった。重い矢が空気を切り裂く音が響いて、いつの間にかビビに覆いかぶさっていたギデオンが、重力のままに崩れ落ち、どさりと地面に膝をつく。その勢いまま横なぎに吹き飛ばされた相棒に、思わず視線を奪われれば、自分も強く後方へ突き飛ばされて、少女を守るようにして倒れ込んだ先が悪かった。剥き出しの木の根に、こめかみを強かに打ち付けてしまい、目の前の光景が白く黒く明滅し。
──あ、ダメ。連れていかないで……そう腕の中の温もりがひったくられる感触に、ぐらぐらと揺れる視界を無理やりあげれば。以前も話した少女たちの母親と、どうやらその父親らしいシルエットに、打ち付けられたばかりの頭が混乱する。──……あれ、この子達のママなら、何で渡しちゃいけないんだっけ。その一瞬の隙が命取りで。もうそれ以降は、それが一瞬のことだったのか、それともビビの意識が混濁していただけだったのか分からない。遠くで上がった咆哮に、やっと後悔しても全て遅く。「ギデオン、さ……」そう掠れた声で相棒を呼びながら、横たえた身体を起こそうとしても、ぐらりと揺れる視界に吐き気が酷くてままならない。そうして耳の上を流れる温かい液体に、ああ、シャツが汚れちゃう……なんて。最早全滅を待つ二人の前に、"彼女"が現れたのは、そんなどうでも良いことを考えていた時だった。 )
──エデル、ミラ……さん、
(相棒がふたつの名を呼ぶ。ひとつはか弱く縋るように、ひとつは微かに慄くように。ただそれだけで、ギデオンの苦痛の一切が、恐怖と覚悟に塗り替えられた。──何ひとつ、だれひとり、己の相棒すら守れない。そんな無様な有り様を、これ以上許してなるものか。
腹の底から死力を起こす。骨と臓腑の悲鳴を捻じ伏せ、煮え滾るような血を全身に巡らせる。次の瞬間、相手を庇うようにして振り返りざまに剣を抜き、この場にのうのうと現れた裏切り者へまっすぐに突きつけた。ギデオンの息は未だ荒い。怒りと敵意に燃える眼は、相手を激しく睨みつけ、それだけで射殺さんばかりの勢いだ。しかしそれでも、目の前の女……闇のなかから幽霊のように現れた、満身創痍の女剣士は。その凪いだような無表情、いっそ悟りに至ったような面差しを、ひとかけらも崩さない。
──エデルミラ・サレス。そう名乗っていたこの冒険者を、かつてはギデオンも信頼していた。カレトヴルッフの双璧ギルド・デュランダル、その上層部のたっての人事で、大型クエストの総隊長に任命される。そんな地位を手に入れるのは、並大抵のことではない。ましてや女ともなれば、それだけの功を立てるまでに、どれほど血の滲むような努力を注いできたことだろう。そんな立派な傑物が、ギデオンもまた一目置くほどのベテランが、多数の味方の命を預かっていたこの状況で。──己の悲惨な生い立ちと、それ故の故郷への憎悪。そのために全てを投げ捨て、大量の人体破壊に手を染めた。それこそがギデオンにとって、何より許しがたい罪だった。そもそも彼女の正体が、このフィオラ村の一員であったことだとか……黒魔術により誕生した、禁忌の存在だったことだとか……そんな話はどうでもいい。エデルミラはその心根を、私怨のために腐らせて、皆を道連れにしかけているのだ。
「あなたたちを巻き込むつもりはなかったの」エデルミラはそう白々しく宣いながら、こちらの魔剣をものともせずに、ゆっくりと近づいてきた。当然拒絶すべく、怒りを込めて威嚇する。しかし、「あなたに彼女が治せるの?」と、ヴィヴィアンを見て言われれば──暗に言われた申し出に、思わず一瞬固まってしまう。その間にエデルミラが屈み、宣言通り、ヴィヴィアンの頭に手を添えた。割れた唇が呟くのは、狂った女のそれとは思えないほど穏やかな聖呪文だ。……そう言えば、いつかの旅路で彼女本人から聞いていた。女性としてその必要に迫られることが多いから、本来は専門外の治癒魔法も幾つか身につけているのだと。
──あなたたちは何も悪くない。ヴィヴィアンの傷を癒しながら、エデルミラはそう呟いた。悪いのはこの村だと。フィオラの因習と欲望が、彼女の母親の気を狂わせ、村を出て行って何年も経ってからも、凄惨な死に方を選ばせることになったと。エデルミラがフィオラを憎むのは、つまるところ、幼い頃に自死してしまった母親への愛ゆえだった。母を狂わせ、追放し、離れても尚呪った故郷。そんな仇を討ち取るためなら、死んでも惜しくはないのだと。
「ごめんなさい、ふたりとも……」治療を終えた彼女が、ヴィヴィアンの額をそっと撫で、顔を見せずに立ち上がる。「勝手な生き方をしてごめんなさい。でももう、私にはこれしかない。私自身、もう時間があまり残っていないの。──この谷に来てから、体がずっとおかしかった。今ならその理由がわかる。父が私を欲しているのよ。それに、あの花……あれが皆を、フィオラを狂わせてしまうから。あれを絶やしておかないと。絶滅させてしまわないと……」。
──そうして、最後に微笑んでから、エデルミラはいなくなった。遠く聞こえるウェンディゴの呻き声、おそらくそちらに向かったのだろう。彼女が最後に言い残した、「まだ間に合う人たちがいる」という言葉が気になるが、今ばかりは後回しだ。脅威のいなくなった森のなか、今度こそ相棒を己の腕にかき抱く。そうして、既に傷は塞がっているものの、流れていた血がこびりついた前髪をそっと目許から避けながら、「ヴィヴィアン、」と、祈るような声で相手に優しく呼びかけて。)
ヴィヴィアン、ヴィヴィアン……大丈夫か。
ええ……もう、すっかり……。
( 初対面のインパクトはレクターのせいで少し薄れてしまったが、今回の依頼でどんなにビビがエデルミラに憧れ、同性としてその能力の高さを尊敬したか。正気を失ってしまって尚、流れ込む魔力の誠実さに、エデルミラの言葉を借りれば──"まだ間に合う"、そう、未練を感じてしまうのは甘いだろうか。 )
──ギデオンさんっ、
エデルミラさんの治療! …………その、とっても丁寧で。なんと、いうか……本当は悪い人じゃ……いいえ、やったことは間違ってる、分かってます。
……でも、勿論お咎めなし……って訳にはいかないでしょうけど、死のうとする人を止めずに行かせるのは、それは……私たちが殺したってこととじゃないですか!
( どうして今こんなことになっているのか。村に来てからのビビは、ずっと仲間たちに迷惑をかけ通しで、先程もその腕からみすみす尊い命を取りこぼしたばかりだ。少女を庇っていたのがギデオンだったら、ああも簡単に彼女を奪われはしなかったのではないか。そう暗い眼差しを一瞬、ぎゅっと力強く瞼の奥に閉じ込めたかと思うと。次の瞬間にはキラキラと大きく瞳を見開いて、熱く逞しい腕の中、往生際悪くギデオンに言い募るヴィヴィアンの思考からは、すっかり己の身の安全の考慮など抜け落ちていて。
冒険者として今するべきことは何か。幾ら治療を受けたとはいえ、強く頭を打ったばかりだ。そうでなくとも、ギデオンへ言い募りながら、そ負傷を治療したビビに西の陽動隊を援護し得る余裕は最早なく。であれば、いち早く既定の合流スポットまで向かい、残りの魔力は仲間の治療に専念するのがベターだろう。そんなことは分かった上で、それ以上のベストを目指す権利が自分にあるものか。今回の作戦で一番未熟な自分に、あるわけが無いことも、これが自分に甘い相棒への甘えだということも分かっていたにも関わらず。もうこれ以上"間に合う"命を取りこぼしたくない、その混乱のまま起き上がれば。相手がこちらを見下ろす心配げな表情も。いつも冷静な判断を下す相手の意見に食い下がるための、罪悪感を煽るその言葉が、どれだけギデオンの心を踏みにじるかも、全て見落としてしまっていて。 )
お願い、ギデオンさん。
私達も花畑に、エデルミラさんを追いましょう。
…………、
(一瞬、思わず声を失う。真顔のまま固まったのは、思考が何ひとつ働かなくなってしまったせいだ。かすかに揺れる薄花で、相手の翡翠をただただ見返す。そこにあるのはきらめきだけ……まっすぐで聖らかな、彼女の澄みきった信念だけ。それの何に衝撃を受けたというのか。考えられない、わからない。
その膠着状態が、思考回路に見切りをつけさせたのだろう。ふ、と不意に視線を外し、一度静かに顔を伏せる。それから再びそちらを見上げたそのとき、そこにはすっかり、いつもの“ベテラン剣士”がいた。少々険しくなった眉間に、引き結んだ一文字の口、この流れなら当然だろう。「おまえはいつも……、」と呟いた、その低い小言の響きで、相手も思い出すだろうか。ふたりが相棒になりはじめたあの頃、まだしょっちゅう無茶ばかりしていた彼女に、ギデオンはよくこの顔をしていた。)
……俺がどんなに、いろいろ頼み込んだって。おまえはきっと、あいつを救いに……行くんだよな。
(呆れながら白旗を上げたとも、或いは相手の望みを聞き届けたとも、どちらともつかないような、複雑ながらも凪いだ声。それを落としながら、武骨な掌を相手に差し出し。彼女がそれを手に取ったならば、共に立ち上がる手助けをして。
そうしてまずは真っ先に、相手の様子を確かめる。ふらつきはないか、ままならないところはないか。それから今度は、その両頬を縫い留めるように包み込んだ。少しばかり土に汚れてしまった柔肌、けれども血色は悪くはない。視線も危うく揺らぐことはなく、瞳は生気に満ちている。……魔力弁で彼女の魔径に軽く触れる。その生き生きとした感触からしても、あの女は本当に、彼女をしっかり治したようだ。
こつん、と額を触れ合わせ。目を閉じて数秒、無言で相手に祈りを伝える。その間もこの森の向こう、花畑のある方角からは、移動したらしいウェンディゴの凄まじい呻き声がしていた。──あそこに行くのは自殺行為だ。エデルミラだってそのつもりだ。そんな場所にヴィヴィアンを? もうこれ以上、危険な目には遭わせたくないというのに。
それでもギデオンの前身は、彼女の決して揺るがぬ意志にどこまでも忠実だ。両手を下ろし、ゆっくりと目を開け、相手の瞳を覗き込む。そうして温かい吐息と共に、こちらからも懇願を。)
次に、おまえが……少しでも怪我をしたら。今度こそ、そこで終わりだ。
そうすると……約束してくれ。
…………約束します。
ありがとうギデオンさん、大好きです!
( 相手のことをするように、自分のことも大切にする。その約束を決して忘れた訳じゃ無い。しかし、"まだ間に合うかもしれない" そう目の前にぶら下げられた甘い希望に意思が揺らいで、頬に触れた温かな手にはにかんだ娘の声が、寒々しく響いては消えていく。本当に相手が好きならば、ギデオンさんの想いを優先するべきだった。この優しい瞳の震えを、絶対に見落とすべきではなかった。エデルミラさんを助ける方法は、きっとほかにもあったはずだ。そう未来の自分が、何度も後悔することになるとは露知らず。感極まったように相手を抱きしめた腕をそっと離して、腰から提げた杖をひとふりすると、まもなく息を切って花畑へと走り出してしまった。
そうして、黒々とした木々の合間を走る二人に、──林檎のような、桃のような、甘く、噎せ返るように濃密なその香りがその存在を知らしめる。次第に頭上を覆っていた木々が途切れると、ますます香りは強まって、見渡す限りの赤、赤、赤──……視界に映るのは、フィオラの見事な星空と、それをぐるりと切り取る険しいヴァランガ山脈、そして燦然と咲き誇る真っ赤な"花"たち。その危険性を知って尚、天頂にあんぐりと口蓋を開いた満月の下、ほのかに発光するかのような鮮赤に目を奪われると。はっと一瞬遅れて口を塞ぎ、咄嗟にハンカチを生成した水で濡らして相棒にも差し出し、自身はローブのフードを片手で口元へと寄せて。 )
出来るだけ吸わないでください、花粉だけでも何が起こるか…………ッ、
( そうして、風が吹くとますます舞い上がる強い香りに目を細め、ぐるりと周囲を見渡した時だった。頭痛がするほど甘美な花の香りの中、むわりと場違いな腐臭が鼻をつく。その身の丈は3mをゆうに超え、最早人間の面影を残すのはその二足歩行のシルエットばかり。その体躯すら骸骨のようにやせ細り、全身から生える長い体毛が、積年の脂と氷に固まってぬらぬらと醜悪に月光を照り返している。ウェンディゴ──もといエディ・フィールドの成れの果て。先程対峙した時よりも、一回り大きくなったかのようなその一撃に咄嗟に横へと飛び退いて、花の花粉に全身を桃色に染めながら振り返れば。──どうやら向こうもこちらを覚えていたらしい。明らかにギデオン目掛け飛びかかってくる知能の高い獣に適切な援護も埒があかず。フィオラの冬空に高らかな詠唱の声音を響かせれば、エディの周辺の花々が勢いよく燃え上がったのは、渾身の炎魔法が弾かれたためで。 )
ギデオンさんッ!!
~~~ッ!! この化物ッ、こっち向きなさいよ!!
(再び対峙したウェンディゴは、先程よりも明らかにその手強さを増していた。おそらくは、辺りに満ちる闇のマナを吸い上げているせいだろう。すなわち夜明けを迎えぬ限り、ここは奴の独壇場。そう悟ったギデオンが、すんでのところで怪物の爪を躱し、魔剣を構え直したその時。敵の喉元を睨みつけていた薄青い双眸が、はっと大きく見開かれた。──相棒の 炎魔法が弾き飛ばされたその場から、鋭い悲鳴が上がったのだ。
まさかだれかが……エデルミラが伏せていたりでもしたのかと、そう恐れて確かめるも。焼けているのは草花だけで、人の姿は見当たらない。ギデオンが混乱しながら眺めていると、その橙色に輝く破壊は周囲にも広がっていき……それにつられて、絹を裂くような不気味な悲鳴が、ひとつ、またひとつと増えた。──理屈を飛ばして、直感が解をもたらす。断末魔の声を上げているのは、誰かではない……フィオラの“花”だ。
どうやら敵の腐った耳にも、その絶叫は同じく届いてたらしい。そちらをぐるりと振り向くと、鋭い牙の並んだ口を、ぐにゃあと酷く邪悪に歪めた。嗤っている、と気がついたギデオンが、一瞬早くそれに気づいて、すかさず矢のように飛び出すも。怪物はその巨大な手を、月に向かって大きく掲げ──ぐわん、と一気に振り下ろして。)
──……ッ、避けろッ!
(ヴィヴィアンを己の内側に庇って転がったその背後、派手な火柱が空高く噴き上がる。 ──冬の乾燥しきった大気を、闇で強まった怪物の力で、炎に向かって勢いよく煽りつけたらどうなるか、考えるまでもないことだ。安全地帯に逃げ出そうにも、今やギデオンとヴィヴィアンは、フィオラの花畑の真ん中で、激しい業火に囲まれていた。ウェンディゴが嬉々として巻き起こす嫌な風が、また新たな爆炎を立ち上がらせて行く手を阻む。必然、辺りを震わす花の悲鳴も、数百、数千にものぼり、これだけでも頭が割れそうに痛い……花自体に、おそらく闇の魔素か何かの力が宿っているせいだ。熱風に巻かれ、花の悲鳴に圧をかけられ、その鼻や口から思わず血を垂れ流しながら、それでも瞳だけは真剣に、ヴィヴィアンを強く見据える。それはかつての自己犠牲的な陰りではなく、この場をふたりで切り抜けるための、ひたむきな意志によるもので。)
一瞬でいい、守護魔法をかけてくれ……俺があいつの動きを止める!
……っ、!
( ──己の判断ミスが今、こうして他でもないギデオンを流血させるに至っている。もろに熱波を喰らったのだろう。鼻や口からの血だけでは無い、ビビを庇い、その凛々しい表情を赤く上気させたギデオンを目の前にして。最早思考するより早い治癒魔法と共に、請われるがまま施した守護魔法は、ただひたすらに相手の無事を祈るもので、決して愛しい人を死地に向かわせるためのものでは無かった。しかしビビがかけた守護魔法を確認するやいなや、真っ直ぐにウェンディゴへと向かっていくギデオンに、やっと自分の判断が間違っていたこと。自分の思い上がりが相手を傷つけたことに気がつけば、全てを投げ出して悲愴に嘆き沈み込みたくなる思考を、今は無理やりにでも振り払う。──後悔している暇などない、自分が招いた事態だからこそ、無事にギデオンさんを帰さなくては。そう構え直した魔法の杖で、相棒に降りかかる火の粉を丁寧に払いながらぐるりと周囲を見渡せば──見つけた! と、激しくとぐろを巻きながら燃え上がる火炎のその奥に、時たまぐらりとよろめきながら満身創痍で赤い波を掻き分けていくエデルミラを発見すると。ギデオンがウェンディゴを討ち漏らすなど微塵も思わぬ素振りで、危険な魔獣のその隣を真っ直ぐに駆け抜けて。 )
エデルミラさん! ……エデルミラさん!!
お願い、こっちを見てください!!
( 今はギデオンに集中しているとはいえ、いつウェンディゴの注目がエデルミラに移るか分からない。ギデオンが魔獣の動きを止めてくれた今のうちに、手負いの女を花の影に隠そうとして。しかし何度呼び掛けても反応がない女剣士に、半ば体当たりするかのような勢いで飛びつくも、ギデオンにそうした時よりは劣るとはいえ、鍛え上げられた隙のない体躯は一瞬小さく揺らいだだけで、その歩みを止めてはくれない。それどころか、ビビを認識するような素振りも見せずに、何やらブツブツとよく分からない呪いのようなものを垂れ流しながら歩き続けるエデルミラに、引き摺られるような形でかじりつけば。最悪なタイミングとは重なるもので、「うわああッ!? 火が!!!」「花が……花が!!」「お前らがやったのか!?」と、正気を失った女剣士と、彼女を止められるずにかかりきりになっているヒーラーの前に現れたのは、各々額や首筋、腕などに赤い魔核を携えた村人達で。「だめっ……!」と、無力な自分に思わずあげたその声は、果たしてエデルミラに掛けたのか、それろも噎せ返るような花の香りと満月の下、その肘から何やら仰々しい腕を伸ばした村人達が、その目から次々に正気の光を失ってその姿にかけたものだったか、 )
……だめっ、だめ!! 止まってよぉ!!
(「駄目だ、止めろ──火の手を止めろ!」
こちらにようやく引き付けた敵に、魔剣を叩き込むこと暫く。必死なその声がギデオンの耳に届いたのは、先にヴィヴィアンの悲痛な叫びを聞きつけ、振り返った時だった。逆巻く炎の向こう側、異状に気づいて駆けつけたらしいフィオラ村の連中が、まだぞくぞくと森の中から現れている。大事な花畑が炎に呑まれる光景を前に、かれらは本気で悲鳴を上げて、もはや他には目もくれない。めいめい水魔法を繰り出そうとして──掲げられたその手はしかし、先着の同類同様、月に向かって固まってしまう。
思わず己の魔剣を下ろしたギデオンの瞳の奥に、あの光景が鮮烈に甦る。歪む肉、軋む骨、閃く牙──理性を失した、獣の白眼。あのとき、人間をやめたクルトは、双子は、どんな本能を晒したろうか。思わぬ窮地に我を忘れ、「逃げろ!」と叫びながら、駆け出そうとしたそのときだ。ゆらりと背後から近づいた巨影が、ギデオンの背面を強かに横殴りにした。がぃん、と強烈な金属音──爪とミスリルが火花を散らし、鎧の戦士が吹っ飛んでいく。その先は業火の渦、ひときわ激しく燃え盛る場所で。どっと叩きつけられるなり、無数の火の粉が激しく夜空へ舞い上がった。……これまではそこからも魔物に斬りかかっていたギデオンは、しかし今回は立ち上がらない。炎のなかで黒々と、呑み込まれたまま動かない。
ウェンディゴが嗤う。巨躯を満月に伸びあがらせて、どろどろと醜く嗤う。
エデルミラが呪う。傍目には理解不能な使命を帯びているかのように、ぶつぶつと何かを呪う。
村人たちは、もう間に合わない。絶叫しながら苦しみ悶え、皆めりめりと歪んでいく。
やがて彼らが成り果てた、フィオラの“英雄”、禁忌の魔獣。その真っ白に濁った眼が、皆ヴィヴィアンをひたと見つめて。
目の前の柔らかな“肉”に、口を開いた──その時だ。)
──ヴィヴィアン……ッ!
(炎の渦のなかから、文字通り雷のように輝く一筋が飛び出した。それはそのまま、ウェンディゴの胸をまっすぐに貫きざま、魔獣の群れに突っ込んで。ヴィヴィアンとエデルミラににじり寄っていた化け物たち、そのおぞましい首を皆、一太刀で撥ね飛ばす。
荒い息を吐きながら相手を振り返ったのは、もはや金色に熱された鎧を纏うギデオンだ。その肌も髪も、焼かれた痕はどこにもない──彼女の護りは効いていた。流石に全てを無効とする万能の魔法ではないから、物理的な衝撃を一瞬喰らっていただけで、未だ尽きてはいなかった。血走ったせいか紫がかったその双眸で、己の相棒をじっと見据える。純白のローブをはためかせ、栗毛を揺らすヴィヴィアンの、何より鮮やかなエメラルド。相棒となって以来、昼も夜も、幾度となく見つめてきた彼女の瞳。
それは不思議と、酷く静かな一瞬だった。向こうではウェンディゴが苦悶にのたうち回っているし、エデルミラは詠唱をやめず、まだ他にもいる村人たちの成れの果ては、唸りながら近づいてきている。炎はごうごうと勢いを増して、森に燃え移る勢いだ。──それでも、静かに口を開いた。彼女にはまっすぐ届くと、確信しきった声だった。)
……俺が“戦う”。絶対にお前たちを守る。
だから、エデルミラを……“治して”くれ。
──! ……はいっ!!
( 守護魔法の光を煌々と放ち、その鎧を金色に輝かせる相棒に思わず瞳を見開いて。その深い声が雷鳴のように鼓膜を震わせ、信頼に満ちた瞳が此方を射抜くだけで、それまでの絶望が嘘のように晴れていくのだから不思議でならない。何のことはない、この状況を“止める”には少し筋力不足だったかもしれないが、“治す”のは己の得意分野だ。ましてや他でもない相棒に任されたとあっては、それだけでエデルミラに引きずられていた背筋が伸び、熱気に侵されていた呼吸が楽になるようで。
アドレナリン放出で気が大きくなり、暴れる戦士を取り押さえるにはコツがある。それが魔法を使う手合いの場合、まずはその詠唱をとめてやることだ。難しいことはしない、できない。これがお優しい後輩ならばいざ知らず、ビビの場合は物理的にその口へと拳を突っ込んでやるのがやり口だ。相手の唇の動きに耳を傾け、その口が一際大きく開かれる瞬間、振りかぶった拳を相手の下顎目掛けて突き上げる。この時のポイントは、多少の抵抗が入ろうと絶対に拳を開かないこと、でないと指を噛み千切られるからだ。そうして目下の脅威を退ければ、物理アタッカーの場合、次は飛んでくる膝や肘をその辺の硬質な物体──今回は転がっていた補助腕の金具でいなして、相手が自分で繰り出した攻撃の威力で怯んだところを、「えいっ!」と全体重で組み伏せる。そうして繰り出す関節技は少々反則気味な気もするが、力も速度も格上相手に、しかもこれを喰らって尚カレトヴルッフの戦士たちは痛みに失神するまで暴れるのだから此方も手加減していられない。とはいえ、目の前の女剣士の場合はもう少し利口だったらしく。意識を落とす寸前で正気を取り戻したらしい彼女に、「一緒に帰りましょう、エデルミラさん!」と言い募れば。花畑に来てから初めて、話の通じそうな眼の色を浮かべた女剣士に、ついつい気ばかり逸って腕を外すより前にそうしてしまったからだろう。本来曲がる方向とは逆向きにキメられた己の利き腕を見たエデルミラが、「……それは脅迫かしら」と嘯くのを──それもありだな、と少し力を強めてみるも、その女の表情を見て一目で痛みでは支配できぬとわかれば、あっさり開放することにして。
とはいえ、エデルミラの調子が万全だったならば、ビビなど束になったところで適わなかったに違いない。組み伏せられる以前から満身創痍だった女剣士と二人、花の影で肩で息をすること数十秒。当初はビビの剣幕に「それは……」「私だって、」と気圧されていたエデルミラだったが、自分が発動した魔法陣を省みると「いいから逃げて」「あなた達を巻き込みたくはないの」と、再び頑なに首を振り出して。それでも諦めの悪いヴィヴィアンに周囲をぐるりと見渡せば、「貴女が此処に居たらノースさんだって巻き込まれるのよ」と、その言葉で一瞬ビビが怯んだのを見逃さず、隠し持っていた短剣でビビのローブを一際太い花の根に縫い付けてくる早業。そうして、娘が短剣を引き抜こうとする隙に華奢な腕を振り払えば、村民の成れ果てと対峙するギデオンの方へと駆け寄り、「……手伝うわ。だから、早くあの子を連れて逃げて」と。この場で一番強情であるビビの弱点と、そのビビ当人より余程ギデオンの感情を見抜く強かさこそ、彼女がデュランダルの代表としてこの村に来られた証左。しかし、次々と迫りくるかつて村民だった者たちに対し迷いのない剣さばきに、しなやかな身のこなしを一瞬鈍らせたのもまた、力任せに短剣を引き抜き、遥か後方でひっくり返っている、前線の二人より余程非力な娘の叫びで。 )
~~~ッ!! もうやめて!!!
そんな怪我で……ッ、こんな村のためにエデルミラさんが酷い目に合う必要なんかない!!
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへ出て行って尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷の罰はどこまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は、まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。……おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。母との苦しい日々のなかで、母が優しさから隠していたより多くのことを、エデルミラは察していた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすのだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかし陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。…のより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。かれらを今ここで根絶やしにしなければと、そうエデルミラが思いつめたのも、無理のないことだろうに。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれた祈りを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は母の言いつけに背いて、フィオラのやつらのお望みどおり……“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の返り血に染まりきった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。──今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを……フィオラ村の成れの果てを……次々屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、無辜のだれかを守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を拓き、救いに向かう心があると。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それは少しだけ違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしのことも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこかしかの深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへと逃げだして尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷からの罰はいつまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は……まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。追われ続ける日々のなかで、母は優しさから多くのことを隠していたが、それでもエデルミラがそれに気づかなかったわけがない。母が自分を身籠ったせいで故郷を追われたらしいことも、自分への愛ゆえに様々な罪悪感に苦しんでいたということも、自分はきちんと知っていた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすせいだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかしかといって、陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。かれらのより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。──そしてまた、自分の異常な父親と、それとまぐわった母の狂気を、知ってしまうことでもあった。
エデルミラの世界は、フィオラ村に来てから粉々に破壊された。村は確かに狂っていたし、様々な罪に手を染めていたが……母も母で、間違いなく異常で、ふしだらで、どうしようもなく罪人だった。たしかに若いころの母は、二百年前に死体を弄んでいた狂人の亡き骸と、黒魔術を通じて番うような女だったのだ。そして自分のなかには、その死体の血が流れている。それもただの死体ではない、異常な人殺しの男の死体、二百年も朽ちない死体だ。そう知ってしまって今、どうしてエデルミラ自身も気が狂わずにいられよう。自分は母の故郷が散々言い続けたとおり、確かにおぞましい忌み子だった。フィオラは悪だ、だが母も悪だ、そしてエデルミラ自身もまた、本当にこの世に生まれてはいけなかった。
……それでも、長年の想いは消えない。村を出てまともな世界を知った母が、自分を愛してくれたのは事実だ。自分がそれを支えにして生きてこられたことも事実だ。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。悪意の塊樽かれらのことは、今ここで根絶やしにしなければ。
……そして同時に、真相を知った己が、母とのあどけない約束なんぞをかなぐり捨てたくなるのも道理だ。想像以上に悍ましい出自だった自分自身のことすらも、もはや一滴の血も残さず、この地上から消し去らなければ。そう思いつめたのも、きっと無理のない話のはずだ。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれたあの祈りの純粋さを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は一度、生まれて初めて、母を憎んで。
──そうして、母の故郷のお望みどおり……この手を汚して、“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の帰り血に染まった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。……今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを次々に屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、人を守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を開く人間なのだと。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それはほんの少し違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え声。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこか地下の奥深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
?
?
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( ──赤い、赤い大地から伸びた黒い腕が女を捉え、その地の底へと引きずり込まんとする悍ましい光景。頭上には怪しい程に明るい月を湛えたその光景は、まるでこの世の終わりの様で。どこか現実味を放棄した鼓膜を、囂々と響く地鳴りが占拠してそれ以外は何も聞こえず、命からがら女を助け出した男を地獄の番人の凶爪が襲う。発動した魔法陣を中心として、花畑の中心にぽっかりと空いた真っ黒な穴は、その奥からはこの地で散った者達の無念の声をもこだまして、もしここに正気を保った者がいたならば、最早今生に救いはないのだと誰もが覚悟したに違いないその瞬間だった。
それまで、剣士らをいいように蹂躙していた血の触手。ギデオンに切り伏せられて怯んでいたそれが、ぴこん! と、再び鎌首を擡げたかと思うと、手負いの剣士の方へとまっすぐに伸び──その隣で、今にもギデオンを嬲り殺そうとしていたウェンディゴの心臓を貫く。酷い腐敗臭の漂う巨体がどうと倒れたその背後、頭上の月まで届きそうなほど溢れ出ていた触手はその身の色をどす黒い赤から、月より眩しく暖かな聖なる魔素の色に染め、ギデオンとの間に立つその娘のシルエットを柔らかく浮かびあがらせるだろう。 )
?
ギデオンさん!!ご無事ですか!!
?
( ウェンディゴを真っ直ぐに貫いたのち、その金色の指でギデオンの傷口を温かく注いでいった触手がしゅるりと戻っていくのと引き換えに、愛しい相棒のもとへと飛び込んできたヒーラー娘が “それ” を見つけたのは、エデルミラに突き立てられたナイフを力任せに引き抜き、勢い余ってひっくり返っていた時だった。不自然なほど密集した花々の根元に隠されるように刻まれた古代魔法、それ自体は世界中にみられる古代人から続く祝福の息吹だが、しかしそこから溢れる魔素の色に、いち早く女剣士の仕業に気がつけば。複雑な古代魔法の解読と、無念を訴える死者の魂への祈りが間に合ったのは紙一重だった。そこに大層な信念も目的もあったわけじゃない。フィオラ、ひいてはヴァランガを雪崩から守っていた古代の魔法は、花畑に撒かれた死者の無念をも繋ぎ止める枷になっていたらしく。悪魔の子によって解放された罪なき魂たちが、彼ら自身も気づかぬまま、今度は自ら人を殺めようとしているのが心底痛ましかっただけ。しかし、彼らを縛り付ける枷から、彼らを唆す装置へと変貌した古代魔法を読み解く傍ら──彼らの魂が無事にロウェバの御許に辿り着けますように、という娘の祈りは無事願い届けられたらしい、エデルミラが捧げた“悪魔の子”としての彼女の人格と同様の供物を対価として。
そうして、花畑の激闘が収まった頃合いに、「おおーい」と響いたのは、先程救援信号を上げていた陽動隊の声だった。どうやら他の隊の救援を受けられたらしく、今度こそ二度と動かなくなったウェンディゴの死体と燃え上がる花畑、そして満身創痍の三人を見て、重戦士の一人が気絶したエデルミラを預かってくれつつも、説明を求めたそうな表情をぐっと押し込めたのは、とうとうフィオラの頭上の冠雪が激しい音を立て崩れ落ち始めたからで。そうして、「逃げろ!!」という怒号に、ビビもまた“対価”を失って少し軽くなった毛先を揺らし駆け出して。 )
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓の破壊が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な汁長を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、先に行け!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺し、その背中で仲間に命じる。村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、必死の思いで次々に斬り捨てた。そうしてようやく、仲間が手配した数台の牛車に飛び乗り、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜ける。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も、……ったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれが、この場所にも届くまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせて。)
…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な質量を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、手配に回れ!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺す。その早業に一瞬言葉を失う年若い連中に、丁寧に説明してやる時間も惜しく、怒鳴るような声で命じた。──村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、若い連中や相棒があたっている段取りを信じながら、必死の思いで斬り捨てる。そうしてようやく、出来上がった数台の牛車に飛び乗ると、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜けて。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も……たったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれがこの場所にも迫りくるまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせ。)
……、
( 凍土の緩んだ踏ん張りの効かない獣道を、何度か滑りそうになるのを頼もしい腕に支えられながら走破すると、目の前のはだかる魔法障壁にうっと顔を露骨に歪めれば、相棒もまた同じ気持ちでこちらを見ていたようで。手練の冒険者である彼等ならまず簡単に避けられるだろうと、注意喚起もなしに魔法の火炎を放ったのは、その複雑に入り組んだ魔法式に嫌な見覚えがあった故で。古代魔法を礎に見慣れない土着の式が混ぜこまれた、この数日で見慣れざるを得なかったヴァランガの、フィオラの魔術師が組む魔法障壁は、いとも簡単にビビの火炎を弾いたかと思うとその瞬間、これまた聞き覚えのある品のない笑い声が冒険者たちを取り巻いて。
興奮したような引き笑いと共に、「おや、見覚えのある光景じゃないか」そう隧道の暗闇から顔を出したイシュマは、「悪く思うなよ、こんな狭いところで"英雄"にでも追いつかれたら困るだろう? ましてや君らみたいのは……全く卑しい、いつどこで祝杯をひと舐めなんてしてるかも分からないからね」そう白々しくニヤつきながら、当然のごとく障壁をといて冒険者達を招き入れる気は無いようだ。そうして、その間も障壁に体当たりや攻撃を試す男たちなど目に映らないかのように、目敏くビビの方に向き直ったかと思うと。「ああでも、そうだ……お前、」と「惨めに跪いて命乞いをするなら、お前だけなら助けてやってもいい……」と楽しげに続ける男に、今度こそ"くそったれ!"と、覚えたての罵倒をぶつけてやろうとした瞬間だった。「その余裕があるなら私を通して」と背後から響いたのは、彼女もまたあの地獄の最中をくぐり抜けてきたのだろう。あちこち傷だらけで、数日前の様が嘘のようにやつれた蛭女。彼女が肩で大きく息をして、艶を失った髪をばさりと揺らす間も足元の揺れは続き、残酷な白い塊が刻々と背後に迫ってくる。もはや一刻の猶予もない。この小悪党も身内に思うところはあるのだろうか、彼女のために障壁の規則を書き直す瞬間を狙い杖を構えようとした次の瞬間、その必要性は、あれ程強固に張られ魔法障壁と共に霧散したのだった。
その音は、膨大な雪の塊が全てを薙ぎ払いながら斜面を滑り落ちてくる轟音にかき消されてしまったようだった。揺らいだ障壁を通り抜けた女が、男の腕に飛び込んだかと思うと──ぐらり、と。イシュマの身体は地面に倒れ伏し、そして二度と立ち上がらなかった。雪の白い地面に広がる赤い染み、寸前に迫った轟音の中、確かに届いた女の笑い声。消えた魔法障壁の向こうに次々と冒険者たちが駆け込む中、前のめりに倒れたイシュマの隣から動こうとしない女に、いけない、と。このままでは──と、振り返ったヴィヴィアンの背中を押したのは、強く腕を引いたのは、果たして誰、何だったかを、後にビビはこの時の記憶を思い出すことは叶わないのだった。 )
──……あ、だめ、ッ……
(あの地下牢でギデオンたちを裏切った後、イシュマと蛭女の間にどんなやり取りがあったのか、それを知る暇はもはやなかった。──トランフォードには古くから、“スカパペツィの掟”という言い伝えが存在する。“災害や魔獣の害で今にも死ぬかもしれないときは、てんでばらばらに逃げなさい”というもので、それは事実、他人を助けようとして逃げきれずに亡くなった、何万人もの犠牲者を悼んだために編み出された教えだった。故に現代の冒険者たちは、人命救助を己が使命としながらも、究極の場合には真っ先にその掟に従う。ギデオンもまた例外ではなく、ただひとり、己の命より大切な相棒ひとりを気にかけるのが精一杯で。相棒をいち早く隧道の奥に押し込み、後の全てを置き去りにして駆け抜けていったそのことは、ずっとずっと後になっても、一度も後悔などしない。かろうじて、轟音のなか高らかに響く狂ったような哄笑が、蛭女の声を聞いた最後になった。
「滅びればいい、こんな村! この世から消えてなくなってしまえばいいわ!」……
──暗く細くせせこましい、崖のなかの一本道。しかしこの中に逃げ込んでも、まだ恐ろしい思いを拭い去ることはできなかった。背後から迫る怒涛の雪は、この狭い空間にさえ押し寄せかねない勢いだ。何より足元の揺れがまだ酷く、天井からばらばらと石くれが降ってくる始末。今より揺れが酷くなったら、頭上の大きな岩の層など、剥がれ落ちてくることだろう。この闇のなかで生き埋めになるわけにはいかない。「気をつけろ!」「こっちだ!」と、互いに口々に呼びかけながら、冒険者たちは出口を目指す。一刻も早く、この闇の先へ。──死の迫る世界の外へ!
そうしてようやく、ギデオンたちは光の中に躍り出た。未だ夜も明けぬ時分であるのに、満月に照らしだされた一面の銀世界は、真昼のような眩さで。目が眩みながらも未だ走り、しんがりを務めるこちらの耳に、しかし遠くから、何か叫び声が聞こえた。ぐっと狭めた目元に片手を翳しながら、そちらの方角を見遣ってみれば。あの斜面のずっと上……護衛班や回収班、そして共に先行して逃げ出していたレクター教授たちが、必死にこちらに手を振っている。何だ、どうした? そう思いながら、ふと振り返ってみたそのとき。思わず唖然としたギデオンとヴィヴィアンの頭上に、巨大な青い影がかかった。
それはこの冬の夜空を背に伸びあがる、真っ白なしぶきの壁。あの長かった崖の上すら乗り越えて、どうっと派手に溢れだした……雪崩の最先端の一波で。
もう間に合わない。そう悟った瞬間、ギデオンは本能で動いた。全ての音が消え失せた、いやにスローな世界のなかで。隣の相棒をぐっと引き寄せ、抱き締め、内側に固く固く庇う。顔色を失いながらも、せめて質量の衝撃から彼女の体を守ろうと、背中を屈めた、その真下。その相棒の杖先が、咄嗟に明るく輝いた瞬間。
──真っ白な濁流が、ふたりをごうっと呑み込んだ。)
*
(…………)
(……)
(…………)
(……)
(…………)
(……しばらく、眠っていたように思う。正確には、気を失っていたのだろうが。
時さえも凍りついていたかのような、長い長いその時間。ギデオンの体は、全ての生命活動をごくゆっくりと遅らせていた。しかしほどなくして、白く凍りついた睫毛が震え、うっすらと目を開く。瞼が鉛のように重く感じられ、何度か再び閉ざしそうになるものの。視界に満ちている薄ぼんやりとした光に、何故か不思議と縋りつかねばならないような気がして。何度もうとうとと揺れ動きながら、やがて意識が追いついてくるのを待つ。
幾らか目が醒めてくると、やがて全身に冷たさを感じはじめた。肩や背中、腕周りや脹脛が、氷の毛布にきつく圧されているかのようだ。胸から上以外は全身が厚い綿雪に埋まっている、という状況に気づくのは、この数分後のことである。……だがその中にあって、ギデオンの体の芯は、不思議と体温を奪われていなかった。己の吐く息は温かく湿り気があるし、感覚を巡らせてみれば、己の体内、首の後ろから爪先に至るまで、何か心地の良い温かいものが、とくとくと循環しているのを感じる。己の血潮、だけではない。馴染みのあるこれは何だろう……? そこまでぼんやり考えて、はっと弱く息を呑んだ。彼女だ。これは彼女の魔素だ──ヴィヴィアン!
強張った頭を動かし、己の真下に目を向けて。しばらく不安げに揺れ動いていたギデオンの瞳は、しかしほっと、脱力したように落ち着いた。──愛しい娘は、己の腕のなかですやすやと眠り込んでいた。その顔色こそ流石に白いが、唇は薔薇のように赤い……きちんと血が通っている。何よりその力の抜けた表情が、サリーチェの寝室で眺めるいつもの寝顔に、あまりにもそっくりで。「ヴィヴィアン、」と何度か軽く呼びかければ、眉根にうっすら皴が寄るところさえ、いつものそれそのものだ。
思わず口許を綻ばせてしまいながら、もう一度彼女に囁く。確かめずとも、雪に埋まった互いの手と手を今一度握り直したのは……そこでぴったり繋がっている己の魔力弁からも、眠る彼女に呼びかけるためで。)
……ヴィヴィアン、朝だ。起きろ。
ん、…………おはよ、ございます……?
( 分厚い雪に包まれて、少し体温が下がったからだろうか。それまでの場違いな程に心地よかった睡眠を邪魔されると、不快そうに眉根を潜めたヴィヴィアンだったが。大好きな厚みにぎゅっと掌を取られる感覚と、そこから吹き込まれる熱い魔素に、その薄い瞼をうっすらと開けば、先に起きた相棒にしっかりと温められていたその分か、一気に周囲の状況を把握すると、元々大きな眼を溢れんばかりに見開いて。
そうして、かろうじて動く手でギデオンの顔をぺたぺたと「ギデオンさん! 生き、てる……良かった……」そう凍りついた睫毛や、こびりついた霜を払ってやりながらへにゃりと緩んだ笑みを浮かべれば。ヒーラーとして有るまじき、身体の違和感を確認するその前に、ぎゅうっと強く抱きついた肩が震えているのは、寒さのせいだけでは無いだろう。それから二人の身体にかけられたヴェールが少しずつ消えていく感触に、慌てて下半身を掘り起こせば。いつまでも「くすぐったい……!」なんてクスクス戯れ合っている訳にもいかず。元々かなり下山していたレクターらは、無事木陰に逃げ込めたらしい様子が確認できるが、ビビたちと逃げてきた冒険者達は何人か生き埋めになってしまっているのを掘り起こしてやらねばならないだろう。幸い人数分の足は確認出来ているから、さっさとこちらを終わらせたところで、今度は山のような後処理が漏れなく全員を待ち受けているに違いない。しかし、今ビビの心を酷く苛むのはそれではなく、過酷なヴァランガの山肌を、道無き道を進んだところに確かにあった花の里フィオラ。その隠された存在と、歪められた尊い命たち、そして一晩で消え失せた住人たちを思うと素直に喜ぶ気持ちにはなれないが、今だけは生きて帰れたことに深い安堵の息を漏らして。 )
……早く、帰りましょう、ギデオンさん。
……ああ。
(ヴィヴィアンの複雑な、けれども願いの籠った声音に、同じ湿度の吐息を零し。真っ白な雪の上、立ち上がった相手とともに、崩れた谷を一望する。
──数日前まで壮観だったこのヴァランガ峡谷は、しかし夜明けの薄明りの下、静かに息を引き取っていた。村の旧跡は雪に埋もれ、かつてのキャンプ地だった家屋も木くずのように粉々になり。あの隧道の出入り口に至っては、もはやどこかにあったのかもわからない有り様だ。きっとあの崖の向こう側は、山ひとつがどっと押し寄せた勢いで、もっと完膚なきまでに破壊し尽くされているのだろう。そんな状況を生き延びた今、ギデオンたちがなすべきは、ともに生き延びた仲間たちを助け起こしに行ってやること。だがせめてその前に、と。ふと横を向き、彼女の頭をいつもどおり撫でようとして──ギデオンのその指先が、しかしぴくりと途中で止まる。……愛しい娘の栗毛の軌跡が、途中で断たれていたからだ。
そうだ、あのとき。この谷を滅ぼすべくエデルミラが発動させた、エディ譲りの黒魔術。あれを反転させるため、相手はあの場で最も聖らかであろう依り代、己の髪を差し出した。一切の躊躇なく、自らに刃を当てたのだ。いつもギデオンのなら厳しく戒めるだろうそれも、しかしあの雪崩を生き延びた今朝ばかりは、一瞬の揺らぎの後に、感謝と安堵に負けたらしく。瞼を閉ざしてため息ひとつ、それから再び相手を見つめ。もう一度その小さな頭に、己の骨ばった掌を添えて……そうしてその指先を、後ろの辺りで遊ばせれば。途端にしゅるりと、元々緩んでいたのだろう、髪紐が容易くほどけて。
ふわりと広がった柔い栗毛は、ギデオンの記憶にあるより、やはり幾らか身軽なようだ。しかし、そのひと房ひと房は、山の稜線から昇りはじめたまばゆい朝日に照らされて、黄金色に輝いて見えた。妙に神聖に感じられるのは……きっと昨夜、あんな奇跡を目の当たりにしたせいだろう。──紅き望月闌く夜さり。因習に満ちた花の里、そして怨みで生き永らえる冬山の化け物は、たった一夜で滅びを遂げた。だがしかし、彼らの悪事に巻き込まれた数々の犠牲者たち……ジョルジュ・ジェロームのような無辜の人々の魂は、朝陽の昇ったこの青空に、きっと無事に召されたはずだ。その奇跡をもたらしたのは、他でもないヴィヴィアンである。あの絶望の状況で、怨みの深紅を安らぎの黄金に変え、天に還してやった娘。
……ギデオンには時々、このヒーラー娘がまるで、神話か何かの世界から来たように思えてならない。そのことにうっすらと、ただの感嘆だけではなく、恐れを覚えることがある。──どこかから来たのではなく、どこかへ行ってしまうのではないか。自分が迂闊に目を離せば、彼女はその力のために、世界に奪われるのではないか。馬鹿馬鹿しい妄想かもしれないが、時たま本気でそんな風に感じるからこそ……今だけは。ともにこうして朝を迎え、己のすぐ横に彼女がしっかり立っている、ただそれだけの実感に、心の底からほっとしていて。
口元をやっと緩め、相手の髪を撫でたその手で、耳を優しく擽り……相手の無事を確かめると。「おまえのこれが元通りになるくらいまで、上からたっぷり特別休暇をもぎ取ろう」なんて、冗談めかした囁き声を。それからもう一度、万感の思いを込めて……彼女にそっと顔を寄せ。)
そうだな。ふたりで、うちに帰ろう。
(──こうして。激動のヴァランガ調査は、結局未達で終わりを迎えた。
冒険者たちが目撃した恐ろしい出来事は、後に“フィオラ村事件”として、トランフォードの闇の歴史にその名を連ねることになる。当然のことだろう……人を魔獣に変えてしまう常識外れの劇薬が、この世に生まれ落ちていたのだ。それは随分と後になるまで、様々な問題を国内外に広げるのだが──今はまだ、遠い話。
だからここからしばらく先は、あの事件の後にあったこと、わかったこと、そのいくつかを記していこう。
──調査隊は、無事生還した。何人かは多少の大怪我を負った者もいたのだが、ヒーラーであるヴィヴィアンの底なしの魔力を以て治せないようなものはなく、せいぜいが全治数週間。唯一目覚めさせられなかったのは、己の黒魔術の毒牙にかかった、元リーダーのエデルミラくらいだ。
彼女はあの一夜以来、ずっと昏睡を続けている。憲兵団の魔法医の話では、目覚められないのではなく、目覚めようとしないらしい。エデルミラの魔素に乱れはなく、おそらくは深く心を閉ざしたために身体が追従しているのだと──厄介な呪いを自分自身に掛けたようだと。それでもいずれ喋らせるさ、と。聖バジリオで久々に再会したあの懐かしの諜報員、エドワード・ワーグナーは、恐ろしいほど穏やかに言った。
「──元々、君たちの今回のクエストには、裏で僕らが噛んでいたんだ。アラドヴァルのあの剣士には、僕らに嗅ぎ回られるようなとある疑いが持たれていてね。魔導学院からデュランダルに調査依頼が舞い込んだ時、これはお誂え向きとばかりに、合同クエストを組ませてもらうことにしたのさ。そのほうが、お互いの顔さえ知らないうちの覆面冒険者が上手く紛れ込めるからね……ああ、そうそう。東のほうのギルドには、うちの手の者がいるんだよ。あの辺りはキーフェンマフィアも随分やんちゃをしているから、そうでもしないとやってられない。国を守るって大事だろう?
……とにかく。アラドヴァルのあいつに上手く探りを入れるために、東側からの参加者は、僕らの都合を踏まえての選抜をさせて貰った。で、リーダーにあのエデルミラ・サレスを据えたのは、その様々なしわ寄せの結果だったってわけなんだ。恥ずかしながら、彼女は僕らにとって、完全にマーク外でね。母親とふたりで、何やら迫害されていたらしいのは突き止められていたのだけれど……その加害者が、フィオラ村の差し向けたビェクナー商店だったってことも、サレスが母親を追い詰めた故郷を深く怨んでたってことも、僕らは気づけちゃいなかった。
だからヴァランガ調査の顛末は、もう完全に、憲兵団の大失敗さ。行かせちゃいけない人間を行かせて、そいつが大爆発したことで、君らも含めた一般人を随分巻き込んでしまったし、情報漏洩を防ぐための追跡調でもてんてこ舞いだ。そもそもの調査対象だったアラドヴァルの奴にしたって、今回のせいで強硬手段に移らざるを得なくなった。それじゃあ取り漏らしもあるだろうから、上はもうおかんむりでね。やらかした前任なんて、今ごろルーンの最果てに飛ばされている頃だろうよ。そそう、それで後始末にあてがわれたのが今回の僕ってわけ。フィオラ村の流通を突き止めるのはもちろん、サレスが何をしたか、今までどんな動きをしてたか、全部報告書を出せって話さ。まったく、幾らこの僕が優秀極まりないとはいえ、とんだとばっちりだよねえ……」
──随分と饒舌な、そのエドワードの話によると。フィオラ村の唯一の生存者であるあの少年、イクセルは、現在は憲兵団の関連施設で保護……もとい、監禁されているらしい。
イクセルは山を下るとき、自分ひとりが生き延びてしまったことに、酷く泣き叫んでいたようだ。その幼いながらに凄まじい怒りの矛先は、他に誰あろう、ギデオンたち冒険者にまっすぐに向けられた。──なんでみんなを助けなかった! なんでみんなを見殺しにした! ──俺も村のみんなと一緒に死なせてくれればよかったじゃんか! ──俺が、俺がちゃんと英雄になれば! おまえらが村に来なければ!
