匿名ゆき 2014-11-23 17:15:10 |
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八月二十一日 日記
昨日は午後一時から午後十時頃まで数学の個別指導をしていた.夏期講習期間には通常授業で担当している生徒二人の他に,もう一人だけ教えることになっている.普段教えている二人は中学三年生と高専一年生,夏期講習に顔を出している生徒は中学三年生.前者二人とはそれなりにコミュニケーションが取れているのだが,後者に関しては全くと言っていいほど会話が成り立たない.ここでの僕の役割は数学を教えること以前に,生徒一人一人の主体性に耳を傾け,意思を尊重することにあるのだと思っている.だからこそ,この現状を打破するための案を考えているのだが,どうにも思いつかない.壁中にびっしりと貼られている合格者数を大きく書いたポスターが笑っているような気がする.狂気的でない空間など殆ど存在しないとはいえ,ここよりはましだと思える場所ぐらいいくらでもあるだろう.日頃面倒を見ている中三生の授業を終え,一息吐こうと校舎の玄関に向かった僕は人通りの悪そうな薄暗い細道に沿って歩き出した.
午後三時.気が付くと前方に鳥居が見えてきた.境界を潜った先で八幡社の旗が微風に揺らめいているのが分かる.蒸し暑く,じめっとした大気が頬に纏わりついてくる.緑を貫いて流れる透明な風の壁が僕に体当たりしたとき,クラゲの様な実体のない僕など一瞬で吹き飛んでしまえばいいのに,と思った.標高の高い場所はここよりも涼しい風が吹いているのだろうな.きっと,僕の体は何処までも浮上して,地上から離れた空中で窒息死する.星になった暁には破裂したクラゲの傘を一本手に取って,緩やかに青々とした深海へ沈んでいきたい.何処までも深く潜った先で僕はリュウグウノツカイの背に乗って,月まで届く塔の内部を貫いていくんだ.月の光が流れている….ピアノの幻想的な音色が水中に溶けている.深く,深く,群青に染まる….しかし僕を乗せた深海魚は突然風に変わり,再び木々を貫いて僕を降ろしてしまった.いま,僕は風に打たれた自分が空中に浮かんでいくのを眺めている.このまま惚けていたら自分と鉢合わせてしまうのだろうか.死ぬのは嫌だ.殺すのも嫌だ.僕は僕の中から消えたふりをして生きていこう.透明になろう.あぁ,だから僕は僕より先にここに来ているはずの自分たちの姿を捉えることができないのか.何だか以前より自分の体が軽くなっているような気がした.思ったより時間が経っていたみたいだ.参拝に来た人々も境内を一周して戻ってきていた.後生短そうな老婆の鼻をすする音.その老婆の背中に暖かい手を差し伸べる中年の男.錆びついた時間がブロック塀に張り付けられている.誰も手を差し伸べてはくれない.僕も戻ろう….
午後三時四十五分.重い足取りで校舎へ歩き出していた.信号が変わるのを待っていると前方右側にドラッグストアがあるのを見付けた.次の授業は五時からだから,まだ寄り道するぐらいの時間は残されているだろう.みぞおちを締め付ける焦燥感を抱えながら店内の薬棚の方へ向かった.目的の品の前で立ち止まり,手に取っては離して,少し遠くの飲料水コーナーを眺めに行き,再び商品を手に取っている.そんなことを繰り返しながら,これから担当する中学三年生のことを思い出していた.協調性がなければ攻撃性もなく,主体性も矜持もあまり持ち合わせていないように見える生徒.計算過程を省略しないように何度お願いしても,何故か省略してしまう.分からなければ「分からない」と言ってくれて大丈夫だからね,と語りかけても無言のまま時間が過ぎてしまう.敵意など微塵も含まないように細心の注意を払いながら簡単な質問をしても,一瞬体を震わせて黙り込んでしまう.そのたびに彼の精神を傷つけているのではないか心配になる.
ふと,僕にも同じような経験があったのを思い出した.高校二年の範囲の数学を塾で教わっている時間,予習復習もせず問題の意味すら分からないのに出席だけはしていた頃の記憶.出席していたのも純粋に理解したいからではなく,きっと,受験勉強をしている集団の中から溢れ落ちるのが恥ずかしかったから.定着しなかった原因が自身にあることはよく分かっているが,それでもこの時の担当講師A川はとても恐ろしい存在だった.A川は生徒たちに精神論で数学を解かせるような講師だった.ここでいう精神論とは,数式や図形に美的感覚を見出すといった数学の精神領域を語るものではなく,本気になれば数学は理解できる,というような一種の根性論に近いものである.A川の授業で唯一役立ったと思えたのは三角方程式の解の個数を求める問題の解法を教わったときだけで,それ以外では独自の訳の分からない発想を延々と聞かされ続けた.解けないときは決まって本気ではないからだと言い続け,教室は常に緊張していた記憶がある.今思えば受験数学ですらなかったと思う.どれだけ一部の人間に効率が良かろうが,生徒を置き去りにする授業展開をする気はない.
