匿名さん 2021-09-19 00:20:52 |
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シャミールからはすすり泣く声しか聴き取れなかったものの、彼は突然、声を荒らげた。
「やめてくれ!これ以上は──これ以上は、できない。たのむから、もう、ぼくに構わないでくれ……」
あとは涙で、言葉が途絶えた。むせび泣いて、そしてまた、むせび泣いて、その場にずっとつっ立ったままだった。なにか怒鳴り声のような大きな声が聴こえてくる。そして、長い沈黙のあと、シャミールは心底怯えたような声音で一言、"わかった"と呟いたと思えば、電話の終了を告げる冷たい機械音が響いた。
その後、禿頭の男は、シャミールがアパートの方角へ歩いて行ったことを確認し、十五メートル先の向かいの歩道で、紙コップを片手に持ちながら電話をかけているふりをしてこちらをうかがっている"街頭画家"にアイコンタクトを送れば、道路脇に停めてあった一世代前のオペル・コルサに乗り込み、急いでそれを走らせた。
*
車がとまったのはアルトナ区のバーレンフェルダー・キルヒェン通りだった。通りの両側には枯れ木が植えられており、さらにその隣には白塗りや赤レンガ造りの美しい建物がずらりと建ち並んでいる。禿頭の男は、くわえていた煙草を筒状の灰皿の中に入れると、車を降り、一階部分が赤レンガで、それ以外は白塗りになっている建物の中へすすんだ。折り返し階段をあがるとすぐに、若い女が横向きに座っているのが見えた。彼女は顔を上げ、足音の方向へ視線をやったものの、音の正体が禿頭の男ものだということに気が付けば、一言も声を発しないまま、カウンターの収納から鍵を取り出して台の上に置き、またすぐにディスプレイへ目を戻した。禿頭もまた無言のまま、その鍵を手に取ると、反転し、通路を左に進んだ。
突き当たりに、カーテンが取り付けられたドアが見える。防音カーテンだろう。カーテンをあけ、ドアを開くと、部屋の奥には三人の男と一人のブロンドの女がディスプレイの前にいた。そのうちの二人は座っており、ひとりはヘッドフォンを片耳に当て、もうひとりは、腕と脚を組んでディスプレイを見ている。禿頭が彼らのもとへ歩いていくと、立っているブルネットの男がコーヒーの入ったマグを渡してくれた。ディスプレイを見てみると、色々なものが映っているのがわかった。左側のディスプレイには、シャミールの家に設置されている隠しカメラの映像が次々と映し出されている──廊下、洗面所、リビング、キッチン、シャミールの部屋、家族の部屋。シャミールはというと、部屋でベッドに横向きに寝て、うずくまっていた。正面のディスプレイには、音声ファイルの再生バーが映し出されていた。
禿頭の男は、その画面を指差しながら、ヘッドフォンの男にいった。
「よし、再生しろ」
クリック音のあと、再生バーがゆっくりと動き出し、ディスプレイからふたりの男の声が聴こえてくる。どうやら、ひとりの男が、もうひとりの男に対して大声で怒鳴り散らかしているらしい。怒鳴られている方の男は何も言わずに泣いているばかりで、そのことが怒鳴っている男を刺激させてしまったのか、男はさらに大きな声で怒鳴った。しばらく経ったあと、泣いている男が"わかった"と言うと、そこで再生は終了した。
最初に口を開いたのは、ヘッドフォンの男の隣に座っている男──ほかの者たちよりも少し老けている──だった。
「やつは弱りきっている。やるならいましかないぞ」
「ああ──やつにはもっと大きな魚を釣ってもらわねばならん。バンの用意は?」
と、禿頭の男。
「できています」
と、ヘッドフォンの男がこたえた。
「よし。約束までの時間は?」
「あと七時間ほどです」
「充分だな──そういえば、親父にはもう報告したのか?」
「いいや。きみからしたほうがいいと思ってな」
老けている男が答える。
「ご配慮に感謝するよ」
禿頭の男は皮肉な口調でそう言うと、彼らから少し距離を置き、ズボンのポケットから取り出した携帯電話を耳に当てた。
*
