刑事A 2022-01-18 14:27:13 |
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( 窓の外を流れる景色からは徐々に建物が消え、やがて広い空と輝く海面が見えるようになる。外吹き込んでくる潮風を浴びながら外を眺めていると、やがて車は砂浜の側へ。未だ見回りの建前を崩さない相手の言葉に「……お前の動体視力は犬並みだな、」と、あのスピードで車を走らせていて見回りも行っていたのならば超人だと真顔で冗談めかして。車を降りれば靴底に感じる砂の柔らかさ。遠巻きに海を眺めていれば唐突な相手の言葉に呆れたような怪訝そうな色を浮かべ「此処はパーティー会場か何かか?」とひと言。そうしてさっさと1人でベンチまで歩いて行くと腰を下ろし、ベンチの砂を軽く手で払い。到底エスコートとも言えないような些細な事だが、レストランの座席を引いてやるのと似たようなものだろうと。 )
( 相手が冗談を口にする事は非常に珍しいと認識していた。だからこそ双眸を瞬かせ真顔を崩さないその表情を一瞬見詰めるのだが、誰がどう聞いても褒められていない事は明白にも関わらず「…優秀でしょ?警察官としても、“番犬”としても。」態とらしく誇らしげに首を擡げて見せた後、何時かの日に“番犬”や“小型犬”の軽口を言い合った事を持ち出して。案の定怪訝な表情を浮かべた相手は、手を差し伸べてくれるどころかエスコートを一刀両断すると同時に此方を振り返る事も無く1人砂浜を進んで行く。「ちょ、!」わかってはいたが思わず非難の色を纏った音が唇から漏れ、歩きにくい砂浜を小走りで相手の後を追い。「___…どーも。」先にベンチに座った相手の手が腰掛けるすぐ横の砂を払ったのを見て、素直さの欠片を失った不貞腐れた様なお礼が出た。勿論本気で不貞腐れた訳でもなければ機嫌を損ねた訳でも無い。更に言えばその細やか行為に照れた訳でも無い。これもまた遣り取りを勝手に楽しむ軽口に似た態とらしい態度だ。だからこそ隣に腰掛けた時にはすっかり表情は穏やかなそれに戻っており、鞄の中から2つのスープジャーを取り出すと、片方を相手に手渡しつつ「暖まるよ。」と、一言。頭を前に戻し、太陽の光を浴びながら寄せては返す穏やかな波を、遠い水平線を見詰めて )
( あからさまに不服そうな表情と声色の相手に「…ハンカチでも敷いてやれば良かったか?」と、すぐに“そういう事じゃない”と食い気味な返事が返って来そうな返答を涼しい顔でひとつ。手渡されたスープジャーを受け取ると、蓋を開ける。コンソメの良い香りと共に湯気が立ち上り、煮込まれた野菜も入っているようだ。それをひと口飲んで小さく息を吐くと、身体の内側に仄かな熱が生まれた気がした。「…美味い、」とひと言感想を告げる。此の所は精神的にも追い込まれ、寒さにも似た恐怖心を抱く事が多かったのだが、少し肩の力が抜けるようだった。未だ鳩尾に痛みが走る事はあったが、日中はやり過ごせる程度の痛みだ。水平線に視線を向け、寄せては返す波の音を聞きながら柔らかな風の中に居ると、心は自然と落ち着いて来る。当然凄惨な事件現場にいるよりも、穏やかな海辺に居る方がずっと負荷は少ない_____此れが”事件捜査から離れて身体を休めろ”と何度も医者が言っていた理由だと、こうして静かな場所に身を置けば分かるのだが。10年以上其れを拒み続けて来た。「……どうしたら良いんだろうな、」紡いだ言葉は、相手に何かを問いかけ答えが欲しいと思って紡いだ物ではなく自然と溢れたものだった。刑事として在り続けたいという思いは変わっていない。休息が必要な事も理解はしている。けれどこのまま立ち止まれば確実に、自分は良くない方向へと沈んで行くだろう。「…海は良い、」と水平線に静かに視線を向けたまま穏やかな声色で呟いて。 )
( 求めていたのは“ベンチに行く前”のエスコートだ。案の定食い気味に返した返事は「そういう事じゃない」の一言で。相手がスープジャーの蓋を開けた事で海風に乗ったコンソメの香りが隣に座る己の元まで届いた。勿論味見もしているし香りだけで味を断定する事は基本無いが、これはなかなかに良い出来だろうとひっそり胸中で呟いた自画自賛は相手からの何より嬉しい賞賛の言葉で膨れ上がると言うもの。「良かった、」と微笑み自分用のスープジャーの蓋を開け中の温かいスープを一口。同じ海を見ながら同じ風に吹かれ同じものを飲む___不思議な事では無いけれど、不思議な気持ちになるのは何故か。暫く互いに沈黙が続き、穏やかな波の音の間で隣から溢れ落ちた言葉を拾い、思わず弾かれた様に顔を向けた。刑事で在り続けたい、けれど心身は確実に悲鳴を上げ痛みも苦しみも消え去ってはくれない。楽になりたいのに自分だけが許されてはいけないとも思い、過去は何時だって顔を覗かせる。“どうしたら良いか”それは何十年も相手自身が一番自問自答し苦しみ続けて来た事だろう。続けられた余りに穏やかな呟きに何故が心臓が大きく跳ねた。理由はわからない。何かを口にしようとした唇が薄く開き、結局言葉無く閉じ、頭は再び正面へ。次の沈黙は先程よりもずっと長いもので、水平線を見詰めたまま数分___「……海の近くで一緒に住むのは…?」相手に視線を向ける事無く紡いだ問い掛けは思いの外小さかったかもしれない。「…ほら、それだったら捜査で苦しくなっても、家に帰って来て窓の外を見れば少しは気持ちが楽になるかもしれないし、今よりずっと短い時間で来れる。__今すぐとかじゃなくて…エバンズさんがそれもありだなって思えた時とか、……」結局肝心な所で臆病な己はまるで言い訳の様な説明文を早口で紡ぐのだ。海の近くに住むだけなら別に2人一緒じゃなく相手1人でも良い、と言う客観的な所は勿論見えないまま )
( 隣の相手が小さな声で紡いだ問い掛けに、海から視線を外して相手を見る。続いた言葉を聞きながら再び視線を前に向けると、「…あぁ、其れも良いかもな。」と、同意を示すようにひと言。海の見える家で暮らす、悪夢に苛まれた夜にも波の音を聞きながら月の光を湛えた水平線を窓から眺められるかもしれない。其れはとても良い環境だと思えた。しかし、いつかの未来の事として考えた訳ではなく、言うなれば絵空事。そんな空間に身を置く事が出来たらきっと幸せだろうと、現実には起こり得ない空想上の話として受け取っていた。コンソメスープをひと口飲むと、小さく息を吐く。相手がどんな思いでその言葉を紡いだかまでは気づく事が出来ず「…お互い、いつまでレイクウッドに居るんだろうな。」と溢して。きっといつかは、相手も本部やフィラデルフィア署に異動するのだろうという前提があっての言葉で。 )
( 前を見ていても視界の端で相手が此方を向いた事がわかった。勿論隣を見る勇気などある筈がなく、頭は固まり視線は縫い付けられたかの様に水平線を見詰めたまま。けれど予想もしていなかった同意の言葉が隣から聞こえた時、次は己が弾かれた様に相手を凝視し。___驚愕と自然と湧き上がった喜びは、続いた言葉で空気の抜けた風船の様にあっという間に萎んだ。先程の同意は此方の気持ちに応えてくれてものでは無く、更に言えばその想いすら届いていないのだ。勿論真っ直ぐなわかりやすい告白では無かったし、逃げ道を作ったのは紛れもない己だ。けれど部下である時間の長さは想像以上に長く隔たり、また、どうしたって越えられない壁がある気もした。胸の奥が小さく痛み、それを誤魔化す様に「そうだなぁ、」なんて悩む素振りを見せる。“愛している”と、確りとした告白をし直す事は選ばない。代わりに小さな笑顔で「本部に戻る時は連れて行ってくれる約束でしょ?」と、首を擡げながら約束もしてはいない勝手な過去の要望の話を持ち出した後。「…私は余程の事が無い限りきっとレイクウッドに居る。それで、あの辺の高台にこじんまりとした家を建てるの。__その時もしエバンズさんが今回みたく住む場所のない状況だったら、一部屋貸してあげる。」一度後ろを振り返り近くの高台を視線で示しつつ、おどけた様な色を纏い直して )
( 本部に戻る時は連れて行って欲しいと言われた事は覚えて居たが、少し前に本部に戻って居た時もその約束は果たせなかった。「…気が向いたらな、」と答えつつ、自分は再び本部に戻る事はあるだろうかと考える。その思考を遮るように紡がれた相手の言葉を聞きながら、示された後ろの高台に視線を向けると少し笑って「…民泊のビジネスでも始めそうだな、」と冗談めかして。相手の心の内に気づくことはできなかったが、海を眺めて他愛も無い話をする時間は穏やかなもので胸の内に渦巻く不安は落ち着いて居た。相手に支えられながら過ごす療養の期間は、負荷が掛かり傷付いた心を日ごとに癒す事だろう。 )
( 相手の微笑と冗談に、今度は一瞬にして先程感じた胸の痛みが消えた気がした。海を見、波の音を聞き、他愛無い話をする事で相手は一瞬でも痛みや苦しみから遠い所に心を置けるならばそれが全てなのではとすら思えたのだ。「刑事って副業OKだっけ?“色取りの良いサラダ”を出すカフェも隣接させたいんだけど。」と、此方も冗談めかした返事を返し。___それから相手の心身の状態も少しずつ少しずつ回復していった。安定剤や睡眠薬は常備しているものの、味覚異常や幻覚、吐き気などの症状も落ち着いている様で、比較的穏やかに過ごせている事に安堵出来る日々が続いて )
( 謹慎期間よりも少し長く休みを取った後、支障無く仕事に復帰出来るだろうという医師の診断を受けて職場に復帰する事となり。騒ぎを起こした事を署員に詫びこれまで通り仕事に復帰する事を伝えると、長らく暗かった執務室に再び明かりが灯る。例の一件を目撃していた者も、あの日のエバンズの状態が普通では無かった事は理解して居て、体調が改善している様子に安堵したようだった。---復帰から暫くして、事件の一報が入る。郊外の空き家で、幼い少年の遺体が見つかったというもの。通報者は空き家を訪れて居た3人の少年だった。「ミラー、車を出してくれ。郊外の空き家で遺体が見つかった。現場に向かう。」執務室の扉を開けると、デスクで仕事をしている相手に声を掛け、コートや資料を手にすると駐車場へと向かって。 )
( ___普段通りデスクで仕事をしている時に掛けられたのは此処数日無かった事件の報せ。直ぐに頷きパソコンの電源を落として相手と共に署を出れば社用車に乗り込み。運転席に座り、エンジンを掛ける前に相手から受け取った書類にザッと目を通す。「…5歳、」と、漏れた言葉と共に眉間に皺が寄った。勿論大人の遺体ならば良いなんて話では無く勿論そんな事は僅かも思わないのだが、矢張り子供の遺体は気分が重くなる。直ぐに書類を相手に返し現場まで車を走らせて。___郊外に建つ空き家の周りには規制線のテープが貼られていた。先に居た警察官に警察手帳を見せて手袋をはめ家の中へ入ると、そこには書類にあった通りまだ幼い男の子の遺体があり、周囲には無造作に散らばった薬剤が。「…エバンズさん、これ。」少年の傍らにしゃがみ薬剤の一つを摘み上げ相手に手渡す様に見せて )
( 現場でまず目につくのは相手が指摘した薬剤。遺体の近くに散乱しており、劇薬の可能性も否定出来ない。転がっている茶色い瓶に薬剤の名前は書かれて居なかった。「…鑑識に回して成分を調べる。検視の結果とも擦り合わせる必要があるな。」と同意を示すように告げて。少年の遺体の傍らに膝をつき状態を観察すると、口の端に血の混ざった唾液が付着している事に気付く。転落した可能性は無いかと家の方を見上げたものの、頭などに目立った外傷はないため線としては薄いだろうか。頭だけではなく、遺体に外傷は見られなかった。頭や首、腹部、手首、致命傷となり得る部位は全て綺麗な状態で。「……現時点では死因が特定出来ないな、」と言いながら立ち上がり。死因の特定には検視結果を待つ必要がある、今は目撃情報や防犯カメラの映像を集める事が急務だろうと。 )
( この薬剤が何なのか、現段階では全く判断する事は出来ないが5歳児の遺体の周囲に散らばっていた事が妙な恐怖を湧きたてた。目視で確認出来る外傷は無く内臓系に何らかの損傷がある可能性もあるが、其方もまた今の段階では判別不可。後ろから来た鑑識が持つ証拠保管袋に薬剤を入れ立ち上がると相手の言葉に頷きつつ「周辺の聞き込みと監視カメラの映像が先ですね。…彼の両親にも話を聞かなきゃ、」と、答え。扉が施錠されていた訳でも無ければ立ち入り規制があった訳でも無く、言うなれば誰だって好きにこの場所を出入りする事は出来た。ただ、もし被害者がたった1人で此処に来たと言うのであればそれは些か疑問がある。一先ず情報収集を、と相手と共に車に戻りこの場所から一番近い監視カメラの場所の把握と、周囲への聞き込みを開始する事として )
( 現場検証の過程で手袋をして触れた少年の身体は、既に生気を感じる事ができなかった。つなぎのズボンのポケットに何かが入っているのを感じポケットに手を入れると、中から出て来たのは棒の付いたキャンディが1本と小銭。近くのショップで買い物でもしたのだろう。監視カメラの場所を把握するために相手が車を走らせている最中、スマートフォンで近くの駄菓子屋を探す。「…よく菓子を買いに訪れるショップがないかも、親に確認する必要があるな。」と告げて。---聞き込みの中で上がって来たのは、空き家は誰でも自由に出入りができる上、家具などが残されていることもあり地元の子どもなどが遊び場にしている事は多々あったという事。そして周辺の住民の中に物音など不審な音を聞いた人は居ない事。スマートフォンが着信を知らせ、被害者の母親と連絡がついたという報告を受けると「現場から直ぐの家に母親が戻ったらしい。話を聞きに行くぞ。」と指示を出して。 )
( 車内で相手の持つスマートフォンが着信を知らせれば前方を見ながらも意識の破片は其方に向く。その後出された指示の元向かった被害者の自宅には凡そ5分程で到着し、呼び鈴を鳴らせば憔悴しきった母親と思われる女性が玄関から顔を覗かせた。「レイクウッド署のベル・ミラーです。」と警察手帳を見せ相手と共に家の中へ。促され女性と向かい合う形で椅子に腰掛けて直ぐ、女性は涙ながらに『…私がもっと早く気が付けていれば…っ、』と、後悔を口にしたものだから、矢張りどれだけの年月、殺人事件に向き合って来たとしても心が抉られそうな気持ちになるのだ。大切に大切に育てて来たであろう我が子が、突然目の前から居なくなりもう二度と声を聞く事も笑顔を見る事も出来ない。「…貴女のせいじゃありません。」なんてまるでお決まりの言葉を掛ける事しか出来ず、けれど話は聞かなければならない。「__息子さんの事、お辛いでしょうが聞かせて貰えますか?」と鞄から手帳を取り出して )
( ミケルの母親は涙ながらに昨日の事について話し始めた。『昨日もあの子は、昼過ぎに外へ遊びに行きました。私は夕方には仕事に出てしまうので、その後の事は分かりません。でも今朝家に帰ったら、冷蔵庫の中に昨日の夕食に作っておいたスープが残っていたんです…!姿も見当たらないから警察に通報して、それで…っ』顔を覆って泣き始めた彼女の言葉を手帳に書き記す。「…出掛ける時には、彼にお金を?」と尋ねると、母親は顔を上げ『…はい、1ドルだけ渡しました。寂しい思いをさせているから…せめておやつくらい、ほんの少しですけど、好きなものを食べさせてやりたくて、』と答えて。 )
( 女手一つ、まだ幼い息子との生活を守る為に彼女自身も息子に付きっきりになる事の出来ない日常に寂しさを感じていた筈だ。朝がた家に居る筈の息子の姿が見当たらなかった時の恐怖はどれ程のものだっただろうか。相手からの問い掛けに鼻を啜りながらも答えた母親に「ミケル君が、普段お菓子を買うお気に入りのお店とかに心当たりはありませんか?例えば…棒付きのキャンディを買っていたお店とか、」と、静かに問いを重ねる。それから続けて「それと、此処最近困っていた事や、気になっていた事__些細な事でも構いません。何かあれば、」少しでも手掛かりを得る為、彼女自身の身の回りの事でも、息子の周囲の人間関係の事でも、話しておきたい事があればと聞く姿勢を見せて )
( 相手の問いに彼女は『棒つきキャンディ……ミケルのお気に入りの店があります。地元の子どもたちにも人気の店で…ミケルはよく行っていました。店名は確か、“シュガーリー”です。』と答えて。『チョコレートやグミなんかも置いていたけど、あの子はいつもキャンディで…色がグラデーションになっているのもかっこいいんだって、』話しながら過去の記憶が蘇ったのだろう、もう会えない息子を思って涙を流す母親の姿に胸が痛む。『生活は裕福ではなかったけど…でも、あの子の為なら仕事も頑張れたんです。ミケルは友達が多い方では無かったけど、マイペースで、1人で遊ぶのも好きな子でした。悩みを聞いた事はありません。_____どうしてうちの子が、あんな事に…』と項垂れる母親に「…事件と事故の両面から捜査を進めて居ます。ちなみに、持病やいつも服用している薬などはありましたか?」と尋ねたものの、答えはNo。捜査を迅速に進めることを約束し、何かあればいつでも連絡して欲しいと伝えると立ち上がり。 )
( 母親の返答から“シュガーリー”と言うお菓子屋の存在が明らかになった訳だが、最も不可思議に思える遺体の傍にあった薬剤は未だ謎のまま。軽く頭を下げ玄関を出る間際に彼女の肩を軽く擦ってから相手と共に車に乗り込み。「…“どちら”であっても、最後まで立ち直る手助けがしたい、」道中、前を見据えたままポツリと口にしたのは悲しみにくれる母親の泣き顔が脳裏を離れなかったから。“当たり前”に居る人、日々が何の兆候も無く突如として消え失せる事の計り知れない喪失感は、隣に座る相手が誰よりも身をもって知っている事だろう。___シュガーリーはこじんまりとした、けれど鮮やかな看板が目を引く綺麗な外観だった。中に入れば沢山のお菓子が陳列されていてそのどれもが良心的な値段。お小遣いを貯めた子供が集まって来るのも頷けた。入口から近い棚の一つに“鮮やかなグラデーションの棒付きキャンディ”が売っていてそれを手に取る。「…子供が喜びそう。」と、小さく微笑み相手に軽く見せてから、店内に設置されている防犯カメラの位置を確認すべく頭を持ち上げて )
( 彼女のようにただ1人の家族である息子を大切に思い、息子の為に身を粉にして働いて居る母親であれば、尚更喪失感に打ちひしがれてしまうだろう。遺族の心のケアを行い、時にカウンセラーなどの適した支援機関を紹介する事も大切だと相手の言葉に頷いて。---明るい雰囲気の店内には様々なお菓子が並び、子どもが入れ替わり立ち替わりやってくる。被害者の少年がポケットに入れて居たキャンディの金額を見て、釣り銭もぴったりだという事を確認するとレジに向かい。「レイクウッド署のエバンズです。」と、女性店員に警察手帳を見せつつ、ミケルの写真を示す。「この少年に見覚えはありませんか。」と尋ねると、店員は『あぁ、この子。よく来てくれるんです、確か昨日も来ましたよ。』と答えた。『もしかして…近くの空き家で遺体が見つかったって、この子なんですか?、』と聞かれ小さく頷くと「……捜査を行っています。防犯カメラの映像をいただく事はできますか?」と続けて。 )
( 女性店員が昨日のミケルの来店を覚えていたと言う事は証言的には大きいだろう。控え目な相手の頷きに対して『そうですか…。』と悲しげに眉を下げた店員は続けられた要望に何の躊躇いも無く『勿論です、少し待っていて下さいね。』と答えるとお店の奥に引っ込み、少しして映像の入ったUSBを手に戻って来て。『これにも映ってると思いますけど、昨日は3時頃に来てくれました。…何時も“お母さんがくれた”って嬉しそうに小銭を握り締めてたんです。……もう、顔を見れないんですね、』それを相手に手渡す際、生前のミケルの無邪気にはにかむ笑顔を思い出したのか、切なそうな呟きを落とし。「…普段と違うと感じたりは?」との問い掛けには『いいえ、何時も通り元気そうでした。』と、特別変わった様には見えなかったと答え。___検死結果の報告があがるまではまだ時間が掛かるだろう。まずはこの店の防犯カメラ映像の確認作業をするのに署に戻るのが得策かと、隣の相手に視線を向けて )
( USBを受け取ると、店員に礼を言う。防犯カメラに残っている映像と死亡推定時刻とを照らし合わせ、最後に被害者の少年が目撃されてからの足取りを掴む必要があった。また話を聞きにくる可能性がある事を伝え了承してもらった後、相手と共に店を後にする。「防犯カメラの映像を確認する。まだ目撃証言が少ないが、行動範囲は限定されている。街中の防犯カメラの映像と合わせて証言を募るぞ。」と相手に告げ、先ずは入手した映像の確認を行う為に署へ戻り。---店員の証言通り、事件があった日の15時頃_____具体的には15時16分に、ミケルは1人で店を訪れていた。滞在時間はほんの数分、店頭を眺めたものの悩み込む事はなく、キャンディを手に取りレジへと向かう。店員と会話を交わし、おまけのような小さな包みに包まれたチョコレートを受け取ると嬉しそうにそれを口に放り込んだ。店員が手を出し、ミケルはゴミを手渡すと小さく手を振ってドアを開け、右側の方向へと歩いて行った。映像に残っていたのはそんな数分の出来事で。 )
( 防犯カメラに映るミケルは、店員の言った通り気落ちした様な様子も無く元気そうに見えた。お店に来たのは1人で出て行った時も1人___もし誰かに声を掛けられてあの空き家に行ったのならこの後の話になるし、誰かとあの場所で待ち合わせをしていた可能性も十分にある。更に言えば別の場所で殺害されあの家の中に遺棄された可能性も。「…検死結果、急いで欲しいね。」と溢したのは彼の口元に付着していた血液の混じった唾液が気になっていたから。相手も確認した通り高所からの落下であるならなんらかの外傷があっても可笑しくはないが、それらが何も無かったと言う事は矢張り周辺にあった薬剤が関係しているのか。一度給湯室で紅茶を淹れマグカップを相手に手渡した後、次は彼が向かった方向にある防犯カメラ映像を一つ一つ確認しつつ、不審な人物や見落としが無いかを調べていき )
( 相手の言葉に同意を示しつつ紅茶をひと口啜る。空き家や彼の家がある方は監視カメラの設置台数が少ないというのが正直な感想。空き家の敷地の入り口が見えるカメラは無かった。外傷が無いとなると、死因はかなり絞られる。薬剤の誤飲の可能性、或いは毒を盛られたり、不慮の事故という事も考えられるだろう。彼が何を口にしたか、という事を考えた時に先ほどの監視カメラの映像が甦り「…あの店で貰ったおまけのチョコレートに毒が入っていた、なんて事はないか。彼が亡くなる前に口にした事が確認出来ていて、ゴミは店員が預かっている。」と、言葉を溢し。協力的な店員だったが、状況的にあり得ないと断定は出来ない。被害者の少年を認識していた事を思うと、彼にだけ毒入りを渡す事だって不可能では無いはずだと。 )
( 肝心な所に監視カメラが設置されていないのは良くある事。「住人の居る居ないに関わらず、全ての建物の入口にはカメラ設置義務の法律が欲しいくらい。」とボヤくものの、それが叶わない今そんな事を言った所で事態が好転する訳でも無い。紅茶を啜りながら何度も目だけを左右に動かし映像を凝視する中。相手の言葉に思わず動きが止まった。唇から静かにマグカップを離し身体ごと相手に向き直る表情は真剣ながら何処か複雑さも見え隠れするもの。「…可能性はあるね。心情的には疑いたくない所だけど、即効性のある毒物じゃなければあの家まで行けただろうし、口元の血も説明がつく。」包み紙は既に破棄されているだろうし、人が人を殺す動機など考えたくは無いがそこら中に転がっているのだ。「……母親だってわからない、」と苦しげに溢したのは、“全てを疑え”と言う相手の最初の教えが基盤になっているからか。「1人で育てる事に疲れきって、“あの子が居なければ”って思っても__。…ただ、そうじゃないって信じたい。」静かに身体を前に戻し再び映像を見詰めながら、それでも最後の言葉は心からのもの。甘さは抜けないと思われるだろうか )
( 例えどう思われようと、捜査の上では全てを疑い、考え得る可能性は全て潰しておく必要がある。「…検視結果が出たら、もう一度2人には話を聞きに行く。外傷が無い以上、考えられる死因はかなり狭まるからな。」と告げて。刃物などの凶器が使われた訳でもなく致命的な傷が無いとなると、今できる事は結果を待つ事と聞き込みを行うことだ。毒物を盛られた可能性も視野に入れれば、既に話を聞いている2人も例外ではない。---検視よりも先に直ぐに結果が出たのは、薬剤の成分分析だった。夕方になって分析の担当官がやって来ると資料を手渡し『現場にあった薬は、抗うつ剤でした。子どもが誤飲すれば、死に至る危険は十分あります。』と告げて。何らかの理由で薬を誤飲した、或いは飲まされたと考えれば殺人は成立するのかと考え込みつつ「助かった、」とだけ告げて担当官を帰らせて。 )
わかりました、周辺の聞き込みも続けます。
( 検死結果が出るまでの間のこの時間はどうにも気が焦る。早く確実な証拠が欲しい、早急に犯人を逮捕したいと思えば思う程に多くの情報をと思うのは当たり前なのだが。鼻から抜ける様な溜め息を一つで頷けば夕方にまた聞き込みを再開しようと。___それから時間が経ちカメラ映像の確認に一区切りがついた頃、扉のノック音と共に入って来た分析の担当官が手渡した資料に思わず眉が寄った。“抗うつ剤”だなんて、そもそも誰が。「…空き家を使っていた誰かの忘れ物を偶然見付けて、ラムネか何かと思い誤って飲んだ事故死か__誰かが明確な目的で飲ませたか。何方にせよあの歳の子が買える物じゃないし、母親が服用していた可能性もあります。エバンズさん、もう一度ジョイの家に行こう、」椅子から立ち上がり、鞄を片手に持つと足早に執務室を出て )