イクサルは決して、妹たちはまだ生きているはずだとは一言も言わなかった。途中で雪崩に巻き込まれて意識を失ったギデオンたちとは違い、あの子どもは一晩じゅう、谷の向こうに戻ろうとするのをレクターたちに必死に止められ、涙をはらはら流しながら、故郷が雪崩に呑まれる様を見届けつづけていたらしい。ただでさえまだ幼い子どもにとって、それはどれほど惨い光景だったろう。ヴィヴィアンは特に酷く心を痛めていたが、さりとてできることはなかった。こうして続報を聞けるだけまだありがたいほうで、そもそも事件後の冒険者たちは、同じギルドから参加した者以外との接触を禁じられている。天涯孤独のイクセルは、当然誰とも会えないし、誰のことも、何のことも、知らせてもらえやしない立場だ。
よってあの少年は、今も施設の職員相手に、堅く口を閉ざしている。フィオラ村はどんな村なのか、どんなことをしていたのか。職員たちが遠回しに聞き出そうとしてみても、一言も語らないらしい。当然ではあるだろう……おそらくその調子なら、いつかはきっと、ヴィヴィアンが聴取役として呼ばれることもあるだろうか。その時が来るまでに、少年の孤独な心は、気丈に耐えてくれるだろうか。
……その少年の体を魔導学院が調査して、ひとつ判明したことがある。
フィオラ村の出身であるイクセル少年の体内には、本来は人体にあるはずのない完全未知の成分が、高濃度で蓄積していた。この組成は一説によると、ハリガネムシがカマキリを操る時に注入する、ある特殊な成分に非常によく似た配列らしい。
その解析結果と、ヴィヴィアンが持ちかえった花の成分の調査結果を、憲兵団の監視下で照らし合わせてみたところ。誰もがにわかには信じがたい、だがそうとしか思えない、ある仮説が浮かび上がった。
──フィオラ村のあの“花”の正体は、非常に特異で悪質な、寄生植物なのではないか。
──自他の生きものの体を侵し、その本能を“花”に利のある行動をとるように書き換え。やがて一定以上溜まれば、月の魔力に反応して、その体を凶暴な魔獣のそれへと変えてしまう。そんな恐ろしい作用を持つ、いっそ猛毒とも呼べる花粉を分泌していたのではないか。
そう仮定して振り返るなら、心当たりは様々だ。
──鍾乳洞に巣をつくる、フィオラ村の特別な蜜蜂。本来はどんな蜂も、地上に巣をつくる習性のはずだ。それがフィオラの蜜蜂は、どんな光も差し込まない地下深くに巣を構えていた。あれはおそらく、本来は“花”に洗脳されて受粉を手伝う立場の彼らが、月の光を浴びることで変貌まで遂げてしまわぬよう、夜間は地下に引きこもるように変わっていったのではないか。
──祝祭に参加した最初の宴で卓に出された、あの特別な肉料理。あれはたしか大型魔獣、ヘイズルーンの肉だった。月夜に山々をうろつき回るあの山羊は、何かしらの特殊な酵素を体内に隠し持つらしく、どんな毒草も効果がない。植物であれば皆一様に、美味な乳へと変えてしまう。……だからフィオラの“花”にとって、己の洗脳が一切効かないあの奇妙な草食魔獣は、唯一の天敵だろう。おそらくはそのために、自分の洗脳下にあるもの、特に何度も毒を含んですっかり従順になったものを、月の光をトリガーとして強い魔獣に生まれ変わらせ、“花”を食べにくるヘイズルーンと闘わせるようになったのではないか。本来のフィオラ村が狩猟を生業としていたのも、魔獣化を遂げるまでもなく、ヒトならではの知能や道具で、たびたびやって来るヘイズルーンを屠っていたからなのではないだろうか。
──村の資料館のタペストリーの、ぐるぐる目をした村人たち。あのフィオラ村の祖先たちは、数百年前の世界で迫害を受けたときでさえ、“花”を忘れずに持ち出していた。あの刺繍群の最後でも、“花”はやたらと神聖そうに縫い込まれていた筈だ。きっとそのときから、始まりの祖先の時から、彼らは花粉に毒されて、“花”に魅入られていたのだろう。……そもそもかれらは、どんな理由で迫害を受けていたのか。もしかしたらきっと、ロウェバ教を中心とした宗教弾圧が激しかった大昔に、“花”を崇める異教を掲げていたのではなかろうか。
──それからあの、ジョルジュ・ジェロームの日記に綴られていた凄惨な最期。あれはおそらく彼の体が、フィオラ村の花粉に対してアレルギーを来たしたせいだ。滞在が長くなるにつれ、最初は順応できていたジョルジュ・ジェロームの肉体は、フィオラ村に蔓延している“花”の花粉の異常さに気づき、激しい免疫反応を引き起こすようになったのだろう。ただでさえ他の生物の肉体をそっくり改造してしまうほどをど強力な毒なのだ、相応の苛烈な反応が起こってもおかしくない。
──だとすれば、フィオラ村の人々が行っていたあの近親相姦は、一種の生存戦略的な文化だったのではないか。“花”の毒に侵されて尚生き残れる者たちで子孫を作っていくうちに、“花”に対するある種の免疫、自己破壊には至らないまま“花”を愛でていられる体を、獲得したのではないか。
しかしこの世には無情にも、生物濃縮というメカニズムがある。
毒の海で育った小魚を、それより大きなレモラが食べ。そのレモラをメガロドンが、メガロドンをドラゴンが。そう言った食物連鎖をするうちに、最初は僅かだった毒が、後々の生物の体内にどんどん蓄積されていって、より高濃度になっていく。そして時にその猛毒は、母胎から子へ継がれてしまう。
フィオラ村の人々は、おそらく数百年もの間、あの“花”とともにに生きてきた。その花粉を吸い続けて、何もないわけがない。無自覚に花の守り人となりつづけ、やがてはそれを利益のために悪用しだしたその先に。ただでさえ近親相姦で高め続けた花の毒が、あとはエデルミラが大鍋に盛った僅かな秘薬のひと押しだけで、臨界点を迎えたという可能性が、限りなく高いのだ。
イクセルはあの日、魔獣化の秘薬をとうとう口にしていない。なのにその体には、既にあの“花”の毒が一定程度溜まっているとわかった。だとすればそれは、イクセルが先祖代々、知らずに受け継いできた毒だ。そしてイクセルが将来的に、もしもフィオラのだれかと結婚していたのなら。その息子や娘の体には……イクセルよりも多くの毒が、生来宿っていたはずである。──フィオラ村はきっと、今回の事件がなくとも、いずれ数世代のうちに、皆魔獣化して滅んでいたのだ。
しかしそれでも、かれらの“花”や、彼らがこの世に編み出した秘薬の製法はなくならない。ならばいずれ、連絡の絶えたフィオラ村を、あの取引先のいずれかが訪ねては、遺されたそれを手に入れてしまっただろう。そうなると、もっと恐ろしい大事件が、もっと恐ろしい連中によって引き起こされた未来も有り得る。……結果論でしかないにせよ、今回のヴァランガ調査は、それを防ぐ最後のチャンスをぎりぎり逃がさなかったのだ。
──故に。調査隊が山を下り、通報を入れた後は、然るべき機関、然るべき者たちが、即座に水面下で動きはじめた。
ここ数カ月のヴァランガ地方は、いよいよ厳冬の雪に閉ざされ、もう何者も立ち入れない。だがひとたび春を迎えれば、きっとかつての取引先も再びフィオラに秘薬を求め、その惨劇を知るだろう。タイムリミットはそれまでとばかりに、今日も国内のあちこちで、憲兵団の諜報員が、魔導学院の研究者が、警察の名刑事が、公認協会の古強者が、皆この事件を追っている。互いの顔すら見知らぬ者も多々いるだろうにせよ、しかしその志は、ぶれることなくぴたりとひとつだ。──明日の平和を守りたい。家族や友人、知人、そこらの赤の他人でもいい。誰もが安心して過ごせる日々を、不完全でも愛しい社会を明日も続けていけるよう。日陰のうちに悪を下して、この戦いを乗り越えたい。
ギデオンとヴィヴィアンもまた、キングストンに帰還してからしばらくの連日連夜、私生活を投げ打っての事後処理に奔走した。山のような報告書に、何度も繰り返しの事情聴取、記憶を掘り越してのマッピング、査問会、再現見分、エトセトラエトセトラ。求められる協力をひたすらこなしつづけるうちに、会えない日々、帰れない日々も、何度続いたかわからない。
そうしてようやく、ふたりがそれぞれ帯びた使命を、一度すっかり果たし終え。少なくとも私的には、長かったヴァランガ調査を完了することができたとき。……本当はふたりで、ちょっと良いところに小旅行でもしに行って、お互いを労おうかと計画していたはずだったのだ。しかしふたりとも、いざお互いの顔を見るなり、そんな考えは吹っ飛んだ。
──帰りたい。籠りたい。一刻も早く、サリーチェの家に。
引き合うように抱き締めただけで、それがひしひしと伝わった。互いに同じ思いだった。
半年前にふたりで住みはじめた、あの麗らかなラメット通りの一軒家。今のギデオンとヴィヴィアンにとって、他でもないあの空間こそ……既に思い出がたっぷり詰まった、心安らぐ場所だったのだ。)
*
(それは、その日の夕暮れどき。聖バジリオ記念病院の真っ白な廊下にも、温かなオレンジの西日が格子状に差しこみはじめ。いよいよ他の見舞客も、ちらほらと帰り支度を始めたころのことである。
ギデオンはひとり、用があった受付からヴィヴィアンの病室に戻っていくところだった。数日ぶりの見舞いだったが、今日は随分長いこと彼女のために居ついている。その上さらにとある申請をしたことで、悪戯っぽい顔をした受付のご婦人には、何やら変化があったのをちゃっかり見抜かれてしまったようだ。こちらの何か言いたいのを自重して綻む口許に、対するギデオンのほうはといえば、なんだか居た堪れない気持ちで視線を僅かに逸らしたが。……今までと違うのは、他人のこういい揶揄うような反応に、上辺ばかりの焦燥感を抱かなくなったことだった。我ながら以前の自分に呆れるようばかりだが、それだけ自分の心境が大きく変化したのだろう。
──後輩ヒーラーのヴィヴィアンと組むようになって一年。ギデオンは最初こそ、彼女の無邪気で獰猛な好意を躱しつづけたはずだった。しかしいつしか彼女に絆され、様々な日々を共有しながら、やがて本当に憎からず想いはじめた……その矢先。あの因縁の悪魔の事件で初めて彼女を失いかけて、そこでようやくギデオンは、それまでの自分の愚かさに気がついたのだ。
あんな思いは、もう二度としたくない──故に今のギデオンは、いっそ腹が据わっている。とある聞き込みをしたことで、ギルドの連中や旧友たちには、最近おまえらいろいろありすぎてもういったい何なんだ、何が何だかわかんねぇよ、と狼狽されてしまったもの。ああ、別にこんな手合いは気にする必要もなかったのだと、そんな当たり前のことに今更のように気がつきながら、ただ淡々と質問を重ね。──その成果をひっさげた上で、今日は彼女を見舞いに来たのだ。)
……ヴィヴィアン、俺だ。
(そうして、馴染み始めた病室の戸をノックしてから声をかければ。内側からの声に慣れた様子で病室に入り、馴染みの丸椅子に腰かけたはいいものの。今日持ち込んだばかりの人気店の焼き菓子が、まだ辺りに馥郁とした甘い香りを漂わせているものだから、甘党ではない己でさえ、思いがけず腹が微かに鳴いてしまう。──そういえば、今日はいち早くここに駆け付けたかったから、朝飯もそこそこに街道の馬車に乗り込んだんだ、と。少しはにかんだように言い訳してみせながら、ふと立ち上がって傍らの棚に歩みより、鉄製の水差しを魔法盤の火にかけて。)
なあ、悪いが。
そこのポットで茶を淹れるから……今日の検査結果の話は、そいつをつまみながらにしないか。
……あっ、ええ! もちろん、……。
私の方こそ気が利かなくってごめんなさい。
( 私淹れますよ、と立ち上がりかけたのを制されてしまったその代わりに。『オ・フィール・デ・セゾン』のロゴが入った箱を手にとり、しっとり香しいマドレーヌ2つうち、焼き目が綺麗な方をギデオンの皿へと滑り込ませれば。魔法盤の前に立つ頼もしい背中にほうっと見とれてしまうのは、先程2人の関係が明確に変わったばかりだからだ。キングストンから馬車で6時間、貴重な時間を割いて来てくれた相棒……恋人、が、隣でお茶を淹れてくれている。──まだ、暫くここに居てくれるってことだよね、と。子供たちのお見舞いにでも行ってきたのだろうか。一度席を外した後にもう一度帰ってきての、ただの上司部下では有り得ない、明らかな親密さを表す滞在時間に、どこか現実味なく火照った頬を両手でもちりと抑えると。おもむろに振り返ったギデオンに慌てて姿勢を正して、簡素なティーカップをソーサーで受け。 )
──ありがとうございます。
でも、もう随分良くなったんですよ。
今日の検査で先生も退院を考えていいんじゃないかって。
( 来週の土曜日でちょうど保険が切り替わるので、手続的に金曜日かな、と付け足したのはあくまで若ヒーラーの浅慮だが。キングストンに2人で帰る。やっと果たせるその約束に退院後のことへ思いを馳せると、普段より少しあどけない印象の目尻を、更にへにゃりと柔らかく下げ。入院中は中々こうしてゆっくり話す時間も取れなかったが、キングストンに帰ればまたギルドで顔を合わせられるだろうし──……もしかして、お休みの日にもデートとかしてもらえちゃったり、して……!! なんて、桜色の小さな爪がついた滑らかな足でとたとたと嬉しそうにシーツを鳴らし、自分に都合の良い妄想に耽ったのもつかの間。本日、ギデオンが来てくれてからというもの、時に乙女らしい葛藤に苛まれながらも、ずっと楽しげにはしゃいでいた表情に少し影が刺したのは、その肝心な帰宅先、ビビの馴染みの下宿先のことを思い出したからで。それまで、御年今年で90だとは思えない矍鑠としたおばあ様が管理していた関係で、好立地にも関わらず女性限定で居心地の良かった下宿先だが。今年の春、とうとう運営を息子さんに譲ることになってから、隣の部屋に男性の入居が決まっていたのだ。未だ挨拶を交わしただけの関係で、決して悪い人物では無いのだが──そう、ごくごく健康的に肉食系な隣人を思い出して、会話に不自然な間が空いてしまったことに気がつくと。「あ、やっぱり美味しい! ありがとうございます、並んだでしょう?」と、一口サイズに割ったマドレーヌを口に含んで見せて。 )
とはいえ、暫くは安静にしてなくちゃいけないみたいなんですけどね…………いえ、随分お部屋開けちゃったからお掃除大変だろうなって、思って。
……なあ、そのことについてなんだが。
(「そんなでもないさ。暖かくなったしな」なんて雑談に応じていたが、相手が誤魔化した小さな憂いは、しかし決して見逃さなかった。せっかくの綺麗な焼き菓子、自分が言いだして出させたものに、手を付けようとしないまま。いやに真剣な面持ちで慎重に切り出して、相手がきょとんとでもすれば、丸椅子に腰かけたまま、一度きちんと向き直る。「大事な話があるんだ、」と。
──相手と恋仲に踏み切ったのは、つい数時間前の昼下がり。それだというのに、その日の夕方にいきなりこんな持ちかけに及べば、彼女を怯えさせないだろうか。何より社会的に見て、あまりにも性急だろう。四十年生きてきたギデオンの常識は、いっそ蛮行だと自ら厳しく糾弾する。そんな諸々を渦巻かせながら──それでも決して譲れない、もうこれ以上悠長に躊躇ってなどいられない。そう再三風にも考えたから、“これ”をはるばる持ってきたのだ。
棚の上に置いてある自分の革鞄から取り出し、ますは相手の手元に置いて、その目で直接見るようにと促したその紙束は。──絵具ないしは製図用インクで描かれた、建物の図面である。それも、ひとつふたつではない。広々とした間取りが売りのアパートや、前庭の緑豊かなタウンハウス、瀟洒な外観のメゾネット、ゆったりとした一軒家まで。いずれもキングストン市内、それもカレトヴルッフにほど近い立地を誇る、超優良の物件ばかり。しかも各々家賃やら、敷金礼金やら、最寄りの馬車駅への所要時間やら……そんな様々な情報が、いっそ網羅する勢いで細かく記されているあたり。これはもう明らかに、入居希望者に向けて作った、不動産屋の案内だ。
何故こんなものを、と相手に問われるその前に、再びヴィヴィアンの目を間近な距離でじっと見つめる。そのアイスブルーの瞳に込めた熱だけでも、きっと明白に語れたろうが。……他でもないヴィヴィアンから、先ほど大事だと教わったばかりだ。窓辺の夕陽に見守られながら、相手の片手にそっと己の手を重ねると。今一度、その想いをはっきり言葉にしてみせて。)
ヴィヴィアン。
──俺と、一緒に暮らさないか。
……、…………?
( もしこの時のビビの心象風景を覗くことが出来たならば、それはそれは壮大な宇宙の果てを垣間見ることが出来ただろう。一緒にって、一緒に……ああ、我々は同じ星という宇宙船に同乗している仲間的な……? と、一瞬。あまりの提案にぶっとびかけた思考を何とか地上に戻してくれば、その顔に未だ色濃い困惑を浮かべたまま、「それは、将来的に……ってこと、ですか……ね?」と。それでも、かなり気が早いとは思うのだが、比較的常識的な落とし所を見つけ問いかけてみるも。そうして絞り出した問いかけを否定されてしまえば、再び白い唇を震わせてパクパクと声にならない声をあげ。 )
あ……いえ、その、ごめんなさい、ええっと……驚いちゃって。
( そうして、それまで次の一口に進もうとしていた焼き菓子を皿に置き、思い出すのは──20代のうちに子供を産みたいとするじゃない? と、いつか同い年の魔法使いが女子会の名を冠した飲み会でクダを巻いていたうちの一言。別に、DVとまではいかなくても、なんか違うのよねって人と一生生きていくのはお互い不幸だから、子供を産むまでに最低1年は時間を設けたい。じゃあ遅くとも28には結婚するために、生活スタイルが合わなかったら困るから、また1年期限を設けて同棲したとするでしょう? そうしたら付き合った当日に同棲する訳にもいかないから、26
までには結婚を前提としたお付き合いを始めないといけなくて……とまあ、要は意外と時間が無いという、何の個性もへったくれもな年頃女の焦燥混じりの皮算用だったが。目の前の男の提案と比べれば、よっぽどマトモな考えだったと思わざるを得ない。決して嫌だというわけじゃないが、あまりにも──……もしかして何か、ビビの知らない制度的な事情とかがあるのだろうか。それに社会的な常識さえ差し置けば、大好きな相手と、そしてやはり例の下宿に帰らなくていいという安堵が、やっぱり良いかも……と。弱みに付け込まれた思考を血迷わせかけたのを、再度冷静の引き戻してくれたのは皮肉にも、2人の生活を夢見た具体的な妄想の方で。検診的な先生や看護婦さん達の丁寧な治療のおかげで今日び発作を起こすことは無くなれど、未だ免疫機能が弱っているのだろう。本日体調が優れていたのもタイミングが良かっただけで、退院後も度々ただの風邪で熱を出し、数日寝込んで相手に迷惑をかける頃を想像すれば、申し訳なさそうに頭を振り。 )
……いえ、でも、やっぱりすぐに、という訳にはいかないと思うんです。
大分回復したとはいえ……もう大丈夫、大丈夫なんですけど、まだ寝込んじゃって動けない日もあるし……
だからこそだ。そのあいだ、おまえを助ける奴が必要になってくるだろう?
友人が多いのは知ってるが……夏前のこの時期だ。皆除草依頼だなんだで、あちこち駆り出されっぱなしだろうし……仲良くしてた隣の住人だって、今は地方公演に出てるって話だったよな。
(相手の遠慮がちな声に、しかし想定内と言わんばかりの穏やかな声音をさらりと返す。……その除草依頼だなんだがどの程度降ってくるのか、だれがどれほど王都を離れるクエストに出るのか、上級戦士であるギデオンは、もちろん事前に聞き知っている。それを自分の好きなように都合する暴挙には、流石に及ばないにせよ。その代わり、話の成り行きを静観し、口を“出さない”でおくことならば、いくら重ねても問題はない。それから、相手のお隣のことだって。何かの話題についでに彼女がぽろっと言ったのを、二月だったか三月だったか、当時は軽く聞き流して終わったはずだが。この具合の良い頭は、その必要さえ生じれば、どんな些細な情報もこうしてたちまち掘り起こし、便利に引用してしまう。
愛しい相手に、嘘はつかない。だがその代わりに、ほかの手段を躊躇いもしない。別に酷くはないはずだ──事実を優しくあげつらい、相手の心もとなさを丸裸にしてやるだけで。
もしもこの場にマリアやエリザベスがいたならば、ギデオンのそんな卑怯なふるまいを、決して許しはしなかったろう。しかし今この病室に、哀れなヴィヴィアンは当の己とふたりきり。故にこちらは、じわじわ布石を配しながらも、焦る必要がどこにもない。その腹のうちを気取られぬよう、あくまでごくのんびりと、寛いだ様子を見せながら。相手の手元にある資料に触れ、それにもう一度軽く目をやるふりをしてから、今度は再び相手を見遣る。──急な誘いに竦んでいるなら、今度は少し距離を置き、安心させればいいだろうか。いかにもしおらしく引き下がると、それでも酷く名残惜しそうに、強請るように首を傾げて。)
何も、すぐに引っ越そうってわけじゃない。退院した後、おまえの体調が落ち着くまでは、ゆっくり様子を見るべきだろう。
……それから、おまえの気が向かなかったら、やっぱりやめると言ってもいいんだ。いつだっていい。おまえが嫌だと思うことを、無理強いすることはしない。
……だが、別にそういうわけじゃないのなら。そうだな、ほんの試し程度に、物見遊山で……行ってみないか。
…………ギデオンさん、
( 手練手管をこまねいて、用意周到に逃げ道を潰しにかかったギデオンの脳内で、この時ビビはどんな反応をしたろうか。あげつらわれる不安要素にか弱く怯え、素直にその腕の中に堕ち往くか。それとも手強く強硬に突っぱねたろうか。しかし、根本からしてギデオンを疑うという機能が未発達なヴィヴィアン本人はと言えば、ギデオンの『だからこそだ』という言葉に、大きな瞳をぱちくりさせたかと思うと。丁寧に並べたてられる"まるで自分事のように真剣に、ビビのことを考えてくれた言葉達"に、次第にもじもじと顔を赤らめ出して。尚も重ねられる"優しい思いやり"に上半身を乗り出すと、太い首に腕を回して力いっぱい抱きついて。 )
嫌なわけないです!!
こんなに真剣に考えてくださるなんて……嬉しい、
ありがとうございます、大好きです!!
( そっか、ギデオンさんは忙しいから、私の部屋まで看病に来るのも難しいもんね、という盲信は傍から見ればツッコミどころ満載だろうが。束の間の戯れを楽しみ、ゆっくりとベッドに腰を下ろせば、るんるんぽやぽやと時折、「えへへ」と締りのない笑みを漏らしながら改めて書類を眺めて。──ここはお庭が広いんですね、だとか。キッチンからリビングが見えるの素敵! だとか。賃料や共益費、その他諸々の雑費等の月の予算を正確に読み取ることが出来れば、元々白い顔から更に血の気を失せさせたろう物件たちを楽しげに眺めているのは、ただ単純に読み方がわかっていないだけらしい。途中から相手の肩にくたりと凭れて、ギデオンの補足説明に耳を傾けること暫く。久しぶりにはしゃぎすぎたのだろう、少し眠そうに熱い掌を相手のそれに重ねれば、少し掠れた小さな声をギデオンに聞かせる気があったかは微妙なところで。 )
行ってみたい、けど、本当に甘えちゃっていいのかな……
(みるみる笑顔を綻ばせたヴィヴィアンに飛びつかれ、思わず──他所だと真顔でいるばかりのギデオンにしては珍しく──白い歯を爽やかに見せ、笑い声をあげてしまう。これだからこの娘は手強い。彼女がまっすぐ寄せてくれるこの信頼感、安心感。そのとびきりの純真さを前にして、どんな邪な心構えも、虚を突かずにいられようか。事実、「俺もだよ」と応えたギデオンのまなざしには、もはや一切の混じり気がなく。ただただ、相手への愛おしさに満ちあふれているのみで。
ふたり睦まじく頭を寄せ合い、資料片手にゆったりと喋って過ごす、寛ぎのひとときののち。夕闇がゆっくりと一日を綴じていくなか、ヴィヴィアンの呼吸は、いつしか酷くゆっくりと落ちつき。その柔らかくしなだれる体も、まるで幼い子どものようにぽかぽかと温もりはじめた。たったそれだけの些細なことに、己の胸がまたぐうっと深く満たされるのを感じつつ。「……いいんだ。俺の本望だよ」と、相手の旋毛に唇を乗せて囁き。
くっついていた体を、相手の傍からそっと引く。彼女がこちらを見上げれば、表情や手振りを使い、ベッドの中にきちんと入り直すよう促して。それですんなりか、渋々か、とにかく相手がそのようにすれば。清潔で柔らかいデュベを、上からたっぷり掛け直してやってから、再び傍らの丸椅子に落ち着き。)
必要なことは、俺がちゃんと済ませておく。だからおまえは、退院するその日まで、ゆっくり休んでいてくれ。
……おまえが一日でも早く元気になることが、俺にとっていちばんの朗報だ。だから、楽しみに待ってる……おやすみ。
(……窓の外の残陽が紫色に沈んでいくのと、相手が瞼を下ろすのと、はたしてどちらが先だったろう。いずれにせよ、愛しい娘が安らかに寝つく、その瞬間を迎えてからも。ギデオンは彼女のさらさらした額を、ずっとなだらかに撫でつづけていた。)
(──それから、しばらく後のことだ。
ヴィヴィアンがついに退院を迎えた。悪魔の害を受けた魔経は既にすっかり回復し、それに伴う体の不調も大方マシになったらしい。それでもまだまだぶり返す恐れはあるので、帰宅数日は安静に、できるだけ動かずにのんびりと休むこと──医師からのその説明に、片眉を上げて彼女を見遣る。な、俺の出番だろう? と、堂々と言わんばかりだ。
ちょっとした一幕もあった。病院側からふと別室に呼び出されたのだが、ご丁寧に弁護士付きで、折り入って何かと思えば。──院長からじきじきに、「聖バジリオの会計係が貴方に不正を犯していた」と告白されたのである。
……今は元気に院内の庭を駆け回る、13年前の悪魔の事件で寝たきりだった子どもたち。その巨額の医療費を、事件に関わった当事者として、ギデオンは払いつづけていた。しかし誰もが与り知らぬうちに、その請求額がいいように水増しされ、抜かれつづけていたのだそうだ。その賠償の差額分は、これから精査した上で、きちんと返金されるという。再三深々と謝罪する院長に動揺し、どうやって判明したのか、とそちらに水を向けてみれば。院長は何故か、ギデオンの横に視線をやった。ギデオンも真横を向いた。……黒革のソファーの上、ちょこんと座ったヴィヴィアンが、如何にもばつが悪そうに、盛大に目を逸らしていた。
──横領事件に気がついたのは、何と他でもない、己の相棒だったのだ。ふとした立ち聞きから横領疑惑に気づいた彼女は、その被害者がギデオンであると知って、いてもたってもいられなくなったらしい。どうにか突き止められないかと奔走するうちに、あの少年たちも探偵団として志願してきたり、ひょんなことから交流を盛った彼らの家族も協力してくれたり、果ては王都のカレトヴルッフも郵便づてに巻き込んだり……と、そこにはなかなかのドラマがあったそうなのだが。ただその過程で無理がたたり、発作を起こしてしまったこともなくはなかったと聞かされて、肝が冷える思いだった。
とはいえ、諸々呑みこんでため息をつけば。「これでおあいこだな」と、一枚の薄い紙を相手にぴらりと示してみせて。──それはヴィヴィアンの入院費の、ギルド保険を適用してなお高額な請求書である(魔弁の再形成には最新医療が使われる以上、致し方のない話だろう)。しかしその支払いの名義は、他でもないギデオン・ノース。ヴィヴィアンに同棲を打診したあの日、病院の受付に寄っていたのは、この手続きをするためだったのだ。
結局己もヴィヴィアンも、変なところで瓜ふたつとしか言いようがない。相手がそうと知らぬところで、相手の事情にがっつりと首を突っ込み、相手の力になりたがる。どれもこれも、相手が好きで好きで仕方がないせいなのだ。それをつくづく思い知り、ついに病院を出てからも、たまらず同時に吹き出せば。ふたり密に手を絡め、またお喋りに花を咲かせて……小径にあふれる木漏れ日のなかへ、のんびりと歩いていった。)
(──さて。聖バジリオのあるケルツェンハイムから、王都キングストンまでは、街道馬車で6時間。病み上がりの人間には、なかなか体に堪える長距離だ。
故にギデオンの提案で、帰りは一泊することにした。場所は宿場町インバートフト、この時季は若々しい川魚が獲れることで有名である。美味しいものには少しばかり関心の高いギデオンも、別にそれを目的としてここに定めた、というわけではないのだが。町の馬車駅で途中下車し、宿の記帳を済ませると、ヴィヴィアンと連れ立って、その隣に連結している料亭に入ることにした。
これがもう少し大通り沿いの店だと、なかなか酒杯の捗る飯を、しかも安い値段で様々に食べ比べできる楽しみがあるのだが。あちらは全国の酒飲みがうきうきと集うせいで、どうにも賑やかすぎるところが難点だ。──その点、こちらの店は良い。川辺に面した東洋風の広い個室で、運が良ければ蛍の光でも眺めながら、ゆっくり静かに舌鼓を打っていられる。何よりこのまま眠くなっても、すぐそこの廊下を進めば、後はベッドに倒れ込めばいいだけだ。
こんな贅沢な造りをしているのも、元はと言えば、昔の貴族が王都に参勤するときに使っていた店だからでな。俺たちのいるまさにこの部屋なんて、昔あのフランシス・ボルドが、ニコロ・デ・ロベルトとの密談でよく使っていたらしい……。そんな話題を披露しながら、相手の注文した魚料理の身をほぐし、骨を除けてからそちらに渡すと。ともに楽しめるようにと頼んだ弱い花酒の杯を呷り、ふうとひと息ついてから、座敷の軒越しに夜空を見上げる。幸いよく晴れていて、手を伸ばせば掴み取れそうな星々が、赤紫色の空にちらちら瞬きはじめていた。──今なら、願いが叶うだろうか。)
……なあ。帰ったら、しばらくおまえの家に通っても構わないか。
料理だったり、洗濯だったり……まあ、後者は俺が直接やるわけにもいかないから、公衆洗場に持って行くことになるだろうが。
ギルドのほうにもまだまだいろんな申請が必要だ。そうなると、書類を出しに行くための人手が……おまえには必要だろ。
( 今晩の宿をギデオンから、当初夕食付きの宿を取ってあると聞いた時、ビビが想像したのはよくある飲み屋の上に簡素な部屋だけがついた安宿だった。少々階下が騒がしいのは難点だが、それなりに経済的で冒険者には馴染みの深い様式を、キングストンに帰るまでの中休みには丁度良い塩梅だと勝手に納得していたものだから。見知らぬ土地をキョロキョロと、目に映るもの全てを新鮮に楽しんでいたビビの視界に、その客を呼び寄せる気を微塵も感じさせない高級な門構えが飛び込んで来た上、その垂れ下がった幕の奥へと他でもないギデオンにエスコートされてしまえば。素直にぽかんと口を開けて、たっぷり数秒ほど呆けてしまったのも実際仕方の無いことで。
どうやって客を管理しているのか、ギデオンとビビを見るなり帳簿などは一切確認せずに、「いらっしゃいませ」とにこやかに微笑んだ女将に通された室内は、異国のそれでも、一目で上等だとわかる調度で嫌味なく整えられ。そのまま一通りの設備を最低限の言動で説明した後、「ごゆるりと」と、そのスライド式の扉が締められるまで、女将の視線には此方の関係性を勘繰るような色さえ、個人的な感情合切は微塵も浮かべられなかった。最近気が付き始めたのだが、意外と過保護なギデオンのことである。これがただ高級な宿であったら、ビビもどう平等にここの支払いを片付けるかを考えつつ、ごくごく自然に受け入れたろうが。この宿はこれまでビビが慣れ親しんできた首都の高級ホテルともまた違う、酷く、酷くプライベートで、外界の分断を強く感じさせる空間にそわつくも。岩魚をメインにした上等な食事に、ビビ好みの興味深い話題、そして、極めつけに香り高い花酒の香りに包まれると、当初抱いたはずの違和感が次第に霧散しゆくのは、果たして偶然のことだったのだろうか。
独特な作りをしたこの大厦は、一度部屋に入れば完全なプライベート空間として、食事の間からベッドのあるへ部屋、そして贅沢にお湯を張った浴室まで、他の客どころか、従業員とも此方から呼ばない限り顔を合わせることが無い作りになっているらしい。故に食事前に良い香りのする木のバスタブで旅の疲れをゆっくり癒した後は、これも東洋のものらしい白いアイリスが眩しい紺色のガウンのまま、ゆったりと食事を楽しむことにして。 )
それ、は…………、
( 花酒の盃をそっと置いた娘の濡れた赤い唇から、ほう……と、心底困ったような吐息が漏れたのは、夜空を見上げたギデオンが問いかけた時だった。『必要なことは、俺がちゃんと済ませておく』その宣言の言葉通りに、病室で迎えたあの日以降、ビビはギデオンからずっと……ずっっっと、世話を焼かれ続けている。自らの行為の後ろめたさに、とうとう取り返せずに諦めた治療費の請求書を始め、インバートフトでの一泊だって、歩くビビの腰にごくごく自然に腕を回して支えながら提案されたその時点では、本当に心配性なんだからと内心笑えていたのに。この宿場町へ、御者の到着を伝える声が響いた時に、己が酷く疲れていることを自覚してしまえば、いっそ恐ろしささえ感じてしまって。
今だって、当然の如く解されてから渡された魚に、流石にここまでされる必要は無いと思う理性だってあるにも関わらず、その宝物を扱うような振る舞いを嬉しく感じてしまう自分に、何か不可逆の恐ろしい変化を感じ取れば。──あくまで、ギデオンさんは病み上がりだから心配してくださっているだけなのに。そう、星を見る男の視線とは裏腹に、植物で編まれた絨毯(?)の上へと、不安げなエメラルドをさ迷わせると。いつの間にか、ガウンから覗くうなじまで桃色に熱を持った肌を、その頬をもちりと首を傾げて押さえれば。ビビより余程酒精には強いだろうに、何やら酷く満足気なギデオンの様子に、困惑に潤んだ瞳をしっとりと向け。 )
ギデオンさんさえ良ければ……構う、ことは、ないですけれど。
あのね、そんなに甘やかされたら、1人で生きていけなくなっちゃいそうで、
それは、その、困るわ……。
…………。
(『困るようなことなのか』──そんな台詞が、いやに冗談味のない声音が、思わず口を衝きかけたものの。
いつぞやの小さな焚火の傍とはちがって、今宵のギデオンは冷静だった。故にその薄い唇を、かすかに開きかけたそのまま。──違う、だとか、まだ時機でない、だとか。一瞬さ迷った青い視線を、澄んだ星空から庭先の闇へ引き下ろす。そうして、立てた片膝にあずけた手元で、酒杯を揺らすふりに興じてみせることしばらく。……姿勢だけは相手のほうに軽く傾け、如何にも寛いでみせることで。別におかしなことを言ったわけではないのだと、相手を安心させられるだろうか。
幸い辺りの草叢では、初夏の虫がよく鳴いていた。りぃ、りぃ、りぃ、りぃ、りるるる、りりりり……。その絶え間ない弦の音色の美しさは、会話のあいだの静けさを彩るのには充分だ。──ああ、そうか、と。古今の人々がこの一室で夕餉を囲んできたわけが、不意にわかったような気がした。思わずふっと苦笑が漏れる。まさか、こんな形で最後列に加わるとは。……だが結果的に、ここを選んで正解だったというわけだ。
そうして余裕ができて初めて、ようやく膳越しに隣を向いた。今ならようやく落ち着いて眺めていられる、髪を結い上げた軽装美人。そのその湯上りのまろい頬は、尚もいじらしく染まっているし、こちらを見つめるエメラルドときたら、恥じらいの湿り気をとろんと帯びたままである。──その上、あんな殺し文句まで囁いてくるときたのだ。これで病み上がりでなければ、己はどうしていたろうか。
可笑しさに喉を震わせながら、「困るようなことか?」と。今度こそその台詞を、だが随分と軽い口調で投げかけた。あれこれ楽しげに口にするのは、過去の出来事──もとい、思い出。その流れでふと思い出したように、青鈍色のガウンの片側を軽くとはだけさせ。相手にも見えるようにと、首を斜めに傾けて伸ばしながら、己の右肩の古傷を晒し。)
このくらいでそんな顔をしてくれるな。おまえだって、今まで散々俺を助けてくれてたろ。
風邪を引いて倒れてたとき、腰をがっつりやったとき……ああ、それから。
──ここに喰らったやつにしたって、おまえなしじゃ、俺はもうとうに生きていないぞ。
ひゃ、~ッ、
( 耳を疑うほど情熱的な台詞を吐く目の前の美人は、今日だけではなくここ最近、何故かずっと、ずっと上機嫌に見える。そのままおもむろに、己の前襟をはだける仕草も、あまりに艶然として、何かいけないものでも見てしまったようで。それこそ、今まで何度も治療で見ているだろうに、堪らず悲鳴をあげながら赤い顔をぱっと両手で覆い隠すと。「しま、しまって、ください……」と懇願する声の弱々しいこと。嫌なわけでも、相手が怖い訳でもない。ただひたすらに、己の未熟さが、向けられる視線の甘さが恥ずかしくて。ふたりと外の世界を隔てるものは、薄い紙製の扉一枚だと云うのに、空間の特殊な性質上か、もっと大きな乗り越えられない何かに分断されてしまったかのように感じられて、急に心細い想いにかられると。かといって助けを求められる相手は、今自分を追い詰めている相手しかいないのだから皮肉なものだ。そうして、それまでぴんと背筋を伸ばして、真っ直ぐに座っていた脚を崩し、左手は未だ火照った顔を半分隠したまま、右手でギデオンの襟元をそっと正すと、 )
違うんです……
( そう必死に頭を横に振りながら思い浮かぶのは幼い頃、未だ何も知らずに自由に振舞っていた時代のことで。忙しい父を引き止めては、構ってくれなきゃ嫌だと駄々をこねる度、優しい父は表立って嫌な顔をすることはなかったが、どれだけ困らせてきたことだろう。あれから、年月が幾年も流れても、自分が本当に求めるものが幼少期から大して変わっていないことは薄らと自覚している。寂しいのは嫌、毎日無事に帰ってきて欲しい、食事を一緒にとって欲しい、たまには寝るまで手を繋いで一緒にいて欲しい……お金や特別なプレゼントが欲しい訳じゃない。だからこそ、お金で解決できない。忙しい相手に、子供みたいな駄々をこねる自分を想像して、ぞっと顔に集まっていた血の気を一気に散らすと。それまで顔を抑えていた左手も下ろして、両手を胸の横でぐっと握ると、良い言葉が思いついた、と少し満足気な、得意げな表情でギデオンに説明して。 )
私、すっごくワガママだから! 甘やかしちゃダメなんです……!
きっと、もう、どんどん我慢出来なくなって、すっごいお願いしちゃうから……ね? 困るでしょう?
…………。
(甘やかしちゃ“ダメ”、だなんて──しかもそれを、自分は正しく自覚できたとでも言わんばかりの表情で。先ほどまで愉快気に寛いでいたギデオンの面差しは、ほんの一瞬かすかに曇った。……あれは去年のいつごろだったか。『シャバネ』で聞き込みを終えた後、魔力切れで震える指を、彼女は必死に隠そうとしていた。あのときとどこか同じに見えるのは、はたして己の気のせいだろうか。
薄青い視線を外し、しばし思案を巡らせる。しかし数秒と経たずに、無言の手酌を注いで呷り。杯を置き、ひと息ついたその口で、相手をまっすぐ見つめながら、ごく静かな声を返す。「ああ、そうだな。“困る”、だろうな」。……しかしその目の奥には、文脈にそぐわぬような、優しい光が込められていて。)
……俺は、てっきり。そうやって困らせあうのが許される関係に、なれたものだと思っていたが。
おまえのほうは、違ったか。
……俺の勝手な、思い上がりだったか。
(そうして、相手の答えを待たずして手を伸ばし。絡め取った相手のそれを、卓の上にゆるりと下ろせば、ごくやんわりと、上から重ねる。今から交わすこの話は、ここだけの秘密にするとでも言いたげに──或いは、答えないなんてことは選ばせないというように。)
なあ。俺に、惚れた女の望みのひとつも知らない、なんて不名誉を着せるつもりじゃないのなら。せめてひとつだけ、気兼ねなしのおまえの“ワガママ”を聞かせてくれないか。
……知るだけなら、いいだろう?
えっ、と…………、
( あれ、なんとか上手く説明できたと思ったのけれど、どうやらギデオンの反応を見るに、酷く深刻な方向へと勘違いさせてしまっているようだ。そう優しいアイスブルーから逃れるように苦笑したエメラルドが、あくまで鈍感に伏せられる。"困らせあうのが許される関係"。これが一時的な体調不良や、何か困った時に頼りあえる関係という意図ならば、ビビもまたギデオンに同意するが──私の"これ"は違うもの。そうへらりと浮かべられた笑みが、しかしぎこちなく強ばったのは、無自覚に引っ込めかけた冷たい指先を、その寸前に捉えられたからで。決して振り払えない程強く握られている訳でも、強く脅されている訳でもない。しかし有無を言わさぬ搦手に、適当な嘘をつくことだって出来ただろうに。"この手の内にいる"時は、逃げられない。どんな嘘も通じない気がしてしまって。 )
……別に、ただ家にひとりでいるのが、……あまり、好きじゃないだけです。
寮と下宿が長いからですかね、落ち着かなくて。
身体が治った後も、私が毎日帰って来て、一緒にいてくださらなきゃやだぁって駄々こねたらどうします?
出張の度に行かないでって拗ねるし、それかついて行くって泣いて聞かないかも……。
( なんて、嗚呼嫌だ。結局、言い訳を与えて貰った途端こうして甘えて、こんなのただのあてこすりじゃないか。そう思うと、相手の顔が見れなくなって、ふわふわの前髪の下に目元を隠すと。いつの間にか温かくなっていた指先に微かにぎゅっと力を込めて。 )
ね、それじゃ、"ダメ"なの。"いい子"に待てるように……今から慣れておかなくっちゃ。
(今にも崩れまいとする、弱々しいのに頑なな声。……その声の持ち主は、果たして本当に目の前の彼女なのだろうか。
ギデオンが知る限りのヴィヴィアン・パチオという娘は、きっと誰もが異口同音に、“太陽のように明るい”と讃えてやまない人物像だ。その燦々と、爛々とした輝きに、この己もまたあてられて、陽向に誘い出されたじはずだ。それほどまでに熱く、眩いはずの彼女が──しかしどうして、今宵はまったくちがっている。
……ちょうど窓の外の夜空の隅にひっそりと浮いている、あの爪痕のように細い三日月。あれが灰色の雲間に隠れ、ただでさえ微かな光がほとんど翳ったのとそっくりに。今のヴィヴィアンは、どこかよそよそしいほど控えめに振る舞いながら、何かに酷く怯えている。──ギデオンにすら、竦んでいる。
そう理解した瞬間、心がすっと静かに凪いだ。「……」と沈黙して答えないまま、己の片手をそっとどける。途端に窓から軽く吹く風、外は幾らか気温が下がってきたようだ。無音で息を吸い込み、吐いて、何も言わずに席を立った。そうして草編の床を踏み、静かに出て行くその先は、部屋の外─なんて、はずもない。
食卓を回って相手の横に来たかと思うと、向かいにゆっくり腰を下ろす。そして衣擦れの音を立て、何事かと相手が見たなら。──両腕を大きく広げたギデオンが、いっそ気取った表情で、何やら待ち構えているだろう。どんなつもりかはそちらが察せと、有無を言わさぬ傲慢な態度だ。それでも流石に補足は必要と思ったか、しばらくぶりに口を開き、何を言いだすかと思えば、)
今おまえの前にいるのは、十六も下の後輩に手をつけた“悪い大人”だ。
常識なんかなぐり捨てて、したいようにすると決めてる。
……そんな男にぴったりなのは、どんな女だと思う?
(──そうして再びわざとらしく、さらに大きく腕を広げる。どら、見ろ、俺の胸はこんなに空いているんだぞ、いったいこれをどうしてくれる、そうひしひしと言わんばかりだ。……それでも相手が躊躇うようなら、如何にも訝し気に首を傾げていたかと思うと。「!」」と、ふと閃いたように、片眉をぐい上げ。「……食事中なのに行儀が悪い、なんて言ってくれるなよ」と、頓珍漢な異議の声を。)
( /お世話になっております、ビビの背後です。
本日スマホを! 水没!! させました!!!
一瞬滑らせただけなので無事を祈りたいところなのですが、念のため乾燥中でして、イレギュラーな連絡方法で失礼いたします。
スマホは滑らせるわ、あちらのパスワードは思い出せないわ……あまりに迂闊すぎてお恥ずかしい限りなんですが……
というかパスワードは復活次第すぐに再発行するぞ……、あまりにセキュリティがガバすぎる……。
取り急ぎご報告のみですみません、素敵な本編をありがとうございました。あちらの方もいつも通り楽しく拝読しておりますので、乾燥次第またお返しさせていただきますね。
よろしくお願いいたします! )
(/遅ればせながら、ご連絡ありがとうございました&こちらの確認が遅れてしまい、申し訳ございませんでした……! こちらでも改めてのお返事まで◎
背後のほうでも何かイレギュラーがございましたら、どこかしらでしっかりご連絡いたしますね。引き続きのんびり宜しくお願いいたします!)
…………。
( 離れていった温もりに、追い詰められた表情で俯いたのも束の間。隣におろされ直した温もりに顔を上げれば、月光を反射する優しいブルーと目が合って。──この人に相応しくなりたい、必要とされたい。そんな娘の内心を見透かすように、目の前の男はこれ以上なく甘い口実を投げかけてくる。"いい子"なんかでいなくていいと。"いい子"でなくとも、自分は相手に相応しいのだと。これまでずっと重く感じていた鎧を脱がさんとする太陽は、ビビにとってこれ以上なく温かく、容赦なく身を焼くようで。そうして、悪戯っ子のような表情で片眉をあげた相棒の言葉に最後。ふっと小さく破顔した後、その瞳に覚悟を決めるような神妙な光を微かに灯すと。"食事中に席を立たないように。神に感謝して静かにいただきなさい。"と、かつて学院時代に何度も聞いた、そんな些細な言いつけなら、自分にも破れるような気がして。 )
ギデオンさんは、"悪く"……なんか、ない。
( そのまま、ただ重力のまま撓垂れ掛かるように、相手の肩に上半身を預けると。「毎日じゃ、なくても良いです……遠征も寂しいけど、大丈夫」そう分厚い肩口にぐりぐりと、丸い額を擦り付けながら漏らした声からは、先程までの強情な色はすっかり消えて失せて。「私、冒険者としての貴方も……好き」と、今更どこか恥ずかし気な告白は、これまで一年間向け続けてきたどの愛の言葉よりも余程小さかったが。大丈夫、ギデオンさんの言いたいことは伝わっている、と相手にもしっかり伝えられるように。それまで相手に肩で塞いでいた視界をゆっくりと上げ、代わりに自ら未だ微かに震える両腕を広い背中へと絡めれば。先程無理に引き出された"ワガママ"とは違う、もっと現実的な、本気で、叶えてもらいたい己の"望み"と真剣に向き合っていたかと思うと、おもむろに。自分でも初めて気づいた結論に、逞しい腕の中、いっそあどけない様子ではにかんで。 )
でも、無理はしないでほしい。身体を大事にして、しっかりお休みもとって……ご飯も、そっちはあまり心配してないけど、ちゃんと食べてね。
それで、その……できれば。できれば、その時、隣にいるのは私がいいなって思うんです……。
……! わたし、あなたの家族に、なりたい……
(あまりにもいじらしい “ワガママ”の数々に、極めつけがその一言だ。思わず居室の天井を仰ぐようにして仰け反ると、耐えかねたような呻き声を厚い胸板の奥に響かせ。かと思えば、今度はその体躯をぐうと内側に屈め込んで、腕のなかの愛しい娘をきつくきつく抱き締めた。少しばかり苦しいだろうが、こちらとて思い知らせたい。──あまりに大きな幸福感で胸が潰れるということを、こちらは生まれて初めて体感している最中なのだ。)
…………殺し文句にもほどってもんがあるだろう……、
(いっそ白旗を上げるに等しい、情けない恨み言。それをどうにか絞り出すのが、今のギデオンの精一杯で。……実際のところ、もっと他に言うべき台詞、本気の言葉があるのだが、何も用意のない今はただ、腹の底にぐっと押し込めておかねばならない。そのもどかしさの八つ当たりとばかりに、抱き締めた相手ごと大きな体を軽く揺らして、思いの丈を伝えると。しばらくのちにようやく溜飲を下げたらしく、体を離し、見上げさせたその顔は、すっかり満足気に笑んでいて。
「……なあ。すぐにというわけにはいかない、なんて話をしていたが……」と、おもむろに切り出したのは、数日前のあの話だ。無論あのときも腹の内では、のちのちどうにか転がして、ここに持ってくるつもりだったが。きっと今ほどのタイミングは、後にも先にもないはずで。)
明日、王都に帰ったら。一緒に暮らすための準備を、もうすぐにでも始めよう。
もちろん、おまえの体調を見ながら……やれることは、俺がするから。
──お互いこんなに望んでるのに、慎ましく離れておく理由なんて、もうどこにもないだろう?
(そうして、少し乱れた相手の前髪を、愛しそうに顔から避けてやったかと思うと。長いふと房を相手の小さな耳にかけた、その手元を引き戻した時、指にしれっと挟んでいたのは、どこからいつ取り出したのか、どういうわけか折目ひとつも見当たらない、例の書類の幾枚かである。──いったい全体何年前、何のために身につけた手品なんだか。そりゃあ秘密だと言わんばかりの澄まし顔で、これ見よがしに図面をぴらぴら掲げ、自分でも可笑しくなって少し小さく笑ってみせると。
食事をつつきながらもう一度、今度は本気で眺めないか──と、今度は隣り合っての夕餉を、身振りで相手に強請ってみせて。)
ひゃっ……!!
( 平素、魔獣の脅威から罪のない人々を守る腕に、力強く抱きしめられれば。肺が潰されて呼吸も苦しく、硬い筋肉や関節があちこちにあたって痛むというのに。かえって相手の存在を確かに感じられて、ぴくりとも動けないまま、脳髄が蕩ける様な多幸感に掠れた笑い声がかすかに漏れる。殺し文句だなんて言われてみれば、少し青いことを言ったかも? と、ゆらゆらとした抗議に、今さらじんわりと頬が熱くなる気もするが。ゆっくりと向けられた満足げな笑顔に──ギデオンさんが幸せそうだから良いか、なんて。無自覚故に決めさせてしまった覚悟のことを、よく考えもせずにニコニコと笑っていたその報いか、はたまた単純な旅の疲れか。ようやく慣れた下宿に帰りついたその夜に、体調を崩して高熱を出してしまうと。「……私にも、出来ることはさせてくださいね」とした約束を果たすまでに、随分な日数を要してしまうなど、この時はまだ知る由もなかった。 )
ギデオンさん! おはようございます!
( そうして、件の舘に向かう前から変わらない、愛しの相手を目の前にはしゃぐ元気な挨拶に、しかし普段であれば同時に飛びついてくるだろう娘がそうしなかったのは、自室の扉の前に立ち、裾を揺らしている長いスカートのためで。待望の退院から幾日たっただろうか、一応一昨日の朝には熱も下がっていたというのに、今度は過保護な恋人の説得に時間を費やし、ようやく迎えられた今日である。本当は、どこか東広場あたりで待ち合わせデートと洒落こみたい乙女心もあったのだが、強情なギデオンの首を一日でも早く縦に振らせるため、ドアtoドアの完全送迎を受け入れたという経緯。関係性が変わってからの初デート(が、同棲準備であるという性急さを今は考えないことにして)に早朝からワードローブをひっくりかえせば、そういえば。それなりの例外は複数あれど、普段仕事着で対峙する相手には殆ど私服を見られたことがないことに気が付き。やはり王道に可愛い系か、でも今日は遊びに行くわけじゃないし……と、むき卵の様な眉間に皺を寄せて悩むこと暫く。結局、年相応な、けれど流行のラインが今らしい白地に薄黄緑のストライプが初夏らしい涼やかなワンピースを選択すれば。ギデオンのノックが部屋に響いたのは、以前より少し余裕をもって閉じた釦に、調子の外れた鼻歌を歌いながら髪を結いあげていた時で。普段は揺れる毛先を、綺麗にしまい込んだ後頭部を留めながら、「ごめんなさい、もう少しかかりそうで……」と、相手を部屋に招き入れ、椅子をすすめたのはなにも、「外暑かったですか? どちらにしようか迷ってて」と、テーブルに並べられた白いブリムにレースが付いた可愛らしいボンネットか、赤いリボンが元気に揺れる爽やかなキャノチエかを選ばせるためだけではなく。申し訳なさそうにパタパタと、部屋の奥から冷たい檸檬水のグラスを差し出すと、レースの手袋をつけた手から、小さな金属片もふたつ、はにかみながら座る相手に手渡して。 )
……これ、忘れちゃう前に渡したくて。
此処の鍵と、こっちは私の部屋の合鍵です。ここって大抵誰かしらいるし、もうあとちょっとで必要なくなっちゃいますけど。……ふふ、誰かに渡してみたかったの。
……ああ、そうか。おまえのほうのは、まだ預かってなかったな。
(すっきりと澄んだ冷水に、乾いた喉をありがたく潤していた矢先。ちゃり、と掌に受け取ったそれを、最初は虚を突かれたように、しかしすぐにもしみじみと嬉しそうに確かめて、やがて懐に仕舞い込む。そうして再び相手を見ながら、気障な格好で椅子にもたれ、如何にも意味ありげな声を。──よくもまあ、“もう”預けてある己のそれは、当時の迂闊な生活事情で相手に頼み込んだのだろうに。
とはいえ。きっとあの頃から既に、自分たちは親密さを少しずつ高めつつあった。そして四カ月経った今、実際関係が変わったからこそ。“相手の部屋の合鍵を、お互い大事に持っている”──そんな密かな状況を、例え刹那のものであろうと、共に心から楽しめるはずだ。
椅子を引いて立ち上がり、ふとそのついでと言わんばかりに、相手の片手を軽く捉える。そうして優雅に吊り上げたのは──どうやら、ターンのおねだりらしい。己もカジュアルなジャケットでめかし込んできたのだが、うら若い恋人の清廉瀟洒な装いに、どうもやはり、男心を随分と擽られていたようだ。
「よく見せてくれ、」なんて、本人は今さら面ばかり取り澄まし、おくびにも出さぬつもりが。その薄青い目ときたら、興味津々に揺れ動き、鍵に向けていたそれより余程、相手を真剣に眺め倒して。はてはふと横を向き、先程相手が示していたふたつの帽子を見比べると。──この頃季節柄見なくなった、いつぞやの贈り物。あれに似たよく似た色のリボンに、無意識に目を吸われれば。気取った顔つきでそれを手に取り、相手の頭にそっと被せ。引いて眺めて、ひとつ頷き、満足そうに唸ってみせて。)
……やっぱりな、よく似合ってる。
今日必要な例の書類は、俺がもう一度見ておくから……あとの準備も、まだゆっくりするといい。
──……ありがとう、ございます。
そうなの、"赤"は似合うの。
( まったく、なんて瞳で人を見つめてくれるのだろう。こちらのことが愛おしくて、大切で堪らない。そんな青い瞳に見つめられると、未だ慣れない心臓が可哀想にのたうち回って。何百回、何千回と練習して身体に染み付いたターンの動きでさえ、沸騰する血液とともにふつふつと蒸発して失せてしまう。それでも、相手の要望通りにもふわふわと、なんとかその場で回ってみせれば。ギデオンのシャツの襟を整えながら、意味深に呟いてみせる癖をして、キャノチエから覗く顔はよっぽど赤く。ぱちりと思わず視線があえば、嬉しそうにはにかんで見せるだろう。
そうして、相手の好意に「だめ、だめ!」と慌ててその腕に縋り付いたかと思うと。「私にも出来ることはさせてって約束したじゃないですか」と膨れながら、相手が手にした書類を覗き込み。立地や部屋数、築年数など出発に前に再度物件のおさらいを。「えっと、この平屋はリビングがサンルームになってるんですね── )
──素敵!!
( と、相手の選んだ物件を前に瞳を輝かせたのは何度目か。未だひとつ目の物件だと言うのに、まずは見えてきた瀟洒な外観に声を上げ。前庭の植物に微笑み、重厚な玄関扉に溜息をつくと、今度はそれを開け放った瞬間に飛びこんできた内装に握った拳をぱたぱたと振り──何も、愛しい恋人と住むと思えば、全てが素敵に見えるというだけでは無い。風邪で寝込んでいた数日間、ギデオンにより行われていた厳しい審査の基準など知る由もないが、本当にこの物件が何処を見ても文句の付け所なく素晴らしいのだ。とはいえ脳内は意外と冷静に、確かここは今日見る中でも、一番家賃が高いところだっけ……と、ギルドから貰えるビビの月の給料からは半分でも限界ギリギリ(なんなら更にそこから安くない共益費や、保険料、税金、管理費、その他諸々が追加でかかることをビビはまだ知らない)否、若干オーバーな数字を思い出せば。──此処はあくまで参考に、あとの物件を見る基準にしよう、などと一人勝手に納得しながら、ギデオンの方を振り返って。 )
私ばっかりはしゃいじゃってごめんなさい、ギデオンさんはどこか気になるところありますか?
そうだな……お互いに、仕事の都合でよく家を空けるだろう?
(「だからやっぱり、妖精除けや敷地回りの防犯陣が、どのくらい管理されてるかどうかだな。俺が朝帰りをする日でも、お前が安心して眠れるような家じゃないと……」。
相手の肩を抱きながら当然のように返した声は、相も変わらず過保護な内容……そうには違いないのだが。しかしギデオンの声も顔も、まるでそれに釣り合わないほど、ゆったりと寛いでいた。実のところ、今この場でいちばんまともに内見に臨んでいるのは、最も若いヴィヴィアンだろう。──遥か歳上のこちらときたら、“相手と家を探して回る”という穏やかなこのひとときに、癒されまくるばかりなのだ。
そんな己の腑抜けぶりを、離れた位置から堪えきれずに笑い続ける者がいた。わざとらしいため息をついてそちらを振り返ってみれば、カウンターキッチンに半ば突っ伏しかけているのは、此度の内見の案内人。不動産屋の営業であり、ギデオンの古馴染みでもある、元冒険者のフェニングである。「──いやあ、っくく、仕事中に申し訳ない。ああ、でもなあ、ギデオンおまえ、本当に随分変わっちまったもんだな……」と。こちらもまた言いぐさに似合わず、酷くしみじみと嬉しそうな声を出すものだから。突然言われたこちらときたら、ヴィヴィアンの顔を見て片眉を軽く上げ、(そうか?)なんてとぼけてみせるが、それがまた随分と、フェニングのツボに入ったらしい。……のちほど、ふとしたタイミングでひとりになったヴィヴィアンに、奴はこっそり囁いていたようだ。──なあ、ビビちゃん、あの堅物を骨抜きにしてやってくれてありがとうな。信じられないかもしれないが、あいつはここ十年ほど、本当ににこりともできなくなっていたんだよ。今のあいつがあんな風になったのは、きっと君のお陰だろうな。──あの馬鹿を、よろしく頼むぜ。
さて、そんな一幕など露知らぬギデオンは、しかしいよいよ真剣に、物件の下調べを考えこむ段に入った。二週間前に同棲を打診し、そこからさらに絞りをかけて、今日見に行くのが全部で三件。そのうちのいったいどれを、はたして彼女が気に入るか、そこのところが問題なのだが。己のヴィヴィアンときたら、どの家にも最大の良さをたちどころに見出して、そのどれにも胸を躍らせてくれるのだ。これではむしろ、こちらが再三迷うくらいだ……と悩んでいた、まさにそのタイミングのこと。
不意に外から戻ってきたフェニングが、「もうひとつ空きが出た。見てみるか?」と言いだした。病み上がりのヴィヴィアンを気遣って駆り出している馬車で、ほんの数分の場所だという。これ以上選択肢を増やすのもどうかと思ったが、見て減るものでもないだろうしと、そこに行ってみることに決めた。ヴィヴィアンを先に馬車へと乗り込ませ、己もあとから座席に座る。フェニングのほうはといえば、外の御者台に座ることにしたらしい──奴なりの気遣いだろう。大人しくこの数分を活用してやろう、とばかりに。「疲れてないか」とまずは相手を労わってから、ごく軽く揺れる馬車のなか、隣の合相手の目元にかかった髪を、優しい手つきで除けてやり。)
──……なあ、どうだった。
どれもいい家ばかりだが……そうだな、決め手が同じくらいの印象だ。
おまえのほうで、もっとこんな家があればいいのに……なんて考えは、湧いてきてるか?
……! はい……いいえ?
( そろそろ次の物件へと移ろうかといった空気の中、一人そっと寄ってきたフェニングのお礼に、思わずふふふと肩をすくめる。怪訝な顔をした相手に──"そのことで" 私、何人の方からお礼をいただいたか分かりませんわ。と囁き返せば。思わず気恥しそうな顔をするくらいには大人で、しかしこうして密かにお礼を伝えずにはいられないほど、ギデオンのことが大切で堪らない、そんな彼らこそが、ギリギリだったギデオンをなんとか踏みとどまらせ、こうしてヴィヴィアンの元へと辿り着かせてくれた様に、この人望溢れる恋人をこれからは自分も大切に支える一人となりたい。先程、どんな家が良いかと問われ、相も変わらず過保護な返答をしてきた相手に、「私だけじゃなくて、ギデオンさんもですよ」と、その時は何気なく答えてしまったが。此方もまた相手の健やかな生活を守りたい、という想いは一途に同じで。 )
もっと、だなんて……どれも、素敵で困っちゃうくらいなのに……!
……そうですね、でも、私もギデオンさんが安心して過ごせるところなら嬉しいです。
( 久しぶりの外出に、少しはしゃぎすぎただろうか。優しい指先にそっと首を横に振るも、その眼差しが少し眠そうに凪いでいるのを相手は見逃さないだろう。ギデオンが何かを言う前に、「折角だから、あと一軒だけ」と先回りして甘えながら、こてりと分厚い肩に凭れれば。サスペンションの効いた馬車がラメット通りに着く頃には、いつの間にか少し微睡んでいたようだった。 )
──すご、い、明るい……!
( そうして、ギデオンのエスコートで馬車を降りた寝ぼけ眼は、その光景を前にして一瞬にしてキラキラと見開かれた。時刻は午後六時を少し回った夕方の頃。馬車を降りた時点では、豪邸の影になっていて気づかなかったが──「これ、全部一枚のガラスなんですか?」と、思わず駆け寄った窓ガラスから差し込む夕焼けのなんと美しいこと。未だ明かりもつけていないのに、まるで屋外のように明るい室内に「そっか、運河があるから……」と勝手に納得したヴィヴィアンに、「流石だな」と、補足してくれたのはフェニングだ。主にこのトランフォードで、勝手に屋内に入り込み、我が物顔で悪さをする悪性妖精の殆どが、窓の隙間から侵入してくると言われている。故に、トランフォード建築の殆ど全ての窓は非常に小さく、妖精が嫌う金属製の堅牢な窓枠に囲まれるか、鉱物を練り込んで色ガラスがはめられるか。街の中心部にある教会などの、巨大なステンドグラスの輝きもそれはそれで息を飲むほど美しいのだが、この部屋の自然な明るさといったらどうだろう。南側以外の窓はごく必要最低限に絞られているのに対して、水棲の妖精が縄張りを張る運河に面した南側だけは天井まである大きな窓が、外の光を燦々と受けて輝いている。この水棲の妖精の縄張り意識の強さと来たら、アーヴァンク同様ほかの魔物をその水場から蹴散らす上に、アーヴァンクと違って人間の営みには一切興味が無く、多少水源を汚そうが全く気にしないどころか、人間の手が加わった水源の方を好んで生息する──恐らく"水"そのものより、その水が流れるエネルギー、または膨大な水の質量が持つ静止エネルギーを養分としているのでは無いか、というギルバート・パチオの最新論文の内容は、各自気になるものが勝手に読んでくれれば良いのだが──要は運河と非常に相性の良い妖精が、他の悪性妖精からこの家を守ってくれているからこそできる芸当らしい。太陽光はギデオンを脅かす闇の魔素も溜まり辛くしてくれる。これまでの家もどれもこれ以上なく素敵だったのだが、既にポヤポヤと明らかに嬉しそうに目を輝かせながら、ギデオンの元に戻ってくれば。するりと慣れた動きで、再度エスコートの腕に掌をかけて。 )
夕焼けが反射してとっても綺麗よ、ギデオンさんも見て……?
でも、こんなに窓が大きくて冬は寒かったりしないかしら、
そこのところは大丈夫だろう。
ほら、見てみろ……ペアガラスだ。
(相手の心配そうな声に、しかしこちらが返したのは、その歩み同様にゆったりと落ちついた声。何も遠目で見抜くほど建築に聡いわけじゃない。横にいるフェニングの如何にも誇らしげな顔を見て、軽く見当がついたのだ。そのまま相手を伴って、今一度リビングルームの大窓へ歩み寄る。そしてギデオンの武骨な指が、ふと指し示した窓枠の辺り。なるほどよくよく見てみるに、その分厚さにもかかわらず透明度の高いガラスは、贅沢な複層構造で組み立てられているようだった。しかもその内側、サッシの細い部分には、刻印式の魔法陣が精密に彫り込まれている。魔法の素養のあるヴィヴィアンなら、細い筋を伝う何かが煌めいて視えるだろうか。己はそれが読めずとも、そういった建築様式があるということだけは知識として知っている。「魔素循環式か?」と、背後のフェニングを振り返らぬまま尋ねれば。「はいはい、そうと、ご名答」と、呆れたようなため息が靴音と共に近づいてきた。
──まったく、素晴らしい窓だろう? 夏の遮熱に関してはまあまあといったところだがね、冬の寒さに関しては、やっぱりこいつがピカイチさ。おまえが言ったそのとおり、この内部の空間に溜まった魔素がしっかり防いでくれる仕組みだ。え? こんな素晴らしい匠の業は、いったいだれのものかって? かのサンソヴィーノ大先生さ! そうとも、この一帯の家々の窓は、ラメット通りにゆかりのある御大が手がけていてね。ただあの方は齢九十……いざというときの修繕なんかが気がかり、誰もがそう思うとも。だけどそいつは心配ご無用! 二代目三代目の後継がばっちり技術を継いでいて、サリーチェにある工房からすぐに駆けつけることになってる。更になんとうち経由で、専用保険もしっかり完備。どうだ、これなら安心だろう?
