顔のない駒たち  (〆)

  顔のない駒たち  (〆)

匿名さん  2021-09-19 00:20:52 
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──人生を捧げてしまった。人間の裏側を探ることに。





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  • No.36 by シャミール・マスハドフ  2021-10-30 21:47:32 





 シャミールは窓を少し開けた。
 
 癌だの刑務所入りだのを言いわたされると、だれもがかえって元気づくといわれている。炎のなかに飛びこんでいく蛾と同じで、希望の達成と身の破滅とが同時に達成されるわけだ。シャミールもまた、それに似た感情が意識された。しかし結局のところ、それも束の間の安らぎでしかなく、そのあとすぐに不安と焦燥がおそってきた。そしてしだいに、元気を失っていった。
 
 といっても、これが人生の事実で、今後はこれを生きぬかなければならない。それと現実とのギャップを埋める心の準備がほしいところだが、それもまた、無理なことを知っていた。
 
 これとおなじ気持ちを味わったのは、亡命を決心したときだから、五年前の冬のことになる。それより一年ほど前の夏、突然、父がスイスのインターラーケンで休暇を過ごそうと言い出した。インターラーケンは、"湖の間"という名前のとおり、トゥーン湖とブリエンツ湖に挟まれている美しい都市で、ホテルの窓からはるか上に眼を向ければ、アイガー、メンヒ、ユングフラウといった山々が、まるで新婦のような輝きを放っている。シャミールは、夕方のレストランがとくに好きだった。世界中から来た幸せな人々が、星空の下で食べたりおしゃべりをしていて、そばではバンドが演奏している。大気は心地よいほどに暖かくて、バンドたちが奏でる音楽で満ち満ちている。とても幸せだった。
 
 そんなこんなで素晴らしい休暇を過ごし、スイスへ滞在できるのもあと一日になった。しかしそんなとき、あの最悪の事件が起きた。帰国当日の朝の七時、宿泊先のホテルの父の部屋へ訪ねに行ったものの、部屋の扉が一向に開かない。発作かなにかで倒れているのかと思い、急いでフロントまで行き、扉を開けてもらった。しかし、中には、倒れている父の姿はなかった。そう、やつらは朝の四時に、父をホテルのベッドから引きずり出し、猿ぐつわまでかませ、モスクワ行きの飛行機に乗せたのだった。警備の薄い旅行先を狙ったのだ。その後、父はなんとか解放された。縦横に入り乱れるピンクの傷を身体中に付けて。
 
 その後一年間、父はさらなる地獄を味わった。だが、家族はもっと悲惨だった。酒と絶望、暴力にまみれた惨めな暮らし。以前のような家族には、もう戻れなかった。
 
 そして、ちょうどいまと同じくらい寒かったとき、納屋に入ると父がいた。散弾銃をくわえ、引き金に手をかけていた父が。
 
 それからというもの、この時期になるたびに、鋤の柄をにぎる農夫のような手で、散弾銃を握りしめていた父の姿が、記憶の片すみに浮かびあがってくるのだった。


*

 シャミールはふと、手元の携帯電話を見てみた。禿頭が渡してきた、なんの罪もなさそうな携帯電話。しかし、彼いわく最高レベルの暗号化ができるように改造されているらしい。その手のことを到底信じる気にはなれないが、黙って受け入れるしかない。シャミールは、それを見るたびに、自分の現在の立場を思い出さざるを得なくなり、非難と絶望と腹立ちの入り混じった視線をすえた。

 "申し訳ないが、シャミール、携帯電話の電源を切ってもらえるかな。正直なところ、気になってしかたがないのでね"。   

 作戦指揮官を自任する禿頭の男が、流暢なチェチェン語で、静かに頼んだ。

 "今後、われわれと連絡をとるときは、この携帯電話を使ってくれ。また、きみの不在中、すばらしいご家族に万一なにか不幸な危機が訪れた場合には、きみの職場に内容が伝わり、そこからきみに連絡が入ることになっている。わかるかな、シャミール?"。

 わかってきたよ、だんだんと。


*


アウトバーンを飛ばして三時間。車は、深い森のなかにあるフォーゲルザング軍事訓練所へ着いた。禿頭は車から降り、ニット帽をかぶった。後部座席のドアを開けてシャミールを降ろし、

「よし、段取りはわかっているな、シャミール?」

 と言った。

 「きみは盗聴器を付け、われらがミスター・ラティフィのもとへ行く。もちろん、わたしもきみと一緒に行き、少し離れた場所で、きみたちのことを監視している。万一きみの身に危険が迫れば──もちろん、仮の話だが──わたしがすぐに駆けつける。いいね? わかったね?」

 なんの反応を示さなかったシャミールを見て、語気を強めた。

 「とにかく、きみはラティフィの愚行を止めるだけでいい。ぼくはきみたちの支援者であって、テロリストではない。これ以上いうなら、資金援助を止めるぞ、とな」

 少し経ったあと、ヘッドライトを煌々とつけた大きな車が漆黒の森の中から飛び出してきて、徐々に速度を下げていった。約束の時間に遅れてきたラティフィの車だ。いやちがう。シャミールが家から連れ出されたときに乗っていた、シルバーのベンツのバンだ。バンは、ヘッドライトを消し、シャミールたちの車のすぐ後ろにタイヤを鳴らして停まった。そのあと、後部座席からヘッドフォンの男──名前はイリヤというらしい。本名かどうかは分からないが──が出てきた。イリヤは、シャミールの目の前まで来ると、シャミールの首もとに盗聴器を付け始めた。付け終わると、すぐにバンの中へ戻って行った。
 
 「先に歩くからついてきてくれ、ゆっくり、落ち着いて。枝葉があったら、ちゃんと見てよけるように。さあ行こう」

 禿頭は煙草を捨てると、シャミールの肩を触りながらやさしく言った。

 禿頭はシャミールの前に立ち、懐中電灯で前途を照らしながらゆっくりと森の中を歩き始めた。時折、禿頭は振り向き、シャミールの様子を確認してくる。彼が気付いたいたかどうかは分からないが、シャミールは、ばかみたいに顔を緊張させていた。おまえが導く人もいれば、おまえがついていく人もいる、と父親は言っていた。これに関しては、ついていく他なかった。

 しばらく歩いていると、彼らはふいに目的地に着いた。ラティフィとの待ち合わせ場所である学校だ。

 「ここだ、シャミール」

 禿頭は、シャミールの方を振り向き、言った。

 「わたしはここで、きみたちの会話を聴いている。大丈夫だ、シャミール。なにかあれば必ず駆けつけるし、きみならやれる。間違いなく」

 禿頭が、手に持っていた懐中電灯を差し出す。

 「幸運を祈る、シャミール」

シャミールは、頷くしかなかった。


 禿頭からもらった懐中電灯を手に持ちながら、校内へと入り、階段をゆっくりと上っていく。一階、二階、三階。 寒さと不安で、心臓が高鳴り、からだが慄えた。
 三階を進んでいくと、部屋の片隅で火が炊かれているのが見えた。もちろん、火のそばには、ラティフィがいた。彼のもとまで歩いていく。
 シャミールは、震える口を懸命に開いた。

 「アッサラーム・アライクム、サッダーム」




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