匿名さん 2025-09-07 22:09:43 |
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……あははっ、天使だなんて、買い被りすぎですよ。でも、ありがとうございます。
(先程のフォローは少しでも彼の肩の力を抜くことに成功したのか、再び知識を披露してくれるその様子を眺めて嬉しそうに瞳を細めて耳を傾けていたものの、自分の本質を突くようなクリオネの説明に、一瞬固まってしまった。"天使の皮を被った悪魔"。自分の所業が露見した相手に、かつてそう罵られたことがある。そもそも騙される方が悪いと思っていたのでその時は何も思わなかったが───もし、彼にそう罵られたら?考えるだけでズキン、と胸が痛む。自分を善人だと信じて疑わない様子の彼を見ていると、騙してはいない筈なのに騙してしまっているような心持ちになった。それでも純粋に褒めようとしてくれている彼まで不安な気持ちにはさせたくなくて、はにかんだような笑顔を浮べて人さし指で軽く頬を掻いてみせる。自分の本質は善人とは程遠い薄汚れた悪魔のようなものだとしても、少なくとも彼の前でだけは善人でありたい。彼の傷付く顔だけはどうしても見たくなかった。再びクリオネへと視線を移すと、相変わらず愛らしい容姿をしてふわふわと海中を漂っている。そっと視線を逸らすと、気持ちを切り替えるように歩き出し、道中様々な展示を眺めながら、気づいたら一度屋外のエリアへと出ていた)
悠さん、ちょうどいい時間なのでお昼にしますか?ご飯食べてからイルカショーに行ったら時間的にもちょうど良さそうですよ。
(買い被りだなんて謙遜をする直前、彼の表情が凝固したのが目に入った。いきなり自分が披露した雑学の内容が気になったのか、それとも何か別の理由があったのか──詮索したい気持ちが頭を擡げてきたが、すぐにそれを振り払う。その部分は触れてはいけない気がした。理由を知れば意外と大したことの無いものかもしれない。だが彼が固まった理由を知っていけない。そこに踏み込むと良くないことが起きる。人生の経験値というよりかは、社会性を持つ人間としての本能がそう警告している気がした。だから彼の言葉に笑みを返して、思考に蓋をした)
ああ、もうお昼ですね。良い時間ですし、食事にしましょうか。
(彼からの食事の提案を受けて、身に付けていた腕時計に視線を落とす。時刻はランチに丁度良い時間を指していた。先程まではまだ10:00程度だったはずだが、時間の流れがかつてないほど早く感じられる。普段の激務よりも余程時間が短く感じられるというのは、一体どんな意地悪なのだろうか。彼の提案を諾うと、少し先のレストランに向かう。水族館本館の人混みを考えると、レストランの方も混雑しているとは考えづらい。そう見当を付けて向かったレストランは、予想通りの混み具合だった。それなりに客はいるが、平日のランチタイムにしては少ないといえる。入店すると難なくテーブル席に案内され、メニュー表に視線を遣るが、自分は優柔不断だ。先に彼にメニューを決めて貰った方がいいだろうと、メニュー表を彼の前に置いて告げる)
私は優柔不断ですから、湊くん先にどうぞ。
わあ……結構種類があるんですね。子供向けから大人向けまで幅広く揃えられてますね。俺は……オムライスのドリンクセットにします。
(待ち時間も無く程よく空いているレストランに入り案内された席へと腰をかけると差し出されたメニューを手に取りパラパラとページを捲りながら一度中身を確認する。親子連れが多いからなのか、そのバリエーションはかなり多岐にわたっており、思わず休日の混雑時のキッチンの心配をしてしまう。そう時間を要することなく自分の分のメニューを決定するとぱたりと表紙を閉じて再び机の上へと置いて相手の前へと差し出した。ふと、息をつく間が出来て、思わず先程のやり取りのことが頭を過ぎる。咄嗟のことで最初の反応は素が出てしまったが、彼に見られては居なかっただろうか。深く追求されなかったということは、あの一瞬の表情に彼は気づかなったのか。薄暗い場所であったし、十分その可能性はある。そうだと信じたい。どの道確かめるすべもないのだ。モヤモヤとした感情を誤魔化すように笑みを浮かべると、眼前の相手へと再び視線を移し僅かに首を左へと傾げる)
優柔不断、なんですね。これだけあると迷っちゃいますよね。……あ、そうだ。じゃあ俺が決めましょうか。悠さんの食べたいもの当てゲーム。
(思い返すと確かに彼の家を訪れた日もコーヒー豆を選ぶ際に呼ばれたものだったか。あれも優柔不断ゆえなのだろうかと思うとどこか愛しく感じて思わず目許が緩む。じっくりと悩んでいる彼を眺めているのもそれはそれで楽しかったが、ふと思い至ったように提案をひとつ。恐らく早く選ばねばと焦ってしまうであろう彼への配慮だったのも確かだが、純粋に彼の好きそうなものを当てるのは面白そうだという気持ちも強く、反対側からメニューを眺めながら口元に弧を描いた)
まずは嫌いなものを選ばないようにしないと。悠さんが食べられないものはなんですか?どんな食べものが好みですか?
食べられないものですか……。そうですね、この中だと……エビのサラダとかカニクリームコロッケとかがダメですかね。私、甲殻類アレルギーなんですよ。加工してあってもエキスが入っているとダメなんです。
(唐突にゲームなどと言うので、言われている意味を推し量るように目を瞬く。何をするのかと思ったが、どうやら一緒に料理を決めてくれるらしい。彼はとっくに決めているというのに、自分の優柔不断さのせいで時間を取らせて、申し訳ないと些か思ったが、彼と一緒に"ゲーム"ができるのが嬉しさを感じた。ページを繰り、メニュー表を眺めながら食べられないものを探す。そしてふと自分が甲殻類アレルギーであることを思い出す。しかも割と重度のアレルギーだ。なぜこんなに大事なことを今まで忘れていたのか。自分でも不思議だったが、考えてみれば、これまで他人と食事をする機会がなかったからに違いない。自分一人で食事を済ませることが殆どだったので、無意識のうちに甲殻類を使用していない料理を選んでいたのだろう。仕事柄会食は多いが、先方が気を利かせて甲殻類を全く使用しない店を選んだり、甲殻類を使わないコース料理を注文しておいてくれたりしているので、自分でアレルギーを自覚する瞬間はないに等しかった。思い出せて良かったと胸を撫で下ろす。彼との外出のおかげで思い出せた。仕事一筋の機械的な生活に、人間味が加わったようだった。誰も信じられず、交友を断ち切ったはずの自分が他者と交流し、社交的な営みをしている。彼のおかげで些かでも自分は変わることができた。その事実に胸が高揚する。食べられないものを申告した次は、好きな食べ物を考え始め、暫く悩んだ後に口を開く)
好きなものは……私は和食が好きですねぇ。洋食とかよりは和食の方を好んで食べるような気がしますね。
アレルギーは気をつけないとですね…。アレルギー情報があるタイプのメニューで良かったです。
(苦手な食材を聞くつもりではあったものの、返って来たのはより重い内容で、左手を口元へと添えて真剣な表情でアレルギー情報へと視線を落とす。自らにはアレルギーは無いものの、食物アレルギーは命に関わる場合もあるため、用心しなければならないという知識はある。明らかに入っているものならば分かりやすいものの、練り込まれていたり、彼の言うとおりエキスが入っていたりするものはぱっと見では分かりづらいため、より神経を配る必要がある。好き嫌いよりも重要なその情報を知ることが出来て良かったと感じつつ、和食を好むという情報を思考に加えつつメニューをじっくりと眺め)
和食、美味しいですよね。作るのは手間がかかりますけど…その分ほっこりします。…ふふ、悠さんのこと、またひとつ知れました。
(甘いものが好きで、コーヒーが好きで和食が好き。甲殻類はダメ。徐々に彼に関する情報が自分の中でアップデートされて行く。良いように彼に取り入るためではない。純粋に彼に喜んでもらうために、彼を幸せにするために必要な情報だ。返ったらメモしておこうと考えながらメニューを眺めていると、ふとひとつのメニューが目に留まりページを捲る手が止まった。アレルギー情報をしっかりと確認するが、甲殻類の表記は無い。これならば、と提案するこちら側にも若干の緊張が走る。彼が気に入るものを選べているだろうか。自分が提案したゲームなのにこんなにも緊張するとは。少し思案したあと、決心したようにメニューを指さして)
これ、どうですか?マグロのちらし寿司セット。見た目も凄く華やかですし、小さいひじきの煮物の小鉢も付いてますよ!
(どうして彼はこんなにも人懐こく笑うのだろう。自分のことを知れたと喜ぶ彼の表情を見て、そう思った。発言も表情も、全てが魅力的に思える。同時に自分も彼のことをもっと知りたいとも思った。これまであまり自分から彼のことを詮索しようとしなかったが、今度からはこちらから色々と質問をしたりしてみようか。この昼食をその機会にしてみよう。メニュー表のページを繰る彼をじっくり見つめながら、そう思い立つ)
これはいいですね! 湊くんのチョイスですから、きっと美味しいと思いますし。これにします。選んでくれてありがとう。
(彼が提案したメニューをじっくりと見つめる。確かに見た目も華やかで、美味しそうだ。何よりひじきの小鉢が嬉しい。ここ最近は肉を食べる機会が多かったので、久しぶりの海鮮に胃袋をくすぐられた。だがそれより何より彼が薦めてくれたものだからというのが最大のポイントだった。迷うことなく快諾すると、呼び出しボタンを押して店員を呼ぶ。オーダーに来た店員に彼の注文──セットのドリンクは彼に任せたが──を言い、自分の注文を言い渡す。店員が去り、料理の到着を待つだけの時間になると、メニュー表を片付けながら彼に問掛ける)
湊くんは、どういう料理が好きですか? オムライス頼んでましたが、好きなんですか?
