ドロップ 2012-01-10 19:12:17 |
通報 |
№2
学者が新しい真理を発見し、芸術家が新しい美を作り出すといわれるが、本当はそうでないのである。
真理ははじめからそこにあるもので、美もまたはじめからあるものである。
我々の無知や、我々の目が覆われていたために、ただそれが見えなかったのに過ぎないのである。
ある学者や芸術家が、努力の末に勝ち得た、深い知恵と裸の目を持っていたために、今まで誰にも見え
なかった真理や美が、見つけ出されたのである。我々から見れば発見ということになるが、向こうからいえばそうではなくて、はじめからあったのである。
そして、学問にしても芸術にしても、そういうはじめからあったものを見出すことによって、
初めて永遠のものになるのである。人為的に作り出したものは、一時的にもてはやされてある
かもしれない。しかし、それをいくら真理めかしたり、美しく見せかけたりしたとしても、やがて
正体が明らかになってしまう。
ある学者が言ったように、人間の前には、果てしない未知なる海が横たわっている。人間は
自分を偉いと思っているが、とんでもない。人間が知っていることは、未知のことに比べて
とてつもなく小さい。どんなに優れた発見でも、この未知の砂を、果てしなく小さい 知
の砂山に移すに過ぎない。学問をすることは、結局この未知の世界がいかに広いかを知る
ことであると思う。
人間は、自然界における自分の地位を、もう一度 虚に反省するべきである。そして人間は、
これまでの自己中心的な考え方を反省しつつ、自然と調和することを学ばねばならない。やはり、
真理の発見や芸術の創造について、人間は誤解しているのではないか。
(梅原猛 「学問のすすめ」より)
№3
胸痛の広場というようなことが言われたりする。指導や言論のために共通点の場となるものとは、
ほかにも考えられるかもしれないが、古典はその最も重要なものではないかと思う。時その時の
流行は、一時的には共通性を持つように見えるが、世代と世代の間には、かえって間隙を作ること
になる。昔若い世代に熱中した流行書の名をあげても、今の若い人たちは何の反応も示さないだろ
う。異なる世代の間に、また昔と今の間に、あるいは国籍や境遇を異にしても、なお共通の読み物
となり、我々の精神的対話、相互理解、あるいは話し合いや討論においても、共通の予想となり得
るがごときもの、それが古典なのである。
トピック検索 |