匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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──精霊か、
(“見える”ヴィヴィアンとは違い、ギデオンが捉えられるのは、せいぜい微かな瞬き程度。今、向こうの闇の中で、何かちらちら光ったような……そのくらいぼんやりと、怪訝に認識することしかできない。しかし隣の相棒にかかれば、逆に確信を持った横顔で、その細腕を伸ばす有り様だ。何をしているのか、と問おうとして、しかし自ずと思い当たり、小さく感嘆の声を漏らした。精霊を呼びだすのも、話しかけるのも、協力を仰ぐのも、その明かりが示す何ものかを探るのも。どれも、ギデオンには決して行いようがない──思い浮かびすらしない。今この場にヴィヴィアンがいた、そのおかげで取れた手段だ。
周囲を浮遊する塵のような煌めきに、敬意と感謝を込めてごくささやかに目礼してから。彼女が手に入れたその手がかりを、一緒に覗いて確かめる。ヴィヴィアンの言ったとおり、手帳……のようであるのだが、しかし既製品ではない。切り取った黒染めの革と、不揃いな紙片の束、それらを糸で綴じただけの、ごく粗末な作りをしていた。きっとジェロームは、監禁者であるフィオラ村に内緒でこれを作り出し、密かに所持していたのだろう。おそらくは……絶望の日々の拠り所にするために。
表紙をめくる。字は掠れている、しかし読めないほどではない。最初の数ページに亘っては、例の記事にもあった日付にフィオラ村へと攫われた経緯、及びその耐え難い慟哭が、ぎっしり書き込まれているようだ。何故、どうしてこんなことに、ここはどんな場所なのだ、何故私を捕まえるのだ。工房に、我が家に帰りたい……妻に、幼い我が子に会いたい。余りに痛ましいその独白に、目元を思わず歪ませつつも、更にページをめくっていく。思わず無言で読み入るせいか、紙擦れの音がやけに大きく聞こえる。……)
*
(──段々とわかってきた。どうやらこの村の人々は、私に補助具を作らせたいらしい。それも、蜂蜜を採るための腕をだ。この村の飼う特別な蜂は、隣の平屋の地下にある鍾乳洞に巣をつくる習性だそうだ。天井から吊り下げられた蜂の巣から、蜜の詰まった巣を削り取るには、どうしても高い梯子を使う。それには大きな危険を要する。今まではほとんど僅かな蜜しか採ることができなかった。しかし、地上にいるままでも採れるようになったなら、もっとたくさんの蜂蜜を採れる。そのための腕がほしい。──そんなことのために、馬車に魔獣をけしかけてまで、私を誘拐したのだそうだ。
図面を書いた。村人に材料や工具を用意させた。しかし組み立ては素人であるから、私が監督することになった。外に出る時には、必ず義足を奪われた……。それでも、少しずついろいろも我儘を言い、行動圏や動ける時間帯を増やした。何としてでも帰りたい。もう数週間は過ぎている、妻が心配しているはずだ。そうだ、ナタリーは絶対に、あんな新聞を信じるはずがない。私の葬儀を開いたりしない。私を諦めたりはしない。
私が囚われているのは、森の中にある蔵だ。しかしこの頃は、その隣の平屋に立ち入ることを許されるようになった。そこはいわば工場であった。地下で採ってきた蜂の巣を、遠心分離器にかけ、蜂蜜にし、それをさらに蒸留器や漏斗にかけて、妙な薬に換えている。異様に真っ赤な蜜なので、何の薬かと尋ねたが、それは決して答えてくれない。
