刑事A 2022-01-18 14:27:13 |
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( “話を聞きにきた”と相手は言うが、その為だけに飛行機に乗って、遠く離れたワシントンまで来たと言うのか。相手の浮かべる表情に胸が苦しくなるのは何故だろうか。「……入れ、」と、部屋の中へと促すと扉を閉める。温かいものを飲もうと思って沸かしておいた湯をマグカップに入れインスタントのコーヒーを溶かすと相手へと差し出す。まだ状況に頭が追い付いていなかったものの、もうひとつのマグカップを出して同じくコーヒーを入れソファへと腰を下ろすと、コーヒーをひと口口に含んでから相手に視線を向ける。「……本当に、話を聞く為だけに此処まで来たのか?」そう尋ねつつ、背凭れへと背中を預け息を吐き出す。「_____お前の行動力を見くびっていた、」と、今一度まっすぐに相手を瞳に映して。 )
( 会いたいと、所望し続けた相手が今は目の前に居る。涙で潤んだ瞳には相手のその碧眼がやけにキラキラと輝いて見えた。__促されるまま部屋に入り差し出されたマグカップを受け取る。湯気のたつコーヒーを一口飲めば途端に胃は優しい温かさの中に沈み、内側から静かに身体を温めてくれる様だった。相手がソファに座った事で、少しの間を空けて己も隣へと控え目に腰掛けると、此処まで来た理由の確認に間髪入れず頷き。「そうだよ。…“待ってて”って言ったでしょ。」己の発したその言葉と、受け取った相手の認識は間違い無く時間のズレがあっただろうがお構い無しだ。柔らかくはにかんだ笑顔のままに「エバンズさんも知っての通り、頭より先に身体が動いたの。」何時かの日、ジョーンズと電話をした時に言われた言葉を思い出し表情を少しだけ悪戯なものに変えて。__手を伸ばせば届く距離に相手は居る。「……どうしても、会いたかった。」と、心が求めたままの素直な言葉は、ほんの少しだけ震えて )
( 漠然と、相手と再会するのはもっとずっと後の事だと思っていた。それなのに今相手は自分の目の前にいて、1人で淡々と暮らしていた部屋には懐かしい穏やかな空気が流れているのだ。相手の言葉に軽く頷き「考えなしに行動するのは、お前の得意技だったな。」と、皮肉めいた返答を。こうした何気ないやり取りさえ、随分久しぶりで懐かしさと心地良さを感じる気がした。僅かに震える言葉を聴きながら「______そうか、」とだけ静かに答えて手元のマグカップを見つめる。相手が手を伸ばせば届く距離にいるのが不思議な感覚だった。「…夕食は食べたのか?ルームサービスで良ければ頼め、外に出れば店は色々ある。」長旅で疲労もあるだろうと思えば、夕食が未だなら好きに頼んで構わないと告げて。 )
( 返って来た皮肉は此処1年聞かなかったもの。皮肉を聞かされて嬉しい、だなんて他者が聞けば怪訝な表情を浮かべる事間違い無しでどうかしていると思うかもしれないが、とんでも無い程の喜びと懐かしさが胸中を渦巻いているのは紛れもない事実。「久し振りに褒められた。」相手からすればそれは100%褒め言葉では無かっただろうに、都合の良い解釈で満足そうな笑みを浮かべ。相手の言葉でそう言えば夕飯を食べていなかった事を思い出す。ギリギリの飛行機に乗り、部屋に戻る事もせずに真っ先に此処に来たのだから。「…まだ。折角だから__」お言葉に甘えてルームサービスのメニューを見てみようとマグカップを目前のテーブルに置き__そこに処方箋の袋と鎮痛剤の箱を見付けた。1年前から確かに相手が飲み続けている物で、きっと此処数ヶ月は確りと効果を発揮しなかった物。胸が痛み、メニューに伸びた手が止まる。僅かの沈黙を置いて身体の位置を戻すと隣に座る相手を見詰め。「__ご飯は後にする。…今は、こうしていたい、」徐に伸ばした手は相手の目元に。濃く色を付ける隈を一度親指の腹で撫でた後、静かに腕を下ろすのと同時に相手の肩付近に凭れる様にして額を軽くくっ付けて )
( 相手の視線がテーブルに向き、動きが止まった事に気付き追うようにテーブルへと視線を向ける。相手が訪ねて来るなどとは微塵も思っていなかった為、朝部屋を出た時のまま処方薬と鎮痛剤をテーブルに置いたままだった事に遅れて気付いたものの、今更慌てて隠すような事でもないだろう。目元を撫でる感覚に僅かに目を細めたものの、優しいその感触は少し気持ちを落ち着かせた。相手が側に居てくれれば、少しは穏やかに眠る事が出来るかもしれないという淡い期待が顔を覗かせると、肩口に額を寄せる相手に「______今夜、此処に居てくれないか、」と、思わず小さく尋ねていた。相手に迷惑を掛けるとか、弱い姿を見られたくないとか、其れを二の次に考えてしまう程に“穏やかな眠り”を欲していた。ワシントンに来てからというもの、無限に続くのではないかと錯覚する程に長い夜を1人で耐え続けてきたのだ。 )
( 処方箋の袋の中は安定剤だろう。これはレイクウッドに居た時から飲むのを何度も見ていた。けれど市販の鎮痛剤は身体の何処かが痛む為に飲んでいるもの__。肩口に額をあて仄かに香る柔軟剤の匂いを感じるものの、此処はホテルだから当然か。記憶にある香りとは違った。そんな中、まるで溢れ落ちる様にして紡がれたのは相手からは珍しい望みの言葉。静かに額を離し持ち上げた顔には笑みが浮かんでおり。「…勿論。帰れって言われても居座るつもりだった。」相手から言われなくともそのつもりだったのだと、相変わらずの強引さでそう告げてから「飛行機は明日の夕方の便だから、朝までずっと此処に居る。」と、今一度ハッキリとした言葉で返事をし。__「…身体、痛い?」唐突な問い掛けは鎮痛剤の箱を見たから。相手を真っ直ぐに見詰める緑の瞳には心配と真剣な色が揺蕩っていて )
( 相手が夜側に居てくれると思うだけで、幾らか不安が和らぐのを感じた。不意に投げ掛けられた問いには少し返答に迷ったものの「______偶にな、」と答えるに留めて。実際に身体の痛みは慢性的に起きるようになっていて、その痛みをやり過ごすのにかなり時間が掛かる事もあった。痛みが強ければ強いほど、息が浅くなり身体も強張るため鎮痛剤を手放す事はできなくなっていたのだが、アダムス医師と話をして以降その事は誰にも打ち明けては居ない。それ以上詳細を語る事はせず、テーブルの上に置かれたメニューを手に取り相手に渡すと、夕食を頼むように促す。薬を見つけて躊躇はしたのだろうが、相手も空腹だろう。「好きな物を頼め、今日は奢ってやる。」と告げて。 )
( “偶に”と相手は言ったがその前に空いたほんの僅かの間と、その後詳細を語る事をしなかった事で恐らく“頻繁に”である事を察するも、相手がそれ以上を語らないのならば今は深く追求する事はしないと小さく頷くに留め。一度は手に取る筈だったルームサービスのメニュー表が相手の手から渡された。それを受け取り「…エバンズさんに奢って貰うの久し振り。ご馳走になります。」と此処に来てから何度も実感する懐かしさを再び胸に素直に奢ってもらう事を決めるとソファの背凭れに凭れつつページを捲り。朝食と昼食の箇所は飛ばし“夕食”と書かれた中には肉系は勿論、サラダやスープなど比較的軽く食べれる物やスナック類もある。お腹は確かに減っているもののガッツリ食べたい気分でも無ければ、ロールパン2つが付属としてついてるマッシュルームのポタージュと、お決まりと言えよう彩りの良いサラダを選びフロントに注文をする。その際“スプーンとフォークを2人分”との言葉は忘れない。ややしてドアがノックされ頼まれた物が運び込まれて来ると、スプーンとフォークを相手に差し出す様に目前へ。「…一緒に食べよ。」そう言って微笑む。全てを2人分頼まなかったのは、恐らく相手は食欲が余り無いのだろうと察したからで )
( 此の所は夕食も取らずソファで横になったまま眠ってしまう事も度々あった為、きちんとした食事を部屋で取るのは少し久しぶりの事のように思えた。差し出されたスプーンとフォークを受け取ると、湯気の立つスープを器に掬う。スプーンで口に運んだ其れは暖かく胃に落ち、優しい味わいが口に広がりほっと息をつく。調子が悪く食欲がない日が続いていたものの、スープであれば無理なく食べられそうだと思えば「______身体が温まる、」と告げて相手の方へと器を押しやって。スープをゆっくりと口に運びつつドレッシングの掛かった鮮やかなサラダに視線を向けると、相手は自分と食事をする時いつもこうしたサラダを頼んでいる気がして「…相変わらず、カラフルな野菜が好きなんだな。」と、何処となく呆れたような不思議そうな声色で言葉を落として。 )
( 要らない、と拒否されなかった事に安堵した。例え僅かでも食べ物を摂取出来ればそれだけで栄養は身体を回り、気休めであったとしても微力な原動力となる筈だから。押しやられた器からスープを掬い一口飲めばマッシュルームの良い香りが鼻腔を擽り、濃厚な、それでいて優しい味が身体を包み込む様に胃に落ちた。「__本当、温まるね。」と、相手の言葉を肯定してからもう一口。こうして相手と食事を共にするのは1年振りの事で、懐かしい反面不思議な切なさもあるのだ。「…エバンズさんが次レイクウッドに来た時は、ポトフを作る。味、まだ覚えてる?」器を見ながら告げた一言、それは暗に再びレイクウッドで相手との再会を心待ちにしているというもので。ロールパンの1つを相手のお皿に勝手に置くと、続いて細く切られた赤いパプリカにフォークを突き刺し。持ち上げた顔に浮かべるのは少しの悪戯な笑み。「今回はワザと。」相手の反応を見て“してやったり”は些か子供じみていただろうか。それからやけに幸せに感じる時間の中で食事を続けて )
( 相手が作ったポトフの味を忘れる筈は無かった。甘いホットミルクの味も。その2つは、自分が絶望に落ち込んでいる時やどうしようもなく苦しさを感じた時に心身を温め、光の方へと持ち上げてくれたものなのだ。「_____あぁ、楽しみにしてる、」と相手と視線は重ねないながら素直な言葉を紡ぐと、スープを口に運んで。“わざと”と言うことは、自分に指摘される事を分かっていてサラダを選んだと言うことか。相手の思考はよく分からないと呆れたように首を傾げつつも、穏やかな夕食の時を楽しんで。---ズキリ、とまた鳩尾が痛んだのは食後の紅茶を入れようとポットの方へと向かった時だった。ワイシャツの上から鳩尾を軽く抑え浅く息を吐き出す。相手に心配を掛けないようにとは思うのだが、この強い痛みは何事もなかったかのようにやり過ごすのがいつも難しい。軽く唇を噛むとポットの置かれた棚に片手を着いて、ゆっくりと息を吐き。 )
( __量こそは決して多くは無かったが、恐らく普段余り食事をしていないだろう相手が少しでも何かを胃に入れる事が出来たのは喜ばしい事。空いた皿をテーブルの端に寄せ食後の紅茶スペースを確保した丁度その時、棚に手を着く音と不自然に止まった動きを敏感に感じ取り頭を其方に向け。果たしてそこにはやや背を折る形で鳩尾に手を当てたまま動かない相手の姿が。発作が起きてる時や、目眩に襲われてる時とは違う雰囲気に脳裏を過ぎったのは鎮痛剤の箱で。「…エバンズさん、」後ろから静かに声を掛け相手の隣へ。「紅茶は後にしよう。…大丈夫だから。」ゆっくりとした呼吸を意識的に繰り返す様子と押さえている箇所を見て痛む場所がわかると、相手の背中を一度だけ軽く撫でた後、その手を添えソファに座る様にと促して。背凭れに背中を預け、身体を倒す様な形で座った相手の隣に腰掛け「…失礼します、」と前置きの謝罪を一言。ワイシャツの下のボタン2つを外し中に手を滑り込ませる形で直接素肌の上から鳩尾に掌を当てると、「__“手当て”。」と、文字通りの言葉でその行動の意味を説明した後。何も心配無い、直ぐに楽になる、と言いたげに微笑みながら「…人の温もりはきっと痛みを和らげる。」その手を動かす訳でも無く、ただ己の持つ熱を痛む部分に浸透させるかの如く宛てがい続けて )
( 痛みに耐えようとすると必然的に呼吸は浅くなる。痛みを逃すように意識的にゆっくりと細く息を吐き出すのだが、不意に相手に呼び掛けられると、促されるままにソファへと腰を下ろして。ボタンの隙間から手が差し込まれ素肌に触れると僅かに身体が震えたものの、その温かさにやがて強張った身体からほんの少し力が抜ける。しかし鳩尾から背中に掛けて広がるような痛みに息を詰まらせると「______痛い、…」と言葉が漏れる。此の痛みが引き金となって発作が起こる事もある為なんとか落ち着かせたいのだが、直ぐには治らない。「水を一杯くれ、」と相手に告げると、テーブルの上に置かれた処方薬と鎮痛剤の箱を開けて中の錠剤を取り出して。 )
( 普段気丈に振る舞う相手が痛みや苦しみを言葉にするのは余っ程の時。身体が強張り鳩尾から広がる痛みに耐える事は出来ないのだろう、薬を飲む為の水を所望されれば頷きつつワイシャツの中から手を引き立ち上がり。薬を飲んだとて今直ぐにその効果が発揮され楽になる訳では無い、その間の相手の苦しみを思うとどうしたって胸は痛むのだ。伏せられているグラスに水を半分程入れて相手の元に戻るとそれを差し出し再び隣に腰掛けて。「……」錠剤を飲み込んだのを確認してから「…病院行った?」と、問い掛けるのだが凡その答えはわかる。__こんな時、相手の主治医であるアダムス医師が近くに居てくれたら。相手の事を確りと知る彼ならば適切な処置が出来て、きっともっと相手は楽で居られる時間が増える筈なのに。相手を取り巻く環境が優しいものであればと、相手が偽る事の無い気持ちのままで居られる場所であるならばと、願わずにはいられないのに )
( 処方薬と鎮痛剤、それぞれを水で流し込むとソファに身体を預けるようにして楽な姿勢を探す。「_____薬が無くなると困るから病院には行ってる、…いつも飲んでいる薬と同じものを処方されるだけだけどな、」診て貰っているとは言っても、ワシントンの医者は積極的に診察をしようとはしない。初めて罹った時に、以前処方されていた薬として伝えて以降同じものを処方されるばかりの事務的な対応。痛みについては、以前アダムス医師が来た時に話したきり、ワシントンの医者に相談する事はしていなかった。痛みが引くのを待ちつつ、結局横になるのが楽で肘掛けへと頭を乗せて。 )
( 結局診察をしてもらった所で、相手の事を良く知らぬ医者では何時かの日の様に日中の業務や生活にも支障をきたす様な強い安定剤や鎮痛剤を処方する可能性がある。本来は今の状態を確りと検査し適切な薬を飲み、新たに症状として出現した痛みも調べて欲しい所なのだが、相手の事だ、きっと心を許した医師にしか相談はしないだろう。__レイクウッドにさえ居れば。結局は全てそこに繋がる思考を“たられば”を言った所で無理なのだとストップさせ、横になった相手の先程勝手に外したワイシャツのボタン2つを付けてから、「…久々に顔を合わせた部下からのお願い。痛みの原因だけはちゃんと調べて貰って。」と、病院嫌いの相手には難しいとは思いつつもそう告げ、今度はワイシャツの上から相手の鳩尾付近を左右に往復させる様に軽く撫でて。「…少ししたら起こすから、眠って構わないよ。」そう声を掛けたのは、幾ら刑事であった時よりやる事が減ったとは言え仕事をして帰って来てる相手が疲れて無い筈がないと思ったから。加えて痛みに耐えるのは疲労を伴う。邪魔にならぬ様、反対側のソファへと座り直して )
( 病院に行っても結局はストレスだとか精神的なものだと言われるのだろうとたかを括っている。アダムス医師には以前、脈拍に乱れがないかを確認するようにと言われたのだが、手首に指先を押し当てた所で明瞭に脈動を感じる訳でもなく直ぐに辞めてしまった。相手がソファを離れるとそのまま目を閉じるのだが、なかなか寝付けずに苦しげな息が漏れる。身体は辛いのだが、眠る事を拒んでいるような感覚。睡眠薬を飲まなければ寝付く事が出来なそうだと思えば暫くして目を開け「…睡眠薬の瓶を取ってくれないか、」と相手に頼んで。普段の処方薬に加えて鎮痛剤と睡眠薬、どう考えても薬に頼り過ぎているのだが今はそれ以外に苦痛を取り除く為の最善策が思い当たらない。 )
( 眠る為に目を閉じた相手だったが然程時間を置かずして目を開け、睡眠薬を所望した。テーブルの端に置かれている薬瓶の中にあるのが目的のそれだとわかるものの、相手は数分前に処方薬と鎮痛剤を服用したばかりでその上睡眠薬まで__は流石に短時間の内に薬を体内に入れ過ぎる事になる。相手自身も飲み過ぎだと言う事はわかっているだろう、“駄目だ”と突っぱねる事は簡単だが、今苦しむ相手に掛ける言葉としては余りに酷に感じられ一瞬の間が空き。目を開けてる相手と視線を重ねた数秒後、「…今は睡眠薬じゃなくて、此方を選んで。」徐にソファから立ち上がると横になる相手の傍らに膝を着く形で腰を折り、そう声を掛ける。それから幾らか伸びた様に感じられる前髪が邪魔にならぬよう軽く払ってから、両手で相手の片手を柔らかく包み込み、甲を静かに撫でて。“これ”が薬の代わりになり同じ眠りを齎すなんて烏滸がましい事を言うつもりは無いが、それでも人の温もりの力を信じたかった。大丈夫だと、そう言葉にはせずただ手の甲を撫でる親指をゆっくりと動かしながら、先程飲んだ鎮痛剤が効き、相手の身体を襲う痛みがとれる事を願って )
( 薬に頼り過ぎている事は感じていた。身体の不調が重なる度に、その場しのぎに薬を摂取する事で“今”の苦痛を和らげる。其れが後々に何かしらの良くない影響を与える事も分かっていながら、楽になりたいと願ってしまうのだ。相手が手の甲を撫でると、包み込まれたそのぬくもりに一度視線を向けた後、何を言い返す事もせず少ししてゆっくりと目を閉じる。全く寝付けずにいたはずが、少しばかり心がほぐれるのか僅かな眠気をきっかけに時間を掛けて、やがて浅い眠りに落ちていて。---微睡みの中で薄らと夢を見た。現実と区別の付かなくなるような恐ろしいものではなかったものの、遠くで色々な声が聞こえる。現場で聞いた刑事たちの怒声や打ちひしがれる遺族の声、飛び交う記者たちの声、妹の声。全て記憶によって作り出されているもので、このまま眠りが深くなれば鮮明な記憶と共に映像を伴った夢が生まれるのだろう。其処に沈む事を拒むように僅かに眉間に皺が寄り、小さく息を吐き出したものの目は開かない。誰の物とも分からない“人殺し!”という叫びがやけに鮮明に聞こえたのと同時に強い痛みに襲われ息が詰まる。「______っ、゛…ッ、!」声にならないくぐもった叫びと共に意識が浮上するのだが、あまりに痛みが強く上手く息が吸えない。ソファから身体を起こそうと反射的に身体を動かし、バランスを崩すと床へと崩れる。床に手をつき鳩尾辺りを握り締めたまま呼吸は徐々に上擦り、少し骨張った背中は浅く上下を始める。今まで幾度となく襲われた痛みと苦しさ。「……ッミラ、…!」思わず相手の名前を呼んだものの、この苦痛がすぐにやまない事は理解している。首筋には汗が浮かび、身体を支えている腕は小刻みに震えながら、懸命に浅くなる呼吸を繰り返して。 )
( 瞳が重なり一度柔らかく微笑めば、後は眠りに堕ちる相手の様子を静かに見守るだけ。1時間後くらいに起こせば鎮痛剤が効果を発揮している頃かと眠りを邪魔せぬ様にゆっくりと包み込んでいた手を離すのだが。__「…ッ!」相手の瞳が閉じられてから然程の時間経たず、静かだった部屋に喉の奥に引っ掛かる様な張り付く重い呼吸音が響いた。同時に眠っていた筈の相手が身動ぎをし、続いて起き上がろうとしたのだろう、その身体はバランスを崩しソファから床へと落ちる。反射的に出た腕は相手の身体を支えるには至らず、背中を丸め懸命に呼吸を繰り返す相手から呼ばれた名前で、ハッとした様に再び中途半端に伸びた手を相手を抱き竦める形で背中に回し。「、此処に居る…!大丈夫っ、」無意識の内に呼んだ名前かもしれない。それでもそれが確かに己の名前なれば決して離れる事は無いと伝えたいのだ。鳩尾辺りを握り締める相手の手を上から握り、懸命に背中を擦りながら「痛いね…っ、もう直ぐ薬が効く。あと少し、ほんの少しで楽になれるから、」と、耳元で声が届く様にと伝え続けて )
( 強い痛みは呼吸を阻害する。ワシントンに来てからというもの、自分でも気付かない程に少しずつ心身を蝕まれいつしか強い痛みに襲われるようになっていた。刑事を辞める事になった直接的な原因とも言えよう。痛みが発作を引き起こす、或いは発作が痛みを引き起こす事もあった。今はただ、息を吸うのも辛いほどの強い痛みが身体の中心にあって、一気に背中に汗をかくのを感じた。此れが肉体的な痛みなのか、精神的に痛みを感じているだけなのかも判断できないのだ。「_____っ、は…ぁ、゛……」必然的に浅くなる呼吸の所為で頭が回らなくなると、現在と過去の記憶が入り乱れ混乱する。明らかにレイクウッドに居た頃よりも状態はかなり悪い。相手の呼び掛けに答える事のないまま、呼吸は乱れ徐々に身体には痙攣が生じ始めていて。 )
( 相手の様子から此方の声が全く届いていない事がわかった。首筋の汗はあっという間に背中にまで広がりワイシャツを湿らせ、喘ぐ様な呼吸は肺に空気が届いていないのが一目でわかる程に殆ど意味を成して無い。やがて腕の震えが身体全体の震えに変わりおさまる事の無い痙攣を引き起こせば、その明らかに不味い状況に心臓が嫌な音を立てる。__レイクウッドに居た頃よりも遥かに状態が悪いではないか。__鳩尾付近を握る相手の手から己の手を離し、両腕で相手の身体を押さえつける様にして抱き竦めるのだが腕の中でも痙攣は止まる事無く、ふつふつと湧き上がる恐怖はやがて“死”へ直結する。「…もう、いいよ…ッ…!」思わず感情が溢れ出すままに溢した言葉は震えた。「もういい…っ!戻ろう…エバンズさん…。」そうして一度音となった言葉は止まらない。「私が全部何とかするっ、二度とエバンズさんの目の前で誰にも傷付けられないし、エバンズさんの痛みももう一度一緒に持つ…!レイクウッドに戻ればアダムス医師も助けてくれるから…っ、」いち部下に出来る事など限られ、FBIである以上傷付かない事は難しく、何も約束など出来るものでは無いが、それでも今はそんな事を考えている場合では無かった。痙攣を繰り返し、まともに呼吸すら出来なくなっている相手がただこの場に崩れ落ちてしまわない様に、絶望に染まってしまわない様に。「…じゃないと…っ……死んじゃう…!」このまま此処に居続けては__。考えたくも無い余りに恐ろしい未来が先程から顔を覗かせ続ける気がして視界が滲み、相手を抱き竦める腕に力が籠る。1年近く相手が苦しむ姿を見ていなかったせいか、記憶にある以上に状態が悪い事がわかってしまったからか、ただ、怖くて怖くて堪らないのだ )
( 相手に抑え付けられるようにして抱き竦められながらも、身体は自分の意思に反して痙攣を続けていた。それがようやく治ったのは数分後の事。ゆっくりと身体の震えが落ち着くのと同時に、耐え難い痛みもまた静かに波が引くように落ち着いて行き、力が入り強張っていた身体がようやく緩むと相手に体重を預けて。弱みを見せる事が出来ていた存在の居なくなったワシントンで、1年以上たった1人で苦しさを押し留めて来た。医者に助けを求めるでもなく、声を上げる事もせずただ懸命に痛みを堪えて。そのまま1人で居れば、その大き過ぎる負担に目を瞑り“気付かずに”後戻りの出来ない所まで堕ちていたかもしれないが、相手が来た事で再び痛みに気付いてしまったのだ。相手が”死“を連想する程に酷い状態なのだと、ぼんやりとした意識の中で感じて。現に刑事を辞める事を余儀なくされるほどに壊れ掛けていたと言うのに、”耐える“以外の選択肢が浮かばなかった。今の自分がどれほど堕ちているか、相手に言われるまで客観的に見つめる事も出来ていなかったのだ。______楽になりたい。相手やアダムス医師のように信頼できる存在が側に居る所へ戻りたい。刑事として働きたい______相手の言葉をきっかけに、胸の内にはそんな願望が沸々と湧き上がって来ているのだが、それを言葉にする事は酷く難しい。その選択は、責任感もなく私利私欲だけで全てを投げ出しているように思えてしまう。言葉を紡げぬまま、縋るように相手の背中へと回した腕に力が籠り。 )
( 長い長い時間を掛けて抱き竦めていた相手の身体の痙攣が治まり、それと同時に強張りが解ける様に此方に凭れる身体を今度は押さえ付けるのでは無く優しく__しかし決して崩れてしまわない様に抱き締める。痛みと苦しみに耐えた背中は解放された今も汗に濡れ、“どれ程”だったかを伝えて来る様で胸が痛む。その背中を優しく上下に擦りながらどれ程の時間そうしたか。酷い倦怠感に襲われているだろう相手がまたもう少しだけ落ち着くのを待ってから背中に回した腕を解き、けれど完璧に身体を離す事は無く互いに床に座り込んだ体勢のままに、相手の冷えた頬に手を伸ばす。遥かに痩せ、顔色の悪い窶れて見える顔を見てまた酷く胸が痛むのだが、頬を一度撫でてからその手を降ろし次は熱を産む様にと肩を何度も優しく擦りながら「__此処には私達しか居ない、エバンズさんが何を言っても私しか聞いてないから。…1年間、胸の中に溜めた沢山の事、私に教えて。」相手の瞳を真っ直ぐに見詰めつつ、たった1人溜め込んで来た事を話して欲しいと。「…エバンズさんは、今何を思っていますか?」自らの気持ちの優先順位を一番下にまで下げ、終いには無かった事にまでしてしまう。そんな相手だからこそ、“心の内の吐き出し”は、“痛みの認識”は、絶対に必要なのだ。それは昔からずっと思い続けている事で、何も怖く無いと僅かに微笑みながら促しの言葉を疑問形として紡いで )
( 正面から見詰めた相手は、以前と変わらない若葉色の瞳に自分を映している。憐れむような、慈しむような、労るような、そんな色を宿して。自分では内に溜め込むばかりのどす黒い物を相手に促されて吐き出すという経験を此れまで幾度しただろうか。「_______楽になりたい、」そのたったひと言を発するのには酷く時間を要した。「でも、後戻りは出来ない。…自分で決めた事を自分の都合で投げ出すなんて……責任感の欠片も無い人間がやる事だ、」いつも、但し相手の前でだけ、つかえていた言葉の後に秘めていた気持ちが言葉となってボロボロと溢れ出す。自分でも整理できていなかった思いが言葉になり、そこでようやく痛みに気がつくのだ。「だけど、辛くて仕方がない。何もかも_______刑事でなければ意味がないのに、この有様だ。」結局は、楽になりたいと願う気持ちと、ワシントンで踏ん張らなければならないという思いが交互に浮かんでは消えるばかり。行動に結び付く結論には至らず、幾度となく飲み込んできた思いで。 )
( 躊躇い、葛藤、その中で長い時間を要しながらも“楽になりたい”と相手自身が言葉にした事に酷く安堵した。心の内に確かにあるその思いを聞き届けて一度大きく頷く。それからその一言が切っ掛けとなった様にボロボロと溢れ落ちる思いの数々を最後まで聞き届けてから再び真っ直ぐに相手を見詰めると「後戻りじゃない、“進む道を選び直す”の。」それは聞く人が聞けば屁理屈かもしれないが己にとっては前向きな言葉。「今道を変えても誰もエバンズさんの事を責任感の無い人だなんて思わない。それは、本部もレイクウッドもエバンズさんがどんな人かを知ってるから。…被害者や遺族に真剣に向き合って、最後まで事件解決にベストを尽くす__エバンズさん自身が築き上げた信頼は、そんな簡単に揺らいだりしないよ。…それでも何か言う人が居るなら、それは無視したって良い。そんな言葉は聞く必要無い。」例え相手自身が自分を“責任感が無い”と思ったとしても、決してそんな事は無いのだと。語り掛ける様に、そうして最後にはやけに真剣で珍しく断定的な強い言葉で締め。再び表情を穏やかに緩ませては「…何も諦めて無くて良かった。」と、例え今何処に行く事も出来ず足踏み状態だったとしても、自暴自棄になってる訳でもない、虚無に囚われてしまっている訳でもない、“楽になりたい”も“刑事である事”にも相手の中から決して消えた訳では無い、先ずはその事に安心した様に微笑み。「一緒に考えよう。直ぐに答えは出ないかもしれないけど、信頼出来る医師の居るレイクウッドに戻って、尚且つ刑事で居られる方法が絶対にある。」相手の片手を両の手で包み込む様に握り締め、己は何も諦めていない事を今一度言葉にした後。瞳を閉じそのまま僅かに身体を前に倒す事で相手との距離をもう少し詰め額同士を軽く合わせると、「…だから、離れて行かないで、」静かに言葉にしたそれは物理的な距離だけでは無く“心の距離”。直ぐに額を離し緑眼に相手を映せば「__エバンズさんが関係する事で私が傷付くと思うなら、離れる事じゃなくて、側に居る事で私を守って。」珍しく余りに真っ直ぐな願望を口にして。それは言葉だけを切り取れば傲慢で我儘なそれなれど、今の相手に届く言葉としては適切だと思った。“私は大丈夫”、“傷付いても構わない”、それでは相手が誰にも言わず本部に戻る決断をしたその理由を、不安を、恐怖を、拭えないと思ったからで )
( レイクウッドに戻りたいという思いは、確かに自分の中に芽生えていた。しかし自分の意思で、周囲に害が及ばないようにと離れる決意をした以上手放しに戻る訳にはいかないという思いは強く、相手の言葉に直ぐに頷くことは出来ずに。不意に相手の額が寄せられ、直ぐ近くで声がした。それが物理的な距離の事を言っている訳では無いことは理解できたのだが、同時に続いた相手の言葉は自分が想定していた物とは違っていた。自分の所為で相手に危害が加わる恐れがある、だから相手の側には居られないと告げた場合相手は、自分を犠牲にするのも厭わないという覚悟と共に大丈夫だと言い張ると思っていた。けれど相手が紡いだのは、それよりもずっと自分に寄り添う優しい言葉。自分が抱える不安を理解した上で、近くに居て良いのだと促すような。その言葉に何故か酷く安堵し「______守れるだけの体力が戻ったらな、」と、小さく掠れた声ながら何処か今の状況を冗談めかすようにそう告げて。 )
( 相手は戻るとも、戻らないとも、明確な返事はしなかった。それだけ今回の決断は大きく重たいものなのだろう。それがわかるからこそ逸る気持ちを抑え、確りとした基盤が出来上がり、相手自身が心から“戻る”と頷ける時を今はまだ待つべきなのだろうと、相手の心身の不調を思う不安はあれど返事を急かす事はせず「なら、それまで私も頑張らなきゃだね。」紡がれた小さな冗談に乗っかる形で自身を鼓舞する決意と共に頷きつつ「__まずは体力回復の為に十分な睡眠をとらなくちゃ。勿論、此処で2人一緒に。」相手の背後のベッドに視線を移動させ、少しだけ悪戯に笑って見せて )
( 今は未だレイクウッドに戻る決断をする事は出来ない。それでも相手が暗に“待つ”と伝えてくれている事は安心に繋がった。相手に支えられながら身体を起こし、力を入れた事でズキリと鈍い痛みが走ったものの薬が効果を発揮しているのか強い痛みが引き起こされる事はなかった。ベッドに身体を横たえると小さく息を吐き出す。1人のベッドは酷くひんやりとして、幾度となく目を覚ますのだが相手が隣に居るだけで温もりを感じる事ができて気分が落ち着くのを感じた。相変わらず眠るのは怖い。けれど今は相手の体温に身体を預けるようにして、穏やかな眠りを求めて。 )
( __1年振りに相手の隣に身を寄せる様にして横になる。長い長い時間の筈だったのに、不思議とその温もりを思い出せるのはそれだけ特別だからだろうか。背中越しにも伝わるゆっくりとした呼吸は心を穏やかにさせ、柔らかな柔軟剤の香りは安らぎを連れて来る。遠慮がちに伸ばした手で眠りを邪魔せぬくらいの控え目な動作で以て相手の背中を撫でながら、ふ、と一瞬脳裏を過ぎったのは“最期に見た少女の顔”。続けて何時の日か相手に見せて貰った写真の中で微笑む【セシリア・エバンズ】の優しい顔が浮かび、思わずきつく瞳を閉じてから動かしていた手を止め相手の背中に静かに額をくっつけて。「__…私は、何時だって遅いね、」至極小さな呟きは相手を起こさぬ様冷たい空気の中に散る程のもの。何時も__遅いのだ。相手の優しさに気が付くのも、相手の痛みに気が付くのも。誰かを失う苦しさや切なさ、不甲斐無さ、罪悪感、どれもこれも何時だって、相手が先に経験する。「…大丈夫なんかじゃなかったのに、私はそれしか言えなくて__でもきっと、またそう言う。…ごめんね、」ぽつり、ぽつり、と溢れる言葉の最後は謝罪。額を僅かにくっつけたまま再び手を動かし背を撫でながら、やがて瞼は降り浅い眠りへと落ちて行き )
( 1年ぶりの相手の体温は、ワシントンに来てからというもの1人では感じる事のなかった落ち着きをもたらした。睡眠薬を飲まなければ寝付けなくなっていたものの、久しぶに薬に頼る事なく眠る事が出来たのだ。気持ち的に落ち着いたからと言って直ぐに全てが改善するという事はなく、夜中に幾度となく目を覚ましたものの、その度に隣に居る相手の姿とその温もりに程なく落ち着きを取り戻す事ができ、短い眠りを何度も繰り返しながらも朝を迎えて。普段であれば夜中に悪夢で目を覚ますだけではなく、そのまま発作が収まるまでに長い時間を要する為、短い眠りを繋げただけでも身体は少しばかり楽になっているような気がして。出勤時間は刑事として働いていた頃よりも遅い。警視正らの計らいによって午後からの講義を担当する事が多いため、今までより2時間ほどは朝に時間があるのだ。目を覚ましたものの少し身動ぎをしただけで、布団の中の温もりに包まれたままでいて。 )
( 相手の背中に控え目に身を寄せた状態で深い深い眠りの中、夢も見なかった様に思う。__ふ、と意識が浮上し重たい瞼を持ち上げれば部屋の中には柔らかな光が射し込んでいて朝を迎えた事を寝起きのぼんやりとした頭が理解した。同時に今布団の中では1人では無い事を、そうしてこの温もりがもう数時間後には無くなってしまう事を思い出し細く吐き出した息の後、すぐ目前にある相手の背中を数秒見詰めてから徐に少しだけ上半身を起こして。「……」静かな朝を邪魔する気は無いのだが、欲してしまった温もりは今よりもう少し大きいもの。無言のまま片腕を相手の背後から前に回し、それと同時に頭だけを横になる相手の肩付近へ乗せる。全体重を掛けて乗っかっている訳では無いのだから、久々に相手と迎えた朝なのだから、とやけに自分に甘い言い訳を潜ませつつ、頬擦りをする様な、頭を押し付ける様な、そんな子供じみた動作を数回繰り返した後、にんまりとした笑顔のまま動かなくなり )
( 布団の中で相手が身動ぐのを感じた直後、不意に背中に温もりが宿る。相手が背後から此方を抱き竦めるような態勢になっている事を理解したものの、何か声を発する事はしなかった。暫くそのまま横になっていたものの、やがて「_____いつもより随分よく眠れた、」とポツリと言葉を落として。浅い眠りを繰り返したものではあるのだが、睡眠薬を飲んで眠る日々よりも少なくともまとまった睡眠を取る事が出来たと言えよう。少し寝返りを打つ形で仰向けになり相手の方へと視線を向けると「……何時の便だ、」と相手の予定を尋ねて。 )
( その体勢のまま目を閉じ一方的な温もりを得る事数分。ふいに少し掠れても聞こえる相手の声と共にこの触れ合いに終止符が打たれれば静かに身体を離すと同時に「__良かった。これでレイクウッドに戻る理由がまた1つ出来た筈。」と、僅か冗談めいた声色で返事をしつつ、次いで問われた問い掛けに枕元の置時計を確認してから顔を向け「…1時過ぎ。遅くても1時間前には空港に居たいから__私の方が先に出るかもしれないね。」この部屋で相手と話せる時間も後少し。ベッドから降り足元の少しひんやりとした空気を掻く様にして歩きつつ、ケトルにお湯を沸かすと、伏せられているマグカップ2つにそれぞれコーヒーを淹れて。__余りに突然過ぎる訪問なのだからあっという間に終わりを迎えるもの。マグカップの中の黒を見詰め、次にほんの僅か垂らしたミルクが渦を巻くのを見、その香りを引き連れて戻って来ると「…どうぞ、」とマグカップの1つを相手に差し出し己は近くの椅子に腰掛けて。朝の柔らかな光を受け、相手の姿を目に焼き付ける。次、何時会えるかなんてわからないのだから。熱い黒を喉に流し込みながら、出発迄の時間を少しでも幸せで、優しいものに出来ればと )
( 相手の返答に頷きつつ差し出されたマグカップを受け取る。部屋に戻ってものんびりと自分の時間を楽しむ事はほとんどなく、ただ横になっているものだから、こうして温かいコーヒーを朝から楽しむというのは久しぶりな気がした。「……そういうのを、弾丸旅行っていうんだろうな。」と紡いだのは、まさに“弾丸”という言葉がぴったりな行程だから。ただ、自分に会うという目的の為だけにワシントンに来てくれた事には感謝以外の気持ちは無い。たった1日足らずの時間であっても、相手の明るさと優しさに触れ、沈んでいた心は少しばかり立て直した気がするのだ。「…少し早めに出て、土産物でも買ってやろうか?」ふと、そんな提案をする。ホテルの近くにはワシントン土産を売る広めの売店があり、空港まで送ることはできないにせよ部屋を出る時間を30分程早めれば土産を買うだけの時間はある。物珍しいラインナップではないかもしれないが、この地域ならではのお菓子やグッズには相手も興味があるかもしれないと。 )
意外と悪くないよ。…このホテルから引越しする時は教えてね。次会う時、何も知らないで此処に来て、会えなかった、なんて事になったら大変。
( コーヒーを啜りながら正に言葉通りの行程に小さく笑う。航空券を買ったその時から此処に来る迄とんでもない勢いと進む時間の速さではあったが“苦”だとは僅かも感じなかった。相手がレイクウッドに戻って来るのはまだ先の話になるかもしれない、それでも再びこのワシントンまで会いに来る事を約束するかの様な言葉を選び再びコーヒーを一口啜り。__穏やかに流れる時間の中で、相手の珍しくも感じられる申し出に一度瞬く。何かを奢って貰う事が珍しいのでは無く、相手の口から出た“土産物”と言う単語が珍しく感じたのだ。その響きを一度咀嚼してから遠慮無く小さく頷くと「…欲しい、」とはにかみつつ素直な返事をして。相手と共に居られる時間がまた少しだけ有意義なものになる事に嬉しさを滲ませ「デスクワークの合間に食べるお菓子なんかが良いかなぁ。」緩んだ頬のまま、マグカップの残りのコーヒーを飲み干して )
______下手すれば通報が入って、本部の刑事たちに事情を聞かれるな。
( 自分が居ないホテルの部屋に突然見知らぬ女性が訪ねてくると言うのは宿泊客にとっては恐ろしい状況。通報されて本部の刑事たちがやってくる可能性もあると肩を竦めて見せ。相手の返答に頷くと、コーヒーを飲み切って立ち上がる。準備を整えて刑事の頃と変わらないワイシャツとジャケットに袖を通し、コートを羽織って講義に使う資料などが入った鞄を手にすると、準備を済ませた相手と共に部屋を出て。今夜仕事を終えて戻って来ても、相手はもう部屋には居ないと頭の片隅で考えつつ、ホテルから程近い店へと。ゆっくり店内を見た事はなかったのだが、売り場は広くお菓子や食材、ポストカード、オリジナルグッズなど様々な土産物が並んでいた。好きなものを選べとばかりに相手を促しつつ、相手が手にするものを横で眺めて。 )
__そっか、エバンズさんの行方がわからなくなってもそれなら会える可能性があるのか。“アルバート・エバンズさんのお部屋だと思って”って言えば連れて行って貰えるかも。
( 相手が想像した宿泊客にとっての恐ろしい状況は、最悪此方からすれば吉。冗談めいた語調ながは警察官としては到底アウトな発言と共に軽く眉毛を上げた笑みで締め。___都会の土産物店は矢張り大きく様々な種類のお土産が棚一面に鎮座していた。“I Love ワシントン”なんて書かれたキーホルダーを一度は手に取るものの、同じ国内で別に感情が揺れる事もなければ直ぐにそれを元の位置に戻し、次の棚へ。その棚には絵画をモチーフにした様々な文房具が売っていて、丁度来年使う手帳を切らしていると思えば、直感的に惹かれた表面に日傘をさす女性の淡い絵が描かれている手帳を手に取り隣に居る相手に「…これにしようかな。」と、見せて。それから隣にある棚、お菓子が売られているそこで足が止まると、ワシントンでは有名なソフトシェルクラブ味のスナックを見付け「…美味しそう、」と、手に取り控え目に相手を見上げて )
( 相手が手にしたのは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに展示されている絵画をモチーフにした手帳。ワシントンらしさもあり普段使いにもちょうど良い。同意を示すように頷きつつ、手帳とスナックを受け取る。「他には良いのか?」と尋ねつつ、レジに向かう途中に動物のイラストが缶に描かれた、チェリー入りのチョコレートを見つければ其れも手に取る。ドライチェリーをチョコレートでコーティングしたそれは、ひと口サイズで仕事のちょっとした合間に食べるのにも適しているだろう。レジで会計を済ませ、ワシントン土産だということが一目で分かるデザインの袋に入ったそれを相手に手渡すと「…駅まで送る。」と、直ぐ近くの駅前までは送ると伝えて。 )
( 相手が会計を済ませている間、様々な種類のチョコレートが鎮座する棚の前で再び足を止める。中でも真っ先に目に止まったのはココアパウダーの降り掛かったアーモンドチョコ。“口溶け滑らかなビターチョコレートを使用”とパッケージに書かれているそれは物凄く美味しそうに思えて隣のレジでひっそりと買えば、己が強請ったお土産を手渡されると同時に「ありがとう、大切にするね。…これ、お返しって言う訳では無いけど美味しそうだったから。」お礼の言葉と共にアーモンドチョコの入った小振りの紙袋を相手に手渡して。__空港に直結する電車が通る大きな駅なだけあり、付近は人通りが多かった。中に入って電車乗ってしまえばもうそこからはたった1人。隣に相手は居ない。途端に手に持つ荷物やお土産袋がずっしりと重たく感じ、それに比例する様に足取りも重くなる。わかりやすい程に視線は下方に落ち、前へと進む歩みもそのペースを落とす。相手との距離が空いても尚、小走りで駆け寄る事もしなければ無言のまま、空港の入口付近でその歩みは完全に止まるだろう )
( 思いがけず相手から紙袋を差し出されると数度瞬き、中身が昔自分が好物だと言ったアーモンドチョコレートだと気付くと「…悪いな、」と答えつつ其れを受け取って。---駅の入り口まで向かい、相手の乗る便に十分余裕を持って空港に着く電車が数本電光掲示板に表示されているのを見ると、焦らなくて良さそうだと相手を振り返る。しかし直ぐ側を歩いていると思っていた相手は自分より少し後ろで足を止めていて、纏う空気に先ほどまでの明るさはない。今回は相手が自分の為にワシントンまで来てくれたとはいえ、レイクウッドとワシントンはそう簡単に行き来出来る距離ではない。あの頃のように“また明日”と別れる訳にはいかず、次にいつ会えるかも分からないのだ。俯く相手に歩み寄り、軽く頭に手を乗せる。「_____会えて良かった。…刑事に戻れるように、もう少し模索してみる、」と、前向きな言葉を告げて。レイクウッドに戻る事は、今は未だ約束できない。それでも「……側で守れるように、体調を整えないとな。」と、少し表情を緩めて。 )
( 賑わう人々の声や駅内のアナウンスが右から左に流れる。相手は今日から仕事で自分は明日から仕事__つまり絶対に間に合う電車には、飛行機には乗ってレイクウッドに戻らなくちゃいけないのに、頭ではわかっているが気持ちが着いて来ない。俯いたまま何とか気持ちを立て直そうと深呼吸を数回繰り返したその時、落とした視界の中に相手の革靴の先が映り、続いて頭に骨張った温かな手が乗せられれば静かに頭を持ち上げて。余りに懐かしい、けれども酷く安心出来る手。今は昔に感じられる事だが、相手が柔らかく髪の毛を撫でてくれた時は、とても幸せな気持ちになれたのだ。そうして掛けられた言葉は此方を安心させようとしているのか、とても前向きなもの。その言葉に少しばかり安心した様にはにかみつつ「私も会えて良かった。__エバンズさんの部下として仕事が出来る日を楽しみにしてます、」と。その言葉は出会った時と、過ごして来た日々の中と、何も変わる事の無い素直な感情で。お別れのハグを、と思ったのだが此処は人目が多い。相手はこう言う所で例え別れのハグだとしても躊躇するのではと思えば、握手を求める様に片手を出し「あんまりにも無理ばっかりして、なかなか此方に来なかったら…私が先に本部に異動願いを出すから。私の行動力がどれ程のものか、今回の件でわかったでしょ。」少しだけおどけて見せたのは、泣き出しそうな気持ちを隠す最後の強がり。別れのその時、相手の中に残る己の表情はやっぱり笑顔が良いと思うから )
( 差し出された相手の手を素直に握り返しつつ、続けられた言葉には苦笑する。相手自身が豪語するように、相手の行動力は今回の件で実証済みだ。モタモタしていると本当に相手が移動願いを出し、ワシントンへやって来るかもしれない。安心してレイクウッドに戻る事が出来る日が来れば、という思いはあるのだが危険因子が取り除かれていない今、戻る選択は出来ないという気持ちは揺らいでいなかった。「早まるなよ、同じタイミングで俺が異動になったら困るだろう。」と、肩を竦めておき。______相手を見ていると、刑事として捜査に邁進していた日々を思い出してしまう。ワシントンには相手のような“相棒”も居なければ、刑事として捜査に関わる事も今は出来ていない。まずは刑事の立場を取り戻す事が先決だと気持ちを立て直しつつ、電車の発車時刻が近付いているのを見ると「_____もう行け。気を付けて帰れよ。……こっちから応援してる、」と告げて、構内へと促し。 )
( 互いに重なった手が離れ、最後の熱が消える。肩に掛けたボストンバッグを持ち直し、真っ直ぐに相手を見詰めて浮かべるのは笑顔。掛けられた言葉の別れの切なさに感情が揺さぶられない様に深呼吸で立て直しては、「__次は定期的に連絡するから。ちゃんと出てね。」今回は電話一本掛けるのに1年掛かったが今度はそんな事になったりしない。「…またね、エバンズさん。」敢えて“またね”と言う言葉を選び最後の最後まで“次の再会”を印象付けてから軽く一礼をして背を向けて。__1年振りの相手との再会はあっという間に終わった。飛行機の時間には確りと間に合い、無事にレイクウッドに到着した時に相手とホテルを教えてくれたクレアにメッセージを送れば、それからはまた何時もの日常に戻り、数日後には回って来た事件の捜査に奔走して )
アーロン・クラーク
( __相手がミラーと再会した日から凡そ一週間後の今日。相手が泊まるホテルの部屋の中で相変わらず高そうなスーツを身に纏い1人ソファに座りながら寛ぐ。相手が此処ワシントンに異動になった事、刑事を辞めて今はFBIアカデミーで教官をしている事は既に知っている。長い足を器用に組み換えて、仕事終わりの相手が戻って来るのを今か今かと心待ちにするその表情は普段より少しばかり幼くも感じられるもので )
( 相手がレイクウッドに戻り、あっという間にワシントンでの日常が戻った。相手と会った事で幾らか沈んでいた気持ちは立て直した部分があるものの、変わらず体調は良くない上にやりがいを持って仕事に取り組めている訳でもない。決まった時間に現在の職場であるFBIアカデミーに向かい、複数コマの講義を担当する。講義後の雑談には当然付き合う事をせず、質問がある学生にだけ対応して教官室に戻る事の繰り返しで。---その日も最後の講義を終えて帰路に着くと20時前に部屋に戻る。ネクタイを緩めつつ扉を開けて部屋に足を踏み入れ、視界の端に綺麗に磨き上げられた革靴が映った。其処で漸くハッとして顔を上げれば、どういう訳だろうか、部屋のソファで寛ぐのは自分が最も嫌悪する男。「______っ、…」此処にいる筈の無い姿に言葉を失い、その後何故彼が部屋に入れたのか、そもそも何故此の場所を______自分がワシントンに居てこのホテルを拠点にしている事を知っているのかと遅れて疑問が湧き起こり。「……どうしてお前が居る、」と、距離を取ったまま辛うじてひと言だけ言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
( 廊下を歩く至極小さな足音と気配が部屋の扉の前で止まった事を敏感に感じ取るや否や、口角が歪に持ち上がる。続けて鍵が解錠され扉が開き__嗚呼、漸くだ。誰よりも、何よりも愛している相手が今目の前に居て此方を真っ直ぐに見て居る。驚愕に縁取られた瞳が思う事は様々なれど今態々丁寧にその疑問に答える気は無かった。ソファから立ち上がり、立ち竦む相手との距離を大きな歩幅であっという間に詰めてしまうと、伸ばした手は相手の後頭部と腰を支える様に回し__抵抗される前に、何かを言う前に、外の空気を含んだ冷たい唇を啄む様に己の唇を合わせると、同時に相手の腰を強く引き寄せ更なる密着と拘束を選びつつ、再会を喜ぶには少しばかり乱暴な、欲を抑える事を知らぬ様な、そんな荒っぽい口付けを角度を変え、何度も、何度も繰り返して )
( 何も言わぬままに相手が立ち上がったのを見て警戒こそしたものの、部屋の外に飛び出すような事は当然しない。身体に力が入っただけだったのだが、相手は大きな歩幅であっという間に自分の目の前にやって来ると、そのまま身体を引き寄せられて。抵抗できない程の強い力で腰と後頭部を固定され、自分よりも体温の高い相手の唇が重なる。いつか、ミラーの名前を出した事に腹を立てた相手が自分を力尽くで抑え付けるため、お前は支配されているのだと刻み込むかのごとく唇を奪われた事があった。其れと同じような______まるで毒蛇に巻き付かれ身体が麻痺する毒を牙から流し込まれる獲物のような状態で。抵抗するように相手の腕を掴むのだが、1年以上が経ち相手との力の差は更に開いたような気さえする程に、自分よりも体格の良い相手の身体はびくともしない。酸素を求めるように口を開くも、相手の口付けから逃れる事が出来ないままに苦しげな表情を浮かべて。 )
アーロン・クラーク
( 腕を掴まれ抵抗と呼ぶには余りに弱々しいその行動にはかえって健気さすら感じるもの。苦しさに耐えきれなくなった相手の唇が酸素を求める様に薄く開いたのを感じ、まるで“良い子だ”とばかりに一度だけ舌先で優しく下唇をなぞるのだが勿論解放する気はさらさら無い。熱く湿った自身の舌先を相手の口内に押し込み、そのまま歯列をなぞる様に何度も何度も深い口付けを繰り返し、相手の身体がその場に崩れ落ちてしまわぬ様に確りと抱き支え。__元から相手は細身だったが、この1年でその体格は更に痩せた様に思える。口付けに集中しながらも頭の片隅でそんな事を考えつつ、腰にあてた手を撫でる様に緩く動かす。やがてたっぷりの時間を掛けて相手を堪能すると、満足したとばかりに後頭部の拘束を解き顔を離し。その際互いを繋ぐ銀の糸を舌で断ち切ると、己の唇を軽く舐めた後『__会いたかったですよ、警部補。』何とも清々しい笑顔で一方的な再会を喜んで )
( 相手の熱が移るようにして、徐々に思考は正常に働かなくなる。何故こんな状況に陥っているのか、何故相手はこの場所を探り当て部屋の中にまで上がり込んでいるのか。この男の好きに等させて良いはずが無いのだが、上手く力が入らずに成す術もないまま少しずつ相手の腕に体重が掛かる。そんな“最悪な状況”がどれほど続いただろうか。やがて相手の顔が離れ、この状況にそぐわない爽やかな笑顔と共に紡がれた言葉に嫌悪感を露わにすると、腰を支えたままの相手の腕を振り払い。「______どういうつもりだ。何で此処を知ってる!、」僅かに声を荒げつつ再び距離を取ると、相手を睨み付けながら手の甲で唇を拭い。 )
アーロン・クラーク
( 腕を振り払われ、再び距離を取り睨み付けられようとも此方の表情は笑顔から変わらない。それはそうだろう、どれ程嫌悪感を向けられた所で“会えた”と言う事実だけが全てなのだから。『その仕草唆られますねぇ。』手の甲で唇を拭うその一瞬の仕草にうっそりと目を細め相変わらずの台詞と共にさも当たり前の様に再びソファに腰掛けると、此処は相手の泊まる部屋だと言うのに隣に座れとばかりにポンポンと自身の横を叩き。『どうって__今のキスの事でしたら、再会の挨拶と言った所でしょうか。貴方の事で知らない事なんて俺には無いんですよ。因みにこれ、』相手の疑問に答える気になったのか、一つ一つやけにゆったりと話しながら、スーツの内ポケットから取り出したのは“FBI”と書かれた警察手帳。勿論これが偽装の物だと言う事は相手には直ぐにバレるだろうが、生憎ホテルの従業員やその他“一般人”に見破れる物では無い。再びポケットにしまいつつ『便利な物ですね。』なんて悪びれた様子も無く笑った後、『本当はもう少し早く会いに来る予定だったんですけど、予定外の仕事に追われてしまって。…でもまぁ、結果的に“今”で良かったかもしれません。』随分とまぁ、ペラペラと良く回る口で休み無く言葉にしながら相手の頭の天辺から足の先までを一度軽く流し見て )
( この男に何を言った所で暖簾に腕押しである事を改めて突き付けられると、眉間に皺を寄せたままそれ以上の言及をする事はなく。手にしたFBIの警察手帳、偽装した其れを使いホテルに侵入したのだろう。「偽造容疑で逮捕されるぞ、」今の自分にその権限はないものの、あまり乱用していてはいずれ足がついて罪に問われる事になると告げて。相手が仕事に追われていようが無かろうが知った事ではない。そもそも会いにくる必要など無いわけで、今が良いタイミングだとも思わない。相手の言葉を無視しつつ、ドアの近くから奥のクローゼットの方へと移動するとジャケットを脱いでベッドの端に置き、ネクタイをハンガーに引っ掛ける。「何でも良いが、此処は俺の部屋だ。帰ってくれ。」と告げつつ、休みたいのだと相手を追い払う仕草をして。 )
アーロン・クラーク
( そんなヘマはしない自信があるものの、確かに相手の言う通り余りに乱用してしまえば何処かで思わぬミスに繋がるかもしれない。だが__『これを使うのは貴方の前だけなんで心配はご無用ですよ。それに__“今の”貴方では何にせよ俺を罪に問う事は出来ないですしね。』相変わらずの謎の自信を滲ませつつジャケットを脱ぐ後ろ姿を見詰めながら何とも意味深な言葉を紡ぎ。案の定相手は久し振りの交流を楽しむ気は欠片も無いらしい。己を追い払わんばかりの言葉にも仕草にも何処吹く風で『泊まらせて下さい。』と、どんな返事が返って来るかわかりきっているお願いを一つ。それから再びソファから立ち上がると、ベッドの脇に居る相手の背後まで歩み、徐に片腕を掴み。『…さっきで俺との力の差はわかったでしょう?このまま無理矢理ベッドに押し倒されるか、何も無く一緒に眠るか、選んで下さい。』絶対的に何方も選びたくないであろう選択肢を堂々と掲げ、腕を掴む指先にほんの僅か力を込めて )
( 相手はまるで、自分の現状を全て知っているかのような口振りで自信を滲ませた。否、ホテルまで突き止める程の執着を持つ此の男の事、本当に自分が教官となった事実や其の経緯まで知っていても可笑しくはないと今は思えた。「_____ふざけるのも大概にしろ。」泊まらせろという言葉には眉を顰め、ひと言言い返す。何が悲しくて此の男を自分の部屋に泊めなければならないのか。此れまでにも散々苦しめられて来たと言うのに。しかし相手はいつも、自分がより選びたくない選択肢を持ち掛けて思い通りに事を進めようとする、それが常套手段なのだ。「泊めない。部屋は他に幾らでもあるだろう、もう帰ってくれ。」と、取り合う様子を見せずに相手の腕を振り払おうと。 )
アーロン・クラーク
__これは少し想定外でした。そんなにも俺に抱かれたかったんですね。
( この二者選択、何方も相手にとっては不愉快極まりない選択であろうが何方か選ばなければならないのなら100%後者を選ぶと思っていたのだ。だからこそ再び帰れと言われ腕を振り払おうとする抵抗に何処か驚いた、それでも至極満足そうに口角を持ち上げ何とも都合の良い解釈の元__相手の腕を掴む手に更に力を込め距離を詰めると同時、勢いのまま相手を柔らかなベッドの上に乱暴に押し倒しあろう事かその腹の上に跨って。『残念ながら部屋は何処も満室だったんです。クリスマスが近いからですかねぇ。』そんな危うい体勢のまま、律儀に返したのは少し前の返事。見下ろした相手は矢張り1年前より遥かに窶れていて、何処か病的にも見える。加えて身体につく肉も薄く体重も最後に会った時より減っているだろう。刑事を辞めた__辞めさせられた理由に絡んでいるのは一目瞭然で、暫し上から不躾に見下ろしたまま、ややして楽しむ様に抵抗はさせながらも相手の頬を緩く撫で、その指を首筋に、そのままワイシャツのボタンを上から一つ一つ外していき。『酷い事はしないので、良い子にして下さいね。』と声を掛けるのだが、この状況が相手からすれば“酷い事”である事は華麗に無視で )
( 何でも思い通りになると余裕の笑みを浮かべて選択肢を突き付ける相手に、そもそも泊める気は無いと主張しただけの事。それなのに腕を掴む力が強まり、気付けば一瞬で視界は反転していた。相手は都合の良い解釈で、折角提示した妥協案を自分が無視したと受け取ったのだろう。「____っ、分かった!ベッドでも何でも使って良い、だから触るな、!」一切悪びれる様子も無くワイシャツのボタンを外す相手の手を掴み、背に腹はかえられないと許可を出す。そうでもしなければこの男の事、何をされるか分かった物ではない。此方を見下ろす相手を下から睨みつけたまま、相手の腕を掴む事で牽制して。 )
アーロン・クラーク
( 焦らす様に至極ゆっくりとした、それでいて優雅な所作で以てボタンを静かに外していく中。上から2つ目のボタンが外れ3つ目に指が掛かった所で相手から投げやりではあるものの泊まりの許可と共に静止が入れば、その指先は直ぐにピタリと止まり。__『……』此方を睨み付ける相手の碧眼には強い嫌悪感と鋭さが宿っている。力では到底叶わないとわかっている己に組み敷かれ、ろくな抵抗も出来ない中で白い喉を晒しながらもその瞳に揺らぎは無い。絶対的に不利な状況下なのに。この“どうにでも出来る感”と、その中で見せる相手の瞳に思わず背中の産毛が逆立つ様な加虐心が生まれ、小さく喉を鳴らす。けれど選択肢を与えた以上、相手が選んだ以上、無かった事にするのは“ルール違反”であろう。ふつふつと湧き上がる熱を笑顔の裏に隠し僅か身体を折り相手の耳元に唇を近付けると『__“一緒に”寝るんですからね。』相手の嫌がる単語を強調しつつ、再び静かに持ち上げた顔。その瞳には歪な光はもう無く、そこで漸く相手の上から退けて。向かうは備え付けの小型冷蔵庫。扉を開け何時買って来たのか中から小さなボトルワインを取り出しては『…貴方も飲みますか?』と、少し前の出来事など何も無かったかのように振り返って )
( わざわざ“一緒に”と強調して来る相手の底意地の悪さを感じながらも、身体が離れると、外されたボタンを留め直し手早くも乱雑にワイシャツを整えベッドから離れる。仕方無く許可を出すずっと前から我が物顔で部屋を使っているではないかと苛立ちを募らせつつ「_____いい。」と答えて。冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを出して固いキャップを開けると、睡眠薬を飲み込む。此れを水では無くワインで流し込めば、夢を見ないほどの深い眠りに身を委ね朝を迎える事が出来るだろうか、と一瞬考える。薬が効くまでには暫し時間が掛かる。動ける内に休む支度を整えようと、ソファで寛ぐ相手を置いて浴室に向かうと施錠した上でシャワーを浴びて。---時間にして20分程、髪をタオルで拭いつつ浴室を出ると1人用の座椅子に身体を預ける。眠気は未だ無いものの、身体が怠い。横目に相手に視線を向けると「……一杯くれ、」と、結局少しのアルコールを身体に入れる気になったのか空のグラスを相手に差し出し。 )
アーロン・クラーク
( 断られればそれ以上を勧める事無く自身の分のワインをグラスに注ぎ一口。揺れる赤は特別高価な物では無いがそこまで安い物でも無い。本来ならチーズか何かを摘みながら飲みたいものであるが、生憎少し嗜む程度にすると決めていた為買っては来なかったのだ。ミネラルウォーターで睡眠薬を流し込む様子を横目に、その後浴室へと向かう背中を見詰めるも、遠く鍵を施錠する音が聞こえると面白そうに喉の奥で1人クツクツと笑い。__それから相手が戻って来る迄の間、結局ボトルの中の赤は当初の予定とは変わり半分程まで無くなっていた。身体はほんの僅か熱を帯びるものの思考回路はハッキリしていて“酔っている”とは余り言えない状態。そんな中で座椅子に座った相手が気が変わったのか一度は断ったワインを望めば『俺の前で意識を失う事になりますよ。』と、先程の睡眠薬の話と絡めつつも、勿論断る事は無く差し出されたグラスにワインを半分程注いで。__シャワーあがりの相手が引き連れる仄かな石鹸の香りは何故か酷く落ち着けるもの。まだ湿っている焦げ茶の髪を見ながらまた一口赤を啜り、『……前にも言いましたけど、俺と何処か遠い所に行きません?』溢れた、と言っても自然な程に出た言葉は以前お墓の前でした話と同じもの。なれど何の脈略も無く、また、今は答えが想像出来るもので )
( 異常に効き目が強く出る事がある為、薬とアルコールの併用はするなと言うのが通説だが、効き目を感じにくい薬の効果が増強されるならば願ったり叶ったりではないか。相手の言葉に反応する事はなく、グラスを受け取り注がれたワインを口にする。芳醇な香りが鼻に抜け、喉を通った赤は熱を持って胃に落ちる。---相手が紡いだ言葉は、普段のように芝居掛かったものではなくて極自然なトーンで此方に届いた。以前も彼から同じ提案をされた事がある。互いに傷を負い、一向に前にも進めずもがき苦しみ続ける_____其れは、此処を離れたからと言って変わるだろうか。其れに、やはり相手と自分は立場が違い過ぎるのだ。少なからず薬やアルコールも影響しているだろうか、先ほど迄の嫌悪や鋭さが抜けた碧眼を相手へと流すように向ける。「______遠くへ逃げたからと言ってどうなる、過去は消えない。……俺とお前は同じじゃない。時間を掛けても分かり合う事は出来ない。」と、言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
どうにもなりませんよ。過去は着いて回るし、痛みは消えない。__その中で、俺は貴方が欲しいんです。誰にも邪魔をされない所に行きたい。
( 矢張り相手からの返事はNO。それを聞き届けてから再びグラスにワインを注ぎ入れ揺れる赤の水面を見詰める紫暗の瞳は何処となく暗く濁り。『それに__、』繋ぎ言葉の後に持ち上げた顔。普段の時と変わらぬニコニコとした人当たりの良さそうな笑顔で『貴方は今刑事じゃないでしょ。』と。『此処に居ても、例えレイクウッドに戻ったとしても、その身体ではもう刑事に戻るのは不可能だ。貴方自身が一番良くわかっている筈です。…貴方は刑事じゃなく、望むなら俺も今の仕事を辞めても良い。互いに刑事でも犯罪者でも無いなら問題は一つ解決でしょう?』酔ってはいないものの、少なからず身体を巡るアルコールが存在を消す訳では無い。普段もそうであるが、今日はより一段と饒舌で、けれど紡ぐ言葉の中の何処にも相手の気持ちは含まれておらず )
……例え誰にも邪魔されない所に行ったとしても、お前の物にはならない。
( 相手の主張は何の脈絡もないもののように思えた。遠い場所に行ったとしても、其れが自分を“手に入れる”事に繋がるのだろうか。そもそも此方の気持ちも無視して手中に収めようとしているだけでは無いかと思えば、相手の抱く願望が叶う事はないと断っておき。やはり相手は自分が刑事で無くなった事も把握していたようだった。何とか刑事に戻る道を模索しながらも体調は思うように上向かない、そんな中で紡がれた“刑事に戻るのは不可能”という言葉は、気持ちを更に沈ませるものだった。「______何者でもない俺たちが一緒にいて、傷口を舐め合ってどうなる。」自分たち2人が一緒に居る意味を見出せないと、饒舌に喋る相手に言い返す。彼が語るのは唯の夢物語だ、自分はワシントンを、刑事という肩書を捨てる事は選べない。少しずつぼんやりとしてきた頭でワインを呷り。 )
