One Day 2017-01-28 14:34:16 |
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「もう二、三日したらお父様がいらっしゃるわ」
ある朝のこと、私たちが森の中をさまよっているとき、突然お前がそう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。するとお前は、そういう私の方を見ながら、すこし嗄れたような声で再び口をきいた。
「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」
私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私たちの頭上の梢が何んとはなしにざわめいているのに気を奪られているような様子をしていた。
「お父様がなかなか私を離してくださらないわ」
私はとうとう焦れったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。
「じゃあ、僕たちはもうこれでお別れだと云うのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」
そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、そしてその脣の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!
「どうしてこんなに変わっちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような恰好で、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径を、お前をすこし先にやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。突然、私の頭の中にこんな考えが閃いた。お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、素直に身を任せ切っているのではないだろうか?……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。お前はその手を私に取られるがままにさせていた。それから私たちはそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私たちの足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生の羊歯などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちにほとんどあるかないかくらいになっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。
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