名無しさん 2020-10-21 17:10:45 |
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( 主人の制止も聞かずに何もかもを忘却の海に沈めてしまう己の頭が呪わしく、また恐ろしい。如何に重要な閃きや理論でも、果ては愛しく尊い思い出でも、無作為に選出された全ての記憶が等しくゼロに還る。今日の自分と明日の自分の同一性を証明できない己は、一生涯テセウスのパラドックスに囚われ続けるのだろう。彼の言う通り、涙の数だけ理由を求めるのはあまりにも不毛だ。人間は非合理性の生き物なのだから。肩口に触れた優しい手には、そうだな、と一言返して微笑むに留めておき )
アンドルー…そうか、アンドルー。君は本当に世話焼きだな、いっそ私のアシスタントにならないか?…冗談だよ、君を都合の良いハウスキーパーとして扱おうとは思っちゃいない。さて、脱ぎ捨てた服は洗濯に回すとして──いやしかし、今回も派手にやったな。
( 繰り返し呟いた名前を今一度心に刻み付ける、二度と忘れてなるものか。師に忠実な使徒の名を冠する彼を助手として迎え入れたい旨を申し出るも、ものの数秒で撤回。あくまでも個人的な厚意と親切から部屋の片付けを買って出てくれた友人の意図を踏み躙りたくはない。周囲に視線を巡らせば、持病の弊害とも言うべき惨状に我が事ながら閉口。足元に転がる小さな真空管を拾い上げると、大きなひびの入った硝子部分を目にして苦笑する。貴重な品をまたひとつ傷物にした。目に見えるだけまだ取り返しがつく、不可視の友情はこれほど分かりやすく損傷を訴えてはくれないから。泣き喚き怒鳴り散らすのは日常茶飯事として、挙句物に当たり始めるほど激しい例の症状を友人は見届けた筈。ちらりと窺った横顔から動揺の色は見て取れず、彼の存在が何にも代え難いことを噛み締めて )
そこに散らばった本は適当に重ねておいてくれ、後で私が分類する。ええと、日記には…なんだ、まだ何も書いていないじゃないか。
( 少しでも記憶の空白は埋めておきたい。あわよくば、昨日から現在に至るまでの記憶を繋ぎ直したい。脳内に残留する直近の記憶は昨晩のもので、幸いにも丸一日以上のブランクは生じていないと推論。頼みの日誌を開いてぱらぱらと捲れば、左端に記された今日の日付以外を空白が占める一頁、加えて一枚のメモが目に留まった。脳損傷による慢性的な健忘症を患っている以上、ほかの参加者のように一日の出来事を完璧に綴ることは難しい。そこで覚えておかなければならない事物やアイデアは早急に書き留め、自室に戻り次第日誌の栞として挟んでおく記憶術を身に付けた。にしても、この書き置きは一体何を示しているのだろう?二重の打ち消し線が引かれた" Kreiss "の文字に、" Andrew "の名が並んでいる。どちらのスペルも友人を示していることは疑い無いが、発明にも研究にも関係のない何を一体書き残したのか。数時間前の自分から突如として放られた難題に首を捻り、ヒントを求めて問いの主人公たる彼に視線を投げ掛け )
なあ、アンドルー。今日の私がどう過ごしていたのかを知らないか?察するに、君と一緒に居たんだろう。もし違ったらすまない。
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