( 好奇心から立ち寄った空き家で瓶に入った錠剤を見つけ、ラムネと勘違いして誤飲する______大人であれば到底考えにくい話ではあるが、被害者はまだ5歳の子ども。突拍子もない事をしても何ら可笑しくは無い年齢だ。「…事故か事件かの判別も付かないな、」と、状況証拠からだけではそれさえ掴めない状況に少しばかりの苛立ちを見せて。相手と共に再び訪れた被害者の家。母親は、今日は仕事を休ませて貰ったのだと言って再び自分たちを居間に通した。抗うつ剤を服用した事はあるかと尋ねると彼女は首を振り『いいえ、生活は楽ではなかったけれど…あの子と2人の生活は幸せでした。夜の仕事なんて大変だけど、でもお店のみんなも優しくて、私、辛くなんてありませんでした。』と、再び涙ぐみながら答えて。 )
( 母親の話を信じるのなら抗うつ剤は矢張り誰かの置き忘れか、別に存在する犯人の物と言う事になる。彼女やお菓子屋の店員の周りから確実な情報を得る事が出来ればと手帳に書き込みをしながら思案し、最後に母親の働くお店の名前も書き留めて家を出て。その後の地域住民への聞き込みも犯人に繋がる目ぼしい情報は出なかった。ただ、ミケル自身大勢の友達と遊び回るより1人で遊ぶ事の多いタイプだった事、案の定施錠もされていない空き家は子供達の溜まり場になっていた事、がわかり運転席で背凭れに体重を掛ける様に座り一度息を吐き出して。「今日の夜はとんでもなく甘い物が食べたい、」と呟いたのは、捜査が思う様に進んでない状況に対する疲労からか。ハンドルを握り直し次に向かったのはお昼頃にも行った“シュガーリー”。店の前に車を停めて「行きますか、」と一つ気合いを )
( めぼしい目撃証言も、被害者に関する有力な情報も無い状況に思わず溜め息が出る。脳を使っているからだろうか、捜査が行き詰まった時などに甘い物を欲する気持ちは共感出来るもので。再び店を訪れた自分たちを少し驚きつつも迎え入れた店員は、監視カメラに映っていたやり取りについて、いつも子どもたちには“おまけ”をあげているのだと言った。商品として販売されているものより小さなチョコレート。ミルクとホワイトがあり、透明な包みに入っているそれは、レジ下のカゴの中に入っていた。『買い物をしてくれた子には、1人1つだけあげています。あの子はいつもホワイトを選ぶんです、昨日もそうでした。』と答えて。持って帰る子もいるが今食べていくと言ったため包みを預かったと。『ゴミ箱は、昨日今日はまだ取り替えていません。』疑われている事を少なからず察したのだろう、レジの足元にあるゴミ箱を示して『必要なら持って行ってください。』と。 )
( 店員の話を軽く頷きながら聞く。特別不審に思う点も無く、包み紙のゴミを預かったのも子供がその場で食べると言うならば自然な事だろう。何かを察した様にレジ下のゴミ箱を示されるとその隠し事の無い行動に一拍程の思案の間を空けた後「…失礼します、」と箱から袋を抜き取り持ち帰る事として。最後にレジ横に売られている包み紙に包まれた丸いミルクチョコレートを二つ摘みお金を払うと、捜査協力への感謝を述べてお店を出て。___署に戻り先ずは袋の中のゴミの中からおまけのチョコの包みを避ける作業、そしてそれらを成分分析官に渡し調べて貰う事の順なのだが。手袋をする前に鞄から先程買ったチョコレートを取り出すと一つを相手に手渡しつつ「夜まで待てなかった。」肩を竦め、甘いそれを口の中に放り込み満足気に息を吐いて )
( 捜査協力に対する謝礼の意味を込めて店頭の菓子を購入したのだとすれば、相手の気分を害さないようにと随分気を遣った対応だと思って見ていたものの、そうでは無かったようで。執務室でチョコレートの包みを手渡されると、自分も其れを口に放り甘い味わいを堪能して。「糖分を摂ると幾らか頭が働くようになる。」と言いつつ、手袋を嵌めると包装紙の仕分けを始めて。---残っていたゴミは大量ではなく、おまけのチョコレートの包装紙は19枚。それを全て成分分析の部署に引き渡すと分析を依頼して。相手と共にデスクを挟んで座ると、必要な情報を整理する。「まず、現時点で最後に被害者が目撃されているのは事件当日の午後3時16分、シュガーリーの店だ。検視結果は明日には出るだろう、死亡推定時刻と擦り合わせる。後は死因の特定と、現場に残されていた薬の出所だな。不審な車や人物、物音に関する情報も地域住民から集めたい。」と告げて。検視結果が出る明日までに出来る事と言えば、不審な物を見聞きしていないかという聞き込みだろう。 )
__キャンディーを買った足で真っ直ぐ空き家に向かったのか、それとも何処か別の場所に立ち寄ったのか…死亡推定時刻が出ればある程度の足取りも掴めるだろうけど、それまでにもう少し情報が欲しいね。…薬瓶から誰かしらの指紋が出れば良いけど、そうじゃなきゃ病院をしらみ潰しって事にもなり兼ねない。
( 今現在の状況整理に相槌を打ちながら手元の手帳に視線を落とす。頭の中でお菓子屋周辺の凡その地図と、ミケルの家までの道筋、そして空き家までの道筋を思い浮かべながら次なる聞き込みの範囲を絞込みつつ「夜は、ジョイの働くお店の周辺の聞き込みに行って来る。」と、数時間後の予定を告げ顔を上げ。__デスクを挟み座る相手は至極真剣な顔をしている。孤高たる気高さの様な雰囲気を纏い捜査に打ち込むその姿の内に、秘めた繊細さや儚さがある事など、今の表情からは想像も出来ないと、今でも時折思う。僅かその顔を見詰め、「…調子は悪くない?」出た問い掛けは殆ど無意識下で音になったようなもので )
…解決の糸口になる情報が出れば良いんだが、
( 未だ分からない事が多い今回の事件。鑑識の捜査や検視結果から、事件の解決に繋がる情報が出れば良いと願わずにはいられない。相手の言うように今は聞き込みで地道に情報を集める以外無いだろうと頷いて。向かい合った相手の視線を感じて顔を上げると、相手と視線が重なる。何だと問い掛けようとしたものの、相手の方が先に言葉を紡いだ為それは音にはならず。「…問題ない、薬も飲んでる。」そう答えると、再び視線を資料に落として。一時幻覚を見るまでに悪化した症状はだいぶ落ち着き、普段通りに仕事をこなせる迄には回復していた。未だ疲れやすいのか、夜家に帰ってから感じる疲労は少し重くなっている気はするものの、日中に支障をきたす程では無い。薬をきちんと飲めば体調に問題はないだろうと。 )
( 一瞬重なった瞳は、相手が視線を落とした事で交わりを無くした。確かに痛みや目眩等を訴える姿を此処最近は見ていない為、相手の返事に素直に頷きそれ以上の心配や詮索をする事は無く。___その後、“解決の糸口”となる情報をどうにか得る為に暗くなった町へ。ジョイの働くお店周辺での聞き込みの結果は、捜査が大きく進展する様な有益な情報に恵まれなかった。けれど集合住宅が多く並ぶ付近での聞き込みの結果は別。“今回の犯行は自分がやった”と自白している“女の子”が居ると、被害者であるミケルと同年代の子供が居る親からの証言が数件出たのだ。大人では無い、女の子の自白…面白半分や軽い冗談のつもり、もしくは注目を浴びたい承認欲求の様なものによる作り話かと思うのが最初の正直な感想だった。___署に戻り、執務室の扉をノックする。「戻りました。」との挨拶の後、何とも曖昧な表情で「…エバンズさん、“女の子”が犯人の可能性ってあると思いますか?」と、何の前置きも無い唐突な問い掛けをして )
( ノックの後、聞き込みから戻ってきた相手が部屋に入って来て発した言葉に、思わず怪訝そうな表情を浮かべて顔を上げる。言葉を発した本人も曖昧な表情をしていて、“女の子”という言葉選びに「……犯人が子どもだという事か?」と尋ねて。子ども同士がふざけていて薬を誤飲した可能性は拭えないかもしれないが、外傷が見当たらない以上遊んでいる最中の事故というのは考えにくい。「子どもに関する証言でもあったか、」と、聞き込みで得た情報の説明を相手に求めて。 )
( 案の定此方の問い掛けに怪訝な表情を浮かべた相手に、曖昧な表情のまま「“本人”曰く。」と頷きながらデスクを挟んだ向かい側の席に腰掛け。「“自分が犯人だ”って話してる女の子が居るらしくて。子供の冗談のつもりだとは思うけど、それを聞いたのが1人や2人じゃないから、」子供の冗談だとしても笑える話では無いが、矢張り周囲にそれを言って回る行為はとても犯人だとは思えない。「…何方にせよ、検死結果が出ればわかる事だけど。」と、終わらせた後は、果たしてこの聞き込みの結果を相手はどう考えるのかと返事を待つ間を空けて )
( 地域を不安に陥れているであろう事件を、自分の仕業だと吹聴して回る子どもの存在と言うのは確かに気になるが、その証言があるからと言ってその子が犯人だと言う結論には至らない。例え子どもの不注意で起きた事故だったとしても大抵の場合は其れを隠蔽しようとする筈で、自分が殺したのだと周囲にまで誇示しているということは、注目を集める為の虚言だと考えるのが普通だろう。「気になる証言ではあるが______大方、注目を集めたくて言っているんだろう。証拠が出れば別だが、特段急いで被疑者としてマークする必要性は無さそうだな、」と、被疑者として捜査をする必要性までは現時点で感じないという判断を示し。---夜、そろそろ切り上げて帰ろうかという時分になって、不意に部屋がノックされ、入って来たのは検視官。『夜分にすみません、明かりが点いているのが見えたもので、早い方が良いかと…』少し早く結果が出た為夜のうちに渡せるならと思って持って来たという彼は、執務室の扉近くにいた相手に検視結果を記した書類を手渡して。 )
( 相手の意見もまた、注目を浴びる為の虚言だろとの事。「だね。」と同意を示す様に頷き、後は明日にでも出るだろう検死結果を待つだけだと帰り支度をしようとした矢先。部屋の扉がノックされ、続いて入って来たのは検視官だった。頭は自然と彼に向き、その言葉だけで渡された書類が何か直ぐにわかったものだから、お礼を述べた後、文字列に視線を落として。「__…午後3時から4時頃…、」先ず最初に目に入った死亡推定時刻を小さく呟き、紙を相手も見やすい様デスクに置く。「……薬の成分が検出されてないなら、あの抗うつ剤はたまたまって事?__これじゃあ死因が特定出来ない。」毒の成分は疎か、遺体の周りに散らばっていた薬の成分も検出されず、外傷も無い。加えて最も可能性の高い“窒息死”も除外されるのならば、死因については殆ど進展の無いままだ。思わず表情が険しくなり、隣の相手に視線を向ける。「…明日、司法解剖の許可をとりますか?」と、尋ねて )
( 検視結果が記された資料に目を通す。死亡推定時刻は分かったが、薬物や毒物の反応は無く外傷も無い。死因を特定する事が困難な結果に思わず眉を顰めて。「外傷が無く、毒物の反応も無い_____あの状況で自然死なんてあり得るか、?」当然殺人事件の可能性を視野に捜査を進めていた訳だが、死因の特定さえ困難な状況。偶然あの場所を訪れた少年が、偶然あの場所で体調を崩して亡くなるなんて事があり得るだろうか。少年の遺体の周りに散らばっていた薬はどう説明するのか。「…死因が特定出来ない以上、医者の見立ては必要だな。」と相手の言葉に同意を示して、司法解剖の申請を進めるよう指示を出して。全てがバラバラで真実が見えて来ない状況に、何か解決の糸口が無いかとここ迄の捜査記録と検視結果を照らし合わせて。---重たい疲労を感じてパソコンから目を離し時計を見上げると、日を跨いで少し経った頃。「……聞き込みと、司法解剖の結果待ちだな。死亡推定時刻を考えると、ほとんどあの周辺以外に移動している事は無いはずだ。エリアを絞って話を聞こう、母親にももう一度会いたい。」と告げ、今日は切り上げようと。 )
( 検死結果が出れば死因が特定され、少なからず犯人に近付くと思っていただけに、この予想外の結果には流石に困惑を隠し切れなかった。捜査の進展どころか、下手したら殺人事件だと言う見立てすらも間違いで振り出しに戻される可能性がある。「偶然が重なり過ぎてるし、抗うつ剤がたまたま遺体の周りに散らばったって言うのも、正直納得は出来ない。」と、矢張り疑問点は数多く残されていて“殺人”を除外する事は出来ないと首を横に振り。裁判所に司法解剖の許可をとる為の申請書諸々は明日の朝一番にやる事として、死亡推定時刻から、今度の聞き込みの範囲はかなり絞られる。被害者の家の周辺、空き家の周辺を重点的に聞き、相手の言う通り母親であるジョイにも再び話を聞く必要がありそうだと頷き、帰宅する事として。___家に着いた途端に襲い来る睡魔は、確かに疲労していた事を告げてきた。深く息を吐き出してから、身体が欲するままに淹れたのは蜂蜜たっぷりのホットミルク。それを作るのは幾ら疲れていても少しも苦にならないのだ。相手のは自分のより少しだけ甘さを控え目にして「…流石に予想外だったね。」と、マグカップを手渡しつつ、口にしたのは検死結果の内容に関する感想で )
( 相手と共に家に帰り、ソファに腰を下ろして背もたれに背中を預けるとどっと身体が重たくなるのを感じた。張っている肩を片手で軽く解していると、程なくキッチンから甘い香りが漂ってくる。ややして相手から差し出されたマグカップを礼を言って受け取ると「…殺人だとしても、あんなに綺麗な状態で殺せる手段が思い当たらない。毒物の類でも無いとなるとな、…」と、相手の言葉に同意を示しつつ見立てが見当違いだった検視結果を思い出し考え込む。甘いミルクを一口飲むと、張り詰めていた疲労は僅か和らぐ感覚があり、小さく息を吐いて。温かなホットミルクは、穏やかな眠気を引き連れて来る。睡眠薬は飲まずに眠る事が出来そうだと。 )
…極小量の毒を毎日摂取させて__いや、それだって体内に全く残ってない筈は無いか…。
( 相手の隣に腰掛け険しい表情で考え込む。これと言った薬物類の検出も無く外傷も無い状況で“殺人”として考え難いのは確か。けれど自然死と片付けるには余りに偶然が重なり過ぎている。甘くまろやかな白を胃に落とし、体内から柔らかな熱に包まれるのを感じながら思考を止めた。今あれこれ考えた所で何が進む訳でも無い。明日再び聞き込みをし、司法解剖の結果を待つ事が出来る事だろうと「…こんな時間だし、取り敢えずもう寝よう。」一度眉間を揉み解し、マグカップの中を飲み干して。それから眠る準備をして相手と共にベッドに入る。時刻は既に夜中の1時を過ぎた頃。ホットミルクの温かさがそのチカラを十分に発揮し、相手に訪れる睡眠が少しでも優しいものである様にと願いつつ瞳を閉じて )
( ____夜中に悪夢に魘され目を覚ましはしたものの、少しの息苦しさを感じゆっくりと呼吸を繰り返しているうちに意識は再び眠りに沈み、発作を起こしてしまう事はなく。---朝目覚めても身体が重い気がするのは、連日の捜査で少なからず疲れが溜まっているからだろう。出勤すると、司法解剖の申請書を相手が出したのを確認してから共に町へと出る。まずジョイの元へと向かうと、彼女は自分たちをリビングに通した後、少し表情を暗くした。『実は…少し前に女の子が家に来たんです。ミケルに会いたいって。ミケルよりは少し歳上の子でした。あの子は居ないと伝えると、”ミケルが居なくなって悲しい?どんな気持ち?“って、何度も聞かれました。ちょっと怖くなって……後で聞いたら、地域では有名な問題児だって。孤児院の子みたいでした。』と。その少女が、相手が昨日噂を聞いてきた“犯行を自供している少女”と同一人物だと考えるのが普通だろう。思わず相手と顔を見合わせて。 )
( 少女の自供は“注目を浴びたいが為のタチの悪い作り話”、そう思っていたがそれは間違いだったのかもしれない。実際に少女が犯人ではなくとも、何かしらの形で事件に関わっている、もしくは何かを知っていると考えるべき証言だ。相手と顔を見合せ幾許かの焦燥と驚愕を表情に浮かべるも直ぐに手帳を開くと「…その子の名前はわかりますか?」と問い掛ける。実際少女が名乗っていなかったとしても、それだけの問題児として有名ならば地域住人の誰かしらはわかる事だろう。「他にも、もし何か気になる事を言っていたなら教えて下さい。」遺体の周りに散らばっていた抗うつ剤の事、少女が本当に犯人ならばその動機や殺害方法___もし自分達警察しか知らない事を少女が口にしたとなれば、それは大きな証拠になる。何方にせよその少女から話を聞く為署に呼ぶ事は間違いないだろうが、その前に何かあれば、と )
( この事件の犯人は自分なのだと周囲に誇示するように吹聴し、被害者の遺族の元を訪れ接触を図ろうとする。余りにも堂々としていて、どうしても殺人を犯した者の行動には思えず考え込む。相手の問いにジョイは首を振り『名前はわかりません。それに、他には何も…帰るように言ったら大人しく帰って行きました。“孤児院の少し変わった女の子”って言えば、知っている人には通じると思います。』と答えて。未成年の子どもを、物的な証拠がない中すぐに署に連行する事は不可能だろう。先ずはその少女についての証言を集める必要がある。ジョイに礼を言い家を後にすると、「その少女についての話をもう少し集めたい。一度接触出来れば良いが、」と言いながら車に乗り込み。 )
( 結局少女の名前や別の情報は出なかった訳だが、ジョイの言った“孤児院の少し変わった女の子”と言うキーワードがあれば、近い内に少女の身元を判明する事は出来るだろう。車に乗り込み「署に連行出来るだけの証拠が見つかれば良いんだけど。」と、答えつつエンジンを掛け車を走らせた先は、昨晩聞き込みをし少女の話しが多く出た住宅街。付近には学校もあり、此処ならば少なからず有益な情報が得られる筈だと道路の脇に車を停め。「名前がわかれば、孤児院で探す事も出来る。手分けしよう。」この場所に1時間後に落ち合う事を決め、相手と反対側の道沿いでの聞き込みをする事に。結果的に得た情報は少女の名前は【リディア・オルセン】である事、問題児としてこの地域では有名である事、虚言癖があるだろう事、だった。地域住民も虚言癖を疑う程だと言う事は、矢張り少女の自供は余り信憑性が無いのかもしれない。1時間後に車に戻り、得た情報を相手と共有する。「…孤児院に事情を話して、任意同行出来ないかな、」と、まだ何も証拠が無い中だが相手同様、少女と接触をし、話を聞きたい旨を伝えて )
( 相手と同様、聞き込みで得た情報は彼女が地域では有名な問題児でいつも嘘を吐いているという事。事件に関わっているという言葉も聞いた人が何人か居たが、誰もそれを信じてはおらず“いつもの事”と流している様子だった。地域の孤児院に行けば、彼女に会う事はできるだろう。「話を聞くにしても、11歳を1人で署には連れて行けない。証拠が出ていない以上、まずは孤児院で話を聞くのに留めた方が良い。」と、慎重な姿勢を見せる。未成年、それもたった11歳の少女が相手なのだ。言動の真意は聞く必要があるが、先ずは孤児院で接触できれば良いと。 )
( 矢張り相手は慎重だった。証拠も無く、まだ11歳の少女を任意とは言え署に連れて行く事は様々な面をとってもリスクがあるだろう。「わかりました。」と食い下がる事なく頷くとこの地域の孤児院をスマートフォンで調べ。それは街中から少し外れた比較的閑静な場所にあった。周りは木々で囲まれており自然も豊か。航空写真で見るとどうやら近くには小川もあるようで庭が広い印象。___車を走らせ数十分後、孤児院に到着すると、出迎えてくれたのはこの孤児院の院長の女性で。丸い眼鏡の奥から覗く瞳は優しく、自分達に交互に視線を向けると、柔らかな口調で『こんにちは。此処の院長をやらせて貰っています、マリアです。』と名を名乗った後、『本日はどのようなご用件ですか?』と、問い掛けて )
( 自然豊かで閑静な場所にある孤児院。院長の女性に出迎えられると、警察手帳を示し「レイクウッド署のエバンズです。此方はミラー。此処にいるリディア・オルセンさんに話を聞きたいのですが。」と告げると、院長は表情を曇らせた。『リディアですか……あの、これ迄も刑事さんや役所の方が来た事がありますが、何も無かったんです。嘘を吐いて場を掻き乱している事は私どもも把握しています。私たちも手は尽くしているのですが、…』と答えて。どうやらこれまでも、彼女の吐いた嘘によって近くの警察署や役所が動いた事があったようで。彼女は未だ帰って来ていないと言われ、ロビーのソファを勧められ腰を下ろす。院長によると、動物を殺したと吹聴して実際に猫の死骸が見つかった事もあり、警察や役所が来たというのだ。証拠もなく“虚言”として片付けられたが、彼女の問題行動には手を焼いていると告げて。 )
( 少女の__“リディア”という名前を聞いた途端に表情を曇らせたその反応を見るだけで、彼女が相当の問題児だった事を直ぐに察する事が出来た。言葉を選ぶ様に、申し訳なさそうにリディアについて語り謝罪をする院長の表情は少しも晴れる事が無いものだから「謝らないで下さい、責めている訳ではないんです。」と、少しでも院長に纏う重たい空気が払拭されればと微笑み。けれど“動物を殺した”と吹聴する少女はどうしたって理解し難かった。それが本当だとして理由は何だ。“殺し”に美学でも感じているのか。まだ10を過ぎたばかりの子供が__。それに人殺しをしようとなんて思うのだろうか。それとも一緒に遊んでいた中で偶然__。様々な事が頭の中を巡り表情が険しくなる。「…2日前の、リディアさんの行動がわかる人は居ますか?」手帳を捲りつつ、持ち上げた視線を院長に合わせ、そう問い掛けて )
( 院長は相手の問いに控えめに首を振ると『院外での行動は、私たちにも分かりかねます。いつものように朝学校に行って、夕方ごろ帰って来たと思います。』と答えて。ちょうどその時、黒髪をおさげにした少女が入口の扉を開けて入ってくる。直ぐに院長が“リディア”と声を掛けた事で、この少女が探していた人物だと理解して。見た目は年相応な極普通の少女、といった印象だったが、此方に視線を向けた少女は何処か嬉しそうに表情を明るくした。院長の静止も聞かず此方に駆け寄ると『私に話を聞きに来たの?あの子の事でしょ、いつか来てくれると思ってたの!』と、まるで楽しい話をするかのように声を弾ませて。『院長先生、私1人で大丈夫。ちゃんと話を聞くから。』と、自分1人で大丈夫だと言って院長を立たせるとソファに座って鞄を隣に置き。対面した2人を興味深そうに見つめ、『お姉さんも刑事なの?』と相手に尋ねて。 )
( 孤児院なのだから刑務所とは違い、1人1人の1日の行動の全てを把握している訳では無かった。これは矢張り少女から話を聞き、その中でどれが嘘でどれが真実かを確りと見定めなければならないと思った矢先。院長が肩越しに視線を向け“リディア”と口にした事で、自然と頭は扉の方へ。そこに立つのは長い睫毛に縁取られた大きな瞳を持つ少女。お人形の様だと形容出来る程整った顔立ちで、笑った顔は年相応に幼く可愛らしい。この子がリディア___と、目前のソファに腰掛ける様子を頭を戻し見詰め、軽く微笑む。“あの子”とは間違いなくミケルの事だろう。「そうよ、私はミラーで、彼はエバンズ。」興味深そうな視線を受け止め、問い掛けに頷き肯定すると、己と隣に座る相手の名を告げた後「“あの子”ってミケル君の事?お友達?」と、口元の笑みを消さぬまま、怖がらせない様にという配慮から至極穏やかな優しい口調で問い掛けて )
リディア・オルセン
( ミラーと名乗った女性刑事は、敵意のない表情で自分を真っ直ぐに見つめていた。緑色の瞳が綺麗だなとか、自分とは反対のシルバーの髪が素敵だなとか、そんな憧れを持って目の前の相手を見つめて。隣の男性刑事はあまり友好的な雰囲気ではなく、見定めるような冷たい瞳をちらりと見ただけで直ぐに相手に視線を戻し。『友達かどうかは分からない。けど時々会ってたの。あの子も1人でよく遊んでたから。でも死んじゃった、私が殺したんだけど。』と、スラスラと惑う事もなく言葉を紡ぐ。『だから、早く警察が私の事を見つけてくれないかなってずっと思ってたの。ねぇ、これって取り調べ?』相変わらず一切の怯えも罪悪感も感じさせない口調で、楽しい話をするように会話を続けて。 )
( “友達かどうかはわからない”は恐らく真実だろう。けれど続いた“私が殺した”と言う告白はどうだろうか。一瞬空気が凍り、隣の相手の放つ圧が鋭さを増した気がした。リディアの表情や声色に変化は無く、相変わらず楽しそうなままで、11歳の少女を前に初めて不気味だと思ったかもしれない。__ふ、と“知っている”と感覚的に思ったが明確な答えは出ないまま。「……、…何で殺しちゃったの?喧嘩した?」暫く何と返すべきか返答に迷い、薄く開いた唇から音が出る事は無かったが、ややして“その部分”を信じたと捉える事の出来る問いを重ねて。「今日はただ話を聞きに来たの。“取り調べ”は警察署に行かなきゃ駄目なんだ。」楽しく、好奇心に溢れた様な少女の言葉は、それだけを聞けば矢張り殺人を犯したとは思えない。“警察署”と言う単語を出しつつ、様子を伺って )
リディア・オルセン
( 周りの人間は皆、自分の言葉を嘘だと信じて初めから取り合わない。何を言っているのかと、嫌悪を持った視線を投げ掛けられるばかり。だが、目の前の相手はどうだろう。はなから嘘だと決めつける事なく、自分の話を聞いてくれる。『ううん、喧嘩はしてない。興味があったの、死んだらどうなるんだろうって。それを見てみたくて。人が死ぬのって一瞬なのね、』と、相手の質問に素直に答える。誰も見てくれない自分を、相手はきちんと見てくれていると感じた。『なーんだ、そうなの。私、警察署行っても良いよ。』一切動じる事無く告げれば、その言葉に被せるようにして「____どうやって殺した?」と、相手の隣の刑事が問いかける。子どもを前にしているとは思えない鋭い目、少し隈が目立つ。優しさの無い冷たい空気感があまり好きではなかった。『…それを推理するのが警察じゃないの?』とだけ答えると、直ぐに相手に視線を戻す。『ね、お姉さんも推理するんでしょ?ミステリー小説の探偵みたいに、』と打って変わって明るい表情を見せて。 )
