匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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(“一生隣にいるんですから”。何てことのないように娘が告げたその一言は、思い返せばほんの数日、しかし本当に長いこと狂っていたギデオンの目に、理性の光を取り戻させる。無論、その恐れの波はすぐには退き切らないものの、それでも気づきの兆した顔で相手を見つめ返してみれば……はたして、そこにあるのは何だ。
花火の夜、雪深い晩、サリーチェの我が家の鍵を初めて渡したあの昼下がり。この一年の日々のなかで幾度となく目にしてきた、温かな慈愛に満ちたヴィヴィアンの表情は、どこも、何にも、何ひとつ、己の記憶に刻んだそれから変わってなどいなかった。……そうだ、彼女は変わらない。こうして何かに竦む自分を、彼女はいつも、ほんの一歩踏み出せば届くような近さから、優しく待ってくれている。己がこうして傍に行くこと、彼女を欲してやまないことを──彼女も、望んでくれている。
は、と熱い吐息が零れた。普段は重い魔剣を振るう幅広の双肩からは、情けないほど力が抜け落ち──その安堵の脱力のまま、そっと、こつんと額を寄せて。わずかに擦りつけてみれば、相手も同じようなしぐさで応えてくるのがたまらない。今度はこちらもおずおずと相手の頬を両手で掴み、そのすべらかな小さな顔を指の腹で撫でながら。今度こそ、きちんと素直に、己の本音を伝えてみせて。)
……わる、かった。遅くなった。
一緒に、帰ろう……帰って、きてくれ。
*
(──それからの帰り道。数日ぶりに並んで歩く懐かしさを味わいながら、まずは取り戻していくように、何てことのない会話を交わした。
ここしばらくのヴィヴィアンがその身を密かに寄せていたのは、やはりエリザベスの家で間違いがなかったらしい。アパルトマンの窓越しに見守っていたという彼女に、あの後きちんと詫びに行き。ヴィヴィアンが世話になったと頭を下げたその時ですら、人形のように美しいカレトヴルッフの受付嬢は、その淡々とした表情を一ミリたりとも動かさずにいた。──昨日あいつに訊いたんだ、ヴィヴィアンが来てないかって。その時もあの顔で、知らないなんてきっぱり言うから……だからてっきり別のところに、エリザベスを頼らないなんてよっぽどのことと思ったと。少しばかりの気恥ずかしさに笑いながら打ち明けて、相手のくすくす笑う声に、また心が軽くなる。相手のいつもどおりの反応、何も変わらぬその様子に、胸に巣食っていた影がどんどん薄れていくのを感じる。
──だから、そう、必然なのだ。サリーチェの我が家に帰り、リビングの明かりを灯し、夕食がまだだったという相手のそれを温め直して、まずは相手の腹ごしらえを優先させる……そのはずが。相手が屋台の紙パックを行儀よく膝に抱えて食べているのを良いことに、広々としたソファーの上でその体ごとすっかり抱き上げ、腹の辺りに腕を回して、後ろから密に抱きしめる。これは別におかしくはない、こちらも今まで通りの仕草を取り戻しているだけなのだ。食べにくい、と相手が笑えば、こちらも笑って理解を示すふりこそすれど、ますます両腕の輪を狭めて逃しはすまいとするだろう。そうして時折、相手がこちらに取り分けてくれていた分を、そもそも元が足りないだろうと固辞していたはずの癖して、その殊勝な口許に匙を運ばれればまあどうだ。これはクミンだ、カルダモンが、このナッツは鉄鍋での乾煎りの甲斐が云々。相変わらずの煩さを遺憾なく発揮するのは、だがしかし、こうしてどんどん夜が更けるにつれ、きちんと相手と話す時機が迫っているのを感じるから。──ある程度腹がくちくなり、弱めの酒も入れたところで、やっときちんと相手と向き合う。しかしそこには、最早いたずらな不安は混じらず。代わりに、己なりの誠意として相手に事情を共有するべく、ゆっくりと言葉を探す慎重な動きの視線で。)
…………。……ここ数日、いろいろと……すまなかった。おまえに、あんな風に振る舞っていい道理はなかった。
上手く言えないが……そうだな。
“責任”を果たす力がないと、思われるんじゃないかってのを……俺は、いちばん恐れて……いいや。恐れすぎてた、ように思う。
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