2025-01-26 00:23:08 |
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足元に気をつけて。
(デッキを離れると潮風が途切れ、代わりに船内独特の静かな圧迫感が広がった。船の奥から響く機関の低いうなりが壁を伝い、床を這うように微細な振動を送り込んでくる。背後に声をかけつつ一定のリズムで階段を下り、階下に降り立つとそのまま長い通路を進んでいく。両側に規則正しく並ぶ客室の扉はどれも同じ深い木目の装飾が施されており、一等客室のような華美な意匠こそないものの、整然とした実用本位の落ち着きを備えている。黙々と歩を進め、やがて自室の前に到着する頃、背後から尋ねられてようやく肝心の行先をまだ伝えていなかったことを思い出した。「自分の客室だ」と言いかけた口を一度噤む。我ながら呆れるほど今更ではあるが、女性であるベアトリスを唐突に自室へ招き入れる行為は、或いはとても軽率で無神経な行いではなかろうか。第三者に見られる心配が及ばない場所を選択したつもりで、当然他意は無いが、彼女の気持ちを慮るべきだったかもしれない。以前、社交の場での失敗後に伯爵夫人から釘を刺された記憶が蘇る。“貴方は絵以外のことには木のように鈍感なのよね。女性の気持ちにはもう少し注意を払うべきではなくて?”──あの言葉を適当に受け流すべきではなかったと、この場で反省しても遅い。実際に見て貰った方が判断も容易いだろうと、ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、手首を捻る。カチリと鈍い音が響いた後に扉を押し開けば、薄暗い簡素な室内には折り畳まれた画架に画材の詰め込まれた木箱、開きっぱなしのスケッチブックなど、自身の気配を色濃く宿した空間が広がっている。それらを確認したであろう彼女の表情を窺うように視線を向け、言い訳でもするように口籠り)
……ここなら誰にも見られずに済むかと……、……気が進まないなら他の場所でも。
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