( “興味”で殺人等出来るだろうか。こんなにも幼い少女が。罪悪感も躊躇いも感じさせない、まるで御伽噺でも語るかの様な口調と心底楽しげな表情__矢張り“虚言”なのではと疑ってしまうのが普通の反応な気がした。少女の言葉に返事をする事無く一度落とした瞳の奥には表現し難い感情が乗る。__刹那、隣から聞こえた相手の声は、その顔を見なくともわかるくらいに冷たく放たれた。子供相手に向けるとは思えない程に鋭い瞳は、聴取の時の容疑者に向けるものと同じだろう。一瞬にして空気が変わり、重たい圧を真正面から受ける容疑者は、例え大人であっても言葉が出なくなったり嘘を吐けなくなったりする、或る意味“恐怖”を抱くのだ。相手の取り調べがそれ程までに厳しく恐ろしい事は己が良く知っている。けれどこの少女は涙を浮かべるでも、怯えるでも無く問い掛けをはぐらかし、あろう事か笑みさえ浮かべる始末。「__そうだね。犯人に繋がる証拠を見付けて、現場の状況から、その時何があったのかを考える。…私達は刑事だから、犯人を逮捕して罪を償わせるの。そこが探偵との違い。」視線を持ち上げ、少女を真っ直ぐに見詰めながら一言一言を静かに落とす。未成年の少女を署に連れて行けるだけの確実な証拠を見つけなければ、そう強く思うのは“虚言”と片付けられない何かを感じるからだろうか )
リディア・オルセン
( 相手の言葉を聞いて少し首を傾げると『じゃあ、私に繋がる証拠が現場にあったの?その時何があったのか、考えてみて分かった?』と尋ねる。純粋な好奇心、同時に煽る様な色も僅かに混ざっただろうか。自分に気付いて欲しくて、わざわざ証拠まで残したのに。母親が遺した薬の瓶をひっくり返し薬剤をばら撒いたのは、現場を“それっぽく”する為だった。---話をしている内に、目の前のミラーという女性刑事ともっと話がしたいと感じるようになっていた。誰も聞こうともしなかった自分の話に耳を傾け、自分の目を見てくれる。彼女は、自分を“見つけて”くれる。小さな“執着”の芽が胸の内に芽生えた瞬間だったのかもしれない。隣に座る男性刑事が邪魔だと思ったものの、この状況で催眠術を掛ければ彼女からも怪しまれるだろうと思い、目を合わせる事をせず相手と2人の対話を続けて。 )
( “やりにくい”。少女と顔を合わせ会話を続ける中で消えぬ正直な気持ち。純粋な好奇心と楽しげな色の中に混ざる煽りに気が付いた時、僅かに眉が微動した。「いいえ、まだ何もわからない。だからリディアちゃん、貴方が犯人だと言う証拠も何一つ見付かってないの。」返したのは素直な現状。捜査状況をペラペラと喋る事は良いとされていない事はわかっているが、これが適切だと思ったのだ。「だから、貴女を警察署に呼んだ時は、その証拠が見付かった時。__1つ教えてくれる?私が見て来た多くの人達は、悪い事をしたらそれを隠そうとしたの、でも貴女は違う。…逮捕されたい?」手元の手帳を閉じて、少しばかり重心を前に。僅か縮まった少女との距離の中で、何より一番理解の出来ない箇所の問い掛けを )
リディア・オルセン
( 相手の言葉を聞いて少しムッとした表情を浮かべる。これ程自分が犯人だと声高に言っているのに、この自供が証拠になるというのに、相手もまた自分の言葉を信じてはくれないのかと。『私の証言は証拠にならないのね、』とつまらなそうに言うとソファの上で足をぶらぶらさせる。続いた問い掛けには少し首を傾げ『隠す事なんてしないわ。私は“見つけて欲しい”だけ。何千人も、何万人もいる人の中から、私だけを見つけて欲しいの。あなたがやったのねって、選ばれる1人になりたいの。』と答える。自分だけを見て欲しいという歪んだ欲望を、純粋に口にする。生まれた時から誰も自分を見てはくれなかった、自分の存在を認めてくれなかった。だから、見つけて欲しいのだ。『逮捕されても別に良いわ、此処とそう変わらないだろうから。』と答えてソファから飛び降りると、『証拠を見つけて、また来てね。次はお姉さんだけで。』と相手に笑顔を見せて、部屋の方へと帰って行き。 )
( ここはまだ余り知識の無い11歳の子供だ、真実を話せばそれが証拠になると思っている。言葉だけでは証拠にならず、逮捕するには絶対的な物的証拠が必要なのだが。会話を始めてから初めて見せた、笑顔ではない不貞腐れた様な表情が11歳の本来の顔をチラつかせている気がした。そうして続けられた“見付けて欲しい”という願い。それは“私を見て”と言う心の叫びと同類ではないのか。“やりにくさ”がまた別の角度から顔を覗かせた事で、一瞬言葉が詰まるのだが、その間に少女はソファを飛び降り部屋の方へと帰って行く。ちゃっかりと次に会う時の約束までを取り付けて。「……やりにくい、」少女の姿が見えなくなった事で、胸にあった、最後まで残り続けた気持ちが小さな呟きとして落ちた。独り言の様な言葉の後に深く息を吐き出しては、「署に戻ろう、」と何とも言えない複雑な気持ちを抱えたままソファから立ち上がって )
( 終始相手のペースで話を進められている感覚。聞きたい事は飄々とはぐらかされ、自分の主張を貫き此方を翻弄する。似たような聴取をかつてした事がある、と思った。たった11歳の少女ではあるが、本質はあの男に似ている______危険な少女だと、直感的に感じた。リディアが重要参考人である事は確かだが、虚言癖のある子ども。明らかな物的な証拠がない限り、彼女を犯人だと結論付けるのは不可能だろう。「…侮れないな、」と、相手の本音に同意するように頷きつつ、また話を聞きに来ると院長に告げ孤児院を出る。車に戻る道すがら、部屋の窓から少女が此方を見つめていた事には気付かず、相手と共に署へと戻り。---妙な空気感に気を張っていたのか、執務室で思わず深い溜め息を吐く。僅かな痛みが出ていた鳩尾を無意識に軽く摩りつつ、眼鏡を掛けて検視結果の資料に再び目を通し。受信したメールを開くと“現場の薬瓶からは子どもの指紋が検出された”という報告の文章。リディアが持ち込んだ可能性は高いが、これが明らかな証拠だと手放しに喜べないのは、被害者の死因に薬は関係なかったから。指紋が一致したとして、彼女が現場に行った証拠にはなるが、殺人の証拠にはならないと再び深い溜め息を。 )
( 署に戻り、執務室で相手が鳩尾の付近を擦っていた事には気が付いていた。恐らくまだ軽いものかもしれないが痛みを感じているのだろう。___此処で遺体の周りに散らばっていた抗うつ剤の瓶から指紋が出た事が新たにわかった訳だが、“殺人の証拠”にはならない。間違いのない死因が特定出来ない以上、リディアが何を言い続けた所で100%の自白にはならないのだ。「…明日、瓶から出た指紋の話で署に呼ぶ?殺人の証拠としては弱いけど、私はあの子が無関係だとは思えない。」相手の向かいでキーボードを打ちながら一度顔を上げそう告げた後、また視線を画面へ。リディア・オルセン__彼女との話の後、院長に聞いたのは過去の一部。幼い頃に虐待をされ、母親は自殺。引き取り手が居ない為に孤児院で暮らす事になったと。“私を見て”という叫びは、遣り方こそ間違いなれど彼女の心の全てなのだろう。それが何処かで歪んだ。寂しい、悲しい、苦しい、そういった負の感情が真っ直ぐな形で表される事の無かった状態が、今なのかもしれないと )
( 相手の言う通り、現場に指紋が残されているというのは署に呼ぶ口実にはなる。「…そうだな。本人も事情聴取を嫌がってる訳じゃない、院長にも話をすれば了承は得られるだろう。」と同意を示して。未成年の為、強制的に事情を聞く訳にはいかないが、保護者がわりである孤児院の院長と彼女自身の同意があれば問題は無いと。現場に意味ありげに残されていた薬瓶と彼女の指紋、死因を特定できない少年の遺体、少女の理解に苦しむ言動の数々。それぞれがバラバラで捜査にも進展がない事は気持ちを焦らせた。その焦燥感が痛みを引き連れて来て気が散る。彼女の瞳が、口ぶりが、あの男を思わせるものだった事も負担になっているのかもしれない。彼女の聴取と、司法解剖の結果次第で事が少しでも動けば良いのだがと思わずにはいられず。 )
( 少女自身、あの感じならば何の躊躇いも無く署に来るだろうし、院長も捜査協力を惜しまない人の様に思えた。何かが大きく変わるとすれば明日の事情聴取と司法解剖の結果次第だろうと相手と同じ様な事を思いながらパソコンの電源を落とし。___時刻は午後4時。明日の聴取の為今日はもう帰ろうと相手と共に帰宅する。数十分で着いた家の中はひんやりとしていて、ヒーターを点ければ小さな起動音が部屋を包んだ。ソファの背凭れに掛けてあった膝掛けを相手に手渡し、少しだけ距離を詰める様にして相手の隣に腰掛けると、膝掛けの上から相手の鳩尾付近にそろりと触れ。「…何飲みたい?」痛みを感じぬ様、殆ど力の入れていない加減で掌を動かしながら問い掛けた声は穏やかなもの。捜査に大きな進展が無い事、掴み所の無い少女の存在、謎の死因、全てが嫌な感覚を引き連れて来ている事は明白で )
( 明日に備え、珍しく相手と共に仕事を早く切り上げて帰宅する。ソファに腰を下ろし、手渡された膝掛けを受け取ると相手の手は痛みを感じていた鳩尾へ。痛む箇所へと手を伸ばされても身構える事をしなかったのは、これまでの経験が培ったある種の“信頼“か。自分では痛みを訴えた覚えがなく、何故気付いたのかと思ったものの問い掛けには「…温かいミルクティーが飲みたい、」と素直に答える。湯を沸かしキッチンでマグカップの準備をする相手を眺めながら、リディアの事を思い出していた。ほんの11歳の少女だが、彼女は侮れない。あの男によく似た言動をする_______いつだったか、鳩尾を押さえ付け耐え難い痛みを与えられた事を思い出して背筋が冷たくなる。「…”あいつ“の取り調べを思い出した。」と、徐に言葉を紡ぐ。きっと彼とリディアの似た空気感のようなものは相手も感じていただろうと。 )
( 相手の望む通り優しい甘さのミルクティーを用意している背後から、ふいに掛けられた言葉に動きが止まった。“あいつ”が誰を指して居るのか__あの奇妙な類似感の正体がはっきりとし、自然と表情は固くなる。相手の心を躊躇いの無い鋭利な刃物で切り付け苦しみの底に落とし続けようとする男。害など有りませんという様な人の良い笑顔の裏に、明確な悪意や歪みを潜ませ、相手に執着し続ける。「…余りに似すぎてたね。」と、彼の姿を思い出し僅かの嫌悪が滲む表情を隠す事もせずに頷きつつ。マグカップを手渡し隣に腰掛けては「あの子が本当に今回の事件の犯人だとしたら、論理感や道徳観が欠落しているのは間違いない。…でも__甘いってわかってるし、だから人を殺して良いって事には勿論ならないけど、寂しいのかなって…、」相手と同じものを淹れたマグカップの、そのまろやかな水面を見詰め、自身の心の内にある葛藤の様な気持ちを吐露して。それと同時に別れる最後、リディアが口にした“次はお姉さんだけで”と言う言葉が妙に耳に残っており。それは単に懐かれたからなのか、それともこの女刑事なら良いように出来ると思われたからなのか。「…実はクラークと繋がっていた、なんて事ないよね。」と、肩を竦めつつ、ミルクティーを一口飲んで )
( 複雑な家庭環境、心を殺すしか無かった過去の経験が彼女の本質を歪ませた。残虐な事件を起こした犯人が過去に暗い影を抱えているというのは往々にしてある事で、その事実にやるせなさを感じるのは理解できる感情だった。「彼女の年齢を考えると…心を歪ませたのは、間違いなく周囲の大人たちだからな、」と、相手の葛藤にも多少の理解を示して。「あいつの取り調べはお前の方が適任だ。俺も同席はするが、聴取はお前に一任する。」此方をちらりと見たリディアの冷めた目を思い出し、彼女を署に呼んでの聴取は相手に委ねる事を告げて。クラークとの繋がりを疑う言葉には「______流石に無いだろう。あいつは子どもをどうこう出来るタマじゃない。」とだけ答えておき。温かいミルクティーは疲弊していた心身を緩め、少しばかり痛みも和らいだように感じられた。明日の聴取に備えて、今日はいつもより早く休んだ方が良いだろう。 )
( 中でも虐待と母親の自殺は少女の心を歪ませるには十分だった筈。此方に向けられた理解の言葉に僅か表情を緩ませ頷き。その表情が引き締まったのは聴取一任を告げられたから。相手が隣に座っていてくれるだけで心強いものではあるが、容疑者はあの掴み所の無い何が嘘で何が本当かもわからぬ少女。より気を引き締めなければならない。「…後は院長がなんて言うか、」リディア本人だけならふたつ返事でYESと答えて来るだろうが、未成年で院長が保護者代わりのなっている以上彼女の許可取りも必要だ。あの感じであるならほぼ100%の確率で許可をしてくれるとは思うが何があるかはわからない。ミルクティーを啜りながらリディアの顔とクラークの顔を交互に思い出し、相手がそう言うならそうなのかもしれないと納得を。___そうして迎えた聴取当日。昨晩はお互い早めの就寝をして、午前中の内に孤児院に行けば案の定リディアは躊躇いの無いYESの返事を、院長もまた困惑こそしたが首を縦に振ってくれた。___2人が署に来たのはお昼過ぎ。院長の同席を最初は考えていたのだが、孤児院で話した時の感じとリディア本人の申し出から彼女1人での聴取が決定し。黙秘権を行使出来る旨の説明をした後、目前に座る少女を真っ直ぐに見詰めると「…現場にあった薬瓶から、リディアちゃん、貴女の指紋が検出されました。あれは貴女ので間違いない?」先ずは出たばかりの指紋証拠の話から始めて )
( 署にやってきたリディアを取調室に通し、相手と共に再び対面する。無機質な取調室に入っても尚、彼女の調子は変わらず『次はお姉さんだけでって言ったのに。』と不服そうに言いながら、足の付かない椅子に座り足をぶらぶら動かして。此方をちらりと見る視線には、明らかに邪魔者を見るような色が浮かんでいる。証拠が見つかった時に呼ぶ、と言われた事を覚えていたのだろう。薬瓶の話をされても全く動じる事もなく『そうよ、あれはお母さんの薬。家にあったから、孤児院に行く時に持ってきたの。ただ子どもが倒れてるだけより、薬が散らばってた方が事件っぽいでしょ?私は使わないし。』と答えて。 )
( 確かに“1人で”と言う話は出たが勿論約束した訳ではない。その部分に返事はせずに、誤魔化すでも否定するでも無くあっさりと薬瓶の所持を認めた様子を見据え。その話が本当ならば彼女の指紋が出た事も、遺体から薬物反応が検出されなかった理由も頷ける。「…確かに事件を複雑には出来たかもしれない。でも、お母さんの物だったのに良かったの?あんな風に捨てちゃって。」事件を“それっぽく”する為だけに、亡き母親の私物をあんな風に扱えるものなのか。勿論過去に虐待があった事は把握済みの元、少女の心の内を覗こうと )
リディア・オルセン
( 目的は犯行を隠し通す事ではない。むしろ現場に自分の痕跡を残し、自分がやったのだと声を大にして主張し、見つけて貰いたかった。自分がやった事なのだとアピールしたかったのだ。だから手袋もせずに触った薬瓶をそのまま現場に放置した。『別に良いの、』とだけ相手の問いに答えると、瞳にぐっと影が射す。『あんな物飲んだって何の意味も無かった。結局私を散々苦しめて、最後は自分で飛び降りて死んじゃったんだから。…でも、返してくれるって言うなら貰うわ。親の遺品を大切に持ってる女の子なんて、健気でしょ?』最後には普段通りの明るさを持って、冗談めかしたように告げる。子どもには抱えきれない程の負の感情を全て飲み込んだ結果、多少の事では心は傷まないし揺れ動かなくなったのだ。『ねぇ、お姉さん。私を逮捕する?子どもがサツジン犯だなんて、ニュースになるかしら。きっと、みんなが私の話をするわね。』笑顔で問い掛けても、相手が笑い掛けてくれる事はない。困惑したような憐れむような怒ったような、2人ともそんな顔をするばかりで。 )
( 感情の空気が僅かに変わった時、本人に認識はあるのか瞳の奥が翳る。それを見て、頭の片隅で一瞬クラークとの違いを思った。幼い心が抱えきれぬ程の傷を負い血を流し、それが治る間もなくまた新たな傷に晒される。そうやって長い時間を繰り返す内に、何時しか心は痛みを認識出来なくなる。まるで冷たい氷に覆われた様に__一瞬感情が引っ張られたのは、クラークと少女のでは無い別の類似感を覚えたから。細く息を吐き出す事で感情の揺れをおさめ、「今すぐには無理だけど、リディアちゃんが望むなら必ず返す。」“健気”に対しては触れぬまま、至極真剣な表情でたったそれだけを返した後。滲むのはおさえきれない複雑な感情。笑顔など返せる筈が無いではないか。「…貴女が殺人犯なら逮捕する。だから、正直に教えて欲しい。どうやってミケル君を殺したの?」自分を見て欲しい、と言う事に異様なまでに拘りその為なら手段を選ばない、きっとこの少女はそういう子だ。けれど笑顔の裏の顔を見れる程、時間を共にはしていない。以前相手も問うた問い掛けをもう一度投げ掛けながら、胸に巣食う靄掛かる嫌な感情を感じていて )
リディア・オルセン
( 事件を解決しようと奔走している2人だが、隠蔽しようとすらしていないにも関わらず核心を掴めてはいないようだった。『分からないの?なんにも隠してないのに、』と首を傾げつつも、相手になら話しても良いかと思い徐に身を乗り出す。相手の首に手を掛けようと腕を伸ばすと、突如横から伸びてきた手が其れを阻んだ。警戒心を隠そうともしない鋭い灰青色の瞳、自分の行動に危機感を感じて咄嗟に彼女を守ったつもりなのだろう。遮られた事で相手の首に手を添える事は叶わず身を乗り出すのを辞めると、自分の首に手を掛ける。『…こうやって首を絞めただけ。簡単でしょ、ずっと顔を見てたのよ。命が消える瞬間を見てたの、』と答えてにっこり微笑んで見せ。 )
( “隠していないから”より複雑になっているのだと頭の片隅で思った刹那、身を乗り出した少女の腕が躊躇いなく此方に伸びたのを捉え、反射的に僅か身を仰け反らけるのだが。その手が此方に届く前に横から長い指が少女の細い腕を掴んだ。一瞬にして緊張に包まれた取り調べ室の中で、息を飲み隣の相手に頭を向けると、鋭い眼光を宿した横顔が映りそれだけで安堵が胸に落ちる。深呼吸一つで気持ちを立て直し、再び目前の少女を見据え「…途中で、やめようとは思わなかった?」既に出ている検死結果から絞殺の可能性は無いとされていながらも瞳には僅かに怒りの色が乗る。___と、その時、取り調べ室の扉がノックされ隙間から署員が顔を覗かせた。『警部補、ちょっと、』室内をぐるりと見回し相手に視線を向けると、扉の所まで来た相手に【イーサン・キャロル医師】が書いた司法解剖結果の書類を手渡しつつ何とも言えない微妙な表情を浮かべて )
( 目の前の相手の瞳には怒りに似た色が浮かんでいる。『別に、思わなかったわ。目の前で命が消えるのを見る機会なんてないから、美しいと思ったの。』と、悪びれる事もなく答えて。---取調室の扉が叩かれ、顔を覗かせたのは捜査官の1人。視線が合い呼ばれると立ち上がって扉に近づく。手渡されたのは司法解剖の結果。目を通し、思わず眉間に皺が寄る。医師の判断によって導き出された死因は自然死______つまり事件性そのものが否定された事になる。捜査自体が必要なくなるという事だ。幾ら少女の証言があれど、その犯行を証拠づけるものはない。薬瓶の指紋も殺害に直結するものではないという判断になるだろう。この状況では何を言おうと、捜査の継続が不可能な事は長年刑事事件に携わってきた為理解できた。「…分かった、下がって良い。」と捜査官に告げると、取り調べが行われているデスクに戻り、録音を停止する。「お前の言い分は分かったが、もう帰って良い。」と一方的に告げ。 )
( 少女の感性はどうしたって理解出来ない。尚も問い掛けを続けようとしたが、それよりも先に今まで一言も言葉を発さなかった相手が一方的な聴取終了を告げた。それが相手を揺さぶる目的では無い事は声色からも録音を停止したその行動からも伝わるのだが。「待って下さい、まだ聞きたい事が__、」流石に納得がいかないと声を上げようとして、語尾が萎んだのは先程捜査官が持って来た書類を見せられたから。“自然死”その文字が何を意味するか…この聴取だけでは無く事件捜査そのものの終了だ。真実はどうであれ目の前の子供は殺人を認めているのに。思わず困惑と不服の滲む表情で相手を見るが、こうなってしまえば捜査続行は不可能で、どうする事も出来ない。リディアもまた受け入れ難いとばかりに椅子から飛び降りると、『何でよ、私の事逮捕するんでしょ?だから此処に呼んだんでしょ!?』相手の態度も、冷たい瞳も、一方的な聴取終了も、何もかもが気に入らないとばかりに詰め寄って )
( 相手は書類を見て、捜査が打ち切りとなる事を直ぐに理解したようだった。聴取を切り上げる事について不服だとばかりに詰め寄った少女は、先ほどまでとは違い素直な感情を露わにしていた。彼女が関わっている可能性は十分に考えられたが、真相は闇の中。「お前がどう言おうと、聴取は終了だ。逮捕はしない、大人しく孤児院に戻れ。」と、少女を見下ろして淡々と告げて。犯人だと認められる事、自分の仕業だと公になる事をたった11歳の彼女は望んでいたが、良いか悪いか其の歪な願望は叶わない。最後まで自分への反抗的な態度を崩さず此方を睨みつけていた少女は、院長に連れられて署を後にして。---ミケルの母親に、医師の判断により突然死と結論付けられた事を伝えた帰り道。納得がいかないのだろう、本当に事件性は無いのかと何度も尋ねられ、リディアについても調べて欲しいと訴える母親に捜査の終了を伝えるのは精神を擦り減らすものだった。車を止めたコンビニの駐車場で、溜め息と共に背凭れを倒す。拭きれない不完全燃焼感を感じ、直ぐに署に戻る気にはなれない。沈黙の車内には重い空気が漂い。 )
( ___“自然死”の結果、捜査終了を告げた時の保護者の反応は真逆だった。殺人事件は痛ましい事であるものの、院長は緊張の中に隠しきれない安堵の色を滲ませ、ジョイは対照的に涙を浮かべながら捜査続行を訴えた。___重たい空気が充満する車内、互いにやり切れない気持ちを抱えたまま暫く無言で居たものの、暫くしてシートベルトを外すと「…コーヒー買って来るね。」と一言告げ店内へ。相手用の微糖と何だか物凄く苦い物を飲み下したい気持ちで無糖のコーヒーを買い車内に戻れば、微糖の缶を相手に手渡しつつ、プルタブを開け中の黒を呷り。普段は絶対に飲まないそれは僅かの甘みも感じさせる事無く胃に落ち、舌に残る苦味に顔を顰めるのだが、甘さが欲しいとは思わなかった。味わうでも無く流し込む勢いで一気に飲み干した後、前を見据えたまま「…流石に苦しい、」と、本当に苦しく悲しいのはジョイだと思いつつも素直な感情を口にして )
( 相手が買ってきた微糖のコーヒーの缶を開け、中身を呷る。少女の供述を全て信じ切る事は出来ないながらも、もう少し詳しく調べる必要はあると感じていた。だからこそ、強制的に捜査を終了せざるを得ない状況に蟠りが残るというのには同意でき。しかしこうなって仕舞えば新たな証拠や他殺の可能性を立証できない限りは現場でどうこう出来る事ではないと理解しているからこそ、互いにやりきれない思いを抱えながら手にした缶に視線を落とす事しかできずに。---ミケルの一件が事件性のない突然死と判断されて数週間。緊急性の高い立て篭もり事件として、刑事課に連絡が入る。雑貨や食品を扱う小さなマーケットから、少女の声で助けて欲しいと通報が入ったというのだ。店員とみられる男が居ない隙を見て電話をしたという少女は、怖いから女の人に助けに来て欲しいと訴えたと______其れによって白羽の矢が立ったのがミラーで、相手と共に現場に急行する事となり。 )
( 何を言った所で覆る事は無い、強制的な捜査終了の嫌な余韻は数日続いた。けれど他の事件も舞い込んで来ると言うもので、漸く気持ちを切り替える事が出来たと感じた今日この日。立て篭もり事件の一報が入り現場に駆け付けた時には既に周りには人集りが出来ていて、既に到着済みの警察官の姿も。その内の1人の捜査官から、小学生くらいの女の子を人質に男が立て篭もっている事、男はこの店の店員で、説得にも聞く耳を持たず無言を貫いている事を告げられ緊張が走る。周囲にこれだけ警察官が居れば通報があった事は直ぐに男にもわかるだろうし、それによって人質に危害を加えられる可能性もあるだろう。少女の要望通り、女性である自分が出来る限りの事をしようと気を引き締め___硝子扉の奥の人の姿を視界に捉えた時、思わず驚愕から言葉が出なかった。人質となっている少女が、一週間前に聴取をした【リディア・オルセン】その子だったからだ。息を飲み、瞬間的に駆け巡った様々な感情を言葉では言い表す事が出来ない。「…エバンズさん、」思わず相手の名前を呼び、隣へと視線を向けて )
( 現場に到着し状況は把握したものの、中に居る男にどう接触したものかと考える。店員の男は説得にも応じず、一方で何かを主張する事もしない。何のために立て籠っているのかもわからない状況なのだ。そんな中で相手に名前を呼ばれ、相手の視線の先を見れば見知った少女の姿が見える。彼女もまた此方を見ていたのだが、視線が重なった瞬間、少しばかり瞳に敵意にも似た色が宿った事には気付かない。「……偶然か?この間の今日で再会するとは思わなかったが、」と言葉を紡ぐ。つまり“女性の刑事を”と要望を述べたのはリディアだった訳で、やはり相手に執着しているようにも感じられるがただ不安だったのかもしれないとも思う。男が要望を言わない以上、少しずつ近付いて、向こうの出方を伺いながら少女の救出を試みるべきだろう。「_____ミラー、行けるか?男の目的は分からないが…出方を伺いながら少女を助け出す。近づいて男が此方を威嚇するような行動を見せたら一度退け、」と指示を出して。 )