あはは、気に入って貰えて良かったです。……俺の好きな料理ですか?そうですね……
(自分の決めたメニューに対する相手の反応が肯定的だったことに安堵して気が抜けたように笑っていると、不意に自らへと返された質問に咄嗟に解答が出て来ず、考えるように軽く首を傾ける。今までもこの類の質問をされたことがなかった訳では無いが、返す答えは全て任務を円滑に行うようにするためのものだった。それは相手によるものの、相手の好きな物に寄せたり、あるいは意外性を持たせたり。自分の本当の好きな物ではなく、都合が良い物を答えていたので、本当の意味で自分が好きなものについては、実際のところそこまで深く考えたことがなかったことに気づく。"宮村湊"では無く、"自分"は何が好きなのか。よく考えると、彼の言う通り、無意識のうちにオムライスは注文することが多かった、かもしれない。オムライスという料理は、それぞれの店の個性が出る。卵ひとつとっても固めな店、ふわふわな店、半熟の店とあり、かけてあるソースもデミグラスの場合もあればシンプルにケチャップのパターンもある。家で料理をする時も、割と簡単に作れることもあってか、他のメニューに比して作る回数が多かった。そこまで考えてから、小さく、あ、と声を零す。他の料理に対してここまで色々と考えたことは無い。そうか、これが"好き"ということなのかもしれない。)
…好きです、オムライス。店によって色んなバリエーションがあって飽きなくて。卵でクルッと巻かれてるタイプの、ケチャップが掛かってる、割とスタンダードなやつとか特に好きで。
(自分の内面を晒しているような感覚が未だ慣れなくて、少しこそばゆさを感じたものの、話し始めると存外にすんなりと言葉が出てきた。素の自分を出さないことを徹底していた自分にとっては全てが新鮮だ。しかし、決して悪い気分ではなく寧ろ───彼に本当の自分を少しずつ知っていって欲しいと思わずには居られなかった。作り物の自分ではなく、本当の自分のまま対峙したい唯一の人。それこそが彼なのだから。そこまで言い終えた時、ウエイターが料理を運んできたため、一度そちらへと意識が逸れる。自らの前に置かれたオムライスからは美味しそうな香りと共に湯気が立っていて、食欲をそそるには十分だった)
そうそう、ちょうどここのオムライスが正に王道って感じで………やっぱりすっごく美味しそうです!
確かにオムライスには、色々な形がありますね。色々食べても、やはり最後にはスタンダードが一番になるんでしょうね。
(少しの空白の後、オムライスが好きと彼は言った。しかも形まで教えてくれた。きっとこれまで様々な種類のオムライスを食べてきたのだろう。王道はやはり王道。シンプルなものほど、他を寄せ付けない魅力を持っている。自分にもいくつか覚えがある。どんなに良い物を食べても、結局はシンプルな料理に惹かれるのだ。そこでふと思った。彼は普段どのような物を食べているのだろう。ベンチャー企業のエンジニアというのはどのくらいの収入で、彼の生活レベルはどのくらいなのだろうか。次々と知りたいことが湧き出てくるが、詮索する前にウェイターの方が早かった)
ふふ……湊くんはシンプルなオムライスが好きなんですね。覚えておきます。
(目の前に料理が運ばれてくると、手を付ける前に彼に一言告げる。"覚えておく"と意思表示したのは、君に興味があるということをアピールするためだった。高校時代に友人に言われたことがある。他人に興味が無さそうに見える、と。その時は何とも思わなかったが、彼にそういう風に思われたくない。予防線を貼った後に、彼がおすすめしてくれたマグロのちらし寿司に箸をつける。一口、口に運ぶとマグロや酢飯の旨味が溢れてきた。特にマグロは新鮮そのもので、水族館のメニューだけある)
湊くんおすすめのちらし寿司、とっても美味しいですよ!
(覚えておくという彼の言葉に、オムライスへ落としていた視線を思わず上げて眼前の彼を見つめた。興味の無い人間の好きなものなど覚えても仕方が無い。彼がわざわざ"覚えておく"と伝えてくれたのは、期待してもいいのだろうか。心臓が高鳴るのを感じつつそのまま彼を見詰めていると、自らが指定したちらし寿司を頬張り無邪気な笑みを零す相手の姿が視界に入った。自分の選択はどうやら誤りでは無かったらしい。思わずほっと安堵の息を零しつつ、美味しいと伝えてくるその様子に愛しさが溢れ静かに瞳を細めた)
…良かった。悠さんのお口に合ったみたいで。俺も、いただきます。
(軽く手を合わせてからスプーンを握ると、自らも目の前のオムライスを1口ほどすくって口へと運んだ。卵にはしっかりと火が通っていて、中のトマトライス部分は甘みと酸味が絶妙にマッチしている。どちらかと言うと子供向け寄りのメニューかもしれないが、やはりシンプルでとても美味しい。中にゴロゴロと混ざっている鶏肉も柔らかく、噛み締めるように咀嚼すると幸せそうに一度小さく息を吐いた)
ん…こっちも凄く美味しいです!水族館の中のレストランと言うと出来合いのようなイメージが強かったんですが、ちゃんとひとつひとつ丁寧に調理されてるんですね。…俺、悠さんとご飯を食べてると、普段より美味しく感じるんですよ。
(ぽろりと、本音が漏れる。少しずつ、少しずつ、彼への好意を感謝と共に伝えていきたい。二口目、三口目と口に運びながら相手の反応を窺うようにちら、と視線を軽く上げた)
んぇ……? あ、ああ、そうですか。それは……嬉しいですね。
(彼の何気ない一言に思わず顔を上げて反応してしまった。しかも間の抜けた声と共に。一瞬、おわれた意味が理解できなかったが、"そういうこと"だと理解すると、間の抜けた声で応答してしまった羞恥心と、彼にそんな風に言ってもらえた嬉しさにより、アタフタとしながらも返事をする。10も歳上なのにスマートに返事の一つもできなかった自分を恨みながら、恥ずかしさを紛らわせるように小鉢からひじきを摘む。そこからはもう無言で、ただひたすらに箸を動かすことしかできなかった。まるで授業中の失敗を気にして周りと目を合わせないようにしている中学生かのように、彼の方を向くこともできずにちらし寿司を口に運ぶ。相変わらずちらし寿司は美味い。だが敏感に味を感じ取れるほど、今の自分には余裕がなかった。30過ぎてこんな稚拙な対応しかできない自分が情けなくて仕方ない。普段ならばもっと円滑に解決できるはずだが、彼絡みのこととなると途端にどうしたらいいか分からなくなってしまう。自分の頭はポンコツになってしまうようだ。そうして黙々とちらし寿司とひじきを平らげてしまうと、お冷を一瞬で飲み干し、コップを机に置いて呟く)
……美味しかったですね。その……私も同じように思っていましたよ。君と食べると、美味しく感じると。
(焦りと誤魔化しの混在した反応を見せる彼の様子を見て、自分の意図するところが伝わったのだと確信すると、口元に引かれた笑みをより深いものに変えて、黙々と食事を食べ進める彼を眺めつつ、それ以上言葉を掛けることは無くオムライスを口へと運んでいく。どこか初心にも見えるその反応のいじらしさに愛でたくなる気持ちをぐっと堪え、その代わりに咀嚼を繰り返した。そうして食べ進めたオムライスの最後の一口へと運んだ正にその時、先に食べ終えた相手から告げられた言葉にその動きがぴたりと止まる。彼は確かに自分の言葉の意図するところを理解していたはずだ。その上でこの言葉を返していたということは、つまり。そこまで考えた瞬間、一気に顔に熱が集中するのを感じる。少しの間スプーンを片手に固まっていたものの、内から溢れるような幸福感に自然と瞳を細め笑顔を浮かべながらオムライスを噛み締めるように咀嚼してから一度大きく頷いた)
あはは、良かった。……そろそろちょうどイルカショーの時間みたいですし、行きましょうか。
(コップに残ったお冷を飲み干し、紙ナプキンで軽く口元を拭いてから再びパンフレットを取り出しイルカショーのタイムテーブルを眺めると、30分後から始まる回を発見した。ここから移動することも考えれば、タイミング的にはちょうど良いだろう。彼にも見えるようにパンフレットを指し示しながら徐に椅子から立ち上がった)
ああ、もうそんな時間ですか。じゃあ行きましょう。
(言われて思い出した。この後イルカショーが控えているのだった。先程の失態による羞恥心のせいで、大事なイベントがすっかり頭から抜けてしまっていた。彼が見せてくれたパンフレットと時計を確認すると、確かにもうすぐ始まる。ゆっくりと席を立つと、手早く会計を済ませレストランを後にする。それなりに腹が満たされると、先程の失態を引きずるよりも彼と一緒にイルカショーを楽しんだ方がいい、と幾分かポジティブな思考ができるようになった。イルカショーが行われる会場へ向かう道すがら、隣を歩く彼へ話し掛ける)
イルカショーなんて初めて観ます。イルカは賢い哺乳類といいますが、どういうショーを見せてくれるんでしょうね。
(動物を使ったショーは、サーカスぐらいしか見た事がない。イルカは哺乳類とはいえ、海中に住む動物だ。そんな動物を使って一体どのような催しをするのか。初めての体験に胸を躍らせる。やがて歩いているとイルカショーを行う会場に着いた。会場は既に入場を許可しており、それなりに人が入っていくのが見えた。入口から中へ入ると、想像よりも会場が広く思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。そしてショーを行うであろう水槽と客席の距離が近いのが気になった。これでは水が掛かってしまうにではないだろうか。見たことがないから何とも言えないが、これが標準的な距離なのだろうか。とりあえず真ん中くらいがいいのかもしれないと思い、近過ぎず遠過ぎずの位置にある客席に腰掛ける)
あれ、悠さん、イルカショー初めてなんですか?すごく利口ですよ、トレーナーさんの指示に従って芸を披露するんです。それにビックリするくらいかなり高く飛ぶので……でも、ここなら水飛沫の心配は無さそうですね。
(先を進む彼に続くような形で会場内へと入ると、さすがに人気の催しであるだけあって、親子連れを中心に会場内は多くの人で賑わっていた。水で濡れる可能性が高い席と濡れない席はベンチの色が分かれており、彼が選んだ席は水がかかる席の最後尾から三列ほど後ろの席だったので、余程上振れが無い限りはこちらまで水が飛んでくることは無いだろう。開演時間が近づくにつれて次第に席は満席になり、座りきれなかった人は最後方で立ち見をするほどの賑わいになっているようだった)
見てのお楽しみですね。あ、もう始まりますよ。
(会場内に警戒な音楽が流れ始め、トレーナーらしき女性が複数人ステージへと上がると、水中に合図を出す。瞬間、イルカがその合図に従って軽快に泳いでいくのが見えた。最初は簡単な技から、軽く飛んで頭上にぶら下げられたボールを軽く突いたり、タイミングを揃えて3匹のイルカが飛び跳ねたり。芸を成功させる度に褒美として餌を与えられているイルカを見て───よく飼い慣らされているな、と思った。与えられた指示に従い、報酬を得る。そうすることで自然の中での競争を経験することもなく餌を得られるのだから、当然と言えば当然かもしれない。しかし、イルカの姿はそれでもどこか楽しげに映った。狭い水槽の中で、人間の指示に従ってパフォーマンスをしているのに、その泳ぎはどこまでも自由で、くるりと回転しながら高くジャンプをするその姿が眩しく見える。無意識下で口元を軽く緩めながら、隣の彼は楽しめているだろうかとちらりと静かに視線を送った)
(彼の説明を聞いて一応は納得したが、どうにも解せなかった。イルカにできるパフォーマンスといえば、精々飛び跳ねることぐらいしかないだろうと思っていたからだ。彼の言葉に頷くと、どうやらショーが始まったようで視線を前へ移す。係員の合図に従って3匹のイルカが軽快に泳ぎ、ボールを突いたりしている。思ったよりスムーズにショーが進み、関心が高まる。イルカ達はタイミングを揃えて同時にジャンプしたり、螺旋を描くように泳ぎ、また同時に飛び上がる。ご褒美に餌が貰えるからとはいえ、ここまで一糸乱れぬ動きが出来るものなのか。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、実際にショーを目の当たりにすると、目の前の光景に圧倒され、前のめりでイルカショーを見ている。途中で彼の視線を感じて、視線を彼へ戻す。そして彼へ今の興奮を伝えようと口を開く)
湊くん、湊くん! みんな乱れることなく動いていますね! あっ、ほら。またジャンプしましたよ! 凄いですね!
