匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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(ギデオンにそっと話しかけるヴィヴィアンの声に滲むのは、嫌悪でも羞恥でもなく。こちらの身を案じるような、静かで優しい思いやり──とすら、とても呼べない代物だった。ギデオンは彼女に背中を向けたまま、途中までなら、じっと黙って聞いていたのだが。可愛らしい恋人の発言が、愚昧なほど頓珍漢な方向へすっ転び始めれば。正直そうなる展開を予感してはいたものの、それでも二、三度、びしりびしりと、その彫刻のように逞しい後姿を、あからさまに強張らせて。
自分のためにそうなったと思うと嬉しい? 俺のために頑張りたいから、自分にできることを教えてほしい? けれど最後は……肝心要の部分については、トラウマがあってまだ怖い? おまえは──おまえは、本当に、何ひとつ、わかっちゃいない……! 正直にぶちまければ、今すぐ彼女をどこかに連れ込んで、この煮えるような苛立ちを、胎の奥どころか骨の髄まで叩きつけてやりたいほどだ。そんな乱暴なわからせ方を選ばずとも、いい加減に学んでくれ、と本気で怒鳴りたくはあるのだが、しかしもちろん、本当にそうするつもりなどなかった。見ての通り、恋人のヴィヴィアンには、しっかりがっつり浅ましい欲を抱いてはいる。しかしそれ以上に、彼女の心からの信頼や安心こそ、ギデオン自身が最も欲してやまないものだ。一時の欲や怒りなんぞに呑まれたせいで、それをみすみす損なってなるものか。しかし、それを踏まえるならなおのこと、おまえの相手は聖人君子ではないのだと、そろそろ真面目に教えねばならないだろうか。しかし、それはまた後で……きちんとゆっくり話ができる状況になってから、落ち着いてするべきだろう。そう冷静に答えを出すと、盛大な溜息をひとつ。険しい眉間を強い指圧で揉みほぐしながら、こめかみにびきびきと浮かんでいた青筋を鎮め。「……、その話なんだが。とりあえず、まずは浜に戻って──」と、疲れた顔で相手を振り返った、その時だ。
語弊しかないタイミングで続きの言葉を切ったのは、この珍妙極まりない状況の原因こと……悪戯もののエッヘ・ウーシュカが、こちらに猛然と駆けてきたせいである。ブルヒン、ブルヒン、ブルヒヒヒンと、いやにうるさい嘶きを撒き散らしながらやってきた黒い馬は、まずはギデオンをじろりと一瞥。「ケッ」とでも言うような、いつぞやの齧歯類よろしくイラっと来る顔を向けてきやがったかと思うと、今度はあからさまに一変。ヴィヴィアンの方に向き直るなり、きゅるんと愛らしい、まるで従順な家畜の如き、白々しい表情を浮かべ。不意に長い首をふるったかと思うと、その口にはいつの間にやら、見覚えのある白い布切れを食んでいる有り様だ。ヴィヴィアンが気づきの声を上げるのと、全てを察したギデオンがその表情を完全に消し去ったのとは、ほとんど同時。相手がその細腕を伸ばして取ろうとしたとて、無駄に知能のある魔獣はその首を後ろにそらし、「そう簡単には返さないよぉ~~~ん!」とでも言うようなにんまり顔で、彼女を見下ろすことだろう──だがしかし。「あっ」とでもいうように、その目が丸く見開かれ、歯茎を向いた汚い笑顔ががちんと凍りついたのは。お目当ての可憐な娘の背後、沸々とどす黒いオーラを立ち昇らせる、凄まじい修羅に射竦められたからだ。「……ヴィヴィアン、」と、恐ろしく低い声で話しかけたその男は、自分の羽織っていたボタンのない白いシャツを、後ろから相手にそっとかけ。そのままざぶざぶと岩棚の上を歩きながら、今までにない戦士の背中を相手に見せることだろう。)
俺から離れて、浜に上がれ。
すぐに──こいつを──片付ける。
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