( 余りに短期間での予想外の再会に驚きはすれど、状況が状況なだけにそれ以上の感情が湧く事は無かった。少女が顔見知りであれ、今は兎に角人質となっているのだから無傷で保護する事が絶対的な第一優先だ。相手からの指示に「わかりました。」と、頭を縦に動かす事で問題無い事を示すと、大きく深呼吸をしてから緊張感の漂う空気の中、扉の方へゆっくりと歩みを進め。中程まで差し掛かっても男に特別大きな動きは無く静けさが漂うだけ。言い知れぬ不安感や焦燥感を胸に男から視線を外す事無く一歩、また一歩と足を動かし、手を伸ばせば扉に触れる事の出来る位置で一度足を止めると、視線を一瞬少女へと向け、“大丈夫”とでも言うかの様な目配せをして )
( 相手が歩みを進めても、男が大きく反応する様子は見られない。何を目的に少女を人質に立て籠ったのかが分からないものの、彼女も隙を見て逃げ出す事は出来ない状況でSOSを出したと考えると慎重に事を進める必要があった。---扉の直ぐ外までやって来た相手は、此方を見て目配せをする。危険を顧みずに自分を助けに来た相手は、いつも自分を気に掛けてくれる存在。あの男が一緒でなければ、相手はもっと自分だけを見てくれるのに、と独占欲のような感情が湧き起こる。店の中にいる男は此方に危害を加えるような事はしないし、元々立て篭もるつもりさえなかった筈で、ただ自分に操られてその場に留まっているだけ。相手が助けに来てくれれば、それがゴールなのだ。男に不審な動きが無いことから店内に入る事を許可された相手がゆっくり扉を開くと、『お姉さん…っ、怖かった、』と相手にしがみついて。 )
( 男の手元に拳銃など武器の類も確認出来ず、何か反応を示す事も無い。扉に手を掛け、開くと同時に僅かな音が鳴るがそれにも無反応。そのまるで人形の様な雰囲気に眉を顰めるも、それ以上を考える前に此方に駆けて来た少女が腰にしがみつけば、両腕でその小さな身体を受け止めると同時に店の外へと連れ出し扉から距離を取り。「もう大丈夫、何処も怪我してない?」安心させる様に微笑みながら軽く背中を撫で、地面に両膝をつく形で少女と目線の高さを合わせると、頭の天辺から足先までをざっと見、怪我の有無を確認し。人質である少女が店の外に出た事で店内に残る犯人の逮捕も直ぐだろう、後は他の警察官達に任せるとし立ち上がると少女の手を引き相手と視線を合わせるように振り返り問題無い事の表しで一つ頷いて見せて )
リディア・オルセン
( 自分を店の外へと連れ出し、膝を突いて目線の高さを合わせた相手を正面から見据える。綺麗なグリーンの瞳には自分の姿が映っていて、その感覚が初めてで喜びを感じた。相手の目に、今自分だけが映っている瞬間が嬉しかったのだ、此れまで誰も自分を真っ直ぐに見詰めたりしなかったから。そうして再び立ち上がった相手が此方を振り返った後に目配せをしたのは、遠くから此方の様子を窺う、あの男性刑事だった。途端に満たされていた心にはどす黒い靄が湧く。取調室でのあの時も、自分の行動を遮った彼に向けた視線には確かな信頼が宿っていた。思わず相手の手を引くと、振り返った相手を見つめる。『”お姉さんの大切な人が______私に危害を加えようとしてる“の!助けて、あの人に殺されちゃうかもしれない!』催眠を掛ける暗示として小さく指を鳴らしてから、顰めた声で相手に助けを求める。相手が彼に思いを寄せているなら_____催眠に掛かりさえすれば、彼を敵と見做すだろう。自分を守るために、腰に据えた拳銃を彼に向けるドラマチックな瞬間も見られるかもしれないと、無邪気な考えで心の内で笑みを浮かべて。 )
( 合わさる視線、その長い睫毛に縁取られた大きな瞳と緑眼が重なった瞬間、顰めた声で告げられたのは恐怖を孕んだ言葉。“大切な人”その一文だけが何故かはっきりとした音で鼓膜を揺らし___少女の細く小さな指が鳴らした音を最後に何故か意識に靄が掛かった。“あの男から少女を護らなければならない”まるで文章の様に頭に流れ込むそれは己の気持ちでは無いのにそれすらもわからないのだ。エバンズとリディアの間に立ちはだかり、少女を彼から護る様に片手で己の背後に隠す。明るい緑眼は暗く濁り、感情が抜け落ちた様な表情は宛ら人形。そうやって無言のままエバンズを見詰めると、腰に据えた拳銃を抜き、あろう事かその安全装置を外し銃口を真っ直ぐに彼へと向けて )
( 不気味なまでに立て籠っている男に動きがない事を不審に思いつつも、店内に入って直ぐに無事少女を助け出した相手は、そのまま何事も無く戻って来ると思われた。しかし、次に此方を見た相手の瞳には、一切の生気が無いように思えた。少女を背後に庇った後、腰の拳銃に手が伸びるのを見て一体何を考えているのかと言葉を失う。あの少女を救出すると言う目的は同じで、それは滞りなく遂行されようとしていた。それなのに一瞬で状況が変わり、気付けば拳銃の先は自分に向いているのだ。「_____ミラー、」と、相手を制止するように両手を軽く上げ、撃つなと牽制する。「何を考えてる、其れを下ろせ。」静かな口調で、冷静になるように促して。何が起きているのか理解が出来ずにいて。 )
( 一瞬にして誰もが理解出来ぬ方向に変わった状況。それを唯一理解しているのは、不敵な笑みを警察官からは見えぬ角度で浮かべる少女だけ。___相手が両手を上げ抵抗や危害を加える意思は何も無いと示しているにも関わらず、銃口は降りない。その事に周りに居た警察官達も騒めき、狼狽え、けれど、このままでは理解不能ながらエバンズが撃たれる可能性もあると、ミラーに銃口を向ける者も数名居た。余りに緊迫したこの状況でも相手の声は届かず、真っ白で無機質な空間に揺蕩う様な感覚は、何もかもを奪い去る。「……」相変わらず全くの表情の無い顔のまま、少女を背後に庇った状態で一歩、また一歩、と狭い歩幅で相手との距離を詰め、やがてその距離が拳銃を挟み大人1人分の間しか無い程に詰まった時、漸く足を止め「…動かないで。あの子に危害を加えるなら撃ちます。」と。その声は静かで、冷たく、まるで機械の様に抑揚の無いもので )
( 状況が全く読めないながらに緊迫した状況。少女に危害を加えるつもりなど毛頭無いのだが、相手は異様な迄に其れを警戒している様子だった。「______落ち着け、その子に危害を加えるつもりはない。」両手を挙げたままそう告げて、相手の言う通りにその場で静止する。「このまま動かない、お前が彼女を車に乗せてやれ。」危害を加えられることの無い安全な場所まで自分で誘導すれば良いと、自分は少女に関わるつもりはない事を伝えて。それでも相手が銃を下ろす事をしなければ「……撃つなよ、」と牽制した上で、腰の拳銃を外し地面に置く。今は店内で動かない男よりも此の状況の方がずっと危険だと判断しての行動だった。背後で控える警察官たちにも下がるよう合図をすると、同時に銃を下げ撃たないよう手で牽制する。足元に置いた、安全装置を付けたままの拳銃を警察官たちの側に軽く蹴り、改めて危険を及ぼす事は出来ないと示す。「丸腰だ、危害は加えない。何も心配することはない、」と、静かに語りかけるように言い聞かせて。 )
( 相手は確かに要望通りその場で静止した。彼女を車に、との言葉には首を縦に振る事も横に振る事も無くただ真っ直ぐに相手を見据えたままで居たものの。牽制の言葉と共に相手の手が腰の銃に伸びた時、一瞬だけ僅かに何かの感覚を感じたのだがそれが何かはわからなかった。『警部補!』と、周りの警察官達が銃を手放したその行為に危機感を覚え相手の名を叫んだが、重厚感のあるそれは既に相手の手を離れ地面に置かれた後で、張り裂けそうな緊張感は更に広がる事となり。___その一部始終を警察車両に乗る事も、何か言葉を発する事も無く口元に僅かな笑みを携えたまま見詰めるリディアの瞳には、今のこの状況が楽しくて仕方が無いと言った純粋で嬉々とした色が滲んでいて。___視線を逸らす事無く真っ直ぐに向けられる碧眼は静けさを湛えていて、言い聞かせる様に紡がれる言葉はこの状況であっても恐怖一つ滲まない冷静なもの。“心配する事はない”という音が鼓膜を揺らし、胸の奥に沈み、虹彩にじんわりと広がる光が戻った時。「…っ、」思わず身体が硬直した。視線がずれ、瞳に映る拳銃を認識し、次は両手が小刻みに震える。「…私……何を…、」状況を認識出来ぬまま、張り付く喉からかろうじてそれだけを発すると困惑と怯えと様々な感情が混じり合う瞳を向けて )
( 相手の瞳に光が戻ったのを感じると同時に、相手は手放した意識を取り戻したかのように、まるで今初めて自分で状況を理解したと言うような反応を示した。直感的に今の相手に危険は無いと判断すると、手を伸ばして此方に向けられている銃口を下に下げ、相手の手から受け取るように自然な動作で拳銃を取り上げる。安全装置を掛けてから「…その子を安全な車の中に。お前も一緒に居てやれ、」と告げて、少女を安心させる名目も兼ねて2人でパトカーの中に居るよう促す。そして警官たちに問題がない事を告げると、店内に1人残る店員への対応を続け。反応を示さず武器を手にしている訳でも無いため店内に入って確保する事とし、男は抵抗することもなくあっさり確保されて。---署に戻り、リディアと立て籠りの男、それぞれを聴取する必要がある中で、初めの聞き取りを一度別の刑事に任せて相手を待たせた部屋へと向かい。「______落ち着いたか、」扉を開けて中へと入ると、相手に尋ねてから椅子に腰を下ろして。 )
( ___覚えているのは背後に居た少女に呼ばれた事と、何かを鳴らす小さな音だけ。後は意識がまるで自分のものでは無い…更に言えば魂の抜け落ちた抜け殻の様な物体になった感覚の中を揺蕩い、次に気が付いた時は目前に相手が居てあろう事か自分はその相手に拳銃の先を向けていた。あんな至近距離で、安全装置も外し。___あの時の拳銃の重たさと、張り詰めた空気は例え動揺していても感じていた。それを思い出し背中から恐怖が駆け上がったその時、扉が開き相手が部屋に入って来ると自然と視線はそちらに向き。問い掛けに「…少しだけ。」と曖昧な微笑みと共に素直な返事を返した後、「__何であんな…エバンズさんに銃を向けたのか、幾ら考えてもわからないの。信じてもらえないだろうけど、気が付いたらあの状況で、」僅かに視線を落とし自分自身も未だ理解が出来ていないあの時の事を思い出しながは静かに話しつつ、最後にまた視線を持ち上げ「…誰も怪我してない?」と尋ねる。それはリディアの事、立て篭りの男の事、そうして己が相手を含めた誰かを傷付けていないかと暗に含めたもので )
( 相手と言い立て籠っていた男と言い、まるで抜け殻になったようで暗い目をしていた事を覚えている。「…あぁ、大丈夫だ。お前にも怪我が無くて良かった、…危険な状況だったからな。」と軽く肩を竦めつつ答えて。周囲に怪我は無かったものの、寧ろ相手が撃たれる可能性もゼロでは無い状況だったと。「あの瞬間、何を考えてた?」と相手に尋ねる。魂が抜け落ちたようなあの状況で、相手は何を考えていて、どういう判断で自分に銃口を向けたのかを知りたかった。「…男は相変わらずの調子だが、武器を所持していなかった。何も話さない理由は分からないが、“立て籠もり事件”についてはリディアの虚言の可能性は高い。事件をでっち上げたとなれば、然るべき機関に指導を委託する必要も出てくる。」と、状況を伝えて。少女から通報はあった事で事件として警察が出動したものの、結果的に男は武器を所持しておらず抵抗も見せていない。そもそも“立て籠もり事件”とは言えないという判断で、少女が虚偽の通報をしたという扱いになる可能性が高いと。彼女を巡り不穏な事件が多々あるというのは率直な感想で、溜め息を吐いて。 )
( 今なら相手の言う“危険な状況”がわかるのに、あの時はそれすらも理解していなかった。丸腰の相手に至近距離で拳銃を向け、背後に控える別の警察官が何時発砲しても可笑しく無い状況だったのに“何も見えなかった”のだ。あの場に居た誰もに怪我が無い事だけが唯一の救いだと軽く頷き、続けられた問い掛けに思案するのだが矢張り何も思い出す事は出来ない。「__…わからない。周りの音が何も聞こえなくて、エバンズさんを認識してたかどうかも、」首を横に振り、説明したくとも出来ないあの時の状況に、自分自身の行動や感情に、若干の苛立ちの色を含み答えるのだが。「…ただ、」と口にしたのは唯一覚えている事があったから。「あの子を守らなきゃって思ったの。そんな事絶対ある筈が無いのに、エバンズさんがあの子を傷付けるんじゃないかって。」普段ならば絶対にそんな事思わないのに、あの時は兎に角それに突き動かされた様に思う。何故そんな事を思ったのかは、また説明出来なかった。「…凄く嫌な感じがする。今のまま、何もせずに孤児院に帰す事には不安が残るし、指導や必要ならカウンセリングも…専門家の力が必要だと思う。」聞かされた状況も矢張り“少女の虚言”が引き起こしたもの、更には証言して欲しい男は沈黙を貫いたままとなれば、“此処”だけでは限界が来る。何となく胸の奥がザワザワと嫌な騒めき方をするのを押し込め「あの子の聴取は今誰がしてるの?」と尋ね。名前を聞き次第「私が代わりたい。」と、要望を )
( あり得る筈が無いと思いながらも、まるで少女に操られていたかのようだと感じた。守られるべき罪なき少女を自分が傷付けようとしていたら、確かに相手の行動は理解できる。しかし自分は彼女を傷付ける素振りも見せず、相手も何故そう思ったか説明ができないというのだから、不可思議な状況に変わりはなく。「今はアンバーが話を聞いている。」少女が男性刑事を警戒する事もあり、アンバーに一時的に対応を頼んでいると言いつつ相手が聴取を担当する事には賛成で相手を聴取室に連れて行き。扉を開けると、顔を上げたリディアがパッと表情を明るくして『お姉さん!』と声を上げた。立ち上がったアンバーは此方に近づいて少し声を顰めると『…すみません、警部補。今回の件については殆ど話して貰えませんでした。ミラーと話したいの一点張りで、』と申し訳なさそうに告げる。「…分かった。後は代わる、助かった。」と答えると、アンバーは軽く頭を下げそのまま部屋を出ていき。 )
( ___薄暗い独特な雰囲気を醸し出す聴取室。無垢な笑顔で会えた事が本当に嬉しいとばかりに声を上げた少女を一瞥し、部屋を出て行くアンバーの背中にお礼を述べて椅子に腰掛ける。目前の少女は矢張り無害そのものの幼い表情をするものだから、その赤く小さな唇の隙間を縫って発せられる危険な言葉の数々が一瞬霞むのだ。「…お店に居た男の人とは知り合い?」背凭れに浅く腰掛け、開口一番は挨拶でも怪我の心配でも無く問い掛け。別室に居る男が話をしない、ならばこの少女から全てを聞き出さなければと向ける瞳は普段よりも鋭いもので )
( テーブルで向き合った相手と少女、相手の隣ではなく少し後ろで椅子に腰を下ろし2人のやり取りを見守る。直ぐに向けられた“本題”に少しつまらなそうな表情をする少女を見て、やはりあの男に似ていると感じていた。『…知り合いじゃないわ。怒られたの、店の外で遊ぶなって。別にお店の中で騒いだり物を盗ったりした訳じゃないのに。』と、リディアは不服そうにそう答えた。『脅されてすごく怖かった。だからお姉さんが助けに来てくれて嬉しかったの。囚われたお姫様を助けにくる王子様みたいだったわ!』この場所、この状況に似つかわしくない明るい声でそう言った少女は、キラキラした目で相手を見つめる。羨望のような憧れのような、そんな年相応な少女の反応に思えた。 )
( “本題”を前に一瞬表情が変わった少女を見詰めたまま思案する。この子が望むのは堅苦しい会話や疑念が渦巻く空間では無く“愉しい”と感じられる会話や場所。現にまるで御伽噺を語る様な口振りの時は、こんなにも年相応にキラキラと瞳を輝かせるのだから。矢張り“やりにくい”と言う感情が消える事は無く「じゃああの男性は、リディアちゃんがお店の外で遊んでいたのに腹を立てて、立て篭ったの?…武器も持たず、扉に鍵も掛けないで?」一言一言を確認するようにゆっくり紡いでいく。少女は“脅された”と言うが、あの状況でそう捉える人はほぼ居ないだろう。「__今ね、違う部屋で別の警察官が男性に話を聞いてるんだけど、何も話してくれないみたいなの。リディアちゃんは、お店の中であの人と何か話した?」何処か恍惚な色にも見える光を蓄えた双眸から視線は外さず、少女の作った“物語”には触れぬまま更に質問を重ねて )
リディア・オルセン
( 実際は、怒られた事に腹を立てて男が立て籠もるよう“仕向けた”訳だが、相手の問いには少し首を傾げて『んー…まぁ、そんな所。』と曖昧な答えを。男にはまだ催眠術が掛かっているのだろう。何も話さないという言葉を聞くと少し肩を竦めて『ほとんど何も喋ってないわ。犯人が何も喋らないのって大変よね、』と他人事のように告げる。自分のように犯行を自供すれば相手のような刑事たちは助かるのだろうと子どもながらに考えたのだが、あの男は催眠から覚めても何も話せないだろうと思えば少し笑う。『あの人無口だから、きっと何も話せないわね。』と付け足して楽しそうに笑って。 )
( “何も話せない”理由は“無口”とは別の所にある気がしたが、それはあくまでも此方の勘繰りで実際には確かめる術の無い事。屈託の無い楽しげな笑顔を見詰め「…じゃあ、最後の質問。」と前置きをしてから少しだけ身体を前のめりに、少女に内緒話を持ち掛けるかの様に顔を近付け「__私に“何か”した?」と潜めた声で問い掛ける。それは後ろに控える相手には聞こえなくて良いと、まるで自分達2人だけの秘密の共有だとでも言うかのような行動で。少女を至近距離で見詰める緑眼には、意識的に刑事としての色を消し、少しの好奇心にも似た色を滲ませるだろう )
リディア・オルセン
( 不意にぐっと相手との距離が近づき、煌めくグリーンの瞳を間近で見る事になると少し驚いた年相応の表情を浮かべる。それも束の間、気付いてくれた事が嬉しいとばかりににっこりと微笑み『______私ね、“催眠術”が使えるの。』と声を潜めて答える。催眠術だなんて、大人は信じないだろうと相手の顔を見てくすくす笑う。相手は自力で催眠状態を解いてしまったし、きっと店員の男もそろそろ自然と意識を取り戻すだろう。『大人になったら、もっと長く掛けていられるようになるかしら。プリンセスを守る騎士みたいに、お姉さんが私を守ってくれたらもっと素敵だったのに。』無邪気な響きを持って紡いだ言葉は、逆を返せば“彼を撃てば良かったのに”という酷薄なもの。『もう一度やってみる?』と後ろの彼に視線を一瞬だけ向けて、楽しそうな瞳で相手を見つめて。 )
( 返って来たのは僅かも想像していなかった返事で、思わず至近距離で少女を見詰めたまま沈黙する。心理学的な話で言えば決して“催眠術”が嘘だとは言えないだろうし、実際医療で使う事があるのも知識としては知っているが___こんな幼い少女に出来るものだろうか。それこそ虚言なのではないかと瞳には僅かに疑念が浮かび。けれどもしその話が真実であるならば、あの状況で言葉を発する事も無く微動だにしなかった男性の事も、まるで意識を乗っ取られたかの様に記憶に靄が掛かり、意志とは関係無しにエバンズに銃を突きつけた己の行動も説明がつく。けれど…と。そんな事を考えている途中で、余りに無邪気に紡がれた次の言葉の裏がわかった途端に背筋が凍りついた。あんな距離で発砲しようものなら彼の命は無かったであろう。「っ、…もう結構よ、」瞳に滲んだ恐怖を隠しきれぬまま、静かに首を横に振り身体を引く。催眠術を信じた訳では無かったが、あの時の恐怖を思い出した事は確か。そして仮に催眠術が本当だったとして、それを証拠として少女を逮捕する事は出来ないのだから、どうしたって罰を受ける事は無いだろう。此方から聞く事はもう無いと、少し後ろに座る相手に目配せして )
( 相手が催眠術を信じたかは分からなかったが、もう一度彼に銃口を突き付けたいとは思わなかったようでつまらなそうに肩を竦めて見せ。まだ相手と話していたかったのに、それ以上深堀りされる事はなく聴取は終わろうとしていた。立ち上がった男性刑事が此方にやって来て「…今回の件は事件性の無い”虚偽の通報“として処理するが、連日のお前の問題行動は目に余る。一度然るべき機関でカウンセリングと指導を受けろ。話は付けてある。」と告げられる。その言葉に反応すると『カウンセリングなんていらない!勝手な事しないでよ!』と声を荒げて。『お姉さん、もう少し此処で話そう。何でも話すわ、あいつみたいに黙ったりしない。』相手の気を引こうと言葉を紡ぎながら、椅子から立ちあがろうとせず。 )
( 先程まで場違いなくらいニコニコと楽しげな笑みを浮かべたり、時に不貞腐れた子供の様に退屈を全面に押し出したりしていたのに___狭い聴取室に少女の荒らげた声が響いた。それは今まで椅子に腰掛け黙したまま成り行きを見るだけだった相手が、取り調べの終了と共に別の機関への委託の話を出したから。矢張り相手には物凄い敵意を剥き出しにするのだと改めて感じる中で、けれどその声には怒りの他に小さな苦しみの破片も見えた気がしたのだ。椅子から降りず部屋の中に居座ろうとする少女の目前に移動し、少し腰を折る形で目線の高さを近付ける。催眠術への、少女への、言い知れぬ恐怖が無くなった訳では無かったが、このまま此処で長いお喋りを続ける事は幾ら懇願されても出来ない。「お話は終わり。もう家に帰らないと、あまり遅くなったら皆心配するよ。」軽く片手を出し、少女がその手に小さな手を重ねるのならば共に部屋を出ようと )
( 先ほどまで相手に見せていたのとは180°違う剣幕で、カウンセリングなど不要だと喚く。警察を動かす程の虚言は子どもだからと許される物ではなく、周囲へ与える影響を理解させる必要があり適切な指導を受けさせるのが大人の義務でもあるだろう。嫌だと喚いていた少女だったが、相手が手を取ると途端に大人しくなる。相手の手を握り返し、少しして言われるがまま歩き始めると、扉を出る間際に此方に睨むような視線を一瞬向けて、部屋を出て行き。---立て籠もっていた男が証言を始めたと言う報告があったのは、その数分後だった。 )
( ___余りに長い時間だったように思えた。今まで沈黙を貫いていた男が急に話し始めたのもまた不可解で、矢張り少女の言った“催眠術”が関係しているのかもしれないと頭の片隅では100%の疑いは既に無くなっていて。「…相変わらず子供に好かれないね。」と、肩を竦め小さな戯言を口にしたのは、大きく纏わりつく疲労感や何かに飲み込まれてしまいそうな自身の気持ちを変えたかったからか。給湯室で淹れた紅茶を相手に手渡し、デスクを挟んだ向かい側のソファに腰掛けると「__あの子“催眠術”が使えるんだって。」唐突にそんな話をし、視線を持ち上げ。「今回の一連の騒動が全て“催眠術”によるものだって言われたら、エバンズさん信じる?」果たして相手はこう言った類の話を信じるのかと表情を伺い見る様に首を擡げて )
( ようやく一段落して執務室に戻ってくると、どっと疲労感を感じる。椅子に腰を下ろし背中を預けると深い息を吐き、相手が給湯室から戻ってきて紅茶を手渡されると礼を言って其れを受け取り。「…好かれないどころか、嫌われてるな、」と肩を竦めつつ紅茶を啜る。相手が切り出した話には思わず眉を顰め、相手と視線を重ねた。催眠術を使って人を操り、立て籠もり事件が起きたかのように装い、更に相手に自分へと銃口を突きつけさせたと言うのか。「…そんな事があり得るのか、?」と疑問を口にしたものの、不可解な現象は全て説明がついてしまう。相手が突然自分に銃口を突き付け、少女を守らなければという使命感に突如駆られた理由も、何も反応を示さなかった男がふと我に帰ったように話を始め、何も覚えていないと語る理由も。「いつもの虚言の可能性は高いが…完全にあり得ないとも言い切れない状況なのが、また不気味だな、」100%信じられるかと言ったらそうでは無いが、反対も然り。非現実的なことのように思えるが、否定もできないという状況に嫌悪感を示して。「暫くは例の機関が対応するから問題ないと思うが、彼女の動向は注視しておこう。」と告げて。 )
( 相手の疑問は正しくで、正直な所直ぐに信じられる様な事でも無かった。“催眠術”が全ての原因だと報告書に書く事だって出来る筈が無い。「普通は選択肢から除外されるよね。」何か事件が起きた時に“催眠術”の可能性を視野に入れる事はほぼ100%無いのだから。だが、今回は絶対に有り得ないと言えない出来事が多過ぎた。現に催眠術に掛かっていたと言われた方が納得の出来る事が、実際自分の身に起きていた。「もしあの子の言う事が全て本当で、“ああいう使い方”をこれからも続けるなら、かなり脅威になる。…あの歳で抱えるものが大き過ぎる気もするし。」と、不安を口にしつつも然るべき機関が主となり少女を指導し、時に支えるのならば後は此方が表立ってどうこうする事は無いだろうと頷き。「__撃たないって確信があった?」少しの間を空けて問い掛けたのは、ずっと聞きたかった事。あの時相手の瞳に恐怖の色は見えなかった。拳銃を手放し、至近距離で避難する事も無く立ち続けた相手はどんな気持ちだったのだろうと )
