匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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ああ、いや、すまない。別におまえのせいじゃ……
(献身的な恋人のしょげたような声を聞き、反射的に口を開く。相手の非など何ひとつない──寧ろこれだけで済んだのは、彼女とドクターのおかげだろう。しかしその訂正も、結局最後まで続かなかった。背後からそっと抱きしめられ、その柔らかい唇をあちこちに寄せられた途端。いつもの真面目顔がふわりとほどけ、まだ残っている犬耳までとろんと垂れて……素直に、“待て”に入ったのである。
キッチンに向かった相手の背中を、そのまま肩越しにじっと眺め。ソファーの上に乗せた尾の先をゆらゆら小ぶりに揺らすうちに、やがて彼女が戻ってきた。手元の椀からは白い湯気、おそらくスープの類いだろうか。てっきり隣に腰掛けるものと思っていたギデオンは、相手が堂々と膝に乗り上げ、寧ろ“もっと奥に動いて”と言わんばかりにぐりぐりしてくるものだから、可笑しそうに喉を震わせ。栗毛に唇を触れて、お気に召すよう体勢を変え、腕の中にすっぽりと収めると。ギルドの連中が見れば憤死しそうな距離感で、まずは夜食に歓声を上げる。──如何にも舌触りの良さそうなポタージュは、食材を丁寧に丁寧に裏漉しすることで辿りつける、目にも優しい若葉色。そのなかに浮かぶ大きな大きな肉団子を、相手の匙で差し出されれば。目元を綻ばせながら、鋭い犬歯の生えた口を、大きくぐぁりと開けてみせ。)
──ん……んん……ふ、これは……たまらないな。
軟骨の……触感が……ん、それに、これは……団子が痩せないように、粉をつけて焼いてあるのか。刻み玉ねぎは……ああ……今の俺がこんなだから、避けてくれたんだな。念のために。
このくらいの薄味も、素材の味が生きていて好きだが……多分まだまだ、濃くして平気だ。どうせなら一緒に美味しく食べられるくらいがいい……お前の腕に任せるよ。
(ポタージュの染みた挽肉を頬張り、柔らかく噛み砕くうちに。最初に思わず零れたそれは、幸せによる笑い声だった。
──ヴィヴィアンが己のために料理を作ってくれるのは、遡ればいつかの冬、まだ交際を始めてもいなかった(……と、当人たちだけが本気で思い込んでいた)ころに遡る。最初のそれは温かなポトフで、その目を瞠るような美味しさに、ギデオンはいたく衝撃を受けた。……自分で言うのも憚られるが、我ながら舌は鋭いほうだ。それは幼少期の母が、毎日のように良いものを食べさせてくれたことに始まり。独立後、例のあの事件で一時転落するまでの間、王都で生まれる様々な美食に親しんでいたからである。素人にしてはやけに肥え太った舌を、それこそプロの料理人である、知人のニックも頼るほどで。逆にその分、そこらの屋台飯に満足できないことも、表に出さないが珍しくもなかった。そんな己を、ヴィヴィアンは、ありあわせという食材だけで唸らせてみせたのだ。決め手に違いない隠し味を、思わず真剣に訊ねれば。『……あのね、世界で一番大好きな人に食べてもらえるから、たっっっぷり込めた愛情のおかげかも』。その答えを、数十年前の母とほとんど同じ台詞を聞いて以来、ギデオンはもう、ヴィヴィアンの料理が忘れられない体になった。この味を知らぬ頃には、もう二度と戻れなかった。──そして、今。その世界で唯一の味を、こうしてギデオンのためだけに調整し、味見と言って彼女手ずから食べさせてくれる。何なら肉団子にしてくれたのは、昼間に薬入りのそれを食べ、内心不服に思っていたのを──料理のようで料理でないのが正直むず痒かったのを──察していたからに違いない。口直しをさせてくれたわけだ。裏漉しという調理方法にしろ、今起こっている歯の変化を考慮してのことだろうし。そもそもこの時間は、普段ならば相手はとっくに寝入っている頃合いで、帰りの遅いギデオンのために待っていてくれたのだった。──そういった背後の諸々までわかっていれば、このポタージュを幸せに感じないわけがあるだろうか。ギデオンにとっては誇張抜きに、この世で最高の味だった。一刻も早く、たっぷりと味わわなくては。
──故に。「風呂上がりにこいつが待ってるのか、五分で済ませてこないとな」と。名残惜し気に頭を擦りつけてから、彼女を下ろして立ち上がると。シャワー室に向かったギデオンは、毛だらけの不慣れな体をしっかり洗い、バスタオルを掻き込んだ。それでも湿り気の取れない部分は、ヴィヴィアンの許可のもと、髪を乾かす魔導具の温風で、ふわふわに乾かして。──そうして今一度食卓につき、今度こそ夜食に浸る。餐の供はヴィヴィアンの話だ。本日のラタトスク狩りの面白おかしい大騒動、その顛末を、ふんだんな身振り手振りで聞き知り。ところどころ、相手を揶揄ったり、むくれられたり、褒めたり、手と手を絡め合ったり。そうするうちに職業柄、真面目な討伐案についても話を広げていっていると、あっという間に深夜帯だ。明日は二人とも少し遅い出勤だが、これ以上夜更かしするのは得策ではないだろう。くぁり、と牙を見せつけるような大あくびをひとつ。皿や調理器具の片づけを任せる間に(何せ今は手もおかしいので、いつもどおりとはいかないのだ)、身嗜みや明日の準備を済ませ、寝室のクローゼットから余分な上掛けを持ってくると。至極当たり前のような顔をして、相手の旋毛にキスを落とし。)
それじゃ……抜け毛が酷いかもわからないし、俺は今夜はここで寝るよ。おやすみ。
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