ink. 2022-01-01 23:49:38 |
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駿河先輩は一階渡り廊下の自販機横のベンチにいた。
かすかに湯気の立つスチール缶のブラックコーヒーを片手に、遠くの青空をぼんやりと眺めている。その姿は、空気に溶けて消える白い吐息がはかないせいか、今捕まえなければそのままどこかへ消えてしまいそうに見える。
「駿河先輩」
私が声を掛けると、駿河先輩はゆっくりとこちらを振り返る。それから、たった今夢から醒めたみたいに「……ああ、庶務ちゃん」と言った。
「生徒会長が抜け出しちゃっていいんですか?」
「新会長がいるし、いいんじゃない」
駿河先輩はいつものように興味なさげに答える。
今も体育館では生徒会が企画したクリスマスパーティーが行われているはずだ。しかし全校生徒の賑やかな声も、この場所までは届いてこない。
「その新会長が気にしてましたけど」
近づいて指先でそっと触れてみると、彼の座るベンチは驚くほど冷たい。しかし構うことなく隣に腰を下ろす。十二月の心寂しい冷気がスカート越しに肌に伝わった。
「なんだ、会長命令か。庶務ちゃんが自発的に探しに来てくれたのかと思ったのに」
「自発的ですよ、もちろん。駿河先輩がいなくなったのだって、私の方が夜野くんより先に気付いてました」
意味もなく夜野くんに張り合う様が可笑しかったのか、駿河先輩がふっと小さく息を洩らす。
「ほんと、庶務ちゃんは俺を見つけるのが早いよな」
湯気のほとんど見えなくなった缶コーヒーに視線が落ちて、あてのない呟き声が続く。「いつも庶務ちゃんに見つかる」
「いつも必死で走り回ってるだけですよ」
褒められているわけでもないのに何だかむず痒い心地がして、照れ隠しのようにそう返す。ついでに苦情の一つでも付け足してやろうかと考えるけれど、聞いたこともないような優しい声で「分かってるよ」と返答されると、何を考えていたのかすら一瞬忘れてしまう。
「……今日で最後だなんて、まだちょっと信じられないです」
自分の爪先を見つめながら小さく零した声は、思っていたより幾分か寂しげに響いた。一呼吸ぶん間を置いて返った駿河先輩の「そうだね」の声もどこか感傷的で、そのことに少し驚く。
「……あの、駿河先輩。……もしかして、退任で感極まってたりしますか?」
憎まれ口の一つも叩かない彼に違和感を覚えて、おずおずと口を開く。
なんだか様子が、と付け足して隣を窺うと、その先で駿河先輩が言われて初めて気が付いたかのように目を丸くしていた。
「……え」
私が声を漏らすと、駿河先輩は決まり悪そうに視線を横に逃がして、それから伏せる。
「……まあ、それもあるけど」
観念したのか溜め息混じりにそう前置きして、彼は続けた。「緊張してんだよ」
「えっ」
「……庶務ちゃん、さっきと反応同じ」
「いやいや、実はちょっと違うんで……いや、……え?」
揶揄うように言いながら、その顔にはいつもみたいな余裕の表情は浮かんでいない。口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した後に、困惑した私がかろうじて言葉にできたのは「……な、なんで」の一言だけだった。
「今から好きな子に告白するから」
狼狽する私とは裏腹に、駿河先輩は早々と普段のペースを取り戻したらしい。何でもない事のようにさらりと答えると、いよいよ何も言えなくなった私を横目で見て、小さく息を吐き出す。目の前で浅い白が頼りなげに揺れた。
「……あの時の約束は、もう果たしたわけだけど」
駿河先輩は助走をつけるみたいにゆっくりと話し出す。慎重に言葉を選んでいるのが分かる話し方だった。
「この一年が終わっても、俺が卒業しても、この先どんな進路に進むことになっても。変わらず近くで庶務ちゃんの毎日が楽しくなるように、頑張る……ので」
一言ごとに驚きが予感に、予感が確信に変わって、徐々に鼓動が速くなってゆく。かすかに息を吸う音がして、私を見つめる瞳と目が合う。
「……これから、俺と新しい約束、してみませんか」
きっと私にしか伝わらないような迂遠な言い回しも、珍しく言い淀む様子も、ほんのわずかに震えた言葉尻も。その全てが愛おしく思えて、胸がぎゅっと締め付けられる。
答えなんて最初から決まっていたのだけれど、溢れ出した感情が喉の奥で渋滞を起こして、なかなか言葉が出てこない。
「……じゃあ、次は、無期限でお願いします」
ようやく口にした言葉は自分でも呆れるほど短絡的で、駿河先輩にも「大きく出たな」と笑われる。
「……後悔しても知らないよ」
「しないですよ」
その気持ちに嘘はなかった。何の確信もないけれど、ただそう言い切れる自信があった。
「……庶務ちゃん、もしかして感極まってたりする?」
うっすらと目に涙を浮かべる私に、駿河先輩が顔を覗く素振りをしながら意趣返しのように尋ねる。
「ちょっと泣きそうです」
正直に答えると、そっと鼓膜を撫でるような声で「泣いてもいいよ」と返ってくるから、余計に泣きそうだ。しかし、それをきっぱりと拒否して、彼の方へと向けて口の両端を持ち上げて見せる。
「いいえ。嬉しい時は、ちゃんと笑っていたいんです。……駿河先輩が、安心してくれるように」
文化祭の日、壊れ物に触れるように、けれどしがみつくように抱き竦められた腕を思い出す。心痛を堪えるように吐き出された切ない吐息を思い出す。ただ生きているだけで誰かを傷付けることが恐ろしいと、だから私がそばで笑っていると安心するのだと言った彼の声を、思い出す。
あの時よりはずっと上手く笑えているはずだ。
「……今のはさすがに感極まった」
駿河先輩は戯けたような言葉を選びながら、しかしその表情にも声にも存外言葉通りの色を滲ませている。煙に巻くような言動が彼の一種の照れ隠しであるということは、もう知っていた。
「泣いてもいいですよ」
駿河先輩の真似をして、ほんの少し揶揄うような調子で返してみる。
「しばらく戻れなくなるけどいい?」
「新会長がいるから、きっと大丈夫です」
柔らかな息遣いが聞こえて、雪の降り積もる音にさえかき消されてしまいそうな「うん」の声が落ちる。私たちはそれきり黙り込んだ。ひどく冷えたベンチの上でどちらともなく手を握って、いつまでも止まない細雪を眺めていた。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。雪が解けるみたいに手が離れ、「そろそろ行こうか」と駿河先輩が立ち上がる。私も彼に倣って立ち上がろうと手をつくと、あんなに冷たかったベンチも、すっかり温かくなっていた。
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