匿名ゆき 2014-11-23 17:15:10 |
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一番優しくしたかった人にできなかったこと
・萎れかけの花に水を注ぐような優しさを送ること
・自他の境界線を意識し、踏み込んではいけない領域に無闇に突っ込まないこと(互いの境界線次第では離反も受け入れなければいけないことを自覚すること、人との距離感を掴むのがあまりにも下手だった)
・意地を張らないこと
・チョコレートのお菓子のこと、ごめんね
・誕生日を祝えなかったこと
・君が一番かわいいって言えなかったこと、馬鹿っぽい理由だけど僕は君が一番かわいいから好き
・好意が重たく醜いものかもしれないと、微塵も疑えなかったこと
変わったなと思うこと
・他人との間に境界線を作れるようになった
変わらなかったもの
・自分の好きなもの
・自意識過剰(どうしようもなかった、手遅れかもしれない、一人でいる時間が多すぎたと思う)
先日、安倍公房の他人の顔と、福永武彦の草の花を読んだ
安倍公房の文章は示唆に富んだ文の群れから構成されていて、解釈を一意に定めがたいところに面白さがあると思う
読み始めてみると、やっぱり彼の文体だなと一目で分かり笑ってしまったが、先を追うにつれて主人公の行為を眺めているのが辛くなってしまった
過剰な自意識を持つ人間特有の気味悪さを抉り出した上で、それを他人の目にはどう映るかを描いたこの作品は、自分のような人間にはただただ苦しかった
草の花は、所謂サナトリウム文学に属する
同じくサナトリウム文学である、太宰治のパンドラの匣を少し前に読んだけれども、各所に主人公の自意識の強さを感じさせるものがあった
自意識はフィクションのなかの小道具である限りにおいて存在を許されるのかもしれない
自意識との戦いはそれ自体自意識的であり、希死念慮と同じく容易に取り去れるものではないような気がしているが、努力で見せないようにできるものではあるかもしれない
草の花にもまた考えさせられた
燃え滾るような好意によってもたらされる、他人の理想化とその不気味さを美しい文章で綴っている
他人だけでなく、愛する行為自体も理想化していて…
ということが、主人公の愛した二人の人間の言葉から浮き彫りになってくる
「──僕らに何が出来るでしょう、僕らは生まれながらにもう極った道を歩いています。」
「──どうして星を見ないんだ?」
「──僕には出来ないんです。」
「──僕は一人きり、そっとしておいてほしいんです。」
理想化される側の人間はそのヴェールが剥がされて、幻滅されるのを恐れて一人を選ぶ
ここ最近他人から「優しい」と言われることが本当に多かったけれども、その度に辛くなるし優しくなんかないと答えてしまうのは、優しくない自分が明らかになるのを恐れているからかもしれない
食堂で水を汲んで持ってくるような精神は、ちょっと気が利くだけで、優しいのとは違う
優しさとは、個人の金銭や時間を消費して余剰を生み出す行為ではなく、欠損を補填するような行為を指すのだろうか
笑ってくれたら嬉しいなと思う、何も見返りはいらない
人は許してくれない人のことを、許せないのかもしれないけれど
自分は許せたらいいなと思う、大丈夫だよって言えたらいいなと思う
手を振ってまたねができたらよかったなと
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