(普段ならばもっと語彙を余すことなく使い、この光景を形容しようとするだろう。だが今の自分はそんなことも忘れてしまうぐらいに、イルカショーに夢中だった。幼い頃から人並み以上の娯楽は与えてもらってきたが、そのどれも今となっては思い出として記憶にすら残っていない。今までは単に激務がそうさせたのだと思ったが、どうやら違うらしい。ずっと独りだったからだ。楽しい時間を共有できる存在がいなかったから。だが今は違う。彼という何者にも代え難い存在が傍にいてくれるのだ。そんな自分の喜びを代弁するかのように、イルカたちは楽しそうに水中を泳ぎ、飛び跳ねる。リングをくぐったり、係員を背に乗せたり──イルカたちの一挙手一投足に目を奪われ、こんなに楽しい時間がもっと長く続けばいいのにと心の中で思う)
っ、……はは、あはは!そうですね。きっとたくさん訓練したんだろうなあ……
(盗み見たつもりだったのだが、こちらの視線を感じたのか彼と瞳が合いぱちりと一度瞬きをする。次の瞬間、興奮を隠さず目の前のイルカショーへの感動を伝える彼の姿に、思わず笑みがこぼれた。片手の甲を口元に添えながら笑い声を上げると、同意するようにこくりと一度頷いてみせてからぽつりと呟く。彼と共に見る景色はその全てが鮮やかで驚きに満ちている。資料の写真の中の社長としての顔でも、初めて会った時の他人行儀な大人びた雰囲気を纏った表情でもなく、ただ純粋に子供のように燥ぐその姿が嫌に幸福そうで眩しくて、どうしようもなく大切なもののように思えてひどく胸がかき乱された。ただひたすらに、この笑顔を守るためならば何だって出来るとすら思う。それ程までに幸せにしたいと思うような相手が自分のような人間に出来ることになるとはつい少し前まで可能性としてすら考えても居なかったが───彼と出会ってから、自分という存在が少しずつ、しかしながら着実に変化しているのを感じていた。情など不要だと教えられてきて、それを忠実に守ってきたが、今ならなぜそう教えられてきたか分かる。余りに幸せだからだ。その幸せを知ってしまえば、二度と手放せなくなる。組織のことすら裏切ってでも守りたいと考えるような危険思想の素になる───今の自分のように。再びショーへと視線を戻すと、1頭のイルカが最後の大技として、遥か上空にぶら下がるボールを突くという。いやいや、それはさすがに無理だろう…………と思いながらその様子を見守っていたものの、高く高く飛んだイルカがボールを揺らすその姿には心を動かされるものがあり、思わずバッと彼の方を向き、興奮そのままに気づけば彼の手を取っていた)
悠さん!すごい、あんな……あんな高いとこまで水中から飛び上がれるんですね!どうなってるんだろ、水の抵抗とかもあるだろうに……すごいなあ……!
え、あ……そうですね、凄いですね……!賢い上に身体能力も優れているとは、想像以上に凄い動物ですね!
(最後の大技が決まると思わず"おお"と歓声を上げた。だが長く続けるはずの歓声は最後まで続かなかった。不意に柔らかい感触がし、チラと見てみると、彼が自分の手を取っているではないか。一瞬、声も動きも止まってしまい、彼に話しかけられてようやく我に返るも、その返答は間抜けにもしどろもどろになってしまった。彼の様子からして意図せずに手を取ったものだと思われた。さりげなく手を離すか、勇気をだして握り返してみるか。悩みまでもなかった。彼の手をゆっくりと握ると、興奮気味の彼に合わせるように、テンション高く返答する。このままずっと握っていたい。できれば離したくない──そう思ったが係員が終了を告げ、周囲の観客がぞろぞろと立ち上がり出口へと移動をし始めると、自然と手を離してしまった)
いや面白かったですね。こんなにはしゃいだのは本当に久しぶりですよ
(出口へと歩みを進めながら隣を歩く彼に話し掛けるが、頭の中では別のことを考えていた。彼の手を握った時、心の底から身体が温かくなった気がする。身も心も熱が入った感覚がした。そして充足感が全身を包んだ。もっと触れていたい。ずっと彼と一緒にいたい。そんな欲求が抑え難いほどに膨れ上がっていくのに、時間は掛からなさそうだった。だが今日、その欲求を叶えようとしてはいけない。そんな気がした。きちんと言葉に出来なさそうだったから。この身を落ち着けてゆっくりと考える必要がありそうだ。イルカショーの会場を出て、腕時計に目を落とすと時刻は夕刻に差し掛かるところだった。彼のことだから、水族館の後のプランも考えてくれているかもしれない。もっと一緒にいれるかもしれない。そんな期待を胸に、彼の方を向いて問い掛ける)
そろそろ夕方ですが、どうしますか。なにかプランがあれば、いつまでも、どこまででも、お付き合いしますよ。
(握り返される手のひらの感触に、その瞬間になって漸く自分が彼の手を無意識で掴んでしまっていたことに気づき、思わず繋がれた手へと視線を落として瞳を見開く。無意識とはいえ何をしているのかと自分でも思うものの、握り返された手のひらの温度は温かく、離すことは到底出来なかった。このままずっと───そんな思いがふつふつと胸の内から湧き上がってくるのを感じるものの、観客たちが退場していくのを見て自分たちも続く形になり、その際に自然と離れてしまった。それでも未だ熱の余韻の残る手のひらに意識をどうしても奪われてしまい、彼から掛けられる言葉にも生返事になってしまう。もっとしっかり段階を踏むはずだったのに、こんなに自分が抑制出来ないのは初めてだ。こんなものでは到底満足できない、もっと触れたい。もっと触れて欲しい。もっと近くにいたい。もっと、もっと、もっと───。彼に触れた事で欲は収まるどころか増幅していくばかりで、どうしようもない。もっと理性的でありたいのに。そんなことを考えつつイルカショーの会場を出ると、隣の彼から掛けられた言葉に漸く意識を引き戻した。多忙な日々の隙間で時間を取ってくれていることは理解していたため、勿論一日のプランは考えていたものの夜前に解散した方が良いのだろうか、等と少々悶々としていた部分もあったため、その心配を払拭するような彼の言葉に自然と表情が綻び)
本当ですか?…実は考えてきてるんです。悠さんが疲れていたら申し訳ないかなと思ったんですけど……それならこれは俺の我儘です。もう少し付き合ってください。
(再びマップを取りだすと、進路をお土産ショップの方向へと向かう。夕方時と言うこともあり存外小さなショップの中は賑わっており、ゆっくりとショップの中を見て回りつつ、キーホルダーが並ぶ店の一角で足を止めた。数あるキーホルダーの中で、銀で象られたイルカのキーホルダーを2つ手に取ると、彼の方を振り返り少し考え込むように瞳を細める。お揃いで持って欲しい、…だなんて、もはや友人としての枠組みを超えてしまっているかもしれない。迷いはあったものの、それでも今日の思い出を忘れないように形にしたい、あわよくばそれが彼と同じものであれば彼と離れている時も彼を近く感じられるだろう───そんな思いが強く、ふたつのキーホルダーを掌に載せた状態で彼に見せるように示した)
悠さん。……あの、……これ、俺が買ってくるので、片方悠さんにプレゼントしてもいいですか?今日の思い出、みたいな…………
(表情が綻んだ彼の表情に、またしても胸が鳴った。時折見せるそういう表情が、自分にはとても魅力的に映るのだ。マップを見ている彼の隣を歩きながら、頭の中ではどのようにして想いを告げるべきかを考える。このままずっと想いを隠すなんて器用なことは出来そうにない。とにかく彼に聞いて欲しい。自分という人間が、人並み以上の幸福を手に入れられたのは君のおかげだと知って欲しい。君は魅力的な人間だと自覚して欲しい。そして、それを告げるのはもっと気持ちの整理がついてから。次回会う時に伝えるのがいいだろう。今のうちから、言うべきことを考えておかなくてはならない。と、そこまで考えたところで、どうやら目的地に着いたようだった。そこはお土産などを売っているショップだった。小さなショップながらバリエーション豊富な店内を興味深く観察する。ぬいぐるみやお菓子、そしてキーホルダー。彼がキーホルダーのコーナーで足を止めると、自分もその隣に立つ)
……なるほど。お揃いですか。ふふ、良いですね。じゃあこういうのはどうですか。お互いがお互いにキーホルダーを買ってプレゼントするというのは。だから君が持つキーホルダーは、私が買います。思い出の共有ですよ。
(彼の言葉に目を細めながら、掌に乗せられたキーホルダーをまじまじと見つめる。そして片方のキーホルダーを掌から持ち上げると、彼の目の前に掲げる。些か重い提案だっただろうか。だが自然と提案をすることに緊張や不安はなかった。むしろ、当然だと言わんばかりにスマートに提案できたと思う。自分の提案に彼はどう返事をするのか。ゆっくりとゆらゆら揺れるキーホルダーは、まるで今の自分の気持ちを表しているようだった。ゆったりと彼の返事を待つ。"どうですか?"と言う代わりにぴくりと眉を上下させる)
……共有……
(思いがけない提案に思わず瞳を瞬かせつつ口の中で復唱する。未だ関係性としてはただの友人のはずなのに、少し重かっただろうか、という内心での懸念を払拭するような彼のその提案に表情を緩め、直ぐに賛同するように大きく頷いてみせた)
良いですね。その方がずっとずっと大切な思い出になるでしょうし。じゃあ俺は悠さんが持つものを。これを買ったら夜ご飯にしましょうか。
(掌に一つだけ残されたストラップを優しく包み込むように握り締め、二人で会計の列へと並び、それぞれがそれぞれへのプレゼントとなるストラップを購入し終えたところで、お土産ショップから外へと出ると綺麗に袋に包まれたストラップを交換した。自宅に戻ったら直ぐにどこかに付けよう、なんてやや浮き足立つような気持ちで考えながら、すっかり暗くなった周囲を見渡しつつ閉館時間の迫った水族館を後にする。ちょうど時刻も夕食時、頃合かと水族館からさらにもう少し駅から離れた方面へと歩いていくと、隠れ家的なこじんまりとしたイタリアンレストランへと到着した。今日の計画を立てる際、その前に解散になる可能性はあるものの念の為にとディナーに良さそうな店まで調べておいたのが功を奏したようだ。訪れたことの無い店ではあったものの、ネットの評判と写真で見た雰囲気がよく目星を付けていた店で、中に入るとすぐに席まで案内された。席に着くとパラパラとメニューを捲りつつ、事前に仕入れておいた前情報から彼の興味を引きそうなものを取捨選択していく)
ここ、パスタもピザも凄く美味しいみたいなんですけど、デザートのイタリアンプリンがすごく絶品みたいで。悠さん甘いものお好きだって聞いてたのでちょうど良いかなと思って目を付けていたんです。
