吸血鬼 2021-03-16 10:45:12 |
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(満月のような、という言葉を聞いた時、唐突に過去の記憶が明確な映像として思い出されて、一瞬時間が止まったような気がした。今からどれくらい前の事だっただろうか、月のない新月の夜、赤毛を靡かせて歩いていた女性の姿。その瞳は満月のように街の灯りを受けて輝き、暗い静かな夜だったのに僅かな衝動が湧き上がった事を覚えていた。聡明そうな綺麗な顔立ちの女性だった。吸血鬼が貴女の後を着けている、と声を掛けた気がする。ハンターの姿をしていた事で、吸血鬼を撒くために、と理由を繕って告げた言葉を彼女は直ぐに信じて、誘うままに共に路地裏に足を踏み入れた。その白い首筋に牙を突き立てた時、驚愕と恐怖と悲哀とを浮かべた満月のような瞳が涙に揺らぎ、自分を見つめて居る事にとてつもない高揚感を感じていた。まるで、月を手に入れたかのような。事切れる直前、血色を失った彼女の唇が動いた事を覚えている。「ごめんなさい、」という言葉は辛うじて聞き取れたが、その前の2文字を判別することは出来なかった。唇に左手を触れさせて、程なくして彼女の身体は力を失った。
目まぐるしく、過去の記憶が再生されている間、自分はどんな反応をしていただろうか。此方を見つめている相手の姿を瞳に映しながら、あの夜彼女が言った言葉を漸く理解していた。あの2文字は恐らく彼の名前。彼女は「テオ」と、相手の名前を呼んでいたのだ。大切な婚約者を一人残して命を落とす事を彼に詫びて、それでも尚彼を慈しみ愛おしむように指輪に口付けを落として、息を引き取った。腕に抱えた重みを思い出すようだった。彼の瞳を見つめ返したまま辛うじて返事を返し、止めていた足を再び進める。彼の声も、言葉も、うまく頭で処理できなくなっていた。)
──…どうだろう、…記憶に無いな、
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