アーロン・クラーク
__頑固ですねぇ、少し試してみればいいのに。…そうだ、実は俺の家は此方にもあるんです。試しに数週間一緒に暮らしてみません?
( どんな提案をした所で相手が首を縦に振る事は無い筈なのに。諦め悪くまるで“お試し期間”を設ける様な提案を続けながらグラスの中の赤を呷る姿を見、至極自然な動作で以て次なる赤を注ぎ入れ。『難しく考え過ぎなんですよ。理由が欲しいなら幾らでもあげますけど__…貴方が離れればミラーが誰かに傷付けられる事も無い、彼女のこれからの幸せを遠くから願える。刑事じゃなければ“あの事件”の事で責められる事も無い。後はそうですねぇ……貴方が苦しんでる時、“遺族”である俺から何時だって“許す”と言って貰えるとかはどうですか?』足を組み替えつつ、一つ、二つ、と挙げる“理由”の中には相手がワシントンに来た大きな理由もまた含まれていて。アルコールが入りほんのりと朱に染まった相手の顔。このまま長く話し続けていたら睡眠薬の効果も相俟って意識が落ちるのも時間の問題だろうか、と。相手を愛おしいと思うその気持ちの中に、同じくらい傷付き苦しんで欲しい__涙を流すその表情を見たいと言う気持ちもあるのだ。そんな事を1人静かに考えながら、時折視線が交わるとニッコリと微笑んで見せて )
______お前は本当によく口が回るな、
( 相手の提案に眉間に皺を寄せるも、全てを聞き終えて紡いだのはそんな言葉だった。試しに一緒に暮らしてみないかという誘いは無視したまま、ワインを呷る。自分がNoと言えないように周りを固めて逃げ道を無くすのが相手の遣り口だが、探偵でも雇っているのかと言いたくなる程に情報を熟知しており、此方が拒否する間を与えないとばかりに言葉を重ねる。薬と酔いとで少しずつ思考が緩慢になる中、嫌悪や拒絶よりも先に心底器用な男だという呆れが勝ったというべきか。「…もう良いか、そろそろ休みたい。」そう告げると、グラスの中身を飲み干しカラになった其れをテーブルに置く。この熱が、覚めない深い眠りへと誘ってくれれば良いと淡い期待を抱きつつ立ち上がり。くらりと視界が揺れたものの、そのままベッドへと向かい布団の中に潜り込む。薬は効果を発揮したようで、小さな寝息が聞こえ始めるのに時間は掛からず。 )
アーロン・クラーク
( ゆったりとした熱に侵されているのか、此方が挙げた“理由”に嫌悪を表す事無く碧眼に良く見せる鋭さも無い。それ所か早々に話を切りあげ1人さっさとベッドに入ってしまえば思わずソファの上でぐるりと頭を反転させその様子を見。__掛け布団が僅かに上下し始めるのと、小さな小さな寝息が聞こえ始めたのはそれから程なくしてだった。アルコールと睡眠薬が効いたとは言え、余りに早いその就寝に最早放置を食らった気さえして思わず苦笑いが漏れ。『…仕方の無い人ですねぇ、』と、溢した独り言は勿論相手には届かない。グラスに残ったワインを飲み干し相手が眠っているのを確認してから静かに部屋を出て向かうは一階のフロント。相手に相談も許可取りも無く勝手に決めた“居候生活”は、明日の朝言えば良いか、と。24時間待機して居るフロントの女性に相手の隣の部屋を何泊の指定無しでとって貰うと、お礼と共にある程度の現金を前払いしてから再び“相手の”部屋に戻り。__これで全て済んだとばかりに満足気にスーツを脱ぐと、持って来ていた鞄から上下黒の薄手のスウェットに着替え、寝支度を整えた後、何の躊躇いも無く相手の横に潜り込み。瞳を閉じはするものの、長年の癖は早々抜けない。眠る事は無く、時折浅い浅い所に意識を落とす事こそあれど、再び直ぐに覚醒する。そんな夜を過ごして )
( 相手の話を受け流し、さっさと1人眠りに着いた訳だが其れが長く続く筈もない。相手が布団に入って1時間ほど。夢を見た事で静かな眠りは打ち破られる。やけに鮮やかな赤が視界に広がるのと同時に、身体は跳ね上がるようにして覚醒していた。リアルな夢に呼吸が乱れるのと同時に、またあの強い痛みが身体に走り鳩尾を抑えたまま起こした上半身を前に折り曲げる。「_____っ、…は…!」深く息が吸えない。布団の中には相手の体温を感じるのだが、痛みで身体が強張り苦しさが募る。鎮痛剤をとサイドテーブルに手を伸ばしたのだが、昨夜は相手が居たため就寝準備を整えて眠る事をしなかった。錠剤の箱は鞄に入れたままになっている事を思い出し、其れを取るべくベッドを抜け出すのだが鞄までのほんの数メートルの距離が今はとても遠く感じた。鳩尾を抑える手に力を込めて床に蹲ったまま、痛みの波が僅かでも落ち着く瞬間を願ってゆっくりと細い息を吐き出して。 )
アーロン・クラーク
( __隣で眠る相手の呼吸音に乱れが生じ、その身体が勢い良く起き上がった事で閉じていた瞼を静かに持ち上げる。時間にして凡そ1時間、お酒と睡眠薬の力を借りても尚、ものの1時間程しか落ち着いた眠りの中に身を委ねられなかったのかと他人事の様に溜め息を一つ吐き出すのだが、遠い過去に己も同じ経験をした。医師から処方された睡眠薬の量を守らず倍を強いお酒で飲み干した時ですら悪夢は朝まで眠らせてくれなかったのだ。“懐かしい”と、そう感じた心は果たして正常か。そんな記憶をぼんやりと手繰り寄せていた矢先、まるで何かを欲する様に相手はベッドを抜け出すのだがその身体は床に蹲る体勢のまま動く事をしない。枕元の間接照明を点けてベッドの上から相手を見下ろし、どんな状況かわかっていながら『__何してるんですか?』と、余りに呑気な言葉を掛ける。勿論苦しみに耐えている相手が確りとその言葉を聞き取れたとは僅かも思わないのだが、手を差し伸べる事も無く暫くの間苦しむ姿を眺め。ややして伸ばした手で相手の焦げ茶の髪をくしゃくしゃと撫で回すと、『…何が欲しいです?』凡その見当は付くものの、こんな状態であっても相手の口から言わせようと思うのかそう問い掛け、そこで漸くベッドから降りて相手の横にしゃがみ込んで )
( 日に日に強まっているようにすら感じる身体の痛みは、行動を制限する。不意に髪に触れる手の感覚を感じて、相手の声がすぐ近くで聞こえた。過去と現在の区別が付かなくなる程に混乱している訳では無い為、相手に頼んで薬を取ってもらうのが最適な手段だという事は考えられた。「_______鎮痛剤の、箱を取ってくれ…っ、鞄に入ってる、」紡いだ言葉は支離滅裂な訳でもなく冷静なものだったが、痛みが強まると思考が途切れそうになる。これ程の痛みを市販の鎮痛剤だけでどうにか出来るとも思わないし、可能ならモルヒネでも打って欲しいとさえ思うのだが、今は少しでも楽になる手段が其れしかないのだ。蹲った床はひんやりと冷たく身体の熱を奪う。ベッドの上のブランケットを引き寄せて、ゆっくりと呼吸を繰り返し。 )
アーロン・クラーク
( 相手が所望したのは鎮痛剤の箱。鳩尾を握り締めている所を見るとそこに走る痛みを取り除きたいのか、はたまた消えない悪夢から解放される為の安定剤を求めていると察しはついていたがどうやら今回は前者だったよう。痛みの合間合間に身体を強張らせる相手の顔は覗き込みたくとも床に邪魔されている。今一度柔らかな焦げ茶を撫で回してからゆっくりと立ち上がると、ソファの端に無造作に置かれている相手の鞄の中から目的の鎮痛剤を、続いて冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って再び相手の横に床に膝をつく形でしゃがみ込み。『__持って来ましたよ。』と声を掛けるのだが、その錠剤も水も此方の手の中。痛みに耐え苦しむ相手を目の前にしても渡す事をしないと、次の瞬間には何を思ったかやけに歪に口角を持ち上げ。『欲しいですよね、これ。だったら口を開けて下さい。』そう言うや否や、徐に錠剤を上下の歯で軽く咥え、この後の展開を想像させがら意地悪く見せ付けて )
( 睡眠薬はしっかりと効いている筈で、だからこそ身体は未だ眠りたいのだと怠さと眠気を訴えている。鳩尾を軽く摩り呼吸を浅く繰り返しつつ、相手の声に顔を上げるのだが水も錠剤も此方に差し出されては居なかった。この男は手放しに優しさを振り撒くような人間ではないと思い出す。行動の裏には何かと理由があるのだ。錠剤はあろう事か相手が咥えていて、その愉快そうな表情からも相手が何をしようとしているかは想像が付いた。しかし此の痛みが取り除けるのなら、背に腹は変えられないと震える唇を開いて。 )
アーロン・クラーク
( 色恋沙汰には滅法鈍感な相手だが、流石に此処まで見せれば例え痛みや眠気で朦朧とする意識なれど嫌でも次の展開を想像出来たのだろう。少しの間の後震える唇が薄く開けば満足気に頷き片手を相手の後頭部へ。そのまま顔を近付け相手の想像通り唇を触れ合わせた後咥えていた錠剤を器用に相手の口内に押し込むと、同時に軽く舌を吸って__終わり。散々好き放題する予定は最初から無かったかのようにあっさりと顔を離し、小振りな物なれど異物を飲み込むのに何も無しは苦しいだろうと直ぐに水を差し出して。そんな欲望とは逆の珍しい優しさはまだ続く。まるで言う事を聞いた褒美だとばかりに相手が確りと薬を飲み込んだのを見届けてから、徐に背中と膝下に腕を回し、上に掛かるブランケットごといとも簡単に相手を抱き抱える。それから労わる様な優しさで極力振動の無い様に相手をベッドに降ろすと掛け布団を掛け、自身も隣に身を横たえて。『目を閉じて、もう一度一緒に眠りましょう。』眠りの淵に誘う様に、相手の髪を撫でながら再び寝息が聞こえるその時まで手を休める事は無く )
( 身体を強張らせ身構えていたものの、一度唇が重なり錠剤が押し込まれると相手は直ぐに身体を離した。そうして水の入ったペットボトルを渡されると、促されるままに薬を飲み込んで。抵抗出来ない状況下で相手に自由を奪われなかった安堵と、薬を飲めた事で此の痛みも落ち着くだろうという安堵。更に相手に身体を持ち上げられ布団の中に戻れば、直ぐ近くに感じる体温に、身体は従順にも安心し僅かばかり力が抜けて。誰かが側に居る、という状況は時に苦痛を和らげる。それが相手であっても、温もりと共に髪を撫でる手に自然と緊張は解けやがて眠りに落ちていて。 )
アーロン・クラーク
( 身体の何と正直な事か。与えられる温もりに相手の身体は強張りを解き続いて再び寝息が聞こえる。伏せられた瞼、長い睫毛、先程確りと己の要求をのんだ唇、痩せた頬__順番に人差し指を触れさせ満足した所で手を離すとその手を布団の中にしまい込み。__それから数時間後、軽い眠りに落ちていた意識が浮上し時間を確認すればまだ早朝の4時を少し過ぎた所。隣の相手は眠っている。まだ起きるには早い時間帯ながらも2度寝が出来そうな感じでも無いと思えば、一度控え目な欠伸をしてから静かにベッドから降りて。朝の冷たい空気は遠慮無く足元から身体全体を包み、僅かに眉を寄せ。備え付けられているエアコンを点け部屋の温度が暖まるまでの間、ケトルにお湯を沸かしコーヒーをいれつつ、相手が次起きる時は再び悪夢に魘された時か、それとも自然と目が覚めたもう少し後か、とソファに腰掛け遠目から盛り上がる布団を見詰める時間を過ごして )
( 誰かの体温は冷えた身体を温め、安心して眠る事が出来る。二度目の眠りは薬の力も借りて深く、静かなものだった。---夢を見はしたものの、飛び起きる程に鮮明な夢ではなかった。けれど不安感のようなものがじわじわと胸の内に広がり、少し首筋に汗をかいていて。朝の5時ごろになってふと目を覚ますと隣に相手は居ない。強い痛みも落ち着いていたが、倦怠感は身体に纏わりつく。コーヒーの匂いがする事でソファの方へと視線を向けると、相手は其処に座っていた。相手が近くにいる事に少し慣れたのか、相手に向けるその瞳に敵意や嫌悪は余り無い。「……睡眠薬が必要なら使え、」と言葉を紡いだのは、相手も自分と同じように過去の記憶に苛まれ眠れない事を知っているからで。 )
アーロン・クラーク
( 規則正しく上下に微動していた掛け布団が大きく持ち上がり、寝起きの相手と視線が交わったのはコーヒーを飲み干して少し経ってからの事。褪せた碧眼には寝起きである事と夜中に苦しんだ分の倦怠感が纏わりついていて心做しかぼんやりと朧気に見える。『おはようございます。』と、口にした朝の挨拶に返って来たのが此方を気遣う申し出であれば、以前世間話程度の会話の中で出た此方の睡眠情報を覚えて居たのかと一拍程の間の後に喉の奥でくつくつと低く笑い。『記憶力が良いのも考えものですね。それ、俺の弱みになり兼ねないので内緒でお願いしますよ。』小さく肩を竦め、それでも何処か嬉しそうな様子でそんな戯言と共に暗に睡眠薬は飲まないと示すと、もう一度ケトルにお湯を沸かす為に立ち上がり__『そうだ、』と振り返る。『昨晩貴方が寝た後に決めたんですけど、暫くの間此処に居候する事にしました。』何故この部屋を使う相手に先に許可を取らないのか、そもそも勝手に決める事自体可笑しな話なのだが最早決定事項なのだとばかりに相手に背を向け、今度こそケトルにお湯を沸かし相手の分のコーヒーを作って )
( 相手は自分よりもずっと心の傷や本心を隠すのが上手い。確かな絶望が纏わりついている筈なのに、常に過去の翳りなど誰にも勘付かせないような振る舞い。そんな掴みどころがなく翻弄されてばかりの相手の弱みを握れるのなら願ってもない事だと肩を竦める。「…勝手に決めるな。居候しても何のメリットも無いだろう、」勝手に“決めた”と言い切る相手に呆れたように溜息を吐きつつ却下するが、この男が決めた事は大抵の場合、思い通りになるまで周囲を歪めてでも突き通す事は知っている。重たい身体を起こしソファへと移動すると背凭れに身体を預け_____ちょうど淹れたてのコーヒーが差し出されれば奇妙な物でも見るように相手に視線を向けて。自分の行動を先読みしているようなタイミングだと思いつつもカップを受け取ると熱いコーヒーを口にして。 )
アーロン・クラーク
( 案の定相手は此方の身勝手な決定事項に拒否を突き付けて来たのだが、そんな柔らかな拒否で覆る程のものでは無い。右から左に聞き流しながらも“損得”の話の所にだけは反応を示し。『貴方と一緒に暮らせる、これがメリットです。まぁ、貴方にとってのメリットはわかりませんけどね。』相手と一緒に過ごす事が出来るのならば、例え電気も水道も通ってない森の奥でも、それこそ言葉の通じない異国でも構わない。隣に、相手が居れば。何の躊躇いも無く此方のメリットをあげはするが、嫌われている自覚はあるものだから、一度は相手側のメリットを保留とし__コーヒーを手渡し、相手がそれを飲んだタイミングで腰を折り目線の高さを近付ける。『ねぇ、警部補。俺と一緒に過ごすメリットを考えて下さいよ、1つで良いですから。』そうして楽しそうな笑顔で強請ったのは相手を悩ますものだろう。何か答えるまで此処から動かないとばかりに )
( 相手の言葉には眉を顰めたまま「俺にお前と過ごすメリットなんてある筈がないだろ、」と言い返す。相手と共に暮らすというのは自分が一人の時間を持てず心穏やかに過ごせなくなるだけだ。しかし続いた相手の言葉と共に視線が直ぐ近くで交わると嫌そうな表情を浮かべる。メリットなど無いと幾ら説明しても相手は納得しないだろうし、離れろと言っても距離を取る事をしないものだから眉間に深い皺を寄せたまま「______寒くない、」とたった一言ぶっきらぼうに答えて。1人で部屋に居る時、布団の中に居る時に感じる寒さを相手が部屋にいるだけで感じなくなる。其れは不安や恐怖心を軽減する上ではメリットとも言えるかもしれないと、無い理由の中から絞り出して。 )
アーロン・クラーク
( 本当は宿泊費を前払いし、確りとこの部屋の隣の部屋を取ったのだがそれは勿論内緒。言ってしまえば問答無用で部屋を追い出されるか此方が出て行かないのならば相手自身が隣の部屋に閉じ籠ると言い出しても可笑しくはない。ニコニコと危険性などまるで持ち合わせて無いです、なんて爽やかな笑顔を振り撒きながら返事を待つ事果たしてどれ程の時間が経ったか。たっぷりと空いた間の後、無理矢理絞り出したと言っても過言では無いたった一言の返事に思わず至近距離で瞬く。“寒くない”なんて__『…まったく。暖を取れるのがメリットだって言うなら、“湯たんぽ”を抱えてたって良い訳だ。』やれやれとあからさまに肩を竦め背筋を正しては、態とらしく溜め息を一つ吐き出し。けれど機嫌を損ねた訳では無い。時刻はまだ朝の6時前。相手の為にいれた筈のコーヒーを取り上げるとそれをテーブルに置き直し『仕事は午後からでしょ。まだ起きる時間としては早すぎます。…“湯たんぽ”代わりになってあげますよ。』珍しく小さな皮肉を口にし、刹那、ソファに座る相手を夜中の時の様に軽々と抱き上げるとそのままベッドに逆戻りを決め込んで )
( 相手を満足させるような返答をしたかった訳では無いため、溜め息混じりの相手の反応にもつれない態度を崩す事はなかった。しかし不意に口から離したマグカップを奪われると驚いた表情を浮かべ、続いて急に身体が持ち上げられると息を飲む。バランスを崩さないよう咄嗟に相手の肩を掴み、そうして直ぐに離す。「っ、おい!降ろせ!」と抗議の声を上げたものの、ベッドまでの距離はそう遠くない。程なくベッドに降ろされると相手を睨んだのだが、相手はどうやら自分の仕事が午後からであるという事まで知っているらしい。確かに起きるのは早い時間である事には間違いないのだが_______相手に抱き竦められるような状態は寧ろ落ち着かない。暫くは相手の“拘束”から逃れようと相手の腕の中で抵抗を示していたものの、体温の低い身体が温められれば自然と眠気は再びやって来て。 )
アーロン・クラーク
( 至近距離での抗議の声も勿論無視。それ所か身体を持ち上げたその一瞬、咄嗟に己の肩を掴んだその行動に満足気な笑顔すら浮かべる始末で。ベッドに降ろしてからも続く抵抗は細身のその身体を抱き竦める事で簡単にいなす。『逃れられないのは貴方が一番良くわかってるでしょう。早く寝ないと酷い事しちゃいますよ。』緩く瞳を閉じたまま物騒な事を言うのだが声色は穏やかなまま。やがて腕の中の抵抗が弱まると『…良い子ですね。』直ぐ真横にある相手の柔らかな髪の毛を一度だけ撫で『__次の貴方の休み、デートしましょうよ。貴方の気に入りそうな場所捜しておきますから。』うとうとの微睡む相手に聞こえていようがいまいが、返事の有無すらも別に必要無い。まるで“恋人同士”の様な戯れを望みつつ、再び相手が目を覚ます時までその体温を感じたままで居て )
( 相手と居る事に安らぎを感じて居なくても、身体は正直に温もりを求めその体温に不安が和らぐのを感じる。相手の言葉には何も返事をしないまま、いつしか眠りに落ちていた。朝の“二度寝”はどういう訳か穏やかなもので、夢を見る事も苦しさに意識が引き上げられることもなく9時頃に目を覚まして。「______、」相手は一睡もしていなかったのだろう、目を覚ましてふと相手の方に視線を向ければ此方を見ている相手と目が合い気まずさを感じる事となった。何も言わぬまま相手の腕の中から抜け出し、備え付けの簡単なクローゼットを開け仕事用のワイシャツを取り出して。 )
アーロン・クラーク
( __二度寝から目覚めた相手が仕事の準備を済まし部屋を出るのを見届ける。夜迄ずっとこの部屋に居るか、もしくは出掛けたとしても相手より先に帰って来るのだからと半ば強引に預かったカードキーが手の中で冷たさを帯び、1人になった部屋は途端にひんやりとした空気を引き連れて来たものの此方とてやる事がある。身だしなみを整えホテルを出ると向かう先はワシントン市内にあるもう一つの住処。そこでこの先の生活に必要そうなスーツや下着などの衣類、スキンケア用品、お気に入りのワインボトルも数本、その他様々な物を大きなスーツケースとボストンバッグに詰め込み再び“相手の部屋”に戻って来て。相手が仕事から戻って来ればドアを開け何時もと変わらぬ笑顔で出迎える事だろう。__そんな日々を数日。途中にあった相手の仕事休みの日には“デート”と称して公園に連れ出し意味も無く散歩もした。__夜、珍しく深い眠りに落ちていたのだが、それはある意味前兆。深い眠りは必然的に悪夢を連れて来るもので、久し振りに見たその夢は矢張り“あの事件”の繰り返し。血に染まる床には何十人もの教諭と園児が折り重なる様に倒れていて皆瞳に光は無い。弟のルーカスは絶え絶えの息と共に何度も血を吐き出し、今にも光の消え失せそうな瞳から涙を流す。違ったのはその場に相手が居た事。あの時の年齢の相手では無く、今の見慣れた姿の相手。何も言う事無く冷たい瞳で多くの遺体を、ルーカスを、ただ見下ろしている。『…っ、!』喉に息が引っ掛かると同時に意識が覚醒した。指先が冷たく呼吸が苦しい。無意識に隣に視線をやれば眠る相手が居て、少しの間見詰めた後に静かにベッドから抜け出す。グラスに赤ワインを注ぎ入れ一口飲むのだが冷たい空気とは裏腹に体内は灼熱の如く熱いのだ。ふつふつと湧き上がる感情に明確な答えは出せず、ただ苛立ちの様な、溢れ出そうと渦を巻くもどかしい何かがひたすらに感情を乱す。酷く不愉快なそれを逃す術が無く、ギリ、と奥歯を噛み締めた後自身の感情を制御出来ぬまま、まだ半分程中身の入ってるワインボトルを何の加減も無しに床に叩き付け。物凄い音と共に砕けた硝子の破片は散らばり、中の赤は水溜まりの様に広がる。細く荒い息を繰り返しながら、その場に立ち尽くしたままで )
( 意味も無く公園に連れ出され嫌々相手の外出に付き合わされる事はあったのだが、相手が側に居る事に徐々に慣れて来ている自分が居た。体調は変わらず良くなかったが、1人で眠っている時よりも温かく、少し安心して眠る事が出来るようになっていた。濃く目の下に住み着いていたクマは少しばかり薄くなっただろうか。---その日も相手の側で眠っていて、相手がベッドを抜け出す動きに僅かながら眠りが浅くなったのだが_______突然響いた激しい衝撃音に一気に意識が引き上げられた。悪夢に魘されていた時だったら其の音が銃声と重なり、フラッシュバックに襲われていても可笑しくない程の音だった。飛び起きるようにしてベッドに身体を起こし音の出処を探れば、直ぐに相手が立ち尽くしている事に気づいた。足元にはワインのボトルが粉々に割れ、未だ中身が入っていたのだろう、赤がじわじわと広がっている。「_____ッ、…クラーク、」彼の表情は俯き気味で読み取れないものの、浅い呼吸に肩が上下している事に気付く。彼が取り乱した様子を見せる事など滅多にない。何があったのかと相手の名前を呼び、ベッドから立ち上がり。怪我をしないようにガラスの破片を片付ける必要があるが、相手は明らかに様子が可笑しい。悪い夢に、普段抑圧している過去の記憶が引き出されたのか。「……ベッドに戻ってろ、水を持ってく。」先ずは少し相手を落ち着かせ、フラッシュバックが起きないようにする必要がある。記憶を押し留めようと必死に呼吸を繰り返している時、全てを飲み込むように過去の記憶が首を擡げる苦しさはよく知っている。自分の安定剤を飲ませて落ち着かせるべきかと考えながら相手に近付くと、一度ベッドに戻るように促して。 )
アーロン・クラーク
( 床に散らばるボトルの破片は、あの日何発もの銃弾を受け粉々に散った窓硝子と同じ。水溜まりの様に広がる赤は遺体から流れ出るドス黒い血と同じ。呼吸が苦しい中、何処か夢現の様な気持ちすら覚える中床を見詰めていたのだが、この音で相手が目を覚まさない訳が無い。案の定起きた相手に名前を呼ばれると漸く顔を上げ『__嗚呼、すみません、起こしちゃいましたね。手を滑らせてしまって。』薄い笑みを携えこの惨事の説明をするのだが、“手を滑らせた”くらいではボトルはこんなに粉々になったりはしない。明らかに故意的に叩き付けた事は直ぐにバレるだろうが別に構わなかった。浅く息を吐き出しながら、ベッドに戻れと言う相手に拒否する様に軽く首を左右に振り__距離が縮まった事でより鮮明に相手の碧眼を捉える事が出来る様になった、刹那。再び湧き上がるドス黒い感情は理性を失わせる。更に距離を縮める為に踏み出した足は、スリッパのお陰で怪我こそしなかったものの飛び散った破片を踏み付けた。そうして腕は相手の胸ぐらへと伸び、加減を知らぬ勢いで掴み掛かると、暗紫の虹彩に珍しく苛立ちの色を浮かばせながら『__…何で助けられなかったんですか、』と。それは余りに脈略の無いもの。そうして夢に引っ張られ思わず溢れた、と言うのが正しい様な静けさで )
( 相手は取り繕うようにいつもの笑顔を貼り付けたものの、明らかに手を滑らせただけでの惨事ではないだろう。遣り場のない感情を抱えて、或いは脳裏に焼きついた残酷な記憶の残像を何とか消し去るため、自らワインボトルを叩き付けた、というのが正しい解釈な気がした。しかし相手の言葉に大きく反応する事はせず、小さく頷く事で受け流し。破片を片付けようと近付いたものの、相手の足は割れたガラスを踏み付け、バキ、と鈍い音が鳴る。スリッパを履いているとはいえ怪我をする恐れがあると思えば「…おい、気を付けろ_______」と言葉を紡いだのだが、不意に胸ぐらを掴まれ引き寄せられると首元が僅かに締まり強制的に相手と視線が重なる。「……っ、」突然の事に息を飲み、相手の暗い瞳を見つめ返す事しか出来ずにいると紡がれたのは過去に対する問い。夢を見た事により、過去と現在を混同しているのか、或いは過去に意識が引っ張られ其の怒りを抑える事が出来なかったのか。どちらにせよその瞳にはやるせない苦しさと苛立ちと、様々な感情が渦巻いている。「_____悪かった、」今の自分が目の前の相手に言える事はそれだけだ。静かにその言葉を紡いで。 )
アーロン・クラーク
__悪かった?…謝罪一つで死んだ人が戻って来るとでも、
( 碧眼と暗紫が至近距離で交わり、続いて静かに謝罪が落とされたのだが結局今この状況で相手が何を言葉にしたって駄目なのだ。日頃気味の悪いくらいに相手を褒め愛を囁く同じ唇で、冷たく棘の纏った言葉を吐き捨てる。胸ぐらを掴む指先に更に力が篭もり息苦しさは少しも治まりを見せていないものの、発作にまでは繋がらない。その繋がらないギリギリのラインで踏み留まったまま、感情に任せて僅か相手を引き寄せ、その反動で次は斜め後ろにあったソファへと押し倒すと『貴方が幾ら謝罪をした所で誰も戻らない。セシリアさんも、ルーカスも、誰も。__冗談じゃない。何が安定剤だ、鎮痛剤だ。自分だけ楽になろうなんてよくもまぁ、そんな事が出来ますね。』相手を真上から睨み付ける様な瞳で肩で息をしながら怒りに任せた言葉を饒舌に紡ぐ。それは相手に向けたもの、自殺した犯人に向けたもの、そうして、自分自身に向けたもの。ただ、今は相手を苦しめたかった。この部屋で出会った時から相手が度々痛みを訴える箇所、鳩尾付近を加減の知らぬ力で以て上から押さえるとそのまま体重を掛ける。痛みも、苦しみも、余す事無くその身で受けろとでも言うかのように、ただ相手の苦痛に歪む顔を、絶望に染まる瞳を、懇願を聞きたいと )
( 相手が紡いだのは、ずっと前から、幾度と無く遺族や記者に掛けられた言葉だ。謝罪をした所で居なくなった人間は二度と戻って来ない_______そんな事は痛いほどに分かっているというのに。「っ、亡くなった人が二度と戻らない事は分かってる!それでも…謝る以外に、今は何も出来ない…!」視界が反転し背中に衝撃が走り表情を歪める。此方を見下ろす相手の瞳を見つめ返し、今となっては幾ら過去を後悔し懺悔しても、それ以外に行動に移せる事がないのだと訴えて。“自分だけが楽になろうだなんて”_____その言葉は相手が以前からまるで呪いのように自分に掛けていた言葉だ。あれほど苦しんだ被害者たちを見捨てておきながら、今尚自分だけが楽になろうと薬に頼る事を相手は責めた。反論出来ぬまま困惑したような怯えたような色を携えた瞳で相手を見上げていたものの、相手の手が鳩尾に掛かり、其方に意識が向いた一瞬。強い力で押さえ付けられるのと同時に激痛が走り身体が大きく跳ねる。「______っ、ぐ…ッあ゛、!」声にならない悲鳴が漏れ相手を引き剥がそうと暴れるのだが、相手はびくともしない。酷い痛みは当然呼吸を浅いものに変え、痛みから逃れようとしても相手は其れを許さなかった。断続的に鋭い痛みが身体を引き裂くように走り、額には脂汗が滲む。相手を見上げていた瞳はゆらゆらと不安定に揺らぎ、身体には震えが生じ始めていた。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を押さえ付けた瞬間に相手の身体は大きく跳ねたものの、その僅かな逃げすらも許さないとばかりに更なる体重を掛け片腕一本でその身体をソファに縫い付ける。どれ程の痛みが身体を駆け巡っているのかはわからないが鎮痛剤を欲していた程だ、物理的な衝撃が加わってる今は何も無い時よりも何倍も強い痛みであろう。薄い唇からひっきりなしに漏れるくぐもった悲鳴と懸命に逃れようとするその抵抗、次第に浅くなる呼吸が証明で。『痛いですよね?助けて欲しいですよね?でもルーカスは貴方の何倍も痛かったし、助けて欲しかった筈だ!貴方が…ッ、…何で何もしなかったんですか!』そんな相手を見下ろしながら昂る感情は語気を強めさせる。普段の飄々とした余裕綽々な態度とは違い、感情のままに責め立てる言葉の数々は熱を持つ。__あの日、相手は決して“何もしなかった”訳では無いだろう。人質全員を救う為に出来る事を懸命に考え、どうにか犯人を落ち着かせようとだってした筈だ。夢に見た、冷たい瞳で遺体を見下ろすだけの相手では無かった筈なのに、あの日の記憶にあるのはつんざく様な銃声と、叫び声と、血の赤。そして倒れる弟の姿だけなのだ。『__ねぇ、警部補。“助けて”って言わないんですか?痛いの、もう嫌でしょ?』脳裏を過ぎる過去の記憶と、先程見た夢。ぐちゃぐちゃに混ぜ合わさり脳を支配する。大きく肩で息をしながらも、語調だけは普段の柔らかなものに戻るのだが、紡ぐ内容は一見優しさや救いに見える歪んだもの。鳩尾から手を離す事無く、反対の手で頬を優しく撫でて )
( 激しい痛みの中でもがいている状況下で紡がれる相手の言葉は、心を掻き乱し絶望を誘う。あの事件で犠牲となった相手の弟は、セシリアは、大勢の罪なき人々は、銃弾を受け痛みの中で命を落とした。この耐え難い痛みをもっても尚、自分は命を落とす事は無いというのに、一体どれほどの苦痛だっただろう。感情の籠った相手の声、“遺族”の怒りと言葉。其れを身に浴びながら、身体を痛め付けられる。痛みによって呼吸はすっかり浅く意味を成さないものになっていて、痛いと何度も訴えるも絶え絶えに紡がれた言葉を相手が聞き入れる事はない。_______まるで拷問だ。痛みによって生理的な涙が目尻の端から溢れ、震える唇で言葉を紡ごうとするのだが浅い呼吸に阻害され上手く言葉が紡げなかった。「_____っも、やめ……ッ痛い、____助けて、くれ…っ、!」骨が軋むほどの圧力に、心臓を鷲掴みにでもされているような痛みが襲う。パニックの一歩手前と言っても良いだろう、絶え絶えに言葉を紡ぎ、恐怖からか酸素が不足しているからか身体は震え、相手の腕に掛けた指先は冷え切って。 )
アーロン・クラーク
( 相手の瞳から涙が流れたのを見て満足そうに口角を持ち上げる。頬を撫でていた指先で溢れるその涙を何度も拭いながら、与えられる痛みから逃れたいと言葉にならぬ声で必死で懇願するのを聞き届け、そこで漸く鳩尾から手を離すと『__仕方無いですね。』と、態とらしく肩を竦め。相手は浅くなった呼吸を懸命に繰り返しながら小さく小刻みに身体を震わせている。痛みからから、苦しみからか、恐怖からか__何であれ“自分が与えた”絶望で変わる相手の姿を見るのは何とも言えない優越感の様なものを感じるのだ。悪夢によって呼び覚まされた過去は次に残虐性を呼び、相手に向く。痛めつけたいと、本心からそう思った筈なのに今はその気持ちがすっかり散り、満足したのだろうか、悪夢の記憶も何もかも、何処か清々しい気分だ。『…可哀想に、痛かったですよね。でももう大丈夫。痛い事は何も無いですよ。』相手に痛みを与えた当事者であるのにまるで無関係な人の様な言葉を優しく紡ぎながら先程体重を掛けた鳩尾付近を優しく撫でる。二重人格を疑われても可笑しくは無い程の感情の変化なのだが、知った事では無い。背後では未だ片付けていない硝子の破片が飛び散り赤が広がっているのだが、意識の中には無い。ただ、目の前の相手に優しく語り掛けるだけで )
( 鳩尾を強く圧迫していた手が漸く離れたものの、痛みが直ぐに引くことはない。「っ、は…ッあ、…は……っ、」喘ぐような浅い苦しげな呼吸が落ち着かぬまま、まるで他人事な言葉と共に再び相手の手が添えられると条件反射的に怯えたように身体が跳ねるのだが、再び強く押さえ付けられる事はなかった。しかし其れでも与えられた苦痛と恐怖は明確に刻み込まれ、涙の膜が張った瞳にはありありと恐怖が浮かんでいて。今すぐ相手と距離を取りたいと思いはするものの、痛みに身体が強張って上手く動けない上に身体を動かそうとするだけで鋭い痛みが走る。何事も無かったかのように優しく語り掛けてくる相手は人の心を持たぬ悪魔か。____否、先ほどはあれ程人間的に感情を露わにしていたのだ。事件の遺族たちに思いを寄せ、あれほど感情的にやり場のない怒りを表に出す相手を見たのは初めてだった。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾を撫でた時に反射的に跳ねた身体、それは与えた恐怖と痛みを素直に感じた証。此方を見上げる涙に潤む瞳が恐怖一色に染まったのを見て心底満足そうに微笑むと『__俺、貴方のその目が一番好きです。』苦しむ相手に今掛ける言葉としては到底場違いな事を、まるで恍惚とした甘ったるい語調で送った後『後始末はきちんと俺がするので眠って構いませんよ。カーペットは…弁償ですね。』未だ小さく震える相手の身体の下に手を入れ痛みに気遣う事無く簡単に抱き抱えると、床で粉々になっている瓶を避ける事もせずに踏み付けながらベッドまで向かいそこに相手を優しく降ろして。『おやすみなさい、警部補。』汗で張り付く前髪を軽く払ってやってから言葉通り散らばった大きめの破片を摘み上げる様に片付けつつ、残りは明日相手が仕事に行っている間に掃除をして貰おうと思案して )
( 恐怖と苦痛に晒された直後、其処に突き落とした相手自身の手で眠りを促されベッドへと降ろされる。恍惚とした表情で紡がれた言葉_____相手が何を考えているのか、自分に向ける感情のどれが本物なのか、何一つ分からない。上擦った呼吸が落ち着くのにはかなりの時間を要し、けれど呼吸が正常なものに戻るとどっと襲う疲労によって眠りに引き摺り込まれる。暫くは相手の動きを警戒していたものの、やがて眠りに落ちていて。---何度も目を覚まし、迎えた翌朝。昨晩の一件を経て痛みは普段以上に強く、体調は当然良くない。この状態で仕事に行かなければならない事は憂鬱だった。床にはまだワインボトルの破片とワインが溢れている。相手を避けるように口もきかぬままに仕事へ向かったものの、学生からは顔色が悪い事を指摘され、ふとした瞬間に襲う強い痛みをやり過ごす事に意識が向いた。彼が居ると思うと真っ直ぐにホテルの部屋に帰る気にもならず、最後の講義を終えても教官室に残ったままで。 )
アーロン・クラーク
( ___朝、最高に機嫌の悪い相手が終始無言で仕事へと向かった後、ホテルの責任者に昨晩の騒動の謝罪と汚したカーペット代を弁償し部屋を元通り綺麗な状態に戻して貰ったのが数時間前の事。綺麗な部屋で今度は至極穏やかな気持ちのままマグカップの中の紅茶を啜って居たものの、本来相手が帰って来る時間になっても一向に部屋の扉が開く事は無い。__昔、そう言えば似た様な事があったと思い出した。あの日は確か相手を部屋に置いて自身が出掛けたのだ。そして帰って来た時相手はもう居なかった。たった一言“家出ですか?”と送った記憶がある。『__仕方ないですねぇ、』誰に宛てるでも無い独り言の様な呟きは直ぐに後を追った紅に消える。中身を飲み干し一息着いてから立ち上がると身支度を整えホテルを出て。__向かった先は相手が勤めるFBIアカデミー。既に殆どの生徒は帰宅していて擦れ違う人は数える程。確りとセットした髪型では無い、降ろしっぱなしの髪ながら特別変装をする事も人目を気にする事も無く普段と変わらぬ飄々とした表情で廊下を進み、やがて相手が居るだろう教官室の前で止まると扉を二度ノックし。中からの返事を待たず扉を開ける。『__わからない箇所があるので聞きに来ました。』相手を瞳に捉えそんな戯言を紡ぎながら扉を閉め、ツカ、ツカ、と目前に歩み寄ると、少しばかり顔を近付ける様にして『まだ機嫌直らないんですか?』と、まるで此方には何の非も無く相手が勝手に不機嫌になっているとでも言うかのような問い掛けを )
( 夜になってようやく痛みが和らいでは来たものの、昨晩の相手の暴挙によって体調が悪化した事は間違いない。もう殆ど済んではいるのだが、明日の講義に向けた準備に敢えて時間を掛けて教官室で作業を続けていた。---普段であれば相手の革靴の音には耳敏く気付くのだが、此処が大勢の学生が行き交う校内だった事もあり、相手の気配を察知する事は出来なかった。ノックの音に顔を上げ_____相手の雰囲気が普段と違った為、一瞬学生かとさえ思ったのだが。直ぐに其れが相手だと気付けば其の表情には警戒の色が浮かぶ。「作業が終わってないだけだ、_____わざわざ来る必要は無いだろう。」と告げて。 )
アーロン・クラーク
( 警戒心の滲む瞳でぶっきらぼうに告げられた言葉に一度視線を相手の手元に落とす。広げられた資料をザッと見てから『__要領の良い貴方なら直ぐに終わるでしょう。』と、肩を竦めるも相手の腕を取り身勝手に帰宅を促さないのは気紛れか。ニコニコと何処かご機嫌な色さえ纏いながら相手から離れるも1人帰る事はしない。先程迄学生の誰かが座って居たのだろう席に腰掛け、既に授業は終わっている為何も書かれていない少しばかり白く濁る黒板を見詰めては『…懐かしい気分にでも浸ろうかと思いましてね。』と、相手を迎えに来た、とは別の理由を答え。『貴方は忘れてしまったかもしれませんが、俺も一応FBIだったんですよ。ちゃんと此処を卒業もしたし別に違法な手を使った訳じゃない。』聞かれてもいない事を饒舌に話し始めたのは機嫌が良いからか。背筋を伸ばし席に腰掛けるでも無く、少しばかり気を緩めているのか頬杖すらつきながら『__俺がもしあのままFBIだったら…貴方の部下だったら、今頃どうなってたんでしょうね。』珍しく“タラレバ”を落として )
( 珍しく相手は、無理矢理に自分を従わせる事はしなかった。言葉を無視したまま明日以降の講義に向けた準備を黙々と続けていたものの、不意に紡がれた言葉に一度視線だけを持ち上げる。今となっては“犯罪者”である相手も、かつては確かにFBIの捜査官を志した学生だったのだ。一体どういう心境の変化があって道を踏み外したのかは分からないが、あの事件が彼を歪めてしまった事は間違いない事実であろう。直接的な被害者以外に幾人もの間接的な被害者を生んでいる事は当然分かっている。相手のように人生を狂わされた遺族や、全てを崩壊させられた当事者が大勢居る。其の事に対しては当然罪悪感があった。暫しの沈黙の後「_____其の立場を自ら手離したのはお前の判断だ。」とだけ答えて。幾らたらればを言った所で、そもそも望んでFBIを離れたのは相手なのだから未来は変わらないと。 )
アーロン・クラーク
__相変わらず“らしい”返事ですね。
( 返って来たのは寄り添いでも何でも無い言葉。なれどこの件に関しては少しも寄り添いなど欲しくは無いし寧ろこの遣り取りが心地良いとさえ思う程で。__それから凡そ1時間程が経ち、ホテルに戻りたくないと言う理由で悪足掻きの如く時間を掛けていたのだろう準備が嫌でも終わりを迎える頃。廊下ではもう足音や話し声はすっかり聞こえなくなっており、此処を出るのは調度良い時間帯だろうと思えば『…そろそろ帰りましょう。部屋はもう綺麗だし、今日は酷い事しないって約束しますから。』と、後者に置いては全く信憑性の欠片も無い言葉と共に立ち上がり結局は相手の返事など無視でホテルへと連れ帰り。__部屋の中は昨晩の騒動を感じさせぬ程綺麗になっていた。血を吸った様に真っ赤だったカーペットは新品の物に取り替えられていて、ガラスの破片も勿論無い。別のワインも用意されている程だ。部屋をぐるりと見回しその完璧さに当事者ながら満足そうに頷いては、さっさとスーツを脱ぎ部屋着に着替え。約半日程誰も居なかった部屋はひんやりとしている。『…“湯たんぽ”必要じゃないですか?』くるりと振り返り至極楽しそうに笑いつつ、数日前に相手が言った“メリット”の必要性を問うて )
( 明日の講義の準備をしている、と言い張ってアカデミーの教官室に泊まり込む訳にも行かない。結局相手と共にホテルの部屋に戻る事となり、渋々ながらも其れに従って。---“寒さ”は心身を不安定にする。身体の冷えは不調を引き起こすし、不安を煽られる事もあるのだ。相手の言う“湯たんぽ”は、謂わば“添い寝”のことを指しているというのは直ぐに理解でき「______要らない。」と一蹴して。其の後シャワーを浴びて身支度を整えると日付が変わる頃にベッドへと入る。昨晩の出来事が尾を引いて、1日あまり体調が良くなかったため今夜は早く休もうと考えて。 )
アーロン・クラーク
( 返って来る返事は100%の確率でわかっていた為『素直じゃないですねぇ。』と肩を竦めるだけで終わらせる。相手がシャワーを浴びた後に立て続けに浴室へと姿を消し戻って来た時には既に相手はベッドに横になっている状態で、掛け布団が僅か盛り上がっていた。その白い山を遠目に数秒見詰めてから何を言う事も無く再び浴室へと戻ると、傷みの無い金髪に生温い風を当て根元から確りと乾かして。__時刻はまだ日付けが変わってから然程経ってはいない。特別眠気も無い今、布団に入った所で結局天井を見詰める暇な時間を過ごす事になると思えば、眠る相手に近付きまだ少し湿っている様にも感じられる焦げ茶の髪に軽く指を通した後、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しソファへと身を沈めると、暇潰しとばかりに世界情勢や経済なんかのニュースをスマートフォンで読み進めて )
( 相手が浴室へと向かい扉が閉まる音を聞いてから目を閉じる。やがて戻って来た相手が自分の髪に触れた所迄は辛うじて意識があったものの、程なくして眠りに落ちていて。---しかし、穏やかな眠りは長くは続かない。元々体調が良くなかった事も影響してか、酷く鮮明な夢を見た。静寂に沈んだ幼稚園の一室、辺りは血の海で大勢が折り重なるようにして倒れている。その場に立っているのは自分だけで、他には誰も居ない。靴の先に何かが当たり視線を落とした先には妹が倒れていて______思わず伸ばした手で、指先で彼女の髪を撫でた感覚があまりに鮮明だった。彼女はひと目で命が無いと分かる青白い顔をし、美しい若葉色の瞳は闇を湛え暗く色褪せていて。それはいつか見た、あの写真と同じ姿だ。---血の匂いがした気がして、彼女の暗い瞳や髪に触れた感覚があまりに鮮明で、あの日の感情が呼び起こされた。妹をこんな形で失うなんて、側に居たのに助けられなかったなんて、彼女が今後二度と自分に向かって微笑み掛ける事がないなんて______あの日に感じた絶望と恐怖が襲い、飛び起きた時には呼吸は狂い涙が溢れていた。同時に飛び起きた反動で強い痛みが走り、思わず鳩尾を抑えて蹲る。痛みと恐怖と、どうしようもない不安。「_____っ、う゛…ッはぁ……あ、セシリア、っ……」思わず妹の名前を口にしたものの、浅くしか呼吸が出来ない事で息が苦しい。心臓を鷲掴みにされるような強い痛みのせいで身体を起こす事が出来ず、感情を掻き乱され涙が止まらなかった。 )
アーロン・クラーク
( __暇潰し予定だったスマホ弄りに何時しか熱中し目の奥の重たい怠さを覚えた頃。眠りに落ちる事は無くともそろそろ身体を休めた方が良いだろうと立ち上がった調度その時。呼吸にあわせて微動するだけだった白い布団が跳ね除けられる様に勢い良く捲り上がり、続けて飛び起きた相手の悲痛な嗚咽が静かだった部屋にやけに大きく響いた。真っ白なベッドの上で身体を丸め蹲る相手は明らかに悪夢に魘され目を覚まし、襲い来る過去の記憶や痛みに耐えようにも為す術が無くなっている状態だとひと目でわかる程。狂いそうな呼吸を懸命に抑え付け落ち着こうとする段階はすっとばした様だ。『__警部補、』やれやれと態とらしく肩を竦め近付き、名前を呼ぶと同時に特別な労り無く相手の身体を抱き起こすも、そこで漸く碧眼から止め処無い涙が溢れている事に気が付く。泣きじゃくる、と言う表現が間違いでは無い状態に何処か困った様に笑うと『そんなに泣いたら明日大変な事になりますよ。』勿論の事狼狽える訳でも無くまるで世間話をする時の様な語調で語り掛けつつ、それでも抱き起こした相手の身体を自身に凭れ掛からせる様にして軽く後頭部に手を添えて )
( 上手く力の入らない身体を相手に抱き起こされ、それに抵抗することもなく凭れ掛かるように相手に体重を預ける。胸が張り裂けそうな、と表現すべきか。言いようのない感情が胸の内に渦巻き、一時的なものであろうが少しでも気を緩めればこれまで何とか耐えて来たものが崩れ去ってしまいそうな恐怖感があった。妹の優しい笑顔を覚えていたいのに、血に塗れて思い出したくない姿ばかりが脳裏に焼き付いて離れない。つい先ほど触れたような気さえする柔らかな茶髪も、緑色の瞳も、見ることは叶わない。嗚咽を漏らしながが、どうしようもない喪失感を埋めたくて思わず縋り付くようにして相手の肩口へと自ら顔を埋める。今こうして身体が密着し体温を感じることの出来る距離が唯一、空虚な心を落ち着かせてくれるかもしれないと思った。喘ぐような呼吸は治らず、涙は相手の肩を濡らすばかり。強い痛みをなんとか逃がそうとするのだが一向に楽にならず、小刻みに身体を震わせながら相手に身体を寄せ。 )
アーロン・クラーク
( 鎮痛剤を服用していない状態で痛みがそんな簡単に治る筈も無く、脳裏に焼き付く過去の残像が消える筈も無い。正しく絶望の中に居る相手が今縋れる唯一の相手は目の前に居る自分だけだと言う優越感は気分を昂らせるには申し分無し。相手の碧眼から溢れ落ちる涙が肩を濡らし感じるその冷たさすらもまた気分の昂りを助長させるものだから、幾分も優しくなれるだろう。『可哀想な警部補。__俺にどうして欲しいですか?貴方がちゃんと自分の口で言えたら、叶えてあげますよ。』縋る様に身を寄せてくる相手の背中をまるで子供をあやす時の様にポン、ポン、と一定の感覚で軽く叩きながら耳元に唇を寄せて紡ぐは甘美な言葉。甘い毒を纏ったその言葉は今相手を甘やかす為だけに向けられ、痛みと苦しみの中、涙声で落とされるであろう要望をゆるりと口角持ち上げたまま静かに待つ事として )
( 酷く寒さを感じるのだが、それが部屋の温度によるものなのか、或いは埋める事の出来ない喪失感から来るものなのか、判然としない。ただ相手の体温を感じていたくて、相手の赦しが欲しくて、苦しみの中相手に縋った。「_____許してくれ……っ、側に、ッ…居て欲しい、」相手に余り見せた事のない、涙ながらの素直な懇願は、1人きりで絶望に突き落とされる事を怖がるかのよう。震えながら相手のワイシャツを掴み、必死にフラッシュバックの波に抗おうとして。今此の瞬間は、目の前の相手だけが拠り所なのだ。強い痛みに鳩尾当たりを握り締めるように抑え、浅い呼吸を繰り返しながら相手に許されたいと懇願して。 )
アーロン・クラーク
( 鳩尾の痛みに耐えながらも懸命に此方に縋り涙と共に落とされた懇願。それを聞き届け『えぇ、えぇ。勿論、俺だけが貴方を許してあげますよ。__此処には俺しか居ないですもんね。貴方が縋れるのは俺だけ。』それで良いのだとばかりに何度も頷けば“俺だけ”なんて、誰より一番許さないくせに息を吐く様にそんな嘘を、相変わらずの演技掛かった口調で紡ぎ。あやす様に背中を叩いていた手を離し、相手の鳩尾を押さえる手の内に滑らせる。今度は力を込め痛め付ける事はせずに親指を動かすだけの僅かな擦りながら『…痛いのは嫌ですよねぇ。…辛いね、警部補。』まるで確りと共感し相手の痛みに寄り添っているのだと思わせる言葉を。けれど直ぐに安定剤なり鎮痛剤なりを持って来ない辺り“そう言う事”だろう )
( 昨晩の記憶からか相手の手が鳩尾に触れると無意識に身体が強張ったものの、やがて直ぐに緩む。今はただ、相手が自分を“許す”と言い、寄り添う言葉を掛けてくれる事が救いのように思えた。1人ではないと思えるような。震えながらも相手に身体を預け、宥めるよう身体を摩る相手の掌の感覚に意識を向け、やがて少しずつ時間を掛けて身体の震えは収まっていったものの呼吸は浅く繰り返されて。 )
( ___クレアに背中を押され“頭より心に従う”のまま飛行機に乗りエバンズと再会し、刑事ではなくなった相手の調子の悪さを目の当たりにしながら何も出来ずワシントンからレイクウッドへと戻ったのがもう数週間前の事。その後エバンズが泊まるホテルの部屋にクラークが居候している事を知らぬまま更に数週間が過ぎた今日。鳩尾を押さえ引かぬ痛みに懸命に耐えるエバンズの姿が頭から離れず、“死”すらも身近にある気がしていた。何か__と思うのに距離的にも知識的にも、何もが無力に思え、出来る事は何も無いのだと嫌でも気付いてしまう。けれど放っておく事は出来ず考えた末が相手の主治医に連絡をし、症状の緩和方法や何時の日かレイクウッドに戻って来た時に出来る何かの話をしておく事だった。「……、」時刻は17時過ぎ。ソファに腰掛けた状態でスマートフォンを取り出し以前登録したアダムス医師の名前を押す。数コール後に声が聞こえれば「__お久し振りです、ミラーです。」と名乗った後「急に申し訳ありません。…エバンズさんの事で話がしたくて、」と、切り出して )
アダムス医師
( スマートフォンの画面に映し出されたのは、思い掛けない人物の名前だった。此処暫くは“彼”がレイクウッドに居ない事でやり取りをすることも無かった人物。『お久しぶりです、ミラーさん。」と穏やかに言葉を返すと、改めて自分たちが“アルバート・エバンズ”という1人の人間を介して繋がっている事を想う。彼の主治医と、彼の部下_______それぞれが接点を持つことなど普通であれば考えられないのだが、実際に相手とは幾度となく顔を合わせ、やり取りをして来たのだ。『…エバンズさんがレイクウッドを離れた事は、彼に電話を貰って少し前に知りました。ワシントンでは、ミラーさんも心配でしょう、』エバンズの事、と告げた相手の言葉にそう答えると、やはりそれだけの距離があり直ぐに駆け付けられない場所となれば相手も気が気ではないだろうと。 )
( 電話口から聞こえる声は久し振りに聞いたものなれど酷く安心出来た。それはきっと相手の事を人としても医師としても信頼しているからに違いない。落ち着いた穏やかな声に釣られる様にそっと落ちた吐息の後、続けられた言葉は思いがけないもので、胸中には安堵と不安が複雑に入り交じる。病院嫌い、医者嫌いのエバンズが自らの意思で相手に電話を掛けた事は安堵に繋がるのに、裏を返せば電話を掛けざるを得ない程に調子が悪いと言う事ではないのか、と。実際久し振りに会ったエバンズは明らかに顔色が悪く痩せても見えた。レイクウッドでは無かった鳩尾付近の痛みに耐える姿も見た。「__そうだったんですね。先生と話が出来て居たなら少し安心出来ました。」此方を気遣って寄り添ってくれる言葉に少しだけ口角を緩めるのだが、不安の全てが払拭出来た訳では勿論無い。「…あの、」と切り出した後「医師に守秘義務がある事は勿論知っています。でも少しだけで良いんです、エバンズさんと話した内容を教えて貰えませんか?…身体の痛みの事、もし何か言っていたら、」主治医と患者の2人の間に全く関係の無い自分が入り込む事は守秘義務は勿論プライバシーの侵害にも関わって来るとわかっている。それでも心に巣食う嫌な感じをそのままには出来なかった。“精神面”では無くレイクウッドでは見られなかった“肉体面”の不安を口にした事で、相手は己がエバンズと少なくとも電話なり何なりで会話をした事は察しただろうか )
アダムス医師
( 少し前、とは言ったものの彼から電話を貰いワシントンで会ってからもう半年は経っているだろうか。刑事としての仕事を継続しているようだったが、レイクウッドに居た時よりも少し痩せた印象を受けた事はよく覚えている。何より相手から、薬の効きが悪いのをなんとかしたいと、まるで助けを求めるように珍しく電話が掛かって来たのだから。相手の口から出たのは、彼が当時訴えていた体調面の不安と一致するもので、離れて居ても彼が相手に不安を吐露出来ている事に僅かながら安堵した。『______身体に痛みが出る事があって辛いという事は、確かに話していました。薬の効きが悪くなっているようだとも、』少し考えた後に、当時彼と話した内容について告げる。『近くの大学病院は、精神的なものから来る不調にはあまり対処が出来ないと、少し離れた病院を紹介されたそうです。殆ど足を運んでいないようでしたが…同じ薬の処方なら、近い病院で受けられると言っていました。』ワシントンでは抱える不調を、直ぐに誰かに相談する事が出来ない環境に身を置いている事に対して自分も不安を感じていた。身体の痛み、其れも鳩尾付近の痛みを訴える事が多い為に自分が抱いた懸念については、相手に伝えて仕舞えば不安を増長させるだろうと、直ぐに口にする事はせず。 )
( 相手の話を静かに聞き、時折1人相槌を打つ。ただでさえ病院嫌いのエバンズが紹介されたとは言え態々遠い病院に行く事は無いだろう。加えて人を良く見る彼は、同じ薬を貰いには行けど大学病院の良く知らない信頼出来ぬ医師に相談をしたりはきっとしない。だからこそ、彼が唯一心を許せて居る相手の居る場所__レイクウッドに戻る事が絶対的に良い筈なのに今はそれが出来ない。刑事では無い彼、あの時の屋上での出来事、捕まっていない犯人。もどかしさが襲う中で1つ小さく息を吐き出してから「…その痛みは精神的なものから来てるんでしょうか。…レイクウッドに居た頃は身体の痛みを訴える事がもっとずっと少ない__殆ど無かったと言っても間違いでは無かったと思うんです。ワシントンで今迄以上に身体にも心にも無理が掛かって出た症状なのか、」“或いは何か別の”と言う言葉を一度飲み込んでから「…エバンズさんには私から聞いたって事を内緒にして欲しいんですけど、彼は今刑事じゃないんです。」少しだけ落ちた声色で一言そう告げる。“刑事”で在り続ける事にエバンズがどれ程拘って居たかは昔からの主治医で“あの事件”を知る相手ならば容易にわかる事だろう。そしてその刑事を辞める事になった彼の心理状態もまた同様に。その事も身体の痛みに大きく関わっているのでは無いかと、原因を疑えばキリが無い状態で )
アダムス医師
( ______彼がもう刑事ではない、というのは想像もしていなかった事で思わず言葉を失った。あれほど刑事であり続ける事に拘り、多大な喪失と心の傷を負った事件の後でさえ1人で立ち続けてきた彼が。他の何を投げ打っても捜査だけは離れようとしなかった彼が、まさか刑事ではないなんて。ワシントンの地で何があったのかまでは分からないが、少なくとも一番に懸念するのは彼の体調だった。彼が何を言っても聞き入れて貰えないほどに“強制的な”人事異動だったのだとしたら、既に彼はとっくに限界を迎え、その事が周囲にも気付かれている状態だと考えるのは可笑しな事ではないだろう。『……てっきり、ワシントンでも刑事として働いているものだとばかり。エバンズさんが自ら刑事を辞める事は考えられない、となると…身体が心配ですね、』相手の言葉に同意しつつ同じ心配を口にする。相手の心配を増長させてしまうと一度は躊躇した彼の状態に対する自分の懸念は、真剣に向き合おうとしている相手には話すべきなのかもしれないと思い返し、息を吐く。『……実は、少し懸念している事があるんです。半年ほど前にワシントンでエバンズさんに会った時も、身体に時々出る痛みが辛いと言っていました。診察をした際、心臓の音に少しばかり雑音が混ざったのが気になって。』あの日の相手に様子を思い出しながら言葉を紡ぐ。『ただ、私が診察をした時は、発作を起こした直後でした。それが影響していた事を考えると心配し過ぎるべきではないでしょうが…精神的なストレスから不整脈が引き起こされるケースは実際にあります。今彼が刑事として捜査の第一線から離れている事を思うと、少なくとも体調は良くないのでしょう。きちんと検査をして、適切な管理下で休息を取るべきだと思います、』相手の不安を煽らないよう、穏やかな口調ながらそう相手に伝えて。 )
( 電話の向こう側で相手が息を飲んだのがわかった。「__きっと、とっくに限界なんだと思います。」溢れた言葉は決して諦めや投げ遣りなものでは言うなれば遣り切れなさが滲むもの。そうして続けられた言葉に今度は此方が言葉を失う事となる。鳩尾付近を押さえ痛みを訴える姿を見はしたがまさか心雑音まで症状として現れていたなんて。不整脈は適切な治療を受けなければやがて心不全……酷いと心筋梗塞にも繋がり兼ねない甘く見てはならない症状だ。此方の気持ちを汲み努めて穏やかな口調を心掛けながら話す相手の医師としての見解、意見、気持ちを聞き次の言葉までの間が空く。“適切な管理下での休息”それはつまり、ワシントン本部では無くレイクウッドに戻る事。此処に戻って来て、彼が唯一信頼出来ている主治医である相手の近くで身体も心も休める事だ。「……何が正解なのかわからないんです、」けれど、たっぷりの間を空けて落とした言葉は酷く不安定なものだった。「…刑事じゃなくなった事で身体に掛かる負担は格段に減ったと思います。遺体を見る事も無い、遺族の泣き顔を見る事も無い、心に掛かる負担もまた同じく減った筈。でも__贖罪の為に刑事で在り続けたのにそれが叶わなくなった今、今度は別の…もっと“無”に近い様な何かがエバンズさんの中にあって、次はそれがエバンズさんの心を壊してしまうんじゃないかって。__何が…どの道が、エバンズさんが一番楽でいられるんだろうって考えるんです。…そんなの私が考える事でも無いし、エバンズさんの人生なんだから、エバンズさん自身が決める事だってわかってるんですけどね。」エバンズと離れ、再び再会してまた離れる。その間に様々な事を考えた。ぽつ、ぽつ、と落とした心の内はどれも全て本音で燻り続けたもの。最後だけは少しだけ声に明るさを滲ませ、お節介な自覚はあると1人小さく肩を竦めてから「それでも__幸せになって欲しいんです、誰よりも。」願うのはたった1つ。誰よりも優しく繊細な彼の明るい未来なのだ )
アダムス医師
( 相手の言う通り、彼が無理を押して捜査に当たる事は医師としても見逃せない事で心配が募った。しかし同時に、“身体のことを考えて”という名目だったとしても彼が“生きる理由”にまでしていた物を奪ってしまえば、彼は進むべき道を見失ってしまうかもしれない。そうなってしまえば、彼の心が壊れてしまう可能性も十分に考えられた。『______エバンズさんは、刑事であるべき人だと私は思います。もちろん無理をしてまで捜査に没頭したり、心に負担が掛かる事が分かっている現場に赴いたりする事は許容できません。けれど……刑事であろうとする精神力が彼の軸となり、全てを支えている。それを無理やり奪ってしまっては、心が先に壊れてしまう。』刑事であるべき、だなんて苦しむ彼を前に医師が何を言っているのかと思われるかもしれないが、それが彼の軸になっている事は理解していた。『ワシントンの地は、彼にとっては酷でしょう。十数年では町は変わりません。事件があった時に目にしていたもの、歩いていた場所、ほんの些細な事がきっかけでフラッシュバックが起きる可能性は十分にあります。どれほど心身に負担が掛かるか…私としては、近くでケアが出来るレイクウッドで、非常勤から刑事の仕事に復帰するのが最善だと感じます。』_____本当なら、刑事としてあり続ける必要はないと、もう過去からは解放されて良いのだと言いたいのだが、彼はそれを決して受け入れない事は長い付き合いで分かっていた。 )
( 刑事かそうで無いか。“0か100”で決めるのが何も全て正解では無い。相手の言う通り刑事で在る為に居られる場所、働き方が必ずある訳で、それは紛れも無く此処レイクウッドだ。きちんと検査をして今ある症状を確認し、療養期間を設け、適切なタイミングで非常勤から最終的に刑事に戻る__それはエバンズが何と言おうと間違い無く最善と言えよう。「…エバンズさんが刑事に戻るその時、近くに先生が居てくれる事が何よりも安心出来ます。」ほ、と小さく吐き出した吐息に乗せた言葉は離れて居たとしてもエバンズと相手との間の糸が少しも切れて無い、緩んでもいない事に無意識に安堵したからか。__けれど、この場で自分達の意見が一致した所で“今”エバンズはレイクウッドに戻る選択をしない。刑事で居られない状態なのに本部に残り続ける理由の中の一つに己が絡んでいる事を知っている。「__先生、」と、一度相手に呼び掛ける。「1年程前、まだエバンズさんがレイクウッドの刑事だった頃…私が薬を打たれて数日入院したのを覚えていますか?」あの日、ビルの屋上で恐怖心を倍増させ幻覚を呼び起こす恐ろしい薬を打たれた日の事をまるで昨日の事の様に思い出しながら「犯人は“あの事件”の遺族で、まだ捕まっていません。エバンズさんが此処を離れた理由の一つに、その事が絡んでるんです。本人はそれを理由にはしなかったけど、犯人が捕まってない状態ではきっと戻って来ません。…あの時、私がもっと注意していればって、今更後悔したって遅い事はわかってるんですけど、」思わず口を付いた後半は、相手に言ってもどうしようも無い事。けれど、ずっとずっと悔やんで来た事なのだ )
アダムス医師
( 1年以上前、彼が突如ワシントン行きを決めた理由を初めて知る。相手に余計な危害が加わる事が無いように_____過去に取り憑いた亡霊から相手を覆い隠すように、離れる事を選んだのだろう。その不器用な優しさと、時が経っても尚、他に矛先がないがために恨まれ憎しみを向けられ続ける相手が不憫で、小さく息を吐いて。『…死んでいる者と生きている者、それだけの区別で怒りや憎しみと言った負の感情を向けられるのがエバンズさんだけなんて、あり得ない話です。』言葉にはやりきれない怒りが滲む。あれほど傷付き、苦しみ、それでも自分の使命を果たそうと必死に立ち上がる彼の姿を見ても同じ事が言えるのかと。『____ミラーさんが悔やむべき事ではありません。悪いのは犯人だけ。“あの事件”も、屋上での事件も同じです。』決して相手は悪くない、悔やむ必要は何も無いのだと諭した上で『……医師としては、取り返しが付かない程に病状が悪化する前に、レイクウッドに戻って欲しい。1人で苦しませたくないという、…医師らしくない行き過ぎた思いもあるかもしれません、』と少し困ったように笑って。けれど、彼が壊れてしまう前に、1人で苦しみの中を彷徨わなくて済むように、近くで彼を支える一手を担いたいと思ってしまうのだ。“あの事件”が起きてすぐの彼を初めてワシントンの病院で診た時から。 )
( __何時だってそうだ。“残った者”に悪意ある矛先は向けられる。例えそれが本来罰せられるべき相手じゃなくとも。大抵の場合自分は無実なのだと訴えるかそんな声も届かない場所に逃げてしまうだろう、けれどエバンズはまるで全ての棘のある言葉を被り、悪だと罵られる事を受け入れ、あまつさえ自身の罪だと心を痛める。相手の言う通り悪いのは犯人ただ1人だと言うのに。__電話口から聞こえる相手の言葉の端々に確かな怒りが滲んでいるのを感じ、心が共鳴する。スマートフォンを握る指先に僅かに力が篭もり爪の先がうっすらと白くなった。「私も同じ気持ちです。本来恨まれるのはエバンズさんじゃない。…身体や心を壊してまで耐える必要なんて、背負う必要なんて何処にも無い筈なのに、__逃げたって、本当は良い筈なんです。」声が震え、一瞬息が喉に引っ掛かったのを1つの深い深呼吸で立て直す。それから2、3深呼吸を続け、最後に力の篭っていた指先が緩んだ時、諭された言葉もまたすんなりと心に届いた。そして相手の思いも。だからこそ緑の虹彩には強い覚悟が灯る。「1日も早く犯人を見付けて逮捕します。…エバンズさんが此処に戻って来れるように__彼の中にある恐怖に私が少しでも関わっているのなら、ちゃんと排除したい。」犯人を逮捕する事、そうしてもう1つ。心にひっそりと決めた覚悟がある。「私がエバンズさんに見せた覚悟は、“傷付いても構わない”って言う自己犠牲だったんです。でも、その覚悟はエバンズさんをただ不安にさせて、余計な恐怖を生むだけだって気付きました。…独り善がりな“大丈夫”では、救えない事……気が付くのが遅いですね。」少しだけ自嘲気味た、けれど決して折れたりネガティブになった訳では無いのは揺るがない口調が物語るだろう )
アダムス医師
( 相手の紡ぐ言葉が、吐き出す息が震えた後に紡がれた言葉はとても前向きなものだった。彼の事を思い、行動しようとする姿からはいかに相手が、例え遠く離れたとしても彼の事を大切に考えているかが伝わるものだ。『…彼は、周囲の人が傷付く事を極端に恐れます。其れなら自分が傷付いた方がずっとマシだと______もう傷だらけなのに、我が身を差し出そうとする。それはきっと、大きな喪失を経験したからでしょう。どうか、彼の側に寄り添ってあげて下さい。物理的な距離が離れて居ても、心を寄せるだけでも良い。それと、ミラーさん自身も無理をしない事です。自己犠牲は互いの溝を生む結果になりかねませんから、』諭すように言葉を紡ぐと、今はレイクウッドに居ないエバンズに思いを馳せる。彼が少しでも心身共に穏やかに過ごせる事を願わずにはいられない。 )
__自分自身を犠牲にするエバンズさんを心配して、大切に思う人達がたくさん居るって事、何時か届くと良いなと思います。
( 彼の自己犠牲は間違い無く“あの事件”が引き金となったのだろう。その場に居たのに目の前で為す術なく10人以上を失いその中には幼い子供も大勢居た。そして彼が大切に思う妹も。大きな喪失感は例えどれ程の時間が経った所できっと完全に癒える事は無く、ふとした時に、ほんの些細な何かの切っ掛けで頭を擡げる。その度に彼は当時を思い出し1人また心を痛めているのだ。もう楽になっても良いのに、幸せになっても良いのに、未来を生きても良いのに。___「例えこの先何があっても、私の心は永遠にエバンズさんの側にあります。」相手の言葉に柔らかく微笑み言い切る。心が離れる事は無いと、そう言い切れる自信があった。途端に心には暖かな光が灯り脳裏には苦しむエバンズの姿では無い、たまに見る事のあるほんの僅か表情を緩める姿が浮かび、それがまた光の鮮明度を高めた気がした。「先生、」と、先程と同じ様に呼び掛けてから「エバンズさんは何時か幸せになれるでしょうか。」そう問い掛けたのは、エバンズの主治医で彼の事を長く真っ直ぐに見て来た相手からの安心出来る言葉が欲しかったからかもしれない )
アダムス医師
( 彼が抱えた過去でも肩書きでもなく彼自身の事を見て、優しい心を向けてくれる______そんな相手のような存在がエバンズには必要だとずっと思っていた。“あの事件”を経て心に張った厚い氷が少しでも溶け、誰かに開かれる事。心の痛みに気付き、抱え込んだ苦しさを少しでも打ち明けられる事が、前進するきっかけになると。相手からの問い掛けには『勿論、』と頷いた。『何度絶望に突き落とされても____彼は立ち上がろうとしています。…過去が消える事はなく、苦しみが消えるのには時間も必要でしょう。けれど、貴方は許されて良い存在なのだと伝え続ける事、彼が抱えた苦痛に寄り添う事、その小さな積み重ねは確実にエバンズさんを明るい所に引き上げていると私は感じます。特にレイクウッドに来てからは、暗く冷たかった瞳が優しくなった。“苦しい”と声を上げる事も出来るようになった。エバンズさんが笑えるようになって、薬も通院も必要なくなるまで、私も“主治医”として支えるつもりです。』レイクウッドに来て相手と出会ってからの彼の変化を感じていると優しい言葉で紡ぎつつ、医師としての決意も述べる。10年以上の付き合いだが、いつか彼が一切医者と接触する必要がなくなるまでを見届けるつもりだと1人微笑んで。 )
( “勿論”と、そう何の躊躇いも無く紡がれた言葉は心を包み込む柔らかな羽毛の如く不安を覆い隠す。そこに明確な根拠は無いかもしれないが彼を真っ直ぐに見て心を寄せてくれる“エバンズの主治医”と言うそれ自体が既に己からすれば何よりの根拠だ。苦しむ彼を前にして何も出来ない歯がゆさは募り、結局は無力な存在なのだと絶望しかけても、“寄り添う事”でほんの僅かでも彼の苦しみを和らげる事が出来るならこれ程嬉しい事は無い。相手の言葉は不安に駆られ霞んでいたその事を思い出させてくれる。__何故だか目頭が熱くなり、今は此処に居ない彼に無性に会いたくなった。「…私も全力でエバンズさんを支えます。」うっすらと濡れた睫毛を指の甲で軽く擦り、相手と同じ決意を告げた後、少しばかり思案する間を空ける。そうして思うのは“繋がり”だ。エバンズと相手は所謂患者と医師の関係で、患者側が治療を必要としなくなれば当然会う事は無くなる。それでも__「…通院が必要無くなった後も本当にたまにで良いんです、先生の仕事が落ち着いてる時や都合があえば__お節介な自覚はあるけど、エバンズさんとの繋がりが切れて欲しくないって思うんです、」“会って欲しい”と第三者の自分は声を大にしては言えないが、僅かでも良い、繋がり続けて欲しいと思うのは、遠くながら少なからず2人の信頼や絆の様なものを感じていたからか )
( 医師と患者の関係で無くなったとしても、関係は切らずに居て欲しいという相手の言葉に微笑む。一方で『…その時は、エバンズさんが私を友人と認めてくれれば良いのですが。目の敵にされている可能性もありますからね、』彼の望まない事ばかり口煩く促す事になる医師という立場を引き合いに、冗談めかして。電話口の相手の声は当初よりも明るく穏やかなものに変わっていて、少しでも不安を拭えた事に安堵する。また必要があればいつでも電話して欲しいと伝えてその日は電話を終え。---ワシントンで変わらず教官としての仕事を続けていたエバンズは、休みこそ取れるようになったものの相変わらず身体の痛みと悪夢には悩まされる日が続いていた。そんな中、思いがけず“あの日屋上でミラーに薬を打った犯人が捕まった”という一報を聞く事となり。再び相手に危害が加わる事をずっと恐れていただけに、それは心から安堵できる、待ちわびた報告だった。同時に、結果として逮捕までにこれ程時間を要した事を思うと、早々にレイクウッドを離れた自分の判断は間違って居なかったと思えた。現に犯人が逮捕されたのはワシントン内だったのだから。 )
警視正
( ___1年以上逃げ回っていた犯人2人組がワシントン市内で逮捕されたと言う報告は直ぐにレイクウッドの刑事課にも伝わりミラーを含めた大勢の警察官が安堵と歓喜に沸いた。それから数週間と経たずしてエバンズの代わりに警部補として赴任して来ていた男性が再び異動になった事で、レイクウッド署の警部補の役職に空きが出た。次の警部補候補を……と考えた時、ウォルター警視正の脳裏を過ぎったのは紛れもなく【アルバート・エバンズ】その人。本部の警視正からエバンズの今置かれている状況は告げられている。一度は此処を離れたもののその理由も知っている。そうしてその理由の内、大きく占める1つの“事件解決”は数週間前の犯人逮捕の一報で叶ったのだ。何も迷う事は無いと、ウォルター警視正が電話を掛けたのは本部で。___レイクウッド側の警視正から連絡を受け、その内容を書き留めてから向かう先はエバンズが働くFBIアカデミー。腕時計に視線を落とし、この時間ならば座学も全て終わり後は翌日の準備だけだろうと生徒の少ない廊下を進み一室の前で立ち止まる。数回ノックをし中から相手の声が聞こえると扉を開け『…ご苦労。暫く顔を出せなくて悪かったな。』と労いの言葉を掛けた後、『大切な話しがあるんだが、今時間は空けられるか?』早々にレイクウッド側からの報告を伝え、相手の気持ちを確認する為にこの後の予定を問うて )
( レイクウッドに戻る事は出来ないと以前相手に伝えた時、其の大きな理由は犯人が野放しにされていた事だった。しかし犯人が逮捕されたからと言ってレイクウッドに戻るという単純な話でも当然なく、教官として講義を淡々と進めるばかりで生活が大きく変わる事はなく。---その日の座学を終え教官室で教材に目を通していた時、不意に扉がノックされ入室を許可する。学生だろうと思ったものの、立っていたのは本部の警視正で、驚いたように立ち上がり。大切な話、と言われて思い出すのは此処への異動を命じられた時の事。教官の職さえも辞するようにと告げられたら自分には何も残らないと、自然と其の表情は僅かばかり固いものになるのだが、頷く事で相手の言葉を促して。 )
警視正
楽にしてくれ。今回はそう悪く無い話だ。
( 驚きに立ち上がった相手に座って構わないと促し自分も相手の目前の椅子に腰掛ける。それから相手自身は気が付いて居るのか、恐らく無意識だろう表情が僅かに固くなると対照的に口角を僅かに持ち上げた緩い笑みを浮かべ、ある種の警戒心の様な感情をおさめて欲しいと。そうやって相手と向き合う形で1つ息を吐き、瞳に真剣な色を携えてから『__1年程前にレイクウッドで君とミラーが関わった事件の犯人が逮捕された事は既に知ってるな?』先ずは数週間前に漸く逮捕された2人組の犯人の話を前置きに、『数日前、ウォルター警視正から直々に君をレイクウッドの警部補に、との打診が来た。前任の警部補は既に異動になったらしく、今空きのある状態だそうだ。…勿論今の君の状況も知っている。__以前同様すぐに警部補として現場に立つのでは無く、向こうできっちりと検査をし身体を休めながら…所謂“非常勤扱いの警部補”と言う形での戻りになるが__君はどうしたい?』電話でウォルター警視正から告げられた内容を静かに話していく。最後に相手が自分の考えを、気持ちを、答えやすい様にと再び表情を緩めて )
( 警視正が口にしたのは思い掛け無い言葉だった。ウォルター警視正が自分を再びレイクウッドに警部補として呼び戻したいと打診して来たと言うのだから。再び刑事に戻れると言うのは願っても居ない事だったが、迷いなく返事をする事は出来ずに一瞬開きかけた口を噤む。確かに犯人は逮捕されたが、自分がレイクウッドという小さな町に居る事で再びあのような事が起き周囲に迷惑を掛ける可能性はゼロではない。同時に此処数ヶ月はまともに捜査にも出ず、座学の講義をするばかり。時間に余裕ができ、無理をする事さえ無くなった訳だが身体の調子は良くない。その状態で、まともに警部補として勤務する事が出来るのかという不安も拭いきれず、自分を呼び戻すばかりに警部補が非常勤では迷惑も掛かるだろう。見栄っ張りな性格ゆえ、本部でまともな功績も上げず再び出戻る事への気まずさのようなものも僅かばかりあっただろうか。「_____とても有難いお話です。…再び刑事として働けるのは願ってもない事ですが、本当に良いのでしょうか。…何処で、どういう形であれば迷惑を掛けずに居られるか_____正直、今警部補として期待されるだけの働きが出来るかどうか、」と珍しく弱気な言葉を紡いで。けれど、此れを逃せば二度と刑事には戻れないかもしれない。それだけは避けたいという思いもあり、言い淀む。一度全てを失いかけた自分には勿体ないほどの話だからこそ、受けたい気持ちこそあれど即答する事ができなかった。 )
警視正
( 真っ直ぐに見据えた相手の碧眼は僅か不安定に揺らいだ気がした。刑事で在る事に拘る相手からすれば唐突に訪れたこの機会は当然逃せられないものの筈だが__何故だろうか、途中長い間が空きはしたが昔から見て来た相手の事、素直に頷く事が出来ないでいるのが手に取る様にわかってしまった。即答出来ず様々な事を考え身動きがとれなくなっている相手に軽く首を振る。『迷惑が掛かると思っているならこの話すらあがって来ないだろ。…それに、ウォルター警視正は最初から何もかも完璧に警部補としての勤めを果たして欲しいとは思っていない。だからこそ“非常勤”と言った筈だ。__焦らなくて良いんだ、エバンズ。君の帰りを待って居る人達がレイクウッドに居て、後は君が“今”どうしたいかが重要だ。』一言一言、静かに語る様に紡ぎながら、相手の口からたった一言“戻りたい”との言葉を待つ最後、『__堂々と警部補席に座ってろ。』と、余りに簡単に聞こえるかもしれないが、そう重く捉えすぎるなと言う意を込めた言葉と共に、口角を器用に持ち上げた笑みを浮かべて見せて )
( 完璧な警部補で在る事を求められている訳ではない、と相手は言った。別の誰かを据えれば非常勤からのスタートになる事もなくよりスムーズに事は運ぶだろうが、其れでなくとも良いから戻って来ないかと打診されている______それは身に余るほど有難い事だ。“自分がどうしたいか”。意識が途切れそうな苦痛に耐える間、懸命に呼び起こすのは全てレイクウッドの記憶だ。車窓を流れる緑はワシントンの中心部にはない。湯気の立つ紅茶が入ったマグカップも、此方ではあまり使わなくなっていた。本部よりもずっと小さな建物も、執務室に掛かっていた風景画も、出張先で見たステンドグラスも、緑色の瞳も。その全てが、夜の暗闇の中であっても自分を正しい場所に引き戻す。「______レイクウッドに、戻らせて下さい。」再び相手を見詰めた瞳に不安定な揺らぎはなく、いつも通りの光が宿っている事だろう。レイクウッドは自分にとって“戻りたい”場所だ。「本部に来たいと我儘を聞いて頂いたのに、申し訳ありません。」正に我儘を聞いてもらった相手には何も恩を返せずに再びの異動となる事を謝罪する。けれどもう一度刑事として、レイクウッドで働ける事は間違いなく喜ばしい事だった。 )
警視正
( 暫しの間の後、此方を真っ直ぐに見た相手の瞳には先程までの不安定な揺らぎは無く見慣れた光がチラついた。__言うなればそれは“刑事”である事の光か。久々に見た気がする意志のある相手の瞳を見詰め返し、言葉を聞き、至極満足そうに頷けば『あぁ、勿論だ。君の返事は今日中にウォルター警視正に伝える。…此方の引き継ぎの事は何も気にせず、準備が出来次第戻って構わないからな。』相手が気にするであろう此処での業務や代わりの教官の事は何とでもなると先に伝える。実際此処の教官は相手が思う以上に沢山居るのだ。立ち上がり扉に歩みを進めた時に続けられた謝罪にも、返す返事は決まっている。振り返ったその瞳に浮かぶ色は優しく、『謝る必要は無い。__あぁ、そうだ。署員達は最後に飲み会を開くと言うだろう、ちゃんと出席してやってくれよ。』不甲斐無さも、罪悪感も、何も感じる必要は無いと。相手の活躍を遠く応援していると言葉にはせずとも伝わるだろうか。最後に少しだけ肩を竦め軽い口調でそう伝えた後は、今度こそ部屋を後にしその足で直ぐに自室へと戻りレイクウッドで返事を待つウォルター警視正へと電話を掛けるだろう )
( 二度目のワシントンでの生活は大変な事の方が多かったのだが、間違いなく人には恵まれた1年半だったと言えよう。---その後は教官として使っていた教材や入校証やらを返却し、引越しの準備が始まった。引越しとは言え、本部の執務室は既に明け渡している上、ホテル暮らしをしていた為大きな家財道具も無いのだが。其れと時を同じくして、レイクウッド署ではウォルター警視正が“周知すべき決定事項”を伝える為に刑事課に訪れていた。『皆、聞いてくれ。ドリー警部補の異動に伴う後任人事が決まった。後任は本部から、来週には着任する予定だ。厳しい事で有名だが、腕は確かだ。』一時的に空席となっていた警部補の座に着任する人物について淡々とその人物像を紹介しつつ、不意に笑みを浮かべて。『_____エバンズ警部補、と言えば分かるな。』フルネームで紹介せずとも皆分かるだろうとフロアを見回す。一瞬沈黙が広がったのち、直ぐにエバンズが戻って来ると理解した署員たちによって騒めきが大きくなる。サプライズが成功した事に1人満足げな様子だった警視正は、相手と視線を合わせると笑みを浮かべ、片目を閉じて見せた。 )
( ___ドリー警部補が異動し刑事課が纏まらなくなった、忙しくなった、と答える署員は正直な所居ないに等しいだろう。それ程迄に言ってしまえば“難ある人物”だったのだ。彼が異動し空席となっていた警部補専用の執務室に明かりが灯る事は無く再び主人を失った部屋は冷たい空気の中に包まれていたのだが。__その日は突然訪れた。刑事課フロアに来た警視正が皆を集めて告げたのは当然誰も予想すらしていなかった事。周りの騒めきが何処か遠く聞こえ、棒立ちのまま警視正をただ見詰める事しか出来ない。隣に居たアンバーが震える声で『良かったね…っ、ベル。本当に良かった、』と、珍しく抑えられない感情のままに此方の心に寄り添ってくれたのだがその声すらもすんなり入って来ない程の衝撃だった。__報告を終えた警視正が刑事課フロアを出てから数分、後を追うようにして小走りに向かった先は警視正が戻った専用執務室。ノックの後入室を許可する声に部屋へと入れば開口一番「…さっきのあれ、確定ですか!?エバンズさんが戻って来るって、」渦巻く様々な感情を懸命に抑え付けようと努めるのだが、端々に何処と無く興奮の滲む声色で今一度、確りと聞きたいのだと )
ウォルター警視正
( バタバタと足音がして部屋にやって来たミラーの第一声に頷くと『あぁ、正式に決まった事だ。本部での手続きは全て滞りなく終わったと聞いている。』と伝えて。良かったな、と付け足すと、抑えきれない感情が覗く相手の肩をポンポンと叩いて。『レイクウッドに戻る事を打診したのは私だが、意向を確認した所エバンズからも“戻りたい”と好意的な返事が返ってきた。…住居を整える為に、そろそろレイクウッドに戻っていてもおかしくないな。』彼も此処に戻りたがっていたと告げつつ、早ければそろそろレイクウッドに着いている頃かもしれないと。彼が相手も含めレイクウッド時代の知り合いには何も言わずに異動の準備を進めている事は知っていた。この場所に愛着を持っていた事がバレるのが気恥ずかしいのか、これほど喜んで歓迎する者が居るというのに頑なな態度だと肩を竦める。『_____皆にはまだ伝えていないが、初めは非常勤で勤務して貰おうと思っている。私も向こうでの事は聞いている、きちんと身体を休める時間が必要だろう、』と告げて。 )
( 肩を軽く叩かれ漸く深く息を吐き出す。__戻って来るのだ、やっと、約1年半待ちに待った上司が。彼自身が“戻りたい”と言ったのならそれはもう疑う事の無い決定事項だろう。「…ありがとうございます…っ、」相手からの打診が無ければ彼はずっと本部に居続ける選択をした筈だと思えば感極まった様子で頭を下げて。着任は来週からかもしれないが、既に彼は此方での住居の整えや諸々の準備の為に戻って来ているだろうとの事。飛行機に乗らずとも会いに行ける距離に彼は居る、今直ぐ電話を掛けて会いに行きたい気持ちを飲み込み、少しばかり真剣な口調で続けられた言葉を聞き届け頷けば「此処には警部補が信頼する主治医も居ます。…どんな形であれ、私を含めた署員全員が、警部補が戻って来る事を歓迎しています。」“エバンズさん”では無く、普段上司や他の署の人の前で彼を呼ぶ時の呼び名で言葉を返す。それは確りと落ち着きを取り戻した事の証明で。この打診の話を相手が持ち出した時、フロア内は大きく響めいたものの、その何処からも溜め息や不満があがる事は無かった。それはきっと、萎縮したり厳しく怖い上司だと思う事はあれど皆がエバンズの事を認め少なからず信頼を置いているからだろう。___部屋の壁に掛かる時計の針は16時20分を指していた。警視正に今一度深々とお辞儀をして部屋を出る。途端に一度は抑え込んだ気持ちが溢れ、それが視界を滲ませるのだがこんな所で泣いていては擦れ違う人達に心配を掛けるだけだと深く深呼吸をし仮眠室へ。内側から鍵を掛けて取り出したスマートフォンで電話を掛けるのは勿論エバンズその人にだ )
( 警視正の読み通り、ワシントンで世話になった人たちに礼を言いスーツケースと共に飛行機に乗り込んだのは朝の事だった。ジョーンズも自身の復帰を喜び、また応援でレイクウッドに行った時には食事に付き合うようにと笑って送り出され。---一度不動産屋と連絡を取り、以前住んでいた部屋には既に別の人が住んでいる事だけ分かったものの、内見もしていないため家を決める事はしていない。仕事に使う物は直接署に送り、その他の私物は全てスーツケースの中に入っていた。ホテルに泊まり、週末にでも家を探せば良いだろうという考えでチェックインしたのがつい先ほどの事。長距離移動というのはやはり疲れるもので、1階のコーヒーショップで珍しく温かいカフェラテを購入しソファに身体を預けて。窓の外に広がっているのは、懐かしいレイクウッドの景色だ。ちょうどスマートフォンが着信を知らせ画面を見ると、表示されていたのはミラーの名前。警視正から聞いたのだろうと思えば、電話に出る。「______そういう事になった、」事前の報告もなく第一声が其れかと怒られそうなものだが、そうひと言。「また世話になる。」と伝えて。 )
( ___何が“そういう事になった”だ。電話口から聞こえた相手の第一声は何の説明も主語も無い、此方が警視正から何も聞いていなければちんぷんかんぷんなもの。出て行く時も帰って来る時も事前報告一つ無いそれが相手らしいと言えばらしい気もするが。「…それ、通じるの私だけですから。」感極まった感情も引っ込み誰も居ない仮眠室で1人肩を竦める。やれやれと吐き出した溜め息も、2人だけの会話なのに使った態とらしい敬語も、結局向ける相手が彼ならば絆されてしまうのが道理か。僅かの沈黙を置いて次に吐き出した吐息は呆れの溜め息では無く安心から出たもの。それに釣られる様にして表情は微笑みに変わり、そうなればもう行動は早い。相手が今居るホテルを聞き、会いたいからと指定した時間に外に出ていて欲しいと一方的に要求して電話を切る。__その日の仕事を全て終わらせ署を出たのは17時を少し過ぎた頃。車を走らせホテル入口に車を停めたのは約束の時間の少し前。既にそこには相手が立っていて、姿を見ると助手席側の窓を開け僅かに身を乗り出し「__乗って。一緒に夕飯食べよう。」と告げて )
( 勝手に予定を決めるなと言いたい所だが、わざわざ飛行機に乗ってワシントンまで来させた借りもあるというもの。それに飛行機に乗らずとも約束をすれば直ぐに顔を合わせる事の出来る距離になったのだから。約束の時間にホテルの前に立っていれば見慣れた相手の車。夕食を食べるとは思って居なかったものの、助手席に乗り込めばシートベルトを締める。久しぶりな筈だったが、相手の車も、運転席に座る相手も、助手席から眺める景色も何も変わっていない。それが妙に安心出来るのだ。「_____そんなに腹は減ってない。」と、再会を喜ぶでもなくあくまで“普段通り”の言葉を。しかし車が動き出す前に、小さな紙袋を相手に渡す。「最後のワシントン土産だ。」中に入っているのは、以前相手が訪れた時にも買ったドライフルーツやナッツの入ったチョコレート。それだけ相手に押し付けると、おとなしく窓の外に視線を向けて。 )
( 助手席に座る頭一つ分以上違う相手。背凭れを倒していない時は真っ直ぐに背筋が伸びていて高潔たる姿なのも、シートベルトを締める時の間横から見る顔付きの端正さも、見慣れていた筈の全てが無性に懐かしく思えて再び湧き上がる感情の波を誤魔化す様に小さな咳払いを一つ落とし。相変わらず食事に興味の無い相手は例えお腹が空いていたとしても後回しにするか、適当な物で腹を満たすだけだろう。久し振りの再会にも関わらず何処か素っ気なくすら聞こえるその“らしさ”に微笑み「お腹が減ってなくても食べたくなるものだよ。」と、何故か自慢げな言葉を返し出発しようとするのだが。__ふいに差し出された小振りの紙袋はその絵柄に見覚えがあった。中を覗き込めばこれまた見慣れた箱が入っていて、相手の言葉で記憶が一致する。こうして好みのチョコレートをお土産として買って来てくれると言う事は、少なからず相手の中に己の存在が居ると言う事ではと自負するのは都合が良すぎるだろうか。隣に視線を向けるも既に相手は窓の外に顔を向けていて、その表情を伺い見る事は叶わない。けれど心に灯った確かな喜びと幸せな気持ちを抱え「__ありがとう、エバンズさん。大切に食べるね。」と、素直なまでの感謝の言葉を送り緩む口元をそのままに車を走らせて。__相手は何処かのお店で夕飯を食べると思っただろうか、だとしたらそれは間違いだ。車を停めた先は自身の部屋のあるマンションで。「…着いたよ。」エンジンを切り共に降りるのだとばかりににこやかな笑みを送れば、相手の前を歩き先に部屋の鍵を解錠して )
( 窓の外を流れる景色には緑が多く、ワシントンのように人通りこそ多くないものの安心出来る懐かしい風景だった。車が見覚えのある場所を走っていると気付いたのは、車が停まる少し前の事。案の定停車したのは相手のマンションの駐車場。「______お前の家で食べるのか?」と、想定外の場所での夕食について相手に尋ねたものの、促されると車を降り相手の後を歩いて部屋へと向かい。相手の部屋を訪れるのは久しぶりの事だったが、変わらぬ空気感に安堵したのも事実。レイクウッドを離れる前は、この部屋で相手と共にテーブルを囲み隣で眠った事が何度もあった。恐ろしい夢を見ても、苦しさに喘いでも、この場所なら安全だと思えたのだ。ソファに腰を下ろし見回した室内は、所々インテリアが変わっているくらいで大きな変化はない。その見慣れた、温かみのある部屋は心を落ち着けた。 )
そうだよ。ポトフだったらお腹減ってなくても少しは食べられそうでしょ?
