土佐人 2015-05-26 05:15:51 |
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それから、真樹さんとは何年も会うことはなかった。その後、一度だけ井の頭公園で真樹さんが少年と手を繋ぎ歩いているのを見た。僕は思わず隠れてしまった。真樹さんは少しふっくらしていたが、当時の面影を充分に残していて本当に美しかった。圧倒的な笑顔を、皆を幸せにする笑顔を浮かべていて、本当に美しかった。七井橋をを男の子の歩幅に合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと歩いていた。その子供が、あの作業服の男の子供かはわからない。ただ、真樹さんが笑っている姿を一目見ることが出来て、僕はとても裕福な気持ちになった。誰が何と言おうと、僕は真樹さんの人生を肯定する。僕のような男に、何かを決定する権限ないのだけど、これだけは、認めて欲しい。真樹さんの人生は美しい。あの頃、満身創痍で泥だらけだった僕達に対して、やっぱり満身創痍で、全力で微笑んでくれた。そんな真樹さんから美しさを剥がせる者は絶対にいない。真樹さんに手を引かれる、あの少年は世界で最も幸せになる。真樹さんの笑顔を一番近くで見続けられるのだから。いいな。本当に羨ましい。七井池に初夏の太陽が反射して、無数の光の粒子が飛び交っていた。神谷さんは、「なんで、池に飛び込んで真樹を笑かさんかったんや」と言うかもしれない。だが、あの風景を台なしにする方法を僕は知らない。誰が何と言おうと、真樹さんの人生は美しい。あの少年は世界で一番幸せになる。その光景を見たのは、神谷さんと僕が上石神井のアパートへ行ってから、十年以上後になる。
又吉直樹『火花』本文 より
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