匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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…………、
(その一瞬、その刹那だけ、ギデオンは時を忘れた。この目が見たのはそれほどまでに、神話そのものの光景だ。純白の衣を纏い、金色の野に降り立つ乙女。凛とした顔の彼女、ヴィヴィアン・パチオが駆け抜けるそのそばから、天に幾筋も伸びる血潮が、きらきら瞬き消えていく。フィオラに根を張る悪意から、忌み子エドラの恨みから、百の御魂がついに解き放たれたのだろう。ヴィヴィアンに癒され、治されて、ようやく天に昇っていくのだ。
その荘厳な瞬間から、しかしたちまちギデオンを呼び戻すのも、そのヴィヴィアン本人だった。ほとんど飛びついてきた相棒、そのあまりにも等身大の、いつもどおりが過ぎる仕草に、ぱちくりと目を瞬かせ。反射で背中に手を回しつつ、戦士にしては少々間の抜けた表情で、当惑あらわに見つめ返す。こちらを必死に見上げているのは、本当にさっきの娘か? それともあれは己の幻だったのか……? それでも、相手の肌の温もりをそこかしこから感じ取れば、ふ、と人心地がついてしまうのだから、こちらもどうしようもない。「無事だ」「何ともないよ」と、ローブ越しに優しくさすり、その額に唇を触れると、エメラルドの目を覗き込んで。)
……また、お前に救われたな。
(そんな台詞を吐けたのも──しかし、“それ”が起こるまでのことだった。
……谷底にいた冒険者たちは、全く知る由もない話だが。その少し前、峡谷を見下ろす白銀の嶺のどこかでは、この世のものとは思えぬような断末魔が上がっていた。真っ白い筈の雪さえどこかどす黒く見えるような、地獄の淵じみた不気味な窪地に横たわるその男は……言わずもがな、生ける屍……狂人エディ・フィールドだ。
本体ゆえに安全だったはずの彼をここまで苦しめたのは何か。きっかけは、移し身であるウェンディゴ・エディの心臓が、浄化された死者の力に破壊されてしまったことだ。これまでこんなためしはない。移し身の被害が本体に及んだことなどないし、フィオラ村が使っていたのは、ヴァランガの月の……赤い狂気の……魔素であって、それなら幾ら喰らおうが、移し身の肉体を灼き切ったようなことはなかった。だが今夜のウェンディゴがぶち込まれたのは、全く別の、清く、温かく、ひた向きな、慈愛に満ちた魔素だ。そしてそれは何よりも、死者を死者として葬るという、ある意味当たり前の力を宿しきっていたわけで。邪な方法で死を退けてきたエディ・フィールドにとって、それがどれほど覿面だったことだろう? 彼の歪んだ黒魔術など、この上なく正道なヴィヴィアンの聖魔法の前に、太刀打ちできるはずもなかったのだ。エディ・フィールドは腐った体をおどろおどろしくのたうち回らせ、されどいつまでも激痛から逃れられずに……やがてはきっと、再び怨みを募らせたに違いない。
ただでさえ昔から不自然に地理を制御されてきた、このヴァランガ峡谷一帯。そこにエデルミラの復讐心が、次いでヴィヴィアンの救いの祈りが刺さり、均衡が大きく崩れた。その矢先に今度はエディの、破壊衝動に満ち満ちた闇の魔素の一撃だ。そうすればきっと、谷底の連中をどうにかできると思ったのだろう。山肌の雪でもけしかけ、やつらさえ死なせられたなら、この苦しみは終わるはずだと。そうすればまた、傷を癒し、移し身を蘇らせ、谷を襲う怪物になれると。……むろん、そんな浅はかな企みが、そう都合よく運ぶなどというわけもなく。
ヴァランガの満月がぞっとしたように照らすなか、“それ”はついに始まった。それまで無様に転げ回っていたどろどろの肉の塊が、巨大な影を感じ取ってびくん、と固まり、とうに両目の溶け落ちた眼窩を夜空に向けた、その途端。ちっぽけなその毛虱を、崩れ落ちてきたヴァランガの白い嶺が、猛然と叩き潰した。圧倒的な質量を前に、もはや何ものも成す術はない。大自然の無慈悲な威力が全てを引き裂き、粉々にすり潰し、あちこちに千々に蹴散らし、そのまま瞬く間に呑み込んでいく。そのものすごい勢いの力は、そのまま周囲の山肌をもばりばりと巻き込みはじめた。表層の雪だけではない、樅も、岩も、真っ黒な凍土も、まるですべてを剥ぎ落していくかのように。破壊的な白いうねりは、縦にも横にも、幾重にも幾重にも広がっていき──やがて、巨大な雪崩となって、谷底を目指しはじめた。)
……ッ、おまえら、手配に回れ!!!