──しかし、はてさて。そんな稀少な物件を、何故こうも一番乗りで案内してくれるのか、そこは是非とも気になるところだ。その辺りに水を向ければ、フェニングは少しばかりばつが悪そうに頬を掻いた。……いやあ、それがねえ。この家に住んでいたのは、地方の名家から上京してきた若いご夫婦だったんだよ。この家を借りてくれていたのは、ほんの数週間だったかな。それがほら、つい先月にさ、王都中央病院の病院ジャック事件、なんてのがあっただろ? ここのすぐ近くにあるのは、あくまでその分院なんだが……地方でずっと暮らしてるじい様ばあ様にゃ、その違いなんざわからんもんでね。やっぱり王都は危険な街だ、可愛い孫娘を住まわせられん、なんて大騒ぎしたらしく。結局そのご夫婦は、実家に無理やり呼び戻されることになったんだ。そんな可哀想な事情じゃ、違約金取るのも忍びなくてさ。幾ら名家出身とはいえ、これから家庭を作るって時に……ねえ……。だからこう、俺がちょっと、いろいろ捏ね繰り回してな、どうにか帰してやったんだ。だけど今度は、大家との兼ね合いがあるだろ。その辺りで会社のお上が、ちょっとまあ、その、だいぶ圧強めでね……。
──なるほど、話が読めた。要はこのフェニング、ギデオンの急な依頼に二つ返事で乗ってきたのは、自分の計上数字が大ピンチだったかららしい。まさに今いるこの家の借り手が急にいなくなったことで、次に宛がうお客探しに血眼になっていたのだ。そんな奴から見たギデオンたちは、ガルムの瓶を背負ったレモラが泳いできたようなものだろう。おそらく、退去後の清掃が終わり、契約関係の整理も一段落ついたのが、つい先ほどのことなのだ。
「ほーお?」とギデオンが眉を上げれば、旧知の男はなんとも情けない顔で、謝罪やら言い訳やらを必死に並べたてはじめたが。それを笑って追い払い、しばらくふたりきりにしてもらうことにした。奴の性格は知っている、幾ら優秀な営業だろうと、強引な押し売りはすまい。それに、ギデオンたちがどの家を選んでもプラスになるのには違いないから、どれも同じ熱心さで紹介してくれていたはずだ。相手と可笑しそうな目を交わし、軽く肩をすくめると。オレンジの光に満ちた明かりをゆっくり歩きまわりながら、一階の広いリビング、その真っ白な漆喰の壁、良く磨かれたクルミの床に、手前の収納たっぷりなカウンターキッチンと、あちこちをよくよく眺め。ふとその視線を相手に戻すと、また静かに歩み寄っては、その肩にそっと手を置いて。)
……まあ、訳あり物件、ってわけだが。家自そのものに問題はないし、奴がああいう事情なんだ、契約の条件は多少融通してくれるだろう。
広さは充分、間取りも良し……問題があるとしたら、寝室が上にあることくらいか。
……階段は、まだ危ないよな。
( 到着時点で既に橙色に燃え上がっていた空は、次第に群青色に傾いて、窓から見える対岸にはポツポツと小さな、しかし暖かな光が輝き始める。ギデオンの言う通り、部屋数や間取りは当初話し合った条件を充分に満たして、素晴らしいリビングだけでなく、そちらを見渡せる開放的なキッチンや水周りも、動線、設備ともに洗練されていてとても使いやすそうだ。物件の"ワケ"にしたって、とうのヴィヴィアンらにとっては全く問題のない事情どころか、先程の話や今日一日の仕事ぶりから察せられるフェニングの懐深さに、すっかり心が傾いてしまった……と言ったら、あまりにも単純だと笑われてしまうだろうか。なんて少し感傷的に下唇を噛んだのは、先程の2人のやり取りに当てられてしまったからか。訳知り顔で片眉をあげるギデオンも、バツが悪そうに肩を竦める古い仲間を、決して責めてたてることはせず、向こうもそれを分かっていて個人的な事情を話したに違いない。それ以前から、先程1軒目でフェニングがヴィヴィアンにだけこっそりと見せてくれた表情を思えば、自分の成績のことだけでなく、彼が本気でギデオンのことを大切に思っていることは明らかで、思わず──いいなぁ……と。不動産屋の方は引退しても尚、信頼しあっているらしい冒険者の男同士に向けた憧憬の視線を、ギデオンはどう捉えたのだろう。一旦古馴染みを遠ざけて、ヴィヴィアンのペースに合わせて部屋を回ってくれた恋人の一瞬の思案顔に何事かと思えば。しかし──まったく、これ以上なく過保護な心配に、ふっと身体の力が抜けてしまって。 )
もう……!
ずっとこの調子で見張られてたら、私、歩き方も忘れちゃいますよ……!!
( そうして、しっかりとした手摺が手頃な高さに、しかも両サイドについた堅牢な階段を2、3軽快に登って見せれば。自分より低くなった相手の額に、思わず唇を寄せようとして。フェニングの存在を既のところで思い出すと、伸ばした掌で愛しい生え際をするりと梳いて流すに留める。「大丈夫、これで転ぶ方が難しいくらいだわ」と、仕方の無い恋人に目を細め、それに──と、「ギデオンさんに甘える口実ができそうで嬉しい」なんて、上半身を屈めて甘く可愛こぶって囁けば。あげた顔に浮かぶ笑顔も悪戯っぽく、そのままぴょいとギデオンの方へと飛び降りて。 )
──……それは流石に冗談ですけど。
ギルドからも近いですし、それにやっぱりこの窓……私、ここが気に入りました!
家賃とかも聞いてみなくちゃだけど、ギデオンさんはいかがですか?
っくく、随分気が早いな……そう焦らずとも、この家は逃げやしないさ。
(うら若い恋人の愛らしい説得に、さしもの堅物心配性も、その目元をふわりと緩め。相手の腰を抱き寄せながら、無邪気な言葉に喉を鳴らしたかと思えば、愉快そうに苦笑さえする。──とはいえ、そんな風に笑ってみせるギデオンだって、ひと目見た瞬間からこの家を気に入っていることには変わりない。今日一日見て回った他の三軒も良かったが……ここは初めて来たときから、不思議と心が寛ぐのだ。
それは相手と連れ添いながら、広い浴室と立派な設備をよくよく確かめてみたり、勝手口から庭に出てテラスの具合を眺めたりしても、まったく変わりはしなかった。寧ろ己のヴィヴィアンが、家のあちこちを生き生きと歩き回るたび、まだそこにない家具や飾りが目に浮かんでくるようで。……自分の本来の性格上、何度もごく慎重に、現実的に考え直そうとしてみてもいたのだが。しかし冷静になればなるほど、寧ろますますこの家を、ここで思い描ける暮らしを忘れ難くなるようで。
──その奇妙な感覚は、二階にある寝室にふたりで足を踏み入れたとき、いよいよ決定的になった。今はまだ何も置かれていない、がらんどうのベッドルーム……辺りは既に夏の夕闇で薄暗く、部屋がなまじだだっ広い間取りなばかりに、普通ならともすればもの寂しく見えたろう。なのになぜか、その空間を見渡した途端、ギデオンの青い瞳には、この部屋がとても眩く見えた。──ここに大きなベッドを置いて、朝は彼女の横で目覚めて。一日の終わりには、その日あった出来事を相手と喋りあいながら、共に温かな眠りに落ちる。そんなささやかな生活、心の安らぐ人生を、自分はここでヴィヴィアンとずっと紡いでいくのだと。そんな奇妙な確信に、生まれて初めて心を委ね。)
…………。なあ、ヴィヴィアン。
一日で家を決めるなんて、突拍子もない話だろうが……俺ももう、ここ以外が考えられなくなってるところだ。
(床板を軽く軋ませながら、部屋の奥へと歩いていき。今は青みがかって見える真っ白な出窓から、南の空に瞬いている一番星を眺めれば。次に振り向いたそのときには、そばにいる相手の頬にそっと己の掌を添え、そのエメラルドを優しく見つめた。そうして額を触れ合わせ、甘えるように唸るのは……どうやら四十路の男なりの、恋人への相手へのおねだりらしい。今は知人の男の目を盗んでいるのを良いことに、鼻先さえすりつけながら、ぐるぐると喉を鳴らして。)
予備審査は通ってるし、出せる書類はフェニングに渡してるから……後は契約書を取り交わすのと、本審査だけで済む。共益費の交渉は、俺に任せてくれればいい。
それで無事に決まったら……もうすぐにでも、家具を探しに行かないか……
──……いえ、私たちったら、おかしいですね、ふたりとも。
私も、同じ気持ちです。むしろそれだって待ちきれないくらい……!
( これまで訪れた3軒だって、どれもこれ以上なく素晴らしかったにも関わらず。この家に足を踏み入れた途端、一つ一つの部屋を見てまわるたび、ここにはテーブルを、あそこにはドレッサーを置いて……と、まるで未来で見てきたかのように、これから訪れるだろう生活の光景が見えたのが自分だけでは無かったと知り。すり、と触れる鼻先に、溢れる幸せをくすりと零せば。目の前には、気持ちの通じあった最愛の相手がいて、これからはずっと一緒に生きていく。そんな向こうしばらくなんの憂いもない幸福に目が眩み、さらりと聞き流してしまった"共益費"というワードが、一悶着を起こすのはまた少しあとのお話。
「まあ、俺としては有難いよ」と、何を言う前から全てを察したようなフェニングの苦笑に迎えられ。もう時間も遅いから、手続き自体は翌日以降にしよう、と。それからの話の進みも、とびきりぐんと早かった。ふたりの今後を決める本契約の席には、ビビも同席したかったのだが、どうにも体調が優れなかったり、定期検査なりなんだり。結局 事務的なそれは、当初ギデオンが申し出た通り、すっかり相手に任せきりとなってしまえば。やっとそのお願いを口に出来たのは、ギデオンの久々の休日に、兼ねてより約束していた新居用の家具を見に行く前日のことで。サリーチェと比べればずっとこぢんまりとした下宿のソファで、ギデオンの入れてくれたホットミルクをちまちまと舐めながら。相手が夕食の皿を洗ってくれている(退院以後、何度頼みな込みだめ透かしても頑なにやらせて貰えない)のをいいことに、仕事帰りの上着にブラシをかけて終わると、翌日休みの恋人に近づき、そっと背中に抱きついて。 )
ねーえ、ギデオンさん。
もしお荷物じゃなかったらですけど、明日おうちの契約の書類、持ってきてくださいませんか?
それか用事の後、ギデオンさんのお家に寄るとか。
ふたりのことですもん、ちゃんと私も見たいです。
(皿の水気を切りながら、「うん?」だなんて肩越しに軽くとぼけるも。近頃すっかり板についたヴィヴィアンの甘えぶり、そのぐっとくる近しさに、つい口元を緩めてしまい。ぴかぴかの陶器類を網棚に仕舞い込み、濡れた両手をタオルで拭えば。背後にある流し台にもたれかった格好で、ようやく相手に向き直る。こちらを見上げる無垢な恋人……そのまろやかな額をそっと撫で上げる男の手つきの、如何にも愛おしそうなこと。)
ああ、もちろんいいとも。そう嵩張るもんじゃないし……だが、そうだな。
他にも多少用があるから、ここに戻ってくる前に、一瞬だけ俺の家に寄り道させてくれ。
(「ああ、別に大したことじゃない。引っ越しまでの数日だけ私物を置かせてほしいから、そいつを回収したいんだ」と。意味ありげな表情をわざとらしく気取ったものの、たまらずふっと破願してから、きちんと注釈も言い添えた。──こまごました移動の手間を省きたいんだ。そうしたら、それだけおまえといる時間が長くなるはずだろう……?
こんな甘い台詞を吐けるようになったくらいだ、時の流れとは実に早いものである。実際、あの一軒家を内見したあと、申し込みやら審査やら契約やら入金やら……入居にあたって必要な諸々の手続きは、ギデオンが全て怒涛の勢いで果たしてしまった。となると次は、いよいよ夢の引っ越しだ。それぞれの古い住居をしっかりと引き払いつつ、同時に新居の環境も整えていかねばならない。どんな豪邸であろうとも、まずは最低限、食事と寝起きをするための家具や道具が必要だろう。だからまず、キングトンの東にあるあの街に出掛けよう──と。懐かしの市街馬車に再び並んで乗り込んだのが、相手の下宿でいちゃついた翌日のことである。)
おお、これはまた……
随分良いタイミングだったな。
(──あくる朝。爽やかな初夏の風が吹き渡る空の下、駅に降り立ったギデオンは、辺りの見違えた様子を前に感嘆の声を上げた。無理もない──このキングストン職人街は、つい五ヵ月前にも来たから未だ記憶に新しい。しかし、ヴィヴィアンと共に装備探しをしたあの頃は、もっと下町風情溢れるセピア色をしていたはずだ。
それが今やどうだろう。『ペンテコステ・フェア!』なる横断幕を派手に掲げた通りの向こうは、眩しい陽光を浴びて煌めく、浮かれたお祭りムードであった。どこを見ても人、人、人、そして家具に道具に発明品。そういえば毎年この時期、ここら一帯の職人たちは、聖霊降臨日が近いことにかこつけて大売り出しにかかるのだ。遡ること数十年前、今日のかれらと変わらぬ商魂逞しい職人が、“神は細部に宿る”という匠の世界の信条と、ロウェバ教の説く“聖霊の働き”をものの見事に結び付け、企画を打ち出してみたところ大ヒットしたんだとか。兎にも角にも、要はこのフェアで買った家具にはご加護がついてるなんていう、聖燭祭商戦や復活祭商戦とそう変わらないアレが掲げられているらしく。とはいえまさにそれらと同じで、客にしろ職人にしろ、何かの折に良い売買がしたい、という点で一致するのに変わりなく。元からお祭り騒ぎが好きなトランフォード人たちだ、ペンテコステ本番までの前夜祭と言わんばかりに盛り上がっているわけである。
──ギデオンとヴィヴィアンが家具探しにやって来たのは、実は全く偶然で、そういえばそんなのがやっていたな、という感じなのだが……しかしこれに乗じないなどという手はないだろう。早速辺りのバザールへ繰り出していくその前に、まずは間近なジューススタンドにその足を向けてみる。……そうやらそれそのものが職人と一体化したひとつの発明品らしく、あちこちの魔導具を忙しなく動かしている八面六臂の老人にセールストークをかまされながら、しかし実に美味しそうな果実水を受け取れば。祭りの熱気に渇く喉をのんびりと潤しつつ、先程通りの入り口で貰った会場案内の紙面を広げて。)
一日じゅう見て回れそうだが、この雰囲気にあてあられて疲れてしまうとことだ。
まずは用のあるやつから見に行こう……寝具の店は、この突き当りか。
──……! はい!!
いまの……今のままで、置くスペース足りますか!?
床下もあるんですよ実は……、
( 向こうが慣れてきたそのように、ビビもまた相手から向けられる熱量にやっと慣れてきた今日この頃。悪い意味では決してなく、寧ろ相手の好意を疑わず、全力で返せることが心底幸せで仕方がない。そんな満面の笑顔で、まったくどれ程の大荷物を想像しているのか、見る方がつられるほど上機嫌に、パタパタと部屋の片付けに向き直ると。
翌日、もとより紳士な年上の相手である。催促される前から忘れていた訳ではなかろうが、ペンテコステフェアに湧く賑やかな通りを、本格的に歩き出すその寸前。周囲を見渡そうとした恋人の数歩に付き合わず、何事かと振り返るだろうギデオンにぷくりと頬を膨らませると、片手を差し出し、いつかは誤魔化されたエスコートを強請れるくらいには、互いに気持ちを通じ合わせていた。 )
わあ……!
とってもいい香り……!!
( 逞しい腕に引かれ重厚な木造の扉を潜ると、そこには色とりどりの織物が、広い壁一面に敷き詰められた色鮮やかな空間が広がっていた。出入口の正面、素晴らしい作りのカウンターの脇には、後入れの細工などの客の要望にその場で答えられるようにだろうか。無骨な道具とおが屑の舞う小さな作業スペースが設けられ、爽やかな木の香りが心地よく鼻腔を満たしてくれる。カウンターの脇から向こうを覗けば、外からは分からなかったが、奥は半地下のような作りで非常に広く、成程、見るだけでは分からないマットレスの寝心地を試せる空間になっているらしい。カウンターに広げられた、ベッド自体の装飾や、無数にわたるヘッドボードのカタログを見るに、基本的には顧客や部屋に合わせたオーダーを聞いてくれる店のようだが、一部既に組み立てられた廉価品も取り扱っているらしく。店の端に置かれた"たっぷり収納付き"やら、"脚は取り外し可能"などのポップが貼られたベッド群に目をやれば、思わずくすりと笑ってしまったのは──"魔獣の爪でも傷つかない"だなんて、一般家庭には到底必要ないであろう売り文句が面白かったからで。次第に、二人のドアベルの響き聞きつけたらしい恰幅の良い女将さんは、エプロンの木屑を叩きながら出てくると、「いらっしゃいませ、本日はどんなご用事で?」と、座面にクッションが張られている訳でもないのに座りやすい、これまた素晴らしい椅子に二人を通してくれるだろう。 )
(ギデオンとヴィヴィアンが半年ぶりに訪れた、キングストン職人街。ここで働く連中は、鑿・槌・鉋はお手の物……しかし人間相手となると、どうにも不器用なやつらが多い。そんな難儀な人種にとって、店と客の間を取り持つ女将がたの存在は、まさにかけがえのないものだろう。そしてそれは、客にとっても同じこと──良い買い物をしたいときは、その店の女主人と話し込むに限るのだ。
故にギデオンとヴィヴィアンも、ふたり並んで席につくと、向かいに座ったマダム・メーラーに、早速事情を打ち明けた。──今月からの交際で同棲生活を始めるにあたり、寝具を買い替えることにした。ギデオンは五、六時間、ヴィヴィアンは八時間以上眠るのが習慣で、仕事はともに冒険者だ。ただ、先々の暮らしを考え、いずれ別業種に変えることを検討している。そうすると今よりは家に居つくようになるから、日々の睡眠以外でも、暖炉のある寝室でゆっくり寛ぐのに使いたい。予算はおよそこのくらい、搬入先はこの地区で、この日までに誂えられれば……。
四十男と若い娘の、しかもやたらと勢いの良いカップル。そう見て取れたはずであるが、しかし流石はマダム・メーラー。眉ひとつ動かさずにヒアリングを取りまとめると、にこりと笑って席を立った。「セミオーダーがよろしいですわね。それでもまずは念のため、おふたりのお体を測りましょう……ええ、ええ、あちらにある計測用のマットレスにも横たわっていただきますよ。必要な数字が揃えば、お好みにぴったりのものをスムーズに探せますでしょ?」)
……面白いな。まさかここまで測られるとは……
(──さて、それから十五分後。女将の寄越した計測データの紙を手にしたギデオンは、カーテンに仕切られた計測室から戻ってくると、思わずそんな声を漏らした。ギデオンの身長、体重、両腕を広げた幅はもちろん、筋肉のつきかたや重心の移し方まで、眼をかっ開いた真剣な様子の女将に、これでもかというほど確かめられまくったのだ。先に出ていたヴィヴィアンも、おそらくは同じように、しかし男のギデオンよりはもう少し手心を加えて計測されていたのだろう。
ふたりの手元の紙には今、各種の身体データのほかに、この店にあるマットレスやヘッドボードの簡易カタログが載っている。女将が赤丸をつけたのは、「この品番の商品が合うだろうから是非試して」という指示らしい。最初はそのガイドのままに、女将による丁寧な案内を受けていたふたりだが。途中でドアベルの音が増え、お針子たちの出迎えでは対応が間に合わなくなると、とうとうマダム・メーラーもそちらに赴かざるを得ず。しばらくの間、ギデオンたち自身で好きに見て回るようにと頼まれた。どの道頃合いだったろう──案内の様子からして、ギデオンたちがふたりきりでもゆっくり探したいことを薄々察していたはずだ。
半階上のあのブースで聞き取りを行っている女将の声を聞きながら、ようやく相手を振り返り、片眉をぐいと上げると。今はまだほかに客のない、魔法灯で如何にも居心地よく照らされた店内を、相手と腕を絡めながらゆったりと歩いて回る。マットレスの寝心地は幾つか軽く試したから、そろそろベッドフレームのほうも見繕いはじめようか。のんびりと喉を鳴らしながら、各商品に据えられた番号札と案内紙を見比べては、顔を軽く傾けて隣の相手に相談し。)
……寝室を広く見せるなら、低いものがいいんだろうが。ある程度の高さがある方が、普段使いにはいいんだろう。
サイズはどのくらいがいいと思う? ゆったり眠るには、クイーンサイズだと少し手狭に思えてな……
( 快適な生活とは、得てして非常に物入りなものである。ましてや新たな生活準備に対し、ビビとてある程度の出費は勿論想定していたのだが。他でもない恋人の口からさらりと述べられた今回の予算に、内心穏やかでいられなかったこともまた確かな事実で。今をときめく勤続数十年のベテラン剣士と、やっと新人扱いが抜けてきたばかりの若手ヒーラー。その収入に大きな隔たりがあるのは至極当然の道理で、質の良い生活を享受する権利がある相手を、自分の低い生活レベルに付き合わせるのはただの自己満足に過ぎないとも強く思う。その上、ギルド運営の中心に深く食いこんでいる有能な上司が、後輩ヒーラーが出せる予算など大体把握した上で提示していることも頭では理解しているつもりだし、特に身体を休めるベッドは冒険者である二人にとって何より大切な資本になる等々……。要はここは意識して物分り良く振舞ったのだったが──帰ったらもう一度話し合わなくちゃ、と。己の甘さに唇を噛んだ娘とって、更に大きな衝撃が待ち受けているのはまだ一旦別のお話。 )
私も、もう少し大きい方が良いと思います。
その方が帰ってくる時間がバラバラでも、お互いを起こさずに住みますし……
( 結局、なんだかんだ浮かれているのは此方も同じ。当たり前のように、ひとつのベッドで寝てくれるらしいギデオンに、えへえへと纏わり着くと。「……でも、二人とも元気な日はくっついて寝てもいいですか……?」と耳打ちした薔薇色の頬や、キラキラと輝くエメラルドのいっそ残酷なレベルで無邪気なこと。これから数ヶ月にわたって、相手を酷く苦しめることなど微塵も分かっていない顔をして、強請るようにこてりと首を傾げれば。高さ順に並べられたベッドの群れに駆け寄り、一番高いそれにぴょいと浅く腰掛ける。そうして少し浮いた踵をぷらぷらと、楽しげにギデオンを見上げては、「これくらい高い方が沢山収納できないですか?」と、あの広い住宅に対して妙に所帯染みた思考はご愛嬌。少しでもじっとしていられないのか、すぐさま今度は低いそれに腰掛け、余った脚を億劫そうに折りたためば。ふんふんと丸い頭を小さく揺らして相談を。 )
今はどちらも分厚いマットがあるから低い方が良く見えますけど、薄いマットを敷いたら高い方もそんなに圧迫感なくないですか?
脚が細い……床が見える物ならもっと広く見えるかも……?
────……、
(“頼れる恋人、ギデオン・ノース”。己よりずっと若い彼女にきっと相応しいそれを、自分はここ数週間、努めて演じ続けたつもりだ。だがしかし、ピュアを煮詰めたような娘のとんでもない発言に、一度びきんとひびが入れば。辺り一面に展示されている素晴らしいベッドフレームを、彼女が熱心に眺める間……ギデオンのほうはと言えば、その場にじっと佇んだまま、大きな片手で険しい顔を覆い隠して。
……ああ、そうだよな。収納のことも、ちゃんと考えておかないと。それで……そうか。ヴィヴィアンのほうも、俺と眠るのが嫌じゃないと。それどころか、むしろたまにはくっついて寝たいと。普段は遠慮してすらいると。そうか。なるほど。抱いてもいいか。
──なんて本音は、しかしまだ言えやしない。なまじ恋仲になったからこそ、下手な冗談に聞こえないせいだ。それに何より聖バジリオの、あの担当医からのお達し……退院してまだ数日の、相手の体が第一だろう。
故に何とも歯痒そうに、一度眉間の深い皴をぎりぎりとより極めたものの。ようやく顔を上げたかと思えば、その面は今度はス──ンと、酷く冷静に凪いでいた。やがてこの先何年かギデオンを眺めるうちに、彼女も気づきはじめるだろうか。……この慎重居士の魔剣使いが、もはや盛大に開き直ると決めたときの面である。)
いや、マットもフレームも、しっかりしたものを選んでおくほうがいい。
二階に運び上げるのに一苦労だろう? だから──最低、五年は保たせてみせないと。
(まったく、何が“保たせる”だ。その意味深な物言いの訳を自分からは明かさずに、相手の手を取り立ち上がらせて、別のコーナーに連れていく。どうやらそこは、彼女が今までそれとなく避けてくれていたであろう、この店の最高級品が並んでいる一角らしく。仮に相手に見上げられても、そこにある男の横顔は、まったく揺るぎやしないままで。
ヘッドボードにさりげない引き出しがついているものをふと見つければ、「これなんかは便利そうだな」と、はたまた何を常備するつもりなのやら。ともかくそのベッドの、どっしりとした脚の太さをいたく気に入ってしまった様子で。先にベッドに深く腰掛け、その据わり心地に(ほう)という顔で見下ろすと。ふと相手に顔を戻し、緩く腕を広げては、当たり前のように誘って。)
これに合わせるマットレスは、やっぱり……ほら。この店独自の、『メーラースプリング』ってのが、いちばんフィットするらしい。
……ほら、お前も、こっちに来てみろ。
……いえ、その、5年後も一緒にいてくださるんだなって思ったら嬉しくて!
( それは生きてきた年月の違いからくる、時間感覚の違いに過ぎなかったのかもしれない。しかし、年若いヴィヴィアンにとっては決して短い時間ではない、これまで相棒として過ごしてきたよりも、ずっと長い歳月を当たり前のように信じてくれる恋人に、思わずきゅんと言葉を詰まらせれば。熱く火照る耳先をくりくりと面映ゆそうに弄び、潤んだエメラルドを震わせて。そうして、嬉しそうに「わあ! 確かに、ふっかふかですね!」と相手の隣に腰掛ければ。上質なスプリングに任せ、上下にぽよぽよ揺れて見せるも、正直、もう内心マットの良し悪しなんてどうでも良かった。ギデオンさんが隣にいてくれるのなら、私ドラゴンの鱗の上で寝たって構わないな──なんて、そんな自己陶酔に浸っているから、“普通に使っていたら”、先程のマットだって十分に5年は使えそうだとか、収納ってそんな小さい引き出しのことじゃなくてだとか、色々と大切なことを見落とすのだ。しまいには、確かに運搬料だってかかるんだし、ギデオンさんが言うならそうなのかもしれないなどと、すっかり上手く乗せられている自覚のないまま、戻ってきたマダムの助言に滑り止めやら、素材やらのオプションを幾つか見繕えば。ベッドの他にもいくつかの家具を含め、あれよあれよという間に、契約書等を纏めた書類を受け取っていたのだった。 )
お……お休みの日は、少しでも長くベッドの上に居なくちゃ……
( 結局、支払いの段階でやっと僅かばかりの冷静さを取り戻すも、帰りの馬車の中、本人はいたって真剣な表情で呟く内容がどこまでもずれているのはご愛敬。5年どころか、ベッド本体は一生使えそうな代物に、その視線は何処か遠い宇宙を映しながら、ぐっと両こぶしを握りこむと「ギデオンさん! 帰ったら相談したいことがあるんです!!」と。それは、これから始まる共同生活にあたり、特に経済的な方向性で、一方的に相手のお世話にだけなるつもりはないのだと。改めて伝え直すべく、帰宅後に時間をとってもらった時だった。まずは月々の細かい収支を確認すべく、約束通りに持ってきてもらった賃貸契約書に目を通すと、暫くして「………?」と首を傾げ始め。「あの、ギデオンさん………」と、指し示したのは月々の『家賃』とは別に記載された『共益費』の項目。家を借りる際に名目上の『家賃』とは別に、その他雑費がかかることは、流石の箱入り娘とて、この下宿を借りる際に知っていたが──……否、なまじ中途半端な経験があったからこそ勘違いしていた。ビビの知る『共益費』は家賃の数分にも満たない、あくまで雑費の粋を超えない程度だったが、完全な富裕層を相手にした住宅は訳が違う。警備費、補償費、清掃費……この書類から計算するに名目上家賃同等か、月によってはそれ以上の額に上るそれを正確に認識した途端、あまりの衝撃に目眩を覚え。家賃の半額だってギリギリだというのに──いや、寧ろ引っ越す前に判明して良かった、と。腹を決めたところまでは良かったのだが。その後のあまりに言葉足らずな宣言から生じる誤解に思い至れない程度には、内心かなり動揺しているらしく。入居の数日前になって、あまりの申し訳なさからそれ迄くっついていた上半身を離すと、真っ青な顔を横に振り。 )
──…………ごめんなさい!!
どうしよう、私ギデオンさんと暮らせない……
────は、
(それはまさに青天の霹靂。一瞬ぴたりと静止した後、愕然とした顔を相手に向けて、狼狽あらわな震え声を。──これが普段のギデオンならば、相手の言わんとすることを冷静に捉えただろう。しかし今はいかんせん、恋人の家に上がって寛いでいた矢先。己に後ろから抱き込まれている部屋着姿のヴィヴィアンがふんふん書類を読むあいだ……顔が見えないのを良いことに、その甘いぬくもりでたっぷりふやけきっていたのだ。
そこにヴィヴィアン本人からの、突然のこの冷や水だ。ギデオンの青い目はあからさまに揺れ動き、その太い両腕は我知らず固く強張った。勝手に狭めることこそしないが──それでも相手を出さぬとばかりに、ぎこちなくもがっちりと、堅牢の構えをとらずにはいられない。ようやく絞り出した声にも、動揺が色濃く乗って。)
……待て、待て待て。
何故、なんだ、何を……いまさら、
(──今更も何も、病み上がりの若い娘に同棲を持ち掛けて、まだほんの二週間。仮に相手が本気で意向を翻したとて、別におかしくはない話なのだが、何せこの男ときたら、春先に死なせかけた娘を今度こそ失うまいと、本気で固く決心している。故にこの二週間、頼れる大人の皮を被って、必死になって口説いてきたのだ。そうしてようやく手に入れた──そう一安心していたというのに。それが水の泡になるのか。彼女を今更諦めることになるのか。嫌だ。それは、絶対に嫌だ。
それを素直に打ち明けるには、しかし何せ臆病すぎた。故に何も言いだせぬまま、長いことただ唇を開いたり閉じたりしていたものの。それでも何かは言わねばと、藁にも縋る思いで青い視線を巡らせて、ふと契約書に目が留まる。先ほど相手に何やら言われ、一応こちらもちらりと見たが、何か取り立てておかしなことが書いてあるわけではなかった。──そう、少なくとも、ギデオン自身の視点では。
ある可能性にふと気がついて、もしや、とそれに手を伸ばす。今一度確かめた家賃と同等の共益費、これはこの文教地区たるサリーチェの家に住むならば、至極当然の数字をしている。そして──わざとではないのだが──ヴィヴィアンと家賃のことを話す時、自分は自ずと、共益費を除いた数字で等分することにしていたはずだ。単純に計算して、ギデオンの支払う額とヴィヴィアンの支払う額は、実に三倍の違いがある。「……まさかとは思うが、」と、すっかりいつもの自分に戻った困惑顔で相手に尋ね。相手がこくりとでも頷けば、契約書を脇に押しやり、かぶりを振りながら反論を。)
金のことなら気にしなくていい。
おまえの考えることはわかるが、手取りが数倍も違うのに、全部をひっくるめた額で折半するわけがないだろ。
※予告の修正内容から変更はございません
────は、
(それはまさに青天の霹靂。一瞬ぴたりと静止した後、愕然とした顔を相手に向けて、狼狽あらわな震え声を。──これが普段のギデオンならば、相手の言わんとすることを冷静に捉えただろう。しかし今はいかんせん、恋人の家に上がって寛いでいた矢先。ソファーとスツールでは視線が上手く合わないからと、相手のベッドの前にローテーブルを持ち込んで、仲良く並んで腰かけながら帰りに買った夕食をつつき……そうして食後のコーヒーを、共にのんびり味わうなどをして過ごしていた最中だ。
そこにヴィヴィアン本人からの、突然のこの冷や水である。ギデオンの青い目はあからさまに揺れ動き、カップを手にしたままの手もわかりやすく強張って。よもや足元の白いカーペットにこぼしてはことだからと、まずはそれを下ろしたものの……ようやく絞り出した声にも、動揺が色濃く滲み)
……待て、待て待て。
何故、なんだ、何を……いまさら、
(──今更も何も、病み上がりの若い娘に同棲を持ち掛けて、まだほんの二週間。仮に相手が本気で意向を翻したとて、別におかしくはない話なのだが、何せこの男ときたら、春先に死なせかけた娘を今度こそ失うまいと、本気で固く決心している。故にこの二週間、頼れる大人の皮を被って、必死になって口説いてきたのだ。そうしてようやく手に入れた──そう一安心していたというのに。それが水の泡になるのか。彼女を今更諦めることになるのか。嫌だ。それは、絶対に嫌だ。
それを素直に打ち明けるには、しかし何せ臆病すぎた。故に何も言いだせぬまま、長いことただ唇を開いたり閉じたりしていたものの。それでも何かは言わねばと、藁にも縋る思いで青い視線を巡らせて、ふと契約書に目が留まる。先ほど相手に何やら言われ、一応こちらもちらりと見たが、何か取り立てておかしなことが書いてあるわけではなかった。──そう、少なくとも、ギデオン自身の視点では。
ある可能性にふと気がついて、もしや、とそれに手を伸ばす。今一度確かめた家賃と同等の共益費、これはこの文教地区たるサリーチェの家に住むならば、至極当然の数字をしている。そして──わざとではないのだが──ヴィヴィアンと家賃のことを話す時、自分は自ずと、共益費を除いた数字で等分することにしていたはずだ。単純に計算して、ギデオンの支払う額とヴィヴィアンの支払う額は、実に三倍の違いがある。「……まさかとは思うが、」と、すっかりいつもの自分に戻った困惑顔で相手に尋ね。相手がこくりとでも頷けば、契約書を脇に押しやり、かぶりを振りながら反論を。)
金のことなら気にしなくていい。
おまえの考えることはわかるが、手取りが数倍も違うのに、全部をひっくるめた額で折半するわけがないだろ。
あっ……駄目!! ちゃんと見せてください!!
( 取り上げられた契約書を取り返そうと、どたばたとベッドに乗りあげたところで、渡す気のない相手に此方が適うはずもなく。二人のことなのに──と、柔らかい寝具の上、体育座りの要領で長い足を畳みながら、「"わけがない"なんて、誰が決めたの」と小さくむくれてみせれば。しかし、そうして見上げた蒼い瞳に、悪気どころか、ビビを喜ばせようとしていた困惑しか見て取れないことに気がつくと、仕方なさそうにゆっくりと相手の隣に腰を下ろし直して。 )
ギデオンさんにとって、私はまだ先生の子供なの?
そうじゃなくて対等な……恋人、でしょう?
( こほん、と言葉足らずな恋人を諌めるべく、居住まいを正したところで。自分で発した甘い単語に嬉しくなって、にこにこと勝手に機嫌を直しているのだから世話がない。座り直した際に触れた小指を嬉しそうに見つめ、その少し乾燥した分厚い掌にちゃっかりと自分のそれを重ねると。「ギデオンさんの方が、余裕をお持ちなのは分かってます」「でも、私達ふたりの生活ですもの。……最終的に折半じゃなくなったとしても、私もちゃんと関わりたいんです!」と、その瞳を真っ直ぐに見つめてみるが、果たして過保護な相手にどこまで通じたことか。ふっと一瞬瞼を閉じたかと思うと、すぐさま爛々と強欲に輝くエメラルドを覗かせて。 )
それにね、私、ギデオンさんがしてくださったことは、どんな事でも覚えておきたいの!
(無垢に、そして貪欲に、望みを語る相手の前で。最初は虚を突かれたように薄青い目を瞠ったものの、やがてふっと和ませて、「そうだな、」と喉を鳴らし。そうして軽く頭を寄せ、重ねられた掌の下、親指の先で相手の小指をごくゆっくりと撫でることを繰り返す。しばらく部屋が鎮まったのは、己なりに、今の会話に続ける言葉をきちんと探そうとしているからで。)
……どんな事でも、か。
(──今更のように実感したことがある。“対等な大人としてきちんと扱ってほしい”のだと、彼女はこちらを嗜めてくれた。だがそれとまた同時に、“恋人”という単語ひとつで未だぽやぽやはにかんでしまう、そんないじらしい純真さをまだまだ残した娘でもある。つまるところ、彼女はやはり、歳を重ねた自分とは大きく離れた存在なのだ。
相手の若さを侮るわけでも、単に手放しに神格化するわけでもない。ただ厳然たる事実として、ギデオンとヴィヴィアンは、人生の季節がちがう。こちらがもう晩夏も過ぎ、秋に差し掛かる年の頃なら、彼女はまだ初夏真っ盛り……咲初めの花が香る頃。だから先を行くギデオンに初々しく憧れるし、ギデオンが夏の盛りにつけた力に敬意を払ってくれながら、自分も力になりたいのだと懸命に背伸びする。そしてギデオンのほうもまた、ヴィヴィアンの瑞々しさや花開いていく様にごく当然に惹かれながら、与えることで与えられたい、その日々を続かせたいと、水面下で必死になってあの手この手を尽くすなどする。それがきっと、これからの自分たちの有り様になっていくのだろう。おそらくそう単純じゃない。それぞれの時間の流れを相手に合わせていこうとするなら、この先もまた、こうして何かしら見えてくるものがある。
──だが、それでも、ふたりでなら。こちらに負けず劣らず諦め悪く欲深い、彼女が相手であるのなら。)
なら、絶対忘れさせないぞ。忘れずに……俺のことを、きちんと見ていて貰わないと。
(再び上げたギデオンの顔からは、もう憂いが抜けていた。今の長い長い思案の間をようやく埋め合わせるように、己の大きな掌を返して相手の柔らかな手を握り、鮮緑の目を穏やかに見つめる。そこにあるのは、きっとヴィヴィアンが望んだ以上にこちらが決めた覚悟の色。「そうだな、ふたりの生活だ。ごっこ遊びじゃないもんな、」と。空いた片手でその頬に触れ、最初こそ穏やかに親指の腹でさすったものの。やがて撫で下ろしたその先は、相手の柔らかな唇に我知らず流れていき──半月前のあの時ぶりに、己の視線も吸い寄せられて。)
わかった。こういう大事なことは、これからはもっときちんと話し合っていくようにしよう。
とすると当座は、保険や名義の再確認と、それに──……
もう! 頼まれたって、忘れてあげたりなんてしませんよ!
( そう心外そうに唇を尖らせた娘は未だ若く、中年男の覚悟の大きさも、その内心の呵責も何も知らない。しかし、その代わりに男の逡巡など意に介さず、真っ直ぐに欲しい物へと飛びつけるのは若者の特権だろう。此方の要望を踏まえ、相手が述べてくれる内容もしっかりと頭の中に書き留めつつも。ゆっくりと降りてきたそれに、しなやかな腕を相手の太い首へと回すと、全身を寄せるように半ば奪う様な勢いで受け止めて。 )
……わがまま、聞いてくださってありがとうございます。
大好きよ、ギデオンさん。
待って待って! 今メモを準備しますから……っ、!
( やっと通じたらしい真剣な想いに、ほっと肩の力を抜いたのも束の間。次々と俎上に上げられる現実的な問題に、慌てて立ち上がろうとしたその瞬間。いつの間にか握られていた手にぎゅっとその場に引き止められると、唐突に与えられた触れ合いに、ぴんと背筋を緊張させて。嫌な訳じゃない、訳が無い。自分からするのは良いが、相手からの愛情表現に慣れないと言ったら笑われそうだから言わないが。無意識にそれまでギラギラと見開いていた瞼もきつく閉じ、長い睫毛を震わせ、相手の反応に面白いほど簡単に翻弄されながらも。それでも、与えられる愛情の一片をも逃してなるかと、必死に応える若い娘は、未だ年上男の内心の哀愁に気がつけない。そこには、現にギデオンも認めたように、諦め悪く自らの有様も気にしない、愚直でまっすぐな深い愛情があるだけだった。 )
──おはようございます、ギデオンさん!
( そうして迎えた引渡しの日は、眩しいほどの晴天に恵まれて。約束の時間にはまだ少し早いはずだが、下宿の自室の窓から相手の姿が見えた瞬間。下宿の階段を転がり落ちるようにして駆け下りたヴィヴィアンが身にまとっているのは、胸元を開けた白いシャツに、瑞々しいラインを描くコルセット、そして長い脚を覆う白いブーツ。他でもないギデオンが何より、誰より見慣れている筈の仕事着で。勿論このまま数十日ぶりに出勤しようとする訳ではなく。暫く家主のいなかった新居の掃除のため、汚れても良い、動きやすい服故に、いつもの白いローブは今日は既に荷物の中だ。そのため分かりやすく晒されている、少し痩せてしまった全身でギデオンに飛びつけば。肩を竦めてはにかんで、前髪をくしゃりと硬い胸板に擦り付け。 )
あのね、あのね、私もうすっごく楽しみで、誰かに起こされる前に目が覚めちゃったって……言ったら、子供っぽい、かも。
お願いしたら……聞かなかったことにしてくださる?
(この二週間の理性がどれほど脆い代物か、気づけば甘く食んでいた柔い唇で思い知る。大事な話の最中なのだ、満足したらすぐに退こうと、どこかしらでは考えていたはずが……相手の娘がいじらしくも懸命に応えてくれるものだから、それでまた箍が二、三外れて。やがてようやく吐息をこぼし、まだ熱っぽい目を交わせば。「……それで、何の話だったか」なんて、気の抜けきった呟きに、相手と思わず笑い合って。
──こんなにも己の中身を変えられる。しかしそれがこれほどに心地良いことだなんて、自分はこの四十年、全く知らずに生きてきた。そしてこれを、今ひとときの思い出だけにとどめてしまうつもりもないのだと。この腕のなかの娘に、これから先、何年かけて伝えていけばいいだろうか。)
──……っくく。ああ、おはよう。
(ガチャン、パタパタ、と忙しない物音は、それだけで己のヴィヴィアンが飛び出してきたのだと気が付くには充分だ。よく晴れた初夏の昼下がり、こちらもワインレッドのシャツに黒い脚衣といういつもの出で立ちでやって来たのは、ギルド本部での早朝勤務を切り上げてきたばかりだから。懐かしい姿の相手をその胸元にしっかり抱きとめ、可愛らしいことを言われれば、その頭を撫でながら愉快そうに喉を鳴らして。「いいや、聞き捨てならないな。誰に起こして貰ってるんだ?」なんて、相手の寝坊助を揶揄いつつ、戯れに妬くふりを。おおかた同じ寮に住む同じ親しい女性住人だろうが、その美味しい役割は、これからは自分ひとりが独占していいものだ。そんなようなことを、涼しい顔でさらりと言って見せながら、相手と手と手を絡め合って歩いていったその先は、ギルドからそう遠くない場所。今日からしばらくは自分たちのものになる、のどかな通りの一軒家──なのだが。)
……? あれは、
(やっぱりかなりやつれたろう、しばらくは無理をせず一緒に美味しい食事を囲もう、俺はあれなら作れるが……なんて、他愛ない話を咲かせていた矢先のことだ。ふと歩みを止めたのは、自分たちの新居の青々とした前庭に、何やら様子のおかしいものを見つけてしまったからである。
近くまで歩いてみれば、それは黒々とした喉にアヌビス模様の袋を提げた、白い羽毛を誇る生きもの。言わずと知れたカラドリウス、その早生まれの若鳥らしいが、その場でバタバタと小さな羽根をもたつかせながら、上手く飛び立てずにいるらしい。万病を癒すというこの聖なる鳥でさえ、自分がどこかしらに負った怪我は治せないということだろうか。つぶらな瞳でこちらを睨み、ギャッギャッと威嚇鳴きするその存外な気性の強さに、思わず目を瞬かせつつ。──あいにく自分は、魔獣の類いを斬り倒すしか能がない。何かわかるか、というように、隣の恋人の方を見て。)
……、じゃあ、責任もって毎朝っ……、優しく起こしてくださいね!
( ギデオンとの関係が変わって幾週か。ビビばかりその迂闊を咎められている気がするが、この愛しい恋人だって大概だ。涼しい顔をしてさらりと吐かれる殺し文句に、自分ばかりドキドキさせられているのが悔しくて。その涼しい表情を真似してみるも、徐ろに長い指を絡められれば。いいように人が動揺する様を見て、なんて楽しそうにしてくれることか。心底楽しそうに眦を下げる相手を前に、ぷくりと頬を膨らませて見せれば、ご機嫌をとらんとする少し焦った薄青の瞳。それに免じて許してやった以降も、何気ない話題に目尻の皺を深めたり、かと思えば見開いたり。そんな大好きな人の色鮮やかな表情を隣で、合法的に眺めていられる幸福にたっぷりと浸かっていたものだから。二人の歩む進行方向、その足元に撒き散らされた白い羽毛に気がついたのは、当の恋人に促されてのことで。 )
いえ、良い機会なのでこのままちょっとダイエットしようかなって──……
( 負傷した翼を精一杯伸ばして、少しでも自分の姿を大きく見せようとする痛々しい有様を見て。入院前のビビだったなら、自分が病み上がりなことも忘れて一も二もなく治療に当たったかもしれない。しかし──ギデオンさんと会えなくなるようなことはしない。あの日の約束を胸に、投げかけられた視線にこくりと頷けば。「ごめんね」と、すっかり怯えきって威嚇の鳴き声をあげるカラドリウスの前にしゃがみこみ、その鋭い爪や嘴に掌が傷だらけになるのも厭わず拾い上げたのは、一晩をここで過ごしたのだろうか、すっかり冷えきってぶるぶると震える羽毛を温めてやるため。ここで普段通りに魔法が使えていたのなら、少しでもその痛みを和らげてやることが出来ただろうに。手持ちの薬草を使うにしても、まずは身体を温めてやってから、最終的にはドクターのところへ──……と、無意識のうちにここまで考えて。はっと気づいたようにギデオンを振り仰ぐ娘の表情には、ビビと同様かそれ以上に、今日この日を楽しみにしてくれていた恋人への罪悪感と、それでもこの人なら絶対に背中を押してくれる、という確かな信頼がはっきりと滲んでいて。 )
……ギデオンさん、その、私、この子をドクターのところへ連れて行ってあげてもいいですか……?
ちゃんとすぐに帰ってきます! でも、どうしても放っておけなくて……
(医療知識のある彼女なら、こういった時にどうするべきかも何かしら知っているだろう。己のその信頼は決して間違いではなかったが、しかし愚かにも見落としたのは、博愛精神あふれる相手が、それを執るため何を容易く看過するかということで。
その手に滲む小さな赤にこちらが目を瞠った時には、ヴィヴィアンはいつも通り、こちらをまっすぐ見上げていた。──そこに少しでも、いつかの秋にも見た陰を見出そうものならば、再び彼女を止めたはずだが。眩しい初夏の空の下、エメラルドの目の奥の輝きは、あの頃とは少し違うことをギデオンにもわからせる。故に揺れていた瞳を、ふっと弛緩するように伏せ。「……だめだ、」と一言、その意味に似合わず柔らかな声で言いながら、相手の手に己の手を添えて。)
そんな手で、ひとりで行かせるわけがないだろ。
ドクターのところでもいいが……なあ、少しあてがある。
(だからそいつを、と。恋人の手を傷つけた鳥を、代わりに引き取ろうとしたものの。聞かん気の強いカラドリウスは、ヒーラー娘の優しい手を最初はあんなに傷つけた癖に、今度は彼女の手の中から絶対に出たくないらしい。ギデオンが手を近づければギャッギャッと叫んで拒み、自分を包むヴィヴィアンの手に小さな体をぐいぐいと押し付けてみせる始末だ。これ以上下手に暴れられても困るなと諦めて、相手と一羽を先導すべくゆったりと歩き出す。向かった先は、ほんのすぐそこの1番地。──この麗らかなラメット通りに古くから住んでいる、町内会の会長夫人その人のお屋敷で。)
(「あらあら、まあまあ。この子は随分暴れん坊なカラドリウスね」。
以前の本契約時以来二度目に会ったそのご婦人は、ふたりが道から挨拶したとき、庭先に誇る花壇にじょうろで水をやっていた。しかしこちらに気が付いて、ヴィヴィアンが傷だらけの手に小鳥を保護していると見れば、みな東屋に呼び込んで。──さてはてどういう手練手管か、あのカラドリウスを大人しくさせて自分の手に乗せてしまうと、軽い治癒魔法をぽわりと温かく光らせたのは、かつて近くにある病院で働いていたかららしい。「お次はお嬢さんの番よ」と、相手の傷をたちまち癒してくれた彼女に、引っ越し早々世話になったと恐縮の謝意を述べつつ、改めての挨拶を。
──そう、ふたりとも冒険者なのね。うちの夫もそうだったのよ、今じゃすっかり二歳の曾孫にやっつけられてばかりだけど。
すっかり元気になった小鳥に庭の草の身をやりながら、どこかしみじみと懐かしそうに目を細めるご婦人は、どこまでも淑やかで親切なお人のようだ。ラメット通りの新顔であるギデオンとヴィヴィアに、いつでもうちにいらしてね、と軽い手土産まで持たせてくれた。遠方にいる二番目の娘夫婦がはるばる送ってくれたという、南部レモンをふんだんに混ぜた自家製の甘い焼き菓子。今日は引っ越し初日でしょう? 色々大変だと思うから、これでお茶でもしてくださいなと。──このお礼はどう返そうか、なんて話を帰りにヴィヴィアンと交わしたのは、当然の成り行きで。
そうしてそのまま今度こそ、裏手の柳が目に柔らかい、自分たちの我が家に戻る。庭先に例のカラドリウスを放ってやれば、最初は二、三歩跳ねてから、ちょっとばつが悪そうにヴィヴィアンのことを見上げているのがどこか可笑しい。「ほら、さっさとどこか行け」と小鳥をあっさり他所にやり、娘の背中に手を回すと、玄関先のポーチを上がる。
そうして真新しい鍵を胸ポケットから取り出して──……しかし、すぐには差し込まず。何やら眺めていたかと思えば、どこか静かな表情で、相手の方にふと渡し。)
……なあ。
よかったら……お前が開けてくれないか。
( こんな取るに足らない擦過傷を、少なくとも二人の人間と一羽の小鳥が気づいて、皆自分を心配してくれる。それを申し訳なく思う一方で、どうしようもなく満たされてしまう想いは、まるで、あたりいっぱいに漂う少し苦くも甘酸っぱい芳醇な果実と、それを馥郁と包み込む甘いバターをたっぷりと練り込んだ焼き菓子の香りのようで。どんな些細な事象でも気にかけられて良いのだと、自分にはその価値があるのだと、この一年をかけて相手に伝えたかったことを、奇しくも自分が教えられる形となってしまえば。ギデオンはよくビビに貰ってばかりだと言うがとんでもない。この強く、長く、優しい腕に首をもたげて、自分は何をか返せるだろうかとぼんやりと考えていたものだから、ふいに鍵を差し出されると、思わず大きな目元をぱちくりとさせ。
「? ええ、もちろん……」と小首を傾げた娘にとって、ギデオンの真意こそ図り兼ねれど、愛しい恋人のお強請りを叶えてやらぬ理由もない。受け取った金属片を素直に回して、観音開きの扉をゆっくり奥へと開け放てば──わあ! と。既に内見の時にも見ているだろうに、声だけでもなくその表情も無邪気なこと。ぱたぱたと嬉しそうに数歩あゆみ出て、大きな窓から差し込む眩い光の中、これから始まる生活にいてもたっても居られずに、新しい木の香りをたっぷり胸に吸い込みながら、ふわりと優雅にターンを決めたことで、未だ玄関の外に立ち尽くす恋人を見つけると。うっとりと微笑みを浮かべながら腕を広げて、可愛い恋人が自分の腕の中へと来てくれるのを信じて、一切疑わない表情で待ち構えてえ。 )
……ギデオンさん。
(自分はこの三十余年、家らしい家を持たなかったし、持とうと思いもしなかった。それが次第に変化したのは、世話焼きなヒーラー娘が押しかけ始めてからのこと。──暗い帰路からでも見える、遠い自宅の窓辺の灯。扉を開ければ出迎える声、辺りに漂うポトフの香り、ふたつに増えた食器の音に、ごく他愛のない会話。それらを一度知ってしまえば、元に戻れるはずもなく。故にあれこれ手をこまねいて、着実に事を進めてきた。そうしていよいよ目前になり……ふと、確かめたくなったのだ。
わけも語らず委ねた鍵を、きっと相手は、どういう意味かと尋ねることもできただろう。だがヴィヴィアンはそれを選ばず、ただそのままと聞き入れて、自ら中へと入ってくれた。そうして光を浴びながら、全身に喜びを乗せ、振り向いた先のこちらを、ただまっすぐ待ち受ける。そんな姿を目にしてしまえば、ああそうか、とすぐに気が付く。──遠回しに欲しがって確かめるまでもない、最初から与えられていた。)
──…………
(ただ無言で歩み出し、相手の前に佇めば。瞼を閉ざし、引き寄せられるようにして、うら若い恋人の華奢な肩に頭を沈める。そうしてすり、と鼻梁を摺り寄せ、回しかけられた腕に同じものを返してみせれば、くすぐったいというように耳元で上がる笑い声。その余裕が悔しくて、「……やっとだ、」なんて、照れ隠しに囁き返す。相手も望んでいることが、どんなに自分の胸を満たすか、伝えられているだろうか。
とにかく、ようやく手に入れられた。忘れもしないこの住所、キングストンサリーチェ区、ラメット通り8番地。ここが冒険者のふたり、ギデオン・ノースとヴィヴィアン・パチオの……この夏からの我が家である。)
*
(──さて。あのときとは異なる時間、異なる場所で。ベテラン戦士のギデオン・ノースはその日、何とも面倒な問題に頭を悩まされていた。
事の発端は、四日前に帰還したとある冒険者パーティーだ。その一隊の隊長は、諸事情で依頼を降りたギデオンの代打として出動する筈だったのだが、こちらの与り知らぬところで、なんと更なる交代を勝手に行っていたらしい。その代打の代打というのがまた、よりによってあのマルセルとフェルディナンド。カレトヴルッフきっての問題児コンビふたりに隊長職を委ねるなど、ギデオンを始めとする古株のベテランたちは決して許さなかっただろう。しかし別のギルドから転属してきた横着な冒険者が手続きを省いたせいで、事はもう起こってしまった。──端的に説明すると、問題児コンビの率いていた若手冒険者たちの部隊は、護送を担う依頼の途中で、積み荷をロストするという大失敗をやらかしたのだ。
これだけでも頭が痛いが、さらに頭痛の種になるのが依頼主の存在だ。彼は王都の機関に勤めるお偉い学者様なのだが、何と預けた積み荷のなかに、大層価値のある代物を無断で混ぜ込んでいたらしい。──それもエメラルド碑文こと、タブラ・スマラグディナの一枚。何故そんな大事なものを申告しなかったかというと、欲に目が眩んだ冒険者に盗られると思ったからだそうだ。
マルセルとフェルディナンドはろくでなしの大馬鹿どもだが、さすがに依頼主の荷物を掠め取るほど愚かななりはしていない。とはいえ依頼主の翁は、積み荷を失くしたということにして奴らが碑文を盗んだはずだ! と声高に一点張り。……だが本来、貴重な学術資料を無断で移送すること自体が大問題のはずなので、依頼主が所属している研究機関の調査も立ち入ることになってしまい、事態はすっかり混迷を極めきっている。
──そもそも本当に、なくした荷物の中に碑文は存在していたのか? 依頼主のあの人物像を見るに、賠償金目当ての言いがかりという線も有り得るのではなかろうか? 疑念は込み上げてやまないが、とにかくこの事態の責が、きっかけを作ってしまったギデオン自身にもあることは、火を見るより明らかだ。グランポートから帰ってしばらく、まだ右肩の傷が痛むので大事をとって休もうとしたら、全てが悪化の一途を辿り、今やこんな有り様である。故にこの数日間、ギデオンはギルド本部の内勤に徹しながらも、ほとんど不眠不休で働き、すっかりふらふらの血眼だった。何せ幹部の冒険者たちも、今回の事態解決に向けて東奔西走してくれている。どうして自分が休めるだろう。
とにかく碑文、碑文発見の報が欲しい。それだけでは解決しないが、少なくとも失くした積み荷を見つけだして無事に回収しないことには、全ての回復が始まらないのだ。同じく徹夜で働いているギルドマスターの許可のもと、ギルド内外から収集するあらゆる報告に目を通し、あらゆる若手に指示を出し、あらゆる始末書を次々書き上げ……そんなことをしていたら、とてもじゃないが、自分のなりに構うような暇などなかった。──事態が発生してから四日目、今朝のギデオンはいつにもましてくたびれた顔、隈の濃い目元、これだけならまだいいが、顎にはぼうぼうに無精ひげが生え、ワインレッドの服もすっかりよれよれという有り様である。それはそれで好みだなんて宣うフリーダのような物好きもいるのだが、普段なら勿論のこと、女相手にこんな姿は晒さない。今は療養を理由として内勤業務に拘束され、ギルド四階の執務室に缶詰の状態になっていたからこうなっているだけで、ここ数日間話していたのも、同じようにボロボロになった幹部の男連中だけだ。
故に、部屋の戸を軽くノックする者があれば。どうせ幹部の御使いで来た後輩のアランか誰かだろう、と大股で歩み寄りながらすぐさま扉を開けたのは、完全なる油断の結果で。)
──どうだった! いい加減、何か見つかった……か……
( マルセルとフェルディナンド。天下のカレトヴルッフが誇る問題児両名が、此度も盛大にやらかしたらしいという噂を、恋に恋するヒーラー娘が聞いたのは、事が発覚したXデーから数日たってのことだった。このヴィヴィアン・パチオの名誉のために補足するとすれば、いくら諸般の事情で同期と馴染み切れていないとはいえ、普段から決して情報に遅い方では決してないのだが。今回ばかりは、たまたまこの数日、母校魔導学院たっての依頼で首都キングストンを留守にしており、先程やっとギルドへと帰ってきたところだったのだ。まずは依頼報酬の貴重な薬草の類を片付けに医務室により、その足で上層部へと報告しに行こうとしたところへ、「あ、今はやめておけ、ちとタイミングが悪い」と、日ごろから世話になっている魔法医に声をかけられれば。──タイミング? と首を傾げたビビを見て、「いや、まあ……お前さんならいいか」と。昔から何かとヴィヴィアンに甘い御仁から今回の顛末を知ることとなり。
そうして、タブラ・スマラグディナの歴史的価値や、カレトヴルッフどころか、トランフォード冒険者ギルド協会自体が吹き飛びかねない時価総額……しかし、そんなものよりずっと。気にかかるのは、病み上がりの身体でもう四日もろくな休息を取らずに働き続けているらしい"彼"のことで。他の仲間たちに覚える心配とはまた違う、あの海上の夜からずっと、楽しく甘えて擦りついている時でさえ拭えない酷い焦燥感に俯けば。──……、ギデオンの坊主なら、四階の執務室だぞ、と教えてくれた魔法医へのお礼もそこそこに。元気よく飛び出していった直情型ヒーラーに、「まあ、坊主にゃいい薬になるだろうて」という呆れ声が届くはずもなかった。)
……あっ、いえ、私、ギデオンさんがもう四日も休まれていないって聞いて…………
( そうして、勢いよく開かれた扉に対面すると。思わずその両手で持ったお盆の上のティーセットが、音を立てて震えるほど縮みあがったのは、相手のあまりの容貌に驚いたからで。いつものパリッと小洒落た相手からは想像もつかない草臥れた姿。見た目だけじゃない、四日も帰っていないのだから当然と言えばそうだろうが、むっと漂ってきた男臭い香りも、この稼業についていればもう慣れっこである筈なのに。目の前のこの人からしていること自体がどうにも信じ難く混乱する。ともすればそんな百年の恋も冷めそうな状況だと云うのに、ショックを受けるどころか、胸に湧き上がる、この人を放っておけないという想いにぐっとギデオンを見上げると。相手が少しでも断ろうとする節を見せれば、多少強引に押し入る覚悟で。 )
……リラックス効果のあるハーブティなんです。
淹れ方にコツがいるので、中に入れてくださいませんか?