( その問い掛けで矢張りお店での夕飯が頭にあったのだと確信を得る。一度振り返り頷く事で肯定を示し。__1年半程前は比較的多いペースで此処を訪れていた相手。その多くは決して相手からの申し出では無く此方が今日の様に夕飯に誘ったり何の理由が無くとも“お泊まり”をしたいと言い仕方無さそうに“好きにしろ”と言われたからだ。基本的な家具の配置は変わっていないものの、調理器具として圧力鍋が増え、棚も増えた。ソファのクッションも古くなってしまった為新調してついでにカバーもお店で一目惚れした北欧雑貨に良く使われる様なポップな、それでいてゴチャゴチャしている訳では無い花柄模様を選んだのが数ヶ月前の事。__「何か__、」“飲む?”と言葉は続かなかった。ソファに腰を下ろす相手のその姿が余りに久々で、でも何故か不思議と遠い懐かしさは無くて、有り得ないのにまるで何時も当たり前に居た様な気さえする中。嗚呼、戻って来たんだ。そう確りと心に落ちた時、何を考えるよりも早く足は動いていた。相手の傍らまで歩み寄り、隣に腰掛ける様にして回した腕は背中へ。そのまま何か言葉にする事は無く肩口に額を押し付ける。__ふ、とエバンズは幸せになれるかと聞いた時のアダムス医師の“勿論”と言う即答の返事を思い出した。非常勤からの始まりは100%相手の望む形では無かったかもしれないが、それでも再び刑事として立つ事が出来るし、主治医が近くに居る此処に戻って来れた。此処からきっと、少しずつ、実感するのが難しい程小さな歩幅かもしれないが確実に進んで行ける筈だと。そしてそれはきっと“幸せ”に続くと信じたい。良かった、本当に良かった。言葉にする代わりに回した腕に僅かに力を込め、渦巻く様々な感情が溢れ返る事を防ぐ為にきつく双眸を閉じた時、瞳を濡らしていた涙が睫毛を湿らせたのがわかった )
( 不意に相手が此方にやって来るのが見えて顔を向けた時には、相手に抱き竦められている状態だった。背中に回された腕はいつもより力強く、肩口に顔を押し付けられると暫し行き場を失い静止していた腕をやがて相手の背中へとそっと回して。上司という立場上“寂しい思いをさせた”というのは少し違うだろうが、何も説明せず一方的に距離を取ったのは確か。「______悪かった、」落とした謝罪の言葉は何に対するものか。多くを語らぬままレイクウッドを去る決断をした事に対してか、1年半前相手を危険に晒した事に対してか。「此処で、もう一度やり直す。」続けたのは自分自身の決意とも言えよう。ワシントンで崩れてしまった様々な均衡をもう一度整えて、刑事としてしっかり立っていられるように。非常勤からの復帰には不甲斐なさも感じるものの実際に今はそうせざるを得ないというのも自分で理解している。無理が効かない程に体調は思わしくないもので、戻って来て早々に迷惑をかける訳にはいかないという思うからも受け入れざるを得ない提案だった。「……本部では、何も上手くいかなかった。」溢れたのは胸のうちにずっと抱えていた思い。自分で希望して異動したはずが、功績を上げる事は愚か足を引っ張るばかりで、早く務めを果たさなければと思うのに身体がついていかずに焦りばかりが募りずっと苦しかったのだ。やるせない思いのまま相手の肩口に顔を埋めると深く息を吐く。けれど。レイクウッドに戻った以上“今度こそは”しっかりとやらなければならないと。 )
( 鼻腔を擽る柔軟剤の香りは“良く知った物”では無い。きっとホテルのコインランドリーの柔軟剤の香りなのだろう。___何とも言葉に出来ぬ、それでも間違い無く悪い物では無い感情を落ち着けるのは何時だって相手の体温か。背中にそっと回された腕は酷く安心出来て、続けられた主語の無い謝罪に漸く顔を上げる。至近距離で見る相手の瞳は変わらず美しいと感じる碧で。「何も謝る事なんて無いよ。…でも、帰って来る時くらい一言あっても良かった筈。」先ずは首を軽く左右に振る事で謝罪に応え、続けて少しだけ文句を口にするのだが、裏腹に瞳に揺れる柔らかな色と、穏やかな声色で本気で怒ったり悲しんだりしている訳では無いと伝わるだろうか。__“もう一度やり直す”、それはとてつもなく大きな決意に聞こえた。一度全てを失い掛けた相手だからこそ、次こそはと感じるその重みが違う筈。けれどそれは表裏一体の危うさも孕んで居ると感じていた。だからこそ己の肩口に顔を埋めた相手の後頭部を優しく、優しく、何度も撫でながら、溢す様に落とされた思いに「__此処にはエバンズさんの力になりたいって思う人達が沢山居る。勿論私もその内の1人ね。…エバンズさんが抱えるものを一緒に持ちたいし、それを迷惑だなんて少しも思わない。…1人で全部抱えて無理をしたら、また上手くいかない事が出て来ちゃうかもしれない。だから、“もう一度やり直す”為のお手伝いをさせて。」静かに、諭す様に、相手は1人では無いのだとその心に届く様に言葉を連ねて。一度浅く息を吐き出した後、「……エバンズさん、」と呼び掛けて続けたのは「私が“あの事件”の関係者に傷付けられる事、怖い?」との言葉。そんな事態々聞かなくたってわかる問いながら、そこには余りに真剣な色が纏われていて )
( レイクウッドに戻る事を伝えなかったのは、一重に後ろめたさのような物が拭いきれなかったからだ。レイクウッドに戻りたいという思いは確かにあったが、本部での役割も満足に果たさず、自分が望む仕事が出来る場所へ犯人が逮捕されたというだけで戻ることを決めた事は、自分の中で胸を張れる事ではなかった。けれど報告すべき事だったとは理解していて「……そうだな、」と頷くに留めて。相手は“やり直す”為にまた躍起になってしまう自分の性格をよく理解している。完璧を求めて、現実とのギャップに焦って無理をする、その負のスパイラルに陥りかねないことをよく知っているからこその言葉だと思えた。呼びかけに相手と視線を重ねれば、真っ直ぐに投げ掛けられた質問に少し言い淀む。「_______怖い、」やがてひと言だけ、嘘偽りのない肯定をすると「近くに居るからという理由だけで、必要のない悪意がお前に向くのは堪らなく怖い。」と、素直なまでの感情を紡いで。 )
( 沢山の時間を掛けて相手が紡いだのは気持ちに素直な嘘偽りの無い肯定だった。その真っ直ぐな恐怖を聞き届けて浮かべた笑みと共に小さく頷いた瞳には“覚悟”が宿る。髪を梳く様に撫でる手は止めぬまま「__…ずっと考えてた。エバンズさんが“怖い”と思うその中に私が居るのなら、私自身でちゃんとその恐怖を無くしたいって。__私が言う“大丈夫”は、傷付いても構わないっていう独り善がりな覚悟だったよね。その言葉でエバンズさんが安心出来る筈なんて無かったのに、気が付けなかった。…余計に怖い思いしたね。」“ごめんね”と付け足し、静かに相手の後頭部から手を離す。それから「…此方見て、」と呼び掛け、顔を上げた相手と瞳が重なったのならば、優しく、穏やかに微笑んで見せて。「___エバンズさんが抱える恐怖を少しでも消す事が出来るなら、この先の捜査で一緒に組む事が無いように警視正に頼んでも構わない。」“あの事件”に関係する人が己を狙うとしたら、それの多くは相手と共に捜査をする姿を見て“バディ”だと判断するからだろう。聞き込みで、テレビで、どうしたって2人一緒に居る姿は世間に出てしまう。先ず自分が出来る目先の事はそれだと、真っ直ぐに告げた言葉には少しの揺らぎも無く )
( 相手が大丈夫だと言う度に胸の奥が微かに騒めいたのは、其れが自己犠牲にも似た覚悟だと感じていたからだろう。けれど相手は、自分が恐怖を感じるのなら捜査を共にしない決断さえ辞さないと、あまりに真剣な表情で。けれど其れは、自分のエゴで相手の刑事としての成長を妨げる事になりかねないとも思うのだ。「…俺の個人的な感情で、お前の刑事としての仕事に影響を与えたくはない。______俺を安心させるためだけには、その言葉を使わないで欲しい。違和感や危険を感じるような事があれば、正直に話してくれ。嫌でも俺に世間の目が向くような時は、俺も距離を取るようにする。…それ以外は、お前の好きにして良い。」ソファに座ったまま、どう話すべきかと言葉を選びながら想いを言葉にする。危険は避けたいが相手の行動を制限するような事はしたくないと。 )
( __何時かの日、怪我をした己を見た相手が恐怖を感じた時と似たような状況だと思っていた。捜査に出す事を躊躇いデスクワークを上に打診したのは相手なのだとクレアから聞いたあの日。相手の恐怖を取り除く為に暫くは捜査に出ず相手が望んだ通りの仕事をすると決めた時と同じ。けれど今回相手が言葉を選ぶ様にして紡いだのは過去の記憶とは少しだけ違うものだった。此方を見る碧眼を真っ直ぐに見詰め、時折小さく相槌を打つ。それから一度大きく頷いた後「……わかった。」と誓った約束は、この先相手の感情を守る為だけに捜査を別にすると言わない事、何かあった時は隠す事無くちゃんと報告する事。何が、どの行動が相手の心を守れるのかは相変わらずわからないが、嫌がられ無い内は相手の近くに居続けよう。__パッと表情を明るいものに変え相手から離れる様に立ち上がると「ポトフ作るね。やっと圧力鍋買ったから直ぐ出来るよ。」主張する様にキッチンに置かれている真新しい圧力鍋を一瞥してから料理に取り掛かり。__ただの鍋で作っていた時より半分の時間で出来上がったポトフは、優しい香りを引き連れた。柔らかく煮込まれた野菜と小振りのウインナーが黄金の汁の中に沈む。2人分の器に盛ってそれぞれの椅子の前にセットすれば、最後にミネラルウォーターを注いだグラスも置いて椅子に腰掛け。「エバンズさんの記憶にある味のままだったら良いな。」1年半以上振りに出したポトフ、最後に食べた時の味を食に興味の無い相手が覚えてるとは余り思えないがそう微笑んで )
( かつて自分のエゴで、相手の成長の機会さえも奪わんとしてしまった事があった。自分の恐怖を取り除く為に相手を制限し犠牲にする事など、あって良いはずがなかったのに。_____本当は“大丈夫”な筈がない状況で、自分を安心させる為だけに無理やり紡がれる“大丈夫”の言葉は、結果として互いの不安に繋がってしまうからこそ使って欲しくない。相手を守る事、レイクウッドでの生活を守る事、それは自身を取り巻く特異な環境を思えば容易な事ではないかもしれないが、必ず成し遂げなければならない事だ。---相手が作るポトフ、それは記憶にあるよりもずっと早く、あっという間に食卓に並んだように思えたのだが其れは間違いではなかったらしい。食欲がない時でも暖かく食べやすい相手のポトフの味はよく覚えていた。スプーンを手に一口口に運ぶと「……美味いな、」と称賛の言葉を贈り。以前食べたものよりも柔らかく、くたっと煮られた其れはより味が染みて美味しく感じられた。「柔らかく煮込まれてる、」と付け足して。 )
( 銀のスプーンで救われた野菜が湯気と共に相手の口に運ばれる様子に不躾ながら視線を外す事無く。数回の咀嚼の後に紡がれたのは素直なまでの称賛の言葉。“美味い”とたった一言でもこれ程迄に嬉しいだなんて。緩む口元を引き締める事もせずに「買って正解だった。おかわりもう少しあるから、食べたかったら言ってね。」少しの照れ隠しも含め己は圧力鍋への僅かな称賛を滲ませ、脂がじんわりと溶け出たスープを胃に落として。___向かい合い食事をする優しくて無性に懐かしく感じる時間が静かに過ぎる中、ふ、と思い出した様に口に運び掛けたスプーンを器に戻す。「そう言えば、」と前置きの後「此方での家ってどうなってるの?もう部屋の契約済んでる?」先程迎えに行った場所は署の近所にあるビジネスホテルだった為、今はまだそこに居るのだと思うが何時までも、と言う訳にはいかないだろう。ワシントンに行く前に住んでいた部屋が空きになっているかはわからないが、どうするのかと )
( あまり量は食べられないと思っていたのだが、やはり相手の作るポトフは食べ易いからだろうか、もう少し食べたいと思えば皿に半分ほどの量を追加でよそって。其れをゆっくり口に運びつつ、不意に相手から問いを投げ掛けられれば顔を上げて。「…内見する暇が無かったから、契約は未だしてない。前の家は既に住人が居るらしい。一旦あそこのホテルに連泊して、少し落ち着いたら週末にでも不動産屋に行こうと思ってる。」部屋探しの状況を伝えつつも、不動産屋に幾つか見繕ってもらうつもりで居る為か、然程真剣にネット上で部屋を探している訳でもないようで。 )
( 再び湯気の立つポトフが相手の器に盛られたのを見て口角は持ち上がる。お腹は減っていないと言っていたがこれだけ食べて貰えたら感無量だ。だらしなく緩んだ口元を頭を下に向けスプーンを運ぶ事で自然と隠し。___矢張りワシントンに居る間にある程度の目星を付け契約まで…は進んでいなかった様だ。加えて以前住んでいた部屋は既に埋まっていて一からの状態で仕事と並行しながら探すとなれば、幾ら不動産屋を間に入れるとしたって手間だろう。「だったら、部屋が見付かるまでの間一緒に住むのは?それなら変に急いで探さなくて済むだろうし。」ぽっと出の思い付きではあるが、まるでとてつもなく良い提案だとばかりに、そうして少しの躊躇いも無く極自然に言い放ち、軽く立てた人差し指で床を指しつつ“此処で”と付け加えて )
( 相手の提案に意表を突かれ、相手を見つめたまま数度瞬く。宿代は浮く事になるだろうが、それ以前に部下の女性の部屋に居候するというのは如何なものか。深く考えれば、一晩泊まったりこうして家で夕食を共にしたりすること自体が“上司と部下”という関係性からは既に逸脱しているのだが。仮に自分が本部の刑事という肩書きであれば、まだ泊めて貰うという事のハードルは下がるだろうが、同じ職場で_______そんな事を頭の中で考え、言葉を紡ぐ事なく相手を見つめる事数秒。「それは……色々不味いんじゃないか、」と、なんとも曖昧な返事をする。そもそも数分前には捜査を一緒にしなくても構わないとまで言っていたのに、今度は泊まれば良いと、何の躊躇もなく床を指差されると此方が戸惑うではないか。「ビジネスホテルでも不便はしない。」と答えて。 )
( 意表を突かれた様な、驚愕を纏った様な、滅多に見る事の出来ない表情。あ、懐かしい顔。だなんて呑気に考えながら暫し言葉を紡ぐ事が出来ず見詰めて来る相手を同じく見詰め返し。時間にしたら凡そ数秒程だったかもしれない、漸く口を開いた相手は何とも歯切れの悪い曖昧な返事を寄越した。それに緩く首を傾け「もう何度も“お泊まり”してるんだから今更でしょ?それにほら、現在進行形で手料理も食べてる。」“不味い”だなんて欠片も思わないものの、相手が不味いと感じているだろう数々は既に過去に何度もあったと、それを象徴する単語を態々紡ぎ、一度相手の目前にあるポトフに視線流しつつ、相変わらずの躊躇いの無さで答え。「不便はないかもしれないけど、此処でだったら2人で持ち帰った仕事ゆっくり出来るよ?ホテル代も浮くし。…エバンズさんが1人になりたい時はそっちの部屋に閉じ篭れば良い。__駄目?」確かに相手の言う通りホテルに不便はしないだろう。ルームサービスを頼めばご飯は食べられるし、部屋の掃除もついて来る。けれど“此処”ならではのメリットもある筈だ。敢えて仕事の話も交え、相手のプライベートを守る話も付け足す。そうやって最後、あくまでも此方の望みの様に控え目に相手の表情を伺う聞き方は少し狡いだろうか )
( 相手の言う通りである事は間違いない。“手料理”と言われて指し示された手元の皿に、釣られるように視線を落とすと言い逃れの出来ない状況に言葉に詰まる。今更“不味い”なんて言った所で、これ迄の“実績”があるのは否定しようのない事実だ。本来居候させてくれと頼む側は此方のような気がするが、相手は此方の様子を窺うように首を傾げた。「泊めて貰えるのは助かるが……、」と歯切れの悪い返事をしつつ、数日なら構わないだろうかとも思う。家が決まるまでの間だけ。誰に問い詰められ言い訳をする訳でもないのに、そんな免罪符を探して自分を納得させようと。 )
( 本当に駄目な時、嫌な時、相手はこんな風に曖昧で歯切れの悪い言い方はしない。“助かる”とまで口にしたのに最後の最後を越えられずまるで何かを探す様な酷く彷徨う様子は、長く長く絡みついた相手自身の性格の一部だろう。「__ずっとじゃない、エバンズさんの納得する家が見付かるまで。」今一度部屋の契約が完了するまでの期間限定の共同生活なのだと言う事を強調し、相手の心にある躊躇いを払拭する布石になればと。それからもう一押し。「…数日間だけでも構わないから、エバンズさんと一緒にご飯を食べて、一緒に眠りたいな。朝起きた時に“おはよう”って言いたい。」と。これは相手を納得させる為だけでは無く100%自分自身の願いだ。上司と部下、確かにそうではあるし傍から見れば行き過ぎではあるだろうが近くに居たかった。「…困らせてる?」再び相手の様子を伺う様に、けれど小さくはにかんで見せて )
( 相手が紡いだ要望と続いた問い掛けには「_____困らせてはいるな、」と否定する事なくひと言。けれど、家が決まるまでの間だけ。自分にとっても悪い話ではなく断る理由はない。「…家が決まるまで、泊めてくれ。」暫しの沈黙の後にそう答えて。レイクウッドに戻ったばかりで、未だ色々な不安は付き纏う。1年半前とは状況が変わっている事も多いだろうが、この場所が安心できる場所である事は確かなのだ。以前に増して夜中に目を覚ます事が増えている為、出来れば寝る場所は別々が良いのだが相手は許さないだろうか。「…ソファで寝ても良いか、」と、控えめに尋ねて。 )
( 今度は“そんな事は無い”などと言う曖昧な返事では無く否定の無い言葉が返って来た。こう言う時の返事は早いと何故だか無性に可笑しく感じられて思わず小さく笑うのだが、その後直ぐに“期間限定の共同生活”が決まれば「なるべくゆっくり探してね。」と、少しでも共に生活する時間を長引かせる為の要望をちゃっかり告げ。「明日にでもホテルに置いてある物持って来なきゃ。」そうと決まれば行動は早い方が良い。ホテルのお金を払っている以上今日は帰って一夜を過ごさねばならないだろうが、明日からは戻る必要が無い。「足りない物は後で買えば__、」すっかり冷めてしまった残り僅かのポトフを口に運びつつ、まるで気持ちだけが先走る様に饒舌に紡いだ言葉が途中で途切れたのは、相手の落とした控え目な要望を拾ったから。___良いわけが無い。スプーンを片手に目前の相手を見詰める。何故相手がソファで寝るのを望むのか、それがわからない程浅い付き合いをしてはいないし、控え目な言葉には確かに絆され望むならと頷きたくもなるのだが。「…駄目。」返したのは拒否。「エバンズさんが本当にソファで寝たい気分の時は良いよ。でも、夜中に私を起こす事を危惧しての要望だったら駄目。」と、次は拒否の理由も確り付け加え、真剣な、けれど何処か穏やかで諭す様な口調で以てそう答えて )
( 相変わらず相手は全てお見通しだ。自分がソファで寝たいと言った理由も説明が無くとも理解して、その上で理由までもを告げている。長く1人で夜を過ごしていた為、誰かが近くに居る事に今は慣れていない。痛みに耐える時、其の物音や身じろぎで相手を起こしてしまう可能性は大いにあるのだが、相手は其れでも構わないと。拒否の言葉とその理由はあまりにも核心を突いていて、気まずそうに口をつぐみ何を言うこともないまま少しだけ残っていたポトフのスープを飲み干して。「…今日は荷物がホテルにあるから帰る。明日チェックアウトしたら荷物を置かせてくれ。」自分で始めた寝る場所の話は引っ込めた上で、明日の予定を伝えて。 )
( 相手はそれ以上眠る場所の話を深掘りしなかった。代わりに明日の予定の話に切り替えるものだから勿論其方の話を進めよう。「じゃあもう少ししたらホテルまで送るね。明日は仕事休みだから、チェックアウトの時間に迎えに行く。…前に置いて行ったスウェットはあるけど__必要な物があればついでに買いに行こう。」互いの器が空になったのを見て水を一口飲んでから食器類をシンクに下げる。相手に背を向ける形でそれらを洗いながら話を進める中で出たスウェットを相手は懐かしいと感じるだろうか。それともまだ持って居たのかと呆れるか。何方にせよ“大切な物”として洋服棚の奥に畳まれ仕舞われているそれは、年単位で光を浴びてはいない。洗い物が終わり濡れた手を軽く拭いてから振り返る。「コーヒー飲んでから帰る?」と、問い掛けたのは、明日からほぼ一日中顔を合わせると言うのにまだもう少し一緒に居たいと言う現れか )
( そういえばこの家には、自分がいつ泊まっても良いようにとルームウェアが置かれているのだと思い出す。チェックアウト後に必要なものの買い出しに行く事を了承すると、続いた問い掛けに頷いて。「…あぁ、貰う。」やがてカップに入ったホットコーヒーが出てくると、暖かいそれをひと口口に含む。仕事が終わればホテルで眠るばかりで、ゆっくりとコーヒーを飲むのは久しぶりな気がした。ワインこそ常備していたが、部屋で楽しむ為のインスタントコーヒーはいつからか買わなくなっていた。カップの中の湯気が立つ水面に視線を落としつつ、息を吐き出して。 )
( ___友人達と食事をする事も、同僚と食事をする事もあった。勿論話には花が咲き楽しい一時を過ごせて居た事は間違い無いのだが、相手と共に食べる食事は…こうした時間は、楽しさの他に溢れ返る程の安心感や幸福感を連れて来る。何を話す訳じゃなくとも同じ空間に居るだけで幸せなのだ。何時もより少しだけ砂糖とミルクを多く入れた甘いホットカフェラテを飲みながら「……お帰りなさい、エバンズさん。」と無意識に言葉が落ちた。___それから少しの間部屋でゆっくりとした時間を過ごし相手をホテルに送ったのが夜10時前の事。翌日、チェックアウトを済ませた相手と荷物を車に乗せて向かったのはレイクウッドでは比較的大きめのショッピングモールで、此処ならば基本的に必要な物は揃える事が出来るだろう。「先にドラッグストアかな。…私が使ってるシャンプーそんな甘ったるい匂いじゃないけど、エバンズさん専用のを買っても良いかも。」自分達は休みであるが今日は平日、そこまで混雑している訳では無いお店の中をゆっくり歩きながら、後は歯ブラシ、タオルも数枚、スキンケア用品や余り想像出来ないが髭剃りも予備の様な物が必要なのだろうかと想像を巡らせて )
( ---相手に促されるままにやって来たショッピングモール。確かに生活するには色々なものが必要な訳だが、ワシントンでのホテル暮らしが長かった為か何が必要か直ぐに思い当たらない。相手の挙げた物は確かに必要だと、ドラッグストアへ。今はシャンプーにも大量に種類がありどれを選べば良いのかさっぱり分からない。かと言って余りに適当に選ぶと、髪が纏まらず朝から整えるのに苦労する事になる為シャンプーの並ぶ棚を見上げる。手にしたのはシンプルで透け感のある紫がかったブルーのパッケージ。男性向けにしては少しばかり甘めの香りだろうか、穏やかなフラワーベースの落ち着いた香りで、主張しすぎず使いやすそうだ。「これにする、」とカゴに入れ、歯ブラシなども合わせて入れていき。 )
( 色とりどり様々な種類のシャンプーが並ぶ棚を見上げる相手を隣からこっそり盗み見る。言い方は悪いが余りにまじまじと見詰めれば視線に敏感な相手の事だ、眉間に深く皺を寄せ怪訝を纏った不機嫌そうな声で見られて居る理由を問うて来るに違いない。__相手が選んだのはシンプルながら綺麗な配色のパッケージのシャンプーとコンディショナーでカゴに入ったそれに視線を落とす。男性物のシャンプーの香りの想像は出来ないが興味はあると言うもので「…私も一回だけ使ってみて良い?」と好奇心からの問い掛けを。続いてどうせ此処まで来たのだからと自分が普段使っている物の詰め替えや足りなくなっていた物を追加し、会計に並ぶ直前。先程の顔を出した好奇心はまだ引っ込んで居なかったのか「__好奇心からの問い掛けなんだけど、髭ってあんまり生えないの?」控え目に見上げつつ、何とも唐突で阿呆らしい質問を。向けられる表情の予想は着くがこの際わからない事にしよう )
( 男性用のシャンプーを女性が使う事で髪がごわついたり、という事は無いのだろうかと思うものの「好きにしろ、」と答えて。しかし場合によっては纏う香りが同じという状況が起き得ると思えば「…使うなら休みの日にしておけ。」と釘を刺して。必要なものをカゴに入れ会計に並ぼうとしている時、唐突に隣から投げ掛けられた問いには眉間に寄った皺を隠そうともせず、怪訝そうに相手に視線を向ける。そうして「_______お前の好奇心は5歳児並みなのか?」と、皮肉をぶつけて。 )
( 返って来たお決まりの“好きにしろ”への懐かしさを胸に頷くのだが、ふと何かに気が付いた様に付け足された言葉に一瞬理由がわからず不思議そうな顔をし__「何か悪い事してるみたい。お互い独身なのにねぇ。」相手の言わんとしてる事を理解し次は納得の頷きと共にまるで独り言を呟く様な声量で楽しげに肩を竦めて。もしかしたら“期間限定の共同生活”に向けた準備を己は自分で思ってた以上に楽しみにしているのかもしれない。素直に認めた好奇心で向けられた表情は矢張り予想していたものと僅かの違いも無かった。予想していなかったのはその皮肉。一度ぱちと瞬き直ぐに態とらしく片眉を上げて見せると「わぁ、1年半聞きたくて堪らなかったのがやっとだ。」語調までもを態とらしい棒読みで、まるでこの遣り取りを楽しむ様に皮肉を返し。そうこうしている内に店員に呼ばれ会計は終わる。ドラッグストアを出て身体の向きを変えると「…部屋着とか下着ももう少し買っておく?あの本屋の奥がメンズの店だけど、」入口に男性用の服を身に纏うマネキンが立つ店に視線を向けて )
( 互いに独身で付き合っている相手がいる訳でもない。何の問題もない状況にも関わらず、確かに相手の言う通り後ろめたさのようなものを感じるのはやはり本来の関係を超えた行動をしている自覚があるからだろうか。気まずい表情を浮かべただけで相手の言葉に返事をする事はなく。ドラッグストアを出て相手の示す先に視線を向ける。洗濯をするにしても、数日に渡って泊まるとなればもう少し数があった方が良いのは確か。「…少し買って来る。お前も好きに店を見て来い、終わったら連絡する、」メンズ用の店では相手も退屈するだろうと、自分が必要なものを見繕っている間に好きな店を見て来るよう促す。然程時間は掛からないだろうから終わったら連絡すると伝えて。 )
わかった。…あ、もしフェイスタオルに使えそうなのがあったら一枚買っておいても良いかもしれない。
( 部屋着や下着は多かった所で特別困る物では無いと言うのは共通認識だろうか。確かにメンズの洋服店では欲しい物が見付かる事も無いと思えば軽く頷き、恐らく手頃なタオル類も売っている筈だと一枚だけ買って欲しいと伝え目的地を本屋へと。___相手がメンズの洋服店に入れば入口付近に居た若い男性の店員が笑顔で挨拶をした。何かお探しですか?、これなんか似合いますよ。と客が要求してもいない事をマニュアル通り喋りながら後ろを着いてくるタイプの店員では無く、ただ笑みを絶やさず必要な時にだけ手を貸してくれる様な。___店の奥、部屋着が売られているコーナーには20代前半くらいの若い男女が話をしている。彼氏の部屋着を一緒に選ぶ彼女はやたらポップな部屋着を勧め、彼氏は困った様に笑っている。ふ、と女性の視線が相手に向き、その目がわかりやすく大きく見開かれた。それに釣られ男性も相手を見、何か良くないものでも見たかの様に視線を泳がせる。そうして2人更に身体を寄せ、囁く様な声で話す内容を相手は聞き取れるだろうか。『あの後ろの…雑誌で見たわ。ほら、アナンデール幼稚園で起きた事件の。』女性がそう言い、男性が数回頭を動かし『有名人だからね。…誰だって知ってるさ。』と )
( 相手の言葉に頷き店に入ると、目当ての物が売られているコーナーへと。奇抜なデザインでなく着やすい物であれば何でも構わないと思いつつ並んでいるルームウェアを見ていると、前方から視線を感じた。一度視線を持ち上げると、20代くらいのカップルだろうか、男性が慌てたように目を逸らした後声をひそめるようにして会話をしているのが聞こえて。向けられた視線も、声量を落として自分について話しているあの空気感も覚えがあるものだ。その様子から、自分の事を言っているのだと直ぐに分かる。事件が起きた直後、惨劇の起きた幼稚園を出た時から同じ視線に晒されて来たのだから。______ワシントンでは、人混みに紛れる事が出来た。人口も多く大勢の人が行き交う街では自分に注目が寄せられる事は殆ど無かったのだが、此処はレイクウッドだ。小さな町で、しかも“現在はレイクウッド署に勤務している”とまで丁寧に書かれたあの週刊誌を読んだ者は、当然印象に残っている事だろう。カップルを視界に入れないように本来の目的である自分の買い物に戻ろうとするのだが、一度意識してしまうと途端に居心地の悪さを感じてしまう。誰が自分を見ていて、あの事件の関係者だと噂され、白い目を向けられているか。過敏になっているだけだと頭では理解していても、一挙手一投足を見られているようで。シンプルなルームウェアを1着、然程吟味することもなく手にするとその場を離れ、相手に頼まれていたフェイスタオルをカゴに入れると真っ直ぐにレジへと向かい。 )
( 適当なルームウェア一着を手に取りレジに向かう為に背を向けた相手のその背中にカップルは視線を投げた。ヒソヒソと声を潜め話す内容は先程から変わらず、夕飯の話や折角のデートなのだからもっと別の楽しい話をすれば良いものの、一度“あの事件に関係する刑事”だと気が付くと話題はなかなか別に移らないのだろう。___レジに立つ店員が相手のカゴを受け取り会計を進める。ピ、ピ、とバーコードをスキャンする度に規則正しい小さな電子音が鳴り金額が表示される。何時の間にか目当ての物をカゴに入れた先程のカップルが少し離れる様にして距離を置き相手の後ろに並んで居た。『合計で15ドルと50セントになります。』全ての商品を打ち終わった店員は、笑顔で合計金額を告げる。相手の目を真っ直ぐに見て笑みを絶やさないのだが、その表情を、視線を、今の相手はどう感じるだろうか )
( 疑心暗鬼というのは恐ろしいもの。2人の様子をきっかけに、突然周囲にいる皆が自分を白い目で見ているような感覚に陥る______此れは精神的に負荷が掛かっている時特有の感じ方だと、いつか精神科医に言われた事がある。その状態が長く続き抜け出せなくなれば、いつしか妄想に取り憑かれて攻撃的にさえなってしまう、と。頭では分かって居る、精神的にも不安定で自分が過敏になっているだけだという事は。けれど_______目の前の店員は此方を見つめ、愛想の良い笑みを崩さない。側から見れば好印象な彼の表情はが、今は自分を嘲笑っているように思えて思わず“そんな目で俺を見るな”と口走りそうになる。可笑しいのは間違いなく自分だと分かっているのに、分かっていても、現に自分の目にはそう見えるのだから。唇を噛む事で口を突きそうになった言葉を押し留め、支払いを済ませると足早に店を後にする。その足でトイレに向かうと、精神安定剤を一錠水で飲み込んで。些細なきっかけで、嫌な記憶が蘇っただけ。大丈夫だと自分に言い聞かせるも、人の多いこのショッピングモールを一刻も早く後にしたかった。 )
( ___本屋を適当に見て回り、その隣の雑貨屋で可愛らしい木目調の平らなお皿を2枚買った後スマートフォンを確認するも相手からの連絡はまだ無い。珍しく随分と真剣に選んでいるか買う物がそんなに多いのだろうかと少しの疑問を抱きつつメンズの洋服店に入り店内を歩くが相手の姿は無く、レジに並んでいる様子も無い。もしかしたら買い物を終えた相手は連絡をする前に己を探しに違う店に行った可能性もあると思えば、一度店を出て再びスマートフォンを取り出し。相手の状態を知らない為“今どこ?”とメッセージを送ってから店の前、行き交う人達が休憩出来る様にと置かれているベンチ型の長椅子に腰掛け返事を待って )
( 発作が起きるような体調の悪さを感じていた訳ではなかったが、自分を落ち着かせ冷静になる時間が必要だった。精神科医の言う“妄想に取り憑かれた”状態になる訳にはいかない。同時に男子トイレの中は人の目を避ける事ができ、少しばかり不安な気持ちを取り除く事の出来る場所だった。スマートフォンにメッセージが入った事で相手を待たせている事を思い出すと、少ししてショッピングモールのフロアに戻る。周囲を行き交う人と視線が合う事が怖く、僅かばかり視線を床へと下げて先ほどの店の方へと向かえばベンチに座っている相手を見つけて。「_____悪い、遅くなった。」と告げ、必要な物を購入出来た事を伝えて。 )
( 相手にメッセージを送った後、長椅子に腰掛けながら先程買った袋を覗き込み中の木目調の皿を見る。これで2人の食事を作る更なる楽しみが出来たとお気に入りの物が買えた事に再度満足そうに笑みを浮かべていると、何処かへ行っていたのだろう相手が歩いて来て目前に立った。「__全然。寧ろ私の方が遅くなってゴメンね。」遅れた事への謝罪を受け首を左右に振る。メンズ店に相手の姿が無かった事を思えば何方かと言えば相手の買い物の方が早く終わっていたのだろうと。そうして次に必要な物を買い揃える為立ち上がり__「…少し疲れた?」距離が近付いた事で相手の表情が少しばかり疲労を纏っている様な気がして歩みを進める事をせず。心做しか目下の隈の色も濃くなっている気がするのだ。「あっちに休憩スペースあるし、何か飲もう。」気遣う様な言葉と共に一度だけ背に触れて。その間にも相手の視界には行き交う沢山の人達が映る事だろう。時には家族連れ、時には先程の様なカップル、そうして本来相手には害の無い筈の子供が何と無しに相手に視線を向けて )
( 相手の気遣いは有り難いのだが、身体は言う事を聞かず立ち竦んだままだった。休憩スペースはちょっとした軽食やドリンクを楽しめる場所でもあるため大勢の人がいるだろう。こうして相手と話している間にも、たくさんの視線が自分に注がれヒソヒソと声が聞こえるような気がして心が騒つく。そんな目で見るなと、叫びたくなるのだ。「______ミラー、」と、立ち上がった相手を呼び止める。その瞳には言いようのない不安が渦巻いているだろう。「…先に、車に戻っていても良いか。」自分の買い物に来ておきながらと思いはするのだが、此処にこれ以上居たくない。誰の目にも触れない場所に居たいと心が訴えていた。 )
( 背に掌を宛てがい休憩スペースまで促すのだが相手はその場から動こうとはしない。不思議にそうに表情を伺い見て__思わず緑の虹彩に驚愕が散った。褪せた碧眼は何処か不安定に揺れ、それが適切な表現かはわからないがまるで迷子になってしまった幼子の様な不安を纏っている。それから見え隠れする何に対するものかわからない恐怖の色。ただの疲労や人混みに居た事による疲れならばこんな目はしない筈だ。離れていた間に何かあったと考えるのが妥当だが、何にせよ今は相手が望む様に此処を離れるのが先決だろう。申し訳なさを感じない様に、なんて事無いのだと思える様に、緩く笑みを浮かべながら一度自分の持つ袋を軽く持ち上げ「私も欲しかった物買えたし、今日はもう帰ろう。後足りない物が出て来たらその時買えば良いしね。」一緒に帰る事を告げては、次は休憩スペースとは反対方向の出口がある方へと促す様に軽く背中を押して )
( 相手が自分の訴えに直ぐ応じてくれた事に安堵する。ショッピングモールを出るまでにも何人もの客とすれ違い、その何気ない筈の視線が刺さるように感じられて身体が強張った。更に運悪く、駐車場へと向かう途中に先程の店で会ったあのカップルと鉢合わせる事となり。彼女の方が先に気付き彼氏の袖を軽く引き、言葉こそ発さなかったものの決して好意的とは言えない何処か冷ややかな視線を向けた。「______何か?」たったひと言、けれど鋭さを宿した視線のままカップルに向けて言葉を掛ける。無視を決め込む事ができれば良かったのだが、何を見ているのかと声を荒げなかっただけでも自分を収める事が出来たと言えよう。 )
( ___相手の様子はショッピングモールに来た時とは明らかに違った。まるで早くこの場所から居なくなりたいと切望するかの様に歩みは早く小走りで隣を歩く事になったのだが。駐車場に向かう道すがら、無言だった相手が口を開いたかと思えば鼓膜を揺らしたその声は余りに低く重たい響きを纏っていて、思わずそれに驚きに双肩が持ち上がる。何も言ってない、目を白黒させそう言おうと思い__その言葉が自分に言われたものでは無いと理解した。相手の鋭い視線は此方では無く前に居るカップルに向けられていて、言われた張本人の2人は何処か焦った様にも見える表情で停めてある車の方まで小走りに去って行った。一連の出来事の全てが全く理解出来ず、傍から見ると喧嘩を売ったと思われても可笑しくは無い相手の行動に困惑した状態のまま共に停めてある車に乗り込んで、そこで漸く隣に座る相手に顔を向けると「……あの人達に何かされた?」と、問い掛ける。その瞳は相手とはまた違う不安定さに揺れていて )
( レイクウッドが小さな街だという事を忘れた訳ではない。けれど、何故普通に過ごしているだけで後ろ指を指され、蔑んだ視線を向けられなければならないのか。被害者を“助けなかった”と軽蔑の言葉を向ける者全員に、あの時の状況がどういうもので、何故救えなかったのか、既に亡くなった刑事たちも含めどれほど尽力しようとしたか、其の全てを詳細に話して聞かせたくなるのはあまりに横暴な考えなのだろうか。半ば逃げるようにしてその場を立ち去った2人に向けるのは、やるせなさの浮かぶ苦しげな視線。やがて視線を外し車の助手席に座ると、問い掛けに押し黙る。何をされたのかと聞かれれば、何もされてはいない。危害を加えられた訳でも、直接暴言を吐き捨てられた訳でもなく______ただ此方を見て、声を顰めて話をされただけだ。「……不躾な視線に耐えられなかった、」とひと言だけ答える。其れを理解して貰えるかは、正直な所分からなかった。やり過ぎだ、気にし過ぎだと言われる可能性も十分ある。何も喧嘩を売るような横柄な真似をしなくても、と嗜められる事も考え、視線は既に窓の外に向け相手と合わせようとはせずに。 )
( 容疑者の聴取をする時や署員がとんでも無いミスをした時、先程の様な鋭い視線を向ける事はあれど恐らく面識の無いカップル相手に急にあんな態度をとる事は普段ならば無い筈だ。だからこそ困惑し思わず狼狽えてしまった訳だが。___此方を見る事もせず窓の外を見詰めたままの相手は暫しの沈黙の後、その理由を短く答えた。“不躾な視線”、それはアナンデール事件の後から相手が幾度となく晒されて来た視線の事だと直ぐにわかり、同時に相手があのカップルに会ったのは先程のが二度目だったのだと推測する。週刊誌か何かで“あの事件”の事を知っていた2人が偶然買い物をしている相手を見付け、好き放題悪意ある視線を投げて寄越したのだろう。唐突な相手の態度の理由がわかった瞬間、次は困惑では無く深く安堵した。それは理由が判明した事による安堵ではなくほんの僅かかもしれない、もしかしたら今日はそう出来ただけかもしれないが確かに相手は“小さな一歩”を踏み出せたと思ったからで。「__そっか。」と、答えてから伸ばした手で数回相手の肩を擦る。そうして嗜める事はおろか何処か満足そうに、嬉しそうに笑うと「ちゃんと怒ったんだね。」先程の相手の態度は正しかったとある意味肯定する返事をし、やっとエンジンを掛けて )
( 怒りを露わにした事を肯定されるとは思わず、視線はハンドルを握る相手へと向いて。過去の事件について”考察“し、自分の意見を持つ事はそれぞれの自由であり誰にも止められない。だからこそ自分に対する批判に対しても、其れを受け入れ受け流す事が正しいと思っていた。その上”視線“などという証明のしようがないものは、感じ方次第だと言われても仕方がないと思っていたのだ。けれど相手は自分の怒りを否定しなかった。妄想だとも、過敏になっているだけだとも言わない。その事に安堵し、ポツリと言葉を落とし。「______一度気になると、全ての視線が怖くなる。全員に白い目で見られているようで……そんな事、あるはずがないのに。」この一件で気持ちはかなり張り詰めていたものの車の中は落ち着いていられる空間で、深く溜息を吐いて。 )
__そう感じてしまう程、長い間そういう視線に晒されて来たって事だよね。…ずっと、1人で耐えて来たって事。
( 視線を合わさぬ様意図的に窓の外に顔を向けていた相手が此方を見たのを感じ、一度だけ相手と視線を合わせ微笑むと再び運転に集中するべく真っ直ぐ前を見直して。___“あの事件”で大勢の教諭や園児達が命を落としたのは、あの場に居ながら何も出来なかった自分のせいだと、助ける事が出来なかったのだから世間から、遺族から、どれ程責められ傷付けられてもそれは仕方の無い事で全て甘んじて受け入れると矢面に立って来た相手は、自分自身が気が付かぬ内に少しずつ、少しずつ、その心を殺していったのだろう。最初は感じていた筈の痛みにすら蓋をし、重りを括り付け暗い闇の中へ落とし続けた事で何時しかその痛みにも気が付く事が出来ない程に麻痺し、涙を流す事も出来なくなった。その相手が時折苦しさを口にする様になったし、今はやるせない気持ちや燻った怒りの様な感情を僅かかもしれないが表にも出した。___やがて車は住宅街に入り、マンションの駐車場へと停めると、「片付けは後にして、ちょっとゆっくりしよう。」と伝えつつ、共に部屋へと入り )
( あの事件で取り返しのつかない”失敗“をした自分たちは責められて当然だという罪悪感にも似た思いが、あの場にいた全刑事たちの中に根深く残ったと言っても過言ではないだろう。その思いに縛り付けられ、誰も声を上げられず批判に晒され続けた。一度は心に蓋をして感じなくなった痛みややるせなさが、少しずつ湧き起こるようになっているのは自分でも感じていた。気づかなければ楽だと思うのに、苦しいと感じてしまう。---相手と共に部屋に戻ると、静かな空間にようやく気持ちが幾らか落ち着くのを感じた。同時にかなり気を張っていた為か重たい疲労感に襲われ、ソファに座るとそのまま身体を預けるようにして息を吐き。此処には軽蔑するような視線も、囁くように噂をする声も無い。「…俺が打たれ弱くなってるのか、正常な感じ方なのか、分からない。」徐にそんな言葉を紡ぐ。ワシントンに居る間に心身ともに不安定になってしまった事で打たれ弱くなっているのか、或いはこの苦しさが、感情を掻き乱される感覚を感じるのが正常なのか。 )
( 心身共にある意味疲労感に襲われている相手がソファの背凭れに身体を預ける様にして座ったのを確認し、買い物袋を部屋の隅に置く。まだ陽の出ている時間帯とは言え部屋の中はほんの少し冷えており、身体を暖める為紅茶でも淹れようとケトルにお湯を沸かすのだが。静かな空間に落とされた唐突な相手の言葉に振り返る。先程ショッピングモールで見せた瞳の揺らぎと言い、今の言葉と言い、矢張り相手はずっと“迷子”なのだ。一度身を屈め袋の中から“何か”を取り出した後、ゆっくりと歩み寄り相手の横に腰掛けると、先ずはソファの端に畳んでいたブランケットを相手の膝に掛けて。それから優しさの中に真剣な色を宿した瞳を向け「…100%正常です。エバンズさんが苦しいと感じる気持ちも、怒りたくなる気持ちも全部正常。それは悪い感情じゃなくて、エバンズさんが当たり前に持っていて良いもので、当たり前に表に出して良いものだよ。__弱くなったからじゃない。」恥じる事も、後ろめたく思う事も、まして横暴だと思う事何も無いのだと。それは“負”では無く人間として当たり前の感情なのだと。真剣に一つ一つを言葉にして、最後にまた柔らかく微笑むと相手の瞳を覗き込みつつ、向ける己の視線も怖いかと問い掛ける。それに対して首を横に振ってくれたのならば、「じゃあ、目を閉じて口開けて。…大丈夫、別に変な事しないから。」相手には見えないよう後ろ手に隠した“何か”を軽く指先で触りながら、警戒しない様にと言葉を付け足しつつ )
( 自分がどうしようもない暗闇の中をもがきながら彷徨って居る時であっても、相手はいつも、自分自身でさえどうしようも出来ない感情を肯定して”赦し“をくれる。例え過去がどうであれ、全てを飲み込み心を殺す必要はないと。痛みも何も感じない時の方が楽ではあったかもしれないが、今こうして抱えている感情は決して悪いものでは無いと言う事だろう。相手の視線は、此方を見つめる柔らかな緑色の瞳は、例え錯乱しているような時でも怖いと思った事はなかった。相手の言葉に僅かばかり怪訝そうな表情を浮かべたものの、特段拒否する事もせず促されるままに目を閉じ、軽く口を開けて。 )
( 疑問こそあっただろうが相手は此方の要望通り素直に瞳を閉じ軽く口を開いた。それを見届けてから後ろ手に隠していた“アーモンドチョコレート”の包みを前に持って来る。木目調のお皿を買った雑貨屋に売られていたそれは、見付けたその時物凄い輝きを放った様に感じられ、何かを考えるよりも早く手が伸びお会計をしていたのだ。目を閉じている相手には“何か”を開ける小さな音だけを聞く事が出来ただろう。粒子の細かいビターなココアパウダーを纏ったチョコ一粒を摘み、薄く開かれている相手の口元に近付け唇の隙間に軽く押し当てる。甘い香りと甘い味の何方もを認識した時、それが食べ物だとわかるだろうか。「__疲れちゃった時は甘い物が一番。」本当にささやかな贈り物がサプライズとして成功したとはにかみつつ残りが入ったチョコの袋を相手に手渡せば、丁度良くお湯が沸いた事を示す音を鳴らしたケトルのスイッチを切る為立ち上がり。紅に白を垂らしたまろやかなミルクティーを相手の目前に置き再び隣に腰掛ける前、先程買い物した袋を手繰り寄せ。「ちゃんとのんびりする事。」相手に一声そう掛けてから中身を取り出し、値段のシールを取ったりと流れる穏やかな時間を感じながら片付けを始めて )
( 銀紙を開ける小さな音がして、唇に少しひんやりとも感じられる物が触れた。舌の上に転がったそれは甘く滑らかに溶け始め、チョコレートだと気付けば目を開けて。はにかむように笑う相手を瞳に映すと唇に付いたココアパウダーを軽く舌先で舐め取りつつ、少しばかり心が解けるのを感じた。チョコレートが溶けた先に残るアーモンドを噛み、ちょうど良く差し出されたミルクティーをひと口飲んで。「…優しい甘さだな、」と言いながら、気に入ったのだろう、もう一つ銀紙を空けて口に入れて。---疲労感を感じていたため、少しだけ身体を横たえようとソファの肘置きに頭を置く。本格的に眠ろうと思っていた訳ではないのだが、気付けば微睡んでいたようで。少しして寝苦しさのようなものを感じて意識は1時間足らずで浮上する。少し眠ったのだが身体の重たさは増しているようにも感じられ、胸を通る息が熱を持っているように感じた。ソファに身体を起こし「…ベッドでもう少し休んで来ても良いか、?」と相手に尋ねて。 )
( 普段スーパーなどで売られている物とは少しだけ違うその雑貨屋ならではのアーモンドチョコレートは相手の好みから外れなかった様で、更に追加でもう一粒食べる様子を微笑ましそうな表情で見送り。___ソファに身を横たえた相手は何時しか浅い眠りの底に沈んだ様に規則正しい寝息を繰り返していた。その姿を見詰め無意識に口元を緩めると買った物を所定の位置にしまったり、持ち帰った仕事の残りを終わらせる為ノートパソコンのキーボードを叩いたりと時間を過ごし。凡そ1時間程が経過した頃、身動ぎをした気配に気が付き振り返ると、果たしてそこには目を覚ました相手が起き上がって居て心做しか調子が良くなさそうに見える。「勿論。__調子悪い?」申し出に間髪入れず頷き体調の確認の問い掛けをするのだが、不調であるなら再び早く横になりたいだろうと思えばそれ以上話を長引かせる事は選ばず「何かあったら直ぐ呼んでね。」と付け足し、寝室に向かうその背に心配そうな視線を向けて )
______少しな、
( 相手の問い掛けに否定する事なくひと言だけそう答えると、ソファから立ち上がりベッドへと向かい。横になると、薄暗い寝室は程なく眠りを誘う。再び眠りに落ちたのだが、頭には先程のカップルの囁き声がずっと響いているような感覚があった。浅い眠りの中で感じていた寝苦しさは、やがて重たく身体に伸し掛かるような苦しさへと変わり呼吸は上擦り始めていて。眠っていた時間は30分ほど、再び目を覚ますと視界は不安定に揺らいでいて身体は熱い。熱があるようだと自分で感じると「_____ミラー、」と寝室から声を上げて。「…少し熱っぽい。薬があれば貰えるか、…」程なく寝室の扉から顔を覗かせた相手に薬を頼み。 )
( ___相手が寝室に消えてから名前を呼ばれる迄は短く感じた。“何かあったら”がまさか解熱剤に繋がるとは思わず、側に寄れば何処と無くぼんやりとした相手の表情が映る。徐に手を伸ばし前髪を払う様にして額に触れると確かに相手の言葉通り熱がある様だ。「…少し高いね。ちょっと待ってて、」掌に伝わる体温は高く感じられ、これは調子が悪いのも頷けると一度寝室を出て解熱剤2錠と水の注いだグラスを持ち再び相手の元へと戻り。「数日バタバタしてただろうし、疲れちゃったかな。…食欲はある?食べられそうなら少しでも何か胃に入れた方が良いんだけど。」それらを手渡してベッドの縁に軽く腰掛け、心身の調子が此処暫く悪い事や、午前中のショッピングモールであった出来事が少なからず相手の心に負荷を掛けた事も熱の原因の内であるだろうと想像しつつも、ワシントンからレイクウッドに戻る事が決まり忙しない日々が続いた事で少し免疫力が低下しているのかもしれないと言葉にして )
( 此れだから非常勤からという話になるのだと、自分で自分を恨めしく思う。本当はもっときちんと刑事としての責務を果たしたいのに、身体が追い付かないばかりにいつも空回りしてしまう。一度は刑事課さえ外れた身なのだから、一歩ずつゆっくりと無理をせずに進んで行けば良いと皆口を揃えるが、早く功績を上げられるまでに戻らなければと余計に焦りが募るのだ。レイクウッドにいた2年程前までは、未だ“無理をする“事が出来たのだが、此の所は其れも出来ない事が増えた。そんな事を考えていると相手の声が降ってきて、「…いや、薬だけ飲んで少し眠る。」とだけ答えて。自分が”弱く“なっている事が許せなかった。少しの疲労で体調を崩し、ほんの些細な出来事に傷付く。ワシントンでの日々がそうさせたのか、或いはレイクウッドに戻った事で気が緩んでいるのか。何にせよ早く体調を整えなければと焦りとやるせなさとを抱えたまま、布団に潜り込むようにして相手に背を向ける事となり。 )
( スッキリと食べられる果物なり、喉通りの良いゼリーなり、何でも良いから本当なら一口でも食べて欲しい所なのだが、相手はそれを拒否し薬だけを水で押し込む様にして胃へと落とした。そうして何かを続ける事もせずにまるで此方との間に壁でも作るかの様にして背を向け布団に潜り込むのだ。__相手が“背を向ける”理由を僅かも察する事が出来ない程、“思い出す事が出来ない”程、長い長い年月が経った訳では無い。己に対して何か後ろめたい事がある時や居心地が悪い時に相手はこうして背を向けたり目を閉じてしまう。それからもう1つ。“自分自身を許せない時”。今回は間違い無く後者だろう。ワシントンで刑事じゃなくなった事も、此方で刑事に戻れたとは言え非常勤からの様子見である事も、身体の痛みも、ショッピングモールでの出来事に感情を揺さぶられた事も、そうして現状の熱も。相手からすればきっと起きたその何もかもが自分の“弱さ”で、それが許せなくて、元に戻りたいのに上手くいかないもどかしさに襲われ、それもまた“弱さ”なのだと抜け出す事の出来ない茨の覆う深い森の中を彷徨って居る。焦らなくて良いのに、誰もが皆弱い部分を持って居て当たり前なのに。けれど人一倍正義感が強く“贖罪”の為に立ち続ける相手はきっと納得はしないのだろう。己からしてみれば“今の相手”こそが弱さとは全く反対の“強さ”なのだが。それをこの場で言った所で皮肉にしか捉えられ無いと思うからこそ長々と言葉を連ねる事はせず、けれど小さく上下する肩付近の布団に軽く手を乗せ「__これだけは覚えていて。何であれ、この先エバンズさんの居場所が無くなる事だけは絶対に無い。」静かに紡ぐのは相手の抱えるやるせなさを払拭出来る言葉では無いだろう。けれど、奥底にきっとある不安をほんの僅かで良い、包み込みたかった。そのまま静かに擦る様に掌を動かして )
( 居場所が無くなる事は無いと、相手は言った。その言葉は実際に居場所が無くなる事に不安を感じている心の内を見透かされているようで、返事をする事はなく。仮に自分が弱く弱くなってレイクウッドでも刑事を続ける事が出来なくなったら、刑事として生きる事が出来ない自分に居場所などあるのだろうか。深みにはまっていくような此の思考は熱の所為だろうか。心の中は靄掛かっているのに、肩を摩る相手の手の感覚に誘われるようにやがて浅い眠りに再び沈んでいき。---解熱剤で一度は下がった体温は、夜中になって効果が切れると悪化に向かった。あの後何を口にする事もなく眠り続け、目を覚ました深夜。眠っている間は薬が効いて楽だったのだろうが、胸を押さえ付けられているように苦しくて、吐き出す息は熱い。浅くなる呼吸を繰り返しながら僅かに身体を動かしたものの、それだけで視界は大きく揺らぎ眉を顰め。 )
( 程なくして熱に犯された身体が限界を迎えたかの様に相手の意識は眠りの淵へ落ちた。重たい寝息が吐き出されるのを聞きながら暫くの間丸くなる背中を見詰めた後、己もまた全ての支度を終えて相手の隣に横になり眠りに落ちたのが夜の11時頃だろうか。___喉の渇きで目を覚まし隣を見た時、相手はまだ眠っていた。けれど静かにベッドを出てキッチンでグラス1杯の水を飲み再び寝室に戻って来た時、この数分の間に目を覚ましたのだろう相手は眉を顰め苦しそうな浅い呼吸を繰り返して居る。「……」徐に手を伸ばし相手の額へ。幾ら己の手が冷たかろうがわかる程の熱を感じられ解熱剤の効果はすっかり切れてしまっている事を知れば「…苦しいね、」と落とした声量で以てそう声を掛けた後「何か温かいもの飲む?エバンズさんがちょっとだけ待っててくれたら、すりおろしたリンゴのジュースも作れるよ。」熱で身体が寒いだろう事を思い先ずは温かい飲み物を進めるも、相手が今確りと口に出来るものが一番であれば少しだけ微笑みつつ違う物も選択肢として挙げて。額にあてていた手を下ろし熱を持つ頬へと宛てがうと、そのまま親指の腹で軽く撫でる様に擦って返事を待ち )
( 寒さと熱とが同時に押し寄せるような感覚。確かに喉が渇いているのだが、冷たい水を飲みたいのか暖かい物を飲みたいのか、自分でも分からなかった。相手の問いに、何か飲みたいと頷いたものの身体を起こす事は出来そうもない。何が欲しいと言葉で訴える事もなく、相手がキッチンに行っている間に半ば意識を失うようにして浅い微睡に落ちていて。---夢に見た世界が酷く眩しく濃い色彩に思えたのは高熱によるものか。遊園地のような場所で、明るい音楽がやけに頭に響くように聞こえていた。見えている世界は小さな子どもの目線の高さ。メリーゴーランドに乗っている幼い少女のカールした髪が風に揺れ、はしゃいでいる笑顔が見えた。光を受けて輝く若葉色の瞳と、此方に気付き大きく手を振る姿。確かに見た事のある、記憶の断片が脳裏に引っ掛かっているような感覚に陥った。そして音楽をかき消すように、軽やかな鳥のさえずりと羽音が聞こえ柔らかな黄色い色をしたインコが現れる。整頓されたリビングに置かれた鳥籠。“ただいま”と喋るインコに言葉を教えている少女の背中。______子どもの頃の事など、夢に見た事は無かったというのに。何にも汚されていない過去の記憶はあまりに突然、鮮やかに繰り返され、やがて煙のように溶けて消えた。「_____マリーは、…」朦朧としながら紡いだ名前に、相手は聞き覚えがないだろう。マリーゴールドのような鮮やかな黄色、それを由来に妹は”マリー“という名前をインコに与えたのだ。「……窓を、閉めてくれ…」妹が大切にしていた鳥が外に逃げてしまったら困ると、夢と現実の狭間で相手に告げて。 )
( 飲み物が欲しいと頷きはしたものの、“何が飲みたい”と言う相手の意思表示は無かった。けれど何も飲めない訳では無いのならば一先ず脱水は避けられると安堵を胸に寝室を出て。___キッチンでグラス半分のすりおろしたリンゴジュースを作り戻って来たのは10分程が経ってから。間接照明を点けてサイドテーブルに冷たいグラスを置き相手の身体を起こす手助けをしようとするも、それよりも先に暖色の灯りに照らされた褪せた碧眼と視線が交わり、ゆっくりとした瞬きの合間に熱い吐息と共に酷く朧気な言葉が吐き出された。悪夢に魘され目覚めた時の意識の混濁とはまた違う、それでも“今”を認識出来ている訳では無い言葉。“マリー”の名前には当然聞き覚えが無く、“セシリア”では無かった事に一瞬少しの不安を覚えたその理由はわからなかったのだが、続いた不安定な要望と理由を聞けばその気持ちも消えると言うもの。「…大丈夫、ちゃんと閉まってるよ。」嗚呼、これはきっと飲めないな。なんて頭の片隅で考えながらも相手の身体を無理に起こす事はせず、代わりにベッドの縁に腰掛け先ずは相手の不安を払拭する為の返事を。それから今目前に居るのは成人男性で、直属の上司である事を認識しつつも再び眠りに落ちる事が出来る様にと、まるで子供にするそれの様に相手の胸元辺りを布団の上から何度も軽く叩き。「…さっきセシリアさんがご飯あげてたからね、きっともうお腹がいっぱいになって眠ってる頃。…エバンズさんも、もう一度眠らなきゃ。」相手は今、毎日の様に襲い来る悪夢の中ではなくきっと“幸せだった過去”に居る。そう感じるからこそまるで話を合わせる様に、今はもう存在しない1人と1羽の話を静かに聞かせて。それに対しての返事が欲しいとは思わなかった。ただ、今だけは“幸せ”の中に居て悲しみに引き摺られる眠りでは無い、穏やかな眠りを引き連れて欲しかったのだ )
( 窓が閉まっているなら、もし鳥籠の中に居なくても逃げてしまう心配は無いと安堵する。インコを籠から出して掌に置いた植物の種を啄ませていたセシリアの姿が浮かび、相手の返答にそれなら大丈夫だという安心と共に小さく頷いて。喉が渇いていた筈だったが、再び引き摺り込まれるようにして意識が途切れると其処からは言葉を発する事なく静かに寝息を立てて。---幾つも夢を見たように思う。懐かしい記憶、事件の記憶、教壇から見る景色や、レイクウッドとワシントンの街中も。過去に経験し、それ以降時折夢に見るようになった記憶もあった。暗闇の中から現れる暗い瞳をした男______恨みを募らせた、其れでいて全てを諦めたような影を宿した瞳と視線が絡んだ次の瞬間、ゆらりと動いて腹部に包丁が突き刺さるのだ。身体に痛みがあるからその夢を見たのか、或いはその夢を見たから身体に痛みが生じるのか。意識が浮上するのと同時に刺すような痛みを感じて、思わず呻き声が漏れる。横になっている態勢では痛みを逃すことができず、浅い呼吸のまま身体を起こそうとするのだが、高熱によって奪われた体力では1人で起き上がる事さえ今は苦しかった。「_____っ、…」鳩尾あたりを強く抑え、細く細く息を吐き出す事でなんとか痛みを軽減しようと。 )
( 熱に浮かされ曖昧な現実の中を彷徨う相手の何処か潤んだ様にも見える碧眼に確かな安堵の色が滲んだのを見て、己はそれに安堵した。どうか__一秒でも長く悪夢では無い夢が続きますようにと、やがて寝息を立て始めた相手を見詰める瞳は慈愛と消せない切なさが宿る。明日の朝、何方かが飲めば良いだろうとサイドテーブルに置いた減る事の無かったリンゴジュースを冷蔵庫に片付けてから再び眠りに落ちたのだが。___静かだった空間に相手の苦しそうな声と身動ぎの僅かな音が響き、眠りの淵にあった意識が浮かびあがった。それと同時にハッとした様に横を見れば、鳩尾付近を握り締め痛みに耐える様に細く短い呼吸を繰り返す相手の姿がそこに在り。「…大丈夫、薬持って来るから待ってて。」熱と痛みの何方にも苦しむ相手に穏やかな時間はまるで存在しないとさえ思ってしまう状態、それを軽減出来る物は今薬しか無いのだ。小走りに寝室を出て相手の鞄から錠剤2錠と水を注いだグラスを持ち再び戻って来ると、夜中の時の様にそれらをサイドテーブルに置いた後、一度相手の頭を軽く持ち上げそこから枕を抜き取り。続いて熱を持ち、上手く力の入らぬ身体をゆっくりと起き上がらせては、先程の枕をベッドフレームと背の間に置く事で相手をそこに凭れ掛からせ「__大丈夫…痛みも熱も直ぐに無くなる、もう少しの辛抱だから。」何も大丈夫では無いとわかっていながらも、今一度その言葉を口にしつつ、相手の肩を擦りながら薬の飲める状態かを確かめる様に伺い見て )
( 相手に支えて貰いながら身体を起こすと、視界はゆらゆらと不安定に揺らぐ。薬を飲みたいのだが、痛みが強く浅い呼吸ばかりが漏れ水を飲むだけの余裕がなかった。そのまま相手の肩口に埋めるように額を押し付けると、耐えるように唇を噛む。どれほどの時間そうしていたか、僅かばかり痛みが引き始めると鳩尾を軽く抑えたまま背凭れに置かれた枕へと背中を預けて。「______刺された時の、夢を見た…。」未だ熱を持った身体は怠く瞳は熱っぽく潤んでいるものの、先ほどのように朦朧としている訳ではないようで言葉を紡ぎ。あの事件で子供を失ったばかりに道を踏み外した彼と、残された妻は、今どうしているのだろうかと考えてしまう。同時に、自分が受けるべき痛みなのに、薬に頼り一人だけ楽になるつもりかと蔑むように言ったクラークの言葉が脳裏をよぎり、思わず鳩尾辺りに置いた手に力が入り。けれど相手から差し出された薬を拒否することはなく、少量の水で飲み込むと、再び背もたれに身体を預けて。「……使い物にならないな、」紡いだのは何処となく投げやりな、自分自身への嫌悪が滲んだ言葉。ようやく刑事に復帰するためにレイクウッドに戻って来たというのに、身体はずっと思い通りに動かない。外は青く白み始めているというのにこの時間にも相手を無理に起こしてしまっていると。 )
( 身体を起こした相手が直ぐに背後に体重を掛けないのならば、勿論の事拒む事はしない。肩口にある柔らかな焦げ茶を優しく撫でながら相手に襲い来る痛みが少しでも落ち着くのを待ち。___やがて身体を離した相手が溢したのは先程までの夢現なものでは無い、けれど過去に実際に起きた事の夢の内容だった。釣られる様にして相手の腹部へと視線を落としてから直ぐに瞳を持ち上げる。消えずに残った傷跡と同じ、否、それ以上に心に残り続けたのはきっと罪の意識だろう。あの時の男性は心神喪失の判断が下される事無く有罪となり、今も刑務所の中に居る。残された男の妻はあの家で夫の帰りを待ち続けて居るのだろうか。「…もう終わった事だって思えたら、どれだけ楽なんだろうね、」相手の中には今尚消える事の無い罪の意識が、夫婦の中には少なからずある恨みと膨大な悲しみが渦巻いているだろう。そうしてあの事件は己の心にも感じた事の無い恐怖を残した。そう言った“負の感情”を全て無くし、許し、前を見る事が出来たら__。薬を飲んだ姿を見て小さく微笑むと、捲れた布団を相手の足に掛け直す。鎮痛剤はやがて痛みをとり、解熱の効果も発揮する筈だ。ふ、と再び相手が溢した言葉には嫌悪や自嘲気味た色が混じっていて「私は少しも思わない。」と、間髪入れずに否定する。それから間を空ける事無く“でも”と言葉を置いてから「エバンズさんがそう思うなら、納得のいく時が来るまで私を使って。“今”のエバンズさんが難しいなって思う事、して欲しい事、全部言っていい。」真剣で、けれど酷く柔らかな語調でそう言葉にした後「だって私、優秀な部下でしょ?」と少しだけ悪戯な色も滲ませたのは、相手に重さを感じさせない為。「…持ちつ持たれつだよ。私が出来ない事や助けて欲しい事は、遠慮無くエバンズさんにお願いする。それで、ちょっと頼り過ぎたな、申し訳無いなって思った時は何かで埋め合わせをするの。」相手自身感じる嫌悪や、周りに迷惑を掛けてしまうと思う気持ち、それらは簡単には拭えないかもしれないが、何も難しく考えなくて良い、生きているならば当たり前の事なのだと )
( 自分が使い物にならないのなら他人を使えば良い、というのは考えた事のない視点だった。実際は“使う”というよりは“頼る”という言葉が正しいのだろうが。自分が抱える現状へのやるせなさは否定する事なく、それでいて全てを自分1人で完結させる必要はないのだと諭すような相手の言葉は自然と受け取る事が出来るもので。その言葉を否定したりそれ以上後向きな言葉を紡ぐ事はせずに、少しして「…冷たい水を貰えるか、」と相手に頼んで。寒さは幾許か治り、今は身体の熱さと喉の渇きを覚えて。 )
( 真面目な癖に不器用で、繊細で、優しい相手。その心の内には沢山の葛藤や思い通りに動かない身体や感情への苛立ちや焦り、もどかしさがあるのだろう。抱えるには重たいそれらを僅かでも手放して欲しいと思う程には心を寄せて来た。___やがてほんの少し落ち着いたのだろう相手が喉の渇きを訴えれば直ぐに頷きグラスを持ち寝室を出て。冷蔵庫を開け冷えたミネラルウォーターを、と思った時。先程作りはしたが中身の減る事の無かったリンゴジュースが目に留まり思案する。凡そ数秒の後、ミネラルウォーターをグラスに注ぎリンゴジュース入りのグラスも手に何方でも選べる様にと寝室に戻って来ると、先程と同じ様にベッドの縁に腰掛けつつ「__こっちが水ね。…一応リンゴジュースもあるけど、エバンズさん飲まなかったら私が飲むから。」2つのグラスを相手の前に差し出し選択肢を委ねて )
( 戻ってきた相手の手には2つのグラスが握られていた。水を貰おうと思っていたもののよく冷えたりんごジュースはさっぱりとして美味しいだろうと思えば其方に惹かれ、りんごジュースの入ったグラスを受け取って。口にしたジュースは熱い身体に心地が良く、普段飲む機会が少ない事も相まってか、甘味と酸味がとても濃く感じられた。「…さっぱりする、」と感想を溢しつつ、「…風邪を引いた時にりんごが出てくるのは何処も同じだな、」と徐に告げて。 )
美味しいし栄養もある、風邪なんてあっという間に良くなるよ。
