左 2022-10-15 22:14:32 |
通報 |
(触れ合う鼻先に擽ったそうに笑うその表情は、こんなにも血腥い世界を生きているとは思えない程穏やかで眩しくすら見える。あまりに愛おしくて胸が締め付けられ、このぬるま湯のような心地良い時間に永遠に身を浸していたいと思えるような普通の人間染みた感情を、彼に出会うまではほんの少しすら知らないでいた。とっくに神なんか冒涜しきって信じていない、幸福も救いも与えてくれるのは愛しい恋人ただ一人。脳髄に響く愛の言葉があまりにも無防備に思考を鈍らせ、弛緩した両腕を彼の首元に巻き付けながら首筋に感じる微かな痛みに掠れた吐息を漏らし。確かに感じる所有されているという事実と、彼が所有するのが自分だけという手放しの信頼に満たされながら、背筋を辿る指先に意識は絡め取られ。触れられた場所からゾクゾクと興奮が迸り思わず歪んだ笑みを浮かべる唇を舌先で湿らせると、解いたネクタイの下に並ぶ釦を片手で器用に外していき。一度は開いたエレベーターの扉も、暫く経てば二人きりの甘い時を邪魔する者を拒むように閉ざされる。釦を三つ外したところで待ちきれずにその素肌を掌で愛で、胸板から引き締まった腰の括れへとなぞりながら再び唇を重ねると、何度も吸い付くような口付けを繰り返し。その間にもいつの間にか上昇を始めたエレベーターが所定の階で止まり、到着を告げる音が鳴って扉が開くのと同時に彼の滑らかな肌を愛撫していた手でそのジャケットの内側に忍ばされた拳銃を手に取ると、睦み合う男二人を目の前に息を呑んだ邪魔者の脳天を躊躇いも無く撃ち抜き。ほんの一瞬の出来事、瞬きする間も無く屍となった男が廊下に倒れ込む音が聞こえると、機嫌を損ね眉間に深い皺を刻みながらゆっくりと唇を離し。よく利く鼻に流れ込んでくる他人の血の匂いはこの甘い空気に恐ろしくそぐわない不快なものでしかなく、舌打ちすると拝借した恋人の拳銃を手中で弄びながら新しく取り出した煙草に火を点け不機嫌そうに吐き捨て)
──は…、此処じゃ集中できねえ。帰る。ったく、最悪な気分だ。
トピック検索 |