今日は平屋に客が来た。間違いなく村の外の人間だ、おそらく貴族か何かの遣いだ、身なりでひと目でそれとわかった。村がつくる妙な蜜薬は、かれらが仕入れているようだ。盗み見ていたら、近くの村人にまた殴られた。右腕まで折られたら、追加の図面さえ書けなくなるというのに……。だが、ひとつ収穫を得た。取引の帳簿は、平屋の北窓の横の、壁板の裏に隠している。いつかここを出る前に、どこの輩がこんなものを買っているのか、絶対に突き止めてみせる。
とうとう鯨蝋が届いた。村人に取り寄せるよう言いつけてから、ずっとずっと待ち詫びていたものだ。火をつけて話しかけると、やはり高山精霊が現れてくれた。魔法で輝く火の精霊だ。彼の明かりなら、素養のある者以外には目に見えない。闇夜に紛れて逃げ出しても、それを気取られないで済む! 決行の日までそばにいてくれるよう、夜は絶えず鯨蝋を灯すことにしよう。精霊は優しいいきものだ。こちらが挫けずに希望を語れば、手を貸してくれるに違いない。
せっかく算段を得たというのに、この頃具合がすぐれない。食事に何か盛られているのか。しかしおかしい、やつらは補助腕のメンテナンスのために私を生かしておきたいはずだ。そのためにわざと複雑な造りにしたし、定期的に起きる魔法陣の収斂不良も私にしか直せぬはずだ。それとも代わりでも見繕ったか。妻は。ナタリーはどうしている。我が子は泣いていないだろうか。精霊が不安がっている。大丈夫だ、と火を灯す。
朦朧としていたら、いななきのような声が聞こえて目が覚めた。馬のそれではない。山羊に似ている。随分辺りを震わせると思ったら、実際に地響きまでした。体に堪えるのでやめてほしい。そんなことを考えていたら、やがて村人がやってきた。定時より随分遅い。皆魔獣狩りか何かをしていたらしかった。ずっとそちらに行ってくれれば良いものを。精霊は隠れてしまった。この村の人間は、彼にきらわれているようだ。
村人と顔を合わせるだけで発疹が止まらない。おそらく何かのアレルギーだ。特に奴らが、「花畑」から帰ってきたときが酷い。そこの花にやられているのか。村人も困っている。生かさず殺さず飼い繋いできたくせに、予想外であるらしい。しかし医者を呼んではくれない。この村の医者はむらおさだけだ。むらおさは私が死んでも構わないと考えているようだ。冗談じゃない。痒い。痒い。皮膚のあちこちが掻き崩れて血まみれだ。痛い。帰りたい。妻に会いたい。私はまだ死んでいない。
熱。咳。喀血。凄まじく衰える。何故。
精霊が出てこなくなった。
むらおさが来た。葬送の句を詠まれた。おまえは特異体質らしい、花の愛を受け付けぬらしい、可哀想なことをした、と。ならばここから出せ。妻と我が子に、最期にひと目だけでも。そう言ったが無駄だった。神はいない。
祈るより憎むが増えた。
どうしてこんな目に遭うのだ。
私が何をした。
痛い 取り除いてほしい
痛い
ナタリー 会いたい
エミール 息子よ
おまえがこれを読んだなら
この忌まわしい谷の魔核を どうか
そうすれば 私は 向こうで )
*
…………。
(手帳には、まだ空白のページが随分とあった。綴じ跡からして、途中で付け足したものだろう。すぐにはこの村を逃げ出せないと悟り、それならいっそと記録を残すことにして……それすらも道半ばのまま。ジョルジュ・ジェロームの迎えた最期が、酷く苦しく孤独だったのは、火を見るよりも明らかだった。
腰元の皮袋の口紐を解き、布を取りだして、ジェロームの日記をくるむ。これが消えたところで、フィオラの人間に気づかれることはないだろう。そのまま、重い面持ちで隣の相棒を見やる。日記帳に刻印入りの財布、このふたつの物証で、この村に憲兵団を踏み込ませるための最低限は揃ったはず。逆に言えば──これ以上、このフィオラ村にいるのは危険だ。だがそれでも、念には念を入れるならば。)
……平屋の方も、確かめてみるか。
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