土佐人 2015-05-26 05:15:51 |
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季節はあの日と同じだが、この部屋に海風が吹き抜けることはもうない。
俺の中に保存されていた古い音源が、ところどころ雑音で途切れながら再生される。
----旧陸軍が設計したこの病院は、ある仕組みで簡単に崩れてしまいます。
どうしてあの時、あの女性はあんなに嬉しく笑ったのだろう。まるで破滅の闇をスキップしながら歩くのが楽しくて仕方がない、という様子で。
そう考えたその時、初めて俺は、記憶に保存されていた言葉がひとりのものではなく、ふたり分の女性の言葉が入り混じっていたものだったということに気がついた。
するとあの時、この部屋に俺は、ふたりの女性と一緒にいたのだろうか?
すっかりその事実を忘れ去ってしまっていた自分の記憶の曖昧さに愕然とする。
自分の記憶でさえ定かでないというのであれば、俺は一体この先何を信じていけばいいのだろう。
記憶の中の画像には、明るい瞳をした跳ね返りの女性の姿しか映っていない。かくの如く記憶というものは、いともたやすく捏造されるものなのだ。
封印されていた古い記憶が、建物の構造と共鳴して呼び起こされ、古傷のように苛む。これ一体、何の因果だろう。
遠のいていく記憶を追って深い淵に沈潜し、自分を見失いそうになる。
俺は静かに部屋を出た。胸にうずく、古傷の痛みに耐えながら。
海堂尊『ケルベロスの肖像』19章 司法解剖が見落とした虐待 本文 342の続き より
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