狐の面 2022-06-16 12:41:30 |
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(全てを知り得るにはまだ心は弱く狭い、全てを理解せよとも思ってはいない。理解してきれていないであろう相手に失望もしないし嫌でもこれから先の事を考えれば何時かは理解する時が来るとも思えばそれは相手にとっては長いことかもしれないが、永い時を生きてきた己に取ってはほんの瞬きに過ぎないであろう。覚束無い足取りで向かう相手の背を見送りつつ困ったような笑みを浮かべては自室へと戻り。堅苦し事この上ない狩衣を脱ぎ捨てては畳の部屋の中央付近にある座布団へと腰を下ろし、長い髪を散らしては近くにあった煙管を引き寄せてひと吸い。ふぅ、と紫煙を燻らせながらそれが消えていく様をぼんやり長めつつ暫く経過、ふと壁に掛けてある時計へと見遣れば既にとっぷり日付けは越えていてどれだけの時間ぼんやりとしていたのか末恐ろしくもなるもので、いつの間にか消えていた煙管の火をもう一度付けるような気力はなく寝巻き用の和服へ袖を通すと緩めに帯を締め。あの娘はもう眠っているだろうか、広い屋敷の隅々まで神経を伸ばしても耳へと届くのは静寂と幾つもの寝息。帰った連中も居れば一晩泊まる者も居るのだろう何時もと異なる息遣いとどれだけ離れていても屋敷を満たす酒の香りに上手いこと見つけることは難しいようで。寝付けない変わりに様子でも見に行こうかと考えたが止めておくかと軽く羽織を肩に掛けては部屋を出て長く暗い廊下を歩けば縁側に。窓を開けて小さな中庭を見つつ腰を下ろしては片膝を立てて柱に寄り掛かり、白月に照らされる草花を見遣り昼間の出来事を思い出す。嫁候補等幾らでも居た。良家の出、遠い親族の娘等所謂“巫家に相応しい者”ばかりの中にひとりだけ場違いの娘が居た。孤児院で育ち親も知らぬ娘、良家の出でも無ければ1番素性の知れぬ者であったのに他の候補よりも頭が飛び抜けて良いと聞いた。齢十とは思えぬ程の秀才ぶりを持つというそれに心惹かれたのを覚えている。屋敷にやってきた小さく丸まった背中、背伸びをするかのように大人びた言葉や口調を遣いながらもひしひしと伝わる恐怖心と少しばかりの嫌味、何とも面白い娘なのかと心踊りその顔を見れば美しい菖蒲の華を持っていた。大それた理由も聞かされずにこの屋敷へまだ成人もしていないのに嫁として連れて来られ、身勝手にも妻とされ心底不運にさえ思えて仕方の無い事ではあるが、あの華に心奪われたのは事実。ふわりと揺れる風に思い出の沼から引き戻される感覚に瞬きをひとつすると、楽しいのか嬉しいのかゆらゆらと尾を揺らして)
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