(──谷を見下ろすあの山に見えた崩落は、ただの雪けむりなどではない。ほとんどの冒険者たちは、本能的にそう感じ取った。普通の雪崩なら、これまでにもめいめいこの目で見たことがある。だがあれは、それとは違う。もっと恐ろしい……もっと破滅的な何かだ。
皆表情をがらりと変え、口々に逃げろ、逃げろと叫びあいながら、一目散に駆け始めた。フィオラ村に幾らか滞在したことで、ここには雪崩を凌げるような場所がどこにもないことを知っている。例の地下洞窟ならどうにかなるかもしれないが、最寄りの入口は遥かに遠い──結局、あの雪の塊が届かない場所にまで、いち早く逃げるしかない。目指す先はただひとつ、あの元来た隧道だ。あの先、崖の向こう側なら、背後から来る雪崩の勢いはほとんど阻まれてくれるはずだ。
未だ燃え盛る花畑を駆け下り、村の建物がある辺りまでやって来ると、未だ残っていた元村人の魔獣たちが、一斉に襲いかかってきた。しかしそれは、ギデオンとアルマツィアの斧使いが立ちどころに打ち殺す。その早業に一瞬言葉を失う年若い連中に、丁寧に説明してやる時間も惜しく、怒鳴るような声で命じた。──村の南端にある隧道へ、あと数分で辿り着かなくてはならない。村の家畜でも何でも、今すぐ御して使わねばならない。そのために、それぞれの役割が必要だ、と。──巨大な魔狼がひとつがい、金色の毛をした幼い雌の仔狼が二頭。年老いた雄の魔狼に、それとよく似た腹の大きな雌狼。そのどれもを、今はただ、若い連中や相棒があたっている段取りを信じながら、必死の思いで斬り捨てる。そうしてようやく、出来上がった数台の牛車に飛び乗ると、村の平坦な道を死に物狂いで駆け抜けて。
しかしその間にも、皆の振り返る遥か北側、あの花畑があった辺りは、既に雪崩に呑み込まれはじめていた。ごうごうと唸る音、ばりばりと砕ける音──宵闇のなか赤々と燃える炎も、元村人たちの亡骸も、忌まわしいウェンディゴの死体も。あの近くにあった養蜂場も、ジョルジュ・ジェロームの死んだ蔵も……たったいま、皆巨大な雪けむりにかき消えていくところだ。今はまだ遠く見えるあの白い魔の手、しかしあれがこの場所にも迫りくるまで、もはや一、二分もない。
ようやく最後の上り坂に着いた。皆弾かれたように飛び出し、出口めがけて駆け登る。ギデオンもまた、今夜はあちこちで支援しどおしのヴィヴィアンが転んだりしないかと、時にその腕を取りながら、あの細い横穴を必死に目指していたのだが。我先に辿り着いた若い剣士が、どうしてか何も見えない虚空に向かって何度も必死に体当たりしている。そうして、「嘘だ、嘘だろ──なんでだ!」「魔法封印がかかってやがる!」と、絶望の声を上げるのを聞けば、思わず相棒と顔を見合わせ。)
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