受験までにはきっと間に合わない.だから僕に出来ることは受験対策ではなく,分からないことが分かるようになっていくあの喜びを体験してもらうことである.与えられた中三生用の問題には触れず,今は小学五年生の簡単な計算から確認している.分からなければ分かるところまで戻ろう.分からないところが分からなければ,分かりそうなところを一緒に探そう.何処までも戻っていこう.研究は孤独でも,勉強が孤独だというのは嘘だ.
ただ,先生は魔法使いでもなければ,革命的に他人の人生を変えるほどの力も持ち合わせていない.ちょっとだけ人生に刺激を与えることが出来るかもしれないだけなんだ.僕は見覚えのある薬に手を伸ばし,窓の向こうで降り注いでいる大雨が止むのをほんの少しだけ期待した.
午後四時四十五分.騒めき立っていた僕の精神が青色の雫に変わり,それが等間隔で透明な液体の中へ沈んでいく.絵の具のように拡散しながら液体全体を染めていく.窓の向こう側で轟いていたはずの雷鳴も収まっていた.騒めきの存在は感じる.感じるがそれを優しく包み込んでくれるような安らぎがあった.頭に入ってこなかった数学書の内容がすっと入ってくる.数式の伝えたがっている内容や,内包している思想が流れ込んでくる.後はただ縫合していくだけでよかった.ミシンで一つの衣服を縫い上げるときのように,完成形への接近を夢見るだけでよかった.蝙蝠傘との不意な出会い.落ち着きを取り戻した僕は次の授業に向けて準備を始めた.
午後七時.中三生の授業を終えて一息.室内が他の個別指導者の声でうるさくなってきたので再び校舎の外へ.口笛を吹きながら近場の自販機で大好きな天然水を購入する.私の喉を潤す天然水.私が恋焦がれている存在の好んでいる天然水.いくら私の心が青色に純化されようとも,辺り一面の人間が液体に溶け込もうとも,誰にも融け込まず決して見失わない程に群青色な彼女.初めて世界で二人きりになったと思った去年の三月の出来事を思い出していた.観覧車を降りた私たちはウォーター・アトラクションで少しだけ距離を置きながら揺れる水面を眺めていた.彼女を物質的に見る必要はなかった,というのは言い訳に過ぎず,実際は彼女の方に顔を向けるのが照れ臭かったのだ.お酒を飲んで少しだけ緊張が解れた感覚.お互いの言葉だけが月の下で融けていく感覚があった.私は一体いつまで「君」と呼び続けなければならないのだろう,と思った日もあった.遠くの場所で咲いている孤高な百合の花.私は彼女との逢瀬のたびに命の灯火が強く揺らめくのを感じていた.この身が焼き焦げてしまうほどに常日頃僕の脳内を震わせ続ける彼女の遠くを見つめる視線….気が付けば七時半,次の授業の時間だった.
午後九時半.高専生は授業の進みが早く,一年の段階で既に三角関数まで学び始めている.数学ではなく物理の授業ではベクトルの概念まで導入しているという.将来は情報系を専攻するようなので,出来る限り嘘を教えないようにすることを心掛けている.一年生は将来設計までに猶予があるから教えている分には気楽だ.大学に編入するにせよ,そのまま高専を出るにせよ,今の時期はがむしゃらに挑み続けていてもいいような気がする.級友とプログラミングでドローンを浮かせて遊んでいるらしく,話を聞いているだけでも微笑ましい.誰か,一緒に何か始めないか.少人数で集ってワイワイしながら怪しいことをするのはなかなか楽しい.別に技術的なことでなくても,何でも良い.一時期大学の庭にミステリーサークルを作るのを考えたりもしたが,流石に軽犯罪になりそうなのでやめた.
夜,布団に潜るとやっぱり少し落ち着いていられる.眠れそうな気配さえ感じるのはプラシーボ効果だろうか.書けなくなってきたので,今日の日記はここまで.
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