狐の面 2022-06-16 12:41:30 |
通報 |
(夜の海に浮かぶ満月は幻想的で、人々が寝静まるこの時間帯は厭な話も好奇の目もないまるで自分独りだけのように思えてしまうのがとても好きだった。以前の嫁を亡くして長い年月が過ぎたが、このまま嫁なんぞ貰わずにひとりでも良いとさえ感じていたのに今日邸にやってきた震える幼子、畏怖と恐怖と興味を交えた瞳の色のなんと美しきことか。やけに良い耳には使用人のもあの幼子の寝息さえ聴こえてきてしまうが今は何故かそれが心地好いと感じるのだから不思議なものだと思えてしまう。自室へ戻り、開け放たれた窓から中庭を眺め暫くの間物思いに耽っていると徐々に白み始めた空と共に使用人達が早々支度や朝食の準備に取り掛かる音が聞こえてくる。今日も、今日とて大きな籠からは逃げられはしないが新しく転がってきた小石、誘われるように迷い込んだ蝶のようなあの幼子の存在はきっと大きな変化をもたらしてくれるだろうと思うと口元に弧を描く。そうこうしているうちに、襖の向こうから声が掛かればやれやれと窓を閉めて入室の許可を出し)
──嗚呼、柊に伝えておくれ…あの幼子に靴を買え与えてやってくれと。そうだな…庭を散策するのに歩きやすいサンダルを買えと。一等美しいものをな。
(使用人に挟まれながら邸の奥、御簾で囲まれた大きな部屋は清めの場。真ん中辺りに檜の大きな湯船があるそこは常に湿気で覆われていて湯気が立ち篭る。禊用の白い和服へ着替えるとそのまま湯船へと浸かり、縁に頭を乗せては外へと長い髪を垂らしそれを使用人が何人かで櫛を使い梳いているのを少しばかり心地好さそうに笑みを浮かべていれば近くで控えていた別の者へと声を掛けて。ひとつ返事で別の使用人へ伝達をしてはそろそろ上がる時間かと湯船からあがると体を拭いていき。長い髪は緩く肩口で1本の三つ編みにすると、肩から前に掛け並べられた和服から適当に選んで紺色のそれに袖を通すと帯を緩く締め、相変わらず着崩したそれに小言が飛んでくるがそれを耳を伏せて聞こえないふりをしては食堂へと案内を。無駄に広いのに真ん中辺りにあるテーブル、今まではひとりであったが今日からは嫁となったあの幼子と食べることになる。朝からにしては無駄に豪勢で二人にしては多いが並べられたそれらを見つつ座布団に腰を下ろすとまだ相手は来ていないので、近くの肘置きを引き寄せては肘を置いて寝転び片手を差し出すと控えていた使用人から煙管を渡されてそれを吸うと天へ紫煙を燻せ相手が来るのを待ち)
トピック検索 |