(自分の提案が重いことを知ってか知らずか──彼のことだから自分の思っていることなど見透かしているだろうが──快く諾う彼にほっと胸を撫で下ろす。会計を済ませ、彼へ紙袋を渡し、引き換えに彼から同じ紙袋を受け取る。初めて友人とこんなことをした。何物にも代え難い思い出となるだろう。死ぬまで絶対に忘れないような──そんな思い出に。ストラップとしてはどこかに付けるのが良いのかもしれない。だが自分は別の使い道を考えていた。肌身離さず持ち歩きたい。だが他人の目には触れたくない。ジャケットの胸ポケットや内ポケットに仕舞ってお守り代わりにしよう。そんなことを考えていた。水族館を出ると、既に夕刻で辺りは暗くなりかけていた。暫く歩いていると、隠れ家を思わせるようなイタリアンレストランに到着した。思わず"すご……"と声が出た。シンプルな内装でありながら、洒落た雰囲気。照明のおかげだろうか、それとも壁や床の材質のおかげだろうか)
イタリアンプリンですか……!それはぜひ食べてみたいですね! と言っても……ううむ。困りました。イタリアンはあまり馴染みが無くて。パスタの種類もよく分からないんですよねぇ……。
(ペラペラとメニュー表を捲る彼の言葉に、少し腰を浮かしかける。イタリアンプリン。濃厚で固めの食感が特徴的なプリン。卵の濃厚な味わいが楽しめる、魅力的なプリン。これまで食べる機会がなかったので、これはぜひ食べてみたい。だがあくまでデザートだ。デザートは最後に食べるから特別感がある。だが困ったことにイタリアンに関してはよく分からない。会食でもあまり来たことがない。ここは本格的なイタリアンレストランのようだから、初心者である自分には尚更分からない。こういう所の知識が豊富そうな彼へ助けを求めるように不安げな視線を向けながら、眉を下げて恥ずかしそうに告げる)
あはは、分かります。パスタもピザも横文字が並んでて、どれが何だったか分からなくなっちゃうんですよね。パスタと一概に言ってもショートパスタ、ロングパスタとありますし、太さもまちまちですし。ソースはソースでクリーム系、オイル系、トマト系とか幅広く分かれてて目移りしちゃいますね。甲殻類が入っていないものとなると……例えば王道のカルボナーラとか、辛いものが得意であればペペロンチーノ、ラグーソースのパスタなんかも美味しそうですね。和食が好きだときのこの和風パスタなんていうのもさっぱりしてて良いかもしれません。
(右手で軽く横髪を耳にかけつつ、何例か示すようにメニュー表のパスタを指さしていく。あまり食べ慣れていない様子だったので、万人受けしそうな王道なものを紹介しつつ、彼の好みに寄り添えそうなものも併せて提案をしてみる。メニューには写真が載っておらず、メニュー名と中に入っている食材のみが羅列されているのも選びにくい要因の一つかもしれない。更にページをめくると今度はピザのページへと移行した。こちらもまたクリーム系、トマト系と別れている上に2ページにわたって横文字が並んでおり、これでは彼が迷ってしまうかもしれない。少し悩んでから相手を見つめるとにこりと口元に笑みを引きつつ、一つ提案をした)
じゃあ、こうしませんか?今日は俺がオススメのものをチョイスするので、一緒にシェアして食べましょう。そしたらパスタもピザもアラカルトも色んな種類が食べられますし。あ、ドリンクだけ選んでくださいね。俺、スパークリングワインにしようかな。
(通常のメニューの下から細い縦長のドリンクメニューを取り出すと、パラパラとアルコールドリンクのページをめくりつつ自分の分の目星をつけて眼前の彼に手渡してから、再度通常メニューの方へと視線を落として吟味するように顎に指を添えて)
オイル系……ラ、ラグー?
(彼の言っていることは概ね理解できたが、それでも聞き馴染みのない単語が飛び込んで来ると、首を傾げてしまう。カルボナーラやペペロンチーノはさすがに分かるが、ラグーソースとはなんだろうか。折角彼が提案してくれたのだから、さっさと決めなければとメニュー表と睨めっこするが、生憎とメニュー表には写真が載っていないではないか。しかも──当然のことなのだが──横文字ばかり。ビジネス用語ならまだしも、イタリアンの横文字は見ても解読できないのが辛い。そんな自分を見かねてか、彼は自分に提案をしてくれた。シェア。なんて良い提案だろうか。彼の発想力に目を輝かせながら、大きく頷く)
それは助かります。君の選ぶものに興味がありますから! そうですね……ああ、お酒なら横文字でも分かりますよ。うーん、アペロール・スプリッツにしましょうか。
(パスタやピザ選びは彼に任せて、自分はアルコールドリンクのメニュー表を受け取り、視線をそこへ落とす。ドリンクのメニュー表にも横文字がズラリと並んでいたが、幸いにも酒の横文字ならば知識もある。しかもメニュー表に載っている銘柄は、どれも一度は試したことのある酒ばかりだった。折角イタリアンを食べるのだから、食前酒の定番である"アペロール・スプリッツ"に決める。スパークリングワインとソーダでアペロールを割ったものだ。ドリンクを決めると彼へと視線を戻す。顎に指を添えて真剣にメニューを見る様に、つい口角が緩んでしまう。イタリアン慣れしていない自分でも楽しめるように、甲殻類アレルギーの自分でも食べれるように、真剣に吟味してくれている。その表情があまりにも綺麗で、もっと悩んでいてくれないかななんて一瞬思ってしまったが、どうやら決まったようでメニュー表から顔を上げた彼に声を掛ける)
すみませんね。選んでもらって。今度来る時はイタリアンの知識を詰め込んで、全部理解できるようにしますから。
あはは、真面目ですね。良いんですよ、俺も完全に理解している訳じゃないですし、大事なのは共に過ごすこの時間を楽しんでもらうことですから。
(メニュー表を閉じたタイミングを見計らってオーダーを取りに来た店員に対してグリーンサラダとカプレーゼ、タリアテッレを使用したボルチー二のクリームパスタとオルトラーナピザを1枚、最後にスパークリングワインとアペロール・スプリッツをオーダーしてから、柔らかな笑顔を正面の彼へと向ける。彼に対して以外では個人的な情を挟んだことがないため、自分にはよく分からないが───歳下の手前、少しバツが悪いという感情もあったりするのだろうか。自分からすれば彼は十分に博識で、自分だけが知っている知識より彼だけが知っている知識の方がずっと多いのだろうという想像は容易くつく。水族館での説明然り、コーヒーの知識然り、重ねてきた人生経験の重みの差に焦りを覚えるのは寧ろこちらの方だ。それでも彼の前では余裕があるように振る舞いたくて、少しでも年齢の差を埋められるような、対等に見て貰えるような存在になりたくて、机の上で重ねた自らの左右の手に軽く力を込めて本心を伝える。──少し格好をつけすぎたか。父のジャケットを借りて背伸びをする子供のように彼の目に映っていたらどうしよう。僅かに顔に集中する熱は橙色の柔らかな間接照明のせいにすることにして、唇を引き結んだちょうどその時、タイミングよく先程頼んだドリンクが運ばれてきた。自らが注文したスパークリングワインを手に取り、中に入った黄金の液体を軽く揺らすとそっとグラスを掲げ)
───乾杯しましょう、悠さん。あなたと過ごす、素敵なこの夜に。
確かに、それが一番大事ですね
("真面目"と表現されたことに少なからず疑問を抱いたが、彼にしてみれば時間を共有できるだけで十分なのだろうか。自分としてはもっとスマートにコミュニケーションが取れるようになりたいのだが。だが彼があまり気にしないというのであれば、今のままで良いかなんて思う。彼がメニュー表を閉じると、見計らったかのように店員がオーダーを取りに来た。グリーンサラダとカプレーゼまでは聞き取れた。だが、"タリアナントカ"や"オルトカントカ"など全く理解できない単語をスラスラ羅列する彼を見て今しがた思ったことを撤回する。少なくとも今日のメニュー位は理解できるようにしよう──そうでなければ今後に差し障る。そう思って頭の中に今の単語を記憶しておく。そうして暫くするとドリンクが運ばれてくる。アペロール・スプリッツのステムに指を添えると、彼と同じようにそっと掲げる)
はい。二人の夜に、乾杯。
(思わずグラス同士を当て合いたくなったが、店の雰囲気からしてイタリアン式の乾杯が適切だろうと思い、グラスを目の高さまで上げるだけに留めておく。柑橘のほろ苦さとフルーティーな甘みがバランスよく口の中に広がる。すっきりとした爽やかな味わいは食中酒としても飲めるのではないかと思う。彼は自分と過ごす夜を素敵だと言ってくれた。そのおかげだろうか。やたらとアペロールが美味しく感じられる。何度かアペロールのグラスを傾けると、ふと思っていたことを彼に訊ねてみる)
先程の注文はとても手馴れていましたね。こういう所たくさん来たことあるんじゃないですか? 湊くん、友達も多そうですし。
───そうですね、"仕事関係の人"とは良く行ったりしますよ、イタリアン。
(彼がグラスに口をつけたのを見て、自らもスパークリングワインに口をつける。爽やかな炭酸と共に口の中に華やかな風味が広がるのを愉しんでいると、不意に投げかけられた質問に一瞬また返事が遅れた。イタリアンはお洒落で尚且つ格式ばりすぎず、またメニュー数も豊富で苦手な食材がある人でも必ず何かしらは食べられるメニューがあるため、"仕事"で女性と共に食事を摂る時はよく重宝していることを思い出す。言葉を濁して返答をするものの、それと彼を同列に並べることは躊躇われた。彼をここに連れてきたかったのは、『とりあえず手頃』だからではなく、『ここのイタリアンプリンを食べて欲しい』という明確な理由に基づくものなのだが、それを上手く表現できず僅かに口ごもってしまう。──いつまでこんな誤魔化しを続けなければいけないのだろうか。彼に抱く好意は最早疑う余地の無いものであるものの、彼と出会うきっかけが"仕事"だったことは否めない。最早彼を騙すつもりは微塵も無いが、このまま秘密を抱えて彼と過ごして行って、万が一にでも彼にその秘密を握られることがあるとしたら?彼を深く傷つけてしまうことは容易に想像が着いた。それならば、早めの段階で彼にしっかりと事実を伝え、その事については謝罪を済ませた方が良い。未だ何も彼から情報を得ていないのは彼自身も恐らく理解してくれているだろうし、正直に自分から話せば彼も耳を傾けてくれるかもしれない。そんな、あまりにも浅はかな───甘い考えを抱きながらゆっくりと唇を開く)
……あの、悠さん、実は、俺………
(ちょうどその時、ウエイターがサラダとカプレーゼを運んできたため、言葉が途切れてしまった。そして、同時に思い至る───自分から打ち明けたから、何だ?そもそもそんな仕事をしていたという事実だけで彼にとっては許容出来ない存在になる可能性が高い。彼が思い浮かべている宮村湊の人間像と、本物の自分の乖離を彼が知れば、もう二度と会って貰えないかもしれない。そんなことは耐えられない。開きかけていた唇をそっと閉じて、無言で小皿にサラダを取り分けていく。やはり彼に打ち明けるべきではない。そう判断してにっこりと笑顔を浮かべると綺麗に盛り付けたサラダを何事も無かったかのように彼へと差し出した)
はい、どうぞ。美味しそうですね!