( 当初希望していた水では無く相手が選んだのはリンゴジュースの方だった。嗚呼、作っておいて良かったと静かに飲み進める姿を見て柔らかな灯りが胸中に広がったのを感じ。__薬が効果を見せ始めた事で幾許か身体が楽になったのだろうか、眠る事をせず徐に続けられた会話に思わず一度瞬く。その文脈は過去の話をする時のもので、それが何気無く相手の口から出るのが酷く珍しいと思ったからだ。ミネラルウォーターの入ったグラスを一度サイドテーブルに置いてから身体を向け直し「私の家もそうだった。…エバンズさんのご両親も?」と、尋ねつつ、「__さっきね、エバンズさん“インコ”の話してたんだよ。覚えてないかもしれないけど、“マリー”って。」少しの間を空けて意識が朦朧としていた先程の相手の夢の話をする。“マリー”を飼っていたのはセシリアで、その過去の話をすれば嫌な記憶の方を思い出してしまうかとも思ったのだが、そうでは無い、優しい微笑みが行き交っていたであろう頃を少しでも思い出す事が出来たなら、今一緒にその話がしたいと、そう感じて )
( 口にしたりんごジュースの甘みが過去の記憶を呼び起こした______と思ったのだが、どうやらそうではなかったようだ。風邪をひいた時は母親がりんごを剥いてくれた覚えがあると、相手の問いには頷いて。部屋の入らず扉の所から此方を心配そうに覗く妹の姿も記憶の中には刻まれている。インコの話をしていた、と言われてもどういう訳かその記憶は全くなかった。けれど確かに相手が口にした“マリー”という名前は、妹がインコにつけていた名前で「…寝惚けていたのかもな、」とひと言だけ答えて。枕に背中を預けつつ、ずっと触れずにいた過去の記憶を少しだけ辿る。幸せだった、何気ない過去を掘り返してしまえば、もっと苦しくなると考えて思い出さないようにしていたのだ。けれど、それでは幸せそうな妹の表情や姿までもを忘れてしまいそうになる。「______マリーゴールドのように黄色い身体だから、マリーになった。……マリーには、自分の事を“セシリー”と教えてたな。」自分の事を、マリーの名前にも似た愛称で覚えさせようとしていた事をふと思い出して言葉にする。けれど記憶を辿り過ぎるべきではないと自制が働き「…もう30年近く前の話だ、」と自分で締め括り。 )
( “寝惚けていた”と言う返事には特別何かを言う事無く首を縦に動かす事で肯定を。“マリー”一見女性名の様にも思えるその名前は、セシリアのありったけの優しさや愛をもって考え抜かれ、インコにとって彼女からの一番最初の贈り物となった訳だ。黄色い身体を震わせ、音楽を奏でるかの様に美しい鳴き声を披露しながら、曇りの無い真っ黒な瞳に1人と1羽にとっての特別だろう愛称を繰り返す笑顔の彼女を映していたのだろうか。相手は己が見た事の無い様な幸せそうな表情でその様子を見詰めていたのだろうか。その光景を一度だって見た事が無いのに、何故だか無性に心が揺れる。幸せと悲しみは表裏一体だと昔聞いた事があったがその通りなのかもしれない。「……」今何かを言ったとして、その声が間違い無く隠しきれない震えを纏うだろうと思えば口を開ける筈が無く、僅か視線を落としたまま暫し黙す。何も知らない、何も見た事が無い己ですら想像しただけで泣きたくなるのだから、相手が悲しみや苦しみを感じない訳が無いのだ。けれど___そこに確かにあった幸せを思い出せなくなる事は、思い出さない事は、絶対にあってはならない。「……セシリアさん可愛いね。」相手が話を締め括ったその後、つ、と視線を持ち上げ微笑むと「ねぇエバンズさん、何時かエバンズさんが話しても良いって思える時が来たら、その時は楽しかった過去の話を聞かせて。他愛無い日常の話でも、家族の話でも、どんな話でも構わないから。」今直ぐ、とは言わずそう願い出て。例えどれだけ長い年月が経ったとしても、相手が過去の話を出来るその日が来る事が己の身勝手な幸せでもあると、口に出す事は無く )
( 自分が語った過去のセシリアの姿を“可愛い”と、まるでその様子を共に見ていたかのような共感の言葉。あの頃の妹の姿は、蓋をして記憶の底に沈めなければいけないとずっと思っていたが、相手の共感は穏やかなものだった。______過去の話を、幸せだった昔の話を語る事が出来る日は来るのだろうか。再び傷を抉る事になりそうで、事件よりも昔に想いを馳せる事は殆どしていない。「……いつか、話せる時が来たらな、」とだけ、曖昧な言葉を今は紡ぐに留めて。そうして水を一口飲むと、再びベッドへと横になり「…もう少し眠る、…」と告げて。 )
( ___“非常勤”としてではあるが、警部補の役職のまま職場復帰が出来る様になった相手と共に凡そ1年半振りの仕事をする事1週間。逃走中の犯人と思われる男性が町外れの小屋付近で目撃されたとの通報があり、偶然近くに居た己と相手が向かう事になったのが数十分前の事。辺りは時折強く吹く風が木々の葉を揺らす音と、遠くに車が走る音が聞こえるだけの辺鄙な場所で、閉められたカーテンの僅かな隙間からは男の姿が時折確認出来る程。___応援が到着したのは更に数分が経ってからだった。正面と裏口にそれぞれ出入口が一つずつ、残りは然程大きくない窓が数箇所で、人員の配置や作戦を隊員達に話す相手の声と吹き抜ける風の合間、聞こえたのは女性の“助けて”と言う声。……否、もしかしたらそう聞こえただけなのかもしれない。けれど妙にハッキリと鼓膜に残るその声と、もっと幼い、涙に濡れた幻聴が聞こえた瞬間にまるで突き動かされる様に片手は拳銃の安全装置を外していた。声が聞こえた気がした、人質が居る可能性がある、本来ならば真っ先に指揮を執る相手に伝えるべき事の筈なのに、そんな冷静な判断すらも何処かに吹っ飛び、ただ、間に合わなくなる前に助け出さなければと。普段ならばどれ程危険な事か確りとわかる筈なのに。「…っ、」急に狭まった視野には最早小屋しか映らず、拳銃の柄を握り締めるや否や、小屋の方へと歩みを進めて )
( 町外れの小屋に逃走中の犯人が身を潜めているという状況下、集まった機動隊員たちに状況と犯人確保までの手順を伝えている時だった。小屋の近くで男に動きがないか監視していた筈の相手が視界の端で動いた気がして、意識が其方に向くと説明の途中ながら相手へと視線を向ける。相手は中の状況を窺いつつ待機するようにと伝えてあった場所を離れ小屋の入り口に近付いていた。手には拳銃が握られ_______その安全装置は外れている。自分の指示を聞いていなかった訳でもあるまい。小屋へと近づく相手を止める必要があったが、大きな声で相手を呼ぶ訳にもいかず、「ミラー、戻れ!」と落とした声で呼びかけて。 )
( 一歩、一歩、着実に小屋の入口へと近付く最中。背後から風の音に混じり制止を命令する相手の呼び掛けが確かに聞こえ、一度は歩みが止まったかの様に見えたのだが。___近付いた事によりカーテンの僅かな隙間から犯人の姿だけでは無く先程聞いた声の主であろう、後ろで手首を拘束された若い女性が泣きながら床に座り込んでいる姿を目の当たりにすると、その瞬間、命令など、指示など、まるで無かったかの様に頭から吹っ飛び焦燥が湧き出した。今なら助けられる、早くしないと間に合わなくなる……まるで何かに突き動かされるかの様に、どれもこれも冷静さを欠いた感情ながらそれを押し止める事無く勝手な自己判断の元、命令無視となる形で小屋の正面の扉を開けるや否や、単独の強行突入に踏み切って )
( 一度は此方の呼び掛けに気付き足を止めたかに見えた相手だったが、小屋の窓の奥を見つめたまま拳銃を構え直す小さな仕草を見て、突入するつもりなのだと理解して。綿密に作戦を練り機動隊をそれぞれの持ち場に配置した上でタイミングを見計らって突入の指示を出すのが正しい順序なのだが、未だ体勢も何も整っていない。けれど相手は既に行動を起こそうとしている。犯人が完全に丸腰で逃亡を続けているとは考えにくく、其処に1人で飛び込むなど危険極まりない行為だ。面と向かって対峙した状態で拳銃を向けられればどうなるか。_____しかし、この状況で相手を止める事は既に出来ないと判断し、相手が小屋の扉に手を掛けるのとほぼ同時に「ミラーを援護しろ!」と指示を出して。響いた銃声が誰によるものかも分からず、体制が整って居ないと自負しているだけに重傷者が出るかもしれないという恐怖が確かに纏わりついていた。---生憎犯人はFBIに張り込まれている事には気づいておらず、突然の突入に驚き腰の拳銃に手を掛けるのが遅れた。その数秒と、急な指示にも関わらずすぐさま状況を汲み取り援護に動いた隊員達の瞬発力によって、程なく犯人は確保され。 )
( 小屋の中は窓という窓にカーテンが閉められ昼間だと言うのに何処か薄暗く、扉を開いた後の事はまるで一種の早送りの様に流れたと感じた。響いた銃声は己の物でも犯人の物でも無く相手の咄嗟の指示で突入した機動隊員の物。その銃弾は誰も負傷させる事無く奥の壁に傷を付け、直ぐ様取り押さえられた犯人は抵抗も虚しく隊員数名によって小屋の外へと出され、待機していた捜査官に手錠を掛けられ逮捕となった。「__もう、大丈夫です。」泣き腫らした真っ赤な瞳になみなみと溢れんばかりの涙を溜め震える女性は、何度も頷きこそすれど余りの恐怖に言葉を紡ぐ事は無い。その女性の傍らに膝を着きつつ手首を縛る紐を解き、安心させる様に声を掛けたのだが人質を無傷で助け出す事が出来た確かな安堵がある筈なのに、それは間違いないのに、地に足が付かない様な不安定な感覚も同時に覚えているのは何故だろうか。銃声とはまた違う大きな音が、聞こえる筈が無いのに耳の奥で震えている。やがて力の入らぬ縺れる足を懸命に動かし、隊員に両脇を支えられる様にして女性が小屋を出た事で、室内に残ったのは自身だけとなった。外は騒がしいが先程までの激しさは今此処には無い。「……、」やや俯き加減のまま、女性が座り込んでいた場所を静かに見詰めて )
( 犯人は手錠を掛けられ、中にいた人質と見られる女性は隊員に支えられながら病院へと搬送された。相手が真っ直ぐに彼女の元へ向かい声を掛ける姿を見れば、恐らく犯人の動向を監視する中で人質の存在に気が付き、思わず身体が動いたのだろうと想像は出来る。小屋の中に人質が囚われているという情報は無かったため、怪我も無く無事に救出出来た事に安堵こそするのだが。犯人の移送と女性のケア、病院への搬送を隊員たちに指示するのと同時に、体勢が整わないままの危険な突入となった事を謝罪し、一瞬の判断での援護に感謝を述べる。この一件については隊員達の直属の上司にも自分から詫びを入れると伝えて。---「______どういうつもりだ、」小屋へと足を踏み入れると、相手の背中越しに低く怒りの滲んだ声で言葉を投げ掛ける。「俺が指示したのは中の監視だけだ。誰が突入を許可した。」相手と視線は重なっておらず、どんな表情をしているかは窺い知れない。どんな思いがあってその行動に出たのかも分からないが、冷ややかな声で言葉を紡ぎ。 )
( ___背後で床を踏みしめる足音が聞こえ、その音が真後ろで止まったかと思えば続いて怒りの滲んだ低く静かな声が落とされた。一拍程の僅かな間の後にゆっくりと振り返り相手と視線を合わせる。碧眼には一目見ただけでわかる冷たさが宿っていて、その瞳を見た途端に先程までの何処か浮世離れしたかの様な不安定さが影を潜め、浮遊していた感覚が戻った。__自分は何をした。相手の言う通り、指示されたのは小屋の中の監視で突入では無い。ましてあの時、まだ相手は機動隊員と綿密な作戦を練っている真っ最中で、己は勿論、他の隊員の誰にも突入の指示は出ていなかったのだ。“助けて”と、その言葉と人質の女性の姿を見て咄嗟に身体が動いてしまった。途中、確かな制止の言葉を聞いたのに。明らかな、絶対におかしてはいけなかった単独の突入に弁解の余地は無い。「……誰も、」僅かに視線を落とし、誰の許可も受けてはいないと消え入りそうな声で返事をした後、「…申し訳ありませんでした…。」と、これまた変わらぬ声量での謝罪を告げて )
( 小さな声で紡がれた謝罪に、自分がした事の重大さが分かっているのかと思わず声を荒げる。「お前1人の勝手な行動で、あの場にいた全員が危険に晒された!考え無しに突入して、相手が拳銃を手にしていたらどうするつもりだった?体制も整っていない、機動隊の咄嗟の援護が無ければ死んでいた可能性だってある!」1人の誤った判断や身勝手な行動、或いはそれよりも些細な事象でさえ、積み上げてきた全てを崩壊させる可能性がある事を知っている。状況を頭で処理するよりも早く、一瞬にして奪われる命がある事を知っている。自分自身の危険さえ顧みない相手の無謀な行動もまた許せなかった。「人質の存在が分かっていれば、より安全に配慮した作戦を選べた!今回は運良く被害が出なかったが、時に1人の身勝手な行動で全てが水の泡になる。自分の行動がどれだけ周りに迷惑を掛けるものだったか、よく考えろ!」怒りのままに言葉を紡ぎ、人質さえ危険に晒す可能性のある行動だと非難して。銃を構え直す、その些細な仕草で一瞬にして現場が地獄へと変わった時の事が今も脳裏に焼きついている。自分の行動をもう一度客観的に見つめて反省するようにと告げて。 )
( 感情を剥き出しにする様に荒げられた怒声に肩が跳ね身体が強張る。睨まれる事や注意される事はあれど此処まで大きな怒りをぶつけられたのは初めてだった。容疑者を相手に取り調べをする時の刺す様な冷たい威圧感とはまた違う、ビリビリとした産毛が逆立つ様な恐怖はあっという間に身体に纏わり、視線を逸らす事すら出来ない。けれど相手の言う事は何一つ間違って無いのだ。もしあの時犯人が此方の無謀な突入に気付いていて扉の前で銃を構えていたら、もし機動隊の援護が遅れ激しい銃撃戦になっていたら、もし犯人が1人では無かったら__全て“死”に結び付く。どれ程危険で、浅はかで、愚かな行為だったのか確りと理解している筈なのに。「…っ、」再び脳裏を過ぎったのは、爆発物を身体に巻き付けられたった1人泣き崩れていた少女の姿。“助けて”と繰り返す懇願も、タイマーが作動しカウントダウンを告げる機械音も、“退避しろ!”と叫ぶ隊員の声も、昨日の事の様に思い出せる。あの時、先に爆弾を解除した妹の方を抱き抱えていた己は、退避する道しか選べなかった。__「…人質が助かるなら構わない…っ!」__言ってはいけない、特に相手には絶対に言ってはいけない言葉が売り言葉に買い言葉の様に感情に任せて口を着いていた。勿論本心では無い。自分の命であれ何かと天秤にかけ軽んじるつもりは毛頭無いのだが、ハッとした時にはもう既に後の祭り。「__違…、……、」失言だとわかるからこそ弁解しようとして、一度口から出してしまった言葉はもう戻らないと気が付く。今度は視線を合わせている事が出来ず俯いて )
( 相手の瞳が不安定に揺らいだ後、紡がれたのは“人質が助かるなら構わない”という言葉。______そんなものは結果論だ。人質が救われ誰も怪我をしなかった今回だから言える事であって、独断での行動は危険性の方が高い事は間違いない。人質が助かるなら、“他の何が犠牲になっても”構わない、と暗に言っているようなものだ。「……人質が救われさえすれば、刑事は死んでも良いのか。自分が、機動隊員が犠牲になるのは“仕方ない”事なのか。」命の重さを天秤に掛けるようなその考え方は、あの事件の時、マスコミが、世間が、暗に自分達に向けた言葉と同じではないか。相手の言葉の背景に何があるのか、其れを知る由はない。低く、怒りを抑え込むようにして紡いだ言葉には、過去の事件に対する感情が加わり、相手の言わんとする事に対して穿った受け取り方になっていたかもしれないが、今は其れを分析できるほど冷静ではなかった。「お前が言っているのはそういう事だ。身勝手な自分の行動を正当化するな!」人質を救うための咄嗟の行動であることは理解するが、独断で行動する事の危険性を受け入れず、人質が救われたから良いと言わんばかりの言葉を許す事は出来なかった。「独断での行動が正しかったと思っている限り、刑事として捜査に関わる資格はないと思え。」冷たく相手に言葉を投げ掛けると、相手を残したまま小屋を出て行き。 )
( 先程迄の怒声とは違い、まるで失望を纏ったかの様な低く冷たい言葉は一瞬にして身を凍らせた。“人質の命”も“刑事や機動隊員の命”も何方も重さの全く同じ尊いもの。___何時かの日“生きる事を諦めない、死なない努力をする”と他でも無い目の前の相手に心の底から誓ったのに、同じ唇で今度は全く正反対の事を紡いだのだ。喉の奥で息が引っ掛かり、警告音の様な音が鳴り響いている感覚がある。違う、と。相手の言葉を否定したい気持ちの片隅で確かに今回も“あの時”もこの命を犠牲に助ける事が出来るならと思ったのだから。身勝手極まりない思考で、行動だった事は頭では確りと理解出来ているのに心が別の所にある。冷たい正論をその身に受けながら、震える唇を噛み締め立ち尽くしたままで居たが、ややして相手が小屋を出て行くと口元を掌で覆い崩れる様にして床に膝を着き。「__…っ、ぁ…、」溢れ返りそうなそれが何かはわからない。もう一度謝罪をしたいのか…それは果たして誰に。泣き喚きたいとしても“あの時”の事に関しての涙は何故か流れないのだ。修復出来ない、何か大きなものが壊れる音が聞こえた気がした。___相手が小屋から出た時、既に犯人を乗せた警察車両と、人質の女性を乗せた車はその場に無かった。残るのは機動隊員と警察官が数名、その中に最初は居なかった筈のアンバーの姿があった。応援としては間に合う場所に居なかったものの、一先ずの解決を無線で聞き駆け付けたのだ。そうして相手が小屋の中でミラーと居る間に何があったのかを近くに居た機動隊員から聞いた。『……お疲れ様です。』と、鋭い空気を纏う相手に軽く頭を下げて )
( 今回の一件については報告書を書かなければならない上、機動隊に赴き謝罪をする必要もある。それ程の重大な事案にも関わらず独断での行動を正当化しているように見える相手の態度に怒りを抱えたまま外に出ると、先ほどまでは居なかったアンバーに声を掛けられその姿を視界に捉えて。小屋に残る相手を待ち共に署に戻るつもりはないようで「_____署に戻る、車を出してくれ。ミラーに用があるなら小屋の中だ。」と告げて。アンバーに署までの運転を頼もうと思ったものの、相手に用があるなら自分は先にタクシーで戻ると。 )
サラ・アンバー
( 相手はミラーの運転する警察車両で此処に来た筈だ。それなのにまだ小屋の中に居るミラーを残し署に戻る為の運転を頼んで来るなど事件解決した今何も無ければ考えられない。__そして正しく、“何か”あったのだ。『ミラーには後でメールしておきます。…今はきっと1人で居たいでしょうから。』と答えつつ、暗に何があったのかある程度把握している事を滲ませながら署まで送る事を了承し。___相手が助手席に乗り込んだのを確認してから何処と無く真剣な面持ちでバックミラー越しに一度だけ小屋へと視線を向けた後、車を出発させ。何とも重苦しい空気が流れる中、車が町へと入った所で『……ミラーの事、今回が初めてじゃないんです。』と、静かな口調ながら唐突に切り出す。今の相手の心情的に話をしたい気分では無い事は容易に想像が付くのだが、共に働く彼女の同僚として、友人として、相手に知って欲しいと言うある意味身勝手な気持ちが働いたのだ。『…何時からなのか、正確な日時はわからないんですが、捜査や事件を解決させる為のやり方が変わった気がするんです。何て言うか__強引ともまた違う…自分の身を危険に晒すのを厭わない様な、そんなやり方が目立つ様になってきてて、』真っ直ぐ前を見据えながら話した内容は、ミラーの仕事中の変化の一部。___“あの時”何があったのかをアンバーを含めた署員達は勿論知っている。けれど、その後ミラーに表立った特別大きなな変化は無かったのだ。だからこそ心に絡み付く様にして根を張った闇に誰も気が付けなかった )
( 助手席に乗り込み、車が動き出すといつものように車窓へと視線を向ける。車内には沈黙が広がっていたものの、不意にその沈黙を破るように相手が口を開いた。“初めてではない”というのは捜査に関する今回の一件のような事を指しているのだろう。自分がレイクウッドを離れていた2年近くの間に、相手の中で何かが変わったのか。だとするならば、きっかけとなる“何か”があった筈だ。ミラーの心を揺さぶりコントロールが効かなくなるような何かが。けれど、自分自身を敢えて危険に晒すような自暴自棄な遣り方は大きな危険を孕んでいる。「______捜査に於いて、自己犠牲の覚悟は破滅に繋がる。窮地に立たされた時の咄嗟の行動なら勿論責めたりしないが、今回のはあいつ自身の意思による明確な命令無視だ。」ハンドルを握る相手と視線を重ねる事はしないものの、自分が感じている懸念を言葉にして。「…自分はどうなっても良いから人質を救出したいという気持ちは分かる。だが刑事なら、人質の無事を願うなら、何処までも冷静であるべきだった。」---人質を誰1人助けられなかったあの事件の後、他の事件を担当しても人質の救出に固執して周りが見えなくなった瞬間が自分にもあったと言えよう。居なくなった人が戻るわけでもないのに。けれど、その危険性も今なら分かる。「______あの不安定な状態で捜査を任せるのはリスクが大き過ぎる、」と、先程のやり取りの中で感じた不安定さを引き合いに、一体いつから“あのやり方”での捜査を続けているのかと眉を顰めて。 )
サラ・アンバー
( 最初から最後までをその場に居て見た訳では無い為、あくまでも機動隊員からの話を聞いて知り得た情報だけがある状態ながら“命令無視”は捜査に於いて破滅に繋がると言うのは全く持ってその通りだと思った。冷静であるべきだと言う事も。『__今回の件、どんな事情があったにせよミラーに非がある事は明白です。彼女の肩を持つ気はありません。』1人の刑事として、幾らミラーが友人であっても擁護する事は出来ないと険しい面持ちで冷たくも聞こえる言葉を返すのだが。小さく息を吐き出し“ですが”と続けた後『…命の重みを知らない程、愚かな刑事でもありません。それだけは胸を張って言えます。』と、真剣な声色で真っ直ぐにそう告げる。『ミラーが何を考えて“遣り方”を変えたのかはわかりませんが、彼女の中にある本質はきっと変わってない筈なんです。…だからどうか、警部補が今まで見て来たミラーの事を疑わないで下さい。お願いします。』普段のデスクワークの遣り方、署員達と話す時の振る舞い、性格そのものが変わってしまった訳では無くあくまでも捜査の時のみ見せる危険な変化。だからこそ周りは何処まで触れるべきか迷ってしまった部分が正直あったのだ。赤信号で車を停めた時、顔を相手の方に向け深々と頭を下げる。その頼みこそがある意味擁護に繋がっているのだが、このまま修復不可能な状態が続き、今迄の何もかもが壊れてしまうのを見る事はどうしても阻止したかった。『…生意気な発言だと言う事は重々承知です、』と、最後に付け足した言葉は、緊張を含んだ少しだけ声量の落ちたもので )
( ミラーがチームワークの一切を無視するような身勝手な人間だとは思わない。寧ろコミュニケーションを重んじ、被害者や遺族に寄り添う事が出来るという“強み”を持った刑事だ。今回の一件もきっと何か思う所があり、感情をコントロール出来なかった結果なのだろう。本質は変わらない、その言葉は理解できる。しかしある時からのミラーの捜査の進め方について、皆が一様に危うさのようなものを感じ違和感を覚えつつも見守る事しかできなかったのならば、自分が今ブレーキを掛けなければならないとも思った。「_____今はそうかもしれないが、此のまま放っておけば本質まで変わりかねない。お前が違和感を感じるようになってからも、此処までの行動に出た事はなかったんだろう。」捜査において“問題”を起こしたのは今回が初めてだとすると、放っておけば更に危険な行動に出る可能性があるという事だ。「あいつが自分の間違いを認め、自分自身と向き合うまで捜査には関わらせない。」---側から聞けば厳しすぎる決断だろう。相手は“自分が悪かった、命令無視は二度としない”と言うかもしれないが、表向きを言葉で取り繕った所で根本の解決にはならない。アンバーも感じている“違和感”を取り除くまで捜査を任せるつもりはないと言い切り、やがて署に車が到着すると運転への礼を述べ執務室に戻って行き。 )
( “本質まで変わりかねない”との言葉に首を横に振る事が出来なかったのは、可能性が0では無い事がわかるから。___最初は違和感とも呼べぬ程の些細な変化だった。遅くまで署に残り、過去の事件の報告書や資料を読み漁るミラーの姿をほぼ毎日の様に見たし、休日だと言うのに射撃訓練場に閉じ篭り何時間も銃の正確性を確かめている姿も見た。それらは全て“仕事熱心”だと言う風に周りには映ったが、ある意味最初の“違和感”だったのかもしれない。相手の厳しい言葉に異を唱える事はせず、署へと戻った後は普段通りに仕事を始めて。___アンバーから“警部補は署に戻っている”とのメッセージを受け取った後、誰も居なくなった小屋の中から出る事をせず暫くの間佇んで居た。たった1人で自分の強引な単独突入と相手の言葉を何度も何度も思い出す。そうして自分が言ってしまった取り返しのつかない言葉も。最初から最後まで、どの部分を切り取っても正当化出来る箇所は無く100%全面的に己が悪い。これまでも相手から“冷静になれ”と言う指導をされてきたのに、一瞬の感情の昂りでそれがあっという間に頭から抜けたのだ。___重い心を引き連れて署に戻ったのは外が暗くなってからだった。刑事課フロアの扉を開ける前に思わず中を確認すれば、署員の殆どはもう居らず相手の姿も無い。けれど執務室の電気が点いている事から中に居るだろう事だけはわかり。途端に普段は感じる事の無い恐怖を感じたのだが、このままで良い筈も無く、数回の深呼吸の後にフロアへと入り。デスクには先に退勤したアンバーから“スマイルマーク”ただ1つ書かれた付箋が貼られている缶のカフェラテが差し入れされていた。その細やかな、けれど確かな優しさに少しだけ恐怖が薄れると、フロアに残っていた署員全員が帰ったのを見届けた後に執務室の扉を軽くノックし。「……ミラーです。…入ってもいいですか…、」と、顔も見たくないと思われている可能性も十分ある為に緊張がありありと滲み出た声色で扉越しに声を掛けて )
( 署に戻り報告書を書きながら、思い出すのはあの事件の後の事。妹を失い、大勢の罪無き人々が犠牲となり、事件に関する報道が加熱する中。あまりに大きな、凄惨な事件となった為幾度となくFBI内での検証会議などが行われ、心身が擦り減っていた頃。思い返せば“人質”という言葉に酷く敏感になっていたように思う。絶対にミスを犯してはいけない、何があっても救わなければ、と。突入を強行した相手の気持ちが分からない訳ではないのだが、普段と異なる頑なな態度は気になった。---機動隊を統括している上司の元に赴き、自身の監督不行き届きによって危険な状況で対応させた事への謝罪と感謝を述べ、報告書を纏め、としている内に気付けばフロアの明かりは一部消えていて。不意にノック音が響き相手の声が聞こえる。“帰れ”と拒絶する事こそしなかったものの、普段のように入室を許可する事もなく、パソコンの画面に視線を向けたまま手を動かしていて。 )
( 執務室の電気は点いていて、中に人の気配もある。席を外して居る訳では無いと思うが入室の許可が来る事は無く、それにドクドクと心臓が早く脈打った。僅かに薄れた緊張と恐怖が再び首を擡げ両足が震えそうな感覚に矢張り今日は帰るべきだとすら思ったのだが。入室の許可こそ貰えなかったが、“帰れ”と拒絶もされなかった。本来許可が無ければ入る事は無いのだが、カラカラに乾いた喉で一度僅かに唾を飲み込み数回深呼吸をした後「……失礼します、」と、意を決した様に静かに扉を開ける。__中には案の定相手の姿があり、けれど此方を見る事は無い。扉を閉め、その前に立ち尽くしたまま酷く強張った…言うなれば相手の事を怖いと思っている署員が見せる緊張した表情に近いそれで僅かに視線を床へと落としつつ「…あの…さっきの小屋での事。…本当に申し訳ありませんでした、」先程と同じ謝罪を繰り返した後頭を下げる。命令を無視し強行突入した事も、相手に言ってはならぬ事を言った事も、何もかもがもう取り返しは付かなく謝る事しか出来なかった )
( 暫く沈黙が続いたものの、やがて控えめな音と共に扉が開いた。相手が入ってきた事には当然気付きつつ視線を向ける事はなく、報告書を打つ手を止める事もしない。小さな声で言葉が紡がれてようやく相手に視線を向けると「______何が悪かったか分かったのか?言葉だけの謝罪なら要らない。」とだけ告げる。相手を見つめる瞳には、先ほどの小屋でのように怒りが滲んでいるわけでは無い。それでいて、何処か冷ややかな色は拭い切れていないというのが相手の受ける印象だろう。上辺だけを取り繕った、この場を収める為だけの謝罪なら受け入れる気はないとばかりに相手を見据えて。 )
( 小屋での相手は当たり前ながら本気で激高していた。今はその時程の強い怒りが表立って見える事は無いものの、碧眼に宿る冷たい色は健在で、射抜く様な鋭いその瞳は言葉を詰まらせるには十分なのだが。身体の横で握り締めた拳に一度グッと力を込め相手の言葉に小さく頷く。「…はい、…エバンズさんの命令を無視して勝手に突入した事も、感情を抑える事が出来なかった事も、自分自身の命を軽視した事も__私の言動の全てが間違っていました…。」あの時の自分の行動1つ1つを思い出しながら紡ぐ中、言葉が詰まり、一度震えた息を細く吐き出すと「…結果的に、機動隊員の命も人質の命も危険に晒しました…っ、」と。冷静になった今、襲うのは恐怖。盲目的なまでに人質を助ける為と思い行った行動が、最悪を招き兼ねなかった事に遅く気が付いたからだ。相手を見詰めるその瞳には確かな後悔と、それとはまた違う揺らぎが滲んでいて )
( 震える声で相手が紡いだ言葉には確かな後悔が感じられ、先ほどのように自分を正当化するような、盲目的な様子も見られなかった。深い溜め息と共に眼鏡を外すと、ようやくデスクワークの片手間ではなく、正面から相手と向き合う。「…1人が勝手な行動をすると全員に危険が及ぶ。綿密に組み立ててきた作戦も、何もかもが水の泡だ。人質が助かれば良いなんて、そんなのは結果論でしかない。たった1つ、一瞬の選択を誤るだけで、逆に人質の命を危険に晒す事にも繋がる。如何なる場合でも冷静さを欠くな。自分の選択が正しいという傲りは捨てろ。」静かな声色で、けれどひとつひとつの言葉は相手に対して言い聞かせるように言葉を紡いで。---相手が先の一件を悔いている事は分かった。けれど未だ聞かなければならない事がある。相手が我を忘れる程に、自分を投げ打つ事も厭わずに、人質の救出に固執した理由。危うさを抱えたまま捜査に打ち込む理由だ。「______彼処までお前を駆り立てたのは何だ、」と、相手を見据えたまま尋ねて。 )
( __そう、己に圧倒的に足りないのは揺るがない冷静な判断だ。何時だって様々な事に気持ちが引っ張られ、冷静さを欠いて感情的になり、結果良かった事など無いではないか。相手の言葉の1つ1つを聞きながら無意識の内に再び頭を垂れる様に視線は足元へと落ちるのだが__“根本的”な話に問い掛けが移った瞬間、弾かれた様に顔を上げ相手を見詰める。緑の虹彩は驚愕と怯えの混じった様な複雑な色に揺れ言葉を発する事が出来なかった。“駆り立てた原因”は間違い無くあの時の事件と言えよう。けれどそれを知られたくないと思ってしまったのは、相手が本部に居た間に起きた事で、1人でも確り刑事としてやれていると思って欲しかったからか、人質の死の話を相手にはしたくないと思ったから。何にせよたっぷりの沈黙の後「……何も、」と、一度は首を横に振るのだが、此方を真っ直ぐに見据える相手の瞳は誤魔化す事も嘘を突き通す事も不可能なのだと思わせるある意味“圧”の様なものがあり、報道規制であの事件に関係した警察官達は表に出なかったとは言え、本部の刑事だった相手には報告書が届けられていたかもしれないし、そうでなくても調べられれば気付かれるのがオチ。結局隠し通す事など不可能なのだ。あの時の光景を思い出し震え出しそうな身体を抑える為片手で腕を抱く。強く鳴る鼓動を感じつつ「……2年前、レイクウッド郊外で起きた爆弾事件です…。」と、消え入りそうな声で答え。___あの日、妹だけでも連れ帰った自分を周りは労い良くやったと褒めた。あの数十秒の中でとる事の出来た最善だったと。けれど、褒められれば褒められる程、違うと叫び出したい気持ちが膨れ上がり、心は闇に覆われたのだ。「…1人を助けられたんじゃない、1人を“助けられなかった”んです!最善の選択じゃない…っ、“それしか選べなかった”んです…っ!」殆ど事件の説明をしないまま、溢れ返る感情を言葉に乗せる。あっという間に溜まり溢れ落ちた涙は顎先を伝い床に落ちるが止める事は出来なかった。相手を見る緑眼には涙と、それから自分自身に対する大きな怒りが滲んでいて )
( 一度は何も無いと首を振った相手から視線を外す事はしなかった。“何か”きっかけがあるのは間違いないという確信があったからだろう。ややして相手が語った事件には覚えがあった。自分が本部に異動して比較的直ぐの頃、レイクウッド署の管轄で事件があった事は覚えていた。幼い少女が犠牲となった痛ましい事件だったと記憶している。_____相手は、あの日の自分を、幼い少女を救う事ができなかった自分を責め続けているのだと、続く言葉を聞いて気付いた。どうする事も出来なかったと分かっていても、その瞬間の自分の選択、行動を反芻し本当にあれしか道は無かったのかと後悔し続ける。周りの誰に何を言われても、其れを素直に受け止めて自分の気持ちを立て直す事などできない。思い出すのは目の前で起きた惨劇と、其処にいながら何も出来なかった自分への失望。相手の気持ちが漸く分かり、涙を流す相手を見据えて。「……お前の抱える苦しみは良く分かる。必死に、その時自分に出来る最善の選択をしたとしても、最善の結果がもたらされない事はこの仕事をしていると、残念ながら起き得る事だ。ただ、過去をどれだけ悔いても、其の瞬間に戻る事は決して出来ない。」相手に寄り添うような、相手の全てを肯定するような優しい言葉ではないだろう。けれど、似た苦しみを経験しているからこその思いを、言葉を選びながら紡いで。「______前を向けだなんて、俺に言えた事じゃないが。俺は、目の前の仕事に全身全霊を掛けて臨む事だけが、過去への贖罪になると思ってる。…贖罪の為に自分の身を投げ打つべきだと言う事じゃない。犠牲になった子にしてやりたかったと思う行動を、その時は不可能だった“最善”を、次に関わる人達に向けるんだ、」過去に縛られ続けている自分が何を言った所で相手には響かないかもしれないが、涙で潤み真っ赤になった相手の瞳をじっと見つめたまま告げる。自分を犠牲にしてでも人質を救おうと盲目的に行動するのではなく、その時にしてあげたかった事、その時は出来なかった事を、今後自分が刑事として関わる事件で助けを求めている人に差し伸べるべきだと。 )
( 相手の紡いだ言葉は慰めでも幾度となく送られた称賛でも無かった。此方の想いや行動とは裏腹に最善が齎され無い結果がある事、例え深い絶望でも起こり得る事で、どれだけ悔やんでも決して戻る事は無い…それが現実なのだと。一見酷く厳しく労りの欠片も無い言葉に聞こえるが心はそうは捉えなかった。周りが喜び労ってくれた“良くやった”の言葉は余りに重すぎたのだ。次から次へと溢れ出る涙は呼吸を上ずらせ、薄く開いた唇からは嗚咽が漏れる。__最善の結果が齎されない事が起こり得る事も、その瞬間には決して戻れない事も、その絶望を誰よりも相手が一番知っているだろう。誰よりも一番苦しんで来ただろう。途端に“2つの事件”と“2つの気持ち”が交差した事で痛みが倍増した感覚を覚えた。“犠牲になった子にしてあげたかった事”は__大丈夫だと抱き締めてあげたかった。妹と2人一緒に抱えて母親の元に連れて行ってあげたかった。幸せだったであろう日常の中に戻してあげたかった。それはつまり全部__「っ、…助けて、あげたかった……!」引き攣る喉を震わせ、漸くそれだけを言葉にした後は思わずその場に蹲る。助けてあげたかったのだ。どうしても、助けてあげたかった。けれど、出来なかった。__相手は“あの日”犠牲になってしまった人達に、妹に、何をしてあげたかっただろうか。きっと己と同じ様にただ、助けてあげたかったに違いない。絶望は、後悔は、自分自身への失望は、こんなにも痛いのか。相手はこんなにも重い痛みの中に居るのか。声を上げ泣き叫びたいのを押し込める様に片手で口元を覆いながら、指の隙間から漏れる嗚咽と共に肩を震わせて )
( 全てをひっくるめて、被害者を“助けたかった”というのが全てだろう。だからこそ相手は人質となった女性を助けようと行動した。結果的にその行動は賞賛されるものではなかったが、“助けたい”という其の一心で。自分はあの日、不安そうな妹を大丈夫だと安心させてやりたかった。だからこそ、例え緊迫した状況であったとしても刑事として捜査に当たっている時には不安を滲ませる事はしない。自分が毅然と対応を続ける事で、少しでも恐怖心を薄れさせて欲しいと思うから。______真っ直ぐな相手の言葉と、堰を切ったように溢れる嗚咽に立ち上がると、しゃがみ込んだ相手の側に歩み寄り、頭に手を置く。罪無き人が事件に巻き込まれ命を落とすというのはあまりにもやるせないものだ。特に自分自身が刑事として捜査に関わっていた場合、自分自身を責め、過去を後悔し続ける事になる。その気持ちは否定できない。「……自分を責めるなとは言わない。人に何を言われた所で、心はそう簡単に変わらないだろう。ただ______自責の念に押し潰されて、心を壊さないでくれ。自暴自棄になって、自分を犠牲にするような危険なやり方はするな。」心が壊れかける苦しさを、相手に味わって欲しくはない。自分を危険に晒すような無謀な捜査も見逃す訳にはいかない。膝を突き相手と視線の高さを合わせると、相手の肩を抱き寄せるようにして耳元で言葉を紡いで。「……被害者の事を忘れず、自分自身の戒めとして進むしかない。立ち続けろ、」泣きじゃくる相手に贈ったのは“呪い”だ。酷な言葉だろう、此れ程辛い思いをしている相手に対して、立ち止まる事を許さないと言うのだから。けれど自分たちは”立ち続けなければ”ならない。過去への罪悪感に押し潰される事なく、せめてもの償いとして多くの人を救う為に。嗚咽と共に小さく上下する相手の背中を静かに摩り続けて。 )
( 頭の上に静かに置かれた手の感触もまた涙腺崩壊に拍車を掛けた。心が壊れ掛ける苦しさも、自らの命を投げ打つ様な無謀な捜査が齎す危険性も、僅かも想像出来ない程無知な新米の刑事では無かった筈なのに。「…ごめ、っ、」“ごめんなさい”と再度紡ぎたかった謝罪の言葉は引き攣る喉と嗚咽に邪魔され言葉尻が音になる事は無かったが、そのまま肩を抱き寄せられると恥も外聞も無く相手に縋る様に服を握り締め、肩口に額を押し付ける様にして泣き続ける。約2年、この事件に関して流した初めての涙だったように思う。__耳元で静かに、それでいて真っ直ぐに紡がれた言葉に思わず涙に濡れた双眸が見開かれ、勢い良く顔を上げた。至近距離で相手を見詰めたまま息を飲む。この先も刑事であり続けるのなら、多くの人々を助けたいのなら、例えどれ程の痛みを抱えたとしても立ち続けなければならない。再び溢れた涙はその言葉の重さによる絶望からでは無かった。余りに酷な言葉の筈なのに何故だろうか、それは壊れ掛けそうだった心に光を灯し、もう一度刑事として立ち上がる為の決意を思い出させてくれるものだったのだ。“最善”の為に、救いたい命を確りと救える為に。__痛みの中、相手も両の足で確り立っているではないか。相手を見詰める涙に濡れた瞳の中、絶望を纏う不安定な色では無く強い意志がじんわりと広がったのが伝わっただろうか。「__今だけ…許して下さい…。」掠れた声でそう許しを乞うてから、再び相手の服を緩く握り肩口に額をあてる。直ぐに気持ちの何もかもを変える事は出来ないかもしれない、それでも冷静である事を心掛け、被害者や関わる人達に誠心誠意向き合い、もう一度全ての命の重みに目を向けよう。今この時、相手が許してくれるのならばありったけの想いを涙として落として、今度こそ救いたい命の為に立ち続けよう。__一頻り泣いた後、次に顔を上げ相手を見るその瞳からはもう涙は流れていないだろう )
( 相手の中に、先程までの危うさや不安定さは感じない。涙と共に、胸の奥につかえ燻り続けていた物が漸く流れ出ているのだろう。しかし、今回の一件はきっと、今この瞬間に終わりを迎え清算出来るようなものでは無い。この先も幾度と無く其の苦しさを思い出す事になるだろう。けれど、相手の瞳に灯った光は、強い意志は、そう簡単に消える事は無いはずだ。「…どうしても無理だと思ったら、その時は立ち止まっても良い。だが、お前の中に刑事としての熱意がある限り、事件に巻き込まれた人たちに寄り添いたいという思いがある限りは、立ち続けろ。」_____かつて自分に掛けたのと同じ“呪い”を相手にも掛ける自分は、狡猾な人間だろうか。立ち続ける事の苦しさを知っていながら、それでも尚立ち止まるなと。ただ、相手には其の呪いに耐えられるだけの芯があると思ったのだ。泣き止んだ相手を見ると引き寄せていた相手の肩を離し立ち上がると「今日はもう帰って休め。」と告げて。 )
( 心が磨り減り限界を訴えた時、どうしたって立ち止まってしまう事はあるだろう。けれど例え立ち止まったとしても“倒れない事”。それが“立ち続ける事”に繋がる筈だ。相手の紡ぐ言葉は何処か相手自身にも言っている様で瞳にはほんの僅かに切なさにも似た色が滲むのだが。泣き腫らし真っ赤に染まる瞳ながら力強く頷いた後「__…もう二度と命令に背く様な事も、誰の命であれ軽視する様な事もしません。…約束します。」と、告げ立ち上がり。__帰宅を促されても何故か背を向ける事はしなかった。仕事が残っている訳では無く、相手の言う通り今日は休む事がベストだとは思うのだがその瞳は表情を伺う様に揺れ。「……あの…帰って来てくれますか…?」問い掛けた言葉は珍しく推しの強さの失せた敬語が消えぬ控え目なもの。今は相手の纏う空気に怒りは無いが、だとしても己の過ちは大きかった。ホテルで寝泊まりする事を決めてしまった可能性も十分にあると思っての事で )
( 相手が誓った言葉に偽りの色は無く、其の事に漸く安堵すると頷いて。続いた問い掛けは控えめなものだった。実際残業を終えた後はホテルに泊まる事も一度は考えた。あの状態で相手と顔を合わせても、冷静で居られるとは思えなかったからだ。けれど、相手が過ちを認め懸念していた不安定さが薄れた今なら、いつものように帰れるだろう。「______嗚呼、これを片付けたら帰る。先に寝てろ、」と、居候している相手の部屋に戻る事を告げると、今取り掛かっている仕事を終えたら帰ると伝えて。 )
( 相手の口から“帰る”と言葉が出た事に酷く安堵した。その安堵は表情にありありと滲み、吐き出した息に纏う。先に眠っている事は出来そうに無いと思ったが静かに頷くと「…ありがとうございます。」と頭を下げ執務室を出て。___家に帰った後は冷凍庫に入っていた保冷剤で両眼を冷やし少しでも腫れを消そうと試みるが、これだけ泣いたのだ、きっと朝起きて鏡を見た時に駄目だった事を知るだろう。冷たい水を飲み身体中から全て出尽くしたのではと思う程の水分を補給し、帰って来た相手がお腹を空かせていたら困ると軽い野菜のスープを用意する。そうこうしている内に泣いた事による疲労が今になって現れたのか、目が霞み瞼が重く閉じる感覚に何度か抗いはするものの、結局ソファに座りながらウトウトとする時間を過ごす事となり )
( その後仕事を片付けて相手の家へと戻ると、ソファで眠っていた相手の姿を見つけ毛布を掛ける。用意してくれていた野菜スープを温め、少し照明を落とした部屋でゆっくりと其れを口に運んで。_____部屋が見つかれば直ぐに出て行くという話ではあったのだが、忙しなく過ぎる日々の中、不自由無く生活が出来ている状態に少なからず甘えてしまい、落ち着いて不動産屋に行く時間を取る事がないまま相手の家に居候して1ヶ月程が経っていた。レイクウッドに居た頃と変わらず捜査に奔走し、刑事たちの報告書に目を通し、与えられた警部補としての務めを果たそうとはしているのだが、非常勤のため限られた時間の中で出来る事はどうしても少ない。同時に身体の不調を感じる事が増え、以前のように無理が効かなくなった実感があった。薬を飲み繋ぎ、なるべく症状が出ないようにはしているのだが、反動が夜に来る事があるのは変わらない。自分が夜中に何度も目を覚ますのでは相手も落ち着いて眠れないだろうと、きちんと家を探さなければとは改めて思いはするのだが。---その日も日中は捜査の為聴取に出ており、戻ってからは資料を取り寄せ読み込んだり、部下の報告書に目を通したりと忙しなかった。それでも普段より早く21時前に家に戻ったのだが、重い疲労が付き纏っているような感覚に息を吐き出しつつ脱いだジャケットをソファの背凭れに掛けて。「…リアーナの証言は不明瞭な点が多かった。アリバイの裏も取れてない事を思うと、警戒しておいた方が良さそうだ。」家に戻っての第一声とは思えない、普段執務室で相手と話している時と同じような言葉を口にしつつ、ソファに腰を下ろすと背凭れに深く身体を預けて。 )
( ___署での仕事が終わり帰宅したのに相手の第一声は捜査中の“刑事”そのもの。ソファに腰掛けたのを一瞥し何時もよりミルクと砂糖を多めに入れたコーヒーを目前に置くと軽く頷きつつ「何かを隠してるのは間違い無いと思うけど、それが何か…。__明日もう一度リアーナの友人付近をあたってみる。」一度は引っ張られる様に明日の捜査方向の話をするのだが。相手の隣に腰掛けた途端に座り慣れたソファの程良い弾力と調度良い角度の背凭れに刑事としての張り詰めていた空気が解けた。仕事モードの終わりを示す様に深く息を吐き軽く首を回すが隣の相手が纏う空気は未だ捜査中の時のそれ。「…エバンズさん、明日も朝から忙しいだろうし今日は早めに寝よう。ワイシャツなんて着てたら休まるものも休まらない。」険しくも見える表情を見遣り、少しだけ困った様に笑みを浮かべた後休息を促す。その際ほんの僅かの戯言も織り交ぜつつ、寝室に置かれている相手のスウェットを持って来て )
( ミルクの入った甘めのコーヒーを口にしながらも、考えるのは事件の事。早めに休もうという相手の提案には、そうすべきだろうと大人しく頷きつつ渡されたスウェットを受け取って。確かに仕事の時に着ているこのワイシャツでは、気持ちも身体も休まらない。シャワーを浴びて髪を乾かし、スウェットに袖を通すと、少しは張り詰めていた気分も解れたような気がして。促されるままベッドに入ると、途端に身体は休息を求め沈み込む身体を起こすのが億劫になる。未だ事件の事を頭で整理しようとしていたのだが、眠気に襲われ其れは諦めて。「_____先に休む、…」とだけ相手に告げると、程なく眠りに落ちていて。 )
( その言葉に頷きつつ、程無くして小さな寝息が聞こえると安堵を胸に浴室へ。熱めのシャワーを浴びながら考えるのは此処最近の相手の事で。昼間捜査に出て居る時は薬の服用もあってか目に見えて大きく体調を崩す事は無いものの、その反動の様なものは確実に夜現れていた。悪夢を見て魘される頻度も多くなった様に思うし、目下の隈も薄れる事無く鎮座し続けて居る。本部で悪化した体調はレイクウッドに戻って来たからと言ってそう簡単に治るものでも無いのだろう。__凡そ30分程でシャワーを終え脱衣所に出る。湿った髪の毛を乾かし黒のスウェットを身に纏い、眠る支度は整った。窓の向こうに見える月は丸く輝き、それをぼんやりと見ながら少しの休憩の後にリビングの電気を消して寝室を覗けば相手はまだ眠りの底に居る様で。起こさぬ様注意を払いつつ静かに隣に寝転ぶと、背を向ける相手の髪の先を数回控え目に撫で、その後は遅い来る眠気に抗う事もせずに眠りの淵へと落ちて行き、何時しか深い深い眠りの中でぼんやりとした夢を見て )
( 揺蕩うような眠りの中に居たものの、不意に意識が浮上した。意識の遠い所で過去の事件や血の色を見ていたような気はするのだが、いつものように悪夢に魘され引き摺り出されるような寝覚めではない。ただ鳩尾に重たくのし掛かるような不快な痛みがあり、此れの所為かと理解する。もう一度眠ろうと目を閉じたものの痛みに意識が行ってしまい眠れそうもなく、少しして隣の相手を起こさないよう静かに起き上がると寝室を出て。明かりの落ちたリビングは何処かひんやりとしていて、しんと静まり返っている。シンクの前で鎮痛剤を水で流し込んだものの、少しして徐に冷蔵庫を開ける。中には、少し前に相手とゆっくり夕食を食べた時に開けて未だ残っているワインの瓶が入っていて。それを取り出すと手近にあったグラスに注ぐ。ソファに戻り、明かりを点ける事もしないままに其れを口にしつつ、背凭れに身体を預けて。此の痛みや息苦しさの所為で、思うように仕事が出来ない。暫くの間ソファに座っていたものの、痛みと余計な思考を振り払いたくて、仕事用の鞄の中から煙草の箱を取り出して。気を紛らわせる為にしか吸わない為、一箱を消費するのに何ヶ月と掛かるのだが、お守りの様に鞄に入れていた。煙草を一本咥えた所で、流石に相手の部屋で吸うわけには行かないと、静かに窓を開けて。ベランダに出ると冷たい風が吹き抜け緩やかにカーテンを揺らす。窓を閉めると煙草の先端にライターで火をつけ、深く煙を吐き出して。 )
( 相手が寝室を出た事にも気付かぬ程深い眠りだったのだが、無意識に寝返りを打った時に隣に誰も居ない事で意識がゆっくりと浮かび上がった。未だ眠気まなこで僅かに上半身を起こし隣を、続いて寝室全体を確認するが矢張り相手の姿は何処にも無い。けれど涙に濡れた声や苦しげな呼吸音が聞こえず静かな事から恐らく直ぐに戻って来るだろうと再び身体を布団に預け目を閉じるのだが。一度浮上した意識は今回そう簡単に眠りに落ちてはくれなかった。目を閉じたまま暫し黙し、仕方無い…と胸中で呟くと水を飲んでから眠る事にしようと比較的ゆっくりとした動作で以てベッドを降りて寝室を出。__リビングは暗く相手の姿は無かったが、ふ、と視線を向けた先。カーテンの隙間から差し込む月明かりがフローリングを照らしていた。そのまま瞳だけを持ち上げると、窓の外、部屋に背を向けた相手が立って居て細い紫煙が立ち昇っている。ドクン、と心臓が高鳴った。それが恐怖によるものだと認識するよりも早く足は動いていて、窓の縁に指を掛けるや否や勢い良く開け放ち。冷たい風を纏い伸ばした手は煙草を持たぬ相手の片腕を強く掴む。「__どう、したの…、」その絞り出した問い掛けは切羽詰まった様な唐突なもの。どうもこうも無い、見た通り煙草を吸っているだけなのだが、暗い空に昇る紫煙の様に月明かりに照らされた相手が消えてしまいそうで、何故だかそんな漠然とした不安に襲われたのだ。その表情には先程までの眠気は無く焦燥が滲んでいて )
( 吐き出した煙は、明るい月の光に照らされて輪郭が鮮明になったのも束の間、冷たい風に浚われてあっという間に闇夜に溶けて消えた。其れを眺める褪せた青色の瞳にも月が冷たく光を落として。肺を満たした煙が唇から吐き出されて夜空に溶けて行く様は、何故か心が落ち着くような静けさを感じた。不意に窓が勢いよく開く音がして、振り返るよりも前に腕を掴まれていた。此処は相手の家なのだから相手以外に居ないのだが、腕を掴む手の力が強かったため少しばかり驚いた表情で相手と視線を重ねて。幾許かの焦りや不安のようなものが滲む相手の問い掛けに「_____悪い、起こしたか。」と尋ねると「…目が冴えて、少し吸いたくなった。」とだけ答えて。未だ痛みは落ち着いておらず、ワインも煙草も気を紛らわせる為の行動なのだが、その事には触れなかった。 )
( 此方を振り返った相手の碧眼に斜めから差した月の光が反射し、一瞬涙の膜が張っているかの様に感じたのだがそうでは無かった。ただ、闇夜で淡く光っただけ。落とされた謝罪とこんな夜の寒空の下此処に居た理由を聞き吐き出した息は次は安堵から来るもので。「…少し喉が渇いただけ。」と答えるも、その指先の力こそ抜けど相手の腕を離す事はしなければ「部屋で吸っていいからもう戻って。風邪ひいちゃう。」夜風に晒され冷えている事は掴んだ箇所のスウェットの冷たさで知っている。そこで漸く腕から手を離すと相手の背中に軽くその手を添える様にして部屋の中へと促し。__窓を閉め間接照明を点ける代わりにカーテンを開ければ、差し込む月の光がその量を増し部屋をぼんやりと照らした。ソファに腰掛ける相手の足に膝掛けを掛け、少しでも冷えた身体を暖める手助けになればと行った行動により、テーブルの上にワインボトルとグラスが置いてある事に気が付く。寝る前は無かったのだから目が覚めた相手が飲んでいるのは間違い無いのだが。煙草を吸う事も、夜中に目覚めお酒を飲む事も、相手にとっては理由のある事だ。ただ単に目が冴えてしまいもう一度眠る為の軽い時間潰しの時も勿論あるだろうが、殆どの場合そうでは無い事を長く相手を見て来て知った。悪夢が尾を引き眠れないか…身体の調子が悪く睡魔を連れて来ないか…。「……。」徐に相手の隣に腰を下ろすと、何も聞く事無く、何も言う事無く、ただ、無言のままに相手の鳩尾付近に手を当てて )
( もう少し此処に居ると言おうと思ったのだが、冷えるからと促されれば携帯灰皿に煙草を押し込んでリビングへと戻り。中に入ると、暖房を入れていないにも関わらず暖かさを感じて外の寒さを思い知る。グラスに注いだ赤ワインを呷り息を吐くと、不意に相手の手が鳩尾に触れて。痛みがある為、相手の手が触れる瞬間僅かばかり身体が強張ったものの、外傷ではない為当然強い痛みを引き連れて来る事もなく、程なく緊張は解ける。鎮痛剤も未だ効いていないのだろう、何か気が紛れる事をしていないと痛みに意識が行ってしまう。「……思うように、仕事を進められない。身体がどうしても着いて来ないんだ、」弱音とも取れる言葉を不意に吐き出したのは、月明かりだけが周囲を照らす薄暗さの中だったからだろうか。もう一口ワインを口にして。 )
( 鳩尾に手を当てた瞬間に相手の身体が強張ったのを感じ、夜中の意識の覚醒が何によるものだったのかを知る。程なくその身体からは力が抜けるが恐らくまだ痛みが完全に無くなった訳では無いのだろう。鳩尾から手を離す際、相手の足に掛けた膝掛けを僅か引き上げる事で腹部までを覆い。__以前とは異なりお酒では無く温もりによる睡眠の継続を促す事はしなかった。それは儚くも美しくも感じられる月明かりの中だからか、相手がふいに漏らした気持ちにもどかしさが宿っていたからか。普段痛みを隠し強がる相手が落とす本音は、どうしたって感情を揺さぶられ、緑の瞳にはグッと切なさが滲むのだ。「…前にアダムス医師に点滴してもらったの覚えてる?どうしても駄目な時は、また助けて貰おう。」病院を嫌がる相手ではあるが、強い薬でその場限りを押さえ付け副作用として別の問題が出るのでは本末転倒。彼に助けを求める事は決して悪い事でも恥ずべき事でも無いのだと優しく微笑みつつ、「今は焦らないで、って言った所で納得出来ないのはわかってる。」と、告げては軽く肩を擦って )
( ワシントンの医者に罹っていた時に貰った大量の薬があるため、レイクウッドに戻って来ても未だアダムス医師と顔を合わせる事はしていなかった。ワシントンの医者は、専門外ではあるが同じ薬を処方する事なら出来ると、診察もそこそこに一気に数ヶ月分を処方するようなタイプだったのだ。どうしても辛くなったら、一時的な処置をしてもらう事も可能だという相手の言葉には小さく頷いて。「向こうでは…どうしても、些細なきっかけであの頃の記憶が呼び覚まされた。その環境も良くなかったんだろうな、」本部での2年間が症状を悪化させた理由は当時と結び付いてしまっている環境の所為でもあっただろうという自覚はあり、そう呟いて。「______セシリアと、最後に食事をした店を数年ぶりに見かけた。…ワシントンには辛い記憶が多すぎた、」ワイングラスの中の赤に月が光を落とし、妙に感傷的になっているのだろうか。ワシントンでの事を断片的に言葉にしつつ、息を吐き。 )
( グラスの中の赤を呷りながら静かに話し始めた相手の言葉に耳を傾ける。月明かりに照らされたその横顔に赤みこそ差している訳では無いが、体内を巡るアルコールは少なからず相手の心にも作用し、だからこそ普段よりも饒舌に__そうして“セシリア”の名前を出し過去の話をしたのかもしれない。“あの事件”があったまさにその場所に約2年もの間身を置いた相手は、例えどれ程望まなくたって当時を思い出す様々に触れた筈だ。それは当時と変わらずそこに有る建物であり、風に混じる仄かな香りであり、移り変わる天気すらももしかしたら。「…ワシントンに居る以上避けては通れなかったもんね。全てを回避する事は出来なかった。」同意する様に頷きを落とし、相手が如何に過酷な状況の中に居たかを思い少しだけ表情が険しくなるが。同時にその中に居る事でどれ程の負荷が心身にのし掛かっていたのかを自覚していても尚、己を…他者を無用な脅威から遠ざけようとしてくれたその不器用な優しさに胸が痛むのだ。__相手とセシリアが最後に食事をした場所は果たしてどんな所だったのだろうかと想像する。その場所に行ってみたい、だなんてとても口には出来ないがその時の2人はきっと美味しい食事を前に幸せに笑っていたのだろう。「…何時か__…何時か、思い出すワシントンの記憶が辛いものじゃなくなればいいな。…セシリアさんと食事をしたお店を見て、あの時のご飯は美味しかった、妹は笑顔だったなぁって。エバンズさんの記憶に強く残る“あの事件”の時のセシリアさんじゃなくて、今は少し見えなくなっちゃってる…エバンズさんを笑顔に出来るセシリアさんの記憶で、何時かエバンズさんの心がいっぱいになって欲しい。」暗い壁を僅かに揺れる瞳で見詰めながら、静かに、普段よりも遥かに穏やかな声色で紡ぐのは己が望む相手の幸せだ。今直ぐには無理な事で、笑顔の妹を思い出す事で辛さが増す結果になるかもしれないが、それでも何時か…辛さを感じる心の隙間すらも“相手の望む”セシリアの姿で埋め尽くされて欲しいと思う )
( “あの事件”の時ではないセシリアの姿。事件から十数年が経って漸く、其れを______幼い頃の断片的な記憶や、ワシントンに居た頃の記憶を時々思い出すようになった。幸せな記憶を振り返るべきではないと、未だに自分でブレーキを掛けてしまう事が多いのだが。「……そうなったら良いな、」とだけ、静かに同意を示して。一番最初に思い出してしまうのは、悲しくも“あの日”の姿。辛い記憶で埋め尽くされてしまわぬように、せめて笑顔の妹を忘れずに居られるようにと、財布の中に妹の写真を入れている。けれど幾ら其の笑顔を記憶に焼き付けようとしても、あの瞬間の姿がフラッシュバックしてしまう、そればかりは自分でコントロールする事が難しかった。_____だからだろうか、笑顔の相手を見ると、明るいその瞳を見ると安心するのだ。薄暗い中で、隣に座る相手に視線を向けると、柔らかな月光を湛えた相手の瞳を見つめて。 )
( 静かに落とされた同意の言葉は相手自身が一番渇望している事だろう。一度だけ見せて貰った事のある財布の中に大切にしまわれた1枚の写真。幸せそうなセシリアのその笑顔が何時だって相手の中にあって欲しい。「__なるよ。時間は掛かるだろうけど、何時か必ずそうなる。」暗闇を見詰めたまま紡いだのは何の根拠も無い未来を確定する言葉。その言葉を躊躇いも無くハッキリと落とした後に隣の相手に顔を向け、緑の瞳を細める事で柔らかく微笑むと「大好きなお兄ちゃんの事を、何時までも苦しめる筈無いからね。」まるで出会った事も話をした事も無いセシリア事を知る様な言葉を。続けて「エバンズさんの記憶に残るなら笑顔じゃなきゃ。」と、これは己が思う事。もし何時かの未来__相手と離れる時が来た時。思い出して貰える表情は矢張り笑顔だったら良いと思うから。幸せな人生だったのだと、身勝手にも思って欲しいのだ )
( 記憶が悲しい瞬間で途絶える事ほど辛いものはない。それまでがどれほど幸せな笑顔で溢れていたとしても、残酷にも一瞬にして全てを塗り替えられてしまう。その奥にあった笑顔を思い出す事さえ酷く難しくなってしまうのだ。相手の瞳に浮かぶ色は、穏やかな、楽しげな、明るいものであって欲しい。其れは決して、今は亡き妹と重ねて“妹の分まで”と願っての事ではなく、相手自身が幸せであって欲しいと願うから。言葉を発する事はしないままにグラスの赤を飲み干すと、くらりと視界が揺れる。薬が効き始めている事と僅かな酔いとが結び付いたようで、不快な痛みは薄れつつあった。「…せめて2年前のように、人並みに働けるように精進する。」とひと言告げると、ワインの瓶にコルクの蓋を閉めて。 )
無理だけはしないでね。…私が近くに居る事を忘れないで。
( “人並みに”と相手は言ったが2年前の相手は少なくとも“人並み以上に”働いていた。沢山の痛みや苦しみを1人壊れそうな心に押し込めて捜査に万進するその姿は“刑事の鏡”と言えば聞こえは良いが、決してそんな言葉で片付けて良い事では無い筈だ。頷きと共に返すのは矢張り心配の乗る、相手には幾度と無く掛け続けた言葉で。相手の中にある自分自身に対する苛立ちやもどかしさは、身体が着いて来ない事によるもの。誰かに頼るのでは無く自分で確りと仕事をしたいと思う人にとっては“頼れ”と言うのは心を楽にする言葉では無いかもしれない。特に変に気を遣われたりする事が嫌いな相手にとっては余計にだろう。それでも側に居る以上相手を支え、力になりたいと思うのは当然だ。ワインボトルに蓋を閉めた事でこれ以上飲まないのだと判断すれば「…眠れそう?」と
問い掛けて )
( “頼れ“と直接的に言われるよりも”近くに居る事を忘れるな“という言葉は、真っ直ぐに胸に落ちた。人に頼る事が苦手な自覚はある為、頼って欲しいと言われてもどうすれば良いかが分からずいつも曖昧な返答になってしまう。けれど、”近くに居る事を忘れない“事なら、自分にも出来る気がしたのだ。「…やってみる、」とだけ素直に頷くと、ワインボトルを手に立ち上がる。冷蔵庫に其れを戻すと、「…多分な。少し痛みも落ち着いた、」と答えて。もう一度横になって少し眠ろうと思えば、グラスの中身を飲み干した。 )
( 返って来たのは随分と素直な返事。珍しい事もあるものだと思いつつもそれを言葉にする事無く破顔するだけで終え。__相手が冷蔵庫にワインボトルをしまったのを見届け2人で寝室に戻る。隣同士に寝転べば久し振りを感じた僅かな煙草の残り香が鼻腔を擽り、再び仄かな切なさが胸中に渦巻くのだが静かに目を閉じる。瞼の裏の暗闇を見詰めたまま「きっと今日は朝まで眠れる。…おやすみなさい、エバンズさん。」掛け布団の中で身体を丸めるように微動し、少しだけ相手の方に身を寄せつつゆっくりと言葉を紡ぎ、後は温もりと呼ぶ温かさの中で眠る事として )
( ______“その事件”が起きたのは、レイクウッドに戻り、漸く少しずつ働き方のペース感覚を掴み始めていた頃だった。郊外で女性の遺体が見つかったという一報が入り、現場に向かう事となった。ミラーは別の件で出ており署内には居なかった為、電話を掛けて今対応している件が一段落したら現場に来て欲しいと伝える。「警備にはお前が遅れて来る事を伝えておく。現場の住所はメールで送るからそっちが落ち着いたら来てくれ。」と。---現場は市街地から40分ほど離れた郊外。少し鬱蒼とした林道を抜けると湖に出る。其の湖畔にあるコテージは夏や冬の一定の期間しか使われておらず、それ以外の時期は管理を任された人が時々掃除をしているらしい。今朝いつもの様に外を掃いていると、玄関の鍵が壊されているのを見つけ、不審に思い中に入った所、若い女性の遺体を見つけた______というのが通報内容だった。コテージの手前には規制線が貼られ、警備の為に立っている警官からの敬礼に軽く答えつつ「後から、レイクウッド署のミラーという女性刑事が来る。」とだけ伝えてコテージの中に足を踏み入れて。雨戸が締め切られたコテージ内は暗く、ソファなどの家具には埃除けの布が掛かっている。リビングに当たる場所の暖炉の前に女性が倒れているのを見つけ、ジャケットのポケットから手袋を取り出して其れを嵌めると静かに近づいた。此方に背を向けるように倒れた女性の焦茶色の髪が床に広がっている。外傷を確認する為正面に回り込み________薄く開かれたままの瞳と目が合った瞬間、“見てはいけない”と警告が鳴り響くのを感じた。ひゅ、と喉の奥で掠れた音がして、一瞬にして“同じ情景”の記憶の波が押し寄せていた。薄く開かれたままの緑色の瞳や青白い肌に生気はない。自分はこの光景を見た事がある、そして彼女を知っている。其れを理解した瞬間、此の場にこれ以上留まる事は不可能だった。身体に強い痛みが走るのと同時に吐き気に襲われ、まともに立っていられる状態でもない。リビングを出て壁に掴まりながら、逃げるようにコテージの奥へ奥へと向かい、ゲスト用の寝室であろう部屋へ移動して。床に崩れるも呼吸が上手く出来ない。どうか嘘だと言って欲しい。自分ではどうする事も出来ないままに鮮明な記憶の中に引き摺り込まれ。 )
( ___請け負って居た別の事件が大方片付き一段落した事で、向かった先は既に相手が現場検証を初めて居るだろうレイクウッド郊外にある湖畔の別荘。道の左右から木々が伸びる薄暗い道を抜け湖の手前で車を停めると、規制線の前に立つ警備員にFBI手帳を見せ「レイクウッド署のベル・ミラーです。」と名乗り手袋を嵌める。規制線を潜り、壊された玄関の鍵を一瞥してからコテージの中に入れば何処かひんやりと感じられる空気に身が引き締まり、相手の姿は無いものの何か気になる箇所でも発見したのだろうと、先に遺体を確認するべく暖炉の前に倒れる様にして亡くなっている今回の被害者の傍らに歩み寄り__「……え、」その顔を見た時、余りの衝撃に一瞬呼吸が止まり身体が硬直した。彼女を知っている。決して忘れる事の無いその女性は、以前エバンズが妹の記憶以外を無くした時に【セシリア・エバンズ】として相手の前に立ってくれたカフェの店員だ。セシリアに瓜二つの風貌で、兄である相手も見間違える程。記憶を取り戻した相手と、今度お礼も兼ねてお茶をしに行くと決めて居たのに、結局沢山の事件捜査に追われ未だ叶っていなかった。彼女の名前は【アンナ】だ。__知り合いが事件の被害者になる捜査はこれが初めてで、薄く開かれた光の無い緑の瞳を見下ろしながら立ち竦んで居たも、ふいにリビングに隣接する部屋の奥から物音が聞こえ、弾かれた様に顔を上げる。何処か霧掛かって居た意識が引き戻され、その瞬間に頭の中はこの光景を既に見ているだろう相手の事でいっぱいになった。不味い、と早鐘を打つ胸のまま閉められた扉の一つ一を開け放ち__コテージの一番奥の寝室らしき部屋に相手は居た。床に崩れ落ち、狂った呼吸を元に戻す事も出来ないでいるその姿を見て警告音が鳴る。「…っ、エバンズさん、ミラーです!わかりますか、」早足に相手の側に歩み寄り両膝を床に付く形で座り込むと、上下する背中を擦りながらやや声を上げる様にして名を名乗り。焦燥を纏いながらも先ずは相手の意識が今“何処”にあるのかの確認をして )
