匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
通報 |
──……してないよ。
するわけがないだろう?
(決してこちらを振り返らずにいてくれるドクターの背に、ギデオンももう一度頭を下げ、ふたりで帰路についてしばらく。きゅっと身を寄せてきた恋人が、小さな声でぽつりと漏らした声を聞けば、思わず歩みを止めて、きょとんとした顔つきを。嫌になる? 俺が? ヴィヴィアンといることが……? まったく予想だにしていなかった、というように、その薄青い目を瞬いていたものの。相手の表情からその心情を察するに至れば、目元をふっと和らげて。一言簡潔に告げながら、ごく軽く肩を抱き、己の薄い唇をまろい額に押し当てる。それから距離を戻すと、もう一度言い聞かせつつ、小さな頭を優しく撫でて。相手のことを穏やかに見つめ、自分の言葉が届いたのをしっかりと確かめてから。またゆっくりと、歩調を合わせて歩き出すだろう。)
……親父さんについても、俺は何とも思っちゃいない。
口ぶりこそ過激な人だが、あの人はただ……おまえのことを本気で心配しているだけだ。ましてや、長い旅路で疲れ果てていただろうし、冷静じゃいられなかったろうさ。
落ち着いたらまた、ゆっくり挨拶しに行きたいと思ってる。……大事なことだろう?
(──この和やかな口ぶりから、ヴィヴィアンにも伝わるだろうか。どれほど罵られようと、ギデオンがギルバートを嫌うことなど有り得ないと。
確かに少年時代は、初恋の恩師シェリーを横から掻っ攫っていく(ように感じた)あの男に、煮えるような激情を抱くことはあった。……けれどそれも、幸せそうに笑うシェリーを見れば、悔しいことに、自ずと薄れていったのだ。あんなに自然な顔をするシェリーを、ギデオンは見たことがなかった。彼女はいつも豪快に笑うが……そこには時たま、翳りが差す。それこそ自分が惹かれはじめたきっかけではあったけれど、彼女に幸せであってほしいという想いだって本物で、自分がそうしてやりたいと思ったことが、己の初恋の始まりで。──けれど、彼女の抱える何かしらを吹き飛ばしたのは、ギデオンではなく、あの捻くれ者の男だった。普段の皮肉っぽさに似合わぬ、熱烈でまっすぐな口説き文句を幾度も贈るギルバートを見て。……この男なら仕方あるまいと、ギデオンは静かに身を引いた。当時の自分には、男として勝負に出るには、何もかも足りていなかったし。何よりシェリーの翳りが、少しずつ少しずつほどけていくのを目の当たりにすれば、それを掻き乱したくないとも思った。事実シェリーは、あの男の妻になってから、輝かんばかりに幸せになって──それも、ほんの一瞬で、唐突に終わってしまったけれど。20年前のあの日、愛娘ヴィヴィアンをめいっぱい愛でるギルバートを見て、己の過去の決断は、やはり間違っていなかったとギデオンは確信した。シェリーはすぐに世を去ってしまったが、それでもギルバートは、自分が認めるに足る男だったのだと。シェリーを、シェリーの大事な忘れ形見を、心から愛し抜いていると。
──だからこそ、わからないのだ。今朝の、当のヴィヴィアンが、あそこまで苛烈にギルバートを拒絶した理由が。可愛い恋人は、去年の春からずっと己を熱烈に好いてくれているが……それにしたって、ギデオンに対する侮辱、それだけであれほど強い反応を示すものではないだろう。ギデオンとて、パチオ家の事情を添う詳しく知っているわけではないから……この父娘の間には、きっと何か、問題があるのだ。ギデオンはそれを知りたかった。恋人であるヴィヴィアンの力になるためにも。──あの男にシェリーを預けた、少年の頃の自分のためにも。
ふと周囲を軽く見渡す。夏は日没が遅いので、まだ街灯もついちゃいないが、辺りは既に仕事終わりの人々がごった返している。この辺りが特に賑やかなのは、カフェやらパン屋やら、それらを合わせたより遥かに多い、スタンド型の屋台やら……とにかく、手軽に食事を楽しめる店々が豊富だからだ。それこそ、サリーチェのような落ち着いた住宅街に居を持つ人々が、手軽に夕餉を済ませていくエリア、それがこの商店街なのである。そのことを思いだすと、ラメット通りに続くいつもの道に入る前に、賑やかな横道の方にくいと頭を傾げ。気分転換に軽いデートをしようと、恋人を誘ってみて。)
……なあ。朝はああ言ったが……俺もお前も、今日は正直、いつも通りって気分じゃないだろう。
せっかく便利な場所に住んでるんだ。何か美味そうなのを買って帰って、一緒にゆっくり過ごすほうに時間を割かないか。
トピック検索 |