蟲 2016-11-26 12:01:37 |
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>白雨
(開いた襖の先。己を待っている誰かが確かにそこに居ると言うのはこんなにも心弾むことだったのかと、近づいてくる姿をぼんやりと見つめて思う。できることだなんて、ただそこに居てくれるだけでいいのにと向けられた微笑に笑みを返せば、微かな笑い声と共に告げられた言葉に驚きと歓喜とを綯交ぜにした表情を浮かべてぱちりと一つ瞬き「まぁ。奇遇ですね、わたくしもですよ。――ふわふわと覚束なくって、まるで夢でも見ているかのよう」今ならば分かる気がする。蟲卵を拾ったその日から欠かすことなく声を掛け続けたのは、きっと今この時を望んでいたからに違いないのだ。想っていた。待ちわびてた。――日ごと成長する黒き卵から何が生まれるのだろうかと、まるで恋に焦がれる少女のように。気持ちの共有とはかくも暖かなものなのかと、思わず堪らなくなって再び黄金の髪を撫ぜる。数度指先を髪に通してそれでもやや名残惜し気に腕を下ろせば、盥を室内に引き入れて新たな手拭いをその横に積み「さ、冷めないうちにどうぞ。――着ていた服は日が昇ったら洗いましょうね。そのまま乾いてしまうと困るから、盥の中に入れておきましょうか」畳は丁度張り替えようと思っていた頃で、敷布と毛布もきっともう使う事の無い来客用の一組に過ぎない。粘液に濡れて困っているものと言えば彼自身と彼の纏う服のみで、部屋の片づけはそう急ぐことでもないと思えば翌朝以降に持ち越すことにして。和室には少し不釣り合いだが使い込まれた鏡台から黄楊の櫛と、自身の着替え用に箪笥から白の浴衣と紺の伊達締めとを取り出し「貴方の部屋の準備が終わったら、呼びに来ますからね」と一度微笑みかけてから再度部屋を後にする。廊下に踏み出した瞬間から早く戻りたいと思ってしまうのが可笑しくてつい笑い声を零せば、隣の書斎で着替えを済ませてから客間の一つへと布団を一組持ちこみ「まるで、あの人が居た頃みたい――」違うとは分かっていてもそう思わずにはいられない。彼のために寝床を整えている今の自分が記憶の中の自分の姿と重なり、しかしそれでも、"あの人が戻って来たみたい"とは微塵も思わない。懐かしさと新鮮さとがせめぎ合う中で隣の客間にも同じように布団を敷けば、自室へと戻り室内に向かって「……終わりましたか?」と襖を開けてもいいか確認するために声を掛け)
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