( セシリアに瓜二つな彼女の遺体は、過去の記憶を鮮明に呼び起こした。そして十数年を掛けて少しずつ思い出せるようになって来ていた事件前の彼女の姿を一瞬にして掻き消し遠ざけてしまう程に、強い衝撃を与えた。光を失った緑色の瞳が、あの日アナンデール幼稚園で見た妹の瞳と重なる。血が流れ出し、彼女の身体の下に赤黒い血溜まりを作っていた。ほんの少し前まで、自分を信じて子どもを抱きしめる様にして此方を見ていた妹は、一瞬にして命を奪われたのだ。_____アンナは、あまりにもセシリアに似ていた。「……っ、はぁ゛…ッセシ、リア……許してくれ、」譫語のように漏れるのは過去への懺悔。あの日、あの時、あの場所で感じた心の痛みが甦り顔を覆うようにして蹲る。アンナの姿が目に焼き付き、セシリアと重なり、意識は過去を彷徨っていた。息が上手く出来ず、鋭い痛みが鳩尾に走り身体を起こしておくことが出来ない。相手の声も、今は届かなかった。 )
( 顔を覆い床に蹲る相手の唇から漏れるのは妹の名前と繰り返される謝罪の言葉。当然ながら相手の意識は“今”に無く過去を__“あの時”を彷徨って居る。アンナの遺体とセシリアの遺体が重なったのは明白で、この発作を伴うフラッシュバックが短い時間で治まらない事もわかるものだから、今出来る最善策は。__「少し離れるよ、直ぐ戻って来るから待ってて。」落ち着け、落ち着け、と自分自身に言い聞かせながら相手の背中から手を離し一度寝室を後にする。アンナの遺体の横を通り抜け、玄関から入って来た検視官と顔を合わせると「…すみませんが席を外します。直ぐに戻るので先に検視をお願い出来ますか、」と告げコテージを出。足早に向かうのは湖の手前に停めた自身の車の元。相手の姿を探すのに室内を歩き回った際、ゲスト用寝室の廊下の突き当たりに裏口を見付けたのだ。その裏口の横に車を停め直し、再び正面玄関から相手の居る寝室まで戻って来ると、「__エバンズさん、苦しいのはわかるけど立って。此処に居ちゃ駄目、」床に蹲ったまま尚も謝罪を繰り返す相手の両脇に腕を回し上半身を起こす。身体に痛みが出ている事は承知だが、此処に居続ければ時期に検視官や他の警察官がやって来て相手にとって最も見られたくない姿を見られる事になる。身長差も体格差も違う成人男性を持ち上げる事は一苦労なのだが、放置の選択肢がある筈も無く、殆どチカラの入らぬ相手を支え半ば引き摺る様な形で壁伝いに一歩一歩廊下を進み裏口から外に出ると、停めた車の助手席を開け崩れる形で相手を座らせ。肩で大きく息をしながら、席のサイドにあるレバーを引き背凭れを倒す。鳩尾に負荷の掛からないだろう所で止め、そこで漸く運転席に移動すると、未だ少しばかり上がる呼吸のまま「…聞いてエバンズさん、あそこに居たのはセシリアさんじゃない!」と声を掛け肩を擦るも、この状態の相手に届く確信は無かった。同時に相手がこの事件の捜査指揮を執るのは絶対に駄目だという確信もあり。水を飲む事も出来ないだろう相手が薬を飲み込める筈も無く、今は僅かでも落ち着くのを待つ事しか出来ない絶望的な時間が続き )
( アンナの遺体を目にした事で、当時の絶望の中で思い出さないようにと、恐らく無意識な自衛として蓋をしていた記憶までもが甦っていた。十数年間“忘れていた”記憶。せめて苦痛を感じる事なく何が起きたのかも分からぬままに…と、ずっと願っていた。______けれど。自分は知っていたのだ。立ち尽くした自分の目の前で、犯人が自害し現場が喧騒に包まれる中、妹が自分の名前を呼んだ事を。小さく震える声で“お兄ちゃん”と、セシリアが声を上げた事を。自分の姿は見えて居なかっただろう、血溜まりが靴の先まで広がる中で白い手が縋るように伸ばされ、靴に触れた。しかし身体が動かず呆然としている間に、しゃがみ込んで彼女の手を握ってやる前に、彼女は動かなくなった。痛みの中で自分を探した彼女を安心させてやる事も出来ず、一人で逝かせてしまったのだ。相手に引き摺られるようにして車に連れて行かれる間、意識が彷徨っていたのはそんな記憶の中。背もたれが深く倒された助手席のシートで、痛みを逃すように身体を僅かに横に向けるのだが呼吸は一向に落ち着く気配がない。相手の言葉さえ届かない中、酷い発作的な症状は数十分は続いただろうか。皮肉にも、意識を今に戻す手助けをしたのは“痛み”だった。鋭く走った痛みに思わず鳩尾を抑えた時、意識が“今の”痛みに向いたのだろう。自分が車に居る事に気が付き、暗く沈んでいた瞳にほんの僅か光が映ると、視線は虚げに宙を彷徨って。 )
( 声が届かぬとわかっていても、肩を擦り声を掛け続けるしか無かった。___時間にしてどれ程が経ったか。過去を彷徨い暗い闇を湛えて居た碧眼にほんの僅か…注意して見ていなければわからない程の光がチラついたのに気が付くと、前屈みになるような体勢で相手の顔を覗き込み冷たい頬を軽く叩く事で意識と共に視線も此方に向けさせる。「ミラーです、エバンズさんは今車の中に居るの。…わかる?」と、声を掛けた後「ゆっくり、大きく呼吸して。…大丈夫、ちゃんと落ち着くから。」痛みに耐える為必然的に浅く早くなりがちな呼吸を意識的に変えるのが必要な事。浅い呼吸は身体に十分な酸素を回せず、やがて酸欠状態になり指先の震えや頭がぼんやりとする症状に繋がってしまうから。徐に相手の手を取り、その指の腹を自身の手首に誘う。一定の感覚で微動する脈拍を感じて貰いそれが少しでも呼吸の感覚を取り戻す手助けになればと思っての事で。___コテージの中では検視官が検視を進めていた。犯人特定に繋がる証拠品は今の所出ていないものの、自殺や事故死の可能性は極めて薄く、“他殺”と言う結果になるだろう )
( 酸欠で頭が回っていなかったものの、相手の言葉を聞くと数度小さく頷く事で理解していると示して。未だ浅い呼吸が胸に痛い。相手の首筋に触れた指先から伝わる脈拍で少しずつ呼吸のペースを取り戻し、上擦っていた呼吸がようやく落ち着き始めるのにはまた時間を要した。後に残るのは、身体を押し潰すかのような重たい倦怠感。「_____セシリアは、…」と僅かに掠れる声で言葉にしたものの、自分で意識に混濁がある事に気づき其れを振り払うように頭を振った。妹が亡くなったのはもう随分前の事だと自分に言い聞かせる。自分が今すべき事はセシリアの安否を問う事ではなく、捜査を続ける事だと。「……被害者は、」と言い直したものの、その先の言葉は続かなかった。被害者は誰なのか、どういう状態なのか、何故彼女なのか。考えるだけで、あの光景に思考が向かいそうになるだけで、呼吸が再び上擦りそうになるのだ。せめて今この場所では、記憶に一度蓋をして“正常に”刑事として在るべきだと、深く息を吐いて。 )
( 長い時間を要して漸く相手の呼吸や意識が少しばかり落ち着きを取り戻したのを確認すると、脈拍へと誘っていた手を離す。一度は“セシリア”と落とした名前、それが“今”では無い事に気が付いた相手の振り払う様な動作を苦しげな瞳で見詰めつつ、その後に言い直された、後半こそ続かなかった“被害者”への問いに「…被害者の名前はアンナ。以前私達が行った事のある、あのカフェの店員で間違い無いと思います。」と静かに答えた後「検視官が先に検視を行ってるけど、まだ終わってません。…私は中に戻るけど、エバンズさんは絶対に車から降りないで。…約束して下さい。」ドリンクホルダーに置いていたミネラルウォーターのペットボトルの蓋を外し相手に手渡しながら、酷く真剣な瞳で相手はこの場に留まるべきだと言う事を告げる。それは相手の思いとは真逆であろうとも。拒否の返事を聞く前に運転席の扉を開けると車外へ出。窓ガラスを挟み今一度念を押す様に首を左右に振ってから、コテージへと戻り。___別の警官から被害者の名前は【アンナ・ハミルトン】でカフェの店員である事聞き、矢張りあの時の女性で間違い無いのだと胸には重たい鉛の様な気持ちが落ちた。驚きこそすれど、嫌な顔一つする事無く“セシリア”を演じてくれた彼女の屈託の無い笑顔はもう見られないのだ。__部屋に争った跡は無く、衣服の乱れも無い。腹部を撃たれた事による出血死と思われるが、薬莢が見付からない事から犯人が拾い持ち帰ったのだろう。人を殺しておきながらそれだけの冷静さがあったのだとしたら気味が悪い。犯人に繋がる証拠品も現段階では出て来る事無く、死亡推定時刻も不明。後の詳しい事は検視官から纏めて送られて来るとの事で一度署に戻る事となり。___コテージを出、車に戻ると重たい息を吐き出す。「……署に戻るね。」被害者の事に触れぬまま、それだけを告げてエンジンを掛ける。相手がこの捜査に関わるべきでは無いと言う思いは僅かも薄れてはいなく、寧ろ強まるばかりで )
( やはりあのカフェの店員だったのかと表情は暗くなる。“セシリア”として自分の前に立ってくれた心優しい彼女が、何故事件に巻き込まれたのか。車から降りないようにと念を押され、更に釘を刺すように外からも視線を送られると、分かっていると大人しく背凭れに身体を預け直して。中に戻り検視官と話をしたかったのだが、未だ微かに足が震えて居て、今立ち上がってもふらつく可能性があった。少し落ち着いたからと言って、今再び同じ光景を目にしてフラッシュバックを起こさないという確証も無い。脳裏に焼き付いてしまった光景を思い出さないように意識を別の所へ向けつつ、鞄から薬を取り出し安定剤を多めに服用する。痛み止めも1錠。やがて相手が戻ってくると、多くを語らず車のエンジンを掛けた相手に「______分かった事はあるか、」といつも通り報告を求めて。 )
( 此方が意図的に事件の話をしないようにしても、案の定捜査の指揮を執る立場にある相手は検視の報告を求めて来る。無視をする事も出来る筈無く、静かに車を発進しつつたっぷりの間を空けた後「___争った形跡や衣服の乱れも無く、抵抗出来ぬ間に襲われたか、もしくは顔見知りの犯行の可能性もあります。…詳しい事は署に戻り次第、報告書が送られて来るかと、」前を見据えたまま現段階の…アンナの死因の部分だけを省いた説明をして。___署に着き、警部補執務室に入るや否や、後ろ手に扉を閉め開口一番の言葉は「…エバンズさん、この捜査には関わらないで下さい。」だった。扉を背に、デスクに座った相手を真っ直ぐ見据える緑の瞳は真剣そのもので、この事件に関わったら最後、もう“戻って来られない”何かを予感として感じてしまっているからで )
( 車内で聞いた相手の報告には違和感があった。検視が始まっているなら、想定される死因について現場レベルで話があるはずだ。しかし相手が報告したのは、抽象的な現場の状況と、想像の範囲を出ない事だけ。外傷の有無だけでも捜査を進める足がかりになるというのに、其れを口にしない相手に違和感を感じつつも、車内で其れを問い詰めなかったのは少なからず自分の中に“聞きたくない”という思いがあり、其れを直ぐに拭い切れる程割り切れて居なかったからだろう。---署に戻り執務室に入るな否や相手から告げられた言葉に視線を向けると「_____此の捜査の指揮官は俺だ。お前に指示される立場じゃない、」とだけ答え、相手の言葉を受け取る素振りも一切なくデスクに腰を下ろして。 )
それはわかってる!__…わかってます。この事件の捜査指揮官がエバンズさんだって事も、部下である私が指示を出すのが間違っている事も、わかってるけど、何も言わない訳にはいかないの。
( 案の定聞く耳持たずの相手に思わず声を荒らげもう一度視線を合わせるべくデスクを挟み目前に移動するも、此処で感情的になっても駄目だと思えば1つの深呼吸で気持ちを調えた後。それでも今回ばかりはと首を横に振り。「…今回の事件、エバンズさんの精神が安定した状態で捜査出来るとは思えません。…事件に長く身を置けば置く程きっと取り返しのつかない事になる。エバンズさん自身が一番わかってるでしょ?」諭す様な、それでいて懇願する様な響きを纏う語調で断言的な言葉を真っ直ぐに告げ。___丁度その時、相手のパソコンに検視官からの検視結果を記したメールが送られて来て。そこにはアンナの身体の外傷の有無や死因などが記されていて )
( 今回の事件捜査に長く関わる程、取り返しが付かない事になる_______相手の懸念が間違っているとは思わない、自分でさえ其の危険性は感じているのだから。それでも、今捜査から手を引く決断をした場合、また自分は何も出来なかったという後悔と罪悪感を抱え続けるだろう。「……あの時何も出来なかった事をずっと悔いている。あれ以降、無念な思いを抱える家族や被害者を1人でも減らし、犯人に相応の罰を受けさせる______其れだけが使命だと思ってやって来た。…今我が身可愛さに責務を放棄して逃げたら、俺はまた後悔する。せめて彼女が最期に残した悔いを晴らしてやりたい、」感情的にではなく、自分の思考を整理しながら言葉を紡ぐ。アンナとセシリアを重ね合わせて情が移っている事は否定できないが、彼女と彼女を取り巻く近しい人間の無念を晴らしたいという思いが強かった。---受信したメールは現場を担当した検視官からのもので、アンナの死因や致命傷となった箇所、死亡推定時刻などが纏められていた。腹部を撃たれた事による失血死。貫通した薬莢は見つかっていない。_____目に入る言葉のひとつひとつが過去の記憶と繋がり、再びフラッシュバックが起きそうになるのを一度目元を覆い情報を遮断する事で拒む。自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をした後に再び相手と視線を重ねると「…捜査を降りるつもりは無い、」と断言して。 )
( “あの時”__犯人の強行に何故もっと早く気が付く事が出来なかったのか、何故逮捕出来なかったのか、何故大勢の人の命を、妹の命を助ける事が出来なかったのか。__相手が数十年経った今も尚その後悔や罪悪感を抱え続けて居るのは勿論知っていた。悪夢に魘され安定剤を飲み、心身共にボロボロの状態であっても立ち続ける理由もまた。___感情的になる事も無く、気持ちを吐露する事を苦手とする相手が真剣に1つ1つ言葉を紡ぐその顔を真っ直ぐに見詰め、思わず奥歯を噛み締める。“その時出来なかった最善”を、“その時してやりたかった事”を、相手は今回成そうとしているのか。胸の奥が締め付けられる様な苦しさに思わず目を伏せ、それでも今回は降りて欲しいと伝え続けたいのに出来なかった。そうこうしている内に相手は送られて来た事件の詳細を目にしたのだろう、再び重ねられた断言する言葉に「……だったら、」と音を振り絞った後「…無理だけはしないって約束して。調子が悪い時はちゃんと休んで、私に仕事を振って。…エバンズさんの事を大切だって思う人が居る事を、どうか忘れないで。」再び相手を真っ直ぐに見詰め、真剣な色を瞳にも言葉にも乗せながら1つ1つ挙げていき。後半の言葉に僅かの震えが出たのはそれだけ心が揺れたから。「無理だと思ったら、引き摺ってでも病院に連れて行きます。」そうやって最後、少しばかり強い口調で以て締め括って )
( 心優しい彼女が無念の内に其の生涯を閉じたのなら、刑事として最善を尽くし彼女や遺族が望む物を義務がある。かつて自分と過去とに寄り添ってくれたアンナが今回の被害者である以上、尚の事捜査を離れるという選択は出来なかった。助ける事が出来なかった、無念を晴らしてやる事さえ出来なかったあの日の後悔を、二度と繰り返したくは無いのだ。「______分かった、」と相手の言葉に視線を落としたまま小さく頷く。拒否すれば捜査に関わる事までもを反対されると当然理解していて、ある意味自分が捜査を続ける為の返事でもあったのだが。それでも続いた相手の言葉には少しばかり驚いたような色を乗せた瞳で相手を見つめた。自分の事を“大切”だなどと表現する者が居るとは、自分でも思ってもみなかった為意表を突かれたというのが正直なところ。「……分かった、」と、全く同じ言葉を繰り返したものの、相手の気持ちを受け取り、先ほどの上辺だけのものより少しばかり自分の中に落とし込んだ、素直な返事だっただろうか。 )
( 一度目の“分かった”が、今この場を乗り切り捜査を続ける為の上辺だけの返事だと言う事に気が付けない程浅い付き合いでは無い。気持ちの無いその頷きと了承に思わず吐き出しそうになった溜め息が喉の奥で止まったのは、その後直ぐの相手の表情が驚きを纏ったから。一度は飲み込んだ筈の溜め息が漏れた後、顔には仕方の無さそうなほんの僅かの呆れと、それよりも遥かに大きな慈しみの色が滲み「__ちゃんと言葉にして良かった。」と、独り言にも似た声量に続けて「驚いてるようだけど、エバンズさんの事が大切なのはずっと前からだからね。…大切だから、苦しむ姿を見たくないって思うのは普通の事でしょ。」至極穏やかな笑みと共に言葉を重ね。二度目の“分かった”に今度は少なからず空っぽさを感じなかった事に満足そうに頷いて。___執務室の扉がノックされたのは部屋を出て行こうとしたその時だった。入室許可の返事の後に入って来たのは顔馴染みの鑑識官で、茶封筒を相手に手渡すや否や『現場で撮影した写真と、死亡推定時刻の報告です。』と簡単に中身の説明をし再び部屋を出て行き。良いか悪いかこのタイミング、死亡推定時刻はまだしも殺害現場の写真を見なければならないと言う事は、どうしたって遺体の写真も見ると言う事。部屋を出る事は選ばず険しい表情のまま相手の目前から横に移動して )
( 相手が自分の事をいつも気に掛けて居る事は理解していたものの、”大切“だと其れを言葉にされるのは慣れず、曖昧な表情を浮かべつつ小さく頷くに留まり。---ドアがノックされ、入ってきた鑑識官が手にしている茶封筒を見ると表情は硬いものに変わる。中に何が入っているかは聞くまでもない。彼が再び部屋を出ていくと、受け取った茶封筒を手にデスクに腰を下ろし封を開ける。リビングの暖炉の前に倒れている位置関係が分かるよう遠目から撮った写真、そして彼女の顔や身体の傷が分かる写真。倒れたセシリアの姿が、クラークからいつか見せられた写真が、重なるようにフラッシュバックするのを感じて目を閉じた。ゆっくりと息を吐き出し、意識的に呼吸を整えた後に写真を捲ると腹部と胸部に受けた銃痕が目に入り。銃弾を受け、赤黒い血が流れ出すその色が鮮明に思い出され呼吸が上擦る。冷静に捜査に向き合うと決めたのに、たったこれだけ______写真を目にしただけで、心は嫌だと悲鳴を上げる。未だ見なければならない資料は残っている、捜査は降りないと断言した以上支障なく捜査に関われる事を証明しなければならないのに現場の写真は心を深く抉った。 )
( 茶封筒の中から出て来た写真の鮮明度は高く遺体の様々な角度から何枚も何枚も撮られていた。直ぐ隣の相手から吐き出される息は細く震え、“2人の遺体”が重なり記憶の中の過去が蘇った事で心が悲鳴を上げているのが手に取る様にわかるものだから、「…エバンズさん、」たった一言名前を呼んだ後、相手の手の中にある写真を横から静かに取ると角度的に見えない様再び目前に移動しソファへと腰を下ろしつつ「手分けしよう。私は写真を見るから別の資料はお願いします。」捜査を降りるのでは無い相手の望む形で、それでも相手の心に大きく負荷が掛かるものはなるべく此方にと。それが現段階で出来る最もベストな事だと思うからこそで。___【アンナ】の姿は矢張り写真で見たセシリアに余りに似過ぎて居た。瞳の色も髪の色も、何もかも。朗らかに笑ったその女性が今は瞳に光を宿す事無く血に濡れ、その命の炎を消してしまっているのだ。彼女や遺族の無念を晴らす為、そうして相手の心身の状態を考え早急に事件を解決しなければならない。険しい表情で写真を見詰めながら、それと同時に今夜家に戻り眠る相手の悪夢の不安がどうしても首を擡げていて )
( 手分けをする、という提案は相手なりの配慮だろう。自分に負担が掛かり過ぎないようにと、過去の記憶に直結する写真を見なくて済むようにと。相手の言葉には大人しく頷いて、資料に目を通し始める。実際に視覚情報としてアンナの遺体の写真を見るよりも、活字で書かれた報告書を読む方が未だ楽だった。---アンナの死因は、拳銃で撃たれた事による失血死。現時点で犯人に繋がる直接的な証拠は現場には残されておらず、今後コテージの持ち主や周辺の靴跡、タイヤ痕などの解析を進めると。防犯カメラがあるような場所でも無いため、捜査の初動は多少なりとも難航するだろう。「…彼女の勤務先での聞き込みと、コテージの持ち主の聴取から進めていくしかなさそうだな、」資料を読み終えると眼鏡を外し、眉間を解しつつ明日以降の捜査の動きについて思いを巡らせつつ言葉を紡ぎ。明日から捜査に追われる事となる為、帰れるのであれば今日は早めに休んだ方が良いと相手に促すも、自分も相手の部屋に戻る事には些かの抵抗があった。夜眠るのが怖い。相手にも迷惑を掛けるだろう。しかし同時に、ホテルに泊まると言い出せば相手が許さないであろうことも理解していた。「…捜査の間、ホテルを借りる事も出来る。」とだけ伝えて、相手の反応を伺い。 )
( “誰でも良かった”と言う理由なのだとしたら、態々町外れにあるコテージに来て施錠された鍵を壊してまで犯行に及ぶのは考え難い。だとすれば最初からアンナ1人を殺害する事を目的としていたのか。もしくはコテージの持ち主が何らかの理由で犯行に及んだか。__「アンナさんがコテージを訪れた理由を、従業員の誰かでも知ってれば良いけど、」と答えつつ、枚数のある写真を捲るも唐突に捜査中の相手自身の住処の話をされれば視線だけを持ち上げる。己同様に相手も夜中の不安が少なからずあるのだろう。けれどその不安は悪夢を見る、と言うそれに関してだけでは無く、その結果近くで眠る己を起こす迷惑を思ってのものも含まれている事は直ぐにわかった。だからこそ再び視線を手元の写真に落とし「…コテージまで1時間も掛からないし、ホテルをとる程の距離じゃないよ。」相手の言いたい事を確りとわかっていながら、何食わぬ顔で敢えて距離の話を返し。そうやって今度は此方が相手の反応を伺う様にその視線を上げ直し、「もう少ししたら一緒に帰ろう。」最終的にホテルの話は却下だと言う様に“一緒に”を少しばかり強調しつつ。資料諸々を見、明日以降の捜査の話をした後は共に家に帰るべく車を走らせる事として )
( 普段であれば資料を読み込み捜査の進め方を頭の中で組み立てるのだが、その作業がこれ程困難だと感じたのは初めてだっただろうか。直接写真を見ないにせよ、ふとした瞬間に現場で目にした記憶と過去の事件の記憶とが絡まってフラッシュバックしそうになる。目の前の現場を、事件を見なければいけないのに、事あるごとに過去が首を擡げるのだ。其れでも決して降りないと断言した捜査、手を抜く訳にはいかず集中して資料と向き合い気付いた頃には夜も遅い時間になっていて。---確実に心身を擦り減らす事に繋がるであろう今回の捜査。相手の家へと戻る車内で、多く服用していた薬の効果が既に切れるのを感じていた。身体の痛みが強く出て、首筋や背中に汗が滲む。痛みを逃す為に浅くなる呼吸と、ほんの些細なきっかけでフラッシュバックに襲われそうな不安定さを自分でも感じていて意識を今に繋ぎ止めておくことに必死だった。相手の部屋に着くと、ジャケットを脱ぐよりも先に鞄から取り出した鎮痛剤を手にシンクで水を汲む。「_____…っ、」強い痛みに軽く唇を噛む事で耐えつつ、痛みの波が引くのを待ち。 )
( ___執務室では細い糸の上を綱渡り状態、ギリギリの所を保っていた相手だったが道中でその全てが崩れ去った様だった。安定剤も鎮痛剤も既に効果は無くなってしまっているのだろう、繰り返される浅い呼吸の合間に苦しげに漏れる小さな声が聞こえる度、胸が締め付けられた。署から部屋までは然程の距離では無い筈なのに、とんでもなく長く険しい道に思えてしまうのは気持ちばかりが急ぐから。やがて体感にして1時間以上に感じられた運転が終わり、相手と共に漸く部屋に入るのだが着替えるよりも、何をするよりも先に相手がとった行動は痛みから逃れる為、追加の鎮痛剤を胃へと流し込む事だった。その行動と、唇を噛み懸命に痛みに耐える表情に思わず“もういい”と捜査の終了を叫びたくなる気持ちを懸命に押し込める。グッと奥歯を噛み締め静かに相手の横に立ち、背中を擦る表情は苦しげに歪んだ。この手に鎮痛剤と同じだけの力があれば良いのにと何時だって思うのに、何時だって何も取り去る事など出来ないのだ。ただ、隣で背を擦り痛みが、苦しみが、過ぎ去るその時を共に待つしか出来ない事の無力さが、何故だか何時にも増して大きく重く伸し掛る。「……」背を擦る合間、なるべく負荷が掛からぬ様に注意を払いつつ、ゆっくりと相手のジャケットを脱がせるとそれを片手にまた暫し落ち着く時間を取り。どれ程の時間そうしていたか。シンクの前に立ったままでは楽な体勢もとれぬだろうと思えば「…横になれる?」と、ソファかベッドまで行けそうかを決して焦らせる事は無い穏やかな声色を努め問い掛けて )
( 今回の捜査に刑事として関わる事が得策でない事は、当然自分でも理解していた。到底万全とは言えない状態で心身の不調を騙し騙し捜査に当たれば周囲にも無用な迷惑を掛ける事も。此の事件に固執するのは謂わば自分の“エゴ”だ。十数年前に果たせなかった事を、かつて自分を引き戻してくれた_____妹に瓜二つのアンナには、せめて。じっとりと汗ばんだ背中を摩られるも、相手の問いには小さく頷いて。ワイシャツの首元を緩めベッドに横になる。眠るのが怖いという思いはありながら、身体は疲れていて程なくして浅い眠りに落ちていた。---夢は、酷く鮮明だった。あのコテージで真っ赤な血溜まりに立つ自分の前にはアンナの遺体。現実の昼間と同じように現場の状況を確認するために部屋を1つずつ開けていく。奥に進みある部屋の扉を開けると、折り重なるようにして被害者が倒れる幼稚園の一室が広がっていた。声にならない悲鳴と共に飛び起きた身体には痛みが襲う。「……っ、あ゛…はぁ…ッ…!_____違う、っ…」自分に言い聞かせるように紡いだのは、記憶の混同を感じる防ぐための言葉。酷い発作に引き摺り込まれる事を避けたいという思いから、なんとか意識を繋ぎ止めようとするのだが、ベッドの上に身体を起こしたまま徐々に呼吸は浅くなっていき、瞳には暗い翳りが落ち。 )
( 普段より遥かに覚束無い足取りで寝室に向かいベッドに横になった相手の後を追い、尚も背中を擦り続ける事暫く。鎮痛剤の効果が僅かに効き始めて来たのかやがて酷い痛みに耐えていた相手がまるで気を失うかの様にして眠りに落ちたのを見ると、汗で額に張り付く前髪を一度だけ払ってやった後静かに寝室を出て。相手のジャケットを丁寧にハンガーに掛けながら視界が滲んだのは心が揺れているから。唇を噛み締め溢れだしそうな感情を抑え込む様に一つ深呼吸をし、続いて水道水をグラス半分飲み干してからソファに腰掛け鞄の中から事件の資料を取り出し真剣な表情で目を通す。出来る事はたった一つ。今回の事件を一分でも、一秒でも早く解決する事だ。___細かい文字を何度も何度も読み、遺体の写真を隅々まで凝視し、この静まり返った部屋の中で壁に掛かる時計の秒針の音も認識出来ない程没頭していた脳に唯一届くもの。良いか悪いかそれは相手の声にならない悲鳴だった。弾かれた様に資料から顔を上げ寝室の扉を開けると暗い部屋の中、ベッドの上で座り込み狂った呼吸を懸命に押さえ付け様としている相手の姿があり。「っ、!」直ぐ様傍に駆け寄り枕元の間接照明を点ければ、その勢いのままベッドに上がり相手の頬に両手を添え顔を持ち上げて。真正面から見る褪せた碧眼は暗く翳り、彷徨いを見せている。「…エバンズさん、」と呼び掛け強引に視線を合わせようとしながら、親指の腹を頬に滑らせ「…此方見て、私がわかる…?」意識が今何処にあるのかを確かめるべくその顔を覗き込んで )
( 苦しさを抱えながら懸命に呼吸を繰り返す中で相手と視線が重なると、妹の瞳が記憶の奥で揺れた気がした。目の前に見えているのは確かにベル・ミラーなのだが、セシリアとアンナの瞳がちらつくように重なり“今”を記憶に阻害されている感覚があった。分かると、相手の言葉に頷いたのだが其れも長くは続かず意識が過去に引き摺り込まれる。過去の事件が、新たに思い出してしまった事実がフラッシュバックした事で取り乱した様子を見せると、呼吸は一層浅く喘ぐようなものに変わる。「____っ、セシリア、…っ悪かった…許して、くれ…ッ…は、ぁ゛…セシリア、」血の色が頭から離れない。浅い呼吸を繰り返していた身体は徐々に痙攣を始め、譫言のように妹の名前を呼びながら身体は震えが止まらなくなっていた。意識を今に引き上げようと、抵抗のように強く握り締め爪を立てた腕には鬱血した痕が残る。---酷い発作が落ち着く兆しを見せたのは、40分以上が経ってからの事。ふと目の前の相手が“見える”ようになり、それと同時に褪せた碧眼からは涙が溢れた。あまりに苦しい状況に対する絶望と、相手を認識出来た事に対する安堵とが入り混じる。「……手を、…っ握って、やれなかった…あんなに苦しんだのに、…1人で逝かせてしまった、…!」涙ながらに言葉にしたのは、今回の一件で思い出した記憶と、その後悔で。 )
( 此方の問い掛けに頷きが返って来た事で安堵が胸に落ちるも、それは長く続かなかった。己を認識出来たのは僅かの間だけで、再び狂いを見せた呼吸と共に一瞬“今”にあった意識は過去へと落ちた様子。直ぐ近くで喘ぐ様な呼吸が繰り返され、その合間合間に何度も紡がれる妹の名前と謝罪に一度きつく双眸を閉じると、恐らく相手自身の意思とは関係無く止まらなくなっているのだろう震えを押さえ込む様に、先ずは近くの掛け布団を手繰り寄せ相手の背中に掛け、その後痙攣を繰り返す身体を確りと抱き竦め「…許してるよ、ちゃんと許してる。…大丈夫だから、」此方の声が今の相手に聞こえていなくとも何度も“大丈夫”を伝え続けて。___酷い発作が漸く少し落ち着き、身体の震えが治まりを見せて来た頃、次は先程まで翳りを見せていた相手の碧眼からとめどない涙が溢れた。同時に紡がれたのは“あの日”の後悔。“あんなに苦しんだのに”の一言を拾い思わず驚愕に見開かれた目で相手を見る。セシリアは…即死では無かったのか。至近距離の相手の表情は余りに悲痛な色に染まり、涙に邪魔され引き攣る喉から絞り出される後悔は重い。薄く開いた唇から何か言葉を発するよりも先に頬に冷たさが滑り、己もまた泣いている事に気が付いた。相手の涙を見たからか、その言葉で2人のその時を想像してしまったからか、物理的には有り得ないのにまるで抱き締めた相手の身体から絶望や痛みや後悔が…あの時の記憶が、流れ込んで来るかの様なそんな感覚を感じてしまったからか。思わず俯き、そこで相手の腕にある鬱血痕に気が付き涙の量は増す。以前駄目だと制した所謂自傷は、今回は列記とした抵抗だったのだろう。__セシリアは死の直前、相手に手を伸ばしたのだろうか。兄の姿は見えていたのだろうか。幼い園児を庇いながらもその心はきっと恐怖でいっぱいだった筈だ。流れ出る血の感覚を、撃たれた箇所の熱や痛みを、感じてしまっただろうか。相手は…伸ばされた手を握る事すらも出来ない程の絶望に一瞬にして染まってしまったのか。「…っ、ふ…ぅ、」痛い、なんて言葉が生温く感じられる程の余りに大きく重たい何かが胸の奥に根を張り体内から締め上げる様な感覚に俯いたまま嗚咽する。何に対しての涙なのかはわからなかった。泣き続けるべきなのは己では無く相手なのに、ただ、心が痛いのだ。相手の腕を緩く掴んだまま、何か言葉を発する事も出来ずにいて )
( 相手が泣いている事に気付いたものの、思い出した過去の出来事について語るだけの体力は残っていなかった。ただ相手が己の腕を握る仄かな体温を感じ小さな嗚咽を聞きながら、気を失うようにして意識を手放していた。---発作が長く続いた事による疲労の所為だろう。皮肉にも齎された眠りは深いもので、明け方まで目を覚ます事はなかった。明け方、空が青みを帯びて白み始めた頃になって目を覚ますと、身体の重さを感じて深く息を吐き出す。たった1日で、かなり無理をして捜査を進めた時と同じような______自分自身で身体の不調を自覚する程に、影響を受けている事を思い知らされて。自分の直ぐ隣で布団も掛けずに寄り添うように眠っていた相手の頬に涙の跡が残っている事に気付くと、指の腹でその跡を拭うように頬を撫でる。布団を相手に掛けた後、静かに起き上がるとシャワーを浴びてじっとりと身体にかいていた汗を流して。リビングに戻ると、煙草を取り出してベランダに出る。アンナの事件捜査には関わらないと言ってしまえば楽なのだろうが、どうしてもそれは出来なかった。深い溜息と共に煙を吐き出すと、風に攫われた其れは静かに紺碧の空に溶けて。 )
( ___何時眠りに堕ちたのかはわからなかった。頬撫でられた事も、布団を掛けられた事も、相手が寝室を出て行った事にも気が付かず眠っていたのだがその眠りは決して穏やかなものでは無く。右も左も、上も下も真っ暗な闇の中でたった1人相手がその場に蹲って居るのだ。顔は見えずとも震える背中と漏れる嗚咽で泣いている事はわかる。傍に寄り背中を擦りたいのにその足は僅かも動かず「エバンズさん」と唇は動くのにその名前が音になり相手に届く事は無い。相手はたった1人で泣き続けて居る。__ふ、と意識が浮上した時既に部屋の中は夜中の様な暗がりに染まってはいなかった。隣に相手は居らず、目の奥が重たい様な感覚に一度眉間を軽く解してから静かにベッドを降りて寝室を出。相手はあの日の満月の夜の時と同じく部屋に背を向ける形でベランダに居た。漂う紫煙は直ぐに風に乗り形を崩す。__朝が、来なければ良いのにと一瞬思ってしまった。悪夢に魘される夜が続けと言う事では無い、ただ、朝が来てしまえば相手は再び心身に鞭を打ち苦しみを背負いながら捜査を続けるのだから。今度はあの日の様に勢い良く開け放つ事無く静かにベランダに続く窓を開ける。朝の冷たい風が吹き抜け身体に纏わりつく感覚の中、伸ばした手は相手の腕へ。隣に立ち、煙草の煙の香りに混じりボディーソープの香りが鼻腔を擽れば「__風邪ひくよ。」と、小さく声を掛け身長差のある相手を見上げ。その表情は柔らかく穏やかな笑みなれど、何処か切なさも滲んでいて )
( 窓が開く音がして相手の声が聞こえると、隣に立った相手に流し目で視線を向ける。シャワーを浴びて少しばかり熱を持った身体に冷たい風が纏わりつく感覚は涼しくて心地が良いのだが、風邪を引くと言われれば其れもその通りで。「…お前も、何も掛けずに寝てただろう。」と、風邪を引くのは相手も同じだとばかりに返事をして。深い溜息に煙を乗せて、青みがかった空に視線を向ける。「……鮮明な夢を見るのは、きついな。」現実と錯覚する程にリアルな夢。血の色も、血溜まりを踏んだ時の感覚も、目の前に倒れる人たちも、全てが鮮明なのだ。それが心を深く抉ると口にして。けれど捜査を続けると決めたのは自分。「夜中に付き合わせて悪かった、…捜査に集中しないとな、」昨晩酷い発作を起こした自分の側に相手がずっと寄り添ってくれていた事はわかっていて、感謝と謝罪を。立ち止まっている場合ではない、きちんと捜査に集中しなければと、自分に言い聞かせるように言うと煙草を灰皿に入れて。落ち着いている今のうちに多めに薬を飲んでおこうと考えつつ、相手と共にリビングへと戻り。 )
__そうだっけ?全然覚えてない。
( 何かに引き摺り込まれる様にして眠りに落ちた事は理解していたが、目が覚めた時身体は確りの掛け布団の中にあったものだから、それはつまり先に目が覚めた相手が態々掛けてくれたと言う事。少しばかりおどけた様に笑い肩を竦めて見せた後は吐き出された紫煙を追う様にして同じく空を見上げ。「…そうだね。…今回は特に、」今請け負っている事件捜査がどうしたって”あの事件“を思い起こさせる事は確か。小さく頷き言葉尻を切る事で、次は謝罪に対して首を横に振り気にしていない事を伝えるのだが。その謝罪の後の言葉には頷く事が出来なかった。捜査に集中するべきなのは絶対で、それが刑事である事の努めで、被害者や遺族に対して真摯的な向き合い方だ。わかっている。わかっているのに、これ以上相手の苦しむ姿を、涙を流す姿を、見たくないと思ってしまうのだ。結局何も返事をする事が出来ないまま相手と共にリビングに戻ると「…コーヒー淹れるね。何時もより少しだけ甘いやつ、」と、顔を向け__「待って、」ケトルにお湯を沸かすよりも先に相手が取り出した薬の量に反射的に制止の言葉が口をついて出た。一度に飲んでも良い数は知っている。捜査の”障害“となる全てを抑え付ける為に規定以上の数の薬を飲もうとしている相手の考えも。それで全てを押さえ込む事が仮に出来たとしても、後に襲うのは大きな副作用と薬を飲む前以上に何倍にも膨れ上がる苦しみだ。心の底から苦しんで欲しく無いと思うが、それでも、見過ごす事は出来ない。「……」相手を見上げる真剣な瞳は暗に“駄目だ”と物語っていて )
( 甘い珈琲を淹れると言う相手の言葉に頷いてソファの方へと向かうと、昨晩置きっぱなしにしていた鞄から処方薬を取り出す。シートを手に水を汲んだコップを手にした所で制止されると、相手と視線を重ねる。規定を超えた量を飲んだ時の副作用を案じているのだろう。決められた量以上の薬を独断で飲むのは当然良い事ではないと分かっては居るが、普段の薬だけで制御し切れるとも思わなかった。「______いつもの薬だけで乗り切る自信が無い、」感じている率直な不安を口にしたものの、だからと言って勝手に多量の薬を服用して良いという事にはならないだろう。結局規定の2錠を水で流し込み残りを鞄へと戻すと、代わりに資料を取り出してソファに腰を下ろし。 )
( 相手のその不安は正直な所己も感じている事だった。事件が事件である為身体にも心にも掛かる負担は相当なもので、普段の薬で湧き上がる様々な症状を綺麗に取り除けるとはとても思わないのだが。「__エバンズさん、此処はレイクウッドだよ。エバンズさんの事を確りとわかってる医者の居る所。…点滴とかの処置も出来るかもしれないし相談してみよう。」それでも駄目なものは駄目だ。結局規定の量だけを飲んだ姿を見て表情をまた僅か笑みに戻すと、相手が病院嫌いだと言う事は重々承知の上でアダムス医師の話を出し。__普段より少しだけ砂糖とミルクの量を多めに入れたコーヒーを資料を避ける様に相手の目前に置いては、隣に腰掛けつつ己もまた別の資料に目を通し出勤時間までの間、少しでも犯人逮捕に繋がる何かを得ようとして )
( _____事件の発覚から1週間ほどが経っても、捜査線上に有力な容疑者が上がる事はなかった。カフェの同僚、学生時代からの友人、常連と、アンナを取り巻いていた人間関係を洗い出しているものの捜査に“進展は無い“というのが現時点の評価だろう。進展がないにも関わらず、この事件の捜査に長く身を投じていれば心身は徐々に蝕まれる。少し眠っても夜中に酷い発作を起こし、明け方近くまで其れが続く事もあった。不調は少しずつ日中にも影響を及ぼすようになっていて、薬の効きが悪いと感じるようにもなっていた。---現場検証の写真は必要が無い限りなるべく見返さないようにしていたものの、鑑識の説明を受ける時などはそうもいかない。現場に残された痕跡について追加で分かった事を説明に来た鑑識官と、写真を見ながら其の内容を聞く。光を失った緑色の瞳が自分を真っ直ぐ見据えているように思えて、血の気を失った白い肌に真っ赤な血が流れる様が思い出された気がして、平静を装う事に必死だった。説明を終えた鑑識官が部屋を出て行った後、思い出すなと自分に言い聞かせながら写真を封筒に戻す。けれど既に呼吸は浅くなり始めていて、椅子に腰を下ろすとなんとか其れを押さえつけようと目元を覆いつつ深く息を吐き出して。この時間は報告書を持って来る署員も多い。此処で発作を起こす訳にはいかないと、パソコンに目を向けて報告内容を追記しようとするのだが、視界は不安定に揺れていた。 )
( ___殺害現場が限られた人しか来ない付近に監視カメラも無い辺鄙な場所、と言う事もまた捜査難航を助長させているのかもしれない。有力な証言を得る事が出来ない日が続き、それでもほんの僅かの切っ掛けで捜査が軌道に乗る事もあると今日もまた朝から聞き込みに出ていた。___署に戻って来たのはお昼過ぎ。成果は0だがもう一度アンナを取り巻く周辺の人達の証言を纏め直そうと思っての事。自身のデスクに立ち寄り上着を脱いでからその足で警部補執務室へ。何時もならノックの後直ぐに入室を許可する返事があるのだが今回はその声が返って来る事は無く、数秒待ってから中を覗き見る様に静かに扉を開け。デスクに座りパソコンの画面を見詰める相手の眉間には皺が深く刻まれ心做しか呼吸が安定していない。調子を崩したのは明らかで部屋に入り扉を閉めるや否や、軽くその背に掌を宛てがい。「…最後に薬飲んだの何時?」パッと見、デスク付近に薬も無いし足元のゴミ箱に空のシートが捨てられている気配も無い。相手の事だから周りに怪しまれない様にと細心の注意を払いゴミを別の場所に捨てた可能性もあるが。背にあてた手を軽く上下に動かす事で少しでも落ち着く事が出来るならと )
( 扉が開いた事で僅かに身構えたものの入って来たのは捜査に出ていた相手だった。目元を覆い、押さえ付けるようにゆっくりと呼吸を繰り返す。「…朝、2錠飲んだきりだ、」決められた量を決められた時間に飲んだ以外は服用していないと答えて。---不意に、外で救急車のサイレンの音が響いた。署の近くの道を通過しただけ、それだけの事だったが不安定な今はその音が記憶に直結してしまった。自分がどうする事も出来ずに血の海に立ち尽くす中、要請を受けて現場に急行したのであろうパトカーや救急車のサイレンの音が、遠くで幾つも響いていたのだ。その光景が鮮明にフラッシュバックし、喉の奥が詰まるような閉塞感を覚えた。その時に感じた恐怖が、絶望が、血の色と共に押し寄せる。「_____っ、は…ッあ、……っ、」目元を覆ったまま、途端に不規則になった呼吸は肺に酸素を届けない。鳩尾の痛みが強まり、ワイシャツを握りしめたまま意味を為さなくなった呼吸を喘ぐように繰り返すこととなり。 )
( 相手の返事に腕時計に視線を落とす。前回の服用から既に十分な時間は経っていて今飲んでも問題無いと判断すれば相手の背から手を離し鞄の中にあるだろう処方箋の袋を取ろうとしたのだが。__遠くに救急車のサイレンの音が聞こえ署の近くの道を通過したのだろう、音が大きくなり再び遠く消えていったのを鼓膜が当たり前に拾った時、相手の呼吸音が変わった。ハッとして顔を向けると先程までの狂いそうなのを辛うじて抑え込めていた呼吸とは違い、肺まで確りと酸素が届いていない、喉の奥で引っ掛かる様な息遣いの相手がその苦しさと鳩尾の痛みに耐える様にシャツを握り締めていて。浅い呼吸に混じり喘ぐ様な声が漏れるこの状態ではとても錠剤を飲み込む事など出来ないだろう。先ずは少しでも呼吸のペースを取り戻し、薬を飲む事が出来る所まで回復しなければならない。この時間帯、署員が何時この部屋の扉をノックしても可笑しくは無い状況もまた焦燥が募るもので。過去の思い出したくない記憶が強制的に呼び起こされているのならば、塗り替える切っ掛けが必要だ。徐にポケットからスマートフォンを取り出し開いたのはアルバムのフォルダー。何時かの日、相手と共に訪れた陽の光が反射しキラキラと輝く青い海を撮影した動画を流すと、それを相手の前に置き。「…ほら、見て。海綺麗だったよね?少し肌寒かったけど、ちゃんと潮の匂いもした。…覚えてるでしょ?」波が寄せては返す一定の音が静かに部屋に流れる中、相手の背を擦りながら、血に濡れた記憶では無い別を思い出せる様にゆっくりと話し掛けて )
( あの日鳴り響いていたサイレンの音と、目の前に広がる絶望的な光景。身体の奥から恐怖が湧き上がってくるような感覚を覚える中、“違う音”が記憶の波の中に挟み込まれる。寄せては返す波の音は、辺りが血の海と化した教室では聞き得ないもの。手繰り寄せられる記憶は、赤ではなく穏やかな青に近い色の筈だ。目元を覆っていた事もあり、相手のスマートフォンの画面に流れる映像は目にしていなかったものの、波の音はフラッシュバックした記憶を徐々に追いやり、別の記憶を齎した。浅くなった呼吸はそれ以上苦しげなものになる事はなく、落ち着けるように浅く繰り返されるばかり。ややして上げた顔には汗こそ滲んでいるものの、其の瞳に過去に支配された暗い影は落ちておらず「______大丈夫だ、…覚えてる、」と小さく答えて。鳩尾の痛みは完全には引いていなかったものの、鞄から薬を取り出すと僅かに震える指先で錠剤を取り出し水で流し込んで。 )
( 相手の背中を擦りながらどうにか意識を別の所へ、と語り掛ける事数分か。顔を上げたその表情に倦怠感の様な色こそ滲んでいるものの先程までの酷い発作は治まっているのが確認出来れば安堵を胸に落とし薬を飲む姿を一瞥し。けれど100%の安堵に支配された訳では無いのが正直な所。本来調子が悪い時でも救急車のサイレンで意識が持っていかれる事など無かった筈だ。それ程までに今の相手は心身共にギリギリの…もしかしたら既にそのギリギリすらも通り越した所に居るのかもしれない。発作に加えて痛むのだろう、鳩尾付近を押さえる仕草も此処数日間で何度も目撃した。動画を終わらせスマートフォンをポケットに戻した後、再度腕時計に視線を落としてから「…エバンズさん、もう一度周辺の聞き込みに行こう。」と提示したのは、この時間、此処に居れば多くの署員が報告書の確認やら何やらで出入りして来る、そうなれば不調を勘づかれる可能性があると思っての事で。___署を出て、相手の座る助手席側の窓を少し開け風の通りを良くしてから車を走らせる。真新しいミネラルウォーターのペットボトルは相手が何時飲む事があっても良い様にドリンクホルダーに欠かさない。アンナの職場であるカフェに続く一本道、事故か何かでもあったのか、今日は何故か車通りが多く普段以上に進みが遅かった。やがて赤信号でも無いのに前方車が完全に停車し、己の車も後続車も次々と停車し完全なる渋滞が出来上がる中、運転席側の窓も少し開けたタイミングで何処かの車が大きく、長く響くクラクションを鳴らした。そんな事をしたって渋滞なのだから車は動かないのだと内心溜め息を吐きながら反応する様に小さく肩を竦めて )
( 調子が良くない中、執務室に居て署員たちと幾度と顔を合わせる事は避けたいという思いもあった為、相手が聞き込みの提案をして来た事には素直に同意を示して。重たい倦怠感を抱えつつ、少し背凭れを倒して窓の外へと視線を向ける。車の進みが徐々に遅くなり、殆ど進まなくなった事で正面へと視線を向けると、赤いランプがかなり先まで続いているのが分かった。「…この道で渋滞は厄介だな、」抜ける道が無いため、渋滞の解消を待つしかないと思えば溜息と共にそう告げて。再び視線を窓に戻した時、長いクラクションの音が響き思わず肩が跳ねた。それと同時に、ほぼ強制的に事件の記憶が引き摺り出されるような感覚。先ほど執務室での発作からそう時間が経っていない上、安定剤も服用したというのに。何度も過呼吸の症状が起きれば当然身体にも大きな負担が掛かる。先ほどよりも浅くなった呼吸は戻るための糸口を見つけられず、更には身体の痛みも先ほどより強い。背凭れから身体を起こし前のめりになるも、酸欠の所為で目の前は真っ白だった。「……っ、…く、ぁ゛…っは、」自分の意思も関係なく脳裏に鮮明に蘇る記憶。銃声が耳にこびり着き、フラッシュバックが直ぐに止む事はなく。 )
( 何処の誰が鳴らしたクラクションかは知らないが渋滞が困るのは捜査に出ている此方とて同じ事なのだと肩を竦めたその直後、隣に座る相手の肩が小さく跳ねたのと同時に先程執務室で起きた状態と同じ…否、それよりも酷く感じられる浅く狂った呼吸を繰り返す姿があれば思わず目を見開く。このフラッシュバックの発作が何によって誘発されたものか、それが数秒前のクラクションであると直ぐに察したものの、今の相手の状態では何が引き金となるかは未だ読めない。響くその音が過去の銃声やもしかしたら現場に駆け付ける警察車両が鳴らした音に繋がってしまったのかもしれない。「っ、落ち着いて、大丈夫だから…!」前屈みになり身体を丸める様に鳩尾の痛みに耐え、発作に苦しむ相手に片手を伸ばし肩を擦るのが精一杯なのは今運転中と言う最悪の状況だから。おまけに抜ける道の無い中での渋滞。アクセルから足を離し相手を抱き締める事も、こんな道の真ん中に車を完全に停車させる事も出来ない。前を見、進みを確認しなければ事故に繋がる可能性もあるし下手すれば後続車に次なるクラクションを鳴らされる可能性もある。為す術の無い四面楚歌な状況に焦りばかりが募り、思わずハンドルを握る片手が小さく震えた。早くこの渋滞を抜けて何処かに車を停めたいのに、1人苦しむ相手を抱き締め呼吸を戻す手助けをしたいのに。「何も起きてない、さっきのは事件とは全く関係の無い音で、急に鳴ったからエバンズさんは少しビックリしちゃっただけ。…だからねっ、大丈夫なんだよ、」時折前方を確認しながら何時の間にか震えていた手で相手の肩を擦り続け、記憶にある悪い音じゃないのだと、大丈夫なのだと、声を掛け続けるのだがそんな簡単に落ち着く事が無いのも知っている。手の震えに釣られる様に徐々に言葉にも震えが混じり、焦りとは別に恐怖も生まれる中、それでも一向に解消されない渋滞はまるでそれすらも意思を持ち、嘲笑いながら相手を苦しめる為に送り込まれた何かの様にすら感じてしまい )
( 呼吸を元のペースに戻す為のきっかけも無く、浅い呼吸がただ苦しい。身体が震えるのを抑える事が出来ず、動かない車の中でどれ程苦しんだか。“今”を映さない瞳にも、フロントガラスの向こうの赤いランプの光は届き、それが血濡れた記憶をより鮮明にさせた。「______っ、セシ、リア…ッ、あ゛、はぁ…っ、」身動きの取れない車内で譫言のように何度も妹の名前を呼び、襲い来る記憶の波に耐える時間が数十分は続き、漸く此処が車内だと認識出来るまでに戻ったものの意識はまだぼんやりとしていた。酷く汗を掻いた身体は鉛のように重たく感じられ、目の前で起きているかのような過去の記憶を鮮明に繰り返した所為で心は不安定になっていた。些細な音が記憶を呼び覚まし、耐え難い苦痛を齎す今の状況はあまりにも負担が大きい。此の苦痛を繰り返したくない一心で、処方薬へと手が伸びる。先ほど飲んだばかりの発作止めと、2回分の鎮痛剤。明らかに過剰摂取なのだが、この苦痛をこれ以上繰り返したくなかった。今この瞬間、苦痛が抑えられるなら後で苦しむ事になっても構わないとさえ思ったのだ。相手が運転中で此方に気付かない、或いは気付いても直ぐには止められない状況下で薬を水で流し込むと、襟元を緩めて背凭れへと身体を預けて。 )
( 狭い車内に相手の苦しみに喘ぐ呼吸と、繰り返される“セシリア”を呼ぶ声が広がる。助けられなかった事を懺悔する様に何度も何度も譫言の様に繰り返される彼女の名前は、余りに悲痛な想いを纏っていて耳を塞ぎたくなる程に心を乱される。視界が滲んだのを唇を噛み締め、ハンドルを強く握る事で抑え込むと、そこで漸く前方車両が緩やかに動き始め「…もう抜けられるからね。」と、一声掛けて車を発進させ。前方を見詰めある程度の車間距離を保ち運転をしていた為、相手の手が水のペットボトルに伸びた時にはもう既に何もかもが遅かった。取り出された薬の量も過剰で、それを飲んでも良いだけの時間は未だ経っていない。けれど……制止の言葉は音にならなかった。仮に車が停まっていたとして、それでも薬を飲むなと言えただろうか。署内でも、車内でも、あれだけ苦しみ、それからどうしても逃れたいと言う相手の気持ちがまるで流れ込む様に伝わってしまった。後に来る副作用の怖さなど、考えられない程に苦しかった筈だ。奥歯を噛み締め、“見なかった事”を決めた心は重く揺れる。___やがて一本道を抜けた先にあるカフェが見えて来たのだがスピードを緩める事はしなかった。犯人の足取りが掴めず捜査が難航している事は百も承知なのだが、私情だなんだと言われても今優先すべき事はカフェに聞き込みに行く事では無い。「__エバンズさん、降りて。」車を停めた場所は病院の駐車場。未だ過呼吸や身体に纏わりつく痛みが尾を引く倦怠感が続いているだろう相手に真剣な表情でそう告げると、自身が先に降りた後に助手席側に回り扉を開ける事で促して )
( 眠っていた訳では無かったが、一瞬意識が飛んでいたのだろうか。普段であれば相手が目的地を外れ病院へと向かっている事には道を見て目敏く気付く筈だったが、今日ばかりは相手が目的地であるカフェを素通りした事に気付けなかった。気付いた時には既に車は停まっていて、助手席の扉が開く。其処でようやく、見慣れたレイクウッド総合病院の駐車場に居る事を理解するのだ。見慣れて居るとは言え、レイクウッドに戻ってから病院に来るのは初めてで、2年以上訪れて居ない事になるのだが。車を降りる事を拒絶しなかったのは、今は医者の助けが必要だと自分でも感じたからだろう。重たい身体を起こして外に出ると「______お前は捜査に戻れ、」とだけ伝える。相手まで巻き込んでこれ以上捜査に支障を来たす訳にはいかない、後は自分でなんとかすると。 )
( 病院嫌いの相手の事、扉を開けたまま行く行かないの押し問答も覚悟していただけに拒否の言葉一つ飛んで来ず素直に車を降りた相手に一瞬だけ瞬くのだが。直ぐに、相手自身が病院を拒絶出来る程身体も心も安定していない自覚があるのだと思えば再び心は小さく痛み。助手席の扉を軽く閉め病院へと踏み出した右足が止まったのは、ある意味予想していた通りの事を言われたから。病院に用事があるのは相手で、己はあくまでも捜査実行するのがこの場合の最善だと言う事はわかっているが__「私も行きます。」間髪入れず口を着いたのは相手の意に背く同行を望むもの。「一緒に話を聞かせて下さい。もし検査や長く掛かる話し合いになるなら、確り捜査に戻るから、」今の相手の状態を見て医師はこの先どんな判断を下すのか、今回の事件解決までの間出来る処置はあるのか、聞きたい事は山ほどあるのだ。相手に何を言われた所で最初の話だけは聞くと貫けば、後に何を言われた所で聞かない振りをし、半ば強引に院内へと入る事として )
( 付き添いは不要だと言っても相手が其れを受け入れる事はなく、結局半ば強引な形で相手と共に待合室へと向かう事となり。短い期間に二度も発作を起こした事で身体には重たい倦怠感が纏わりついて居た。身体の痛みも強く出ていたものの、流石に2倍量の鎮痛剤はよく効いたようで診察を待つ間にだいぶ楽になっていて。早く捜査に戻りきちんと事件と向き合わなければならないのに、余計な事に足を引っ張られている。自分が指揮を取っている事で事件解決の遅れに繋がる、という事だけは避けなければならないという焦燥感を抱えながら、名前が呼ばれると診察室へと向かい。主治医であるアダムス医師と直接顔を合わせるのは、彼が学会の為ワシントンに来ていた時以来だろう。 )
アダムス医師
( 診察室の扉が開かれ相手と__付き添いで来たのだろうミラーの2人が入って来れば両方に視線を合わせ緩く微笑む。その笑みはもしかしたら患者に向ける医師としては何処か微妙な点において違和感のあるものだったかもしれないが、2人がまた一緒に居る姿を見る事は理由はどうであれ喜びと安堵に繋がるのだ。相手が戻って来た理由、その他諸々を根掘り葉掘り聞く事はせず『お久し振りですね。元気では無いから此処に来たのだと思いますが、調子はどうですか?』と、先ずはあくまでも医師として今日相手が受診した理由を問い。2年前の相手のカルテをパソコンの画面に出し、新たに症状として表に出る様になった“鳩尾付近の痛み”の事、“時折現れる脈の乱れ”が尚も続いているのか、ならばその頻度や強さの具合が果たしてどの様に変化しているのかを確かめなければならなかった )
( 2年という月日の経過を感じさせない程に彼は変わっていない、というのが率直な印象だった。数ヶ月前にも罹ったような気さえする程に普段通りの彼に対して、多くを語る事はしなかった。「______フラッシュバックを起こす事が増えた。捜査に支障が出ないように、2週間で良い、強い薬を処方してくれ。」“何故”フラッシュバックを起こす事が増えたのか、自分が今どういう状況に身を置いているのか、本来伝えるべき詳細は口にする事なく、薬を強い物に変えて欲しいと。今起きている症状がかなり重く、容態が悪化していることも深くは言及しないまま、いつものように診察はするのだろうとネクタイを解き襟元を緩めて。「鎮痛剤も貰いたい、」と付け加えた事で、今は痛がる素振りを見せていないものの、痛みは未だに症状として顕著に出ている事が相手に伝わっただろう。 )
アダムス医師
( “捜査に支障が出ない様に”と言う事は、相手は今此処レイクウッドで再び刑事としての日々を送って居るのだろう。生きる活力がそこにあるのなら相手は刑事で居続けるべきだと思う反面、沢山の事件に向き合い、数え切れない遺体を目にする日々がまた続く中での体調面の不安もあった。そんな中で相手が語ったのは詳細を省いた短い不調と、相変わらずの要望。そんな所ばかり以前から変わっていないと吐き出したくなる溜め息を飲み込み、診察をする事がわかっている手馴れた動作に『今処方している薬は、副作用が極力出ないギリギリの強さのものです。はいどうぞ、と直ぐに変えられるものではありません。__“何故”フラッシュバックが起きる頻度が増えたのか、心当たりはありますか?』今一度薬の説明をしつつ、その根源となる所の認識を確かめながら緩められた襟元から聴診器を入れ心音を静かに聞き。___今現在酷い心雑音は聞こえないが、少しばかり鼓動が早い。少し前に発作を起こし過呼吸の状態が暫く続いた可能性も示していて、聴診器を抜いた後は相手の腕を取り脈拍を図る。親指の腹に伝わる脈の動きは一定で、不整脈は無いと判断できるが相手の場合それが何時起きても可笑しくは無いストレスの掛かる中に居る事は確かで、今が大丈夫だからこの先も、と安心出来る訳では無い。加えて付け足された鎮痛剤の所望は痛みが消えていない事の証明だ。相手の腕から手を離し、状態を記録する為キーボードを叩いてから再び向き直ると『懸念している不整脈は今の段階では確認出来ません。けれど、ストレスの強く掛かる中に身を置き続ければ何時かそうなる危険性もある。…不整脈は心臓の病気に繋がる可能性が高い症状です。そうなる前に、働き方を見直すべきです。』真剣な眼差しで一つ一つ言葉にし、そうして最終的には矢張り仕事のストレスが大きく占めてくるものだから刑事を辞めろとまでは言わずとも、変えられる何かはある筈だと。『鎮痛剤は、今と同じものを二週間分出します。…痛みを自覚した最初の頃に比べて、強さや治まるまでの時間に変化はありましたか?』視界の端に映るミラーは少し俯き加減で話を聞いている為、確りとした表情を伺う事は出来ないが、大きな不安を心に秘めているのは確かだろう。相手に痛みの具合を確認しながらもまた違う一抹の不安を感じていて )
( 当然と言えば当然だが、自身の“主治医”であるアダムスはワシントンの医者のように自分の答えた事に相槌を打ちものの数分で薬を処方する、という事はしなかった。此れが本来の診察なのだが、医者を相手に問答が続く事に妙な違和感を感じる程には、自分自身ワシントンでの生活に慣れていたのだろう。「…今追っている事件が、少し……“あの事件”と似ている点がある。」心当たり“しか”ないものの、其れを律儀に相手に説明していては、言われる事はただひとつ______その捜査に関わるな、だ。その確信があるからこそ、今を乗り切れるだけの情報を口にするという姑息な手段に出ざるを得なかった。「……働き方を見直した結果、レイクウッドに戻って来た。この事件が一段落したら、もう少し暇になる。」と、この捜査が終わるまでは休めない事を告げて。強い痛みに襲われると、息をする事さえ痛みに繋がりそうで呼吸が浅くなる。動けない程の痛みに苦しめられる事もある為、今と同じ鎮痛剤を2週間分では直ぐに市販のものに頼らなければならなくなるという不安があった。「……少し痛みが強い。薬を強められないか、」痛みの程度が増大している事にはあまり触れず、もう少し効果が強い物をと食い下がり。______相手がふとした瞬間に不安げな表情を浮かべる事が増えた事には気付いていた。自分が居ない間に起きた事件が未だ尾を引いているのだろうと思ったものの、今回は人質が関係するような事件ではない。原因は定かではないが、今回の事件や自分が不安定な事も関係している可能性は十分に考えられた。「……ミラー、先に現場に行ってろ。もう少し掛かりそうだ、」と、未だ診察が長引く為現場に向かっておいて欲しいと告げ。 )
アダムス医師
( 相手が口にした“心当たり”の事件内容までは当然知らないし、刑事である相手が事件の詳細を事細かく一般人に話せ無い事もまた理解はしていた。だからこそ深く追求する事はしないものの“少し”であれ相手を最も苦しめる全ての原因となった“あの事件”と似ているのならば掛かる負荷は相当なものの筈だ。思わず表情が険しくなり何かを考える様な間が僅か空いた。『…捜査を降りる事は?』と、静かな声で問い掛けたものの、返って来る返事は100%確信を持って“無い”である事はわかっている。だからこそ『今回発作や痛みが増えた原因は、貴方自身も“心当たり”として感じている通りでしょう。…原因がわかっているのならば、それから遠い所に身を置き少しでも負荷が掛からない様にする事が一番です。__とは言え貴方が刑事であり続ける理由を、捜査を第一に考える事を辞めない事も知っています。』と、言葉を続けるも今度は溜め息を飲み込む事はせず。此処に戻って来た事は大変喜ばしい事、けれど問題は“今”請け負ってる事件だ。終われば暇になるとか言う問題では無い筈なのに。今一度隠す事もしない深い溜め息で再び考え込むと、ややして『……これ以上強い薬は服用した後が怖い。けれど痛みで日常生活をスムーズにおくる事が出来ないのは本末転倒です。…朝、病院に寄る時間を30分程作れますか?』1つの案を進ませる為の確認を。__相手から現場に戻れと言われたミラーは一瞬躊躇う様な素振りを見せたものの、従う様に頷くと「…わかりました。何かあれば連絡下さい。」と答え席を立ち。アダムス医師に深く頭を下げてから診察室を出、言われた通りカフェでの聞き込みと事件現場となった場所に行く為車を走らせて )
( 捜査はそう簡単に放り出せるものではない、ましてや自分の為の勝手な都合で降りる事など。相手の問いには首を振る事でその意思が無い事を伝えて。セシリアと瓜二つの女性が被害者となった今回の事件、写真を見てあの日見た光景が鮮明に思い出されるのは当然だ。けれどそれだけに留まらず、些細なきっかけで当時の記憶が首を擡げる事が増えたのはそれだけ強いストレスが掛かっていると言う事か。「……善処はするが、朝早くから捜査に出ている事もある。毎朝は厳しい、」相手が譲歩してくれた以上なるべく従おうという気はあるのだが、毎朝時間を作るのが現実的に可能かどうかは怪しい所だった。時間が取れる日は通院する事を了承しつつ、ミラーが指示通り診察室を出て行った事を確認すると再び相手に向き合う。「______あいつにも負担を掛けている事は間違いない。ミラーの前で体調を崩す事がかなり増えている。…共感性が高いあいつの事だ、あまり側に置き過ぎない方が良いとは思っているんだが、」と、今感じている懸念を相手に告げて。---この時は未だ、ミラーの事を考えられるだけの余裕があったと言えるだろう。更に追い込まれ体調も悪化して行く中で、ミラーさえもが“きっかけ”になり苦しむ事になるとは、今は知る由も無い。 )
アダムス医師
( 相手の返事に再び考え込む事数十秒。『__痛みが出た時に飲む錠剤をこれ以上強める事は出来ませんが、点滴と言う手段があります。フラッシュバックや発作を起きなくさせる効果は勿論無いですし、そこから引き起こされる痛みを全て抑えてくれる訳でも無い。ただ、慢性的な痛みはかなり軽減出来て、錠剤よりも持続時間が長いのは間違い無い。』と、相手の望む今より強い鎮静剤を出す代わりの提案をしつつも、『ですが、その時の体調や免疫力の低下具合などで、点滴後に副作用が出る事もあります。30分程は万が一に備えて処置室に居てもらうのが絶対条件になりますが、』点滴を終えたからと言って直ぐに帰す事は出来ず、全ての時間を合わせれば結果的に1時間近くは自由を拘束する事に繋がると。『朝が難しい時は、夜の診察が終わった後でも構いません。勿論これは特例なので、口外されるのは困りますが__こうでも言わなければ病院に来る事は疎か、鎮痛剤の過剰摂取をされる可能性も0では無さそうですからね。』相手の仕事上、病院の診察時間に合わせられない事があるのは理解出来る。ただの医師と患者と言う関係で、相手だけを特別に扱う事は本来出来ないしやってはいけないのだが、相手の性格を思えば致し方ないと、結果的に甘い選択肢を、珍しく態とらしい表情と皮肉で投げて。___話が居なくなったミラーの調子に移れば再び表情は医師のそれに戻る。彼女の共感性の高さは何度か顔を合わせ話をする中で感じていて、相手が懸念する理由もわかるのだが。『確かに貴方が苦しむ姿を見る事で、同じ様に心を痛めるのは間違い無いでしょう。近くに居る貴方が一番わかっている通り、彼女は優しい女性ですからね。…けれど、見えない所で貴方が苦しんでいるのではないかと常に不安に思う事もまた、ミラーさんにとっては心を大きく磨り減らす事に繋がるのではないでしょうか。一概に何方が良いかを選ぶ事は出来ないですが、あくまでいち医者が客観的に見た意見を言うのならば…距離を置き過ぎるべきでは無いと思います。』相手がワシントンに居た約2年程、相手を想い電話を掛けて来たあの時のミラーの不安そうに揺れる声は未だに覚えている。お互いの心の為に、取り返しが付かない程に離れる決断をするのは避けるべきだと。けれど相手同様にこの先起きる事を知る由もないからこそのアドバイスだった。まさか当たり前に相手の近くに居たミラーが__緑の瞳が、恐怖の、拒絶の、過去を甦らせる切っ掛けになるなんて。相手が拘束時間を許可し、時間外の診察と処置を望むのならば、その日からどうにか点滴や安定剤でやり過ごす日々を送る事になるのだが、やがてその点滴や処方する薬の全てが効かなくなる程に強く重たいストレスが相手の身体にも心にも伸し掛る事となるのもそう遠くない話で )
