水海 2018-08-14 18:09:38 |
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(それはよく晴れた日の事だった。深い青を湛えた湖底にまで射し込んだ陽日は、屈折と反射を繰り返しながら煌き幻想的な風景を作り出す。まるで光の垂れ幕のような光景も、何百年と見てくれば今更敢えて抱く感想もなし、揺蕩う水に身体を預け大の字で水中を漂っていた。身体の末端が水と同化するのを覚えながら、瞼をゆっくりと下ろしたその刹那、大袈裟な水飛沫を体の何処かで感じとる。無論人の形を取っているこの体に何某かが触れた訳ではない。水海の何処かで何か起こったな。森羅万象が他人事な己であれど、我が身に災難が降り懸かるのは御免被りたいところ。表情筋を動かしたのは何時ぶりだか、僅かに顔を顰め件の場所の方向へと水をかいて。思えばこうやって主体的に行動を起こすのも数百年ぶりではなかろうか。上へ上へと水中を進みながら、ふと考える。永劫の時は退屈という感情さえも薙ぎ払い、思考は一切の働きを止めていた。凡そ、それが長く生きる為神に与えられた特権なのだろう。地上の生き物は考えることを止めた時点で生態系の敗者と化すが、時間軸から外れた者は寧ろそれが人格破壊の安全装置となる。何かに頭を使うのは久しい感覚であった。そうこうしている内に見えてきたのは、今尚湖底へ沈みゆく淡い水色。暗い青の世界によく映えるその色は、思わず足を止めてしまうほど衝撃的であった。人の子が、何故_?足を滑らせたか、それとも魔の物に魅入られたか。否、ここは注連縄さえ無いが本来ならば禁足地。水を求める人も獣も、こちら側へ落ちて来ぬよう結界の一つでも張っていたはずである。数百年ぶりに尻を叩かれきりきりと働かされる頭は碌な働きを行わず、兎にも角にもこのまま水中に放っておいて見殺しにする訳にはいかない。ぶわりと周辺の水に神気を纏い、それで人の子を包み込めば現世から常世へ場所を変えて。人の子を包む水がさあっと引き、その身体が着地したのは若い緑を保った畳。日本家屋風の建物は神域に建つ己の住処で、まさか招き入れる者が出来るとは思いも寄らなかったが、今思えばそれなりに豪奢に作っておいた甲斐がある。一心地つき起き出すのを眺めながら、人の子の処遇を考え出して。見た所娘のようで、本来ならば記憶を抜き取ってあちらへ返し家庭の一つでも築くのを見守るべきだろう。だが、焦ったり安堵したり、心を忙しなくする事の感覚を再び味わってしまえばみすみす返すのも惜しい。どうしたものか、腹の底は決まっている癖に悩む素振りを見せながら、離れた場所で片膝立てて座り込んだまま娘を見詰めていようかな。)
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