ああ、お仕事でよく来るんですね。こういった所で会食なんて、ふふ。お洒落で良いなぁ。
(友人とではなく、仕事で来ることが多いのだろうか。普段から料亭で会食することが多い自分にとっては、こういう所での会食は羨ましい限りだ。おまけに彼は色々と知識もある。この歳になっても西洋文化への憧れは、やはり捨てきれない。スラスラと横文字を読むことができれば、格好もつくだろう。そんな幼い内心と、羨望の眼差しを彼へ向ける。実の所自分は体面を気にする方だ。それは社長という肩書きも然ることながら、幼少の頃に身に付けてしまった癖だった。自分は周囲とは違う。だから常にどう見られるか、どう思われるかを気にして生きてきた。今まではそんな癖を持っている自分がたまらなく嫌いで、悪癖だと思っていた。それが今では"彼に"どう思われるかを気にして、イタリアンの用語を覚えようと躍起になっている。そんな自分は割と嫌いではない。彼と出会ってから、心の氷が解けてきた。そんな感覚がする。そんなことを思っていると、彼の唇が動いた。視線を遣ると、彼は何かを伝えようとしているようだった。彼の表情はどこか緊張しているようだった。何か言いづらいことだろうか──そう思って姿勢を正した所で、ウエイターがサラダとカプレーゼを運んできた。彼もそれに合わせて口を閉ざしてしまった。表情と声色から何か大事なことを伝えようとしていたに違いない。彼が言いやすいように、こちらから切り出してみようと思ったが、彼が何事も無かったかのようにサラダを差し出したので──しかも眩しい位の笑顔と共に──咄嗟に礼を言って受け取ってしまった。完全にタイミングを逃したが、そもそも自分の思い違いかもしれない。今は詮索しない方が無難だろうと、サラダを口に運ぶ)
ん。美味しいですね。ドレッシングも濃すぎない味で。カプレーゼも……チーズと相性がいいですね……!
(サラダとオリーブオイルの入ったドレッシングはとても相性が良い。さっぱりとした味付けで、前菜としては丁度良いバランスだった。カプレーゼも、もっちりとした弾力とクリーミーな口どけのおかげで、濃厚な味を楽しむことができる。普段食べていないということも相俟って、前菜の時点でその美味しさに心動かされていた)
……好きですか?こういうお店も。それなら俺とまた行きましょう。たくさん調べておきますから。
(彼の口から零れる言葉にはどこか憧憬の色が滲んでいるように感じた。社長という身分で会食ともなればイタリアンでは軽すぎるのだろう。肩肘張らずに純粋に食事を楽しめる場所───例えば先日の定食屋やこのイタリア料理店のような───を求めているのかと理解し、心に刻んでおく。自分の分もサラダを取り分けてフォークを手に取ると、レタスとトマトを纏めて口へと運んで咀嚼した。自分が何かを切り出そうとしたことに当然相手は気づいていたはずだが、それを追及してくる気配の無いことに僅かに安堵してしまう。これは自分の"罪"だ。彼に話して救済を乞うこと自体が烏滸がましい──自分一人で抱えたまま、彼には気付かれないように墓場まで持って行くしかない。もし万が一にでも、彼に露見したとしたら、その時は───そこまで考えていた時、向かいに座る相手からこぼれた明るい舌鼓を打つ声に意識を引き戻される。目の前で溢れる純粋な笑顔に、思わず釣られるように頬が緩んでいくのを感じる。この笑顔を守るためならば何だって出来ると、真剣にそう思わずには居られなかった。フレッシュなトマトとモッツァレラチーズに手を伸ばし、それを味わいながら同意するように頷く)
ほんとだ、ここのカプレーゼ美味しいですね。…というか、トマトが美味しい。凄く甘いトマトですね。
(先程から使用されているトマトは酸味がごくごく少なく、果実のような甘みのあるトマトで、それが他の食材の味を引き立てているようだった。暗い考えを頭から振り払うようにして料理を味わっていると、サラダとカプレーゼが空いたタイミングで今度はメインのパスタとピザが運ばれてきた。熱々の湯気が立っている料理を見て瞳を細めつつ、再びパスタを小皿へと取り分けて、綺麗な皿の方を相手に差し出した)
タリアテッレと言って、少し平麺のようなパスタなんですけど、きのこのソースがよく絡んで美味しいんですよ。僕は結構こういうパスタが好きなんです。ピザもちゃんと切れてるみたいなので、そちら側半分お好きなタイミングで取ってくださいね。
ええ。好きですよ。ふふ、君と行くイタリアン、楽しみですね。
(”俺とまた行きましょう”なんて言葉が耳に入ると、思わず顔を上げる。そしてふっと頬が緩み、大きく頷く。頭の中で何度も彼の言葉が響き渡る。俺と、俺と、俺と。そうだ。自分は普段行かないイタリアンに心踊っている訳ではない。彼と共に来ていることに心躍っているのだ。純粋に食事を楽しめているのは、彼と空間と時間を共有しているからに他ならない。これがいつも通りの会社の役員や取引先とであれば、自分はここまでイタリアンを楽しんでいる訳はない。仕事中はどんな時も無表情を心掛け、決して感情を悟られないようにしてきた。感情を表す器官は極力動かさないように意識をして、”彫刻”なんて陰口もたたかれている。そんな自分が、彼といる時は素でいられるのだ)
なるほど……これはタリアテッレと言うのですね。よしよし。覚えましたよ。湊くんが好きなパスタの味も。
(彼が取り分けてくれた皿を礼を述べてから受け取ると、彼の説明に耳を傾け、よくパスタを観察する。細長いリボン状の麺で、イタリアンに疎い自分でも見たことのある形状の麺だ。頭の中にパスタの名前と?の形状を記憶する。そして、彼の好きなパスタの味も。後者と結び付けておけば、よく記憶できるに違いない。彼のことは何だって知っておきたいから。パスタを一口食べる。コシが強い麺にきのこソースがよく絡み付いていて、とても美味だ。続いてピザにも手を伸ばし、一ピース取ると口に含む。咀嚼するとまず最初にトマトの甘みがした。続いて他の野菜が口の中で溢れる。野菜特有の甘みのおかげで、何個でも食べれそうなくらいだ。やはり彼の言う通りこの店はトマトがとても美味しい。口を拭いてアペロール・スプリッツを飲むと、彼へまた視線を戻す)
イタリアンとは、こうも美味しいものなのですね。今まで未開拓だったのが悔やまれますよ。でも、初めてが君とだったのはラッキーでしたね。
俺もですよ。おかげで初めてのイタリアンを楽しむ悠さんの顔を沢山堪能できましたし。
(もちもちとしたタリアテッレに濃厚なきのこのクリームが絡んだパスタは非常に美味で、思わず舌鼓を打つ。念入りに下調べはしたとはいえ、当日現地でこうして自分の口に運ぶまでは本当に美味しい店なのかと不安に思う部分はあったのだが、やはりこの店は当たりのようだ。濃厚なパスタとは対照的にピザはあっさりとしたものを選んだのも良かったのかもしれない。トマトの甘味と酸味、野菜の瑞々しさが口をリセットしてくれる。眼前の彼もまた初めてのイタリアンを存分に楽しんでくれているようで、深い安堵と充足感に長い息を吐いた。ひとつひとつに感動するように料理を口へと運ぶ彼を眺め瞳を細めつつ、そろそろタイミングかと再びメニュー表を開きデザートのページへと移動する。今日の一番のお目当てとも言えるかもしれないイタリアンプリンがメニューにしっかりと記載されているのを確認してからドリンクのメニューを開くと再びそれを彼の方へと差し出した)
悠さん、そろそろデザート頼みましょうか。俺は食後のコーヒーを頼もうかと思うんですが、悠さんはどうしますか?
