ペイ 2017-03-17 13:59:41 |
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ん?個人的には、痴がましいとは思いません。根拠としては極論になりますが、人間の人生の価値は本人が決めて良いものではないかと考えるからですね。
何故、自分の人生の価値を自分で決めて良いと思うのかと述べますと、この世界に「完全な客観的事実」は存在し得ないと考えるからです。
私も、そして、恐らくは他の人も、どうしても「主観」からは出られません。「客観」という言葉は確かに存在しますが、それも厳密に言ってしまいますと、主観を通して考えられる「仮定としての客観」に過ぎないでしょう。
仮定としての客観であっても、それを生み出したのは人間の知恵であり、「今の状況は他人の目を通すとどう映るだろう」、「今の自分が見落としているものは無いだろうか」という視点を持てない人は、自分の手で破滅を招き易いものだと思います。
しかし、繰り返しになりますが、そういった所謂ところの「客観性」は結局、不完全なもののはずです。生きる為には仮定を立てることも必要ですが、最終的な真理となるのは個人の内面にのみ存在する「絶対的な主観」ではないかと私は思います。
故に、自殺であっても本人が死ぬのは常に「本人にとって死ぬしかない状況」であるが為、という風に私は思考を帰結させますね。「痴がましい」と言うのは「出過ぎた真似」や「愚かな振る舞い」を指す言葉だと認識していますが、「死ぬしかないから死ぬ」のなら正当でしかない、と完結します。
「身体は健康」「幸せになるチャンスもある」「命を無駄にする」というのも、その本人を外から見た他人の「主観」でしかないと考えますね。
則ち、普遍で絶対の価値基準ではありません。無論、ここまでの考え方もまた、私個人のものであり、別の考え方をする人には「痴がましい」という結論に辿り着く方もいらっしゃることでしょう。私は敢えてそれを否定しようとはしませんが、少し私個人の勝手な考えを述べるのであれば、痴がましいとする根拠が主観の域を出られない時点で、他人の主観のみを批判する論調には疑問を覚えますね。
只、ここまでの話は机上の論です。以前、小学校低学年の子が遺した遺書を読んだことがありますが「わたしはいきているかちのないにんげんです」と拙い平仮名の文字で書かれているのを見て、「何を分かって」と胸が苦しくなりましたね。それでも、痴ましい子だとは思わなかったですけれども。
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