( 彼女を巡っては不穏な動きも多い。これ以上騒ぎが起きないことを願いつつ、まずは然るべき機関の対応と指導に任せる事として。相手の問い掛けに再び顔を上げると、あの時の事を思い返す。動揺こそあれど、恐怖は無かったように思う。至近距離で安全装置を外した銃口を突きつけられるという危険な状況ながら、確かに考えてみれば相手に撃たれるとは考えていなかった。「…言われてみればそうだな、あの状況でもお前に撃たれるとは考えていなかった。」と答えて。拳銃を捨て反撃できない状況だった訳だが、相手は撃たないという確信があったのだろう。「撃たれていたら、その時はその時だ。」なんとも適当な言葉を付け足しつつも、相手への信頼があったのは確かで。 )
( あの状況では誰がどう見ても危険だと判断しただろうし、拳銃を突き付ける人間を目の前にして反撃する事も逃げる事も無く、あろう事か唯一持っている武器を捨てるなど正気とは思えないと言われても反論出来ない筈。けれどあの時の相手には何の躊躇いも無かったのだろう。余りに真っ直ぐ断言された言葉に息を飲む。自分で聞いておきながら流石に驚いた。「……そっか。…うん、良かった。本当に。」返って来た言葉を心の中で繰り返し、灯った暖かさはきっと言葉で表す事は出来ない様に思えた。ただ、あの時撃たなくて、相手が怪我をしなくて、良かったとそれだけが残り。続けられた付け足しは危険な目にあった当事者とは思えないもので、思わずじっとりとした視線を投げる事となった訳だが、相手らしいと言えばらしい気もした。「そんな適当な事言ってたら早死にするよ。」と、肩を竦め、その後、こんな遣り取りがまた当たり前に出来る事が嬉しいのか小さく笑みを浮かべて紅茶を啜り )
( ______不完全燃焼な幕切れながら、リディアの一件が片付いてから数週間。いつもと変わらない署内に、突如として不穏な空気が立ち込めた。普段通りに仕事をする刑事課のフロアに突然硬い革靴の音が幾つも響き、見慣れない人物達が入って来たのだ。乱れの無いスーツの胸にはバッジを付け、友好的な態度など一切持ち合わせていないと言わんばかりの厳しい表情でフロアを見渡す。そうして令状のような物を取り出すと『とある犯罪組織に、警察の内部情報が流出した。レイクウッド署が流出源と見て、これより強制捜査に入る。』と唐突に宣言して。フロアの署員たちも状況を飲み込めず騒つく中、何事かと執務室から出て来ていたエバンズも同様に眉を顰め困惑した様子で思わずミラーに視線を送る。状況が読めないと首を振ったミラーから再び男たちに視線を戻した時には、男たちは証拠品を押さえようとフロアに散り散りになった後で。 )
( ___一瞬にして空気が変わり騒めくフロア内で署員達は状況を理解出来ぬまま、無遠慮に歩き回る男達と接触しない様にと反射的に壁際に寄る事しか出来ず、それはミラーも同じだった。壁に背を付ける形で成り行きを見守る事しか出来ない時間が凡そ数十分。やがて男2人が相手の横をすり抜けて警部補執務室へと足を踏み入れた事で、更に空気が変わる。棚の物を全て取り出し勝手に中身の書類を確認し、相手が綺麗に片付けているデスクの上も今や書類まみれ。マグカップは隅へと追いやられた。引き出しを開け中の物を一つ一つ険しい顔で凝視し、最終的に唐突な強制捜査は相手のノートパソコンにも向けられ、男の1人が扉から顔だけを覗かせ『アルバート・エバンズ警部補だな。パソコンのパスワードを、』と、顎で部屋の中に入る様にと促して )
( 署内を無遠慮に引っ掻き回す男たちは、その様子を見ていた自分の横を通り過ぎ断りも無く執務室の中へ。ファイリングされた書類も何もかもを無造作に引っ張り出している様子に「____捜査資料を乱さないでくれ、」と不愉快そうに眉を顰めて告げたものの、男たちは聞く耳を持たない。やがてパソコンのパスワードまで求められては「全員分のパソコンの中まで確認するつもりか?急ぎの仕事を抱えている署員も居る、捜査の邪魔はしないでくれ。」と告げながら、求められたパスワードを入力する。強制捜査の権限を持っているとは言え、あまりに横柄だというのが印象だった。 )
( 正確なパスワードによって画面が開けば、男は静かに椅子に腰掛けマウスに手を乗せた。散々荒らされた執務室にはクリック音やタイピングの音だけが響き、次から次へと中の情報が開かれていく。『当然、全署員のパソコンを確認させてもらうが__今最も重要視しているのが此処だ。我々は“内通者”の存在を疑っていてね。捜査の邪魔をするつもりは無いが、暫くの間監視はさせてもらう。』パソコンの中身を確認している男は無言、代わりに丁寧にファイリングされた書類に目を通していた男が、相手に視線を向ける事無く淡々と答え。“内通者”として今一番に誰が疑われているのか、このたった一回の遣り取りで鋭い相手は勘付くだろうか。パタン、と音を立てて閉じられたファイルは元の場所へと戻され、そこで漸く男が相手を見た。『…貴方には聞きたい事が山のようにある。この時間、使われていない部屋はあるか?』相変わらず淡々と、けれど拒否権は無いとばかりに嫌な威圧感を放ちながら扉を一瞥して )
( 此の場所を最重要視している_____つまり、この執務室に情報流出に関する証拠があると踏んでいる、という意味に聞こえて思わず眉を顰める。ハッキングなどではなく、誰かが意図的に犯罪組織に情報を流したと推測して捜査を行う中、この部屋を重点的に探るというのは“疑っている”と言われているようなものだ。「疑われるような事をした覚えは無い。」と告げたものの、男たちは聞く耳を持たない。威圧感を持って紡がれた言葉に鋭い視線を向けるのだが、捜査を拒否した方が怪しまれる事は当然理解していた。「……3階の会議室が空いている。」と答えて、疑いを晴らす為なら取り調べには応じようと会議室へと案内して。明かりをつけテーブルを挟んで男たちと向き合うと「手短に頼む、」と告げる。当然聞き取り調査の一環で、1時間も掛からずに解放される事を想定していた。 )
( 相手は“疑いを晴らす為”にこの部屋に。しかし男は“証拠となる証言を得る為”にこの部屋に来ていた。相手が内通者であると既に決め付け疑って掛かるのだから、当然1時間やそこらで解放される事は無いのだが、今この時はまだ知らない事実だろう。___相手と向かい合う形で椅子に腰掛けた男は数枚の紙を鞄から取り出し相手の目前に並べた。それは最初に告げた犯罪組織の、今現在知る限りの情報が書かれている紙で、相手が一番最初に薬の取引きに踏み込んだ組織である事がわかるだろう。そうしてもう一枚の紙には数十人の組織メンバーの写真が貼られていて、中には相手が最も嫌悪する男の顔もあった。『この男の名前はアーロン・クラーク。今は組織の幹部で、過去にFBI捜査官としてこの署にも勤務していた男だ。当然見覚えはあるな?』と、クラークの写真を指差し確認をとった後『一度は逮捕されたが、無罪放免で釈放されている。…その後コイツと会った事は?』矢継ぎ早に次なる問い掛けをするのだが、その目は明らかに相手への疑いに揺れていて )
( 並べられた資料を見て、薬の取引の捜査で関わった組織だと理解する。同時に“あの男”との接触が、恐らく疑われている要因だとも。「…当然だ、そもそもこいつは俺が逮捕した。危険な薬物を流通させ、かなり規模の大きい組織だった。」と、クラークについて当然知っていると肯定した後、組織について告げる。実態はまだ分からない事が多いが、多くの薬物事件に関わる危険な組織である事は間違いない。男の問い掛け、その答えはYESになる訳だが、言葉の端々に疑いの色が見え隠れする事には当然気付き眉を顰める。「会った事はあるが______逮捕された事が気に入らないんだろう、街中で数回接触された。そもそもこいつを無罪にしたのは俺じゃない、疑われるような事は何もない。」と答えて。 )
( 相手は嘘をつく事無くクラークとの接触を認めた。けれどそれは相手の意思ではなくあくまでもあの男が勝手に会いに来ているだけであり、幾ら嫌がっても何処吹く風で付き纏い続ける男に完全に非があるのだが。そもそも相手の事を疑い逮捕に漕ぎ着けようとしている政府機関の役人達にはそんなのはどうでも良い事なのだ。『理由はどうあれ、接触を続けていると言う事に問題があるんだ。』と、尚も相手を解放する事無く___何だかんだと理由を付けて組織との繋がりを暴こうとする強引な聴取は既に3時間が経とうとしていた。当然刑事課フロアに居る署員達はミラーも含め相手がこれだけの時間拘束されている事、この荒らされたも同然の部屋に一抹の不安を覚える事となり。___それから更に時間は経ち、漸く男が立ち上がったのは聴取開始から既に4時間が経った後だった。隠しきれない疲労感やうんざりとした表情を浮かべる相手に目を合わさぬまま机に並べた書類を纏め鞄にしまい直すと『以前証拠品として押収したクラークの携帯は、此方で預からせて貰う。』と告げた後。漸く合わせた瞳の奥は歪に光り『薬の取り引き現場に居たのは貴方1人__取り逃したとしても仕方が無い話だ。』と。それは暗に“お前が見逃したんだろう”と言っているようなもので )
( 自分から接触をしている訳でもなく、此方からは避けようの無い状況下での事だといくら説明しても、役人たちは納得しなかった。何を言っても聞き入れられず、事実を捻じ曲げてでも向こうが勝手に作った筋書きに無理やり当て嵌めようとするようなやり方で拘束される事、4時間。生産性のないやり取りを続け、疲労感と苛立ちを隠し切れなくなっていた。“疑って掛かる”というのは捜査を行う上では必須と言えるが、この男たちの遣り口はそれとは違う。誘導尋問で事実を捻じ曲げようという魂胆が見えるその手法は当然不快なもので、同時に自分が犯人と一番に疑われている事を嫌でも理解させられた。会議室を出ようとした時に告げられた言葉に思わず怒りと不快感を露わにすると「確かにあの現場に居たのは俺1人だが、薬を打たれて成す術が無かったと言っているだろう!故意に逃したと思っているなら、警視正に状況を聞いてくれ。」と告げて。仕事にも一切取り掛かれて居ない状況で4時間も無意味に拘束され、向こうの一方的な主張で責め続けられるというのは間違いなく心身を消耗するものだった。 )
( 相手の纏う疲労や苛立ち等知らぬ存ぜぬの態度で『勿論、警視正にも話は聞くつもりだ。数日間は監視対象となる事を忘れるなよ。』と答えた男は、4時間にも及ぶ聴取と言う名の一方的な拘束とそれに伴う公務妨害に謝罪の言葉一つ無くさっさと聴取室を出て行き。___相手が刑事課フロアに戻って来た時、既に黒服の男達は強引な捜査を終え帰った後だった。戸惑い、困惑、怯え、疲労、様々な負の感情が混じり合い呼吸が苦しく感じられる程の空気が漂う中、署員達の口数は普段の倍少なく、黙々と散らばる書類や諸々を片付けていて。「…エバンズさん、」と、控え目に声を掛け相手に近付く。そのまま促す様に共に執務室へと入れば扉を閉め「__一体何が、」状況がこれっぽっちも理解出来ていない、4時間何の話を…そもそも何故相手がそんな長時間引き留められたのかと困惑がありありと浮かぶ瞳で見詰めて )
( 刑事課のフロアを我が物顔で引っ掻き回す男たちが居れば、仕事が手に付かない事など分かりきっている。案の定フロアの署員たちも通常通りの業務に当たっている者は少なく、役人たちが証拠と称して持っていった物の後片付けをしている者さえいる状況。4時間も不在にしていた自分に向けられる視線には一様に困惑が浮かんでいて、相手に声を掛けられるとそのまま執務室へと入り扉を閉めて。執務室の中も“荒らされた”と言って良い状態で、椅子を引っ張ると腰を下ろし深い溜め息を吐く。身体中に疲労が纏わりついているような感覚だった。「……無茶苦茶な取り調べだ。誘導尋問どころじゃない、何を言っても聞き入れられず堂々巡りだ。」苛立ちをそのままに、無意味な聴取についてぼやく。「_____クラークとの接触を散々指摘された。薬物事件で犯人を検挙出来なかった事も、意図的だと。」間違いなく疑われている状況、一方的に責め立てられるばかりで精神を消耗していた。 )
( 椅子に腰掛けたその動作にすら疲労感と苛立ちが滲んでいて、目下に影を落とした隈の張り付く表情を見ただけで如何に愚かな聴取だったのかを察する。4時間と言う長時間、相手の話には僅かも耳を貸さず既に“内通者”だと最初から決め付けていたと言う訳だ。つまり彼らの主な目的は刑事課フロアと言うよりも“この部屋”の捜査で、署員達の監視よりも“相手”を逮捕する事。有り得ない、と湧き上がる怒りをそのまま口にしようとした時。続けられた聞き覚えのあり過ぎる名前に思わず目を見開く事となった。彼らの言う“とある組織”とはクラークが幹部として鎮座している組織の事で、あろう事か相手をその組織の内通者だと言っているのか。「っ、何も答える必要なんてない!」と、思わず感情的に声を荒らげた。あの男に関わると最悪な事にしかならないのは既に互いに身を持って経験している事で現に今も、だ。胸の奥に渦巻く怒りを深い深呼吸で立て直し、冷静に、と自分に言い聞かせた後。「___接触はエバンズさんの意思じゃないし、そもそも疑う相手を間違えすぎてる。…逮捕なんて出来る筈がない。」と、真剣な眼差しで答えるのだが、それが甘い考えであった事は後々知る事となる。___執務室の扉がノックされ、警視正が入って来た。壁際に居るミラーを一瞥し、部屋の中を見渡し、次に相手に視線を向けると『…酷い目にあったな。』と、相手が長時間聴取室に拘束されていた事への第一声を溜め息と共に。『流石にやりすぎだ。』滲む怒りを吐き出して )
( 犯人と決め付けるかのような無意味な聴取に対して、相手が怒りを露わにした事に少しばかり救われる思いだった。クラークとの接触は自分の意思でも無ければ避ける事も出来なかったのだと幾度説明しても聞く耳を持たれなかったのだ。重い疲労を感じつつ相手と話していると、不意に扉が開き、入って来たのは警視正だった。少し背筋を伸ばした後、彼の言葉には同意を示すように頷いて。『政府の機関とはいえ、あんまりです。誘導尋問のような捜査で、事実を捻じ曲げてでも俺を犯人扱いしようとしてくる_____いつまでレイクウッドに居るつもりなのか…監視対象だと言われました。」と告げて。明日もまた同じように男たちがやって来て、無用な時間を取られるのは避けたかった。 )
ウォルター警視正
お前が内通者だと言う証拠が出て来る筈は無いが、アイツらはしつこいだろうな。発言の一つをとっても歪んだ受け取り方をしてくる可能性がある。__私も出来る限りの事はするが、用心しろ。
( 組織に情報が流れている、この署に内通者が居る可能性がある。そこまでは100%無いとは言えない為些か不愉快ではあるが頷ける。ただ、問題はその内通者が何故相手だと言う方向で進んでいるのかだ。当たり前ながら証拠がある筈も無いのに真実を捻じ曲げてでも“決めた筋書き通り”に事を運ばせようとしている気がして、相手は勿論の事納得がいく筈が無い。険しい表情で腕を組み、明日、明後日と男達に好きなようにされる事への懸念を抱きつつ『クラーク逮捕時の証拠品は、再確認すると引渡しになった。報告書や書類関係も全てだ。』相手が聴取を受けていた時に起きていた状況を説明した後。『…今日はもう帰って休め。ミラー、お前も帰って良い。』何より一番心配なのは相手の心身の事。どうやったって役人達が数日間居座る事を避けられないのならば、そうじゃない時はせめて少しでも落ち着ける場所に居た方が良いと帰宅を促すと同時に、心底心配し怒りに震えているであろうミラーにも同じく帰るようにと告げて )
( クラーク逮捕時の一件を掘り返されるのは好ましい物ではなかった。自身の判断で捜査線上に上げなかったミラーの一件や、あの時打たれた薬の事、根掘り葉掘り聞かれたくない事が多い事件なのだ。それでもあくまで、心を消耗させようとする男たちのやり方に屈する事なく、何を言われても自分は犯罪組織への情報流出には一切関わっていないと主張を貫く迄なのだが。警視正に無用な配慮をさせている状況も申し訳ないもので、帰るようにと促されると頷き「午後は在宅勤務にさせて貰います。」と告げて、全く進んでいない仕事は家で進める事として。---相手と共に家に戻ると、ソファに身体を預けて深く息を吐く。身体に疲労が纏わりついていて嫌な怠さがあった。「…悪いな、巻き込んで。」と告げたものの、「無い証拠が出るはずが無い、直ぐに飽きて帰るだろう。今だけの辛抱だ、」と、何処か自分にも言い聞かせるように言葉を紡いで。内通者では無いのだから、当然証拠が出る筈もない。役人たちがそれに気付くまで、監視やら尋問やらに耐えれば良いのだと。 )
( ___まだ日も出て居る時間帯、比較的暖かい部屋の筈が何故か無性に寒く感じるのは互いにそれぞれ感じる疲労が影響しているからだろうか。ソファに腰を下ろし深い深い溜め息を吐き出した相手を一瞥し、キッチンで小型の鍋にミルク沸かす。背中に掛けられた謝罪に振り返り「エバンズさんは何も悪くないよ。あの人達がどうかしてるだけ。」首を軽く左右に振り返した言葉は未だ相手を犯人扱いする男達に憤りを感じているから。けれど相手の言う通り、そもそもが無実なのだから幾ら署を引っ掻き回し、相手を長時間拘束し聴取した所で証拠など出て来る筈が無い。鍋の表面に張った白い膜を丁寧に取り除き、それぞれのマグカップに注いだ白の中に普段より少しだけ多めの蜂蜜を溶かしてから隣に腰掛け。「そうだね。全部終わったら公務執行妨害で逮捕しよう、それくらいやったって許される。」片方を手渡しつつ、気持ち的には大真面目だと言っても過言では無い冗談を口にし肩を竦め。___ホットミルクが半分程無くなった頃、ふいにマグカップを目前のテーブルに置くと何を思ったのか頭を相手の方に、それから軽く自身の膝を叩き「…大分前に膝枕したの覚えてる?久々にしたいな。」と、あくまでも此方の要望なのだと言いながら、唐突にもそんな事を微笑みと共に向けて )
( 温かなホットミルクを口にした事で、未だ聴取を引き摺って知らず知らずのうちに張り詰めていた緊張感が解けるのを感じた。相手が膝を叩くジェスチャーに視線を向ければ、膝枕をしたいという要望。少しばかり躊躇したものの身体が疲れているのは事実で、少ししてからゆっくりとソファに身体を横たえ相手の膝に頭を乗せて。相手の体温を感じながら、少しばかり微睡んだだろうか。1日だけでも心を消耗させ重たい疲労感をもたらした長時間の聴取がこの先何日も続き、周囲の人間にさえ徐々に疑心暗鬼な心を植え付けて行く事をこの時は未だ知る由も無い。 )
( 一度は拒否が返って来ると思っていたが、その予想は外れ多少の躊躇のみで直ぐに膝には軽い重みが。それ程迄に心身に負荷が掛かり疲労が蓄積していたのだろう、目を閉じた相手の髪を梳く様に撫でながら、薬を打たれ増大した恐怖に苦しみ涙を流した相手の、あの錯乱した状態を何も知らず犯人だと疑う役人の顔を思い出し無意識のうちに眉間に皺が寄り。___それから数日間、言葉通り男達は相手を監視し続けた。その異様な空気は刑事課フロアに蔓延し、やがて署員達の中にはまるで洗脳の様に相手を疑い出す者も現れ、仕事にも集中出来ずミスが続き、悪い方悪い方へと全てが進みつつある中。今日もまた男の一人が相手に声を掛け、会議室へと連れて行き。___『薬の取り引き現場に居たのは貴方一人、そして潜入捜査が失敗となった後も、度々外でクラークと接触している姿が目撃され、クラークが取り調べで唯一話すのも貴方だけだと言う証言があった。…証拠品として押収したスマートフォン、それを最後に持っていたのも貴方だ。更に言えばその時何かの画像を消去した痕跡がある。…時間が経ちすぎている為復元は出来なかったが__正直に言え、何を消した?』相手が犯人で間違い無いとでも言いたげに淡々と告げる内容は、どれもこれも本当の事ではあるが、しかし、決して内通者だと言う明確な証拠にはならぬものばかり。それでも男の威圧的な態度は変わらず、その当時クラークが持っていて、相手が押収したスマートフォンのデータの話を出して )
( 長時間に渡る高圧的な聴取は連日続き、幾度同じ話をしたか。明日には男たちも諦めるだろうと、ソファで互いに言い聞かせる様に言葉を交わした家での時間も徐々に短くなり、帰っても直ぐに横になるようになっていた。それ程に、堂々巡りの聴取は体力を削り取るものだった。今日も呼び出されて向かった会議室で男達と向かい合い、幾度と投げ掛けられた質問を飽きもせず浴びせられる。「……薬物事件の捜査は上の指示で行った物だ、ずっと追っていた事件じゃない。クラークの聴取は確かに担当したが、口を割る割らないは俺がコントロール出来る物ではなかった。外での接触も同様だ、信じないなら監視カメラの映像でも見てみれば良い。」同じ説明を繰り返している為、答える内容は同じ。澱み無く説明できる程度には繰り返されてきた質問だった。しかし次に問われたのはスマートフォンのデータについて。削除したデータについて聞かれると「______データを削除した覚えはない。」と答える。あの件を此の場で公にする事は選ばなかった。なんの画像が入っていたのかは記憶にない、データを削除した覚えもないと、再三の問い掛けにも同じ答えを返し続ける。強引な聴取で初めて吐いた“嘘”だったが、捜査には関係のない写真だったと言った所で余計に怪しまれるだろう。削除されたデータについては知らないという答えを貫いて。 )
( 今日も今日とて薄暗い部屋の中で繰り返される堂々巡り。復元こそ出来ないが“何かのデータ”があの当日に消去された事は間違い無く、周囲への聞き込みや捜査の結果、翌日証拠品として署に届けるまで所持していたのは相手なのだから疑われて当然だと言う主張の元、男は言い切った相手の返事にあからさまに眉を寄せ沈黙を落とし。しかし此処で数日間の聴取と異なる事が起きた。男は暫し黙したまま相手を見据えていたも、ややして細く息を吐き出すと徐に立ち上がり椅子を戻す。そうして『__まぁ良い、データの件はゆっくり思い出すといい。』と、不穏にも告げた後。『貴方が何らかの形で関わっている事は明白、後の事は我々の管轄内で聞く事にする。…荷物を纏め次第、同行を。』と、強制的な連行を決定し )
( 写真の削除は自分ではなく持ち主だったクラーク本人によって成されたものである可能性もある訳だが、其処を疑う事は一切しない。はなから自分が内通者だと決めつけて事を進めている事を改めて感じさせるもので、険しい表情のまま口を開く事はなく。しかし、政府機関の管轄の場所に同行せよと言われれば、思わず顔を上げる。署内での取り調べに散々応じて来たというのに、そして一貫して自分ではないと主張しているというのに、無理やり連行しようというのか。「っ、何処で話しても同じだ!俺は組織との件には一切関わっていない、いくら訊かれても答えは変わらない。こんな無意味な事に時間を割いている暇はない、」と、同行を拒否して立ち上がり。 )
( 声を荒らげ拒否を示した相手に、まるで容疑者として聴取している人物が一向に罪を認めず手間取らせて来る__とでも言いたげな視線を向けた男が口を開きかけたその時。部屋の扉が開き、相変わらず皺の一つ無いハリのある黒スーツに身を包んだ別の男が入って来た。その手には相手が普段から使っている私物のノートパソコンがあり電源が入っている。その画面を2人で見詰め、何やら険しい表情で一言、二言、の会話をした後相手に向き直ると『__どうやら“無意味な事”では無さそうだ。』と、パソコンの画面を相手に見せる様に反転させ。そこには相手には身に覚えの無いまるで暗号の様な字列や“極秘”と書かれた赤文字、内部情報のあれこれがはっきりと記されていて。『組織と関わりが無いのならば、何故貴方のパソコンからこんな物が出て来たのか。…これが他所に送信された痕跡もある。“証拠”が出た以上、貴方に拒否する権利は無い。連行する。』これ以上此処での遣り取りは無用だとばかりに扉を開け、『署員達の前で手錠など掛けられたくないだろう。』と、相手自身がその足で同行する様にと今一度。___勿論相手のパソコンにあった内部情報は、相手がどうこうしたものではない。本当の内通者が別に居て、その男が遠隔操作により相手のパソコンから組織へと情報を送り続けたまでの事なのだが、勿論相手を犯人だと疑う政府機関の男達では辿り着けない所。FBIの情報を得て、更には邪魔な…脅威の存在となる相手を消す事が出来ればと言う目論見で )
( 突き付けられたパソコンの画面には、全く身に覚えのないファイル。どういう事かと思わずパソコンを確認するも自分が使っている物に違いなく、あり得ない状況に混乱する。直ぐに反応する事が出来ずにいたものの、出る筈の無かった証拠が出た以上、置かれた状況はかなり厳しいものだと嫌でも理解して。拒否をすれば手錠を掛けられて強制的に連行されるのだろう。「______分かった、」と答えて。一度荒れた執務室に戻り、荷物とコートを手にする。此方を伺う署員たちの視線も、強制捜査が始まった当初に比べて困惑よりも疑心の色が濃くなっているのを感じていた。何故こんな状況に陥っているのかは自分でも分からないが、一先ず今は男たちに従うより他はない状況。「…少し出て来る、」とだけ自席にいた相手に告げると、そのまま答えを待つ事もなくフロアを後にする。一階で待ち構えていた男たちと署を後にすると、政府機関の建物へと連行される事となり。 )
