土佐人 2015-05-26 05:15:51 |
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「ワクチン?そんな生やさしいものではないですよ。私の存在は譬(たと)えれば抗癌剤です。健康体にとっては猛毒。私がこの地に招がくされた幸と不幸を、極北市民はいずれ思い知ることでしょう」
記者会見の様子を見ながら、今中は、世良がこれまで見てきた世界をもっと知りたいと思う。
朗々と記者会見を続ける世良の小気味よい弁舌に酔いながら、今中は、この一件に関わった人物の姿を思い浮かべる。気が小さいくせに口やかましい患者・田所、真っ赤なお鼻のトナカイみたいな市役所の加藤課長、敵前逃亡した赤鬼・室町院長、その好敵手にして逃げ遅れたコマネズミ・平松事務長、薬局のダンゴ三兄弟、東の超音波怪獣・角田師長に西の妖怪・鶴岡師長、天空から舞い降りたスノウ・エンジェル・姫宮。逮捕され留置場で息を潜める市民病院の良心・三枝部長。病院を訴えようとした消防士。恰幅のいいちょび髭の福山市長は天に召され、その隠し子は極北一の可愛く有能な看護師をかっさらって逃亡した。警察署長は医師逮捕のご褒美に栄転するらしい。
そして今なお、病棟で不安そうな目で毎日を過ごしている残されし者たち。
彼らは誰もがみんな、少しだけわがままで、少しだけいいかげんで、そして少しだけ心優しい人たちだった。なのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。
世良の記者会見は果てしなく続き、終わりそうにない。今中はふと、どうして今、この瞬間に、あの舞台で眩いスポットライトを浴びているのが自分でないのか、不思議に思った。今中の視界から、たくさんの人々が、ひとり、またひとりと、フェイドアウトしてゆく。気がつくと、今中は自分が夢の中に残された、たったひとりの住人であるかのような錯覚に囚われる。
世良の会見は続いている。滑らかに、そして空虚に。今中は世良の華麗な言葉の迷宮の中で、いつしか自分の輪郭を見失っていた。
今中はぼんやり外を見る。窓から見える極北の秋空は、途方もなく青かった。
海堂尊『極北クレイマー』二十六章 救世主 本文 より
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