土佐人 2015-05-26 05:15:51 |
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ただ一つ私の記憶に残っている事がある。ある時花時分に私は先生といっしょに上野へ行った。そうしてそこで美しい一対の男女を見た。彼らはむつまじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて目をそばだてている人がたくさんあった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生が言った。
「仲がよさそえですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女の視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をしたことありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくありませんか」
私は答えなかった。
「したくないことはないでしょう」
「ええ」
「君はあの男と女を見て、あの冷評(ひやかし)のうちに君が恋を求めながら相手を得られないという声が交わっていましょう」
「そんなふうに聞こえましたか」
「聞こえましたか。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。満足しかし…しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」
私は急に驚かされた。なんとも返事をしなかった。
夏目漱石『こころ』私 先生 より
☆かきこみがしたい人はどうぞなさってください。
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