ブルネットの男がバンの運転席へ乗ると、つづいて、禿頭の男、部屋でヘッドフォンを当てていた男、そして黄色と黒色の郵便局の制服を着たブロンドの女が、後部座席へ乗り込んだ。ドアが勢いよく閉まり、バンは走り出した。
十五分ほどすると、バンはザンクトパウリ地区に入った。この地区は、まさにハンブルクの巨大な肥溜めとも言える場所で、浮浪者や酔っ払い、アジア人、アラブ人、アフリカ人、シャミールのようなチェチェン人などが一日中うろついている。市民に金をせびる薬物中毒者や、その売人、顔中にピアスを付けた女、物乞いと犬たち、薄汚れたパーカー姿で壁に落書きを施す若者ももちろんいる。危険にさらされるのは新入りと、あえて無謀な行動を取る者だけだろう。
バンが、一際多く落書きされている白いアパートの前に停車する。運転手を除き、全員降りて、アパートへ向かっていく。女が最初に進み、アパートの入口前の階段を数段上り、住居者たちの名前が並べられたプレートの前に立つと、"マスハドフ"と書かれたネームプレートを見つけ、横のブザーを鳴らした。十秒ほど経ったものの、返答はない。女がもう一度ブザーを鳴らす。すると、シャミールの弱々しい声が、ノイズ混じりのスピーカー越しに放たれた。
「どなたです?」
「郵便です」
女が、ゆっくりと、そして可能なかぎりの優しい声で返答する。また五秒ほど経ったあと、入口のオートロックが解錠される音が鳴った。女は落書きだらけのドアを開けると、階段をのぼっていき、二人もあとに続いた。女が部屋のドアの前に立ち、男たちは階段の壁に身を隠した。女はドアを三回たたき、ほんの少しドアから離れる。あちらからの返答はない。おそらく、のぞき穴から彼女の姿を見ているのだろう。数秒経ったあと、ドアが静かに、ゆっくり、ゆっくりと開けられていく。そのとき、男たちが階段を駆け上がり、一気に部屋へ押し入った。男たちはシャミールのことを壁に押し付け、禿頭の男がシャミールの顔に袋を被せた。シャミールは状況を理解できていないのか、ほとんど抵抗をしない。女は、急いで階段を下り、アパートの入口のドアを開けてやる。男たちは、シャミールの両腕を掴み、強引に階段を下ろしていく。外へ出ると、運転手の男が後部座席のドアを開けて待機していた。シャミールと男たちが急いで乗り込む。禿頭の男が"行け!"と言うと、バンは急発進してその場から去っていった。
*
ビルハーフェンの古い荷揚げ場に着く頃には、辺りも暗くなり始めていた。運転手の男と、禿頭の男、そしてシャミールがバンから降りた。運転手の男は、シャミールの頭にかぶせられている袋を取ると、運転席へ戻っていった。シャミールは困惑した様子で辺りを見回している。
「シャミール」
禿頭の男が、シャミールの背中を押しながら、やさしくいった。
「少し歩こう」
「忠誠心の話をしないか、シャミール。きみは──きみと、きみの家族は、チェチェン政府からお尋ね者として追われていたところをアルカイダに助けてもらったのだったな。そしてきみは、彼らに報いた。チェチェン・マフィアの父親から譲り受けた汚い金でな」
禿頭の男は足を止めると、煙草を取り出し、シャミールの方へ差し出したものの、彼は首をふった。禿頭の男が煙草に火をつける。煙草をふかし、こう続けた。
「わかるかね。われわれは、きみのことをチェチェンに送還することだってできる──なあ、シャミール。きみはまだ若い。母親を幸せにしてやれ。いままで何もしてこなかったが、間違いだ。連中がなんと言おうと、母親は殉教思想より大切だし、いまならやり直せるぞ」
沈黙のあと、シャミールがとうとう口を開いた。
「ぼくにどうしろと?」
「なにも。良きイスラム教徒でいるんだ。ドイツにいるチェチェン人やアルカイダの連中といままで通り連絡を取り続けろ」
「あの男は?」
「やつのことは気にするな。重要な資金源であるきみに手を汚させるはずがない。それに、所詮は下っ端さ。わたしがなんとかしておこう」
煙草を足で消しながら、続けた。
「われわれは全力できみを守る。きみが役に立つ人間である間はな」
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