いいですね。甘いものにはコーヒーが不可欠ですから。そうしたら……エスプレッソをいただきましょうかね。
(一頻りパスタとピザを堪能すると、早いものでもうデザートの頃合いとなっていた。先程まで皿に盛られていたはずのパスタやピザはすっかり胃の中に収まっている。これでデザートを頼み、コーヒーを飲みながらプリンを食べ、会計を済ませたら彼と別れなければならない。また明日から現実に戻らなければならない。辛く苦しい現実に。そう考えると気分が憂鬱になる。だが彼の声でふと我に返る。差し出されたメニューを受け取ると、食後のコーヒーという言葉に眉を微かに上下させる。てっきり食後酒を頼むものだと思っていたので、イタリアンプリンに合うような酒とはどういうものだろうかと悩んでいた。だが彼がコーヒーを頼むと言うのなら、自分もコーヒーを頼もう。別に強制されている訳でもないのに、自然とそういう思考になるのは、彼と何かを共有したいという思いからだろうか。メニュー表を見てコーヒーを探すと、カプチーノやカフェマキアートなど様々な種類があった。ここは厳格なイタリアンレストランという訳ではないだろうが、やはりエスプレッソを頼んだ方が良いだろうと思い、メニュー表の文字を指差す)
私はイタリアンプリンも一緒にいただきますが、湊くんはどうしますか。良かったら一緒にプリン、食べませんか。
喜んで、俺も食べたいなって思ってたんです。
(ドリンクメニューを真剣な表情で眺めている彼の様子を見詰めながら幸福感に瞳を細める。この時間がずっと続けば良いと願ってしまうほどには今日一日はあまりに幸福だった。隣で笑う彼の表情が見られるなら、自分の持ち得る何を差し出してもいい───そう思うほどにはどろどろとした執着にも似た感情が生じていることを自覚はしている。今、この時間は他の仕事のことも、彼から引き出した情報の少なさに上層部から早く結果を出せとせっつかれていることも些事に思える。いっそ組織を抜け出してしまおうか。足抜けなど容易に出来るものでは無いと知っていながら頭によぎるそんな甘い考えも、今までの自分であれば考えられないことだった。彼が指さすエスプレッソの文字へと視線を落としながら、同時に示された提案へと賛成するように一度頷き再び店員を呼ぶと、目当てのイタリアンプリンを二つと彼のエスプレッソ、そして自分用にホットのブラックコーヒーをオーダーした。店員が席から離れ立ち去った後に残った静寂を破るように徐に唇を開くと少しバツが悪そうに軽く頬を人差し指で掻きながら眉を下げ)
あの……悠さんに謝らないといけないことがあって。頼まれていたマカロン、実はまだ完璧に納得のいく物が完成してなくて……今日は作って来れなかったんです。次、必ず完成させて持ってきますから、……また遊んでくださいね。
ああ、気にしないでください。マカロンなんて難しいものを頼んだ私が悪いのですから。ふふ……湊くんは意外に完璧主義者なんですね。
(またしても彼と同じものを共有できることに大いなる喜びを感じる。できることなら、このまま時間も共有したい。自分の人生の時間だ。お互いに半分ずつ、お互いの時間を。そうすることで安らぎを得られる。そんな気がしている。だがあくまでも自分だけの想いだ。彼がそれを断る可能性もある。自分は彼が好意があると考えているが、この会話の中で彼の気持ちが離れていってしまったのではないか。そんな不安も心の片隅にある。またしてもネガティブ思考が頭の中を支配するかと思いきや、その思考は途中で遮られた。唐突に謝りたいことがあると言われたからだった。エスプレッソとイタリアンプリンに注がれていた視線が、思わず彼の方へ戻る。何を言うつもりなのか。些か緊張したが、聞けばマカロンの出来が芳しくないことだと言う。自然と身体の力が抜け息を吐くと、気にしなくて良いと本心をそのまま伝える)
それにね、湊くん。私は完璧なマカロンが食べたい訳ではないですよ。純粋に君の作ったマカロンが食べたいのです。完璧じゃなくて良いですから、次は食べさせてくださいね。うーん……そうですね。来月の13日なんていかがですか。平日なんですが、珍しくスケジュールが真っ白で。
(そうだ。自分は完璧なマカロンが食べたいわけではない。彼が作ったマカロンが食べたいのだ。例え、見てくれが悪くても味がイマイチでも、彼が作ってくれたものが食べたい。味覚の問題ではなく心が満足するかの問題だ。無論、そんな自分の自己満足とも言える欲求に付き合ってくれている彼には申し訳なく思う気持ちを持っている。この次は、自分が最上のもてなしをしなければ。頭の中でスケジュールを確認すると、来月の13日のスケジュールが全くないことを思い出す。確かこの日は前日に多数の会食やシンポジウムへの出席がある。新任の秘書が気を利かせてスケジュールを開けてくれたのだった。思い出すと、すぐに彼へ笑みを向けながら提案する)
……悠さんに渡すものだから、ですよ。なるべく拘りたくて。でもそれで渡せなかったら本末転倒なので、次回は必ず。
(彼が完璧なものを求めているわけではないことは理解していたものの、そんな彼に贈るものだからこそ完璧に仕上げたいと思ってしまうのは矛盾だろうか。努力などせずとも手先はそこそこ器用な自負はあった。100点満点中90点のものを作り上げることは自分にとって造作のないことだ。素人が趣味で作るものならば十分すぎる出来だろうし、"宮村湊"として他の標的に同じことを頼まれていたら、あえて80点の出来のものを渡すかもしれない。少し抜けていた部分がある方が人間味があって取っ付きやすく親しみを持たれやすいからだ。だが、彼に対してはそんな計算など全て取り去って、自分の出来る最大限を提供したいという拘りが生じてしまう。そのリクエストが嬉しくて、それに応えるために本気になれることの、なんと幸せなことか。今までに生じなかった感情に心地よさそうに瞳を細めつつ相手を見詰めていると、不意打ちのような提案に細めていた瞳を見開き数度瞬きをした。忙しい彼のことなので、また暫く夜のみ会う生活が続くのかもしれないと考えていたが、杞憂だったようだ。スマートフォンを取りだしスケジュールを確認するものの、他の仕事は何も入っていない。密かにガッツポーズしたい気持ちを抑え口元を緩めてスマートフォンを閉じると、賛同するように頷いて)
大丈夫ですよ、13日なら会社休めますから。予定入れておきますね。…ふふ、貴重な休みなのに、俺と会ってくれるんですね。嬉しいです。
(スケジュールが詰まりに詰まっている彼のことだ、一日空いている休みは相当貴重だろうに、それを自分のために割いてくれると言われて喜びを隠さないことなど出来るはずもなかった。幸福そうに目尻を下げてからようやくテーブルに置かれた小さな銀のスプーンを手に持って少し硬めのイタリアンプリンに手をつけて)
……あ、すごい。固くてしっかり卵の味を感じるプリンですね。美味しい。
ん……! これは……思ったよりも濃厚ですね。弾力もあってクリーミーですね!
(彼が食べたのを見てから自分もイタリアンプリンを一口口に運ぶ。一口食べると眉がピクリと上下する。口に中に独特の甘みが広がる。そして想像よりも濃厚な卵の味にこれまた驚く。ずっと食べたいと思っていたイタリアンプリンだが、いざ口にすると奥行きのある味に少しばかり感動を覚える。何度かプリンを口に運ぶと、エスプレッソを飲む。イタリアンプリンの甘みとエスプレッソの苦味が調和をして、口の中が落ち着く。大好きなスイーツとコーヒー。そしてそれを一緒に楽しんでいるのは心通じ合う友人。恐らく今自分は人生で一番幸福かもしれない。残りの人生、ずっとこうして過ごしたいと思うのは叶わない願いだろうか)
13日ですが、今度は私がプランを立てましょうか。ですが、私は君のように上手くプランを立てられる自信がありません。そこで直接お聞きしますが、君は何をしたいですか。
(エスプレッソを片手に彼へ訊ねる。今、自分はとてつもなくカッコ悪いことを言っている自覚はある。30を過ぎてプランの一つも満足に立てられないのだ。だが自分が自分の考えのみでプランを立てると、彼が微妙な気持ちになってしまうのは明白。それならば直接聞いてしまった方が安全だろう。自分がプランを立てると、最悪の場合自宅で映画鑑賞などになってしまう。さて、彼はこの問いになんと答えるのだろうか。エスプレッソを一口飲むと、彼へ視線を戻して答えを待つ)
俺、プリンはどちらかと言うと口どけの良い滑らかなタイプの方が好きなんですけど、このプリンは硬いのに濃厚で本当に美味しいですね!悠さんの口にもあったみたいで良かったです。
(やや興奮気味に語る彼の表情を眺めながら、穏やかな心持ちで目もとを和らげた。資料の中の彼とは違い、ころころと変化していくその表情を1番近くで見ているのが自分だという優越感がじわりじわりと心を満たしていく。プリンで甘ったるくなった口の中をリセットするように砂糖を入れていないカフェラテを一口口に含んで、再度イタリアンプリンを食べ進めようと一口分をスプーンで掬った時に掛けられた言葉に、スプーンを口に運ぶ手前で一度フリーズすると瞳を数度瞬かせ)
あは、いいんですよ。俺、悠さんの立ててくださったプランならなんだって楽しめる自信ありますから。でも……そうだな、強いて言うなら───悠さんの"一番好きな場所"に行ってみたいです。
(実際のところ、彼が自分のために考えたプランなのであれば、何でも喜んで受け入れる自信があった。だが、彼が不安になる気持ちも十分に理解出来る。自分も今日のプランを立てる時は、仕事のどのプランを立てる時よりもずっとずっと気を遣った。それはつまり裏返せば───このプランに対して彼が真剣であることの裏返しに相違ない。そう思うと自ずと口元が綻んでしまい、ややだらしない表情になってしまったかもしれない。空中で停止していたプリンを口へと運んで少し考えてから、やがてひとつの"お願い"をする。彼はそれを受け入れてくれるだろうか。緩く首を傾げ、判断を相手に委ねるように瞳を細め)
一番好きな、場所? 私の好きな場所ですか……分かりました。考えておきます。ですが……本当にそんな所で良いのですか? 私が好きそうな所なんて、たかが知れてますよ。君の貴重な時間を消費させてまで、行くような所ではないかもしれないのですよ。
(自分の投げ掛けた疑問に、彼のそれまでプリンを口に運んでいた手が止まった。スプーンを口に運ぶ手前でフリーズし、瞳を瞬かせる様に小動物を見た時のような愛おしい感情を抱く。そして、肝心の彼の返答を聞いて今度はこちらがフリーズしてしまった。自分の立てたプランならば何でも楽しめると彼は言った。そして自分の一番好きな場所に行きたいとも言った。一瞬、言われている意味が理解できなかった。言葉を理解するためにゆっくりと口に出して確認をする。そして言葉を咀嚼するように理解すると、たちどころに不安が身を包んだ。このシチュエーションを、自分は以前にも経験している。学生時代、一瞬だけ付き合った恋人に同じことを言われ、デートプランを練った。自分が好きな場所で、自信を持って連れて行ける場所。だが恋人は酷く冷たい表情で"つまらない"と言った。あの時から、他人の要望は素直に受け取ってはいけないと強く思うようになった。そして、その時と全く同じことを彼が言った。彼のことだから、その言葉に嘘はないのだろう。しかし、どうしようもなく不安になってしまい、何度も確認をしてしまう)
感動的な場所を期待しているわけじゃ無いですよ。例えば近所の小さな公園だとしても、そこが悠さんの好きな場所なら構いません。あなたが一番好きだと言う景色をあなたの隣で見たいんです。……叶えて貰えますか?