( ___正に最悪な状況。足早にフロアを出て行った相手の背を焦燥に縺れる足で追い掛けるも、途中で警視正に引き留められ説明されたのは相手が連行されたと言う事実。幾ら相手の使っているパソコンから内部情報流出の証拠が出たからと言って、それが相手が内通者であると言う100%の証拠にはならない筈だ。パスワードを調べた外部犯の可能性もあるし、ハッキングによるものの可能性もある。そもそも相手がそんな事をする人間では無い事は近くで共に働いていれば簡単にわかる事なのに__『今は落ち着け』と悔しさを滲ませながら諭す警視正に、そんな悠長な事を言っているから相手は連れて行かれたのだと、感情のままに噛み付いたのだが、現状何も出来ない事は明白で。___相手がFBIとは別の政府機関に連れて行かれ、留置所での問答無用の勾留が決まったのはそれから直ぐの事。何かの間違いだと直ぐに釈放されると思っていただけに、この異例過ぎる速さでの勾留には流石の警視正も焦燥を隠せず。___“起訴前勾留”の間は可能な面会、直ぐに時間を作り面会に訪れたのは1日が経過してから。ガラス越しの相手には触れる事も出来ず、このたった一枚のガラスがとてつもなく大きく高く聳え立つ壁に思えて、吐き出した息が震え。「…エバンズさん、…」今一番状況に混乱し不安なのは紛れも無い相手、此方はあくまでも冷静を心掛け、余計な不安を与えないようにと心では思うのに感情は着いて来ない。震えた息に釣られる様にして、相手の名を呼んだその声もまた震えを纏っていて )
( 連れて行かれた機関で取り調べを受け、殺風景な留置場で過ごす夜は余りにも惨めな物だった。犯罪組織に情報を横流しした事実など無く、ありもしない証拠が出る筈もないというのに。誰かに嵌められて居るのか、恨みを買ったのか、状況さえ把握できないまま成す術もなく厳重に管理された部屋で一夜を過ごす。心身への負担は体調に顕著に現れ、浅い眠りの中で幾度となく悪夢に目を覚まし、発作に苦しむ事となった。持って行った荷物は男たちの管理下に置かれ、薬も飲む事が出来ずに迎えた翌朝。面会だと連れて行かれたのは分厚いガラスで阻まれた小さな部屋で、犯罪者と接見した事こそあれど自分が此方側というのは想像もしない状況だった。不安がありありと浮かぶ相手と対面すると「_____どうしてありもしない証拠が出たのか、其れさえ分からない。何か裏がある筈だが…此処からじゃ其れも確認できない、」と溢して。更に体調が不安定な事も不安を増大させていて、外部から持ち込んで貰えば受け取れるだろうかと考えて相手に切り出す。「……悪いが、次来る時に処方薬を持って来てくれないか。持ち物は全て回収されていて、手持ちがない。」連日の聴取と不当な拘束を受けている今、かなり心身を擦り減らしているのは確かな状況で。 )
( ガラス越しでもわかる程に相手の顔色は悪く、目下の隈も濃い。心身共に疲弊し体調が悪いのが一目瞭然なものだから、思わず奥歯を噛み締める事で湧き上がる焦燥や政府機関に対する強い怒りを無理矢理抑え込み。「今、警視正が上層部に掛け合ってる所。誰かがエバンズさんに罪を着せようとしてるのは間違い無いから、後はそれを立証するだけ。…大丈夫、私もやれる事は何だってするから、もう少しだけ辛抱して。」勾留されている相手では捜査はおろか、誰かに話を聞く事も調べ物すらも出来ない。警視正は朝から晩まで相手の無罪の証拠を集めるべく駆け回り、サラやアシュリーもまた、担当している事件の合間を縫って情報集めに協力をしてくれていた。落ち着け、と自身に言い聞かせ、至極真剣な、それでいて普段と変わらない事を意識した柔らかさをもった微笑と共に緑眼を僅かに細め、ほんの一瞬でも不安感が薄れて欲しいと現状を伝えた後。所望された薬に頭を大きく縦に動かす。「勿論、明日朝いちで持って来る。…後は?薬の他に何か必要なものない?」安定剤、睡眠薬、鎮痛剤、相手が処方されている薬は全て持って来る事を約束し、不便をしているだろう現状を少しでも打破出来る差し入れが何か無いかと問い掛けて。___この時はまだ知らなかった。薬の持ち込みが許可されない事も、それどころか面会すらも出来なくなるなんて )
( 外部と遮断された空間で拘束されている自分は何も出来ないが、警視正や相手が無実を立証する為に動いてくれているというのは励みだった。労力を掛けている彼らには申し訳ないが、身に覚えの無い罪が1日でも早く晴れるようにという思いで。薬を持って来てくれるという相手の言葉に少し安堵すると、他に必要な物はないと首を振り。何かを持って来てもらった所で持ち込める物は極限られている。相手との面会で、一方的で横柄な取り調べに耐える気力が湧いたのも束の間______次の日の午後になっても面会に呼ばれる事は無く、薬も届くことはなかった。相手が約束を反故にするとは思えず、見回りの男に声を掛ける。「……レイクウッドから女性刑事が来なかったか。持病の薬を届けて欲しいと頼んである、」と尋ねて。 )
( ___翌日、約束通り相手が処方されている薬全てと、少しでも別の所に気持ちが向くと良いと考えた末の小説を数冊持って面会に来たのだが。そこで係の男に告げられたのは、如何なる理由があっても薬は全て持ち込み禁止である事と、今朝になって急遽面会は許可出来なくなったと言う事。昨日は普通に会えて、更には相手は逮捕をされた訳でも起訴された訳でも無い、あくまでも勾留段階で何故面会が出来ないのかと詰め寄り、食い下がったのだが男は“NO”の一点張り。結局1時間以上の押し問答の末、半ば強引に建物外へと連れ出されタクシーに押し込まれ。薬を渡せないとなれば、相手があの部屋でそれを手に入れる方法は無い。つまり服用出来ない状態でたった1人、悪夢や発作に耐えなければいけないと言う事だ。絶望的過ぎる状況に、タクシーの中で溢れる涙を堪える事は出来なかったが、何も諦めるつもりは毛頭無い。___相手から声を掛けられた男は足を止め、直ぐに今朝の騒動の事かと頷いた。『午前中に来てはいたが、そもそも面会自体が許可されなくなった。今後貴方が話せるのは弁護士のみと言う事だ。』そうして相手がまだ知らされていなかった決定事項を淡々と告げ、まだ何かあるか、と言う様に片眉を上げて見せ )
( 男の返答には思わず絶句する。面会の禁止は、逃亡や証拠隠滅の恐れなど相当な理由がある場合に限られるはずだ。明らかに、あらかじめ決めた筋書き通りに自分を逮捕する為無理矢理外部との接触を断つ不当な行為だと言えよう。しかし幾ら此処で喚いても接見禁止が解除されるとは思えず、より不利な状況に陥る事も考えられた為、言葉を飲み込む。深く息を吐き出してから、「……せめて、薬は貰えないか。無理なら警察医の診察を受けさせてくれ、」と告げて。薬をひとつも飲まずに此処での時間を過ごす事はあまりに苦しいものだ。連日の高圧的な聴取に耐え、また鳩尾に痛みも出るようになっていて。 )
( 午前中に来た女刑事は薬を渡せない事、面会が出来なくなった事、に猛抗議をしたと聞いたが、目前の男は思う所があるだろうに、留置所に入れられている今尚やけに落ち着いている__と男は頭の片隅で考えていた。“持病の薬”が何かは此方で既に調査済み。飲まなければ本当に命の危険がある薬ではないという判断が下されており、だからこそ渡す必要は無いと上司から言われている為首を横に振ると『言っただろう、弁護士以外の外部の者と接触は出来ない。意図的な薬の過剰摂取による自殺も懸念されているんだ。』相手の要望は全て聞き入れられないという姿勢を貫き。___その頃ミラーはと言うと、何も解決策が無く警視正からかなり不味い状況だと言う事を聞かされていて。署内の雰囲気も、証拠が出た事から相手が本当に内通者なのではという噂が囁かれる様になって )
( 証拠を隠滅する為に自殺する可能性を危惧しているのかもしれないが、そもそも犯人ではないのだから薬物の過剰摂取などする筈がない。しかし何を言おうと、弁護士以外と接触できないという決定は変わらないのだろう。この状況で暫く薬を飲めないとなると、体調は確実に悪化する。少しでも早く無罪を実証するより他なく、頑なな政府機関の態度には疲弊仕切っているのだが「_____弁護士を呼んでくれ、話をしたい。」とだけ告げて。---ミラーや警視正が、自分の無罪を立証するために動いているとは聞いていたものの、面会も出来ない中で1人拘束されていると、状況も確認できず何も分からない不安と孤独に苛まれる。薬を飲めないまま時間が経ち、頻繁に発作を起こす程に不安定な状態に陥っていた。痛み止めを服用する事も出来ず鳩尾の痛みに耐え、意味を成さない長時間の取り調べを受ける日が続き。 )
( ___警視正が幾ら上層部に掛け合おうと、どれだけ相手は内通者では無いのだと訴えようと、身に覚えの無い証拠が全てだと聞く耳を持たず、自分達の都合の良いように物事をでっち上げ、外部との接触を許さず相手を精神的に追い詰め孤立させる…そんな違法捜査とも呼べる事を何の正義も無く遣って退ける役人達には最初から何を言った所で無駄で、このままでは、ほぼ100%相手は起訴され有罪が確定してしまうと漸く気が付いた時。取れる手段はたった1つしか思い付かなかった。___この時間は使用されていない会議室。扉に鍵を掛けスマホの画面を険しい表情で見詰める。そこにあるのは何故か消していなかった【アーロン・クラーク】の名前。相手を傷付け、苦痛を与える事に喜びを見出すサイコパスで、此方側からは絶対に近付いてはいけない男。過去の出来事の様々が一瞬にして走馬灯のように脳裏を駆け巡り、一度重たい溜め息が漏れたのだが。“これしかない”のだ。次の溜め息は自身の気持ちを落ち着かせ、迷いを払拭するもの。クラークの名前を押し電話を掛けると、数コール後に聞こえた記憶から抹消したくとも出来ないその声に「……今すぐ私と会って。」と、挨拶すらも無い一方的な要望を緊張と、警戒心と、覚悟と、様々な感情が入り混じる声で告げて )
アーロン・クラーク
( 手元のスマートフォンが着信を知らせ、画面に相手の名前が表示されると、其れを手に取り笑みを浮かべる。思った通りのタイミングだ。エバンズが組織との内通の罪で勾留されている事は当然知っていた。ミラーがそろそろ痺れを切らす頃だと言うことも想定済みで。電話に出てすぐ相手から告げられた言葉には「_____勿論、ミラーからのデートの誘いを断る訳がないよ。」と、考える暇もなく聞き返す事もせずに、相変わらず飄々とした明るい口調で答える。「そうだ、郊外でやってるクリスマスマーケットでも行こうか。ツリーを見ながらホットワインでも飲もうよ。」相手の本当の用件を理解していながら、まるで恋人相手に話しているかのような素振りで言葉を続けて。 )
( 電話口から聞こえる声は明るさを携えていて、その巫山戯た言葉全てに嫌悪感が募るものだから、眉間に皺が寄るのも自然な事。「デートなんかじゃ無いし、クリスマスツリーも見ない。今から1時間後に駅前のカフェで待ってるから。」険しい表情のまま、またも要件を伝える事無く淡々とした一方的な約束を取り付け電話を切って。___約束の10分前。連れが後でもう1人来る事を店員に伝えお店の奥の席、扉が見える方向の椅子に腰掛ける。メニューに視線を落とせばそこには“オススメは搾りたてミルクを使ったふんわりパンケーキ”と書かれているのだが、全く以て魅力的に感じないのは今から来る人物のせいか、エバンズの事で頭がいっぱいだからか。ふいに扉に括り付けられている鈴の音が鳴り顔を上げると、そこには鮮やかな金髪を整え皺ひとつ無いスーツを身に付けた相手が店内に入って来た所で、此方に気が付いたのだろう、明るい笑みと共に近付いて来るものだから「__変わってないね、」と、見上げる形で皮肉を一つ )
( 季節を意識したロマンチックなデート場所は通常喜ばれる筈だが、相手は違ったらしい。一方的に指定された駅前のカフェは駅に近い事もありいつも賑わっているが、せっかくミラーに呼び出されるならもう少し色気のあるカフェだったら良かったと1人肩を竦める。それでも時間ぴったりに、一切乱れのない整った姿で待ち合わせ場所に現れると相手の向かいの席に座る。「ありがとう。ミラーも相変わらず可愛いよ。」褒められていないにも関わらず礼を述べると相手にも言葉を投げ掛ける。「これ良いね。俺は搾りたてミルクのパンケーキにアイスクリームトッピング、あとホットコーヒーを1つ。ミラーはどれにする?」メニューにあったパンケーキを指さすと、ちょうど水を持ってやってきたウエイトレスに注文をして相手にも尋ねる。相手とお茶を楽しみにきたと言った様子で、署で問題になっている内通の件やエバンズが置かれている状況を知っていながらも何も切り出すことはしなかった。 )
( “変わってない”は褒め言葉じゃないし、相手から可愛いと言われた所で僅かの喜びも湧かない。そういう事を全てわかっていて清々しい顔で言って退けるその根性が真底嫌いだと、返事を返す事無く溜め息を吐き出すだけで。「…ホットのカフェモカを一つ、以上です。」微笑みながら此方の注文を待つウエイトレスには飲み物だけを頼み、目下のメニュー表を閉じてテーブルの端へ。水を一口飲んでから目前の相手を真っ直ぐに見据えると「__今日呼んだのは、エバンズさんの事で話があったから。…貴方の組織に署の情報が流出してて、エバンズさんが内通者だって疑われてる。…でも、それは絶対に有り得ない。真犯人は誰?クラーク、貴方どこまで関わってるの?」真剣な、それでいて怒りも見え隠れする緑眼は普段よりずっと遅い瞬きで相手をとらえる。相手の事だ、今起きている全ての事を既に知っているだろう、そうして絡んでいる可能性も十分に有り得ると、纏う雰囲気はまるで被疑者を取り調べる時の様なそれで )
( 折角の2人きりでのデートだと言うのに。注文を終えるや否や相手が持ち出したのは彼の話で、真剣な色を纏って問われると態とらしく肩を竦める。彼が内通者として疑われ、勾留されている事は知っていた。薬の服用も、警察医の診察さえも許可されず、日に日に体調が悪化している事も。「…クリスマスマーケットでホットワインを買って、差し入れた方が良かったかもね。あの人は痛みを和らげたい夜、ワインを飲むから。」そんな意味深な事を言って微笑む。白い錠剤をボルドーの液体で流し込む姿を見た事がある。月明かりに照らされて、その姿は儚く、美しく自分の目に映ったのだ。薬を飲めない日が続いているなら強い効果を欲している事だろうと。「俺は何も関わってないよ。全部政府機関の主導だろう?」飄々と答えながら、運ばれてきたパンケーキにメープルシロップを掛ける。いただきます、と律儀に手を合わせてパンケーキを口に運ぶと甘さが口一杯に広がり「美味しいよ、ミラーもひと口食べる?」と相手を見つめて。 )
っ、…そのホットワインも差し入れ出来ない状況なの。…わかってるでしょ。
( 意味深に落とされた言葉に頭に血が昇ったのがわかったのだが、膝の上で両手を握り締める事で感情を抑え込むと、煮え滾る様な渦巻く昂りとは裏腹にあくまでも冷静な言葉を返して。しかしこの紡がれた言葉により相手が今の現状を全て把握済みだと言う事は確実なものになった。エバンズが薬を飲む事も出来ずたった1人で夜な夜な苦しんでいる事も、自分や警視正がどれ程駆けずり回って情報を集め上層部に懇願した所で何も変わらない事も、相手は全て知っていて、恐らく今回掛けた電話口で微笑んでいたのだろう。“何も関わってない”なんて、相手の組織の内通者である事を疑われているのだから信じる事は出来ず「政府機関内に、それこそそっちの組織の内通者が居たって可笑しくは無いでしょ。貴方がその人に裏で指示を出してる可能性だってある。___それこそ、“本物の内通者”がレイクウッド署に居る可能性も、」美味しそうにパンケーキを頬張る姿を睨む様な瞳でとらえながら、尚も相手の関与を疑い続け。「いらない。」パンケーキのお裾分けには間髪入れずに拒否を示し、目線を落とす事で重なった視線を解きカフェモカを啜り。「……」長く重たい沈黙の流れる事数十秒。「___このままじゃ本当にエバンズさんは逮捕される。…貴方なら助けられる?」例えこの件に相手が関わっていて、四面楚歌状態の彼や己を見てほくそ笑んで居たとしても。彼が逮捕されてしまえばもう何もかもが終わりなのだ。その前にどうにか無実である事を立証しなければならない。その為には、目前の相手の力に頼るしか今選べる道は無いとわかっているからこそ、悔しさの滲む声色で問い掛けて )
アーロン・クラーク
( 相手の言葉を聞いて少し驚いたような表情を見せると、直ぐに可笑しそうに笑う。「なんだ、警部補のために必死になってるのかと思ってたけど。警察はこれだけ時間を掛けても何ひとつ掴めてないんだね。_____内通者はいるよ、レイクウッドの中に。警部補だったら良かったけど、あの人は俺の誘いをいつも無碍にするから。」肩を竦めて見せつつ、何ひとつ証拠を得られていない警察の“無能さ”を嘲笑うように言葉を紡ぐ。組織に情報を流したのは、レイクウッドの署員だ。その罪を彼になすり付けた結果の今なのだが、相手を始め其れを掴めている者は未だ誰も居なかったのだと知り、随分悠長だと笑って見せる。そんな事くらい、数時間もあれば掴めるだろうと言うのが、ハッキングや犯罪に長けた自分の意見なのだが。相手からの問いには間髪入れずに、当然だと頷く。「勿論。…お城に閉じ込められたプリンセスを救う騎士の如く助け出せるよ。方法なんて幾らでもある。」と得意げに答えて。 )
( 警察は決して無能では無いし、エバンズの無実を証明する為に何もしなかった訳では無い。けれど“エバンズのパソコンから出た証拠”が彼を内通者であると決定付け、政府機関の役員達もそれを疑う事が無かった。そうして“真っ当な捜査”では彼を救う事が出来ないのだと気付いてしまったのだ。「……反論する気は無い、」と至極小さな声量で答えたのは勿論言いたい事は山程あれ、結局彼を助け出す事が出来ていないのが現状だから。チョコレートと香りが仄かに香るカフェモカは、本来なら優しい甘さを連れて来る筈なのに今日は無性に苦く感じる。相変わらずの役者か何かかと思わさる演技掛かった独特な口調で、得意げに紡がれた言葉には思わずまた眉間に皺が寄るのだが。その自信が本物である事を嫌でも知っているのも確か。「……だったら私に手を貸して。エバンズさんの無罪を証明して、本当の内通者を逮捕する。」犯罪者に助けを乞う等、本来あってはならない事。けれど相手と会う覚悟を決めた時にそんな正義も甲藤も捨てて来た。“こういう状況”に楽しみを見出す相手の事だ、二つ返事で了承するとは思えず見返りを求めて来るだろう事も想定済み。少しばかり緊張の混じる間が空いて )
アーロン・クラーク
( 相手は“違う”と語気を強める事はしなかった。自分たちも彼を救出する為に精一杯動いているのだと反論してくるかとも思ったのだが、結果が伴っていない事を理解しているのだろう。続いた言葉には僅かばかり首を傾げて相手を見つめる。「_____手を貸して、俺にどんなメリットがある?ミラーと警部補から泣いて感謝されるって言うなら悪い気はしないけど、俺だって危ない橋は渡りたくない。犯罪組織の幹部がのこのこ出て行って『情報をくれたのはこの人じゃないですよ』って証言でもするの?」クスクスと笑って見せながら、どう手を貸せと言うのかと肩を竦める。手を貸せと言うなら相応の見返りが必要だ。自分にメリットが無ければ動かない。現状自分にメリットがあるとは思えない為、興味を示す事もなくパンケーキを口に運んで。 )
( 確かに相手の言う事はごもっともだった。相手には何のメリットも無い上に最早丸投げ状態の頼み、更には次は相手自身が逮捕されてしまう可能性だってある訳だから見返りを求めて来るのは当然と言えば当然か。既に当初の熱を失ったカフェモカを口元まで運ぶが、マグカップの端が下唇に緩く触れただけで中身を胃に落とす事はしなかった。「___今エバンズさんに接触出来るのは弁護士だけ。だから、政府機関の息が掛かってない弁護士を紹介して欲しい。それから、その人経由で処方薬を届けて貰って。…エバンズさんの無実が証明されて、本当の内通者が逮捕されたら……クラークが望む事を一つ叶える。勿論私に出来る事で、誰にも迷惑が掛からない事が条件。法を犯す事も駄目。…十分なメリットでしょ。」わかりやすい程に興味が無いです、を全面に押し出す相手に持ち掛けた見返りは、僅かでもメリットとして捉えて貰えるものだろうか。結局中身を飲まなかったマグカップをテーブルに置き直して返事を待って )
アーロン・クラーク
( “望む事を叶える”という言葉にようやく興味を示すと、パンケーキから相手へと視線を向ける。けれど続いた制約に、それではつまらないと肩を竦めて。「それじゃあ出来ない事ばかりだ。面白くない。」と答えたものの、ある事を思い付く。「_____弁護士か。…組織側の弁護士を動かすのは簡単だけど、俺が行ってみようかな。可哀想な警部補を見る事が出来るし、勾留されてる限りあの人は俺にしか頼れない。」言葉にしてみると、それはとても魅力的な事のように思えた。孤独と不安に耐えている彼を、自分が救う。例え自分に憎しみを抱いていても、頼らなければ逮捕される事になるのだ。「ついでに、警察はもう無罪の証拠なんて探してない、とっくに諦めたとでも伝えてみようか。また彼が絶望する表情を見れるよ。」と、楽しそうに笑って。弱っている彼の心の隙間に入り込み、相手との絆を壊す。そうすれば彼は自分に縋るようになるかもしれない。「我ながら良いアイディアだ。そう思わない?」と、固い表情の相手に笑みを向けて。 )
( “出来ない事ばかり”と相手は言うが、まともな道徳心を持つ人間ならばそんな事は欠片も思わない筈なのだ。夕食を奢ってくれれば良いとか、今度少し高い贈り物をとか___そもそも相手に“一般的道徳心”を当て嵌める事の方が間違いなのだが再び興味を失ってしまった様子に僅かな焦燥が募り。次なるメリットを考える為に口を開こうとして___先に音を落としたのは相手の方だった。つらつらと流れる様に紡がれる少し未来の話に思わず背筋が凍る。弁護士を、と言っているのに何故相手が行くと言う案になるのか。そもそも相手は弁護士じゃないから面会は出来ないのに。何かしらの手を使い拘留所に忍び込みエバンズの目前で悪意ある言葉を吐き捨て微笑む、そうしてそんな事をしておきながら唯一その場に居る相手自身に縋る様に仕向ける___相手なら本当にやる気がした。「全く思わない。エバンズさんの事傷付けたら許さないから。」同意を求めるかの様な問い掛けに、纏う空気は冷たくなる。緑眼の奥には燃える様な怒りと牽制、放つそれは“殺気”と呼んでも良いかもしれない。けれど___彼を傷付けないという絶対的な約束があれば、組織の弁護士より此方との連携もまだ取りやすいと思う気持ちも無い訳ではなかった。ややして「……クラーク、貴方がエバンズさんに会って薬を渡す。勿論彼を傷付ける様な言動は一つも無し。それから、真犯人を逮捕してエバンズさんの無実を証明する。その全てが出来るのなら……“私の事は”好きにして良い。それならどう?」相手が彼に会う事で話を進め、その中で条件を提示し、再び告げたメリットは大きく離れはしないものの、先程よりも少しだけ強い色を持つもので )
アーロン・クラーク
( 犯罪組織としては近寄りたくもない政府機関という場所に潜入しながら、彼を傷付けるも事なく薬を渡して無罪を証明するなんて、究極のお人好しか人に救いを与える事に喜びを見出す天使かでなければ喜んでやろうとは思わないだろうと肩を竦める。「_____でも、俺がやらないって言ったら警部補は逮捕される。そうだろう?もっと劣悪な状況でこの先何年も収監されて、自殺の危険性があるからって薬を飲む事も出来ないかもしれないね。…そこから救い出そうとしてるんだ、頼んでいる側のミラーが俺の望みを制限する資格なんて無いと思うけど。」微笑みを湛え飄々とした物言いながら、相手が従わざるを得なくなる言葉を選び此方からも牽制する。目の奥は笑っていない。「ミラーに何をしてもらうかはじっくり考えておくよ、楽しい事が良いからね。」と告げて。「……どうする?悪魔の取り引きだ。警部補を助ける為に、俺に魂を売る?」愉しそうに笑いながら尋ねて。 )
( 口元こそ微笑む様に弧を描いているが、紫暗の瞳の奥は暗い闇を携えている。相手の言う通り拒否されてしまえばエバンズをあの牢獄から助け出す事は出来ない。狭く暗い部屋の中で長い長い年月をたった1人苦しみながら過ごす事になる。更には漸く出て来る事が出来たとしても彼には常に犯罪者のレッテルが貼られ、二度とFBIに戻る事は出来ないだろう。この場で取り引き内容を決める事が出来ないのは、とてつもなく大きなリスクを払う事になるが___「…わかった。その代わり、途中でやっぱり出来なかったは契約違反、代償は払って貰うから。」僅かも視線を逸らさぬまま覚悟と共に頷き、けれど頼んでいる立場ながら強気な姿勢は崩さない。絶対に、何としてもエバンズを助け出さなければ取り引きも何も無いのだから )
アーロン・クラーク
( 強い意志の宿る相手の言葉に笑みを深めると「_____取引成立だ。」と手を差し出して握手を求めて。「ミラーも、後で出来ないはなしだからね。」と念を押しておくと、この後の計画を考える。「…そうと決まったら、俺は弁護士としてあの機関に潜り込む。警部補に接触した上で、証拠品のパソコンをハッキングして、流出した資料が後から“送り付けられた”事が分かるログを表面化させておくよ。」ペラペラとこの先の事を話すと、さも簡単な事のようにエバンズへの疑いを晴らすための方針を告げて。「隠されてるログが表面化すれば、警部補のパソコンが不正アクセスを受けた事が明らかになる。送り主も直ぐに辿れるようにしておくよ。」と。 )
