土佐人 2014-11-24 06:43:24 |
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麻酔医の声を聞き流し、患者の体内をまさぐりながら続けながら佐伯教授は続ける。
「ブラックペアンは私自身への戒めだ。今日、ここまでこれたのは、このペアンが心の支えであったからだ。そして、ブラックペアンを使う時が来たら、それは私が外科医を辞める時だ、と覚悟していた」
器械台の上で、ブラックペアンが鈍い輝きを放つ。
(略)
佐伯教授の目が柔らかく渡海の身体を包み込む。佐伯教授は淡々と続ける。
「お前を教室に引き受けたのは、そうした経緯からだ。だがだからといってお前を特別扱いしたわけではない。お前は計り知れない外科の天分を持ち合わせていた。私は、見守るだけでよかった。私はむしろ、技術の継承以外の部分で、お前に芳しくない影響を残しただけのような気がする。それが残念だ」
渡海の眼をまっすぐに見つめ、呟く。
「お前を外科の正道に導けなかった。それが残念だ」
(略)
佐伯教授が、言い放ち、高階と渡海を押し退ける。
「ブラックペアン」
器械出しの藤原婦長の手が一瞬、止まる。それから、その指先が流れるように器械台の一番隅に置かれた黒いペアンをつまみ上ゲ、佐伯教授に手渡す。血まみれの手で受け取ったブラックペアンを無影灯に掲げ、佐伯教授は眼を細める。
「さらばだ、渡海一郎」
佐伯教授は、ブラックペアンを患者の身体の奥深く沈めた。一瞬だった。
ゆっくりと右手を引き抜くと、高階講師に命ずる。
「吸引」
吸引機の先端を骨盤こうに差し込む。ペダルをがこんと踏むと、鮮血が透明な管を通して吸引されていく。やがてジュースを空すすりような音が聞こえた。
「……止まった」
渡海が呆然と呟いた。高階講師と渡海は、賛嘆の眼差しで佐伯教授を見た。
佐伯教授は藤原婦長に向かって肥針器を命じる。
「閉腹する」
「え?」
「これは天祐だ。我が盟友、渡海一郎が力を貸してくれたんだ」
高階講師が不安げな表情で、骨盤こうを見下ろしながら、言う。
「ブラックペアンで止血した部位を結紮(けっさつ)しないと」
佐伯教授は首を振る。
「それは、できん。仙骨前面静脈ごうを破ったら、通常は止血は困難だ。ただ一度のチャンス、それが今の瞬間だ。このまま閉腹する」
「それでは術後撮影や、亡くなった時にペアンを留置したことがばれます」
「それがどうした」
佐伯教授は白眉をあげて、高階講師を睨みつける 。
「その時は肚をくくれ。それともお前は、エラーを避けたいというだけの理由から真っ正面から結紮を試みて、患者の命と自分の信念を天秤にかけるのか?」
高階講師は唇を噛んで黙り込む。
「それは患者のためを思っての言葉ではない。自己満足のためのいいわけだだ」
ぎらり、と視線を投げかける。高階講師は歯を食いしばり、ぎりぎりで踏みとどまる。わずかでも力を緩めれば、奈落の底に落ちていってしまいそうだった。
佐伯教授は眼を細めて笑う。
「ふん、かろうじて外科医の矜持(きょうじ)は残っているようだな」
(略)
「私は今回の事態の責任を取って、辞任する」
渡海の瞳が、黒々と闇に沈み込んだ。その眼に佐伯教授の白眉が移る。
手術室は静寂に包まれた。
海堂尊『ブラックペアン1988』10章「ラストダンス----十一月」本文 より
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