(穏やかな表情がたちまち不安げな表情へと変化していく様を目にして、自分の要望が彼にプレッシャーを感じさせてしまっているのだろうかと考え至る。場所自体に価値を求めている訳ではなく、"彼の好きな"場所だからこそ価値があるのだが───不安を拭うように努めてゆっくりと一語ずつ丁寧に言葉を重ねていく。彼が好きだと言う景色を彼の隣で共に見たい。どんな景色を彼が好きだと評するのかが知りたい。彼の好きなものを共有してほしい、だなんて強欲だろうか。これまで他の誰に対しても、仕事上必要になる以上の興味を持ったことなどなかったと言うのに、彼のことになると途端に貪欲になってしまう。相手の瞳を正面から真っ直ぐに見詰めて、柔らかな微笑を湛えつつ、決して相手に強いることはせずに、窺うように軽く首を傾けた)
……分かりました。当日までに考えておきますね。
(彼の一言一句が、緊張で凝固した心を溶かしてくれる。同時に目が覚めたような気分になった。彼は自分とならばどんな場所でも良いと言ってくれた。ならば自分は自分の好きな場所を正々堂々と披露すれば良いだけのこと。それを過去に囚われてウジウジと悩むなど無駄なことだ。彼の瞳を見つめながら、上記を述べながら大きく頷く。そして早速、頭の中でいくつか候補を探し出す。どこが良いだろうか。自分の好きな場所なので、いくつかあるが全てを回る訳にもいかない。現実的に可能な範囲で、自分の好きな場所。あそこがいいだろうか、それとも別のところがいいだろうか。そんな作業を頭の中で繰り返していると、いつしか目の前にあったイタリアンプリンは無くなっていた。最後の3分の1は考え事をしていたので、味わう余裕がなかった。今度また、彼と来たらその時こそは最後まで味わおう。エスプレッソを飲み干すと、彼へ視線を戻す)
デザートも終わってしまいましたし、そろそろ出ましょうか。……イタリアンプリンも、その前のピザやパスタも美味しかった。こんな素敵なお店に連れてって貰った、せめてものお礼として、ここの会計は私が払いたいのですが、いかがかな?
(言葉を重ねていくうちに、強ばっていた彼の表情が次第に和らいでいくのがわかり、僅かばかり安堵したように小さく息を吐く。口を閉じた彼は、恐らくその場所の候補に考えを巡らせているのだろう。それを邪魔しないように静かに目の前のプリンを堪能し、時折間に挟むようにカフェラテを飲みながら、その様子を愛しいものを見守るように優しげな色を浮かべた眼差しを向けていた。やがてお互いの皿が空になった頃には時間もそれなりに経過しており、名残惜しさを感じつつ帰り支度を徐々に整えていると不意に投げかけられた提案に一瞬瞳を瞬かせてから眉を下げて笑みを浮かべた)
悠さんのお口にあったなら、俺としてもこれ以上嬉しいことは無いですよ。本当に良かった、美味しかったですね。…それじゃあ、お言葉に甘えて。ご馳走様です。
(スマートな申し出に対して水を差すのは却って良くない。彼の優しさに感謝するように瞳を細めて軽く頭を下げると、支払いを終えるのを待ってから店の外へと出た。いよいよ楽しかった一日が終わってしまうことへの喪失感は否めないものの、次の約束がその寂しさを埋めてくれるようだった。プランを練ってくれる彼のためにも美味しいマカロンを次こそは作らなければと決意を新たにしつつ、惜しむようにゆっくりと駅の方向へ歩いて行く)
(彼が自分の申し出を了承してくれたことに安堵し、大きく頷くと席を立って素早く会計を済ませる。店を出て並んで歩き出した彼の横顔を、ひと呼吸分だけ目で追ってから、視線を前へ戻す。夜気が頬を撫でて、さっきまで口の中に残っていたプリンの甘さがふっと遠のいた。ふと彼の歩調がやけに遅いのに気が付く。きっと今日が終わるのが惜しいのだろう。自分も同じ気持ち故に、自然と彼へ歩調を合わせる。駅までの道中は人は疎らで、二人の会話を遮るものはない。だというのに言葉が出てこないのは、先程までの考え事が脳内にチラつくからだった。自分の好きな場所。インドア派だと思われがちな自分だが、休日はアクティブに活動することもある。仕事柄外出も多い。それ故に好きな場所はいくらでもある。そのいくらでもある場所の中から、どれを彼に見せようか。それが悩みの種だった。そんなことを考えていると、ふと気が付くと既に駅に着いていた。これで電車に乗って待ち合わせした駅に着いてしまえば、今日は解散だ。その後は来月まで会えなくなってしまう。ダメだ。ダメだ。切符を買い、ホームで電車が来るのを待ちながら、ようやく口を開く)
一日というのは早すぎます。これでもう来月までは会えないのですから。君といると、仕事も嫌なことも忘れられるのに。最近は新製品の開発とか、海外進出の計画とかで何かと忙しい。君といる時間が何よりの癒しの時間です。明日からも仕事なんて、溜息が出てしまいますよ。
………本当ですね。でも、また楽しみも出来ました。来月の約束を楽しみに頑張れます。それに、素敵なお土産もできましたし。
(職業柄か、彼が不意に零した情報にぴくりと反射的に小さく体が反応した。相当彼も気を許してくれているのだろう、今彼が口を滑らせたことはぼんやりとした抽象的な事柄だとは言え恐らくは社外秘であり、外部の人間に話してはいけないはずの情報だ。破滅はほんの僅かな歪みから生じることを自分はよく知っている。この些細な情報ですら、組織に報告すればそこから徐々に情報を掘り下げられ、いずれ決定的な打撃を与えるまでのものになりかねない。組織からはなかなか進展の無い調査に痺れを切らした様子で自分に対して成果を求める連絡が来る状況が続いていたが、彼に対していずれ致命的な打撃を与えかねないこの情報は手に入れたとて組織に渡すつもりはなかった。聞かなかったことにするようにその話題を避け、寂しさを滲ませた笑顔を浮かべて彼へと視線を戻す。駅のホームへと滑り込んできた電車へと乗り込み、連続した二つの空いている席の内の片方へと腰を下ろすと、バッグの中へと入れていたお揃いのキーホルダーを取り出して微笑を零す。自分からお揃いのものを持ちたいなどと強請ったのは初めてのことだった。大切そうにそれが入った紙袋の表面を親指で撫でつつ、右の手のひらで握りしめる。まるで彼の代わりにするように大切そうに包み込んでから、無くさないようにそっとバッグへと戻した)
本当にお忙しそうなので悠さんの体が心配ですよ。風邪を引かないように気をつけてくださいね。でも、もし風邪を引いたら連絡してください。俺がいつでも駆けつけますから。
ふふ……確かに思い出の象徴ですからね。これがあれば仕事も頑張れそうです。
(まるで宝物を扱うかのように丁重に、そして大切そうにキーホルダーの入った紙袋を撫でる彼を見て笑みを零す。その表情は少年のようにあどけなく、邪気が感じられない。そしてふと疑問に思う。初対面の時と表情が違うことに気付いた。初めてダーツバーで遭った時、確かに彼は純朴そうで愛想の良い青年だった。だがその眼はどこか機械的な印象を受けた。機械的な眼というのは、こちらを観察するための眼という意味だ。初対面ゆえのものかと思っていたが、それにしてはこちらを品定めするような眼のようだった。しかし、よく考えてみれば当時と今とでは彼との関係は大きく異なっている。ただダーツを共にする関係から、今では休日の時間を共有するような関係になっている。それを考慮すれば、表情に差が出るのは当たり前だろう)
ははは、看病とは嬉しいですねぇ……でも社長という身分ゆえに、風邪でも出勤ですよ。でも仕事が出来ないほどの病気に見舞われたら、湊くんをお呼びしますよ。
(親以外の誰かに身体を気遣われるのは初めてのことだったので、彼の言葉に思わず声を出して笑ってしまう。だが生憎と社長という身分は風邪程度での欠勤を許してくれる程寛容ではない。社員はこの限りでは無いが、社員が許されることが社長では許されない。そういう理不尽が上に立つ者には付き物である。だがいよいよ体調が危ない時はお言葉に甘えて呼んでみようか。何より彼に看病されてみたいという個人的な願望もある)
風邪に限らず困った時はいつでも呼んでくださいよ。俺、大体のことは出来ますから。悠さんの力になれるならなんでも……………なんて、そんな口実で会える日が増えたら嬉しいなって下心でもあるんですけど。
(真面目で責任感の強い彼が多少の体調不良で仕事を放棄している姿は想像できず、なんだか納得してしまった。無論、仕事より彼の方が大事な自分としては休んで欲しい限りではあるのだが、休んで欲しいと言って休む彼でも無いだろう。少しでも彼の力になれればと紡いだ言葉は、ただの友人という関係性の割には少し図々しかっただろうか。照れるように眉を下げて笑いながら人差し指で軽く頬を掻いていると、いつものことながら彼と共に過ごす時間は、その瞬間だけ時の流れが倍速になっているのかと思うほどにあっという間で、いつの間にか目的地の駅に到着していたため、座席から立ち上がり電車から降りてゆっくりと二人並んで改札へと向かっていく。心のうちに残る、多幸感と寂しさが綯い交ぜになったような妙な感覚を覚えながら改札を抜けると、改めて相手の方へと向き直り軽く頭を下げて礼をした)
悠さん、今日は一日付き合っていただいてありがとうございました。本当に、…本当に楽しかったです。次の約束を楽しみにしていますから。どうか体には気をつけてくださいね。
あははっ、考えることは同じですね。私も同じことを考えましたよ。
(会える口実が欲しい──自分も何度も同じことを考えた。彼と考えていることが同じであることに加えて、自分の力になれることなら何でもと彼は言った。そこまで自分のことを思ってくれている。些か下卑た発想だが、彼の思考に自分が占めている面積が小さくなさそうだということが垣間見え、それが嬉しかった。だからこそ電車が目的の駅に着き、改札を出たところで急に寂しさを感じてしまったのだ。こちらへお礼を言う彼を見ていて充実感よりも寂しさが先行したところから、自分の頭の中は彼でいっぱいになっていることが分かる)
ええ……楽しかったですね。湊くんも身体に気を付けてくださいね。じゃあ13日に、また。
(頭に中は彼でいっぱいだから、帰りの挨拶をして彼に一礼を返すとすぐに帰路へ着く。別れを惜しんで雑談に興じたい気持ちもあったが、それをすると彼との別れが苦痛に変わってしまう。だから痛みが浅い内に、逃げるように帰路へ着く。歩みを止めることなく、どんどんと。そうして自宅へ帰った途端に別れ際の態度が彼に不愉快な思いはさせなかっただろうかと不安になり、慌ててスマホで弁解のメッセージを送る。こんな具合だから、自分に外出のプランを滞りなく立てられるだろうかと不安を抱いたが、そのような不安は日々の仕事に忙殺されていく中ですっかり消えてしまった。というのも、そんなつまらない不安を抱いている暇がない。仕事の傍らでプランを考えているので、余計な雑念が入る余地がないのだ。そんな日々を過ごしていると、気が付いたら約束の13日の朝。幸い、プランは立てられた。後は実行するのみ。戦へ向かう武士のような気持ちで身支度をすると、自宅を出て待ち合わせの駅へ向かう)
(/あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします!)
あ、……はい、また!