( 握手を求める様に差し出された手に視線を落とす。この手を取れば正に“悪魔との取り引き”が成立する訳だが今はもう迷いは無かった。無表情で軽く手を握り返し、一秒にも満たない速さで直ぐにその手を離し引けば、無意識か一度己の手を握り込む仕草を。___さて、これで晴れて取り引き成立となった訳だが。饒舌に紡がれる計画に思わず眉間に皺が寄ったのは、内容が内容だと言う事もあるがそれ以上に余りに簡単な事の様に話すから。つまり相手にとってはこれくらい造作もない事で、息をする様にあっという間に出来てしまう事なのだろう。…“こういう事”を、幾度となく繰り返して来たのだろう。「…エバンズさんに会ったら渡して。」と、告げてから鞄から取り出したのは、彼が服用している処方薬。安定剤と、鎮痛剤と、睡眠薬が1週間分。いつ面会が解禁されても良いようにと常に持っていたもので、これらが彼の元に届けば調子の悪さは幾らも軽減される筈だと )
アーロン・クラーク
( 手が握り返されたのはほんの僅かな時間だった。葛藤があるとは言え、相手はもう自分との契約を結んだのだ。背景がどうであれ、違法な手段が使われる事を理解しながらそれを見過ごし、犯罪組織の幹部に依頼をしたというのは事実だ。「…罪な人だなぁ、」と、微笑を浮かべつつ小さく呟いたのは、そうまでして救出したいという想いを向けられた彼の事。彼が絡まなければ、相手は決して悪魔と契約を結んだりしない。それをさせている彼は、間違いなく“罪深い”と言えよう。薬を受け取ると中身を確認し「_____可哀想だよねぇ、あの人は薬が無いとあっという間に自滅するくらいぼろぼろなんだ。いつまで経っても、何も変わらない。同じ夢にずっと囚われて、同じように目を覚ます。良い加減慣れれば良いのにね、」と肩を竦める。常用している薬を飲む事も叶わず、身体は辛い状態かもしれない。けれど、自分自身を苦しめているのは彼自身だ。彼が事件を過去の事にさえすれば、全て“終わる”事なのに、自分で自分にいばらのツルを巻き付けている。「ミラーは優しいよね、警部補の事になると。」と呆れたような口調で言いながら、すっかり溶けていたアイスクリームをスプーンで掬い口に運んで。 )
___犯罪者である貴方に頼った事も、契約を結んだ事も、全部私の意思。この判断が間違いだなんて少しも思わない。
( 可笑しそうに落とされた呟きにキッと睨む様な視線を向ける。確かに全てはエバンズを救い出す為で相手にとって彼は“罪な人”と言う位置付けになるのだろう。けれど誰に強制された訳でも頼まれた訳でも無く最終的な判断は己が下したのだ、何も間違いでは無いと言い切り。渡した薬に落ちた紫暗からは心の内が読めなかった。相手の言う通り、彼は永遠と悪夢に魘され薬を飲み、自分自身を責め続けている。誰よりも幸せになって欲しくて、誰よりも救われて欲しいのに、彼自身がそれを良しとしない。相手の紡ぐ言葉の中の一文を拾って瞳の奥が揺れた。「……大勢の人達が亡くなって、その中には妹も含まれていた__“慣れる”なんて無理だよ。…クラークは慣れたの?」簡単にその言葉を言ってのけた相手は慣れたのか、それとも“慣れた振り”なのか、問い掛けには無意識に悲しみが纏い。「何言ってるの、皆に優しいよ。」彼限定、とでも言いたげな言葉には同じく軽く肩を竦め小さな訂正を入れはするものの、「__でも、エバンズさんは優しい世界で生きて欲しい、」と、呟き。その音には慈愛と、願いと、確かな想いが滲むのだがそれもまた自分自身が気付くものでは無く )
アーロン・クラーク
( 慣れる事など無理だと相手は言うが、あの苦しみの中では“慣れる事でしか“自分を、心を守る術がなかったのだ。『…苦しみに慣れざるを得なかったのは、警部補たちの所為だよ。』慣れたとも、慣れていないとも明言せず、そうとだけ答えると意味深に笑みを浮かべる。大勢の人の心に傷を残した彼らの罪は重い。『あの人だけが優しい世界に守られるなんて、俺には納得できないけどね。』そう言って肩を竦めて見せつつも『_____まぁ、契約だからあの場所からは助け出すよ。また進捗は報告する。見返りの件はまた話そう。』と告げて。 )
( 相手は何方との名言はせずに普段見せる時と変わらない笑みを浮かべるだけ。確かにあの場所に居た当時の警察官達は誰も救う事が出来なかったかもしれないが、決して人質を見捨てた訳では無かった筈だ。相手も___彼もまたあの事件の被害者である事は間違いのに。返される言葉の全てに押し黙ったのは“何も言えなかった”から。そんな事を感じられる筈が無いのに、目前に居る相手と、今は遠くに居る彼の重たい絶望が混じり合い息が出来なくなりそうな、聞こえない罵倒や悲鳴に耳を塞ぎたくなる様な、何故だかそんな気持ちになるのだ。相手は、“痛い”と口にしないのだろうか。涙を流さないのだろうか。もう、そう言う事から遠い所に心を置いて来たのだろうか。“悪魔との取り引き”を終えた後は、残った何とも言い表す事の出来ない気持ちを抱えたまま署に戻る事となり。___クラークとミラーの“密会”が終わった数時間後、相手の元には役人が来て居た。『面会だ。新しい弁護士が来てるそうだ。』とぶっきらぼうに告げた男は相手を普段のガラスを挟む面会室では無い、取調べ室の様な部屋へと連れて行き。薄暗い部屋の中、椅子に腰掛けていたのはクラークなのだが、普段のセットされ纏まった金髪は後ろで緩く結ばれた黒髪に、時折闇を携える紫暗の瞳は茶色に、腕時計も、鞄も、スーツも靴も、普段身に付けている物より少しだけ安いものになっている今、果たして相手は気が付くだろうか。男が出て行き2人だけになった部屋の中、相手と視線を合わせたクラークは緩く笑みを浮かべ先ずは何か言葉を発する事無く片手を差し出して )
( 薬を飲む事が出来ないまま既に数日が経過し、繰り返されるのは同じような取り調べばかり。自供を促すような揺さ振りも増え、何かの拍子に発した言葉を悪用される危険性も考えて反論の言葉も返さず沈黙を貫くようになっていた。身に覚えの無い罪を着せられ心身共に限界に近い状態だったからこそ、弁護士の面会というのは一筋の光のように思えた。拘置所に入れられている今署に居る時の高潔な姿は無く、皺の入ったワイシャツに、何かを隠し持つ事が出来ないようにとポケットさえ付いていない黒いズボン。少し痩せて窶れた顔つきで、目元の隈も深い。---監視に連れられて入った部屋には黒髪の男が1人座っていたが、その姿を見ても、当然クラークだとは思わなかった。目の前に腰を下ろし、差し出された手を握り返して相手と視線を重ねた時、一拍遅れてようやくその正体に気付く。黒髪も茶色い瞳も、何もかもが自分の知っている彼の物とは違ったが、此方を見る表情と顔立ちは確かにクラークのものだ。「……どうして、」と、思わず呟きにも似た声が漏れる。胸には弁護士バッジを付け、政府機関であるこの場所で自分の目の前に立っている。此処で不用意な事を言うべきではないが、一体どういう事かと僅かに眉を顰め、相手に視線を向けて。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( 薄暗い部屋の中でも相手の目下の隈は主張を貫くものだから、薬が飲めていない事も相俟って心身共に相当のストレスが掛かっているだろう事は一目瞭然。何処と無く覇気の様なものを失った相手と握手を交わし、その骨張った指にも然程力が入っていない事でこれは相当だと内心小さな溜め息をつくのだが。褪せた碧眼と普段とは違う茶色の瞳が交わった事で相手は此方の変装に気が付いたのか、その表情に僅かな驚きと怪しむかの様な色を浮かべて見せた。誰がどう見てもわからない変装では無いものの、それでも己が“アーロン・クラーク”である事に瞬時に気が付いて貰えた事に気分の高鳴りは絶好調と言えよう。軽く手を動かし短い握手を終えた後、口元の笑みを更に濃いものへと変えつつ『初めまして。今日から貴方の担当弁護士になります、ウィル・フォスターです。前任の弁護士は少々手が離せない用事が出来てしまった為、私が引き継ぎますね。』と、すでに正体がバレているにも関わらずそんな戯言と偽名での自己紹介をして見せ。続いて部屋をぐるりと見回す。机の上の録音装置は取り調べでは無い為電源は入っていないようだが、隅に取り付けられている監視カメラは作動しているのだろう。何か物を手渡す為にはカメラをどうにかしなければならないと僅かに目を細め、それからまた笑みと共に相手に視線を向け。『貴方にクリスマスプレゼントがあるんですけど、それはもう少し待って下さいね。…先に今の状況について__どんな気持ちなのか聞かせて貰えますか?』椅子の横に置いてある鞄の中の軽い説明と共に、到底己には関係ないだろうと言われても可笑しくは無い問い掛けを送って )
( 相手と幾度と顔を合わせていなければ見抜けない変装だったと言えよう。此方を見る表情と口元に浮かべた緩やかな笑みは隠しきれないが、一見すると何もかもが”クラークではない“のだから。引き継ぎの担当弁護士として自分の前に現れたこの男が、無罪を証明しこの場所から解放してくれるかもしれないという一抹の希望は消えていなかった。______どんな気持ちかと、相手にはこれまでにも度々聞かれてきた質問だ。「…俺は無実だ、犯罪組織に情報を流したりはしていない。出るはずの無い証拠が出た事にも…困惑と憤りを感じる、」あくまで冷静に、この状況を説明するに相応しい言葉を選ぶと”お前なら分かるだろう“という意味を込めた視線を向ける。劣悪な環境下で体調も悪化し、自分が犯人だと決め付ける男たちと無意味なやり取りを繰り返すばかり。鳩尾の痛みもかなり定期的に走るようになっていた。「パソコンを調べてくれ、俺が送ったものじゃない。」と、訴えるように告げる。相手が本物の弁護士かどうかなどどうでも良い、自分に接触が許された人物だけが、自分の無実を証明できるのだ。レイクウッド署でも奔走してくれているとは聞いていたが、それ以降の情報は遮断されている。例え接触してきたのが目の前の相手であれ、今はとにかく証拠を探して欲しいと頼まざるを得なかった。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( ミラー同様に無実を訴える相手の吐露される心の内を軽い相槌を挟みながら愉しげに聞き届けた後。『そうでしょうね、内通者は貴方では無く別に居る。貴方のパソコンから流出した情報は他所から意図的に流されたもので、頭の硬い政府機関の連中は、それに気が付く事も無く無駄な時間を過ごしていると言う訳です。』相手の無実を僅かも疑う事無く全て知っています、とばかりにヒラヒラと片手を閃かせ言葉を並べ立てた最後『ちなみに、本当の内通者はちゃーんとレイクウッドに居るんですよ。』と距離を詰める為僅か身を乗り出す形で微笑み。そうやって“種明かし”をした後再び身体を引き座り直すと、『勿論、貴方が犯人では無いという証拠は直ぐに出します。___でも正直この状況を楽しみたい気持ちもあるんですよ。わかります?FBIの大半は貴方が犯人だと疑っていて、唯一信じているミラーも結局は何も出来ずお手上げ状態。貴方が頼れるのは“弁護士”である俺だけ。そして貴方の無実を証明出来るのも俺だけなんです。貴方のこの先の人生を、俺が握っていると言っても過言では無いでしょう?』すっかり弁護士の顔では無い、何処か恍惚とした狂気すらも滲む表情でやけにゆっくりと言葉を連ね、相手の感情の揺れを見物でもするかのように緩く首を擡げて見せて )
( 相手がさも当然の事かのように自分の無実を認めた事に、思わず言葉を失う。組織側の人間である相手は真実を知っているだろうと思ってはいたのだが。”本物の内通者はレイクウッドにいる“______その言葉が意味する所は、同じ職場にいた内通者に罪をなすり付けられたという事だ。自分が犯人ではないという証拠を直ぐに出すと言ってのける相手は、今この瞬間、この状況においては、唯一自分を救い出す事ができる強力な存在だった。しかし続いた言葉は、”いつもの“彼らしいもの。タダでは協力しないと言わんばかりに、此方を揺さぶり自分に都合の良いように仕向けようとする。「_____お前が此処に来たという事は、それ以外の道は全て潰えているという事だろうな。」そう言葉にしたのは、この男をもってしか、自分を救い出す術がないという事だと理解していたから。恐らく相手を此処に差し向けたのはミラーだろう。きっと其れが、最後の手段だった。つまり、この男を逃せば自分は無実の罪を着せられ逮捕される可能性が非常に高い状況だという事だ。「この状況では、お前しか頼れない事は理解してる、」とだけ答えて。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( 心身共にボロボロの状態であっても尚、冷静に今の状況を分析し最善策を手繰り寄せる目前の相手の姿と、涙を流し己に縋る相手の姿___掛け離れたその両の姿を思い背中に走るのは圧倒的な快感とも呼べるそれ。内心歪に笑いながら『その通り、貴方が賢くて良かった。』と頷き。となると己が此処に居る理由もミラーが絡んでいると察しているのだろう。そこで漸く焦げ茶の革の鞄からノートパソコンと一つの袋を取り出す。パソコンは机の上に、袋は開けてその中から相手が何時も服用している安定剤を取り出し___それを渡す事はせずに見易い様に胸の位置で軽く揺らすと『これ、ミラーからの“クリスマスプレゼント”なんですけど欲しいですか?』と問い掛け。『勿論これだけじゃありません。他にも鎮痛剤と睡眠薬も入ってます。』相手が今一番欲しているであろう物は全て此処に…己の手の中に揃っているのだと )
( 相手が鞄から取り出してちらつかせた袋に入っていたのは、普段自分が服用している処方薬。何一つ薬を服用することが許されない今は、いつ終わるかも分からない苦痛に夜な夜な耐えるしかなかった。せめて安定剤を飲む事ができれば、幾らか楽になるだろう。面会が禁止されてからも、ミラーはずっと自分に薬を届けようとしてくれていたのだということを漸く知る。「…欲しい。此処では薬が飲めないのがしんどい、」と、ミラーから託された其れを渡して欲しいと伝えて。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( 素直に薬を所望した相手に喉の奥で低く笑う。『そうですよねぇ、喉から手が出る程欲しいですよね。これがあれば貴方の苦しみは何倍も緩和される。』希望を目の前でチラつかせるだけチラつかせて簡単に与える事はしない。ふ、と葛藤を抱えながらも真剣な瞳で此方と取り引きをしたミラーの顔が脳裏を過ぎり、数秒思案する。『___でもね警部補、これを渡すには条件があるんですよ。ミラーには何も言わず渡せと言われたんですけど、貴方に教えないのはフェアじゃないですし___実はね、この薬を貴方が受け取れば、ミラーは俺の言う事を何か1つ聞かなきゃならないんです。拒否権は無い、そう言う取り引きをしたんでね。でも貴方がこれを受け取らないなら、ミラーとの取り引きは無くなる。その代わり、貴方の有罪は確実です。逮捕され、数年間は牢の中。勿論出所してもFBIに戻る事は出来ず世間からも白い目で見られ続ける。…貴方は、どちらを選びますか?』取り引きをしたのは本当だが、その内容に薬は無関係。けれどこの条件を突き付け選択肢を与えた時、相手はどうするのかと興味が湧いたのだ。悩むだろうか、それとも珍しく感情的になって罵声でも浴びせて来るだろうか、実際はちっぽけな絆だったら尚面白い。手に持つ薬を机に置き、ほんの僅かだけ相手の方に移動させて )
( 薬を飲む事で和らぐ苦痛があるだろうと同意を示しながらも、相手が其れを手渡してくる事はなかった。相手がのらりくらりと続けた言葉には思わず表情を固くする。この男の言う事を聞く、というのは途轍もない危険を孕んでいる事くらい相手はとうに理解している筈だ。そんな危険を冒してまで、自分を救い出そうとしたという事か、と理解して。薬を受け取らない事で其の取り引きが破棄されるなら、薬は要らないと突き返す事を選んだだろう。しかし______無実の罪を背負い逮捕されるというのは、あまりにもリスクが大きかった。ミラーを犠牲にすべきでは無いが、このままなす術もなく罪をなすり付けられ有罪になる訳にもいかない。言葉を発する事なく黙り込んでいたものの、少しして顔を上げる。「______其れは、俺とお前の間で成されるべき取り引きだ。無罪を証明して、俺を此処から出してくれ。その代わり、俺がお前の望みを聞く。……薬を届ける事がミラーとの約束なら、それはいらない。」と、言葉を荒げる事なく告げて。今頼れるのが彼だけという現状を思えば、彼の神経を逆撫でする事は避けるべきだ。しかし自分を助ける、という契約がミラーとクラークの間で成されたのなら、それは助けられる自分と彼との間で成されるべきもの。残る薬の受け渡しに関して、自分がそれを受け取らなければ______ミラーを巻き込む事にはならないだろうと。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( 相手からの返事は少しだけ予想外のものだった。あくまでも冷静に理論的に、そして此方の感情を揺らさず神経を逆撫でしない言葉達。それでいてミラーには何の迷惑も危険も無い取り引きを持ち掛けて来る___これがミラーとの性格の違い、更に言えばFBIとしての…人生の経験の差なのだろうかと珍しく分析を巡らせながら、次は表情をコロリと変える。試す様な眼差しから一変、害など僅かもありませんと言いたげなやや幼い笑顔で机の上の錠剤と、薬の入ってる袋を相手の目前まで滑らせて。『冗談です。貴方がどんな反応をするか見てみたかっただけ、薬はちゃんと渡しますよ。ミラーとの約束ですしね。』薬では無く“相手を助け出す事”が本来の契約なのだがそこは伏せたまま『監視カメラの事は気にしなくて良いですよ、後で何とかしておきます。』と付け加え鞄から新品のミネラルウォーターを取り出しそれも手渡して。『貴方と取り引きするのも魅力的ですが、今日は気分が良いんです。だから“無償で”。』笑みを浮かべたまま、相手が薬を飲むのを見届けた後は、自身のノートパソコンから証拠品として保管されている相手のパソコンが不正アクセスを受けていた事がわかる様に、隠されていたログの表面化をあっという間に済ませ。『___はい、終わり。貴方の仕事ぶりは評価に値しますが、こんな事も出来ないFBIには心底呆れますね。』パソコンの画面を相手に見えるように回しつつ、ついでにFBIの仕事ぶりにケチを付ける事も忘れずに )
( 冗談だと言って相手は笑顔を見せたが、其れを直ぐに信用することが出来なかったのはこれ迄の相手の行いの所為だろう。ミネラルウォーターを手渡され、苦痛を和らげる唯一の手段である薬を飲むようにと促されれば、それに抗う事はしなかった。薬が直ぐに効果を発揮する事を願いながら、安定剤と鎮痛剤を飲み込んで。目の前でパソコンを叩いた相手は、ものの数秒で作業を終えたようだった。「此れで_____本当の内通者が明らかになるのか?」と尋ねる。其の問いには、今すぐにでもこの場所から解放されたいという願いが滲んで居ただろうか。FBIは仕事が出来ないと言いたげな言葉が紡がれたが、サイバー犯罪の捜査で裁判所の許可が降りない限り、FBIは安易にハッキングする事は出来ない。正式な手順を踏んでいるのであれば、犯罪組織とスピードが異なるのは当然と言えよう。相手の言葉に反応する事はせず「組織に情報を流していたのは誰なんだ、」と尋ねて。 )
アーロン・クラーク( ウィル・フォスター )
( 胃に落ちた錠剤が溶けその力を発揮するまで、どれだけ早くても30分以上は掛かる筈。それが長いか短いかは相手次第だが、少なくとも薬を飲めたと言う安心感はその心を満たすだろう。だからだろうか、張り詰めていた心が僅か緩んだのか何処か急かす様な問い掛けに困った様に笑うと『そうですよ、貴方は直ぐに自由の身になれます。』と肯定した後。『名前はポール・アドキンズ。レイクウッド署の情報セキュリティ課に配属されているんですが、刑事課の署員と顔を合わせる事は殆ど無いでしょうし、知らなくても不思議じゃない。』あっさりと本当の内通者の名前を告げ。勿論彼は今こんな所で裏切りが発生しているとは思っていないだろうが、組織のメンバーが1人や2人居なくなった所で特別支障は無いし、ミラーとの取り引きやこの状況の方がよっぽど愉しく魅力的なのだから、罪悪感も勿論ある筈無く。___徐に立ち上がるとあっという間に相手の横に立つ。そうやって腰を折ると何の断りも無く両手を相手の頬へ添え『…こんなに窶れて。でも貴方が此処で過ごすのは今日だけ。あと1日、辛抱すれば良いんです。簡単でしょう?』その指先を緩く動かしながら何を考えているのか、まるでありったけの優しさを与えるかの様に、そうして諭す様に、ね?と同意を求めて )
( 相手は躊躇する事もなく、本当の内通者の名前を口にした。その名前の人物に心当たりはなく、同時に刑事課の見知った署員でなかった事に何処か安堵したのは、身近な人物からの恨みを買って悪意を向けられた訳ではないと思えたからか。この男は犯罪組織の幹部で、これ迄も散々苦しめられてきた______けれど、今この絶望的な状況から確かに自分を掬い上げてくれた、其れが出来る唯一の人物だった事は間違いない。「……助かった、」と一言だけ感謝を述べて。此れで自分が内通者ではないという証拠が直ぐに公になる筈だ。不意に頬に手を伸ばされると僅かに身体は硬くなるのだが、優しく紡がれた言葉には促されるままに小さく頷いて。善意や優しさとは掛け離れた所に居るこの男の事だ。信用すべきではないだろうが、今回の件については感謝せざるを得なかった。 )
( 相手が溢したのは珍しいお礼。この状況下で相手が縋れるのは自分だけで、己は相手の望みを叶え見事助け出すのも目前と言えよう。『囚われの“プリンセス”を助け出す役目を担えて光栄ですよ。』なんて砂糖の如く甘ったるい言葉を何の恥じらいも無く紡いだ後は『次はこんな薄暗い部屋じゃなくて、イルミネーションの綺麗な公園で会いましょう。』暗に出られるのだと言う事を今一度確りと告げ再び自分の席へと戻り。___面会時間は凡そ1時間、けれどその中で相手の無実を証明する証拠を出したのはほんの数分。後は全て一方的な雑談に回しただけの事。相手がたった1人孤独に耐えなければいけないのは今日だけで、明日の朝一番で本当の内通者の存在が明るみに出て拘留は終わる。それと同時にレイクウッド署にも相手は無実だったと言う連絡が政府機関から入るだろう。たった一言の謝罪で全てを終わらせようとする役人達に激怒し、それ相応の処罰を求めた警視正の行動は自然な事で。残るはクラークとミラーの間で交わされた契約だけとなった訳だが___「薬を渡してくれた事も、エバンズさんの無実を証明してくれた事も、……ありがとう、」釈放の後、念の為に1日だけ検査入院を、と無理矢理病院に連れて行かれたエバンズには内緒で、今カフェで顔を合わせている相手は今回の件の立役者。先ずは確りとお礼を述べるのだが、緊張が抜けないのは契約内容がまだ不明だからで )
アーロン・クラーク
( 彼を犯人と決め付けていた政府機関の役人たちは、流出した極秘資料が外部から送り付けられた形跡を見つけると謝罪もそこそこに彼を解放した。一瞬で終わる事に何日も掛けていたFBIの行動の遅さには呆れるのだが、自分が彼を救い出す貴重な任務を遂行し感謝されたのだから良しとしよう。カフェでミラーと顔を合わせて礼を言われると、機嫌の良さそうな顔で『気にしないでよ、ミラーと警部補の役に立てて良かった。感謝されるって気持ちが良いね。』なんて言って朗らかに笑って見せる。まるで無償の善行をしたかのような言動だが、当然相応の“見返り”は貰うつもりだった。『今回、ミラーと警部補の両方と話をして、お互いを思い合う”絆“って言うのかな。それに感銘を受けたよ。だから…これは、俺からのプレゼント。』そう言って、液体の入った小瓶を2つ相手の前に差し出す。『相手の為なら、自分を犠牲にしても構わない_____それって、すごく美しい感情だよ。もっと見ていたいと思った。…安心して。困難を乗り越えてこそ、信頼関係は強くなるって言うし、』にっこりと微笑むのだが、相手には此の小瓶の中身が何か伝わるだろうか。『ひとつはミラーが自分で、自分に打つ分。もうひとつは、ミラーが警部補に打つ分だよ。』そう言って、とんでもなく事を言っていながら安心させるようににっこり微笑んで。 )
( 表情にも声色にも機嫌の良さが溢れているのだが、それが逆に恐怖を与えて来る事を相手は知っているのだろうか。対照的に険しい表情のまま話を聞き続けるも、軽い音と共に何かの液体が入った小瓶2つが目前に置かれた途端にその表情は一変した。目を見開き、身体が硬直する。この薬の中身を己は知っている___穏やかな波の様に数回揺れた水面も、害などありません的な笑顔も、何もかもが恐怖だ。そして何が一番恐怖かって、それを散々苦しみ続けたエバンズに打たなければならない事だ。「っ、ちょっと待って!」と引き攣る喉から思わず声を上げれば周りのお客さん達数人が此方を見るものだから、結局感情を抑えるしかなく。ぐ、と膝の上で拳を握り締めてから「…これが取り引きだって事はわかってる、でも___エバンズさんは巻き込まないで。薬なら両方とも私が自分に打つ。ね?それだったら良いでしょ?」これ以上の苦しみを彼に与える事は絶対的に避けたいのだと、懇願がありありと浮かぶ瞳で“出来ない”は無しだと言われたにも関わらず取り引き内容の少しの変更を求めて )
アーロン・クラーク
