匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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( 静かな病室に二人分の衣擦れと、微かなリップ音だけが密かに響く。ずっと慕ってたまらなかった相棒が、ヴィヴィアンの腕の中、此方だけを見つめて、自分だけを求めてくれている。そんな夢の様な幸せに思わず薄く目を開き、そっと相手の様子を窺えば。此方の視線に気が付いた水面がふっと柔らかく細められ、熱に浮かされた脳みそは益々益々のぼせ上がるばかり。ギデオンから与えられる溢れんばかりの愛情に、太い首に回していた腕に力を込めて、精一杯の拙い動きで必死に追い縋る。長い長い口づけに、唇の端から洩れる到底己のものとは思えない、しっとりと濡れた吐息が堪らなく恥ずかしくて、力の抜けた脚では立っているのも辛いというのに──愛しい人に触れて、触れられている、たったそれだけの事がこんなにも幸せで。決して小さくはないビビの体躯さえ覆い隠す、広い背中から少しだけ覗いたほっそりと白い指先が、赤いシャツに皺を作るその背後で。窓辺から流れる爽やかな風に、可愛らしい桃色の花弁が何処か満足げに揺れていた。 )
( 主治医から退院の許可が下りたのは、それから数日たった後のことだった。慣れ親しんだ下宿の扉をくぐって、南の大通りに面した広い窓を開け放つ。整頓された机の上で、吹き込んできた風に揺れる薄紫の花弁は、一カ月以上も家主が留守にしていたというのに、その帰還祝いとばかりに美しく咲き誇り。お日様の香りがする白いシーツに、暖かな窓辺。部屋のサイズに見合わない巨大な本棚は、天井近くまでびっしりと埋まっているのに塵一つ見受けられない。──あとで大家さんにお礼を言っておかなきゃ……、と振り返った視界に映ったのは、この空間で唯一見慣れない……否、この一年間、誰より何より網膜に焼き付いて離れない程には見慣れてはいるのだが、如何せんこの空間との場違い感が否めない恋人、ギデオン・ノースだ。いつかの秋の夜に──野火より早く広められるぞ、なんて。人の誘いをにべもなく固辞した男は何処へやら、当たり前といった顔で荷を下ろす相棒がここに居る事情は、まあ……色々あったのだが、それはまた今度の機会にしよう。
さて、元々面倒見の良い人だとは思っていたが、ビビの下宿で過ごした一週間の間。「退院後の一週間は絶対安静、その後も暫くは激しい運動は控えるように」という主治医の言いつけを受けたギデオンは、とうとうヴィヴィアンにその物理的な引っ越し作業の一片も手伝わせてはくれずに。その過保護さは新居に移った後も、多少和らぎはすれど、とても成人女性である恋人に向けられるものとは思えない有様で。勿論、愛しい人と二人きり、これ以上なく幸せには違いないのだが、ビビとて自由を愛する一介の冒険者ということを忘れられてはたまらない。色とりどりの花が咲き乱れる居心地の良い新居に届けられたその一報は、この一カ月、まるで深窓の令嬢かの如き生活を余儀なくされたヴィヴィアンを喜ばせるには十分だった。 )
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( 二人の新居の一階、よく磨かれたキッチンとつながる明るいリビングに、調子っぱずれの鼻歌が楽し気に響いている。二人で探しに行ったソファの上で旅行……ではなく、訓練合宿の準備に浮かれているのは、一人満面の笑みを浮かべているヴィヴィアンだ。毎年6月の半ば、カレトヴルッフでは来る夏に向け、水難救助訓練が行われる。キングストン郊外に流れる川で行われるそれは、寒い、汚い、きつい、と毎年大顰蹙を買う不人気な訓練で、今年も例年に違わず参加予定者はごく少数だった。しかし、状況が一転したのはビビが静養中の6月頭のこと。命を救う重要な訓練にも関わらず、一向に受講者が増えないことに頭を悩ませていたギルドの上層部が、今年の救助訓練を南国グランポートのプライベートビーチを貸し切って行うと発表したのだ。この一報は、日に日に上がる気温に参っていた冒険者たちに衝撃を走らせ、次々に応募者が溢れた講座は無事定員上限を僅か半日でクリア。御触れ以前に申し込んでいた希望者以外は、倍率数倍の抽選にまでなったという効果絶大ぶりで、来年以降も“不定期”に場所を変更する、という御触れに、いつか南国のビーチを夢見る冒険者たちが、毎年キングストンの汚い川に浮かぶこととなるのだろう。そんな冒険者たちの純真を弄ぶ幹部たちの思いきりは、そもそもグランポートの方から申し入れがあったということで。昨年、未曽有の政治的危機に陥っていた市を救ってくれたカレトヴルッフに、未だ立て直し途中のため少数で申し訳ないが、と40名程度の団体旅行が送られてきたということらしい。その建前上、訓練に参加するならば、という条件はあったものの、功労者であるギデオンたちにも声がかかったという次第である。その頃になるとヴィヴィアンの体調も、少しまだ足元が覚束ない瞬間はありつつも、随分と回復し、主治医から段階的な運動の許可も下りたばかりだった。そうして、約1年ぶりのグランポート遠征が目前に迫り、ぱたぱたと目まぐるしく駆けずりまわっていたところに恋人が姿を現すと、真夏の太陽より余程明るい表情を浮かべてとびついて。 )
あ、そうだ、ギデオンさん!
私の荷物に浮き輪ってなかったでしたっけ──?
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