ちゃんと少しでも休まれないとダメですよ。
────…………
(それはきっと傍目には、瞬きひとつせずに固まる石像のように見えただろう。この数週でやや馴染じんでいる娘に再会した途端、ギデオンの思考回路は見事まっさらに吹き飛んでいた。……しかしそのくせ胸の奥には、妙な感情が噴き出してもいる。まさかどうしてこんな時に、よりによって何故ヴィヴィアンが、今の俺の──こんな、姿を。そのふざけた心境の色気づきように気がついて、我ながらまた愕然とする。何だ、俺は何を言う。いや何も言ってはいないが、だが何故こんな、何歳下だと、こいつはただの後輩だ、いったい何を血迷って。相変わらずその青い目を、全くどこにも、一厘たりとも動かさぬという不自然さを見せつけながら、「……後に、して……くれないか」と、掠れた小声を絞り出すのがせいぜいで。)
(──さてはて。相手が反応するその頃には、部屋先で長引く静けさに、奥におわす重鎮たちもようやく気が付きはじめていた。「何だ」「何だ」と書類の山から挙げられたその顔は、その先にいるギデオン同様、連日の賠責処理でどす黒い色をしているのだが。部屋の入り口を塞いだまま固まっているベテラン戦士と、お茶を手にしたヒーラー娘……その組み合わせに気が付くなり、((あ)))と胸中異口同音に察した声を揃えてみせて。
──ギデオン・ノースとヴィヴィアン・パチオ。シルクタウンとグランポートで相次ぐ成果を挙げたふたりは、最近噂になっている。なんとギルドのマドンナ・ビビが、遥か年上のギデオンにベタ惚したという話だ。それはもはやギルドどころか、隣のマーゴ食堂にさえ知れ渡りだしているのだが……今自分たちが目にしているのは、荒れた姿をビビに見られて見事に固まるギデオンの背中。──おいおいなんだよ、そっちもそっちで何やら萌してんじゃねえか、と。一応ギルドの重鎮としてそれなりにお堅いはずが、皆ぎらりと目を光らせてやたら生き生きとしはじめたのは、疲労で頭の螺子が飛んだか、苦労性の後輩剣士を密かに可愛がる延長か……はたまた陽気な血を引いているトランフォード人たる故か。
「なあビビちゃん、そこで突っ立ってるくらいなら、ちょっとそいつを持ってってくんねぇか!」と。堂々大声を張り上げたのは、ギルドに勤続四十年、“ラミア殺しのシルヴェスター”と名高い魔斧使いの男。「その馬鹿、ドクターの問診もここのところできてねえんだ。ちょいと代わりに診てやって、カルテをちゃちゃっと書いてやれ。じゃねえと俺らが特労局に怒られることになるからよ!」
「いや、あんたらだって同じような古傷が……」と。思わず振り向くギデオンに被せるように、「ついでに仮眠室にぶち込んでくれ、午後に帰してくれりゃいい!」だの、「お茶ならさっき、リズが僕たちに淹れてくれたよ。そこののろまは、間の悪いことに逃がしてしまって……」だの、今度は“西の魔狼”と“王都の弩”、往年のパーティーでは犬猿の仲だった厳めしい顔の男ふたりが、息ぴったりに抜かす始末。てめえらこんな時に限って、と思わず口走るギデオンに書類の束を投げつけたのは、“ネフィリム喰らいのフィリベール”だ。「つべこべ言うな、さっさとこれを出すついでに、五階に報告を上げてこい!」と。要するに体のいい雑用で追い出す目論見もあるわけで。
五階、つまりギルマスの執務室にはすぐに向かえはするのだが、あの方は今渦中の機関に出向中で、戻ってくるのは数時間も後。それまでは好きにしろ、といきなり放り出されることに反論したい気持ちはあれど、ギデオンが普段混じっているこの重鎮連中は、こういう妙なことに限って、一度決めたら頑固である。ただでさえ寝不足の頭、ついでに言えば今の有り様を相手に見られて既に満身創痍となると、もはや深く考えるだけの体力など残っておらず。目上連中がそこにいるのに隠しもしないため息をつけば、「……隣の部屋に行くぞ、」と、先に執務室を出て。)
あら! ギデオンさんだけのために持ってきたんじゃないですよ、皆さんもいかがですか?
( 目の前の男の見慣れぬ醜態に驚いたのも束の間。珍しい反応を見せたギデオンに、すっと普段の強気を取り戻せば。その風体を心配こそすれ、自分でも不思議なほど、相手が懸念しているような幻滅の念などは一切なく。案の定と言うべきか。苦しげに聞きなれた拒絶の言葉を吐く年上男に、此方も用意していた文句で応戦すれば。思わぬ方向から飛んできた援護射撃にに、「お任せください!」と勝ち誇った笑みを浮かべたかと思うと、書類の束から漏れた1枚をさっと拾って人質にとる周到さで。そうして、錚々たる顔ぶれに日和るどころか、「その、お茶はお済みなら、一応軽食も持ってきたんです」と、丁寧に保存魔法をかけられた人数分より少し多いサンドイッチを配り終えると。「そこで買ってきたものですけど、皆さんもご無理なさらないでくださいね」と、残された幹部達にも眉を八の字に下げてみせる様から察するに。決して先程の文句も、ただギデオンをやり込める為だけの方便という訳でもないようで。
その証拠に二人きりの時間に浮かれるどころか、部屋を出た後も。うら若い娘の表情に浮かぶのは、一刻も早く診療を終わらせ、この貴重な時間内に一秒でも長く相手を休ませてやらねばというヒーラーとしての責任感で。念の為に診療道具も持ってきておいて良かった、と。隣の部屋に移るなり、どうでも良さそうに持っていたトレーをあっさりとその辺に追いやり、近くの椅子を引きながら、疲労の剣士に促せば。顔色の悪い意中の相手を目の前にして、混乱中の相手とは裏腹に、そこへ何か甘ったるい感情の入り込む余地など微塵もなく、その直截な要求にギデオンが怯みでもすれば──きょとん、と首を傾げて見せるだろう。 )
じゃあギデオンさん、肩を脱いで見せていただけますか?
(歓声を上げて軽食を頬張りはじめた幹部連中を後にして、雑多な休憩室へと移り。勧められるまま椅子に腰かけ、両膝に肘を置く格好でがっくりと項垂れる。労いに来てくれた相手に全く非などないのだが、結局続報ではなかったことに、今更参ってしまっていたのだ。
その矢先、あっけらかんと割り込む指示にぼんやりと顔を上げれば。いつも以上にくすんだ顔色、霞んでいるかのような視線、戦士にしてはあまりに生気のない表情で数秒止まっていたものの。やがて「……は?」と、まるで理解の及んでいない困惑のひと声を。それでも揺るがぬヒーラー娘の治療の構えに、そこでようやくいつぞやの、あの夏の夜の宿と同じ要求をされたと気付けば。──今のこのむさ苦しい有り様で、こいつに上裸を晒すだと? と、大きく大きく目を見開き、椅子の上で若干仰け反る。「今はいい!」と突っぱねたのはほとんど反射のようなもので、少し離れろと雑な仕草で示しすらする有り様だ。それを窘められようものなら、眉間の皴をもみほぐしながら、「先にひと息つかせてくれ」と卑怯な物言いをするだろう。──相手の治療を受けるのは、せめてシャワーを浴びてから、そればかりは譲れない。)
悪いが……一杯淹れるついでに、下の様子を教えてくれないか。
その様子だと、今回の騒動はおおかた知っているんだろ。
……ええ。これを取りに行く時に少し聞いただけですけど、
( 確かに、診察とは受ける方も気力や体力を消費するものだ。──少し配慮が足りなかったな、と見えないはずの耳をぺしゃりとさせれば。そもそも折角持ってきたドクター特製のハーブティーを追いやったのも、疲労の相棒を少しでも長く休ませてやりたかったが故。本人が飲みたいというのなら、特に断る理由もなく、少し冷めてしまったポットを、魔法で再度温め直してやりながら。ギデオンらベテラン勢の顔色が悪いのは、マルセルとフェルディナンドが今度は依頼人の積荷を紛失したからだ、と。しかもかなり高価な品だったらしい、という噂がマーゴ食堂まで──つまり、ギルド中に知れ渡っていること。しかし、その具体的な品名までは未だ、当該パーティの内に留まっていること。それから、これはビビが個人的に目にした内容だが、暫くは内勤だったはずのカトリーヌやデレクの名が(彼らは彼らで別件で謹慎中だったらしい)、急遽組まれた季節外れの魔獣討伐依頼に記されていたこと。「それってこの捜索に関係があるでしょう? ね、当たり?」そして、そのパーティが帰還予定時刻を過ぎても帰ってきていないという事は、負けず嫌いな先輩たちの事だ。お互いがお互いを意識して、可哀想なメンバーをまきこみ、カヴァス犬もかくやという嗅覚で、辺りを嗅ぎ回っている姿が目に浮かぶ。ろくな事をしでかさない癖に、仕事は出来るのがタチが悪い彼らのことだ。それぞれの担当地域は本当になんの手がかりもなかったと見て良いだろうが。今頃どこを這いずり回っているのやら──なんて、噂をすれば。彼らと一緒に出たはずの見習いが二人、今にも死にそうな顔で「「カティ・デレクより先に見つけるまでぜっってえに帰んない!!」」という、パーティ長の現状報告、及び駄々を伝えに来たのが窓から覗いて。──まあ、つまり要約すると、可能性のある地域が狭まっただけであまり芳しくない状況を、香り高いお茶と共に差し出すと。その珍しく突き放すようなどこか冷たい物言いは、大切な相棒をここまで弱らせた私怨、もとい冒険者というより、元学生としてのそれも乗っているようで。 )
そもそも、そんな希少な研究資料を無断で積み込む依頼主も私はどうかと思いますけど。
いっそ、そちらの方面から訴えて時間を稼ぐ手も有りそうですけど……参考に、どこの偉い学院に所属されてる先生なんです?
(相手の口から語られる別の問題児コンビの様子に、やれやれという顔を隠しもせずに耳を傾け。湯気の立つカップを受け取り、すぐにありがたく味わって──思わずカップを二度見する。……何だこの茶は、やけに美味い。だが色や香り、それに相手が封を切ったあの包み紙の様子からして、こいつはギルド勤続数十年ですっかり慣れ親しんでいるいつものドクターブレンドのはず。疲労や寝不足をすぐに和らげてくれる効き目ならたしかにあるが、それにしたって美味すぎる。いったい何故。今更ドクターの配合が変わったのか……? と。相手がトレーを脇に置くその一瞬の間だけ、甚く衝撃を受けた顔で、大真面目にそう考えていたが。他所にご立腹の相手に不意の質問を投げかけられれば、さっとポーカーフェイスを被り、すっとさり気なく姿勢を正して。)
──ああ、そこがまた厄介でな。
一応の勤務先は、王立隠秘学研究所……そこだけなら正直、そう争いにはならないだろうが。ここ数日のこっちの捜査で、どうももうひとつ、厄介な組織の一員らしいというネタが上がってきてるところだ。
“ローゼンクロイツァー”……ってのを、お前も聞いたことがあるだろう?
(──“薔薇十字原理教団”。それは大昔にあったそれから優雅な名だけを剽窃した、過激派集団の一派である。かれらのうちのほとんどは、世や学界に馴染めなかった知識人崩ればかり。そんな同類で寄り集まって思考を先鋭化させたせいか、かれらは自分たちこそが救世だと妄信し、各地で妙な活動をしている。しかしこれの厄介なのは、なまじその構成員に、知識や財力やコネクションに富んだ輩が多いこと。たとえば依頼主のように、表の顔を立たせたうえで裏で蠢く者もいるし、捕まった仲間のために、法曹界の人脈を動かす大物さえ潜んでいる。
よって今、王立研究所にとっても、またカレトヴルッフにとっても、件の依頼主の老爺は爆弾であり触れ難い。おまけに研究所のほうは、そもそもほぼ間違いなく、教団員と知っていながら奴を引き入れてたクチだろう。研究所と教団は、本来その思想や体質から敵対する立場なのだが、双方ともそれぞれの研究のため利用し合っていた腹だ。とはいえそれが、カレトヴルッフの捜査の結果白日の下に晒されてしまえば、研究所側は威信にかかわる大問題。そのせいで、こちらがいくら要請しても、情報の共有をしきらない節がある。
──このややこしさ、まったくほとほと気が滅入る、というように小さなため息をひとつつき、いつもより乱れた前髪を掻き上げてから。横の机に手を伸ばし、ヒーラー娘が淹れてくれた温かい茶を再び含めば、わかりやすく顔を緩めて。足を組み替え、肘を突いた側の骨ばった手でその顔を支えながら、相手の翡翠の目をまっすぐ見つめ。)
……お前の言うとおり、奴の言うことは筋がおかしい。「欲をかいた冒険者に盗られると思った」なら、てめえが肌身離さずに持ってりゃよかった話だろう。
それをせずに積み荷に隠して運ばせたということは、奴は馬鹿だが、おそらく何か裏がある。
だからまず、うちで真っ先に回収して、碑文に明るい第三機関を頼りたいところなんだが……どこか心当たりはないか。
ローゼン、クロイツァー……、
( 一体全体どうしてしまったというのか。疲労の剣士が思わぬ茶の旨味に、険しい視線を柔らかく解いたその瞬間。目の前の娘もまた、その剣士の横顔をぽうっと蕩けた視線で見つめていた。──乱れた頭に、伸び放題の無精髭、目の下が黒々と落窪んだ表情は、いつもより軽く十は老けて見え。その上いつもはパリッと手入れのされた上衣でさえ、今は見る影もなくヨレヨレである。そんな忌避感さえ感じこそすれ、決して魅力的だとは思わなかったはずの相手の姿に、未だ無自覚な母性をどうしようもなくかき乱され、その窮屈な胸をぎゅんぎゅんと強く締め付けられていたものだから。不意に向けられた薄青に、赤らめた頬を逸らして、緑色の視線を気まずそうにさ迷わせれば。その返答の歯切れが随分と悪くなったのは、折角、尊敬する大先輩から頼りにして貰えたというのに。相手の求める第三者機関を、すぐにでも約束できないもどかしさのためだけとも言えないだろう。 )
第三機関、だいさんきかん、……ですよね。
うーーーーん、その、心当たりが無いわけじゃ、ええ……無いんですけど。
確定じゃないので、えっと……。
( 「……一応、ガリニアの方に、知り合いの学者が」その"彼"を通して、あちらの学院の調査期間を頼ることが出来れば、ギデオンのいう第三期間としては、これ以上なく申し分無いだろう。なんて、常日頃からハキハキと、真っ直ぐにその翡翠を煌めかせる彼女にしては珍しく、長い睫毛の影を落としたかと思うと。非常に歯切れ悪く、下唇を噛んだその脳裏には──当の娘と瓜二つの麗しい美貌を誇る、偏屈五十路大魔法使いの切りそろえられた金の毛先が揺れる。その複雑な真意を打ち明けられる程、この時のベテラン剣士と、若手ヒーラーの仲は未だそれほど深くないが。「忙しい人なんです」と、「でも、ギルドの危機だったら、力を貸してくれると思います」なんて、まるで注釈に"ビビの個人的なお願いを聞いてくれるかは分からないが"とでもつけたそうな表情で自嘲すれば。ぱちん、と打った柏手は、自分から意味深な含みを持たせておいて、それ以上の追随を許さないといった卑怯な布石。「連絡をとってみますので、2,3日ほどお時間頂けますか?」そう自然に細めた視線の先には、見慣れた精霊の姿がこの場ではビビだけに見えていた。──なんにせよ、まずは現物を探し出さないと、第三機関もへったくれもないのだ。そのためにも、 )
──じゃあ、お茶飲み終わったら、そろそろ肩診せてくださいね!
( なんて、繊細な男心を理解しない一撃を食らわせた若ヒーラーを通して。激震のカレトヴルッフに、ガリニアの魔導学院から協力の打診が届いたのは翌朝のことだった。ビビのことを信用していないのか何なのか、"彼"が定期的に飛ばしてくる精霊さんにお願いしてはいたものの、まさかこんなに早く返答が来るとは──やっぱり離れてもギルドのことは今も大切なのね。と、どうにも報われない父親の哀愁はともかくとして。
ガリニア魔導学院が対価として要求してきたのは、向こうの政治闘争の影響か、ガリニア国内ギルドが、学院の依頼を黙殺……否、"討伐に非常に手こずっている"ドラゴンの討伐協力で。それと引き換えに、タブラ・スマラグディナ発見後の解析を引き受けてくれるというガリニア魔導学院からは、もう一つ。トランフォードがガリニアから別れるよりはるか以前より、ガダウェル山脈の一部地域に定住しているされる先住民の部族。魔獣の多いトランフォード地方に増して、更に危険な地域で生き延びる身体能力や、独自の武力を持ちながらも、大国の政治には興味が無いのか、彼らが大切にするのは彼らの神だけ、そんなごくごく温厚な性格だった筈のその彼らが、最近どうも苛立っていると。度々、山を降りてきたかと思うと、ガリニア勢力圏の小さな村々を脅かしていく、彼らの言葉が分かる地元民曰く、彼らの神から賜った翡翠の秘宝が盗まれたらしい、といった情報が寄せられて。 )
ああ、助かる。よろしく頼──……、
(高学歴冒険者であるこのヴィヴィアン・パチオなら、きっと何かしらの人脈を持っているに違いない。たしかにそう期待していたが、まさか国外にいる有力者まで動かしてくれるとは、と無知ゆえ無垢な感想を抱き。この光明を逃すまいと、頭を下げて頼み込んだ……はたして、その代償だろうか。
その後カレトヴルッフでは、珍妙な光景が爆誕することになった。最近噂のふたり組、ベテラン戦士のギデオン・ノースと若手ヒーラーのヴィヴィアン・パチオが、何やら本気の追いかけっこに興じている姿である。男の沽券にかかわるだとか何とかで、ボロボロの姿の戦士は何やら必死に言い返しながらあちこちに逃げ回り、それを健気なヒーラー娘が果敢に追い詰めていくという、なかなかの喜劇だったそうだが。詳しくは別の機会に──もしくはいずれ、また後日。)
(さてはて。そんな一幕を経たから、なんてだけではなかろうが。数日後のギデオンは、清潔な装いを一度しっかり取り戻し、何やら覚悟を決めたような精悍な目つきをしていた。何せ、後輩のヴィヴィアンが類稀なる伝手から引き出してくれた情報と、マルセルとフェルディナンドの報告を統合すると、あるとんでもない仮説が導き出されてしまったせいだ。
……エジパンス族、というサテュロスの末裔がいる。かれらは下半身が山羊のようになっている半獣の亜人族で、カダヴェル山脈の南北にいくつも氏族を築いている。祖先と違い、かれらは異性にそこまで強くは固執しない。だがその代わりに欲情するのが、他人の所有する“価値ある財産”。──そんなかれらがどこかしらで、「同じ霊峰に棲んでいる先住民の秘宝を聞き知った」と仮定しよう。欲深い彼らは、まず間違いなく例の碑文を盗み出す。だが彼らはまた、同族同士ですら“価値ある財産”を奪い合う救えない性質を持つので、碑文があちこちに渡っていく。そうこうするうちにどんどん山を南下して、トランフォード側に出たとしたら。それが巡り巡って、あの邪であろう学者の手中に収まってしまったのだとしたら。そしてその学者がまた、トランフォード側に棲んでいる南のエジパンス族によって碑文を奪われたというのが、全ての真相だとしたら……?
──マルセルとフェルディナンドは、馬車で北上して数日目の夜に、山賊に襲われて積み荷を奪われたと言っていた。そのときのあいつらは確か、いやに多くの蹄の音を聞きつけていたはずだ。そして襲撃されたのもあの、この国のエジパンス族がたびたび出没する一帯。この情報から逆算すれば、上記の一説が浮上する。──盗み癖のある亜人族、その同族同士の盗難と例の学者が絡んで、名宝タブラ・スマグディナがトランフォードのあちこちを冒険しているなどという、とんでもない物語が。
しかしそれより注視すべきは、例の碑文が今失われているせいで、地味に国際問題が起こりはじめていることだ。何せ今、エジパンス族の被害に遭ったのだろう秘境の部族の手によって、何の謂れもないガリニアの無辜の民がたびたび脅かされている。ガリニアの巨大な政府は、カダヴェル山脈沿いの村に無関心なきらいがあるが、それでもトランフォード側に碑文が流れてしまったことで自国民が害されていると知ったら、きっとただではおかないだろう。……とはいえかの大国も、決して一枚岩ではない。こちらに根回しすることで和平を望む者もいる、魔導学院がその最たる例だ。国内ギルドに蔑ろにされ業を煮やしたあちら側は、どうせならトランフォード側の冒険者たちの働きを信じると決めてくれているのだろう。例の碑文周りの騒ぎを公には伏せているのは、そういうことであるはずだ。
──ならばそれに応えるのが、己が果たすべき使命。トランフォード国内で消えた碑文を捜し出し、解析に出すという体でガリニア側に返還する。そのためにまず、こちらが突き止められる限りのエジパンス族の住処を洗えるだけ洗うのだ。幸いかれらは、盗みに特化しているだけで戦闘力は高くない。カレトヴルッフほど大きなギルドも人員には限りがあるから、最悪の場合、自分ひとりで行動しても充分問題ないだろう。──そう、思っていたのだが。)
……なんで、おまえがここにいる……?
(──事件発生から五日目の昼。「もう肩の傷は問題ない」と受付に無理を通して自分の出動許可をもぎ取り、戦士装束の格好で東広場に来たギデオンは、王都の遥か北へ向かう街道馬車を待っていた。自分がこれから赴く先には、既にデレクとカトリーヌのパーティーが先行している。彼らや近隣ギルドのパーティーと合流しながら亜人族の巣を叩いていけば、きっとすぐにでも例の碑文を見つけだせると踏んだのだ。
だがふと呼ばれて振り返れば、そこには同じく遠征用の荷物を背負った、馴染みのヒーラー娘相手の姿。どう見ても同じ行き先に向かうらしいその様子をまじまじ見ると、信じ難いというように唖然とした声で呟いて。)
……あら! ギデオンさん、受付で言われたこと、もう忘れちゃったんですか?
( まあ、逸る気持ちは解りますけど、なんて。大袈裟な身振りでこめかみに手を当てて見せたヒーラーは、豊かな胸を自慢げに張ると、背負った大荷物をゴソゴソとやり。「担当治療官の適切な受診を怠らないこと!」と、相手も受け取ったろう出動許可証の写しの条件項目を読み上げる。
時刻を遡ることほんの少し。ギデオンが受付で出動許可をもぎ取ったその時。目の前で唖然としているベテラン剣士からすれば、年若く押しの弱い受付事務員の時を狙い、上手く出動許可をもぎ取ったつもりだったのやも知れないが。それに困った事務員が判断を仰いだのは、本日早番のドクターが出勤していたギルド医務室。そして、まさにその決定的なタイミングを逃さず、苦虫を噛み潰したような表情で決済印を押す老年のドクターの隣に、"たまたま偶然"同席していた。彼女が微笑めば、運命の神さえそれを叶えずにはいられない──ヴィヴィアン・パチオとは、そういう星の下に産まれた娘だ。
とはいえ、決してドクターの判断に口を挟んだ訳でも、なにか不正を働いた訳でも決して無く。あくまでビビはと言えば、正当な協力者を得たギルドから、今回の重要人物であり、負傷中のギデオン・ノース剣士が現場へ向かう。それに伴って出されるだろうヒーラー募集の応募を待ち構え、張り出されるや否や飛びつくように受諾しただけで。「おじさま、じゃあ私は少し用事を思い出しましたので」と。困惑の事務員と共に、医務室を出ていこうとしたその瞬間。ドクターが何かを言ったような気がするが、恋する乙女にはケルピーに説教もいいところ。こうして、尊敬する冒険者と馬車駅で二人。許可証をしまいこんだ流れで太い腕に絡みつくと、渾身の上目遣いとともに可愛らしくこてりと首を傾げて。 )
いち早くヒーラーが捕まったお陰で、ギデオンさんこぉんなに早く出動出来たんですよ?
……どうです、優秀すぎて、そろそろ彼女にしたくなってきません?
馬鹿言え、まだ百年早い!
(幸運さえも味方につける魅惑のヒーラー娘を前に、即座にその手を振り払い、噛みつくような一声を。しかしその次に「帰れ!」と命じるわけでもなく、苦々しい顔を浮かべて頭を抱え込みだしたのは、どうやら相手の正道さを否定しきれないかららしい。
──出動許可証に記された指定条件、その小狡い拡大解釈。それは世知に長けたベテラン勢が好んで用いるやり口で、今回のギデオンもまた、“担当治療官”が多忙という名目のもと、義務付けられた診察を帰還後に回すつもりだった。だがその治療官本人が、こうしてわざわざ自分の許可証まで携えてすっ飛んできてしまったとなると、当然話は別である。ギデオンに許されるのは、本来ギルドの専属医がそれで良しとした条件通り、クエストの進行中に治療を受けながらの出動のみ。第一、後輩冒険者が志願し、ギルドも許可を出した以上、こちらがきちんと現場に連れていってやらねばそれこそいよいよ規律違反だ。それに相手の指摘通り、想像以上にとんとん拍子で自分が出動できたのは、おそらく裏で相手の出動許可も同時進行していたから、つまり借りがあるわけで……
そこまで考え至っては、眉間の皴を深めに深めて大仰な溜息をひとつ。「……余計なことを」とぼやきながらもようやく諦め顔になって、ちょうど到着した馬車に先にさっさと乗り込んでしまう。だがそれでも、ただ根負けしたなどと思われるのは癪であると言わんばかりに。奥の席へと陣取ると、「捜索任務の経験は」「亜人討伐の心得は?」と、揺れる車中で次々に心構えを試す真似をすることしばらく。ふと真横の窓を見て、流れていく外の景色をやや無言で眺めれば、いつぞやの船上をふと思い出したように呟き。)
……今回のクエストは、完全に森の中だ。火属性は使えないし、おまえがグランポートで高めた水魔法も分が悪い。
いちばん良いのは土魔法だ──今、おまえは何が使える。
じゃあ、私と一緒に百年生きてくださいね。
( 全身全霊の可愛いポーズをすげなく振り払われたヒーラーはしかし、傷ついた様子を見せるどころか、"お決まりのやり取り"に、満足気な笑みさえ浮かべて、安心しきった様子で馬車に乗り込むと。ひとりでに硬い座席へともちりと腰掛けた距離感は、いっそ清々しいほど上司と部下らしい常識的なそれで。そうして、"お約束のルーティン"をこなした後は、その表情をあっさりと仕事中に相応しいものに切り替えると。「見習いの時に腐るほど」 「"相手の言葉には耳を貸さない、我々と同じ部位が致命傷になると思うことなかれ"」 と、大半の冒険者が読まずに枕にしている初期教本の一節を諳んじたまでは良かったが。その話題が属性魔法の適正に移れば、それまで得意満面だった表情を、今度はその顔中にシワがよっていないところを探すのが難しいほど萎びさせ。 )
──………………ウォール、とか…………。
( そうして漏らしたたった一つの土魔法は、魔導学院初等部の子達が最初に触れる基礎の基礎。魔法使いにとって防御の要であるそれこそ、死に物狂いで身につけこそすれ、実はシルクタウンの帰りのあの日から、ビビが一番苦労した依頼はと言えば、貴重な"麦もどき"をドロップするヴァイツの討伐作戦で。季節毎に新緑や黄金にその穂を染める植物性の魔物は、一個体であれば、その逃げ足だけは一流だが、鎌を持ったトランフォード農民の相手にもならない。しかし、集団で麦畑に紛れて畑の栄養を吸い尽くしては増殖する奴らといったら、本物の麦と見分けるために、収穫祭の音楽を演奏してやると、やたらと嬉しそうにその穂をワサワサと踊る姿はそれなりに愛嬌があるのだが。その一方で、一度魔法の火がつけば、為す術もなく右往左往し、これ以上なく惨めに、酷く可哀想な様子でもがき苦しんだ後、肝心の"麦もどき"ごと、最後には灰だけを残して燃え尽きる姿は、精神的にも依頼内容的にも大ダメージで。文字通り彼らの足元から崩せる魔法さえ使えれば、見習いでさえ苦労しないランクⅠの低級な魔物に対して、この脳筋ヒーラーが結局どう対処したかといえば、その膨大な魔力であちこち"土壁"を出現させ、逃げ場の無くなったヴァイツ達を杖で殴ると言った純然たる力技で。
閑話休題。そんな嫌な記憶を振り払うようにぷるぷると首を振り、相手の膝に手を着いて上半身を乗り出すと。置いていかれてたまるかと、焦点のあっていない視線をぐるぐると、必死に自分の出来ることを主張してみせ。 )
でもでも!!
最近、発破技術について職人さんから教えて貰って……出した壁を吹き飛ばせば大体いけるな? ……って、なって……
それにそれに、ギデオンさん知ってます? 大体の枝って風で吹き飛ばすと結構殺傷能力が…………あ・と! 私!! タブ……っと、その現物!! 見たことあります!!!! 探知魔法も少しならイけるし、わぁビビちゃん頼もしい!!!!
わかっ──落ちつけ、ちゃんと連れてってやるから落ち着け。
(がばっとこちらに縋ったかと思えば、何やら酷く必死になって言い募ってくる若手の後輩。こちらはたじろぎながらのけ反り、車中で妙な真似はするなと、相手の華奢な肩を掴んでどうにか元に押し戻す。……とはいえ、予想だにしない答えに一瞬唖然としたのは事実だ。大魔法使いを父に持つこの優秀なヒーラーでさえ、そこまで苦手なものがあるとは。
しかも今回出動するのは樹々が密な森の中、相手が本領を発揮する豪快な戦術は迂闊に使えないだろう。困ったな……というように、一度窓枠に腕をもたれてからため息をつきかけて。しかしふと、「……今何と?」と渦中の娘を隣を振り返る。彼女が仮にもう一度、“本物の碑文を見たことがある”と繰り返してくれたなら。見開かれた青い瞳が、未だ揺れながらも輝きはじめて。)
なあ、ヴィヴィアン。グランポートの時みたいに、失われた錬金術を再現してくれとは言わない。
──が、お前の見たエメラルド碑文の……贋作を作ることはできるか。
(……失われた錬金術を刻み込んだ文献群、秘宝タブラ・スマラグディナ。それは伝説によれば、百を超える碑石によって魔法の神髄を語るらしい。しかしその全てが発見されているわけではなく、また多くの知識人が喉から手が出るほど欲しがるだけに、これまでの歴史上、贋作のエメラルド碑文も数多くつくられてきた。
つまりまともな学徒であれば、まさかまかり間違っても、自分がその贋作を作ろうなどとは思わない。それをこちらも踏まえた上でヴィヴィアンに頼み込むのは、亜人族から例の秘宝を奪い返してみせるにあたり、贋作で奴らを惑わす必要を感じたためだ。元々そんな高度な手は使わず、もっと荒っぽい方法で碑文を探す気でいたが……ヴィヴィアンが囮作戦に協力してくれるなら、予定より早く確実にエジパンス族を捜し出せる。──国境付近の問題が大きくなってしまう前に、事態を収束させられる。
「今夜一泊する宿は、ちょうどガラスの名産地らしい。許可さえ取れれば、材料にする石を掘りだすこともできるはずだ」と。懐から取り出した地図で周辺地形を指し示すうち、つい熱がこもったのか。何ら意識することなく相手に頭を寄せながら、間近な距離で相手を見つめて。)
……おまえほどの魔法使いなら、まともな学者が気づけるように、贋作としての証拠をこっそり刻み込めるだろ。
頼む、手を貸してほしい。
任せ……えっ、………………
( 失われた錬金術を再現しろとは言わないという約束に、ほっと安心する一方で──もっと頼ってくださってもいいのに、なんて恋する乙女の複雑さを楽しんでいた報いだろうか。古代魔法を再現するより難しいことなどなかろうと、危うく安請け合いしかけた言葉を反芻すると、返す言葉もないといった調子で絶句して。
タブラ・スマラグデイナの贋作を作る……? よりによって、魔導学院の一学徒である自分が? その発言の衝撃たるや、一瞬もう既に自分が現役の学生で無いことをビビに忘れさせる程。尊敬しうる上司たっての頼みだろうと、これまでヴィヴィアンが培ってきた価値観の中では絶対に、絶対に有り得ない行為で。「だって、」それは先人が積み重ねてきた知識に対する酷い冒涜であり、「でき、……」できるか、できないかという問題ではない大罪だ。「それに」純粋な翡翠と見紛うような材料なんて、と。次々浮かぶ反論を切実な表情に、言葉に、"全て分かっていて頼む"と否定されてしまえば、相手の懸念する"最悪の事態"を想像できるからこそ、心底困り果て俯いて。
このまま秘宝が見つからなければ、ガリニアのなんの罪もない民に対する簒奪は収まらず。最悪の結果、隣国との国際問題、そして戦争となってしまえばより多くの人々の命が脅かされるだろう。それでも、歴史上の暗君は、進んで祖国を亡きものとしたろうか。否、寧ろ目先の被害を最小限に食い止めるべく、書の一冊を燃やす蛮行に及んだ歴史の登場人物を、自分はこうはなるまいと、青春の砌に学友達と確認しあった記憶はまだ若く。やはり魔導学院に育まれた人間として、いくら相手からの頼みだって叶えられない。そう震える唇を噛み締めて、ぐっと顎の下の筋肉を逸らせばしかし、その表情が鋭く勇ましかったのは、俯いていた顔を上げる直前までだった。
次の瞬間、揺れる馬車の中に響いたのは、ひゃあともきゃあともつかない悲鳴。眼前に迫る美貌に座席を揺らして仰け反れば。人間、圧倒的な美を目の前にすると、思考どころか上手く呼吸さえ出来なくなるもので。──格好良い、好き、褒められた、嬉しい、好き、助けになりたい、etc. ──かあっと頭がのぼせ上がり、冷静な思考は為す術もなく干上がっていく。神の造りたもうた生物の美しさを前にして、人間の叡智など取るに足らないものに見え、土属性の魔法一つ使いこなせない矮小な己が、歴史の大義を振りかざすなんて烏滸がましいにも程があるのでは無かろうか……? と、その思考を狂わす絶景から少しでも距離をとろうと、細い両腕を前に回して胸の前で拳を震わせるも。「でも、でも……」と、最早意味の無い抵抗を試みること数秒間。更に惨いとどめを刺されたか、それとも真摯な視線に射殺されたか。どちらにせよ、哀れ恋する乙女はぐったりと白旗をあげたのだった。 )
──……何日、……どれくらいの時間があれば、本物を取り返すことが出来ますか?
( そうして、せめてもの落とし所として受け入れたのは、時間制限ありの偽装魔法。一定時間経過すると魔法が解けて元のガラス板に戻るそれならば──と。今のガリニアの民が危険に晒されている状況も問題だが、あちらはトランフォードを含む大陸中の学問の中枢を担う総本山。そちらの秘宝である遺物をまた、トランフォード人であるビビが偽造することの、ナショナリズム及び精神構造的な問題も説明して。 )
お前だけが頼りなんだ、
(酷く驚いた様子の相手に、しかし真剣そのもののこちらは顔色ひとつ変えることなく。ひた向きな熱い視線で相手を焦がしていたかと思うと、振り上げられた細い手首を武骨さ極まる掌で捕らえ。ごく優しく握り込み、やんわり下ろさせてしまえたのは、こちらが上手く導いたのか、はたまた相手の娘の力が抜け落ちてしまったせいか。とにかく再び目と目を合わせて、もはや駄目押しの囁きを。──そうして相手が降参すれば、わかりやすく目元を緩め、穏やかに感謝を述べて。
とはいえ相手の言うとおり、例の碑文の贋作は、そもそも製作すること自体が倫理的に大問題。限られた時間の中でのみ使えるようにすべきだろう。真面目な顔で頷けば、「そうだな……」と顎に手を当て、思案を巡らせることしばし。ふと下げていた視線を上げて、もう一度相手を見ると、よし、というように顔色を凛々しく変えて。)
──三日だ。三日後の日没まで。
それだけあれば事足りる。
(──さてはて。デレクとカトリーヌのパーティーが幾日探しても見つからぬ、魅惑の幻・エメラルド碑文。それをこの手に取り返すまで、わずか三日で足りるなど、ギデオンの出した答えはまるで無謀もいいところだ。しかしこのベテラン剣士は、後輩ヒーラーの仕事の腕を心から信じ切っていた。ヴィヴィアンなら絶対に、今回のクエストを大いに前進させるほどのモノづくりをしてくれると。
それに相手の協力を得るなら、やはりその三日程度が精神的に上限だろう。元より無理を頼んでいるのはこちらのほうであるのだし、ならば相手に任せる分だけ、こちらがどうにかするべきなのだ。そうしっかり腹をくくって、「詳しい作戦は、今夜の宿に落ちついてからにしよう」と、一度話を切り上げる。馬車が途中駅に停まって、乗客が増えてきたからだった。
それからの道中は、深い森を幾度か過ぎて、当然道も険しくなった。その際、掴むものもなく揺れるヴィヴィアンの肩をそれとなく抱きかかえ、「しばらくは我慢してくれ」と言ってそのまま支えつづけていたのは、どうやら相手の協力を引き出せたことで、想像以上に機嫌が上向き、相手を手助けする思いがいつもより増していたせいらしい。……静かな車中、ごく寛いだ様子で車窓なんぞを眺めているのは、はたして朴念仁という語で収めていい範疇だろうか。
──それからさらに数時間後、その日の宿の女将に魔法鍋や薪の類いを借り受け。宿の裏手にある一角にようやく姿を現した時も、いつもよりやや気さくな様子で。)
……どうだ、材料は足りそうか。
鉱石が足りなければ、もう辺りも暗いから、俺が調達してくるが。
……三日、わかりました。
( ──まったく、この澄んだ美しい薄青い目には、哀れな娘の様子が、少しでも映って無いのだろうか。可哀想に耳の先まで赤くして、これでもかと分かりやすく白旗を掲げて見せているというのに、追い打ちとばかりに残酷な笑みを見せたかと思うと、その手を離さないギデオンに、「約束ですからね!」と続けた表情が苦々しかったのは、何も問題の偽造行為への罪悪感だけではなく。極めつけには、険しい森を進む道中、さも当然の様子で回された腕に──ワタシ、学ンダ、この人を調子付かせたらダメ、と。往年の遊び方は風の噂で存じているが、決してビビの好意を利用しようと自覚している訳では無いのだろう。しかし、まるで親戚の娘にそうするような気安さは、仮にも熱心なアプローチを繰り返している娘に対して、あまりに無配慮というものでは無かろうか。これで──……本気になった、っていったら困った顔をする癖に! と、言外に未だ本気じゃないと自覚していること自体に、自分でも気がついているのかいないのか。出来るだけ相手の温もりを意識しないよう、華奢な身体を縮こまらせれば、件の集落にたどり着くまでの道中は、やけに静かに過ぎていったのだった。 )
──……っ、ありがとうございます。
でも大丈夫、お陰様で十分ですわ。
( さて、道中あんな惨い目に合わされたのだ、不意の返答に少し棘が立つくらいは、どうか許されたいところ。碌でもない経緯で折れたとはいえ、約束は約束、仕事は仕事だ。それまでテキパキと調合の準備を進めていた身体を、ギデオンが姿を見せるなり強ばらせ、毛を逆立てた猫のようににばっと距離をとったかと思うと。「あ、でも、この件が解決したら、なにかご褒美があってもいいですよ? 例えばデートとか、」と、露骨に好意を滲ませるのは、さしずめフシャーッと怒気を滲ませた威嚇といったところだろうか。 ──私は、いつもあなたに迫って困らせている小娘ですよ、と。本人すら無意識な言外の主張を正確に読み取るか、それとも言葉通りに受け取っていつも通りに困惑するか。( 若しくは、更に一枚上手な相手に、上手く宥められでもしたかもしれない )どちらにせよ。やっと普段の距離感を取り戻せば、腰の袋から熟れた手帳を取り出して。これから作ろうとしている物の説明と、今後の作戦相談を。 )
タブレットに記すのは、この一章……マテリア・プリマの節にします。
これ自体は別の……初めて発見されたタブレットの文言ですから、分野の者なら学生だって分かりますけど、エジンパス族は中身には興味が無い……ですよね?
……それで、これを使って、一体どうやって本物を取り返す作戦なんですか?
(相手の何やら構えた態度に、最初のうちは呑気なことに不思議そうにしていたが。相変わらずちゃっかりとその気を混ぜ込まれようものなら、一度目を瞬いてから「は、」と呆れたため息を。──それでも仕方なさそうに、「……労いって名目でなら、美味い飯には連れてってやる」と、相手への謝意と期待の両方を込めて言い足し。的確な対応と訝しげな問いに鷹揚に頷けば、近くの切株に腰を掛け、大鍋の薪を取り出して。)
お前の言うとおり、連中は碑文の中身には興味がない。
ただ、他人が価値を置くものを手に入れて悦に入りたいだけだ……だからそいつを利用する。
(──碑文の遺失騒ぎを起こした、盗人亜人・エジパンス族。曰くかれらには、“他人の財産に欲情し、盗んだ獲物に魔素のマーキングを施す”という独特の習性がある。その連中の目の前に、同じエジパンス族の内ではまだ誰も手にしたことのない、完全にまっさらなエメラルド碑文を突き付ければどうなるか。──他の氏族が散々奪い合ってきた人間族の秘宝、その姉妹石でありながら、未だ手つかずの……いわば“処女”にも等しい一枚。所有欲の激しいエジパンス族の連中は、必ず惹きつけられるはずだ。
一部の喩えを取り換えてその考えを説明してから、「ならばそいつをくれてやろう」と、いよいよ作戦の本題に入る。明日の昼、馬車が襲われた辺りの森をヴィヴィアンと歩き回れば、財産狂いのエジパンス族は、必ずこちらを様子見しに来る。その時に贋作をちらつかせてみて、マーキングもないそれに強い反応を示すなら、それは必ず“本物”を所有しているエジパンス族だるう。そうして標的に定めさせたら、後はその晩の野営で、わざと隙を晒しながら寝入ったふりでもすればいい。こちらが手間をかけずとも、エジパンス族の方から近づき、贋作を巣へと持ち帰る。──その贋作に相手の使える追跡魔法をかけておけば、本物の眠る隠し場所も突き止められるというわけで。
馬車でも見せた周辺地図、それを懐から取り出して史料として渡しながら、右手は大鍋を持ち上げて、相手の構えた簡易竈の組み木の上に持っていこうと立ち上がる。だがしかし、二、三歩歩いたその先で、不意によろめいたかと思えば、ガランと大鍋を落とした右手、それを力なくぶら下げながら、咄嗟に肩を抑え込んで。)
あの辺りの森は、夜光草が豊富なわりに強い魔獣がいないからな。本物の回収は問題なくできるだろう。
だから実行は明日から明後日、伸びたとしても明々後日まで、には……っ、
……贋作を囮にする、ってことですね。
( 伝説の宝を探す大冒険に、黒幕には知る人ぞ知る秘密結社、そうして仕事の後には苦労を労い合う仲間との一杯──それってなんだか、すごく、すごぉぉぉっく冒険者っぽい……!! と。デートなどよりよほど目を輝かせて真剣に、相手の語る作戦内容に尊敬の念を顔に浮かべ、その内容を手帳へと書き留めようと視線を落とした時だった。ガラン、と金属製の質量がそれなりの高さから落ちる衝撃音に、何気なくそちらを振り返れば。肩を押えて蹲る先輩に、「ギデオンさん!!」と、一も二もなく駆け寄って。
そうして、まずは原因である闇の魔素を取り除くため、取り急ぎ孤島の砂浜でも披露した回復魔法で応急処置的に蹴散らすも何かがおかしい。結局件の数日前こそついに逃げられてしまったのだったが、翌日ギルバートの返答を報告に行った時には、レイケルの魔素の進行はここまで進んでいなかった筈で。だからこそギルドのドクターも、出動許可を出したのであり、その後の経過はビビもしっかりと確認している。にも関わらず、今この状況に有無を言わさず赤シャツの胸元のボタンへと手をかければ。──身体を蝕む悪意の魔素、その進行速度は宿主の体力に大きく左右される、と。考えうる中で一番可能性が高い原因に想いを馳せれば、その返答次第では相手が現場に立つことを、担当治療官として否定する判断を無常に下さねばならないだろう。 )
ギデオンさん──正直に答えてください。
この件が発覚してから……一週間くらいでしょうか、その中でまとまって5時間か、それ以上の休息をとった日は何日ありますか?
……ずっと、内勤だったんだ。毎日休んでたようなもんだろ……
(切株に背を預け、うら若いヒーラー娘に大人しく服を剥かれて介抱を受けながら、いかにも捨て鉢な呻き声を。これが暴論に聞こえることは、こちらも渋々承知している。だが剣士の己に言わせれば、素振りもせずにただ大人しくする日々こそが拷問で、せめて自分が抜けた分の穴埋めでもこなさなければ、気が休まりそうになかった。……とはいえ、「もっと具体的に」とヒーラーに請われたならば、一瞬押し黙ってから、薄青い目を露骨に逸らし。「持ち出せる書類は全部自宅に持ち帰ってた」、「日中まともに疲れないから、一日四時間も眠れちゃいない」と。要するにこのところ、相手の思う休息など一日たりとてとれていないと、ここでようやく認めたものの。)
余計な心配はしないでくれ。
──元々不眠の気があって、ドクターの出す睡眠薬も碌に効いたためしがないんだ。
(さらりと告げたその台詞は、相手に初めて打ち明ける、自分自身の弱みのひとつだ。──冒険者ギデオン・ノースは、元からこういう生活だった。十年ほど前、一睡もできない日々が長く続いていたせいで、それが随分和らいだ今も、そう長くは眠れない。だから無理に仕事を詰めて自縛したわけではなく、休もうと思っても休めない体質なのだと。それなら余程、無為に過ごすより何かした方が有益だ、それを否定しないでくれ……と。はだけた襟元から覗く傷の熱が映ったのか、どこかぼんやりした目つきでヒーラーを見るまなざしは、不調への苛立ち以上に、普段なら見せないような、仄かに弱々しくすら見える懇願の色が滲んで。)
……睡眠時間は一朝一夕では仕方ないにしても、こんな状態で現場に出す許可なんて出せませんよ。
( 一体、何がこの人をこうも駆り立てるのだろう。これまでのビビにとって、分別のある大人であれば自己の健康管理などして当然の、むしろ義務に近い認識のものだった故に。カレトヴルッフの剣士として名高い筈のギデオンの滅茶苦茶な発言に心の底から驚くと。まるでその身の破滅を望んでいるかのような言動をするギデオンに、いつか取り返しのつかない事態を招くのではと、件の海上ぶりに、身体の芯から凍えるような恐怖を覚えて。それでも、あくまで冷静なヒーラーとして、相手の懇願に首を振れば。目の前の剣士に背中を向けてしゃがみこんだのは、丁寧な治療の続きを室内で行うため。
果たして相手がその背中へ素直に体重を預けたかどうか、いずれにせよ本日泊まる宿の部屋、備え付けの椅子に先輩を座らせると。首都キングストンよりずっと北方に来た土地で、もう夏も近いというのに、うっすらと冷える室内を暖炉で温め、闇の魔素に効く薬草を手早く焚べると、その火が大きくなるのを待つ間。患者の身体を脅かす夜気をカーテンで断ち切り、清潔な布や薬、その他治療に必要なものをテキパキと用意しながら、相手のその刹那的な振る舞いをどうすれば辞めさせられるか、必死に知恵を振り絞り。必要な準備を終えて相手の元に舞い戻れば、その冷たい拳に少しでも、自分の体温を移そうとするかのように、しっとりと柔らかな両手で包み込み。 )
……ご自分が一番わかっていらっしゃるでしょうが。
もしさっきみたいに動けなくなるのが戦場だったら、動けなくなったギデオンさんを庇うのは誰です?
( そもそもギデオンにこんな不治の大怪我をおわせたのは誰だ。立場上厳しい言葉連ねながらも、その表情や声音には、何の役にも立ちやしない自責の念が滲むのが我ながら鬱陶しく。それでも、幾ら周囲が望んだところで、この人は自分の身の安全を省みてはくれないのだ、と。であれば、代わりに誰かが常に付き纏い、本人の代わりに省みてやらねば、あっという間にこの人は潰れてしまう。それをこの時点ではっきりと認識していた訳では無いが、兎に角この人を放っておいてはいけないという危機感だけで相手にすがりつけば。「私はギデオンさんの仕事の邪魔はしません」と、「むしろ、ドクターよりも、誰よりも早く貴方を前線に立たせて差し上げます」──だから、精々私をたっぷり利用してください。そうして、その言葉通りに手早く正確に治療を済ませれば、救急箱を閉じながら。物凄く言い出し辛そうに述べた提案の真意はといえば。前線で戦う冒険者や軍人達の中で、戦場から帰ってきた後も、数少なくない者たちが不眠や動悸、性格が変わってしまったかのような激情に悩まされることがある、といった話を何処かで聞いたことあったのだ。その多くが恐らく高ストレスに晒された精神的な負担からくるもので、画一的な根本治療までは誰も研究していないものの、動物や植物……そして他の人間との触れ合いによって一時的な改善が期待できる可能性がある、という対処療法も。果たして、そんなうろ覚えの知識と、往年の相手に纏わる聞きかじった噂から導き出した提案だったが。要は、それを遠回しに口にするだけで、頬を赤らめる娘に、商売女を利用することを仄めかされて、ギデオンはどのように反応するだろうか。 )
あとは私が贋作を作る間、ちゃんと意識して休息をとってください…………眠れない……んですよね。
それって、もし……その、寝る時にどなたかが近くにいた方が、良い、とかでしたら……
その、お金で……いえ、その。"そういった方"を呼ばれたりしても、軽蔑したりしませんから……
(よくできた後輩からのご尤もなご指摘に、大人しくため息をつき、素直に治療に身を委ねる──そこまではまだよかった筈だ。しかし問題はその直後。傷の痛みもすっかり和らぎ、つくづく相手は優秀だと感謝の念を覚えながら薬茶を啜るところへ、ともすればあのヘルハルト・レイケルよりよほど容赦なき一撃を叩き込んでくれたのが、またしてもそのヴィヴィアン・パチオで。
これを受けたギデオンといえば、がふっと派手な勢いで咳込み、そのまま唖然としたまなざしで相手の方を振り返る。“わかってますから”、“だって男の人ですもんね”……そう言いたげに赤面など覗かせているこのおぼこを前にして、どうして迂闊に聞き捨てられよう。ガン! と割りかねぬ勢いで茶の器を机に叩きつけ、片手で頭を抱え込むと、耐えかねたような呻き声を絞り出すような有り様で。)
~~~っ、お前、この状況で俺がそんなことをする大馬鹿野郎に見えるのか……!
(……さてはて。魔導学院卒であるヴィヴィアンは、しっかり目敏く気づくだろうか。そう、この男、「この状況で」と宣うあたり──そういった“治療法”について、身に覚えがないわけではないのだ。
この時代のこの国において、冒険者と娼婦とは、非常に密接な関係だ。ギデオンが少年時代を送っていたゼロ年代のギルドなど、クエスト帰りの冒険者が街で贔屓の娼婦を買うのは今より遥かに常識だったし、それは寧ろ男としての“嗜み”であるのだと、そう大真面目に教わるような一種の文化さえ蔓延していた。……これは浅ましく下劣な欲も大きいが、しかし非常に差し迫った実情が混じっていないこともない。今は魔法医が処方してくれる抑制剤が生まれる前、女を買うのは正しく自己管理と言えた。自分の身に生まれる欲を日頃から上手く発散しておかねば、狩らねばならぬラミアやダーム・ヴェルトゥに魅入られ、愚かな殉職を遂げてしまう冒険者が数多くいた。そしてまた、男が常に強いられる凄惨な現場の後には、自分の心をまともな場所へつなぎ留めておくために、女に実存の救いを見出す──そのいっときだけを求める──必要にも駆られてしまいがちだった。多くの男はその苦しみの自覚自体ができておらず、故に社会もまだ見つけていない。ただ女に手を伸ばせば和らぐということだけを、当事者たちが知っていて……そうして連綿と続いてきたのが、冒険者と娼婦の共依存的な関係というわけだ。
しかし今はもうすっかり、5030年も間近という時代である。あの当時に比べれば、社会も倫理も討伐技術もいくらかは進歩しており、例えばバルガスやカーティスのように、女を買う文化圏に寄りつかない青年の方が増えてきている(マルセルとフェルディナンドが先輩風を吹かすつもりでバルガスを花街に誘い、まっとうにドン引きされて寧ろ威厳が吹き飛んだ一幕、あれは三年ほど前だったろうか)。それに応じて、このギデオン・ノースもまた、昔の時代に生まれ育った古い人間でありながら、変わりゆく社会常識を多少取り入れてきたつもりだった。──だからこそ、居た堪れないのだ。
異性の、それもまだうら若い後輩にその辺りを気遣われるのは、脳天に巨人の一撃を喰らうほうがまだマシというものだ。加えて言えば、相手は先代マスター代理・ギルバートの娘であるし、今はこうして庶民的に冒険者などしているが、家系図を辿ればガリニア貴族の血を引くらしい、社会の上澄みのお嬢様である。何故そんな娘っ子が、“ギデオンのような年代の男なら、そういう必要もあるだろう”などと。──それどころかこの口ぶり、俺が昔はそういう店を使っていたと知っていて……いやまあ、こうして汗臭い男社会でしっかりやって来ている以上、そりゃどこかでは聞き知るだろうが……。ここまでやたら堪えているのは、相手が地味に「軽蔑しない」などと口走ったからでもあった。それは裏を返せばつまり、本来のヴィヴィアンは、同年代のバルガスと同じ、今の時代の倫理感覚を宿している娘ということ。──あのろくでなしの後輩コンビ同様に、今この瞬間ギデオンの威厳もまた、自覚なき乙女によって粉々に打ち砕かれ、満身創痍というわけで。)
……誤解されるような状況は、こっちもたまったもんじゃない。だいたいな、ただでさえ上官の俺が、おまえをひとりで屋外作業にあたらせるわけがないだろう。
(疲れた顔をようやく上げると、立ち上がりながら器を手に取り、部屋の水場で軽く洗う。そうして相手に返しながら、有無を言わせぬその言い草で相手の瞳をじっと見るのは、俺は俺なりにちゃんと嬢歩する──だから絶対譲らないぞと、こちらもまなざしで物語るためだ。贋作の錬成に魔法火を使う以上、相手は宿の室内で続きをするわけにいかないし、かといって間もなく夜が来るこの時間に、若い女をたったひとりで外にいさせるわけがない。ならせめて、傍で仮眠を取りながら用心棒を兼ねるくらいはさせてもらおう。これは決定事項とばかりに、背嚢から毛布を取り出し、外に戻るぞという身振りを示し。……相手に何を言われようと、その構えを解かないのは、相手がこちらを案じるように、こちらも相手を案じるからだと、今一度真剣に見つめて。)
生意気を言う前に、自分のことも心配しろ。
お前はもうこっちを治して、自分の仕事を果たしてる。なら戦士の俺にも、それなりの……最低限の働きをさせてくれ。
──ふたりきりのパーティーだろう。
っ、……ご、ごめんなさい……?
