匿名ゆき 2014-11-23 17:15:10 |
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>> 思考の周辺とか、暇潰しに書いていきたいな。
>> 勉強のこととか、本や音楽とかも。
勉強のこと
理解できるように噛み砕いた説明であっても,数学的概念を他人と共有することは難しい.
理解できない説明法では尚更である.
ゼミに配属された同期の様子を見ると,根源に至ろうという態度が全く見えない.
しかし,それで構わないのである.
私が何か数学的な話をするときは,多くの場合厳密な定義を一度自分の内部で液化させ,見栄えのいい形で再構成することを心掛けている.
定義定理証明の連続で嫌気の指さない人間はほんの一握りであり,病的に厳密さに固執する私の方が気が狂っているらしい,大学に入学してもなお私を見かけると揶揄する人間が複数いた.
というわけで厳密さを欠いた表現を用いることになるのだが,このような表現で世界を展開していくことは,数学ではとても難しい.
世の中には「数式の無い」だとか銘打たれている不思議な数学書が存在する.
読んだことがないので分からないが,創意工夫を張り巡らせているか,若しくは駄作かのどちらかなのだと思う.
読み手の前提知識に応じて説明を流動的に変化させなければならないのだが,書物に質問しても返答はない.
基本的に独学で数学を身につけるのは難しいと思う.
だから私は流動的な知識を身につけ,世界の果ては見通すことが出来なくとも,周辺で起きている出来事は完全に把握しているような,流体のような存在になりたかった.
一見単純そうな「数列」という数学的対象がもつ「列」という概念も「写像」「順序」「整列可能性」などの概念に分解され,今まで考えもしなかったような問題を生み出すことがある.
数列とは,ある規則によって定まる数の並びのことを指すのだが,モノが並ぶとは一体どういうことなのだろう.
そもそもモノの集まりには,最初から順序など定まっておらず,並びがないという意味では同一視されていると考えることが出来る.
順序とは,ある意味,私たちがモノに価値や意味を与えた結果生じるものである.
それは例えば{A,B,C}というアルファベットの集まりにおいて,各アルファベットのピクセル量で順序を定めたとすれば,おそらくB>A>Cという順序が定まる.
{1,2,3,…}などの集合は,暗黙の了解的に1<2<3<…という順序が定まっているとされているが,そうではなく,もともとは「1と2のどちらが大きいか」という疑問に答えることのできない,順序の定まらない集合が存在していると考える方が都合が良い.
このようにして,単なる並びという問題も,案外奥深いということが分かるだろう.
順序概念はとても面白く,数学では「束」という概念に発展するがここでは触れない.
もちろん,こんな話に興味を持つ人間は少ないと思うし,また数学をしている人間でも最初の方に通った道なので取り分けて興味を持つとは思えない.
では何故私は,このような基礎的な内容に関心を抱くのだろう.
一つはある概念が生成される契機に関心があるから,なのだと思う.
今の例でいえば,自然数という並びを持つ集合を注意深く眺めると,順序という概念が独立に切り出せる.
数列だって単純な数の並びだったはずなのに,写像と自然数によって定められていることが分かってくる.
ある概念が生じるにはそれだけの理由が存在し,その生成の瞬間に起きる現実や幻想との摩擦が美しいのだと思っている.
二つ目は構造主義という思想である.
哲学的な話も数学同様前提となる知識を読み手に要求することになってしまう.
例えば「構造主義は実存主義を批判した」という文章を読んだところで,実存主義のことを何も知らなければ,これは何も言っていないのと同じである.
構造主義が批判したことは「実存主義の持つ,価値観の押し付けという側面」である.
もう少し言えば「実存主義は,実存主義を生んだ西洋の持つ構造が主義の生成に大きく関わっているのではないか」という批判である.
簡単に言えば家が違えば,しきたりも違うし生き方だって違うよ,という話しである.
実存主義は実存主義で,資本主義の発展に伴い個人に生じる不安,個人の主体性の喪失,社会に飲み込まれる恐怖などから逃れるための生き方を模索する方法を考える主義であるので,実存主義が悪い,というものでもありません.
ただ,すべての人間が「被投性」という,自分の意志とは無関係に世界に飛び出さなければいけない性質を理解し,自分の道は自分で選ばなければならないという「先駆的決意」を抱け,というのは無理があります.
そして実存主義は,ここから溢れた人間を「頽落的」であるとして受け入れません.
実存主義は不適合な生き方しかできない人間に救いを与えない.
別に,構造主義も救いを与えるものではないが,実存主義とは異なり,優しさがある.
意味が分からないと言われると思う.
私は自分でも無体物に対して優しさを覚えるのは可笑しいと思いながらも,その優しさが好きなのである.
数学には数学を成立させる構造である公理の妥当性を研究する,基礎論という分野がある.
そこで公理として与えられたものには,存在を許す優しさがある.
内包性公理,外延性公理と呼ばれるものを人間へ適用して説明しよう.
内包性公理とは,あなたがあなたであることを,言葉で規定することで示すことが出来る,という規則である.
外延性公理とは,あなたがあなたであることを,あなたの内面を列挙することで示すことが出来る,という規則である.
公理的なものは存在者に許可を与える優しいものだと,私には思えるのだが,別に僕はこれを誰かに押し付けようとは思わない.
内面に隠れた構造を調べ,その構造を測るうちに,構造を表現しうるものを具象化することに関心を抱き始めた.
それは可視化であり,文章化であり,つまりは抽象から具体への遷移である.
構造は確かに一意的に表されるものであり,それ単体で見ても美しい.
しかし私たちはしばしば,視覚的に表された幾何には構造が「隠れている」というような言い方をすることがある.
実際,様々なモノに構造が隠れているのだ.
さっきの数列や自然数がいい例である.
では逆に,例えばある系から生み出される抽象的構造物を一意的でなくとも視覚的に表現することも可能なのではなかろうか.
それも,その構造が美しく在るように表現を与えることが.
数学は存在を探求する.
私は数学をしているとは言い切れない,数学科の人間ではないから.
存在者に服を着せるのが,私のしていることかもしれない.
私は寄り道をし続ける.
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