蟲 2016-11-26 12:01:37 |
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>月夜
( 由来も知らぬ。何の思い入れもないと、そう思っていた。名前というものは人に呼ばれて初めて存在意義を、特別な響きを持つものらしい。月夜が生まれた事でやっと自分が“朝陽”になれた気がして、彼が初めて口にした人の名が自分のそれである事に強烈な優越を抱いた。由来も知らぬ。何の思い入れもないと思っていたこの音に、今日、やっと価値が生まれたのだ。―――リリリリリリ。月夜の震えた声を嘲笑うかの様に、秋を越えたこおろぎが甲高く鳴いている。お前が死んだその時には、月夜と二人、同じ位に声を張り上げ笑ってやろう。…二度名を呼ばれ、くるりと振り返る。彼なりに頑張ったのだろう、母を手伝う幼子みたいにぐちゃぐちゃと纏められた衣服を見て、思わず小さく噴き出した。「…ああ、月夜は偉いね。」一応血液が付着している部分が上になっているのでにやけ面ではあるがそう短く褒めると、墨を垂らした様に、あるいは黒檀の様に黒い髪の毛をぐちゃぐちゃと乱す様に片手で撫でつけて。ぱっと衣服を受け取ると、桶にきちんと入る様ぎゅっと空気を逃してからそっと水に浸け、またくるりと振り返れば彼の首にかかった手拭いを取りすっかり冷たくなった手を拭った。これは明日洗おうと流しにそのまま手拭いを放ると、「あの空き部屋をお前にあげようと思ったんだけど、どうしようね。残念ながら客人用の敷布はあれ一つしかないんだけど、どろどろだし。」と、この男が生まれた事であっという間に殻と粘液塗れになってしまったあの空き部屋を思い浮かべ独り言の様に呟いて。とりあえず片付けはせねばなるまいと、戸棚から適当な紙袋を取り出し月夜へ突き出すと、「もう一度手拭いを取ってくるから、最初にいたあの部屋へ行って殻をこれに入れておいて。」と告げまた自室へ向かって。 )
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