( 貴重な白磁が木製のテーブルを打つ剣呑な音。そして、目の前の男が珍しく必死に言い募る剣幕に、どうやら間違った提案をしたらしい、ということは認識しつつも──"この状況"って、状況によるものなの? と。むせるギデオンの弁明を、実質、"今では無いが、ことと次第によっては有り得る" といった宣言として受け取れば。年上男の涙ぐましい価値観のアップデートも虚しく、あまりの勢いに小さくのけ反り、目を白黒させる娘の中で、哀れベテラン剣士の前時代的なイメージがここで刷新されることはなく、これから数ヶ月後の秋の夜、犬も食わない一騒動を起こすのは別のお話。現時点ではそんな幻滅する可能性さえ孕みこそすれ、プラスの評価になることではなかろうに、自分でも気が付かないうちに完璧では無い、不安定な危うさを抱える相手から目を離せなくなっていったのはこの頃からだったのかもしれない。 )
…………そこまで仰るなら。
( そうして、「本当に、どこもお辛くないんですね?」と、相手の真剣な眼差しに今度はこちらが根負けすれば。その渋々といった表情からは──屋外って言ったってすぐそこの庭先なのに、といった不満がありありと読み取れるあたり、結局お互い自分の大切に仕方を知らない似た者同士なのだ。
重い素材の詰まった木箱を、強情な相手と取り合いながら庭に戻り、試作も含めて様々な調合を試すこと複数回。やっと納得のいった調合に、コトコトと良い音を立て始めた鍋を確認し、少し離れてギデオンの隣にそっと静かに腰掛ければ。普段の就寝時間を大幅に廻った時間帯、オレンジ色に染まった顔を、揃えた両手でお行儀良く隠すと、これまた無音でくぁりと小さく欠伸して。 )
……、
(宿の外壁に取り付けられた木の長椅子に横たわり、魔剣の柄に手をかけたまま、ひとまず目を閉じておくことしばらく。……だがしかし、このところ強張っていた右肩の傷が癒えたからか。或いは相手の立ち働く音に、どこか菱木な懐かしさのある安心感など覚えたせいか。いつしかかすかに気の抜けた顔で素直にとろとろ眠っていたのは、思えばこの娘の前では初めてだったかもしれない。
しかしそれでも、耳馴染みの良い作業音がふとやんだのに気が付けば、薄色の睫毛を震わせながら目を開けて。最初に横の焚火、それから他方へ顔を巡らせ、一休みする相手を見つける。──王都から長旅の後、短い休憩を挟んだだけで小道具作りを任せていたから、あのヴィヴィアンも流石に疲れてきたのだろう。そんなことを考えながらも、数秒ほどただぼんやりとその様子を眺めているのに、果たして気づかれたかどうか。ともかく、目頭を軽く揉みながらようやくのっそり起き上がれば、低く掠れた寝起きの声で話しかけ。)
悪い……おかげで助かった。
……そっちも、一段落ついたのか。
(辺りの闇に、パチパチと火の粉が爆ぜる──それ以外はごく静かな宵。相手の錬成する魔法液がゆっくり煮えるのを待つ間、相手の報告に頷きながら、「寒くはないか、」「小腹は、」などと、ぼんやりしたまなざしのまま、とりとめのない言葉をかける。いつもの己らしくもなく、起き抜けのぼんやりとした感覚がまだ抜けきってくれないせいだ。まあでも、相手にはそう隠さずともいいだろうか……などと考えながら話していると、不意に宿の外から歓声。そちらに顔を向けてみると、どうやら賑やかに聞こえてくるのは、こんな夜更けだというのに、村の向こうからやって来た祭囃子の一隊らしい。)
……牛追い祭りの前夜祭だな。
南部の本格的なやつほどじゃない、小規模なものらしいが……
こっちのは……美味い牛飯が……出ると聞く……
(宿の外壁に取り付けられた木の長椅子に横たわり、魔剣の柄に手をかけたまま、ひとまず目を閉じておくことしばらく。……だがしかし、このところ強張っていた右肩の傷が癒えたからか。或いは相手の立ち働く音に、どこか不思議な懐かしさのある安心感など覚えたせいか。いつしかかすかに気の抜けた顔で素直にとろとろ眠っていたのは、思えばこの娘の前では初めてだったかもしれない。
しかしそれでも、耳馴染みの良い作業音がふとやんだのに気が付けば、薄色の睫毛を震わせながら目を開けて。最初に横の焚火、それから他方へ顔を巡らせ、一休みする相手を見つける。──王都からの長旅の後、短い休憩を挟んだだけで小道具作りを任せていたから、あのヴィヴィアンも流石に疲れてきたのだろう。そんなことを考えながらも、数秒ほどただぼんやりとその様子を眺めているのに、果たして気づかれたかどうか。ともかく、目頭を軽く揉みながらようやくのっそり起き上がれば、低く掠れた寝起きの声で話しかけ。)
悪い……おかげで助かった。
……そっちも、一段落ついたのか。
(辺りの闇に、パチパチと火の粉が爆ぜる──それ以外はごく静かな宵。相手の錬成する魔法液がゆっくり煮えるのを待つ間、相手の報告に頷きながら、「寒くはないか、」「小腹は、」などと、ぼんやりしたまなざしのまま、とりとめのない言葉をかける。いつもの己らしくもなく、起き抜けのぼんやりとした感覚がまだ抜けきってくれないせいだ。まあでも、相手にはそう隠さずともいいだろうか……などと考えながら話していると、不意に宿の外から歓声。そちらに顔を向けてみると、どうやら賑やかに聞こえてくるのは、こんな夜更けだというのに、村の向こうからやって来た祭囃子の一隊らしい。)
……牛追い祭りの前夜祭だな。
南部の本格的なやつほどじゃない、小規模なものらしいが……
こっちのは……美味い牛飯が……出ると聞く……
……牛追い祭り?
( ギデオンがその単語を発した途端、それまで淡々と順調な進捗報告をしていた後輩の瞳へ、あくまで真面目に、けれど持ち前の好奇心が隠せていない煌めきがあどけなく滲む。トランフォードではキングストンの建国祭、南部オーツバレーの牛追い祭りとまで言われる程の規模を誇る祭事ではあるが。物心ついて間もなく禁欲的な学院に入学した娘にとって、それは本の中でしか触れたことの無い知識であり、したがってその憧憬は初めて参加する子供たちらと何ら変わらない純朴なそれで。毎年怪我人が続出するにも関わらず、陽気な市民が熱狂するお祭り。その一番定番の催しが終わったあとも、人々は艶やかに装い、街の仲間たちと一晩楽しく踊りあかすという──もしかして、ギデオンさんは現地で見た事があるのだろうか? "牛飯"ってどんな味なんだろう? もし相手から見たいのかと問われれば、明日以降の仕事の責任の重さを承知しているが故に、非常に強く固辞するだろうが。お行儀よくベンチに座ったまま、まろい頬をじゅわりと瑞々しく紅潮させ、賑やかな行列に向けるキラキラとした眼差しは無自覚だったのだろう。 )
わぁ……いいなぁ……
(相手の漏らした呟き声があまりにあどけなく聞こえ、思わずふっと笑みながら薄青い目を投げかける。シルクタウンの帰りの馬車でも思ったが、ヴィヴィアンのこういうところは見ていて非常に好ましい。歳を重ねれば重ねるほど無垢から程遠くなるだけに、若い人間の見せるそれにはつい癒しなど覚えるのだろう。……だがしかし、焚火に明るく照らし出された娘の顔をいざ眺めると、そんな愉快な面差しは、ふと静かに消え失せた。ヒーラ娘のまなざしは、どこまでも混じり気のない煌めきに満ちていて……それが何故か、ごく穏やかに、いたましいと感じたからだ。
──北の辺境で生まれ育った、浮浪児上がりのギデオン・ノースと、華の王都で生まれ育った、名家令嬢のヴィヴィアン・パチオ。たまたま同じギルドで働いている自分たちは、思えば年齢だけでなく、実は身分も随分違う。だがそれでも、国内の祭りをあちこち覗く楽しみは、若い時分に貧乏だった自分の方がたっぷり馴染みきっていて……反対に富める彼女には、ああして遠く眺めるような憧れの世界らしい。厳しい学院をとうに出て独り立ちもしているのだから、実際に行こうと思えば、自由気ままに行けるだろうに。或いはやはり、多忙な仕事の合間を縫って女の身で動くには、何かと不自由するのだろうか。……それとも、“そこに行ってはいけない”という大人に言いつけられた教えを、今もどこかで無意識に、従順に守るせいだろうか。
そんな風に考えたから、最初のそれはただ純粋に、己の後輩を可愛がってやりたいという、下心なしのものだったはずだ。「ヴィヴィアン、」と声をかけ、相手がこちらを見たならば、先に予備動作で予告してから、小さなものをぽいっと放る。──腰袋から取り出したそれは、碑文探しに旅立つ前にギルドの事務から御裾分けされた、包み紙入りの薬飴だ。何でも疲労回復の効能があるとかで、このところやつれていたギデオンを気遣ってのものらしい。とにかく、自分の分も口に投げ入れ、しばらく甘味を味わっていたが。やがてコロ……と転がしていた飴をとどめて、軽く噛み砕いてしまうと、皮革の水筒に手を伸ばしながら、何てことのないように誘って。)
この辺りの郷土料理は、俺も恋しかったところだ。タブレットを回収出来たら……ちょうどいい、付き合ってくれ。
祭はしばらく続くから、終わりがけの手頃な屋台にありつくくらいはできるだろう。
──!
ありがとう、ございます?
( 自分が舐めるついでの気遣いか。ヴィヴィアンにとっては、唐突に投げよこされたように感じる甘味を軽く両手で受け止めると、相手に習って口内に含む。そうして、コロコロと人前で白い頬を膨らませることすら恥ずかしかった時代があることなど、ギデオンには信じられるだろうか。カレトヴルッフに飛び込んで3年間、自分ではずっと世間慣れしたつもりで、何故これまで憧れの祭典へ赴かなかったのかと問われれば。結局、自分にもその権利があると、その発想さえなかったと答えざるを得ないのだから仕方がない。そうして、薬飴の優しい甘さと薬草の香りを楽しむこと暫く、この時はまだ子供扱いに過ぎなかったギデオンの提案に相応しく、素直に目元を見開くと。「わあっ、本当!? いいんですか?」と、片方膨らんだ頬を無邪気染め、満面の笑みを綻ばせれば。 )
それじゃあ益々早く見つけなくちゃ!
( 「ギデオンさん大好き!!」そう元気いっぱい立ち上がったこの頃は、そう遠くない未来、こんな些細な飴では決して満足出来ないほど、自分が相手から目を離せなくなっていくことなど微塵も予想だにしていなかった。
そんなやり取りから、かれこれもう丸一日近くなる。乗合馬車の路線などとうになく、対魔獣用に特別に装備を施した荷台は、普通のそれに比べて倍以上の速さが出る代わりに、乗り心地はお世辞にも良いと言えるものではなく。ビビはと言えば、最初こそピンと元気よく背筋を伸ばし、向かいのギデオンと今回の作戦について真剣な表情で話し合っていたのだが。カダウェル山脈が次第に近づいてくるにつれ、いよいよ本格的になってきた悪路に、紙より白くなった唇を緩慢な動きで抑えると。相棒の許可を得て外の空気を吸おうと、小さく幌を開けた瞬間だった。夕焼けの空にかかる壮大なアーチ、巨人の肋骨に例えられる大コスタ。その知識としてだけは持ち合わせていた、かつて始まりの冒険者たちが踏破した大自然に息を飲むと──ガタンッ、と、一際大きな振動に、為す術もなくころんと後ろにひっくり返り。 )
──……すご、い! これが…………ギデオンさんも見、ひゃっ!?
ッ、おい、気を付け──……
(外から差す陽に照り映える、あどけない娘の横顔。それを見てくれこそ気怠げにじっと眺めていたものの、突然の揺れに目を大きく見開いたのは、ギデオンもまた同じ。──それでも、籠手付きの手を咄嗟に伸ばして娘の頭をどうにか支え。そのまま床から抱え起こす……かと思いきや、その両頬を包み込むようにして後ろから上向かせ、睨むようにして覗き込む。こちらの座席の鋭い角に頭を打ちつけでもしていたら、いったいどうするつもりだったのか。そんな、思えばこの頃から発動していた過保護気味の心配から、剣呑な声を落としたものの。その気配をふと掻き消して馬車の前方を振り向いたのは、馬車が急停止すると同時に、声が聞こえてきたからだ。「ああっ、まずい──止まれ、止まれ!」と。)
(──結論から言うと、幌馬車での旅路はそこで一旦中止となった。先ほど馬車が大揺れしたのは、巨木の根を回り切れずに勢いよく乗り越えたからで、このとき、巨木に絡んでいた寄生植物の太い蔓が、車体の下の複雑な車輪に巻きついてしまったらしい。そのせいで、頑丈なはずの車輪の一部が大きく歪んでしまったとか。帰路での事故を避けるためにも、蔓を慎重に切り離すほか、車輪の部品を新しく替える必要があるそうだ。
それならそれで構わないと、幌馬車の御者と護衛は、この近場の集落にしばらく置いていくことにした。どのみちこの一帯がエジパンス族の住処のはずだし、馬車の入れない鬱蒼とした森林には、冒険者である自分たちだけで分け入っていく必要がある。かれらと一度別れると、ヴィヴィアンとふたりきりでもう一度森に戻った。日が落ちるまであとわずか……野営を構えるその前に、この辺りの様子のことは少しでも知っておきたい。)
(──がさり、がさりと、蜜に絡んだ下生えを踏み分けて、緑の斜面を登っていく。戦士装束に身を包んで遠い山林に繰り出すのは、実に二週間ぶりだった。たかが半月、されど半月……特にこの数日を思えば、自分自身が現地に出て自由自在に行動できる、これの何と喜ばしいこと。腰に下げた魔剣の重み、そして肺にたっぷり吸い込む森の大気は、こんなにも心地良くしっくりくるものだったろうか。
ベテラン戦士のあるべき姿として、大コスタに近い森を慎重に見渡しつつも、普段は澄ました薄青い目は、どこか生き生きと、少年時代に初めて遠征に出た時のように揺れ動き。時折相手を振り返って声をかけるその響きにも、どこか寛いでいるような、のびのびした気配が乗って。)
……、気になる薬草を見つけたら、好きに採集するといい。集落の許可はとれてるし……お前も土産が欲しいだろう。
…………!
( 獣道すらない原生林を、数歩先に行くギデオンに促され、初めてその広い背中と横顔に、自分が見蕩れていた事に気が付く。いくら歴戦の勇士と云えど、必要性がなければ危険な前線より安全地帯を好むのが、生き物としての人間の性ではなかろうか。それが目の前の男ときたら、人の手が及ばぬ魔獣共のテリトリーに怯むどころか、ごく自然にギルドの会議室にいた時より、よほど強い生気に満ち溢れる様子を目の当たりにして──これが、この人が、冒険者ギデオン・ノースなのだ、と。思わず瞳を奪われたのは、この数ヶ月"ハマって"いる戯れとは関係の無い素直な畏敬だ。そんな深い緑を取り込んだ薄青を此方に向けられて、一瞬驚いたように目を見開き、無言で唇を震わせれば。 )
……いいえ。私も──いえ、目の前の仕事に集中させてください。
( "私も、貴方のようになりたい"と、唐非常に突な、そして口にするのも烏滸がましい目標を飲み込み、改めてぐっと引き締め直すと。もしその様子を不思議そうに見つめられれば、「お土産でしたら、帰った後ギデオンさんがしっかり休んでくだされば十分です」と、小首を傾げる仕草こそ可愛らしくも強かに、当初の要望を強くねじ込むことも忘れずに。
そうして当初の計画通り、エジンパス族の森を何処か目的地でもあるかのように歩き回ること暫く。ビビがその違和感に気がついたのは、森の精霊たちがにわかにざわめき始めた時だった。そもそも植物性の精霊は概して警戒心が強いにも関わらず、この森では侵入者であるヴィヴィアンらの足音に、興味津々で近づいては時たま木陰からぴょこりと顔を出す者まで。つまり、普段彼らを脅かす木こりが入って来れない人ならざるものの領域で、その鈴を転がすような笑い声がピタリと止んだのを感じ取れば。果たして、尊敬する相棒と目を合わせたのはどちらからだったか、 )
──……ギデオンさん。
──……“この辺りみたいだな”。
(魔力の豊富な相手と違い、ギデオンの目に精霊は視えない。それでも森の気配が変わり、かれらとは違う何者かに囲まれだしたと気がつけば、振り返った薄青い目にいっそ愉快な色すら浮かべ、悠然と一芝居を。盗人亜人エジパンス族は、人間世界に本能的に興味を持つその性質上、人語を解することができる。当然、こちらに忍び寄っては、その会話に聞き耳を立てて注意深く窺うだろう。それを逆手に取ってしまえば、嘘を信じ込ませることだって、こちらにとって容易いわけで。
それからの小一時間、ヴィヴィアンと共に野営の支度を進めながら、無防備な調査隊として、如何にもそれらしい会話を垂れ流しておくことしばらく。ふと懐から取り出した、精巧な“処女”のエメラルド碑文。それを魔法で輝かせれば、やはり周囲に潜む気配に、明らかな動揺が波紋のように広がった。──やはり、当たりだ。心の内では拳を固く握り込みつつ、上辺は素知らぬふりを。「朝になったらこいつの続きを捜し出そう」と……まあこれは、こちら側の本懐ではあるのだが、とにかくそう言い交わしてしまえば、あとはいよいよ寝入る様子を装うだけだ。
今宵のうちに、追跡魔法をかけた碑文をわざとかれらの手に渡らせる。その後を追えば棲みかがわかり、盗み出された本物をこの手にようやく取り戻せる。ギデオンのその計画は、本来ならば間違いなくそのように行くはずだった。しかし、そこには誤算がふたつ。……梢の上の雲間から、神秘的な月明かりが煌々と降り注いだこと。そしてそれに照らされたのが、眠るふりをするヒーラー娘、カレトヴルッフの誇るマドンナ──ヴィヴィアン・パチオだったことで。)
(──こちらを囲む亜人の気配が、何やら……妙なものに変わった? ギデオンがそう察知してそっと薄目を開けた瞬間、ざっと顔から血の気が引いた。月光の差す原生林にて、いよいよ姿を現しはじめた、山羊脚の亜人族の群れ。彼らは何故か、すぐそこに置いてある碑文のレプリカに目もくれず、皆が惚けたような──どこか見覚えのある──顔で、ヴィヴィアンの横たわる方へ、ふらふら吸い寄せられていくのだ。
作戦をかなぐり捨てて魔剣を掴み身を起こしたのと、臆病なエジパンス族がびくっとこちらを向くのが同時。何やらみょうちきりんなポーズで固まったものまでいたが、かれらはすぐに我に返ると、途端に激しくいなないてそれぞれ行動に出始めた。──弓矢をつがえてギデオンに放つ者、ヴィヴィアンの杖を盗んで懐に仕舞い込む者、森の精霊に何やら命じて木の蔦を奮い起こさせる者。どういうつもりか知らないが、こちらの読みが大きく外れ、攻撃されていることはたしかだ。斜面の岩を足場にして矢の雨を除けきりながら、杖を盗んだ一頭に雷魔法を叩き込み、肉薄して奪い返したその大切な仕事道具をヴィヴィアンの方へと放る。話し合う暇はない、今は防戦に出なければ。)
──ッ、受け取れ!
──……はい、
( 亜人族達の気配を察知して、思わず固く表情を強ばらせたビビに対するギデオンの返答は、ごくごく自然な違和感を感じさせないそれだった。首都キングストンの冒険者ギルドで、伊達にその上層部に名前を連ねてはいないということだろう。そのまま自然に会話をしているようで、ギデオンの質問や指示にビビが短い相槌を打つといったやり取りを何往復か──これは、大変な人を目標に持ってしまった。せめて足手まといだけにはならないようにせねば、とへこたれそうになる頭を上げ、気を引き締め直したヴィヴィアンに。しかし、その名誉挽回の機会は思ったよりも早めに訪れたのだった。 )
ありがとうございますッ!!
( 汚い嘶きに飛び起きて、ギデオンがとり戻してくれた杖を受け取れば、「触らないでっ!」と、此方へと躙り寄って来る一頭へ先日ジェフリーにもお見舞した一撃を。しかし、瀕死の悪党を沈めた一撃も、山の亜人には大して効いていないようで、叩かれた頭を掻きながら立ち上がる亜人にギデオンの元へと飛び退くと、その途中で──……やった! と。視線だけで確認したのは、後ろに飛び退るその瞬間、迂闊を装って踵で蹴飛ばした革鞄、そしてその弾みに衆目の下に晒された処女タブラ・スマラグディナの贋作で。そうして、無防備にも世紀の秘宝を慌てて拾いに行こうとした娘を止めたのは、頼りになる相棒か、手癖の悪いエジパンス族だっただろうか。 必死──なのは、手強いエジパンス族を目の前にして演技では無い。尚も色呆けした表情で此方へ踊りかかってくる亜人に対し、己の杖を構え直せば。間を置かせずに詠唱するのは、前衛であるベテラン剣士に対するバフ、腕力、体力に対する増強魔法。それも相手に合わせてカスタムした特別仕様で。転がった"餌"を一頭が懐に入れたのを確認すると、背後の相棒と視線をかわし頷いて。 )
ギデオンさん、援護します!!
──ああ、頼んだ!
(魔剣の柄を今一度強く握り直せば、なみなみと湧き上がる底知れない生命力。ここまでしっくり来るバフは、その道およそ云十年の熟練レベルであるはずで、相手と合わせた薄青い目を、面白がるようにふっと狭める。──ワーウルフ狩り、ファーヴニル狩り、アーヴァンク狩りに呪傷の治療。相手の支援を受ける機会は、これまでたしかに幾度かあった。しかし決して多くないし、己と彼女が組みはじめてから、まだ二ヵ月も経っていない。それだというのにこの娘は、既にギデオンの身体を読みきり、的確な支援魔法を最高効率で寄越してくれる。前衛の戦士にとって、それがどれほど快いことか。
──襲い来る蔦を足場に天高く躍り上がり、月を背に大きく反転、そこから一直線に落下。右手の魔剣の切っ先を稲妻のように閃かせ、力強く着地すれば、こちらを狙って蠢いていたこの森の巨大な蔓が、数秒の遅れを持ってばらりばらりと裂けていく。眺めていたエジパンス族たちに「!?」と走る動揺の波。かれらが皆一様に蹄を一歩下がらせた、その中央で立ち上がるこちらのほうは、まだ戦るかというように軽く不敵な笑みを浮かべて。ここでようやくエジパンス族も、稀代の天才ヒーラーの支援を受けた魔剣使いが、たった単騎でどれほどの脅威になるか、呑み込み始めてくれたようだ。リーダーらしき一頭が大きな震え声で嘶き、皆森の下闇に飛び込んでの一斉退却が始まった。このまま一度逃がしてやってもこちらは問題ないのだが、しかし一応、手持ちの碑文を盗まれたというふりは貫かねばならない。「ヴィヴィアン!」と相手の名を呼び、最低限の荷を回収して共に同じく闇へ繰り出す。
──駆けるふたりを照らし出す、木々の根に茂る夜光草、時折差し込む月明かり。先を行くエジパンス族は小癪なルートを選ぼうとするが、冒険者であるギデオンたちは、そもそも身体能力がそこらの常人と桁違いだ。時折待ち受ける障害ですら、己の魔剣か彼女の杖が容易く無力化してしまうから、こちらを振り向くエジパンス族がぎょっと二度見をするのが見える。それを受けてふっと笑うと、真横の娘にちらりと目を向け、息も乱れぬひと声を漏らして。)
ヴィヴィアン──……楽しいな。
──……!
はいっ!! とっても楽しいです……!!
( ギデオンの発言に一瞬、思わず反応が遅れたのは、その内容があまりに予想外だったからだ。人の領域外れた危険な森で、屈強な亜人と対峙しているとは思えない単語に目を瞬き、そもそもこの件が起こった経緯を考えれば。決して楽しいだなんて言えない──言ってはいけない、不謹慎だとさえ思うのに。ギデオンの言葉を咀嚼するほど、それ以外の言葉で今の気分を言い表すことができず、くしゃりと満面の笑みで頷いて。これは相手に任せたいと思う前に太い草蔓が木っ端微塵に切り裂かれ、これは自分で対処した方が早いと描いた軌道は邪魔されない。相手の呼吸が、鼓動が、魔素の流れが、手に取るようにわかる、まるで自分の何十倍も強く賢い相手が自分の身体の一部になったような一体感といったら。しばらく続いた追いかけっこも終盤、山羊亜人達がほぼ垂直に近い崖を逃げていく様子に、ここらが一旦潮時だろうと脚を緩め。まろい頬を薔薇色に上気させ、華奢な肩を小さく上下させながらギデオンの方へ振り返れば。 )
…………すごい、スゴイすごいっ!!
なんで!? 私の考えてること、ギデオンさん全部ご存知だったんですか!?
グンッてやったらバァンッてなって……気持ち良かったぁ、ありがとうございます!!
( きゃあっとその場で飛び跳ねるヒーラー娘の瞳には、ベテラン剣士への深い尊敬が満ち溢れ、未熟な自分に相手が合わせてくれたのだろうと、まず微塵も疑わない様子で栗色の尻尾を振りたくれば、擬音過多な感動を爆発させ。そうして、尊敬する相手に改めて、自分も役に立たねばと目を細めれば。深い懸崖の下、鬱蒼と茂る森の中でも、事前にかけておいた探索魔法の魔素が辿れることを確認すれば。今後の作戦を確認しようと、再度ギデオンの方を振り返り。 )
まずはあの人達が住処に帰るのを待たないとですよね。
ばっちり魔素は追えてますから、今度は私に任せてくださいね……
っくく、ああ──頼りにしてるぞ。
(わくわく張り切る娘を前に、とうとう堪えきれなくなって籠手を口にやり吹き出しつつも。その声を和らげてふと穏やかに投げかけたのは、薄青い目に滲ませる紛れもない感心だった。──いやはやまったく、大したものだ。相手はまるで、ベテランであるこちらが全て合わせたように言ってくれるが、あらゆる動きがしっくり噛み合い、全てが自由に無限に叶う……そんな不思議な一体感を得られていたのは、ギデオンもまた同じ。こんな感覚、それこそ十年以上前に、同じ魔剣使いの“相棒”がいた頃が最後だったと思っていたが。……この春から始まった妙なあれそれを差し引けど。この元気な若手ヒーラー、後輩ヴィヴィアン・パチオとは、どうも相性が好いようだ。
──ギデオンのその確信は、それから続く碑文奪還の任務の上でも、ますます深まる一方だった。翌朝早くに森に分け入り、エジパンス族の巣窟に突撃しての大暴れ。その一部始終において、戦士とヒーラーのふたりだけでここまで掌握できるものかと思わず苦笑してしまったし、何なら近場の集落が盗まれた財産もついでに取り返した次第。しかしさらに優れていたのは、ヴィヴィアンの機転により、なんとこの亜人族をやっつけるだけでなく、周辺の同類含めた一定の協定さえ、魔法で結ばせてしまえたことだ。……奴らはどうも、いつぞやの川のあの迷惑齧歯類同様に、稀代の乙女ヴィヴィアン・パチオの虜になってしまったらしい。故に、人類が追い求める錬金術の奥義より、かのヒーラーが作りだした世界に唯一の贋作の方が、よほどプレミアと思ったようで。仕方なく、彼女がマテリア・プリマの節を消して己のサインを上書きすれば、大歓喜するエジパンス族のまあなんとも鬱陶しいこと。これで平和になるならいいか……と、ヴィヴィアンが眉を下げる一方。ギデオンの方と言えば、すっかり懐いたふりをしてヴィヴィアンに撫でられている十数頭のエジパンス族の幼獣に、相次いで渾身のドヤ顔を見せつけられる羽目となった。──そうだ、そういえば。奴らは本来、“他人の所有する”価値ある財産に高い価値を見出すという、捻じれた性根の生きものである。ヴィヴィアン絡みで何だか妙に改心したと思ったら……いや待て、何故奴らがにやにや見るのが俺なんだ、と。ギデオンがうっすら駆られたその複雑な心境を、野性的な亜人族こそが余程的確に捉えていたとわかるのは……しかし一年後の話。)
(──ともかくこれで、失われていた人類の秘宝、タブラ・スマラグディナの一片は、無事人類の手に戻った。近隣の牛追い祭りは、近場の集落への財産返還の手続きであいにく逃がしてしまったが、ギルドのある王都でもまもなく祭が始まるから、ヴィヴィアンもそう惜しい思いをしつづけないで済むだろう。
戻った碑文の行く末は、ギルドマスターから学院経由で、外部に委ねることとなった。ガリニア絡みということでなかなか大事ではあるが、向こうの客員教授であるヴィヴィアンの父ギルバートが、その辺りはかなり慎重に根回しをしてくれたらしい。しかし同じ教授でも、カレトヴルッフ相手にごねた元のクエストの依頼人、あのローゼン・クロイツァーに内通している老人は、何やら余罪も出てきたことで、王立憲兵団の取調室に強制移送されたとか。これだけ迷惑をかけられたのだ、奴の企みのあらましをこちらも知りたいところだが……しかしこの事情についても、ギデオンたちが聞き知るのは、やはりしばらく後となる。
──騒ぎを招いた張本人、マルセルとフェルディナンドは、今日も元気にギルド厩舎の馬糞の処理を担当中だ。連日ひいひい喘いでいるが、こればかりは仕方ない。かれら皺寄せに翻弄されたギルド幹部の望みときたら、どうせ自分たちの休みはまだまだ先になるからと、いつもギルドを支えている掃除夫や見習いたちに休暇をやることだったのである。棚ぼたの褒美を得られた彼ら一同は大喜び。うだる暑さを迎える前に、家族や友人とのひとときで羽を伸ばせることとなった。)
(──そうしてカレトヴルッフに、盛る夏を迎える前の静けさが戻ってきた頃。しかしギデオンはと言えば、カレトヴルッフ本舎四階・執務室の横にある、あの休憩室にてひとり、何やら書類を見つめていた。本来事務員でもない人間は閲覧できない代物なのだが、己は一応ランクⅥ、加えて普段携わる業務内容の特殊さから、こういった機密情報に触れる権利を密かに得ている。……それによれば、あの溌溂とした若い後輩、ヒーラーヴィヴィアン・パチオには、ギデオンの知らぬところでいくつか苦労があるようだった。
──端的に言えば、彼女が加入している保険が、今は不完全なのだ。キーフェンなどに比べればこれでもかなりマシではあるが、この国トランフォードもまた、女は男の署名がなければ得られぬものが山ほどある。保険周りもそのひとつで、これは元々彼女の父ギルバートが署名をきちんと付していたが、彼がガリニアで勤める間に、更新するべき数々がすっかり放置中らしい。忙しいあの方のこと、愛娘の身のことは誰より案じているはずだが、こういった些事については失念しているのだろう。とはいえ先日の娘の手紙に即刻返事を寄越したように、あまりにも忙しくて知らせが届かぬわけではない。……おそらくはヴィヴィアンの方が、自分自身に関することでは連絡を取れずにいるのだ。
とにかく問題は、今もおそらく書類周りで面倒が生じている上、もし万が一のことが起これば、あの明るく元気な娘が、かなりの不利益を被ってしまうということ。これは完全にプライベートな事情であり、上司が立ち入るべきでは無いが、一度知ってしまったからには、今更見過ごすことはできない。……以前から考えていたことは、やはり実行に移すべきだな、と書類から顔を上げたのと、コンコンと控えめなノックの音がしたのが同時。「入れ」と促しながら、保険の書類は脇へ仕舞って。)
( 時を遡ること約一週間、様々な感動に満ち溢れたガダヴェルでの大冒険が始まる数日ほど前。若手ヒーラー・ヴィヴィアン・パチオは、密かに胸を高鳴らせていた。それは、帝国魔導学院から届いた協力要請の書面とは別にもう一通、とある手紙が娘の元へと届いていたからだ。今回協力を仰いだガリニアの学者──もとい、ヴィヴィアンの父親にあたるギルバート・パチオから、一人娘に当てた一通の私信。流行の薄紙を使った便箋には、お堅い時候の挨拶や今回の事件についての個人的な主観の他、"久しぶりに顔が見たい"、と。忙しいパパが、私に、会いたいと!! この話の流れだ、魔導学院からギルドへ協力しに来てくれる代表者はパパなのだと──てっきり、そう信じ込んでいた娘の下を、つまりカレトヴルッフを訪れたのは、顔も知らない歴史学者の青年だった。
とはいえ、彼個人の名誉の為にいうと、学者の仕事は非常に素晴らしかった。盗まれた碑文が、いつどこで出土した代物なのか、確かな文献とともにあっさり提示し、ついでに“薔薇十字原理教団”が多用する管理魔法の痕跡さえ、捜査の証拠として正式に使える形式で並べられては誰もが感心するしかない。あとから話を聞けば、今の帝国では右に出る者はいないと謳われるその道の第一人者ということで。ギデオンらの活躍をもって尚、彼の存在がなければこんなに早い事態収拾は望めなかったであろう大物の出国を、よくもあの帝国が認めたものだと、カレトヴルッフ側が感心していた時期を同じにして。そんな彼の出国に一番大きく貢献した大魔法使い、愛する娘が自分を頼ってくれたことに、密かに浮かれ回っていたギルバート・パチオが──例の私信を出すに至った、それを進めてくれた研究助手から、「そうじゃないでしょう!」と。何故アンタが行かなかったのか、「娘さんに"会いたい"って、今度こそ書けたんでしょう!?!?!?」と、持ち前のコミニケーション下手をボコボコに叩かれていたのは別のお話。 )
…………。
( 閑話休題。カレトヴルッフに激震を走らせたタブラ・スマラグディナに纏わる一連の事件が収束し、いつも通りの日常が帰ってきたギルドにて。此度大変お世話になった教授に感謝を伝え、辻馬車の駅までお見送りから帰還したヒーラー娘は、普段元気よく揺れている尻尾をしょんぼりとさせ、とぼとぼと長い廊下を歩いていた。──忙しいって、わかってたのに。普段滅多に個人的な連絡を寄越さない父からの手紙に、ただの社交辞令を真面目に受け取ってしまった自分が恥ずかしい。子供じゃないのに、こんなことで落ち込んで、会いたかったのは、あんなにお世話になった教授じゃ無かったなんて失礼だ。そうして、ふ、と自嘲を漏らし──いけない、と。暗い気持ちを物理的に振り切るように首を振れば、ぱたぱたと真っ直ぐ走り出した先は、ドクターのおじ様に聞いた"彼"の居場所。こんな酷い気分の時は、誰か他の人に構いつけ、忙しくなってしまえば自分の事など忘れてしまえる。そんな破滅的な思考を自覚していた訳ではないが、担当治療官として任務後の相手の体調は、他意なく確認しておきたかったところ。ワーカーホリックな相手のことだ、もたもたしているとすぐ様次の依頼に向かってしまう前に捕まえなくてはと。ノックの返事を待って勢いよく部屋に飛び込めば、いつもの通りの人懐こい笑顔で擦り寄って。 )
お疲れ様です、ギデオンさん!
今先生を送ってきたんです……あれから傷の調子は如何ですか?
ああ、いや……まったく問題ない。
おまえの狙い通り、新しい調合が効果を発揮しているらしい。
(てっきり伝令の見習いか誰かだろうと思っていたその矢先、まさか思い描いていたヒーラー娘本人が飛び込んでくるとは思わず。一瞬大きく目を瞬き……とはいえ動揺を隠すべく、すぐにいつもの気怠げ顔を。「来週もまた調整して、それで問題がないようなら、外部の精密検査には行かなくて済むようだ」──と、それで時間が浮くことのほうをありがたがるような口ぶり。しかし実際、相手の全てにつくづく感謝しているのだと、擦りつく娘を以前ほどは遠ざけずにおくことで、多少は示せているだろうか。)
今回の件、改めて助かった……おまえがうちにいるんでなけりゃ、もっと大事になってただろう。
(ため息交じりにそう言いながら横の椅子に座らせて、これを見ろ、と促したのは、丸テーブルに広げていた今朝付の新聞だ。窓から差し込む夏の陽で明るく輝くそれによると、なんでも隣国ガリニアが、自国の古代の歴史に関わる美術品の流出を巡り、北方の周辺国と火花を散らしているだとか。……もしトランフォードのほうでも、碑文と先住民の件でひとたび狼煙が上がったならば、この記事に書かれているのと似たような厄介ごとが膨れ上がっていただろう。事態が大きくなる前に碑文そのものを回収し、それを誰より適格なガリニア人の手に渡す。ただひとつの正解をここまで早くこなせたのは、偏にパチオ父娘のおかげだ。
──しかしそのギルバートは、今もあちらの学院にいるまま。今回こちらに寄越してくれた歴史学者がおそらくはそうしたように、特権でも何でも駆使してワイバーンに乗ってくれば、ほんの一週間もかからずこちらに戻ってこられるだろうに。とはいえ、なかなかそんな時間も建前も取れないお立場なのだろう。そしてヴィヴィアンのほうもまた、契約の更新の件を長らく伝えていないとなると──……と。
相手が読み終わったと見て新聞を四つ折りにすれば、その下から現れた数枚の羊皮紙を、相手のほうにふと滑らせ。とんとん、と指の頭で空欄を指し示してがら、胸ポケットから取り出した少し特殊な羽ペンをテーブルの上に置く。──本人が少し魔素を込めれば、それが中のインクに混ざる公文書用の羽根ペンだ。通常、ギルド内の報告書にわざわざ使う代物ではないが、今はそれしか持ち合わせがないんだ……というような声の調子で通しながら、他にも広げていた書類を封筒に纏める間。相手が目を通す書類の最後、クリップで留められた少し紙色の違うそれらは、既にギデオンの署名が為された、『魔獣討伐者身元保証書』『第2号連帯保証書』『一通扶助新規適用届』……等々であるはずで。)
ついでだ。今回の件で俺が出さなきゃならない書類にいくつかお前のサインがいるから、ここで書いていってくれ。
そんな……私自身は大したことは何も。
でも、ギデオンさんのお役にたてたなら嬉しいです。
( 相手の体調の確認も済み、大好きな相手からの感謝に、えへへ、と促された椅子に手をかければ、長い脚を斜めに引き美しい仕草で腰掛けて。そうして、受け取った記事に、ギデオンからの評価を実感し、じわりと頬を赤く染める一方で、形の良い眉尻を八の字に下げ、「大事にならなければ良いんですが……」と、自分らが免れた不穏を他人事として、僥倖だったと切り捨てられないのは性分だろう。どこか複雑そうな表情で、読み終わった新聞を返しながら、代わりに差し出された書類に「サイン?」と小さく身を乗り出せば。慣れた動きで魔導率の良いペンをふわりと浮かせて引き寄せると、椅子ごとテーブルの方へと向きを変え、長い睫毛を揺らしながら、また小さい文字の並んだ書類を、特に苦もなく目を通していき。 )
…………。……!!
ギデオンさん、これ……!!
( そうして、まずは一枚目、それから二枚目の『魔獣討伐者身元保証書』と『第2号連帯保証書』に視線を滑らせていた時は、まだ困惑しつつも悪くなかった顔色が、『一通扶助新規適用届』に至った瞬間、さっと薄く青ざめる。本来であれば、『相棒届』に対しても、何故こんなに唐突にだとか、人の承諾を得る前に申込もうとしてくれるなだとか、そもそも勝手に人の情報に当たるなでも。ギデオンの少し(?)行き過ぎた行為から守るべきは自分の身だったろうに、問題の書類を見た途端全て吹き飛んでしまい、思わず立ち上がりながら、必死の表情でギデオンの方へ向き直り。 )
違うんです!!
パッ……父は!! 元々ちゃんと入ってくれてたんです!!
更新を……更新を、わ、"私が"、忘れてただけなんです!!
( 本当は、違う。ヴィヴィアンはその保険の通知先を、ガリニアのギルバートの住所にしていた。故に約3ヶ月ほど前の更新手続きの書類も、そちらに届いているはずで。しかし、借りぐらしのアパートにまともに帰りつきやしないのか、それとも見た上で失念しているのか。どちらにせよ、忙しい父親に催促するのが申し訳なくて、躊躇っている内に切れてしまった保険を相手に見られたという焦燥が背中を濡らして。たった一人の肉親から、あまり関心を向けられていないだなんて、寄りにも寄ってこの人にだけは知られたくない。ましてや、"パパの大切な人を殺した私が悪いのに"、私のせいでパパの評価が下がるのはもっと嫌だ。その一心で、相手の拳を両手でとると、どこか焦点の合わない必死な視線で、父の名誉を守ろうとすがりつき。 )
わかってる──わかってるから、落ちついて聞いてくれ。
(──流石に勘が良いな、などと、取り乱す娘を前にモラルを欠いた感慨を得るも。その上辺の表情だけはいつも通り涼しげなまま、すべらかな手を優しく払い、逆に包み込むようにして、卓上に軽く抑える。会話の主導権を穏やかに絡め取りたいときに、若い頃からよく使ってきた手だ。さらに念には念をとばかりに、椅子の上から身を乗り出し、薄青い双眸で縫い留めるように相手の翡翠を覗き込んで。──そこらのぼんくら冒険者に何か一筆書かせるときは、いいから黙って従えと言いつければそれでよかった。だがしかし、頭脳も学歴も充分なこの若い娘には、同じ手管は通用しない。まずは不安を取り除きながら、ギデオンなりの誠意を……一応ちゃんと嘘偽りではないそれを、感じ取ってもらわなくては。)
いきなりこんなのを出したりして悪かった。……お前の状況を勝手に調べたりしたことも。
だが、こいつは……グランポートから帰ってすぐに考え始めていたことでな。
頼む、この機会に相談させてくれないか。
(乞うようにそう呟けば、そこで一旦視線を外し、テーブルの上の書類にその視線を走らせる。相手がそれに倣おうものなら、空いた片手で滑らせるように扇形に書類を広げ、そのいくつかを引き寄せて、共に向き合うよう誘うだろう。身元保証書、“二号”に“一扶”。この組み合わせだけでただ解釈するならば、相手が青褪めたその通り、まるでこちらが出しゃばって、彼女の父親代わりにでもなろうとしているかのようだ。しかし実際はそうではない。今回ギデオンが持ち掛けたいのは、この申請の先にあるもの。──ヴィヴィアンとの正式な、公的な相棒契約だ。
「今年から、ふたりで仕事をすることが増えたろ」と。敢えて相手と顔を合わさず、重ねていた手もようやくどけて、彼女に考える余地を与える。シルクタウン、グランポート、それから今回の碑文探しと、幾つかクエストを共にする中で、互いを相棒と呼ぶことは、確かに何度かありはした。……だがそれはあくまでも、その都度限りの関係で。毎回パーティーが解散すれば、後はただの一冒険者同士に過ぎず、互いに何の恩恵もない……そのはずだったというのに、しかしふたりの関係が決定的になってしまった部分がある。シルクタウンでのあの夜のことではない。ギデオンがグランポートでレイケルの呪い傷を負い、ヴィヴィアンがその治療を引き受けるようになったことだ。
優しい相手は一も二もなく担当ヒーラーとなってくれたが、それこそが問題だった。今のギデオンの右肩は、天文学的な確率で適合する魔素を持つヴィヴィアンにしか癒せないが、彼女自身による継続治療が欠かせないということは、ギデオンの具合に合わせて、ヴィヴィアンが自分の依頼を調整せねばならぬということ。老兵の世話のため、若い女性冒険者がそのキャリアに制限を受ける……これはよくある話だが、本来ならばあってはならない。これまで業界全体で連綿と続いてきたものを、ギデオンはこの優秀で気立ての良い大事な後輩に負わせてしまいたくはなかった。……よりによって、かつて慕った“シェリーの娘”なら尚のこと。その彼女にどうせ負担を強いねばならぬというのなら、こちらもその分恩返しを。それはごくごく当然の、自然な道理であるはずで。)
……冒険者同士が助け合うための契約には、いくつかの種類がある。俺たちはまだ仕事を組みはじめたばかりだから、本格的な内容のものはまだ承認が下りないだろうが……それでもこの書類でなら、過去の特例を引き出して通せるし、部分的には新しい先例も拓けるんだ。
だから何も、親父さんとお前の問題に首を突っ込むためじゃない。ついでにそこも助けられるなら一石二鳥、というだけで……俺の真意としてはあくまで、この先も今以上に、お前の治療を堂々と頼れる立場にしてほしい、といったところだ。
お気遣い、ありがとうございます……。
( ──また、だ。また、一体この人は何故こうもビビに頼るのに申し訳なさそうにするのだろう。年齢? 性別? 未来の後輩達のための先例作り? いつかの海上でのやりとりを、覚えていてくれているのだろう。ビビの名誉を傷つけないよう、かなり言葉を選んではいるものの。『堂々と頼れる立場にしてほしい』という言葉とは裏腹に。まるで、自分にその価値はないとでも言うかのような。その言葉の本質が変わっていないことくらい、付き合いの浅い自分でも分かる。次第にその卑怯な薄氷が何気なく逸らされた気配に、それまで、大きさも、厚みも、皮膚の薄さの違いからくる触り心地までも、その全てが自分とは違う掌に絡め取られた時から俯いていた視線を上げ、今度は此方から真っ直ぐな翡翠で相手を射抜き返せば。__やはり目の前のギデオンは今日だって一段と美しい。いや顔立ちの話だけではなく。人一倍の長身に見合った素晴らしい体格、剣を握るための形をした大きな掌、それら全てが見かけだけではない、実際に人々を守ってきたそれだと言うことは、キングストンの誰もがよく知っている。そして、その恵まれた腕力を司る理知的で、理性的な頭脳。まるで神話の英雄のようなどこをとっても精悍で、その存在を脅かせる物などないほど強く、賢く美しい大男だというのに、そのどこか非常にアンバランスで、ともすれば簡単に突き崩してしまえそうな危うさに目が離せなくなっていたことに、この時はまだ無自覚だった。
とはいえ、そんな娘にとって、男から『頼れる立場にしてほしい』と、合法的にこのベテラン剣士に纏わりつける口実、もとい言質を抑えられたのは僥倖だ。自らの衝動の理由も自覚せぬまま、これでこの人をぬい止められるなら良いと。そう思えば、ビビの身上に、相手のサインを載せられる余白があったこと、保険に不備があったことはラッキーだったのかも。なんて、そんな内心の嘯きは、心の傷を癒すための強がりだったが。「確かに、この契約を結んでいただければ、私はすごく助かります。それで私以外の誰かの助けになれるなら、おっしゃる通り一石二鳥で、光栄です──」と。そこで、音を立てながら椅子を引き、すっくと立ち上がると同時に、今度は相手にやり込められぬよう、男が立ち上がる経路を塞ぐかのように上半身を乗り出し、相手の瞳に写る自分の顔が見えるほどの至近距離で見つめ返せば。これだけはなんとしてでも伝えたい、伝えなければならないことを。非常に堅い意志にそのエメラルドをギラギラと強く光らせて。 )
__でも。
私がギデオンさんを治療するのは、女だからでも、若いからでも、契約のためでもありません。
私が、ギデオンさんをそうしたいから、するんです。
ギデオンさんのことが、好きだから!!
(自身の心の持ちようにどこまでも無自覚な、ギデオン・ノースにしてみれば。相手の娘、ヴィヴィアン・パチオのその剥き出しの愛の台詞は、酷く唐突に聞こえたはずだ。何をいきなり、なぜそこに話が戻る、何をそんなに必死な面で。本来そんないろいろを、目を瞬いた上の眉間に皴のひとつでも寄せながら、ため息交じりにぼやくつもりが……しかし、実際のギデオンはちがった。その気配こそうっすらとだが、静かに凍りついていたのだ。
引き戻される──否応なく──もう二十五年も前の、色褪せたはずのあの夏に。もう遠い記憶の向こうで霞んでいたはずのあのひとも、今ここにいるヴィヴィアンと同じことを言っていた。……いや、違う。あのひとの目は違う。たとえよく似た翠緑だろうと、恩師シェリーの瞳には、こんなにぎらぎら燃え盛る眩い激しさはなかったし、こんなにギデオンただひとりにがむしゃらな顔もしちゃいなかった。あのひとはもっとずっとおおらかで、穏やかで……けれどいつも、どこか少し哀しげで。その陰を隠した笑顔からずっと目を離せずにいたのは、ギデオンの方だというのに。彼女は酒焼けでしゃがれた声で、それでも……心底愛おしそうに。
──ギデオン。
アタシがアンタの面倒を見るのは、ギルドにやらされてるからでも、雑用係が欲しいからでもない。
アンタのことが可愛くて、そうしたいから、そうするだけなんだよ。
アンタのことが、大事だからだ。)
────……
(──しかし、それでもかろうじて。表に現れる動揺は、頼りなく揺れ動く薄青い双眸のみだった。それが一度横に逸れ、どこへともなく落とされたのは、ともすればきっと、ただ単に相手の言葉に心が動かされたように見えもすることだろう。それはあながち間違いではないのだが、しかしこの時のギデオンは、もっと深くにあるものを見過ごしてしまうべく、それを装うことにした。──拳を上に持っていき、彼女のまろやかな白い額を軽く小突くふりをして、ふわりと仕方なさそうに笑う。これはあくまでこのふたりの会話だと、自分に言い聞かせるように。)
……言ったろ、「お前を頼りにしてる」って。
ちゃんとわかってるから、そう心配するな。
……信じてますからね。
( ──ああ、全く本気にされていないな。こういった時、説得力に欠ける自分の社会経験の無さがもどかしくて、むうと唇を尖らせつつも、上半身の距離感を正常に起こした娘にはまだ、相手の密かな動揺の真意は読み取れなかったらしい。それでも、『“お前を”頼りにしている』と言う相手に一旦矛を収めるくらいには、その言葉を嬉しくも感じていたものだから。まもなく来たる建国祭、頼りにするどころか、一人の個人としてさえも認められていなかったと信頼を裏切られ、二人がひどくすれ違うのはまた別のお話。
閑話休題。そうして、手元の書類に再度向き直れば、手元のそれを便宜的な制度と見做しつつも、憧れの相棒届が手元にある感慨に、気づけばため息を漏らしていた。かつて、やはり相棒関係にあった先輩方お二人へ憧憬の念を向け、そんないいもんじゃないと、身寄りのない者同士の利害関係だと切り捨てられて、うすら寂しい思いをしたのはいつのことだったか。この関係だって、あくまでギデオンの負い目を減らすためのギブアンドテイクにすぎないのだが、それを承知の上、密かに幼少期からの夢に浸るくらいなら許されるだろう。──ギデオン・ノースの相棒ヒーラー……なんて。赤く艶のある唇に弧を描き、ヴィヴィアンの署名のために残された空欄の上の欄、男性らしい筆跡で滑る剣士の名をそっと撫で、手に取ったペンに魔力をこめると。窓から吹き込む外の風は、いつの間にか夏らしい雰囲気を纏っていた。)
__……その、私ばかり……じゃなくて。
どう、したら……ギデオンさんにも、喜んでいただけますか……?
( そんなガダウェル山脈でのタブラ・スマラグディナ捜索、及び初めての相棒契約から約一年。その間様々な事件が二人を取り巻き、その関係性に"相棒"以外の称号が加えられても。──優しい相手から貰ったそれ以上に、自分もまた相手のために尽くしたい、という想いはずっと変わらなかった。
とはいえ、まさか本人も、それが褥の上でも対象だとは、自覚していたわけでは決してあるまい。
時分は建国祭直前、救世主の祝日の関係でギデオンとヴィヴィアンのどちらも早く帰りつけた夜のこと。今日も美味しい夕飯に舌鼓を打ち、後片付けも終えたいつも通りの団欒の時間。愛しい恋人の腕の中、ネグリジェから透ける胸元まで真っ赤にした娘の声は、その至近距離をもってしても、消え入りそうにか細いもので。先日、初めて迎えた夜は予想外の事情がきっかけだったが、ギデオンの想いにやっと報いることが出来た満足と同時に、一つ叶えばまた一つと欲が出るのは我儘だろうか。未だ完遂には至らぬ触れ合いに──今度、もしまた誘っていただけたら、と。密かに決めていた勇気を振り絞ると、透きとおった金髪がさらりと隠す耳元へ、震える唇をそっと寄せて。 )
……教えて、いただけませんか、
……信じてますからね。
( ──ああ、全く本気にされていないな。こういった時、説得力に欠ける自分の社会経験の無さがもどかしくて、むうと唇を尖らせつつも、上半身の距離感を正常に起こした娘にはまだ、相手の密かな動揺の真意は読み取れなかったらしい。それでも、『“お前を”頼りにしている』と言う相手に一旦矛を収めるくらいには、その言葉を嬉しくも感じていたものだから。まもなく来たる建国祭、頼りにするどころか、一人の個人としてさえも認められていなかったと信頼を裏切られ、二人がひどくすれ違うのはまた別のお話。
閑話休題。そうして、手元の書類に再度向き直れば、手元のそれを便宜的な制度と見做しつつも、憧れの相棒届が手元にある感慨に、気づけばため息を漏らしていた。かつて、やはり相棒関係にあった先輩方お二人へ憧憬の念を向け、そんないいもんじゃないと、身寄りのない者同士の利害関係だと切り捨てられて、うすら寂しい思いをしたのはいつのことだったか。この関係だって、あくまでギデオンの負い目を減らすためのギブアンドテイクにすぎないのだが、それを承知の上、密かに幼少期からの夢に浸るくらいなら許されるだろう。──ギデオン・ノースの相棒ヒーラー……なんて。赤く艶のある唇に弧を描き、ヴィヴィアンの署名のために残された空欄の上の欄、男性らしい筆跡で滑る剣士の名をそっと撫で、手に取ったペンに魔力をこめると。窓から吹き込む外の風は、いつの間にか夏らしい雰囲気を纏っていた。)
__……その、私ばかり……じゃなくて。
どう、したら……ギデオンさんにも、喜んでいただけますか……?
( そんなガダウェル山脈でのタブラ・スマラグディナ捜索、及び初めての相棒契約から約一年。その間様々な事件が二人を取り巻き、その関係性に"相棒"以外の称号が加えられても。──優しい相手から貰ったそれ以上に、自分もまた相手のために尽くしたい、という想いはずっと変わらなかった。
とはいえ、まさか本人も、それが褥の上でも対象だとは、自覚していたわけでは決してあるまい。
時分は建国祭直前、救世主の祝日の関係でギデオンとヴィヴィアンのどちらも早く帰りつけた夜のこと。今日も美味しい夕飯に舌鼓を打ち、後片付けも終えたいつも通りの団欒の時間。愛しい恋人の腕の中、ネグリジェから透ける胸元まで真っ赤にした娘の声は、その至近距離をもってしても、消え入りそうにか細いもので。先日、初めて迎えた夜は予想外の事情がきっかけだったが、ギデオンの想いにやっと報いることが出来た満足と同時に、一つ叶えばまた一つと欲が出るのは我儘だろうか。未だ完遂には至らぬ触れ合いに──今度、もしまた誘っていただけたら、と。密かに決めていた勇気を振り絞ると、透きとおった金髪がさらりと隠す耳元へ、震える唇をそっと寄せて。 )
……教えて、いただけませんか、
(時が経つのは早いもの。あの後やがて訪れる波乱のひと夏から一年、そしてサリーチェに越してきてから数間ほど過ぎた今。すっかり住み良く調えられた宵のリビングルームには、ついに恋仲となったふたり──ベテラン剣士ギデオン・ノースと若手ヒーラーヴィヴィアン・パチオの、他愛ない囁きだけが温かに満ちている。
ともに現役冒険者同士、そう毎日とはいかないものの、たまに過ごせるこのひとときがギデオンは大好きだ。ふたりで選んだソファーの上でヴィヴィアンを膝に抱き、仕事の話やその日の出来事をあれやこれやと話しながら、合間合間にキスをねだってねだられて、笑い合ったり見つめ合ったり。これ以上の人生の歓びなんて、この世のどこにあるだろう。そう大真面目に感じていたから、“自分ばかり”という彼女の台詞に、どこかあどけなく見えるほどきょとんとした顔を差し向け。いったい何を、と軽く問おうとした、しかしまさにその瞬間──油断していた耳元に、この清艶な爆撃である。)
────……、
…………、、、
(わかりやすくたっぷりと、愕然と目を瞠ったのち。すっと教会の信者のように敬虔な顔をしたかと思えば、天を仰いで目を閉じるなり息を止めて押し黙る、珍妙な反応のギデオン・ノースがそこにいる。この衝撃のやり過ごし方もかれこれ数度はしているはずで、ずっと傍にいる恋人もそろそろ見慣れてくる頃だろうか。「おまえな……、」と仰いだまま参ったような声を漏らすと、相手に回していた腕をぐっと力強く狭めて、真っ赤になって震える恋人を力いっぱい抱きしめてやる、これもいつものお約束。相手がどんな反応をそこで示してみせたにせよ、溜飲を下げるように大きな唸り声を漏らせば、ようやく少し腕を緩めて、見上げてくるエメラルドをじっくりと見つめ返す。──もう他の誰とも重ねない、ヴィヴィアンだけのその輝き。今はおずおずと揺れるそれがもっとよく見えるよう、軽くかかった横髪を片耳にかけるそのまま、その可愛らしい耳朶の端をかすかに擽る悪戯を。しかし続けたその声は、相手の望みに寄り添うように、こちらも湿度を帯びたもので。)
そういや、あれからお互いなんだかんだと忙しくて、すっかり間が空いてたものな。
……あの痕も、もう……?
(時が経つのは早いもの。あの後やがて訪れる波乱のひと夏から一年、そしてサリーチェに越してきてから数間ほど過ぎた今。すっかり住み良く調えられた宵のリビングルームには、ついに恋仲となったふたり──ベテラン剣士ギデオン・ノースと若手ヒーラーヴィヴィアン・パチオの、他愛ない囁きだけが温かに満ちている。
今はヴィヴィアンが段階的に復帰しつつも療養中、加えてギデオンも内勤が多く帰りやすいこともあり、共に過ごせるこのひとときが己は心底大好きだ。ふたりで選んだソファーの上でヴィヴィアンを膝に抱き、仕事の話やその日の出来事をあれやこれやと話しながら、合間合間にキスをねだってねだられて、笑い合ったり見つめ合ったり。これ以上の人生の歓びなんて、この世のどこにあるだろう。そう大真面目に感じていたから、“自分ばかり”という彼女の台詞に、どこかあどけなく見えるほどきょとんとした顔を差し向け。いったい何を、と軽く問おうとした、しかしまさにその瞬間──油断していた耳元に、この清艶な爆撃である。)
────……、
…………、、、
(わかりやすくたっぷりと、愕然と目を瞠ったのち。すっと教会の信者のように敬虔な顔をしたかと思えば、天を仰いで目を閉じるなり息を止めて押し黙る、珍妙な反応のギデオン・ノースがそこにいる。この衝撃のやり過ごし方もかれこれ数度はしているはずで、ずっと傍にいる恋人もそろそろ見慣れてくる頃だろうか。「おまえな……、」と仰いだまま参ったような声を漏らすと、相手に回していた腕をぐっと力強く狭めて、真っ赤になって震える恋人を力いっぱい抱きしめてやる、これもいつものお約束。相手がどんな反応をそこで示してみせたにせよ、溜飲を下げるように大きな唸り声を漏らせば、ようやく少し腕を緩めて、見上げてくるエメラルドをじっくりと見つめ返す。──もう他の誰とも重ねない、ヴィヴィアンだけのその輝き。今はおずおずと揺れるそれがもっとよく見えるよう、軽くかかった横髪を片耳にかけるそのまま、その可愛らしい耳朶の端をかすかに擽る悪戯を。しかし続けたその声は、相手の望みに寄り添うように、こちらも湿度を帯びたもので。)
そういや、あれからお互いなんだかんだと忙しくて、すっかり間が空いてたものな。
……あの痕も、もう……?
