匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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(ギデオンの傍にやって来て、再びその剣を“守るため”に振るいはじめた、“治された”女戦士。しかしその肩がびくりと跳ねて、ただただ無言で凍りつく。……何故、どうして。どうして己より若い彼女が、ヴィヴィアン・パチオが、かつての母と……同じ言葉を。
──大好きよ、エドラ。可愛い可愛い、世界でいちばんのたからもの。
温かい母の声が、耳に鮮やかに蘇る。
なんで、どうして、今更そんな。
──母さんのふるさとのために、おまえまで不幸な人生を生きる必要なんかない。
──おまえは広い広い世界を、のびのびと、自由に生きるの。
──古いものに囚われないで。過去の呪いに苦しまないで。
──新しい毎日を、いろんな人と笑って過ごして。それだけが、母さんがおまえに望む、ただひとつのお願いよ。
大好きだった母。世界の全てだった母。どんなに貧しい暮らしでも、自分を全力で愛してくれる母とふたり一緒なら、どこまでだって生きていける。……少女時代のエデルミラは、そう本気で信じていた。
しかしその母は、悪意によって潰された。追放されてもなお続く故郷からの嫌がらせに、心が耐えきれなくなったのだ。母の生まれ故郷は、母が遠くへ出て行って尚、母をしつこく追っていた。部外者を使って何度もこちらを見つけだし、直接的に追い回したり殺しかけたりするだけではない。母が何度職場を移っても、“気狂い売女”と吹聴され、言葉にするのも汚らわしい低俗なビラを振りまかれ。娘のエドラは呪われた子だと、悪魔と番った母親のせいで生れ落ちた存在なのだと、そんな噂が広められ。つい先日まで優しかったはずの町の人々が、自分たち母娘に石を投げるようになった……なんて経験も、数知れない。
そういった日々に苛まれることで、母はやがて、自分自身の存在を咎めるようになったのだろう。自分という罪人が生き永らえている限り、故郷の罰はどこまでも続く。そうすれば娘のエドラまで、こうして一生呪われ続けてしまうのだと。だから、母は命を絶った。もう許してくださいと、そんな叫びを全身の血肉で訴えかけるかのような、最も残酷な方法で。
悪意渦巻くこの世の中に、エデルミラはひとり取り残された。そしてその当の悪意は、まるでそれまでが嘘かのように、エデルミラをあっさりと忘れた。……おそらく彼らの執念は、追放した母の死を以て、ひとつの満足に達したのだろう。幼いエデルミラはどうせどこかで野垂れ死ぬと、そう侮ったのもあるのだろう。
──だからこそ、エデルミラの憎悪はより凄まじいものになった。母との苦しい日々のなかで、母が優しさから隠していたより多くのことを、エデルミラは察していた。だから、母は恨まない。恨もうとするはずがない。胸に沸く悼み悲しみ、それらは全て、どろりと重い憎しみへ。とある商店を名乗る男、引いては取引先を通じて彼に依頼した母の故郷。母を殺すまで止まらなかったかれらへの、決して忘れ得ぬ復讐心へ。
……それでも何度か、その暗い道を外れかけたことはある。母の愛を思い出しては、ただ自分の人生を生きようとしたことはある。名を変えて冒険者になってから、住める街も友人もできたし、結婚を申し込んできた男も、実のところ何人かいた。……けれどもエデルミラの体は、どうしても、どんなに頑張っても、男を受け付られけなかった。“悪魔の子”と詰られてきた幼少期のトラウマが、人と交じり合うことに恐怖心をもたらすのだ。
結局、普通の人生をどうにか生きてみようとしてみたところで、母の故郷が寄越した悪意は、今なおエデルミラを苦しめた。母のあの優しい祈りを忘れきることもできず、しかし陽向の人生に踏み出していくこともできず。きっと自分は、このままこうして苦しみながら生きていくのだろうと、エデルミラはそう思っていた。大好きな母のことを、この世で唯一忘れない存在。そうあることだけを抱きしめて、ひとりで朽ちていくのだろうと。
その矢先に偶然クエストで訪れたのが、このヴァランガ峡谷だ。それはひいては、母を殺した憎き故郷、フィオラ村との邂逅であり。…のより凄まじく極悪な所業の、誰よりも早い発見であり。母を殺しただけに飽き足らず、今なお国じゅうに呪いを広める怪物ども。かれらを今ここで根絶やしにしなければと、そうエデルミラが思いつめたのも、無理のないことだろうに。
──ああ、なのに。どうして今更、母の優しい愛の言葉を、自分にかけてくれた祈りを、思い出してしまうのだろう。
──もう、今更、遅いのに。
──私は母の言いつけに背いて、フィオラのやつらのお望みどおり……“悪魔の子”になったのに。)
*
(「は、はは……」と。魔獣の返り血に染まりきった女剣士が、涙をぽろぽろ零しながら虚しく笑い始めた途端。ギデオンはすっと真顔になり、その様子を無言で見つめた。──今までの暫くの間、女剣士エデルミラは、“ヴィヴィアンを守る”という共通の目的のもと、正気を取り戻したように見えた。ギデオンと肩を並べての淀みない剣捌き、敵意漲る魔獣どもを……フィオラ村の成れの果てを……次々屠るその姿こそ、何よりもそう実感させてくれたはずだ。彼女はまだ、無辜のだれかを守るために剣を振るえる人間なのだと。闇を切り裂き、活路を拓き、救いに向かう心があると。そう信じていられるのは、一瞬だけだったのか。
しかし、それは少しだけ違った。その顔の絶望に染めながら、それでも孤独な女剣士は、他意なくギデオンに縋りついてきた。「ごめんなさい、」と震え。「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、魔法陣は発動してしまったの。だから、ほんとに、もう逃げないと。……だけど、おねがい。──わたしのことも、たすけて……」。
いったい何をした、と鋭い声で尋ねようとしたその途端。足元からの激しい突き上げが、丘の上の三人を襲った。再び起こる巨大な地震、周囲の業火の爆ぜる音を塗り潰すような太い地響き。それに混じって、どこかしかの深いところで、何かがバキバキと砕け散る音。思わず青い目を見開く──この女、こいつ、まさか。フィオラ村を滅ぼすために、地中の魔核を破壊したのか!
「ヴィヴィアン!」と、エデルミラの腕を掴みながら、相棒の元に駆け寄ろうとしたそのとき。それを唐突に阻んだのは、しかし全く予想外の攻撃だった。いよいよ発動しはじめたエデルミラの魔法陣、そこから伸びる幾筋もの──血の触手。黒魔術ならではの、攻撃的な魔素の機構だ。
どうやら正気に戻る前の彼女は、術者本人を生贄にする術式を組み上げていたらしい。エデルミラの前身は、あっという間に深紅の触手に群がられた。その首も胴もきつく締め上げられたせいか、彼女ががくんと気を失う。振り返ったギデオンが、悪態をつきながら無理やり引き剥がそうとするも。今度はギデオン自身にも触手が殺到し首筋の頸動脈をずぶりと突き刺されてしまう。激痛に顔を歪めながら、それでも唸り声を上げて辺りの触手を斬り払った。ヴィヴィアンの聖の魔素がまだ己の魔剣に宿っている、そう信じたが故の一閃だ。そうして満身創痍のエデルミラを花畑から引き剥がし、血まみれの腕に抱き上げ、もう一度相手の元へ這うように向かおうとしたのと。──先ほど大ダメージを喰らったはずのウェンディゴが、業火の奥から再びその姿を現し、こちらに猛然と襲いかかるのは、どちらが先だったろうか。)
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