( 痛みを軽減し効果が長く続く点滴で処置をして貰えると言うのは有り難い話だった。慢性的に起きる痛みが落ち着くだけでも負担は減る。朝に時間が取れなければ夜の診療時間外でも“特例として”処置をして貰えるのであれば、なるべく時間を取ろうと頷いて。「…助かる。行く前には連絡を入れるようにする、」と口外しない事を約束した上で此方の“我儘”を受け入れこの捜査の期間中はサポートしてくれる事に対して礼を述べて。---自分が見えない所で1人苦しむ事に不安を抱え心を擦り減らす事に繋がる。相手の言う其の懸念は正にその通りだと思った。相手を巻き込まない為、無用な心配を掛けない為、距離を置く事は出来る。けれどその結果これまで以上に相手が不安に苛まれバランスを崩す可能性がある事も心配だった。「…もしもミラーが貴方に不安を吐露する事があれば、あまり不安にならないようにしてやってくれ。」ミラーの不安を増長しないように計らって欲しいと伝えて。---その後、時間を見ては点滴の処置をして貰い、治療を同時進行しながら捜査を続けたものの状況は悪い方へと堕ちていくばかりだった。眠る事が出来ず夜をソファーで、ワイングラスと共に過ごす事も増えた。聞き込みに行ったカフェで、彼女の姿を思い出して体調を崩し席で休ませて貰う事もあった。夜に打ってもらった薬の効果が切れる夕方頃に署で過ごす時間が最も気を張った。その日も薬が切れ掛けている事を感じながら、温かい飲み物で気を紛らわそうとマグカップを手に給湯室へと向かい。 )
( ___相手が短期間の内にみるみる調子を崩し、回復の兆しが見えていない事は診察をするのに顔を合わせるアダムス医師も、捜査を共にし、今は同じ部屋で暮らしているミラーも当然気が付いていた。けれど長く効果を発揮してくれると思っていた薬が効かない以上出来る事は限られてしまうのだ。___その日は小雨が降り少し肌寒い天気だった。聞き込みを終えて署に戻って来たのは日が落ちた夕方近く。重たく纏わりつく疲労を少しでも回復する為休憩しようと給湯室で紅茶を淹れようとした正にその時。マグカップを片手に相手が入って来れば自然と顔はそちらに向き、此処に来た目的に気が付くと何時もと変わらず微笑み「…淹れるよ。」と、マグカップを受け取るべく片手を伸ばして )
( 給湯室には明かりが点いていた。後ろ姿で中に居るのが相手だと分かり聞き込みの成果について尋ねようと思ったのだが、振り向いた相手に飲み物を淹れると言われれば「…悪いな、」とだけ答えつつマグカップを手渡して。相手と視線が重なり手が触れ合う_______謂わばよくある日常のひとコマ。それなのに、一瞬ぐらりと視界が揺らぎ、何かは分からない急な不安感が顔を覗かせた気がした。一瞬脳裏に過った“何か”を深追いするべきではないと、僅かな心の騒めきには気付かない振りをする。しかし確かな不安、恐れ、そんな類の感情が湧き起こった気がしたのだ。「…っ、……」一瞬の違和感は同時に痛みを引き連れて来て、ぎゅっと締め上げられるような痛みが走るとシンクに手を突きつつ深く息を吐き出す。少ししてやや痛みの波が治まると「…このまま捜査に進展がないと、来週ごろから人繰りが厳しくなる。…未解決にはしたくない、」と、捜査が長引く事による影響が出て来そうだと告げて。 )
( 指先が触れ合うと同時に相手の持つマグカップが此方の手に移動する。それはこれまで何十回と数え切れない程にあった特別ではない当たり前の遣り取り。それなのに__此方を見る相手の碧眼の奥に“揺れ”が見えた気がして思わず動きが止まった。「…エバンズさん…?」思わず名を呼ぶも、その“揺れ”が何に対してのものか、どんな感情なのか具体的な事はわからずそれを確かめる前に相手は不調を訴えたものだから、シンクに手を付き痛みに耐えるその背中を軽く擦り。ややして険しい表情と共に告げられたのは今請け負っている捜査進展について。紅茶で良いかを確認し、己と相手の2つのマグカップにアールグレイのティーバッグを入れそこに沸かしたお湯を注ぎながら「それだけは絶対に駄目。」と、未解決だけは避けたいと同意を示し。「アンナさんの彼氏にも話を聞いたけど確りとしたアリバイがあるし、他の捜査線上にあがってる人達も同じ。…何か見落としがあるのか、それとも無差別な犯行だったのか__明日からはもう少し範囲を広げて聞き込みします。常連じゃなくてもカフェを訪れた事のある人は出来る限り探し出して。」ティーバッグから染み出る紅を真剣な表情で見詰めながら考えを巡らせる中でゆっくりとした口調の返答を。砂糖とミルクは相手に委ねる事とし、出来上がった紅茶を渡す為マグカップを差し出しつつ、「…少し落ち着いた?」と、痛みの具合を問い掛けて )
( 一瞬感じた騒めきは長引く事はなく、引いていく波のように静かに消えた。相手の問いには問題ないと頷き、淹れてもらった紅茶を手に執務室へと戻ると再び捜査の記録を見返して。---夜に病院に行く時間を取る事が出来ないまま家へと戻り、ベッドへと入ったものの相変わらず眠る事は出来なかった。眠っている相手を起こさぬように布団を出てリビングに向かうと、ワインをグラスに注ぎソファに腰を下ろして。アルコールを摂取すれば、泥のように眠れるかもしれない。そんな淡い期待と共に、空が白み始める頃までリビングにいる事もあった。捜査を進展させなければならないという焦りと、これ以上この事件に関わりたくないと拒む心の狭間で必死に立っている。間接照明を灯すと、何か少しでも手がかりになる事を見つけられないかと、鞄から資料を取り出してそれを読み始めて。 )
( ___相手がベッドを出た事に気が付かぬまま暫くは落ち着いた寝息を立て眠っていたのだが。時間にして凡そ1時間程が経ってからか、深く落ちていた意識が何かの拍子に浮かび上がり浅い眠りを引き連れたそこから更に数十分後。ふ、と目が覚め瞼を持ち上げると寝室はまだ暗く布団から出ていた片足が冷たい。今何時だろうか、ほんやりとした頭でそんな事を思い片足を布団の中にしまい込んだ所でベッドの広さを感じた。それは隣に相手が眠っていない事を表していて、此処数週間は気が付けば同じベッドに相手の姿が無い事が多々あった。ベランダで煙草を吸っている事もあれば、リビングでお酒を飲んでいる事もある。何もせずただ暗い部屋の中ソファに腰を下ろしたままじっと動かないでいる姿を見た事もあった。その度に胸が張り裂けそうな痛みを覚えるのだ。静かに手を伸ばし横のシーツに触れる。ひんやりとしたその生地は相手が寝室を出ていってからある程度の時間が経った事を示していて、ゆっくりと上半身を起こし薄い掛け布団を手にすると寝室を出。__リビングには間接照明が灯されていて、ソファに座る相手を照らしている。テーブルに置かれたワインが注がれたグラスを一瞥してから「……晩酌にしては随分遅い時間だね。」と、驚かせないように静かに声を掛けつつ隣に腰掛け、手にしていた掛け布団を相手の足に掛けて。その際距離の近い位置で相手に微笑みかける。緑の瞳は相手の目にどう映ったか )
( 資料をいくら見返しても新しい何かに気付く事はなく、事実をただなぞるばかり。現場の状況、被害者の外傷と遺留品、交友関係_______気付かない内にかなり没頭していたらしい。小さな物音に顔を上げると、目を覚ましたのであろう相手が立っていて、最後に時計を見てから既に1時間程が経過していた。「あぁ、…眠れなくてな、」と答えつつ、目元を解す。眠気は微かにあるのだが、眠れない。足元に掛けられた掛け布団の温かさで、少し身体が冷えていた事に気付く。ふと重なった視線______薄暗い暗がりの中で、相手の緑色の瞳が光を受けて煌めき、揺れた。相手の瞳は穏やかな色を宿していた筈だ。けれど、一瞬同じ色をした______妹の瞳が重なる。其れは楽しそうに笑った、優しい色をした瞳。相手と視線が絡んだまま、相手の瞳のその向こうにある色を見た。しかし其れは長くは続かず、次の瞬間には光を失った暗い色がフラッシュバックしていた。「______っ、」相手を見つめていた褪せた碧眼には一瞬にして恐怖が浮かび、思わず身体を折り曲げ襲い来る記憶の波と痛みに耐える。鳩尾を握り締め身体を俯かせ、相手と再び視線を重ねる事が出来なかった。呼吸はものの数秒で浅く上擦ったものに変わる。「……ッ、やめてくれ、…っぁ゛、あ!」一瞬にして恐怖に支配され、そこから堕ちるのは早かった。点滴の処置が出来なかった事も手伝って息をするのも辛い程の痛みに襲われ、酷い発作を引き起こしていて。 )
蜂蜜いれたホットミルクでも飲んでみる?身体が暖まって眠れるかもしれないよ。
( 眠れる時に確り__とは言え眠れないからこうして事件の資料を読み漁っているのだとは思うが、夜中に頭を使い脳を活性化させてしまえば来る眠気も来ない筈だとワインでは無い別の飲み物の提案をしつつ、片手でさり気無く広げられた資料を纏め。___「…ッ、?」重なっていた相手の瞳の奥に“揺らぎ”が見えた気がして息を飲む。その揺らぎは給湯室で見たそれと同じもの。そうしてものの数秒でその揺らぎは“恐怖”の色を纏ったものだから、思わず大きく目を見開く事となり。何に対する恐怖なのかわからなかった。鳩尾を握り締め痛みを訴える相手の呼吸は今までの正常なものでは無く浅く狂いを見せていて、発作とフラッシュバックを起こしている。ただ、フラッシュバックに繋がりそうな音も何も無かった筈なのだ。一瞬様々な考えが頭を巡るも、今はそれ所じゃないと直ぐに相手の足に掛けていた掛け布団を今度は震えるその身体を包む様に背後から肩に掛ける。「っ此方見て!ほら、何も無い。…ね?」その状態で此方に凭れ掛からせるのに目前から抱き竦めるのだが。“緑の瞳”が原因で相手がフラッシュバックを起こした事に気が付いていない為、どうにか意識を今に、少しでも落ち着いて貰おうとする行動は必然的に今まで同様相手の顔を持ち上げ瞳同士を重ねると言うそれで。__怖い事は何も無いのだと伝えながら、今相手が最も怖いと感じているものを見せ続けている。…ある意味皮肉な話だろう )
( 苦しげな呼吸を繰り返し、痛みに耐える。身体は自分の意思とは裏腹に震え、まるで目の前で起きている出来事かのように鮮明に再生される記憶を止める事など出来なかった。これまでは過去に堕ちてしまった時、酷いフラッシュバックに苛まれた時、相手と視線を重ねる事が今に戻る手助けになった。その色を妹の瞳だと錯覚する事で、幾らか落ち着く事があった。_____けれど、今はどうだろうか。相手の緑色の瞳を見て思い出されるのは、光を失い虚ろげに此方に向けられた瞳。それは恐らく、アンナの遺体を見た事で鮮明な記憶として上書きされている事が大きな原因のひとつだったが、美しい色の瞳は“恐ろしい記憶”に直結した。「…っあ、…は、ぁ゛……ッ、」相手と重なる碧眼には明らかな恐怖と涙が浮かんでいるものの、首を小さく振るばかりで恐怖が言葉になる事はなかった。思い出してしまった記憶が、彼女の白い手が伸ばされる光景が押し寄せて呼吸はより喘ぐような意味を成さないものに変わっていき、熱を失った指先は冷え始めていて。 )
( 重なる碧眼から恐怖の色が消える事も、その身体から震えが消える事も無い。掛け布団の上から懸命に背を擦るが相手の発作は治まらず直ぐ近くで聞こえる苦しげな息遣いが落ち着く事も無いのだ。アダムス医師の提案によって点滴による治療を受けている事は勿論知っていたし、それが相手を少しでも楽にすると思っていたのに、実際は殆ど効果が見られず__否、効果はあるが相手に掛かるストレスがそれを上回っているのだろう、悪い方悪い方に堕ちるばかり。悪夢に魘される云々の前に、眠る事すら出来なくなっている。__何も出来ない、それが一番苦しかった。嫌だと首を振りまるで幼子の様に懸命に拒絶を表す相手の涙に濡れる瞳は心を締め付けるのだ。同調する様に緑の瞳にもまた涙が浮かび、俯く事で重なっていた視線が漸く外れた。出来る事は痛みを取る事でも、苦しみを和らげる事でも無い。ただこの小さな明かりだけが灯る薄暗い部屋の中、物理的な寒さを感じない様にと相手の背中を擦る事だけ。“無力”と言う言葉がピッタリの状況ではないか。「……痛いね、…苦しいね…っ、」相手の感じる絶望を言葉にし肯定しながら俯いたまま、片手で背を擦り、もう片手は鳩尾を握り締める相手の手に重ねる。酸素が上手く回らないせいか細く骨張った指先は冷たく小さく震えていて、誰か助けてあげてと叫び出したくなるし、このまま何も感じぬよう意識を失って欲しいとさえ思う。___ただ、相手の瞳に唐突に滲む恐怖の色だけは何故かある種の疑念を植えて残ったのは確かで。ふ、と遡った記憶の1日。給湯室で相手と顔を合わせた時も、その後捜査の話をしに執務室を訪れた時も、何気無い会話の中で視線が絡んだ時も、相手の瞳には大小あれ恐怖を纏った揺らぎが見えていた。背を擦る手が止まり、息を飲む。100%では無い、けれど可能性としては0では無い浮かんでしまったその考えは身体を硬直させ顔を上げる事を躊躇わせるには十分で )
( 相手と重なっていた視線が外れ、背中を摩られながら懸命に苦しい呼吸を繰り返した。相手の瞳の色が見えなくなった事で強制的に引き出されていた記憶は少しずつ薄れ、軈て自分が今居る場所を理解すると、背中を摩る相手の手の動きが糸口となり時間を掛けながらも酷い過呼吸は徐々に落ち着きを見せて。______後に残るのは倦怠感。汗ばんだ身体は重たい疲労に押し潰されそうだった。発作の症状が落ち着いてからも何処か朦朧として相手と視線が重なる事のないまま、少しして糸が切れるようにソファで眠りに落ちていて。酷い発作は、束の間の眠りの後に痛みをもたらした。数時間意識を失うようにして眠ったものの、痛みに意識を引き戻される。身体が辛い状態が続くと精神面にも影響が出るもので、もう捜査に関わりたくない、全てを放棄して逃げ出してしまいたいという気持ちに苛まれていた。痛み止めを飲もうとゆっくり身体を起こし、サイドテーブルに掴まりながら立ち上がり。 )
( ___狂った呼吸を繰り返し、涙ながらに痛みに耐えた相手が意識を失う様にして眠りに落ちたのは果たしてどれ程の時間が経ってからだったのか。テーブルの上のグラスをシンクに置き、捜査書類を相手の鞄に戻してからソファに横になるその身体に起こさぬ様静かに掛け布団を掛ける。暖色の間接照明にぼんやりと照らされた相手の顔は青白く、長い睫毛の下の碧眼は閉じられた瞼により見えない。小さな小さな疑念の種は確かに心の奥底に植え付けられ、相手の顔を見詰める緑眼に揺らぎがチラつく。___ベッドに戻る事も無く床に座り込み、ソファの端に頭を乗せる体勢で何時しか浅い眠りに落ちていた。掛け布団が擦れる音と、直ぐ側で人の動く気配を感じ意識が浮上すればゆっくりと頭を上げ。果たしてそこには目を覚ました相手の姿があり、身体を支える様にサイドテーブルに掴まり立っている。「……何取る?」少しの沈黙を置いてから驚かさない様に抑えた声量でそう問い掛け、暗に座ってて欲しいと。その際視線を合わせなかったのは胸の奥で燻る何かを認識しているからか、無意識か。それは自身もわからぬ咄嗟の行動で )
( 不意に相手の声が聞こえて其方に視線を向けたものの、相手と視線が絡む事は無かった。かと言って相手が敢えて目を合わせないようにしているような不自然さも感じず「……鎮痛剤を貰えるか、」と素直に答えるとソファに座り直し。もう少し薬を増やしてでも楽になりたいと思う程に調子は良くない。朝方アダムス医師に連絡を入れる事を考えつつ、相手が錠剤と水を持って来てくれた事に対して礼を言い其れを飲み込んで。浅い眠りを繰り返すだけで頻繁に目を覚ます事を思えば、ベッドに戻る気にはならなかった。「…悪いが、今日は此処で休む。お前はベッドで休め、」と告げて。 )
( 鎮痛剤を飲み込む相手の横顔を控え目に見詰めつつ、謝罪と共に紡がれた眠る場所の指定には素直に首を縦に動かす事が出来なかった。少しだけ下げた視線と共に沈黙を挟む事数秒。「__私も此処で寝るって言ったら?、」視線はソファでは無くその下の床。その控え目な聞き方は初めて相手と共に“お泊まり”をした時に少しだけ似ていただろうか。最もその時同じ場所で眠りはしなかったのだが。そうして思い出すのはもうひと場面。何時だったか、たった一度だけ相手と共に床に横になり眠った事があった。行儀は悪かったがあの時はあれで良かったとさえ思った気持ちはまだ覚えている。___だが、今回はどうだろうか。相手の返事次第では1人で眠る事になりそうだと、何方の返事が来た所でこれ以上は何も言わず頷く事を決めれば、ぼんやりとした間接照明の中で立ったまま相手の言葉を待って )
( “此処”というのはソファの下、床の事を指しているのだろう。控えめな問いに少し困ったような表情を浮かべた後「_____身体を冷やす。今日はベッドで休め、明日も忙しくなる。」と告げて。床で眠ったのでは身体が冷えるだろう、此の所の捜査も思わしく進まない事で相手にも少なからず疲労が溜まっている筈だ。ゆっくり休むようにと伝えて、ベッドへと促して。痛みが少しでも落ち着く事を願いながらソファの上に身体を横たえ、目を閉じて。---どれ程の時間眠れたかは自分でも分からなかったが、うとうとと浅い眠りに落ちては目を覚まして暗闇の中でただ横になっている、という事を繰り返している内に朝になっていた。痛みは少し抑えられているものの、昨晩の発作が響いているのだろう。身体は重たく感じられ、執務室での事務作業ならまだしも、捜査の為に現場に赴く事は困難に思えた。ゆっくりと息を吐き出し、ソファに身体を起こすと朝の薬を取り出して。 )
( 返って来た返事はNOなればそれ以上は何も言わず促されるまま寝室に行き。ベッドの真ん中に寝る事をせず端に身を横たえたのは何時もの感覚があるからか。それとももしかしたら夜中目を覚ました相手が戻って来る可能性があると思ったからか。伸ばした手で相手の居ない横のシーツを軽く撫でながら、掌に感じる冷たさと共に何時しか眠りに落ちていて。___朝方、目を覚まし顔を洗ってからやる一番最初の事はコーヒーを淹れる事。何だか無性に苦いのが飲みたくて、泥の様に濃いコーヒーに砂糖もミルクも入れる事無くキッチンで立ったまま飲み進め。ソファに横になっていた相手が身動ぎをした事で視線は其方に流れる。薬を取り出す動作を一瞥してからグラスに水道水を注ぐと静かに歩み寄り。「…おはようございます。」朝の挨拶と共にグラスを手渡した後、再びキッチンに戻ると胃に負担が掛からぬ様次は少し薄めに淹れたコーヒーをソファ前のテーブルに置き。「__仕事行く前に病院寄ろう。1人で良いって言うなら、私は先に聞き込みしてるから。」此処数日、相手の様子は目に見えて悪い方に急下降していた。だからこそ出す病院の話で、捜査に穴を開ける事を良しとしないそこから拒否するのならば、己は付き添わないと道を作って )
( 朝、相手に手渡された熱いコーヒーを口にして脳を目覚めさせる。病院に行くと言う提案を拒否しなかったのは、自分でもそうすべきだと感じていたから。軽く頷く事で病院に寄る意思がある事を伝えると「…病院の駐車場まで送ってくれ。終わったら直ぐに向かう、悪いが先に捜査を進めていて欲しい。」と告げて。点滴なりなんなり、軽く処置をして貰って直ぐに捜査に合流すれば少しのタイムロスで済むだろう。「監視カメラの映像も取り寄せていた分が午後に届く。アンナの行動を洗い出そう、」午後には監視カメラの映像が届くはずだった。アンナが事件に巻き込まれるまでの足取りを掴み、接触した人物を特定するため_____地道ではあるが、映像を片っ端から確認する作業が発生する。のんびりしている暇は無いと自分自身に言い聞かせつつ、朝の準備を整えて。 )
( 病院に行く事を拒否されなかった事に安堵を抱きつつ頭を縦に動かして。__相手からの連絡を受け取ったアダムス医師は午前診察としては早い時間だが快く了承してくれた。病院に到着次第診察室1に入って来て欲しいと相手のスマートフォンにメッセージを残し。__朝の準備が終わり、総合病院の駐車場に相手を下ろす。「何かあれば直ぐに連絡してね。」と、相変わらずの心配を滲ませつつも言われた通り捜査を進める為現場へと車を走らせ。___指定した診察室に入って来た相手を見るや否や、アダムス医師は僅かに眉間に皺を寄せた。それは相手の顔色も目下に住み着く隈もとんでもなく悪い色だったから。挨拶もそこそこに『点滴の前に診察をしますね。』相手の腕を取りそこから血圧測定を、それから心音や脈の乱れの確認を険しい表情で進めていき )
( 相手に病院まで送ってもらい、駐車場で別れて指定された診察室へと向かう。顔を合わせたアダムスは普段よりも険しい表情で診察を促すものだから、顔を見ただけで体調が悪化している事が分かるのだろうと気不味い表情を浮かべつつも椅子に腰を下ろして。淡々と行われる血圧測定や脈拍の確認の様子を静かに見ていたものの「______正直、此れまで担当したどの事件よりもきつい。被害者が……妹に似過ぎているんだ。違うと頭では分かっていても、些細な事でフラッシュバックが起こる。」と、徐に言葉を紡いで。“少しあの事件に似ている”と伝えていた今回の事件、被害者が妹に瓜二つなのだと打ち明けて。「眠れない上に、1日に何度も発作を起こす。捜査が進展せず長引く程に、目を背けて逃げ出したい気持ちばかりが膨らむ、」これまで“捜査を続ける為に”と治療を求めて来た自分としては、医師に対して弱音を吐く事など無かったかもしれない。けれど今は、あまりに辛くて、捜査を降りたいとさえ考えている。しかし仮に捜査を降りたとしたら、身勝手な都合で全てを放り出した自分を許す事が出来ず、また根深い後悔と自己嫌悪が刻み込まれるのであろう事も理解していて、安易に選ぶ事は出来なかった。「…少しでも良いから、楽にしてくれないか、」紡いだ言葉は、かなり追い詰められている事が伝わるものだっただろうか。 )
アダムス医師
( 不整脈の兆候も見られず、心音もやや速めではあるが今の段階で特別急ぎの処置をしなければ命の危険がある訳では無い。数日前のカルテと見比べつつ、相変わらずの険しい表情で慎重に状態を確認していた正にその時。思いもよらぬ“告白”が鼓膜を揺らせば驚いた様に相手を見詰め。数秒、珍しく心配から来る僅かな怒りを滲ませた口調で『…それは“少し”とは言わないんですよ。』と。以前相手が事件の説明をした時の曖昧な言葉は確りと覚えていた。『今回の事件の被害者が妹さんに似ていると言う事は、どうしたって“あの事件”を思い出す事に繋がる。それは貴方自身が良くわかっている通り意志とは関係無くです。そんな状態で捜査を続ければ、普段は何ともない筈の些細な物音や匂いが事件や妹さんに結び付いてどんどん悪い方に堕ちて行くのは当たり前です。』相手を真っ直ぐに見詰めながら厳しい口調でそう告げるのだが。続いた相手にしては珍しい弱音には険しい表情を僅かに緩め『__エバンズさん、私は刑事ではありませんので無責任に聞こえるかもしれませんが、全ての事件を貴方が解決しなければならないんですか?“逃げたい”と言うのが今の貴方の正直な気持ちなら、その心の声に従ってあげて下さい。貴方が今無理をして倒れれば、この先どの捜査も出来なくなる。それでは本末転倒でしょう。』まるで言い聞かす様なゆっくりとした言葉を紡ぎつつ、それでも簡単に選べる道でも無い事は理解していた。簡単に選べていたのなら、今相手は此処には居ないだろう。『__ひとまず点滴の処置をしますね。前回とは違う薬で、時間は1時間程です。…睡眠薬に似た成分も入っているので少し意識が朦朧とするかもしれませんが、直ぐに治まるので安心して下さい。』まるで懇願の様にも聞こえる追い詰められた言葉に一度目を閉じてから見せた表情は、不安を煽らない様にと浮かべた穏やかな笑み。相手を処置室に促しベッドでその細く感じられる腕に針を刺すと『暫くの間は落ち着いていられる筈です。』管を通った液が相手の体内に確りと入っている事を確認し、『目を閉じて下さい。』例え眠る事が出来なくても今のこの時間だけは少しで良い、身体も心も休めて欲しいと )
( フラッシュバックが起こり易くなるのも当然の環境だと、相手は自分の言葉に対して怒りを滲ませた。「些細な事が、自分の意思とは関係なく過去の記憶に繋がる……その状況は、薬で抑える事は出来ないのか、」と尋ねたものの、精神安定剤や発作止め以上の何かは期待出来ないだろう。相手の言う通り、全ての事件を自分が解決しなければならない訳ではない。それなのに勝手な使命感と義務感に駆られて、自分で自分を追い込んでいると思われても可笑しくないだろう。けれど其れは、あの事件以降続く”焦燥“のようなもの。目の前で起きている事件をなんとか解決しなければと、のめり込んでしまうのだ。______自分の気持ちに正直に、と言われて思うのは、”逃げ出したい”という気持ちと同じくらい、それ以上に“アンナの無念を晴らしてやりたい”という気持ちがある事だった。明確な言葉で応える事はしないままに、ベッドに横になり相手の説明に頷く。普段より長い時間が掛かる処置だったが、少しでも身体が楽になるならという思いで言われた通りに目を閉じる。---静かな室内で、やがて相手が説明した通りにぼんやりとした感覚が身体を包んだ。閉じた瞼の奥、暗闇の中で身体が宙に浮いているような感覚。眠りの狭間を漂いながら少しだけ息がしやすくなっていくような気がした。 )
アダムス医師
( 相手の問い掛けには首を横に振る事で無理だと伝える。___正確に言えばそんな薬が無い訳ではない。様々な種類の薬を組み合わせ多くを服用すれば痛みを完全に取り除く事も、過去の記憶を閉じ込め発作もフラッシュバックも起こさなくする事も出来るだろう。けれどそれは諸刃の剣だ。後に残る副作用は自我を喪失させ生きる屍と言っても過言では無い程に生命力を奪う。真っ白のベッドの上でただ寝たきりのまま、僅かな光だけを瞳に宿した状態で何かを考える事も誰かと会話をする事も無い。それは果たして生きているだろうか。相手の望む“楽”の地点はそこでは無い筈だ。___ポタ、ポタ、と落ちる薬液のスピードを調整しつつ、目を閉じたまま静かな呼吸を繰り返す相手を見下ろす。“贖罪”の為に立ち続ける相手から仕事を奪えばそれこそ生きる意味を無くしてしまうかもしれない。けれど心身に伸し掛る不可は重く茨の様に絡み付きその鋭利な棘で心を傷付け続けるだろう。何が、どれが、相手にとっての正解なのかわからないのは己も、ミラーも、そうして相手自身も思う所なのかもしれない。それでも医者として、長く相手と向き合って来た者として、楽になって欲しいと思うのは当然だ。何時か色濃く浮かぶ隈が少しでも薄れて欲しいと一度だけ小さな息を吐き出し後、診察室へと戻って行き )
( 強い薬と言うのは際限なく、自分を生きた屍にしてしまうものもある。これ以上強い効力を持った薬は無いと相手が言うのは、今の生活を維持出来る上限が此処だと言うことなのだろう。それ以上食い下がる事はなく、静かに目を閉じたままでいて。---意識が宙を揺蕩うような感覚に包まれたまま、少しは眠っていたのかもしれない。目を覚ますと身体はだいぶ楽になっていて、此れなら聞き込みに出る事も問題なさそうだと思うと身体を起こして。意識が朦朧とするような感覚も既に消えていた。相手に点滴を外して貰い小さなパッチを貼られると捲っていた袖を下ろしてボタンを止める。「……今投げ出したら、きっと深い後悔に苛まれる事になる。妹を、______2度救えなかったと思いたくない。」徐に告げたのは、先ほど吐いた弱音への自分なりの現時点での考え。今は身体が楽になったからそう言えるのだ、と相手は思うかもしれない。けれど、一生後悔を引き摺るのは嫌だった。「…また連絡する事になると思う。タイミングが合えば、また頼む。」と、今日のような処置をまた頼みたいと言いながらジャケットに袖を通して。 )
アダムス医師
( ___1時間と少しが経ち点滴の処置が終われば腕に血が滲んでいない事、副作用らしき症状が出ていなく処置前よりも僅かではあるが顔色も良くなっている事、動きに可笑しな点が無い事をザッと確認しつつ最後にもう一度だけ手首から脈拍を測り。その折徐に告げられたのは処置前の話の続き__相手の今の着地地点。一度視線だけで相手を一瞥し再びその視線を手首へと落とすと、その言葉の端々に滲むある種の覚悟と想いを感じ取る事となり。そうなれば医師に出来る事は一つしか無いのだ。脈拍に異常が無い事を確認し今度は真っ直ぐに相手を見詰めると『__時間は作ります。貴方が処置が必要だと思った時は連絡を下さい。』と、後の点滴の件は了承した上で『…今回の事件、貴方にとって特別な捜査になるのでしょう。私はもう止めません。けれど、被害者の無念を晴らし事件を解決した後は精密検査を受けに来て下さい。恐らく3日程は入院になるでしょうが__それが私が今貴方を此処から帰す条件です。』至極真剣な眼差しと共にそう告げる。3日の入院と言う事は、その間は仕事を休まねばならないと言う事。相手が検査も入院も嫌う事は重々承知ながら譲らないとばかりに。相手がそれを了承したのならば、後は何も言う事無く見送る形を取り )
( 特別な処置を複数回施して貰う以上、入院を伴う精密検査の申し出について拒否する事は出来ず曖昧な反応ながらも小さく頷く事で同意を示して。その後も体調の不安定な状態が続いたもののその度に点滴などの処置をしてもらい、捜査に大きな支障が出る程に体調を崩す事は無かった。一方で被疑者として浮上している複数の人物のアリバイの裏付けなどに奔走され、未だ捜査の道筋が見えたとは言えない状況。難航する捜査に焦燥を募らせつつ、事件と向き合い続ける日が長く続いて。---その日はアンナが働いていたカフェを訪れ店長と話をした後、手掛かりを探しつつ遅い昼食を取る事とし案内された窓際のテーブルに腰を下ろして。偶然にもその席は、初めて立ち寄った際に案内されたのと同じ席。相手の肩越しに見えるカウンター席の向こうで、忙しなくも楽しそうに働いていたアンナの姿が思い出され、その瞳にはぐっと悲哀の色が浮かぶ。妹と瓜二つのその姿に心揺さぶられ、時に現実逃避のように此処に通い詰めた事もあった。一刻も早く事件を解決しなければという思いと切なさに、カウンターの向こうに視線を向けたまま暫しメニューを捲る手が止まり。 )
( ___案内された窓側のテーブル席は或る意味“始まり”の席。もう一度だけで良いから妹に会いたいと切望し続けた相手がこの場所で妹に瓜二つの容姿を持つアンナを見た時、果たしてどれ程の衝撃を受けただろうか。此処に“妹”に会う為通い詰めたその時の心を測る事は出来ないが、“幸せか”と言う問いに相手は“辛くは無い”と答えたその言葉と表情だけは決して薄れる事無く脳裏に焼き付いている。__ふ、とメニューを捲っていたの相手の手が止まった事でその表情を伺い見れば、褪せた碧眼には確かな悲哀の色が浮かんでいて今何を思っているのかわかってしまった。【アンナ】と【セシリア】は相手の中でどうしたって切り離せない所に居て、それは善し悪しでは無く心が感じる正直な事。「__思い出すね、」静かに口を開く。それは人を指してか出来事を指してか。何であれメニューを決める事を急かす事はせず相手の視線に釣られる様にして首を捻り、一度だけカウンター席の向こう側へと視線をやって )
( 初めてこの場所で彼女を目にした時の衝撃を忘れる事は出来なかった。あの時の自分にとって此処は“夢と現実の狭間”だった。ただ此処で“生きているセシリア”の姿を見られればそれ以外はどうでも良いとさえ感じていたのだ。相手の声にふと今に意識が引っ張られると、「…そうだな、」とだけ小さく頷きつつ再びメニューに視線を向けて。相手は知らないだろうが、この場所で以前彼女におすすめを聞いた事があった。あの瞳が、声が、笑顔が自分に向けられる瞬間を見たかったのだ。その時はローストビーフのサンドイッチを注文した記憶があるが、もうひとつ彼女が何かおすすめしてくれた物があった筈_______そう考えてメニューをめくり目を走らせると、ややして「…キッシュとホットコーヒーにする。」と告げて。 )
( 返って来た短い同意にはそれ以上言葉を続ける事はしない。相手の視線がメニュー表に落ちた事で己も並ぶ写真と文字を謎り__「…珍しいね。お腹減ってた?」相手が数多くある食べ物の中でキッシュを選んだ事で顔を上げると、記憶にある中では初めてのそのチョイスに一度瞬いた後再び手元のメニュー表へと視線を戻し「私は……ブルーベリーマフィンとカフェラテにしようかな。」粒の大きいブルーベリーがトップに散りばめられている良い焼き具合のマフィンの写真に口元を緩ませつつ、丁度通路を通った店員に2人分の注文を。___然程時間掛からずして頼んだ物が来ると先ずはカフェラテを一口。矢張り自分で淹れるよりお店の方が格段に美味しいと小さく息を吐き出す。マフィンもまたブルーベリーの甘酸っぱさと生地の風味が良い具合に混ざり合い、程良い甘さで美味だ。しかし___優雅な昼食の時間を楽しみながらも、頭の中がそれだけで占められる訳では無い。捜査中と言う事もあり考える事は山程あるのだ。「…容疑者を絞り込めない事に腹が立つ。」手元のマフィンを見詰めたまま珍しく少しだけ荒さのある言葉を紡ぐと、「誰に聞いても恨みを買う様なタイプじゃなかったって言うし…突発的な犯行だとしたら、監視カメラが付近に無いのは厳しいよ。」カフェラテをもう一口飲んだ後、やや抑えた声量と共に相手を見 )
( あの頃の自分にとっては、例え現実逃避であったとしても救いだった彼女の存在。普段であれば自分からは選ばないであろうキッシュも、些細な思い出のひとつだった。「…以前、彼女に勧めてもらった。」と、言葉少なにその理由を告げる。頼んだキッシュにはベーコンやほうれん草が使われていて卵の風味と香ばしい味わいで美味しいのだが、食はあまり進まなかった。考える程に、めぼしい容疑者さえ絞り込めていない状況に焦燥ばかりが募る。「…もう一度現場で情報を整理して…遺留品や鑑識からの検査結果を見直そう。このカフェの周辺と彼女の家の近くの監視カメラの映像に複数回映っている人物も割り出す、」今後の捜査の方針を話しつつ、また点滴の処置をして貰わなければと考える。担当医は“特例”の処置が長く続く事を良しとしていないながらも、此方の気持ちを理解し未だ協力してくれていた。相手にとってもアンナは面識のある人物。心身が疲弊していない訳が無いだろうと思えば「…きつくなったら、お前も少し休め。半休を取っても構わない、」と告げて。自分も処置の為に数時間遅く合流する事がある為、相手も必要な時は言うようにと。 )
( “以前”が何時を指すのかは想像に容易い。適当に頷き話を終わらせるでも無く、言葉少なではあるが素直に紡がれた理由にこれまた珍しさを感じつつも僅かに微笑むと「それじゃあエバンズさんのお気に入りって訳だ。」お勧めを聞いたのならてっきり前回も同じ物を頼んだのだろうと言う勝手な想像での言葉を返し。卵の鮮やかな黄色にベーコンやほうれん草の色が混ざるそれはとても美味しそうに見えるのだが、減りはとてつもなく遅い。心も身体も本調子では無い相手には普段以上に食が進まないのだろう。紡がれる捜査方針にマフィンを咀嚼しながら時折相槌を打ち、飲み込んだタイミングで口を開き。「__現場での情報整理には私が行く。それと、彼女が亡くなる数週間前からお店に来る頻度が増えたって言ってたあの男性、彼のアリバイがどうにも引っ掛かるの。並行して調べる。」殺害現場となればどうしたって遺体を思い出しそれが“別の記憶”にも繋がる。それを危惧するからこその申し出を先に、続けて容疑者としては挙がっていないが話には出た男性の詳細の調べ直しを伝えて。___口元にまで上げたカップが止まったのは気遣いを受けたから。本当にきついのは他でも無い相手自身だろうに、こんな時だってその優しさは此方に向く。カップの端に唇をつけカフェラテを一口飲んでから静かに下ろすと同時に小さく頷きつつ「…まだ大丈夫だけど、正直変な感じはしてる。知り合いだから尚更だね。…きついって言うより、亡くなったっていう実感が確りわかないのかもしれない。」鼻から抜ける様な溜め息の後、何処と無くふわふわとしている感情を吐露して )
( 彼女が勧めてくれたキッシュの味は、今初めて知った。だから“美味しかった”と伝える事は叶わない。「…前はもうひとつ勧められたサンドイッチを頼んだんだ。此れは初めて食べた、」と答えて。“食べるか?”と付け足して皿を相手の方に押しやるとコーヒーを啜る。「_____俺が記憶を無くした時、あの人に救われた事を思い出す。」此の席がそうさせるのか、ぽつりと言葉を紡いで。---相手は自分の負担を軽減する為にといつも以上に忙しく走り回っているような気がしていた。心身に影響を来たす可能性がある要素をなるべく自分から遠ざけるかのように、先回りして捜査を行う。普段の事件に比べて相手が受け持つ割合が多いと感じざるを得ない。「お前1人で担わなくて良い、必要な捜査は手分けして進めよう。」相手にばかり負担を強いる訳にはいかないと普段通りの分業で進めて行く事を伝えて。「……寝て覚めたら戻って来ているんじゃないかと思う事は、未だにある。知り合いの死は尚の事、受け入れるのには時間が掛かる、」相手の言葉を受けての返答は、自分自身が過去に体験した喪失に基づくものか。ゆっくりと、深く溜め息を吐いて。点滴などの処置が今はきちんと効果を発揮している影響もあるのだろう、この捜査を始めてからの一時期に比べるとだいぶ不安定さは軽減されていて、取り乱す事なく言葉を紡いで。 )
( “あの期間”でアンナとした会話はもしかしたら極短いものだったかもしれない。それでも普段なら聞く事の無いお勧めを聞き、それを頼むと言うその行為それこそが相手の心情をありありと表している様で。「…そっか。それも美味しかった?」口元の笑みを少しだけ濃いものに変え問い掛ける。当時食べたサンドイッチも、今目前にあるキッシュも何方も相手にとっては大切な思い出の味だろう。だからこそ押しやられた皿との距離が近くなった時、普段なら間髪入れず一口貰う所を一瞬躊躇ったのかもしれない。「……、」傍から見ればただのカフェメニューの中の一品でしかないキッシュは、それでも相手とアンナ__セシリアを繋ぐ特別な一品の様に感じられたのだ。視線だけを僅かに持ち上げ目前の相手の表情を伺い見るも、相手はコーヒーを啜るだけ。ややして「…少し貰おうかな。」と、控え目に端にフォークを突き立てる。口内に運んだ途端広がるのは絶妙な旨味。卵の焼き具合も丁度良く塩味のバランスも最高だ。「__凄く美味しい。…優しい味がする。」そう答え、何故だか目頭が熱くなった。静かにお皿を相手の前に戻し揺れた感情を落ち着かせる為にカフェラテを啜る。___今日の相手は普段よりずっと思い出を言葉にする事が多い様だ。唐突に落とされた過去の話に同じ様に相手が記憶を無くした時の事を思い出す。「……セシリアさんの振りをして欲しいって頼んだ時、嫌な顔ひとつせず引き受けてくれた。」そんな優しい彼女は、もう居ない。同時に思い出すのは、アンナをセシリアだと思っていた相手のあの見た事も無い穏やかで優しい笑顔。「…全部覚えてる?」と、静かに問い掛けて。___現場の情報整理に1人で行く、と言った理由に矢張り相手は気付いた様で、何時もと同じ分業で進めると言われれば暫し沈黙を落とした後、それでも従う様に小さく頷いて。目が覚めたら戻って来ている……それはこの数十年幾度となく相手が渇望してきて事だろう。全て夢であれば、と。現実の余りの残酷さに深く息を吐き出し「そうだね。……本当に、そう。」重たい同意を落としては「明日の朝、目が覚めた時に1人は嫌だな。」此処何日も相手はソファで眠っている事を指しての言葉をこの流れで。「…今日は一緒に寝てもいい?」声量を抑え、控え目に共にベッドで眠る事を願い出て )
( あの時の出来事は、確りと記憶に刻まれていた。相手の問いに頷きつつ、どういう状態だったのかは説明出来ないが確かに記憶が抜け落ちていて、セシリアの事も相手の事も、あの瞬間だけは“覚えていなかった”のだと懐古する。セシリアだと名乗るアンナと顔を合わせた時、大きな幸せと安堵にも似た感情を感じた事を覚えていた。控えめに落とされた相手の問いに相手と視線を重ねると、暫し返答に迷うように間が空く。「…未だ、あまり本調子じゃない、」そう答えたのは、幾らか落ち着いているとは言え捜査に関わる前よりも体調が良くないのは分かりきっているから。同じベッドに寝ていれば、敏い相手は自分の僅かな変化や動きを察知して目を覚ますだろう。けれど其れに対して“1人で抱え込まず自分を頼って欲しい”と、常から相手が言っている事も理解していて。「……しっかり睡眠を取った方が良いんじゃないか、」と、暫しの間の後拒否ではなく相手に判断を委ねる形で返答し。 )
( 今となっては憶測でしか無いが。“妹の死”に繋がる記憶を消す事で相手の脳は壊れ掛けていた心を守ったのかもしれない。___返事が返って来るまでの暫しの沈黙はお皿に残った僅かのマフィンを食べ終える事で消化する。咀嚼しカフェラテを啜ってから再び相手と視線を重ね、その後判断を此方に委ねる返答には今度は己が間を空ける。無言のまま、視線を逸らす事無く真っ直ぐに相手を見詰める時間が数十秒。「…私の“しっかりした睡眠”にはエバンズさんの存在が必要だけど__エバンズさんは?隣に私が居たら休まらない?」声色はあくまでも穏やかに。だが些か狡い聞き方だと言う自覚はあった。相手の思う“しっかりした睡眠”と己の思うそれは同じでは無い。例え夜中にどれだけ目が覚める時間があったって、相手の側に居られると言うそれだけで、十分身体も心も休める事が出来るのだから。本当に拒否をしたい時は問答無用でNOを突き付けて来るとわかっているからこその問い掛けで )
( 自分が隣に居ては“しっかりとした睡眠”が取れる筈が無いと思うのだが、相手の言う其れとは意味合いが違うのだろう。「……そういう訳じゃない、」とだけ相手の言葉を否定すると、未だ残っていたキッシュに再び手を伸ばして其れを口に運んで。其処で話が終わったという事は、今夜は相手のベッドで眠る事を受け入れたという事になるだろう。---此の場所で働いていた、明るい笑顔を向けてくれたアンナの為に、事件を追い続けなければならない。コーヒーを啜りつつ捜査に使っている手帳を見直して、一瞬セシリアの記憶が脳裏にちらついた。此方に伸ばされた、血塗れの白い手。現場を見た直後に“思い出してしまった”遠い記憶の欠片。発作を引き起こす程の鮮明な物ではないものの、鼓動が少し早くなるのを感じて水をひとくち飲んで。 )
( 受け入れの返答に軽く頷き返してから「良かった。この流れならハグして眠る事も許されるかもしれない。」口角を僅かに持ち上げた悪戯な笑みを。あくまで“ベッドで一緒に眠る事”を許可されただけで勿論の事それは理解しているのだが。理解しているからこそ次は拒否される__無視される事も想定内の、相手に向けたと言うよりは勝手な独り言に近い色を纏った音を落として。___相手が手帳を開いた事で視線は自然とそこに落ちた。座る位置的に逆さまに見える文字はその角度ですら真っ直ぐで丁寧。聞き込みをした内容、事件現場での発見、それらが詳細に記されている。…何かの違和感を感じた訳では無い。けれどこの場所は或る意味“特別な場所”だ。聞き込みで来なければいけないとしても様々な事を思い出してしまう場所。「…一度署に戻る?」相手が何を思い出したのかはわからないが、視線を上げコーヒーでは無く水を飲む姿を見ると、お店を出る事の判断を委ねる問い掛けを )
( まるで独り言かのように紡がれた聞き捨てならない呟き。眉間に皺を寄せて相手に視線を向けたものの、聞こえていない事にしたようで何か言葉を発する事はせずに無視を決め込み。---手帳のページは日に日に増えているのに核心に迫れていないというのは結局焦りを生むばかりで、何か行動しなければという思いに駆られる。過去の記憶を思い出す隙がないように動いていなければと。「…そうだな、」と答えコーヒーを飲み干す。この場所は心が揺らぐ。冷静に捜査と向き合うには些か不向きな場所だと思えば、相手の言う通り署で改めて捜査の今後の進め方について議論するのが良いだろうと。 )
( ___カフェでの昼食をとったその日から数日後。周辺の聞き込みと並行して何度目かの事件現場での情報整理を行う中、容疑者がある程度絞られ犯人に繋がる証拠を掴み掛けている今日。その証拠を確実なものにするべく相手と共にアンナが殺害されたコテージの中に居た。犯人はどの位置から彼女を射殺したのか、今一度その弾道と床に横たわった彼女の姿を思い出し空間の把握を。ギシ、と踏み締めた床が音を鳴らし、彼女がその命を散らした場所にしゃがみ込む。彼女の姿はそこにはもう無いが、床に散らばった綺麗な焦げ茶の髪も、流れ出る赤黒い血も、光を失った緑眼も、全てを僅かの薄れも無く思い出す事が出来た。怖かっただろうに__。「…わざわざ近付いて2発目を撃つ必要なんて無かった、」相手に背を向けた状態で床を見詰めながら紡いだのは、怒りの纏う言葉。1発目の銃弾は玄関付近から放たれ彼女の腹部を貫いた。恐らく衝撃で床に崩れる様に倒れただろう。その姿を見ても尚逃げる事も無く犯人は彼女に近付き、今度は見下ろす形で至近距離から2発目の銃弾を胸部に放ったのだ。__傷の付いた床に指を触れさせようとして、手袋を嵌めていなかったのを思い出す。「…エバンズさん、手袋取ってくれますか。」しゃがみ込んだ体勢のまま振り返り、相手を見上げる形で側にある手袋が欲しいと片手を伸ばして )
( 彼女を此処に監禁し、どうするつもりだったのか。カフェでの仕事を終え退勤したアンナの後を付け、人気が無く防犯カメラも少ない場所で彼女を誘拐し此処に連れて来たのであろう事は此処までの捜査で分かっていた。逃げようとした彼女を、或いは怯えていただけの彼女を容赦無く殺害した犯人の残虐性は、相手と同様怒りが湧くもので。「…人の心を無くした怪物だ、」と、同意する様に言葉を紡ぎ。---点滴での処置に少し身体が慣れてしまったのだろう。初めこそ強く効果が出て幾分持ち直していた体調も、再び不安定になりつつあるのを感じていた。だからこそ捜査に支障が出ないようにと安定剤も鎮痛剤も朝服用し、比較的安定した状態で捜査に当たっていたのだが。それは、余りに突然だった。床にしゃがみ込んだ相手の背後に立ったまま事件について考えを巡らせていた。不意に相手に“手袋を取って欲しい”と頼まれ、すぐ隣のテーブルに置かれていた手袋を手にし______相手に手渡す前に、視線が重なった。相手と目を合わせるなど特別な事でもなく、普段の生活の中でも多々ある事。しかし此の場所が引き金となったのか、相手の瞳の色を認識した瞬間に強い恐怖と後悔、絶望、様々な“当時の”記憶が湧き起こり一瞬にして身体を支配した。「______っ、…」光を失った緑色の瞳が、広がっていく赤が、フラッシュバックする。相手に手袋を手渡す事は叶わず、次の瞬間には心臓を鷲掴みにされたような痛みと恐怖に襲われ正常な体勢を保って居られなかった。身体をくの字に折り曲げるのと同時に床に崩れ、一瞬で可笑しくなった呼吸を繰り返しながら胸元を握り締める。「…っあ゛、ぁ……ッセシリ、ア…!、」妹の名前を口にし、恐怖と痛みに支配されながらも何とか意識を引き上げようと、抗おうと、意識を手放さぬよう腕に強く爪を立てた。 )
( ___油断していた。相手の心身の不調を忘れていた訳では当然無いが、此処数日は点滴が効果を発揮してくれていたのか比較的落ち着いて見えていたのだ。瞳の奥の光も何時も通り鋭く、不自然に動きを止める姿を見た事も無い。勿論安定剤や鎮痛剤を服用する姿は見たが、相手が薬を飲むのは言わば“日常的”な事。だからこそ、少しの気の緩みがあった。___手袋が己の手に渡る直前、重なった碧眼にありありとした恐怖とその他様々な“闇”が一瞬にして広がったのがわかった。思わず目を見開くも、何か言葉を発するよりも先に相手の身体は床に崩れ、あっという間に意味をなさなくなった呼吸音が響く。苦しいのだろう、耐えられない痛みの中に居るのだろう、胸元を握り締める骨張った指先は白く、辛うじて口にした“セシリア”の名も途切れ途切れに震えている。「っ、エバンズさん!しっかりして!!」矢張りこの場所は駄目だった。瞬時にそう思ったのだが、“瞳の色”にまで意識が向かなかったのは、今目前で苦しむ相手をどうにか落ち着かせたいと言う気持ちが強かったからか。抱き竦める様に背中に片手を回し、もう片方の手は意識を保つ為だろう、腕に深く爪を立てる相手の手に重ね、そのまま握り込む様に僅かに力を入れる。「大丈夫だから…っ、直ぐ楽になれるから、!」その体勢のまま相手の耳元で懸命に言葉を紡ぎ、その意識が落ちない様にと )
( 上手く息が出来ず胸が押し潰されそうな苦しさの中で、懸命に呼吸を整えようとする。此の記憶に、苦痛に、呑まれてはいけない。けれど若葉のような明るく柔らかな緑色の瞳は、此の場所に倒れていたアンナの______あの日幼稚園で事切れたセシリアの、光を失った暗い瞳と結び付き恐怖と絶望を煽っていた。相手に身体を支えられながら、血が滲むほどに強く爪を立てた腕の痛みも感じない。朦朧とし始めた意識の中で、白い腕が此方に伸ばされる様子がフラッシュバックし、息が詰まる。床に溢れ出す血も、腕の白さも、瞳の色をきっかけに全てが鮮明に思い出された。「……っ、は…ぁ゛、許して、くれ…っセシリア、」手を握ってやれなかった事を、助けられなかった事を、幾度と無く繰り返した謝罪が溢れる。大きな負担が掛かった為か、鳩尾の痛みが強い。過去の記憶に支配され褪せた碧眼は暗く闇を携えて。額を滑った汗が握りしめた腕に落ち、ぐらりと身体が傾くと相手に支えられていたバランスが崩れてそのまま床に崩れる。その時点で意識を失っていたか、或いは既にしゃがみ込んだ体勢だったため衝撃こそ少なかったものの床に頭を打った事がきっかけか、抵抗の甲斐も無く意識を手放していて。 )
( 幾ら呼び掛けても腕の中の相手の苦しみは取れない。鳩尾の痛みに耐え様とする身体には力が入り、必然的に呼吸も短く浅くなるのだがまともに呼吸が出来ない状態でそれは逆効果だ。あきらかに十分な酸素が脳に回らず酸欠状態に陥って居るだろうが、恐らくそれ以上の苦しみと痛みで意識が朦朧としている筈。涙声で何度も何度も懸命に紡がれる妹への謝罪に「許してるっ、…誰も責めてない!」と、引っ張られた感情をそのままに己もまた涙声で声を上げるのだが。__「……エバンズさん…?」その懇願の声がピタリと止み、腕の中にあった身体から力が抜けると同時に相手の身は床に倒れ込む様に崩れた。その際床に頭を打ち付ける鈍い音が響き、一瞬にして顔面は蒼白になる。___そこからはあっという間だった。震える指先で救急車を呼び、その後アダムス医師に相手の意識が無い事と救急搬送された事の連絡を。ストレッチャーに乗せられた相手は口元に酸素マスクが装着され直ぐにMRI室に運ばれた。その後、脳に異常が無ければ次なる処置に移行すると説明されたものの、医師の言葉も看護師の励ましも何処か遠い所を浮遊している感覚だった。ただ、相手の意識が回復する様に、無事であるようにと待合室の椅子に浅く腰掛けたまま祈る事しか出来ない時間が続き )
( エバンズが救急搬送されたという知らせを受け、アダムスは急ぎ処置を行なっている部屋へと向かった。倒れた時に頭を打った可能性があるとの事だったがMRIの結果は問題なく一先ず安堵する。直ぐに入院での治療が必要な程に重篤な状態ではないものの、かなり負担が掛かっているのは間違いない。時折僅かに脈が乱れる症状が再び出ており、薬を点滴することでまずは心身の状態を安定させ、安静にする必要があると判断して。---待合室で待っていた相手の元に歩み寄ると「ミラーさん、」と声を掛ける。此方を見上げた相手の表情は不安げで、少しばかり憔悴したようにも見えるもの。安心させるように微笑むと「少し発作の症状が重かったようですが、一時的なものなので心配はいりませんよ。今は少し安静にして、捜査が終わればもう少し体調も安定するでしょう、」と告げて。“此の捜査が終わるまで”という彼の思いを尊重して直ぐに入院をと促す事はしないが、早く負担がなくなるようにと願わずにはいられない。「…診察室に行きましょうか。」と声を掛け相手を連れて自身の診察室へと向かうと扉を閉める。今はエバンズの事だけではなく、相手自身の話を聞きたいと思ったのだ。「……ミラーさんは休めていますか?」と、椅子に座り相手と向き合いつつ尋ねて。 )
( 頭上から声が落ち、見上げると目前に居たのは穏やかな笑みを携えたエバンズの主治医。その姿を見ただけでも溢れ出した安堵は続けられた“一時的なものなので心配はいらない”と言う言葉によって確かな光となり胸中に広がった。「…ありがとうございます、」と、やや憔悴した表情ながら同じく微笑み礼を述べた後は促されるままに診察室へと行き。__背後で扉の閉まる音。キャスターの着いた丸い椅子に腰掛け、膝の上で鞄を抱える。先に口を開いたのは相手の方だった。エバンズの容態や捜査の話では無く尋ねられたのは己の調子。ほんの僅か考える間が空き即答こそ出来なかったものの控え目に頷く。「…大丈夫です。事件が事件なだけに十分とは言えないかもしれませんが、夜もちゃんと眠れているし、私は大丈夫。」“大丈夫”と2回繰り返したのは己への言い聞かせか、はたまた“本当に大丈夫じゃない人”に心が向いているからか。本日何度目かの力の無い微笑みを浮かべた後。「___ただ、」と唐突に言葉を落とすと目前の相手を見、直ぐに視線を僅か下方に落とし。「エバンズさんが何度か見せた表情が頭から離れないんです。…発作の原因が、私にあるんじゃないかって、」言葉少なに語ったのは懸念。考えたくは無い、勘違いであって欲しいそれはどんな時も終始付き纏い時折顔を覗かせたのだ。今回もまた、あのコテージで。相手が意識を失う程の発作を起こしたのは“視線が重なった後”だった )
( 相手の言う“大丈夫”は、彼と比べれば、という狭い中でのものだろうか。自分自身に言い聞かせているようにも聞こえるその言葉を今は変に深掘りする事はせず小さく頷くと、続いた言葉に視線を向ける。彼が苦しむ原因が自分にあると考えるのは、いつもエバンズに寄り添い支えている相手にとっては辛いものだろう。意識を失うに至るほど酷い発作を起こした理由を知らない為「…何故、そう感じたんですか?」と静かに尋ねて。同時に“あまり不安にならないようにしてやってくれ”と、少し前にエバンズに頼まれた事を思い出す。嘘を吐いてまで安心させるつもりはないが、あれは彼の中に漠然としたものであれ、一抹の懸念があっての事だったのだろうか。彼が辛い状況に身を置きつつ仕事に必死に邁進する姿を隣で見ながら共に捜査を続けるというのは、少なからず相手にも負担が大きい事だろうと思わずにはいられない。 )
___瞳の色が、セシリアさんと同じだから。
( 静かに紡いだ返事は自分でも驚く程に震えた。勿論エバンズから直接的に拒絶をされた訳でも“怖い”と言われた訳でも無い。それでもあの褪せた碧眼の奥が揺らいだ時、そこには“恐怖”の色が見えた気がしたのだ。「…偶然かもしれません。本当にたまたま、調子が悪い時と重なっただけかもしれない__確信は無いけれど…“緑の瞳”が過去と結び付いて、酷い発作を引き起こしてる気がするんです。」偶然、と言う単語を頭に持って来たものの、一度発芽した不安の種は消える事は無い。再び相手と重ねた瞳は不安定に揺れ。「…セシリアさんを重ねる事で落ち着けるのなら構わないんです。でも、逆に発作の原因になってしまうなら、私はどうすれば…っ、」己の持つ瞳は、悪夢に襲われ混乱した彼の意識を過去から掬い上げる事の出来る色。一瞬でも“妹”と彼が触れ合える色。悪い事の無かったその瞳が、今は逆にエバンズを苦しめているのなら。「もう、苦しんで欲しくないのに…、」吐き出した音も、息も、震えたまま。“緑の瞳”である事を、こんなにも恨んだ事は無かった )
( 彼の妹と同じ色だという相手の瞳は、罪悪感と後悔の闇に沈んだ相手を今に引き上げる事が出来るものだった。けれど、その妹に瓜二つな被害者の遺体を見た事で一時的に記憶が上書きされ、事件の時に見た亡き妹の瞳と記憶が結び付いてしまった_____というのは十分に考えられる事だ。彼を掬い上げていた筈の、支えになってきた筈の瞳が彼を苦しめていると考えるのは辛い事だろう。『……今回の事件に携わった事によって、“緑色の瞳”が一時的に過去の辛い記憶と結び付いてしまった、というのは考えられない事ではありません。ただ、仮にそうだったとしてもあくまで一時的なものです。この事件から離れ心身の状態が落ち着けば、必ず此れまで通り彼の支えになる。これまで幾度となく、暗闇に突き落とされた彼を掬い上げて来たのはミラーさんです。』可能性はあると、相手の言葉を否定する事なく医師としての見解を伝えた上で、それでも悲観することは無いと伝える。『軽い鎮静剤を服用すれば、今のように過敏に反応してしまいフラッシュバックを頻繁に起こしてしまう状況は抑えられますが…感覚の鋭いエバンズさんからすると、普段と比べて思考が明瞭では無いと少しの違和感を感じるかもしれません。強い薬ではないですし、飲み合わせも悪くない。必要があれば処方は出来ます。』と、相手にひとつの提案を。この提案はどちらかと言うと目の前の相手の気持ちに寄り添ったもの。鎮静剤を使えば、瞳の色や特定の音など記憶と繋がる些細なきっかけで発作を起こしてしまうという事は減る筈だった。これ迄処方していなかったのは、鎮静効果で少しぼんやりして捜査に支障が出ると思ったからだが、相手の心を守り彼の負担を軽減する為の可能性の一つだと。 )
( 静かに紡がれる見解を視線を下げ僅か下方を見詰める様にして聞いていたのだが。此方を安心させる“一時的”との言葉には自然と顔が持ち上がる。__不安だったのだ。今回の事件、被害者が彼の妹と瓜二つの女性であるとわかったその時から、胸中には消し去る事の出来ない大きな不安がべったりと張り付き、片時も離れなかった。エバンズはきっと大丈夫だと幾ら自分に言い聞かせても、捜査が進むにつれ苦しむ頻度が増え、眠れなくなる頻度が増え、安定剤や鎮痛剤もなかなか思う様に効果を発揮しない中。そうして“緑の瞳”が恐怖の対象となった可能性のある彼の意識は今無い。__けれど今、不安の全てが拭われた訳では無いが1人悶々と考え悩むより遥かに心が楽になった。やや憔悴し不安定に揺れていた瞳は再び“彼の隣に立つ”意志を呼び覚まし、心に灯った確かな明かりに背中を押される様に頷く。そうしてその明かりがより強さを増したのは続けられた1つの提案を聞いたから。最後まで聞き届けてから「…それは、捜査に影響が出る程なんでしょうか、」と問い掛ける。頻繁に起きる発作や恐怖心を少しでも減らし、彼の心身に掛る負担を軽減出来るのなら。個人的な気持ちは何の躊躇いも無くYESなのだが“思考が明瞭では無い”と言う部分が引っ掛かったのだ。それは今回の事件捜査が彼にとって物凄く重要である事を、アンナの無念を晴らしたいと言う強い気持ちを知っているから。「__“捜査を続ける為”にその鎮静剤を使う事が出来るなら…エバンズさんを説得します。」今回ばかりは問答無用で勝手に決断出来ないと悩んだ末、個人差があり確実な事は相手も言えないであろう事は理解しつつも、副作用の話、捜査続行の話をもう少ししたいと )
アダムス医師
( 憔悴し不安げに翳っていた相手の瞳に、少しばかり普段の光が宿った気がした。『…捜査に影響がない、とは言い切れません。鎮静剤ですから、感覚を鈍らせ落ち着かせる効果があります。少しの眠気やぼんやりするような感覚、倦怠感は起こりやすくなるでしょう。無理をしにくくなる、というのはあるかもしれません。ただ同様の効果がある薬の中では効き方が穏やかで、比較的副作用は少ない部類の薬です。』相手に分かりやすいよう薬について説明しつつ、大きな負担が掛かる中で身体に鞭打つようにして立ち続けている彼を思う。『今、彼が捜査を行えているのは、謂わば精神力です。実際どれ程の負担が掛かっていて、張り詰めていたものが切れた時にどんな影響が出てしまうか、未だ分かりません。…それでも、今のエバンズさんに捜査を降りるよう言う事は…私にも出来ない。捜査を続ける為、その中でも掛かる負担を最小限に抑え、なるべく無理をした反動を小さくする為に…鎮静剤は効果的だと思います。』医師として正しい選択ではないかもしれないが、捜査を続けながらも反動が小さい方法を模索して。 )
( 100%副作用の無い薬などある筈も無く、けれど丁寧に繰り返される説明は安堵に繋がる。__何時の事だったか、相手では無い医師に急遽処方して貰った鎮静剤は確かにエバンズの苦しみを取り除く役割は果たしたが副作用が余りに大き過ぎた事をまだ鮮明に覚えていた。鋭いまでの瞳は翳り、無気力状態の彼はまるで生きる屍のようだったのだ。__“捜査を続ける為”、相手のその言葉は“医師”としての他に“友人として”彼の意志を尊重したものに思えた。2つの角度から彼を心配し、心を寄せてくれる人の存在がまるで自分の事の様にこんなにも嬉しく感じるなんて。今度は良い意味で揺らいだ感情のままに頷くと「…私も同じです。最初はあんなにもこの事件に関わって欲しくなかったのに__今は他の誰でも無くエバンズさんに解決して貰いたい。」そう告げた後に「私個人の意思としては、鎮静剤の処方をお願いします。」と、頭を下げつつも、目を覚ました相手が鎮静剤の服用を直ぐに了承するとも思えずに )
( 実際はエバンズ本人の了承を得ない限り薬の処方を決める事は出来ないものの、相手の気持ちは分かった。そして相手が説得してくれると言うなら、最終的にはエバンズも渋々ながら了承する事になるであろうことも、これ迄の経験上感じていて。『分かりました。処方の準備は進めておきますね。』と告げて。---エバンズが病室で目を覚ましたのは数時間後の事だった。目を開くと白い天井が目に入り、嗅ぎ慣れた薬品の香り。直ぐには状況を理解出来ずに僅かにみじろぎすると点滴の管が揺れ、此処が病院だと気付く。同時に自分は捜査の為に現場に居た筈だと思い出し、酷い発作に襲われ息を吐く事も出来ない程の苦痛に耐え切れず意識を失ったのだと思い至り。どれ程の時間が経ったかは定かではないが、投薬のお陰だろうか、身体はかなり楽になっていて。 )
( アダムス医師が鎮静剤の処方準備を進めてくれている間、点滴の管に繋がれ眠る相手の脇にただ黙したまま座って居たのが数時間。___僅かに瞼が微動しゆっくりと持ち上げられ覗いた碧眼はまだ少し朧気に揺らいでいる様に見えるが、此処が病室であるとわかった瞬間に何があったのかを直ぐに察する事が出来ただろう。「…エバンズさん、」驚かせない様に相手の名前を静かに呼ぶ。視線が此方に向いたのならば「苦しくない?」と、今の体調を問い掛けつつ、相手の瞳の奥に“恐怖”が燻っていないかを確認すべくやや控え目にその瞳を覗き込んで )
( 相手に名前を呼ばれて視線を向けると、心配げな相手と視線が重なる。薬のお陰で今は落ち着いて居る事もあり、相手の瞳を見て恐怖を感じる事はなかったものの、一瞬身構えそうになったのは先ほどのような前例があるからだろう。「……大丈夫だ、」と答えて時計を見上げる。現場に居たのは昼前頃、今は夕方という事は殆ど丸一日を無駄にしているという事だ。点滴の管が繋がる右腕には赤っぽい鬱血痕が残り、どうにか意識を繋ぎ止めようと爪を立てたその痛みを思い出す。「______悪かった、もうだいぶ楽になった。」と告げて枕に背中を預ける形で少し身体を起こし。今日出来ることはもう限られているかもしれないが、この時間であれば仕事に戻れると。 )
( 点滴等の処置が効いているお陰だろう、瞳が重なっても相手が恐怖する事も発作を起こす事も無かった。これなら顔を見て話をする事が出来ると先ずは安堵を胸に「良かった。」と微笑み。__さて、目が覚め身体の調子が比較的良い状態の相手は眠っていた時間を取り戻すべく仕事に戻ろうと考えるだろうが、本題は此処からなのだ。ふ、と短く息を吐きやや背筋を伸ばす。「…エバンズさん、大切な話があるの。」相手を見詰める瞳も静かな声色も決して重たくは無いが真剣そのもの。何処から切り出すべきか考える僅かの間の後「…エバンズさんが眠ってる間にアダムス医師と少し話をしたんだけどね。…普段飲んでる薬と併用して、もう一種類、軽い鎮静剤も飲んでみない?」先ずは話の主となる鎮静剤の存在を伝えた後「勿論副作用は0では無いけど、頻繁に起きるフラッシュバックとか、エバンズさんの中にある恐怖心とかが軽減されるんだって。」“副作用”と言う単語は隠す事無く口にしつつ、果たしてどんな反応を見せるかと表情を伺って )
( 真剣な口調で切り出された言葉に再び相手と視線を重ねる。服用する処方薬を増やす事で体調が安定するなら直ぐにでもと思ったものの“鎮静剤”という言葉が引っ掛かった。思い出されるのは、いつか別の医師に打たれた鎮静剤のこと。酷い発作を起こす事こそなかったが、強い薬は正常な思考さえも奪いその期間の事は殆ど覚えていない。もう一つは、捜査の指揮官を途中で交代せざるを得なくなった事件の事。精神力だけでは抗えない程に身体が辛く、眠気にも抗えず遂には捜査を続ける事が出来なくなったではないか。副作用がゼロではない、という事はまたあの時のように苦しい思いをする事になる可能性が高いという事だ。「_____鎮静剤は、事件に関わっている限りは飲みたくない。」とだけ答え、相手の提案を拒絶する。前のような状況になれば、此の捜査を途中で投げ出す事にもなりかねない。「点滴を外してくれ、休んだら落ち着いた。もう大丈夫だ。」と告げて、捜査に戻ろうと。 )