(あの後やがて訪れる波乱のひと夏から一年、そしてサリーチェに越してきてから数週間ほど過ぎたその晩。明日も午後まで休みだからと、少しばかりの“夜更かし”に恋人を誘ってみたのは、今度は初心な乙女ではなく、こなれた男のほうだった。
鉄と何やらは熱いうちに……なんて、往年のその考えが微塵もないとは言わないが。こちらは肌着を脱ぎ捨てて広い背中を晒しながらも、相手の可憐な砂糖衣は未だ剥がずにいる辺り、一応今宵のギデオンとしては、前回程度の戯れで満足するつもりでいたのだ。──剣だこのある掌で彼女のすべらかな肌に触れれば、ぴくり、と強張るその感触から、その先の行為には未だ恐れがあるのだろうと推察するのは難くなかった。だがそれでいて、それでも一歩踏み出す程度に、彼女側なりの動機がどこかしらにあることも。
ならばせめて、元凶たる過去の記憶が、少しずつでも自分とのそれで薄らいでいけばいい。いつまでも十代の頃の男の影を引きずらせてなるものか、今の彼女の身も心も己が安心させてやろうと。そんな殊勝な──もとい、至極単純な心意気で彼女を優しく啄んでいた、その矢先のことである。)
…………どう、って……、
(耳元に吹き込まれた精一杯の懇願に、一瞬ぴたりと固まったのち。ベッドの上で体を傾け、その顔を上げた男は、すっかり熱っぽい顔をして、返す声すら掠れていた。──前回“程度”の戯れ、なんて。そう楽観していたはずが、結局心の奥底では彼女との睦み合いを渇望していたせいだろうか。その頬に、額に、肩に、腕に、あらゆる場所にキスを落として時折鼻梁を摺り寄せるだけで、何故かこちらが多幸感でぼんやりしはじめ、頭の奥がとろりと蕩けて、この体たらくという始末である。それを幾らか誤魔化すのように、どこか番の獣じみた動きで相手の肩に顔を寄せ、ぱくぱくと軽く食んでから。そのまま厚い胸元に相手の頭を抱き寄せ、シーツの下の脚を絡め、その栗毛を撫でながら、低い小声で囁いて。)
……今だって、喜んでるさ。
それとも何か……何がしたい……?
……っ、う、嘘……!!
( 首筋を食む唇の柔らかな感触、そこから漏れる熱い吐息。それら全てを拾って強ばる娘のその表情は、あどけない困惑に濡れていた。私は何もしてないのにと、翻弄されるばかりだった初夜を思い出しては唇をもにょもにょと尖らせ。振り絞った勇気を、まさか相手が問い返してくるとは思ってもみなかったという表情で、シーツの上で身動ぎもできないまま、腹の辺りでネグリジェを握り込むと。二人のコミュニケーションの果てに、より深い交わりとして楽しむギデオンと、未だその行為を物理的な接触としてしか捉えられていないヴィヴィアン、その経験差から来るすれ違いに困ったように眉を下げ。その挙句、何って──手、とか、胸とか……!? と、なまじ中途半端に備えた知識故に、生々しく迷走し出す思考にぐるぐると目を回し、オーバーヒートして真っ赤になった顔を両手で覆い隠すと。ひん、と頼りなく喉を鳴らしながら、分厚い胸板に丸い頭を擦り寄せ。覚悟を決めたようにぐっとあげたエメラルドの輝きは、あくまで──だから、自分に出来ることを教えてくれ、という健気なお強請りだったが果たして、 )
──……わ、わかんない……。
でも、私、ギデオンさんが喜んでくださるなら……何でも、頑張ります……!!
っくく、ああ、そうか──何でも、だな……?
(彼女を狼狽えさせたのは他でもない己だろうに、それでもこちらに縋るように擦りつけられる小さな頭、またそのぽかぽかと温かなこと。これを世界でただひとり享受できる男ときたら、先ほどまでの顔から一転、今や目尻に皴を寄せ、その上躯を小刻みに震わせてしまう始末である。
しかし今宵のちがうのは、いつもならそこで二、三の言葉を交わしてあとは満足するはずが、そうはならなかったところだ。相手に注ぐ薄青い目に隠しもしない熱を宿せば、「……ヴィヴィアン、」と名を呼びながら、そのすべらかな片頬を掌で優しく包む。彼女がどう応じたにせよ、ナイトランプの薄明りに照らされたヒーラー娘の面差しには、こちらもやはり隠しきれない緊張の色が窺えよう。いつもはごく紳士に振る舞う──ふりに興じる──歳上の恋人が、いよいよ今夜に限っては、ならば先へ進もうとその手を取ってしまうのだから。
とはいえこちらも退く気はない。まるで仔羊のような相手を、仕方がなさそうな愛おしい目でくすりと笑ってみせたと思うと。「おいで、」と囁きながら、腕枕にしていた腕で彼女のしなやかな体を転がし。──そうして、およそ一般的な男女の閨事のそれのように、ギデオンが上、ヴィヴィアンが下……そんな体勢になるかに見えたが。その太い両腕でギデオンがまず導いたのは、ヴィヴィアンが上、ギデオンが下──この初心な恋人に主導権を取らせる構図だ。しかしそれでいて、まずはリードが必要だろうと。見下ろしてくる相手の瞳に、わざと少し気取ったような表情を映しながら、「なあ、それならゲームをしないか?」などと軽い声で尋ねてみせて。)
相手の身体に指文字で名詞を書いて、それを当て合うだけの遊びだ。
ルールはふたつ──一度書くのに使った場所は、それきりもう使わないこと。
それから、指文字を当てられた方は、当てた方の言うとおりにすること。
当然その内容は、その場ですぐに叶えられるものだけだ……どうだ、乗ってみないか?
っくく、ああ、そうか──何でも、だな……?
(彼女を狼狽えさせたのは他でもない己だろうに、それでもこちらに縋るように擦りつけられる小さな頭、またそのぽかぽかと温かなこと。これを世界でただひとり享受できる男ときたら、先ほどまでの顔から一転、今や目尻に皴を寄せ、その上躯を小刻みに震わせてしまう始末である。
しかし今宵のちがうのは、いつもならそこで二、三の言葉を交わしてあとは満足するはずが、そうはならなかったところだ。相手に注ぐ薄青い目に隠しもしない熱を宿せば、「……ヴィヴィアン、」と名を呼びながら、そのすべらかな片頬を掌で優しく包む。彼女がどう応じたにせよ、ナイトランプの薄明りに照らされたヒーラー娘の面差しには、こちらもやはり隠しきれない緊張の色が窺えよう。いつもはごく紳士に振る舞う──ふりに興じる──歳上の恋人が、いよいよ今夜に限っては、ならば先へ進もうとその手を取ってしまうのだから。
とはいえこちらも退く気はない。まるで仔羊のような相手を、仕方がなさそうな愛おしい目でくすりと笑ってみせたと思うと。「おいで、」と囁きながら、腕枕にしていた腕で彼女のしなやかな体を転がし。──そうして、およそ一般的な男女の閨事のそれのように、ギデオンが上、ヴィヴィアンが下……そんな体勢になるかに見えたが。その太い両腕でギデオンがまず導いたのは、ヴィヴィアンが上、ギデオンが下──この初心な恋人に主導権を取らせる構図だ。しかしそれでいて、まずはリードが必要だろうと。見下ろしてくる相手の瞳に、わざと少し気取ったような表情を映しながら、「なあ、それならゲームをしないか?」などと軽い声で尋ねてみせて。)
相手の身体に指文字で名詞を書いて、それを当て合うだけの遊びだ。
ルールはふたつ──一度書くのに使った場所は、それきりもう使わないこと。
それから、指文字を当てられた方は、当てた方の言うとおりに……逆に当てられなかった方は、書いた方の言うとおりにすること。
当然その内容は、その場ですぐに叶えられるものだけだ……どうだ、乗ってみないか?
( 頬に添えられる大きな掌、呼び掛けと共に向けられる真っ直ぐな熱。──大丈夫、この人になら、触られても怖くない。歳上であるギデオンがビビの緊張を、ともすれば内心の葛藤をも見通していた一方で。経験の浅い娘は、そんな相手を信頼して、愛しているからこそ、相手に喜ばれたいという想いで縮こまっていたものだから。優しい呼び声におずおずと寄ろうとしたところを、ぐんと腕枕を持ち上げられると、いとも簡単にころんと軽く転がされてしまって。 )
──ひゃっ……!?
( そうして、不安定な体勢に思わず白い太腿に力を込め、相手の腹筋にしがみつくも。ギデオンの上に自分が跨る体勢に気がつくと、気まずそうな表情でギデオンを見下ろしながら、気になる荷重を膝立ちの要領でもじもじと逃がす乙女心には気づかれたかどうか。少なくとも、ギデオンの提案に──そんなことでいいの? といった表情で、思わず目を丸くしていたあたり、その手の遊び方に縁遠いことは知れただろう。実際に、「……ギデオンさんが、よろしいなら」と、また優しく紳士な相手が、不慣れな自分に遠慮しているのではという疑いを隠さない表情で頷きながらも。ビビの返答に満足気に頷くギデオンに、どうやらそうでもないらしいと、不思議そうな表情で受け入れれば。有利だからと譲ってもらった先攻に──……名詞、めいし、と。お題を探して見渡すことで、無意識のうちに身体の強ばりが些かほぐれ、いつの間にか上手く呼吸が出来るようになっているのだから敵わない。そうして、数秒の沈黙の末、窓の外になにか見つけたように瞬きすると「えっと、じゃあ……お手を」と大好きな手を取り綴ったのは、今まさに窓辺に八重咲きの花弁をたっぷりと広げて咲き誇っている可愛らしい花の名前。白い指先で最後のaを書き終わり、あげた視界に映った半裸の相手に、自分もまた薄いネグリジェという格好をして、ちぐはぐなように思える遊びに戯れるギャップが恥ずかしくてはにかむと、照れ隠しにその手をキュッと握りながら、細い小首を小さくかしげて。 )
さあ……なんて、書いたでしょう?
参ったな。
一問目から難問な上に……こいつは随分な反則技だ。
(しどけない姿の相手が幾重も綻ばす、あどけない愛らしさ──その破壊力たるや。口元を緩めながら思わ唸り声を上げると、繋がれた掌をぎゅむぎゅむと握り返して、この温かなハニートラップに抗議する振りに興じてみせる。しかし相手が解こうとすれば、その手を軽くこちらに引いて、離すことなど許さずに。「何だったかな、」と、寝室の天井を白々しく見上げては、ああでもない、こうでもないと、澄ました顔で思案してみせ。)
サルビアじゃ字数が合わない……ヴァニラでもなかったはずだろ……?
(──本当はその答えに辿り着いていることなんて、こちらもちらりと窓辺に目をやる、その横顔の穏やかさですっかり筒抜けに違いない。たしかそこにあるのは、退院後の静養期間に暇を持て余したヴィヴィアンが、「聖バジリオでの入院中に持ってきてくれた花だから」と、たまの散歩をねだった時に花屋で買っていたものだ。ギデオン自身に草花を愛でる感性はないにせよ、彼女と交わした些細な言葉を忘れてしまうわけもなく。繋いだ手と手をもう一度引き、彼女の真っ白な手の甲に笑み交じりの唇を寄せ、「──……ペチュニア。そうだ、それだろう?」と、正解を吹く込めば。その顔を正面へ、彼女の前に戻した時には、窓から入る夏の夜風を受けながら、もう片方の掌でその小さな頬を優しく撫でて言い聞かせ。)
それじゃあ、さっそく権限行使だ──もっとこっちに、潜り込むくらいの気持ちで寄ってくれ。
そんな風に離れられてちゃ、肌寒くって敵わない。
……え、
( 大好きな恋人がくれる甘やかな触れ合いに、えへえへと嬉しそうに頬を染め、「反則……イヤ?」だとか、「うん、そう、あたり……!」だとか、添えられた手に控えめに頬ずりしながら、たっぷりと甘えていた娘の顔色が、しかし、ギデオンの要求を耳にした途端、心底困ったように曇り出す。それまでは緊張していながらもキラキラと、純粋な愛情に瞬いていたエメラルドが泳ぎだし、リップクリームだけを塗った桃色の唇からはうにゃうにゃと言葉にならない声が漏れる。その表情からは一片の恐怖も見当たらない代わりに。一体何が問題で、何に困るかって。
──ギデオンさんに、重いって思われたくない……!! と。ただそれだけが何より重大な問題なのだ。ゆるゆると浮かんだ臀部を上げて下げて、覚悟を決めかねたようにギデオンを見下ろすと。う~っと幼獣のような唸り声を上げ、紅潮した頬をぷいと逸らして。 )
私もギデオンさんとくっつきたい、けど……
私、身長があるでしょう……他の女の子より、重い、と思う、から……
(いやはやまったく、その仕草のひとつひとつでこちらをきょとんとさせた挙句に、何を言いだすかと思えばこれだ。年頃の娘にとっては文字通り重大だろうが、鍛えた男にしてみれば、それこそ羽根より軽い話。故に苦笑交じりの声で、「気にする必要はないだろうに」と喉を鳴らしてみせるものの。その程度の台詞では、この可愛い恋人の顔が晴れないのだから仕方ない。)
……なんだ。
試しもせずに諦められてしまうほど、俺はヤワななりに見えるか?
(片肘を突く格好で腰から上を斜めに起こし、如何にもこれ見よがしにもう片方の腕を広げて。相手が寄越したその双眸に惜しげもなく披露するのは、布きれ一枚纏わないありのままの己の躰だ。──己が肉体を資本とする冒険者である以上、毎日のように鍛えてメンテナンスしているそれは、歳の割に肌艶がよく、リラックス中の今でさえ程良く隆々と張りつめたもの。多少の自惚れを差し引いたとて、十六も下のヴィヴィアン相手に決して見劣りしないつもり……なのだが。はたしてそれでは不足だったか、なんて弱気な論法は、しかし実際はったりで。その目元を優しく和らげ、伸ばした片手を相手のそれに重ねると、優しい声で説得し。)
お前のその長身は……そのまっすぐな長い脚は、市民の元にいち早く駆けつけるためにあるんだろう。
俺はそれごと、お前のまるごと全部が好きなんだ。
──だから、おいで。
ギデオンさん……、
( 正直なところ、このやり取り上でギデオンからの"重くなんかない"という言葉を期待しなかったと言えば嘘になる。しかし、優しいこの人ならばそう言ってくれるだろうと思った以上の──ビビ本人でさえも、こんなにかけられて嬉しい言葉があるなど知らなかった言葉をかけられて、思わず胸が詰まったように息をのむと。逸らしていた視線を下げ、熱の篭ったエメラルドに相手を映すだけでドキドキと苦しいほどに愛おしさが溢れて堪らず。頬に添えられた手をとり、愛おしそうに口付けしながら、「ありがとう、ございます」と掠れた声で相手に懐けばしかし。それでも普段のように飛びつくこと無く、じわじわと少しずつ慣れさせていくかのように肌を合わせていくあたり、心底本気で己の目方に自信が無いらしい。それでも、ついに長い栗毛を下ろした丸い頭頂部から、その桜色の爪先まで、ぴったりとその体温に溶け合わせると。「わたしもすき、大好き……!!」と、その硬い胸板に頬ずりしながら、つつと目一杯伸ばした爪先でギデオンの踝あたりをなぞり、 )
ギデオンさんの脚も……私よりもっと長いし、腕も太くて……手だって──
( そう先程からずっと繋いでいる片手をにぎにぎと堪能してみせるのは、与えてもらった愛情が如何に嬉しかったかを相手に伝え、あわよくば自分はもっと貴方を愛しているのだと云うことを伝えたかった故。一体全体、私がどれだけ人として、冒険者として、目の前の貴方を尊敬して、信頼して堪らないか。本当にこのまま貴方の身体に潜りこんで、一緒になれたらどれだけ良いだろうか──と。衣擦れの弟と共に硬い胸板にまろい頬をぺったりと付けたままギデオンを見上げ、上目遣いにくしゃりと小さく微笑めば。甘えきった様子で首を縮め、とっくに伝えた、知られているつもりだった真意を漏らしながら、再度その掌甲へと唇を寄せ。 )
──手だって、こんなに大きさが違うんですもの、強引に進めることだって出来るでしょうに……そうなさらないの。
なさらない、貴方だから……応えたいんです。
頑張りますから……待ってて、ね?
……なあ、ヴィヴィアン。そのことなんだが──
(心配性な恋人がやがてすっかり構えを緩め、そのしなやかな全身で己にしなだれかかるのを、これぞ求めた夢とばかりにぬくぬく堪能していた矢先。相手の言葉にふと顔を変え、一瞬思案の間を置いたのち、まるでなんでもないような軽い声音でそれを切り出す。
「お前が信じてくれるように……俺は絶対、絶対に、嫌がるお前に押し入るような酷い真似は犯さない」。相手の頭を撫でながらわざわざ挟んだ前置きは、本来言葉にするまでもない、ただただ当たり前のお話。そしてそこまでで切るならば、きっと自分はこれまでどおり、初心な彼女のためだけの聖人君子でいられただろう。
──しかし今宵のギデオンは、その生温く優しい惰性を、ここで破ると決めていた。すなわち、不意にごろりと転がり、横倒しにした彼女の旋毛に深々とキスを寄せたのち。腕の檻に閉じ込めながら、見上げてくる緑の瞳を酷く穏やかに見つめ返し。もしきょとんとするようならば、その優美な腰のラインを、大きな掌、その親指で、どこか意味深げな手つきを込めてそっと撫でることだろう。)
……だが、かといって。おまえが“頑張る”なんてのを、ただ“待つ”だけでいるなんて、どうにも性に合わないんだ。
そもそも俺は、おまえに無理に頑張らせるような……そんなつまらない戯れに、おまえを誘いたいわけじゃない。
──今こうして遊ぶのだって、もう“応えてる”うちに入ってるって……わからないか……?
……、……?
( わかるかどうかと問われても、年上男の複雑な胸の内など、不慣れで初心な年下娘にはよくまだ理解できる筈もなく。否、その甘やかな触れ合いと声音から、無理をする必要は無いと、何やら宥められているらしいことだけはわかるのだが、今改めて念押しされる理由がわからずに──私は、ギデオンさんのために"頑張りたい"のに!! と。逞しい腕の中、伸び上がる様に上半身を反らして、"優しすぎる"相手を安心させるかのように小さく唇を合わせると。 )
無理なんて、してないです……!
ギデオンさんのこと大好きだもの!
( 「さっきは本当に、重いって思われたくなかっただけなの……」なんて、恥ずかしそうに固い胸板に丸い頭を擦りつける仕草からは確かに、これ以上ない信頼と愛情が溢れてはいるだろう。そうして、自分の愛情を疑われたかのような錯覚に、ぷくりと頬を膨らませると。手首を支点にしててこの原理でぺしぺしと、「ね、次はギデオンさんの番ですよ」と中断していたゲームの続きを促し。そのすぐ次だったか、若しくは数往復経ての辛勝だったか。やっと此方が命令する権利を手に入れると。まるで服従を受け入れた野生動物がそうするように、自ら繊細なレースの裾を捲りあげ、シミひとつ、"跡"ひとつ無い真っ白な腹を相手に晒して。 )
──……じゃあ、私からのお願い、ね……?
──…………、、、
(夜のしじまをしっとりと打つ甘やかおねだりに、何よりいっそ毒々しいほど愛くるしいその媚態。ギデオンが喰らわされたのは、そんなあまりに殺人的にも程がある一撃で。その青い目が愕然と揺れ、くらくら揺れた脳天が僅かな理性も焼き落とす。──そうして気づけば、それがトラウマらしいからと慎重に避けていたのも忘れて、彼女に大きく覆い被さり。
己の飢えた唇が真っ先に吸ったのは、しかし乞われた下腹ではなく、持ち主の柔い口許だった。胸の内で爆ぜている言いようもない熱を、この罪作りな恋人にも?み込ませたくてたまらなかったせいだった。──しかし決して怯えさせてしまいたくない、違う、愛情を伝えたいのだと。いつもよりどこか不器用な手つきで彼女の頬に掌を添え、親指の腹で何度も何度も、すべらかなそれを撫でさする。……しかしそうして取り繕ってみせたところで、そのすぐ傍から貪るように耽溺するのが、いつになく本能的で余裕のない口移し。舌を絡める間に零れる、唸るような熱い吐息も、まるで年甲斐もない焦がれようをぼろぼろ物語るようで。
それでも尚、焼ける全身を潤すように、娘の甘露を絡め取りつづけることしばらく。ようやく「……は、」と一息挟み、月光を孕む細い銀糸を引きながら顔を離せば、困ったような、敗れたような……けれど間違いなく愛おしそうな、何とも言えない表情の目で真下の娘を一瞬見つめ。また再びその金の頭を静かに屈めたかと思えば、今度はその高い鼻先が、ネグリジェの少しはだけた肩から、優雅な陰影を描いた鎖骨、たっぷりとした見事な丘からその麓に至るまで、まるで羽毛で触れるような軽い手触りで撫でていく。──そうしてようやく、お望み通りの神聖な場所に己の狙いを定めれば。二、三度ばかり、わざと予告するように軽く歯を立てて食んでから、単純だった前回と違い、与える力に脈拍じみたリズムを付けるようにして、所有の証を刻みはじめて。)
~~~ッ!?
( それはほんの数刻ほど前、自らの手で真っ白に洗濯したばかりの柔らかなシーツ。その太陽の香りに包まれて、呼吸に合わせ上下するなだらかな起伏を、じっと期待に濡れた眼差しで見つめていた娘は、まさか自らが男の理性の一片を焼き切ったことなど思いも至らない。故に、不意に身を起こした恋人にされるがまま、怯える暇すらなく奪われてしまえば──ちがう、とも。それじゃない、とも。なんら意味のある言葉を許されず、時々耳元で聞かされる吐息の熱さにびくりとその身を硬くしては、己からも漏れるその不本意なそれへの羞恥に、じわじわとその身を縮めるだけ。
『やり方次第だ』、と。いつだったか、目の前の相手が言っていた言葉の意味が今はもうよく分かる。唇を合わせていた時間だと思うと長い、しかしたった数十秒で、普段意識すらしない正しい呼吸の仕方を忘れさせられてしまえば。美しい鼻先から教えられる曲線に、思わず頤を反らせて表情を隠す行為のなんと無意味なことか。
そんな些細な抵抗を果たして男は赦してくれただろうか。どちらにせよ、こんなはずじゃなかった、と。最初こそその拍動に頬を染め、どう反応したらよいか分からないといった様子で翻弄されていたヴィヴィアンだったが。次第に何度も、何度も、飽きずに花畑を広げるギデオンに、これ以上ない愛しさが溢れてしまうと、それまできつく寄せていたシーツの皺を開放したのは無意識だった。 )
……かわいい。
( これが普段通りの娘だったなら、足を広げるなんてはしたないとしなかっただろう。しかし、相手がそうしてくれているように、自分もどうにかして恋人を物理的に繋ぎ止めておきたくて、その両手だけでは飽き足らず、白いレースから健やかに伸びた両脚で愛しい恋人を捕まえると。その唇が腹から離されようとそうでなかろうと、心底愛おしくてたまらないと言った表情で、愛しい頬を、生え際を、くすくすと微笑みながら優しく撫で始め。 )
大好きよ、ギデオンさん……ねえ、ゲーム、は?
次の番はいいの……?
(すべらかな生脚が自ら巻き付く感触に、思わずといった調子で上げられる青い双眸。しかし相手の優しい手つきにさらさらと慈しまれれば、ただそれだけでとろんと目許が和らいでしまう、この飼い馴らされようよ。
往年のギデオンは、カレトヴルッフの剣士職に珍しくない不身持な男……時に“カレ剣”なんて俗称で揶揄されたそれとして、相応に血気盛んな狼でいたはずだ。──それがどうして、歳下の、たったひとりのヒーラー娘に捕まってしまってからは、この腑抜けた駄犬ぶり。そんな己の不甲斐なさに今更やや不貞腐れてか、「何だ……」なんて唸り声を喉元から絞り出せば、伸び上がる要領で彼女の真上へと戻り、きゅっと結んだ唇を、その花唇に二度三度と押し当てる。そうしてむっとしたような目を向け……ようとしたはずが、如何にもわざとらしい茶番を続けられたのは結局そこまで。目と目がまっすぐ合った瞬間ほどけるように笑ってしまい、何なら自ら額を摺り寄せ、プライドもへったくれもなく続きの愛撫をねだりながら。「そうだな……」なんて、すっかり寛ぎきった声で呟いた矢先のことだ。)
──……
(それまでの穏やかな呼吸がごく一瞬止まった理由は、己の真下に抱き込んでいる……否、ギデオンに抱きついているヴィヴィアンのほうもまた、感じられたことだろう。
──真夏の夜の寝台の上、睦み合う男と女。若い娘の無邪気な脚が男の腰を絡め取るなら、自然と触れ合うそのうちに気づいてしまうものがある。抑制剤は飲んだはずだが──いやちがう、だからこそこれしきで収まってくれているのか。何にせよ、いつかはグランポートの波間で触れてしまった己のそれが、今は相手の密かな場所へ、瀟洒に飾り立てられた真っ白なレース越しにその存在を示している。一瞬そちらへ俯いていたギデオンの横顔は、おもむろに相手へと戻り、じっと静かな視線を注いだ。──むやみに押し付けるつもりはないが、臆病に退くつもりもない。それを無言の空気で語ってふと目を閉ざしたかと思うと、薄い唇が今一度、相手のまろい額を愛でる。それから吐息を零しつつそっと落としたその囁きは、今夜の無邪気な戯れは、やはり大人のそれなのだと……そう思い出させるための声音で。)
……なあ。
難易度を……上げてもいいか。
( 最初はベルトの金具か何かが当たっているのかと思った。溢れる多幸感に目を細め、俯く恋人の隙なく愛おしい頭皮をぼんやり見つめていたその時。男の反応に違和感を覚えて、数cm程小さく上半身を起こしかけると、「あっ……」と漏れたその声は、期待でも恐怖でもない小さな動揺で。 )
…………。
( まず勝ったのは、一体どうしよう、といった困惑の感情。本来、人の生理反応にどうしようも何もないのだが、不慣れゆえにどう反応したら良いか分からず、真っ赤な顔でカチンと小さく固まれば。どこへ向ければ良いか分からなくなってしまった視線を、無言のブルーに縫い止められると、益々思考は迷走するばかりで。しかしそんな娘の動揺を見透かすことなど、経験豊富な男にとっては手に取るように簡単だったろう。それまでの強い視線がふっと閉ざされ、その唇がいつもそうしてくれる様に優しく額に落とされれば。ふわり、と。その思わず込められていた力が抜け、全身の強張りが緩んだのは、いくら滑稽で不格好だったとしても、ここ数ヶ月のギデオンの努力が身を結んだ瞬間だった。──大丈夫、これは悪いことでも、はしたないことでもない。だから、何か怖いことも起こらない。そう恐る恐るといった様子でギデオンを見上げ、その小さな口角をふにゃふにゃはにかんで見せるのは、前回の講義の効果もあっただろう。とはいえ、難易度を上げるってどこまで……? と、自分で想像した内容に耐えられず、すぐに空いた両手で顔を覆い隠してしまえば。華奢な肩を震わせながら、かき消えてしまいそうな声と共に頷いて。 )
……上手に、できなくても、きっと許してくださいますね……?
“上手に”なんか、しなくていいんだ。
……言ったろ? 俺はただ、おまえと遊びたいだけだって。
(可哀想なほど縮こまる初々しい娘を前に、それをゆくゆく喰らわんとする熟しきった男ときたら、しかし今はまだ悠然と、優しく喉を鳴らすのみ。泣く子をあやす要領で栗毛の頭を撫でてやり、そうして白魚の指が下がれば、ようやく覗いた潤みがちな翡翠の瞳を愛おしそうに見つめるだろう。
実際のところ、自分はそう大層な聖人なんかじゃありはしない。が、まだ不慣れな彼女のためにそう振る舞うのが大事だとわかっているし、そうであればやる気は充分。故にごろりと横に転がり、肘を突いた手に頭を預ける格好でゆったりと寛げば、まずは己の腰辺りを一瞥。依然下穿き越しに元気な様子のそれを見て、軽く肩を竦めてみせると、相手のほうに視線を戻し、「こいつは一旦忘れろ」とおどけたような一言を。訝しんでか、異議を唱えてか、相手の様子に変調が見られるならば、「だがここにいること自体は許してやってくれないか」と、如何にもさり気ない声で懇願も加えておこうか。“こいつ”だの“ここにいる”だの、まあ実に白々しく下らない言い回しだが……いずれ親しんでもらうには、そういった刷り込みからしていこうという目論見で。
──さて、己の話はそこまで。軽く伸ばした手の先で彼女の頬の髪を除け、そのまま返した指の甲でごく優しく撫でてから、いよいよゲームの再開だ。「難易度を上げるってのは──」……つまりはこういうことだ、と。先ほどまでの数ラリーでは、いきなり彼女を竦ませないよう、こちらも掌や前腕と言ったごくごく無難な場所にだけ、欲の滲まぬ普通の強さで指文字を書いていたのだが。娘の優美な体のラインをゆっくりと撫で下ろす、今度のその掌は、明らかに深い情愛の込められた男の手つきのそれだろう。そのままゆっくりと撫で下ろし、腿の辺りに届いたならば、元々ただでさえ丈の短いネグリジェの裾を、焦らすような間の後に軽くぺろりとめくってしまい。普段はスキニーパンツが隠す引き締まったその肌へ、つ……つつ……とやけにかすかに、ゆっくりと、文字を記していって。)
──……よくわからなかったら、目を閉じて集中してみろ。
ヒントは、そうだな……食材だ。おまえも扱うことがある。……
━━こいつ、って……
( 世の中の男性達の中で、己のそこをまるで息子のように表現することがあるのは知っていたが、それが目の前の恋人の口から出たのがおかしくて。優しい温もりにあげた顔を、ふふふと無邪気に綻ばせれば。此方を見下ろす愛し気な眼差しに━━そうだった、と。この人の前では取り繕わなくて良いんだった、と次第に全身の緊張が解けていく。そうして、大好きな指へ頬ずりをして、愛しい気持ちと無言の了承を相手に示せば。しかし、その女体を愛でる大きな掌には、恥ずかしそうに身を捩り、長いまつ毛の影を震わせ恥じらう様子も未だ見せるだろう。 )
……っ、ギデオンさん、くすぐっ……~~ッ!!
( ──この時、初めて。初心な娘は、心の底から信頼しきり、安心して己の身体を預けた相手から触れられると、こうも肌が敏感に拾うことを、愛しい恋人手ずから教えられることとなった。思わずびくりと腹筋に力を込めて、薄れるどころか一文字一文字更に蓄積していく刺激に目を見開くも。大袈裟な反応だと思われるのが恥ずかしくて、無言で下唇を噛みながら「サーモン」「……、オニオン」「ッ、キャロット!」と、思いつく限りの単語を投げかけるも、集中など全くできていないのだから当たるわけが無い。そうして、その辺にあったクッションをいつの間にか抱え込み──実際は完全に甘く蕩けきり、普段の凛々しさなど見る影もないわけだが──少なくともビビ本人は、冷静に保てていると信じ込んでいる声さえも、取り繕うのが限界を迎えた頃合。尚も続けられる遊戯にガバリと、その太腿で勢いよく、文字を書くギデオンの腕を捉えてしまうと。ボタニカル柄のクッションカバーから蕩けきった瞳を覗かせて、うるうると精一杯の懇願を。 )
……イジワル、しないで……。
ちゃんと触って、ください……!!
(こちらの指先ひとつで力み、時にびくんと、あるいはくにゃりと、その瑞々しい狼狽を七色で描く素直な躰。ゲームの答えをやけっぱちに絞り出すその声や、必死になって抑え込まれる嬌声未満の喉の音さえ、いつまでも味わいたくなる禁断の甘美さで。
とはいえそのそのヴィヴィアンが、すっかり熱く火照った腿や、哀願するような濡れた瞳で、切々と直訴しようものなら。その精一杯の有り様でさえ密かに脳裏に焼き付けつつ、しかしそれまで纏っていたやけに淫靡な静けさを、いつもあっさり霧散させよう。そうしていつもの己に戻って愉快気に喉を震わせ、何を言いだすものかと思えば──)
っくく、悪い……いや、悪かったって。
頼むから、そんなのをこんなにたっぷり抱き締めてやらないでくれ。俺がいるだろう? ……
(──まるで寄る辺を求めるように、相手が強く抱き込むクッション、そいつに妬けて仕方がないと。如何にも思わしげな手をかけて、片眉をぐいと吊り上げ。そうしてごく素直にか、はたまた激しい攻防の末にか……相手がその柔らかい盾を手放してくれたなら、それをベッドの端に押しやり。空いた空間をぬくぬくと、互いの体温で埋めはじめながら、相手の耳元でぽそぽそと、甘える声音で提案を。)
……、とはいえ、駒落ちはできないな。
今回は俺に不戦勝を譲って、その分すぐに次の番で反撃に出られるのと……
頑張って今回の正解を当てて、その分今夜、後はぜんぶ、俺をいいなりにできるのだったら……
おまえはどっちがいい……?
( ほんのり湿度を帯びた寝室に、ぷしりと色気ないくしゃみが小さく響く。そんな攻防を物語る羽毛も落ち着く頃、寄る辺を失いすんすんと、すっかり縮こまって相手の肩に顔を埋めていた娘はといえば。非常に満足気な男の一方で、つい恥ずかしくて強硬に抵抗してしまったが、それが雰囲気を壊してしまっていやしないかと小さく頭を持ち上げて、男の甘やかな表情を確認すると、無意識にほっと胸を撫で下ろしていて。 )
…………、絶対当てますから。
今度は変な触り方しないで、ちゃんと書いてください……!!
( そうして、ギデオンの恣意的な質問に、何か具体的に相手をどうこうしたい願望がある訳では無いが、これ以上好き勝手されるよりはと、形良い眉を悩ましげに歪める表情こそ、その純粋な恥じらいが、余計にその強烈な色気を掻き立てていると云うのに。おもむろに硬い胸板をペシペシと、柔らかいシーツの上に座り直すと。横になる男の目の前に正座の要領で、でんとたわんだ白い腿を差し出す表情はいたって──いたって、真面目なのだから仕方がない。きゅっと唇を噛んで引き結び、最初こそ見逃してなるかと零れ落ちんばかりに見開いていたエメラルドも、次第にぎゅうと閉じてしまうと、ぷるぷると小さく震えながら、今か今かと年上男の指を待ち。 )
……
((……困ったな、)と。横の恋人が身を起こすその刹那、穏やかな笑みはそのままに、部屋の宵闇に視線を留めて密かに思案を巡らせる。──此度提案した指文字遊びは、その“変な触り方”に、寧ろ明るく慣れ親しんでもらうためのものだった。だがこの清純な娘には、それがまったく伝わっていない……というより、その手の戯れはまだ随分と気が早かったご様子だ。とはいえ、今宵の初めの“喜ばせたい”という話然り、或いは以前戯れた時は初々しくも必死に応じて乱れてくれていた記憶然り。男の浅はかな早とちりなどというには、いささか反証が見込まれるはず……ならば何故、このように?
──と。そこで初めて、そういえば前回は、帰ってきたギルバートの存在が大きかったことを思い出す。『……ギデオンさんの手で。パパがぜったい、しないこと。教えて、ください……』……そうだ、あれはたしか、娘の交際に口を出す父親への反発が弾みをつけていた夜だった。当時はこれ幸いとばかりに己の役得を堪能したが、なるほど、払うべきツケがきっちり回ってくるのがここか。……まあ逆に、先日ではなく今宵こそ、本来のヴィヴィアン自身に手をつけはじめたタイミングと看做せよう。どうやら気の長い──己自身の忍耐力とじっくり向き合う──戦いになりそうだ。)
……、そう強張らないでくれ。
取って食おうってんじゃないんだ。
(──さてはて、遠い眼差しはそろそろやめて、目の前にいる初心な娘との戯れに戻ろうか。青い視線を今一度相手のほうに上げてみせれば、先ほど散々不埒になぞった男の指に構える娘、そのあまりに哀れな生贄ぶりに、思わず吹き出すような声を。眼前に差し出されているたっぷりとした太腿に、無論浅ましい劣情を催さぬわけがないのだが、それより優先しておくべき下拵えというものがある。
故に、こちらもシーツをどけながらやおら起き上がったと思えば。その薄い白布に飾られた華奢な背中に手を回し、ぐいっと引き倒す要領で、再び寝台に沈み込んだ己、その両のかいなのなかに再び娘を抱き込もう。そうして上からばさりと、ふたりの躰を隠すように──それまでの邪な空気を清潔に取り払うように──大きな白いデュベをかけ。娘の躰を背後から、今一度ぬくぬくと味わいきってやりつつも、柔らかなシーツの下、己の無骨な掌を娘の腿へ滑らせる。
しかし今回はあくまでも、いやらしさは封印だ。その証拠に、今度は臀部の近くではなく、折りたたまれた膝の辺りにす、と指を宛がえば、今一度その五文字をゆっくりと書きだそう。……今ごろ“甘い”雰囲気なら、それこそこれをきっかけに話題を広げるつもりでいたが、こういった展開に備え、逃げを打つこともできなくはないところが、この遊びの便利なところだ。最後のyをなぞり上げれば、このくらいの妨害は許してくれと言わんばかりにその首筋に唇を寄せ。何ならヒントを与える体で、そっと吐息を吹きかけて。)
……俺はいつか、ヨトゥン巨人がこれから作る本物の酒を呑んでみたくてな──と、言ったらわかるか……?
……
((……困ったな、)と。横の恋人が身を起こすその刹那、穏やかな笑みはそのままに、部屋の宵闇に視線を留めて密かに思案を巡らせる。──此度提案した指文字遊びは、その“変な触り方”に、寧ろ明るく慣れ親しんでもらうためのものだった。だがこの清純な娘には、それがまったく伝わっていない……というより、その手の戯れはまだ随分と気が早かったご様子だ。とはいえ、今宵の初めの“喜ばせたい”という話然り、或いは以前戯れた時は初々しくも必死に応じて乱れてくれていた記憶然り。男の浅はかな早とちりなどというには、いささか反証が見込まれるはず……ならば何故、このように?
──と。そこで初めて、そういえば前回は、帰ってきたギルバートの存在が大きかったことを思い出す。『……ギデオンさんの手で。パパがぜったい、しないこと。教えて、ください……』……そうだ、あれはたしか、娘の交際に口を出す父親への反発が弾みをつけていた夜だった。当時はこれ幸いとばかりに己の役得を堪能したが、なるほど、払うべきツケがきっちり回ってくるのがここか。……まあ逆に、先日ではなく今宵こそ、本来のヴィヴィアン自身に手をつけはじめたタイミングと看做せよう。どうやら気の長い──己自身の忍耐力とじっくり向き合う──戦いになりそうだ。)
……、そう強張らないでくれ。
取って食おうってんじゃないんだ。
(──さてはて、遠い眼差しはそろそろやめて、目の前にいる初心な娘との戯れに戻ろうか。青い視線を今一度相手のほうに上げてみせれば、先ほど散々不埒になぞった男の指に構える娘、そのあまりに哀れな生贄ぶりに、思わず吹き出すような声を。眼前に差し出されているたっぷりとした太腿に、無論浅ましい劣情を催さぬわけがないのだが、それより優先しておくべき下拵えというものがある。
故に、こちらもシーツをどけながらやおら起き上がったと思えば。その薄い白布に飾られた華奢な背中に手を回し、ぐいっと引き倒す要領で、再び寝台に沈み込んだ己、その両のかいなのなかに再び娘を抱き込もう。そうして上からばさりと、ふたりの躰を隠すように──それまでの邪な空気を清潔に取り払うように──大きな白いデュベをかけ。娘の躰を背後から、今一度ぬくぬくと味わいきってやりつつも、柔らかなシーツの下、己の無骨な掌を娘の腿へ滑らせる。
しかし今回はあくまでも、いやらしさは封印だ。その証拠に、今度は臀部の近くではなく、折りたたまれた膝の辺りにす、と指を宛がえば、今一度その五文字をゆっくりと書きだそう。……今ごろ“甘い”雰囲気なら、それこそこれをきっかけに話題を広げるつもりでいたが、こういった展開に備え、逃げを打つこともできなくはないところが、この遊びの便利なところだ。最後のyをなぞり上げれば、このくらいの妨害は許してくれと言わんばかりにその首筋に唇を寄せ。何ならヒントを与える体で、そっと吐息を吹きかけて。)
……俺はいつか、ヨトゥン巨人がドワーフどもに“これ”から造らせるっていう、本物の酒を呑んでみたくてな──と、言ったらわかるか……?
……? ッひゃあ!?
( 古今東西、何事も。物事の全体像を捉え損ねた初心者が、その必死さ故に目的と手段を見誤るということは、決して悪気なく起こるものだ。それは今夜すっかり削いでしまった相手の興に気づけぬまま、柔らかなシーツに引き戻された娘もまた同じ。最愛の恋人にとっては一度、餌を見せつけた直後に、酷なお預けを喰らわせる仕打ちとなった訳だが。それで遠い目をした男もまた、目の前の娘がこれ程緊張してまで尚──ギデオンさんに喜んで欲しい、ギデオンさんの笑顔が見たい──と。分不相応に虚勢を貼らんとする理由に気が付いてさえいないのだからお互い様だ。そうして、どれほど戯れたろう。くったりと疲れた身体をゆっくり上下させ、自ら大好きな腕の中に転がり込めば。──ああ、やっぱりすごく、すごく好きだなあ……なんて。もう何度目かも分からない感慨を、睡魔なんぞに溶かさずに、もっと真剣に伝えていれば良かったと、後悔するのは後のお話。 )
──ギデオンさん、お疲れ様です!!
( さて、数日後に控えた建国祭を前にして。昨年の思い出を脳裏に、嬉し恥ずかし指折り楽しみにしていたヴィヴィアンを、ひとつ大きく落胆させた出来事があった。それは今年も発表された建国祭の警備シフト、お祭りの間中行動を共にするペアの相手が、お互いではなかったということで。とはいえ、そもそも昨年が幸運だっただけで、今年もペアになれる保証など一切なかった訳なのだが、「去年の分もギデオンさんと楽しみたかったの……」というのは、サリーチェに帰ってからの泣きごとで、仕事中は一切の公私混同を控えたのだから許されたいところ。不幸中の幸いだったのは、ギデオンの代わりに今年のペアとなったのが、よく知るカーティス・パーカーだったことか。仕事のできる同期とふたり、見回りを終えてギルドに戻ってきたヴィヴィアンが非常に上機嫌だったのは──休憩の時間が合えば、その辺の屋台でケバブでも、と。今朝サリーチェの家で示し合わせていた休憩時間に間に合った上、先に戻ってきていたらしい大好きな背中が見えたからで。 )
(ふたり分の体温で自ずと温むデュベの下。真夏の暑さをものともせずにこんなにも抱き合うふたりが、まさか実は盛大にすれ違っているなんて、互いに思いもしなかった──そんな一夜から数日後。
5029年のトランフォード建国祭は、例年よりも華々しいファンファーレに彩られながら遂にその開幕を迎えた。と言うのも今年は、先の大戦が終結してから60年の平和を祝う、十年に一度の機会。キングストン市が主催する平和式典はさることながら、毎日のように開かれる様々な催しや、五日目の馬上槍試合、果ては皆の楽しみである最後の花火大会まで、全てにおいて特別な雰囲気が満ち満ちる年である。それを百万の国民が待ち望んでいたからだろう、今年はもういつにも増して、どこを見渡しても人、人、人。通りに居並ぶ魅惑の露店や、行き交う人々に黄色い悲鳴を上げさせる魔法使いの大道芸人、子どもたちを怖がらせたり興奮させたりで忙しい竜騎兵たちのマラクドラゴン──そういった賑やかしまで、桁違いに多い有り様だ。
しかしながら、その警備の補佐にあたるカレトヴルッフの冒険者たちは、今年のこの盛況のせいでとんでもなく忙殺される……ということはなかった。何せ今年は平和の年、キングストン警察が例年の三倍にも上る人員をどかどかと投入しては、自陣の強力な統制のもと、四方をたっぷり睨んでいる。それはそれで、協力側としてはやりづらさがないわけではないのだが、祭に際して、国家組織とギルドとではあちらが優先されるお立場。故に冒険者たちは皆、万が一に備えての待機などを行いながら、警察の下支えとして順次見回りに繰り出しており。今年はヴィヴィアンとのペアが外れたベテラン戦士のギデオンもまた、丁度良い機会とばかりに後輩育成を施しながら、その日最初の休憩時間をしっかり調整していたところで……)
──……、ああ、お疲れ。
見たところ、特に大きなトラブルはなかったみたいだな。
(待ち侘びていた娘の声にくるりと向いたその瞬間。しかしギデオンの表情に一瞬揺らぎが走ったのを、このギルド専用テントに集まっている面々では、付き合いの長いヨルゴスくらいは気が付いてしまったろうか。何やら楽しかったのか、にこにこ笑顔で近づく娘と、その後ろから爽やかに汗を拭きながら続く青年。何の変哲もないそのふたりを見た途端思い出したのは、ここに戻ってくる数分前、すれ違った若者たちが言い合っていた会話だった。
──なあおい、見たか? やっぱあの噂、マジのガチだったんだ。
──噂?
──ほら、カレトヴルッフの美人ヒーラーに、とうとうカレ剣の彼氏ができちまったって話だよ。
──ああそれ、確か四十路とかいう?
──ばぁか、んなわきゃねえだろうが。ヴィヴィアン・パチオは俺らと同い年くらいだぜ? さっき一緒にいた男、絶対あいつとデキてんだって……よぉくお似合いだったじゃねえかよ。
たかが野次馬の会話である。そんな馬鹿らしいものを気にする方が余程愚かしいだろうに、何故ふたりを見た瞬間、咄嗟に忘れたはずのそれをすぐまた思い出すのだろう。そんな内心の狼狽を気取られぬよう、一瞬の間を打ち消すように無難な言葉を続けると、共にいたヨルゴスに軽く手を上げて休憩抜けを宣言する。同僚の魔槌使いはごく普通に応じつつ、その目の奥になんだかちらりともの見る気配が窺えたのは、やはり自分が何もかもに過敏になり過ぎているだけか。──いや、どうでもいい、この短い休憩時間を無駄にしてはいられない。後輩たちにも指示を済ませてようやくテントの外へと出ると、再びいつも通りの涼しい笑みを浮かべてみながら、軽い調子で相手に問いかけ。)
──……今年はどうも、南部から来たケバブ屋がワラ熊通りに出ているらしい。
去年の店を探すのもいいが……どうだ、ちょっと見に行ってみないか?
お陰様で──……ギデオンさんは、……何かありました?
なんだかお顔の色が……
( 付き合いの長さでは遅れをとろうが、強がりな恋人の表情を伺う事において、他の誰かに負けるビビではない。しかし熱でもあるのかと男の額へ伸ばした掌を、さりげなく自然と避けられてしまえば。じっと真っ直ぐに相手を見つめるも、本当になんでもないぞと首を横に振る恋人にそれ以上深掘りもできまい。確かに自分の勘違いかもしれないと、それか本人もまだ気が付いていない軽微な疲れの蓄積かもしれな故、注意深く見ていてやらねばとも思うのに──私が、頼りないから言えないの? と。信頼している筈の恋人を、心のどこかで疑ってしまうのは、まだたった数日前。またビビに黙って家計へと、決して少なくない額を懲りずに払っていたギデオンを諌めたやりとりの記憶が新しいせいだ。 )
まあ!
南部から……私仕事以外でほとんど行ったことがないんです!
( それでも、建国祭中やっと訪れたデートの機会だ。何やら早速気になる食べ物を見つけてきたらしいギデオンに、思わずふっと毒気を抜かれると。「あちらではどんな味付けが好まれるんですか?」なんて、慣れた様子で腕を絡ませ歩き出し。そうしていると、先程までは何か問題でも起きてはいまいかと気を張るだけだった人混みも、ギデオンと見るだけで、こうも楽しく気分を盛り上げてくれる賑わいになるのから不思議でならない。絡めた腕をぎゅっと引き、「ねえ、早く行きましょ!」なんて自らワクワク急かした癖をして、道中で人混みに気後れする老婆や、風船を飛ばした子供、強風に煽られた看板を追う屋台の主人らを放っておけないのは性分だろう。その度花だの、水笛だの、マスカレードの仮面だの、満面の笑みで貰ってきたお礼の品々を、「……はい。ギデオンさんが持ってて?」と隣の恋人に持たせては、段々と愉快になっていくその姿に心底楽しそうに笑い声をあげ。大道芸に驚きはしゃぎ、テンションの上がりきった犬に怯え、くるくると表情を変えては建国祭の雰囲気を満喫していた時だった。人混みの中やっとワラ熊通りにたどり着き、目的のケバブ屋を探す最中、通りに繋がる広場からわっと大勢の歓声が上がるのを耳にすると、興味津々といった様子でギデオンの袖を引いて。 )
──ギデオンさん、ギデオンさん!!
あちらでも何かやってるみたいですよ!
(恋人の問いかけに大丈夫だと返し、すぐに表へ歩き出せば、その後浮かべられていた不安げな表情に気がつくことはできなかった。そしてそれは、ヴィヴィアンがまたしゃんと切り替え、せっかくの建国祭をのびのび楽しみはじめる姿を真横から眺めるうちに、ますます遠ざかる一方で。──そのツケが回るまで実は案外すぐなのだが、ならば逆にひとまずは、このお祭りを楽しむ姿を注視してしまうことにしよう。「この間、碑文探しで寄った村で牛追い祭りをやってただろう?」と、すっかり嬉しそうにくっつきながら話題を振るヴィヴィアンに、こちらもゆったり寛ぎきってあれこれと雑談を。あれには南部の木の実を挽いた名産品のスパイスが使われているんだが、本来、本場本物のいちばん有名なそれは、もう火のように辛くてな。だからあっちのディアファノ地方は、ディアブロ地方……悪魔の地方だなんてもじられることがある。だから屋台の主人に会ったら、ちょっとした聖魔法を試しに振りかけてやるといい。大抵の南部商人は、そういったじゃれつきを大歓迎する性格で……おい、どうした? 何をしに──。
──その光景が生まれたのは、己の隣を歩く女性がヴィヴィアンだったからだろう。かつてギデオンが十代や二十代の若者であったころ、別の女ともこの夏祭りに繰り出したことがあったが、当時は今よりすかしていたし、女性もまたこちらに夢中で、互いとの浅い戯れに興じるだけがこの通りの歩き方だった。しかし、その頃とは別の人生を歩む今、同じ状況でも全く違う。隣にいたはずの恋人は、辺りの人々を手助けせんとすぐさま軽やかに飛んでいき、それでもすぐに舞い戻っては、ほうぼうからの頂きものでこちらを飾り立てはじめる。多少困惑しながらもその構いつけを許していれば、少し前まで軽い蘊蓄を垂れていた四十路男が、自分では決して選ばないだろい品々にまみれる有り様。しかしそれへの困惑も、愛しそうにころころ笑うヴィヴィアンの様子を見ればすぐに絆されてしまうのだから、つくづく相手は始末に悪い。「やられてばかりにさせないぞ」と、こちらも相手につられるように人助けに入りだしては、礼を言うその口で「これもどうだい?」と大笑いする屋台の主人に渡された、魔獣を模したカチューシャを相手の頭に被せてみせて。……ちなみに、反撃のつもりのそれが思いのほか似合っていてぐっと来てしまったのは、愚かな己だけの秘密だ。
そうしてすっかりお互いに浮かれた格好になったところで、おや、と相手の促すままに歓声の沸いた方角へ。互いに背の高いほうなので、広場に集う人々の後方から覗いてみれば、何やら変わり種の的当てのが行われているようだ。「──さあさあお通りの皆々様、どうぞどなたもお入りください! 見事真ん中を胃抜けたならば大当たり、外れても復活戦でこちらの商品が当たります! どうです、どうです──ああ是非、そこの娘さんも! おひとつ試してみませんか!」
派手な装いの大道芸人がヴィヴィアンを誘うままにもう少し近づいてみれば、どうもこちらは、祭りの屋台を巡り歩いてスタンプラリーを満たした客が、「目隠しダーツ」で商品を当てる遊びのようだ。先程の大歓声は家族連れの父親が見事真ん中を射てみせて、リゾート地への馬車代と現地の豪華な宿代を勝ち取ったものらしく、布をとった目をまん丸くする父親が、狂喜する妻と娘四人にすっかりもみくちゃにされていた。「必ずボードの上だけに矢が向くようにしてありますから、お怪我の恐れはありません! さあお嬢さん、お代は少しだけいただきますが、一本どうです? 今ならほら、ボートごとにラインナップが違うんですが、こちらのリストならあちらのボード、こちらは一等はさっきのパパさんが、ああこちらなら、あちらのボードに!」──休憩に来た冒険者だから市民の方が優先だし、スタンプも集めていないから……と引いてみせても、まだまだ的はたくさんあるし、冒険者割があるからと、とにかく場を賑やかしたい様子。相手の方を愉快げに見て、大丈夫だぞと頷きかける。カレトヴルッフの冒険者は大概盛り上げ役に良いから、屋台の側が寧ろ喜んでイベントに招き入れるのは、もう何年もあることだ。楽しんでやってごらんと、大道芸人から受け取った矢を相手に渡すと、しなやかな背を掌で軽く押してやり。)
本当に、私でいいんですか……?
( このキングストンに生まれ育って約四半世紀。この手の大道芸人による盛り上げ方を、ビビもまたよく承知しているが──いや、寧ろ知っているからこそ。今隣にいる高名で、世界一格好の良い、最高の魔剣士を差し置いて、自分が選ばれたことが納得いかないといった表情でおずおずと前へと進み出ると。それでも一応、今をときめく冒険者の端くれ、一般人向けに設置された的などお手の物だが……さて。偶然とはいえ直前のお父さんが射抜いてしまった以上、それだけではあまりに芸がない。よって、期待の視線を寄せる観客達の中、魔法使いの仮装をした少女を前へと引き上げると。彼女の杖の一振りに合わせて、ステージ中へとキラキラと星屑のような光を煌めかせ、それと同時に、事前に少女の希望を受けて宣言していた賞品を見事射抜いてみせてから、さっと大衆の面前から引っ込もうというのが最初の計画。しかし、そのそつの無い計画を狂わせたのは、見事に狙った的を射抜いたヴィヴィアンが、へにゃりと力の抜けた笑顔でギデオンの下へと戻ってきたその瞬間、分厚い群衆を切り裂いて「待って!!」とよく響いた、未だステージ上にいた魔法使い志望の少女の声だった。
それまで、やんやと楽しげだったざわめきが、にわかにすんと静まると、「私がほしかったんじゃなくて、ビビちゃんにあげたいの!!」という必死な声と共に、件の景品──もう一枚残っていた南部へのリゾート旅行チケット──を掲げた少女は、どうやら冒険者であるビビのことも、そしてその"公私共に最愛のパートナー"であるギデオンのことも以前からよく知っていたらしい。可愛らしいファンの素朴な好意、それだけにしては真剣な表情にはて、と首を傾げかけたところで、「"しんこん"さんは、ふたりで旅行へ、いくんでしょう?」とやられたところで、誰がそんな純粋な少女に、恥をかかせられたと云うのだろう。)
……ぁ、ありがとう、嬉しいわ、ね、あなた……?
( この時はまだ、数分後に覚えることになる焦燥やら、悪戯心などはまだ遠く。赤い頬をした少女の無垢な可愛さ。そして、──新婚さん、ですって。と、やむを得ず想像した幸せな未来の形に微笑むと。ちらりと隣の恋人と視線を交わし、わっと湧く歓声のさなか、大好きな掌を捉えてぎゅっと握って。 )
──……ああ、そうだな。
本当にいいのか? ……そうか、ありがとうな。
(予想だにしない言葉にわかりやすく目を瞠り、そのまま隣の相手を見るも。その無垢な──やけに眩しく感じられた──微笑みに、かえって冷静さを取り戻すと、握り返す掌で導くように共にしゃがみ、駆け寄る少女を出迎えて。そうして差し出された旅行券、それを彼女がめいっぱい受け取るその真横、奇しくも相手と似通う台詞できちんと感謝を伝えよう。その際一端の大人らしく、普段は魔剣を握る右手でその頭を撫でてやれば、途端に嬉し恥ずかしとはにかむ少女に微笑ましい視線を向けると。さらにその後ろから、にこにこと嬉しそうな祖父らしき者が近づいてくるのに気が付き──ああ、それでか、とそこでようやく合点がいった。
この老人には見覚えがある。ついこの間、王都の東にある有名な朝市でヴィヴィアンとデートしたときに、ふたり仲良く物色した青物屋……その店主を務めておられたお方のはずだ。どうやら向こうもあの時のことをよくよく覚えていたようで、「グランポートでもトリルの森でも、ご立派なご活躍で……」と、先々週のヴァヴェル擬きの退治が載った王都新聞だけでなく、去年のあちらの地方紙までちゃっかりご存知でいるらしい。おそらくは、王都屈指のヒーラーに憧れている孫娘とお喋りをするためにあれこれ詳しくなったのだろう。あの子を膝に乗せながら、『あの有名な冒険者が、うちの店に仲睦まじく林檎を買いに来たんだよ』なんて自慢する光景は、想像に難くなく。──そういった類の延長線にあるのだろう老爺と少女の思い出に、どうして水を差せようか。)
……噂をすれば、何とやらだな。
(かくして、思いがけず市民から贈られたディアファノ行きの旅行券。それをありがたく受け取って、とはいえ互いに多忙の身だし、どうしたものか……なんて、笑い合った時だった。「──ああ、君たち! ちっとも知らせてくれないなんて、全く水臭いじゃあないか!」。まるで雲を払うような朗らかな声に振り向けば、今度こそ更に大きく目を見開く羽目になる。群衆を掻き分けてふたりの前に飛び出てきたのは、公人にしてはやけに浮かれたお祭り衣装に身を包む、恰幅のいい中年男性──しかしこんななりであっても、先月の水難救助訓練合宿で恭しくお目にかかった、グランポート新市長その人である。
何故この方がこの町に、とヴィヴィアンと顔を見合わせたものの。彼の後ろからひいこらと、リードを振り切った犬を追いかけるが如く大仰さで別の男性も現れれば、すぐに状況が呑みこめた。この後続のもうひとりは、い憲兵団のSPをわらわらと引き連れた、やけに地味だと有名な(ことでたびたび落ち込んでいるらしい)我らがキングストン市長だ。彼がぜいぜい喘ぐ合間にわざわざ説明してくれずとも、どうやら今日、親睦を深めるために友好都市の新市長を王都の祭に招待し、最中テンションの上がった先方が賑やか方へ突進するのを制しきれずに連れまわされ、それでもお忍びということでそこから大人しく眺めるはずが、件のギデオン・ノースとヴィヴィアン・パチオのハレの報を聞きつけた途端、わっと沸いた先方がこれまた派手に飛び出していった……──なんていう顛末が、まあまあ理解しがたいものの、なんとなくは呑みこめた。以前の合宿の夕食の席で挨拶した時も思ったが、どうやらこのグランポート新市長、前市長の後任として例の事件に踏み込む以上敏腕ではあるのだろうだが、いかんせん猪突猛進・天真爛漫な変わり者。どうやらキングストン市長でさえ手を焼くレベルであるらしい──なんて所感を、もっと重大に捉えるべきだったと思い知るのは、しかし次の瞬間のこと。
「やあやあ、聞いたよ、聞いたとも! ついに結婚したんだって!?」──無駄によく通るその大声に、今度こそこちらの顔にはっきり焦燥が走ったことを、港の陽気な新市長は少しも気づいちゃいなかった。「まったくもう水臭い、祝辞のひとつでも贈らせてくれればいいものを! 式はいつだったんだい、え!? どこの街で挙げたんだね!? ──えなに、まだ先? じゃあセーフじゃないか!! 頼むよ頼む、頼むから、我々も呼んでくれたまえ。うちの市民はこちらの皆さんに負けないくらい君たちのことを祝うはずで、私にその代表を務めさせてはくれんかね? だって、なあ、あの時どん底の闇ばかりを書かざるを得なかった我々の街の新聞で、君たち二人の明るい記事がどれだけ救いになったと思う! ン、何だね……ああそうか、もうそろそろ行かねばな、だが頼む、忘れれくれるなよ、私は参列が待ちきれない! 日取りは追って知らせたまえよ!」──……これだけのことを大声で囃し立てながら、新市長はとうとう、王都市長とそのSPにはっきり引きずられるようにして会場を去っていった。後にぐったり残されたのは、うら若い恋人の横ではるか遠い目を投げかける、憔悴の魔剣使いである。
──なんてことを、してくれやがった……と、そんな思いでいっぱいだった。あの幼い可愛い少女がふたりのことを誤解して優しい贈り物をくれる、その程度の話であれば、まだ微笑ましいものとして思い出にできたはずなのだ。ところがその直後に、あのデリカシーゼロ公人のとんでもない大破壊で、全てがもう滅茶苦茶である。なまじ地位も縁もある無視などし難いお偉方、そんな人間にあそこまで騒がれてしまえば、今や己とヴィヴィアンが“新婚”であることは、もはや公然の事実として市民の間に広まりかねない。となると、どうせおそらく王都市長の側近から、友好都市の市長を招待するならうちを通せ、あれしろこれしろ、ここに警備を就かせろと、無駄に現実的なあれこれを命ずるために首を突っ込まれだすだろう。
しかし、全ては完全に誤解だ。──己はヴィヴィアンに、まだ求婚すらしていない。)
……厄介だな。あんな奴にあの勢いであちこち言い触らされるんじゃ、この先が思いやられる。
(──しかしそのぼやきはそれはあくまでも、落ち着きのない新市長の振る舞い全体にかけてのもので……“結婚”そのものの噂だけにとどめるつもりはなかったはずだ。案外肝心なところで口下手を発揮する、そんな己の短所には未だ無自覚であるがまま、前年も相手と訪ねた屋台があったその辺り、目当ての南部ケバブの店に重い足取りで到着すると。せめて楽しみにしていた飯で少しは気分をマシにしようと、呑気にメニューを眺めはじめて。)
いえそんな……恐れ入ります。
先程は急にお願いしてしまって……あの、お孫さんにお名前を伺っても良いでしょうか?
