問題児 2013-09-28 13:24:51 |
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私ね、昔は自殺願望の人に生きる方へと励ましていたけど、最近、【死】や【生き方】を考えてると、生きることに意味は無く、死ぬことにも意味はないんだと思うようになって、励ますばかりが必要ではないと思うようになった。
生きるコトも死ぬコトも意味の無いコトに人が何かしら意味があるようなコトを考えて当てはめようとしているに過ぎない。
ただ、【義務】と【責任】によって、大義名分があるだけ。
【義務】も【責任】も何もしがらみの無い人には【生きる】ことに疑問や葛藤が出てきて、自己の存在に混沌とするんだと思う。
自殺願望のある人に【義務】や【責任】のある立場を与え、与えた後もそれらを遂行出来るようなサポートがなければ、その存在は必要ないと判断されても仕方がないと思う。
競走馬ってね、足を骨折すると、苦痛が長引かないようにするために始末しちゃうんだって。
中にはちゃんと治療させて競走馬以外の用途に使う場合もあるらしいけど、殆んどは始末しちゃうんだって。
昔のアボリジニンは死にそうになる仲間を見守りながら死を一緒に待って、仲間が死んだらその死体を食べてたんだって。
何が言いたいかと言うと、励ますよりその人の苦痛を取り除いてあげれることを考えた方がいいってこと。
または、そのもの(その人)のその時の状態をありのままに受け入れるってこと。
ありのままに受け入れた時、それが【生】を選択するか【死】を選択するかは本人が望んだことであり、それが 本来の自然な現象だと思うの。
本人が選択したことは自然な現象だから、死を選択してもいいと思う。
死が悪いことのように言われるけど、それを選択した判断や結果は必ずしも悪いことではないと思う。
もし何かを悪いコトとするなら、判断する時、判断する材料が乏しくて、“不十分な知識によって判断した結果”をもたらしたこと。
主は十分な知識をもって判断したかな?
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