終夜観測 2026-08-27 23:27:44 |
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▼ 世界
かつて、昼と夜はほぼ等しく巡っていた。朝になれば太陽が昇り、夕暮れとともに沈む。現在では古い記録の中にしか残っていない、ごく当たり前の世界。
異変がいつ始まったのか、正確には分かっていない。「ある年から日の出が数分遅くなった」とする記録もあれば、それより遥か昔の日記に「昨晩は夜が長かった」と記したものもある。確かなことはただ一つ。
《 夜 》は、今も少しずつ長くなっている。
現在、一度日が沈めば、およそ七日間にわたって夜が続く。長夜が終われば朝が訪れ、短い昼がある。人々はその間に作物を育て、物資を運び、建物を修繕し、次の長夜へ備える。そして再び日が沈む。
かつて数時間だった夜は一日になり、三日になり、今では七日。このまま延び続ければ、いつか太陽が沈んだきり二度と昇らなくなる。
その最後の夕暮れを、人々は、《 最後の日没 》と呼んでいる。
▼ 夜
《 夜 》とは、単なる暗闇に非ず。
夜になると世界には、昼には存在しない何かが満ちる。それが物質なのか、生命なのか、呪いなのかすら分かっていない。研究者は便宜上これを《 夜質 》と呼ぶことがある。夜質は暗所ほど濃くなる。屋外だけではない。閉ざされた部屋、家具の下、人間の影、瞼の裏。光の届かないところには、必ず夜がある。
だから完全に夜を遮断することはできない。
▼ 夜は襲ってこない
夜は人と敵対していない。
追いかけてこない。
噛みつかない。
殺そうともしない。
そこに在るだけ。
そして暗闇の中にいる者へ、静かに染み込んでくる。だから古い夜番には、「夜から逃げるな。あれは追ってこない。灯りまで歩け」という教えがある。恐怖に駆られて走り、転倒し、ランタンを失う方がよほど危険だからだ。
▼ 灯り
光は《夜》の侵食を弱める。
蝋燭一本でもいい。暖炉でも、ランタンでも、街灯でもいい。光が強いほど夜質は薄くなるとされている。
ただし、灯りは夜を消しているわけではない。光があれば影ができる。灯火のすぐそばに座っていても、侵食を完全に防ぐことはできない。
だから夜番たちは、「灯りは薬だ。治療じゃない」と言う。
▼ 火について
奇妙なことに、同じ明るさでも火による光は夜蝕を抑える力が強い。理由は不明。
電灯よりランタン。
ランタンより暖炉。
特に、人が長く守り続けてきた火ほど効果が強いという研究もある。
科学者には否定されているが、「火は覚えている」という古い信仰は現在でも根強い。
▼ 夜蝕
夜によって身体や精神が変質する現象。誰にでも起こりうる。ただし症状は一人ひとり異なり、同じ夜蝕はほとんど存在しない。初期には身体の一部に、ごく小さな異変が現れる。
瞳に小さな星が浮かぶ。
髪の一房だけが夜空のようになる。
傷口から淡い光が漏れる。
吐息に星屑が混じる。
影が本人より一瞬遅れて動く。
そして侵食が進むにつれて、変化はより強くなる。
▼ 美しい夜蝕
夜蝕には恐ろしい特徴がある。侵食されたものは、多くの場合、美しくなる。腐敗したり、醜く崩れたりすることはむしろ少ない。
人間ではあり得ない色に、星空を閉じ込めた瞳、月光のような血、夜そのものを纏った髪。
その美しさに魅了され、治療を拒否する者さえいる。都市部では夜蝕を模した化粧や装飾品が流行したこともある。当然、夜番からの評判は悪い。
▼ 夜蝕は「その人」を選ぶ
夜蝕がどこに現れるかは完全な偶然ではない、という説がある。
歌を生業としていた者は喉。
走り続けてきた者は脚。
人をよく見ていた者は眼。
誰かを愛していた者は心臓。
嘘ばかり吐いていた者は舌。
ただし反例も多く、学術的には証明されていない。それでも人々は、夜蝕した部位を見ればつい考えてしまう。
「なぜ、そこだったのか」と。
▼ 夜蝕の進行
進行速度には大きな個人差がある。
数十年ほとんど変化しない者もいれば、一度の長夜で急激に進行する者もいる。
強い感情、睡眠不足、負傷、長時間の暗所滞在などが進行に関係するとされるが、確定していない。
そして奇妙なことに、夜蝕が進むほど夜を恐れなくなる。
暗闇が心地よくなり、夜風が暖かく感じられる。
灯りが眩しく、煩わしくなる。
夜の中にいると、妙な安心感を覚える。
末期の夜蝕者はしばしば、「向こうの方が明るい」と言う。もちろん、周囲の人間には真っ暗闇にしか見えない。
▼ 暮れる
夜蝕に完全に呑まれること。一部の方言だったが、今ではかなり浸透している。一般には死と同等の扱い。
しかし厳密には、暮れた者の死体は存在しない。完全侵食の直前、夜蝕者は灯りから離れようとする。暴れる者は少なく、むしろ穏やかになる。そして暗闇へ入り、その姿が見えなくなる。
追いかけても見つからない。
