徒然 2019-09-30 00:56:08 |
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冬季が兄…睦月の異常に気付いたのはいつ頃だったか。
師となる人の家に引き取られて来た時からの事を考えると、おそらく最初から可笑しくはなっていたのだろう。
その日の夜には、もう既に真夜中だと言うのに家中を徘徊していると弟や師、師の家族から言われていたし
目が覚めた弥生など、何度か睦月の徘徊を見つけて連れ戻したりなどしていた。
理由は分かっている。
冬季が母を斬ったからだ。
睦月は気の弱さはあるものの、優しく責任感の強い長男であった。
だからこそ、冬季に母を斬らせてしまったという事が大きな衝撃で、心の傷だったのだろう。
その証拠に、睦月は母が鬼化した事を覚えていないらしく、何度か母を探しに出た事があった。
今は弥生が「母上は戻らん」と言ったので、落ち込みつつも秋を連れて日用品の買い出しや家事に精を出している。
それでも夜中の徘徊は止まらず、何度も何度も姉が連れ戻して居るようだった。
決定的に兄がおかしくなったのは、冬季が最終選別から帰ってきた時だ。
冬季は鬼を斬り、生き残りはしたものの、足は折れていたし疲労も強く。
包帯で止血していたが、如何せん失った血の量が多く、帰りついた瞬間玄関口で倒れて動けなくなってしまった。
その瞬間の、今にも死んでしまいそうなくらい青くなった睦月の顔が、意識の途切れる直前冬季の目に焼き付いた。
その後は三日は床から動けなかったので、弥生から聞いた話なのだが。
睦月が徘徊はしなくなったものの、夜中は道場に籠るようになったらしい。
木刀を握ったまま、ただ立っているだけ。
表情は徘徊している時と同じく、夢と現を彷徨う様な表情。
弥生が話し掛けても動かず、連れ出そうにも一歩も…頑として動こうとしない。
剣術を習いたいのかと、弥生が師に声を掛けても、動くこと無くただそこに佇むだけだったらしい。
体調が整い、後は刀が来るのを待つだけとなった時、冬季は睦月を訪ねる事にした。
元より夜中に自主的な鍛錬を積む事が殆どであった冬季にとって、真夜中に睦月のもとへ向かうのは容易い事ではあった。
今まで避けていたのは、罪悪感もあったのだろう。
ただ、今度ばかりは様子の違う兄を心配する気持ちが勝った。
道場へ足を踏み入れると、皮膚を刺されるような痛みが全身に走った。
冬の寒さに身を打たれた時と同じだ、冷気が道場を漂っていた。
入る前はそんなもの無かった、つまり…これは冬季を待っていたのだ。
冬季は足が凍えそうになるのを堪えて、一歩一歩睦月に歩み寄った。
月明かりが道場の中に差し込み、暗闇の中で反射する睦月の瞳は翡翠色に透けて見えた。
────ヒュウウ─…
風の逆巻く様な音、一瞬虎落笛と勘違いして睦月から意識を逸らしそうになるが、経験が警鐘を鳴らす。
これは呼吸音!!
後ろに飛び退いた冬季の鼻先を、睦月の木刀が掠めて行った。
木刀だというのに、まるで真剣のような圧力があった。
そして、冬季はあの太刀筋に覚えがあった。
剣の才が高くない冬季は、剣術や呼吸の知識だけはこれでもかと頭に詰めていた。
───水の呼吸、壱ノ型 水面斬り
何故、今の今まで刀を持った事すら無い筈の兄が? と考える暇さえ睦月は与えてくれない。
───水の呼吸、肆ノ型………
打ち潮が来る、回避方法を誤れば殺される。
何故かは分からないが、そうなる確信が冬季にはあった。
目の前にいるのは、見た目こそいつもと変わらない冬季の兄だ。
しかし、その中身は今は違う。
(剣士だ、名も知らぬ剣士!! 夜叉の様に無慈悲で、覚悟無いものはこの場で斬り殺す腹積もりだ!!)
下手に後ろに回避すれば、首の骨を折られる。
故に冬季は前に転がる様にして躱す、が。
(目が合った!!)
完全に読まれている、当然だ。
使った型を避ける方法など、使った本人が一番よく知っている。
振り返るな、足を止めるなと自分に言い聞かせながら、冬季は転がった勢いで立ち上がり、前に踏み込む。
手にしたのは、睦月と同じ木刀。
───水の呼吸、弐の型…
水車、と判断して上からの攻撃を受けんと木刀を構えるが…
───改 横水車
「げぅッ……!?」
肋骨が砕ける音が聞こえた、弾かれて地面を転がる。
肺が突然収縮させられた為か、大きく咳き込んだが…睦月はそれでも止まっていない。
冬季が呼吸を整えようと大きく息を吸いながら顔を上げれば、既に睦月はすぐ側で構えていた
───水の呼吸、漆ノ型 雫波紋突き
慌てて横に転がって避けるも、これでは防戦一方になるしか無いと冬季は必死に頭を回転させる。
正直に言おう、剣の才と力に関しては冬季は今の睦月に敵わない。
睦月の太刀筋は無駄が無く美しい、こんな時でなければ見惚れる程に美しい。
つまりは強いという事だ。
冬季は知識だけはきっと、睦月よりも多い。
人体の構造や、剣術、それぞれの呼吸の癖や方法……医学に必要だから詰め込んだ知識と、鬼を斬る為剣術の為と詰め込んだ知識が冬季にはあった。
この全てを活用すれば、睦月の一手先は見えるかもしれない。
いや、見えなければいけない。
今見えなければ、冬季は死ぬ。
睦月の姿をした何かに殺される。
一つ判明している事はこのまま睦月に技を出させれば、今の冬季の反応速度では受けきれないという事だ。
先程の雫波紋突きなんて、受ければ防御の隙を縫われて今頃冬季の腹に木刀が生える羽目になっていた。
師に教わった呼吸で睦月に立ち向かう。
呼吸で肺を破裂1歩手前まで膨れさせて、血管が拍動を加速させるのを鼓膜の内側で聴く。
放った一撃は、翡翠の凪いだ瞳が一瞬で見切り最小の動きで躱された。
その瞬間、周囲の光景が糊でもかけられた様に重たい動きに変わる。
(………殺される)
それだけ、たったそれだけを理解した。
睦月が構える、ゆっくりとした動きに見えるが最小限の動きは滑らかで無駄が無い。
死にたくはない、けれどこの技を躱す動きにはまだ入れない。
────水の呼吸…………
突然、睦月の目から光が消えた。
瞬間睦月の身体が前のめりに崩れ落ち、冬季の腕に収まる。
ずしりとした意識の無い重みに冬季も崩れ落ちるが、同時に冬季の全身が脱力し、呼吸が酷く乱れる。
全身を脂汗が伝う。
理由は不明だが生き残ったのだと、大きく呼吸を整えながら、冬季の腕の中で寝息を立てる兄を恐る恐る見る。
眉を八の字にして、心配そうな顔で眠る睦月…先程の容赦無い太刀筋を奮った人間とはとても結びつかない。
だが、事実だ。
睦月は水の呼吸を使い、冬季の覚悟を問うた。
(……何故?)
疑問と混乱が、冬季の心臓に早鐘を打たせる。
兄はその腕の中で不安げに魘されていた。
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