( 穏やかそうな御祖父様と優しく可愛らしいお孫さん。そんな二人に対しせめてもの感謝の気持ちに、楽しい観光の思い出をより華やかなものに出来ればと、束の間の交流を楽しめば。それ自体にはなんの下心など微塵もあらねど、寛いだ様子の恋人へ──ギデオンさんも、私と同じ気持ちだったら良いな……なんて。最愛の恋人と夫婦に間違えられては満更でも無い胸のときめきを、密かに楽しんでいたものだから。その後の相手の言いぐさに、少しがっかりしたのもまた事実で。 )
でも、市長さんとってもお元気そうで良かったですね。
きっととてもお忙しいんでしょう?
( そもそもの話。こうして隣にいることを許され、付き合ってもらえているだけでも、これ以上なく幸せなのだ。ギデオンと二人、温かい紙袋を抱えて、イートインスペースに腰を下ろせば。ちょっと期待しすぎちゃったなと、案外深刻になりすぎることもなく、最近の浮かれようを反省しながら、辛いソースで口を汚して。──でも。同じ一つの屋根の下、結婚もしていない異性と生活を共にする決断だけでも、自分にとっては相当の覚悟が必要なものだったのだ。それが相手にとっては大したことでは無かったとしても、少しくらい、その気持ちを思い知らせてやりたいと思ったことは、そんなに悪いことだっただろうか。)
──……責任なんて、感じちゃダメですよ……、
( それは、一回目はワーウルフに悩まされた郊外の農村、二回目は明るく清潔な病室で、繰り返し確認した愛の言葉。ギデオンさんにとっては、しつこく言い寄られて少し情が移っただけの寄り道のつもりだったとしても、私はそうでは無いのだと。責任なんかとってもらう必要も無い、自分の意思でこれからも貴方の隣に居続けて、絶対に逃がしてあげないという強い意志。しかし、ビビもまたこのやり取りを、大きな誤解を産みかねないタイミングで切り上げざるを得なかったのは、座っているベンチのその背後、他の客がタイミング悪く飲み物をひっくり返してくれたせいで。 )
──…………、
(「あら、大変!」「いンやいやいやいやもぉーしわげね゙……!」と。どうやら北方から王都観光に来たらしい純朴そうな若者を、相手が助けに行く間。一方のこちらはと言えば、虚空に視線を投げかけたまま、瞬きすらしていなかった。“責任なんて、感じちゃダメよ”──その柔らかな一言に、凍りついていたせいだ。
それでもほとんど自動的に己の躰が動きだす。ヴィヴィアンの杖の魔法が、観光客の衣服の汚れを綺麗さっぱり拭う間に、彼の落とした荷物を集め、取り纏めて手渡してやり。ぺこぺこしながら去りゆく彼を、残りの祭りも楽しむように背中を押して見送れば、ようやく元のベンチへ戻って昼飯の続きといこう。最中からそこに至るまで、己の自覚する限りでは、いつも通りのギデオン・ノースを振る舞えていたはずだ──「ギデオンさん、大丈夫ですか?」と。怪訝そうな顔の相手に、すぐさま覗き込まれるまでは。
まっすぐな翡翠の瞳に、どこまでも純粋にこちらを案じるような表情。愛しい娘ヴィヴィアンのそれらをまじまじ見つめ返してから、「大丈夫だ」とかぶりを振る。──いや、本当だ、今日のシフトの調整についてちょっと考えていただけさ。暑気あたりなんかしちゃない……お前の持たせてくれた塩飴だって、ところどころで食べてるよ。ああそういや、ギルドロビーにも置いてたろう? ドニーたちが、「こいつは世紀の発明だ!」なんて大喜びしていたぞ。
無難にこなしていたはずだ。ぼそぼそしたピタパンや水っぽい細切れ肉を作業的に頬張りながら、相手を何やら揶揄って可愛らしい文句を誘い、衆目の許す範囲でじゃれあうふりに興じてみせて。そうして休憩テントに戻り、「また後で」と明るい声で言い交わしてそれぞれの持ち場に戻れば、あとは仕事に打ち込むことで何かを忘れようとした。……それがいったい何なのか、ギデオン自身もよくわからない。とはいえ結局その程度、おそらく大した問題ではないし、気に留める必要もない。そのはずだ。
──だがしかし、大抵の場合。よりによってこういう時に、間の悪いトラブルが降りかかるというもので。)
くそっ、アリス!
現場は今どうなってる!?
(平和だった建国祭に早くもトラブルが生じたのは、憲兵団陸軍によるマラクドラゴンのパレードが始まった時だった。並みいるドラゴン目の中でも、スコス属──翼のない四脚竜として地上を練り歩くこの生きものは、人類が完全なる家畜化に成功した数少ない魔獣であり、戦場に出る時以外は非常に温厚な性格をしている。王都育ちの人間ならば、赤子連れの母親ですらその鼻面に触れると言えば、市民の彼らへの信頼がどれほど厚いかわかるだろう。──しかしそのマラク竜が、王都の北通りの広場で暴れ出したとの急報だ。今年の建国際は警備が大幅増員とはいえ、それはあくまで、人間を取り締まる王都警察の人員であり、暴れ狂うドラゴンには対処が及ぶべくもない。故に、現場の魔法使いから魔法伝達を得た今年のコンビのアリスと共に、冒険者であるギデオンもまた、現場へ急行していたところで。
──しかし、その道中を阻むのが、そちらからどっと逃げてきた市民や観光客だった。恐慌するかれらは前後が見えていないようで、転ぶ子どもや老人が踏み潰されてしまわぬよう警察が声を張っているが、それでも統制が効いていない。王都暮らしの長い己は、この大群を避けられる抜け道を知っているし、アリスも自身の浮遊魔法で簡単に飛び越せよう。しかしどちらも、それを選ぶ考えはなかった。アリスの答えで、他の冒険者も次々に現場に来ていると知った今、混乱の酷いここを見捨てていくことはできない。故にそれぞれ最善を尽くし、ようやく警察に後を任せられる段階まで整えれば、今度こそ一目散に北通りへと駆け抜けて。──換装したさすまたに雷魔法を溜め込みながら、視界に見えた白いローブに思わずその名を大きく呼んで。)
──ヴィヴィアン!
( 終戦六十周年の節目の年を祝う特別な建国祭。恒例の警察や冒険者に次ぎ、今年は国軍の兵士たちまで。キングストン、及びトランフォードの名だたる治安維持組織が総力をあげた警備体制下。それでも起こってしまった騒動の瞬間、ヴィヴィアンとカーティスの二人組は、北通りから一本曲がった通りでパレードの進行ルート封鎖に当たっていた。最初は何か巨大なものが倒れる衝撃音、次いで上がった群衆の悲鳴に騒動の現場へと駆けつければ。もくもくと上がる土煙の奥に、寸前まで屋台だった残骸の上に立つ一体のマラクドラゴンを見咎めて。
「ッ、カーティス!!」「わぁってる!! 仕方ねぇだろ!!」と、この時。珍しく口調を荒らげたのは、単体でマラクドラゴンへ斬りかかった美貌の剣士。ビビの援護すら待たずに広場に入るなり、その巨体へと踊りかかったその無謀はしかし、逃げ遅れた市民を守る為のものだったことに気づかなかった訳では無いが。見渡す限り、戦力になりそうな味方がカーティスとビビしかいない状態で、前線での殺戮に特化したドラゴンの逆鱗に触れることが如何に危険なことか。不幸中の幸いは、カーティスが守った一人を最後にして、守るべき市民達の避難は完了していること。いち早く到着した対魔獣の専門家である冒険者達の存在に、市民の避難と広場の封鎖に専念した警察達の動きは、表彰されこそすれ、決して責められるべきことでは無い。とはいえ、フッフッと荒い息を吐くドラゴン相手に二人では──と、改めてそのドラゴンに視線を向けかけた瞬間。ドォン!! バキッ、メリメリメリメリ!!! と、耳の横すれすれを掠めた瓦礫が、背後の屋台を一撃で破壊する衝撃音に、取り急ぎ完全無策で駆け出すと。相手は対人特価の殺戮兵器。竜騎兵の操るマラクドラゴンの相手は、こちらも同種のドラゴンか、もしくは熟練の連隊が作戦をもって対峙するもの。まかり間違っても、カーティスとビビの二人で相手取れるパワーバランスなどではなく、かといってそんな暴れ竜を広場から逃がすなどもっと有り得ない。この万全の警備体制下、この騒動はすぐさま他の冒険者たちの耳にも入り、すぐさま応援に駆けつけてくれるだろうが、果たしてそれまでどうもたせるか──と、その時。必死に見開いたエメラルドに、その文字列が映ったのは完全なる偶然だった。
類稀なる高い知能を持ち、前線では鋭い爪を振るう一方で、平時では市民とも触れ合う温厚なマラクドラゴン。その理知的な視線は、見る者の浅ましい欲を宥めさえする美しい竜だが、そんな彼らには一つ共有する欠点がある。それは──酷く、それはもう救いようがないレベルで食い意地が張っているのである。どんなに十分に餌を用意しようと、彼らのバディである竜騎兵の注意も虚しく、道端の花壇や店の商品を貪り食む姿は最早日常。最近は彼らが通ったあとは雑草一本残らぬことから、農村での導入も研究されているらしい。とはいえ、建国祭の花形である竜騎兵のパレード。誘惑の多い祭日の中を練り歩く事情上、屋台の食事に手を出さずに我慢出来る優秀な(?)個体が選別されていたはずだが──ビビの視界に映ったのは、バターと……マラクドラゴンの好物である蜂蜜がたっぷりとかかったイラストが描かれた屋台の看板。そして、その蜂蜜の種類が、"ハオマハニー"と。最近、市井で健康に良いと流行っている健康食品である高級蜂蜜なのだが。人間には様々な良い効能をもたらすガオケレナの近縁種の花から作られる蜂蜜も、確か一部の魔獣や動物には良くなかったはずと、太い尾の鋭い一撃を交わしながらその様子を観察すれば。ダラダラと溢れるヨダレに、虚ろな視線、時折腹を庇うように屈んではギュウゥ……とうなる姿は、腹痛に苦しんでいるようにしか見えず。
そうと分かれば話は早い。「顔の前まで飛ぶわ、援護して!」と共有したカーティスからの、「正気か!?」という快い承諾を背に、遥か高い位置にもたげられた首の先へと飛びついて、解毒の呪文と共に大きな動きで杖を振れば十数分後、結果から述べるにビビの推測はたしかに当たっていたようで。酷い腹痛から解放され、キュゥ……と自分の起こした惨状に申し訳なさそうに縮こまるドラゴンの隣。数刻ぶりに顔を合わせた恋人の呼ぶ声を、カーティスの腕の中で聞くことになったのは、着地に失敗して足を挫いたからで。 )
──ギデオンさん!
ね、もう下ろしてちょうだい、大袈裟なんだから……
( 普段膝上までしっかりと防備しているブーツを脱いで片手に持ち、もう片方の足で駆け寄ってくるギデオンとカーティスの間に立てば。「暴れていたドラゴンはあちらです。もう危険性はないと思うんですけど……」と、ことの顛末の説明を。「つまみ食いしたか、見物人に与えられたか……ハオマハニーによる錯乱かと思われます」と口にしたところで、よく気づいたなと驚いたのは男性陣のどちらだったか。しかし、カーティスの方はといえばすぐに「……『アナバシス』だな?」と得心の言った表情で頷いたかと思うと、「蜜をとる植物によっては、蜂蜜が毒になるなんて本当だったんだな……」と、今回の閃きがビビの実力ではなく、古代の歴史書からの引用だと、ギデオンへとバラしてくれようとするのを黙らせようとしてバランスを崩すと。──ギデオンさんに褒められたいのに!! と、その浅黒い腕に掴まってぽこぽこと頬を膨らませ。 )
──まって! しーっ、シーッ!!
なんで、バラしちゃうのよう……!
──……無事、なのか。
(後輩剣士が抱えているのは己のヴィヴィアンだと気づき、まさか重傷でも負ったかと一目散に駆け寄るも。当の彼女がひょっこり振り向き元気に返事をするものだから、がくんと拍子抜けしつつ、再び見上げたその双眸にほっと安堵の色を浮かべて。
──結局、周囲を確かめてから状況報告を聞き取るに。事故現場に到着したのは、ヴィヴィアンとカーティスの僅か2名にもかかわらず、暴れ狂うドラゴンをたちまち鎮めてみせたらしい。制圧ではなく治療によってすっかり萎れたマラク竜、その首に縋る竜騎兵がおいおいと泣いているのは、今後の相棒を案じてだろう。しかし幸い怪我人もなく、教養豊かな若手たちが原因まで掴んだ以上、殺処分という結末は遂げずに済むに違いない。この見事なお手柄に感嘆するのは自分たちのみでなく、まずは遅れて駆けつけた同業者たちと王都警察、それから逃げ惑っていたはずの大衆までもがわいわい集い。「このふたりが?」「ヒーローだ!」「さっきの的当てのお姉さんだ!」と口々に讃えはじめて──すっかり荒れた北広場、しかし今はその楽しげなこと。
直前までカーティスとじゃれ合っていたからか、あるいは片方のブーツを脱いだ格好でいるからか。一気に注目された相手がもし落ちつかない様子を見せれば、笑ってその背中を支え、辺りの瓦礫を浮遊魔法で片付けていたアリスのことを呼び寄せよう。……あら? と一瞬、ギデオンのその顔を怪訝そうに見た魔法使いは、しかしヴィヴィアンの足に気づいて、後回しにしてごめんなさいねとその水晶玉を光らせ。相手のような本職のそれほどではないにせよ、ベテラン魔法使いの呪文でその足首を癒やせたならば、これでしっかりその場に立つのに不自由はしないだろうと。「行っておいで」、そう穏やかに促しながら、大衆の前へ送り出し。)
こういう時のパフォーマンスも、冒険者の仕事のうちだ。
……ついでにあそこのやつらのためにも、ひとつ啓蒙してやってくれ。
(──かくして、大衆の眩しい視線をすっかり集めた若手コンビが、「兵隊さんのドラゴンに勝手に餌を与えないこと!」と即興の野外講話を始める、その賑やかな舞台裏。ベテランであるギデオンたちは、警察との実況見分、そして王軍や建国祭委員会との警備体制の見直しに多忙を極めることとなった。現着が想像以上にままならなかった問題は、ここでしっかりクリアにせねば次の大事故を招きかねない。ギルド内だけでの会議も連日連夜必要だろう。
……故に、これからの数日間。同棲しているヴィヴィアンとほとんど顔を合わせないようなシフトに切り替わることになったのも、ギルドのベテラン冒険者として当然の責務なわけで。)
(──一日が慌ただしく過ぎ、どうにか新たなトラブルはなく迎えられたその日の深夜。巡回に繰り出していくデレクたちを見送りながら、ひとり静かなロビーを横切り、いつもの柱の陰のベンチに重い腰をどかりと下ろす。片手で栓を抜いたのは、魔法のおかげでまだ冷えている祭土産の瓶ビールだ。それをぐいっと一気に呷り、胃の腑に染み込ませながら深々と息を吐き。そうしてようやく、ベテラン戦士としての顔を脱ぎ捨てたそのままに、前方へ投げかける目を物静かに迷わせていて。)
……!
ありがとうございます……ね、すく戻ってくるから待っててね?
( 一時はどうなる事かと思ったが、一件落着の雰囲気に祭りの賑わいを取り戻しつつある北通り広場。しかし、やはり何か言語化できる程ではないのだが──この頃には、恋人の様子への違和感は、既に疑念から確信へと変わっていた。とはいえ、何かあったかという問は先程本人から否定されたばかり。やっぱりお疲れが溜まっていることにご自分でも気づいてないのかしらと、市民たちへの講話が終わったら今度は相手を診るべく、ちゅっと軽い頬への祝福と共にかけた言い含めを、果たしてギデオンが守ってくれたかどうか。とにかく今日はゆっくり休んでもらおうと考えていた計画はしかし、建国祭の警備体制について大々的な見直しが始まってしまえば、こちらの心配も虚しく、益々ベテラン剣士は忙しくなるばかりで。 )
──……ギデオンさん!
お会いできてよかった……!
( これ、替えの服がそろそろ無くなる頃かと思って──そう数日ぶりに捉えた恋人の姿は、少しくたびれていても、それがかえって名画のように美しい。たった数日ぶりだと云うのに、運命の再会でもしたかのように相好を崩し、虫の声が響くロビーを跳ねるように駆け寄ると。相手のために伸ばし始めた巻き毛を払いながら、手に持っている包みを掲げて見せて。
本当はこんな言い訳など用意せずに、どれだけ会いに来たかったことか。相手の仕事を邪魔してはいけないと思っていても、数日前の相手の様子が気にかかってならず。いつギデオンがふらっと帰って来ても良いように、ここ数日の夕食のメニューが全て相手の好物だったことは秘密だ。せめて自分に出来ることをと、ギデオンのシャツに疲労回復の祝福をかけ、相手の私書箱にでも届けておこうと思っていたのだが。タイミング良く休憩中らしい相手の隣に、あえて掛けなかったのも、忙しい相手に気を使わせては悪いと長居はしないというポーズのつもりで。 )
お疲れ様です……お仕事、如何ですか……?
ご無理なさらないでくださいね。
……!
ありがとうございます、すぐ戻って来ますから、待っててくださいね。
( 確か、以前にもこんなことがあった。昨年の秋、当時キングストンに蔓延していた"幸福のおまじない"騒動の調査中だったか。一件落着の賑わいの中、それでも必ずビビの調子に気がついてくれるギデオンにきゅんと胸を鳴らし、楽しげな市民達に駆け寄る寸前、溢れ出る愛おしさを大好きな相手の頬に落とすと。そうして相手に触れたことで──やっぱり少しお疲れだわ、と。疑念から確信へ変わった違和感をこの場で指摘しなかったのは、紛れもなく相手の体面のためだった。しかし、この一連の騒動の後、警備体制の見直しのため、家に寝に帰ることすら難しい多忙が相手を襲うことを知っていれば、担当治療官、恋人、そして唯一の大切な相棒として、このままギデオンを送り出すことを決して許しはしなかっただろう。 )
──……ギデオンさん?
( それから数日たった日の夜更け。素朴ながら格式高く整えられたギルドロビーに特徴的な、途中から木材の色が変わるその柱の陰で、休憩中の恋人に遭遇したのは完全なる偶然だった。毎夜帰ってこられるか分からない相手を待ち、彼の好物が並ぶ夕食を、一人翌朝の寝ぼけた胃に無理やり押し込み続けること数日。そんなことや個人的な寂しさなどは構わないのだが、ただ調子のおかしかった相棒の体調が心配で。仕事のお邪魔にならぬよう、他のベテラン勢達の分も一緒に、祭りで調達してきた軽食をそっと差し入れたり、あまり使われた形跡のない仮眠室のリネンを整えたりと、警備のシフトが終わってからずっと一人でこなしていたものだから。そろそろギデオンの着替えがなくなる頃だと気がついて、一度家へと帰ってから、もう一度ギルドへ戻ってくる頃には随分と遅い時分となっていて。
そうして閑散としたロビーを眺め──こんな遅い時間まで、ギデオンは頑張っているのに、私は何もしてあげられない。そう、ここ数日、いつ玄関の扉が開く音が響くやもと、深く眠れていなかった疲労の蓄積が、思考を良くない方向へと引っ張ろうとするのを頭を振って振り払い。さっと届け物をして早く帰ろうと、冒険者の私書箱が並ぶ方へと、広いロビーをショートカットしようとしたところだった。ただでさえ薄暗いロビーの柱の陰、もう殆ど真っ暗といって差し支えない、視覚の利かない闇でさえ、その気配、その息遣いだけで愛おしい、他でもない、大好きな相手だとわかるのだから心底不思議だ。──疲れては……いるだろう。眠れているか、十分な食事はとれているか、何か辛いことはないか、そうどんどんと口から溢れそうになる質問をぐっと堪えて、確かな足取りで最愛の人に近づけば。ただでさえ大変な仕事に追われているギデオンにこれ以上負担を感じさせないよう、意図してぱっと明るい声を出し。 )
お疲れ、様です……ちょうど良かった、コレ──替えの服がそろそろ無くなる頃かと思いまして……それだけ!
……なので、今日はもうすぐ帰るんですけど、何か他に欲しいものとかあったりしませんか?
私書箱に入るものだったら入れておきますけど……
──……ああ、おまえか。
(一歩一歩こちらに近づく、くっきりとした軽い靴音。その耳に馴染んだリズムに揺れていた意識を戻し、視線をそちらへと向ける。そこに立っていたのはやはり、公私共に相棒である後輩ヒーラー、ヴィヴィアンだった。──何故だろう、たかが数日やそこらのはずが、もう長いこと会っていなかったような気がする。
だというのに、呟きながらふわりと和んだ己の瞳は、すぐに相手のそれから外れた。ベンチから重い腰を上げ、「大丈夫だ」と笑いながら相手のすぐ傍まで行って、持ってきてくれた包みを手元に受け取るその際中も、表情こそいつも通りでも、終始目を合わせない。その自覚もない──無意識だ。それでいて、穏やかにかける声だけは、上辺ばかりがいつも通りで。)
悪いな……おまえも長時間のシフトだったろうに。そっちは大事ないか?
──ああ、フリーダたちから聞いてる。今年も例のひったくり犯を捕まえたってな、よくやった。
(そこでようやく相手に目を向け、労うような微笑みを。だがしかし、相手の顔に少しでも違和の色が浮かべば、その気配が立ち昇る前にまたすぐ逸らしてしまうだろう。──これが一年前であれば、たった今の声掛けだって、別に大しておかしくはない。ギルドの先輩冒険者として、かつては相手にこんな風に口を利いていたはずだ。
しかし今……この一年、本当に様々なことを共に経験してきた今、どこか肌寒い空白をわざと置いていることは、ここまで来れば流石に多少、きまり悪く自覚して。それを有耶無耶にするように、「……すまない、少し疲れてるんだ」──この言い訳なら相手が強く踏み込めないのを知っていて使うのだから、奥底で疼く自己嫌悪で額の眉間に皴が寄る。それをぐ、ともみほぐしてから、一瞬躊躇うような沈黙。視線は足元の宙で揺れ、しかしすぐにごくかすかにかぶりを振って、思考を切り替えた様子を見せる。実際、疲労はたまっているのかもしれない──思考力が落ちていた。日中浴びた真夏の熱が、頭の奥に鈍い痛みを残し続けるせいだろう。それでも本当に大事なことは腐っても間違うまいと、相手の持ってきてくれた包みをロビーの椅子に置いてから、促すように歩きはじめて。)
──……昨日の晩も、祭で悪酔いしたやつらが未遂事件を起こしたばかりだ。
この時間の夜道は危ない……送ってく。
いえ、ギデオンさんの方がもっと大変ですもの──……そう、ですよね。本当に、お疲れ様です。
( 久々に会えた喜びで、内心すっかり浮き足立ってしまったが──そうだった、と。数日前から改善するどころか、ますます悪化しているよそよそしい態度、合わない視線、そんなギデオンの対応に、ほころんでいた表情をみるみるうちに俯かせると。踏み込んでくれるなとばかりに付け加えられた発言に、思わず言葉を詰まらせて。それは決して相手の言葉を疑った故ではなく、寧ろ気丈なギデオンがここまで疲れ果てているにも関わらず、無力な己を呪ってのことだったが。果たして葛藤する年上男の目には、どう写ったことだろう。 )
──……待って!!
ありがとうございます、でも大通りを通って帰りますから、一人で大丈夫です。
( そうして、歩き出した広い背中に、慌てて太い腕に抱きつくようにして引き止めれば。これ以上、疲労の恋人を煩わせてはいけないと、つい真剣になってしまった表情を誤魔化すように、ぱっと笑いながら万歳の要領で手を離し。しかし、貴重な相手の休憩時間を邪魔したくない気持ちと同時に、久しぶりに会えた相手との時間が惜しい気持ちもまた事実で。相手を促すようにギルド側へと下がりながらも、良いことを思いついたとばかりに、静かに掌を合わせれば。殆どは相手を休ませてあげたい純粋な善意と、あとは無意識に自分の有益性を誇示したい、褒められたい気持ちがちょっぴり。先程まだ誰も使用していないことは確認したし、これくらいの公私混同なら許されるだろうと。他でもないギデオン本人から拒否される可能性など微塵も考えていない様子で、ほこほこと楽しげに微笑んで。 )
……そうだ!
そしたら代わりに仮眠室まで、私におくらせてくださらない?
さっきシーツ干したばかりなの、短時間でも横になると違いますよ。
(これがいつものギデオンならば、ヴィヴィアンの声に満ちあふれている温かな気遣いや、その明るい笑顔が隠すほんのかすかな不安のひずみに、きちんと気がつけたのだろう。しかし人間──特に、己の全盛期に優れた体力を誇った者ほど──心の弱りに忍び寄る、古い魔物を知らないものだ。
故にこの時のギデオンは、全てに奇妙に……ある意味素直に、様々に反応した。相手に縋りつかれた瞬間、真顔のままに目だけを瞠り、そこにかすかな光を浮かべ。しかし彼女の細腕があっさり離れていった瞬間、その輝きは脆くかき消え、代わりに古戸が軋むようにぎこちなく振り返る。──狼狽、恐れ、猜疑、強情。そんな暗色の表情ばかりが入れ代わり立ち代わり、鈍く浮かんだその面差しは、やがてふいと横に逸らされ。数秒の沈黙によってくっきりと浮かび上がってしまった、深夜のロビーの静けさの中。やにわにぶつけたその声は、それまでの胸中を碌に語らなかった癖して、今度ははっきりと硬質な響きを持つように加工していた。)
──いい。必要ない……そこまで酷く参っちゃいない。
第一、ヒーラーのお前が取れる休みを取らなかったら、明日の他の奴らの支援に影響が出かねないだろう。
(言葉の喉越しに苦味を感じないわけではなかった──しかし一度鎧いだすと、そこから先はもう止まれない。短く鋭いため息を吐き、椅子に置いた包みを拾って、相手に構う素振りも見せずにロビーの一角を横切っていく。先ほど飲み乾したビール瓶、それを片隅の回収箱へ突っ込むだけの野暮用をしたかった。そうしてすっかり距離を取り、広い背中を向けたまま、ふとエントランスの外に固い視線を走らせたのは、巡回から帰ってきた女子冒険者らに気がついたから。人数にして三、四人……どれも新人ばかりだから、これから上階で私服に着替えて、年長者が予め呼んでいたギルド直雇の乗合馬車で各々の家に帰るのだろう。相手もあれに乗っていくなら、或いは己が送らなくとも、“それぞれ休めるかもしれない”。
そんな考えを言外に滲ませるように、間もなくこちらに来るだろう彼女らの方向を軽く手ぶりで示しつつ。依然用いる声色に、ますます“ベテラン冒険者”らしい、理性を繕った響きを乗せて。)
……もしも、私生活のせいで……そこまでしないと落ちつかないって言うんなら。
この祭りの期間中は、普段のことは忘れてくれ。──お互い、仕事に専念すべきだ。
──……、…………。
( ガラン、と。ガラス製の瓶が木箱を叩く無機質な音、大好きな相手の突き放すような冷たい声音。気持ちが通じ合った春のあの日から初めて、二人の間に空いたその距離に──一切、そのまっすぐなエメラルドが揺らぐことはなかった。それどころか、一歩そのまま歩み寄り、「……“忘れてくれ”?」と投げ放たれた暴言を今一度呟くように反芻すれば。もしかすると、投げかけられたヴィヴィアンより余程動揺している男の表情を見て、小さく微笑みかけすらするだろう。 )
……"すべき"、だなんて。
少なくとも、私が"すべき"かどうかは自分で決めたい、かな。
( どれだけギデオンのことだけを見つめてきたと思っているのか。その頑なな表情が、言動が、文字通りの拒絶や嫌悪ではなく、彼が一人追い詰められている時のものだと云うことを、もし見抜けないと思われているなら心外だ。とはいえ、まさか本人がその正体を理解出来ていないとは流石に見抜けず、素直に信頼されていない、相談すらして貰えないほど頼りにされていないのだと誤解すれば。その口調や表情こそ穏やかに装えど、その大きな瞳を覗けば、恋人として、そして相棒として、その内心怒りに満ちていることは明らかで。しかし、今目の前で困窮しているギデオンを更に困らせるような真似がしたい訳では無い。故に、久しぶりに触れる頬へと手を伸ばし、体力回復の祝福だけを無言でかけると。到着した馬車の方へと向き直りながら、冷静に双方の冷却期間を提案したつもりで、ギデオンの表情を確認しそびれた程度には、頭に血が上っていたらしい。 )
しばらく家には帰りません。
どうせお力にはなれませんもの……私より"大切なお仕事"が終わったら、迎えに来てくださる?
( とはいえ、それから幾日たっただろう。駄々を捏ねて転がりこんだ先は、ギルドからほど近いリズの部屋。つまり、バルガスからいち早く居場所の特定はできるに違いない上、祭日の警備シフトにも毎日予定通り出勤している以上、必要以上の心配はかけていないだろうと云うのがビビの算段だったが果たして。ひとつ誤算があるとすれば、一見クールなようでいて、情に厚い友人の口の硬さを見誤っていた事で。 )
(すっかり静まり返った中で篝火だけが時折爆ぜる、真夜中のギルドロビー。そこに立ち尽くす愚かな男は、娘が毅然と消えていった闇の向こうを眺めたまま、未だ青い目を惑わせていた。……結果的には、ほとんど望んだとおりのはずだ。これからしばらく構わなくていい、冷静に距離を置かせてくれ。自分は確かにそう主張して、彼女もそれを聞き入れた。ただし予想外だったのは、彼女のあの揺るぎなさ、静かに放っていた怒り──そしてサリーチェを去ったこと。何をいったいどうしたら、彼女まで“家に帰らない”などと言い出す羽目に繋がるのか。……それがわかる男であれば、こんな事態にはならないわけで。
足元に視線を落とし、やがて彼女が残していった着替えの包みを回収すると、エントランスに背を向けて上への階段を昇り。熱いシャワーで汗を流して、ひとまず替えの衣服に着替え、また別の階へと移ると。ベテラン用の仮眠室でも未だ替えられるとこのない、五十年モノのぼろの寝台……しかし誰の気遣いだろうか、いつにも増して清潔なリネンが敷かれたその上に、連日残業続きの躰をようやくのことで横たえて。だがしかし、隣にある若手用の大部屋から元気ないびきが聞こえなくとも、こうして目が冴えたことだろう。
何度も瞼を閉じては開けて、闇の天井に蘇るのは、強い光を跳ね返すあの大きなエメラルド。『少なくとも、私が"すべき"かどうかは自分で決めたい』──何を今更、言うまでもないだろう。彼女は元から自分とこちらを切り離しているではないか。だからこちらも、相応に構える必要が出たというのに──歪んだ顔を片手で覆い、重苦しいため息を吐く。苛立ちが胸に渦巻く、だがどこか決まりの悪いむかつきまで込み上げてくるのは何故。
寝返りを打ちながら、うつらうつらと眠りに落ちる。夢を見たような気もするが、ごちゃごちゃと乱雑なばかりで、起きた後には覚えちゃいない。だがしかし、夜明け前には覚醒してまたすぐ動きだしたとき、ふと明確な違和感を覚えた。ごく短時間、何なら気分の悪さに苛まれながら横になっただけなのに、驚くほど体が軽い。まるで昨夜からたっぷりと熟睡したかのような──良質な支援魔法を、絶えず受けているかのような。
気づけば頬に伸びていた手を、しかしすぐに、どこへともなく目を逸らしながらぎこちなく引き下げる。──得られると思ってはいけない。くだらない夢は忘れて、ただ現実に、仕事に打ち込め。これまでだってそうやって、上手く乗り越えてきたはずだ──それで正常になるはずだ。)
*
(……何やら、他方のジャスパーが不機嫌だったという噂を聞くが。ギデオンと同じ班だった若手冒険者や見習いたちは、地道な役に徹しながら着実に仕事をこなすギデオンの背中から、この夏実に多くのことを学んでくれていたらしい。ギデオン自身にしてみても、後輩たちが裏方を厭わず奮起してくれるのは、見ていて気分の良いもので、いつにも増して育成に精が出る日々を送った。だがそれは、結局のところただの現実逃避に過ぎず。己以上に各所で大活躍を誇ったヒーラー娘の評判に無関心を気取ったツケは、すぐ回ってくることとなる。
祭も終盤となった夜。班の出番はほぼ終わり、明日はシフト調整により時短勤務となる段で、ギデオンはようやく一度ラメット通りに帰還した。ベテラン用の仮眠室が諸事情で満員となり、近場に自宅のある者が帰らぬ道理がなくなったのだ。本当はどこか、近場の宿にでも泊まりに行こうと考えたのだが、何せ今年の建国祭は来場者数が桁外れ、王都東部の宿泊施設はどこも当然満杯で。それならば仕方ない、ほんの数時間戻るだけ、最低限寝に帰るだけだ。そう自らに言い聞かせながら玄関扉を開けた時、しかしギデオンを圧倒したのは。
──明かりひとつ灯らぬ我が家の、しんとした……静けさだった。)
(……何も、動じることはない。明日の準備をするだけだ。
壁の燭台に灯をつけて、玄関脇に荷物を下ろす。そこから取り出したこの数日分の衣類を魔洗槽に突っ込んで、買ってきた安上がりの夜食を広いダイニングテーブルに置く。辺りを見回す、ソファーにも勝手口にも人の気配はまるでない──空き巣を警戒しただけだ。ざっとシャワーを浴びてから、魔導コンロを軽く熾して夜食のひとつを火にかけた。だがすぐに止め、温いそれを胃の中に詰め込んで、匙が進まず残った分を明日に回すことにする。ぴかぴかの食器棚からガラスの器を取りだし、次いで食料棚へと移る。扉を空けるとほとんど空だ、保存のきく食材以外は一度処分してあるらしい。顔を逸らして扉を閉ざし、浴室へ行って歯を磨き、その間鏡を見ないまま、洗い終わった衣類を干して、一度玄関の方へと戻る。鞄から引き抜いたのは明日に向けての仕事の書類で、ソファーにどっかり腰を下ろすと、四、五枚ほどに過ぎないそれに時間をかけて目を通す。二周、三周──疲れているのか、頭にあまり入ってこない。何とはなしに玄関を見て、すぐに書類へ目を戻す。これを書いて寄越したのは、いかつい見てくれに不似合いな達筆の主フィリベールだが、どうも調子が悪いのか、今日の奴の筆記体は目が滑ってかなわない。書類を諦めて脇に置き、沈み込むように頭を覆う。首に手をやり、ため息を吐く。そこで初めて気がついた、どうにも気分が落ち着かないのは、耳鳴りがうるさいせいだ。サンソヴィーノの大窓を見る──越してきたときは気づかなかったが、嵌め込み式の魔導回路の悪影響でもあるのだろうか。フェニングに問い詰めなければ。
とはいえ、今夜は何もできない。横を向き、また息を吐き、意を決して腰を上げる。階段を昇っていくが、寝室で休むつもりはなかった。明日は数日ぶりに朝から素振りをする気でいるから、どうせ三、四時間の睡眠をベッドで寝るのも馬鹿馬鹿しい。ブランケットだけ回収したらソファーでしばらく横になろう、そう考えて部屋に踏み込み、辺りにあまり視線を向けず目当てのものだけ回収する。そうして足早に階段を降り、壁の灯りを吹き消して、寝入ろうとした……その、はずが。
ソファーに横になる前に、ばさり、と布をを広げた瞬間。ふわりと鼻に届いた香りに、がつん、と頭を殴られた。思わず後ろに軽くよろけて、思考を振り払おうと必死にかぶりを振るものの。感覚にじかに働くそれが──この家に一緒に住んで早二ヵ月、すっかり手に入れていたはずのヴィヴィアンの髪の香りが──しかしこの数日で、古く薄れつつあるそれが──思考を、たちまち呑み込んでいく。
──彼女はどこだ、今どこにいる。今はだれと、どうしている。
──……別に失踪したわけじゃない、ちゃんとギルドに来てるじゃないか。大げさに案じなくていい、以前と変わりないだろう。
──違う、今の、彼女は、どういう。いったい何のつもりで……今は、何を考えて。
──……わかりきっているだろう。彼女自らこの家を出た。お前がまともになれるまで、お前とといるのを望んじゃいない。
──……約束を守れないのか? 仕事を終わってからにしろ、お前の“責任”なんか要らない、そう言われていたはずだ。
ここ数日の内なる声が寸断なく口を挟むが、以前よりも必死なそれは、リビングを歩き回る落ち着きのない足音に、暴れ回る胸の鼓動に、たちまちのうちに掻き消されていく。──彼女が行方をくらませた先が、おそらくいちばんの親友だろうエリザベスの家でないことは、昨日受付で本人にかぶりを振られて知っている。スヴェトラーナも違うというし、アリアは今不在の身。マリアは幼い息子がいるから、良識のあるヴィヴィアンが闇雲に頼るはずもない。ならばどこだ、どこにいる──ひとりで宿でも取っているのか? 浮かれる王都に漬け込むような物騒な事件があったと、この前話したばかりだろうのに。こんなに簡単に出ていけるのか──二度と戻ってこないつもりか──こんな、こんな……呆気なく、消えてなくなるものなのか。
実際に凍り付いていたのは、恐らく数秒のことだろう。しかし目まぐるしい思考、噴き出すような感情に、この数日の平静を無理に守っていた意固地の箍が、とうとう派手に撥ね飛んだ。──玄関脇のキーフックから家の鍵だけ引っ掴み、トレーニングにも使っているいつもの夜着の格好のまま、夏の夜道に飛び出していく。見当がつくわけでもなければ、彼女と何を話そうと考えていたわけでもない。ただの短絡的な衝動、どこをどう見ても繕うべくもない愚行──そうとわかっていながらも、それでもラメット通りを駆け抜け。道行く乗合馬車の御者に気をつけろと怒鳴られながら、いつの間にやら駆け込んだのは、ギルドからそう遠くない住宅街の路地裏で。)
( 冷静を欠いた勢いのまま、サリーチェの家を飛び出て早数日。あの晩はあれが正当な怒りだと、建前ではなく、本当にもっと頼って貰えた方が嬉しいのだと示したつもりでの行動だったが。──果たして、あれは本当に正しい振る舞いだったか、頼って貰えないのはビビの実力不足で、愛しい人をさらに追い詰めただけではなかったか。度々、『忘れてくれ』と。あの冷たく鋭い声を思い出しては、嫌な動悸に酷く心臓を痛めつけられ。──もし、ギデオンさんが迎えに来てくださらなかったら。素晴らしい彼には、もっと相応しい人がいると気づかれてしまったらと。自ら帰らないと宣言しておいて、自分でも一体何をどうしたいのやら。そうして、心の内は嵐のようにぐちゃぐちゃに荒んでいようとも、忙しい仕事に友人にと、目の前のことに集中していれば、時間は無情に過ぎ行くもので。)
*
( その晩も、ここ数日の恒例通り。居候させてもらっている家主と、お互いのシフトが終わるのを待ち合わせれば、祭りの出店で本日の夕飯を見繕う。そうして、長くない家路をぺちゃくちゃと、実の無い話に花を咲かせていたものだから、同時刻、大通りで起こっていた喧騒とは縁遠く。「……っ、ビビさ、」「大丈夫、気づかない振りして」と。深夜の路地裏に二人、やっと自分たち以外の不審な気配を認めたのは、目的の借家も目の前の、人通り少ない路地に入ってからで。──別に何も無ければ、ただの酔っぱらいであればそれでいい。しかし、この遅い時間に目的地へと急ぐでもなく、ふらふらとどこか頼りない足音に、普段はリズが一人で暮らす住所を知られてしまうのが一番まずいと。彼女だけを先に彼女のアパルトマンへ急がせれば、腰の獲物へと静かに利き手を滑らせる。そうして、ギデオンと高級住宅街で暮らし始めてからは無くなっていた、女にとって避けがたい久かたぶりの緊張に息を飲めば──最初は見間違いを、その次は、会いたい気持ち強さにとうとう幻覚でも見だしたかと、自身の正気を疑った。 )
──……ッ、ギデオンさん!?
( 約束通り自分のことを迎えに来てくれたのだ、とは思わなかった。着の身着のまま飛び出してきたと言わんばかりの格好に、普段の規律正しさなど見る影もないやつれた足取り。兎にも角にも、彼の全身から溢れ出す緊迫感に、市井で何か事件や事故でも起きたのやもと思えば、ここ数日の蟠りなど二の次で。一切の私情や甘えの滲まない、真剣な顔で駆け寄って。 )
何か……何があったんですか!?
被害状況は! ギデオンさんもお怪我は……
(──もしもあの時、横から迫り来る馬車を飛び退って避けた直後に、乱れた息を整える数拍を置いていなければ。もしもあの時、飲み屋の煩い騒ぎを嫌い、客引きの立つ通りを疎んで、こちらの地区に駆け込まなければ。もしもあの時、ヴィヴィアンとエリザベスが別の出店にしようと決め手、屋台料理が出来上がる数分を待つことなく帰っていれば……。思えばきっと、この広大なキングストン、その数地区に限ったところで、全く別々に過ごしていた自分たちたったふたりがばったり行き会う確率なんぞ、皆無に等しかったろう。それでも運命のいたずらか、はたまた女神の微笑みか。我を忘れて駆け回った末ふらついていたギデオンが、それでもはっと振り向いたのは──耳に馴染んだ呼び声が、闇を駆け抜けて届いたからで。
荒れ果てていた呼吸すら止め、そこに佇む女性の姿を穴が開くほど凝視する。幻覚か、と疑ったのはギデオンもまた同じ──あまねく知覚を総動員するのに必死だ。しかしその間を待たずして街灯の下に現れたのは、見間違えようもない、探し求めていた娘の姿。──いた……いた、見つかった、ここにいた。その単純な事実をじわじわと実感するまでに数秒ほども要する間、彼女が必死に確かめてくる声は、分厚い幕の向こう側をぼんやりとすり抜けていくようで。
だがしかしようやく、ようやくのことで頭が状況に追いつくと。今度は突然、まるで怖気のそれにも似た激しい震えが体の底から走り上がった。信じがたい、と言う表情──愕然と揺れる双眸。相手が何かちらりとでも不可解な色を浮かべれば、がっ、とその両肩を強く掴んで。ほとんど鼻を突き合わせるほど間近に顔を寄せながら、一帯の夜気を震わせるほど苛烈な声で怒鳴りつけ。)
──何を──してる──こんな、ところで!!!!
(こんな深夜にこの声量で、近所迷惑がどうだとか。この二ヵ月、相手の信頼を勝ち取るために細心の注意を払い続けてきた努力を自らぶち壊しているだとか。そんなことは、もはやかなぐり捨ている自覚すらしていなかった。
「正気なのか!?」──「こんな夜中に、たったひとりで!」──「何が被害状況だ!」──「おまえみたいな若い女が恐ろしい目に遭わされる事件が、そこらじゅうで、どれだけ──どれだけ起こっていると思うんだ!!」。今の自分も人のことを言えぬようななりのくせして、がくがくがくと、これまで決してなかったほど乱暴に相手を揺さぶり、怒鳴る、怒鳴る、尚怒鳴る。そうして激しい息を吐き、相手の翡翠を激しく睨みつけながら。その青い双眸に、しかし怒りだけでなく、まるで傷が疼いたような、何かの痛みに怯んだような、鈍い翳りをずくんと走らせ。)
( いかなるときも冷静沈着な相棒が、こんなにもやつれて立ち尽くすなんて、一体どれ程の被害が出たのだろうか。それとも驚異の正体が未だ近くにいるのだろうか。それなら一人で行かせてしまったリズが危ない──いや、義理深く優秀な彼女のことだ。此方に何かがあればすぐ通報できるよう、安全な場所からきっと此方の様子を伺っているに違いない。ならばとっくに寝静まったここらの住人を避難させる方が優先か、などと。恋人の恐慌した内心を慮らず、明後日の方向へと思考を巡らせていたものだから。 )
……!? な、なにって……
( 耳が破れんばかりの鋭い怒声に、肩へ食い込む強い指先。突如浴びせかけられた激情に、思わず──なんだ、と。キングストンの市民たちに何の被害もないことへと、ほっと浮かんでしまった場違いな安堵は、優しく大好きな恋人より初めて向けられた剣幕から、心を守るための無自覚な逃避で。しかし、──どうして、貴方がそんな顔をするの、と。やっと激震が収まり焦点のあった表情から、今こうしてビビを叱りつけているのもまた、いつもの優しく繊細な恋人その人なのだと実感すれば。その憔悴しきった表情に、どうしようもなく胸が締め付けられるのは、愛しているのだから当然のことで。そもそも、なにか事件があった訳でもなければ相手こそ、どうしてこんな時間にそんな格好でここにいるのか。いや、彼の様子がおかしかったのはもうずっと前のことからだったか。愛しい人に健やかにいて欲しいだけなのに、一体全体どうしたものか。あくまでどこまでも静謐に、その憤懣遣る方ないといった怒りの中に、蹲るような怯えが潜むアイスブルーを見つめ返すと。最早怪我をした野生動物のような恋人自ら拒まれなければ、やつれてもなお美しいその薄い頬をそっと指先で撫でるだろう。 )
……ご心配おかけしてごめんなさい。
でも、……いいえ。ねえ、ギデオンさん。私はどうすれば良いのかしら?
こんなに大好きで仕方ないのに……最近は、全く伝わってないみたい。
────……!?
(切実な祈りを込めてのなりふり構わぬ威迫のほどは、無謀がちな恋人にどれほど届いたことだろう。それをしかと確かめるべく、相手の顔に目を凝らし──だからこそ、反応が遅れた。その暖かな指先が、己の頬を労わるように慰撫することを許すまで。……こちらを見つめる翡翠の瞳が、怯えでも、反発でもなく、深い深い慈愛の光を湛えていると気付くまで。
根が生えたような硬直は、実に数秒間ほども晒していたに違いない。いきりたっていたはずの呼吸すら完全に静止して、その不自然さに自覚のないまま見つめ返していた矢先。突然まじないが解けたように反射的に顔を逸らすと、掴んでいた両手を力の抜けるように下ろして、我に返ろうとするかの如く浅い息を繰り返す。何故そんな顔をしている──もしや伝わっていないのか、いやちがう、彼女はきちんと理解している、だがしかし今見据えているのは、全く別の……ならばどういう、なぜ俺を見てそれを、第一どういうわけなのだ、どうすれば良いのかなんて、俺の方こそ──ずっと、毎晩。大好きで仕方ない、最近まったく伝わってないだなんて、伝わるも何も、こちらから言うまでもなく、相手のほうこそ家を出て遠ざかっていたはずだ。愛想を尽かしていたはずだ、遂に現実に立ち戻らせてしまったはずだ。愛想を──そうだ、俺は──目を大きく瞠る──約束を、また、守らなかった。)
──……ちがう。
ちが、うんだ……
(思わず口から零れ出たのは、情けないほどの震え声。この瞬間、魔剣使いのギデオン・ノースは、その見る影もないほどに弱々しく成り果てた。──かろうじて触れていた手をとうとう離し、軽く半歩ほど後ずさりながら、魔素切れで揺れる街灯を背に、昏い翳りに逃げる顔。そのくせ尚も口走るのだ、「おまえがどこにいるのか、無事なのかを確かめたかった、それだけで……」「お前の言うことを──違う、約束を破るつもりは」と。どこを見るでもないはずなのに激しく揺れる目の動き、どんどん凍り付くように強張っていく己の躰。脳裏ではこの決定的な醜態を自覚出来ているはずで、故にけたたましい警鐘がガンガン鳴り響いていながらも、異常を来たす思考回路は恐ろしいほどの無音となって、意識をどんどん巻き込んでいく。──柔らかな愛情で包まれれば包まれるほど、それに己に見合わぬことが浮き彫りにされていくようで、恐ろしくなっていく。
蘇るあの日の記憶、あんなに愛してくれたはずが二度と会えなくなった母。渇望した罰として齢七つの骨身を鞭打つ、真冬の原野のあの寒さ。大事なひととの約束は、それがどんなものであっても、決して、二度と破るまいと胸に誓っていたはずだ──忘れていたわけじゃない。だがどうして、ずっとずっと後に出会った相手の愛情に溺れるうちにだらしなく緩んでいたのか。ならばどうか、今度は決して緩まぬように己を律してみせるから。だからほんの一縷だけでも、それすら烏滸がましかったとしても。
それまで、きっと長いこと相手の働きかけがわからず迷走していた双眸が、ようやく再び相手をみとめる。そしてその瞬間、相手の瞳を見つめた瞬間、一歩その場から踏み出したのは、ほとんど捨て身にも近い、ギデオンなりの決死の勇気。己よりずっと年下の恋人に、こちらを見上げるそのかんばせに、再び上から近づくと。ほんのかすか、去年の今よりもまだずっと浅い距離感で、おずおずと屈みこんでは、絞り出すような、小さな、小さな掠れ声で、相手の慈悲に嘆願し。)
……頼む。一度、だけで、いい……やり直しをさせてくれ。
今度は、ちゃんと……うまく……やるから……
──……!?
( 数日前のヴィヴィアンは、「迎えに来て」と、確かにそう伝えたつもりでいたのだが。肝心のギデオンへ伝わるまでに、一体何が拗れてしまったのか。相棒が苦難に面している時に、役に立たなかったビビが愛想を尽かされるのであればまだしも。その逆はといえば、あまりに晴天の霹靂でしかない大きな誤解に、心外で堪らないといった表情で、大きな瞳を瞬かせて。
それでも、必死な瞳に捉えられれば、不謹慎にも。根本的に強がりで、すぐに独りになりたがる相手が、一歩踏み出してくれたことが愛おしくて。まずは一刻も早く、この人の不安を取り払おうと、その薄い頬を撫でていた指を翻すと、改めて両掌で柔らかく包み直して。 )
……もちろん。
ギデオンさんは約束通り、迎えに来てくださったじゃないですか。
ありがとうございます、大好きよ。
( 本来であれば、すっかり熱の冷めた恋人関係を、再び同意の元で構築し直す。そういった意味では"やり直す"必要も──なんなら、"うまくやる"必要でさえ、一切必要ない。普段は冷静沈着にも関わらず、時々どうしようもなく不器用で、愛情を求める子供のようにいたいけなひと。それもまたギデオンの一面なのだから、彼は一生このままで良い。それについてや、今回の誤解の原因、そしてそもそもの不調についても、改めて話し合う必要もあるだろうが。それでも今は、大好きな相手の心からの笑顔を見たい一心で、そっと顔を近づけて。 )
……それにね、一度だけなんて、言わないでください。
一生隣にいるんですから、何度だって迎えに来て貰わなくちゃ。
(末尾の口調の修正です。内容は全く変わりません。)
──……!?
( 数日前のヴィヴィアンは、「迎えに来て」と、確かにそう伝えたつもりでいたのだが。肝心のギデオンへ伝わるまでに、一体何が拗れてしまったのか。相棒が苦難に面している時に、役に立たなかったビビが愛想を尽かされるのであればまだしも。その逆はといえば、あまりに晴天の霹靂でしかない大きな誤解に、心外で堪らないといった表情で、大きな瞳を瞬かせて。
それでも、必死な瞳に捉えられれば、不謹慎にも。根本的に強がりで、すぐに独りになりたがる相手が、一歩踏み出してくれたことが愛おしくて。まずは一刻も早く、この人の不安を取り払おうと、その薄い頬を撫でていた指を翻すと、改めて両掌で柔らかく包み直して。 )
……もちろん。
ギデオンさんは約束通り、迎えに来てくださったじゃないですか。
ありがとうございます、大好きよ。
( 本来であれば、すっかり熱の冷めた恋人関係を、再び同意の元で構築し直す。そういった意味では"やり直す"必要も──なんなら、"うまくやる"必要でさえ、一切必要ない。普段は冷静沈着にも関わらず、時々どうしようもなく不器用で、愛情を求める子供のようにいたいけなひと。それもまたギデオンの一面なのだから、彼は一生このままで良い。それについてや、今回の誤解の原因、そしてそもそもの不調についても、改めて話し合う必要もあるだろうが。それでも今は、大好きな相手の心からの笑顔を見たい一心で、そっと顔を近づけて。 )
……それにね、一度だけなんて、言わないでください。
一生隣にいるんですから、何度だって迎えに来ていただかなくちゃ。
────……
(“一生隣にいるんですから”。何てことのないように娘が告げたその一言は、思い返せばほんの数日、しかし本当に長いこと狂っていたギデオンの目に、理性の光を取り戻させる。無論、その恐れの波はすぐには退き切らないものの、それでも気づきの兆した顔で相手を見つめ返してみれば……はたして、そこにあるのは何だ。
花火の夜、雪深い晩、サリーチェの我が家の鍵を初めて渡したあの昼下がり。この一年の日々のなかで幾度となく目にしてきた、温かな慈愛に満ちたヴィヴィアンの表情は、どこも、何にも、何ひとつ、己の記憶に刻んだそれから変わってなどいなかった。……そうだ、彼女は変わらない。こうして何かに竦む自分を、彼女はいつも、ほんの一歩踏み出せば届くような近さから、優しく待ってくれている。己がこうして傍に行くこと、彼女を欲してやまないことを──彼女も、望んでくれている。
は、と熱い吐息が零れた。普段は重い魔剣を振るう幅広の双肩からは、情けないほど力が抜け落ち──その安堵の脱力のまま、そっと、こつんと額を寄せて。わずかに擦りつけてみれば、相手も同じようなしぐさで応えてくるのがたまらない。今度はこちらもおずおずと相手の頬を両手で掴み、そのすべらかな小さな顔を指の腹で撫でながら。今度こそ、きちんと素直に、己の本音を伝えてみせて。)
……わる、かった。遅くなった。
一緒に、帰ろう……帰って、きてくれ。
*
(──それからの帰り道。数日ぶりに並んで歩く懐かしさを味わいながら、まずは取り戻していくように、何てことのない会話を交わした。
ここしばらくのヴィヴィアンがその身を密かに寄せていたのは、やはりエリザベスの家で間違いがなかったらしい。アパルトマンの窓越しに見守っていたという彼女に、あの後きちんと詫びに行き。ヴィヴィアンが世話になったと頭を下げたその時ですら、人形のように美しいカレトヴルッフの受付嬢は、その淡々とした表情を一ミリたりとも動かさずにいた。──昨日あいつに訊いたんだ、ヴィヴィアンが来てないかって。その時もあの顔で、知らないなんてきっぱり言うから……だからてっきり別のところに、エリザベスを頼らないなんてよっぽどのことと思ったと。少しばかりの気恥ずかしさに笑いながら打ち明けて、相手のくすくす笑う声に、また心が軽くなる。相手のいつもどおりの反応、何も変わらぬその様子に、胸に巣食っていた影がどんどん薄れていくのを感じる。
──だから、そう、必然なのだ。サリーチェの我が家に帰り、リビングの明かりを灯し、夕食がまだだったという相手のそれを温め直して、まずは相手の腹ごしらえを優先させる……そのはずが。相手が屋台の紙パックを行儀よく膝に抱えて食べているのを良いことに、広々としたソファーの上でその体ごとすっかり抱き上げ、腹の辺りに腕を回して、後ろから密に抱きしめる。これは別におかしくはない、こちらも今まで通りの仕草を取り戻しているだけなのだ。食べにくい、と相手が笑えば、こちらも笑って理解を示すふりこそすれど、ますます両腕の輪を狭めて逃しはすまいとするだろう。そうして時折、相手がこちらに取り分けてくれていた分を、そもそも元が足りないだろうと固辞していたはずの癖して、その殊勝な口許に匙を運ばれればまあどうだ。これはクミンだ、カルダモンが、このナッツは鉄鍋での乾煎りの甲斐が云々。相変わらずの煩さを遺憾なく発揮するのは、だがしかし、こうしてどんどん夜が更けるにつれ、きちんと相手と話す時機が迫っているのを感じるから。──ある程度腹がくちくなり、弱めの酒も入れたところで、やっときちんと相手と向き合う。しかしそこには、最早いたずらな不安は混じらず。代わりに、己なりの誠意として相手に事情を共有するべく、ゆっくりと言葉を探す慎重な動きの視線で。)
…………。……ここ数日、いろいろと……すまなかった。おまえに、あんな風に振る舞っていい道理はなかった。
上手く言えないが……そうだな。
“責任”を果たす力がないと、思われるんじゃないかってのを……俺は、いちばん恐れて……いいや。恐れすぎてた、ように思う。
──ええ。
ただいま、ギデオンさん。
( 最初に違和感を覚えたのは、祭りの灯りが賑やかな通りを急ぐサリーチェへの家路、途中、大の大人が二人並んで歩くには少々辛い未舗装の狭路。そのたった数メートルを通り抜ければすぐまた道幅も開けるというのに、いつも完璧なエスコートをしてくれるギデオンには珍しく。此方をがっちりと握り込んで離さない拳のせいで随分歩き辛い思いを。
それから、これは慣れ親しんだ我が家に帰って来た後。流石に繋いでいた手は離したものの、こちらの食事を急かしてついて回る恋人に、「ご飯もですけど……まずは汗を流してきても?」と──それは決して変な意味ではなく。後の話し合いに向け、済ませられることは済ませておきたいと。要は言外に、一旦離れていただけますかと伝えた要望だったのだが。そんな此方を尻目にして、いつの間にか手中にしていた紙パックを、目の前でホカホカに温め直して差し出してきた恋人は、果たしてビビのお願いが純粋に聞こえていなかっただけなのか、それともさり気なく黙殺にかかったのか。
極めつけに、「ひゃあっ……!?」と、食事中のところを出し抜けに持ち上げられて。何とか零さずにすんだ包みをぎゅっと抱きしめながら、背後の犯人を振り返れば。どうして返り見られているのかなんて、全く見当もつきませんとでも言いたげな、白々しい確信犯を前に(後ろに)して。──ああもう、本当に仕方のない人……! と。ギデオンを神格化するにかけては右に出る者はいないヴィヴィアンも、流石に声を上げて笑うしか無かったのだった。)
……責任?
