濡鼠 2017-02-08 17:27:58 |
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(――寒い。あれほど望んでいた筈の朝陽はダイニングルームの床の惨状をより際立たせアレックスに凄惨たる現実を突き付けるだけ、奇しくも目を開いた濁る視界の中に真っ先に入り込んだのは昨日少女が刻んでくしゃくしゃに丸めた亡き妻のワンピースの一部で、最早体の何処が痛いのか自分自身正確に把握出来ないまま脳裏を過る一晩の記憶。男から叩き付けられるように与えられた暴力と僅かな快楽は、愛情はおろか思いやりが塵一つとして感じられないもので、比べるのも癪だが少女を組み敷いた時の方がよっぽど男として満たされたものだった。もう罵倒する声も助けを乞う声もとうの昔に枯れ果てて、耳鳴りのように鳴り響く煩雑な音楽だけが唯一つ意識を繋ぎ止めている。これが悪夢ならいい加減夢から覚めようか、そう思い微睡みに逃避しようとした矢先、インターフォンの音がこの爛れた光景の中異質なノイズとして我が耳に届き、光を失いかけた双眸に生気を宿して。だがそう、これはアメリカンヒーローの存在しない小説より奇なる現実である、神の救いなど呆気なく嘲笑われ一蹴に伏されるもの。「……ぐっ、う…」望まぬ情事の最中青年の姿からアレックスを守ってくれていたネクタイが言葉を奪うものへ変わり、濁り揺蕩っていた意識を無理矢理現実へ引き戻し、舌打ちをしたかったがそれさえも許されぬ今はただ男から齎される乱暴な口付けに、腹立たしいが彼の思惑通り沈黙を選ぶ他ない。玄関から聞こえるやり取りによって付属された設定を今すぐ訂正してやりたい。あの編集者は担当作家の家族構成も知らないのか!結局、縛られた体を芋虫の如く身動がせた弾みで中身のワインごと倒してしまったグラスの音も届かず、編集部の連中は少女の顔をした悪魔の舌先三寸を鵜呑みにして帰ってしまった。「なんて無能な奴らなんだ!」そう悪態を吐いたつもりだったが、実際は言葉にならずネクタイの隙間から間抜けな呻き声として吐き出されるだけ。言語を失った今、唯一出来る抵抗は目の前の侵略者たる男を睨め付けるのみ。)
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