御鏡 2019-03-23 18:45:40 |
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水面と申します。
赤ずきん
昔、昔。これは、そんなありきたりな言葉で始まる、皆がどこかで知っている、でも誰も知らない物語だ。
彼に名前はなかった。誰もがその名前を忘れてしまったからだ。
彼はいつも頭巾をかぶっていた。その下ではとても端整な顔立ちをしているのだが、自分に向けられる好奇の目が心底嫌いで、滅多に他人に顔を見せようとはしなかった。それは彼の透き通るような肌がよく映える、恐ろしく鮮やかな赤色の頭巾だった。
そのため、彼は名前の代わりに『赤ずきん』と呼ばれるようになっていった。
ある日、赤ずきんはおばあさんの家へお見舞いに行くため、パンとワインを放り込んた籠を持って森の中を歩いていた。狭い道をずんずんと進む。日が傾くにつれあたりは段々と暗くなり、夜空にぽっかりと浮かぶ満月だけが、進むべき道を静かに、蒼く照らしていた。
そうしてしばらく歩いていると、突然畦道は途切れ、開けた空間に出た。赤ずきんは足を止めた。夜の薄闇の中に広がるのは、広大な花畑だった。
そこに咲き誇る色とりどりの花々はこの世のものと思えないほどの美しく、赤ずきんは思わず目を奪われ、感嘆の声を上げた。そして、この花を持っていけばおばあさんも喜んでくれるのではないか、と思い立って、笑みを浮かべながら赤い花の前にちょこんと座った。淡い月明かりを夜露が反射する花畑の中心で、赤ずきんは一輪一輪、丁寧に手折っていく。
手元が花でいっぱいになったときだった。
「やあ、赤ずきん。どこへ行くんだい?」
低い声が静けさを破った。
赤ずきんは、静かに、時間が正常に動いているのか不安になるほどゆっくりと、振り返った。
「こんばんは。オオカミ」
ぼさぼさの銀の毛並みに、満月のように金に輝く瞳。裂けたほど大きな口に、大きなお腹。そこらの村人ならば途端に逃げ出してしまうような、巨大で恐ろしいオオカミが、木に背を預けてこちらに微笑みかけていた。
「今日は満月だったから、会えると思ってた。僕は今、おばあちゃんの家へ行くところだよ」
赤ずきんは怯える素振りもなく、にこにこと嬉しそうに答える。
「そうかい。それはいい」
オオカミもそれを真似するように口角を上げたが、とても笑顔と言えるものではない、醜悪な表情をしていた。それすら気にも留めない赤ずきんは、立ち上がってオオカミに問うた。
「君も、一緒に来る?森は一人じゃ危ないし」
「いいのか?」
どうやらオオカミは少なからず喜んでいる様だ。
「もちろん!君と僕の仲じゃないか」
「じゃあ、ご一緒させてもらうよ」
奇妙なことに、赤ずきんはオオカミと一緒におばあさんの家へ向かうことになった。すぐ隣には恐ろしいオオカミがいるというのに、赤ずきんはのんきに鼻歌なんか歌っている。
オオカミは聞いた。
「なあ、赤ずきん。なぜ歌を歌っているんだ?」
赤ずきんは答えた。
「それは、君に会えて嬉しいからさ」
「そうか……」
オオカミは少し照れくさそうだった。
またしばらく、道を歩いた。
オオカミは問いかけた。どうしてかは見当もつかないが、何故か今、オオカミの腹の内は目の前の少年への疑念に満ちていた。
「なあ、赤ずきん。なぜ俺が怖くないんだ?」
赤ずきんは答えた。
「それは、君ともう何度も出会っているからさ」
オオカミはもう一度聞いた。もう既に、オオカミは違和感に気付いていた。
「なあ、赤ずきん。いつ、俺と会ったんだ?」
赤ずきんは歩みを止めた。
「それはね、オオカミ、
いろんな場所で、さ」
「……いろんな、場所……?」
オオカミには言葉の意味がわからなかった。
「そう、僕は憶えているよ」
「何を……だ?」
森の木々が、ざわざわと音をたてる。風が、肌を冷たく撫でる。
「君が、僕を食べたこと」
「どういう、ことだ」
「憶えているよ。君はチョークを飲んで声を変えて、母親のフリをして家に入った。君の歯で骨が砕かれる感触を、今でも憶えているよ」
「何を…言っている」
「君が僕や兄弟の家を吹き飛ばして、僕も僕の兄弟も、皆食べられてしまった。君の喉を通っていく感覚を、鮮明に憶えているよ」
「違う、俺は……!」
「憶えているよ。君が僕をさんざん利用して、結局お腹が空いて、僕を食べたことを。君の胃液で溶ける感覚を、確かに憶えているよ」
赤ずきんの底冷えした冷淡な瞳は、オオカミの目をしっかり捉えていた。
「ね、君も知っているはずだよ」
「違う……」
「本当なら、質問は僕がするんだったよね」
「この話は、本当なんかじゃない……」
赤ずきんは微笑みを浮かべた。それはそれは美しく、それはそれは恐ろしい笑みだった。
「ねえ、オオカミさん?どうして君はそんなに食いしん坊なんだい?」