血痕もなく、遺体もない。
これを人々は《 暮れる 》と呼んでいる。
▼ 暮れた者はどこへ行くのか
分かっていない。
しかし、いくつもの俗説が存在する。
もっとも有名なのが、「夜空は暮れた者たちで出来ている」というもの。
誰かが暮れた翌晩、それまで存在しなかった星が見つかった。
亡くなった恋人と同じ色の星がある。
見知らぬ星へ名前を呼びかけると、一度だけ瞬いた。
そんな話が各地に残っている。学者は偶然だと言う。夜番はあまりこの話をしない。
▼ 夜花
暮れた者が最後にいた場所へ、青白い花が咲くことがある。種類は不明。根を掘り返しても種はなく、数日で跡形もなく消える。
花弁には微かな光があり、夜蝕の進行が進んだ人間が触れると暖かく感じる。摘んで持ち帰ることは推奨されない。理由を尋ねれば、古参の夜番はだいたい、「碌なことにならないから」とだけ答える。
▼ 夜の美しさ
夜蝕研究における最大の謎の一つ。
なぜ夜は、これほど美しいのか。
人間を滅ぼそうとしているなら、恐ろしい姿をしていればいい。
けれど夜蝕は星を宿し、月光を零し、あり得ないほど美しいものへ人間を変える。そのため一部では、「夜は人間を殺しているのではない」という思想が存在する。
夜蝕は病ではなく進化であり、《 暮れる 》とは死ではなく完成である――と。
当然、危険思想として扱われている。
▼ 夜を信仰する者
通称、《 暮夜派 》。
正式な宗教組織ではない。「最後の日没を受け入れるべきだ」と考える思想の総称に近い。
夜蝕を隠さず、治療を拒み、積極的に暗所へ身を置く者もいる。彼らの間では、「朝こそ世界に残された傷である」という言葉が使われる。
夜番とは非常に仲が悪い。
▼ 最後の日没
いつ訪れるのかは分かっていない。夜が一定の速度で延びているわけではないからだ。
十年ほとんど変化しなかった時代もある。逆に、一年で夜が数時間延びた記録もある。それでも確実に、長期的には夜が長くなっている。
「あと百年」「あと三十年」
「もう次の日没が最後」
さまざまな予測が飛び交っている。だが一般市民の多くは、毎日そんなことを考えてはいない。
世界の終わりより、次の食事。
最後の日没より、今夜の仕事。
人間は案外、終末にも慣れる。
▼ 夜番
長夜の街を守る者たち。
主な仕事は、街灯の点火・維持、巡回、遭難者の捜索、夜蝕者の保護、危険区域の封鎖など。伝統的に男性が担ってきた職業で、現在もほぼ完全な男社会。高尚な使命感を持つ者ばかりではない。
給金がいいから、他に仕事がないから。
家族が夜番だったから。
夜が好きだから。
昼間に働きたくないから。
犯罪歴があって他所では雇ってもらえないから。
理由はさまざま。
むしろ、「人類を救いたい」などと言って入ってくる新人は、だいたい先輩に笑われる。
▼ 夜番の鉄則
夜番にはいくつもの規則がある。すべてを守っている者は少ない。
ただし、古参ほど妙な迷信だけは守る。
灯りを二つ持て。一つは自分のため、一つは他人のため。
夜の中で泣いている者を見つけても、顔を見るまで名前を呼ぶな。
見覚えのない街灯には近づくな。
巡回中、自分と同じ足音が三つ聞こえたら帰れ。
月の数を数えるな。
暮れかけた仲間に「帰ろう」と言うな。「朝まで付き合え」と言え。
自分の影が先に角を曲がったら、その日は仕事を切り上げろ。
なぜそうするのか訊いても、「昔からそうだから」以上の答えは返ってこないことが多い。
▼ 夜番と夜蝕
当然ながら、夜番は一般人より夜蝕率が高い。毎晩、夜へ出るからだ。
軽度の夜蝕なら勤務可能。むしろ夜蝕によって暗所視力や感覚が強化され、仕事に有利になる者すらいる。
そのため、夜蝕が進む → 夜番として有能になる → さらに夜へ出る → 夜蝕が進む
という悪循環に陥る者も多い。
一定以上進行すれば退役勧告が出る。聞く者は少ない。
▼ 夜番の詰所
舞台となる場所。元は小さな聖堂だった。
かつては長夜の終わりと太陽の再来を祈る場所だったが、信仰が衰退した後、夜番へ払い下げられた。正式名称は残っているらしいが、誰も使わない。夜番たちは単に、《詰所》あるいは、《暁待ち》と呼ぶ。
▼ 詰所の内部
十数人入れば窮屈になる程度の、小さな石造りの聖堂。天井だけは妙に高い。
正面には古い祭壇がある。
その上では大きな灯火が絶えず燃えている。
長椅子が数脚、傷だらけのテーブル、小さな暖炉、簡素な流し台。壁には夜番の外套、ランタン、縄、工具、救急用品。片隅には酒瓶。窓には色褪せたステンドグラス。告解室は物置になっており、古い聖書と工具箱が同じ棚に突っ込まれている。
聖水盤は――誰が始めたのか知らないが――灰皿として使われている。
神聖さはとうにない。
けれど祭壇の灯だけは、誰も粗末に扱わない。
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