濡鼠 2017-02-08 17:27:58 |
通報 |
……私に子どもはいない。
(傍若無人な彼らへの恐れが無いと言えば嘘になる。だが、どれだけ家を荒らされたとしてもペットのように首輪を付けられ鎖で繋がれていたとしても、アレックスがこの家の主であることは変わらないと、それだけが残されたちっぽけな矜持であった。売り言葉に買い言葉かのような罵倒の応酬をする少女の可憐な赤い唇から紡ぎ出される無垢な顔立ちに不似合いな暴言、けれどそれを払拭してあり余る愛らしい無邪気なキス、己を父と慕う愛情表現は彼女が妻のワンピースを無残に扱っていなければまた懲りずにベッドに組み伏せていたかもしれない。だが今はそんな劣情も遠く、ピエロかパンクバンドかと見紛うメイクを施しダイニングに姿を現した青年と入れ代わりに去っていった細い背中へ小さくぽつりと呟いたのはアレックス自身場違いにも程がある見当違いな呼称の訂正であった。本来の用途とはかけ離れた使い道を選ばんとする青年が手にしているネクタイを最後に身に着けたのはいつだったか、最新作の著者近影だったかもしれないし妻の葬式であったかもしれない。そんな持ち主の記憶も定かでない衣類まで引っ張り出してきた男の鼻歌はそれほど悪くなく、だがこのクレイジーなサイコパスにその民謡はあまりに噛み合っていなくて、「ハ…ならお前がコーヒーを淹れてくれ。私が思う物語を代筆でもしてくれれば、腕だって要らないだろう」新たに足に付け足された刺し傷が齎す酷い痛みのために冷や汗がだらだらと額から零れ落ち、それでも男に、アレックスに執筆させる意思が垣間見えたことに喜びすら覚えてしまう。脳味噌の中に浮いては沈む無数の言葉の数々は既に澱のように体内に滞っていて、表現しなければ狂ってしまいそうだった。「悪くない歌声だ」第九が懐かしい。残された数少ない自由の一つであった視界さえ奪われて、昨夜とは立場の逆転した不逞を晒すことになり、男から微かに漂うアイシャドウの香りが罪悪感を掻き立て、再び亡き妻に心から謝罪する。「I love you, __.」これほど朝陽が恋しい一日はきっとこれから先もずっとない。薄汚いダイニングルームにまた朝が来る。)
トピック検索 |