蟲 2016-11-26 12:01:37 |
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>白雨
(名前を呼べない。その言葉に虚を突かれたような面持ちを浮かべれば、困惑を表わすようにはたりと瞬きを一つ。どうやら知らず知らずのうちに、都合の良い甘ったるい夢を見ていたらしい。我が子に対して名乗るなど考えもしなかった、なんて。なんと浅ましく悍ましい考えだろうか。生まれ落ちたものがあまりに寂寥を埋めるものだから、何かが手に入ったと錯覚してしまった。世界中でこの腕に抱けるものなんて、もうわが身しかないというのに。「そうね――。貴方が殻の中で過ごした年月を、わたくしは外で過ごした。きっとそれだけのことなのでしょうね」生まれて来たばかりの子はしかし、己とそう変わらぬ歳月を経た姿形をしており、親であることなど土台無理だったのかもしれない。やった事と言えばきっと、そう、子供を現世へ引き摺り出す産婆のようなものだろう。立ち上がり部屋の隅に置かれた和箪笥の元へと向かえば、濃紺の男物の浴衣と黒の兵児帯、それから手拭いを数枚取り出して振り返る。ゆったりと紡がれた言葉は柔く甘く。しかし悦ばしくも無責任だと感じてしまう己の、なんと醜い事か。ぐるぐる、ぐるぐると胸中を占める何もかもを糾弾するような感情に真綿で頸を締められるような心地を覚えて、言葉を寄越す代わりに諦観の笑みを返せば畳の上にそっと浴衣を下ろし「今、湯を沸かしていますからね。先にこの手拭いで、――」こうして言葉を奪われたのは二度目になるだろうか。晒された素肌のぞっとする様な白さ。この世のものとは思えない幽玄の美を醸す様子に呼吸までもを奪われていたと知るのは、酸素を求めて耐えきれなくなった喉がひゅう、と自らの役割を控え目に主張したからで。「――わたくしは薫子、久坂薫子よ。久しいに坂道の"さか"で久坂、薫風の"かおる"に子供の"こ"で薫子」随分と長い事耳にしていなかった己が名はどこか他人行儀に響き、ようやく三度目を口にしたところで知人の顔を取り戻す。そこで一つ瞬けば、気付けばするりと零れ出た、全く意図しない時機の言葉に驚きを隠せない様子で口元を押さえ「……厭だわ。何で…、ごめんなさいね。すぐに湯を持ってきますから、先にこれで拭っておいてくださるかしら」一を望んでしまえば、きっと十を手に入れなくては気が済まなくなってしまう。何かを望むことにも疲れたと、そう思っているのは紛れもない事実であるのに。どうか覚えて欲しい、名を呼んで欲しい、知って識ってしり尽くして――刻んでほしい。そんな際限のない欲に困ったように眉尻を下げて、そんな表情のままそっと手拭いを差し出し)
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