都々 2016-06-18 21:21:15 |
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ひたひたと響く静かな足音、小さな衣擦れの音さえやけにはっきりと耳に届く。辺りは朝霧に包まれ、数メートル先の景色は薄ぼんやりと霞んでいる。しかし多くの古びた建造物に囲まれている事は確かなようで、無事目的地へ辿り着けたのだと一先ず安堵した。
朝霧の街と呼ばれるこの場所は、その名の通り霧に覆われた旧都市だ。所狭しと建ち並ぶ建造物は大きく崩れてはいないものの彼方此方で老朽化が進み、汚れや巻き付く蔦、部分的な崩壊が目立つ。街全体が廃墟と化したここでは人気がないどころか生き物の気配一つ感じられない。マンションのベランダに引っ掛けられたままの洗濯物が、ほんの僅かな人の名残りを置き去りにしていた。
大通りらしき場所に出たところで腰のベルトから地図を抜き取る。この時代には珍しい紙媒体のそれを彼は酷く気に入っていた。荷物が増えるだけだろうと呆れる誰かの顔が浮かんでは消え、ゆるりと頭を振り動かす。地図を広げるたび指に伝わる紙の感触、自分自身で場所を探っていく高揚感、この良さがわからないなんて何と勿体無いことだろう。広げた地図はそのままに、腕に取り付けたバングル型端末で時刻と位置情報を確認し、地図上に書き込んだ印と照らし合わせる。──大丈夫、計算通り。方角を再度確かめ一つのビルを目指して歩き出した。
──朝霧の街。ここへ出入りする者は幾つかの条件を守らなければならない。一つは日の出と共に霧の中へ入り、街を探すこと。そしてもう一つは霧が消えるまで、つまり朝が終わるまでに街の外へ出ること。どちらか一つでも条件を破れば街に囚われてしまう。二度とここから出られないのだと人伝に聞いた。
辿り着いたビルは一階部分がカフェだったのだろう。窓硝子が割れ自然の緑が入り込んでも尚、小洒落たテラス席は殆ど原型のまま佇んでいた。その隣の空洞、おそらく扉があったはずの空間を潜り上へと続く階段を上ること数階。そこに何があったのか、それを知る者はきっともうどこにもいない。大きく穴が空いた壁からは剥き出しの鉄骨が不格好に飛び出し、それ以上上の階層はあったのかなかったのか天井部分は綺麗さっぱり失われていた。
いつ崩れ落ちてもおかしくないそこを迷いなく歩く。床が残っているぎりぎりの場所で足を止めれば肩から斜め掛けにしていた鞄を開け、中から取り出したのは一枚の封筒。白地に薄桃色の花が控えめに描かれたそれには綺麗な字で宛名が書かれている。これもまた今ではもう殆ど見ることがなくなった紙の封筒、それも手書きの文字が書かれた代物である。
ゆっくりと丁寧に宛名を読み上げる。納得した様子で一度頷けば何を思ったのか胸ポケットにさしていた万年筆を取り出し、何もない空間に文字を書き始めた。するとどうだろう。万年筆が通り過ぎた後には柔らかな光を放つ文字が空中に漂っているではないか。何処へ行くでもなくその場で浮かび続けるそれに封筒を押し付けたかと思えば、そのまま封筒を空に放り投げる。静けさだけを主張していた街に突如舞い込む風。飛ばされそうになる帽子を片手で押さえながら、上空へ舞い上がる手紙が霧に飲まれていく様をただひたすらに目に焼き付けた。
朝の終わりを背中に感じながら霧の中を歩み、街から遠ざかる。斜め掛けにした鞄の中には未だ多くの思いが詰まっていて、残念ながら休む時間はなさそうだ。帽子を被り直し地図を撫でて次の目的地を思い浮かべる。とある郵便屋さんの一日はまだ始まったばかり。
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