青葉 2013-10-19 22:21:19 |
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白い壁に囲まれた部屋だった。
僕は何の味気もないパイプベッドで寝ていた。
「掛井さん、掛井さん、聞いていますか、私の話。」
全く暖かみを感じない事務的な声がする。
横になったまま顔を声の方に向けると、白衣を着た男がベッドのすぐ近くで丸椅子に座っていた。
その男を医者と認識する。
そうだ、僕は病院に入院中だった。
「聞いてませんでした。先生、済みません。」
そう言うと、
「別にいいのです。いつものことですから。」
と冷めた言葉が返ってきた。
「済みません。」
再度謝罪の言葉を発する。
「今日は私のことを先生と呼びましたね。いつもは先輩と言うのに。」
そう医者が述べた。
首を曲げて医者の顔を直視すると、畠田先輩だった。そうだった。僕は医者を大学の先輩だとずっと勘違いていた。失礼なことをしたと思うが、ここは精神病院で僕は入院中の患者なのだ。そんなことは医者も慣れているだろう。それより、これまで先輩だと思っていた人が医者だと気づくことができたのだから僕の病状は良くなっているということだ。退院も近いのではないだろうかと期待がわき上がってきた。
「先生、僕はそろそろ退院ですね?」
思ったことそのままが口に出る。
「どうでしょう?私には答えられません。掛井さん、あなたの主治医に訊いて下さい。」
「僕の主治医はどこにいますか?」
質問すると、女性の声がする。
「ここにいます。ここにさっきからいますわ。」
僕のそばで座っていた医者の横に白衣の女性が立っていた。顔を見ると初穂だった。そうだ、思い出した。初穂は医者だった。 いや、初穂ではない。主治医の女医だ。
「ああ、申し訳ありません。こんなに近くにいたのに気づかないなんて。」
僕は横になりながら頭を下げた。
「いいのです。あなたは病気なのですから。責めることは何もありません。」
女医は同情するように頷いた。
「主治医の先生、もう僕は退院できますよね?」
改めて女医に質問した。
「構いませんよ。」
素っ気ない言い方だったが僕は安心した。ここを出ることができるのだ。ここは何だか嫌だった。病院に長くいたくない気持ちは当然のことなのかもしれないが、そういった当たり前のことではなく何か奇妙な居心地の悪さがここにはあった。
しかし、安心もつかの間だった。
「別に構わないのですが……。」
女医は再び口を開き、何か奥歯にものが挟まったような物言いをして黙ってしまった。
沈黙が不安を掻き立てる。
「そうそう、そうだった。彼の意見を訊かないといけませんね。」
僕が先輩だと思い違いしていた医者が沈黙を破った。
「彼とは誰です?」
僕が訊くと医者は女医の後方を指しながら答えた。
「ほら、彼女の後ろにいるでしょう?彼の意見が一番大事なことですよ。」
女医の後ろに視線を向ける。誰かいるようだが、女医が邪魔で見えない。体を起こせば見えるだろうと思い、実行しようとした時、女医の頭の上から何かが垂れ下がっていることに気づいた。正確には女医の頭上より少し後方だ。目を凝らすと、それはロープであることが分かる。
「あら、ごめんなさい。」
女医は、自分が僕の視界を妨げていることに気づいた様で、立ち位置を横に一歩ずらした。
すると、一人の少年が僕の視野に入った。
早野君だ。早野君がいた。早野君は笑顔で僕を見ている。
早野君の笑顔は高い位置にある。少年なのにずいぶんと背が高い。そうおもって少し体を起こして早野君の足元をみると、足は地に着いていなかった。
早野君は空中に浮かんでいる……ように思えたが、そうではなく、天井から吊るされたロープにぶら下がっていた。早野君は首でぶら下がっていた。つまり、首をつっている状態だ。
そのことは兎も角、早野君の意見は絶対だ。と、僕も思う。
「早野君、僕は退院してもいいかい?」
そう僕は恐る恐る訊いた。
すると早野君は声をあげて笑う。本当におかしそうに笑う。
すると早野君の体がぶらぶらと揺れる。
ぶらぶら、ぶらぶら。
「早野君、僕はここを出てもいいだろうか?いいよね?ここは嫌なんだ。」
すがるように僕は訊く。
「掛井君、それは虫のいい話だよ。僕をこんなめに遭わせておいて。君はずっとここにいるんだ。出れるわけないだろう。」
笑っていた早野君は急に怒った顔になり、そう言った。
ああ、早野君の恨みは深い。
そう思い、僕は辛い心境になる。
僕の沈んだ表情を見て、再び早野君が笑い出す。ぶらぶら揺れながら声をあげて笑う。その笑い声が憂鬱で耳を塞ぐ。
ここを出ることはできない。早野君が僕を許すことはない。
そう考え、絶望の中でなすすべがなかった。
悪夢ならば醒めてくれ。
そう思った。
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