(急ぎ足でその場を去っていく彼の後ろ姿に手を振り、その姿が見えなくなるまで見送ると、小さく息を吐いて逆の方向へと歩き出す。もう少し話していたかった気持ちはあるものの、多忙を極めている彼のことを思えば、少しでも早く帰って体を休めたかったのだろうと納得し、自室に帰り着くとスマートフォンを取り出した。収穫は無かったと相変わらず嘘の報告を繰り返したが、それもいよいよ限界が近いのか激しく叱責する声がスマートフォンのスピーカーから聞こえて、思わず瞳が暗く沈む。次の報告がまた内容の無いものであるようであれば、この任務から自分を外した上で罰を与えると宣言する声に瞳を細め、上辺だけの謝罪の言葉を口にした後、小さく息を吐き電話を切った。いつまでも隠し通せるわけでは無いことは理解していた。これ以上隠そうとすれば自分がこの任務から外され、別の人間が彼の弱点を探りに入ることになるだろう。自分が罰を与えられることなどは些細な問題だが、そうなれば、真に彼に打撃を与えるような情報すらも漏洩してしまう可能性がある。───情報を取捨選択して、なるべく彼を傷つけない情報を小分けにして出していくしかない。苦しさに思わず表情を歪め自らの胸元を軽く抑えた。このような形でしか愛せない自分の歪さが目につくようで、嫌になる。そんな思考回路から逃れるように、翌月の約束までの間はマカロン作りに没頭した。来る日も来る日も研究を重ねて、漸く満足の行くものを焼き上げられたのは、デートの前日だった。丁寧にラッピングを施して約束の場所へと向かう頃には、大変良い仕上がりのマカロンを手にしていることも手伝ってか暗い気持ちは消え、久々に会えると言う高揚感に満ちた面持ちで到着した約束の場所で先に待つ彼の姿を見つけ、大きく手を振り)
悠さん!こんにちは。お待たせしましたか?
(/明けましておめでとうございます!昨年は大変お世話になりました。日々やり取りを楽しませて頂いていて感謝が募るばかりです!今年もどうぞよろしくお願いいたします!)
あ、湊くん。おはようございます。今来たところですので、お気になさらず。じゃあ行きましょうか。
(事前に指定した時刻の15分程度前に着くつもりが、今日に限って人混みや信号によく引っ掛かったりなどして、10分前になってしまった。たった5分の遅れだとしても、自分にとっては一大事だ。今日は彼をエスコートしなければならない大事な日だ。先に着いて彼を待っていた方が印象も良い。その初動がこんなことで狂う可能性が出てきて、内心穏やかならざるところがあったが、すぐに冷静さを取り戻す。しかし足取りは自然と素早くなる。駅に着いた頃には少しばかり息が切れていた程だった。幸い、駅には彼の姿は見えなかった。これ幸いと駅の壁に寄りかかって、息を整えている時だった。彼の声がし、顔をあげるとこちらへ向かって手を振る彼の姿を認めた。危ない。ギリギリのところだったと安堵しながら、すぐに平静を装って彼に近付き、受け答えをする。今来たところというのは待ち合わせの時の常套句だが、今は本当にそうなのだから気兼ねなく言うことができる)
……今日は私の好きな場所を案内すると約束しました。しかし、実の所、私の好きな場所はあまり多くないのです。退屈かもしれませんがお付き合いいただければ幸いです。
(最初の目的地へは徒歩で行ける範囲なので、歩きながら彼に断りを入れておく。結局自分の本当に好きな場所は片手で数えられるくらいしかないことが分かった。まだ午前中なので、夕方まで持つかどうか。だが彼は言った。自分が好きな景色を隣で見たいと。その告白とも解釈できる言葉は自分の頭の中に残り続け、日々繰り返し再生される。彼の言葉を信じて、本当の自分を知って貰えるようなプランができたと自己評価している。駅から10分程歩くと、目的の建物が見えてきた。建物が視界に入り、暫く進むと彼の方へ視線を遣りながら口を開く)
あのビルの地下1階。そこに私がダーツと同じくらい熱中しているビリヤードができる場所があります。……ビリヤード、興味ありますか?
(穏やかでスマートな笑顔を浮かべた彼がまさかそんな葛藤をしていたとは露とも思わず、安堵したようにひとつ小さく息を吐いてから隣に並び立つ。どこに行くかは当日のお楽しみだったので、一緒に行く場所がアクティブな場所でもフォーマルな場所でも浮かないように、1週間前から必死になって今日のコーディネートを組み立てていたのもまた彼には秘密である)
退屈なんてことは無いですよ!ビリヤード、実は俺、やったことが無くって……。でも悠さんとやってみたいです!教えて貰えますか?
(彼の好きな場所に行くと言うのに、退屈だなどと思うはずが無い。緩く首を横に振りつつ歩いて到着した先はビリヤードが出来る店らしい。以前彼と話をした際にも、たしかに彼は趣味のひとつとしてビリヤードを上げていたし、それをよく覚えている。いつもの自分であれば、標的と話を合わせるために、やったことの無い趣味が出て来たら、しっかりと勉強をした上でいつ誘われても良いようにしていたものだが───かつてダーツの初心者だと偽った時とは異なり、今回は"敢えて"、本当に何もしていない。彼の好きなものを、彼から共有してもらうという経験をしてみたかったのだ。それが如何に不格好になってしまったとしても、彼ならばそんな素の自分も含めて、きっと受け入れてくれる。そんな甘えのような考えが何処かにあるのを感じつつ、思わず緩んでしまっている頬を自覚しながら首を傾げて相手を見つめ)
良かった。じゃあ教えながら遊びましょうか。
(目的のビリヤード場は界隈では初心者が集まりやすい和やかな雰囲気の施設だ。何となく予約をしてから気付いたが、彼がビリヤード初心者だという確信がその時点ではなかった。フットワークが軽く、活発な彼がビリヤードを経験していることは十分に考えられる可能性だったが、どうも自分はその可能性を無視してしまった。だから彼がやったことがないと言った刹那、自分でも分かるくらいに表情が明るくなる。良かった。もしも上級の腕前を持っていたのならば、きっと退屈に思えてしまう程に緩い施設だ。ビルに入り、エレベーターに乗り、地下一階へと降りる。降りた先の受付で名前を告げ、ビリヤードの台が並ぶ部屋へと通される。平日の昼間ということもあり、客は自分たち以外にはいなかった)
では、早速。ビリヤードはいくつか遊び方がありますが、今回はナインボールにしましょう。手球を使って、1~9の数字が書かれたボールを順番に落としていって、最後に9番のボールを落とした方が勝ちです。テーブルの上に残っている最小番号以外を落としてしまったらファウルになります。それから──
(ビリヤードの台に1~9番のボールを菱形に並べながら説明をする。大雑把だが初めから全て教えても飲み込みが大変だろうから、最低限のことを教えていく。ゲームの説明が終わると今度は打ち方の説明をする。ダーツの時と同様に立ち方から始まって、キューの持ち方や初心者におすすめの構え方と打ち方を要点だけを掻い摘んで説明する。詳しいことはやりながら教えていけばいい。一通りの説明を終えると、彼にキューを差し出す)
習うより慣れろということで、ゲームスタートです。先攻は湊くんにお譲りするので、ブレイクショットをしてみましょう。一番最初のショットですから、必ず1番のボールに当ててください。さあ、やってみて。
なるほど……ちょっとやってみますね。
(初めて訪れたビリヤード場で相手の説明を真剣に聞きつつキューを手に取る。今まで人前で何かをする時、「初心者を装う」ことはあっても、本当に初心者の状態だったことが無いので、緊張で僅かに体が強ばった。まずは説明を受けた通りにキューを持ち、基本姿勢を取る。左手を台に置き、見よう見まねで指を広げるが、指の形が定まらず、キューがぐらぐらとしてしまった。真っ直ぐに手球を狙っているつもりなのに、キューの先端はふわふわと左右に動いてしまい、なかなか狙いが定まらない。照準を定めるのに難儀した後、漸く軽くキューを押してみると、手球のやや右側に当たり、手球は左へと逸れるように台上を転がっていく。結局、手球は1番の的球にかすりもしないまま跳ね返って別の球に当たってしまった)
……難しいですね……狙いが全然定まらないです……
(真剣な表情から、やや緊張が溶けたような表情へと変化し、照れたように笑みを零れる。さすがにもう一度最初からやり直させてもらおうと、元々あった通りに的球を並べ直すと、相手の方をちらりと見て緩く首を傾げ)
……フォーム、合ってます?どこを直したら良くなりますか?
悪くないですが……そうですね。強いて言うなら、もっと足を開いて、指でしっかりとキューを押さえた方がいいですね。こんなふうに。
(手球が狙いを外れていくのを見届けたあと、思わず笑いそうになるのを堪えて、代わりに大げさじゃない程度に頷く。失敗そのものが可笑しいのではなく、真剣にやってくれてるのが嬉しいのだ。照れた笑みを向けられて、こっちの胸の方が少しだけ熱くなる。台の端にキューを立てかけたまま、彼の横へ回り込み、視線を落として手元と姿勢を確認する。指の形が迷子になっているのが原因で、キュー先が泳いでる。彼の背後に回ると、後ろから手を伸ばして彼の手に触れる。彼の手を動かし、親指と人差し指で軽く輪を作り、そこにキューが通る“溝”をつくってみる)
親指をここに添えて……そう、輪っかを作る感じですね。キューが通る道を一本にする、みたいな。それと狙いが定まらない時って、目と肩がちょっとだけズレてることが多いです。キューの延長線上に鼻先が乗る感じで、顔を少しだけ落としてみて。
(手の形を作ると、そのままの体勢で視線の説明をする。目線と肩の動きを指摘し終わると、不意に我に返る。自分があんりにも彼に近過ぎることに気付く。手を触れたばかりか、こんな至近距離でまるで密着するかのような体勢になっていた。そのことに気付くとそして慌てて彼から離れ、気まずさを誤魔化すように口を開く)
さ、さあ、もう一度やってみてください。
なるほど………
(相手の指摘を受けて真剣な表情でフォームの改善に努める。さすがに慣れているだけある上に、やはり彼の教え方は理解がしやすい。手本通りに親指と人差し指で輪を作り、肩の位置を調整している時、彼の体温が密着するほど近くにあることに気づき、呼吸が止まった。鼓動がいやに早くなっていくのを感じる。彼はフォームの指導をしようとしているだけで、その気がある訳では無いことなど頭では理解しているはずなのに、今までに無かった距離感に緊張でやや体が強ばった。指導を終えた瞬間、彼もその距離感の近さに気付いたのか、背後から離れていくのを感じ、僅かに気まずさが残るままこくりと小さく頷き、新しく整え直したフォームで手球を弾いた。しっかりと整えられたフォームから放たれた球は先程とは違い目標通り真っ直ぐに転がっていき、真正面から1番の球へと当たって後ろの菱形の球たちを方々へと散らしていく。その球の軌跡を見た瞬間、緊張も気まずさも全てが吹き飛んで湧き上がるような興奮と共に相手の方を振り返ると、散り散りになったボードの上を指さしながら笑顔を浮かべて)
悠さん、見てください!上手く当たりました!全然ポケットはされませんでしたけど……。
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