__大丈夫じゃないよ。今は安定してるかもしれないけど、時間が経てばまた頻繁に発作が起きる。…私の目、見れなかったよね?
( 案の定相手はこの提案を拒絶した。ただその返事は想定内で捜査に戻ろうとするのも想定内。相手の中にある“鎮静剤”のイメージが最悪なのは過去の事例があるのだから仕方が無い事。けれど今回はその鎮静剤が相手を救うと思っていた。だからこそ“大丈夫”を首を横に振る事で否定した後、相手自身が“恐怖の対象”に気付いて居るかはわからないが、一拍程の間を空けて問い掛けた確認は切なさとほんの僅かの苦しげな表情を纏い__それも一瞬。今度は努めて柔らかな声色で「“あの時”みたいな事にはならない。エバンズさんが信頼する先生が処置する薬なんだから。__それに私も、もう勝手に指揮官を変えて欲しいなんて言わない。“事件を解決する為”に、少しだけ苦しいの取ろう。」相手が懸念する全ては何も起こらないと諭しつつ、点滴の管に繋がれる手の甲を親指の腹で緩く撫でて )
( 相手の口から紡がれた問い掛けに、思わず言葉を失う。いつからか相手の瞳が過去の記憶と結び付き不安や恐れを感じるようになって居た事に、其の所為で無意識ながら相手と視線が重なるのを避けてしまっていた事に、相手は気付いていたのだろう。少なからず傷付いていた事を、一瞬翳ったように見えた表情から察するとそれ以上の拒絶の言葉は続かなかった。「……自分でもどうしようもないんだ、…意思とは関係なく、過去の記憶が呼び起こされる。気付いた時には、記憶の波に飲まれた後だ。」相手の言葉を否定する事なく、やがて視線を落としたまま言葉を紡ぐ。相手が悪い訳でも、自分がそれをコントロールできる訳でもない。些細なきっかけがフラッシュバックを引き起こし、何が起きたのか理解出来ないままに苦痛の中に突き落とされるのは、酷く辛い事だった。---事件を解決する為に鎮静剤を使う_______確かにこれまでのトラブルでは、自分の事をよく知らない医師による薬の処方が原因となっていた。主治医が、副作用が少なく気持ちを落ち着ける事が出来ると言うのなら、それに頼るのは悪い事ではないのかもしれない。現に頻繁に発作が起きコントロール出来ない状況には疲れ果てていた。手の甲を撫でる相手の指先を見つめながら、何と答えるべきか決めかねていて。 )
( 沈黙の後、視線を落とし紡がれたのは否定では無かった。つまり互いに“緑の瞳”に思う所はあると言う事だ。責める事は勿論せず言葉を肯定する様に一度軽く頷き「わかってる、誰のせいでも無い。」優しい相手が罪悪感を覚える事の無い様に柔らかく微笑む。今、何よりも優先すべき事は相手の苦しみが僅かでも良い、軽減される事だ。骨張った手の甲を撫でている指の動きはそのままに、様々な事を考えて居るのだろう、沈黙を落とし続ける相手のやや伏せられた瞳を見詰める事数秒。「__思考が上手く働かない時は、もどかしいかもしれないけど私も一緒に考える。この捜査を担当してるのは私達2人だよ。…薬を飲んで、仕切り直そう。」此方まで薬の副作用に意識引っ張られ考え過ぎては、それを飲む本人はもっと不安になるだろうと、努めて普段通りの声色を心掛けつつ、“捜査を続ける”事を中心に置いた声掛けを )
( 此れまで幾度と助けられて来たのに今になって“相手の瞳が怖い”だなんて。相手を傷付けるという事も分かっているのに、自分ではこの恐怖心をどうしてもコントロールする事が出来なかった。続いた相手の言葉は、変わらず自分を支えようとしてくれているもの。その上捜査を外れなくて済むようにという思いが籠っているもので、これ以上拒絶を続ける必要もないと思えた。やがて小さく頷くと「_______分かった、」と鎮静剤を処方して貰う事を了承して。---倒れた時に頭を打った事で少しズキズキとした痛みはあったものの身体は楽になっていて、主治医も今すぐに入院による加療が必要だという見解ではなかったようで捜査に戻れる事に安堵する。ようやく犯人に近づく事が出来たのだから、このまま解決まで導かなければならないと決意を新たにして。 )
( 正直な所、数時間による説得も覚悟の上だった。それ程迄に相手が鎮静剤に良いイメージを持っていない事はわかっていたから。だからこそ100%の納得では無かったとしても了承してくれた事に大きな安堵を覚え。___MRIの結果も問題が無く、処方される事となった鎮静剤は朝食後に一錠飲めば夜まで効果が緩やかに持続する軽いもの。アダムス医師から相手へ、直接注意事項や現在飲んでいる安定剤や鎮痛剤と併用しても問題が無い事が告げられ、点滴終了後に病院を後にする事となり。___空は薄い雲と、隙間から漏れる夕日の橙がコントラストを描いていた。「点滴の効果が切れる前に、もう少し証拠を掴もう。」相手と共に車に乗りエンジンを掛けると、告げたのは家に戻り休む提案では無く、暗に署に戻ると言うもの。今が相手にとって一番身体が楽な時である事は明白で、事件現場で倒れ、何時間も捜査が出来なかったもどかしさを抱えて居るだろう事もわかっていた。だからこそ、今日はこれ以上休めと口煩く言うつもりは無く。車を発進させながら考えるのは明日以降の事。明日の朝飲む鎮静剤は、幾ら軽いものとは言え果たしてどれ程の副作用を相手に齎すのだろうか )
( 倒れたのだから休むようにと言う事も無く、いつも通りに相手が署へと車を走らせた事はありがたい選択だった。時間を大幅にロスしている分、薬が効いて落ち着いている今は捜査を少しでも進めたい。自身の思いを、相手も主治医も少なからず汲んでくれている事は理解できて、礼を述べる事こそしなかったものの其れは信頼に繋がるだろう。---翌日、1錠増えた薬を朝食後に飲みいつも通り仕事へと向かう。薬が効き始めている事を感じたのはその数時間後。体調は安定していて、焦りや不安が胸の内にさざめく事もない。けれど倦怠感や頭がぼんやりするような感覚があり、少し身体が重い。報告書や資料に目を通すも、内容を理解し読み込むスピードが普段より遅いように感じた。「……ミラー、コーヒー淹れてくれ。」少しして相手に頼んだのはブラックコーヒー。少しでも頭を覚醒させたいと思っての事だった。 )
( ___朝飲んだ鎮静剤が効果を発揮しているのか、唐突に響く物音や遺体の写真で発作を起こす事も無く、視線が重なっても相手の褪せた碧眼に恐怖の色が滲む事は無かった。けれど副作用もまた同じ様に顔を覗かせているのだろう。資料に目を通して居た相手からふいにコーヒーを所望されれば、頷き直ぐに給湯室へと向かい。__相手専用のマグカップの中に注がれた黒はその水面を揺蕩わせ香り良い湯気を生んだ。「お待たせしました。」と声を掛け相手にマグカップを手渡すと、「どんな感じ?」と問い掛ける。それは勿論の事、報告書や書類についてでは無く鎮静剤を服用した相手の体調、その副作用についてだ )
( 身体が有無を言わさず休息を欲するようになるのも、鎮静剤の副作用なのだろう。以前も、そして今も、普段のように少しの無理をする事が出来なくなる。確かに此れまで鎮静剤を服用していた時のように身体が辛いという感覚は無いのだが、普段に比べて格段に情報の処理スピードが落ちる事はストレスだった。些細なきっかけが発作に繋がる事はなく、其処の“結び付き”も鈍くなる一方で他の感覚も鈍くなっているのだろう。相手から手渡されたマグカップを受け取り、コーヒーを口にしつつ「……内容が頭に入って来ない、」とひと言。思考が思うように働かない事に少なからず苛立ちを感じているのは明らかで、こめかみを抑えて。 )
( アダムス医師が言った通り“違和感”は顕著に現れている様で、返事の端々に苛立ちの色が滲んでいるのを感じた。頭の回転が早く感覚が鋭い相手の事だ、もしかしたら他の人が同じ鎮静剤を服用した時に現れる副作用の倍の違和感を感じているのかもしれない。前程では無い…なんて言葉は相手にとっては何の慰めにもならないだろう。「…文字を追うより、映像として視覚に働き掛けた方がまだ頭には残るかも。」此処は書類と向き合うのでは無く、監視カメラ映像等の直接動き、音の出る物に意識を、と別の角度からの提案するも、“副作用”として現れる以上全て消し去る事は出来ないとも理解していた。そうして己に出来る事が殆ど無い事も。「__これ、気休め程度にしかならないかもしれないけど。何も無いよりは良い筈だから。」ジャケットのポケットから取り出したのは眠気防止のタブレット。強い清涼感のあるそれは、夜遅くまで捜査をした日の帰り道に運転に集中する為食べている物。ほんの僅かでも何か変われば良いと思っての事で )
( 全てが何の犠牲も無く丸く収まる、という事は何事に於いても滅多に起き得ない。発作が頻繁に起きる辛い状態を脱するのと引き換えなのだから、少しの我慢が必要な事は分かっていたが、それでも不便さや違和感に苛立ってしまう。「…ああ、」と気のない返事ながらも大人しく相手が手渡してくれたタブレットを受け取り。---相手の提案通り防犯カメラの映像や、任意聴取をした時の録音などを再確認したものの、やはり情報の処理スピードの遅さは痛感させられる事となった。疑わしい人物としてマークしている為把握していたはずの複数の被疑者の内、名前と被害者との関係性、アリバイが結び付かず資料を確認する手間が増えた。倦怠感が纏わり付き、集中力がいつものように持続しない。夜になる頃には積み重なった苛立ちを分かりやすく醸し出す事となり。---『…ねぇ、警部補と何かあった?かなり虫の居所が悪そうだけど、』相手にこっそり話しかけて来たのは、隣の席のアンバー。彼が感情を露わにする時は相手が関わっている事が多い、という此れまでの経験を元にしたイメージのままに相手に尋ねる。『さっきもロドニーが、“要領を得た説明をしろ”って怒られてた。』と、肩を竦めて。 )
( わかり易い程の気の無い返事に若干困った様な苦笑を浮かべるも、これ以上あれこれと言えば苛立ちが募り続けるだけだろうと軽く頭を下げ警部補執務室を出て。___夜になる頃には刑事課フロアに居る署員のほぼ全員が相手の苛立ちに気が付いて居た。フロアは何時にも増して静かで、何処となく微妙な空気も漂っている。八つ当たりをされたくないと、極力相手に話し掛け無いようにしている署員が居るのも傍目に感じていた。思わず溜め息が漏れた時、ふいに隣の席のアンバーが此方に身を寄せた事で顔を近づけると、尋ねられたのは矢張りこの空気を生み出して居る相手の事。彼の機嫌が悪い時、確かに己が関わっている事が多いのは認めるが、アンバーの中でもその認識だったなんて。今回は違うと思わず態とらしいジト目を向けるも直ぐに肩を竦め「捜査が思う様に進まなくてね。…さっきコーヒー頼まれたんだけど、お菓子も付けなかったから怒ってるのかな?」まさか体調の事や薬の事をあれこれ説明する訳にもいかず、捜査と言う無難な単語を出しつつも、不穏な空気を少しでも払拭すべく有り得ないと互いにわかる冗談を一つ。それから名前の上がったロドニーを一瞥する。少しばかり表情が暗いものだから「……エバンズさんと話してみるよ。」と、呟き視線を再びアンバーに向け小さく微笑んで )
( 主治医の想定通り、鎮静剤を服用する事で体調は改善したと言えるだろう。この事件の捜査を始めてから大小こそあれど1日に何度も発作を起こすようになっていて、何が其の引き金になるかも分からなかった。けれど今は其の不安定さはない。正しい処置なのだろうと分かって居ながらも苛立ちを拭い切れないのは、今の状態があまりに自分の“理想”とかけ離れているからだろうか。真剣に向き合い解決しなければならない、被害者の無念を晴らさなければならないと何よりも強く願っているのに捜査の進展は遅く、自分の思考も追い付いていない。焦りばかりが先行して、自分の感情をコントロール出来ていないのだと少し冷静になれば分かるのだが。苛立ちを抑えられず集中力も持続していない今の状態で署に留まっても良い事はないと見切りを付け、仕事は持ち帰ろうと、普段よりも早い時間に執務室を出た。相手のスマートフォンに「帰る頃に連絡をくれ」とメッセージを入れたのは、相手が家に戻る時間まで別の場所で時間を潰そうと思ったから。未だ署員達もまばらに残っている時間帯、執務室の明かりが消えた事に驚きと少しの安堵が入り混じった表情で目配せをする者も居ただろう。 )
( アンバーと相手の機嫌の話をし、折を見て様子を確認しようとしていた矢先。警部補専用執務室の扉が開き鞄を持った相手が出て来れば、身構えた署員達数名を筆頭にフロア内が一度わかり易い程に静まった。続けてデスクに置いたスマートフォンがメールの受信を知らせ、見れば普段よりも随分と早い帰宅を示す文面が。鎮静剤の効果で調子の悪さはかなり軽減されている中、仕事人間の相手がこんな早く帰ると言う事は矢張り副作用が大きく影響しているに違いない。そのメールに返信する事無くノートパソコンの電源を落とすと、カーディガンと鞄を引っ掴み、隣のアンバーに挨拶をして小走りに刑事課フロアを出て。___「…エバンズさん!、」相手の背中に声を掛けたのは署を出た所。小走りで駆け寄りその距離を縮めては「帰る頃になった。」さも当たり前の様に微笑んだ後「先に寄りたい所があるからちょっと付き合って。」と。___相手を助手席に乗せ車を走らせたのは街を抜けた静かな道。この道を以前も通った事はあるがその時はまだ昼間だった筈。やがて到着したのは相手の記憶にもあるだろう数回訪れた事のある海。昼間の様に海の青さを感じる事は無く、夜特有の暗く冷たい雰囲気こそ漂うが、騒がしくも無いこの場所は今必要な場所の様に思えたのだ。ライトを消しエンジンを切ると隣の相手に顔を向け「…少しだけ、寄り道しない?」と既に目的地に到着した後ながら提案をして )
( 突然背後から自分の名前を呼ぶ声が響いて振り返ると、鞄を手にした相手の姿。つい先程、執務室を出た時には未だデスクに居たはずの相手がもう”帰る頃になった“と言って此処に居るのだから可笑しな話だ。自分に合わせて無理に急がなくて良いと伝えようとしたものの、付き合えと言われては其の言葉も飲み込み、ややして大人しく助手席へと乗り込んで。---車は町を抜け静かな道へと入り、やがて暗がりの中でも緑が目立つようになる。軽く倒した背もたれに身体を預け、何を語るでもなくぼんやりと車窓へと視線を送り、見覚えのある道だと気付いたのは随分と目的地に近付いてからだった。エンジンを切り静けさと波音ばかりが響くこの場所で徐に向けられた提案には「…普通着いてから言う事じゃないだろう、」と呆れたようにひと言告げたものの、その提案自体を無碍にする事はしない。帰ると言う事はせず、車内から海を眺められれば良いのか、或いは波打ち際の方まで行きたいのかと視線で相手に問い。 )
細かい事は気にしない。…それにね、此処なら8割断られないだろうって自信があったんだ。
( 遅過ぎる提案に返って来たのは案の定呆れを前面に出した返事。全く細かい事では無いものの、悪戯に口角を持ち上げ肩を竦めた後、何処からそんな自信が来るのか今度は僅かはにかんだ笑みを送り。遠くに街灯はあるものの車のライトを消してしまえば辺りは闇に飲まれる。一度フロント硝子から外を見て考える間を空けたのは、静まった車内で視線で問われた選択に若干の遠慮をしたから。けれど本当に嫌な選択は選択肢から除外するだろう相手の事、此方に委ねてくれているのだと判断すれば「__近くまで行きたい。」と、言葉にし車を降りて。___吹き抜ける柔らかな海風はこの季節の蒸し暑さを消し去ってくれるようだった。砂浜を踏み締めた時の独特の感触が靴を履いていても足の裏に伝わる。暗い空と暗い海、一定間隔の波の音。「…暗いね、」なんて極当たり前、見たままを小さく呟くと軽く相手を見上げて )
______着いてからじゃ断りようも無いだろう、
( 相手の言葉に対してぶっきらぼうな返答をしたものの、実際帰りたいと言う事もなくこの場に留まっている事がその証明とも言えるだろう。足元が見えにくいとか靴の中に砂が入るとか、多少なり日中の苛立ちを引きずっている状況で言いたい事は色々あるのだが、それを言葉にする事はせず波打ち際まで相手と共に向かう。海を眺めるのは嫌いではないのだ。「…夜だからな、」相手から落とされた言葉には、此方もまた至極当たり前の、そして相も変わらずぶっきらぼうな返答を。波が来ない場所に徐に腰を下ろして暗闇の中寄せては返す波に静かに視線を向けて。 )
( 相手はそう言うが果たしてどうだろうか。本当に嫌だった場合、例え既に目的地に到着していたとしても“帰る”と主張し続けただろうし、まして波打ち際まで行くかどうかと言う選択肢を此方に委ねて来る筈が無い。ぶっきらぼうな返事の裏にある“別に良い”を勝手に抜き取り「確かにそうだね。」と頬を緩ませると相手と同じく隣に腰を下ろして。___返って来た当たり前の返事には小さな笑みを。その後互いに口を開かなければ聞こえるのは波の音だけ。酷く居心地が良く感じるこの時間で、職場での相手の苛立ちに此方から触れる事は辞めようと思った。その代わり海を見詰める端正な顔を、冷たい月の光を受ける碧眼を横から見「…帰ったら、何も考えなくて良い時間を作ろう。甘さ控え目のホットミルクと、アーモンドチョコで寝る前の贅沢な時間を満喫するの。今日は月が明るいから、電気点けないで過ごすのも良さそうじゃない?」語調こそ穏やかなものなれどやけに饒舌な理由は自分でも説明が出来ない。そうして静かに伸ばした手で相手の袖口を軽く掴んだその理由もまた、説明の出来るものでは無かった )
( 普段なら執務室でパソコンと向き合っている時間。それなのに今は暗い海を前に波音を聞きながらこうして砂浜に腰を下ろしている。隣の相手も日中の自分の態度に対して思う事もあるだろうに何を言うでも無くこの後の過ごし方を提案されると、ややして「……偶には良いかもな、」と答えた言葉は、幾分棘の抜けた声色で紡がれて居ただろう。未だ夜更けでも無いのに少しの眠気を感じるのも薬の影響か。しかし相手と話している分には不自由を感じる事が無いため、確かに医師の言う通り副作用が最小限に抑えられた薬ではあるのだろう。「_____思考が不明瞭なのがストレスだ。…自分の思考に、意識が追い付いて来ない。」日中に感じていた苛立ちを静かに言葉にした。その背景には、一刻も早く事件を解決しなければならないのにという“焦り”ばかりがある事は自分でもわかっているのだ。 )
( 静かに返された同意の言葉に微笑んだのは、そこに滲む僅かな穏やかさを拾ったから。袖口から手を離し意味を持たない直接的では無い触れ合いを終えて視線はまた暗い海へと向く。___波音と共に鼓膜を揺らしたのは静かに吐露された気持ちだった。再び隣の相手を一瞥し、そうして視線を前に戻す。確実に犯人逮捕まで近付いているこの段階で思考が不明瞭だと言うのは、相手自身が一番苛立つ事だろう。それを感覚の鋭さで敏感に感じてしまうから尚更の筈だ。「__焦らないでゆっくり…なんて悠長な事を言ってる場合じゃない事も、到底そんな気持ちになんてなれない事もわかる、」と、共に事件の捜査を担当しているからこその、そこの部分の共感を口にした後。「靄が掛かってる感じ?」相手の苦しみの部分を静かに問い掛けて )
( 頭が上手く回らない此の感覚を、どう言葉にすれば良いのか分からなかった。相手に問い掛けられた事で改めて苛立ちの原因を冷静に分析すると、考えながら言葉を紡ぐ。「靄掛かっているのとも少し違う。……データを開く処理速度が遅いと言うべきか、…時々思考が途切れるような感覚が近い、」と言葉にして。考えたい事があり、いつも通りに色々な状況を頭の中で整理したいのに、パソコンが重くて一向にデータが開かない時のように思考が付いていかない。途切れそうになる思考を保とうと躍起になる事も、自分のペースで物事が進んでいかない事も苛立ちに直結するのだと。「……でも、確かに身体は楽だ。過去の記憶が強制的に引き出されるあの感覚が薄れている事に、助けられてる。」実際副作用と引き換えにずっと辛かった身体の状態が少し落ち着いているのだと正直に言葉にする。感覚が鈍っていると言うべきか、些細な事で発作を起こしていた苦しさから解放されている今の状況は大きい。医師の見立ては正しかったと言うべきだろうと、暗い海に視線を向けつつ小さく息を吐き出して。 )
( “データを開く処理速度が遅い”と言うのは自然と想像の出来るわかり易い例えだった。急ぎの書類を作成しなければならない時、被疑者の勾留時間が残り僅かしか無いのに絶対的な証拠を見つけられない時、一分一秒も無駄に出来ない中で一向に開かないデータを前に募るのは間違い無く焦燥と苛立ちだ。「それは__物凄く腹が立つ。新しいパソコンに買い替えたくなるくらい。」100%全ての気持ちをそれで代弁出来る訳では無いだろうが、想像し眉の寄った険しい顔でそう静かな言葉を落とした後。それでも副作用と引き換えにした辛さが軽減されている、との素直な言葉には確かな安堵が生まれた。本来ならば何かと引き換えになどせずとも常に痛みからも苦しみからも解放されていて欲しいのに__。「……今はきっとエバンズさんに必要な物だよ。」捜査を降りる選択を決してしない相手に掛けた鎮静剤が“必要”と言う言葉。けれど心の奥底で燻る不安もある。事件解決後、心身に大きな負荷が掛かった相手に襲い来る何か嫌なものが具現化されそうな感覚。杞憂であって欲しいと願う反面、どうしても逃れられない気がしてしまうのだ。___吹き抜ける海風に冷たさが増した気がして隣に視線を向ける。「風、冷たくなって来たね。そろそろ帰る?」終わりの選択は相手に委ねようと問い掛けて )
( 波が寄せては返す音を聞きながら涼しい風に当たり、相手の言葉を聞いている内にささくれ立っていた心が幾らか落ち着きを取り戻したのは確か。「______泣き言を言ってる場合じゃないな。此処まで捜査を積み重ねてきた、1日でも早く逮捕に踏み切れるように進めるのみだ。」決意を口にしつつ、“その先”の事は自分でも見通せない。必死に自分を奮い立たせ、心身に鞭打って立ち続けて来た今回の事件。ただ一つの目的はこの事件を解決する事、其れを達成した後の事は考えても居なかったが、今のように立っていられるだろうか。そんな珍しく弱気な考えが顔を出しそうになるのを振り払うと、「あぁ、戻ろう。」と頷いて立ち上がり、軽くスーツに着いた砂を払うと相手と共に車へと戻って行き。 )
そうだね。私も悩んでる時間が惜しい。
( 相手が口にした決意は“らしい”もの。同意する様に真っ直ぐに海を見ながら頷いた後、少しの名残惜しさの様な感情の揺れを抱えたまま相手と共に車に戻り来た道を引き返し家へと帰って。___暗い海で話した通り、テレビも点けない静かな部屋の中で共にソファに座り蜂蜜入りのホットミルクとアーモンドチョコレートで穏やかな一時を過ごした。カーテンの隙間から射し込む月明かりが部屋の中をぼんやりと照らし、何処か神秘的な空間に染め上げる中でする会話は決して多くは無いが居心地の良い時間。多少特殊な上司と部下の関係を物語る一つのベッドで眠ると言うそれもまた、余す事無く安心へと繋がる。そうやってその日の1日を終え、翌日から変わらず一分一秒でも早い犯人逮捕を目指し捜査を続ける日が続いて )
( ______事件解決までの道のりは長く、当初の想定よりもかなりの時間を要したと言えよう。しかし最終的に掴んだ証拠から容疑者として浮上した、カフェの客だった男の偽装されたアリバイを崩し、逮捕状を男に突き付けたのが今朝の事だった。“俺じゃない”と何度も無実を訴え喚いていた男だったが、隠蔽工作や偽装されたアリバイの証拠をひとつずつミラーが提示して行くうちに大人しくなり、その後『仕方なかったんだ!』と再び喚き始めた。犯行を認める言葉に深く息を吐き出した後、「……連行しろ、」と控えていた署員に指示すると暴れる男は手錠を掛けられ車に乗せられた。車がひと足先に走り去り、相手と2人になった家の前でもう見えない車の方向を向いたまま、終わったのかと妙に冷静に考えていた。喜びや達成感とは程遠い、犯人を逮捕しても尚胸の内に渦巻くのは虚無感に近い感情。犯人が明らかになり、身勝手な動機や浅はかな人間性を目の当たりにした事が寧ろ虚無感を増長させたと言っても良いかもしれない。“彼女”はこんな男の、一時の感情によって殺されたのか、と。外で吸う事は滅多に無いのだが、ジャケットの内ポケットに入れていた煙草を徐に取り出し火を点けると、犯人の家の敷地で階段に腰を下ろして煙を吐き出した。やりきれない感情をどうにかしたかったのだが、煙草の煙で身体を満たした所で気が晴れる訳でもない。「……事件は解決した。…犯人は裁かれ自分の罪を償う事になる、」相手にも労いの言葉を掛けられぬまま、自分に言い聞かせるかのように言葉を紡いで。 )
( 散々無実やら身勝手な理由やらを喚き散らしていた男が連行され辺りは静かな住宅街の色を取り戻した。数台の警察車両に何事かと表に出て来ていた近隣住人の姿ももう無い。後に残るのは事件を解決しても尚残る重たい空気だけ。___追い風の微風に乗って香ったのは煙草の紫煙だった。振り返ると階段に腰を下ろした相手が煙草を燻らせていた。寝付きが悪く気持ちを落ち着かせる時など、たまに部屋の中で吸っている姿を見る事はあれどこうして仕事中、外で吸っている姿を見たのは恐らく初めての筈。煙に続いて吐き出された言葉はきっと己に向けたものでは無く、言うなれば相手が相手自身に言い聞かせる為に落とした言葉の様に聞こえた。「…そうだね。出来る限りの重い刑で、一生償い後悔し続ければいい。」相手の隣に腰を下ろし、低く冷たい声色でそう答えれば、一度深く息を吐き出し。「__…やりきれないね、」続けたのは短い素直な気持ち。犯人は逮捕されたがだからと言って彼女が生き返る事は無いのだから )
( この事件をなんとか、自分の手で解決しなければと必死になって来た筈だった。犯人逮捕だけを目標に、正に捜査に心血を注いだ筈だった。けれど其の悲願を達成しても晴れる事のない気持ちを抱え、中途半端に取り残されてしまったような、虚無感にも似た感覚ばかりが纏わり付いている。相手も似た気持ちを抱えているのだろうと思えば、その言葉には小さく頷く事で同意を示し。座り込んだ場所から立ち上がるのが酷く億劫に思えたが、一番に向かうべき所はあのコテージだろう。短くなった煙草は家の前にでも捨ててやろうかと思ったものの、余り使われず新品同様の携帯用灰皿へとしまい立ち上がる。「…コテージに行こう。彼女に報告したら署に戻る、」と告げて、車へと歩き出し。 )
( 正直な気持ち的には再びコテージに行く事に一抹の不安があった。例え事件解決の報告であってもあの場所は“思い出す”には十分過ぎる場所だからだ。けれど同時に心身を擦り減らし此処まで来た相手だからこそ、報告をすると言うのは矢張り必要不可欠な事だとも思うのだ。それは刑事としてだけでは無く1人の人として。___車を走らせ辿り着いたコテージは相変わらず鳥の鳴き声と風が葉を揺らす耳心地の良い音が聞こえる静かな場所だった。この場所で悲惨な殺人事件があったなどと、言われなければ誰も信じないだろう。___エンジンをきって車を降りる。落ち葉を踏む音がやけに大きく聞こえる中、相手の斜め後ろを歩きその背を見詰める。余りに大き過ぎる苦しみを背負い、それでも立ち続ける相手が何時か消えてしまう様な、そんな漠然とした不安を此処最近感じる様になっていた。手を伸ばし、その腕を取り、もう良いのだと言う事が出来れば…否、例え出来たとしても相手の歩みは止まらないだろう。「…痛みを感じた時間が、ほんの僅かであって欲しい。」中へと足を踏み入れた開口一番はそれ。即死では無かったのだから、どうしたって痛みも恐怖も感じてしまっただろう。それならばせめて、と。外の澄み切った空気とは違い、コテージの中は酷く重たく“死”を強く感じた気がした )
( 此の場所は記憶を色濃く甦らせる。少しでも気を抜くと過去に意識を奪われるという恐怖心は少なからずあり、目の前の物だけを見据えて中へと足を進め。彼女が死の間際何を思ったかは分からないが、相手の言う通り痛みや苦痛、悲しみと言った負の感情を感じる時間が少しでも短ければ良いと思ってしまう______実際そうで無くても、残された者はそう願い続ける。---彼女が倒れていた場所は暖炉の近く、絨毯の上。其の光景が鮮明に甦りそうになり軽く目を閉じて再び開く。その場所で静かに手を合わせるも、犯人を逮捕した事を彼女が“喜んでいる”と思う事が出来なかった。自分の行動を悔いている訳でもない愚かしい犯人を逮捕してその目的が少なからず果たされた途端、進む道が途絶えてしまったかのようだった。「……犯人を逮捕するために、必死になっていた筈なのに…あの男を逮捕しても、虚無感ばかりが残る。事件を解決すれば、何かが変わると思った______でも、何も変わらない。セシリアも、アンナも、生き返らない。」事件を解決した事を喜び、いつものように相手の働きに感謝の言葉を述べる事も今はままならず、どうしたら良いのか分からない不安定な思いが溢れていて。 )
( 相手の隣で視線を絨毯の敷かれる床へと落とす。広がる染みが何かなど考えるまでも無い。艶やかな髪の散り具合も、寸前まで恐怖を宿していてだろう光を失った緑眼も、これだけの日数が過ぎても昨日の様に思い出す。___不安定に揺れる静かな相手の声が静まり返ったコテージの中で大きく聞こえた。刑事に出来る唯一の事は犯人を逮捕し事件を解決する事。それが被害者が天国で喜んでくれる事に、残された遺族の心の痛みを僅かでも軽減する事に繋がるだろう。そう信じるしか無い。だが、実際どうだろうか。犯人逮捕は勿論望まれる事だ。だがそれを果たしたとて、亡くなった人が戻る事は決して無いのだ。遺族が、被害者本人が心の底から望む事はたった1つ、“今まで通りの日常”であろう。それを叶える事はどうしたって出来ない。「……私達は、無力だね。」相手の言葉を聞き、思わず漏れたのは余りに苦しい現実。「…身勝手な理由で奪って良い命なんて、そんなのある筈無いのに。…昨日まであった日常が急に消えて、それが、その傷が、簡単に癒される筈なんて無いのに__何で…そんな簡単な事もわからないで、」絨毯を見詰めたまま続けた言葉は途中喉に引っ掛かり、音を止めた。拳を握り締めた掌に爪が食い込み、その痛みが心の痛みと繋がる。相手は今、どんな顔をしているだろうか。見上げる事が何故か躊躇われ、深く息を吐き出した後、拳の解いた手を隣の相手の背に軽く添えて )
( 自分たちに出来るのは、起きてしまった事件の真相を突き止め犯人に裁きを受けさせる事。多くの場合、未然に事件を防いだり人の命を救う事は叶わない。だから相手の言う通り“無力”なのだ。日常が壊れた後にしか、自分たちは動けない。背に添えられた相手の掌の温度を感じて、視線を落としたまま静かに息を吐き出す。やりきれない思いを抱えているからと言って、幾ら泣き言を言っても何も変わらない。またいつものように、刑事として進んでいく______其れが自分の望んだ道だ。「……今回は、色々とお前に助けられた。感謝してる。」それ以上弱音を吐く事は選ばず、普段の毅然とした態度でそう言うと署に戻ろうと相手を促しコテージを後にする。このままやるせない気持ちを抱えながらもいつも通り次の仕事が舞い込んで来て、捜査に赴くのだと、この時は思っていた。 )
( 紡がれたお礼に返したのは首を横に振ると言うそれだけ。犯人逮捕に全力を尽くした事は事実、けれど事件と並行して“相手の心”を助ける事が出来たかは別だ。事件に集中しなければならないと、それが刑事である己の務めだとわかっていても心をそれだけに向ける事など出来ないのだ。例えFBI失格だと言われても。___相手に促されコテージを出る前、最後にアンナが倒れていたその場所に視線を落とす。笑顔の彼女の姿だって確りと覚えている。誰も居ないそこに一度だけ軽く頭を下げてコテージを出れば相手と共に署へと向かって。___それから2日後、出張に出ていた警視正が帰って来た。報告書の提出と共に口頭での事件解決の報告や詳細を伝える為先に警部補専用執務室の扉を開ける。「エバンズさん、準備出来ました。」仕事の区切りをつける事が出来、警視正の元に行けると伝え。___この2日間、相手に対して“違和感”を感じていた。それは何か説明の出来ない程の小さなものだったが、確かに頭の奥で警告を鳴らす様な違和感。それが何か、この時はまだわからずにいて )
( 事件を担当する上で感じる虚無感や無力感というのは、刑事であれば誰もが通る道。其れは時間の経過や仕事に追われている内に徐々に薄れ行くのが常なのだが、今回は何故だろうか。日ごとに虚無感が深く根を張り心を絡め取られるような感覚があり、仕事に向き合う事が出来なくなっていた。“糸が切れた”と表現するべきか、あの事件で犯人を逮捕した瞬間から捜査に対する情熱のようなものが消えてしまった気さえするのだ。精神力だけで立っていた物が崩れつつあるのか、今は体調が酷く悪いと言う訳では無かったが身体が重たい感覚があり、鎮静剤の効果も相まってか仕事に向き合う事が億劫に感じられた。こんな状態では捜査に当たる事は愚か、刑事たちの上に立ち業務を遂行する事さえままならないと言えよう。---相手の声掛けに顔を上げると「…あぁ、今行く。」と答えて立ち上がる。胸の内は空虚なのだが、身体も未だ持ち堪えていた為、ここ数日普段通りに振る舞う事は出来た。この感情を、言い様のない苦しさを、相手に話す事はしていない。此れから警視正に話そうとしている事を相談する事も。警視正の部屋をノックし相手と共に入室すると、捜査報告書を手渡し「_____容疑者のアリバイ捏造や証拠の隠滅などもあり、想定よりもかなりの時間を要しましたが容疑者の逮捕に至りました。」大まかな捜査の流れや鑑識との連携の改善点などを交えながら、今回の捜査の報告を行い。 )
ウォルター警視正
( 相手から手渡された報告書にザッと目を通した警視正は、同時に口頭で紡がれる捜査報告を時折相槌交え聞き終えた後『__改善すべき点がお前達の中で確りとわかっているのなら問題は無い。ご苦労だった。』と、両者に順番に視線を向け労いの言葉を掛けた。それから受け取った報告書をファイルの中に仕舞い込み、別のファイルから一枚の書類を取り出すとそれを相手に差し出しつつ『…2人にはパインストリートに向かって貰いたい。近隣住人から不審者を見たとの通報があってな、勿論地元警察も巡回は強化すると言っているが__どうにも心配性なご年配女性がFBIに、と譲らないらしい。』若干の困った様な苦笑いと共に次なる仕事を告げ。それは相手の心身に今何が起こって居るのか、それに対して相手がこれから話そうとしている事を知らないからこそで )
( 労りの言葉に軽く頭を下げ、報告が以上であれば引き続き警視正と話を、と思ったものの次の捜査依頼と共に資料を差し出されると、その紙に視線を落としたものの受け取る事のないまま動けなくなる。次の仕事を受けるのは簡単だ、いつも通り資料を受け取り内容を確認して現場に赴けば良い。それも重大な事件性が有るものではないため負担も少ない。けれど。結局其の紙を受け取る事はせずに顔を上げると「_____警視正、少しお話があるのですが。」と言葉を紡いで。本当は相手が席を外した状況で話そうと思っていたのだが、自分たちに捜査を依頼されている状態で今から退室を促すのも可笑しいだろう。「……少し、休みを頂けませんか。次の捜査も依頼いただいている状況で申し訳ありませんが、少し勤務日数を減らしたいと考えています。」特別具合が悪そうな様子も、憔悴した様子も見せずいつも通りと言えばいつも通りの毅然とした態度ながら、願い出たのは非常勤での勤務。「管理業務はなるべく影響の出ないように行います。事件の捜査に関しては…暫く、別の刑事に。_____中途半端な勤務が支障を来たすようなら、休職も視野に入れています。」表向きはいつも通りを装っていても、心の穴は広がるばかり。張り詰めていた糸が切れた今、そう時間を要さずに“前借りしたもの“のツケが回ってくる。いつ内側から崩れ始めるか分からないような不安定な状態を、自分自身は感じていた。 )
ウォルター警視正
( 相手の手に渡らない資料を挟み3人が微動だにしない静かな時間が数十秒続いた。明らかに変わった空気に警視正は怪しむ様に僅か眉を寄せ、ミラーは隣に立つ相手を神妙な面持ちで見詰める。__と、その静寂を破ったのもまた相手だった。その口から出た休みの所望に今度は警視正は一瞬目を見開き、ミラーは思わず「え、」と声を漏らし表情に隠し切れない驚愕と不安を滲ませた。それはそうだろう、何があっても仕事を優先させ幾ら此方が休めと言った所で聞く耳を持たない事が常な相手が自ら非常勤での勤務を望み、更には休職も視野に入れているとまで言い放ったのだ。理由など聞かずともわかってしまう。それだけ調子が悪い…否、限界だと言う事だ。一瞬にして顔色が悪くなったミラーを一瞥し、一度は相手に手渡そうとしていた資料を引っ込めた警視正は『…わかった。』と、悩む素振り無く相手の望みを聞き届けた後『休職に関して、此方から何かを言うつもりは今の所無い。非常勤でも難しいと感じたその時、お前の口から教えてくれ。』休職の事は一先ず置いておくと保留を持ち出し。再び訪れた沈黙はまた数十秒。俯き視線を落とすミラーの表情は翳ったまま。『……限界か?』相手を真っ直ぐに見据え、その口から今の気持ち、状態を聞いておきたいと静かな口調でみじかい問いを投げた警視正の表情もまた、真剣な中にやるせなさの様な色がうっすらと入り交じっていた )
( 2人の反応はもっともだ、自分が余りにも急に周囲に迷惑を掛ける事を願い出ている自覚はあった。けれど長い沈黙の後、非常勤での勤務を許可する言葉を警視正が紡いだ事に安堵する。日数を減らし療養しながらの仕事であれば、少しずつ心身の状態は元に戻って行くかもしれない。正直な所今休職を選択する事には、戻れなくなってしまうかもしれないという一抹の不安もあったため続いた警視正の言葉に頭を下げて感謝を示す。たったひと言、問いかけられた言葉に目の前の警視正の瞳を真っ直ぐ見詰め、少しして小さく頷くと「_______恐らく、」とだけ言葉を紡いだ。恐らく、この状態を”限界“と言うのだろう。胸の内に渦巻く苦しさを何処へも追いやれない。どういう訳か捜査に一切の熱を持てず、ただ全ての事件から離れた所に居たいと感じた。間も無く手持ちが切れる鎮静剤を服用しなくなれば、たちまち体調を崩す可能性もある。恐らく限界なのだ、自分の心身は。 )
ウォルター警視正
( その一言に全ての気持ちが籠っている気がした。『…わかった。』と、先程と同じ言葉を返した警視正は、尚俯いたままで居るミラーの名前を呼び相手に手渡す予定だった書類を渡し『この捜査はお前に任せる。スミスが今何の捜査も請け負っていない筈だ、彼と行ってくれ。今直ぐにだ。』と、或る意味での退室を促し。若干の戸惑いを見せたものの、命令に背く事無く頭を下げミラーが部屋を出て行くと残されたのは2人。改めて相手を真っ直ぐに見据え、深く長い息を吐き出してから少しばかり表情を緩めると『お前の選択はきっと正しい。非常勤であっても、例え休職する事になったとしても、居場所が無くなる事は決して無い。…頼られる事を望む人が近くに居る事を忘れるなよ。』刑事に拘る相手が抱えるだろう不安を少しでも払拭出来たらと言う思いでの前者を、そうして暗に自分もその内の1人なのだと含ませた後者を告げつつ、『話しておきたい事は他にあるか?』と問い掛けて )
( 捜査を命じられた相手が部屋を出て行くのを見届けると、警視正に向き直る。続いた言葉には迷惑を掛ける事への申し訳なさも募るのだが、“居場所はなくならない”という言葉は漠然とした不安を和らげてくれるものだった。「……犯人逮捕だけを目指して捜査に心血を注いで来た筈なのに、男を逮捕した後に残ったのは虚無感だけでした。其処で、“糸が切れた”のだと思います。少し足を止めないと、これ以上前に進めない気がして、」自分が休みを貰いたいと申し出るに至った感情を、あくまで理性的に伝える。薬を飲まなくなれば、嫌でも無理をした皺寄せが来るだろう。心が壊れてしまう前に、少し休む時間が必要だと自分自身で感じていた。「迷惑をお掛けしますが、非常勤で出来る事はきちんと熟すつもりです。」と告げ、それ以上今話す事は無いと首を振り。 )
ウォルター警視正
___今回の事件の被害者の顔は、私も確認している。心身にどれだけの負荷が掛かるものだったかは想像に容易い。…心が壊れる前に、お前自身が気付けて良かったよ。
( 目前の相手が語る言葉は普段通り理性的で、その表情や声色にも特別大きな不調が見える訳では無かった。だが、今は逆にそれが恐ろしいと感じた。まるで嵐の前の静けさの様な。出張から戻って来て直ぐに2人が請け負った捜査の被害者と犯人を確認して絶句したのは今朝の事だった。被害者が余りに見覚えのある顔___勿論記憶にある女性とは別人だと理解していたが似過ぎていたのだから。背凭れに体重を掛ける様に重心をずらし座り直すと、首を振る相手に頷き『では、もう戻って構わない。仕事の日数や時間は任せる。』と、勤務のやり方は相手に委ねる形を取り。___一方スミスと共に指定された場所の巡回をしていたミラーの心は酷く不安定だった。勿論それをおくびにも出さず平静を装いはしていたが、あの相手が自分から非常勤を願い出て休職を視野に入れているとまで言ったのだから当然と言えば当然だ。アダムス医師から臨時処方されている鎮静剤の残りは後僅かの筈、当然飲まなくなれば副作用が現れるのは時間の問題だろう。思わず漏れそうになった溜め息を飲み込み、近隣に住むご婦人に“FBIが巡回した”事を、地元警察も巡回を強化する事を伝え、また何かあれば連絡を、とスミスと共に署へと戻って行き )
( その後、月水金の3日を勤務日とする事が決まり、其の日に纏めて報告書などを確認する事となった。翌日の休みに備えて既に上がって来ている報告書に目を通しているうちに気付けば夕方になっていた。鎮静剤の効果で、矢張りまだ意識が途切れるような感覚があるものの捜査のように頭をフル回転させる必要のない業務では、そこまで大きな不便さを感じる事は無い。寧ろ鎮静剤が切れた時、また以前のようにほんの些細な事で頻繁に発作を起こす状態に陥る事が怖かった。報告書に目を通し終えると眼鏡を外し、中身の冷たくなったマグカップを手にしてコーヒーを啜る。ちょうど相手とスミスが出先から帰ってきたのだろう、窓の向こうで部屋の外の人の動きが目に入るとそちらに視線を向けたものの、相手に声を掛ける事は選ばなかった。 )
( 署に戻り直ぐ警視正に近隣住人の不安を落ち着かせる事が出来たとの報告はしたが、そこで相手の願い出た非常勤の話を聞く事はしなかった。警視正もまたその話題に触れる事は無く、刑事課フロアに戻ればスミス捜査官とは互いに別れ自席へと。___頭の中にあるのは勿論先程の相手と警視正の会話だ。鎮静剤の服用が無くなった後の副作用については勿論懸念していた。けれどそれよりも前の段階で、相手を襲っていた虚無感の大きさを見誤って居たのが正直な所だ。この後の反動の大きさも、最早想像が出来ない。険しい面持ちで席を立ち警部補専用執務室の扉をノックする。中から入室の許可が来れば扉を開け、その表情は意識的な微笑。「戻りました。そろそろ熱いコーヒーが必要な頃かと思って、」手を伸ばし、マグカップを受け取る姿勢を見せて )
( 部屋に入って来た相手が先程の事を意識してか、いつもよりほんの僅かにぎこちない微笑を浮かべた事に気付く。コーヒーを淹れると暗に言われると「…よく分かったな、」と、先ほど空になったばかりのマグカップをおとなしく相手に手渡して。熱いコーヒーをマグカップに淹れて戻ってきた相手に礼を述べひと口其れを啜ると「不安がってる地域住民は大丈夫だったのか、」と先程の捜査の事を尋ねて。お互いに本質に触れぬよう出方を窺っているような状況だとも思う。「_____休みの日は、家に居ても良いか?」と徐に尋ねたのは、相手が仕事に出て自分が休みの時他人を家に残す事を相手が快く思わない可能性を考慮しての事。近場のホテルにも空きはあったと付け足し、必要ならそちらに移ると。なんだかんだで相手の家に居座っている状況も、そもそも何とかしなければならないのだろうが。 )
( 熱いコーヒーを淹れたマグカップを相手に手渡し、そこで再び自席に戻る事は選ばなかった。執務室の扉を閉め備え置きのソファに腰掛けると問い掛けられた捜査状況に「一先ずは問題無いかな。地元警察の巡回強化の説明もしたし、納得してくれたと思う。…スミス捜査官が凄い親身でね、結構頑固なお婆さんって聞いてたんだけどすっかり打ち解けて、今度お茶でもって誘われてた。」後半先程のぎこちないものでは無い、普段通りの屈託のない思い出し笑いと共にそう答え。___と、先に“本質”に繋がる部分に触れたのは相手の方だった。流れる空気が僅かに変わったが、それは決して悪いものでは無い。「勿論。」と、僅かの間を空ける事も無く了承する。「寧ろ今更ホテルに泊まられる方が嫌。もう1人で眠れる自信無いし、いっその事このまま一緒に住めば良いとさえ思ってるくらい。」念の為声量こそ落としたものの、淀見なく紡ぐ言葉の数々は勿論心の底から思っている事だが相手には戯言くらいの軽さで捉えられるだろう。言い切ってから一つ息を吐き出した後。沈黙を置いてから「__今は苦しくない?」と、今度は此方から“本質”に繋がる問い掛けを )
( 相手の言葉にスミス捜査官の性格を思い、今回のような件には適任だろうと納得する。仮に依頼通り自分が行っても、住民と打ち解ける事は到底出来ない。本当の意味で住民を安心させ信頼を勝ち得る事が出来たのは2人の功労だろう。相手から返ってきたのは了承の言葉。このまま一緒に住みたい、という冗談めいた言葉には呆れたような反応を示しただけで。いつも通りのやり取りの中で、相手から紡がれた問いに再び視線を持ち上げる。「…体調は問題無い、」と答えたものの、胸のうちに広がる苦しさのようなものは容疑者を逮捕したあの日から心に纏わり付き、気力を削いで行くようだった。「_____事件を解決してからの方がしんどい。…目的を持って捜査をしている時は、突き動かされるように動けて居たのにな。」と言葉を落として。かなりの無理をして捜査を続けた結果にもたらされた虚無感に絶望した、精神力が切れたというような事なのだろうが、この苦しさを取り払う事が出来ないのだ。何も考えずに眠り込んでしまいたいとさえ思った。 )
( 案の定返って来た言葉の無い呆れた表情に態とらしくにっこりと微笑み終了を。鎮静剤や鎮痛剤のお陰で物理的な痛みや苦しみに襲われはせずとももっと別の___自分自身では何処にやる事も出来ない虚無感にまるで全身を覆い尽くされ、内側からじわじわと侵されて居る感覚があるのだろうか。そうしてそれは事件解決と共に多くの“氣”を奪い去って行った。正しくそれが“糸の切れた状態”だろう。「…本来立ち止まるべきだった時に、薬を使って強引に進んだからね。沢山の無理と沢山の気持ちが溢れて、きっと少し疲れちゃったんだよ。身体が、休むのは今だよって教えてくれてるんだと思う。」抱える虚無感を取り除く事はどうしたって己には出来ないだろう。それでも静かに紡いだ言葉はあくまでも穏やかなもの。「後の事は何も心配しないで。確りやるから。」と続けてから、「…鎮静剤、後何日分残ってる?」もう1つの、次はそれが無くなった後にも来るだろう副作用の心配からそう問い掛けて )
( レイクウッドに赴任し相手と共に捜査を始めた当初は、殺人事件の捜査経験もない新人さながらの捜査官で戦力になるどころかお荷物だとさえ思っていた訳だが、今はどうだろうか。“心配しないで”という言葉を何の違和感もなく受け入れている自分が居た。「…お前もそろそろ、独り立ちできそうだな。」相手の頼もしい言動と捜査経験を鑑みれば、小さな事件からであれば任せられる日も近そうだと純粋な感想を述べたのだが、今の相手を不安にさせるものだっただろうか。鎮静剤は今朝飲んだ時点で残りが2錠だった事を思うと、休みの明日は飲まずに翌日の仕事の為に取っておくべきかもしれないと考えつつ「あと2日分残ってる。必要な日の為に取っておくべきかもな、」と告げて。 )
( 何も心配する事無く、自分自身の心と身体を一番に考えて確りと休める様に。そんな想いで自信満々に送った笑顔と言葉だった。だからこそ相手からの返事は望ましいもので認められた気持ちに本来喜びこそ湧けどこんな…心臓が嫌な脈打ち方をする筈が無いのに。何故だか何処から溢れたのかわからない恐怖心に身体が固まる。言葉を間違えた訳でも、返事が意味深だった訳でも無い。それなのに___「っ、勿論、エバンズさんの直属の部下だからね。でも…やれるのは今回だけ。エバンズさんが休んでる間だけで、今まで通りの勤務に戻ったら、また隣に立ってくれなきゃ、」相手に見えている表情は焦燥や、恐怖や、不安が入り交じったものなれど自分自身ではどんな顔をしているかわからなかった。ただ、やけに必死に訴えた言葉がFBI捜査官として甘ったれたものだと言う事だけは頭の片隅で気付いたのだが、それ以上に不安感が勝ったのだから仕方無い。鎮静剤の残り数は思ってた以上に少なく、取っておく、との言葉には同意を示す様に頷きつつも「家で1人の時、もし苦しくなったら躊躇わずに飲んで。」仕事の時を思って耐えるのは駄目だと念を押して )
( 相手の働きを認める意味で発した自分の言葉に対して、相手は不安や焦りの入り混じった表情を浮かべた。今の状況で相手を一人前と認める事は、相手を置いて自分が居なくなる事を連想させたのだろう。正直な所、暗に自分が居なくても相手は大丈夫だと言葉にしておきたかったという気持ちが、微塵も無い訳ではない。内側から崩れて行きかねない不安定さを抱えたままでは、“万が一”を考えてしまう。万が一自分が刑事である事を諦めたら、相手は1人でやっていかなければならないのだ。けれど相手の表情を見て、其れを言葉にする事は選ばなかった。「お前が待ち構えてると思うと、気が休まらない。」と言いつつ呆れた表情を浮かべて。辛かったら鎮静剤を飲むようにという言葉に頷きながら「…もうすぐ片付く。」と徐に告げ、然程遅くならずに帰れる事を伝えて。 )
( 己はもう捜査1つ請け負った事の無い新人さながらの捜査官では無い。まだまだ未熟な面は多々あり日々反省の毎日ではあるがそれなりに経験も積んだし、様々な人や事件とも向き合って来た。相手が居なければ何も出来ない、なんて甘えは許されない筈だと言うのはわかっているが、一度相手の儚さに触れてしまった心はその恐怖を直ぐ様思い出す様になってしまっていたのだ。悪夢に魘され苦しんだ夜が明け空が白み始めた頃、漸く発作が落ち着いた相手の瞳に大きな疲労と空虚な色が宿っているのを何度も見た。眩しい程の月明かりの下、その光を集めた碧眼が切なそうな、寂しそうな色を宿したのも何度も見た。何時か__何かのタイミングで、居なくなってしまうのでないかと言う漠然とした不安が付き纏い続けていた。相手が返した言葉は何時も通りの色を纏ったもので、表情もまた見慣れた呆れ顔。「何それ。私の事ストーカーか何かだと思ってるの?」と、じっとりとした瞳を一瞬向けたがその口元には明らかな安堵を宿した笑みが浮かび。___仕事を終えた相手と共に署を出たのは30分程が経ってから。帰宅後、部屋着に着替えソファに座る相手を一瞥し寝室に行くと、戸棚の引き出しの奥から一つの鍵を持って戻って来る。「…エバンズさん、これ。」それを相手に差し出しながら「この部屋の予備の鍵、持ってて。私が仕事でも自由に外に出られるように。」鍵を渡す理由を説明しつつ、軽くはにかんで見せて )
( 相手の家に戻りソファに身体を預けていると、寝室から出て来た相手に“何か”を手渡される。視線を落とせば、それは銀色の鍵。相手の家の合鍵だと理解すると、少し驚いたように再び視線を相手に戻したものの何を言おうか迷って言葉は出なかった。自分を気遣っての事だと言うことは分かるのだが、仮にも女性の部下の家の合鍵を受け取るのは如何なものかと考え、同時にこの状況も端から見れば十分問題だと思い直す。再び視線を手元の鍵に戻し、頭の中には色々な思考が入れ替わり立ち替わりしていたのだが、ようやく「……悪いな、落ち着いたら返す。」と言葉を発し、今は受け取る事として。身体は疲れて居るのだが、相変わらず眠る事が怖かった。鎮静剤の効果で落ち着いている日もあったのだが、今夜はまた夢見が悪いかもしれないと思いながら眠りに着くのはどれほどの月日が経っても慣れないものだ。今夜は睡眠薬を飲んで眠ろうと、錠剤を取り出すとキッチンで水を汲み其れを飲み込んで。 )
( その反応は至極自然なものだろう。少しの驚きを表情に此方を見たり手元の合鍵を見たりを繰り返す相手の姿を緩い笑みのまま見詰め、ややして漸く受け取る気を見せた様子に口元の笑みを色濃いものにすると「返さなくても良いよ。何時かエバンズさんが此処を出て行った後も、何時でも泊まれる様に。」何の躊躇いや淀み無く、これまた絶対に相手は困惑するだろう返事を返しつつ、その表情を見たいと言う若干の意地悪心を持ちながらも、敢えて何事も無かったかのように相手に背を向け部屋着に着替える為寝室に戻り。再びリビングに来た時、相手は丁度錠剤を飲み込む所だった。それが安定剤か睡眠薬かまでを一瞬の判断で出来る訳も無かったが、何方にせよ眠る事に少なからず恐怖心を抱いている事は間違い無いだろう。人が身体を休める為、当たり前に訪れるその時間が、相手にとっては恐怖や苦しみの時間となる事が酷く心を締め付けた。「…ラベンダーの香りは苦手?」唐突にそう問い掛け相手を見上げる。「新しくアロマを買ったの。強い香りじゃないし、もし苦手じゃなかったら寝室に置こうかなって。」ストレスを緩和してくれる香り、なんてそんな物で楽になるなら誰も薬など飲まないと思うのだが、“そう言うもの”を少しだけ取り入れるのも悪くは無いと思ったのだ。気休めでも、何だって。軽く相手の背に触れ、その手を緩やかに動かす事で言葉の無い“大丈夫”が少しでも届くと良いと )
( さも自然な事かのように紡がれた言葉に、再び相手に視線を戻す事となる。一緒に住んでいる訳でも、家族でもない、謂わばただの上司である自分が相手の家の合鍵を持っていていつでも出入り出来る、なんていう状況はどう考えても可笑しい訳で返答に困った事でやや眉間に皺が寄り。結局言葉を発するよりも前に相手は寝室へと戻っていき、鍵に視線を落とすと大人しく其れを鞄へとしまい。リビングへと戻って来た相手からの突然の問い掛けには少し首を傾げたものの、ラベンダーの香りのアロマを、という言葉に納得して軽く頷く。「強い香りじゃなければ大丈夫だ。」と答えて。やがて仄かなラベンダーの香りが室内に漂うと、確かに気持ちを落ち着ける効果はありそうだと思いつつベッドに横になり。 )
( 部屋の中に漂うラベンダーの柔らかな香りを感じながら相手の隣に横になる。先程飲んでいた錠剤が効果を確りと発揮し朝まで静かで安らかな眠りを相手に齎す様に、と願うのだがそれが幾度となく裏切られて来た事も知っていた。だからこそ相手の恐怖は消えないのだ。此方に向けられる背に先程と同じ様に掌を当て優しく擦りながら「__何かあったら私を起こしてね。」と告げて目を閉じる。それから暫くの間眠る事は無かったものの、やがて背を擦る手の動きがゆっくりとしたものに変わり、ややしてその動きが完全に止まった頃静かな寝息をたて眠りの淵へと落ちて行き )
( 睡眠薬は深い眠りをもたらした。夢を見るよりももっと深い場所に沈んで眠っているような、遠くで何かの夢を見ているような、そんな感覚だけがあったが内容までははっきりと認識できない。いつもは睡眠薬を飲んでも悪夢を見て眠りから引き摺り出される事が多々あったが、今は落ち着いているようだった。---鎮静剤によって抑えられていた物が、その抑えを押し退けて浮かび上がろうとしているかのうように遠かった夢がやがて少しずつ鮮明になり、”何の夢か“に気付きそうになった事で目が覚める。少し呼吸が上擦り鼓動が速くなっていた。未だ外は暗く遠くの空が青みを帯び始めた夜明け前。相手が隣で小さく寝息を立てているのを見ると、音を立てないようにそっとベッドを抜け出してキッチンへと向かって。無理をしていたにも関わらず此の所体調が落ち着いていたのは、間違いなく鎮静剤のお陰だろう。副作用も少なく効果が緩やかだと言って処方された薬だが、あくまで一時的な対処法。この薬も長く連続服用する事は出来ず、楽だからと言って大量に処方して貰える物でもない。そして其の鎮静剤の効果が切れかけている事で、身体の不調や夢見の悪さが程なく戻って来る事も感じていた。其れが怖くて、少しでも長く安寧の中に居たくて、睡眠薬をもう一錠飲みベッドに戻る。やがて少しずつ微睡み始め、相手が目を覚ます朝になっても身体を丸め眠り込んでいて。 )
( ___目が覚めたのは携帯のアラームが鳴る数分前。鳴り出す前にOFFのボタンを押し隣を見れば珍しい事に相手は静かな寝息をたて未だ眠っていた。普段は相手の方が先に目覚める事が多く、こうして寝顔を見るのは此処最近ではとても珍しい事。表情は苦しげでは無いものの、それはきっと薬が効いてるからだろう。その寝顔を暫し見詰めながら起こさない様に柔らかな焦げ茶の髪を緩く撫でる。起きている時には出来ない行為ではあるが、例え上司とて愛おしいと感じる時は思わず抱き締め撫でたくなるのだ。このまま悪夢の無い眠りの中に少しでも長く居て欲しいと、相手を起こす事は選ばずリビングに行き身支度を済ませて。___家を出る迄の残り時間は紅茶と共に過ごす事にした。ソファに座り少し濃いめに淹れた紅を飲みながら、音量を小さくした情報番組を見る。この地域への台風接近、数日後には直撃を知らせるニュースと、少しばかり強くなった風が窓ガラスを叩いたのは同時だった。数日は晴れの空を見る事は出来ないのかと小さく息を吐き出し、その後続く番組をぼんやりと眺めながら、それでも頭の片隅にあるのは相手の日々の過ごし方や体調の事で )
( 睡眠薬が手伝った深い眠りから呼び覚ましたのは、窓の揺れる音だった。弾かれるように肩が揺れ眠りから引き摺り出されたものの、其れが何の音かは分からなかった。ベッドに身体を起こし、随分と長く眠っていたようだと思いつつ手近にあったカーディガンに袖を通して。鎮静剤の効果は既に切れているだろう、倦怠感が身体に重たく纏わりついているのだが睡眠を取れた事が体調を幾らか安定させていた。寝室を出て、ソファに座っている相手に「…おはよう、」と声を掛けつつキッチンで相手が沸かしたお湯を使い紅茶を淹れて。時折強まる風が窓を叩くのだが、やけにその音が大きく聞こえて頭に響く。頭痛を引き起こしそうな不快感があって窓の外へと視線を向けると「…随分風が強いな、」と言葉を落として。テレビから聞こえて来る声も妙に反響しているような気持ち悪さがある。ソファではなくテレビから少し離れたダイニングテーブルの椅子に腰を下ろすと、紅茶をひと口啜って。 )
( 台風の直撃に備え今から準備を、と警告を促す気象予報士の言葉を聞きながらマグカップの底の紅を飲み干したその時。寝室の扉が開き目を覚ました相手の声が聞こえれば頭を其方に「おはようございます。」と微笑んで。普段ならば飲み物を淹れた後相手が座るのはソファ。けれど今日は何故か角度的にテレビも見辛いだろうダイニングテーブルの椅子で、その本来気にする事も無い些細な変化に一瞬不思議そうに目を瞬かせたのだが。此方が疑問を投げ掛ける前に再び強い風が窓を叩き、自然と視線は移動する。窓を見詰めたまま「…台風が近付いてるんだって。予報では明後日に直撃らしいよ。」と、溜め息混じりに答え。それからを相手に向き直ると「家を出るのが億劫になる、」軽く肩を竦めつつ、中身の無くなったマグカップをシンクで濯いで )
( 窓を揺らす風の音に肩が跳ねそうになる。これ程の強風では外に出るのも危ないのではないかとさえ思い「…大丈夫か?出勤停止という事は無いと思うが、風に煽られないように気を付けろよ、」と、警報級の悪天候時の対応は適用されないかもしれないが今日は注意した方が良いと告げて。マグカップを洗う水の音は嫌な大きさで反響するような感覚があった。今日は色々な音がやけに耳障りに思えて眉を顰めつつ眉間を解して。相手が出勤するのを見届けたらもう少し休もうと思いつつ紅茶を飲み干して。 )
ありがとう。落ち着いてるようだったら早めに帰って来るから。
( 心配と注意に素直に頷き鞄を肩に掛ける。普段より数十分早い出勤だが、この悪天候では何があるかわからない為時間に余裕を持った方が良いだろうとの判断で。___案の定仕事は落ち着きを見せていたが、それに反比例する様に天候は悪くなり続けていた。朝はまだ風だけだったがお昼を過ぎた頃から風の強さは勿論、大粒の雨も降り出す様になっていて、これ以上酷くなる前に帰れる者は帰る様にと促しに来た警視正の言葉で、己を含めたフロアの殆どの署員が帰宅をしたのが16時過ぎの事。道路は雨によって溜まった水が浅い川の様に続き、ワイパーを最大で動かさなければ視界不良で事故の危険性がある程だ。無意識に寄った眉間の皺をそのままに車を走らせ、無事駐車場に車を停めた時に安堵の息を吐き出す。それから足早に階段を駆け上がり玄関の扉を開け部屋に入るや否や、「…外すごいよ!明日には上陸するんじゃないかな、」と、開口一番、挨拶もそこそこに外の現状報告を。この時はまだ朝少し触れた相手の違和感の正体に気が付けていなかった )
( 相手が出勤して部屋に1人になってからも“音の感じ方“への違和感は増すばかり。徐々に、耳を塞ぎたくなるような不快感と頭痛に襲われるとベッドに横になり。少し微睡んでも、雨風の強い外から聞こえる音に意識を引き戻された。昼過ぎに音をきっかけに発作を起こした事で、まるで抑え付けられていたものが外れたかのように些細なきっかけで過去がフラッシュバックする状況に再び陥っていた。夕方には一層外の状況は悪くなり、耐え難い騒音に苛まれる事となる。扉が開く音がして相手の声が聞こえたものの、その声もいつも以上に頭に響く大きな声に聞こえる。横になっていたものの、相手が自分の姿を探して寝室にやって来ると「______少し声量を落としてくれ、」と告げて。 )
( 寝室の扉を開け最初に目にしたのはベッドに横になる相手の姿。追う様にしてやや掠れて聞こえる声で要望が来れば反射的に「あ、ごめんなさい。」と謝罪を口にするのだが。実際叫んだ訳でも無くあのくらいの声量であれば相手は幾らでも聞いた事があった筈。それが今の相手にとって引っ掛かるものになるのであれば___「…頭痛い?」体調が悪い…頭痛に苦しめられていると考えるのが一般的。開けた扉の前から動かずに先程よりも遥かに落とした声量で以てそう問い掛けてから「薬持って来ようか、」と。この会話の最中も強まる雨は容赦無く窓ガラスを叩き、隙間を縫うような風音は何処か不協和音の様な響きを晒して )
( 鎮痛剤を飲めば少しは楽になるだろうか。相手の問いに頼むと小さく頷いたものの、強い風によって外で誰かの自転車でも倒れたのだろう。隙間風の音に加えて、ガシャンと大きな音が鳴ると突然意識は過去に引っ張られた。窓ガラスの割れる音、悲鳴、銃声______過去の記憶と反響する音とが繋がり、途端に呼吸は不安定なものに変わっていて。「……っ、はぁ…ッ、は、」上擦った呼吸が苦しいのだが、乱れた自分の呼吸音さえ酷く頭に響くように感じて思わず頭を抑える。反響するように聞こえる強弱のある風の音は人々の声のようにも聞こえて、野次馬が大勢集まる中幼稚園を出た時の此方を見る冷めた視線と囁き声、責任を問い詰める記者たちの声が思い出された。 )
( 薬を所望されれば直ぐに頷き寝室を出ようとしたのだが。それよりも先に風の音に混じり窓の外で何かの倒れる音が鳴り、同時に横になっている相手の唇からは発作を示す不安定に乱れた呼吸が漏れた。「!、エバ__、」不味いと咄嗟に相手の名前を呼ぼうとしたのだが、頭を押える仕種に数秒前の遣り取りを思い出し言葉は止まる。相手が今“音”に反応しているのは間違い無く、それが頭痛や発作に繋がってしまったのもほぼ確定だろう。しかしながら外の天気が一瞬にして回復する筈も無く、完全防音では無いこの部屋の中で、周囲の音を完璧に遮断する事は不可能なのだ。加えて発作中は薬を飲む事も出来ないだろう。先ずはどうにか落ち着かせなければならないと静かに近付き、驚かせない様にベッドの端に座り。それから足元にある掛け布団を持ち上げ徐に相手の頭から爪先までを覆う様に掛ける。こんな事で音の遮断が出来るとは思わないが、何かが変われば良いとの思いだった。「…大丈夫、大丈夫、」と、殆ど囁き声に近い声量でゆっくりと繰り返しながら、掛け布団の上から相手の背中を擦り続けて )
( 布団が掛けられた事で、ほんの僅か反響する音が遠かったような気がした。それでも頭痛と記憶のフラッシュバックはそう簡単には消えて行かない。浅い呼吸を繰り返しながら背中を丸めるようにして布団の中に縮こまり、落ち着くまでに数十分は要しただろうか。ここ暫く落ち着いていた発作が今日だけで数回起きている為、身体は酷く疲弊していた。未だに嫌な響き方をしているものの幾らか呼吸が整うと「…鎮痛剤を貰えるか、」と頼んで。相手が戻って来ると薬を受け取り、水で流し込む。未だ窓を揺らす風の音は頭に響いていて、その度に不安定に心が揺らぐのを感じた。「_____音が、異様な程に反響して聞こえる、」と、今感じている症状をぽつりと溢して。 )
( ___その姿は今布団に隠れ見えない。けれどどんな体勢をしているかは容易に想像が付く。痛みや発作を抑え込む為__もしかしたら外部から晒される様々な“負”に耐える為、これまでも幾度と無く見て来た背を丸め身体を縮こませる体勢で居る事だろう。そうしてその姿は酷く心を揺さぶるのだ。それはきっと周囲からの非難や罵倒を真正面から受け続け、自分は責められて当然の人間だと何も言わず痛みに蓋をし心に氷を張り続けた相手が、苦しみの中無意識の内に心を懸命に守ろうとしている姿の様な、そんな気がするからだろう。___鎮痛剤を飲み、それでも翳った表情の相手が徐に漏らした症状に思わず僅か眉が寄り険しくなる。「…それって、鎮静剤を飲まなくなった副作用?」相手に問うた所で完璧にそうだとわかる訳では無いかもしれないが、今思い当たるのはそこで )
( 相手の問いには分からないと首を振る。「…薬を飲むようになる前も、こんな症状は無かった。…音が響いて辛い、」鎮静剤を飲み始めてから確かに発作の症状は落ち着き、感覚が鈍くなるのを感じた。けれど薬を飲まなくなったからと言って逆に感覚が鋭くなり過ぎる、なんて事があり得るのだろうか。薬を飲んでいなかった以前も、此処まで過敏に音に反応する事は無かった。何はともあれ、台風が近付いているというこの状況では外の騒音はそう簡単に静かにはならないし、明日になればいつものように出勤しなければならない。慣れるしかないのだろうと思いつつも、大きな音が外で鳴る度に言い様のない恐怖心が掻き立てられ、心が不安定に揺らぐのは辛いものだった。 )
( 鎮静剤を飲まない副作用として現れた症状である可能性も高いが、そもそも無理をした結果、糸が切れた事による反動の可能性も十分考えられた。普段滅多に弱音を吐かない相手が素直に口にする感情にはどうしたって心が揺さぶられる。「…理由については、今は深く考えないようにしよう。」音が騒音となって聞こえる中で、症状の解明にこれ以上思考までもを負に落とすのは苦しみを倍増させるだけだと思えば、そう静かに告げてから、ふ、と思い付いた事が1つ。「__駄目だったら別々に寝れば良いから、試してみない?」一度己の胸に軽く手を当てる仕草の後の提案は、相手が聞こえる音の多くを心音で占める事。何時かの日、ゆっくりと刻む心音で相手が落ち着きを取り戻した記憶があるからなのだが、その時は今の様に音に敏感だった訳では無かった。今はそれすらも不快に響く可能性があるものの、何もせず外を吹き荒れる雨風の音に耐え続ける夜を過ごすのを見るのは辛い。軽く両手を広げ、所謂“ハグ”の動作と共に緩く首を擡げてみせて )
( 嵐の音は心を不安定に騒めかせても、相手の鼓動の音なら嫌な響き方はしないかもしれないと思えた。相手の提案を拒否する事はせず、促されるままに相手の直ぐ近くまで身体を寄せる。鼓動の音は確かに普段よりも大きく聞こえる気がしたものの、頭に響くような騒音ではない。相手がベッドの窓側に居ることで、外からの音も1人で横になっていた時よりも聞こえにくくなっている気がした。騒音と頭痛、いつまた発作が起きるか分からない恐怖心から強張っていた身体から漸く少し力が抜けると「……此処に居てくれ、…」と目を閉じたまま言葉を紡ぐ。漸く訪れた束の間の安寧。相手は未だ夕食を取っていない筈だ、それに気付く事も出来ず鎮痛剤が効き始めた事も手伝って再び微睡み始めていて。 )
( 然程考える間も空けず身を寄せて来た相手を緩く腕の中に閉じ込める様にして抱き竦める。相手を苦しめるものは何も無いと、この腕の中に居れば安全だと、実際はそんな事は勿論無いのだが今この一瞬だけで良い、僅かでもそんな錯覚を覚えてくれたらどれ程嬉しいか。胸元付近で落とされた小さな小さな願いに微笑み相手の肩付近を擦ると「…大丈夫、何処にも行かない。」と、安心出来る様に静かに答えつつ、恐怖無く相手が眠りに落ちるまでその手を動かし続け。お腹が小さく鳴ったのは数分後の事。その音で夕飯を食べていなかった事に気が付いたのだが、この腕を解き寝室を出る気にはなれなかった。何もかもが明日の朝で良いと思ったのだ。それよりも何よりも、相手が目を覚ましていないかの方が肝心だ。息を潜め、僅か視線を下げるも暗がりと位置的に表情は見えない。相手が眠り続けているのならば、安堵の息を小さく吐き己もまた眠りにつき )
( 然程考える間も空けず身を寄せて来た相手を緩く腕の中に閉じ込める様にして抱き竦める。相手を苦しめるものは何も無いと、この腕の中に居れば安全だと、実際はそんな事は勿論無いのだが今この一瞬だけで良い、僅かでもそんな錯覚を覚えてくれたらどれ程嬉しいか。胸元付近で落とされた小さな小さな願いに微笑み相手の肩付近を擦ると「…大丈夫、何処にも行かない。」と、安心出来る様に静かに答えつつ、恐怖無く相手が眠りに落ちるまでその手を動かし続け。お腹が小さく鳴ったのは数分後の事。その音で夕飯を食べていなかった事に気が付いたのだが、この腕を解き寝室を出る気にはなれなかった。何もかもが明日の朝で良いと思ったのだ。それよりも何よりも、相手が目を覚ましていないかの方が肝心だ。息を潜め、僅か視線を下げるも暗がりと位置的に表情は見えない。相手が眠り続けているのならば、安堵の息を小さく吐き己もまた眠りにつき )
( 夜中数回目を覚ましたものの、酷い発作を幾度と起こす事にならなかったのは一重に相手のお陰と言えるだろう。朝いつもより少しだけ早い時間に目を覚まし、身動ぎをすると窓がガタガタと風で音を立てている事に気付く。相変わらずその音は頭に響き耳を塞ぎたくなるような騒音なのだが、相手が側に居た事で眠っている間はそれに邪魔される事なく、比較的穏やかな睡眠を取ることが出来ていた。身体を起こしリビングへと向かうと、鎮痛剤を流し込む。これで頭痛を抑える事が出来れば良いのだが、音に敏感なこの症状は鎮痛剤ではどうしようもない。今日の仕事に支障が出なければ良いと思いつつ、コーヒーを淹れて。 )
