都々 2016-06-18 21:21:15 |
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しんと静まり返った街、そこを流れる冷え切った空気を太陽の光が照らし始める。自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえるその時間、世界にひとりきりになってしまったような、そんな錯覚に時々陥る。
吐き出した息は白く、手足の先も冷たく感覚が麻痺仕掛けている。朝晩は冷え込みますが昼間は暖かな陽気になるでしょう、そんなテレビの音声を昨晩聞いたような気がする。表情だけはにこやかに、けれど淡々とした声で話す天気予報士の姿が印象に残っていた。
大学から徒歩3分、格安の小さな古いアパートでひとり暮らし。多くの学生や教員が利用する表門に回ればこの時間であっても誰かしらの姿を見かける事は出来るだろう。しかし、このボロアパートは裏門側、それもすぐ側に木々が鬱蒼と生い茂る雑木林に面した、学生特有の賑わいから一歩遠ざかった位置に面している。朝、まず立ち寄るのは新しく立て直されたC棟や新築のG棟と対極の場所に存在している旧B棟。3階に上がって一番奥、日当たりの悪い小さな部屋で小説を読み進めるのが毎日の日課だった。
存在しているのかも分からない、歴史だけはあるが人気のない文学サークルに宛てがわれた部屋は、何処かに穴でも空いているのか、何時でも隙間風を感じられた。中に入ってすぐに暖房を付けるが、古い冷暖房機は盛大な音を立てることはあってもすぐに温かな風を送ってくれることはない。首元のマフラーを巻いたまま、持ち込んだポットに水を入れて電源を入れる。
半年程前、他の部活やサークルが新校舎に次々と拠点を移動させる中、自分に移動命令が下されるのは恐らく最後の方だろうと悠長に構えていた。何しろサークルメンバーはたった一人、表立った活動だって殆どしていないのだから。一つ、また一つと部屋が空いていく。そして旧B棟が空っぽになった後も、文学サークルに声が掛けられることは遂になかった。
忘れ去られているのだろう、という自覚はあった。けれど態々此方から移動申請をする程の気力や熱意が、己にはなかった。単位を取り損ねるようなことさえなければ、どうせあと一年で卒業だし。そんな思いも何処かにあったのかもしれない。
朝、この部屋に来てから1限目が始まる10分前までを読書の時間と決めていた。数ヶ月前まではちらほらと聞こえていたはずの人の声も、今は全く耳に届かない。使われなくなった校舎でただ一人、無心になって活字を追いかける。目覚めてから授業に向かうまでの朝の時間、人と会うことがなくなっていた。
おや、と違和感を感じることはそれまでにも何度かあった。変わっている小説の並び、洗った覚えのないマグカップ、払い落とされた埃の跡。初めは気のせいかと思っていたが、幾つもの違和感が重なる内、それは確信に変わっていた。けれど、悪戯にしては気が利く上に、全く己に害がないことが不思議でもあった。何より、そこには確かな優しさが含まれている。少しの不気味さすら感じさせない気配の薄さも相まって、己はその違和感を受け入れることに決めた。
今日その違和感を感じたのは読書を終えた後、この部屋に置きっぱなしにしている教科書類の中からルーズリーフの束を引き抜いた時だった。ルーズリーフを取り除いたことでできた隙間、そこからはらりと何かが床に落ちる。拾い上げてみるとそれは白いくて細長い、シンプルな栞のような一枚の紙。見覚えはなかった。ふと何気なく裏返すと、綺麗な字が並んでいる。一文字ずつ丁寧に書いたのだろうと、そう感じさせる字。長い間ひとりきりだった空間に、今は確かに人の気配を感じる。心地よく受け入れていた違和感達が、温もりを持った瞬間だった。
『貴方の好きな本を教えてください。』
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