( そうして形無しになった恋人へ、「あーん」と楽しげに給餌したかと思えば、膨らんだ頬を愛でまくり。ギデオン手ずから膝の上へと引き上げられたのを良いことに、視線の下になったつむじをなぞって可愛がること暫く。やおらに正気を取り戻し、真面目な話し合いに移った様子の相手を認めれば、こちらもまや真剣な表情で相手の顔を覗き込むも、その言葉選びがあまりに慎重すぎる故に、真意を理解するには一歩及ばず。──"責任"という言葉に思い当たる節がない訳では無い。しかし、いずれの場合でも、自分はその"責任"をとる必要はない、という文脈で使ったのではなかったか。ギデオンの負担を減らしこそすれ、こうして悩ませるための言葉では一切なかった筈なのだが……。もしかして、男性としての沽券に関わるとかそう云う類のものだろうか。そう一瞬あれこれと考え込みかけて──いけない、と。こうして双方勝手に考え込んだ結果が今回の不安ではなかったかと思い直せば。その叫びの一切を取りこぼさないように、けれども心の柔らかい部分を決して踏み荒らさないよう、じっと静謐な瞳で相手を見つめて。 )
最近のことは……いいの。私も、急に出て行ったりしてごめんなさい。
でも……何が、恐いのか……、
ギデオンさんの仰る、"責任"って……なぁに?
(相手の美しく澄んだ瞳が、こちらをじっと、注意深く窺っている──自分をよく見てくれている。たったそれだけの小さなことで、“ようやく取り戻した実感がまだ足りぬ”と謂わんばかりにきつく狭めていた腕がごく自然に緩むのだから、つくづく己は単純だ。
その愚かしさを誤魔化すように、「そうだな……」と微かに笑むふりをしながら、青い目を伏せ、数秒ほど沈黙を。言葉を取り繕う真似を冒さなくなっているのは、必要なだけ待ってくれると、相手を信じているからで。「……、」「…………」と、幾度か口を開きかけては、これは違う、そうじゃない、と視線を左右にさ迷わせていた──その果てに。)
……おまえの望みに、応えること。
だから、そのために必要な……ありとあらゆる努力や義務を、毎日、欠かさず行うことだ。
(ぽつりぽつりと呟きながら──脳裏に、声が蘇る。『ギデオンさん……好き、大好きになっちゃったんです! 責任とってください!!』……『責任取って、ちゃんと……私とじゃなくてもいいから、幸せになってください』……『……責任は、取らせてあげない。だからちゃんと……ちゃんと、貴方の気持ちを聞かせてください』。
思い返せばその言葉は、自分たちの関係の幕開けからその節々の変化まで、様々に象りながらも、おそらくはいつだって、ひとつの意味を貫いていた。──私は貴方と一緒になりたい、どうかその望みに応えて。──私は貴方に幸せになってほしい、どうかその願いを叶えて。──私に求められるからそうするなんて許さない、どうか他でもないあなた自身で私のことを欲しがって。そう、ギデオンにとっての“責任”はいつだって、“ヴィヴィアンの望みを叶える”……この一点を意味してきた。
だがしかし、それは決して枷ではないし、重石などにはなり得ない。なぜなら他ならぬ己自身が、彼女の願いを叶えることを自分の望みとしているからで──そうすることによってようやく、彼女の傍にいていいのだと心の底から思えるから。)
……だから、少し……混乱、していたんだろうな。数日前のあのとき、“責任を取るな”と言われて、俺は……てっきり。
お前の傍にいようとする俺が、あれこれを足掻いている様が……見苦しくなってきたのかと。
(──温かなランプの灯を受けたはずのその顔は、他方へ逸れたその一瞬、暗い影へと隠れて見えない。しかし、微かに腕が動いて、再び相手をごく緩く抱き締め直せば、それは何よりも雄弁だろうか。わかっている──わかっている、お前が本来些細なことを気にしないことくらい。それでも俺は違うんだ。十六もの歳の差や、普段目に見えにくいとはいえ生まれついての階級差、そのほかいろいろを踏まえれば──相手の傍にいるために、自分は常に何かしらを果たしつづけていなければいけないだろうと、堅く信じる男の構えで。)
( 男女の仲で"責任"という言葉が、世間一般に指し示すものといえば。それこそ、いつかのギデオンが危惧していたような、まとまった額の金銭だったり。もしくは、この世界で女性が一人前として扱われるに足る"夫人"の称号、もとい結婚そのものだったり。特にその前者を、稼ぐ力がないと思われるのは、ギデオンのような優秀な男性にとって不本意極まりない侮辱にあたるのかもしれない、と。そう想像していた答えと全く違うそれが帰ってくれば。──ん? と、まん丸にした瞳をぱちくりと、思わずギデオンの表情を覗き込んで。
しかし、それを咎めるかのように微かに緩く抱き寄せられては。視線の合わない訴えに、そこで初めて。どきり、と胸が高鳴ったのは──嗚呼、わかる。わかって、しまうからだ。誰かにとって有益に、誰にとっても好ましく。そんな存在になれなければ、私は誰からも愛されない。大好きなこの場に身を置くことすら、許されない。その心細い感情を、身に染み着いた価値観を。)
まさか…………、ううん。私も、おなじこと考えてた……、って、言ったら。
ちょっとは……安心してくださる?
( ギデオンさんを見苦しく思うだなんて、まさか、そんなことは絶対に有り得ない、と。そう強く否定するのは簡単だが。優しい恋人が見せてくれた、繊細な心の柔らかい部分を、強引に否定しようとは思えず。いつもギデオンそうしてくれるように──こつん、と額を合わせれば、「ほら、あの時はグランポートの市長に誤解されていたでしょう……」と。観念したように零した苦笑いは、相手ではなく己に向けた自嘲で。
──あのね、それで……私、本当は……あの時すこし、嬉しくなってしまったの。
そう白状する頬が、自分でもかあっと赤くなっていることが見なくてもわかる。気持ちを通じあわせたこと自体、やっと数ヶ月前のことだと云うのに。人から"結婚"していると誤解されるくらい、それだけお似合いに見えたこと、たったそれだけのことに浮かれていただなんて。我ながらあまりにも子供っぽくて。 ──"厄介だ"と、やはりあの日。他でもないギデオンがそう言っていた言葉を思い出せば。呆れられたらどうしようと、この期に及んで怖気づき。続けた言葉も、ついつい言い訳じみてしまって。 )
ああでも、待って、……ちがうの!!
ちゃんと"わかってる"し、本当に! 私はギデオンさんと居られればそれでいいって、そう言いたかっただけで……貴方に淋しい想いをさせるつもりは、なかったんです。ごめんなさい……。
────……、
(同じ不安を知っている、だからあのとき嬉しかった。でもちゃんと“わかってる”──一線以上を高望みして困らせるつもりじゃない、だけど、でも、だからといって、一線未満でもないの。
相手が次々畳みかける思いがけない数々に、男のアイスブルーの瞳が唖然としたのは一瞬のこと。気づけばほとんど無意識に、剣だこのある両の掌が、膝上の恋人の柳腰や頭へ滑り。「ごめんなさ──……、」と謝りかけたいじらしい唇を、ごく柔らかに押し黙らせていた。その熱を引き離し、一度間近に見つめながらも。再びわかりやすく目を伏せ、もう一度顔を寄せ──二度、三度、まだ足りぬと言わんばかりに。酒精の華やかな香りを含めて花唇を優しく食むうちに、相手の謂れなき謝罪の声は、はたしてすっかり削げただろうか。
今度こそ顔を引き、こちらを見る恋人をまっすぐに捉え直せば。「……ヴィヴィアン、」と名を呼びながら、しみじみと呟いて。)
“わかって”ないさ。
……なあ、俺たち……お互い、なんにもわかってなかったんだ。
(──思えば当然ではあるのだろう。戦士とヒーラー、古参と若手、男と女、四十代と二十代。ざっと挙げてみるだけでも、自分たちはそう簡単に片づけられぬ大きな違いがいくつもある。ならば各々の捉える世界も、互いに何をどう感じるかも、まるきりちがうものであろうし。それをきちんと伝えなければ、相手が知る術がなく、理解されるはずもないのだ。
……だからただひとつ、それでもたったひとつだけ存在する共通点に、立ち返るべきだった。その確信みなぎる躰で相手を強く抱き直し、真夏にも拘わらずぬくぬく体温を貪って。ようやく帰ってきたとばかりに深い呼吸を繰り返しつつ、相手の耳に口許を寄せ。「一緒にいられればいい、っていうのは、俺も同じだ。それだけで……それが、俺は幸せだ」と、小さな声で告白してから。誓いを立てるかのように、ぎゅう、とより密に抱き締めて。)
──……すまなかった、本当に。これからは、もっとちゃんと……こうなる前に、話をするから。
だから、仲直りさせてくれ。……明日はまだ、先約で埋まってないだろう……?
んっ……、
( 目を凝らしてよく見ると、幾らか透明なものも混ざり始めた金髪が、魔灯の光を反射して、燃えるように美しく輝いている。その発光せんばかりのオレンジ色の毛先を瞳に映して──つまりは、ギデオンの目を見ることができずに、少し俯きながら。件の謝罪の言葉を口にしていたものだから。にわかにふっと抱き寄せられると、その大好きな唇の感触に目を白黒させるも。二度、三度とその感触を確かめるかの如く繰り返されているそのうちに──……あれ、私、何が怖かったんだっけ、と。それまで萎縮していた思考もぽうっと溶かされてしまい。「……ギデオンさん、」と、その呼びかけに応える頃には、そのエメラルドをすっかりとろんと蕩けさせ、柔らかな体躯をくったりと、意中の男に預けた娘がいるだけで。
そんなヴィヴィアンの告白に、新鮮な衝撃を受けていたギデオンの一方で。この娘はといえば、決してギデオンの"わかってない"を疑っている訳では無いのだろうが、あくまで相手の優しさから来る言葉として、さらりと消費してしまうのは、余程あの"厄介"が悪く作用しているのだろう。それでも、相手から強く抱きしめられて、ただ無邪気にあどけない笑い声を漏らしながら、ギデオンの告白に頬を染めれば。男の提案に此方から唇を合わせたのは、先程そうして謝罪を封じられたお返し──私が謝らなくていいのなら、ギデオンさんも謝らないでという無言の主張こそは忘れないが。合わせていた唇をそっと離して、「ええ、丸一日お休みです……でも、どこかへ行かれるの?」そうきょとんと首を傾げたかと思えば。もじもじと不安そうにギデオンの耳元にそっと顔を近づけて。「それに、あの……あのね、もう、仲直りしたと、思うんですけれど……」と、自分なりに必死に年上の恋人の真意を探ろうとする始末で。 )
──……まだ、仲直りしてなかったら、今夜も一緒に寝てくださらない……?
……、
(ギデオンの青い目がうっすら細められたのは、かすかなショックと、納得にも似たさらなる確信──相反するその反応を、今は相手に気取らせぬよう自己制御するためで。代わりに娘の栗毛を撫でて、再び寄るよう促せば。なだらかなまろい額に愛情を込めて口づけしてから、しなやかな背を撫でさすり、安心を与えようとする。「もちろんだとも」と嬉しそうに喉を鳴らしてみせたのも、決して演技というわけではない。……本当に、嘘ではないのだ。ただ少し、ほんのわずかに、語る言葉を抑えただけで。
それから先の数時間。湯浴みを済ませて着替えた相手を抱きしめて眠るあいだも、夜明け前に目を覚まし、そのあどけない寝顔をじっと見つめるひとときも。ギデオンはいつになくもの静かな横顔で、あることを思いつづけた。別に初めてというわけではないのは、半月前、ドランゴン狩りに出る前日に私書箱に届いた手紙が如実に物語っていよう。……ずっと、ずっと考えつづけて、いよいよその時がやって来たのだ。
だがもし、本当に実行するなら。ギデオンはその生を、きっと──永遠に失うだろう。どれほど愚かで無謀なことを試みようとしているか、これまでの人生で頼り続けた理性の声が、何度も何度も声高に“引き返せ!”と説いてくるのが聞こえるほどだ。だがしかし、だからといって、ギデオンのこの四十年に、はたしてどれほどの価値があろうか。もうこれ以上生きつづけたいと思わない、そう感じるのが答えじゃないか。
そんな思案に明け暮れる間に、ふと身動きするものがある。腕のなかを見下ろせば、そこで寝息を立てているのは当然己のヴィヴィアンで、つるりと綺麗な白い眉間にかすかな皴が寄っている。寝苦しいのか、そう考えて、僅かに両腕の縛りを緩め、距離を空けようとしたはずが。──タオルケットの下に新たな空気が流れた途端、依然夢の中にいるはずの恋人が、むむ、とまた眉を顰めて。思わず見守るギデオンの前、もぞもぞとこちらにすり寄り、ぴたりと胸板に額を寄せる。そのまま固まるこちらに構わず、また安らかな寝息を立て始めたところを見るに……無意識のことなのだろうか。
たったそれだけの一幕で、先ほどまでは何時間も虚空を巡っていた青い目が、ふっと穏やかに定まってしまった。温かな息を吐き、再び彼女を緩く抱きしめ、こちらもその柔い髪に鼻梁をうずめて深呼吸する。──もういい、充分すぎるほど安らぎを与えられてきた。今日こそ、すべてを終わりにしよう。)
*
(──かくて迎えたあくる月曜、トランフォード建国記念日。初日のマラク騒動以来、さして大きなトラブルもなくこの日を迎えられたとあって、カレトヴルッフの冒険者たちはほっと胸をなでおろしていた。今年は業務の統制上、最終日の警備責任は、ほとんど完全と言っていいほど警察に返上するのだ。六日間の出動待機命令から解放されるだけあって、ようやく休みを満喫できる若手たちは喜びひとしお。中堅以上のベテランですら、一度がっつり中抜けをして家族と過ごすいとまがあるから、今年は例年より多く、建国祭を楽しんでいる冒険者たちの姿があちこちで見られただろう。
ギデオンも今年ばかりは、それまでの六日間の貢献を口実として、昼には仕事を切り上げた。無論昨年の例があるから、警備権限を周囲に知らせるギルドの赤い腕章や、返却日時が定まっている換装式の警棒だけは手放すわけにいかないが。警備服はすっかり脱ぎ去り、いつものワインレッドのシャツに黒いジーンズという格好──ではなく。一度我が家に帰宅し、オフブラックのジャケットやオーダーメイドのスラックスという、建国祭で浮かない程度に品の良い服へと着替える。「久々のデートだからな」と、もちろん相手に予告済だが、その一方で、家を出るのは自分の方が早かったから、午前中に友人たちと過ごすため、そして午後にはギデオンと過ごすため、己のうら若い恋人がどんな装いをしていったのか、ギデオンは未だ見ていない。
そろそろここらに来るはずだが……と、辺りの屋台をチェックしながらいよいよ足を踏み入れたのは、今日の待ち合わせ場所に選んだ、お馴染みの東広場。ひんやりとした魔法の霧が辺りを白く煙らせて時に虹すら描くなか、辺りに満ちる祭特有の賑やかな雰囲気に、どこか静かな表情で青い視線を走らせる。──しかし、ふと呼ばれたように己の背後を振り向いたのは、実際に声をかけられたというわけでもなしに、相手の気配に導かれたからで。)
( Dear Vivienne, I haven’t seen you for a long time……
そんな書き出しで始まる手紙をビビが受け取ったのは、建国祭最終日、建国記念日当日の朝のことだった。朝一の門前から、自分の名を呼ぶ聞き知った声に慌てて飛び起き。ネグリジェに薄手のカーディガンを羽織っただけの格好に、目を剥いたギデオンと揉み合いになりながら、馴染みの郵便屋である青年の前に二人揃ってまろび出れば。「おはよう、ビビさん! 速達ですよ、……」と、今日に限っていつも元気な青年の笑顔が、どうも引きつって見えた気がしたのは気の所為だろうか。
閑話休題。封筒の宛名の上に、緊急の速達を表す押印がなされた手紙を開けば、それは学院の中等部卒業を待たずに、キーフェンへと嫁いで行った友人からのもので。──ここ数日、配偶者の商談についてキングストンに来ていること、そして、商談が少しだけ早く終わったので、午後の帰りの船便までにどうか一目でも会えないか、といった誘いの言葉が、とても懐かしい、しかしすっかり大人の夫人に相応しい筆つきで書かれた手紙に目を細め、隣にいた恋人へ二、三学生時代の思い出を楽しげに語って聞かせれば。とはいえ、ギデオンとの先約をして、断るつもりでいたのだが。折角なんだから会ってくればいい、という優しい言葉に、「~~~ッ、ありがとうございます!! ギデオンさん大好き!!」と、熱烈なハグで優しい恋人を送り出したのが今から数時間前のこと。 )
──…………。
( そうして、懐かしい友人とのつかの間の再会を果たせば。その実は政略結婚だったとはいえ、穏やかそうな旦那さんの隣で、幸せそうに微笑む旧友を前にして。もう焦燥の念こそ浮かばなくなれど、色とりどりのテープたなびく出港のムードに、当てられた節はあったかもしれない。──早く、早くギデオンさんに会いたい、と。思えば一年と少し前、初めて仕事を共にしたあの日も、こうして息を弾ませ、約束の場所、憧れのギデオンの下へと駆けていた。あれから変わったことといえば、あくまで上司と部下に過ぎなかったその関係と、全身に纏っているその装い。
旧友とはいえ、既婚の夫人に会うための午後用ドレスは、夢見るようなオーキッドに、深紅の意匠が、あの素晴らしい舞踏会の夜を彷彿とさせ、思わず衝動買いしたおろしたて。頭には普段元気に揺らしている尻尾の代わりに、ドレスと揃いの帽子をつけて、馴染みの赤いスカーフは結い上げた髪に編んでいる。ギデオンに貰ったハンカチーフと揃いの模様を編んだ手袋の手の中には、これまた見事な総レースの日傘を携えているのだが、動きの邪魔を苦にしてすっかり畳んでしまっているのはご愛嬌だ。──駆ける、とはいっても。動きやすい白ローブ姿だったあの日とは違い、足さばきの悪いドレスと華奢な靴で、ボコボコとした石畳を人混みの中を縫うように進めば。馴染みの広場に入った途端、やはり今日も一目でわかるほどにギデオンは輝いていて。本当は渓谷のトロイトのように駆け寄り、全力で飛びつきたいところをぐっと堪えて、ごった返している広場を進む間。──ギデオンさん! と、その内心の叫びが届いたかのように振り返ったギデオンに、ぱあぁっと満面の笑みを浮かべると、パタパタと大きく手を振って。 )
ギデオンさん、お疲れ様です!
怪我とかしてないですか? もうご飯食べました?
(晴れ渡る青空の下、まばゆい笑顔を向けながらこちらに手を振る己の恋人。その夏らしく晴れやかな装いに──だがそれでいて、いつかの美しい秋の夕をも思い出させる装いに、見開かれた青い瞳がまっすぐに透き通る。だがあのときと違うのは、「……」と投げかけるその双眸が、やがてふっと、ひどく穏やかな深まりを見せたところで。
相手が周囲とぶつからないよう、一瞬左右に目を配り、次にこちらに向いたそのとき。そこには、いつもより洗練された出で立ちの魔剣使いが迎えに上がっていることだろう。例年以上に客足が賑やかなはずの東広場で、ふたりのいるその空間だけ、人払いされたわけでもなしに不思議と開けているようだ。その状況の許すまま、白い靄から出でるように一歩相手へ歩み寄り。はにかむように小さく笑えば、しかしそのまなざしに、頭上の青空の陽射しに劣らぬ己の熱を絡ませて。)
……二十班の態勢で慎重に回ったからな、かすり傷も負わなかったさ。
(喉を低く鳴らしながら、自然と添えた己の片手。それがスカーフを編み込んだ髪を愛しそうに撫でてから、耳裏を滑るようにして彼女の頬へ触れる流れは、言葉より余程雄弁だろうか。こちらもまた体を屈め──とはいえさすがに人前だ、あくまで軽く触れる程度に、しかし甘さはたっぷり込めて、胸の内に湧き上がる想いの程を伝えれば。「……軽く食べた、と言いたいところだが。午前中は生憎その暇が見つからなくてな……おまえはどうだ?」だのなんだの。片眉をぐいと上げて誘う振りなどに興じながら、己の腕を差し出したのは、はたして照れ隠しなのかどうか。)
──今年のダンスコンクールだが、ドニーの伝手でテラスの良い席を取れたんだ。そこでゆっくりひと休みしながら、最終日のプログラムのどれを回るか、一緒にあれこれ相談しないか。
私も。実は、食べ損ねまして……
( ──折角、ギデオンさんに可愛いと思っていただきたくて、朝からあれこれと頭を悩ませた装いにも関わらず。触れ合っていた唇がそっと離れて、大好きな薄青と視線が合ったかと思うやいなや。「……、か、格好良い……好きぃ……」と。自分が相手のフォーマルな装いに堪えかねて、両手で口元を押さえながら、うっとりと瞳を輝かせる通常運転。その上、片眉をあげた恋人の提案に、「本当!? 嬉しい!」と、いつもの調子で飛びつこうとしたものだから。不安定な足元にバランスを崩して、慌て顔のギデオンと人混みの中、ぎゅうっと強く抱き締め合えば。どちらともなく吹き出して、爽やかな夏の陽気もなんのその、差し出された腕を抱きしめるように、ぴったりと連れ添い歩き出すだろう。 )
──……ギデオンさん。
もしかして、ギデオンさんが賭け事に強いって、嘘じゃない?
( そんなやり取りから数時間。昨年と今年、場所こそ即席のベンチと有料のテラス席という差はあれど、昨年に習って今年もダンスコンクールの優勝者当てと洒落込んだ結果は、今年もヴィヴィアンの勝利に終わった。昨年とは違い、賭けたのは些細な雑事の一部だったが──どうしても、本気で信じられないといった表情を浮かべている恋人に、思わず笑いながら慰めのキスを進呈すれば。表面上こそ大人な表情を繕ってはいるが、未だに納得のいってなさそうな男の手を引いて、繰り出したのはなんてことはない祭日の賑やかな通りで。年上の恋人はといえば、教会主催のページェントや、手の込んだ手の込んだヌーベルキュイジーヌの店を提案してくれもしたのだが。ともすれば、ギデオンにとっては馴染み深い、一般的で世俗的な賑わいの方が、学院育ちのビビにとっては目新しいもので。「ギデオンさんが、お嫌でなければ」と、大好きなギデオンと二人、祭りの出店を冷やかしたり、大道芸目を輝かせたり、華やかに、しかし素朴に飾り付けられた街並みにきゃあきゃあと、すっかり息をあげながらは心底楽しげにしゃぎ回れば。仮説のベンチで一休みする頃には、ビビの手元は全身のあちこちに花やら、お面やら、玩具やら、瀟洒な装いには似合わぬそれらでいっぱいになっていて。そんな最高の時間の代償に、じんわりと痛くなってきた踵をさりげなく靴から解放しながら、露店のジェラートに目を輝かせると。ギデオンさんも楽しんでくださっているだろうかと、興奮しきった表情で相手を見上げ。 )
ああ楽しかった!
ずっと昔からこの通りへ、お祭りの日に来てみたかったの!
ありがとう、ギデオンさん! 大好きよ!
馬鹿言え、ドニーやジュナイドからいくら巻き上げたと思ってる。──本当だ、聞いてみろ……そんなに信じ難いか?
(仲睦まじく賭け合ったのは、明日の食事の料理当番。普段はギデオンが朝食を、ヴィヴィアンが夕食を担当することが多いわけだが、賭けに勝てばその逆を得る──つまりギデオンが勝ったなら、ヴィヴィアンの作る朝食を堪能できるというもので。千載一遇というわけでなくとも逃がしたくないこのチャンス、当然真剣勝負に出たが、結果はご覧の通りの大敗。おまけに、余興程度に付け合わせた二位以降の予想でさえも、そのとんでもない番狂わせをことごとく当てきったのがやはりヴィヴィアンのほうなのだから、信じられないという表情は寧ろギデオンが浮かべる始末で。
しかし不可解げな反論も、そう長くは続きやしない。先行く娘に捕まえられた己の手元を眺めるうちに、つい苦笑するせいだ。──そもそもたった一年で、自分たちは“こう”なっている。指と指とを密に絡めて、ふたり連れ合い通りを歩き、いつもと違う装いのキングストンを眺めてはあれこれ感想を言い交わし、お互いの表情を見つめては笑い合う。つい昨日まで愚かしいほど駆られていた恐れすら、彼女に優しくほどかれて、今やどこかへ行ってしまった。ヴィヴィアンに敵わないことも、白旗を挙げる心地が全く悪くないということも、もうわかっていたではないか。
故にすっかり寛いで、年に一度の建国祭を満喫していたしばらくののち。疲れが深くなる前に、と花壇の傍に落ちついたのは、陽射しがいくらか和らいで、気持ち良い風も吹く頃だろうか。)
……まったく、そんなに言われちゃ敵わないな。
(目尻に皴を寄せながら、唸るような声を出し。「毎年だって一緒に来よう」とその額にキスをしてから、素足を休める娘の真横、こちらもゆったり腰を下ろす。そうして長い足を組み、椅子の背もたれに沿うように相手の背後へ腕を回すと、伸ばした片手で何とはなしに相手の髪を撫でながら。色とりどりの花壇の向こう、ベンチの前に広がる芝生で、街の子たちが弾けるように笑い転げて遊ぶ姿を、ごくのんびりと眺めていたが。
相手に視線を戻したそのとき、ふと思いついたように青い瞳の色を変え。「……なあ、せっかく綺麗なんだが」と、何やらねだりだしたのは……相手の髪を解く許可と、手元にある花束をここで“使いたい”との話。許しを与えて貰えたならば、まずは美しい絹の栗毛をごく優しく解きほぐし。次に横を向いたと思えば、荷物にしている紙袋からしれっと取り出してみせたのは、ハコヤナギ──またの名を聖木レウケーで作られた、古き良き職人の逸品たる高級櫛だ。小一時間前、果実水の露店の列に並んでいる最中に、近くの店のショーウィンドウに品良く飾られていたそれに、相手が視線を吸われていた。彼女を見つめることにおいては他に譲らぬギデオンが、果たしてそれを見逃すだろうか。
注文の品が出る時間差を利用してこっそり買っておいたのを、後々ここぞという時に贈ろうかと思っていたが、ここで使うのも得策だ。「失礼、」なんて気取った声で相手の髪を綺麗に梳かせば、艶が増したそれを束ねて、生来器用な手先を使い恋人の髪を編んでいく。脳裏に浮かべているのは常に、サリーチェの寝室の角……瀟洒な化粧台を前に、愛らしい鼻歌を奏でながら髪を編むヴィヴィアン自身の手つきの記憶で。
──そうして、元々完璧だった前髪のセットはそのままに、すっかり優美に編み直した太い三つ編みに頷けば、その結びに赤いスカーフを結わえつけ、次はこちらも解きほぐした花束の花を挿しこんでいこう。大小さまざまなそれを見比べ、これはここだな、こいつはここに……と。若い娘の綺麗な髪に、四十路の男が一輪一輪花を飾るその光景はなかなか愉快。とはいえ、今日は建国祭。トランフォードの人々が皆浮かれ騒ぐ陽気な午後に、己もほんの少しくらいは羽目を外してよいだろう。いよいよ「完成だ」と告げて、これも土産の手鏡を渡すと、満足気に笑みながら手元の櫛をくるりと回して。)
休みの日に、よくこんなような髪形をしてるだろう?
見よう見まねでしてみたんだが──どうかな。悪くはないといいが。
…………。
( ──……しゅる、しゅるり、と。賑やかな祭りの管弦楽の中、大好きな手が己の髪を梳く音がする。熱い指が時たま耳元を掠める度、どうにも不思議な気持ちになるのは、相手の意思を読みかねているからだ。──いいか? と。そう最初に聞かれた時は、大して考えずに、その結い終わりへ指をかけることを許したが。本来、人に見せない身嗜みを、公共の場で晒している気恥しさに、浮かれていた思考を冷やされれば。しかし、決して嫌な気持ちではなく。
自分でするよりよほど丁寧に髪を梳かすその手付きから、時折漏れる上機嫌な吐息から。髪に、耳に、肩や首筋に触れる温もりから。ヴィヴィアンのためではない。ギデオンがそうしたくてしているらしい、甘えのようなものを感じ取れば。──……嗚呼。この人は、私のことが好きなんだなぁ、と。他でもないギデオン含め、もし他人に聞かれたならば、何を今更と呆れられたに違いない。しかし、彼が持つ底抜けの優しさでも、寂しさから逃れるための執着でもない感情を。初めて心の底から実感出来てしまえばどうだ。まるで神話の世界から抜けてきた雷神のような容貌をして、器用に編み上げた三つ編みを、花で飾り立て始めた恋人の表情を見ることができないのが、酷くもどかしく感じられてしまって。 )
──……っ、ギデオンさんは?
この髪型、好き?
( そのせいだ。ヴィヴィアンは満足気な恋人の問いかけを、最後まで口にはさせなかった。それまで固定されていた頭が動かせるようになった隙を逃さず、くるりと振り返りながら立ち上がり、こちらを見上げる恋人の顔を覗き込むと。拒否しようとと思えば出来なくもない、しかしそうしないでと強請るような表情で、上からその薄い唇を塞いでしまって。
そうして、少しかさついていた感触が、段々と馴染んでいく質感を心ゆくまで堪能した後、今更可愛こぶるように小首を傾げると。ギデオンの唇に移ってしまった紅を指の腹で拭い、自分の口元にそっと戻す小悪魔は。しかし、もしギデオンの手の中に、件の贈り物を見つけてしまえば、すぐにでもいつもの表情に戻ってしまうだろう。 )
……なら私も好き。
!? !?!?
……ッ、ヴィ……、………──………
(俺はも何も、こうしたいと頼み込んだのは俺のほうなわけだから。どこか奇妙な無邪気さに青い目を瞬いたのち、そう仕方なさそうに眉尻を下げて言いかけた、ひどく鈍感な「好きだよ」を。しかしはたと止めさせたのは、娘の切ない表情だ。初めて見る、まるで読めない、だが彩あふれるその面差しに、思わず大きく目を瞠る隙を晒したのが命取り。気づけば甘い唇にたっぷりと猛攻されて──さらに愕然としてしまう。
これまでのキスのほとんどはギデオンがリードしてきたし、のびのび甘えるヴィヴィアンが、ねだるのとはまた別に自ら求めてきたことだって、決して珍しいわけでもなかった。だがこんな……こんな、全て等しく均すような、堂々征服するかのような、こんな口づけは今まで一度も。それを嫌うはずなどないが、だからといって、遥か歳上の男の沽券が少しも騒がぬわけもない。何度か制止を試みるべく、吐息の合間に掠れた小声を上げようとした。彼女の顔に自ずと添える骨ばった掌の、そのささやかな指の動きで、どうにか決して巨説ではなく、宥めてみせようとした。……だが、ああ、無理だ。しなだれかかるような舐りに頭の奥まで蕩かされ、ようや解き放たれた後まで、蠱惑的なその仕草をたっぷりと見せつけられたら。指でふにりと押した唇、その濡れた表面が光の輪を描く様に目を奪われるだけでなく、強烈な殺し文句に脳天まで貫かれたら。
──実際は、きっと微動だにすらできなかった有り様だろう。だがしかし、がくん、と、腰が抜けた錯覚すら覚えたほどの間抜け面で相手をまじまじ見つめ返せば。次いでバッ、と目元から下に手をやり、露骨に顔を逸らしたのは、どうやら往年の見る影も年甲斐もないド赤面を、真っ当に恥じたものらしい。「見るな」だの、視線だけで「うるさい」だの、反論はやけっぱちばかり。第一真横を向いたことで、その手の隠しきれない耳がよっぽど色鮮やかなのを自覚出来ているのかどうか。
何よりも度し難いのは──こんな見苦しい醜態でさえ、相手になら知られてもきっと大丈夫なのだろうと、心のどこかのすっかり甘ったれた己が緩みきって囁くことだ。この二ヵ月、相手をがっつり囲い込んで外堀を埋めていたはずが……牙を抜かれた駄犬へと飼い馴らされていたのはどちらだ。ほとほと参ったような声で思わしく唸ってみせると、がっくりため息を吐きながら、それでも相手の頭を撫でて。)
……いつからだ。いつからそんなに、手強くなった……?
ギデオンさんしか、知らないって……ご存知でしょう?
( 最初はその文句ともとれる唸り声に、やはり、少しはしたなかっただろうかとドキリとするも。頭を撫でる優しい手、困っているようでどこか甘えた低い声、そして、色素の薄い頬がぱあっと色づく光景に、どうやらそうでは無さそうだと力を抜けば。思わず、口角が勝手に持ち上がるのを感じながら。薄桃色の頬に手を伸ばして、再びその感触を確かめていた。そうして、慣れた動きで相手の片膝に乗り上げ、びくともしない逞しい体躯を──その癖、誰より繊細で愛らしいその反応を、たっぷりと好きに慈しんでいたその時。相手の頬へと添えていた掌を離し、何気なく大好きな手を握ろうとして、その手の中の質量に気がつくと。まさか──と。それまでギデオンの顔中にキスを振り撒いていた顔を離して、白く見飽きた己の手に包まれた、硬く愛おしい恋人の手。に、更に包まれた櫛をまじまじと見つめて。 )
──ギデオンさん。
( そう見つめられた薄蒼は、どんな反応をしたろうか。普段のヴィヴィアンであれば、まずはお礼の気持ちを伝えつつも、相談無しの浪費に、窘めこそすらしたかもしれない。──それが。贈り物だけは怠らなかった、コミュニケーション下手の父を思い出してのこととは、まさか本人も無自覚だっただろうが。しかし、この数日間を乗り越えた娘の表情はといえば、それはそれは、非常に難しいものだった。
これまで、ビビの年上の恋人は、二人の間の十六年を、ともすれば、彼の悪行のように捉えていて。まるで贖罪かのように、ヴィヴィアンに償って振る舞うのを知っていたから。"付き合ってもらっている"彼女としては、その貢ぎ癖をそう易々と受け入れるわけにはいかなかったのだ。──しかし、ギデオンもまたヴィヴィアンと同じなのであれば。相手のためなら、全てを差し出してでも、その喜ぶ姿を見られることが、彼の幸せだと云うのならば。
──嗚呼、間違っている。これは正解なんかじゃないと分かっているにも関わらず。何も決して嘘をついているわけではない。対等な大人として、弁えるべき遠慮をしなければ、大好きなギデオンからの贈り物が、しかも、すっかり目を奪われていた高級な櫛が、決して嬉しくない筈もなく。緩む口元を抑えながら、ゆっくりと下げていた顔をあげると──彼が喜ぶ反応を。素直な感情に任せた、反応を、キスを、熱烈な抱擁を。彼の求めるままに、与えたくなってしまうではないか。 )
…………ありがとうございます!
とっても素敵だと思っていたの、気づいてくださるなんて、とっっっても嬉しい!!
ギデオンさん、大好き!!
………
(静かに名前を呼ばれながら翡翠の視線に射抜かれたとき、ギデオンの青い瞳は、彼女を、次に手の櫛を見て、一度下へと流れ落ちた。どこか微かに後ろめたい横顔が思い返すのは、つい二週間前の出来事。サリーチェの我が家にかかる防犯用魔法陣、そのセキュリティレベルをより高く確かなものへ契約し直していた件で、彼女に窘められたのだ。私費から出すから問題ないなんて話は違う、そういうことに黙ってお金を使わないで──ちゃんと、私に相談をして。あのとき交わしたやり取りを、よもやわざと無視したりしたわけじゃない。だが気づけばまたこうやって、似たようなことを繰り返している。……更に、これの非じゃない品も実は隠し持っているのだが──やはり、咎められるだろうか。彼女は望まないだろうか。そう、案じていたものだから。
遠慮の一切を取り払ってまっすぐに寄せられる、その声、口づけ、抱擁に。最初は目を瞬かせて完全に虚を突かれるも、次第にその目元を緩めさせ、鮮やかな安堵をわかりやすく浮かべてしまって。「敵わないな、」ともう一度、こちらからも彼女を抱き寄せ、懐くように鼻梁を寄せる。花壇の向こう、街の子らの声がいよいよ祭へ遠ざかるのを良いことに、もう一度その唇をねだれば、満足そうな吐息とともに掠れた声で囁くだろう。)
──……俺も、好きだよ。
(──さてはて。この数日でこんなにも素直なたちにされてしまった腹いせに、年甲斐もない有り様を取り繕う建前代わりに、相手のことを連れ出して、さらなる気軽な買い物を楽しませてもらおうか。「その靴だと街歩きには向かないだろう?」と、行商の集まっている通りの一角に連れて行き、今度は相手の好みに任せて、見事なドレスにもよく似合うサンダルを好きに選ばせる。そうして紙袋に纏めた荷物を提げていないもうひとつの手、そちらで相手と指同士を絡め合わせて戯れながら、浮かれた王都をぶらつこう。陽射しは夕に近づくとはいえまだまだ茹だる暑い夏、涼を探していた先に氷菓の露店を見つければ、はたと顔を見合わせたのは果たしてどちらが先だったか。──王女と記者の恋を描いた、有名な戯曲があるんですよ。ひと月ほど前、まだ退院明けの療養中で家にいることの多かったヴィヴィアンが、そんな風に目を輝かせて語っていた物語。その中に登場する実在の店だと気づけば、立ち寄らぬ道理などなく。共に広場の階段に座り、その時間の催し物を眺めながら冷たい甘味を堪能すれば、あっという間に真っ赤な夕陽が暮れていき、いよいよ間もなく建国祭のフィナーレだ。再び手を繋ぎながら、昨年のような人混みを避けて水路沿いを歩くうちに、ふと隣を振り返るのは、穏やかに問いかけるため。──相手の選ぶ場所でこそ、この夜を過ごしたかったからで。)
……今年は、どこから花火を観ようか。
城下町のゴンドラは長めの良さで有名だし、そこのホテルの屋上にあるレストランも、個人的に伝手を頼れる。去年の時計塔が良ければ、もちろんそこに連れてくし……もしかしたら家からでも、ベランダから眺められるだろうな。
………
(静かに名前を呼ばれながら翡翠の視線に射抜かれたとき、ギデオンの青い瞳は、彼女を、次に手の櫛を見て、一度下へと流れ落ちた。どこか微かに後ろめたい横顔が思い返すのは、つい二週間前の出来事。サリーチェの我が家にかかる防犯用魔法陣、そのセキュリティレベルをより高く確かなものへ契約し直していた件で、彼女に窘められたのだ。私費から出すから問題ないなんて話は違う、そういうことに黙ってお金を使わないで──ちゃんと、私に相談をして。あのとき交わしたやり取りを、よもやわざと無視したりしたわけじゃない。だが気づけばまたこうやって、似たようなことを繰り返している。……更に、これの非じゃない品も実は隠し持っているのだが──やはり、咎められるだろうか。彼女は望まないだろうか。そう、案じていたものだから。
遠慮の一切を取り払ってまっすぐに寄せられる、その声、口づけ、抱擁に。最初は目を瞬かせて完全に虚を突かれるも、次第にその目元を緩めさせ、鮮やかな安堵をわかりやすく浮かべてしまって。「敵わないな、」ともう一度、こちらからも彼女を抱き寄せ、懐くように鼻梁を寄せる。花壇の向こう、街の子らの声がいよいよ祭へ遠ざかるのを良いことに、もう一度その唇をねだれば、満足そうな吐息とともに掠れた声で囁くだろう。)
──……俺も、おまえが大好きだよ。
(──さてはて。この数日でこんなにも素直なたちにされてしまった腹いせに、年甲斐もない有り様を取り繕う建前代わりに、相手のことを連れ出して、さらなる気軽な買い物を楽しませてもらおうか。「その靴だと街歩きには向かないだろう?」と、行商の集まっている通りの一角に連れて行き、今度は相手の好みに任せて、見事なドレスにもよく似合うサンダルを好きに選ばせる。そうして紙袋に纏めた荷物を提げていないもうひとつの手、そちらで相手と指同士を絡め合わせて戯れながら、浮かれた王都をぶらつこう。陽射しは夕に近づくとはいえまだまだ茹だる暑い夏、涼を探していた先に氷菓の露店を見つければ、はたと顔を見合わせたのは果たしてどちらが先だったか。──王女と記者の恋を描いた、有名な戯曲があるんですよ。ひと月ほど前、まだ退院明けの療養中で家にいることの多かったヴィヴィアンが、そんな風に目を輝かせて語っていた物語。その中に登場する実在の店だと気づけば、立ち寄らぬ道理などなく。共に広場の階段に座り、その時間の催し物を眺めながら冷たい甘味を堪能すれば、あっという間に真っ赤な夕陽が暮れていき、いよいよ間もなく建国祭のフィナーレだ。再び手を繋ぎながら、昨年のような人混みを避けて水路沿いを歩くうちに、ふと隣を振り返るのは、穏やかに問いかけるため。──相手の選ぶ場所でこそ、この夜を過ごしたかったからで。)
……今年は、どこから花火を観ようか。
城下町のゴンドラは眺めの良さで有名だし、そこのホテルの屋上にあるレストランも、個人的に伝手を頼れる。去年の時計塔が良ければ、もちろんそこに連れてくし……もしかしたら家からでも、ベランダから眺められるだろうな。
( 5029年、建国祭フィナーレのこの日を、ヴィヴィアンは生涯忘れることはないだろう。堅苦しい日常を自分の足で飛び出して、まるで物語に出てくるような素晴らしい男性と、先生から禁止されていた全てのことを楽しむの──学生の頃、何度夢見たことか。教育に悪いと見に行くことすら許されず、誰かが拾ってきた脚本の粗筋を、先生に隠れて何度も何度も回し読みした、かつての流行りの演目を、まるで再現するかのような夢のような一日を。当のヴィヴィアンはといえば、王女でもなければ、最早制限にまみれた学生の身でもない訳だが。もはや取り戻せないと信じ込んでいた青春時代の夢を叶えて微笑む女の顔色は、咲き誇る薔薇の色に染まっていて。この後のギデオンの目論見などつゆ知らず、その提案に暫しぽやりと考え込むと。一年前のあの時、繋ぐことの出来なかった手をぎゅむぎゅむと満足気に握りながらはにかんで。 )
でしたら。
ギデオンさんさえ良ければ、また時計塔へ……連れて行ってくださる?
(柔らかな手のひらがこちらに可愛らしく伝える、無垢な慕情と信頼に。片眉をぐいと上げ、「喜んで」と喉を鳴らすも、やはり気取ったそれは続かず、すぐに笑み零れてしまう。隣から見上げる相手がこんなににこにこ嬉しそうに笑顔でいてくれるのだ、釣られないほうが無理だろう。──だからそのまま、ふたり並んで、ごくゆっくりと歩みを進める。相手と一緒であるのなら、なんてことのない石畳の路地、ありふれた古い家々、聖鳥たちが影絵になって横切っていくいつもの王都の空でさえ、何か特別な景色へと魔法をかけられていくようで。とりとめのない話をあれこれと咲かせながら、途中何度立ち止まり、何度重なり合ったことか。ちっとも急がぬその道のりは、しかし思えば、昨日までのここ数日、無意味に置いてしまった空虚を埋めるためでもあったのだろう。
つまらないことに囚われて、大事なことを見落としていた。相手と一緒に在るだけのこと、それをこうして慈しめるなら、他に横たう一切はまったく小さな問題だ。……だから、これを手放したくない。ずっと確かに得ていたい。それを本気で伝えるとき──彼女は、どう答えるだろうか。)
……懐かしいな……一年ぶりだ。
(──そうして。軽い夕食と少しの酒を買い込んで再び訪ねたその場所は、賑やかな中央広場をごく厳かに見下ろしている、キングストン時計台。裏手にある扉の守衛はいつもの古株の老人だったが、ギデオンが去年と同じ、だがより親密になった娘をまた連れてきたことに、(おや)と灰の目を輝かせる様子があった。とはいえ野暮を言うでもなしに、ただ恭しく通すだけのありがたい気遣いに、こちらもしっかり目礼しながら。美しいドレスを纏う夢の女性の手を引いて、鉄の螺旋階段を上へ上へと昇ったその先。扉を押し開けたその瞬間から、懐かしの展望台と──花火を打ち上げる前から見事な、満天の星が飛び込んできて。
全てが美しいこの夜に、手摺りの方へと進みながら、相手は辺りの景色にこそ陶然と見惚れるだろうか。だがギデオンのほうはといえば、今年も同じくここに来た周囲のまばらな人影も目に入らないまま……花咲く髪に瀟洒なドレス、何より無邪気に感動する恋人のその姿にこそ、もはや隠しようもなく熱いまなざしを向けていた。こちらを振り向く彼女に向けて、その静けさを誤魔化すように無難な言葉をかけてみせたが、果たしてどれほど自然なのやら。それでも今度は、はにかみでも照れ隠しでもなく、満ち足りた微笑みを相手に向けてみせると、手に提げた酒や肴を掲げて。)
なあ……花火まで、まだ少し間がある。
今年は先にこいつらを楽しみながら、のんびり時間まで待たないか? ──なに、腹ぺこなわけじゃない、本当だとも。
──……ええ、そうですね……。
( 確かに、年若い娘であるヴィヴィアンにとって、様々な変化のあったこの年は、長い長い一年だった。しかし、ギデオンの様な大人でも、たった一年前を懐かしく思ったりもするのかと、少し目を見開いて相手を見やれば。いつの間にやら向けられていた、熱く輝く眼差しに──あの時、私を受け入れて良かったでしょう? "待て"ができたご褒美は無いんですか? なんて。用意していた冗談などは、跡形もなく霧散してしまい。ずっと自分ばかりが、相手を好きで仕方ないようなつもりでいたが、もうそうではないのだ。自分が相手を愛しているように──この人も、私のことが好き。たったそれだけのことを自覚するだけで、胸の奥がいっぱいになって、短くなってしまった返事の代わりに。元々繋いでいた手元を絡め直して、その分厚い肩に形良い頭を寄せることで応えて。 )
ギデオンさんったら、……!
仰らなければ分からないのに。
( そうして、食いしん坊な恋人にくすくすと、溢れる愛おしさで相手の鼓膜を、触れ合っている半身を、小さく震わせれば。適当に見繕った席で取り出したのは、色とりどりの夏花が刺繍されたランチョンマット──に包まれた、サリーチェの家で愛用しているカトラリー数点。食べるのが大好きな恋人が、この国中の店が屋台を連ねる建国祭を、如何に活き活きと楽しむことか。そして、その普段見慣れぬ料理を深く味わう傍ら、薄く簡素な使い捨ての食器類に、毎度少なくない集中力を削がれていることも知っていたから。出発前に滑り込ませたシルバー類は、片手で楽しめる軽食となった昼には出番がなかったが、新鮮な魚を使ったカルパッチョや、豪華なサラダ、そして温かなスープなどに、役に立ちそうで良かったとギデオンの分を差し出せば。宝石箱のような王都の空に、小気味よい乾杯の音を響かせて。 )
また連れてきてくださって、ありがとうございます! ずっとまた来たかったの!
ギデオンさんが、好きでいていいって、言ってくださった場所だから……
(いつぞやの合宿のデート土産で買い込んでいた、グランポートの飾り鯨燭。その時の伝手で取り寄せた、ステムの紅が美しい渡来品のルビリアグラス。そういった小道具で、昨年よりも良い雰囲気を──なんて考えを抱いていたのは、何もギデオンだけでなく、彼女もお揃いだったらしい。いつもと違う星空の下、それでも見事に召喚された、いつもの愛しい我が家の食卓。その温かな心地の良さに、つくづく相手に敵いやしないと幸せそうに苦笑する。──本来ならば男として、果たすべきものがあるだろう。だが、ああ、このほうがずっといい。互いに相手を想いながら一緒に築いていくほうが、何もかもが何倍にも素晴らしくなるようだ。)
──……好きで……ああ、そうか、そんなことも言ってたな?
今じゃ信じられない気分だ……
(そうして、黄金色のシャンパンをくっと流し込んだと思えば。思いがけず蘇る過去の己の発言に、額に手を当てながら、耐えかねたような唸り声。相手のしおらしいコメントが、また覿面に居た堪れない──かつてはどれほど愚かしく胡坐をかいていたのやら。だが、今なら言っても赦されようか。あの頃はまだ、相手とここまで深い関係に進むだなんて、思ってもいなかったのだ。……実際、どうだ。お前のほうは、もうあの頃から、今の俺たちが見えてたか?
そんな問いを食事の合間に穏やかに投げかけたのは、既に互いの関係が揺るがぬものとなったことを確信しているからであり──自分はそう捉えていると、わかりきっているだろうことを今一度改めて、相手に伝えるためであり。シダの花弁が浮かんだスープを軽くひと口飲み干してから、いつになく優しげなアイスブルーの目を向ける。蝋燭の温かな灯りが照らす横顔は、この静かで満ち足りた特別なひとときに、改めて互いとのことを話そうとしているのだと、ありありと物語るだろう。)
──俺にとって、昔のおまえは……シェリーの娘であるのはもちろん、ギルドの後輩のひとりだったよ。急に入ってきたかと思えば、あらゆる指導を吸収してどんどん成長していって……そういう意味では、そうだな、可愛い後輩だった。
だが、ほら。シルクタウンのときから、様子が変わってきただろう。……訊いたことがなかったが、きっかけは何だったんだ?
( まさか二人揃って相手に黙り、愛用の食器を持ち込んでいるだなんて。計らずも揃ったテーブルウェアに、無邪気に顔を綻ばせるギデオンの傍ら。ビビはといえば──プロポーズを控えている相手と違い、当然と言えば当然なのだが──案外冷静に、その幸せそうな横顔を微笑ましく見つめていた。
信じられない……か、と。確かに、相手からの好意を憎からず思いながら、それを固辞していた相手とはまた違った形だろうが。ビビもまた、こんなに愛せる人が。愛しても“許される”、“受け止めてくれる”人が出来るだなんて。そして、自分もまたその人から愛されている奇跡なんて、一年前のあの時は思ってもみなかった。──こんな日々が、ずっと一生続いてほしい。それだけが娘の幸せで、それ以上のものなどいらないのだから。なんて、ピンクペッパーの散った白い切り身を口へ運びながら、スープを味わうギデオンに目を細めれば。思い出すのは、『私とじゃなくてもいいから』なんて言っていた一年前のやり取り。当時は心の底から口にしたつもりの本音だったが。どうか、目の前の愛おしい恋人が、当時のビビの殊勝ぶった世迷いごとを、すっかり忘れてくれていますように。 )
──……いえ、いいえ。
まだどこか……幸せな、夢を見ているんじゃないかって思うくらいです。
( そうして、愛用の食器類で食事を堪能し、上機嫌にビビのことを思い浮かべてくれているらしい横顔に、うっとりと蕩けていたエメラルドを「ありがとうございま……はい?」と、心底驚いたように揺らしたのは、ギデオンの問うた意味が一瞬、よく理解できなかったからだ。聞いたことがなかったも何も、シルクタウンでロマンチックに助けられて、好きになっちゃったと、責任を取って欲しいと迫って始まった関係だろうに。まさか忘れてしまったのか。それとも、もっと深いことを聞かれているのだろうか? そう改めて、ビビよりもずっと年上で、聡明な恋人からの問いに、真剣な顔で口の中身を胃の奥に飲み下し、思考を無意識の果てに巡らせれば。「……ワーウルフから助けていただいて嬉しかったのは本当ですよ」と。それでも、決して否定されたくはない思い出については、しっかりと念を押しておこう。 )
でも、きっかけは、そうですね、……。
私が初めて告白した時、ギデオンさん、本気にしていらっしゃらなかったでしょう?
( それから、改めてギデオンの質問に向き合い直せば。思わず問い詰めるようになってしまった物言いに、「いいんです、当時は確かに本気じゃ……ううん、正気じゃなかったもの」と、恥ずかしそうに視線を逸らし。気付薬でもそうするように、ルビリアグラスを大きく煽ると。覚悟を決めたように、酒のせいだけでもなく、潤んだ瞳と上気した頬をまっすぐにギデオンの方へと向け。
──最初はね、それにとっても安心したの。私が“女だから”じゃない、“本物の冒険者“として仲間に入れてくださったんだって……。
そこまで口にして初めて、自身でも気づいていなかった内心に驚いたように目を丸くし。しかし、すぐさま表情を曇らせると、「……多分、きっかけは、きっとグランポートの時です」と、未だ完治しきってはいない相手の右肩──の先の右手にそっと触れ。当時、小娘であるヴィヴィアンのことが、趣味ではなかったというよりも。まるで、自分が本気で誰かから愛されるわけがないと思い込んでいたような。そしてその本人が一番自身のことを憎んで、喜んで危ない場所へと行きたがっていたような。どうしようもない危うさを思い出せば。
その一方で今、目の前で嬉しそうに食事を頬張り、昨日はボロボロになってまでビビを探しに来てくれた可愛い恋人に、自然と小さな笑みが漏れる。そうして、続けた言葉は九割本音で一割が嘘。本当は別に隣にいるのは、“ビビでなくても”きっとよかった。しかし、それに気付いて欲しくない、ずっとこの人の隣にいることを許されたい。そんな願いからくる小さな嘘くらいは、きっと許してもらえる筈だ。 )
……だってあの時のギデオンさんったら、ご自身のこと全然大切にしてくださらなくって。
”私がいなかったら”、生きていけなさそうだったんですもの……。
(実はこれまで、相手の気持ちの深いところをきちんと尋ねたことがない。それはそうするまでもなく、ヴィヴィアンが常日頃より伝え続けてくれるからだし、今は──少なくとも昨夜からまた──互いの愛情関係を確信しているからでもある。なのにこうして問い直すのは、初めての色恋に浮かれる若者でもあるまいし、野暮で気恥ずかしく感じたが。『ちゃんと"わかってる"し、本当に! 私はギデオンさんと居られればそれでいいって、そう言いたかっただけで……』。あのいじらしい声を思い返すに、既に通じているつもりのことも、案外ちがう気もするのだ。
そんな思いから切り出した話題であったが、現に今。目の前のヴィヴィアンが迷いながら紡ぐのは、聞けば驚く言葉ばかりだ。『ワーウルフから助けていただいて嬉しかったのは本当ですよ』……それはつまり、後の出来事がより重要な本題だろうと、あの一件が彼女にとって大きかったという意味で。──ギデオンにしてみれば、あの当時の出来事は、ある意味些細なひとコマだった。二十五年も冒険者をしていれば、獰猛な魔獣から仲間を必死に救うのは、無論そうではいけないのだが、よくあるといえばよくある話。何より当時の自分にとって、直後の彼女の告白のほうが余程青天の霹靂で、まさか本気で受け取るまいと、何なら忘れ去るように努めていた気さえする。しかし思えば、うら若い女性にとっては、確かに劇的だったのだろうし。だがそれでいて、「本気で受け取られなかったことで安心した」とは、これ如何に……?
そうやって首を傾げながら、自分でも驚く娘と丸い目を見合わせながら。真夏の青い星空の下、相手の一言一言にゆっくり耳を傾けて。目に見えない小さな何か、これから必要だろう何かを、胸の内に積み上げていく。──どこかしおらしいような声音を絞り出す恋人に、ふむ、と口許に手を当てて、今度はこちらが考える番。ある意味女として見られずに安心しきっていたヴィヴィアンが、当時の己のありようを見て、放っておけなくなったのだと……それが自分に構いはじめた始まりであるのだと。しかしその言葉には、少し言わせてもらおうか。)
──……俺にしてみれば、そうだな。きちんと食べて、よく休みもして……そうやって、前よりずっと健康になった今のほうがもうよっぽど、おまえなしじゃ生きていかれない体になっているんだが。
それはともかく……目を離すと危うかったのは、お前だって同じだろう?
(いとも甘い言葉を囁き、たらし込もうとしたかに見えて。──するり、と。こちらの右肩を案じるように触れていた彼女の片手を、今度はこちらが絡め取り、その小さな指先をどこか冷静に包み込む。親指の腹で確かめるよう手の甲をに撫でる仕草は、果たしてあの当時の記憶を彼女に思い出させるだろうか。「シャバネの時だ、」とすぐに明かししてやりながら、こちらも少し中空に視線を留め、緩みの失せた表情を。──やがてまっすぐ、叱るではなく案じるように、穏やかなアイスブルーで見つめて。)
俺だけじゃない。お前だって、自分のことが二の次だった。すぐに具合が酷くなって、自分でもそれを言えるのに……誰かのことを治すためなら、自分が後でどうなるか、あの頃はまるで構わなった。……シスターレインの教え、ってわけでもないんだろう?
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