( ___目が覚めたのは相手が起きてから数十分後。枕元の携帯を開けば台風のスピードが想定より速く、今日の夕方頃には直撃となるであろう速報が入っていて、軽く寝返りをうち窓の外に視線を向ける事数秒。静かにベッドから降り寝室を出ればリビングに広がるコーヒーの香りと、相手の姿。「おはようございます。」と送った挨拶は普段よりもずっと声量の落ちたもので。洗面台で顔を洗い歯を磨き、朝の準備を終えた後は再び寝室へと戻る。そうしてリビングに戻って来たその手には冬に使う紺色のイヤーマフラーが握られていて、徐に相手の傍に寄るや否や、躊躇無くそれを相手の両耳を隠す様に頭に付け。「__少し変わる?流石に仕事中つける訳にはいかないけど、家に居る時は私しか居ないんだから。ね?」急遽の応急処置にしかならないかもしれないが、一先ず職場に行くまでのこの朝の時間が少しでも相手の気持ちを楽にするものであればと )
( 起きて来た相手と挨拶を交わし、相手がリビングを離れている間に相手のマグカップにもコーヒーを淹れておく。2つのマグカップを手にソファに向かい腰を下ろすと、片方をテーブルに置き自分のコーヒーを啜って。不意に耳に何かが当たる感覚と共に響いていた音が遮断される。驚いて顔を上げれば、相手の言葉から冬に使うイヤーマフラーが着けられている事に気づき。冬でもイヤーマフラーを着ける事が無いため初め違和感があったものの、頭に響く嫌な音は確実に小さく感じられ聞こえ方は楽だった。「…助かる、音が遮断されて幾らか楽だ、」と答えて。---いつもの時間に出勤したものの、多くの署員が行き交うフロア内は想像以上にきつかった。タイピングや電話のコール音、紙を捲る音などほんの些細な物音が嫌に反響して頭痛を引き起こす。執務室に居れば幾らかマシではあるものの、音に異常に敏感な今の状態はかなり精神を擦り減らすものだった。 )
( ___フロア内は直撃した台風の話題と仕事の話題が大半を占めていた。こんな日に強盗なんて空気を読めだとか、何故大人しく家に居てくれないんだとか。兎に角相手が非常勤勤務になった事は知って居たがその理由、今の症状までもを知る署員は居らず、唯一感じてる事と言えば“警部補の機嫌が余り良くない”と言う事だけ。そしてそれは最悪のタイミングで訪れた。数日前に担当した事件の報告書を相手に提出し、執務室を出る為扉を開けた丁度その時。給湯室から出て来た署員と、別の事に気を取られ視野が狭くなっていた署員が衝突し、持っていたマグカップが硬いフロアの床に落ちた。当然マグカップは音を立て割れ、中の紅茶は広がる。後を追う様にして『すみません!』と言う2人の謝罪と、少しの騒めき。___驚きこそすれど稀にある事。けれど“今の相手”はどうか。反射的に執務室の扉を閉め背後の相手を振り返り )
( 扉が開く度に署員たちが働くフロアの騒めきが響き、書類の提出や捜査の報告などに訪れる署員の声は皆一様に大きく頭痛を引き起こす。騒音の中に身を置き、午後にはかなりの疲労を感じるようになっていた。相手と言葉を交わし、受け取った報告書をトレイに入れた時。不意に耳をつんざくような音が響き、一瞬にして過去の記憶が押し寄せる。いつか防犯カメラの映像を確認している時に聞こえた銃声にフラッシュバックを起こした事もあったが、大きな衝撃音は十数年前の記憶に直結してしまうのだ。銃声と悲鳴、赤黒い血、______その光景が一瞬で甦り、呼吸が上擦る。身体を支える為にデスクを掴んだ手には指先が白くなるほど力が籠るのだが、浅い呼吸は意味を成さないものに変わり鳩尾に鋭い痛みを感じて。「……っは、ぁ゛……ッ、あ」自分の荒い呼吸さえ反響するような感覚。此処は署内で、扉をたった1枚隔てた先には大勢の署員が居るというのに意識は過去へと落ち掛けていて苦しげな呼吸ばかりが響き。 )
( 扉を閉めた事でフロア内の騒ぎは僅か音を潜めたが“衝撃音”として認識された音は相手の意識をあっという間に今から離した様だった。浅く狂った呼吸と共に苦しげに上下する背中は痛みも引き連れて来ているのだろう。「っ、」他の署員が何らかの用事でこの部屋を訪れた時に不審に思う可能性もあったが、言い訳は後で幾らでも考えると先ずは扉を施錠し、続いてフロア内と繋がる窓のブラインドを降ろして外から中の様子が見えない様にする。そうやって相手の斜め後ろに立ち、腰を折る体勢で背中に掌を添えると「大丈夫です、ゆっくり呼吸して。」頭に響かないよう小声で声を掛けながらその掌を何度も動かし。そんな時間を凡そ数分、未だ整わない呼吸を繰り返す相手の背中から一度手を離し、両手で相手の両耳を塞ぐ形で顔を持ち上げ視線を強引に合わせると、「此処はエバンズさんの良く知る署内で、さっきの音はマグカップが割れた音。怖い事は何も起きてない。…ね?」口の開閉を敢えて大きく、一言一言をゆっくりと、大丈夫なのだと擦り込む様に努めて穏やかに伝えて )
( フラッシュバックの合間に相手の声が聞こえた。過去と現在が綯交ぜになったような状態でどちらにも引っ張られ、視界が揺らぐ。引き攣れた呼吸は一向に落ち着かず、徐々に姿勢を保っている事が難しくなり身体を支える為にデスクに着いた手に力がこもり。不意に顔を持ち上げられ相手と視線が重なるのだが、此方に呼び掛ける相手の声が、乱れた自分の呼吸音に阻害されて聞こえ辛い。先程銃声と認識しトリガーとなったあの音は、マグカップの割れた音。相手の声と唇の動きを自分に刷り込むように過去から意識を引き剥がし、懸命に呼吸を立て直そうとして相手の瞳に意識を向けて。 )
( 荒く狂った呼吸の中、それでも碧眼が確かに己を真っ直ぐに見詰めていれば、嗚呼、意識の全てが過去に堕ちてしまっている訳では無いのだと。懸命に浮かび上がろうとしているのだと知る。「__そう…ゆっくり、上手です。」重なる相手の瞳に映る己の表情が焦燥を纏ったものでは無い様に、安心出来る様にと微笑みながら親指の腹で相手の頬を緩く撫で続け。___時間にしてどれ程か。最初より幾らか落ち着きを取り戻した事を継続的な呼吸音で知ると、そこで漸く両の手を離し。「署内もこの天候で落ち着いてるし、少し早めに帰って休もう。…何か、食べ易そうな物作るから。」台風の影響で事件も無くこれ以上確認しなければいけない報告書があがって来る事も無いだろうと帰宅を促し、朝から飲み物こそ飲む姿は見れど殆ど食事をとってる姿を見ていなければ食欲が無いのだと理解しつつの提案を付け加え。この時はまだ知らなかった。“糸が切れた”相手を襲う不調が、音の聞こえ方の変化だけでは無い事に )
( 時間を掛けて幾らか落ち着きはしたものの、背中は汗に濡れ顔色も良くはない。もう少し時間が経たない事には、顔を合わせた署員にも不調に気付かれてしまうだろう。少し早めに帰ろうと言う相手の言葉にも、自分でもそうすべきだという思いがあった為か拒否する事もなく「……あぁ、そうする。」と軽く頷いて。---次の勤務日まで持ち越す事の出来ない急ぎの書類を片付け夕方頃には退勤すると、家に戻り早々にベッドに横になった。身体から怠さが抜けず、ひと言で言えば体調が悪い。決められた薬は飲んでいる為これ以上出来る事もないのだが、1日のデスクワークさえまともに出来ない程調子が良くないとは自分でも想定していなかった。少し微睡んでは外の物音で意識を引き戻され、という事を繰り返していて。 )
( ___帰宅した後、結局相手は何かを胃に入れる事も無く眠りについた。周囲の音を過敏に拾ってしまう症状も勿論だが“糸が切れた”その不調自体がどの程度続くのか、医師に診て貰った方が良いのか、何もかもがわからずじまいだ。そして相変わらず勢いを緩めない雨風の音に僅かな睡眠をも邪魔される相手が目を覚ました夜中、軽く背中に掌を当て「少し起きる?」と問い掛けたのが数十分前。間接照明だけを点けたリビング、ソファに腰掛ける相手に手渡したのは何時もより少しだけ蜂蜜を多めに入れた甘いホットミルクで。このまろやかな白が相手の苦しみの全てを取り除くとも、静かな空間に導いてくれるとも思わないが、ほんの僅かでも気持ちが落ち着いて欲しいと願っての物。相手の隣に深く腰掛け同じ白の注いだマグカップの端に静かに唇を付けて )
( 雨風が窓を揺らす音が絶えず大きく響く事で、漠然とした不安のようなものが胸の内に広がっているのを感じていた。目を覚ましベッドに身体を起こすと、少しして相手に促されるままに一度リビングへと。手渡されたマグカップからは柔らかく甘い香りが漂い、包んだ掌に伝わる温もりと共に気分を落ち着けてくれるのだが。少し冷ますように息を吹きかけてからゆっくりと飲んだホットミルク______それが胃に落ちるよりも前に感じたのは“苦味”だった。思わず反射的にマグカップを口から離す。見た目と、香りと、味と、全てが乖離している状況が飲み込めず隣の相手を見遣ると、何かあったのかとばかりに不思議そうな表情を浮かべて此方を見る相手と目が合った。相手も確かに同じホットミルクを、今此処で口にしていた。普段であればまろやかな甘みと共に落ち着きと眠気を運んでくるはずのホットミルクは、どういう訳か“鋭い苦味を持った温かい液体”に成り下がっていた。「……作り方を変えたのか、?」と、仮にそうだったとしても此の味になる筈がないと思いながらも相手に聞かずにはいられなかった。 )
( まろやかな白が胃に落ち、鼻に抜ける様な甘く優しい香りに包まれながら思わず深く息を吐き出すも相手は正反対の反応を見せた。更には“作り方を変えたのか”との予想外の問い掛け。思わず自身の持つマグカップに視線を落とすのだが何か特別な作り方をしたつもりは無い。再び視線を持ち上げ隣の相手を見「…変えてないよ?」と不思議そうな声色で答えるのだが此処で唯一思い当たる事があった。「__もしかして甘過ぎた?何時もより少し多めに蜂蜜入れちゃったんだ。ミルク足そうか、」普段はスプーン一杯の蜂蜜を溶かすのだが今日は優しい甘さの余韻に少しでも長く浸って欲しいと一杯半ほどに増やしたのだ。もちろん相手が感じているのが“苦味”だとは思わない為、やり過ぎてしまったかと苦笑いを浮かべつつ、淹れ直すと片手を伸ばしマグカップを受け取る意思を見せて )
( 作り方を変える事はしていない、寧ろ普段よりも多めに蜂蜜を入れたのだと言われれば再び手にしたマグカップに視線を落とす。いくら蜂蜜を多くしたからといって、甘みどころかこんなにも苦味を感じる筈がない_____とすれば、可笑しいのは味ではなく自分の味覚なのかもしれないと。「いや、……」と曖昧な返答で入れ直す必要はないと暗に告げるのだが、この味では飲み進める事は困難だった。正直に味への違和感を告げるべきか、黙っておくべきか悩みもう一度ホットミルクを少し啜ったものの結果は同じだった。ややして「……すごく、苦く感じる、」と正直な感想を言葉にしたものの、相手の淹れ方が悪いと言いたい訳ではないのだと言い訳をするように「薬が、口の中に少し残っていたのかもしれない。」と続けて。 )
( 相手は歯切れの悪い何とも曖昧な返事でマグカップを此方に渡す事をしなかった。もう一口中身を啜るその様子を見詰めたが矢張り相手はそれ以上飲み進める事はせず、また何とも言えない微妙な空気と共に間が空く。「__無理に飲まなくても、」と、甘過ぎるのに我慢してまで飲む必要は無くただ淹れ直せば良いだけの話だと伝える言葉は最後まで続かなかった。それはマグカップを渡されたからでも“甘い”と言われたからでも無い。「…え、苦いの?」告げられたのが余りに予想外の言葉で思わず聞き返してしまった訳だが、こんな嘘を相手がつく筈も無いし、かと言って“薬が残ってた”と言う言葉が此方を気遣う言い訳だと言う事を察する事が出来ない訳でも無い。「一口飲ませて。」相手のマグカップを受け取り控え目に中身を啜る。胃に落ちた白から苦味を感じる事は無く、自分のには蜂蜜を一杯、相手のには一杯半入れた訳だから寧ろ今まで飲んでいたやつより僅かに甘く感じる程。「……薬、残ってたのかな。」直接的に苦くない、とは言わなかったが言葉を借りたその返答は暗にそういう事。けれども相手の感じた違和感を疑う気はこれっぽっちも無く緩く微笑むと「今夜は水にしようか。」と、これ以上は飲めないだろうと判断し中身の入ったマグカップをシンクに下げてから、別のグラスに冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぎ今度はそれを手渡して )
( 相手の反応から察するに、やはり此のホットミルクの味が可笑しい訳ではないのだろう。ミネラルウォーターを手渡されるとまた苦味を感じたらと僅かに警戒した様子ながら少し口に含むと、苦味を感じる事はなく安堵する。何が原因か明確な事はわからないが、物を口に入れる事、味のあるものを食べたり飲んだりする行為自体に少しばかり気が引けてしまい「…今日は夕食はいい、」と告げて。何も胃に入れる事なく眠っていた為もう一度眠る前に少しでも何か食べようかと思ったものの、その気は失せてしまっていた。明日の朝目を覚ましてから少し食べれば良いだろうと考えて。---けれど、音によるストレスと異常な味覚の変化による食欲の減退は、少しずつ、けれど確実に身体を蝕むものだった。神経が過敏になっている上に栄養が不足している状態は、非常勤で確保した休息を上回る勢いで心身を追い詰めた。薬を飲んでいなくても苦味を感じる状態は続き、食は一層細くなって数日で体重が少し落ちるに至り。『…ねぇ、ベル。警部補少し痩せた感じしない?最近顔色良くないよね、』と、署内でフロアに出て来ていたエバンズの姿を見たサラが、相手に声を掛けて。 )
( ___ミネラルウォーターを口にした相手から再び違和感を訴えられる事は無かった。“味のあるもの”が苦味を引き連れて来るのかと可能性を考えている中で相手は結局夜に何も口にする事無く眠り、それは翌日の朝も、夜も、また次の日の朝も……数日続いた。___元々細身の相手、ストレスに加えて食欲減退でみるみるうちに痩せ顔色も悪くなった事はフロア内の署員数名も気が付いていた様で、そこには比較的観察眼の鋭いアンバーも勿論含まれていて。「…最近まともに食事をしてるの見てないんだよね。」エバンズを一瞥し、直ぐにアンバーに向き直ると軽く頷きつつ声を潜める。話す事を僅か躊躇うが、このままの状態が後数日、数週間と続けば倒れてしまう事は目に見えているものだから、エバンズが執務室に戻ったタイミングで「__此処だけの話にして欲しいんだけど、味覚に違和感を感じてるみたいなんだ。…甘さも苦味として感じるって、」周囲には聞こえない様アンバーだけにそう告げたのは、彼女の誠実さや口の堅さを知っているから。「…ストレスが大きく影響してるんだとは思うんだけど…、」と、視線を落として )
サラ・アンバー
( エバンズが執務室に戻った後、声を潜めて告げられた言葉に思わず数度瞬きをする。そして勿論他言はしないと頷いてから執務室の方を一瞥し『…味覚が可笑しい時は亜鉛のサプリなんかが良いってよく聞くけど、ストレスから来る物だとあんまり効果が出ないかな、』と呟いて。エバンズと言えば元々痩せ型で、署内で食事を摂っている所を目にする事も少ない。普段以上に食べる量が減っているとなれば少し痩せたように思えるのも当然だろう。『食べられないのは心配だよね。元々味が薄いものとかだったらどうかな。パンとか豆腐、温野菜とか。』と、食べられそうなものを提案して。『最近非常勤になったし、あまり体調が良くないんじゃないかって心配してたの。いつかベルに頼まれて、仮眠室に水を届けに行った事があったけど…警部補が貧血持ちだった覚えがあって。ベルもあんまり悩みすぎないでね、警部補が元気ない時はベルも元気ない事が多いから。』彼の事も、相手の事も心配しているのだと、あまり重くなりすぎないような言葉選びで伝えて。 )
サプリ…___それかもしれない。ほら、例え亜鉛が効かなくても、それなら多少の栄養は補えるだろうし苦味を感じ辛いかも。
( その言葉に今度は此方が瞬く。“食事”と言う事ばかりを考え視野が狭くなっていたが、味のしない錠剤を飲み込むだけであれば何も食べないよりはまだマシなのでは、と。けれど本来サプリメントは補う役割しか果たさない事も知っていた。食べ物を咀嚼する、と言う行為が人間にとってどれ程大切な事かも。だからこそ続けられた提案を聞く表情は真剣そのもので「…確かに元々の味が薄ければ、仮に苦味を感じたとしても僅かかもしれないよね。…今は、どの可能性も試したい。」相槌を数度、それは続けられた彼女の優しい思い遣りにも返したもの。エバンズに水を持っていった事を覚えていて、少なからず彼の身を案じていて、更には彼が元気の無い時の此方の状態までもを確りと見ている__こう言った思い遣りを向けられた時、むず痒い気持ちと共に心には明るさが蘇る。尽く、自分は沢山の人達に助けられているのだと実感する。「…ありがとう、サラ。」やや眉の下がった緩い微笑みと共にお礼を述べた後「……痛みからも、苦しみからも、ずっとずっと遠い所に居て欲しい、」と、思わず溢れた言葉は決して言おうと思ったものでは無かった。けれど、何時だって感じている事。遅れて返事に困らせてしまうだろうかと過ぎれば「難しい事だけどね。」と微笑み直して )
( きっと相手はエバンズの事を誰よりも大切に思っていて、誰よりも幸せになって欲しいと願っている。普段から其れは感じていたけれど、少し困ったような微笑みを見て、その言葉を聞いて矢張りそうなのだと知る。彼が抱えている物が何か、極断片的にしか知らないものの相手はその傷に寄り添い続けている。『…好きな人の幸せを願うのは当然の事だよ、』と微笑んで。---味覚の異常により食が細くなってからは、当然ながら貧血のような症状が起きる事も増えていた。何か食べなければという思いはあるものの、味が分からないもの、苦味を感じるものを“食べる”という行為が苦痛で食が進まない日が続いていた。執務室で鎮痛剤を飲もうとした時、普段は何の滞りもなく薬を摂取出来るのだがこの日は何故か______喉に引っ掛かるような違和感を覚え、思わずえずきそうになる。水を飲み込み、口の中には錠剤が残ったまま。もう一度水を口に含んだものの、錠剤を飲み込もうとすると結果は同じだった。薬が飲めない事などこれまで一度も無かったと一抹の不安を抱えつつ、口の中で溶かした其れをなんとか飲み込む。しかし酷い苦味が残り、急に気分の悪さを感じて部屋を出るとトイレへと向かって。個室に入り、咳き込むようにして戻してしまうと、ハンカチで口元を抑える。食事も満足に取れない状態で薬や水さえ吐いてしまっては、其れこそ飢餓状態に陥っても可笑しくない。徐々に足元が崩れていくような不安を覚えつつも、軽く水で口を濯いでから執務室へと戻り。 )
( “好きな人”と言うアンバーの言葉に返したのは微笑み。寄せる想いはこんなにも心を揺るがす。___エバンズが錠剤を飲み込む事が出来なくなっている事を知らない中、アンバーと別れ先に向かったのは自身のデスク。鞄の中から新品のミネラルウォーターと、普段定期的に飲んでいるビタミンのサプリの袋を取り出し次に向かったのは警部補専用執務室で、扉をノックし中から入室の許可が出れば部屋へと入り。青白い顔が目下の隈をより濃く見せていて、普段から細身の身体は一層線が細くなっている。一目見ただけでも調子の悪さがわかる様子に自然と眉は下がり、ペットボトルを相手のデスクに置いてからサプリの袋を差し出すと「…今はこれしか無いけど、何も口にしないよりは良い筈だから。…試しに飲んでみて?」これがもし苦味を感じないならば、多少の栄養を補う役割は出来る筈だと )
( 執務室に入ってきた相手が手にしていたのは、捜査の書類ではなくミネラルウォーターとサプリメントの袋。仕事の用件ではなく、自分の体調を案じて此処を訪れたのであろう事は容易に想像が付いた。けれどタイミング悪く、今は相手を安心させる事は出来ないだろう。錠剤を飲み込む事で吐き気が催される恐怖は、薬やサプリメントさえ遠ざけた。「…助かる。後で飲んでおく、」到底飲む気にはならなかったものの相手を不安にさせないよう、今この場ではなく後で飲むつもりがあるのだと言葉にすると有り難く受け取る姿勢を見せて。 )
( 拒否されなかった事で微笑み軽く頷くのだが。__何故だろうか、特別な理由がある訳では無いし相手の言動に違和感を感じた訳でも無いのに、無性に心が変な騒つきを感じて動きが止まった。何かを言う事も、部屋を出て行く事もせず相手を見詰めたままの時間が数十秒。「……もしかして、もう試して駄目だった?」漸く口を開いた問い掛けは、“錠剤自体が飲み込めない”と言う事からは少しズレたもの。既に何らかのサプリを試し、結果それも“苦味”に繋がり結局飲めなかったのでは、と言う推測で )
_____少し、苦味は感じた。
( 相手は自分の言葉に納得して出ていく事はしなかった。相手は勘が良い、何らかの違和感を感じての言葉だったのかもしれない。どう答えるべきか少し悩んだ後、“苦味”の所為であまり積極的に飲みたい物ではないのだと言い訳をする。錠剤自体が上手く飲めないとは、心配しているであろう相手に言う事は出来なかった。「…でも飲めない程じゃない、少し落ち着いたらもう一度試してみる。」と告げて。 )
( 今回は“飲めない程じゃない”と言う言葉を信じた。それは素直に苦味を感じた事を伝えて来たからか、はたまた前向きな言葉で締め括られたからか。何にせよ「わかった。駄目だったらまた考えよう。」と此方もまた前向きな返事を返し今度こそ執務室を出て行き。___夜になる頃には直撃していた台風は過ぎ去っていた。雨は相変わらず降っているものの豪雨と言える程では無く、風も比較的緩やかになった。とは言え相手を悩ませる騒音の一部が落ち着いただけであって周囲に音は山ほど溢れている事には変わりない。___ある程度の仕事を終わらせ共に家に帰る。今日の夕飯は昼間アンバーに提案された温野菜。ドレッシング諸々をつける事はせず、それだけを夕飯として出すのは普段ならば絶対に有り得ないが、今は食べられる物を見付ける事が最優先で。「もし苦くて食べられなかったら、悪いなんて思わないで残してね。」相手が此方に気を遣う必要が無いように先にそう声を掛け向かいの椅子に腰掛けると、一先ず自分の分も作った鮮やかな色の人参を口に運びつつ、視線を向けて )
( 夕食に出された温野菜の中から、小さなブロッコリーのかけらを口に入れる。実際美味しいと思えるような味ではなかったのだが、他の物に比べると苦味は弱く少しなら食べられるかもしれないと、小さく切った野菜を少しずつ口にして。野菜を飲み込む時にも、昼間錠剤を飲み込む時に感じた引っ掛かるような感覚や吐き気は無く、僅かながら安堵していた。ドレッシングなどが掛かっていなかった事も、苦味を感じにくかった要因だろう。「……少しなら、食べられそうだ。」目の前に座る相手にそう伝えて。 )
( 比較的味が薄く余計な味付けをしていなければ多少なら食べられる事がわかり、その量の少なさで体重を増やす事は出来ないだろうが少なくとも何かは胃に落とせる事に安堵する。「良かった。もしかしたら白米も食べられるかもしれないね。…勿論、ドロドロじゃないやつ。」ホッと息を吐き出し今瞬間的に思い付いたのは日本人の主食。お米単体ならば味も然程しない為に可能性はあるかもしれないと提案しつつ、何時かの日、入院している相手にお見舞いとして持って行ったはいいが“食べない”と一蹴された所謂“お粥”の話も少しの冗談交じりに付け足し。グラスにミネラルウォーターを注ぎ相手の前に置いたタイミングで「…安定剤飲んでおく?」と、問い掛けたのは今回ばかりは凶だろう。比較的落ち着けている今の内に飲み少しでも夜の睡眠を安定させられたら…との提案だったが、そもそも錠剤を飲み込めない事を知らないからのそれで )
( 相手から出た“白米”のワードには微妙な表情を浮かべる。ドロっとしたお粥でなければ未だ良いが、然程馴染みもない為好き好んで食べるかと言われればそうではない。「…それならパンで十分だ、」と告げておき。グラスに水が注がれ、薬の話が出ると昼間の事を思い出す。喉に引っ掛かったような感覚と気分の悪さが、あの瞬間だけでなく薬を飲もうとする度に起きるかもしれないと思うと、未だ飲む気にはならなかった。固形の食べ物も少量であれば食べることが出来るのに、何故錠剤が上手く飲めないのかは分からない。「……いや、今は良い。後で飲んでおく。」と答えて。 )
( どうやら“お粥”が嫌いな訳では無く“米全般”を余り好んでいないのかもしれないと思えば「じゃあ明日の朝は食パンかな。」と頷き。署内でのサプリメントといい、安定剤といい、何かと先延ばしにしている様な感じがするのは相手の体調に敏感になってる為の所謂疑心暗鬼だろうか。「…そっか、」と答えたものの納得している訳では無く微妙な沈黙と共に皿に残った温野菜を食べ終えて。__些細な音が今の相手にとっては騒音となる為、テレビの点いていない部屋の中は静かなもの。時計の秒針の音や時折窓の外から聞こえる僅かな雨の音だけが何時もよりハッキリ聞こえるだろうか。相手がまだ飲まない、と言うならばそこまで口を出す必要は無いし、過剰に心配をすれば逆に不安にさせたり、居心地悪い思いをさせるだけだと思えば「…台風、思った以上に早く過ぎて良かったね。きっと徐々に音も気にならなくなるし、味覚も元に戻るよ。ずっとは続かない。」重たくならない様な声色でそう告げ、お皿をシンクに下げる際に座る相手の肩に軽く手を置いて )
( 少しの温野菜を口にして、夕食の時間は終わりを告げる。皿同士がぶつかる音が出ないように気を遣いながら皿を下げる相手から告げられた言葉には軽く頷き「……そうだな、」とひと言。台風による音が収まり徐々に自分の聴覚や味覚も正常に戻る事を願わずにはいられない。---相手がシャワーを浴びている間、ようやく重い腰を上げて薬を飲むためにシンクへと向かい。ミネラルウォーターをいつもよりも多めにグラスに注ぎ、安定剤を2錠掌に乗せる。それを口に入れて水を飲み____喉につかえるような感覚と共に吐き気に襲われ、やはり飲み込む事は出来なかった。薬を奥歯で砕いてから更に水を口にしたものの結果は変わらず、トイレに向かうと咳き込んで。吐いてしまうのが苦しいのだが、薬を飲めないまま夜を迎える事も怖かった。 )
( ___シャワーの時間は凡そ20分程。脱衣所で髪の毛の水分を何時もの倍時間を掛けてタオルに吸収させるのは、ドライヤーの音が鳴る時間を短縮させる為。そうやって早急に乾かした髪を後ろで一つに括りリビングに戻って来るのだがそこに相手の姿は無く、視界に映ったのは台所に置かれた中身の入ってない安定剤の空シート2つ。先程感じた違和感は矢張り疑心暗鬼になっていたせいの勘違いだったのだと一瞬の安堵は、トイレから聞こえた空咳とは違う苦しそうな咳によって一瞬にして散った。足早に向かえば急いでいたのかトイレの扉は半開きになっていて、そこには背中を丸めた体勢で背を向ける相手の姿があり。前にも一度だけ見た事のあるこの姿。調子が悪くなっているのは一目瞭然で、驚かせない様に小声で相手の名前を呼んだ後、傍らに膝を着き背中に掌をあてがうと「…苦しいね、」その手を大きく動かし背を擦りながら、大丈夫を繰り返し。けれど安定剤は吐き出してしまっているだろう。飲めないまま夜を迎える不安は相手と同じ様に感じていて )
( ___シャワーの時間は凡そ20分程。脱衣所で髪の毛の水分を何時もの倍時間を掛けてタオルに吸収させるのは、ドライヤーの音が鳴る時間を短縮させる為。そうやって早急に乾かした髪を後ろで一つに括りリビングに戻って来るのだがそこに相手の姿は無く、視界に映ったのは台所に置かれた中身の入ってない安定剤の空シート2つ。先程感じた違和感は矢張り疑心暗鬼になっていたせいの勘違いだったのだと安堵するも、それはトイレから聞こえてきた空咳では無い苦しそうな咳によって一瞬にして散った。足早に向かえばトイレの扉は半開きになっていて、そこには背中を丸める体勢で背を向ける相手の姿があり。過去に一度だけ見た事のあるその姿。調子が悪い事は一目瞭然なものだから、驚かせない様小声で名前を呼んでから傍らに膝を着き背中に掌をあてがう。「…苦しいね、」その手を大きく動かしつつ、大丈夫、を繰り返すも、安定剤は吐き出してしまっているだろう。薬を飲めない状態で夜を迎える不安は相手と同じ様に感じていて )
( ___シャワーの時間は凡そ20分程。脱衣所で髪の毛の水分を何時もの倍時間を掛けてタオルに吸収させるのは、ドライヤーの音が鳴る時間を短縮させる為。そうやって早急に乾かした髪を後ろで一つに括りリビングに戻って来るのだがそこに相手の姿は無く、視界に映ったのは台所に置かれた中身の入ってない安定剤の空シート2つ。先程感じた違和感は矢張り疑心暗鬼になっていたせいの勘違いだったのだと安堵するも、それはトイレから聞こえてきた空咳では無い苦しそうな咳によって一瞬にして散った。足早に向かえばトイレの扉は半開きになっていて、そこには背中を丸める体勢で背を向ける相手の姿があり。過去に一度だけ見た事のあるその姿。調子が悪い事は一目瞭然なものだから、驚かせない様小声で名前を呼んでから傍らに膝を着き背中に掌をあてがう。「…苦しいね、」その手を大きく動かしつつ、大丈夫、を繰り返すも、安定剤は吐き出してしまっているだろう。薬を飲めない状態で夜を迎える不安は相手と同じ様に感じていて )
( ___シャワーの時間は凡そ20分程。脱衣所で髪の毛の水分を何時もの倍時間を掛けてタオルに吸収させるのは、ドライヤーの音が鳴る時間を短縮させる為。そうやって早急に乾かした髪を後ろで一つに括りリビングに戻って来るのだがそこに相手の姿は無く、視界に映ったのは台所に置かれた中身の入ってない安定剤の空シート2つ。先程感じた違和感は矢張り疑心暗鬼になっていたせいの勘違いだったのだと安堵するも、それはトイレから聞こえてきた空咳では無い苦しそうな咳によって一瞬にして散った。足早に向かえばトイレの扉は半開きになっていて、そこには背中を丸める体勢で背を向ける相手の姿があり。過去に一度だけ見た事のあるその姿。調子が悪い事は一目瞭然なものだから、驚かせない様小声で名前を呼んでから傍らに膝を着き背中に掌をあてがう。「…苦しいね、」その手を大きく動かしつつ、大丈夫、を繰り返すも、安定剤は吐き出してしまっているだろう。薬を飲めない状態で夜を迎える不安は相手と同じ様に感じていて )
( ___シャワーの時間は凡そ20分程。脱衣所で髪の毛の水分を何時もの倍時間を掛けてタオルに吸収させるのは、ドライヤーの音が鳴る時間を短縮させる為。そうやって早急に乾かした髪を後ろで一つに括りリビングに戻って来るのだがそこに相手の姿は無く、視界に映ったのは台所に置かれた中身の入ってない安定剤の空シート2つ。先程感じた違和感は矢張り疑心暗鬼になっていたせいの勘違いだったのだと安堵するも、それはトイレから聞こえてきた空咳では無い苦しそうな咳によって一瞬にして散った。足早に向かえばトイレの扉は半開きになっていて、そこには背中を丸める体勢で背を向ける相手の姿があり。過去に一度だけ見た事のあるその姿。調子が悪い事は一目瞭然なものだから、驚かせない様小声で名前を呼んでから傍らに膝を着き背中に掌をあてがう。「…苦しいね、」その手を大きく動かしつつ、大丈夫、を繰り返すも、安定剤は吐き出してしまっているだろう。薬を飲めない状態で夜を迎える不安は相手と同じ様に感じていて )
( せっかく少し口にする事が出来た夕食も身体に栄養を届けるには至らなかったかもしれない。浅く背中を上下させつつ、首筋に薄らと汗が滲む不快さを感じていた。相手の声がして僅かに肩が跳ねたものの、背に触れる掌の感覚に驚く事はしなかった。「_____上手く、錠剤が飲み込めない、…」背を僅かに丸めた状態のまま、言葉を紡ぐ。やがて幾らか気分の悪さが落ち着き動けるようになると、水を流してゆっくりと立ち上がる。安定剤も何も飲めていなかったが、これ以上無理に薬を飲み込もうとする方が辛いと判断しベッドで休む事を告げ。 )
( その言葉で漸く今相手の身に起きている“次なる症状”を理解した。あの時サプリメントを直ぐに飲まなかったのもそれが錠剤だったからなのだろう。音の嫌な反響、味覚の異常、それに加えて嚥下困難なんて。___次々に襲い来る不調の数々に膨らむ不安を胸の内に抱えながら、酷く憔悴している相手の言葉に小さく頷き立ち上がり。「…わかった。…錠剤が飲めなくても方法は幾らでもある。明日一番いい方法考えよう。」重たくならない声色を心掛けながら寝室に行く相手を見送った後。相手の鞄の中から2錠の安定剤を取り出すと、それを以前買ったきり使用していなかった小さなすり鉢で粉末状に砕く。なるべく音をたてない様に慎重に慎重に…。粉末状にした事で次は苦味を多く感じ結局飲む事は出来ないかもしれない、それでも可能性があるならと )
( ベッドに身体を横たえると、重たい疲労感に襲われる。まともに栄養を摂っていないのに、体力ばかりが削られ薬も飲めない。自分が“負の連鎖”に陥っているのは分かっていたが其処から這い上がる術までは見出せず、相手が寝室に来るよりも前に意識を手放していて。---夢の中で、幾度と繰り返したあの日のあの場所に立っていた。園児を抱きしめた妹の姿も、助けを乞う教諭たちからの視線も、控えている刑事の姿も、いつも夢で見るものと同じ。けれど、何故か周囲はスローモーションのように見えていて、自分が真っ直ぐ歩みを進めているのはライフルを持った犯人の元だった。報道で幾度と目にした写真ではあるものの、これほど鮮明に犯人の顔が思い出される事は、夢の中で妹ではなく犯人に視線が向いている事はこれまで無かったと言えよう。当然夢の中ではそんな事に気付くはずもなかったが、至近距離で向き合った犯人に強い殺意が湧き起こったのは確かだった。犯人が手にしたライフルを奪い取り、今この場で、この男を撃てば。そんな事を頭の片隅で考えたものの、まるでタイムリミットだとばかりに銃声が響き夢の世界は崩れていく。一気に意識を引き戻され、呼吸が浅くなるのと同時に強い痛みが鳩尾に走った。痛みが増大しないようにゆっくりと呼吸をしたいのだが、一度喉に張り付いた呼吸はペースを乱し徐々にに浅く苦しげなものに変わっていき。 )
( 安定剤に続いて睡眠薬や鎮痛剤も粉末状にし、終わった頃には僅かあった眠気が覚めてしまっていた。そうなると意識は矢張り相手の不調やこの先の事に向き思考を占領する。ソファに深く腰掛け暗闇に慣れた瞳をぼんやりと点いてもいないテレビに向けながら過ごした時間は果たして数十分かそれ以上か。流石に眠らなければと寝室に行き眠る相手を起こさない様に慎重に隣に潜り込むのだが、直ぐに眠れる訳も無く目だけは閉じるものの意識は今に残ったまま。___隣で眠っていた筈の相手が身動ぎと共に苦しげな息を吐き出した。「…エバンズさん、」と声を掛けてからベッドサイドの間接照明を点ける。身体を丸め蹲る様な体勢で、浅く荒い呼吸を繰り返すその姿を見るのは当たり前ながら慣れる事は無く胸が締め付けられるのだ。「待ってて、」一度寝室を出てキッチンで用意するのはグラスに3分の1程注いだミネラルウォーターの中に粉末状の安定剤と鎮痛剤を入れたそれ。飲み切れる保証は無い。「__錠剤じゃない。水に溶かしてあるから…飲んで?」片手で背を擦りながら、グラスを口元に近付けつつ顔を覗き込んで )
( グラスが差し出されると、それを受け取り少量を口に含む。酷い苦味が口に広がったものの、錠剤を飲めていない以上少しでも飲まなければと飲み込んで。苦味の余韻と共に、反射的に吐き気を感じたもののややしてそれは落ち着く。結局時間を掛けて数口は飲んだものの、半分以上残った水はそれ以上飲み進められず、同時に身体の痛みが強まった事で相手にグラスを戻して。ベッドの上に蹲るようにして背中を丸め痛みに耐えていたものの、身体を横たえる事さえままならない程に痛みが強まっていて、思わず縋るように相手に手を伸ばす。深く息をする事は痛みに繋がる為、呼吸は極浅いもの。首筋や背中には汗が滲む。「……っ、…痛い、…」どれ程の時間を耐えれば良いのだろうかという不安が渦巻く中、相手の片方の手を握り締め懸命に痛みをやり過ごす。少しずつ、それでも確実に、あの事件捜査以降悪い方へと引っ張られ足場が崩れて行く不安定さを自分自身が痛感していた。 )
( 懸命に嚥下する最中は背中を擦るも、相手の胃に落ちた水の量は極僅か。直ぐにグラスを返されそれをベッド脇のサイドテーブルに置き今度は掛け布団を掛けようとするのだが。ふいに縋る様に伸ばされた手が己の手を握り締めれば痛みの中の加減を知らぬ強さに思わず目を見開き。骨張った指先は酸素が確りと巡っていないせいか冷たく僅か震えている。“痛い”と、そう訴える相手の声が余りにも苦痛を纏っていて息を飲んだ。痛くない筈がない、苦しくない筈がない。まともな量の鎮痛剤を飲めない以上相手の身体を襲う痛みはそんな簡単に消える事は無いだろう、夜中いっぱい耐え続け意識を失えたら本望だとすら思うだろうか。「…っ、」奥歯を噛み締め、汗の滲む熱い背中を擦る事しか出来ない事の、一秒でも早く痛みが消える事を願うだけのなんて無力な事か。共に分け合える痛みなら、苦しみなら、何の迷いも無く貰い受けるのに。__視界が滲み、緑の虹彩から溢れた涙が己の手を握り締める相手の手の甲に落ちた。震える息を抑え付け、相手の手を僅か持ち上げ己の額に押し付ける。「__何で…エバンズさん、悪い事何もしてないのにねっ…、」何時だって相手ばかりが苦しむ。楽になる事を許さないとばかりに降り注ぐ絶望の数々を受けるのは本来相手では無いのに )
( 相手の涙が手の甲を濡らした。自分の痛みをまるで自分の事のように悲しみ怒ってくれる相手は、行き場のない自分の感情を代弁してくれているかのようだ。痛みに耐え、やがて意識を失うようにして眠りに落ちる。けれどその状態が直ぐに解消される事はなく、非常勤で休みを十分確保しているにも関わらず幾つもの不調に日に日に追い詰められていく事となり。---エバンズの様子が普段と違う事には、数日前までよりも多くの署員が違和感を感じ始めていた。しかし特別捜査に追われているという訳でもなく、寧ろ休みを取っているタイミングだけにアダムス医師にまた無理を言って点滴を打って貰う訳にはいかない。薬を上手く飲めない事も伝えてはいなかった。自己都合で多くの休みを貰っているのだから、せめて出勤している時は自分の仕事をこなさなければという思いに駆られていて。夢の中だけで現れていた幻影が、徐々に現実世界にも侵食し始めている事には、自分自身でさえ未だ気付いていなかった。 )
( ___薬を飲み込む事が出来ず嘔吐く姿を、夜中に悪夢に魘され涙を流す姿を、果たして何度見ただろう。日に日に痩せ線の細くなっていく身体と比例する様に濃さを増す隈は、碧眼に宿る命の灯りすらも消してしまいそうで膨れ上がる恐怖心は僅かも消える事は無かった。___そんな現状が好転することも無いままに数日が経った今日。器物破損と傷害の疑いで事情聴取を受け終えた若い青年が、女性捜査官に連れられて署内の廊下を歩いていた。真一文字に口を結んだ不機嫌そうな男の表情は先の聴取も何もかもが納得がいかないと物語っており、床を踏み付ける足音も何処か荒々しい。そんな状態で周りに視線を向ける事も無くただ真っ直ぐ前を見詰めたまま、丁度刑事課フロアを出た直後の相手の目の前を通り過ぎようとして )
( フロアを出るタイミングで視界が揺らぎ眩暈を起こした、と思った。バランスを崩す事こそ無かったものの、一瞬眩んだ視界が元に戻った時最初に目に入った廊下を歩く男の顔。捜査官に連れられて歩く男は、黒い服を着ていた。たったそれだけ。背格好は近しいものがあったかもしれないが、特別顔が似ている訳でもない。_____けれど、数日前に見たあの夢が思い出された。あいつを殺さなければ、と思ったあの時の焦燥が湧き上がる。一度瞬きをすると、目の前を通過して行った不機嫌そうな男の顔が犯人のものに変わった。十数年も前の事件の犯人が、其れも自分たちの目の前で命を絶ったあの男が生きている筈がない。正常な思考であればそう考えた筈だが、立ち止まる事は最早出来なかった。何を見ているのかと気怠げに向けられた視線、其れを、此方を煽るような嘲笑と錯覚したのと同時に、男の襟首を背後から掴み殴り掛かっていた。ただ、胸の内が焼き切れそうな程の怒りと、憎しみと、やり場のない感情に支配されていた。大きな音と共に男が地面に引き倒され、悲鳴が上がる。「_____っ、殺してやる!!!お前の所為でセシリアは死んだ!!」何が起きたのか理解出来ていない男に怒声を浴びせると半ば馬乗りになるようにして掴み掛かっていて。 )
( 男と捜査官が相手の前を通り過ぎ__また今日と言う日常が始まり出すと思っていた、のだが。何の躊躇も無い力で殴られた男が床に崩れる音と共に彼を連れていた捜査官の悲鳴と、廊下を歩いていた他の捜査官や事務員の悲鳴が重なった。それに被せる様にして誰よりも大きな相手の怒声が響き渡り一瞬にして場は混乱と混沌を生み出した。相手に殴られた男は床に尻餅をついたまま自分の上に馬乗りになる相手を驚愕と恐怖の入り交じった表情で見詰めたまま、わなわなと動かす唇からは結局何か声を発する事が出来ず。__「ッ、!」刑事課フロアから飛び出した己とスミス捜査官はほぼ同時だった。他数名の署員達が扉から顔を覗かせ騒めく中、男に馬乗りになる相手をスミス捜査官が脇に両腕を入れる形で背後から強引に引き剥がし、状況を把握出来ず床に座り込む男を別の捜査官が無理矢理立たせ、相手と距離を取らせる為に足早にエレベーターの方面へと引っ張って行き。「…エバンズさん!…っ、警部補!!」未だ強い強い怒りを瞳に宿し完全に我を忘れている相手の名を、役職を、焦燥の滲む表情と声色で叫ぶ様に呼ぶ。__相手が男に殴り掛かった直後、確かに聞こえた“セシリア”と言う名前。それが胸の奥に残り続け )
( 背後から羽交締めにされるようにして男から引き離されたのだが、胸の内に生まれた激しい怒りは直ぐに落ち着く事はなかった。「______っ、離せ!あいつの所為でセシリアは…!」あの男だけは自分の手で制裁を下してやらないと気が済まないのだと、自分を抑えているスミス捜査官の腕を振り解こうとする。ただ怒りと憎しみの衝動に突き動かされ、周りなど見えていなかった。しかしまた不安定に視界が揺らいだ事で動きが緩み、再びエレベーターの方に居る男と視線が重なった時、犯人とは全く似ても似つかないその顔に思わず言葉を失い動きも止まる。確かに、今の今まであの事件の犯人が目の前に居て、此方を嘲笑したではないか。けれど目の前に広がる光景は、ほんの数十秒前まで自分が見ていた物とは全く違っていた。口の端が切れ怯えたような表情を向ける男と、不安そうに此方の様子を伺う幾つもの視線。理解が追い付かず、一体何が起こっているのかと半ば放心状態で廊下に座り込んだままで居たものの碌な栄養を摂っていない中で暴れた事による反動だろう。突然意識が遠退くのを感じ、誰かの別の悲鳴を聞いたのを最後に意識は途絶えていて。 )
( ___当たり前ながら呼ばれた救急車は意識を失った相手を乗せレイクウッドの総合病院へと向かって行った。騒ぎを聞き付けた警視正がミラーとスミス捜査官を含めた数名の署員達、それから現場を最も良く見ていたであろう男を先導していた女性捜査官に詳細を聞き、重たい溜め息を吐き出したのは救急車のサイレンが聞こえなくなってから。“言葉1つ交わしていないのに警部補が急に男を殴った”と言うのが皆の証言であるものの、それはあくまでも“セシリア”が誰なのかを知らないから。相手の見続ける悪夢を知らないから。謹慎という名の療養で暫く休職してもらう、と言うのが相手自身にはまだ伝えていない警視正の判断となり。___意識の無い相手に最初に施されたのは点滴による栄養補給だった。痩せて酷い顔色の相手が運ばれて来た時、まさか此処まで状態が悪いとはアダムス医師も思っていなかった。勿論相手からの連絡も無かったし、診察に来る事も無かったのだから気付く事が出来ないのはある意味当然なのだが、これでは先に身体が悲鳴をあげてしまう。___その後、遅れて病院に来たミラーから此処数週間の相手の状態、それから倒れる前の状況を伝えられ“セシリア”と口にした事から恐らく幻覚を見た可能性が高いと判断したアダムス医師は、点滴に安定剤も足して。___病室のベッドの上、白い布団を掛けられ眠る相手の姿を何度見たか。閉じられた瞼に掛かる焦げ茶色の前髪を軽く払い、白く骨張った片手を両の手で握り締める。“あの日”犯人が自殺をした事で相手の胸の内にある怒りも、悲しみも、絶望も、ぶつける先を失ったのだろう。けれどそれらは決して消える事無くふつふつと煮えたぎるマグマの様に常に相手の中にあり続け、それがきっと爆発した。“殺してやる”と、そう叫んだその言葉こそが嘘偽りの無い相手の感情だ。大勢の人達の命を奪い償う事無く自殺など、余りにも無責任で、余りにも残酷ではないか )
( 目を覚ました時、視界に広がる白い天井を見て直ぐに病院だと理解した。点滴によって薬を投与されているからだろう、ここ最近の調子が悪過ぎたのだが今はだいぶ身体が楽で思考もクリアな状態だ。当然最後の記憶である騒動についても忘れては居なかった。ゆっくりと横に視線を向けると相手が座っていて、自分が目を覚ました事に気が付くと立ち上がる。此方を覗き込みつつ、意識が戻った事を伝えるべくナースコールを押そうとした相手の手を掴み制止して。相手に、何よりも先にまず聞かなければならない事があった。「_____俺が殴ったのは…誰だった、?」覚えているのだ、確かに”あの男“が自分の目の前を通り過ぎ、此方を振り向いて嘲笑した事を。その顔は紛れもなく、幾度と夢に見た、あの事件を引き起こし身勝手にも逃げ仰せたあの男だった。現実的に考えればそんな筈が無いと分かっていても、其れが間違いなく自分が目にした光景だった。近くに居た相手が其れを否定するなら、自分が”可笑しくなっている“のだと。 )
( 思わず双肩が跳ね驚きに目を見開いたのは、まさか制止が掛かると思っていなかったから。続けられた問い掛けは数時間前の署での騒動を確りと覚えているものなれど、“誰だったか”と問う辺り“見た”男の顔は__そう言う事なのだろう。掴まれた手を引く事無く再び椅子に腰掛け直し、相手を真っ直ぐに見る瞳には真剣さと少しの困惑の様な色が入り混じる。「昨晩起きた事件の重要参考人として聴取を受けていた男性です。…エバンズさんと面識は無いかと、」一度軽く息を吐き紡いだ言葉は誤魔化すでもない正直なもの。“あの事件”には全く無関係の男なのだと言い切った後。「…此処数日の不調で、いっぱいいっぱいになってたのが溢れちゃっただけ。」それでも付け加えたのは相手にとって納得のいかない気休めにすらもならない慰めになってしまっただろうか。男は何もしておらず、過失は100%相手自身にあるのは己も相手自身もわかっている事なれど、どうしても擁護したいと思ってしまうのは相手の心にある感情に触れたからか )
( 少しの困惑を孕んだ相手の返答を聞き、腕を掴んでいた手が緩むとやがて離れる。やはり、可笑しいのは自分だったという事だ。あれ程鮮明に見えていた筈の物は自分が作り出した幻影。悪夢に魘された時などに夢と現実の区別が付かなくなる事はこれまでにも時折あったが、それは眠りから覚めたばかりのその瞬間の事。今日のように普通に活動をしている日中にそんな状態に陥る事など、これまでただの一度も無かったというのに。「……そうか、」とひと言だけ答えたものの、自分への失望は大きかった。なんの落ち度もない男性に突如暴力を振るったとなれば、相応の処分が下されるだろう。いつか、精神科でのより高度な治療がとっくに必要な状態だと吐き捨てた医者がいたが、あながち間違いでは無かったのかもしれない。自分で自分を抑えることができず、過去の幻影に振り回されてはいつ何をするか分からない。相手を自分の側に居させる事さえ憚られた。「______騒ぎを起こして悪かった。お前は仕事に戻れ、」と告げて。 )
( たった一言、その一言に余りに暗く重い失望が纏っているのを感じてしまい膝の上できつく拳を握る。その後に続ける言葉を何も紡げないまま少しの沈黙が流れ__先の騒動の謝罪と共に退室を促されれば軽く首を左右に振り。「やらなきゃいけない仕事はもう終わらせて来てる。」此処に居た所で何が出来る訳でも無いのだが、仕事面で残る署員に迷惑を掛ける事は無いと、暗にまだ居たいと言う事を滲ませた後。「……可笑しくなった、なんて思ってますか?」と、徐に問い掛けて。その声色は真剣で、静かなもの。褪せた碧眼に宿る色が不安定なのを感じているからで )
( 相手の言葉に直ぐに返事を返す事はしなかった。胸の内に巣食う虚無感や苦しさ、其れに抗う事に疲れてしまったというのが正しい表現だろうか。事件に関わった大勢がFBIを去り、この世をも去った人が居る中で、懸命に刑事で在り続けようとして来た。けれど時々、“その意味”を見失いそうになるのだ。もう良いのではないかと、そう諦める為の糸口を自分自身が探しているような。其れでいて”可笑しくなったのなら仕方ない“と、無理やり自分自身を納得させようとしているのかもしれない。「_____あいつは俺たちの目の前で死んだ。悪夢と現実の区別も付かなくなるのは、そういう事だろう。」と、静かな口調で言葉を紡ぎ。一方で胸が焼き切れそうな激しい感情を思い出し、瞳が揺らぐ。「可笑しいのは分かってる。薬で治るなら其れでも良い、…少しで良いから、____“あの日“から解放されたい、」その言葉が全てだ。事件以降ずっと付き纏って来る”あの日“を忘れ、縛られている心を解放してやりたいのに、其れが出来ないのだ。強い薬で其れが叶うと言うなら、或いは医師の言う通りにする事で楽になるなら、今は甘んじて其れを受け入れようとさえ思えた。 )
( 相手から視線を外す事はしなかった。ただ、静かに返事を待つ事数分。余りに落ち着きを払って溢す様に落とされた言葉に僅か眉を微動させると「違う。」と、先ずは真っ向から否定し。「幻覚の1つや2つ見たからと言ってエバンズさんが可笑くなった訳じゃない。…それだけ苦しいからでしょ?心が限界だからでしょ?__私が1番エバンズさんの近くに居る。その私が違うって言うんだから何も可笑しくなんかない。」懸命に訴えたのは或る意味強気にも取れる内容。それが本心だ。何時かの日、アダムス医師では無い別の医師が相手に普段服用している物よりも何倍も強い安定剤を処方した時、吐き捨てた言葉を忘れた事は無かった。精神異常者の様に言い、まるで薬漬けにするかの様な。違うのに__相手は不器用で、優しくて、繊細なだけ。それでいて自分自身の負の感情に蓋をして、心を殺し罪を全て受け入れようとする。だからこそ、そんな相手だからこそ、切望した“解放されたい”と言う気持ちを尊重してあげたい。けれど__「…強い薬での解放には、目を瞑れません。」一度奥歯をきつく噛み締めた後に絞り出す様に伝えた言葉は相手の心を切り裂いただろうか。絶望のドン底に落としただろうか。「私に出来る事は僅かだし…もしかしたら何も無いかもしれない。寄り添うだけじゃエバンズさんの苦しみを取り除く事は出来ないってわかってるけど、それでも薬以外でエバンズさんが少しでも楽になれる事があるなら何だってする。犯人に言いたかったであろうどんな言葉も聞くし、夜中に一緒に起きる事も構わない。だから___もう少しだけ私と一緒に立って。」視界が滲み声に涙が混じる中、“もう良い”とは言わない。妹を、多くを亡くし10年以上苦しみの真ん中で生きている相手を前に血も涙もない残酷な部下だと思われたとしても。何時かの日、暗闇の底に居た己に相手が掛けた“立ち続けろ”と言う言葉を、思い出すだろうか )
( 相手は“もう良い”とは言わなかった。もがきながらでも立ち続けろと______其れはいつの日か、自分が相手に掛けた言葉と、“呪い”と同じ物だ。けれど、自分と一緒に立っていて欲しいと言う言葉は相手の優しさだと理解出来た。もう良いと言ってしまえば、自分が破滅へと沈み込んで行く事を相手は分かっているのだろう。「……優しくないな、」先程までの不安定さが完全に消えた訳ではないものの、そう告げた言葉には相手を揶揄うような呆れたような普段通りの色が少しばかり戻っていて、相手を責めている訳ではない事は伝わるだろう。「…自分でもどうしようもない程、胸の内が焼き尽くされるような感情だった。今此処で、自分があいつを殺さなければと______夢と同じだ。確かにあの男だと思った。……これ以上は不味い、」天井を見つめながら、あの瞬間の苦しい程の感情を思い出す。可笑しくなどなっていないと相手は言うが、現実との境界が曖昧になる状態は当然良い兆候ではない。これ以上落ちていく訳には行かないと思っているからこその言葉を紡いで。 )
優しいだけじゃFBIには__エバンズさんの隣には立てないでしょ。
( 己の告げた余りに酷な言葉に返って来たのはほんの僅か不安定さの薄れた、所謂“らしさ”の感じられるものだった。肩を竦め口角の上がった表情で言い返し、その後続けられた冷静な言葉に思うのは相手と同じ事。立ち続けて欲しいが幻覚を見る程までに不安定な状態のままは絶対的に良くは無く、その状態が長引くのは不味い。再び表情に真剣さを滲ませ数回の相槌の後「…強い薬を使うのは反対だけど、エバンズさんの心が限界な事も、幻覚がその内治まる、なんて無責任な話じゃ無い事もわかります。この先どんな治療が必要になるのか、…エバンズさんは嫌だろうけど入院の話も出るかもしれない。何にせよアダムス先生の話を聞こう。__それと、恐らく今日中に警視正から連絡があると思う。」先ずは相手の思い、考えを否定する事無く聞き届け、主治医であるアダムス医師が出すこの先の治療法の話を。それから間を空けやや控え目に続けたのは、皆まで言わなくとも相手は察するであろう内容の話で。___病室の扉がノックされたのは直ぐの事。廊下に漏れた話し声で相手が目を覚ました事に気付いたのか、入って来たのは穏やかな、けれど何時も無理をする相手に困った様な笑みを浮かべるアダムス医師で、第一声は『調子はどうですか?』 )
( アンナの事件が自分に与えた影響は間違い無く大きい。非常勤という働き方を選びながら此処まで状態が悪化してしまった以上もう少し方法を考えなければならない訳だが、薬で治るなら甘んじて受け入れると言っておきながらも“入院”という言葉は余計に気分を沈ませた。警視正からの連絡______それは確実に、騒動を受けての処分についてだ。あの瞬間の記憶は鮮明だったが、周囲の状況に関しては曖昧でどれ程の騒ぎになっていたかは正直覚えていない。どれ程の署員が、自分の可笑しな言動を目にしていたのかも。ただ少なくとも、全く無関係の男を殴ったとなれば停職は免れないだろうと覚悟はしていた。---扉が叩かれ入って来たのは主治医であるアダムス。投げ掛けられた問いには「……最悪だ、」とひと言。今、というよりは現在に至るまでの事を指した答えなのだが。薬のお陰で幾らか落ち着いているものの、酷い症状の数々に悩まされた。特にこの所はかなり調子が悪く、幻覚を見ても可笑しくないほどに状態が悪かったのは自覚している。「…休む努力はした、其の証拠に今は非常勤だ。…でも、どうにもならなかった、」と、告げて。 )
アダムス医師
( 返って来たのは強がる訳でも無い余りに素直な言葉。今この時の話では無く此処に運ばれる迄の数日間の事も含めた言葉なのだろう事は容易に想像が着くものだから、点滴を確認しながら『そうでしょうね。』と答えたアダムスの返事は、聞いておきながら声色に想定内だと滲み出ていて。点滴が一定の感覚で相手の中に流れるのを見、特別早さを変える必要も無いと判断した後は、2人だけで話す事もあるだろうと売店で飲み物を買って来ると病室を出たミラーに軽く頭を下げ再び相手に向き直り。『…今回の事件は余りに重たいものだったでしょう。それこそ貴方の言う通り、どうにもならなかった程に。』事件の詳細を鮮明に知っている訳では無いが、被害者の女性が相手の妹と瓜二つだと言うそれがもう全てだと言う事は感じていた。『ただ、幻覚を見ている以上、このまま何もせず帰す事は出来ません。一先ず今日1日は点滴による水分と栄養補給を優先に、明日からは暫くの間入院をするか、それとも休職をし自宅で療養するか__選択は貴方に任せます。』敢えて選択肢を作りそれを選ばせたのは、相手が入院を兎に角嫌がる事を知っているからで )
( あれ程鮮明に見えた“犯人の顔”は、自分の生み出した幻影_____実際あの場に居たのは無関係の男で、当然犯人が生きている筈も無い。頭では理解できるのに、犯人が通りすがりに此方を嘲笑したあの瞬間が脳裏には焼き付いて居て、幻覚を見たのだと言われても未だに整理が付かないというのが正直な所だった。---相手が提示した選択肢は2つ。入院して治療を受ければ身体が楽になるのは間違いないのだが、1人病室に居る時間が苦手だった。整然とした病室で何もせずベッドの上で過ごすのは余りに無力な自分を思い知らされ、“自分だけ楽になる”事への心苦しさに苛まれる瞬間がある_____後者は“あの男”に植え付けられた余計な感情なのだが。しかし、これ迄の状態を思うと家で過ごす事への不安もあった。「……出来るなら、家で療養したい。ただ、…いつもの薬だけで過ごすのは心許ない、」点滴による処置などを直ぐに受けられる病院と違い、家では体調を崩しても直ぐには対処できない。今の体調を思えば病院ではない場所で、それでいてある程度医療の体制が整った状況、或いは追加の薬を処方して貰って過ごせれば其れが最善なのだが、それは我儘と見做されるだろうか。 )
アダムス医師
( 相手が選んだのは“自宅での療養”。けれど本人が一番良く感じているのだろう、“何も無いまま”の療養には不安があるようで。しかしその不安を感じているのは此方も同じだった。暫し考える間を空けた後『……今処方している安定剤の強さを変える事はしませんが、幻覚を抑える薬は追加で出します。ただ、あくまでも抑えるだけ。頻度が少なくなるだけで全く見なくなる、と言う訳ではありません。…厳しく聞こえるかもしれませんが、貴方が自分で幻覚だと認識する事がとても重要なんです。』至極真剣な表情で紡いだのはある種の“乗り越え方”。苦しみの真ん中に居る相手だけれど、元に戻れないとは感じていなかった。次に表情を穏やかなものに変えた時、そこには医師でありながら相手がどう思っているかはわからぬものの、友人としての柔らかな笑みがあり。『私は長く貴方を見て来ました。今の貴方は昔に比べてずっと周りに助けを求められる様になったし、痛みや苦しみを言葉に出来る様にもなった。今回のように休む事も出来るようになりましたね。…次は、ほんの僅かでも良い、自分自身を許してあげて下さい。“あの時”貴方が最善を尽くした事は間違い無いんです。』一言一言を言い聞かせる様に、確かに前に進めているのだと変化を言葉にして伝えていく。それから『療養期間中、貴方を助けてくれる人は私を含め沢山居る筈です。傍に居て欲しいと言われて、嫌な顔をする人は居ないでしょう。』と、例え悪夢を見ても、幻覚を見ても、その時1人では無いと安心させる様に締め括って )
( 自分で幻覚だと認識する事。どれほど鮮明に見えていても、其れが過去にまつわる有り得ない状況ならば悪夢を断ち切り“今”を見なければならない。それはかなりのエネルギーを消費する事になるだろうと思いつつも、小さく頷いて。自宅で療養する事を選べば、再び相手の家に戻る事になる。相手に負担を強いる事になるだろうかと立ち止まりそうになった時、アダムスの紡いだ言葉に、迷惑だとは思わないと事あるごとに言葉にするミラーの事を思った。「______レイクウッドには、お人好しが多いからな、」と余計なひと言を溢しつつも、其処に嫌悪の色はない。錠剤を飲み込めず吐き気が強い時の為に制吐剤も処方して欲しいと頼み、いずれの薬を飲んでも体調が改善せず辛い時は病院に来る事を約束する。今回の処分として謹慎する期間は未だ定かではないが、皮肉にも身体を休めるだけの時間はあるだろう。それだけ重大な事案だと理解もしていた。アダムス医師が病室を出ていくと、再び天井に視線を向けて彼が紡いだ言葉の意味を考える。“あの時の自分を許す”事など出来るのだろうか。いつかそれが出来た時にようやく、縛り付けられたあの事件から解放されるのだろうか、と。 )
( 相手に言われた通り制吐剤と、幻覚への抑制剤、それから普段処方している安定剤と睡眠薬、それから鎮痛剤を明日帰る時に窓口で受け取る様にと伝え病室を後にしたアダムスの後、飲み物を買いに行くだけにしては随分遅くミラーが戻って来て。___「色々迷ってたら遅くなっちゃった。」とはにかみ相手に手渡した袋の中には、甘さの種類様々なコーヒーや紅茶、フルーツジュースなんかも入っており、その中の1つ、カフェラテのパックにストローを挿しながら「…アダムス先生と話せた?」と問い掛け。___丁度その時、相手のスマートフォンにあの騒動の詳細は他の署員から聞いた事、最低1週間の謹慎処分とする事、心身共に回復しない場合は1週間以上療養を許可する事、それから何かあれば何時でも話は聞く、と言った旨のメールが届いて )
( ややして戻って来た相手の手には、大きな袋。たくさんの飲み物が入った中身を見て重かっただろうと思うものの、無糖アイスティーのペットボトルを手にするとそれをひと口飲んで。「…入院はせず、家で療養する事にした。もし____…」相手に家で療養する事を告げたものの、言い掛けた言葉は途中で止まる。もし、迷惑になるようなら休職している間はホテルに泊まる、と言おうとしたのだが、先程のアダムスの言葉を思い出したのだ。“傍に居て欲しいと言われて、嫌な顔をする人は居ない”。迷惑じゃないと、目の前の相手がそう返してくる事が想像出来た為、言葉が続かなかったのだ。「……いや。なんでもない、」とだけ告げると、メールを受信したスマートフォンの画面に視線を落とす。文章に目を通すも、騒動を思えば1週間の謹慎は寛容過ぎる処分だ。警視正の優しさと此方への気遣いが感じられて、小さく息を吐き出して。「…1週間は休む。薬は支障の無い範囲で増やして貰ったから、1人で大丈夫だ。」と告げて。相手は通常通り仕事に出る事を思い、心配は要らないと伝えておき。 )
( ストローを咥えながら入院では無く家での療養を選んだ話を黙って聞いていたものの、“もし”の後に続く言葉を直ぐ様察し唇を開き___言葉は続かなかった。100%と断言しても過言では無く“ホテルに泊まる”と言い出すと思ったのに相手自身で話を終わらせたからだ。思わず瞬きをし目前の相手を見詰めるも、此処で何か余計な事を言えば想定通りホテル泊まりを強行されかねない為、再びストローを咥える事で言葉を飲み込みつつ頷くだけで留め。メールの受診を知らせる音の後、相手が口にした療養の期限は1週間だった。直ぐに警視正からだとわかり、同時に己もまた彼の優しさと気遣いを感じた。厳しい所も勿論あるが、部下思いでお茶目な所もある彼は、きっと陰ながら相手の事を思っているのだろう。「…1週間か、」“1人で大丈夫”をまるで聞かなかった呟きを落とした後、カフェラテを両手で包む様に持ち膝の上に下ろし。「私も後半休み貰おうかな。家の中ばっかりだと気分も沈むだろうし。…謹慎処分中の療養だって事は勿論わかってるけど__海行きたくない?」此処には2人だけしか居ないものの、少しばかり声量を落として紡いだのは誘惑となり得るだろうか、1つの提案。何処となく悪戯な、または不敵な笑みと共に相手の表情を伺い見て )
( 1人で大丈夫だと告げた後に続いた相手の言葉に「…お前が休む必要はない、」と返事を返す。体調が安定せず相手に心配を掛けるよりも、1人の方が良いという思いは未だに拭いきれなかった。海、という言葉には曖昧な表情を浮かべる。「謹慎中に海で遊んでいたなんて、其れこそ反省が見られないと見做されて停職になる。」と、呆れたように言葉を紡いで。穏やかな波の音は時に不安を和らげ、上擦った呼吸を落ち着かせてくれる。不安定な時こそ海を眺めてゆっくり時間を過ごしたいという気持ちこそあれど、謹慎中に海にドライブをしに行くという訳にはいかないだろうと。 )
今週は後半に2日休みがあるから、貰うのは実質1日だけ。__私だって有給消化しないといけないんだから。
( 1週間まるまる休みを貰う訳では無く、連休になる様に繋げるだけだと言い返し再びカフェラテを啜る。気持ち的には1週間びっちり相手の傍に居たいと言うのが本音ではあるものの、気を遣われるのを余り好まない相手の事だ、そんなにも長く張り付かれては居心地悪く感じ逆に休めないかもしれないと、己なりの勝手な妥協点で出した休暇3日。空になったカフェラテのパックをゴミ箱に入れ、提案に対して曖昧な色を滲ませたその碧眼を覗き込む。決して遊びに行く訳では無く、あくまでも目的は心を落ち着かせる療養なのだから問題は無いと思うものの、変な所で真面目な相手には通じない。で、あれば。「__最近海沿いの治安の悪さが目立ってるんだって。」ドライブには直接関係しない、余り脈略の感じられない話を唐突に振る。治安が悪いなんて話は勿論出ていないがそれはそうだ。「もしかしたら変な勘が働いて、休みの日だけど見回りに行く事になるかも。私1人じゃ何かあった時に対処しきれないから…エバンズさんは謹慎中だけど駆り出されるかもしれないね。」今この場で作ったとは思えない程淀みなく、さも仕方が無い事だとばかりにそんな戯言を言い放った後は返事に聞く耳を持たないとばかり口角だけは機嫌良く持ち上げたまま視線を他所に向けて。___それから翌日にはアダムス医師から処方された多めの薬と共に相手は退院し、1週間の謹慎処分+療養に入るだろう )
( 自分を外へ連れ出そうと画策しているのであろう相手の口からスラスラと紡がれる言葉に、怪訝そうな視線を向けたものの何かを言い返す事はせず。---退院し家での療養が始まると、点滴などの処置をしてもらい幾らか身体は楽になっていたものの、この数週間で悪化した体調を戻す事が必要だった。錠剤を上手く飲み込めない症状は少しばかり改善していて、制吐剤を飲んで少ししてから他の薬を飲む事で戻してしまう事はなくなり。ただ倦怠感が抜けず、横になっている時間は此れ迄よりも少し長くなっただろうか。悪夢を見る事がきっかけで現実との区別が付かなくなり、幻覚を見るようになるのではという恐怖があり、処方された睡眠薬は飲んでいなかった。 )
( 最初の数日は普段通り仕事に行き、夕方に家に帰って来て相手と共に軽い夕飯を食べ他愛無い話をする時間が続いた。ソファに横になり身体を休める相手を背に、床に座り込みキーボードを叩きながら時折声を掛ける。反応が無くなり背後を伺うと少しばかりうつらうつらしている様子が見れて嬉しくなった。けれど安定剤や制吐剤を飲む姿は見ても睡眠薬を飲む姿だけは見なかった。眠る事で悪夢を見る事、その悪夢が幻覚を連れて来る可能性がある事に少なからず恐怖心を抱いているのは簡単に想像が出来るのだが、人間ある程度纏まった睡眠をとらねばそれこそ心身が悲鳴を上げる。___時刻は夜の10時過ぎ。共に寝室のベッドに横になっている体勢で、普段は背中合わせなのだが今日は向かい合わせだ。背を向けた相手の目前に故意的に潜り込んだから。一瞬怪訝そうな表情を浮かべた相手に徐に手を伸ばし、親指の腹で濃くなってしまった隈を緩く撫でる。「__目を閉じて。」そう静かに声を掛け微笑んでから「大丈夫、…目が覚めた時に今が分からなくなってても、ちゃんと戻って来れる様に引き上げるから。」僅かでも眠る時間を作れる様に、一瞬でも不安が薄れる様に、親指を数回動かした後はその手を相手の肩に移動させ、今度はそこを軽く撫でて )
( 向かい合わせになった相手の、ゆっくりと目元を撫でる温かい指先は直ぐに眠気を連れて来た。眠ってはいけないと反射的にブレーキを掛けそうになるのだが、肩を摩られ静かな相手の声を聞いている内に抗う事を辞めていて。程なくして眠りに落ち、やがて意識の遠い所で夢を見る。初めは何の夢かも分からない程に朧げで遠く、徐々に近付いて鮮明に。繰り返し見る“あの日”をなぞりながら、悪夢は記憶よりも凄惨で誇張されたものになる事も暫しある。幾度記憶に残る“赤”に苦しめられたか。妹に近付いた時の靴底で水を踏む様な感覚を今でも覚えていて、足元から背筋が粟立つような、背中が凍るような恐怖心もまた鮮明だった。初めは夢だと朧げに認識していた其れも、目を覚ます頃には現実との区別が付かない程に心を持って行かれている。「_____っ、!」そうして思わず飛び起きた後、悪夢の残像か、手が血に濡れていると錯覚した事でパニックを引き起こし一瞬にして呼吸は意味を成さない浅い物に変わっていた。相手が隣にいる事も今は頭に無く、汚れ切った此の手をどうして良いか分からず片方の手で自分の手首を握りしめる。無意識に爪が食い込むほどに力が籠り、木枯らしの様に掠れた音が唇から溢れ肩を震わせて。 )
( 瞬きがゆっくりしたものに、やがて瞳が完全に閉じられ静かな寝息が聞こえてくれば微笑と共に肩から手を離し掛け布団を引き上げて。___深い眠りの底にあった意識が引っ張られ浮上したのは隣で眠った筈の相手が飛び起きたから。勢い良く捲られた掛け布団と大きく揺れたスプリング、直ぐに追い掛ける喉の奥で引っ掛かる様な枯れた呼吸音。弾かれる様に上半身を起こし、殆ど反射的な動作でベッドサイドの間接照明を点ける。暗闇が柔らかな暖色の明かりに包まれ、パニックの中で肩を震わせる相手の姿が浮かび上がるのだが、その長い指は片方の手首を爪を立てる様に握り締めており、どれだけの力を込めているのか爪先は赤い。「…エバンズさん、痛いのは駄目。ね、大丈夫だから離して。」勿論の事夢の詳細はわからないが、例え発作を治める為とは言え自ら傷を付ける事は容認出来ない。諭す様に極めて穏やかな口調を心掛けながら、相手の両手を下から掬い上げる様にして持ち上げ包み込む。そのまま親指の腹で爪を立てる手の甲を撫でつつ、力が抜けるようにと )
( 浅い呼吸の中、強い力で握り締めていた手が一度は相手の成すがままに離れたものの、包み込まれた手の甲を相手の指先が撫でる感覚で視線が手元に落ちる。手が血に染まっている、其れが幻覚だとは今は分からなかった。「…っ、触るな!!」思わず相手の手を振り払うと、徐にベッドを降りる。視界が揺らぐのだが、そのまま覚束ない足取りで寝室を出てシンクへと向かうと蛇口から水を出す。「____汚い、…っ落ちてくれ、」血塗れた手を洗おうとしたのだが、洗っても洗っても嫌な赤は落ちない。懇願するような言葉が苦しげな吐息と共に唇から漏れ、今はただ悪夢が引き連れて来た“血の記憶”に取り憑かれていた。自分の状態を客観的に見てこれが幻覚だと気づく事も出来なかったが、こうやって可笑しくなって行くのかと何処か遠い所では僅かに感じていただろうか。 )
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