( 両方の薬を自分に打つ代わりに、彼は巻き込まないで欲しい______まさに、無機質な部屋でエバンズから頼まれた事と同じではないか。“自分は犠牲になっても良いから、代わりに相手を助けろ”と。『…っあははは、!本当、考える事は何処までも一緒なんだね。警部補も同じ事を言ってたよ、自分との取り引きにしようって。ミラーは巻き込まないで欲しいってさ、』可笑しそうに笑うと、目尻に滲んだ涙を拭いながらそう告げる。けれど、そんな言葉あまりに薄っぺらいじゃないか。『2人とも“自分が肩代わりする”ばっかりで飽き飽きしてたんだよ。だから2人の意見を平等に聞いた。なのに……これでも未だ文句があるの?』自分は振り回されているのだとばかりに肩を竦める。言葉尻は穏やかだが、瞳は笑っていない事に相手は気付くだろうか。『それに、お互い“出来ない”はなしっていう約束だったよね。ミラーがその気なら、俺も約束を反故にしたって問題ない。……“あのログ”を捜査したのが犯罪組織の仕業だって分かるように細工をしようか。警部補は、自分が罪を逃れるために別の署員からデータが送り付けられた痕跡を捏造した______可哀想な情報セキュリティ課の署員こそが、謂れのない罪をなすり付けられた張本人だって事になる。何年刑が加算されるかな、FBIでの信用も失墜するね。』相手を追い詰めるため、そんな事を微笑みながら告げる。『これは悪魔の取り引きだ。契約した以上、選ぶしかない。戻るも進むもイバラの道_____身動きなんて取れなくなる。分かってて俺に助けを求めたんだろう?』と、言い聞かせるように穏やかな口調で言葉を続けて。 )
( 突如心底可笑しいとばかりに目尻に涙まで滲ませながら笑いだしたその声に思わず反射的に双肩が跳ねた。“警部補も”と言う事はこの取り引き内容を彼は知っていると言う事なのか。すっかり混乱してしまった頭で落ち着けと自分自身に言い聞かせるのだが、今置かれている立場はどう考えても相当不味い。まるで蛇に睨まれた蛙の如く逃げ出したいとさえ思うのに身体は動かず視線を逸らす事が出来ないのだ。逃げ道を塞ぐ様に、徐々に追い詰める様に___人質を取られている人の気持ちは正にこれなのではとさえ思う程。___彼が薬を打たれその大き過ぎる苦しみと恐怖の中、涙を流しながら助けを求めた姿がフラッシュバックし、思わず身体が震える。あの恐怖を再び、明確な己の意思で相手に与えろと言うのか。人の心を持たない正しく“悪魔”。僅かでも感謝したのが間違いだったと揺れる瞳で射殺さんばかりに睨み付けるのだが。この“悪魔”と取り引きをした時点で後戻りは出来ないのだ。「………何時、やればいいの、」唇に血が滲むほど噛み締めた後、聞こえるかも怪しい至極小さな声でこの先の進み方を問うて )
アーロン・クラーク
( 今からでも彼を有罪に出来ると言った自分の言葉に、相手は観念したようだった。『いつでも良いよ、でも自分に薬を打つ時に、1人閉じ籠るのはなし。警部補の目の前でやる事が条件だ。…そうだ、あのバーにしようか。病院を出たらバーに来るように警部補に伝えてさ、素敵な演出だろう?』と楽しそうに提案する。彼の目の前で自ら薬を打たせる事で、彼の罪悪感を高める。自分を助ける為に、彼女は不要な苦しみを味わっているのだと見せつけるのだ。同時にミラーを自分に縋らせて、自分から離れて行く絶望も味わえば良い。『警部補への連絡は俺に任せてよ。俺の誘いなら絶対に来てくれるから。』笑みを浮かべながらそう言ってスマートフォンを軽く見せて。 )
( 彼が病院に行ってる間に薬を打ち、鍵の掛けた部屋の中で1人耐える事が出来れば___その後何事も無かった様に笑顔でまた彼を出迎える事が出来れば、暖かい部屋の中ホットミルクでも飲んで、眠たくなれば同じベッドで眠る…そうしてまた繰り返される同じ日常の中に身を置けば、それで全てOKだったのに。何が素敵な演出だ。「…地獄に落ちろ、」出した事の無い程低く、冷たい声で告げたのはありったけの殺意と嫌悪を纏った音。今この場で殺してやりたいとすら思うけれど契約はどうしたって執行されるのだ。「___やるなら、早くして。」出されたスマートフォンを叩き割りたい気持ちを抱えたまま、視線を逸らす事無く睨む様な瞳で見据え続け、呼ぶのなら早くしろとばかりに )
アーロン・クラーク
( 怒りを滲ませる相手の言葉にも『情熱的だなぁ、ゾクゾクするよ。』なんて笑って見せる始末。相手に急かされてエバンズの電話番号を押すと電話を掛ける。数コール後に彼の声が聞こえると『出所、おめでとうございます。体調は大丈夫ですか?…実は、貴方を解放した見返りに、ミラーにお願いする事が決まったんです。“あの“バーに来てください、懐かしい遊びをしましょう。』と告げて。バーへの呼び出しに悪い予感がしたのか、焦った様子で此方を問い詰めようとする彼に対して『此れは契約なんです。貴方だって、ミラーを犠牲にしてでも冤罪を免れたかったんでしょう?助けたのにとやかく言われるのは心外です、俺の気が変わらない内に直ぐ来てくださいね。』と微笑むと、一方的に電話を切って。そうして此方を睨んでいた相手に視線を向けるとにこりと笑い『______さぁ、此れで役者は揃った。バーに行こう、カクテルは奢るから。』と、相変わらず演技がかった口調で声を掛ける。同時に牽制の意味も込めて『…文句を言うのは無しだよ、危険を犯して助けたのに何も感謝されないなんて事になったら、気分が良くないからね。』と脅しておくことも忘れない。せっかく言われた通りに力を貸して彼を助けたのに責められてはたまったものじゃないと。エスコートするかのように相手に手を差し出すと、共にローズバンク通りのバーへと向かい。 )
( 牽制の言葉にも返事を返す事無く睨み付けるだけ。差し出された手を取る事も無く立ち上がり、自分が頼んだ飲み物のお金だけはきっちりと払うと重たい両足を引き摺る様にしてお店を出て。___BARの中は相変わらず薄暗く独特の雰囲気を醸し出していた。此処には嫌な思い出が多過ぎる。自然と表情は強張り、立ち竦みそうになる足を懸命に動か促されるまま店の奥の方へ進むと、ややして壁に凭れる様にして再び相手に睨む様な視線を向け「…そんなに人が苦しむのを見るのが楽しい?、」と、徐に問い掛ける。あの電話の内容ならばエバンズは間違いなく此処に来る。そうして来たら最後、再び薬により増幅された恐怖を一身に受け苦しむ事になるのだ___もう既に十分過ぎる程苦しんで生きていると言うのに。例え“あの事件”の遺族だったとしても、彼を苦しめる権利は何処にも無いのに )
アーロン・クラーク
( 今は店として営業していないバーだが、中にはウイスキーやリキュールなどの瓶が幾つも残っている。カウンターの中に入り、グラスを光に翳して汚れていない事を確認すると、カシスのリキュールを開ける。カクテルを作る準備をしながら、相手の問いには自然な雑談のように微笑を浮かべて頷いて。『_____勿論楽しいよ。人が追い詰められた時の表情が好きなんだ、最も人間的で…最も美しいだろう?』そう答えながら恍惚とした表情を浮かべる。『それに、ミラーが苦しめば警部補は自分を責める。“また守れなかった”って。…あの人のああいう顔が堪らなく好きなんだよ。俺にとってはミラーも警部補も大切だから、壊れていくところまでちゃんと見ていたい。自然な感情だろう?』そんな事を言いながらグラスの中身を混ぜていると、バーの入り口の扉が開く。息を切らせたエバンズが立っているのを見ると『…来てくれたんですね。出所して直ぐに呼びつけちゃってすみません。』と肩を竦めて笑う。政府機関で顔を合わせた時と同じく未だ隈は濃い。彼とミラーが顔を合わせるのは1週間と少しぶりくらいだろうか。『お約束通り、警部補が犯罪者になってしまう前に助けました。代わりにミラーが苦しむ羽目になったんですけどね。…まぁ座ってください、今カクテルを出しますから。』と促して。 )
( まるでバーテンダーが客との会話を楽しむ様な様子だがその内容は酷く歪んでいた。“大切だから壊れていく所まで見たい”と言う気持ちが自然な感情だと笑顔で言ってのける相手を理解する事は到底出来ない。「…私には一生わからないし、わかりたくもない。」と低く吐き捨てた後は視線を静かに下方へと落とすのだが。今はもう営業していないBARの扉が開いた事で弾かれた様に顔が持ち上がる。そこに居たのは今最も顔を合わせたくなかったその人。会いたかったけどこの場所に来て欲しく無かった___相反する2つの気持ちが複雑に絡み合い、この先に起きる全ての事を想像し泣き出しそうな気持ちになる。クラークがカウンターの中で優雅にカクテルを作ってるのを確認し、足早に相手の元に駆け寄ると、1週間ぶりの挨拶諸々も置き去りに相手の片腕を掴み「聞いてエバンズさん…!、確かに私はクラークと取り引きをしたけどそれは全部私の判断。自己犠牲なんかじゃないし、ましてやエバンズさんのせいだなんて事は少しも無い。これが最善だと思ったから選んだの。忘れないで、」まだ取り引き内容が何かを知らない相手に十分な説明も無いまま、伝えなければと思う感情だけを焦燥を纏った早口で告げつつ、それでも瞳の奥にある覚悟の色だけは消えていないだろう )
( 病院を出て直ぐにタクシーに飛び乗り、指定されたバーの近くの大通りで車を降りる。裏道に入ると、嫌な記憶の蘇るバーには、“Closed”と書かれた看板が斜めになって掛かっていた。中に入ると、暗い店内には2人の姿。バーテンダーかのようにカウンターでカクテルを作るクラークの姿を認識し直ぐに歩みを進めようとするのだが、それよりも早く相手が自分の片腕を掴んだ事で視線が落ちる。矢継ぎ早に訴えるように相手が紡いだ言葉に首を振ると「_____お前は戻れ、此れは俺とあいつの間で取り交わした契約だ。」とだけ告げて、扉の方へと相手を押しやる。其のやり取りを見ていたクラークは、マドラーで中身をゆったりと掻き混ぜながら『…ミラーが此の店から出た瞬間に、貴方が全ての罪を被る事になりますよ。犯罪組織に情報を売りながら、無関係な情報セキュリティ課の署員に罪を擦り付けた。ログを操作する事なんて造作も無い。何年刑務所に入る事になりますかね、』と告げて。身動きを取れなくなった2人を片目に『今日は、カクテルに“あの薬”を混ぜてみたんです。飲んでから効果が出る迄、注射よりは時間が掛かるでしょうね。…時間が経つごとに恐怖に追い詰められる。』と告げて、相手にグラスを差し出して。 )
( たった一言で身動きが取れなくなる程に、彼の言葉は強く或る意味呪いだ。そして一瞬で終わらせず敢えて苦しみが長引く方法を選ぶ彼は紛れも無い悪魔だろう。最も恐れるのは増幅された苦しみの渦中に身を置く事では無く、そんな己を見た相手が自分自身を責め再び過去の痛みを思い出してしまう事だ。受け取らない選択など出来る筈もな無く、冷たくなった指先に力を入れ彼からグラスを受け取る。赤紫がグラスの中で揺れ、カシスの香りが仄かに鼻腔を擽るそれは“何も混ぜられてなければ”とても美味しいカクテルだっただろう。___これを飲んで、このBARを出て1人になる事も、何処か別の部屋に閉じ篭る事も出来ないのだ。「……、」せめてもの抵抗とばかりにクラークを再度睨み付け、2人から少し離れた壁際にある椅子に腰掛けた後、深い息を吐き出してから中身を煽る。薬自体は無味無臭なのだろう、特別変な味や香りを感じる事無く赤紫はあっという間に胃に落ちた。___それからものの数分、ドクン、と心臓が大きく脈打ち言い表す事の出来ない嫌な感覚が全身に広がるのだが、彼の言う通り注射じゃない為じわじわと恐怖が膨れ上がるのだろう、まだパニック発作を起こす程では無いが時間の問題なのは自分自身が一番良くわかった。荒い息が漏れ、掌に爪が食い込む程握り締めながら僅かに俯く。落ち着け、大丈夫だ、と言い聞かせるのだが、やがて小さな身体の震えから徐々に恐怖に追い詰められて行き )
( 飲むなと叫びたかったのに、相手が其の赤紫のカクテルを呷る姿をただ見ている事しか出来なかった。自分の事は良いから彼女を助けてくれと赦しを乞えば良かったのか、けれど謂れの無い罪を背負って一生其のレッテルと共に生きて行く事はそう簡単に選べなかったのだ。自分の保身の為と言われればその通りだ。直ぐ近くに居るのに何も出来ないという無力感は、“あの事件”を思い起こさせた。また、何も出来ずに自分だけが傷付かない道を選ぶのか、と。『…警部補、其処から動かないで下さいね。“貴方が”ミラーに此の決断をさせたんです。貴方を救おうとしなければ、俺と取り引きなんてしなかったでしょうね。…今回も、其処で見ていてください。』ミラーがカクテルを飲み干したのを見届けると、ややしてクラークはそう言って笑みを浮かべた。彼女が苦しむのは全てお前の所為だと刷り込むように紡がれる言葉。少し離れた場所で立ち尽くしたままでいると、彼は相手へとゆっくり近付いた。そうして、まるで見せ付けるかのように相手の座る椅子の傍らに膝を突き、相手を見上げながらそっと手を握る。『_____ミラー、大丈夫だよ。俺は此処に居る。…こんなに震えて、可哀想に。本当はこんな苦しみとは無縁の筈だったのにね、』呼吸を上擦らせている相手に優しく声を掛けながら、寄り添うように背中を摩って。 )
( ___喉を通った薬は体内から静かに、けれど確実に過去の恐怖を増大させ連れて来た。身体がまるで痙攣を起こしているかの様に震え、それを自分の意思で止める事が出来ないのもまた恐ろしい。クラークが傍に来た時には既に残り僅かだった理性は恐ろしい記憶に飲み込まれた後で、手を握られ背中を擦られた事で勢い良く顔を上げると、もうその緑の瞳には彼の姿しか映ってはいなく。あっという間に溜まった涙は頬を伝い大粒の雫となって顎先から落ちる。殆どまともに出来ていない呼吸の合間に「…め、なさ…いっ、ごめ…っ……!、」と、途切れ途切れの謝罪を繰り返すのだが、それが誰に向けたものかは不明。暗い地下室で見た男、助けられなかった沢山の被害者達、そうして幼い少女の姿。数秒の間に様々な人達の幻覚が見えた。目前に居るのがクラークであると認識出来ぬまま、伸ばした指先は彼の服を緩く掴み、離れないで欲しいと訴える。怖くて怖くて、誰かに縋っていないと心を保てなかった。「…1人に、しないで…っ!」身体を無理矢理動かし、彼の首に両腕を回し、懸命に抱き着きながら嗚咽する。___と、見えていた恐怖の種類が変わった。一度大きく双肩が跳ね、声にならない悲鳴が漏れた。“エバンズさん”と唇は動いたのだが、音として出る事は無く、ただ、虹彩には恐怖と別に絶望の色が広がり )
( 相手が恐怖に沈む姿を、泣きながらクラークに縋り付く姿を、ただ見ている事しか出来なかった。あの時と同じ、頭では動くべきだと分かっていても身体が硬直してしまって動かないのだ。『…この耐え難い恐怖の中にも、警部補が居るんだね。』ミラーを抱き寄せ背中を摩るクラークは耳元でそう囁きながら慈しむように相手の髪を撫で、やがて此方を見て微笑む。『貴方は罪な人ですよね。貴方の存在がミラーを苦しめる。そして、その苦しみの中にも貴方は現れる。_____彼女を自分に縛り付けているんですよ。ミラーは光の側に居た筈なのに、貴方が闇に引き摺り込んだ。』クラークの言葉は、鋭利な刃物のように心に突き刺さる。彼の言う事は間違いではなく、自分と関わりさえしなければ、相手はこんな闇を知る事もなかったのだ。過去の様々な辛い記憶がフラッシュバックし、泣きながら震えている彼女の苦しみは計りきれず、クラークの服を握りしめる手にも力が籠っている。クラークの狙い通り、相手の側に居るべきではないという想いばかりが膨らんでいた。 )
( 頭の中に流れる恐怖の映像は実際にあった過去の出来事から、何時の間にか“創り出した”映像に変わっていた。___風景は暗く周りに明かりは無いのにエバンズの姿だけは確りと見える。相手の背後に聞こえる音は恐らく波で、だとするならば此処は海だろうか。名前を呼び、伸ばした手は強い力で振り払われ、己を見る褪せた碧眼は酷く冷たい色が滲んでいる。「エバンズさん」ともう一度呼び掛けたのだが返って来た返事は「誰だ、気安く呼ぶな。」と言う冷徹なもの。相手は己を知らない。___再び映像が変わり足元には少女の遺体。その傍には相手が立っていて矢張り冷たい目をしている。そうして「助けられなかったのか、お前には心底失望した。」と吐き捨て背を向けるのだ。___“エバンズが居なくなる事”“失望される事”が何より恐ろしいのだとこの薬は正直な気持ちを押し上げてくれるものなれど、“毒薬”だ。奇しくも相手が離れなければと思う気持ちと、己が恐ろしいと感じる事は同じ。「行かないで…っ、」と、絞り出した声は小さく震え、至近距離に居るクラークにしか聞こえていないだろう。後は何も言葉無く、ただただ絶望と恐怖の中に身を置き、ややして体力や精神力の限界が来たのか徐々に身体の力が抜けていき彼に身を預ける形となり )
( 自分が離れて行く事を相手がどれ程恐れているか、知る由も無かった。「____此れは、俺とお前の取引きだった筈だ。…っ頼むから、解毒剤を打ってやってくれ、」相手が苦しむ姿を見ている事に耐えられず、そう言葉を振り絞る。崩れるようにしてクラークに身体を預ける相手と、上下する肩を摩る彼。そして、成す術もなく立ち尽くしている無力な自分。相手が犠牲になる必要など何処にもなかったのに、今苦しみを受けているのは全て自分の為だ。“自分が、闇に引き摺り込んだ”______クラークの言葉は棘のように心を抉る。また“失う“かもしれないという思いは、重くのし掛かるばかりで。 )
( 頭の中に流れる映像は電源が切られた様にぷっつりと途切れ真っ暗になったのだが、漠然とした恐怖心は理由無く心身を蝕み意志とは関係無く流れ続ける涙を止める事も出来ず、ただただ力の入らぬ身体を唯一ある“温もり”に委ねるだけ。___真下にあるミラーの柔らかなグレーの髪を梳く様に撫でながら相手からの懇願に再び顔を向ける。一歩たりとも動く事が出来ずに居る相手に『身勝手に闇の中に引き摺り込んでおいて、自分の力で助け出す事も出来ない。…貴方、“ミラーの人生”を壊すつもりなんですか?』目だけは全く笑っていない微笑みで、まるでミラーに寄り添う様な辛辣な言葉を吐き捨てた後。それでも既に虚ろな目で言葉を発する事も出来ない腕の中のミラーにこれ以上の“愉しさ”は望めないと思えば、器用にその身体を支えながら内ポケットから望み通りの解毒剤を取り出し。『俺が取り引きをしたのはミラーですよ。でも、予想以上に愉しませて貰ったので後は貴方たちの観察をする事にします。』と、告げつつ解毒剤をミラーの首に打ち、そのままぐったりしている身体をソファへと横たわらせて。『はい、ドーゾ。お返しします。』態とらしく両手を軽く上げて一歩後ろへ下がり、そのまま位置的に良く見えるバーカウンターの中へと再び戻って行き )
( 自己犠牲でも、自分の所為で起きた事でもないと相手は言ったが、其れは嘘だ。あの拘置所から自分を救い出す為に_____その為だけに、相手はクラークと契約を結び、襲い来る恐怖に苦しんだ。そして、自分の力だけでは彼女を助ける事も出来ず、クラークに縋り付く姿を見ている事しかできない。無力感が心に影を落としたものの、相手に解毒剤が打たれクラークが離れると、ようやく相手の側に近づく事が叶うようになる。「____っ、ミラー、」相手の名前を呼び、ぐったりしている相手の肩を揺する。そうして棚に何本もストックされているミネラルウォーターのペットボトルを手にするとキャップを開け、始めに注射針を刺された首元を濡らし、相手の口元へと近づける。「直ぐ楽になる、…こっちを見てくれ、」視線が合わない事に焦りを感じ、相手に呼びかけながら頬を撫で。 )
( 胃に落ちた薬とは違い、注射器で直接血管を通り流された解毒剤は遥かに短い時間で恐怖を取り去った。けれど身体に残る倦怠感は大きく、過呼吸による酸欠状態になっていた為か指先は冷えてしびれが残ったまま。呼び掛けに応える事も身体を動かす事も出来ず、上手く焦点を合わせる事の出来ない瞳が捉えたのは口元に近付けられたミネラルウォーターのペットボトルで、飲みたいと言う意思で重たい唇を開くが空いた隙間は極僅か。結局少量の水すらも飲み込む事が出来ず、苦しそうに眉を寄せ数回咳き込み、その際口の端から溢れた水は頬とソファを濡らす事となり。頬を撫でる相手の指先の温もりを感じ取れているかは定かでは無い。虚ろな目に真っ直ぐ相手は映っていないものの、たっぷりの時間を掛けて漸く少しばかり呼吸が落ち着いてくると、「……帰りたい…、」とだけ、絞り出した至極小さな声量で告げて )
( 差し出した水は相手の頬やソファを濡らし、胃の中へと落ちる事はない。苦しそうな様子にどうしようもなく胸が痛むのだが、今自分が相手を不安にさせるような表情や振る舞いをするべきではないと感じ、それを表に出す事はしなかった。相手が絞り出すように紡いだ言葉に頷くと「……あぁ、分かってる。直ぐに帰ろう、」と同意を示す。様々な感情が渦巻いてはいるものの、もうこれ以上この場所に留まっている必要はない。カウンターの中にいるクラークには見向きもせず、相手を家まで送り届けるためソファに身体を起こさせると背凭れにもたれさせて。 )
( 全体重を掛ける様にして背凭れに凭れ、その際重たい腕を持ち上げ相手の腕に力の入らぬ指先を引っ掛ける。倦怠感や僅かに残る震えから握るだけの力は無いものの“近くに居て”の意思表示だ。___そんな2人の遣り取りを珍しく黙って見ていたクラークだったが、家に帰るとの話になれば別。契約の1つは達成されたかもしれないがまだもう1つが残っているのだから、それを無かった事には出来ない。『__ちょっと待って下さい。』と言いながらカウンターから出て相手の元に近付くと、スーツの内ポケットから次は液体の入った小さな小瓶を取り出し中身を揺らす様に見せ『…これ、ミラーが飲んだ薬と同じものなんですけど、実はもう1つ契約がありましてね。貴方も飲まなきゃいけないんですよ。…今この場で飲んでもらうか、それともまた日を改めてミラーが元気な時にするか__これをミラーが貴方に打つ姿も唆られますよねぇ。どんなシチュエーションが一番良いかずっと考えてるんですけど、折角だから貴方の意見も聞きたいなぁ。』恍惚とした表情とまるで物語を語るかの様な口調で緩く首を傾けつつ。最後には、『貴方を助ける為に、貴方を苦しみに落とす契約をする、皮肉ですよね。』と締め括り、ぐったりしているミラーに徐に手を伸ばし涙の跡の残る頬をゆるゆると撫でて )
( カウンターの中で黙って成り行きを見ていた彼だったが、そのままクラークを無視してバーを出る事は叶わなかった。呼び止められ、近づいて来た彼が徐に取り出したのは先ほどと同じ薬の入った小瓶。相手を苦しみに突き落としておきながら、これ以上を求めるのかと思わず絶句する。この男と“取り引き”をすると言うのはこういう事なのかと理解させられる状況だった。この薬を、ミラーが自分に打つ______あの耐え難い恐怖と苦しみを思い出すだけで背筋が凍るのだが、相手の心を守る事も考えなければならない。この状況を覆せないのなら彼に従うしか無いのだが、今相手の意識が朦朧としている状態で終わらせるべきか、それとも間違いなく精神的に落ちている相手にこれ以上の負担を掛けない為に今は避けるべきか。答えなど出る筈もない。弄ぶように相手の頬を撫でる手を強引に掴み離させると、そのまま「…其れを寄越せ。今、自分で飲む。」と告げて。クラークを見つめる瞳には、冷ややかな憎しみと葛藤と恐怖とが渦巻いているものの、振る舞いはあくまで理性的なもので。相手に薬を打たせるという状況はやはり避けたかった。今目の前に薬があるのだから、自分で飲んだって構わない筈だと。 )
アーロン・クラーク
( ミラーの柔らかな頬を撫でていた時間は僅か。強い力で以て引き剥がされれば、その行動に可笑しそうにクツクツと喉の奥で低く笑い。至近距離で見る相手の碧眼に渦巻く感情の色は様々で、覗き込む様な角度で暫し何も言わず表情を眺める。薬を飲む事でどんな恐怖に襲われるか___何度も体験している相手が一番良くわかっていて本来ならば嫌だと拒絶したい筈なのに、その恐怖とミラーの心を守る狭間であくまでも冷静に、理性的に振舞おうとするその何と健気な事か。『本当、可愛らしい人ですよね。』と、しみじみ呟いた後は。けれど、望み通り渡す事なく『それも悪くは無いんですけど……やっぱりミラーに頼みます。それが最初の契約だった訳だし、どんな顔で貴方に薬を打つのか見たいですしね。__と、言う事で。ミラーの意識がしっかりするまでは此処に居て下さい。ミラーに付き添ってても良いし、暇なら俺がお喋りに付き合っても良い。此処から出なければ何をしても自由ですが…一歩でも外に出ればどうなるかは、態々言わなくてもわかりますよね。』薬を再び内ポケットに戻してから、“進み方”を勝手に決定しつらつらと説明した後、『お酒が飲みたかったら作りますから、遠慮無く。』なんて微笑み、またカウンターに戻ると自分が飲む分を先に作り始めて )
( 最悪な状況下で考え得る限りの最善策は、ことごとく打ち砕かれた。自分で飲む事も許さず、相手の意識がはっきりするまで待てと。「______何処までも悪趣味だな、」とだけ吐き捨てると、カウンターの方へ向かう事はせずソファに横たわる相手の側に留まって。取り乱さないよう、表向きはあくまで冷静に取り繕っているが思考はそうはいかない。自分を救う為に相手を苦痛に沈めてしまったという罪悪感は冷たく背中を這い上がって来るのだが、同時に此れは自己犠牲ではないのだと訴えた相手の真っ直ぐな瞳が其れを押し留めようともしていた。自分が相手の近くにいる限り、クラークはそれを“弱み”と見做し相手に危害を加えかねないという不安は、レイクウッドを離れた時の心情とよく似ていた。“身勝手に闇に引き摺り込んだ”というクラークの言葉と、ソファでぐったりしている相手の姿とが気持ちを追い詰め、相手の肩をゆっくりと撫でていた手に思わず僅かに力が籠り。 )
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