オオカミの喉が、ひゅっと情けなく鳴った。
「やめろ!」
反響した咆哮に、森は波を打ったように静まり返った。
赤ずきんは相も変わらず不気味で狡猾な笑みを浮かべている。
「それは…お前じゃない……赤狐だ」
オオカミは怯えとも、怒りとも取れる表情を見せていた。
赤ずきんは、より笑みを大きくした。
「違うよ。赤狐達が、僕なんだ」
赤ずきんは、また歩き出した。足音一つ立てずに。
オオカミは、一歩後ろからついていった。
静かな森の中を、ただ歩いていった。もう、二人とも話をしようとはしなかった。
延々と続いているように思えた道も、そろそろ終わるようだった。
「さあ、着いたよ」
そこには小さなレンガ調の家と、井戸が一つあるだけだった。沈みかけの満月がスポットライトになって、この場所だけを薄闇に映し出していた。
「じゃあ、ここまでだな」
「……」
赤ずきんは黙して、ただオオカミを見つめていた。
「家には、入らないのか?」
オオカミは、どこかでわかっていた。
「うん。もう意味ないからね」
赤ずきんは、もうおばあさんに会う気はない。
「なんでだ」
「僕は、知っているよ」
赤ずきんは、知っている。
「君はもう、猟師さんを、食べてしまった。」
もう、自分が助からないことを。
「そうか。……おばあさんは、どうした?」
「……もう死んでると思うよ。一昨日のお菓子に、毒を混ぜたから」
オオカミは、あろうことか、赤ずきんを食べたくないと、そう思っていた。赤ずきんの切ない横顔は、あまりにも美しく、あまりにも哀れだった。
「……赤ずきん……」
オオカミがそっと手を伸ばそうとしたとき、一瞬にしてその横顔は歪み切り、全く逆の表情を映した。
「……フフッ……アハハハハッ!」
オオカミは伸ばしかけた手を戻した。
「な~んてね。全部嘘。全部ホラ話さ。」
嘘…?そんなことあるか。オオカミはどうしてもわからなかった。あの悲しそうな声も、あの切ない横顔も、全て嘘だなんて、ありえない。それなら、人間は、いや、この世界は、あまりにも醜悪だ。
「……お前は……本当は一体誰なんだ?」
オオカミの問いに、赤ずきんは不敵に笑った。
「……さあね?でも、しいて言うなら、僕は……オオカミ少年さ。」
オオカミの中で、全てがつながったような気がした。
「お前は…これからどうする気だ?」
どうなっても、オオカミは受け入れられる気がした。
「そんなの、決まっているじゃないか。」
「朝が来る前に、君を、殺す」
わかっていた。
自分は罪を犯してきた。当然の罰だ。
「……そうか、仕方ないな」
オオカミは、もう、死ぬのを怖いとは思わなかった。
「……君を、殺す前に、言っておきたいことがある」
言われることは恨み節だろう。でもオオカミはそれでもよかった。赤ずきんの声を最後に聞いて**るなら、それで。
「何だ」
赤ずきんの表情は、見えなかった。
「……君は、前回の話で、僕を殺さなかった。まあ、あの話は、君が死なない話だったからだと思うし、町の人は皆死んじゃったけど」
オオカミは、静かに話を聞くだけだった。
「それで、僕は初めて物語の後日談を生きることができた。そして、僕は初めて孤独を知った。たったひとりで生きるつらさを。
……そして、君が毎日あんな苦しみを味わっていることを」
オオカミは、驚いた。
「……それで?」
でも、理解された様な気がして、嬉しかった。
「……もしかしたら、僕は少しだけ、君に同情したかもしれない」
「……それは、ありがたいな」
オオカミは照れくさそうにそう言った。
「それじゃあ、目を閉じてくれ。オオカミ」
言われるがまま目を閉じた。
オオカミの毛むくじゃらの手に、赤ずきんの小さく、冷たい手が触れた。赤ずきんはオオカミをぐいぐいと引っ張っていく。オオカミはその行動を不思議に思ったが、黙って言う通りにしていた。
「目を開けていいよ」
目を開くと同時にオオカミは手を引かれた。どうやら落ちているようだった。
「……じゃあ、落ちようか。君はこの物語で、井戸に落ちて死ぬのだから」
オオカミは、自分が死ぬのはもう怖くなかった。
でも、赤ずきんのことは死なせたくなかった。
「だめだっ!待ってくれ!」
赤ずきんはオオカミの悲痛な願いを聞き入れない。
それに、もう、遅い。
「……でも、独りは寂しいでしょう?だから、
一緒に、落ちよう。」
二人は落ちる。
ずっと落ちる。
でも、それは二人が歩いてきた道に比べればとても短いものだった。
オオカミが最期に見た赤ずきんの表情は、笑顔だった。
この世の何よりも美しい、笑顔だった。
山の端から顔を出した朝日が、井戸の中を一瞬、淡い金色に染めた。
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