+ 2019-11-13 04:26:08 |
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随分と長い道のりを歩かされ、ようやくケテルが足を止めたのは、コンクリート製の扉の前だった。
「この中で待っていろ」
ケテルが扉を開くと、溢れんばかりの襲いくる光に目を瞑る。
しばらく薄目を開けたりなんなりして光に慣れてきた頃、その部屋には一人の金髪の女性の姿があった。
「光には慣れた? 廊下が暗いから眩しいよね」
女性は優しい声で語りかけてくる。その柔らかな微笑みに、思わず気が緩んでしまう。
「ケテルが乱暴に連れてきたんでしょう? ボクもそうだったから」
女性は苦笑いを浮かべながら、ソファに座るよう促してくる。その優しさに甘えソファに腰掛けると、暖かいココアが差し出された。
女性は身長はそんなにないがために豊満な胸が強調される。女性らしさを詰め込んだ、と言っても過言ではないような魅惑の体だった。
じろじろと眺めすぎたことを後悔してすっと目を逸らす。頭上からくすくすという押し殺した笑い声が聞こえて、更に羞恥心を煽られる。
「いいよ、見られるのは慣れてるから。もうこの体も好きになれたしね」
「すいません……」
「いいって。あ、名前言うの忘れてたね。ボクはティファレトっていうんだ」
「ティファレト……? 外国の人ですか?」
「タメでいいよ。ううん、なんて言うんだろなぁ……ここでは"キャストネーム"っていうので呼び合うんだ」
「キャストネーム? ってことはあのケテルやケセドってのも?」
「うん。ケテルは王冠、ケセドは慈悲、そしてティファレトは美っていう意味。セフィロトの樹って知ってる?」
「知らない」
記憶を探ろうにもその記憶自体が無かったことを思い出す。コップやココア、ソファなど一般的な物の用語は覚えているようだが、セフィロトの樹という単語は知らないようだった。
「セフィロトの樹っていうのは、ギリシャ神話出でくる生命の樹ってやつと一緒なんだ。その樹に成ってる身を食べると永遠の命が得られるってやつ。
それを昔の人が思想主義に乗っ取って体系化して名前をつけたものがセフィラ。ボクらの名前の元ネタだね」
「へぇ……」
「元々劇団員だった11人にはセフィラの名前をつけて、新しく入ってきてくれた子にはパスっていうセフィラ同士を繋ぐ名前をつけているんだ」
「何でそんな名前名乗ってんだ? 普通に本名でいいじゃねぇか」
「それが、そうもいかないんだ。本名を名乗れない。自分の人生が無い。それがボクらであり、ボクらに求められているものだからね」
「自分の人生が無い……?」
本名を名乗れない理由は何となく分かる気がする。法を犯せば本名は名乗れなくなるだろう。だが自分の人生が無いというのはどういうことなのだろうか。
俺の問いかけにティファレト、と名乗った女性は困ったように眉を下げた。
「ヒーリングドールっていうのがこのお店の名前でね。要は癒す人形。ボクらはその人形としてあるべきなんだ。人形には人生が無いでしょう?」
「そりゃ無いけど……」
「だからこそ"人生"を演じられるんだ。人ならざる者が人間を演じるんだよ。要はあやつり人形のように、ボクらはセフィロトに言われたことだけやっていればいい。それで良いんだ」
「……でも」
「要らないんだよ。ボクという人間は。大事なのは"ティファレトという名前を持つ動く人型"だけであって、"ボク"じゃない。もう二度とボクは"ボク"として求められることは決してない。それって素敵なことだと思わないかい?」
蛍光灯の光を反射してキラキラと光る瞳は、どろりと濁っていた。将来も生気も人間性も心までも、全てを捨ててまで人間を演じるという女。
何となく、理由もない生理的嫌悪感に身震いする。そんなの、間違っている。その言葉が喉まで込み上げてきて、擬似的な吐き気を誘発する。
でも本当にそれが間違いなのか俺には分からない。正しいが分からないから間違いと言えない。そんなもどかしさがあった。
「そんな深刻な顔しないでよ」
女性だったそれは、にこりと笑顔を作った。思わず安心してしまうような、居心地の良い人間らしさ溢れる笑顔だった。
「ボクらは納得してるんだよ。だからここにいる。君だってそうでしょう?」
「いや……俺は、違う、と思う……」
「何で?」
「記憶が無いんだ。だから肯定も、否定も出来ない」
「へぇ……面白いねぇ」
すごく興味深そうな声色で、ティファレトは言った。しかし表情は無く、心底興味が無いのだろうということが同時に理解出来た。
不気味だ。俺はここに来てよかったんだろうか。そんな不安に押し潰されそうになる。
「じゃあ名前は? 名前も覚えてないの?」
不意打ちすぎる質問に反射的に顔を上げた。名前、名前。ほぼ空白しかないその頭の中を探ったところで、それらしい固有名詞は出てこなかった。
「分から……」
「ダアトだ。そいつは、今日からダアトと名乗らせる」
王様気取りの尊大な声が聞こえて振り向くと、案の定ケテルがそこにいた。
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