【 或る英雄の懊悩 】
「契約だ。どうか彼女を止めてほしい」
男の低い声は、拒否を許さない威厳と同時に心の底から希うような響きを孕んでいた。
暗闇の中、わずかな蝋燭の灯でぼんやりと浮かび上がって見えるだけの口許がニヤリと笑みを形作り、おどろおどろしいほど真っ赤に引かれたルージュがぬらりと光を反射する。
「種族の誇りよりあのじゃじゃ馬が大切だと言う事ね」
甘ったるいような、それでいて冷たさを含む声は聴くだけで毒に侵されそうだ。
男は女の問い掛けに沈黙を以て応え、女は喉奥で愉悦の笑いを転がして
「あなたの目的のためには手段を選ばない所、昔から嫌いじゃないわ。あなたが人類なのが惜しいくらい…。」
ふと蝋燭の灯りが揺らいだ瞬間、鮮血の如き真紅の唇は男のそれと重なり合っていた。
舌の粘膜を弄るような耳を塞ぎたくなる水音を響かせた後
「契約成立よ。分かっているとは思うけれどこの件に精霊の介入はご法度。あの忌々しい存在の干渉を確認した時点で、即時契約は無効――異論はないわね?」
またしても沈黙。
女は紅い唇の隙間からゾッとするほど鮮やかな青色の舌を覗かせて舌舐めずりをした後
「ああ、もう。妬いちゃうわ」
楽しげに言い残して風が吹き抜けるような音とともに姿を消した。
後に残った男は糸が切れたようにその場に膝を付き項垂れるのだった。
「…………許してくれ」
( / この世界の水面下で織り成される物語の一幕。暗く血と死臭に彩られながら一筋の光芒に向かって疾駆するような、深いダークファンタジーの世界へご興味のある方はぜひ詳細をご覧になって下さい。少しの間レス禁)